新西行物語―心の旅
佐々木 清人
新西行物語―心の旅―
目次
前書き P3~4
(1)、生い立ちと佐藤義清時代(1歳―23歳) P5~15
(2)、出家と京の遍歴(23歳―26歳) P16~37
(3)、奥州・信州の旅路(26歳―29歳) P38~62
(4)、吉野山への入山(29歳―32歳) P63~75
(5)、高野山への入山(32歳―39歳) P76~85
(6)、京・東山の草庵(39歳―41歳) P86~98
(7)、高野山へ再入山(41歳―50歳) P99~107
(8)、四国巡礼・西国の旅路(50歳―54歳) P108~127
(9)、高野山へ再三入山(54歳―60歳) P128~137
(10)、熊野三山めぐり(60歳―62歳) P138~145
(11)、伊勢・二見浦の草庵(62歳―69歳) P146~161
(12)、奥州再訪の旅路(69歳―70歳) P162~172
(13)、京・嵯峨野の草庵(70歳―72歳) P173~185
(14)、弘川寺での終焉(72―73歳) P186~190
(15)、西行法師の伝承歌 P191~198
(16)、西行法師の人脈 P199~206
(17)、西行法師の旧跡 P207~208
(18)、参考資料と関連する和歌集 P209~211
後書き P212~213
前書き
自分の一生を貫く趣味が最も大切な心の拠り所と思った時、私には「詩歌」があった。ノートと鉛筆さえあれば、誰でも出来る趣味で、殆ど金のかからないのが良い。中でも「短歌」と「俳句」は、詩歌の双璧で、心の排泄物と思っている。俳句は小便のようにさらさらと淡麗に流れ、短歌は大便のように重苦しくも濃密に落ちる。
俳句は、明治時代に正岡子規(1867―1902年)が広めた造語で、「俳諧の発句」を縮めたものである。短歌は古墳時代に遡る「和歌」が起源で、奈良時代に成立した『古事記』に登場するスサノオノミコトの和歌が最古とされる。その和歌が隆盛を極めたのが平安時代で、王朝文化の一翼を担った。和歌に通じた人々を「歌人」と呼んでいるが、歌人に対する評価としては、「歌聖」の尊称がある。万葉歌人の柿本人麻呂(660?―724年)と山部赤人(?―736頃年)が有名である。中世では、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した歌僧の西行法師(1118―1192年)も歌聖と称されている。
西行法師という人を知ったのは、15歳の時から心の師と仰ぎ尊敬していた松尾芭蕉(1644―1694年)翁の影響による。25歳の頃、芭蕉翁が尊敬していた西行法師の生涯や歌風を勉強した。更に30歳の頃、芭蕉翁と法師の足跡を訪ねて高野山に参拝した時にスケールの大きな空海大師(774―835年)に魅了された。その時に感じたことは、空海大師も漢詩に秀でて、和歌にも造詣が深いことであった。高野山の奥ノ院御廟に安置された大師を守るように、詩歌の仁王が立っている。それは、歌聖の西行法師と俳聖の芭蕉翁の2人に他ならない。
今回の主人公は西行法師で、生誕から没年に至るまでの旅と草庵の暮らしを法師の和歌を読み解きながら振り返りたい。法師の足跡は、芭蕉翁ほど明確な資料が少なく、ある程度は確証された場所と和歌を年代別に選んでいる。法師の和歌集は、『山家集』の他に『山家心中集』など5巻が存在するが、法師直筆の歌集は存在しない。『山家集』は、法師が60歳の治承2年(1178年)頃に骨子がまとまったとされ、編集は法師の没後である。歌集以外には、鎌倉時代に描かれた『西行物語絵巻』を眺めながらの法師のイメージを想像したい。参考とした歌集は、佐佐木信綱校訂の岩波文庫『山家集』で、絵巻は、中央公論社から昭和63年(1988年)に発行された『日本の絵巻19西行物語絵巻』を参考としている。
今回の『新西行物語―心の旅』は、法師の人生や和歌から新たな人間像を整理したいと執筆した。小学生から大人まで理解できる内容で述べたいと心掛けたので、何かしら西行法師に興味を持ってもらえれは幸いと思います。
西行法師の生誕地の西行像(ウェブのコピー) 西行法師の真筆(ウェブのコピー)
(1)、生い立ちと義清時代(1歳―23歳)
西行法師の俗名は佐藤義清で、平安時代末期の元永元年(1118年)、父は左衛門尉・佐藤康清(生没年不詳)、母は監物・源清経の娘(生没年不詳)、その長男か次男に生まれた。左衛門尉と監物は官職名で、官位は共に六位相当であった。佐藤家の遠祖は、藤原北家の藤原魚名(721―783年)で、9世の先祖は藤原秀郷(891―958年頃)である。義清の曾祖父・佐藤公清(生没年不詳)の代から佐藤氏を称している。祖父の季清(生没年不詳)の時から藤原北家の公家・徳大寺家に仕えた武門である。
佐藤義清の生誕地は、徳大寺家の荘園にある佐藤家の知行地で、紀伊国田仲庄であると言われる。田仲庄は、現在の和歌山県紀の川市竹房で、屋敷跡(現・龍蔵院)に「歌聖・西行法師生誕の地」と刻まれた立派な石碑が建ち、少し離れた打田には、髙さ2mのブロンズ像が建っている。菅笠を被り、右手に杖を持ち、左手に本を手にした立像で、左手の本を数珠に変えると、真言宗の寺院で見かけられる空海大師の修行大師像とそっくりである。また、台座には、有名な歌碑が刻まれていた。
1番、「なげけとて 月やはものを 思はする かこち顔なる 我が涙かな」
出典・『山家集』の恋歌51番目の歌で、「月」と題した37首の13番目の歌でもある。この歌は、藤原定家(1162―1241年)が撰した『小倉百人一首』の86番にも選ばれた秀歌である。「なげけとは」は、失恋による嘆きであろう。「やは」は反語であるが、「や」で区切り、「はもの」と読むと、端物と漢字表記されて、月が欠けている様子を意味する。「かこち顔」は、恨みに思う顔つきで、月のせいにしている。私的に要約すると、「嘆いていると、月が欠けて満たされないような気持ちとなる。月のせいでもないだろうが、私の目に涙は止らない」と、一般的な解釈と違ったニアンスに感じる。失恋した相手は誰なの不明であるが、出家前の作と考えられる。西行法師の恋歌には、実際の恋愛感情を詠んだ歌なのか疑われる歌も多い。
義清が成長し元服した15歳前後は、亡くなった父の康清に倣って徳大寺家の徳大寺実能(1096―1157年)に出仕している。その後の保延元年(1135年)、18歳となった義清は、左衛門尉に任じられ、鳥羽上皇(1103―1156年)の御所を警護する北面の武士に就いている。その就任のため、絹1万匹を朝廷に寄進したとされる。この時、義清と同年の北面の武士に平清盛(1118―1181年)がいたが、清盛は和歌には熱心でなかったようで。義清との接点は若い頃にはなかったようだ。徳大寺実能の養子となった同年代の藤原公重(1118―1178年)から菊の会に招かれ、後の太政大臣・藤原宗輔(1077―1162年)が鳥羽上皇に献上した菊の会の和歌を詠んでおり、歌人として評価されていたようだ。
2番、「君が住む やどのつぼには 菊ぞかざる 仙の宮と いふべかるらむ」
出典・『山家集』の秋歌296番目の歌で、詞書には「京極太政大臣、中納言と申しける折、菊をおびただしきほどにしたてて、鳥羽院にまゐらせ給ひたりける、鳥羽の南殿の東おもてのつぼに、所なきほどに植ゑさせ給ひけり。公重少将、人々すすめて菊もてなさせけるに、くははるべきよしあれば」とある。この長い詞書を要約すると、「京極太政大臣(藤原宗輔)が中納言であった時、菊を庭一杯に仕立てて、鳥羽院(鳥羽上皇)が御幸された。御所南殿の東面の坪庭に、所狭しと菊が植えられてあった。公重少将(藤原公重)は、人々にすすめて菊の会を催したと折、私も参加させてもらった経緯がある」と述べた。歌の大意は、「上皇様の住む御所の坪庭には澄んだ菊が飾られて、仙人の宮殿と呼ぶに相応しく思われます」と褒めちぎった内容になる。公重が右少将となったのは、40歳頃なので義清と同年であったことから少将と記したのは、『山家集』の書き写しミスであろう。いずれにしても、義清時代においては最初の頃の和歌とされている。
当時の義清は、和歌のみならず、流鏑馬の達人でもあって、貴族の蹴鞠にも優れていたとされ、文武両道の行く北面の武士であった。北面の武士は、上皇の親衛隊でもあって、容姿端麗な若者が選ばれた。この頃の義清には妻子がいたが、徳大寺家に仕えていた頃、徳大寺実能の異母妹の待賢門院璋子(1101―1145年)を思慕していたとされる。おそらく、17歳年上の璋子と男女関係にあったのではと、勝手に邪推する。待賢門院は、鳥羽天皇の中宮となって入内し、第1子の皇子、後の崇徳天皇(1119―1164年)を産んでいる。しかし、崇徳天皇は、白河法皇(1053―1129年)の養女でもあった璋子との子であったとも言われる。鳥羽天皇からすると、崇徳天皇は皇子ではなく、祖父の皇子となり、16歳下の叔父と言う不可解な立場となる。その歪な関係が、鳥羽法皇の崩御後に内乱へと発展することになった。
鳥羽天皇は5歳で即位し、祖父の白河上皇が実権を握る院政が始まる。鳥羽天皇の皇后であった美福門院得子(1117―1160年)が第9子の皇子・近衛天皇(1139―1155年)を産むと、崇徳天皇は5歳で即位してから在位19年で上皇に追いやられ、鳥羽法皇が院政を敷くことになる。近衛天皇が17歳で崩御すると、崇徳上皇の実弟の後白河天皇(1127―1192年)が天皇に即位するが、実権は鳥羽法皇が握ることになる。佐藤義清は、鳥羽上皇に仕えてはいたが、1歳年少の崇徳天皇は待賢門院の忘れ形見でもあって、親近感を抱いて接していたと推測する。崇徳天皇が24歳で退位すると、義清は武士を捨てる覚悟をする。おそらく、仕えていた鳥羽院と崇徳天皇との不仲が要因で、どちらにも肩入れしない立場を考えたのであろう。
義清と親しい人物に、同じ北面武士の佐藤範康(1116―1140年)がいた。『西行物語絵巻』には、範康との関係が描かれている。鳥羽院に呼ばれて、一緒に参内をする約束をしていた。翌朝、義清が馬に乗って範康の邸宅を尋ねると、門のあたりに時ならぬ人のざわめきがあって、19歳の若妻と50歳ほどの母親が泣きぬれているのであった。義清が仔細を聞くと、範康は昨夜に不帰の客となっていた。範康は2つ年上の25歳で、その急死は、義清に無常迅速のはかなさを知らしめたとされる。
3番、「をしむとて 惜しまれぬべき この世かは 身をすててこそ 身もたすけめ」
出典・『山家集』の雑歌117番目の歌で、詞書には「鳥羽院に、出家のいとま申すとてよめる」とある。『玉葉集』の雑歌に載録された。『玉葉集』は、鎌倉時代後期の歌人・京極為兼(1253―1332年)によって編まれた和歌集で、西行法師の和歌は57首が選ばれた。この歌は、北面武士を退任し、出家する気持ちを詠んでいる。分かり易くも奥深い歌で、「この世は無常に満ちたものだから惜しんでみても仕方ない。自分は儚いものだと思った方が気が楽である。」と、述べている気がする。
4番、「葉がくれに 散りとどまれる 花のみぞ 忍びし人に あふここちする」
出典・『山家集』の恋歌29番目の歌で、詞書には「寄残花恋」とある。残花に寄せた恋心と題し、「葉に隠れて散り残った花だけが、人目を忍ぶような恋人に逢った気持ちにさせる」と、詠んだ歌である。人目を忍ぶ恋は、他ならぬ待賢門院であったか定かではないが、妻子ある武勇の義清が恋慕したとも思えない一面もある。
5番、「何となく 春にならぬと 聞く日より 心にかかる み吉野の山」
出典・『山家集』の春歌12番目の歌で、詞書には「春立つ日よみける」とある。「春となった知らせを聞くと、何となく心の中には、吉野山の桜が浮びかかる」と詠じた。吉野の桜を詠んだ歌は60首あまりもあって、奥千本に草庵を結ぶ以前も訪ねていると想像する。この歌も京の都で詠んだ歌で、毎年のように吉野の桜を恋しく思っていた様子に見える。
保延6年(1140年)の7月頃、義清は鳥羽院に暇乞いをした後、家族に出家を告げる決意をした。『西行物語絵巻』の徳川美術館本には、帰宅した義清が出迎えた4歳の娘を蹴落とすシーンが描かれている。冷酷にも見えるシーンではあるが、迷いに迷っての行動で、俗世から逃れたい気持ちに満ちていた。絵巻のストリーでは、妻子を説得してから邸宅の一室に籠り、剃刀で髻を元結の根から切り落とした。その後はすぐさま馬を飛ばして嵯峨野の奥に向って、懇意のあった寺の聖のもと剃髪して得度したとある。嵯峨野の奥の寺は、西山大原野の勝持寺である。義清には、仲清(生没年不詳)と言う兄か弟がいて、家族を含めた佐藤家の後事を託したと思われる。また、北面武士の先輩である源季政(1108?―1173年頃)と気脈を通じていたので、互いに出家を考えていた様子である。この頃の義清の心境を詠んだ歌が、6番の歌である。
6番、「世のうさに 一かたならず うかれゆく 心さだめよ 秋の夜の月」
出典・『山家集』の秋歌264番目の歌で、「題しらず十一」にある。また、『西行法師集』では58番目に収められている。義清は、世の中の人間関係に物憂さを感じ、尋常的ではない世の中に浮ついて生きて来た自分を嫌悪する。秋の名月が決まった周期で現れるように、自分の心も仏教に定めて人生をめぐりたいと決意したようである。その原因については、『西行物語絵巻』では、友人の佐藤範康の死を理由に武士を捨てたとする説、『源平盛衰記』では、高貴な女性にあこぎな恋をした失恋説を採っているが、そんな単純な理由ではなかったと思う。自分自身の本当の居場所を求めての出家であった推察する。それでも和歌に対する情熱は深く、自由きままに自然を見つめ、四季の移ろいを肌に感じて詠ずる吟行詩人の先駆けを演じたとも思われる。
保延5年(1139年)頃、義清は、同僚の源季政を誘って嵯峨嵐山の法輪寺の別当・空仁(1110―?年)を尋ねている。空仁は、俗名を中臣清長と言う神官出身の僧で、和歌にも精通していた風流な僧でもあった。
7番、「大井川 舟にのりえて わたるかな 流にさをを さすここちして」
出典・『残集』の23番目の歌で、上句は義清、下句は源季政(後の西住法師)が詠んだ連歌である。詞書には「かくてさし離れて渡りけるに、故ある聲のかれたるやうなるにて大智徳勇健、化度無量衆よみいだしたりける、いと尊く哀れなり」とある。舟で棹をさして岸を離れると、『南無妙法蓮華経』の経文を読誦する嗄れたような声がして、その偈の2句を詠んでいる。その経文は、少々尊くも哀れに聞こえたようだ。歌の真意は、「大井川では仏法に則る舟に乗り換えて渡りたい」と義清が述べると、「それは、川の流れのような世の中に抗して棹をさすようなものですよ」と季政が下句を添えて同調している。
当時の義清は既に、仏教の経典を学んでいたようで、空仁上人との出会いを次ぎの歌に詠んでいる。
8番、「いつか又 めぐり逢ふべき 法の輪の 嵐の山を 君しいでなば」
出典・『残集』の25番目の歌で、詞書には『かく申しつつさし離れかへりけるに、「いつまで籠りたるべきぞ」と申しければ、「思ひ定めたる事も侍らず、ほかへまかることもや」と申しける、あはれにおぼえて』とある。7番の歌では、舟で渡った様子に見えるが、当時は「渡月橋」の前身でもある「法輪寺橋」が架けられていたので、嵯峨野の川岸から舟に乗り換える必要性はなかった。それはさておき詞書は、義清が帰り際に、「いつまで寺に居るのですか」と空仁に尋ねると、「この寺に定住するつもりはなく、他に行こうと思っている」と、答えられたのが、淋しく思われて歌を詠んだようだ。「法の輪」は、法輪寺での結縁を述べたもので、嵐山をあなたが去ると思うと、いつまためぐり逢えるか気がかりである」と別れを惜しんだ。空仁上人の影響もあって、義清と季政は、この日の参詣を期して出家を決意したようである。
義清の出家後は、その影響で出家する歌人が多くいた。公家の藤原為業(1114―?年)、為経(1115―?年)、頼業(1118―1173年頃)の三兄弟に代表される。為業は「寂念」、為経は「寂超」、頼業は「寂然」を法名とした。この三兄弟は「大原の三寂」と称された。その後の西行法師とも関わりがあって、特に同年の寂然とは親交が深かった。
9番、「世をすつる 人はまことに すつるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけり」
出典・『山家集』の雑歌234番目の歌で、「題しらず十一」の中にある。この歌は、捨てると言う言葉を4度も繰り返した戯言にも見える。しかし、私的に解釈すると、「世を捨てようとする人は、本当に世を捨てられるのか、捨てない人こそ、先に人生を諦めて捨てているようなものだ」と、言わんとしている。仏教には、「捨身」と言う概念があるが、これは世を捨てる意味ででなく、自分自身を犠牲にして他者を救済するスタンスで、義清が詠じた「世を捨てる」こととは意味合いは異なる。柔道には、「捨て身」と言う技があるけれど、これは自分の体位を畳に捨てる反動で相手を負かすことで、捨て身は敗北ではない、逆転勝利の一面もある。家督を相続して家庭を営む暮らしを放棄し、自分の引いたレールを歩むことが、義清の捨て身であった。
平安時代中期頃から仏教の末法思想が広がり、長承3年(1134年)には、京では洪水や飢饉が起こり、咳病が流行した。保延4年(1138年)には、京市中で大火が発生している。また、保延5年には、延暦寺の僧徒が京に乱入しようとするが、平忠盛(1096―1153年)らが防いだ。そんな時代を目の当たりした義清は、諸行無常を感じだの確かであろう。
10番、「はかなくて 行きにし方を 思ふにも 今もさこそは 朝がほの露」
出典・『山家集』の哀愁歌75番目の歌で、詞書には「諸行無常のこころを」とある。「儚く過ぎて行く時を思うと、今ある命も朝顔の花の露のように消えてゆくのであろう」と、諸行無常の心を詠んだ。晩年の西行法師と親交のあった鴨長明(1155―1216年)は、名著『方丈記』の中で、京の惨状に対して世の無常を説いている。室町時代には、浄土真宗を中興した蓮如上人(1415―1499年)も、西行法師の無常論を踏まえた『白骨の御文』を作って、命の儚さを説いた。。
清水寺(平成3年撮影) 下賀茂神社(ウェブのコピー)
(2)、出家と京の遍歴(23歳―26歳)
保延6年(1140年)10月、23歳となった義清は、念願が叶って大原野の勝持寺で出家得度する。正式な法名は、「円位」と号し、後に極楽浄土の西方に因み「西行」を名乗って併用するのである。勝持寺は、奈良時代に修験道の開祖・役行者小角(634―701年)が開基し、平安時代初期に日本天台宗の開祖・伝教大師最澄(767―822年)が中興したと伝わる。現在は、約100本の桜があることから「花の寺」とも呼ばれて京都洛西の観光寺院となっている。不動堂前に剃髪に用いた鏡石と西行姿見ノ池があって、鐘楼の側に西行手植えの3代目の八重桜があった。瑠璃光殿には、寄木造りで漆塗りされた高さ55㎝の西行法師像が安置されていた。出家後の西行は、勝持寺の境内に草庵を結んで暮らしたとされるが、疑問の余地がある。
北面武士の同僚・源季政も出家して「西住」と称しているので、この頃は一緒に行動したものと考えられる。西住も西行と同様に法師と尊称されるが、和歌に関しては『千載集』に4首が入集しているだけである。西住法師は、駿河国岡部で西行法師よりは早く亡くなったため、同行二人の友人を哀悼する歌を後に詠んでいる。同じ年の北面武士である平清盛は、保延6年(1140年)に従四位下の官位に昇進し、着実に出世街道を歩いていた。
11番、「西に行く 月をやよそに 思ふらむ 心にいらぬ 人のためには」
出典・『山家集』の釈教歌19番目の歌で、詞書には「易往無人の文を」とある。法名の「西行」には、深い意味があるのかと調べたらの11番の歌が、西行の名の由来があると察した。「西に行く」は、阿弥陀経の西方浄土で、「月をやよそに」の以下は、月を阿弥陀如来に喩えて、よそ見して関心を示さない人のことである。「易往無人」は、正しくは「易往而無人」で、浄土教では極楽浄土は容易に行くことができるに関わらず、往生する人は稀であると言う説のようだ。
義清の出家に関して、周辺の人々がどんな印象を抱いたか調べると、左大臣・藤原頼長(1120―1196年)の『台記』には、「重代の勇士なるを以て法皇に仕えたり。俗時より心を仏道に入れ、家富み年若く、心愁ひ無きも、遂に以て遁世せり。人これを嘆美せるなり。」とある。義清の出家は、家族以外からは好意的に見られたようである。
12番、「花見にと むれつつ人の 来るのみぞ あたら桜の とがにはありける」
出典・『山家集』の春歌120番目の歌で、詞書には「閑ならんと思ひける頃、花見に人々のまうできければ」とある。出家後の春、勝持寺に花見に来る人々を詠んだ歌と想定した。「群衆が花見だと言って訪れる寺は不憫なものだ。桜の花が美しいばかりに、これは罪深いことでもある」と、敬虔な参拝客の少なさを嘆いている。
勝持寺での草庵暮らしは長くはなく、その後は、嵯峨野の小倉山、洛北の鞍馬山に移っている。小倉山には、公家で歌人の藤原俊成(1114―1204年)が山荘を構えていて、西行法師とは和歌を通じた昵懇の仲であった。鞍馬山には、仏教修行が目的で入山している。勝持寺には晩秋まで2ヶ月ほと滞在し、小倉山に入ったと想像する。
13番、「松風の 音あはれなる 山里に さびしさそふる 日ぐらしの聲」
出典・『山家集』の雑歌46番目の歌で、「題しらず四」の13首の9番目の歌でもある。「日ぐらし」は、カナカナと鳴く蝉の一種で、秋の季語にもなっている。この歌は、耳に聞いた秋の風景で、「山里で松の枝が風に吹かれて軋む音を聞いていると、哀愁を感じるし、更にヒグラシの鳴く声が、寂しさを添えていようだ」と、ありのまま聞いた情景を詠んだ。
14番、「谷の間に ひとりぞ松は たてりける われのみ友は なきかと思へば」
出典・『山家集』の雑歌47番目の歌で、「題しらず四」の中にある。山の谷間の一本松を眺めての詠で、「山の中に居るのは自分ひとりではなく、松が立っているのではないか」と、知るような山川草木を友として暮らした山居生活でもあった。この歌は、何時頃、何処で詠まれた歌なのかは不明であるが、269首が収められた雑歌の前の方にあるので、若い頃の作と推定した。
15番、「水の音は さびしき庵の 友なれや 嶺の嵐の たえまたえまに」
出典・『山家集』の雑歌50番目の歌で、「題しらず四」の13首の最後の歌でもある。この歌も前作と同様の山居生活を詠んだ歌である。「山の嶺から吹く嵐が時折り止むと、その絶え間絶え間に筧の水音が聞こえて来る。この水音も寂しい草庵では、愛しき友となる」と聴くのであった。西行法師は、音に対して大変に敏感であったようで、様々な水音を聞き分けて感情移入している。特に雨音などはうるさく、人工的な水琴窟や筧には、風流な奥ゆかしさがあるので、友と思うのも無理はない。
16番、「きりぎりす 夜寒に秋の なるままに よわるか聲の 遠ざかり行く」
出典・『山家集』の秋歌82番目の歌で、「虫の歌よみ侍りけるに」と題した17首の歌の13番目の歌でもある。この歌は、昆虫のキリギリスが主題であるが、平安時代はコウロギもキリギリスと呼ばれたようである。何れもバッタ科に属するが、コウロギは黒色で足が短く、キリギリスは緑色で足が長くジャンプもする。何れも9月から11月頃までが寿命で寒さに弱い。その様子を観察して歌に詠んでいる。コウロギは「コロコロリー」、キリギリスは「チョン・ギーッ」とオスだけか羽音を奏でて鳴く。その声が秋の寒さで、次第に弱まって行く様子をよく捉えて詠んでいる。
17番、「小山田の 庵近く鳴く 鹿の音に おどろかされて おどろかすかな」
出典・『山家集』の秋歌108番目の歌で、詞書には「田の庵の鹿」とある。「小山田」は、地名ではなく、山を切り開いて作られた田んぼのことで、詞書からも推測できる。平明な歌で、「草庵に泊った朝方、庭先に鹿が現れて驚かされた。私は逆に奇声を発して鹿を驚かせてやったよ」と解釈される。実際は奇声ではなく、鉦でも叩いたかも知れないが、洒脱に富んだ歌で、西行法師のユニークで子供のような一面を感じさせる歌である。
18番、「をじか鳴く 小倉の山の 裾ちかみ ただひとりきすむ 我が心かな」
出典・『山家集』の秋歌111番目の歌で、詞書には「小倉の麓に住み侍りけるに、鹿の鳴きけるを聞きて」とある。「小倉の山」は、標高は296mの小倉山で、お椀を伏せたような丸い形の山で保津川(大井川)沿いにある。歌の内容は、「牡鹿が鳴く小倉山の裾野近く、ただ一人で住んでいるので、私の心も澄みゆく心地がする」と、掛詞を交えて詠じた。単調な歌なので、若い頃の作と推察した。小倉山には、藤原俊成の小倉山荘があったので、出家前から訪ねていたことであろう。小倉山荘は俊成の没後は、子の定家が相続し、その時雨亭は、『小倉百人一首』を編纂した場所となった。山荘跡には、天龍寺塔頭の尼寺として厭離庵が創建されて、晩秋の紅葉シーズンに一般公開されていると聞く。
19番、「小倉山 ふもとの里に 木葉ちれば 梢にはるる 月を見るかな」
出典・『山家集』の冬歌43番目の歌で、詞書に「冬月」と題した4首の3番目の歌でもある。この歌碑が二尊院にあることから二尊院に草庵を結んだとされるが、それは晩年のことであろう、歌の大意は、「小倉山の麓の里で、木の葉が散ると木の梢の見晴らしが良くなって、綺麗な月が眺められる」と、分かり易い言葉で冬の月を詠んでいる。
歌聖・西行法師の和歌の特徴は、分かり易い平明な歌が多いことで、余計な解釈をしないで方がストレートに伝わるかも知れない。これは俳聖・松尾芭蕉翁にも共通して言えることで、子供から老人まで理解できるが、その奥深さは計り知れない。それが多くの詩歌ファンに愛される所以とも思うし、何よりも漂泊の詩人のイメージと生き様が美化されていると思う。
20番、「わりなしや こほる筧の 水ゆゑに 思ひ捨ててし 春の待たるる」
出典・『山家集』の冬歌32番目の歌で、詞書には「世をのがれて鞍馬の奥に侍りけるに、かけひの氷りて水までこざけるに、春になるまではかく侍るなりと申しけるを聞きてよめる」と、鞍馬山の過酷な冬の様子を述べている。この歌の「わりなしや」は、現代語では「割が合わないこと」で、絶え難い苦痛も意味する。要約すると、「この寒さには何とも絶え難い、手洗いの注ぎ口の水が氷ってしまった。これも修行と思って、これまでの思いを捨てて、春の訪れを待つばかりである。」と、寒中修行の厳しさを吐露している。修行した鞍馬寺は、奈良時代の宝亀元年(770年)に鑑真和上(668―762年)の高弟・鑑禎上人(生没年不詳)が開基したと伝承される。鞍馬山と言えば、源義経(1159―1189年)が牛若丸時代に武術を研鑽した寺として有名であるが、この頃はまだ生まれていない。西行法師は、鞍馬寺で越冬することになるが、草庵を結んだとされるのは間違いと思われる。おそらく僧坊に寄宿したと想定するのが妥当であろう。現在の鞍馬寺には、西行法師に関する伝承が全くなく、義経堂や義経公供養塔など義経に関する史跡や伝承が多い。
2Ⅰ番、「岩間とぢし 氷も今朝は とけそめて 苔の下水 みち求むらむ」
出典・『山家集』の春歌15番目の歌で、詞書に「初春」と題した2首の1首でもある。『新古今集』の春の歌にも採録されて、鞍馬山で詠まれた可能性が高い。曲解すると、「岩と岩の間に閉ざされていた氷が今朝は融けて、苔の生えた下を流れている。その流れが通り道を探すように、私も新たな道を求めて春に向って旅立つ時が来たようだ」と、鞍馬山から次の修行地に向う気概が込められている。『西行物語絵巻』には、旧宅に立ち寄って妻子の様子を窺うシーンが描かれていて、陰ながらその行く末を見守っていたのであった。その後の妻子は、法師の計らいで紀州の天野に移り、出家したともされる。
京都市伏見区の白河天皇陵近くに「火消地蔵尊」と言う半間ほどの小さな御堂があって、その左横に「西行寺」と刻まれた自然石が立っていた。この西行寺が義清時代の邸宅跡とされている。この周辺には、鳥羽天皇陵と近衛天皇陵もあって、鳥羽天皇が上皇、更に法皇となって28年間も院政を行った鳥羽離宮のあった場所でもある。
22番、「ふりつみし 高根のみ雪 とけにけり 清滝川の 水のしらなみ」
出典・『山家集』の春歌16番目の歌で、清滝川の初春を詠んでいる。清滝川は、北区にある標高896mの桟敷ヶ岳を水源とする川で、高雄(高尾)の神護寺、槇ノ尾の西明寺、栂ノ尾の高山寺の三尾が有名である。清滝を起点に高雄までは「錦雲渓」、下流の落合までは「金鈴峡」と呼ばれて、水の白波はいずれかの眺めであろう。三尾は現在、紅葉の名所で有名となっているが、残雪期の初春も絵になる眺めであろう。この歌の水の白波は、平安時代中期の女流歌人・赤染衛門(956?―1041年)の和歌の本歌取で、何作かの派生歌もあるようだ。
23番、「春あさみ 篠のまがきに 風さえて まだ雪消えぬ しがらきの里」
出典・『山家集』の春歌19番目の歌で、「題しらず一」の2首の1首でもある。「しがらきの里」は、現在でもある滋賀県甲賀市の信楽の里である。京から何を目的に訪ねたのかは詞書がないので不明である。些細なことではあるが、『西行全歌集』では、初句が、「春浅く」となっている。何れも春浅い早春で、初句に使用されているのはこの1首のみである。「篠のまがき」は、篠竹の垣根である。歌の様子では、「早春の信楽の里は、吹く風も冷たく、垣根の雪も消えようとしない」と、感じたようだ。
24番、「ほととぎす 死出の山路へ かへりゆきて わが越えゆかむ 友にならなむ」
出典・『聞書集』の236番目の歌で、詞書には「北山寺にすみ侍りける頃、れいならぬことの侍りけるに、ほととぎすの鳴きけるを聞きて」とある。北山寺は、『源氏物語』の若紫の巻に登場する「北山のなにがし寺」で、鞍馬寺とされている。寺に住んでいる時、例外なくホトトギスが鳴き始めた。ホトトギスは死出の旅路の案内役とされた鳥で、「死出の田長」の異名や「不如帰」の漢字表記もある。「ホトトギスの声を聞くと、人生の旅路を一緒に越える友に他ならない」と詠じた。
25番、「さまざまに 花咲きたりと 見し野辺の 同じ色にも 霜がれにけり」
出典・『山家集』の冬歌28番目の歌で、詞書には「野の辺りの枯れたる草といふことを双林寺にてよみけり。」とある。鞍馬山から法師は、永治元年(1141年)の初春に京・東山の雙林寺に入っている。雙林寺は、双林寺または双輪寺とも称され、寺のホームページによると、永治元年(1141年)に法師は、塔頭の蔡華園院(現在の花月庵)に止宿したと伝えている。しかし、雙林寺には何度となく往来していて、京における私的な滞在先の寺であったと言える。歌の大意は、「様々な花が咲いていたように見える野辺には、同じ色のように霜枯れた様子である」と、見た風景を率直に詠んだ自然描写の歌である。しかし、野辺には死者を風葬した場所の意味もあって、東山には鳥辺野の葬送地があった。花を人に喩えると、命ある万物の滅びの美学にも通ずる歌にも読める。法師の和歌に対する芸術感には、和歌の趣味的なイメージと異なる奥深さが感じられる。
東山後の西行法師の行動については、26歳の康治2年(1143年)に奥州・信州の旅に出立したという説と、29歳の久安2年(1146年)に出立したとする説がある。年代が明確となっているのは、32歳の久安5年(1149年)に高野山に上っていることである。吉野山で詠まれた歌の詞書には、「国々めぐりまはりて、春帰りて吉野の方へまゐらむとし」とあるので、奥州、越後、信州の国々をめぐって吉野山に入ったと考えられる。そして約3年間は、吉野山の草庵に留まっているので、吉野山に入ったのは、29歳の久安2年(1146年)となる。すると、最初の奥州の旅の出立は、康治2年(1143年)説が有力視される。出家から3年間は京に留まっていたと推定して『新西行物語―心の旅』の年代を進めたい。また、『西行物語絵巻』の渡辺家本には、京の北白河で人々と和歌を詠む西行法師の姿が23紙に描かれている。東山の雙林寺(双林寺)、長楽寺を拠点に、京の市中を約3年間に渡って徘徊した可能性は高い。
26番、「霜さゆる 庭の木葉を ふみ分けて 月は見るやと 訪ふ人もがな」
出典・『山家集』の冬歌47番目の歌で、詞書には「静かなる夜の冬の月」とある。「庭の枯葉に付いた霜は冴え、月は煌煌と輝く、月を一緒に眺めようと尋ねて来る人のいないのは淋しい」と、呟いた歌である。この歌が詠まれた場所や年代は不明であるが、冬歌47番目の前後の歌から推察すると、京の草庵か寺の茅舎で詠まれた歌と思われる。
27番、「しばしこそ 人めづつみに せかれけれ はては涙や なる瀧の川」
出典・『山家集』の恋歌10番目の歌で、「恋」と題した72首の1首で、鳴滝川を詠んでいる。勝手な解釈では、「堰堤のように目頭をおさえて止めようとするが、堪え切れずに涙が鳴滝川のように流れでる」と、詠んだと思われる。鳴滝川は、京都市右京区鳴滝の街中を流れる川で、御室川とも称される。下流には康治元年(1142年)に落飾した待賢門院の法金剛院がある。
草庵に籠っていても、京の歌人たちとの交流は絶やさなかったようで、徳大寺家へ婿養子に入った藤原頼長(1120―1196年)を尋ねている。頼長は当時、内大臣の要職にあった実力者で、その辣腕ぶりから悪左府の異名を取っていた。西行法師は、待賢門院の落飾を祝うため、「法華経廿八品」の写経を28人に分担させて勧請して回った。頼長には、「常不軽菩薩品」を依頼している。この経本に登場する常不軽菩薩は、法華経を信奉した童話作家の宮沢賢治(1896―1993年)か、「雨ニモマケズ」のモデルにしたともされ、意外な所に平安時代との結び付きがあるものである。
28番、「都にて 月をあはれと 思ひしは 数より外の すさびなりけり」
出典・『山家集』の秋歌170番目の歌で、詞書に「旅宿の月といへるこころをよめる」と題した3首目の中の歌でもある。京の月の名所と言えば、嵯峨野の大沢池で、現在の大覚寺境内に嵯峨天皇によって弘仁元年(810年)に造られた。しかし、旅宿とあることから近江の石山寺の名月と比較したと推察する。「都の月がとても風情があると思っていたが、他に比べると、とるに足りない月で、気慰めほどの価値しかない」と、都の月を酷評している。西行法師は、約2090首の和歌を残しているが、月を詠んだ歌は396首もある。桜の230首よりも多いが、桜と月が重複する歌もあるので、主題がどちらかである。
29番、「柴の庵と きくはいやしき 名なれども 世に好もしき すまひなりけり」
出典・『山家集』の雑歌1番目の歌で、詞書には「いにしえごろ、東山にあみだ房と申しける上人の庵室にまかりて見けるに、おはれとおぼえてよみける。」とある、昔の頃、東山に阿弥陀房と言う上人の草庵を訪ねた時に哀れに思って詠んだとある。「柴の庵と聞くと、貧しいそうな名前に感じるけれど、実際に訪ねてみると、世にも立派な住まいであった」と、草庵のみそぼらしいイメージを払拭させた歌である。鎌倉時代に伝わった茶ノ湯(茶道)は、茶室あっての茶ノ湯で、茶室の建物の多くは、平屋建ての質素な草庵である。四畳半と水屋のあるのが一般的で、現在では高尚な茶室建築の建物としてのイメージが定着している。法師が褒めた住処の上人は、どんな僧侶であったかは不明であるが、阿弥陀経の経典にはとても興味があったようだ。
30番、「世の中を そむきはてぬと 云ひおかむ 思ひしるべき 人はなくても」
出典・『山家集』の雑歌2番目の歌で、詞書に「世をのがれける折、ゆかりなりける人のもとへいひ送りける」とある。隠遁者となった時、所縁のあるの人に所に贈った歌である。「世の中に背いた身の志を語っても、分かってくれる人はいない」と、孤独な胸の内を吐露したようだ。しかし、法師の出家遁世の志は、托鉢行脚の漂泊の歌僧として評価が高まってゆくのであった。
31番、「まさきわる 飛騨のたくみや 出でぬらむ 村雨過ぎぬ かさどりの山」
出典・『山家集』の雑歌7番目、「題しらず一」の歌で、「かさどりの山」は、京都府宇治市にある標高396mの「笠取山」で、歌枕の山である。「飛騨のたくみ」は、飛騨国出身の大工のことで、その大工が笠取山で柾木を伐っている様子を詠んでいる。その伐採の時、村雨が降って通り過ぎて行き、「飛騨の匠たちは、笠を被って山を出たのだろうか」と、山名と笠を掛けている。
32番、「世の中を 捨てて捨てえぬ 心地して 都はなれぬ わが身なりけり」
出典・『山家集』の雑歌195番目の歌で、「題しらず八」の27首の中にある。西行法師は、出家しても正式な僧位の僧侶でもなく、寺に住持することもなかった。京の周辺を彷徨う有様で、俗世に対する未練もあって半俗半僧の立場にあった。そんな心境を詠んだ歌が32番の歌である。ストレートな歌で、訳する必要はない思われるが、念のため解釈を加えると、「出家して俗世を捨てようとして捨てきれない気持ちで、都の人々とも交わり続けている自分の姿がある」と、詠嘆するのであった。
33番、「いつの世に 長き眠りの 夢覚めて おどくことの あらむとすらむ」
出典・『山家集』の雑歌203番目の歌で、「題しらず八」の27首の中にある。いつの頃の作かは不明であるが、「いつになったら長い眠りの夢から覚めて、驚くことのない不動の気持ちになれるのだろう」と、己の至らなさを詠んでいる。おそらく、出家間もない頃の作と考えて、33番に選んだ。様々な煩悩に苛まれ、世俗を離れて環境を変えることしかないと考えたようである。それが吉野山への隠遁生活をさせるきっかけとなって現れ、行動するのである。
34番、「おろかなる 心のひくに まかせても さてさはいかに つひの住かは」
出典・『山家集』の雑歌241番目の歌で、「題しらず十一」の14首の中にある。西行法師の若き日々の旅は、求道修行の旅でもあって、自問自答する歌が多い。この歌も「愚かな心を引きずっている自分に対し、成行きに任せていると、その先の終の棲家が心配である」と、不安な気持ちを詠じた。『西行全歌集』では、「聞書集」の216首目にあって、結句が「つひの思ひは」となっていて、ニアンスが異なってくる。「ついの思ひは」の方が、意味も通じてしっくりする。終の棲家には、これでお終いと言うイメージがあって、愚かな人間の末路とも思えない。
35番、「そらになる 心は春の 霞にて よにあらじとも 思ひたつかな」
出典・『山家集』の春歌44番目の歌で、詞書には「世にあらじと思ひける頃、東山にて、人々霞によせて思をのべけるに」とある。出家後に東山の雙林寺かどこかで、歌会があって、「霞」を歌題に詠まれたようである。「そらになる」は、般若心経の「空」、空虚や空疎の言葉にも通ずる。「自分の今の心境は、春の霞のような空疎な世の中から逃れたいと思ったのである」と、詠んだと解する。この歌には下手な解釈を加えない方が、「そらになる」心境に近付くような気がする。
36番、「世を厭ふ 名をだにもさは とどめ置きて 数ならぬ身の 思出にせむ」
出典・『山家集』の春歌45番目の歌で、詞書は前の歌と一緒で、「おなじ心をよみける」とある。『山家集』では雑歌243番目と重複していて、「世をいとふ 名をだにもさは とどめおきて 数ならぬ身の 思ひ出にせむ」とある。下句の「思ひ出にけむ」と「思ひ出にせむ」が、一字違いであっても別の歌として採録したのかは不明である、歌の内容は、「俗世を厭い暮らしていることは知られても、人の数にも入らない身の上なので、自己満足の思い出としたい」と、詠じたように感じられる。この頃の法師は、出家遁世の心が定まらず、自分を理解してくれる人を求めていたようてある。
37番、「もろともに 我をも具して ちりね花 うき世をいとふ 心ある身ぞ」
出典・『山家集』の春歌206番目の歌で、「落花の歌あまたよみけるに」と題した36首の12番目の歌でもある。「諸共に」の詞を初句とした歌は、『山家集』には5首もあって、「みんな一緒」と言う意味の外に、「自然と共に」と言う概念が含まれている気がする。「浮世を厭う心があるので、散り行く花に寄り添うように自然に身を置きたい」と、詠じたと解釈する。。
38番、「思へただ 花のなからむ 木のもとに 何をかげにて 我身住みなむ」
出典・『山家集』の春歌207番目の歌で、「落花の歌あまたよみけるに」と題した36首の13番目の歌でもある。この歌の2句目が、同じ岩波文庫の『西行全歌集』では、「花の散りなん」となっていた。校正者が変わると歌の内容が異なるのも問題で、「花のなからむ」とでは、意味合いが少し異なる。「思ってみると、桜の花のなくなった木の下で、何を頼りに住み続けるられるのだろうか」となる。散った桜には花びらが残っているので、余韻を楽しむことができる。
39番、「ながむとて 花にもいたく 馴れぬれば 散る別こそ 悲しかりけり」
出典・『山家集』の春歌208番目の歌で、「落花の歌あまたよみけるに」と題した36首の14番目の歌でもある。何時、何処で桜を詠んだ歌なのか判然としないが、慣れ親しんだ桜のようで、東山か吉野山の桜を想像してしまう。散る桜との別れを悲しいと詠んでいるが、これは恋慕の別れも意味し、京に住む女性であった可能性が高い。西行法師は、出家をしても女性を愛する歌を数多詠んでいる。そんな気持ちの歌が、恋歌にも込められていて、その葛藤が28歳頃まで続いたようだ。
40番、「ちりそむる 花の初雪 ふりぬれば ふみ分けまうき 志賀の山越」
出典・『山家集』の春歌232番目の歌で、詞書には「山路落花」とある。「志賀の山越」は、北白川から白川沿いに大津に抜ける志賀越道と呼ばれた山路である。この歌は、「桜の花が散り始めた頃、その花びらが初雪のように思われたようで、実際の初雪を踏み分けるように志賀の山越は辛いものである」と、桜との別れも交えて詠じた。
41番、「五月雨に 水まさるらし 宇治橋や くもでにかかる 波のしら糸」
出典・『山家集』の夏歌61番目の歌で、「五月雨」と題した7首の2番目の歌でもある。この歌は、『西行全歌集』では、3句目の「宇治橋」が「打橋」となっていて、何処の橋なのか不明である。「宇治橋」は、京都府宇治市の宇治川に架かる橋で、瀬田川の瀬田唐橋、淀川の山崎橋と並び「日本三古橋」の1つとされた名橋である。歌を解釈すると、「五月雨で水かさが増した宇治橋を眺めと、蜘蛛手のような橋脚に水が当り、白糸を引くように波が立っているよ」と、大化2年(646年)に初めて架けられた宇治橋を眺めたのである。「打橋」は、簡素な橋を意味するようで、宇治橋のような歴史的な重みはない。
42番、「河わだの よどみにとまる 流木の うき橋わたす 五月雨のころ」
出典・『山家集』の夏歌81番目の歌で、詞書には「ある所にて五月雨の歌十五首よみ侍りし、人にかはりて」とある。実際は16首が詠まれ、その15番目の歌でもある。様々な五月雨の歌が詠まれていて、流れ橋の歌は、現在の木津川に架けられた「上津屋橋」を想定したい。平安時代の流れ橋は、もっと単純な構造であったと思われ、「よどみにとまる」の句から淀川も考えられなくもない。「五月雨の頃になると、曲った川の深みには、浮橋が架けられているよ」と、宇治橋とは対照的な歌を詠じた。
43番、「水の音に あつさわするる まとゐかな 梢のせみの 聲もまぎれて」
出典・『山家集』の夏歌107番目の歌で、詞書に「水辺納涼といふことを、北白川にてよめる」とある。北白川で開催された納涼会の歌で、「水音に暑さを忘れさせる納涼会で、梢からは蝉の声も紛れ込んで聞こえる」と詠んだ。現在でも鴨川の水辺に設置される納涼床は京都の風物詩で、西行法師の時代にも行われた様子に感じられる。
44番、「よもすがら 月こそ袖に 宿りけれ むかしの秋を 思ひ出づれば」
出典・『山家集』の秋歌216番目の歌で、「月の歌あまたよみけるに」と題した42首の15番目の歌でもある。「夜もがは」は、一晩中や夜通しの意味であるが、初句に用いた歌は11首もあって、月を絡ませた歌は4首もある。「一晩中、昔眺めた月が懐かしく思い出され、流す涙の袖に月が宿っているよ」と、出家前の自分に思いを馳せるのであった。西行法師は、花の歌人と称されるけれど、月の歌人でもあって、月を眺めながら極楽浄土を夢見ていたのかも知れない。
45番、「山里は 秋の末にぞ 思ひ知る 悲しかりけり こがらしの風」
出典・『山家集』の秋歌312番目の歌で、「秋の末に法輪寺にこもりてよめる」と題して詠んだ6首の4番目の歌でもある。『新勅撰集』の秋歌にも選ばれた秀歌である。法輪寺は、嵐山にある真言宗の寺院で、和銅6年(713年)に行基菩薩(668―749年)が開基したと伝承される。出家前の保延5年(1139年)頃、空仁上人を尋ねている。難解な語もなく、そのまま読むと「山里は秋の末こそ、木枯らしが吹き、その悲しさを思い知らされる」となる。春になると、陽が長くなってうきうきとした気分になるが、それとは逆に秋になると、陽が短くなって悲しい気持ちになる。日本人が等しく思う晩秋に対する感覚であろう。
歌道に関して西行法師は、保元元年(1156年)の39歳までは、崇徳院が主催する花壇と関わりを持ち、藤原俊成の評価もあって絶対的な自信があったと思われる。俊成の歌風は、「幽玄」の美を追求した絢爛華麗なもので、本歌取や物語取を考案したとされる。西行法師の歌風は、「幽寂」の美を探求した自然平淡なものであるが、喜怒哀楽の情感を詠んだ歌も多い。
仏道に関しては、どの宗派に属したいか迷っていたと想像する。歌人の多くは、京にも近い比叡山延暦寺の天台宗と交わりが深かった。得度した勝持寺、修行した鞍馬寺、草庵を結んだと雙林寺も天台宗の寺であった。法師が高野山に上り、真言宗に帰依するのは9年後のことで、それまでは奈良仏教も含めて様々な宗派の宗旨を学んでいたと推察する。藤原頼長が「俗時より心を仏道に入れ」と評したように、武道や歌道以外に仏道にも熱心であったことが理解できる。『山家集』の釈教歌では、仏教教義を独自に解釈した和歌57首を詠んでいる。
神道に関しても関心が高く、『山家集』の神祇歌では、21首の讃歌を詠んでいる。また、神仏習合の聖地でもある吉野山に行く前には伊勢参りに赴いた可能性もあって、吉野から熊野詣を行ったことも想定される。そして、住み慣れた京の都を離れ、初めての東国と奥州、越後と信州などの遍歴行脚の旅に出るには26歳の春であった。
白河関(ウェブのコピー) 姨捨山(ウェブのコピー)
(3)、奥州・信州の旅路(26歳―29歳)
現在の東北は、奈良時代には道奥(みちのく)と呼ばれ、平安時代後期には陸奥または奥州と称されるようになった。平安時代に奥州を訪ねるには、京からは陸奥の多賀城までを結んでいた東山道、武蔵国まで太平洋岸を行く東海道の2つの街道を利用することになる。『山家集』の羈旅歌125番目の歌の詞書に、旧暦の10月12日に平泉に到着したと記している。その年が何年であったかは記されていなが、京を出発して奥州平泉に向ったのは、康治2年(1143年)の春、26歳の時であった。
西行法師の遍歴行脚の目的は、同族の奥州藤原氏が京に次ぐ繁栄を誇っていたこともあって、その仏都を訪ねること、尊敬する能因法師(988―1105年頃)の旧跡を踏むこと、様々な和歌に詠まれた歌枕の地を目にすることが主な目的であった。奥州藤原氏は、藤原秀郷を遠祖として、西行法師が訪ねた頃は、2代目藤原基衡(1106―1157年)が当主となっていた。奥州平泉から以北の旅の行脚は不明であるが、伝承では青森県の下北半島や津軽半島に赴き、岩木山や蝦夷(北海道)を歌に詠んでいる。また、岩手県野田村の玉川は、歌枕の「野田の玉川」であると公称し、「西行屋敷跡」の名所も存在する。先ずは東海道周辺で詠まれた和歌から約3年間の西行法師の旅を追跡してみたい。
46番、「心をば 深きもみぢの 色にそめて 別れて行くや ちるになるらむ」
出典・『山家集』の別離歌2番目の歌で、詞書に「年頃申しなれたりける人に、遠く修行するよし申してまかりたるけるに、紅葉のしたりけるを見せまほしくて侍りつるかひなく、いかに、と申しければ、木のもと立ちよりてよみける」とある。詞書に「遠く修行する」とあることから、奥州へ出立する際の挨拶回りをした時の歌であろう。歌の意味は、「目の前で眺める深紅の紅葉のように熱き心に染めて、別れ行くとするか、散り行く身となるかも知れない」と、帰らぬ旅となる思いが込められている。
47番、「清見潟 おきの岩こす しら波に 光をかはす 秋の夜の月」
出典・『山家集』の秋歌142番目の歌で、詞書には「名所の月とてふことを」とある。「清見潟」は、静岡市清水区興津にあった名所で歌枕でもあった。清見関もあって、奈良時代に創建された清見寺が建っていた。おそらく寺に泊って境内から詠んだのであろう。「沖の岩を越す白波が、秋夜の月の光に重なって、一層白く感じられる」と、清く見られた寺からの眺めを詠じた。
48番、「風になびく 富士の煙の 空にきえて 行方も知らぬ 我が思ひかな」
出典・『山家集』の羈旅歌115番目の歌で、詞書には「あづまの方へ修行し侍りけるに、富士の山を見て」とある。修行の行脚であったことから最初の奥州の旅に該当する。「富士山の噴煙が風になびいて空に消えて行くように、私の人生の行方も似たように思われる」と、これから先の行脚に対する不安を詠んでいる。
49番、「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫たつ沢の 秋の夕ぐれ」
出典・『山家集』の秋歌105番目の歌で、詞書には「秋ものへまかりける道にて」とある。「鴫たつ沢」は、神奈川県大磯町にある渓谷で、この歌の評価によって鴫立沢は新たな名所になった。「心なき身」は、出家して煩悩を捨てた自分の心である。そんな境地にあっても、シギが飛び立つ秋の夕暮れの情景には、哀れ深い趣を感じたようである。この歌は、「三夕の歌」として有名になって、江戸時代には俳人の大淀三千風(1639―1707年)が「鴫立庵」の庵主となって現在に続いている。
50番、「東路や あひの中山 ほどせばみ 心のおくの 見えばこそあらめ」
出典・『山家集』の恋歌119番目の歌で、「恋」と題した72首の44番目にある。「間の中山」は何処にあったか、不明であるが、相模国の相模原と目されているようだ。東国の間の中山は、「道が狭くて前が見えないように、人の心の奥も見たくても見えない」と詠じた。『山家集』では恋歌に入っているが、男色が盛んだった頃なので、相手は女性と限らないと思う。
51番、「いかでわれ 清く曇らぬ 身となりて 心の月の 影をみがかむ」
出典・『山家集』の雑歌154番目の歌で、「心に思ひけることを」と題した5首の中にある。武蔵野の隠者と対面した折の歌と伝承されている。「いかでわれ」は、何とかしたい気持ちを意味し、初句には6首の歌に用いている。「何とかして清く曇りのない身となり、更に月の輝きを心の影に入れて自分を磨きたいものだ」と、90歳を過ぎたとされる隠者の境地を学んでいる。
52番、「汲みてしる 人もあらなむ おのづから ほりかねの井の 底の心を」
出典・『山家集』の恋歌114番目の歌で、「恋」と題した中の39番目の歌でもある。「ほりかねの井」は、歌枕の「堀兼の井」で、埼玉県狭山市の堀兼神社の境内に埼玉県の史跡として保存されている。解釈の難しい歌であるが、「水を汲んで知るのは、堀兼井戸の底の深さのように自分の心も思慮深くであるべきと思う」と、詠んだものと思われる。
53番、「和らぐる 光を花に 飾られて 名をあらはせる さきたまの神」
出典・『補遺』の88番目の歌で、「旅の歌とて」と題した6首の4番目の歌でもある。「さきたまの神」は、埼玉県行田市にある前玉神社の祭神で、神社は埼玉古墳群の中に建っている。「和らぐる」は、民衆の心を和らげる信仰心であろう。「前玉の神の御威光は、花にも飾られて、世に知られるようになった」と、神々が支配した古墳時代に思いを馳せたのかも知れない。また、前玉神社は、「幸魂神社」とも称され、これが「埼玉」という地名の発祥地とされている。
54番、「霧ふかき 古河わたりの わたし守 岸の舟つき 思ひさだめよ」
出典・『山家集』の秋歌126番目の歌で、詞書には「下野武蔵のさかひ川に、舟わたりをしけるに、霧深かりければ」とある。「古河」は、現在の茨城県古河市で、「さかい川」は、境川と漢字表記される利根川のことである。この歌は、武蔵国から下野国に利根川を船で渡った時の歌である。船の船頭に対して、「渡し守さんよ、霧が深いので古河の渡航は注意して下さい。船着き場のある方向だけを思って心に定めてね」と、安全な航行をお願いするのであった。
55番、「山高み 岩ねをしむる 柴の戸に しばしもさらば 世をのがればや」
出典・『山家集』の羈旅歌116番目の歌で、詞書に「東国修行の時、ある山寺にしばらく侍りて」とある。山寺が何処の寺なのかは不明であるが、東国の山は、歌枕で有名な筑波山で、山寺は古筑波山寺であったとしても不思議ではない。筑波山には、西行法師が入山したとする伝承もあって、『山家集』にもない拙い歌もある。この歌は、「高い山の巌根に柴の小庵を建てて住み、しばらくして立ち去る人の世から逃れ、孤高に身を投じたいと思う」と詠んだと解釈する。
56番、「白川の 関屋を月の もる影は 人のこころを とむるなりけり」
出典・『山家集』の羈旅歌119番目の歌で、詞書に「みちのくにへ修行してまかりけるに、白川の関にとまりて、所がらにや常よりも月おもしろくあはれにて、能因が、秋風ぞ吹くと申しけむ折、いつなりけむと思ひ出でられて、名残おほくおぼえければ、関屋の柱に書き付けける」とある。詞書にあるように、東国修行の旅を終え、陸奥修行の旅に白河関から入るのである。能因法師は、「都をば かすみとともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」と詠んでいる。その歌を念頭に西行法師は、「白河の関守の家に漏れ入る月影は、人の心を誘惑して留めようとする」と詠み、能因法師の昔を思い出して感慨に耽るのであった。
57番、「都出でて あふ坂越えし 折までは 心かすめし 白川の関」
出典・『山家集』の羈旅歌120番目の歌で、詞書に「さきにいりて、信夫と申すわたり、あらぬ世のことにおぼえてあはれなり。都出でし日数思ひつづくれば、霞とともにと侍ることのあとたどるまで来にける、心ひとつ思ひ知られてよみける。」とある。京から白河の関までは約700㎞、歌枕の地に寄り道して到着したのは初秋となってと思う。この歌は、「都を出て逢坂の関を越えてからは、時折り心に浮かぶのは奥州の白河の関である」と詠み、やっと白河の関に辿り着いた感慨に耽っている。
58番、「思はずば 信夫のおくへ こましやは こえがたかりし 白河の関」
出典・『聞書集』の139番目の歌で、詞書には「行願心」とある。行願心は、大悲心のことで、白河の関までの修行行脚が1つの修法を達したことを意味する。その点を考慮して解釈すると、「修行と思い願わなかったら、信夫の奥までは来なかったであろう。越えるのが困難とされる白河の関を越えた」と、安堵の気持ちを詠んでいる。
59番、「ときはなる 松の緑 神さびて 紅葉ぞ秋は あけの玉垣」
出典・『山家集』の羈旅歌122番目の歌で、詞書に「あづまへまかりけるに、しのぶの奥にはべりける社の紅葉に」とある。「しのぶの奥」は、現在の福島市にある標高275mの信夫山が該当し、、神社は羽黒神社と思われる。「ときはなる」は、地名ではなく、一年中や常日頃を意味で、「あけの玉垣」は、朱色に染まった垣根を指している。それを念頭に解釈すると、「常に変わらない松の緑は、神々しく、紅葉の秋は、朱色に染まった玉垣が厳かである」と、社叢の色彩を対比させて詠んだ。江戸時代に「しのぶの里」を訪ねた松尾芭蕉翁は、この歌には興味を示さなかったようで、神社ではなく「文知摺観音」を参拝した。
60番、「朽ちもせぬ 其名ばかりを とどめ置きて 枯野の薄 かたみにぞ見る」
出典・『山家集』の羈旅歌118番目の歌で、詞書に「みちのくににまかりたるけるに、野中に、常よりもとおぼしき塚の見えけるを、人に問ひければ、中将の御墓と申すはこれが事なりと申しければ、中将とは誰がことぞと又問ひければ、実方の御ことなりと申しける、いと悲しかりけり。さらぬだにものあはれにおぼえけるに、霜がれの薄ほのぼの見え渡りて、後にかたらむも、詞なきやうにおぼえて」とある。実方は、公家の近衛中将・藤原実方(?―999年)のことで、陸奥守として赴任した際に落馬して亡くなったとされる。実方は、「中古三十六歌仙」の1人で、歌人としても知られていた。西行法師が実方の墓と知って、「不朽の名声を残しているが、哀れな末路で枯野のススキが形見のように見える」と、144年前の歌人を死を哀れんだ。
61番、「枯れにける 松なき宿の たけくまは みきと云ひても かひなからまし」
出典・『山家集』の羈旅歌121番目の歌で、詞書に「たけくまの松は昔になりたりけれども、跡をだにとて見にまかりてよめる」とある。歌にある松は、現在の宮城県岩沼市にある「武隈の松」で、二木に分れた松はみちのくのシンボル的な存在の歌枕でもあった。西行法師が訪ねた頃は、4代目の松が枯れたようで、宿りとした「幹」を見きと掛けても甲斐のないことと詠じた。江戸時代に芭蕉翁が「桜より 松は二木の 三月越し」と詠んだ松は5代目で、現在の武隈の松は7代目の言われる。
62番、「なとり川 きしの紅葉の うつる影は 同じ錦を 底にさへ敷く」
出典・『山家集』の羈旅歌124番目の歌で、詞書には「名取川をわたりけるに、岸の紅葉の影を見て」とある。名取川は『古今集』にも登場する歌枕で、この川を題材とした歌を詠みたいと願っていたのだろう。「川岸の水面に映る紅葉は、同じ錦の彩を川底に敷いているように美しい」と、錦秋の名取川を見事にとらえた。
63番、「あはれいかに 草葉の露の こぼるらむ 秋風立ちぬ 宮城野の原」
出典・『山家集』の秋歌27番目の歌で、詞書には「秋風」とある。『新古今集』にも選ばれた秀歌で、「宮城野の原」は、宮城県仙台市の郊外にあった歌枕の地である。「あはれいかに」は、感嘆詞で「ああ」と言うため息から詠みはじめている。「ああ、宮城野の原では、どれほどの草の葉に露が零れているのだろう。もうすっかり秋風が立ち始めている」と、自然美に感嘆した。
64番、「みちのくの 奥ゆかしくぞ 思ほゆる つぼのいしぶみ そとの浜風」
出典・『山家集』の雑歌77番目の歌で、「題しらず五」の5首の3番目の歌でもある。「つぼのいしぶみ」は、宮城県多賀城市にある古碑で、奈良時代の神亀元年(726年)に多賀城が創建された時の経緯が記されている。「陸奥で奥ゆかしく思えたのは、壺の碑と外の浜風である」と、絶賛したのである。「外の浜風」は、何処を指すのかは不明であるが、松島の海岸以外は考えられない。多賀城の古碑は、江戸時代初期に発見されて、芭蕉翁が訪ねた頃には、仙台藩主・伊達綱村によって整備されていた。
65番、「たのめおきし 其いひごとや あだなりし 波こえぬべき 末の松山」
出典・『山家集』の恋歌196番目の歌で、「恋百十首」と題した49番目にある。「末の松山」は、多賀城市八幡にある歌枕で、多くの歌人に詠まれた景勝地である。歌の意味は、「頼みに思っていた約束事が仇となり、末の松山は波が越えそうである」と、清原元輔(908―990年)の恋歌を念頭に詠んでいる。
66番、「ふままうき 紅葉の錦 散りしきて 人も通はぬ おもわくの橋」
出典・『山家集』の羈旅歌123番目の歌で、詞書に「古りたるたな橋を、紅葉のうづみたりける、渡りにくくてやすらはれて、人に尋ねければ、おもはくの橋と申すはこれなりと申しけるを聞きて」とある。「おもわくの橋」は、野田の玉川に架けられた歌枕の橋で、多賀城市の住宅街にある。この歌は、「踏むのが勿体ないように紅葉の錦が散っているので、誰も思惑の橋を通ろうとしない」と、落葉の美しさに敬意をはらった歌である。
多賀城の近くには、奥州一宮の塩竈神社があって、西行法師が参拝した可能性が高いが、歌は詠まれていない。そして、みちのく最高の景勝地である松島へと入ることになるが、松の木の下で出会った童子との和歌の問答に負かされて引き返したとの伝承がある。これが「西行戻しの松」で、松島の観光名所の1つともなっいる。松島は京でも知られた歌枕で、数多の歌が詠まれて来た。江戸時代に松島を訪れた芭蕉翁が絶句したように、西行法師も歌に表現できなかったと想像する。それでも松島の天麟院には、西行法師像が安置されていて、西行法師の面影を偲ぶことができる。出羽国の象潟で詠んだ歌に、松島の雄島が登場するので、松島を訪ねたのは史実であったと見てよいだろう。
67番、「小野山の うへより落ちる 滝の名の おとなしにのみ みぬるる袖かな」
出典・『補遺』の64番目の歌で、「恋」と題した5首の中にある。小野山は、比叡山西麓の大原にある山と目されているが、宮城県栗原市一迫にある歌枕ともされる。そんな辺鄙な山中を分け入り訪ねたと推定したい。この歌は、「小野山の上より落ちる滝の名前は、音無の滝と呼ぶようで、声もなく涙して袖が濡れるように恋しき人を思う」と、音無の滝に偲ぶ恋とを重ねている。
68番、「とりわきて 心もしみて さえぞ渡る 衣川見に きたる今日しも」
出典・『山家集』の羈旅歌125番目の歌で、詞書には「十月十三日、平泉にまかりつきたりけるに、雪ふり嵐はげしく、ことの外に荒れたりけり。いつしか衣川見まほしくてまかりむかひて見けり。河の岸につき、衣川の城しまはしたる。ことがらようかはりて、ものを見るここちしけり。汀氷りてとりわけさびしければ」とある。京を出立してから約半年をかけて平泉に到着し、先ずは衣川を眺めるのであった。衣川は現在、北上川の支流となっているが、当時は北上川も衣川と称されていたようだ。歌枕として知られ、平安時代後期には安倍氏が築いた関所もあって、「衣川関」と称されていた。詞書にある「衣川の城」は、安倍氏の築いた館で、衣川に面して建っていたようだ。雪の降る嵐の中で、「特別に衣川城を見に来た今日は、その城に心が魅せられて時代を冴え渡るようだ」と、衣川と古戦場を眺めた第一印象であった。
69番、「衣川 みぎわによりて たつ波は きしの松が根 あらうなりけり」
出典・『聞書集』の253番目の歌で、詞書には「雙林寺にて、松河に近しといふことを人々のよみけるに」とある。この歌は、平泉に滞在した頃に詠んだ歌を帰京後、東山の双林寺の歌会で、「松河」と題した歌で披露したようだ。「衣川の水際に寄って立つ波は、川岸の松の根元を洗うように荒々しい」と、衣川を見たこともない面々に大河の迫力を示したのである。
70番、「雪降れば 野路も山路も 埋もれて 遠近しらぬ 旅のそらかな」
出典・『山家集』の冬歌72番目の歌で、「雪の歌どもよみけるに」と題した9首の2番目の歌でもある。銀世界に包まれた光景を詠んだ歌で、みちのくで詠まれたと想定する。平明な歌なので素読みすると、「雪が降れば野山の道は埋もれて、遠近感のない景色となるが、これも旅の空の出来事でもあるよ」と、地吹雪にでも接したような雰囲気が感じられる。
71番、「常よりも 心ぼそくぞ おもほゆる 旅のそらにて 年の暮れぬる」
出典・『山家集』の羈旅歌126番目の歌で、詞書には「陸奥国にて、年の暮によめる」とある。平泉では、同族の2代目当主・藤原基衡(1106―1157年)の歓待を受け、越冬したと思われる。この歌は、「普段と違う年の暮れとなって、心細く思われる旅の空である」と、京より遥か彼方のみちのくに居る不安さを詠じた。
この時代の平泉の人口は、10万~15万人と言われ、京の人口が16万~30万人、日本全体の人口が1000万人と推定されているので、平泉がいかに大きな都であったと思うと想像を絶する。それも仏都と称されるように、中尊寺、毛越寺、観自在王院の大伽藍と大庭園があって、柳之御所、伽羅御所と大邸宅を兼ねた政庁もあった。初代清衡が造営した仏都は、平和な時代を100年間も奥州(陸奥)と羽州(出羽)にもたらした当時の理想郷とも言える。
72番、「聞きもせず たはしね山の 桜ばな 吉野の外に かかるべしとは」
出典・『山家集』の羈旅歌128番目の歌で、詞書には「みちのくにに、平泉にむかひて、たはしねと申す山の侍るに、こと木は少なきやうに、桜のかぎり見えて、花の咲きたるを見てよめる」とある。平泉で初春を迎えた西行法師は、その周辺の山並みを眺めて驚くのであった。詞書には、束稲山と言う山があって、樹木は少ないけれど桜の木だけはあったと述べて「聞いたこともないけれど、束稲山の桜の花は素晴らしく、吉野山以外にこんな桜が山にかかるとは想像もしていなかった」と、絶賛するのであった。現在は中尊寺の東物見台にこの歌碑があって、束稲山の「西行桜の森」には約3000本の桜が眺められる。
73番、「奥に猶 人みぬ花の 散らぬあれや 尋ねを入らむ 山ほととぎす」
出典・『山家集』の羈旅歌129番目の歌で、詞書が72番の歌と同じことから、束稲山の奥の桜を訪ねての歌と推定する。「山の奥には、人の見たことのない桜の花が散らずにあって、更に探して入るとホトトギスが囀っている」と、山深く桜を求めて入った様子を詠んでいる。当時の束稲山は、エドヒガンやオオヤマザクラが主で、新種のヤエザクラでも見たのであろうか。
74番、「いたけもる あまみる時に なりにけり えぞが千島を 煙こめたり」
出典・『山家集』の雑歌75番目の歌で、「題しらず五」にある5首の冒頭にある。「えぞが千島」は、蝦夷地(北海道)で、千島は島が沢山あることを意味するだろう。おそらく、下北半島から北海道の渡島半島を眺めて詠んだと想像する。「いたけもる」は、意味の不明な語であるが、一説には巫女を意味するとある。それを踏まえて解釈すると、「天神に祈りを捧げる巫女を必要とする時が来たようだ。蝦夷の島々に噴煙が立ちこめているのを見ると」と、恵山か渡島駒ヶ岳の噴火を見たのであろう。
西行法師の伝承歌には、津軽半島の岩木山を詠んた歌があって、津軽を訪ねた可能性は高い。岩木山は歌枕で、他には青森市の外の浜と善知鳥、六ヶ所村の尾鮫の駒、三戸町の奥の牧など挙げられる。詞書などから推察すると、津軽からは出羽の国に入り、山形から最上川沿いに行脚して、庄内や象潟を訪ねている。
75番、「たぐひなき 思ひいではの 桜かな 薄紅の 花のにほひは」
出典・『山家集』の羈旅歌130番目の歌で、詞書には「又の年の三月に、出羽の国に越えて、たきの山と申す山寺に侍りける。桜の常よりも薄紅の色こき花にて、なみたてりけるを、寺の人々も見興じければ」とある。「たきの山」は、瀧山寺のことで、当時は三百坊を数える大寺院であった。寺には、花の色の変わった桜並木があって、花見が行われていたようである。その中に混じって、「比べようにならない出羽での思い出は、薄紅色の淡い匂いの桜の花を眺めたことであろう」と、出羽と思い出を掛けて詠んだ。山形市内にある三百坊跡には、75番の歌碑が建っていて、日本最古の石鳥居が残されている。
76番、「風あらき 柴のいほりは 常よりも 寝覚ぞものは かなしかりける」
出典・『山家集』の羈旅歌131番目の歌で、詞書に「おなじ旅にて」とあって、出羽の国で詠まれたようだ。何処かの草庵に止宿し、「風の強い草庵の夜は眠られず、普段よりも寝覚めが悪く物悲しく感じられる」と、孤独な一夜を詠じた。
永治元年(1141年)、崇徳天皇が鳥羽上皇に疎んじられていたこともあって24歳での退位を余儀なくされた。西行法師は、いずれの天皇にも仕えていたことから、その軋轢の挟間にあった。鳥羽上皇は、康治元年(1142年)に東大寺戒壇院で受戒し、法皇となるが、住まいは鳥羽離宮(本院)にあった。崇徳天皇は、崇徳上皇となって新院に居を構えていた。その頃に西行法師が上皇(崇徳院)を尋ねて、「ゆかりありける人の、新院の勘当なりけるをゆるし給ふべきよし申し入れたりける御返事に」と詞書して、上皇との贈答歌を『山家集』の雑歌130番目と131番目に記載した。
おくり、「最上川 つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ」
崇徳院は、「最上川で綱手を曳いて遡上する稲舟が、暫しの時間は碇を下して動じないように、その願いは聞き入れないことにしよう」と詠歌する。すると、西行法師は所縁ある人ため、「御返りごとたてまつりけり」と題して返すのである。
77番(かへし)、「つよくひく 綱手と見せよ もがみ川 その稲舟の いかりをおさめて」
「強く引く綱手のようにご導き下さい。最上川の稲舟が碇をおさめるに」と、お怒りを鎮めるように懇願するのである。この頃の西行法師は、歌枕で知られた最上川の存在は知っていたが、実際に目にしたのは出羽の国に入ったからである。
78番、「松島や 雄島の磯も 何ならず ただきさかたの 秋の夜の月」
出典・『山家集』の秋歌79番目の歌で、詞書には「遠く修行し侍りけるに、象潟と申所にて」とある。この歌は、昨年の秋に訪ねた松島を思い起こして詠んでいる。「松島の雄島の磯の風景は何ということもない。しかし、象潟の秋の月夜は優れている」と、評した歌と思う。実際に西行法師が詠んだとする確証がなく、『西行全歌集』には記載されていない。また、人口に膾炙された歌に、「象潟や 桜の花に うづもれて はなの上こぐ 蜑のつり舟」の伝承歌がある。この歌を西行作と信じていた松尾芭蕉翁は、象潟を訪ねた折は、能因法師と西行法師を憧れの歌人として故人の影を踏んでいる。
79番、「ふる畑の そばのたつ木に をる鳩の 友よぶ聲の 凄き夕暮」
出典・『山家集』の雑歌13番目の歌で、「題しらず二」の5首の中にあって、出羽国の庄内で詠まれたとされる。他に鳩を詠んだ歌にも「凄く」の形容詞を用いて、山鳩の「デッデー・ポッポー」と鳴く声の何処に凄みを感じたのか不可解である。歌の意味は、「古く荒れた畑の高い木に鳩が止っている。その鳩が仲間を呼んで鳴いてる声が凄まじく聞こえる夕暮れである」となる。何処かの寒村を訪ねた時の詠歌で、鳩に自分自身を投影し、一緒に旅する友を求めているようにも感じられなくもない。
80番、「いつとなく 思ひにもゆる 我身かな 浅間の煙 しめる世もなく」
出典・『山家集』の恋歌120番目の歌で、「恋」と題した72首の45番目の歌でもある。出羽の国から上州を経て、信州へと入った様子で、標高2568mの雄大な浅間山を眺めるのであった。この歌は、「いつもと違った思いに自分の心は燃えている。浅間山の噴煙が絶える時代がないように」と、自分自身の情熱と噴煙を重ねて詠んでいる。
81番、「くまもなく 月のひかりを ながむれば まづ姨捨の 山ぞ恋しき」
出典・『山家集』の秋歌240番目の歌で、「月の歌あまたよみけるに」と題した42首の39番目の歌でもある。「姨捨山」は、長野県千曲市の歌枕で月の名所でもあった。その昔、口減らしのため老人を捨てた山ともされるが、単なる伝承に過ぎないよううだ。平明で率直に詠まれた歌で、「雲もなく澄んだ月の光りを眺めていると、先ず恋しく思い出されるのは姨捨山である」と、姥捨山の月を絶賛した。江戸時代の松尾芭蕉翁も訪ねて、「俤や 姨ひとりなく 月の友」と詠み、西行法師の面影を重ねた。
82番、「ねわたしに しるしの竿や 立てつらむ こひきまちつる 越の中山」
出典・『山家集』の雑歌5番目の歌で、「題しらず一」の8首の中の1首である。「越の中山」は越後にある標高2454mの妙高山とされ、越後国の歌枕となっている。「ねわたし」は、嶺渡しと漢字表記される稜線の尾根道で、その目印として竹棹を立てていた様子である。「こひき」は、木挽とも漢字表記されるが、ここでは木こりや案内人の行者のことであろう。「妙高山の嶺を越えるには、目印の棹を立ててくれる案内人を待つことになる」と、修験の山を越える困難さを詠んでいる。西行法師は、健脚の持ち主であったので、登山に対しても興味があって山に登り詠んだ歌が多い。
83番、「春を待つ 諏訪のわたりも あるものを いつを限に すべきつららぞ」
出典・『山家集』の恋歌37番目の歌で、詞書には「寄氷恋」とある。「諏訪のわたり」は、氷結した湖水が盛り上がってできる「氷の道」を御神渡りと言い、その出来栄えで八剣神社の神官が吉凶を占う神事でもある。諏訪上社の男神が下社の女神の渡る恋の道ともされる。氷への恋の思いを寄せてと詞書し、「諏訪湖で待つ春は、御神渡りが終ると湖上の氷が解けて春になると言う。自分の恋心はいつになったら解けて消えるのか辛い気持ちが続く」と、絶ちきれない恋慕に悩んでいた様子である。
84番、「波とみゆる 雪を分けてぞ こぎ渡る 木曽のかけはし 底もみえねば」
出典・『山家集』の冬歌81番目の歌で、「題しらず七」の3首の中にある。「木曽の桟」は、長野県上松町と福島町の間にあって、木曽川沿いの断崖に架けられた桟道で、歌枕としても知られた難所であった。歌の意味は、「波のように積もった雪をラッセルをして分け進むと、木曽の桟から見る木曽川は底が見えないほどある」となる。険しい桟に恐怖心を感じたと思われる。
85番、「ひときれば 都を捨てて 出づれども めぐりてはなほ きそのかけ橋」
出典・『山家集』の雑歌175番目の歌で、「題しらず七」の6首の中にある。木曽路の難所を越えた安堵感から詠まれた歌と推察する。「一旦は京の都を捨てて旅立ったのであるが、めぐりめぐって来た果ての木曽の桟である」と、詠んだものと解釈する。木曽路を南下したか、北上したかは不明であるが、信州の歌枕の山々を詠んだ伝承歌が多くあることから、信州をめぐり終えてから木曽の桟を京への折り返し地点と考え、南下した可能性が高い。
86番、「かざこしの 嶺のつづきに 咲く花は いつ盛るとも なくて散るなむ」
出典・『山家集』の春歌146番目の歌で、「花の歌あまたよみけるに」と題した27首の24番目の歌でもある、「かざこしの嶺」は、現在の長野県飯田市にある標高ⅰ535mの「風越山」で、歌枕の山ともされる。この歌は、「風越山の稜線に続く桜の花は、いつ花盛りとなるか分からないまま散ってゆくのだろうか」と、簡明な言葉で旅先で見た桜を詠じた。実際に風越山の稜線まで登って小さな花のミネヤマザクラを眺めたのだろう。本当にいつ咲き、いつ散るのか分からない桜の花である。
87番、「あはざらむ ことをば知らで 帚木の ふせやと聞きて 尋ね行くかな」
出典・『山家集』の恋歌1番目の歌で、詞書には「名を聞きて尋ぬる恋」とある。「帚木」は、現在の長野県阿智村の園原伏屋にあったヒノキの古木と言われる。大正時代に幹の片方が折れ、昭和33年(1958年)には台風で倒れてしまい、根元周りが残されていると聞く。この帚木は、遠くから見ると、帚を立てたように見えるが、近づくと見えなくなると伝説された木ともされる。そんな伝説を知ってか、「逢ってもくれないことを知らないで、恋しく思う人が帚木の伏屋にいると聞いて尋ねて行くことになった」と、帚木に因む片思いの恋歌を詠んだのであった。
88番、「郭公 都へゆかば ことづてむ 越えくらしたる 山のあはれを」
出典・『山家集』の夏歌49番目の歌で、詞書には「美濃の国にて」とある。この歌は『西行全歌集』にはなく、その逆もあるって、存疑歌として区分する必要性を感じる。また、西行法師の伝承歌も81首、現在の調査で見つけたので最後に紹介したい。『山家集』では39首もホトトギスを詠んだ歌があって、他の歌集を含める89首にも及ぶ。山中で見たホトトギスに対し、「ホトトギスよ、私より先に都に行くなら伝言を頼みたい。美濃から先の山を越せずに苦労している哀れさをね」と解釈する。ホトトギスは、「不如帰」とも漢字表記され、「帰る如かず」を意味し、都に帰りたい気持ちを表すしているようだ。
89番、「波よする 竹の泊の すずめ貝 うれしき世にも あひにけるかな」
出典・『山家集』の雑歌58番目の歌で、詞書には「内(二条院)に貝合せむと、せさせ給ひけるに、人にかはりて」とある9首の7番目の歌でもある。「竹の泊」は、石川県加賀市にある塩屋港の古名とされるが、歌枕てもなくに実際に訪ねたかは不明ある。「すずめ貝」は、巻貝の一種とされる1㎝ほどの小さな貝のようだ。「波が寄せた竹の泊の海岸には雀貝がいて、竹と雀の組み合わせは、世にも嬉しいものに逢ったことだな」と、昔の物語を思い起こして詠んだようだ。
90番、「しほそむる ますほのこ貝 ひろふとて 色の浜とは いふにやあるらむ」
出典・『山家集』の雑歌57番目の歌で、89番の歌と同じ詞書である。「色の浜」は、現在の福井県敦賀市の湾内にある海岸で、後に松尾芭蕉翁も訪ね、「種の浜」と誤記している。「ますほの小貝」は、増穂の小貝とも表記される小さな薄紫色の桜貝のようだが、別説では赤い色の小貝を「真赭」の小貝と書くそうである。「海辺では潮に染まったますほの小貝を拾うことできるので、色の浜と言うようである」と、詠んだと解釈する。芭蕉翁は、「波の間や 小貝にまじる 萩の塵」と詠み、秋の景色を色の浜に色添えた。色の浜の本隆寺と言う小さな寺には、芭蕉句碑が建っていたが、最近になって西行歌碑が建てられたようだ。
91番、「篠むらや 三上が嶽を みわたせば ひとよのほどに 雪のつもれる」
出典・『聞書集』の280番目の歌で、詞書には「覚雅僧都の六條の房にて、忠季宮内大輔、登蓮法師なむど歌よみけるにまかりあひて、里を隔てて雪をみるといふことをよみけるに」とある。「篠むら」は、篠群とも表記されるが、篠原の誤記ともされ、現在の滋賀県近江八幡市にある篠原と目されている。「三上が嶽」は、標高432mの三上山で近江富士とも称される美しい山である。「篠原(篠群)から三上山を見渡すと、一夜のうちに雪が降り積もったようである」と、眺めた景観を率直に詠んでいる。
この歌は、奥州行脚の長旅からの帰路に詠んだと想像するが、詞書に覚雅僧都、源忠季、登蓮法師の名があることから、京から訪ねて詠んだ可能性もあるので、西行法師が29歳頃の歌と確証はできない。三上山は、俵藤太こと藤原秀郷の「百足退治」の伝説で有名な山でもあるが、藤原秀郷が西行法師の9世前の祖先であるが、三上山を眺めて秀郷については触れていない。
約3年に及ぶ「奥州・信州の旅路」から京に戻った西行法師は、29歳になっていた。おそらく、暫くは京に滞在し、土産話や歌枕を訪ねて詠んだ歌を披露したものと思われる。この長途の旅を経験したことよって、歌人仲間の大宮人や他の法師の見る目も変わり、大冒険を達成したヒーローのような扱い方をされたと想像する。西行法師が尊敬した能因法師は、実際に旅はしておらず、留守をよそおい日焼けした顔を造って長旅を偽装したとも伝承されている。歌枕の現地に立って歌を詠むことに価値があったので、西行法師は如何なくそれを実行したことになる。
吉野山中千本(平成2年撮影) 吉野山奥千本西行庵(ウェブのコピー)
(4)、吉野山への入山(29歳―32歳)
康治2年(1143年)の春、西行法師は桜の名所で名高い吉野山へと上る。吉野山は馬の背のような山容をした山で、国宝の蔵王堂(本堂)を有する金峯山寺周辺が中心部となる。現在の吉野山には、約3万本のヤマザクラが自生または植栽されていて、標高は360mの中心部が「中千本」、山麓が「下千本」、山上が「上千本」、更なる山奥が「奥千本」と称される。西行法師は、奥千本の深山に草庵を結び、京を往来しながも約2年間起居した遺跡である。
西行法師の草庵は現在、約2間四方の杮葺き宝形造りで復元され、「西行庵」と称しているようだ。堂内には、法師が結跏趺坐した木像がポツンと置かれていた。西行庵近くには、法師が日常生活に用いた「苔清水」が流れ落ちている。この苔清水を詠んだ歌が、『山家集』や他の歌集にもない伝承歌が存在する。「とくとくと 落つる岩間の 苔清水 くみほすほども なき住居かな」の歌である。西行法師を思慕していた松尾芭蕉翁は、貞享元年(1684年)の「野ざらし紀行」と、貞享4年(1687年)の「笈の小文」の旅で2度、吉野山の西行庵跡を訪ねている。芭蕉翁は、伝承歌を西行法師の自作と信じていたようで、その歌を念頭に、「露とくとく 心みに浮世 すすがやば」と詠じた。西行法師が命をつないだ霊水に触れて、自分も浮世の垢を濯ぎたいものだと、感慨にふけった。芭蕉翁の発句には、西行法師の和歌を踏まえての本歌取の句が結構多い。
92番、「三笠山 春はこゑ(おと)にて 知られけり 氷をたたく 鴬のたき」
出典・『山家集』の春歌18番目の歌で、「題しらず一」の2首の中にある。しかし、『残集』の1番目の歌に、2句目の「声」と「音」の違いがあるだけの歌がある。『残集』の詞書には「奈良の法雲院のこうよ(公誉)法眼の許にて、立春をよみける」とある。おそらく、校訂ミスで『残集』が正しいと思う。三笠山は御蓋山とも表記される歌枕の山で、吉野山に入る前に立ち寄った可能性が高い。この歌は、「三笠山で春の訪れを知らせるのは。氷を叩くような鶯の滝の水音です」と、挨拶歌に詠んだようだ。
93番、「春雨の ふる野の若菜 おひぬらし ぬれぬれ摘まん 籠手ぬきれ」
出典・『山家集』の春歌34番目の歌で、詞書には「雨中若菜」とある。「ふる野」は、現在の天理市布留町とされる。「籠手」だと、剣道の「籠手」と同意語となるので、「手」の字を入れない方が良い。岩波文庫の佐佐木信綱校訂『山家集』は、当て字に間違いが多いが、この本のままに表記するのがブレなくて良いと思う。歌を解釈すると、「春雨の頃、布留野では若菜が生えていたので、濡れ濡れになって摘まんとした。籠が一杯となったので袖にも入れた」と、旅先で自給する様子を詠じている。
94番、「空晴るる 雲なりけりな 吉野山 花もてわたる 風と見たれば」
出典・『山家集』の春歌96番目の歌で、「題しらず七」の5首の2番目の歌でもあるが、『西行全歌集』にないのが不可解と思ったら、初句が「空はただ」となって記載されていた。どちらが正しいのか不明であるが、2句目との絡みを考えると、「空はただ」の方が似つかわしい。歌の意味は「吉野山では桜の花をのせて渡る雲を見たと思ったら、空に見えたのは単なる雲だったようだ」と、受け止められる。朝霧が立ち込めると、桜と雲の区別ができないほどの素晴らしい眺めてあったことを思い出す。
95番、「花をみし 昔の心 あらためて 吉野の里に すまむとぞ思ふ」
出典・『山家集』の春歌122番目の歌で、詞書には「国々めぐりまはりて、春帰りて吉野の方へまゐらむとし」とある。「国々めぐり」は、奥州・信州の旅路を指すと思われる。この歌は、「初めて吉野の桜を見た昔の気持ちを改めて、今度は吉野の里に住みたいと思う」と、新鮮な気持ちで吉野の花を眺めたいと詠んだ。
96番、「おしなべて 花の盛に 成にける 山の端ごとに かかる白雲」
出典・『山家集』の春歌127番目の歌で、「花の歌あまたよみけるに」の27首の5番目の歌でもあるが、『千載集』の春歌にも選ばれている。千載集は、正式には、『千載和歌集』で、藤原俊成が文治4年(1188年)に完成させたもので、西行法師の歌は、円位法師の名で18首が入集している。その数は、選者の俊成に次ぐ多さである。歌の大意は、「どこもかしこも桜の花盛りで、山の端々には花雲がかかったように見える」と、満開の季節を迎えた山里の桜の様子を大らかに詠んでいる。
97番、「吉野山 梢の花を 見し日より 心は身にも 添はずなりにき」
出典・『山家集』の春歌129番目の歌で、「花の歌あまたよみけるに」の27首の中にある。現在の西行庵は、車で訪ねても金峯神社からは徒歩で標高765mの山道を入ることになる。芭蕉翁が訪ねた頃は、か細い獣道のような様子だったと俳文に記している。西行法師の時代も同様であったと想像すると、樵以外は立ち入らない場所であった。そんな奥山での生活を支えたのは何だろうか思う。米や味噌は、麓に降りて托鉢をして得て、山菜や茸を摘んで生活の糧としたと推測する。精神的な支えは、仏教へ深い帰依、桜に対する思い入れであろう。97番の歌が、西行法師の気持ちを表していると感じられる。「吉野山で梢の花を見た日から心奪われて、寄り添いたい気持ちが高まった」と、吉野山のヤマザクラに魅せられた初心を詠んでいる。
98番、「あくがるる 心はさても 山桜 ちりなむ後や 身にかへるべき」
出典・『山家集』の春歌130番目の歌で、「花の歌あまたよみけるに」と題した27首の8番目の歌でもある。「あくがるる」は、身体から抜け出て行くことを意味すると、『西行全歌集』にある。それを踏まえると、「山桜が咲くと、心が抜け出た状態になって、花が散った後は体に帰って来るものだよ」と、自分の心が花と同化する姿を詠んでいる。
99番、「花みれば そのいはれとは なけれども 心のうちぞ 苦しかりける」
出典・『山家集』の春歌131番目の歌で、「花の歌あまたよみけるに」と題した27首の9番目の歌でもある。解釈の難しい歌で、「桜の花を見ると、理由は分からないけれど、心の中が苦しくなって来る」と、桜の花と心の動きを相関的に詠んだと思われる。凡人にとって桜の花は、美の象徴のようにしか見えないが、西行法師は桜の花に感情移入ができるようだ。
100番、「花にそむ 心いかで 残りけむ 捨てはててきと 思ふわが身に」
出典・『山家集』の春歌138番目の歌で、「花の歌あまたよみけるに」と題した27首の16番目にある。桜の花に様々な思いを重ねて来た西行法師は、吉野山の桜を50首も詠んでいて、最も愛着の深かった桜の名所であった。この歌は、思慕する女性の未練を絶ち切れず詠んだとされるが、余計なことを考えず解釈すると、「花に染まるほど執着する心がどうして残っているのだろう。世俗は既に捨てたはずの自分なに」と、苦悶する様子が読みとれる。
101番、「仏には 桜の花を たてまつれ わが後の世を 人とぶらはば」
出典・『山家集』の春歌141番目の歌で、「花の歌あまたよみけるに」と題した27首の19番目の歌でもある。通常であれば、菊の花を供えるが、敢えて桜の花を添えることを詠んだ歌である。「仏前には桜の花を供えして欲しい。私がいなくなった後に弔う人がいるなら」と、死後も桜につつまれていたいと願ったようだ。
102番、「吉野山 やがて出でじと 思ふ身を 花ちりなばと 人や待つらむ」
出典・『山家集』の春歌151番目の歌で、「題しらず八」の4首の2番目にある歌でもある。草庵を閉じて新たな目標を模索した頃に詠まれたと想像する。現代の短歌や俳句は、即興で気に入った作品を詠まれることは少なく、芭蕉翁に限らず推敲してから発表する例が多い。西行法師も同様で、詠んだ和歌と発表した時期が異なるのは致し方ない。この歌も実際に吉野山から旅立つ時に詠まれたのかは、日時を記した詞書もなく確証はない。しかし、この歌を解釈すると、「吉野山からやがては出ようと思っている自分に、桜の花が散ったとしてもまた戻って来ると、親しい人は待っているようだ」と、吉野山を去る心境を詠んでいると思わざるを得ない。吉野山で3度目の桜を眺めた西行法師は、兼ねてから目標としていた高野山へと向うのであった。
103番、「吉野山 さくらが枝に 雪ちりて 花おそげなる 年にもあるかな」
出典・『山家集』の春歌169番目の歌で、「題しらず九」の16首の2番目にある歌でもある。歌の大意は、「吉野山では、桜の枝に雪が降り散って、開花時期が遅くなるかも知れない。そんな年も吉野にあるのだな」と、去年の桜に比べて期待外れとなった様子を気にかけている。一日でも早く桜の花を眺めたい思う気持ちが伝わり、桜に対する執着心は尋常ではないと感じる。
104番、「吉野山 こぞのしをりの 道かへて まだ見ぬかたの 花を尋ねむ」
出典・『山家集』の春歌170番目の歌で、「題しらず九」の16首の3番目の歌でもある。初句に「吉野山」を用いた歌は、『山家集』で23首を詠んでいる。その中の代表作が105番の歌で、桜を詠んだ歌としては300番に次ぐ秀作と思う。「こぞ」は、去年のことで、「しをり」は、山道を歩く時に木の枝を折って目印にすることである。歌の大意は、「吉野山で、去年訪ねた時の枝折を変えて、未だ見ていない方角の花を訪ねたい」と、桜の花に対する旺盛な好奇心が読み取れる。
105番、「吉野山 花の散りにし 木のもとに とめし心は 我を待つらむ」
出典・『山家集』の春歌184番目の歌で、「百首の歌の中に花十首」と題した1番目の歌でもある。歌の内容からすると、吉野で詠まれた歌でもなさそうだが、草庵を離れて越冬した時の歌とも思われる。「吉野山の桜の花が散った木の下に、心を留めておいて来たが、その桜がまた花を咲かせて待っていることであろう」と、贔屓にしていた桜の木があったようだ。
106番、「この本に 旅寝をすれば 吉野山 花のふすまを 着する春風」
出典・『山家集』の春歌206番目の歌で、「落花の歌あまたよみけるに」と題して36首の12番目の歌でもある。草庵を離れ桜の木の下で野宿をした時の歌である。「花のふすま」は、衾と表記される平安時代の夜具のようだ。それを念頭に解釈すると、「桜の木の下で旅寝をすると、吉野山は春風が寒く感じられるが、花の蒲団を着ているので大丈夫である」と、読み取ることができる。ふと、松尾芭蕉翁の弟子・服部嵐雪(1654―1707年)の句、「蒲団着て 寝たる姿や 東山」を思い出す。
107番、「立田川 きしのまがきを 見渡せば ゐせぎの波に まがう卯花」
出典・『山家集』の夏歌4番目の歌で、詞書に「水辺卯花」とある。奈良の生駒に赴き、龍田神社を参拝した時の歌であろう。「立田川」は、奈良県斑鳩町にある川で、一般的には「竜田川」と表記される。「竜田川の岸辺の茂みを見渡すと、堰止めて立つ波と間違うほどの卯の花が咲いている」と、紅葉の竜田川ではなく春の竜田川を詠んだ。
108番、「郭公 卯月のいみに ゐこもるを 思ひ知りても 来鳴くなるかな」
出典・『山家集』の夏歌15番目の歌で、詞書に「不尋聞子規といふことを、賀茂社にて人々よみけるに」とある。西行法師は、吉野山の草庵から度々上京したと推定する。加茂社(下賀茂神社)は、歌会の場であったようで殊のほか多く参拝したようである。詞書の「不尋聞子規」は、ホトトギスが尋ねて来て鳴いてくれることで、「卯月のいみ」は、4月の賀茂祭で関係者が潔斎することである。そのことを踏まえると、「ホトトギスは、加茂祭のため卯月(4月)の忌みで籠っているのをよく知っていて、自分が尋ねなくても側に来て鳴いてくれる」と、夏の到来を告げるホトトギスを愛おしく詠んでいる。
109番、「水なしと 聞きてふりにし かつまたの 池あらたむる 五月雨の頃」
出典・『山家集』の夏歌78番目の歌で、「ある所にて五月雨の歌十五首よみし侍りし、人にかはりて」と題した15首の1首であるが、実際は16首あって、その12番目の歌でもある。「かつまたの池」は、奈良市西ノ京にある勝間田の池で、『万葉集』にも詠まれた歌枕であるが、千葉県佐倉市にも同名の池があるようだ。この歌は、「ふり」が経ると降るが掛詞になっていて、「水無しの池と聞いていた勝間田の池であるが、五月雨が降ると池の名が改められる」と、水に満たされた様子を詠んでいる。
110番、「吉野山 うれしかりける しるべかな さらでは奥の 花を見ましや」
出典・『聞書集』の4番目の歌で、詞書には、信解品、是時窮子・聞父此言・即大歓喜・得未曾有と記している。『聞書集』は、「聞きつけむにしたがいて書きべし」とあって、「法華経廿八品」を28首の和歌にアレンジして詠み替えたものである。法華経の教義については、深く理解していないので割愛する。歌の真意は、「吉野山で嬉しいのは尊者の道案内で、奥の桜を見るのも仏法の奥義があってのことで、その花を信解品の仏心として見る」と、曖昧な言葉で解釈する。
金峯神社の近くには、「義経隠れ塔」と称される小さな御堂があって、金峯山寺の僧兵の山狩りから身を隠した場所とされる。文治3年(1187年)に奥州の平泉に逃げ延びた義経ではあるが、西行法師が東大寺大仏殿の再建のため勧進聖として平泉を再訪したのは文治2年(1186年)なので、2人の接点はない。歴史好きの者としては、2人のエピソードがあって欲しかった。
111番、「尋ぬとも 風のつてにも きかじかし 花と散りにし 君が行方を」
出典・『山家集』の哀愁歌12番目の歌で、詞書には「待賢門院かくれさせおはしましにける御跡に、人々、又の年の御はてまでさぶらはれけるに、南おもての花ちりける頃、堀河の女房のもとへ申し送りける」とある。待賢門院が久安元年(1145年)8月、京の三条高倉第で崩御し、法金剛院に葬られた翌年に詠まれた歌である。享年45歳と、美女薄命の死でもあったが、48歳上の養父の白河法皇、2歳上の大君の鳥羽上皇、17歳下の西行法師などの異性関係は豊かであった伝えられる。そんな彼女の死に対して法師は、「尋ねても風の便りにも聞くことはないでしょう。花のように散った女院でありますから」と、その死に関しては、つれない歌を詠んでいる。堀河の女房(生没年不詳)は、西行法師の歌に「かへしの歌」を詠んでいるが、待賢門院に寄り添いたい心情を詠んだ切ない歌となっいる。
かへし、「吹く風の 行方しらする ものならば 花とちるにも おくれざらまし」堀河女房
「吹く風が行方を知らせるものならば、花のように散った待賢門院の後を追ったことでしょう」と返したのである。
112番、「露もらぬ 岩屋も袖は ぬれけると 聞かずばいかに あやしからまし」
出典・『山家集』の羈旅歌74番目の歌で、詞書には「みたけより生の岩屋へまゐりたるけるに、もらぬ岩屋もとありけむ折おもひ出でられて」とある。「みたけ」は大峯山のことで、「生の岩屋」は現在の笙の窟とされる。この歌は行尊僧正の本歌取で、「露も漏らない岩屋であるが、行尊僧正が袖を濡らしたと聞くと、如何にも怪しく感じられる」と、訝しく詠じている。
113番、「深き山に すみける月を 見ざりせば 思ひ出もなき 我が身ならまし」
出典・『山家集』の羈旅歌76番目にある歌で、詞書に「大峯のしんせんと申す所にて、月を見てよみける」とあって、深仙は大峯奥駈道の行場である。吉野山の草庵で安穏とした日々を過ごした訳ではなく、吉野の滞在中に2度に渡り修行に赴いた。大峯奥駈道は、吉野と熊野を結ぶ約170㎞の入峰修行の聖地で、標高1000~1900mの山々が連なる。厳しい修行の中でも月に安らぎを得たようで、「山深い深仙で澄んで輝いた月を見なかったら、思い出にも残らない私であっただろう」と詠んだ。
114番、「身につもる ことばの罪も あらはれて 心すみぬる みかさねの瀧」
出典・『山家集』の羈旅歌90番目にある歌で、詞書に「三重の瀧をがみけるに、ことに尊く覚えて、三業の罪もすすがるる心地してければ」とある。「三重の滝」は、大峯奥駈道の行場の1つで、馬頭・千手・不動の滝の総称でもある。「三業の罪」は、仏教で言う、身と口と心で作る罪や咎である。その三業が滝行によって清められると考えられた。「身に積もる言葉の罪悪も滝に洗われて心が澄んで行く三重の滝では」と詠じた。そして、更なる修行のため、生国の紀州にある高野山に上るのである。
高野山大門(平成22年撮影) 高野山不動堂・大塔(令和3年撮影)
(5)、高野山への入山(32歳―39歳)
西行法師が高野山に入った年代については諸説があったが、久安5年(1149年)の春頃、32歳の時と比定されている。出家して9年が経て、厳しい仏道修行を重ね、高野山を開基した空海大師に畏敬の念を抱いていたと考えられる、奥州や信州の旅路で「弘法伝説」を耳にしたり、足跡を見て来たと思う。また、佐藤義清時代に仕えた鳥羽上皇は、天治元年(1124年)、大治2年(1127年)、長承元年(1132年)の3度、高野山を参拝している。その事も遠因としてあった気がする。
西行法師は、「高野聖」であったと言われているが、これは誤解であろう。高野聖は浄土念仏を唱えて歩いた遊行僧の一種とされ、その活躍は浄土宗が盛んとなった鎌倉時代以降と想定される。しかし、文治2年(1186年)に東大寺大仏殿の再建のため、再び奥州を行脚したことがあって、「勧請聖」のような活動をしたのは確かである。いずれにしても高野山に入山してから約30年間は、空海大師に帰依して高野山を拠点とすることになる。久安5年(1149年)の5月には、落雷により御影堂を除く堂塔伽藍が焼失している。その再建の造営を担ったのが清盛の父・平忠盛(1096―1153年)で、大火を目の当たりにした白河天皇の第4皇子・覚法法親王(1091―1153年)の誘いもあって再建の一翼を担ったと想像する。
115番、「桜ちる やどにかさなる あやめをば 花あやめとや いふべかねらん」
出典・『山家集』の夏歌53番目の歌で、詞書には「高野に中院と申す所に、菖蒲ふきたる坊の侍りけるに、桜のちりけるが珍しくおぼえてよみける」とあって、「中院」は、明算阿闍梨(1021―1106年)の住坊があった竜光院で、ここに寄宿していたようである。そこで詠まれた歌は、「桜が散って宿坊を飾る菖蒲を花あやめと言うべきであろう」と、解釈される。
高野山における西行法師の僧としての立場は不明で、現在の「壇上伽藍」に「西行桜」があるのみである。寺伝では、西行法師は「三昧堂」で真言密教の修行をしたとされる。その折に植えた桜が西行桜で、桜が側になくては落ち着かなかったようで、桜の花こそが、西行法師の「蓮華」でもあった推察する。
116番、「西にのみ 心ぞかかる あやめ草 この世はかりの 宿と思へば」
出典・『山家集』の夏歌55番目の歌で、詞書には「五月五日、山寺へ人の今日いるものなればとて、さうぶ(菖蒲)を遣したりける返事に」とあって、端午の節句に詠んだ歌である。アヤメとショウブは、いずれも「菖蒲」と漢字表記されるため、同じ花と誤解されやすい。アヤメは陸地に、ショウブは水辺に咲く。アヤメは花に網目状の模様あって、ショウブは花に黄色い模様があるし、科目も異なっている。この歌の「西」は、西方浄土を意味し、その浄土に導く花があやめ草のようだ。「あやめ草を見ると、西方浄土に心がめぐらされる。この世を仮の宿りと思えばこそである」と、浄土への憧れを詠んだ。
鳥羽上皇は、高野山中興の祖と言われる覚鎫上人(1095―1143年)に帰依し、後援したのであるが、上人は進歩的な教義を掲げたため保守派に追われて根来にあった豊福寺に拠点を移している。また、鳥羽上皇が出家得度した折、受戒の師をつとめたのが上皇の叔父・覚法法親王であった。覚法法親王は、仁和寺の第4世門跡であったが、度々高野山を上っている。しかし、63歳となった仁平3年(1153年)、高野山の勝蓮華院で崩御しているので、36歳の西行法師が立ち会った可能性が高い。
117番、「もの思ふ 心のたけぞ 知られぬる 夜な夜な月を 眺めあかして」
出典・『山家集』の恋歌47番目の歌で、「月」と題した37首の9番目の歌でもある。桜が散っても月は離れずに寄り添ってくれた友でもあったようで、高野山でも月を眺めて詠んでいる。この歌もその1首と思い採録した。「物思うことのすべてを知られるよな月明かりで、毎夜眺めては夜明かしをしている」と、厳しい修行の息抜きを月に求めたようだ。
118番、「ともすれば 月澄む空に あくがるる 心のはてを 知るよしもかな」
出典・『山家集』の恋歌70番目の歌で、「月」と題した37首の32番目の歌でもある。この歌は、「場合によっては月澄む空を友のように憧れる。その友の心の果てを知る術があればよいのだか」と、澄んだ月に友への想いを重ねたとも読める。月の歌人と評された鎌倉時代の明恵上人(1173―1232年)は、「山の端に 我も入れなむ 月も入れ 夜な夜なごとに また友とせむ」と詠んでいる。明らかに西行法師の2首が念頭にあったのは明らかで、本歌を凌ぐ名歌と思う。
119番、「心から こころに物を おもはせて 身をくるしむる 我が身なりけり」
出典・『山家集』の恋歌234番目の歌で、「恋百十首」と題した中の87番目にある。この歌は、心の心理を探求した哲学的な意味合いもあって、「恋歌」に載録されているのが理解できない。歌の解釈は難しく、「自分の心を知るのは心であり、自問自答する度に身が苦しめらるが、それが自分自身の本質なのだ」と、勝手に解釈する。
120番、「みがかれし 玉の栖を 露ふかき 野辺にうつして 見るぞ悲しき」
出典・『山家集』の哀愁歌15番目の歌で、詞書に「近衛院の御墓に、人に具して参りたりけるに、露のふかりければ」とある。近衛院は近衛天皇(1139―1155年)で、3歳で即位し、17歳で崩御した。西行法師が38歳の出来事で、その葬送に参列しての歌で、近衛天皇の後は後白河天皇が即位する。歌の意味は、「玉のように磨かれた御所を出て、露の深い野辺にお移りなったのは、見るのも悲しい」となり、若き帝の薄命を哀れみ追悼した。
121番、「今宵こそ 思ひしらるれ 浅からぬ 君に契の ある身なりけり」
出典・『山家集』の哀愁歌の16番目の歌で詞書に「一院かくれさせおはしまして、やがて御所へ渡しまゐらせける夜、高野より出であひて参りたりける、いと悲しかりけり。此後おはしますべき所御覧じはじめけるそのかみの御ともに、右大臣さねよし、大納言と申しけるきぶらはれける、しのばせおはしますことにて、又人さぶらはざりけり、其をりの御ともにさぶらひけることの思ひ出でられて、折しもこよひに参りあひたる、昔今のこと思ひつづけられてよみける」とある。「一院」は、鳥羽法皇(1103―1156年)のことで、北面武士であった時代に仕えた主君である。「右大臣さねよし」は、徳大寺実能(1096―1157年)で、保延2年(1136年)に大納言に昇進している。西行法師39歳の時で、法皇の遺骸が安楽寿院に移された折に葬送に立ち会ったのであった。この歌は、「今宵の葬送に参列して浅からぬ因縁が思い出される。大君とは出仕し契りある身であった」と、男色関係にあったことを匂わせているようにも感じられる。当時の西行法師は18歳、鳥羽院は33歳であった。
鳥羽法皇の没後、崇徳上皇(1119―1164年)と、後白河天皇(1127―1192)との間で、保元元年(1156年)7月に「保元の乱」が勃発する。摂関家の内紛の一面もあったが、政僧の信西(1106―1160年)や平清盛などを味方に付けた後白河天皇方が勝利して、西行法師と関わりのあった崇徳上皇方の左大臣・藤原頼長(1120―1196年)は敗死している。
122番、「かかる世の 影もかはらず すむ月を みる我が身さへ 恨めしきかな」
出典・『山家集』の雑歌121番目の歌で、詞書には「世の中に大事出できて、新院あらぬさまにならせおはしまして御ぐしおろして、仁和寺の北院におはしましけるに参りて、けんげんあざり出であひたり。月あかくてよみける」とある。「世の中の大事」は、保元の乱のことで、敗北した崇徳上皇は、新院から仁和寺北院(喜多院)に移り蟄居していた。「けんげんあざり」は、兼賢阿闍梨(生没年不詳)のことで、西行法師と面会したようである。その時に詠んだ歌で、「乱世となっても澄んだ月の影は変わらない様を見ると、どうしようも出来ない自分自身が恨めしく思われる」と、崇徳上皇を助けてやれない無力さを詠んだ。
123番、「世の中を そむく便や なからまし うき折ふしに 君があはずば」
出典・『山家集』の雑歌122番目の歌で、詞書には「讃岐にて,御心ひきかへて、後の世のこと御つとめひまなくせさせおはしますと聞きて、女房のもとへ申しける。此文をかきて、若人不嗔打以何修忍辱」とある。詞書終りの漢文には、「若し人が怒って自分を打つことがあれば、何を以て忍辱を修めるのか」とある。崇徳上皇は、仁和寺から讃岐に流刑となるが、その処遇に対する自重を促した文にも見える。また、上皇は讃岐配流後からは、「崇徳院」と称されるようになっていた。この歌は、「この世の中から離れ仏道にお入りになったのは、大君が憂き目に遭われたことが良いきっかけででしょう」と、出家した崇徳院を励ます歌を女官を介して讃岐に送るのであった。讃岐院は38歳、西行法師は39歳の時である。
124番、「浅ましや いかなるゆゑの むくいにて かかることしも ある世なるらむ」
出典・『山家集』の雑歌123番目の歌で、詞書には「是もついでに具して参らせける」とある。この歌も崇徳院の不遇に対して同情する歌で、「嘆かわしいな、どんな理由の配流になってしまったのか、有り得ないことが起きる世の中となってしまった」と、詠んだのである。天皇経験者が流刑されたのは、淳仁天皇を始めに崇徳院が2人目で、その後の前例となってしまった。
125番、「ながらへて つひに住むべき 都かは 此世はよしや とてもかくても」
出典・『山家集』の雑歌124番目の歌で、詞書は124番の歌と一緒で、高野山で同時期に詠まれた歌と推定した。この歌は、「いくら長生きしても永久に住む都ではないのだから、結局はところは現世はこれで良しと思いたい」と、来世の幸福に期待する気持ちが込められているようた。「一度限りの人生は、その長短に非ず」とも読み取れる。
126番、「幻の 夢をうつつに 見る人は めもあはせでや 夜をあかすらむ」
出典・『山家集』の雑歌125番目の歌で、詞書は124番の歌と一緒である。この歌も世の中のことを詠んでいて、「今生の世を夢や幻の現と見る人は、不眠に悩まされて夜を明かすことが多いだろう」と、現実に目を向けることを勧めている。その反面、豊臣秀吉(1537―1598年)と徳川家光(1604―1651年)は、人生は夢のようだったと時世の和歌に詠じた。
127番、「かさねきる 藤の衣を たよりにて 心の色を 染めよとぞ思ふ」
出典・『山家集』の哀愁歌の19番目の歌で詞書に「右大将きんよし、父の服のうちに、母なくなりぬと聞きて、高野よりとぶらひ申しける」とある。「右大将きんよし」は、徳大寺公能(1153―1161年)で、父・実能が保元2年(1157年)に68歳で亡くなって喪に服していた時に、弔う意味の歌を詠んだ贈答歌である。「母の死、父の死と、喪服を重ねて着ていたことを聞きました。今度は墨衣に替えて仏道に帰依したらいかがですか」と、西行法師は出家を促した歌でもある。
かへし、「藤衣 かさぬる色は ふかけれど あさき心の しまぬばかりぞ」 徳大寺公能
西行法師から出家を勧められた公能は、「度重なる親の死に藤衣の色は深くなりましたが、私の心は浅くて出家まで至りません」と、返した。公能はその後、右大臣まで昇進するが、返歌を詠んだ4年後の応保元年(1161年)に47歳で没している。
128番、「たのもしな 雪を見るにぞ 知られぬる つもる思ひの ふりにけりとは」
出典・『聞書集』の234番目の歌で、詞書には「醍醐に東安寺と申して、理性房の法眼の房にまかりたるけるに、にはかにれいならぬことありて、大事なりければ、同行に侍りける上人たちまで来あひたりけるに、雪のふかく降りたるけるを見て、こころに思ふことありてよみける」とある。「理性房の法眼」は、理性院の開祖賢覚で、「同行の上人」は、西住法師である。西住法師は、義清時代の北面武士の先輩で、出家した時期が一緒である。西行法師が寺で病に倒れたと聞いて、西住法師が見舞い訪ねてくれた。その折、「わざわざ来てくれて頼もしく嬉しい、雪が降り積もっているのは貴方の思いやりのようだ」と詠じた。
かへし、「さぞな君 こころの月を みがくには かつがつ四方に ゆきぞしきける」 西住法師
「それは君が心の月を磨いたことで、一面の雪となって美しく現れたのだよ」と、同性愛者とも目される西行法師を労わった。
東山双林寺西行庵(ウェブのコピー) 鴨川納涼床(ウェブのコピー)
(6)、京・東山の草庵(39歳―41歳)
西行法師が39歳になった頃、高野山を離れて京に暫く滞在したようで、この時期を「京・東山の草庵」として区分した。西行法師にとっては、保元の乱後の京の情況を視察する意味もあっただろうし、崇徳院の開催していた歌会サロンの歌人たちと交わることも念頭にあったと推察する。高野山に身を置く立場としては、京の政局を把握して高野山に伝える情報員の役割を担っていたとも思う。その一方、勧請聖としての活動にも余念がなかっただろう。
この頃の京では、源氏の内部紛争があって、源義朝が父の為義や弟の頼賢を討つのである。また、後白河天皇が二条天皇に譲位して、上皇となって院政を始めるのであった。後白河上皇の信任を得ていた同輩の平清盛は、正四位下の官位と、播磨守の官職を得ていた。保元元年(1156年)には、清盛が父・忠盛の高野山復興の事業を継承して大塔を落成させている。
東山には過去、雙林寺や長楽寺に草庵を結んでいたが、再度の滞在での草庵は定かではない。真言宗の高野山に入ってから天台宗寺院との関わりが薄くなったような傾向がある。現在、「西行庵」として再建された建物は、丸山公園近くの双林寺の飛び地ある。確固たる確証はないが、東山周辺で詠まれた歌、京山城の隣国で詠まれた歌などを採録してみたい。
129番、「音羽山 いつしか峰の 霞むかな 待たるる春は 関越えにけり」
出典・『松屋本山家集』の春歌の1番目の歌で、詞書には「春立心を、人々五首よみけるに」とある。「音羽山」は、標高593mの弓形をした山で清水寺の山号ともなっている。歌の内容は、「音羽山の峰にいつの間にか霞がかかり、待ちわびていた春が逢坂の関を越えて来たようだ」となる。音羽山は歌枕でもあって、清水寺では年越しに参籠したと釈教歌の詞書にあった。
130番、「いつしかも 春きにけりと 津の国の 難波の浦を 霞こめたり」
出典・『山家集』の春歌5番目の歌で、詞書には「難波にわたり年超えに侍りけるに、春立つこころをよみ」とある。「津の国」は、摂津国の略で、「難波の浦」は、難波津とも呼ばれた歌枕である。この歌の初句が『西行全歌集』では「いつしかと」となっているが、「いつしかも」の方がしっくりと読める。「何時の間にか春が来たようだ。津の国の難波の浦には霞が立ち籠めている」と、音羽山と対照的な海辺の春霞を詠んでいる。
131番、「わきて今日 あふさか山の 霞めるは 立ちおくれたる 春や越ゆらむ」
出典・『山家集』の春歌6番目の歌で、詞書には「春になりける方たがへに、志賀の里へまかりける人に具してまかりけるに、逢坂山の霞みたりけるを見て」とある。「逢坂山」は、逢坂の関があった山で歌枕でもある。「志賀の里」は、琵琶湖西南岸や南滋賀地方を指すようだ。詞書に道の方向を違えたとあるので、「とり分けて今日は、逢坂山が霞んで見えるのは、遅れて来た春が山を越えているようた」と、遠い昔に霞のように消えた志賀の都(大津京)に偲んだのかも知れない。
132番、「春たつと 思ひもあへぬ 朝とでに いつしか霞む 音羽山かな」
出典・『山家集』の春歌9番目の歌で、「立春の朝よめける」と題した5首の3番目の歌でもある。この歌は、「まだ春が来ると思っていなかったが、朝方の音羽山には春の霞が立っているようだ」と、129番の歌とは異なり、思わぬ春の訪れを詠んでいる。西行法師の歌は、花や月に限らず、気象現象を詠んだ歌も多く、特にぼんやりと見える霞を好んで詠んだ。
133番、「見る人に 花も昔を 思ひ出でて 恋しかるべし 雨にしをるる」
出典・『山家集』の春歌106番目の歌で、詞書には「上西門院の女房、法勝寺の花見られけるに、雨のふりて暮れにければ、帰られにけり。又の日、兵衛の局のもとへ、花の御寺おもひ出させ給ふらむとおぼえて、かくなむ申さまほしかりし、とて遣しけるに」とある。「上西門院」は、鳥羽天皇と待賢門院との第2皇女・統子内親王で、「兵衛の局」はその女房(女官)ある。「法勝院」は、白河天皇が建立した寺で高さ約80mの八角九重塔が聳えていた。この歌は、「花を見る人を、花も昔を思い出して、恋しく思っているはずで、その涙のように雨がしみじみと感じられる」と、桜の花を擬人化している。
かへし、「いにしえを 忍ぶる雨と 誰か見む 花もその世の 友しなければ」 上西門院兵衛
「昔を偲ぶような涙の雨と誰が見るのでしょう。花も昔の友と一緒だったと思いたいものです」と、法師の意を汲んで返した。
134番、「ちるを見て 帰る心や 桜花 むかしにかはる しるしなるらむ」
出典・『山家集』の春歌112番目の歌で、詞書には「世をのがれて東山に侍る頃、白川の花ざかりに人さそひければ、まかり帰りけるに、昔おもひ出でて」とある。詞書からすると、出家間もない頃の作と思われるが、人を誘って花見をしたとあるので、精神的に余裕のあった頃と推定した。「白川」は、白河法皇の御所・白河北殿があった場所で、法皇の後は上西門院の御所となっていた。この歌は、「散る花を見終えると、桜の花から心が身体に帰って来て、昔と変わってしまった印なのだろうか」と、桜の花に対する心境が年々変化している様子を詠んでいる。
135番、「春風の 花をちらすと 見る夢は 覚めても胸の さわぐなりけり」
出典・『山家集』の春歌233番目の歌で、詞書には「夢中落花といふことを、前斎院にて人々よみけるに」とある。「斎院」は、現在の京都御所近くにあった清和院(勢賀院)とされる。平明な歌でも奥深く、「春風が花を散らしている夢は、夢から覚めた後も胸騒ぎする」と、花の散る哀しみをトラウマのように夢にも浮かんだようだ。
136番、「古郷の 昔の庭を 思ひ出でて すみれつみにと 来る人もがな」
出典・『山家集』の春歌245番目の歌で、「菫」と題した3首の中の1首でもある。西行法師が思い出した「古郷」は、生まれ故郷の紀伊の国の田仲庄であろう。「故郷の昔の庭を思い出すと、スミレを摘みに来る人が居てくれればいいのに」と、スミレの花があまり見向きをされない様子を詠じた。「花鳥風月」に対する興味や好奇心は旺盛で、西行法師に学ぶことが多い。
137番、「その折の 蓬がもとの 枕にも かくこそ虫の 音にはむつれめ」
出典・『山家集』の秋歌93番目の歌で、詞書には「もの心ぼそう哀なる折しも、庵の枕ちかう虫の音きこえければ」とある。『山家集』では、秋歌が318首も収められていて、春歌の260首を大きく上回っている。秋歌が多いのは、西行法師が好む題材が豊富であったことに尽きる。「その折」は、自分が死ぬ時のことを意味し、旅寝して野垂れ死する様子が想定される。「死ぬ折は、ヨモギの草の枕にあっても、このような虫の鳴き音を睦ましく聞くであろう」と、草庵の枕辺で聞いた印象を詠じた。
138番、「ゆくへなく 月に心の すみすみて 果てはいかにか ならむとすらむ」
出典・『山家集』の秋歌218番目の歌で、「月の歌あまたやみけるに」と題する42首の17番目にある。この歌は、「行方が定まらない自分ではあるが、月を見ると心が月に澄まされる。その澄んだ果ての心はどうなるのだろうか」と、月に寄せる思いを定まっていない様子を詠んでいる。当時は、月に住む「桂男」の伝説もあって、そのことが脳裏にあっても不思議でない。
139番、「天の原 朝日山より 出づればや 月の光 昼にまがへる」
出典・『山家集』の秋歌224番目の歌で、「月の歌あまたよみけるに」と題した42首の23番目の歌でもある。「天の原」は、広々とした大空を意味し、「朝日山」は、京都府宇治市にある標高124mの歌枕の山で、宇治川右岸に位置する。この歌は、「大空の中、小高い朝日山から昇る月の光は昼に紛うばかりに明るい」と、朝日山の名のある月の明るさを強調した。
140番、「よもすがら をしげなく吹く 嵐かな わざと時雨の 染むる紅葉を」
出典・『山家集』の冬歌1番目の歌で、詞書には「長楽寺にて、夜紅葉を思ふといふことを人々よみけるに」とある。「長楽寺」は、現在の東山区丸山にある時宗の寺で、当時は延暦寺の別院であった。そこでの歌会の歌で、「一晩中、惜しげもなく吹く嵐となり、いたずらな時雨が降って紅葉を白く染める」と詠んだ。『西行全歌集』では、結句が「染むる梢を」となっている。
141番、「かきこめし 裾野の薄 霜がれて さびしさまさる 柴の庵かな」
出典・『山家集』の冬歌27番目の歌で、詞書に「山家枯草といふ事を、覚雅僧都の坊にて人々詠けるに」とある。覚雅僧都(1090―1146年)は、東大寺小僧都で、この頃には小野の里に草庵を結んでいたと考えられる。「かきこめ」は、垣籠めと表記される垣根である。覚雅僧都の坊舎で歌会があったようで、山家枯草が歌題となっていた。「垣根に裾野のススキを植えたが霜枯れてしまい、客が帰った後は寂しさが増すばかりの草庵である」と、自分の草庵で詠んだ歌を披露した。
142番、「年暮れし そのいとなみは 忘られて あらぬさまなる いそぎをぞする」
出典・『山家集』の冬歌118番目の歌で、詞書には「東山にて人々年の暮に思ひをのべけるに」とある。東山の草庵で年末を迎えての歌で、「年が暮れたが、世俗の恒例行事は忘れてしまって、僧形の様となって今は仏事の準備に忙しい」と詠んだ。出家してから世俗の風習に疎くなったようで、忙しいと言う情況から何処の寺で正月の準備をしていたのであろう。
143番、「おのづから いはぬをしたふ 人やあると やすらふ程に 年の暮れぬる」
出典・『山家集』の冬歌121番目の歌で、詞書には「歳暮に人のもとにつかはしける」とある。歌の意味は、「こちらから言わなくても慕ってくれる人がいると思ってぐずぐずしていると、もう年も暮れてしまった」と解釈する。この歌は、『新古今集』にも選ばれていて評価が高いようで、自分自身を冷静に見て率直に詠んでいる。
144番、「宇治川の 早瀬おちまふ れふ船の かづきにちかふ こひのむらまけ」
出典・『山家集』の雑歌254番目の歌で、詞書には「宇治川をくだりける船の、かなつきと申すものをもて鯉のくだるをつきけるを見て」とある。「れふ船」は漁船で、「かづき」は、金突と漢字表記される漁具で、銛やヤスなどを指すようだ。宇治川で鯉漁を見ての歌で、「早瀬を落ちて舞う漁船からは、鯉の群に銛が交差するように投げ込まれた」と、殺生する様子を詠んだ。
145番、「鳥部山 わしの高嶺の すゑならむ 煙を分けて 出づる月かげ」
出典・『山家集』の哀愁歌75番目の歌で、詞書には「鳥部野にてとかくのわざしける烟のうちより山づる月おはれに見えければ」とある。東山の鳥部野は、奥嵯峨の化野、船岡山の蓮台野と並ぶ「京の三大葬地」と称された。この歌は、釈迦が説法した霊鷲山を「わしの高嶺」と呼び、その末に鳥部山も連なることを念頭に上の句(長句)を詠み、「荼毘に付した煙りを分けて月が出て、月影が美しく輝いている」と、月の加護もあることを下の句(短句)を詠んでいる。
おくり、「寺つくる 此我が谷に つちうめよ 君ばかりこそ 山もくづさめ」 観音寺入道生光
出典・『山家集』の釈教歌7番目の歌で、詞書には「定信入道、観音寺に堂つくりに結縁すべきよし申しつかはすとて」とある。「定信入道」は、能書家の藤原定信(1088―1156年)で、「観音寺」は、現在の東山区泉涌寺にあるの今熊野観音寺とされている。この歌は、定信が観音堂を建てるに当たり、西行法師と交わした贈答歌で、「寺を造るので、私の土地の山を崩してこの谷に土を埋めて下さい」と、高野山の復興にも関与した土木技術を知って西行法師に依頼するのである。
146番(かへし)、「山くづし 其力ねは かたくとも 心だくみを 添へこそはせめ」
「山を崩すほど大きな力はないですが、様々な工夫をして力添えをしましょう」と、少し控えめな歌で返した。
147番、「つらなりし 昔に露も かはらじと 思ひしられし 法の庭かな」
出典・『山家集』の釈教歌9番目の歌で、詞書には「阿闍梨勝命、千人あつめて法華経結縁せさせけるに参りて、又の日つかはしける」とある。「阿闍梨勝命」は、俗名が藤原親重(1112―1187年頃)で62歳頃に出家し、千僧供養の結縁で出会ったようである。この歌は、釈迦が霊鷲山で説かれた法華経を念頭に、「昔につらなる説法は甘露のように変わらないと、思い知らされるような庭訓の教えでもあった」と、法華経の有難さを詠じた。
148番、「神の代も かはりにけりと 見ゆるかな 其ことわざの あらずなるにて」
出典・『山家集』の神祇歌の9番目の歌で、詞書には「北まつりの頃、賀茂に参りたりけるに、折うれしくて侍たるる程に、使まゐりたり。はし殿につきてついふしをがまるるまではさることにて、舞人のけしきふるまひ、見し世のことともおぼえず、あづま遊にことうつ陪従もなかりけり。さこそ末の世ならぬ、神いかに見給ふらむと、恥じきここちしてよみ侍りける」とある。詞書を要約すると、「賀茂祭を見物して嬉しく思ったは、朝廷の勅使が来て橋殿で平伏し礼拝するまでは昔のままであった。けれど舞人の衣装、振舞いは昔のものとは思われず、東国の舞楽で琴打つ陪従がいない。末法の世とは言え、神様はいかにご覧になるかと思うと恥ずかしい気分となって歌を詠みました」となる。歌に関しては、詞書をまとめて、「神の時代も変わったと見え、祭りの神事も昔の様ではない」と、戦乱で衰退する神社の情況を詠んでいる。
149番、「いとへただ つゆのことをも 思ひおかで 草に庵の かりそめの世ぞ」
出典・『聞書集』の114番目の歌で、詞書には「東山に清水谷と申す山寺に、世遁れて籠りゐたりける人の、れいならぬこと大事なりと聞きて、とぶらひにまかりたるに、あとのことなど思ひ捨てぬやうに申しおきけるを聞きてよみ侍りける」とある。「清水谷の山寺」は、おそらくは清水寺か清閑寺と思われる。そこに隠遁していた無名の僧が急死したことを聞いて弔いに尋ねた時に詠まれた歌である。「現世をただ厭うのは、露のように今日ある命が明日はないことで、草庵の暮らしも仮の世界なんだ」と、隠者の死に対する持論の哲学を詠嘆した。
150番、「比良の山 春も消えせぬ 雪とてや 花をも人の たづねざるらん」
出典・『聞書集』の248番目の歌で、詞書には「花雪に似たりといふことを、ある所にてよみけるに」とある。「比良の山」は、琵琶湖西岸に連なる山塊で、標高ⅰ214mの武奈ヶ嶽が最高峰である。西行法師は、大峯奥駈道を2度も踏破した健脚の持ち主であって、実際に比良山に登って詠んだ歌であろう。この歌は平明で、「比良の山には、春でも消えない雪があると思われるが、それが花であることを知らず、訪ねず去る人がいる」と、歌枕でもある山の人気のなさを詠じた。
151番、「物思ひて 結ぶたすきの おびめより ほどけやすなる 君ならなくに」
出典・『残集』の37番目の歌で、詞書には「北白川の基家の三位のもとに、行蓮法師に逢ひにまかりたりけるに、心にかなはざる恋といふことを、人々よみけるにまかりあひて」とある。「基家の三位」は、藤原基家(1132―1214年)で官位は正二位まで昇進した。「行蓮法師」は、法橋行遍(生没年不詳)の誤りともされる。基家邸の歌会では、叶わぬ恋が歌題に詠まれ、「君を思って心の中で結ぶ襷の帯目は固く締まっていますが、君の心はつれなく帯目が寄り解け易くなってます」と法師は詠じた。
152番、「さ夜ふけて 月にかはづの 聲きけば みぎはもすずし 池のうきくさ」
出典・『残集』の38番目の歌で、詞書には「忠盛の八條の泉にて、高野の人々仏かきたてまつることの侍りけるにまかりて、月あかかりけるに池に蛙の鳴きけるをききて」とある。「忠盛」は、平清盛の父・平忠盛(1096―1153年)で、その屋敷である八條の屋敷(六波羅館)を尋ねての歌である。高野山にゆかりある人々が集い、仏画を描いて月見をした様子に見える。歌の意味は、「夜も更けて、輝く月に呼応して蛙の鳴く声を聞くと、池の浮草と同様に涼しく感じられる」と解釈する。平清盛は、あまり和歌に興味も素養もなかったようで、彼の詠んだ歌は殆ど無きに等しいのが残念に思われる。
高野山奥ノ院御廟橋(令和3年撮影) 高野山弁天社(平成22年撮影)
(7)、高野山へ再入山 (41―50歳)
西行法師の行動が確証されるのは、仁安2年(1167年)に四国順礼と西国の旅に出立したことである。それまでの約9年間は、再び高野山を拠点として活動したと推測される。42歳の平治元年(1159年)12月には、有名な「平治の乱」が勃発しした。後白河上皇の院政派と二条天皇の親政派の対立で、院政派の権力者であった信西(藤原通憲)が討たれ、後白河上皇は仁和寺に幽閉された。翌年になると、熊野参詣から帰京した平清盛は、信西に厚遇されたこともあって蜂起し、首謀者の藤原信頼と源義朝らを放逐した。それによって平家一門の権力は増し、後白河上皇は法皇となって院政に返り咲いた。
応保元年(1161年)に左京太夫となった藤原俊成が高野山を訪ね、歌会が催された。応保2年には、蹴鞠の師匠でもあった藤原成通が62歳で没している。長寛2年(1164年)には、崇徳院が配流先の讃岐で46歳で崩御した。生前の崇徳院とは、女房(女官)を介して和歌の贈答を行っていたようで、随分と落胆したことであろう。永万元年(1165年)には、二条天皇が23歳で崩御し、六条天皇が1歳で即位すると言う異常な皇位継承が朝廷で行われた。高野山西麓の橋本には、頻繁に止宿した永楽寺があるが、天野の里には西行法師の妻女が尼僧となって住んでいた草庵(現・西行堂)もあって往来したようである。
153番、「なれきにし 都もうとく なり果てて 悲しさ添ふる 秋の暮かな」
出典・『山家集』の秋歌280番目の歌で、詞書には「秋の末に寂然高野にまゐりて、暮の秋によせておもひをのぺけるに」とある。寂念(1118―1173年頃)は、西行法師と同年代で、俗名は藤原頼業、官位官職は従五位の壱岐守、36歳頃に出家している。寂然に対して、「住み慣れた都も疎くなって、秋も暮れて来ると悲しさが寄り添います」と、親しみを込めて詠んだ。
154番、「雪深く うづめてけりな 君くやと 紅葉の錦 しきし山路を」
出典・『山家集』の冬歌94番目の歌で、詞書には「秋の頃高野へまゐるべきよしたのめて、まゐざりける人のもとへ、雪ふりてのち申し遣しける」とある。一緒に高野山に参ろうと頼んだのは、西住法師だったのでは推測する。「君くやと」は、「君来や」と、『西行全歌集』にある。他に難解な言い回しはなく、「雪が深く埋まったようで、君が来れなくなったは残念だが、今度は冬ではなく、紅葉の錦を敷いた山道を歩きたい」と、詠んで贈ったと解釈する。
155番、「あまくだる 名を吹上の 神ならば 雲晴れのきて 光あらはせ」
出典・『山家集』の羈旅歌145番目の歌で、詞書には「小倉をすてて高野の麓に天野と申す山に住まれけり。おなじ院の帥の局、都の外の栖とひ申さではいかがとて、分けおはしたりける、ありがたくなむ。帰るさに粉河へまゐられけるに、御山よりいであひたるけるを、しるべせよとありければ、ぐし申して粉河へまゐりたりける、かかるついでは今はあるまじきことなり、吹上みんといふこと、具せられたりける人々申し出でて、吹上へおはしけり。道より大雨風吹きて、興なくなりにけり。さりとてはとて、社にこしかきすゑて、思ふにも似ざりけり。能因が苗代水にせきくだせよとよみていひ伝へられたるものをと思ひて、社にかきつけける」とある。詞書を要約すると、「京の小倉から高野山麓の天野に中納言の局は移住していた。同じ待賢門院に仕えていた帥の局が都から訪ねて来た。帰りに粉河寺に詣でることになって、西行法師が案内役を頼まれる。折角来たのだからと吹上を訪ねると、途中から風雨となってがっくりする。吹上神社に着いても為す術もなく、能因法師の和歌を思い出して神社の書き付けた」とある。そして、「天下り吹上の名で鎮座する神ならば、嵐を退けて日の光を現し給え」と詠んだ。
166番、「こととなく 君こひ渡る 橋の上に あらそふものは 月の影のみ」
出典・『山家集』の羈旅歌150番目の歌で、詞書には「高野の奥の院の橋の上にて、月あかかりければ、もろともに眺めあかして、その頃西住上人京へ出でにけり。その夜の月忘れがたくて、又おなじ橋の月の頃、西住上人のもとへいひ遣しける」とある。高野山奥ノ院の御廟橋で西住法師と眺めた月が忘れられなかったようで、再び同じ場所で月を眺めて歌を詠み贈った。「何気なくあなたを恋しく思われ、一緒に渡った橋の上で眺めた月と競うものは、今日の月影だけです」と、月影と西住法師の面影を重ねて詠んだ。この歌と詞書から推察して、高野山に再入山した頃の作と思われる。
かへし、「思ひやる 心は見えで 橋の上に あらそひけりな 月の影のみ」 西住法師
「私を心配していると思ったら、あなたの心に見えるのは橋の上で競い合う二つの月のようですね」と返す。この贈答歌から2人の親密さから同性愛の歌と評されるが、現在でも男色は裏社会で存在しているので、目くじらを立てる問題でもないと思う。
157番、「山ふかみ さこそあらめと きこえつつ 音あはれなる 谷川の水」
出典・『山家集』の羈旅歌152番目の歌で、詞書には、「入道寂然大原に住み侍るけるに、高野より遣しける」とある。この歌は、寂然との贈答歌で、「山ふかみ」の初句を10首を贈り。寂然からも「大原の里」と結句された10首が返答されている。
「高野山は山深いので、そうであろうと聞いたが、やはり谷川の水の音は哀れに感じられます」と、高野山の山の様子を伝えた。
かへし、「あはれさは かうやと君も 思ひ知れ 秋暮れがたの 大原の里」 寂然法師
「哀れさは高野と同じと、あなたに思い知って欲しいものです。秋の暮れの大原の里もね」と返した。
おくり、「おどろかす 君によりてぞ 長き夜の 久しき夢は さむべかりける」 藤原成通
出典・『山家集』の雑歌87番目の贈答歌で、詞書には「侍従大納言のもとへ、後の世のことおどろかし申したりける返りごとに」とある。「侍従大納言」は、藤原成通(1097―1162年)のことで、西行法師よりも21歳も年長であった。蹴鞠の名手で、西行法師も師と仰ぎ学んだ。法師の勧めもあって保元元年(1159年)に出家し、3年後に没している。成通の贈りの歌は、「君のお陰で気付かせてもらったよ。長い夜の久しい夢もいずれは覚めることを」と詠んだ。
158番(かへし)、「おどろかぬ 心なりせば 世の中を 夢とぞかたる かひなからまし」
「気付きない心のままでいるならば、世の中を見て来た多くの夢を語っても甲斐のないことと思います」と返した。
159番、「いとふべき かりのやどりは 出でぬなり 今はまことの 道を尋ねよ」
出典・『山家集』の雑歌118番目の歌で、詞書には「前大納言成通世をそむきぬと聞きて、遣しける」とある。藤原成通は60歳の時、正二位大納言に昇進するが、出家したために前大納言と詞書に記された。「世をそむきぬ」とは、官位官職を捨てて出家したことを意味する。その事を念頭に解釈すると、「俗世は厭うべき仮の宿りに他なりません。これからは仏道に専念して人の真の道を探して下さい」となる。知り合いの公家たちに出家を勧めて来た西行法師にとって、面目だけは保たれたようだ。
160番、「いかでわれ こよひの月を 身にそへて しでの山路の 人を照らさむ」
出典・『山家集』の雑歌189番目の歌で、詞書には「七月十五日月あかかるけるに、舟岡と申す所にて」とある。「舟岡」は、京都市上京区にある船岡山で、当時は埋葬地となっていた。この歌は分かり易い歌で、「何とかして私は、今宵の月に身を添えて死出の山路を越え行く人を照らしたいものだ」と、盂蘭盆会に死者の霊魂を救済したい気持ちを詠んでいる。
161番、「今日の君 おほふ五つの 雲はれて 心の月を みがき出づらむ」
出典・『山家集』の哀愁歌14番目の歌で、詞書には「美徳院の御骨、高野の菩提心院へわたされけるを見たてまつりて」とある。「美徳門院」は、本名が藤原得子(1117―1160年)で、鳥羽天皇の皇后となって、近衛天皇を産んでいる。「五つの雲」は、青・赤・黄・白・黒の五色の雲を指すが、この歌では女性の持つ五障を意味しているようだ。「今日のあなたは、女性が負う五障の雲が晴れて、お心に宿しておられた月のような仏性を磨いて照らすのでありましょう」と、美徳門院の輝きを詠んだ。
162番、「今宵君 しでの山路の 月をみて 雲の上をや 思ひいづらむ」
出典・『山家集』の哀愁歌27番目の歌で、詞書には「五十日の果つかたに、二條院の御墓に御佛供養しける人に具して参りたりけるに、月あかく哀なりければ」とある。「二條院」は、二条天皇(1143―1165年)で、17歳で即位し、23歳で崩御した。その五十日供養に参列した際の歌で、西行法師が48歳となった時の作である。この歌は、「今宵の大君は、死出の山路で月をご覧になり、雲の上のような宮廷を思い出しておられることでしょう」と、極楽往生した様子を詠んでいる。
163番、「かくれにし 君がみかげの 恋しさに 月に向ひて ねをやなくらむ」
出典・『山家集』の哀愁歌28番目の歌で、詞書に「御跡に三河内侍さぶらひけるに、九月十三夜入にかはりて」とある。「三河内侍」は、生没年は不詳であるが、二條院に仕えていた女官で歌人でもあった。また、西行法師の盟友・伊賀入道寂然の娘ともされる。この歌は三河内侍との贈答歌で、「亡くなった二條院のお姿の恋しさに、そのお住いになる月に向って声を上げて泣いておられることでしょうか」と、三河内侍に気遣う歌を贈った。
かへし、「我が君の 光かくれし 夕べより やみにぞ迷ふ 月はすめども」 三河内侍
「私の仕えた二條院が崩御してお隠れなった夕方より、光を失って闇路で迷っています。どんなに月が澄んでも私の心は晴れません」と、悲観に明け暮れる様子を詠んで西行法師に返答した。
164番、「流れゆく 水に玉なす うたかたの あはれあだなる 此世なりけり」
出典・『山家集』の哀愁歌45番目の歌で、「院の二位の局身まかりける跡に、十の歌、人々よみける」と題した中の1首目の歌でもある。「二位の局」は藤原朝子(?―1166年)で、藤原通憲こと僧・信西(1106―1160年)の妻でもあった。その二位の局が亡くなって詠まれた歌で、「流れ行く水に浮かぶ玉のような泡と同じで、哀れで儚いこの世の中である」と、あはれを泡に掛けている。何となく鴨長明の『方丈記』の序文を彷彿させ、後輩の長明はこの歌からヒントを得たとも思われる。
二度目の高野山での修行や暮らしも約9年を経て、空海大師の生誕地である善通寺と、崇徳院の御陵のある讃岐の国を訪ねることが脳裏を過ったようである。また、平清盛と一族が「法華経」を書写して厳島神社へ奉納したとの話を聞き、厳島神社を参拝したいと願ったようである。西行法師は既に,18年間も高野山で修行しているのに僧籍を得ていない。それは自由な立場で高野山と関わりたい一念があって、学侶方(学僧)・行人方(修行僧)・聖方(念仏僧)の高野三方では聖方に属していたようだ。
白峯寺(平成28年撮影) 厳島神社大鳥居(平成25年撮影)
(8)、四国順礼・西国の旅路(50歳―54歳)
西行法師が四国順礼に旅立ったのは、詞書にあるように仁安2年(1167年)10月10日と断定したい。50歳の時、賀茂社に参詣後で、大和、河内、摂津、播磨の国々をめぐり、四国の讃岐へと渡っている。讃岐の国では、松山の津に上陸し、崇徳院の白嶺陵を参拝した。その後は、空海大師の聖跡を訪ねた後、善通寺の塔頭玉泉院の久松庵(西行庵)と、曼荼羅寺附近の水茎の岡に草庵を結び、約3年間滞在することになる。滞在中は、仏道に専念したようで詠まれた歌が少ない。
四国からは、備前、備中、備後を経て安芸の国に行き厳島神社を詣でている。瀬戸内海の島々を和歌に詠んでいるので、往きは海路で厳島神社の宮島まで船で渡った可能性もある。安芸の国から先の西国の行脚は、何処まで実際にめぐったかは不明である。西行法師の伝承歌には、島根県大田市の三瓶山、福岡県宇美町の宇美八幡宮、佐賀県唐津市の松浦潟、大分県由布市の由布岳がある。また、鹿児島県日置市の吹上浜には、西行石があると聞く。これは和歌山県和歌山市にあった吹上浜を西行法師が訪ねたことに因んで、勝手に伝説化したものと推察する。伝承歌については、『山家集』や他の歌集にもないことから偽作として区別したい。従って、安芸の宮島が西国の旅路の終点地と考えたい。
165番、「かしこまる しでに涙の かかるかな 又いつかはと おもふ心に」
出典・『山家集』の雑歌272番目の歌で、詞書には「そのかみこころざしつかうまつりけるならひに、世をのがれて後も、賀茂に参りける、年たかくなりて四国のかた修行しけるに、又帰りまゐらぬこともやとて、仁安二年十月十日の夜まゐりて幣まゐらせけり。内へもまゐらぬことなれば、たなうの社にとりつぎてまゐらせ給へとて、こころざしけるに、木間の月ほのぼのと常よりも神さび、あはれにおぼえてよみける」とある。詞書の「たなうの社」は、上賀茂神社末社の棚尾社で、この社に参拝して長途の旅の安全を祈願したようだ。その時の気持ちを、「畏まり奉る幣には涙がかかるようです。無事に戻ってまた何時の日に参拝できるかどうかと思う心に対して」と、前途多難な旅を予想して詠ずるのである。
166番、「思へただ 暮れぬとききし 鐘の音は 都にてだに 悲しきものを」
出典・『山家集』の羈旅歌1番目の歌で、詞書に「旅へまかりけるに入相をききて」とある。旅立ちに際して聞いた入相の鐘で、具体的な寺は不明であるが、西行法師の旅を祝福するような鐘の音ではなかったようだ。「夕暮れに聞く鐘の音は、京のように栄えた都でも悲しい思いがする」と、祇園精舎の鐘の音を聞くように詠嘆した。
167番、「山城の みづのみくさに つながれて こまものうげに 見ゆるたびかな」
出典・『山家集』の羈旅歌57番目の歌で、詞書には「西の国のかたへ修行してまかり侍るとて、みづのと申す所に具しならひたる同行の侍りけるに、したしき者の例ならぬこと侍るとて具せざりければ」とある。詞書には、一緒に四国を含む西国に修行行脚する同行者がいた。しかし、同行者の親類に不幸があって引き返すことになった記している。「みづの」は、美豆野と表記される歌枕で、現在の京都市伏見区にあったとされる。この歌は、「山城の国の美豆野と言う牧場に馬が繋がれていたが、その物憂げな様子はこれから先の旅を見ているようだ」と、西住法師が引き返した寂しさを詠んだ。
168番、「何となく おぼつかなきは 天の原 かすみに消えて 帰る雁がね」
出典・『山家集』の春歌86番目の歌で、詞書には「霞中帰雁といふことを」とある。「天の原」は、地名ではなく、ここでも大空を意味する。この歌も何処で詠まれた歌かは、判然としないが霞中帰雁と題した歌は、蹴鞠の師匠・藤原成通も詠んでいる。また、初句の「何となく」は、曖昧な副詞であるが現在も一般的に使用されている。この「何となく」を西行法師は好んだようで、『山家集』で13首も初句に用いている。簡略すると、「何となく覚束ないは、大空に霞と消えて北に帰る雁の群のことある」とにる。春になって雁がシベリアに帰る渡り鳥との認識がなく、不思議に眺めた詠んだ様子である。
169番、「ま菅おふる 山田に水を まかすれば 嬉しがほにも 鳴く蛙かな」
出典・『山家集』の春歌240番目の歌で、詞書には「蛙」とある。「ま菅」は、真菅と表記され、奈良県橿原市に真菅の地名があって、万葉歌人の柿本人麻呂(660?―724年)が和歌にも詠んでいる。この歌は、真菅で実際に詠まれたかは定かでないが、「真菅の生えている山田に水を引くと、いかにも嬉しそうな顔をしてカエルが鳴くようだ」と詠じた。西行法師は、自分自身をカエルに喩えたようで、荒れた田んぼに水が張られて開墾される営みを喜ばしく感じだようだ。
170番、「庵に漏る 月の影こそ 寂しけれ 山田はひたの 音ばかりして」
出典・『山家集』の秋歌56番目の歌で、「人々秋の歌十首よみけるに」と題した8番目の歌でもある。室町時代の『風雅集』の秋歌にも選ばれている。この歌は旅路と無関係であるが、秀歌と思って採録した。「山田のひた」は、山の田んぼに張りめぐらした鳴子を引板と呼ぶようである。「草庵に月の影が入って来て静寂であるが、山の田んぼからは引板の音ばかりして風情なく騒がしい」と詠じた。草庵の側には田んぼがあって、山里の雰囲気が感じられ、嵯峨野の落柿舎を想起させる。
171番、「秋しのや 外山の里や 時雨るらむ 生駒のたけに 雲のかかれる」
出典・『山家集』の冬歌5番目の歌で、「時雨」と題して詠まれた4首の4番目の歌でもある。『新古今集』の冬歌にも選ばれた名歌でもある。「秋しの」は、奈良市北西部にある秋篠で、「外山の里」は、現在の奈良市中山町の古名のようである。「生駒のたけ」は、標高642mの生駒山で、弓形した歌枕の山でもある。その山を眺めて、「秋篠の外山の里には時雨が降ってくるのか、生駒の嶽に雲が懸かっているから」と、微妙な雲の動きを見て、現在の気象予報士のような歌を詠じた。
172番、「さびしさに 堪へたる人の 又もあれな いほりならべん 冬の山ざと」
出典・『山家集』の冬歌112番目の歌で、詞書には「冬の歌よみける中に」とある。この歌は今回の旅とは無関係であるが、『新古今集』にも選ばれた秀歌と思っているので、旅路の中に入れた。平明な歌ではあるが解釈すると、「冬の山里の暮らしの淋しさに堪えて来た私ではあるが、他にも堪えている人がいれば、草庵を並べて一緒に過ごしたいものだ」と詠んでいる。
173番、「かずかくる 波にしづ枝の 色染めて 神さびまさる 住の江の松」
出典・『山家集』の賀歌12番目の歌で、「祝」と題する13首の11番目の歌でもある。「住の江」は、歌枕で有名な摂津国の住之江で、現在の住吉大社附近にあった歌枕の松を詠んでいる。歌の意味は、「数多く打寄せる波に下枝は色が染まり、神々しく見える住の江の松です」と、眺めることを恋しく思って待っていた様子を掛けている。
174番、「住よしの 松が根あらふ 浪のおとを 梢にかくる 沖つしら波」
出典・『山家集』の神祇歌4番目の歌で、詞書には「俊恵天王寺にこもりて、人々具して住吉にまゐり歌よみ」とある。詞書の「俊恵」は、俊恵法師(1113―1191年頃)のことで、東大寺出身の歌僧である。その俊恵が天王寺に籠っていた頃、人々を伴い住吉神社で歌会を催したようで、西行法師も加わっていた。「住吉では松の根を洗うような波の音が聞こえるが、沖に風が立つと、梢にかかるほどの大波が打ち寄せる」と、詠んで歌会で披露したと思われる。
175番、「世の中を いとふまでこそ かたからめ かりのやどりの 惜しむ君かな」
出典・『山家集』の羈旅歌5番目の歌で、詞書には「天王寺にまゐるけるに、雨ふりければ、江口と申す所に宿を借りけるに、かさざりければ」とある。この歌は、江口の遊女との贈答歌で、雨宿りをさせて欲しいと西行法師が願うと断られしまった時の歌である。「あなたが世の中を厭う気持ちは、仮の宿さえ貸さないほど難いのですか」と、詠み贈った。
かへし、「家を出づる 人とし聞けば かりの宿に 心とむらと 思ふばかりぞ」 遊女妙
「あなたが出家した人と聞いて断ったのです。世の中を仮の宿と思うならば、雨宿りにも執着しない方が良いではと申し上げたい」と、返答するのである。西行法師が一本取られたようなエピソードで、童との贈答でも負かされた伝承が派生しいてる。『西行物語絵巻』でも欠かせないシーンとして描かれ、遊女の妙は仏門に入って亡くなった後に江口君堂に祀られたとされる。
176番、「あさからぬ 契の程ぞ くまれぬる 亀井の水に 影うつしつつ」
出典・『山家集』の羈旅歌8番目の歌で、詞書に「天王寺へまゐりて、亀井の水を見てよめる」とある。「天王寺」は、飛鳥時代の推古元年(593年)に聖徳太子が創建した日本最古の寺で、現在は四天王寺と称される。「亀井」は、現在も四天王寺中央伽藍の亀井堂内にある井戸である。聖徳太子は、井戸に映る顔を見て自画像を描いたと伝承される。「亀井の井戸には、浅からない仏縁の契りのほどが感じられる。自分の姿を水に映すと、飛鳥時代から続く仏法を汲み取れるようだ」と、詠じたと思う。
177番、「消えぬべき 法の光の ともし火を かかぐるわたの みさきなりけり」
出典・『山家集』の羈旅歌9番目の歌で、詞書には「六波羅太政入道、持経者千人あつめて、津の国わたと申す所にて供養侍りける、やがてそのついでに万燈会しけり。夜更くるままに灯りの消えけるを、おのおのともしつきけるを見て、」とある。「六波羅太政入道」は、平清盛のことで、嘉応2年(1170年)に清盛と共に出家した後白河法皇を福原の和田(輪田)に招いての法要であった。法皇44歳、清盛53歳の時で、清盛は既に太政大臣を辞していたが、朝廷の実権は握っていた。この歌は、一大イベントでもあった万燈会を見て、「灯し火の消えることのない万燈会は、仏法の光を遍く輝すように掲げられた大輪田の泊(港)である」と、大輪のようにリレーされる燈火の様子を詠んでいる。
178番、「津の国の 難波の春は 夢慣れや 蘆の枯葉に 風わたるなり」
出典・『山家集』の冬歌22番目の歌で、「題しらず三」にある1首で、摂津国難波(現・大阪市浪速区)の春を詠んでいる。この歌は、能因法師の本歌取で、「津の国の難波の春景色を詠んだ歌は、夢のように慣れ親しんだが、今は蘆の枯葉に風が渡って荒涼としている」と、憧れの春に訪ねられなかったことを無念に感じたようだ。
179番、「さゆる夜は よその空にぞ をしも鳴く こほりにけりな こやの池水」
出典・『山家集』の冬歌99番目の歌で、「冬の歌十首よみけるに」と題した4番目の歌でもある。「こやの池」は、兵庫県伊丹市にある昆陽池である。「をし」は、おしどり(鴛鴦)を縮めた名詞である。歌の意味は、「冴える渡る夜となって、鴛鴦は他所の空で鳴いているのだろう。昆陽の池の水は氷ってしまったのだから」となるので、池の周辺に暫く滞在した様子である。
180番、「津の国の 長柄の橋の かたもなし 名はとどまりて きこえわたれど」
出典・『山家集』の雑歌251番目の歌で、詞書には「長柄を過ぎ侍りしに」とある。「長柄の橋」は、飛鳥時代に旧淀川に架けられたと伝承される歌枕で、平安時代初期の仁寿3年(853年)頃に水害で廃絶したとされる。その旧跡を訪ね、「津の国の長柄の橋は跡形もなく消えていた。名前だけが聞こえ渡って歌枕として残っている」と、掛詞を交えて詠じた。
181番、「月さゆる 明石のせとに 風吹けば 氷の上に たたむしら波」
出典・『山家集』の秋歌241番目の歌で、「月の歌あまたよみける」と題した42首の40番目の歌でもある。鎌倉時代の『玉葉集』にも選ばれた秀歌である。「明石のせと」は、明石海峡の流れ早い瀬戸で、「氷の上」は、月の光を暗喩させている。「月の光が冴え渡る明石の瀬戸に風が吹くと、氷のような海面に幾重にも畳まれた白波が立っている」と、絵画的に詠んだ。
182番、「月を見て 明石の浦を 出る舟は 波のよるとや 思はざるらむ」
出典・『山家集』の秋歌279番目の歌で、「百首の歌の中、月十首」と題した3番目の歌でもある。「明石の浦」は、歌枕で有名で、近代では加茂川・塩釜浦・住吉浦・富士山・最上川・吉野山・和歌の浦と並び「日本八景」に選ばれた景勝地でもある。この歌は、明石の浦から舟に乗り込み詠まれたようで、「月を見ながら明石の浦を出港すると、波の寄る夜となるとは思わなかった」と、波の寄ると夜を駄洒落のような掛詞を詠み込んでいる。
183番、「小鯛ひく 網のかけ縄 よりめぐり うきしわざある しほさきの浦」
出典・『山家集』の羈旅歌53番目の「題しらず一」の4首の中の歌でもある。「しほの浦」は、淡路島にある潮崎の浦で、現在は兵庫県南あわじ市の温泉地となっている。この歌は、「小鯛を獲る漁は、曳き網とかけ綱による漁法であるが、それは殺生であって憂うべき業であるんだと知った潮崎の浦であった」と、複雑な気持ちを詠んでいる。鯛は神前にお供えする代表的な魚で、仏教徒の西行法師にとっては矛盾する問題であったと思われる。また、『西行全歌集』では、二句目が「網のうけ縄」となっていて、浮きを用いた漁とも受け止められるので、些細なことであるが、佐佐木信綱校正の『山家集』の精査が必要とされる。
184番、「播磨路や 心のすまに 関すゑて いかで我が身の 恋をとどめむ」
出典・『山家集』の恋歌121番目の歌で、「恋」と題する72首の中の46番目の歌でもある。「播磨路」は、現在の兵庫県で、「心のすまの関」は、奈良時代まであった須磨の古関のことで、歌枕であったことで心にあったようだ。この歌は解釈に困るが、「播磨路には須磨の関があって心に住まわせ据えて来た。何とか恋に気持ちが向うことをこの関跡で留めたいものだ」と、須磨の関に心の住む関を掛けて詠じたと思われる。その後、須磨一帯が源平の戦場となることは、予想外のことであったろう。
185番、「はりま潟 灘のみ沖に 漕ぎ出でて あたり思はぬ 月をながめむ」
出典・『山家集』の秋歌194番目の歌で、「月」と題する13首の6番目の歌でもある。「はりま潟」は、明石以西の海岸で、ここも歌枕であった。「灘」は、海流や潮流の速い場所で、「み沖」のみは水で沖の助詞であろう。歌の意味は平明で、「播磨潟の灘の沖に舟を漕ぎ出して、周辺を気にかけないで月を眺めたいものた」と、海上から見る月を風流に感じたようだ。
186番、「昔見し 野中の清水 かはらねば 我が影をもや 思ひ出づらむ」
出典・『山家集』の羈旅歌11番目の歌で、詞書には「播磨書写へまゐるとて、野中の清水を見けること、一むかしになりにける、年へて後修行すとて通りけるに、同じさまにてかはらざりければ」とある。「野中の清水」は、神戸市西区に現在もある清水で、歌枕として有名であった。「播磨書写」は、兵庫県姫路市にある書写山円教寺で、天台宗の西の大本山である。歌と詞書によると、若い頃にも修行行脚で野中の清水を通過したようである。その時を思い出して、「昔に見た野中の清水が変わらないと、池の清水に映る自分の影が変わったことも思い出せない」と、変わらずの清水とも称されたことに水を差している。
187番、「しきわたす 月の氷を うたがひて ひびのてまはる 味のむら鳥」
出典・『山家集』の羈旅歌18番目にある歌で、詞書に「讃岐の国へまかりて、みの津と申す津につきて、月のあかくて、ひびのてもかよはむほどに遠く見えわたりけるに、水鳥のひびのてにつきて飛びわたりけるを」とある。「ひびのて」は、篊の手と表記される漁具の一種で、「味のむら鳥」は、巴鴨の古名が味鴨で、その群である。「みの津」は、香川県三豊市に現在もある三野津のようだ。この歌は、「月の光が輝く海の上では、氷を敷いたように見える。その光景を疑ってか、味鴨の群は篊の手のまわりを飛んでいる」と詠じた。水鳥は漁の仕掛けから逃れた魚を狙って飛び回っていて、それを違った観点から見ている。
188番、「まつ山の 波のけしきは かはらじを かたなく君は なりましにけり」
出典・『山家集』の羈旅歌29番目にある歌で、詞書には「讃岐にまうでて、松山と申す所に、院おはしましけむ御跡尋ねけれども、かたもなかりければ」とある。「松山」は、香川県坂出市にあった松山の津で、崇徳院が配流された折の上陸地とされる。そこで詠まれた歌で、「この松山の波の景色は、変わることはない。崇徳院も変わることもなくお過ごしと思っていたのに、跡形もなくお亡くなられてしまった」と、松山の潟と跡形を掛詞に哀悼した。
189番、「よしや君 昔の玉の 床とても かからむ後は 何にかはせむ」
出典・『山家集』の羈旅歌30番目にある歌で、詞書には「白峰と申す所に、御墓の侍りけるにまゐりて」とある。崇徳院は、長寛2年(1164年)に46歳で崩御して、白峯陵に葬られた。その御陵を参った時の歌で、「たとえば大君よ、昔の玉座に座っていたと言えど、お亡くなられた今は何になるのでしょう」と、現世に執着しないで成仏して欲しいと願った。崇徳院の没後は、怨霊となって都に災いをもたらすと恐れられ、京では白峯神宮、讃岐では白峯寺に頓証寺殿が創建されて御霊を鎮めた。
190番、「くもりなき 山にて海の 月みれば 島ぞ氷の 絶間なりけり」
出典・『山家集』の羈旅歌31番目にある歌で、詞書には「同じ国に、大師のおはしましける御あたりの山に庵むすびて住みけるに、月いとあかくて、海の方くもりなく見え侍りければ」とある。「大師」は、真言宗開祖の空海大師であるが、「弘法」の諡号があるが、生前の諡で呼ぶのが正しく、「遍照金剛」である。大師号を付けるのであれば空海大師で、松尾芭蕉翁も『おくのほそ道』の俳文では、空海大師と称しているので、弘法大師ではなく、空海大師が相応しく思われる。「山の庵」は、標高481mの我拝師山の北麓に建てた草庵で、現在は水茎の岡と呼ばれている。この歌は、空海大師の聖地でもある我拝師山に登って詠まれたと推察する。「曇りのない霊山で海から昇る月を見れば、氷のように冷え冷えと澄み渡った空の絶え間には、瀬戸内海の島々が浮かんでいる」と、空海大師の名に因んだ空と海を想起させる。
191番、「ここを又 我が住みうくて うかれなば 松はひとりに ならむとすらむ」
出典・『山家集』の羈旅歌34番目の歌で、詞書には「庵のまへに松のたてりけるを見て」とある。仁安2年(1167年)に水茎の岡に、仁安3年(1168年)には、善通寺塔頭の玉泉院にも草庵を結んだと推定したい。この歌は、「この庵でもまた自分が住むことに憂鬱になり他に浮かれて移ることになったら、庵の松は独りぼっちになってしまうね」と、松の精気に語っている。
192番、「岩にせく あか井の水の わりなきは 心すめとも やどる月かな」
出典・『山家集』の羈旅歌44番目の歌で、詞書には「大師の生れさせ給ひたる所にて、めぐりしまはして、そのしるしの松のたてりけるを見て」とある2首の歌の1首である。「あか井」は、大師の産湯に使われた閼伽井のことで、善通寺誕生院に現存している。「しるしの松」は、倒木してしまったが、御影の松として枯木が飾られている。誕生院は、大師の父・佐伯田公の邸宅跡で、大師が実際に生まれたのは、母・玉依御前の実家ともされる。そのため、多度津町の海岸寺にも大師の産湯の井戸が伝わっている。「岩の堰にある閼伽井の水は、格別清らかで心を澄ませと言うように、月の光が反射して心に宿る」と詠じた。
193番、「めぐりあわむ ことの契ぞ たのもしき きびしき山の 誓見るにも」
出典・『山家集』の羈旅歌45番目の歌で、詞書には「まんだら寺の行道どころへのぼるは、よその大事にて、手をたてたるやうなり、大師の御経かきてうづませおはしましたる山の嶺なり。ぼうのそとは、一丈ばかりなるだんつきてたてられたり。それへ日毎にのぼらせおはしまして、行道しおはしましけると申し伝へたり。登る程のあやふき、ことに大事なり。かまへて、はひまりつきて」とある。詞書の概略は、「曼荼羅寺から我拝師山に登拝するのが大事で、山は手を立てたような形をし、山頂に大師が埋めた経塚がある。坊の外には高さ1丈(約3m)の壇が建っていて毎日お参りする。更に巡る参道には二重に石段が築かれ、登るほど危なく難儀になり、身構えして這いつくようにお参りして」となる。険しい山頂へ到着し、「釈迦と大師が巡り逢ったことの契りが頼もしく感じられ、厳しい山の修行での誓願を見るようである」と、大師の捨身伝説を詠んだ。
194番、「筆の山に かきてのぼりても 見つるかな 苔の下なる 岩のけしきを」
出典・『山家集』の羈旅歌46番目の歌で、詞書には「やがてそれが上は、大師の御師にあひまゐらせさせおはしましたる嶺なる。わがはいしさと、その山をば申すなり。その辺の人はわかいしとぞ申しならひたる。山もじをばすてて申さず。また筆の山ともなづけたり。遠くて見れば筆に似て、まろまろと山の嶺のさきのとがりたるやうなるを申しならはしたるなめり。行道所より、かまへてかきつき登りて、嶺にまゐりたれば、師に遇はせおはしましたる所のしるしに、塔を建ておはしましたりけり。塔の石ずゑ、はかりなく大きなり。高野の大塔ばかりなりける塔の跡と見ゆ。苔は深くうづみたれども、石おほきにしてあらはに見ゆ。筆の山と申す名につきて」とある。更に「善通寺の大師の御影には、そばにさしあげて、大師の御師かき具せられたりき。大師の御手などもおはしましき。四の門の額少々われて、大方はたがはずして侍りき。すゑにこそ、いかがなりなんずらんと、おぼつかなくおぼえ侍りしか」とある。詞書の前文では、大師が捨身で釈迦と遭遇したとされる我拝師山について説明し、筆の山とも呼ばれると述べている。また、山に建っていた大塔の礎石は苔に埋もれていたと評している。
詞書の後文は、善通寺で大師が描いた釈迦如来像や自画像に触れ、四ノ門の扁額が割れている様子などを記している。そして、「筆の山に草を掻きわけ、岩を攀じ登って見えるのは、苔の下に埋もれた大塔の景色である」と、高野山の大塔と重ねて詠んだ。
195番、「昔みし 松は老木に なりにけり 我がとしへたる 程も知られて」
出典・『山家集』の羈旅歌58番目の歌で、詞書には「西国へ修行してまかりける折、小嶋と申す所に、八幡のいははれ給ひたるけるにこもりたりけり。年へて又その社を見けるに、松どものふる木になりたるけるを見て」とある。「小嶋」は、備前国の児島で現在の岡山県倉敷市にある、「八幡の社」は、清田八幡宮で、境内には「西行の腰掛岩」があるとされる。この歌から推察すると、若い頃にも一度訪ねているようで、出家以前か、出家後なのかは定かでない。再び松を眺め、「昔に見た常盤木の松は、老木となったように、私も年を取って月日も経てしまい、そんな身の程を知らされるようだ」と、述懐するのである。
196番、「まなべより しはくへ通ふ あき人は つみをかひにと 渡るなりけり」
出典・『山家集』の羈旅歌49番目の歌で、詞書には「まなべと申す島に、京よりあき人どものくだりて、やうやうのつみのものどもあきなひて、又しはくの島に渡りてあきなはんずるよし申しけるを聞きて」とある。「まなべ」は、真鍋島で現在の岡山県笠岡市にある。詞書には、京の商人たちが船に様々な荷を積んで塩飽諸島に渡り、商売をしていたと記している。その様子を、「真鍋島より塩飽諸島に通う商人は、積み荷を櫂で漕ぎ渡って行くが、阿漕な商売は罪に成り果ている」と掛詞を交え批判した。
197番、「波のおとを 心にかけて あかすかな 苫もる月の 影を友にて」
出典・『山家集』の羈旅歌59番目の歌で、詞書には「志すことありて、あきの一宮へ詣でけるに、たかとみの浦と申す所に、風に吹きとめられてほど経けり。苫ふきたる庵より月のもるを見て」とある。「あきの一宮」は、安芸国宮島の厳島神社で、「たかとみの浦」は、現在の広島県呉市にある高飛の浦とされる。「苫」は、薦葺きの漁師小屋で、そこで一夜を明かしたようだ。この歌は、「波の音を心に掛けるように一夜を明かした。屋根の苫から漏れる月の影が友にも思える」と、波音を蒲団に見立て心に掛け、月の光を添え寝する友とも感じて詠んだと思う。現在は、高飛の浦に西行庵が来訪記念として建てられていた。
198番、「絶えたりし 君が御幸を 待ちつけて 神いかばかり 嬉しかるらむ」
出典・『山家集』の羈旅歌65番目の歌で、詞書には「承安元年六月一日、院、熊野へ参らせ給ひけるついでに、住吉の御幸ありけり修行しまはりて二日かの社に参りたりけるに、住の江あたらしくしたてたりけるを見て、後三条院の御幸、神も思ひ出で給ふらむと覚えてよめる」とある。詞書の承安元年(1171年)は、西行法師が54歳の時である。後白河法皇が熊野御幸の後に、建て替えられた住吉社に参拝したとある。後三条天皇(1034―1073年)が延久5年(1073年)に御幸されて以来と記しているが、実際は白河天皇(1053―1129年)、鳥羽上皇(1103―1156年)も御幸している。「大君の御幸が絶えて、待ち続けていた住吉大神はどんなに嬉しく思っていることでしょう」と、後白河法皇の御幸に随行して詠じた。
199番、「朝日さす かしまの杉に ゆふかけて くもらず照らせ 世のうみの宮」
出典・『補遺』の「題しらず一」3首の1首の歌で、「うみの宮」は、福岡県宇美町の「宇美八幡宮」との説がある。すると、九州まで西行法師が訪ねたことになる。通説では、安芸国が西国の最終地点とされるので矛盾する。そこで仮定したいのは、「うみの宮」は、兵庫県神戸市にある「海神社」ではないだろうか。「朝日の差す鹿島の杉に木綿の布をかけて祀り、曇らさせないで世を照らして下さい海の宮の神様よ」と、解釈できる。しかし、「鹿島の杉」は、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮が想定されるし、うみは産みの掛詞なので不可解な歌である。実際に参詣していな神社を朗詠した可能性もあり、曖昧に捉えるしか手段はない。
四国順礼・西国の旅路は、約4年間に及んだと推定するが、その後は高野山に戻り、仏道修行や和歌に勤しんだであろう。
高野山金剛峯寺(令和3年撮影) 高野山三昧堂西行桜(ウェブのコピー)
(9)、高野山へ再三入山(54歳―63歳)
三度目の高野山は、承安元年(1171年)と推定し、治承4年(1180年)に熊野三山を巡礼するまでの約9年間滞在したと考える。この年代の出来事としては、承安元年(1171年)に平清盛の娘・徳子(1155―1214年)が入内し、高倉天皇(1161―1181年)の女御となった。承安4年(1174年)に平清盛が摂津の大輪田泊の前面に経ヶ島(兵庫島)を築いている。
安元元年(1175年)の58歳の時は、大原の寂然と贈答歌を通じて交流している。治承元年(1177年)には、有名な「鹿ヶ谷事件」が発生し、平家打倒の陰謀が僧・俊寛(1143―1179年)の山荘で行われた。密告によって捕えられ、首謀者の僧・西光は斬首され、俊寛、平康頼、藤原成経は薩摩国の鬼界ヶ島に流刑となった。
西行法師の直筆の書籍を探したところ、全国に5点の書状などがあるようだ。その1点が高野山金剛峯寺に所蔵されていて、承安4年(1180年)に書かれた「僧円位(西行)書状」1巻である。また、京都国立博物館には、「一品経懐紙」一幅一帖が所蔵されていて、いずれも国宝に指定されている。ウェブの情報を見ると、和歌山県立博物館では平成30年(2018年)に生誕900年を記念して「西行展」が開催され、国宝の2点が一般公開されたようである。
200番、「今宵こそ あはれみあつき 心地して 嵐の音を よそに聞きつれ」
出典・『山家集』の羈旅歌140番目の歌で、詞書には「ことの外に荒れ寒かりける頃、宮法印高野にこもらせ給ひて、此ほどの寒さはいかがするとて、小袖給はせたりける又の朝申しける」とある。「宮法印」は、法名が覚恵(1151―1184年)で崇徳上皇の第5皇子でもあった。33歳年下の宮法印は、西行法師にとっては崇徳院の忘れ形見の見えたに違いない。宮法印も老齢の西行法師に気遣って小袖を与えている。それに対して、「今宵だけはあなたの気持ちが温かく感じられて、嵐の音も他所事のように聞こえました」と、宮法印の思いやりに御礼の歌を詠んだ。
201番、「ちる花の いほりの上を 吹くならば 風入るまじく めぐりかこはむ」
出典・『山家集』の羈旅歌173番目の歌で、詞書には「高野に籠りたりける頃、草の庵に花の散りつみければ」とある。この詞書から察すると、草庵を結び暮らしたようだが、その草庵跡が比定されていないのが残念である。この歌は、「散る桜の花が庵の屋根の上に積るならぱ、吹き散らないように周り囲って風が入るのを防きたい」と、誰も考えつかない着想で詠んでいる。
202番、「しをりせで 猶山深く 分け入らむ うきこと聞かぬ 所ありとや」
出典・『山家集』の羈旅歌174番目の歌で、詞書には「思はずなること思ひ立つよしきこえける人のもとへ、高野より云ひつかはしける」とある。詞書には、思ってもいない辛い知らせを聞いて詠み、高野山から贈ったとある。「枝折もしないで帰路を断ち切り、猶も奥深く山に分け入りました。憂慮するような話の聞こえぬ所があると思いまして」と、死を覚悟した歌である。
203番、「もろともに ながめながめて 秋の月 ひとりにならむ ことぞ悲しき」
出典・『山家集』の哀愁歌11番目の歌で、詞書に「同行にて侍りける上人、例なきこと大事に侍りけるに、月あかくて哀なるを見ける」とある。この「同行の上人」は西住法師で、その病気死を知っての哀歌である。「いつも一緒に秋の名月を眺め重ねて来たが、これから独りで眺めることになるのは、とても悲しいことである」と、切ない気持ちを詠んだ。
おくり、「乱れずと 終り聞くこそ 嬉しけれ さても別は なぐさまねども」 寂然法師
出典・『山家集』の哀愁歌33番目の歌で、詞書には「同行に侍りける上人は、をはりよく思ふさまなりと聞きて、申し送ける」とある。寂然から高野山の西行法師の許に西住法師の死去を知らせが届いたのであった。その知らせの贈答歌で、「西住法師は取り乱すこともなく臨終したと聞いて嬉しくなります。だからと言って別れの悲しみに対して慰めようもありまん」と、寂然法師は、最愛の友を失った西行法師を気遣うのであった。
204番(かへし)、「此世にて 又あふまじき 悲しさに すすめし人ぞ 心みだれし」
「もうこの世で西住法師と逢えなくなると思うと悲しく、臨終の正念を勧めた私の方が心を乱しています」と返した。伝承によると、西住法師は東海道岡部宿(現・静岡県藤枝市)で亡くなったとされ、西住笠懸松と宝篋印塔の西住墓がある。しかし、寂然からの知らせを踏まえると、遠路ではなく、京の市中ではなかったかと推定したい。
205番、「けさの色や わか紫に 染めてける 苔の袂を 思ひかへして」
出典・『山家集』の雑歌103番目の歌で、詞書には「阿闍梨兼堅、世をのがれて高野に住み侍りれり。あからさまに仁和寺に出でて帰りもまゐらぬことにて、僧綱になりぬと聞きて、いひつかはしける」とある。「苔の袂」は、僧位のない普通の僧の黒染めの衣の袂である。「阿闍梨兼堅」は、兼賢が正しい表記であるが、その経歴は不詳である。「僧綱」は、僧位の総称で一般的には僧正(紫色)・僧都(緑色)・律師(水色)を指すとされる。兼堅が高野山から仁和寺に行くと言って山を下りた後、僧正となった聞いて兼堅に歌を贈ったのであった。「袈裟の色が若紫に染め変り、出世したのですね。黒染めの袂を思い返して下さい」と、清僧に甘んずることを諭したような歌である。
206番、「何ごとも 空しき法の 心にて 罪ある身とは つゆも思はず」
出典・『山家集』の釈教歌39番目の歌で、詞書に「心経」とある。「心経」は、「般若波羅密多心経」の略で、浄土真宗と日蓮宗以外の宗派で重要視されるポピュラーな御経である。その276文字の経文を31文字の和歌に西行法師は詠み替えた。この歌は、「何事も空である般若心経の心からすれば、自分は罪深い人間であることは露程も思わない」と、西行法師は詠じた。
207番、「朝夕の 子をやしなひに すと聞けば 苦にくずれても 悲しかるらむ」
出典・『山家集』の釈教歌43番目の歌で、詞書には「六道の歌よみけるに」とある6首の1首で「餓鬼」と題した歌でもある。飢餓道は、悪行の報いとして死後飢渇に苦しむ世界とされる。それを念頭に読むと、「朝夕に食事を与え子供を養育していると聞けば、死後に餓鬼道の苦しみに崩れても悲しいこととは思わない」と、死後の世界に比定的な現世利益の歌とも言える。
208番、「雲の上の 楽みとても かひぞなき さてしもやがて 住みしはてねば」
出典・『山家集』の釈教歌47番目の歌で、詞書には「六道の歌よみけるに」とある6首の「天」と題した歌でもある。「雲の上」は、六道で最もすぐれた果報を受ける天道で、天国や極楽と考えられる。そんな天道を、「雲の上にある天国の楽しみは取るに足りないだろう。それでもやがて住む果てと思わねばなるまい」と詠じた。地獄道の修行よりも天道に草庵暮しを夢見たようだ。
209番、「さらにまた そり橋わたす 心地して をぶさかかれる かつらぎの嶺」
出典・『残集』の39番目の最後にある歌で、詞書に「高野へまゐりけるに、葛城の山に虹の立ちけるを見て」とある。「葛城の山」は、奈良県と大阪府に跨る標高959mの霊山である。葛城山の御神体でもある一言主神が、修験道の開祖・役行者小角(634―701年)に命じて架けさせた橋が途中まであったと伝説される。その山に立つ虹を見て、緒総の飾り紐を暗喩して詠んでいる。「葛城山には、幻の橋に更にまた反橋を渡すような雰囲気で、緒総に似た虹が懸っている」と、詠んだと解釈する。
2Ⅰ0番、「春ごとの 花にこころを なぐさめて 六十のあまりの としをへにける」
出典・『聞書集』の132番目の歌で、「花の歌十首人々よみけるに」と題した5番目にある歌でもある。4句目に六十路とあるので、治承元年(1177年)の作となる。「春になる度、桜の花に心が慰められて来て、もう六十路余りの年が経たんだな」と、60年の人生が日々異なっていたように、毎年眺めて来た桜の花も趣が異なっていたことを詠嘆した。
2Ⅰ1番、「見るも憂し いかにかすべき 我がこころ かかわる報いの 罪やありける」
出典・『聞書集』の199番目の歌で、「地獄絵を見て」と題した7首の1番目の歌でもある。源平合戦のあった晩年の作と思われるが、仏教の聖地・高野山に因むと考えて採録した。地獄絵は、仏教の説く六道(地獄道・飢餓道・畜生道・阿修羅道・人道・天道)の世界を描いた仏画で、好んで鑑賞する人は少ないと思う。その絵を見て、「見るのも憂慮する絵で、どう受け止めていいのか自分の心は苦慮する。六道に関わる報いや罪があっのだろうか」と、思い悩む気持ちを吐露した。「いかにかすべき我がこころ」の句が素晴らしく、人は毎日、それを考え生きているような気がする。
2Ⅰ2番、「うけがたき 人のすがたに うかみいでて 懲りずや誰も またしづむべき」
出典・『聞書集』の202番目の歌で、「地獄絵を見て」の4番目にある。人間に生まれた運命を、「受け難い地獄の底から再び人の姿に生まれて浮いて来たのに、それにも懲りないで人は誰でも再び地獄に沈むだろうか」と、因果応報を詠んだ。平家一門が権力のトップに浮かび、壇ノ浦の地獄の底に沈んだことを比喩しているとも思われる。
2Ⅰ3番、「重きいはを ももひろ千ひろ 重ねあげて 砕くやなにの 報いなるらむ」
出典・『聞書集』の205番目の歌で、「地獄絵を見て」の5番目にある。「ももひろ千ひろ」は、漢字表記すると百尋千尋で、両手を広げた長さやとても深く長いことを意味するようだ。この歌は、「重い岩を百尋千尋に積み重ね上げても砕けて壊れるのは、何の報いがあってのことなのだろう」と詠じた。平清盛が大輪田泊に築いた人工島の経ヶ島のことが脳裏を過る。
2Ⅰ4番、「一つ身を あまたに風の 吹ききりて ほむらになすも かなしかりけり」
出典・『聞書集』の207番目の歌で、「すなわとまうす物うちて身を割りけるところ」と題した3首の1首目の歌でもある。この歌も含め218番までの6首は、高野山で詠まれた確証はないが、仏教に関わりある歌なので選んだ。詞書の「すなわ」は、墨縄が短縮して転化した言葉で、大工道具の墨壺を意味する。身体に墨を付けて裁断される様子を歌題にし、「一つだけの身体が風に吹き千切られて数多に分れる。そして炎となって消えることは悲しいことである」と、戦乱の風に吹かれる時代を詠んだ。
2Ⅰ5番、「なによりも 舌ぬく苦こそ かなしけれ 思ふことをも 言わせじの刑」
出典・『聞書集』の208番目の歌で、「すなわとまうす物うちて身を割りけるところ」と題した3首の3番目の歌でもある。拷問などの刑罰を詠んだ歌で、「何よりも悲しいことは舌を抜かれる責め苦で、思うことも言わせない刑である」と詠じた。しかし、実際に舌を抜く刑罰はなく、五刑(笞罪・杖罪・徒罪・流罪・死罪)であった。閻魔大王から舌を抜かれることを意識したようだ。
2Ⅰ6番、「なべてなき くろきほむらの 苦しみは よるのおもひの 報いなるべし」
出典・『聞書集』の209番目の歌で、「黒き炎の中に、をとこ女のもえけるところを」と題した5首の1番目の歌でもある。詞書には、炎の中で男女の燃えることとあるので、男女の色欲の歌と察せられる。「並ではない黒い炎につつまれて焼かれる苦しみは、夜の交わりを思うことの報いの業火なんだ」と、不純な男女の交わりを戒めた歌とも読み取れる。
2Ⅰ7番、「あはれみし 乳房のことも わすれけり 我がかなしみの 苦のみおぼえて」
出典・『聞書集』の212番目の歌で、「黒き炎の中に、をとこ女のもえけるところを」と題した5首の4番目の歌でもある。2句目の「乳房」は、母のことを指しているが、漢字だと女性の体の部位を想像してしまう。この歌の意味は、「私を哀れみ育ててくれた母のことはすっかり忘れてしまった。私自身の悲しみや苦しみだけは覚えているが」と、直訳される。
高野山に三度目の長期滞在した西行法師、その後の行動年代が明確となっているのは、治承3年(1179年)に伊勢国二見浦に草庵を結んだことである。それまでの約2年間は、高野山に軸足を置き、同じ紀伊国の熊野三山を巡礼したと考えたい。
大峯奥駈道大峯山寺(平成24年撮影) 那智の滝と青岸渡寺三重塔(平成2年撮影)
(10)、熊野三山めぐり(63歳―64歳)
熊野詣では、紀野国熊野の本宮大社・新宮大社・那智大社を巡礼する参拝で、「熊野三山詣で」とも称される。応徳3年(1086年)に、天皇では白河上皇(1053―1129年)が初めて熊野三山を参拝した。熊野詣では、京から往復1ヶ月もの日程を要する大旅行で、莫大な費用が掛かったと想像する。西行法師の主君であった鳥羽上皇は、祖父の白河上皇に伴われて参拝してから通算で21回も参拝を繰り返したと言われる。また、西行法師が思慕していたとされる待賢門院も御幸には12回も同行した。おそらく、西行法師は、義清時代に護衛として加わっていた可能性は高い。西行法師は、吉野山滞在中に「大峯奥駈道」の荒行を2度も行っている。吉野山から熊野本宮までの大峯奥駈道は、険しい山路が約170㎞も続く。上皇らの御幸は、この難路を避けて紀ノ川沿いに海に出て迂回し、大辺路や中辺路から熊野三山に入っている。現在の熊野三山とその古道は、世界文化遺産を構成する史跡として知られ、昔さながらに徒歩で巡礼する海外からの観光客もいると聞く。
西行法師の熊野詣の手がかりとしては、『西行物語絵巻』の萬野美術館本で、その十紙には、残雪の吉野を出て熊野に向う様子が描かれている。その途中で、紀伊国千里の浜(現・和歌山県みなべ町)や八上王子(現・和歌山県上富田町)を通っている。
2Ⅰ8番、「ちらでまてと 都の花を おもはまし 春かへるべき わが身なりせば」
出典・『山家集』の春歌119番目の歌で、詞書には「那智に籠りし時、花のさかりに出でける人につけて遺しける」とある。那智の滝で修行した頃に、花の盛りとなって、都に出立する人に詠んだ歌を託したのである。「散らないで待って欲しいと、都の花を思うけれど、この春に帰京する今の自分ではない」と、帰りたいけれど帰れない切ない事情を詠んでいる。
2Ⅰ9番、「かつみふく 熊野まうでの とまりをば こもくろめとや いふべかるらむ」
出典・『山家集』の夏歌58番目の歌で、詞書には「五月会に熊野へまゐりて下向しけるに、日高に、宿にかつみを菖蒲にふきたりけるを見て」とある。「かつみ」は、花かつみであるが、真菰とも花菖蒲ともされる。『西行全歌集』では「かつみを葺く」としているので、屋根に葺いたようである。「「五月会」は、端午の節句で、宿のかつみをあやめに葺き替えたとある。それを念頭に訳すと、「熊野詣でで泊った宿では、かつみで屋根を葺き、薦黒目と言うそうである」と、イメージが掴めない歌となる。
220番、「雲消ゆる 那智の高嶺に 月たけて 光をぬける 瀧のしら糸」
出典・『山家集』の秋歌144番目の歌で、詞書に「月瀧を照らすといふことを」とある。「那智の高嶺」は、那智の滝の背後の那智山であるが、特定された山頂ははない。その那智山の滝と月を眺めて、「雲が消えて那智の高嶺に月が空高く昇って冴え渡っている。その光の中を那智の滝が白糸のように抜けて浮かぶように見える」と、モノクロ写真のように詠じた。
221番、「いとか山 時雨に色を 染めさせて かつがつ織れる 錦なりけり」
出典・『山家集』の秋歌300番目の歌で、詞書に「紅葉未遍といふことを」とある。「いとか山」は、現在の和歌山県有田市にある標高ⅰ67mの糸我峠で、熊野古道の糸我王子社があった。時雨が降ると寒くなるので、寒くなるほど紅葉は一層赤く染まるのである。「糸我山の紅葉は、時雨に猶も色を染めさせてもらい、ひとまずは錦に織り上げられている」と詠じた。
222番、「松がねの 岩田の岸の 夕すずみ 君があれなと おもほゆるかな」
出典・『山家集』の羈旅歌67番目の歌で、詞書に「夏、熊野へまゐるけるに、岩田と申す所にすずみて、下向しける人につけて、京へ同行に侍りけるに上人のもとへ遣しける。」とある。熊野詣での途中で、京へ戻る参詣者と出会って、京の友人に和歌を託するのである。歌の大意は、「厳の松の根を眺め、岩田の川岸で夕涼みをしていると、あなたが一緒にいてくれればと思われてならない」と、久しく逢っていない友への思慕の情を吐露している。『西行全歌集』の詞書には、京の上人を西住上人と記しているので、西行法師が60歳以前の作かも知れない。
西行法師は熊野三山をどのルートで巡拝したのかは明確になっていないが、222番の歌にある「岩田」は、中辺路に続く海岸寄りの入口であることから往きは、中辺路から本宮に入ったと思われる。本宮から熊野川を船で下って新宮へ、新宮から大辺路を経て那智に至って熊野三山をめぐったと推定する。帰路は雲取山を越えて本宮に戻り、大峯奥駈道を吉野へと強行した可能性もある。いずれにしても年代に隔たりてはあるものの、熊野三山を2度めぐったのは確かなことである。
223番、「待ちきつる やかみの桜 咲きにけり あらくおろすな みすの山風」
出典・『山家集』の羈旅歌69番目の歌で、詞書には「熊野へまゐりけるに、やかみの王子の花面白かりければ、社に書きつけける」とある。「やかみの王子」は、熊野古道にあった九十九王子の1つ八上王子で、王子は熊野権現の子とされて神社に祀られていた。「みすみ」は、ここも三栖王子があった三栖山である。そこで桜を見て、「心待にして来た八上王子の桜が咲いている。その桜を手荒に吹き下ろさない欲しい三栖山の風よ」と、風神に向って囁いたような歌である。
224番、「木のもとに 住みけむ跡を 見つるかな 那智の高嶺の 花を尋ねて」
出典・『山家集』の羈旅歌70番目の歌で、長い詞書には「那智に籠りて、瀧に入堂し侍るけるに、此上に一二の瀧おはします。それへまゐるなりと申す住僧の侍るけるに、具してまゐりける。花や咲きぬらむと尋ねまほしかりける折ふしにて、たよりある心地して分けまゐりたり。二の瀧のもとへまゐりつきたり。如意輪の瀧となむ申すと聞きてをがみければ、まことに少しうちかたぶきたるやうに流れくだりて、尊くおぼえけり。花山院の御庵室の跡の侍るける前に、年ふりたる桜の木の侍りけるを見て、栖とすればとよませ給ひけむこと思ひ出でられて」とある。要約すると、「那智の御堂に籠って滝を眺めると、上流に一の滝と二の滝がある。その滝に参ると常駐の僧がいて一緒に参った。花の咲いている季節に訪ねたかったので、その便り心待ちにしての入山であった。二の滝の元に参ると、如意輪の滝と言うと聞き、拝みて眺めると斜めに流れ落ち、尊く思われた。花山院(969―1008年)の御庵室跡の前に、桜の古木があって、花山院の詠まれた歌を思い出す」と、花山院が那智の滝で詠んだ和歌の上句を本歌取して、詠んだのが西行法師の224番の歌である。「住みけむ」は、「澄むけむ」の掛詞になっている。「桜の木の下を栖とされた花山院の住居跡を見ると、心が澄まされて那智の高嶺に花を尋ねた登った甲斐があった」と詠んだ。
花山院は、在位期間2年の薄幸の天皇であったが、仏教に深く帰依して「西国三十三ヶ所観音霊場」を巡錫して再興させている。その第一番札所である青岸渡寺は、修験道が盛んで「那智四十八滝回峰行」も花山院が始めたとされる。西行法師も回峰行を行ったことは想像に難くない。那智四十八滝回峰行は、明治元年(1868)の「神仏分離令」によって修験道が禁止されて廃れた。また、青岸渡寺は、明治以降からは真言宗から天台宗に改宗されて現在に至っている。そして、那智四十八滝回峰行は、青岸渡寺が平成4年(1992年)に124年ぶりに復活させた。
225番、「立ちのぼる 月のにあたりに 雲消えて 光重ぬる ななこしの嶺」
出典・『山家集』の羈旅歌71番目の歌で、詞書には「熊野へまゐりけるに、ななこしの嶺の月を見てよみける」と、記されていて、熊野本宮で詠んだ歌である。「ななこしの嶺」は、熊野本宮大社旧社地であった大斎原の東、熊野川対岸の標高262mの七越峰である。分かり易い歌なので、漢字に変えると上句は、「立ち昇る月の辺りに雲消えて」とそののままになる。下句の「光重ぬる」は、月の光と、消えゆく夕陽の光が重なり合った状況で、「光が重なる七越の峰」となる。
226番、「雲鳥や しこの山路は さておきて をくちかはらの さみしからぬか」
出典・『山家集』の雑歌6番目の歌で、「題しらず一」の4番目にある歌でもある。熊野詣でに関する西行法師の和歌は、『山家集』に15首ほどあるが、新宮で詠まれた歌がなく、本宮の歌もこの1首が確認される。この歌は、本宮から那智に戻る道中吟であると推察する。「雲鳥」は、標高966mの大雲取山のことで、「しこ」は、地名で現在の新宮市熊野川町志古、「をくちかはら」は、小口ヶ原と漢字表記される山村である。歌の大意は、「雲取や志古の山路が淋しいのはさておいて、小口ヶ原集落も淋しくないはずもない」と、雲取山麓の寒村風景を捉えている。
227番、「なみよする しららの浜の からす貝 ひろひやすくも おもほゆるかな」
出典・『山家集』の雑歌59番目の歌で、詞書に「内に貝合せむと、せさせ給ひけるに、人にかはりて」と題した9首の8番目の歌でもある、「しららの浜」は、白良浜と漢字表記され、現在の和歌山県白浜町にある。内裏で催された歌会で、貝合わせの歌題に女房(女官)に代わって詠んだようだ。「波が寄せる白良浜では、カラス貝が拾い易く思われる」と、見たままの情景を詠んでいるが、白浜と黒いカラス貝の色を対比させている。現在の白良浜には、この歌の歌碑が建っていた。
熊野三山めぐりを終えた西行法師は、高野山に戻って公的な活動を行っている。承安4年(1180年)には、高野山の領地に課せられた税の免除を行うため奔走し、「僧円位書状」をしたためり、最高権力者となった平清盛にも懇願したようである。
伊勢神宮内宮(ウェブのコピー) 二見浦夫婦岩(ウェブのコピー)
(11)、伊勢・二見浦の草庵(64歳―69歳)
治承4年(1180年)6月になると、平清盛が後白河法皇の院政を廃し、摂津の福原に遷都する暴挙を行った。平清盛とは友好的な関係にあったが、西行法師も流石に憂慮したようで、高野山から伊勢国への移住を決意させたと思われる。高野山に居ると、平家一門に反目する勢力と摩擦が生じかねないと判断し、中立を守って逃れるのが良いと判断したのであろう。
伊勢では当初、伊勢皇大神宮(内宮)近くの神照寺に草庵を結んだようだ。この草庵跡は現在、西行谷と呼ばれ、三重県営総合競技場の近くにある。その後は二見浦に移り、安養寺に草庵を構えたとされる。いずれの寺も明治の廃仏毀釈で廃寺となった。源平合戦が終り、奥州に大仏殿再建のため勧請に赴く文治2年(1186年)までの約5年間、伊勢に滞在することになる。
伊勢滞在中にあった事件としは、治承4年(1180年)8月に、源義仲(1154―1184年)が信州木曽で、源頼朝(1147―1199年)が伊豆韮山で、後白河法皇の勅命を密かに受けて平家打倒を掲げて挙兵した。養和元年(1181年)閏2月には、平清盛が享年64歳で亡くなると、平家一門は衰退の一途をたどる。元暦2年(1185年)には、長門国の壇ノ浦で滅亡することになる。西行法師が68歳の時で、義清時代から接点のあった平家との関係が45年で終止符が打たれたのである。
228番、「雲の上や ふるき都に なりにけり すむらむ月の 影はかはらで」
出典・『山家集』の雑歌142番目の歌で、詞書には「福原へ都うつりありときこえし頃、伊勢にて月の歌よみ侍りしに」とある。福原遷都は衝撃的なことであったにも関わらず、批判めいた歌を詠むのは差し控えたのだろうか、昨今の出来事を昔のことのように詠んでいる。「雲の上のような帝の京は、古い都となってしまった。澄行く月の照る世は変わらないのに」と詠み、帝の住む場所が変わってしまったと暗喩し、批判したとも感じられる。
229番、「もしほやく 浦のあたりは 立ちのかで 烟あらそふ 春霞かな」
出典・『山家集』の春歌41番目の歌で、詞書には「海辺の霞といふことを」とある。「もしほやく」は、藻塩焼くと漢字表記されるので古墳時代から続く製塩を意味する。二見浦には、伊勢神宮が神前に供える塩を製塩する施設があって、御塩殿神社と称される。「藻塩を焼いている二見浦の空には、その烟が争うように立っていて、春霞を思わせるようだ」と、春景色を詠じた。
230番、「波こすと ふたみの松の 見えつるは 梢にかかる 霞なりけり」
出典・『山家集』の春歌42番目の歌で、詞書には「おなじこころを、伊勢に二見といふ所にて」とある。詞書の「同じ心に」は、歌枕の二見浦で見た波を越す松が、「他の歌人の詠んだ心と同じだよ」と前置きしている。「波が二見の松の木を越して打寄せていると思ったら、それは梢にかかる霞であった」と、白浪と松の緑を対比させて詠んでいる。
231番、「過ぐる春 潮のみつより 船出して 波の花をや さきにちつらむ」
出典・『山家集』の春歌254番目の歌で、詞書には「伊勢にまかりたりけるに、みつと申す所にて、海辺の春の暮といふことを、神主どもよみけるに」とある。「潮のみつ」は、潮の満ちると、歌枕の三津の浜とを掛けている。結句の「さき」も波の花が咲くことと、船の舳先の縁語としている。「過ぎ行く春に潮の満つる三津の浜から船出して、浮かぶ波の花は船の舳先の方が先に散るようである」と、珍しい波の花が海に浮かび岸に漂う景観を詠んだ。
232番、「柴の庵に よるよる梅の 匂ひ来て やさしき方も あるすまひかな」
出典・『山家集』の春歌57番目の歌で、詞書には「伊勢のにしふく山と申す所に侍りけるに、庵の梅かうばしくにほひけるを」とある。「にしふく山」は、確証されてはいないが、三重県菰野町にある標高598mの福王山とされ、巡見街道の傍らに西行庵跡の石碑が立っていて、この歌の歌碑もある。伊勢滞在中の約5年間、何ヶ所かの草庵を転々としたことは否定できない。それを踏まえると、「今度の粗末な柴の庵では、夜な夜な梅の匂いが漂って来て、優雅な過ごし方があることをこの住まいで感じた」と、桜一辺倒から梅にも魅力を感じたようだ。2句目の「よるよる」は、『西行全歌集』では「とくとく」になっている。
243番、「聞かずとも ここをせにせむ ほととぎす 山田の原の 杉の村立」
出典・『山家集』の夏歌41番目の歌で、「郭公」と題した8首の最初の歌でもある。「山田の原」は、伊勢市二見町に山田原と言う歌枕の地名があるので、ここで詠まれた歌であろう。平明な歌で、「今は聞こえなくても、ここでホトトギスの鳴く声を待つ場所としよう。山田の原の杉の群れ立つ林で」と詠んでいる。普段からホトトギスの特徴を観察していた様子に感服する。
244番、「めぐりあはで 雲のよそには なりぬとも 月になり行く むつび忘るな」
出典・『山家集』の秋歌178番目の歌で、詞書には「伊勢にて、菩提山上人、月に対し述懐し侍りしに」とある。「菩提山」は、伊勢神宮の神宮寺で、「上人」は、良仁上人(11151209年)ことであるが、神宮寺は明治の廃仏稀釈で廃寺となった。
「めぐり逢わないで雲が消えるように他所に行ったとしても、あなたが月になって行くように、いつでも眺められる結び付きを忘れないで欲しい」と、結びと陸奥を掛けて遠く旅立つ心境を詠んだ。
235番、「鈴鹿山 うき世をよそに ふりすてて いかになりゆく 我身なるらむ」
出典・『山家集』の羈旅歌93番目の歌で、詞書には「世をのがれて伊勢の方へまかりけるに、鈴鹿山にて」とあって、俗世から逃れたい気持ちが歌に込められている。その反面、自分自身の心が定まっていないことを不安視している。歌の内容から推察すると、出家して間もない頃の歌で、鈴鹿山には当時、鈴鹿関があったので、関所を越えると俗世から逃れられると考えていたようである。「鈴鹿山を境に浮世を他所に振り捨てて来たが、どうなるのだろうか私の未来は」と詠じた。
236番、「ふかく入りて 神路のおくを 尋ぬれば 又うえもなき 峰の松風」
出典・『山家集』の羈旅歌94番目の歌で、詞書には「高野山を住みうかれてのち、伊勢国二見浦の山寺に侍りけるに、太神宮の御山をば神路山と申す、大日の垂跡をおもひて、よみ侍りける」とある。詞書の「伊勢の山寺」は、草庵を構えた安養寺で、神路山は、皇大神宮(内宮)の南面にある山域の総称で、特定の山頂はないようだ。「垂跡」は、垂迹の誤りで、皇大神宮の祭神・天照大御神は大日如来が本性とされる本地垂迹説による。平明な歌で、「深く入って神路山の奥を訪ねると、尊さは更に上もなく峰の松には神風が吹いている」と解釈されるが、神仏に深く帰依している心境が感じられ名歌である。
237番、「榊葉に 心をかけん ゆふしでて 思へば神も 佛なりけり」
出典・『山家集』の羈旅歌95番目の歌で、詞書には「伊勢にまかりたるけるに、太神宮にまゐりてよみける」とある。3句目の「ゆふしで」は、木綿四手と漢字表記される木綿の布で、伊勢神宮では榊に付けたり、肩に掛けたりして使用するようだ。それを念頭に読むと、「榊葉に木綿四手を付け、肩に掛けて信心を神に懸けると、神も仏と同じように思われる」と、木綿四手を輪袈裟と同一視しているように窺える。神仏習合の時代を彷彿とさせる歌で、神棚と仏壇を祀る日本人の原点が見える。
238番、「神路山 月さやかなる 誓ひありて 天の下をば てらすなりけり」
出典・『山家集』の羈旅歌97番目の歌で、詞書には「神路山にて」とある。『新古今集』にも入選された秀歌でもある。西行法師が祝詞まて唱えて拝んだかかは不明であるが、神に誓った歌は月を天照大御神の御威光として眺めたようだ。「神路山の月が清かに澄んでいるので、天照大御神と思って誓願すると、その御威光は天下を照らしているようだ」と、詠じたと解釈する。
239番、「ここも又 都のたつみ しかぞすむ 山こそかはれ 名は宇治の里」
出典・『山家集』の羈旅歌99番目の歌で、詞書には「内宮のかたはらなる山陰に、庵むすびて侍りける頃」とある。この歌は『西行全歌集』にはなく、校注者の見落としなのか、敢えて外したは分からないが、『小倉百人一首』にも選ばれた喜撰法師の本歌取である。「ここの庵も都の辰巳鹿ぞ住むと、詠まれた山こそ変ってはいるが地名は宇治の山里と言うのである」と詠じた。
240番、「さやかなる 鷲の高嶺 雲井より 影やはらぐる 月よみの森」
出典・『山家集』の羈旅歌101番目の歌で、詞書には「伊勢の月よみの社に参りて、月を見てよめる」とある。「鷲の高嶺」は、釈迦の聖地の霊鷲山が想定され、「月よみの森」は、内宮の別宮である月夜見宮の森のことである。この歌は、「清かな月の光が遠い天竺(インド)の鷲の高嶺から雲に影を和らげられて、月夜見の森を照らす」と、釈迦と月読命を合体させて詠んだ。
241番、「すが島や たふしの小石 わけかへて 黒白まぜよ 浦の浜風」
出典・『山家集』の羈旅歌104番目の歌で、詞書には「伊勢のたふしと申す嶋には、小石の白のかぎり侍る浜にて、黒は一つもまじらず、むかひて、すが嶋と申すは、黒かぎり侍るなり」とある。「すが島」は、鳥羽湾にある菅島で、「たふし」は、答志島で、いずれも万葉集にも詠まれた歌枕である。菅島の海岸には黒い小石、答志島には白い小石だけであると、詞書で述べ、「菅島と答志島の小石を分け変えて黒石と白石とを混ぜておくれよ、浦の浜に吹く風よ」と、ユニークな発想の歌を詠んだ。
242番、「さぎじまの ごいしの白を たか浪の たふしの浜に 打寄せてける」
出典・『山家集』の羈旅歌105番目の歌で、242番と詞書は同様である。「さぎじま」は、崎志摩と称される地名か、鷺島、の島名かは不明で、「ごいし」は、囲碁の碁石とも思われるが、『西行全和歌集』では小石になっている。歌の意味は、「さぎじまの鷺のような白い小石を高波が答志島の浜に打寄せたのだろうか」となる。西行法師は、白黒の小石に魅せられたようで、『西行物語絵巻』の徳川美術館本には、囲碁を打つ様子が描かれているので無理もない。
243番、「今ぞ知る ふたみの浦の はまぐりを 貝あはせとて おほふなりけり」
出典・『山家集』の羈旅歌108番目の歌で、詞書には「伊勢の二見の浦に、さるやうなる女の童どものあつまりて、わざとのこととおぼしく、はまぐりをとりあつめけるを、いふかひなきあま人こそあらめ、うたてきことなりと申しければ、貝合に京よりひとの申させ給ひたれば、えりつつとるなりと申しけるに」とある。詞書の概要は、「二見浦で童女らが集まって蛤を採集している。身分の低い家の海女ではなく、裕福な家の童女には嘆かわしい。話を聞くと、京では貝合わせの遊戯があって拾っていると言う」となる。その話を聞き、「今初めて知った。二見浦の蛤で貝合わせの遊びをしていることを」と詠じたのである。
244番、「いらご崎に かつをつり舟 ならび浮きて はかちの浪に うかびてぞよる」
出典・『山家集』の羈旅歌110番目の歌で、詞書には「沖の方より、風のあしきとて、かつをと申すいを釣りける舟どもの帰りけるを見て」とある。「いらご崎」は、渥美半島の先端にある伊良湖崎で、4句目の「はかち」は、西北の風とも東北の烈風とも言われるようだ。「伊良湖崎の沖では、鰹の釣り船が一斉に並んで浮いているが、風が強くなり時化て波に揺られて近寄って来る」と、漁から帰帆する様子を詠んでいる。
245番、「いつか又 いつきの宮の いつかれて しめのみうちに 塵を払はむ」
出典・『山家集』の神祇歌5番目の歌で、詞書には「伊勢の斎王おはしまさで年経にけり。斎宮、木立ばかりさかりと見えて、つい垣もなきやうになりたるを見て」とある。「いつきの宮」は、現在の三重県明和町にあった斎宮で、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所である。後白河法皇の第5皇女・惇子内親王(1158―1172年)が斎王であったが急死して、斎王不在の年が経って、木立が伸びて築垣もない有様と詞書で述べている。その様子を見て、「いつになったら斎王また斎宮に住まわれて注連のめぐらされた御内の塵を払って奉仕なさるのだろう」と詠んだ。その後、斎王が再任されたのは治承元年(1177年)であった。
246番、「初春を くまなく照らす 影を見て 月にまず知る みもすその岸」
出典・『山家集』の神祇歌20番目の歌で、詞書には「みもすそ二首」とある1首でもある。「みもすそ」は、神路山を源流から内宮を流れる御裳濯川で、五十鈴川の別名でもある。分かり易い歌で、「初春になると御裳濯の川岸に立ち、隈なく照らす月影を見て、その月に先ず春の訪れを知るのである」と、西行谷の草庵からは眺められない月を愛でた。
247番、「何事の おはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」
出典・『西行法師家集』の138番目の歌で、詞書には「太神宮御祭日によめる」とある。この歌は、『山家集』にはないので、存疑の歌ともされるが、伊勢で詠まれたことと、実直な歌なので採録した。伊勢神宮で最も重大な行事が遷宮で、第26回式年遷宮が行われた。内宮は承安元年(1171年)に、外宮は承安3年(1173年)となっているが、西行法師は高野山にいた時期なので見物した可能性は薄い。「大神宮御祭日」は、新嘗祭のことと思われる。この歌も分かり易く、「この御祭日にどんな方がいらしているのか知りませんが恐れ多いことで、涙がこぼれ落ちます」と、シンプルに詠んでいる。
248番、「はまゆふに 君がちとせの 重なれば よに絶ゆまじき 和歌の浦波」
出典・『聞書集』の103番目の歌で、詞書には「五條三位入道のもとへ、伊勢より浜木綿遣しけるに」とある。結句の「和歌の浦」は、現在の和歌山県和歌山市にある景勝地で歌枕である。「五條三位入道」は、藤原俊成(1114―1204年)の通称名で、和歌の第一人者であった、。安元2年(1176年)に63歳の時に出家し、法名を釈阿と称していた。この歌は、釈阿との贈答歌で、「君が千歳」は、紀貫之の詠んだ「春くれば 宿にまず咲く 梅の花 君が千歳の かざしとぞみる」の本歌取である。それを踏まえて解釈すると、「浜木綿の花を君が千歳の梅に重ねて見ると、大君の世が絶えないように和歌の歴史も和歌の浦に打寄せる波のように続くのです」となる。この歌には、古希を迎えた釈阿の長寿を祝う意味合いもあったと想定する。。
かへし、「浜木綿に かさなる年ぞ あはれなる わかの浦波 よにたえずとも」 釈阿
「浜木綿に千歳の年を重ねるのは少々哀れに感じられます。たとえ和歌の浦の波が世の中に絶えずと言われてもね」と、西行法師の歌を評して返すのである。西行法師はその後、自信作72首を選び釈阿に批評を乞っている。それが「御裳濯河歌合」にまとめられているが、248番の歌は入っていないので、秀歌に値する歌ではないようだ。
249番、「死出の山 越ゆるたえまは あらじかし なくなる人の かずつづきつつ」
出典・『聞書集』の225番目にある歌で、詞書に「世のなかに武者おこりて、西東北南いくさならぬところなし。うちづつき人の死ぬる数、きくおびただし。まこととも覚えぬ程なり。こは何事のあらそひぞや。あはれなることのさまかなと覚えて」とある。源平合戦が熾烈を極めていた頃の作で、詞書では全国各地で戦のない場所はなく、戦死する武士の数が夥しい。何のための争いなのか、哀れと呼ぶより外にないと、歴史上最大の悲劇となった源平合戦を述べている。その様子を見て、「冥途に旅立つ死出の山を越える死者は絶え間がない。今日も戦で亡くなる人の数が続いている」と、悲惨な情況を詠じた。
250番、「木曽人は 海のいかりを しづめかねて 死出の山にも 入りにけるかな」
出典・『聞書集』の227番目にある歌で、詞書には「木曽と申す武者、死に侍りけりな」とある。「木曽人」は、信濃国木曽出身の源義仲(1154―1184年)を指す。義仲は平家に勝利して入京するが、源氏の分裂によって源義経軍との宇治川の戦いで討ち死にする。寿永3年(1184年)の1月中旬で、享年31歳であった。この時に67歳であった西行法師は、「山育ちの義仲は、海のような都の怒り(碇)を鎮(沈)めることができず、死出の山に入ってしまった」と、追悼するのであった。
251番、「いかばかり 涼しかるらむ つかへきて 御裳濯川を わたるこころは」
出典・『聞書集』の280番目にある歌で、詞書には「公卿勅使に通親の宰相のたたれけるを、五十鈴の畔にてみてよみける」とある。「通親」は、源通親(1149―1202年)で、勅使として伊勢神宮を参拝して、その帰京に際して詠んだ歌のようだ。勅使と言えば、久寿2年(1155年)頃には、平清盛が後白河天皇の勅使として参拝している。この歌は通親に対して、「どれほど涼しく感じられましたか、勅使として仕えて来て御裳濯川を渡られた今のご気分は」と詠じ、若輩の公家を労わっている。
252番、「ながれいでて 御跡たれます みづ垣は 宮川よりの わたらひのしめ」
出典・『補遺』の75番目の歌で、「題しらず二」の4首の1首目の歌でもある。「御跡」は、大日如来が垂迹した聖跡で、「わたらひ」は度会と漢字表記される御跡の呼び名のようである。「宮川」は、三重県南部を流れる大きな河川で、河原から採取される白い小石は、神宮式年遷宮で使用されると聞く。この歌は少々難解で、「天竺の空から流れ出た大日如来は、伊勢の御神となって度会に垂迹し、宮川に瑞垣(水垣)をめぐらし、注連縄を渡して鎮座された」と、勝手ながら解釈する。
253番、「この春は 花を惜しまで よそならむ こころを風の 宮にまかせて」
出典・『補遺』の79番目の歌で、詞書には「風の宮にて」とある。「風の宮」は、外宮の別宮で、風の神である級長津彦命と級長戸辺命の二神を祀る。別宮になったのは正応6年(1293年)で、西行法師が参拝した頃は小さな社だったと推察する。この歌は平明な歌で、「今度の春は、花の散るのを惜しまないで、他所に見るようにしよう。心は風の吹くまま風の神にまかせて」と、解釈する。桜の花に対する情熱も加齢と共に衰え、その温度差が感じられる歌である。
254番、「流れたえぬ 波にや世をば をさむらむ 神風すずし みもすその岸」
出典・『補遺』の81番目の歌で、詞書には「伊勢にて」とある。御裳濯川で詠んだ歌で、平家が滅亡して平穏が戻って来た時の歌に感じられる。この歌からは、「流れな絶えない御裳濯川の波によって、世の中は平和に治まるであろう。神宮の風が涼しく吹く御裳濯川に立って思うのである」と、平和への祈りを捧げていた様子が見える。
255番、「波もなし 伊良胡が崎に ごぎいでて われからつれる わかめかれ海士」
出典・『補遺』の86番目の歌で、「旅の歌とて」と題した6首の2首目の歌でもある。「伊良胡が崎」は、渥美半島の伊良湖崎で、伊勢から船で訪ねた時の歌である。戦乱の暗い時代の中でも、伊良湖崎の漁師の暮らしは変らなかったようで、そんな様子を見て、「波もない穏やかな伊良湖崎へと船を漕ぎ出て浜に到着すると、割殻に付着した若布を海女が刈っている」と詠んだ。
256番、「藤波を みもすそ川に せき入れて ももえの松に かけよとぞ思う」
出典・『風雅集』の神祇にある歌で、佐佐木信綱校訂の『山家集』にはない。この歌は、単なる自然描写の歌ではなく、日本人の血統を暗喩した歌で、藤原俊成に「御裳濯河歌合」の判詞を依頼し時に表紙に添えた。「藤波」は、藤の花が風で波のように揺れる動くことであるが、この歌では藤は藤原氏を指している。2句目の御裳濯川は、伊勢神宮の祭主である大中臣氏の比喩である。藤原鎌足を始祖とする藤原氏は、大中臣氏の末裔で、その血統に自分も属していることを言わんとした。4句目の「ももえ」は、たくさんの枝に分れることで、たくさんの血脈に例えている。「藤原の源流でもある御裳濯川の大中臣氏に籍(堰)を入れて、百枝の松の中に私の歌も掛げて神に奉げて下さい」と、俊成に懇願するのである。
かえし、「藤波も 御裳濯川の 末なれば しづ枝もかけよ 松の百枝に」 藤原俊成
出典・『西行全和歌集』の「御裳濯河歌合」の73番目にある歌で、『風雅集』の神祇にもある。4句目の「しづ枝」は、松の下の枝の下枝ではなく賤枝を比喩し、自身も身分の低い者と俊成は謙遜した。「藤原も大中臣氏の末裔ならば、百枝の松に賤枝を掛けることにしましよう」と、「御裳濯河歌合」の判詞を書き終えて返しの歌を添えるのであった。
中尊寺金色堂(ウェブのコピー) 束稲山(ウェブのコピー)
(12)、奥州再訪の旅路(69歳―70歳)
二度目の奥州平泉の訪問は、文治2年(1186年)の9月頃とされ、西行法師は齢69歳の老骨に鞭打っての旅となったが、おそらく、その殆どは馬に鞭打っての旅であったであろう。その目的は、東大寺大仏殿再建のため、大勧進職・重源(1121―1206年)の要請を受け、3代目・藤原秀衡(1122?―1187年)から寄進を得ることであった。
鎌倉ではこの年の8月中旬、源頼朝(1147―1199年)と面会して弓馬や和歌について語ったとされる。頼朝から銀製の猫の置物を貰い受けたが、門外で遊ぶ子供に与えた言う伝説が有名である。この頃、頼朝の弟・源義経(1159―1189年)は、頼朝に追われ、奇しくも西行法師が草庵を結んでいた吉野山に潜伏していた。義経との接点はないが、崇徳院や平清盛の没落を見て来た西行法師にとっては、気がかりな存在であったと思われる。結局、文治3年(1187年)9月頃に平泉に落ち延びた義経は、翌年の春に秀衡が没したこともあって、子の泰衡(1153?―1189年)の襲撃を受け衣川館で自害した。
今回の奥州再訪問の旅路では、17首の歌を選んだが、確実に詠まれたと断定できる歌は6・7首ほどで、他は推定の範囲内であることを前置きしたい。また、寄り道したと思われる場所も前回の旅で詠んだ可能性が高いので、今後の研究に委ねたい。
257番、「朝風に みなとをいづる とも舟は 高師の山の もみぢなりけり」
出典・『補遺』の53番目の歌で、「題しらず一」の3首の1首の歌でもある。「高師の山」は、現在の愛知県豊橋市にある高師の原とされる歌枕である。一説によると、西行法師は伊良湖崎から奥州に向ったとされ、伊良湖崎から更に船で豊橋を経由したのだろう。この歌からも船から眺めたようで、「秋風が吹く頃、大漁旗を掲げ港を連なって出て行く船は、高師の山の紅葉のようだ」と詠じた。別の解釈をすると、錦の紅葉を錦の大漁旗と見間違えた歌にも思える。
258番、「年たけて 又こゆべしと 思ひきや 命なりけり さやの中山」
出典・『山家集』の羈旅歌113番目の歌で、詞書には「あづまの方へ、相知りたる人のもとへまかりけるに、さやの中山見しことの、昔になりたりける、思ひ出でられて」とある。「年たけて」とあることから年齢を重ねたことを意味し、二度目の旅であったされる。「年齢を重ね、再び小夜の中山を越えるとは思ってみなかった。それは命があってのことなんだなあ」と詠んだ。
259番、「涙のみ かきくらさるる 旅なれや さやかに見よと 月はすめども」
出典・『山家集』の羈旅歌114番目の歌で、詞書には「駿河の国久能の山寺にて、月を見てよみける」とある。「久能の山寺」は、現在の久能山東照宮が建っているが、平安時代は行基菩薩が開基した久能寺があった。その山寺で月を見て、「涙のみを流し搔き暮れる旅ではあるけれど、澄みきった月は清かに見よと言ってくれる」と、月に励まされていることを詠んだ。
260番、「けぶり立つ 富士に思ひの あらそひて よだけき恋を するがへぞ行く」
出典・『山家集』の恋歌115番目の歌で、「恋」と題した72首の40番目の歌でもある。富士山を詠んだ歌は、『山家集』に4首が記載されているが、1首は登蓮法師の作で、実際は3首である。その1首を最初の旅に、残り2首を2度目の旅に振り分けた。富士山の歌には季語がなく何時の季節に詠まれたかは不明で、本当に眺めたかどうかも不明である。2度目の旅では、急ぎ旅だったので、富士山の前を往復したのは明らかである。この歌は、「富士山に立ちのほる煙は、激しい恋でもするが如くに思いを争い、駿河の方に行くようだ」と、富士の煙を恋に例え、すがる気持ちを駿河に掛けて詠じた。
261番、「箱根山 こずゑもまだや 冬ならむ 二見は松の ゆきのむらぎえ」
出典・『聞書集』の48番目の歌で、「松上残雪」と題した2首の1首である。「箱根山」は、相模国の箱根山とされ、「二見」は、伊勢国の二見浦とされる。初春の歌なので、一度目の旅は秋、二度目の旅は夏なので、箱根山の残雪は眺めていない。それでも歌枕の箱根山を詠じたいと思ったようだ。「箱根山は木々の梢もまだ冬であろう。二見浦では松の上に雪がまばらに残っているだけである」と、二見浦から箱根山の初春を想像して詠んだようである。
262番、「むかしおもふ 心ありてぞ ながめつる 墨田河原の ありあけの月」
出典・『補遺』の87番目の歌で、詞書に「旅の歌とて」と題した6首の3番目の歌でもある。「隅田河原」は、武蔵と下総の国に境の川で、現在の隅田川上流の荒川が該当する。河原や池畔で眺める月は格別で、何度も眺めて来た月や昔の歌人の歌を懐かしみ詠んだようだ。歌の意味は、「昔の事を懐かしく思う気持ちがあって眺めている。隅田川の河原に懸かる有明けの月を」となる。全く同じ雲がないように、全く同じ有明けの月も存在しない。そんな月の魅力を現代人以上に感じ取った歌である。
263番、「都近き 小野大原を 思ひ出づる 柴の煙の あわれなるかな」
出典・『山家集』の羈旅歌117番目の歌で、詞書には「下野の国にて、柴の煙を見てよみける」とある。「小野大原」は、京郊外の小野の里と大原の里である。「柴の煙」は、炭焼き小屋の煙を意味する。「下野で炭を焼く煙を見ていると、都近くの小野や大原を思い出して感慨深い気持ちになるよ」と、遠く離れた場所にも炭焼きの煙があることに心惹かれたようである。
264番、「さみだれに 佐野の舟橋 うきぬれば のりてぞ人は さしわたるらむ」
出典・『山家集』の夏歌76番目の歌で、詞書には「ある所にて五月雨の歌十五首よみ侍りし、人にかはりて」とある。佐野の渡し場に関しては諸説があるが、群馬県高崎市にあったする説を採りたい。平明な歌で、「五月雨で水かさが増し浮いた舟橋は、人が乗ったまま棹をさして渡った方がよいかも」と、そのまま読める。この歌の本歌取にしたのが藤原定家の歌で、佐野の渡し場を一躍有名にした。その歌は、「駒とめて 袖うちはらふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮」と絶唱とされる歌である。
265番、「道の辺に 清水ながるる 柳蔭 しばしとてこそ 立ちとまりつれ」
出典・『山家集』の夏歌110番目の歌で、「題しらず七」の6首の2番目の歌でもある。栃木県那須町にある芦野の「遊行柳」が西行法師が歌に詠んだ柳とされている。路傍に清水が流れる柳の木陰であって、そこで少し休もうと思った西行法師は立ち寄った。しかし、その涼しさに長居してしまったことを詠んだ歌である。その後、西行法師の足跡を慕って訪ねた松尾芭蕉翁は、「田一枚 植ゑて立去る 柳かな」と吟じた。更に芭蕉翁を慕った与謝蕪村は、「柳散清水涸石処ゞ(やなぎちりしみずかれいしところどころ)」と漢詩調の句を詠んだ。その3人の歌碑と句碑が、遊行柳の側に時空を超えて立っていたことを思い出す。
266番、「ひろせ河 わたりの沖の みをつくし みかさそうらし 五月雨のころ」
出典・『山家集』の夏歌70番目の歌で、「ある所にて五月雨の歌十五首よみ侍りし、人にかはりて」と題した16首の4番目の歌でもある。誰に代わって詠まれた歌なのかは不明であるが、述懐の歌と理解される。「ひろせ河」は、大和国奈良の広瀬川とされているが、陸奥国千代(仙台)の広瀬川も想定される。いずれも歌枕となっていて、「わたりの沖」は、地名の亘理を掛けているとも感じられる。また、奈良の広瀬川では沖のイメージは伝わらない。そんな理由からかは知れないが、広瀬川を仙台とする説が多い。この歌は、「広瀬川の渡しの沖の澪つくし(水杭)は、五月雨の頃は水嵩が深くなるそうである」と、解釈される。
267番、「涙をば 衣川にぞ 流しつる ふるき都を おもひ出でつつ」
出典・『山家集』の羈旅歌127番目の歌で、詞書には「奈良の僧、とがのことによりて、あまた陸奥国へ遣はされしに、中尊寺と申す所にまかりあひて、都の物語すれば、涙ながす、いとあはれなり。かかることは、かたきことなり、命あれば物がたりにもせむと申して、遠国述懐と申すことをよみ侍りしに」とある。詞書の内容は、「奈良の僧が咎により、多くが陸奥の中尊寺と言う寺に送られて来た。その僧がら都の話などを聞いて、涙を流すほど哀れに思えた。このような貴重な話は、私の命が永らえるならば物語と残したいと思い、遠国を述懐すると題した歌を詠みました」となる。「遠く離れた陸奥の国で、故郷でもある都のことを思い出し、衣川に涙を流しました」と、衣の袖を濡らしたことを掛けて詠んだ。
西行法師が平泉の藤原氏を尋ねた頃は、2代目・基衡は29年前に亡くなっていて、3代目・秀衡(1122?―1187年)が当主となっていた。しかし、秀衡は翌年に亡くなるのて、実権は4代目の泰衡(1155?―1189年)が握っていたので、泰衡と交渉して大仏殿再建の寄進をうけたと推察する。また、泰衡の歓待を受け、翌年の文治3年(1187年)の初春まで滞在した可能性は高く、白河の関で桜の花を詠んだ歌があることからも推察できる。
268番、「抑ふれど 涙ぞさらに とどまらぬ 衣の関に あらぬ袂は」
出典・『松屋本山家集』の「恋百十首」と題した中の1首で、平泉を思って詠まれた歌と理解される。この歌は、「抑えても抑えても涙が止らない。衣の関(平泉)の滅亡に思わず涙で衣の袂は重くなる」と、解釈される。西行法師が平泉を去った翌年の文治5年(1189年)9月初旬、源頼朝は大軍を率いて奥州合戦を仕掛け、奥州藤原氏を滅亡させるのである。その話を聞いた西行法師は、自分に関わった平家一門、奥州藤原氏の滅亡に対して痛恨の涙を流したと想像したい。
269番、「白河の 関路の桜 さきにけり あづまより来る 人のまれなる」
出典・『補遺』の13番目の歌で、詞書に「花」と題した14首の6番目の歌でもある。平泉からの帰路の歌であるのは明確で、白河の関の春を歌に詠んだことに意義を感じる。以前訪ねた時は、秋だったので、能因法師の和歌も秋風を詠んでいる。カメラマンがシャッターチャンスを待つように、春の桜を狙っていたようだ。この歌はそのまま読める歌で、「白河の関への旅路では、桜の花が咲いている。そんな季節なのに東の方から来る旅人は稀に見られるだけである」と、みちのくを訪れる人の少なさを詠んでいる。源頼朝の奥州征伐が予測されたのか、不気味な静かさが奥州に漂っていたようにも受け止められる。
270番、「ながむながむ 散りなむことを 君もおもへ 黒髪山に 花さきにけり」
出典・『聞書集』の59番目の歌で、詞書には「老人見花」と題してある。「黒髪山」は、現在の栃木県日光市にある標高2486mの男体山の別名で、当時は日光修験の霊山として知られ、歌枕の山でもあった。詞書には、「老人が花を見る」とあるので、老齢となった自分を自覚しているようだ。「有名な黒髪山にも桜の花が咲いている。眺め眺めて終には散る老人のことを君たちにも思って欲しい」と、花の歌人の名を伝え残そうとした心理が窺える。
271番、「雨しのぐ 身延の郷の かき柴に 巣立はじむる 鴬のこゑ」
出典・『山家集』の春歌70番目の歌で、「題しらず五」の5首の4番目の歌でもある。「身延の郷」は、現在の山梨県身延町で、平安時代は甲斐源氏の拠点として栄えた。身延と言えば、日蓮宗の聖地・身延山が有名であるがこの頃は創建されていない。この歌が詠まれた時期は不明であるが、違った方角から富士山を眺めたいと思う気持ちが、身延の郷に向かわせたと推測する。「身延の里に行った時、垣根の側で雨を凌いでいると、柴の木から巣立ちはじめるウグイスの声が聞こえてきた」と、雨宿りしながら見た思わぬウグイスの巣立ちに目を細めたことであろう。
272番、「いつとなき 思ひは富士の 烟にて うちふす床や うき島が原」
出典・『山家集』の恋歌214番目の歌で、「恋百十首」と題した中の67番目の歌でもある。「うき島が原」は、現在の静岡県富士宮市にある浮島ヶ原自然公園で、広い湿原地帯となっている。そこで眺めた富士山を、「いつまでも続く恋の思いは、富士山の煙のように消えず、起き伏す寝床は、浮島ヶ原の湿原のように涙で濡れている」と、絶ち切れない恋慕に例えて詠んだ。
佐佐木信綱校訂の『山家集』には、268首の恋歌が収められているが、秋歌の318首に次ぐ多さである。その中には、「涙」を詠んだ歌が40首、涙を思わせる歌が32首にも及び、花の詩人ではなく、涙の詩人と称した方が良いとも思われる。松尾芭蕉翁も「おくのほそ道」では、5度の涙を句や俳文に記している。詩人を代表とする芸術家の多くは感性が極めて繊細で、悲哀に関する感情もデリケートで豊かであると言える。その最高作と評価したい歌は、「雑歌」の126番目に「かくて後、人のまゐるに」と詞書し、崇徳院の崩御に対する涙で、「その日より 落つる涙を 形見にて 思ひ忘るる 時の間もなし」であろう。
273番、「出でながら 雲にかくるる 月かげを かさねて待つや 二むらの山」
出典・『山家集』の秋歌129番目の歌で、詞書には「久しく月を待つといふことを」とある。「二むらの山」は、現在の愛知県豊明市にある標高72mの二村山で、三河国と尾張国に跨る歌枕の山でもある。京からの距離を考えても奥州からの帰路に立ち寄ったと考えられる。分かり易い歌で、「二村山から出て来た月は雲にかくれてしまった。その月影を群がる雲から再び現れることを時間を重ねて待っている」と、掛詞を交えて詠じている。二村山にはその後の建長元年(1190年)ⅰ0月、源頼朝が初上京の際に立ち寄り、和歌を詠んだとされる。その歌は、「よそに見し をささ(小笹)が上の 白露を たもとにかくる 二村の山」の歌で、『続古今集』に選ばれ、頼朝の和歌は珍しい。4句目と結句が類似していて、西行法師の本歌取とも言える。
嵐山渡橋(令和3年撮影) 二尊院西行庵跡(ウェブのコピー)
(13)、京・嵯峨野の草庵(70歳―72歳)
文治3年(1187年)の夏頃、約一年余に及ぶ奥州の旅から戻った西行法師は、伊勢にも高野山にも戻らず、京に入ったようである。晩年は京の都近くで過ごしたいと思ったのだろう。嵯峨野に入って再び草庵を結ぶことになる。おそらく、二尊院が近くであったと想定される。ある意味で嵯峨野は、出家当初から暮らした場所で、第二の故郷とも思っていたと考えられる。西行法師が高野山に戻らなかった理由を考えると、僧綱を得た正規な僧でもなく、隠居生活を保障されていなかったことも一因と思われる。いずれしてもこの時点では、嵯峨野を終の棲家と考えたのは明らかであろう。
この頃の出来事としては、文治5年(1189年)9月初旬、源頼朝が藤原泰衡を討って奥州藤原氏は滅亡している。この年には、比叡山無動寺に慈円大僧正(1155―1225年)を訪問している。西行法師を和歌の師と仰ぐ若輩者が多く、慈円もその1人で、藤原俊成の子・定家(1162―1241年)もそうである。西行法師は定家の和歌の才覚を評価していて、「宮河歌合」の判詞を依頼している。また、『方丈記』の作者である鴨長明(1155―1216年)は、伊勢二見浦の草庵を訪ねたが、丁度、西行法師が奥州に旅立った直後で、面会できなかったと言うエピソードがある。
274番、「おぼつかな 春の日数の ふるままに 嵯峨野の雪は 消えやしぬらむ」
出典・『山家集』の春.歌20番目の歌で、詞書には「嵯峨にまかりたりけるに、雪ふかかりけるを見おきて出でしことなど申し遣はすとて」とある。この歌は、静忍法師(生没年不詳)との贈答歌で、晩年の作と推定した。静忍法師は、別称は忍西入道とも称され、西山から嵯峨野に移った草庵の友でもあった。分かり易い歌で、漢字に置きかえると、「覚束ない春の日数の降るまま時が過ぎても嵯峨野の雪は消えませんね」と、訳する必要のない平明な言葉で歌を贈るのである。
かへし、「立ち帰り 君やとひくと 待つほどに まだ消えやらず 野辺のあわ雪」 静忍法師
「奥州の旅から貴方が帰られることを待っていました。化野の野辺では未だに雪が消えず淡雪が舞っています」と、返したと解釈する。ちょと難解な返答歌であるが、西行法師に関わった人々は、奥州への勧請の旅を周知していたと考える。
275番、「ぬしいかに 風渡るとて いとふらむ よそにうれしき 梅の匂を」
出典・『山家集』の春.歌55番目の歌で、詞書には「嵯峨に住みけるに、道を隔てて坊の侍りけるより、梅の風にちりけるを」とある。詞書から住んでいる草庵の前に寺坊があったようで、その庭の梅を愛でいる。「寺坊の主は戸を閉じて、風が吹く渡る風情を何で厭うのだろう。そんなことを他所に、私の草庵に梅の香りが運ばれて来るのが嬉しい」と、風の齎す幸を詠んだ。
276番、「水無瀬河 をちのかよひぢ 水みちて 船わたりする 五月雨の頃」
出典・『山家集』の夏歌69番目の歌で、「ある所にて五月雨の歌十五首よみ侍りし、人にかはりて」と題した16首の3番目の歌でもある。「水無瀬河」は、水の無い川の代名詞であるが、この歌では、現在の大阪府島本町にある水無瀬川を指し、歌枕の川としても知られる。嵯峨野嵐山の大井川(桂川)は、下流で宇治川・木津川と合流して淀川となるが、その分流の一部が水無瀬川と呼ばれている。その川を、「普段は水が少ない船の水路であるが、五月雨が降る頃は水路が満ちて船も往来する」と詠んだ。
277番、「やどしもつ 月の光の 大沢は いかにいづとも ひろ沢の池」
出典・『山家集』の秋歌147番目の歌で、詞書に「同じこころを遍照寺にて人々よみけるに」とある。「遍照寺」は、現在も広沢池の南側に建っている小さな寺である。この歌は、校訂ミスとも思われる歌で、『西行全歌集』では3句目が「ををしさは」、4句目が「いかにいへども」となっている。『山家集』の歌は、「月の光を池が宿し持つと思うと、大沢の池が如何に出でも広沢の池が宿す月の光が広い」と、池の月を比較した歌とも読める。一方、『西行全歌集』の歌は、「月の光を池が宿し持つと思うと、その雄々しさは何を指しても広沢の池に及ばない」と、広沢池を褒め称えた歌となる。『西行全歌集』の歌の方が正しいと思うし、大沢池は雅な庭園の池で、広沢池は鄙びた灌漑の池の違いがある。
278番、「荒れわたる 草のいほりに もる月を 袖にうつして ながめつるかな」
出典・『山家集』の秋歌213番目の歌で、詞書に「月の歌あまたよみけるに」と題した42番の12番目の歌でもある。嵯峨野の草庵で詠まれた歌か否かは確証できないが、何となく嵯峨野の草庵での歌と想定した。分かり易い歌で、そのまま、「荒れ果てた草庵に洩れる月の明りを、孤高の涙にぬれた袖に写して眺めている」と読める。
279番、「ひとりすむ いほりの月の さし来ずば 何か山べの 友とならまし」
出典・『山家集』の秋歌249番目の歌で、「題しらず十一」の33首の6番目にある歌でもある。この歌も孤高の庵を詠んでいるので、嵯峨野で詠まれたと想定した。「独り住む庵に月の光が差し込まないと、何のための山辺の暮らしなのか分からず、月は孤高の友になる」と詠じた。「春は花 夏はととぎす 秋は月 冬雪冴えて 涼しかりけり」と、道元禅師(1200ー1253年)の歌ではないが、四季折々が西行法師の友で、山川草木も友であったと痛感する。
280番、「玉がきは あけも緑も 埋もれて 雪おもしろき 松の尾の山」
出典・『山家集』の冬歌69番目の歌で、詞書には「社頭雪」とある。「松の尾」は、奈良時代に創建された松尾神社で、元々は標高223mの松尾山の山頂に鎮座されていたようだ。嵯峨野から最も近い大社で、頻繁に参拝していたと思われる。この歌の意味は、「松尾神社前の玉垣は、朱色の板垣も緑色の垣根も真っ白な雪に半ば埋もれている景色が面白い」と、解釈する。社殿のコントラストな景観を面白く眺めた目線は、現在にも通じる美意識である。
28ⅰ番、「つつめども 人しる恋や 大井川 ゐせぎのひまを くぐる白波」
出典・『山家集』の恋歌175番目の歌で、「恋百十首」と題する中の28番目の歌でもある。「大井川」は、渡月橋を挟んだ上流の広い流域で、現在は大堰川と呼ばれ、更に上流は保津川(保津峡)となっている。また、渡月橋の下流は、桂川と称されて複雑な川で、名称を統一した方が外国人観光客にも分かり易くなると思う。この歌は川の名前のように難解で、「包み隠しても自分の恋は人の知ることになる。例えるなら大井川の井関の隙間を白波が潜るようなものである」と、詠んだと解釈する。
282番、「いとどいかに 山を出でしと おもふらむ 心の月を 独すまして」
出典・『山家集』の雑歌119番目の贈答歌で、詞書には「前大僧正慈鎮、無動寺に住み侍りけるに、申し遣しける」とある。「前大僧正慈鎮」は、慈円大僧正(1155―1225年)のことで、天台宗座主となった高僧である。西行法師よりは、37歳も年少であったが、西行法師を和歌の師と慕っていた。この歌は、「如何に考えて比叡山を出まいと思っているのだろうか。心に宿る仏心を月の光明のように独り澄ましている様子に見える」と、詠んで贈ったエールに感じられる。
かへし、「うき身こそ なほ山陰に しづめども 心にうかぶ 月を見せばや」 前大僧正慈鎮
「憂世に浮いた我が身を尚も山陰に潜み鎮めているが、私の仏心に浮かぶ月の輝きを見せたいものです」と返したのである。天台宗の慈円大僧正は、西行法師との交流からライバル関係にあったにも関わらず、高野山真言宗の御詠歌を作っている。
283番、「いにしへを こふる涙の 色に似て 袂にちるは 紅葉なりけり」
出典・『山家集』の雑歌220番目の歌で、詞書には「寄紅葉懐旧といふことを、法金剛院にてよみけるに」とある。「法金剛院」は、西行法師が思慕した待賢門院璋子(1101―1145年)が中興し、葬られた寺である。嵯峨野から離れてもおらず、待賢門院が作庭させた「青女の滝」は、日本最古の人工滝として国の特別名勝に指定されている。その寺を参詣し、「古に恋しく思った時の涙は、真っ赤な色のように燃えて袂を濡らした。いま袂に散るのはその時の紅葉である」と、述懐する。
284番、「此里や さがのみかりの 跡ならむ 野山もはては あせかはりけり」
出典・『山家集』の雑歌228番目の歌で、詞書には「嵯峨野の、みし世にもかはりてあらぬやうになりて、人いなむとしたりけるを見て」とある。「さがのみかり」は、嵯峨の御狩と漢字表記される天皇の狩猟場のようだ。その旧跡を訪ねて、「この里は、嵯峨野の狩猟場の跡と言う。野山も荒れ果てて褪せ変ってしまった」と、昔に見た時の景色と異なった有様を詠んだ。
285番、「庭の岩に めたつる人も なからまし かどあるさまに たてしおかねば」
出典・『山家集』の雑歌229番目の歌で、詞書には「大覚寺の、金岡がたてたる石を見て」とある。「大覚寺」は、平安時代初期の嵯峨天皇の離宮が改められて真言宗の寺となった。「金岡」は、絵師の巨勢金岡のことで、大沢池の庭石を配したとされる。その庭石を眺め、「池の岩や石を目立った場所に配置しなかったら人は気にも留めなかったであろう。金岡が石の角を頂点した有様に立てなかったならば」と、庭石の見立てを詠んでいる。おそらく、名古曽の滝の石組みも金岡の作であろう。歌枕にもなっていて、西行法師も「今だにも かかりと云ひし 瀧つ瀬の その折までは 昔なりけむ」と、名古曽の滝を詠んでいる。
286番、「うらうらと しなんずるなと 思ひとけば 心のやがて さぞとこたふる」
出典・『山家集』の哀愁歌98番目の歌で、「百首の歌の中に無常十首」と題した10首の8番目の歌でもある。この歌は、地名を記した詞書もなく、嵯峨野で詠まれた歌ではないが、歌の内容からして晩年に詠まれた歌であろう。居場所を失った秀歌なので、ここに収録することにした。この歌は、「やすらかに死にたいと思うと、心はすぐさまそうだと答える自分がいる」と、無常よりも死生観を詠じた歌に感じる。人は誰でも生まれて来る選択はできないけれど、死に対する考え方は自由である。
287番、「うなゐ子が すさみにならす 麦笛の こゑにおどろく 夏のひるぶし」
出典・『聞書集』の166番目の歌で、「嵯峨に棲みけるに、たはぶれ歌とて人々よみけるを」と題した13首の1番目の歌でもある。結句の「ひるぶし」は、昼伏と漢字表記されるので、昼寝を指す。この歌の意味は、「うない髪の子供が気ままに吹き鳴らす麦笛の音に、はっと驚いて夏の昼寝から目が覚めた」となる。うない髪は、12・3歳の子供がうなじで束ねた髪形と言う。
288番、「竹馬を 杖にも今日は たのむかな わらわ遊びを おもひいでつつ」
出典・『聞書集』の168番目の歌で、「嵯峨に棲みけるに、たはぶれ歌とて人々よみけるを」と題した13首の3番目の歌でもある。西行法師は花鳥風月を詠んだ歌が多いが、子供の遊びからヒントを得た作品は珍しい。この歌の意味は、「竹馬を今日は杖代わりに頼ることにしよう。子供の頃の遊びを思い出しながら」となる。竹馬はちょっと大きく重いので杖の代わりにならないと思うが、杖を必要とする年齢になっていたようだ。
289番、「昔せし かくれ遊びに なりなばや かたすみもとに よりふせりつつ」
出典・『聞書集』の169番目の歌で、「嵯峨に棲みけるに、たはぶれ歌とて人々よみけるを」と題した13首の4番目の歌でもある。長く続いた戦乱も治まり、嵯峨野にも平和が戻って来た様子を感じさせる歌である。この歌は、「昔に遊んだ隠れんぼのようになればいい。草庵の片隅にでも寄り伏せながら」と、童心に帰って戯れる様子を詠んでいる。
290番、「恋しきを たはぶれられし そのかみの いはけなかりし 折のこころは」
出典・『聞書集』の175番目の歌で、「嵯峨に棲みけるに、たはぶれ歌とて人々よみけるを」と題した13首の10番目の歌でもある。詞書からは、西行法師の草庵に人々が集まって、戯れの歌をテーマに詠んだとあるので、四方山話や昔話に花が咲いていたと推察する。この歌は解釈に苦慮するが、「初恋をからかわれて赤面したことがある。その昔のあどけなかった心は何処に行ったのであろう」と、詠んだと解釈する。『山家集』の恋歌では268首の詠まれているが、何人の女性や男性を恋しく思ったのかが気になる所である。出家しても煩悩を捨てず、心の自由を謳歌した姿も西行法師の魅力の1つである。
29ⅰ番、「はちす咲く みぎはの波の うちいでて 説くらむ法を 心にぞ聞く」
出典・『聞書集』の34番目の歌で、詞書には「阿弥陀経」とある。いつ頃の作か、どこで詠まれたかも不明であるが、晩年の作と想定した。この歌は、道歌と呼ぶのが相応しく、「蓮の花の咲く池の汀に風が吹くと、阿弥陀経の説く仏法が心の内に現れて、その清らかな声明を聞いている」と、現世でも極楽浄土が心の中にあると詠じた。
292番、「光させば さめぬかなへの 湯なれども はちすの池と なるめるものを」
出典・『聞書集』の215番目の歌で、詞書には「阿弥陀の光願にまかせて、重業障のものをきらはず、地獄をてらしたまふにより、地獄のかなへの湯、淸冷の池になりて、はちすひらけたるところを、かきあらはせるを見て」とある。文治5年(1189年)の頃は、法然上人(1133ー1212年)が阿弥陀経を信奉して、浄土宗を開宗してⅰ5年を経ていたので、西行法師も阿弥陀経に関心を寄せていたと思われる。上句の「かなへの湯」は、鼎(古代中国の煮炊き用の器)の湯が沸騰してひっくり返る様子から人々が混乱することを比喩している。詞書の「重業障」は、仏道の妨げとなる悪行を重ねることを意味するようだ。詞書の訳は省略するが、歌の意味は、「阿弥陀仏(如来)が衆生を救わんとする光願が射すと、常に冷めない地獄の鼎の湯でも極楽にある蓮の池のようになるものでしょう」と、阿弥陀仏を讃歌した。
293番、「いかばかり あはれなるらむ ゆふまぐれ ただ一人ゆく 旅のなかぞら」
出典・『聞書集』の232番目の歌で、詞書には「中有の心を」とある。「中有」は、仏教用語で人が死んで次に生まれるまでの間の時間とされ、四十九日が通例のようである。この歌は、旅の中空に中有を暗喩させ、「どんなに哀れになるのだろうか、夕暮れて暗くなる旅路を独り行く私は、まだ中空にある」と、中空から生まれ変わる明日を詠じた。
294番、「鳰てるや なぎたる朝に 見渡せば こぎゆくあとの 波だにもなし」
出典・『補遺』の69番目の歌で、詞書には「無動寺へ登りて大乗院のはなち出に湖を見やりて」とある。「鳰てるや」の鳰は、鳰は水鳥のカイツブリの名前であるが、この歌では琵琶湖の古称の鳰の海を指している。「無動寺」は、比叡山延暦寺の塔頭の1つで、大乗院はその住坊であった。当時は、慈円大僧正がいて、大乗院の放ち出の客間から琵琶湖を眺めたようである。「琵琶湖が照り輝き凪ぎとなった朝を見渡すと、、漕ぎ行く船の波の跡さえ残らない」と、水墨画のような静かさを詠んでいる。
295番、「萌えいづる 峯のさ蕨 なき人の かたみにつみて みるもはかなし」
出典・『補遺』の103番目の歌で、詞書には「源氏物語の巻々を見るによめる」とある。2句目の「さ蕨」は、芽を出したばかりのワラビで早蕨とも表記する。「源氏物語第四十八帖早蕨の部」で、宇治の中君が詠んだ、「この春は 誰にか見せむ 亡き人の 形見に摘める 嶺の早蕨」の歌を本歌取している。西行法師の歌は、「萌え出でている峯のサワラビを、亡き人の形見のように摘むのは儚いことかも知れない」と訳せるが、何となく贈答歌の返しのような歌の雰囲気である。
西行法師が紫式部(973?ー1031年頃)の『源氏物語』を読んでいたのは、ちょっと意外に思われる。平安時代末期となっても『源氏物語』は愛読されたようで、現在でも揺るぎないファンがいるので、文学作品として日本第一ではないかと考える。その次ぎは藤原定家の『小倉百人一首』か、松尾芭蕉翁の『おくのほそ道』と個人的には思っている。
嵯峨野の草庵には、何歳まで暮らしたかは定かではないが、藤原定家に依頼していた「宮河歌合」の判詞が完成したの文治5年(1189年)ⅰ0月で、この時は河内の弘川寺で病床にあった時とされるので、その年の夏頃までは嵯峨野に居たと推測する。
弘川寺西行庵(ウェブのコピー) 弘川寺西行墓(ウェブのコピー)
(14)、弘川寺での終焉(72―73歳)
西行法師の終焉の地となったのは、河内国の弘川寺であった。現在の大阪府河南町にある真言宗醍醐派の寺で、白鳳時代の天智天皇4年(665年)に役行者小角によって開基されたと伝承される。西行法師が広川寺を訪ねたのは、文治4年(1188年)に後鳥羽天皇の病気平癒を祈祷して名声を得た空寂上人(生年没不詳)を知ってのことであった。しかし、西行法師は文治5年(1189年)の秋頃から体調を崩し、弘川寺に留まることになった。そして、翌年の文治6年(1190年)2月ⅰ6日(新暦3月31日)、釈迦が入滅した翌日、桜の花の咲いた頃に西行法師は弘川寺で入滅する。享年73歳、その日は満月であったと言われ、同年の平清盛より9年も長生きし、完成したばかりの「宮河歌合」を冥途への土産として手にしていた。
その後の出来事としては、建久3年(1192年)7月、源頼朝は征夷大将になり鎌倉幕府を開いた。建久6年(1195年)2月には、東大寺大仏殿の落慶供養が行われ、源頼朝も参列している。鎌倉時代中期には、『西行物語絵巻』が完成され、後鳥羽上皇は、生まれながらの才能のある「生得の歌人」と評した。しかし、後鳥羽上皇は、「承久の乱」で鎌倉幕府軍に敗北して、子の土御門上皇、順徳上皇と共に配流となる。後鳥羽上皇は隠岐に流され崩御するが、どことなく崇徳院の悲話と重なる。
296番、「世の中を おもへばなべて 散る花の 我身をさても いづちかもせむ」
出典・『山家集』の春歌225番目の歌で、「落花の歌あまたよみけるに」と題した36首の32番目の歌でもある。弘川寺で詠まれたと断定できる歌は1首もなく、『弘川寺での終焉』章の5首は、西行法師の最後に相応しい歌として選んだ。296番の歌は、「世の中を思うと、すべてが散る花のように儚く、私の身もさてさてどうなることやら」と訳され、花のように潔く散れない人生を暗示している。この歌はまた、『新古今集』にも選ばれた秀歌でもある。
297番、「ひまもなく ふりくる雨の あしよりも 数かぎりなく 君が御代かな」
出典・『山家集』の賀歌2番目の歌で、「祝」と題した13首の1首目の歌でもある。日本の国歌は、「君が代は 千代に八千代にさざれ石の 厳となりて 苔のむぶまで」となっているが、『古今集』の賀歌にある読み人しらずの和歌から採られたことは知る人は少ないと思う。西行法師はその歌を知っていて、類似した歌を多く詠んでいる。その1首がこの歌で、直訳すると、「隙もなく降りしきる雨脚の長さよりも数限りなく続く君が御代である」となる。しかし、小石のさざれ石が岩の厳となって苔が生えて、無限に近い八千代まで続くと詠んだ歌の方が優れていると思う。
298番、「山深く さこそ心は かよふとも 住まであはれは 知らむ物かは」
出典・『山家集』の雑歌249番目の歌で、「山家のこころを」と題した4首の最後の歌でもある。『新古今集』の雑歌にも選集されていて、道歌と考えてもよい秀歌である。歌の大意は、「深山幽谷に心が魅かれて通ったとしても、四季を通じて山居しなれければ、物の哀れや幽玄さを知ることはできない」となる。ただうわべの知識ではなく、実践して得た知識が大切と説いているのである。職人肌の空海大師が、学者肌の最澄大師と袂を分かったことにも共通する価値観である。
299番、「ひとすぢに こころのいろを 染むるかな たなびくわたる 紫の雲」
出典・『聞書集』の144番目の歌で、「十楽」と題した10首の1番目の歌でもある。1首目は聖衆来楽、2首目は蓮花初開楽、3首目は身相神通楽、4首目は五妙境界楽、5首目は快楽無退楽、6首目は引接結縁楽、7首目は聖衆俱会楽、8首目は見佛聞法楽、9首目は随心供佛楽、10首目は増進佛道楽となっている。詳細については省略するが、極楽浄土の十楽の概念を詠んだもので、西行法師の仏教に対する知識は、気まぐれな歌僧のイメージを覆している。この歌は、誰でも理解できる言葉で、「一筋に心の色を染めるように専修念仏をする。すると棚引き渡る紫の雲が来迎して浄土へと導く」と説いている。
300番、「ねがはくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの もち月の頃」
出典・『山家集』の春歌140番目の歌で、「花の歌あまたよみけるに」と題した27首の18番目の歌でもある。また、『続古今集』の雑歌にも選ばれている。西行法師を代表する歌で、60歳頃に詠まれた歌ではあるが、辞世歌そのもので、最後の歌に相応しく選んだ。4句目の「きさらぎ」は、旧暦の2月のことで、新暦では3月となる。西行法師のロマンは、「願いとするのは、桜の花が咲いている春に死にたい。その日は2月15日、月も満ちた望月の頃である」と詠じ、釈迦の入滅日に好きだった花と月に見守られて往生したいと願ったのである。西行法師の波乱に満ち人生は、和歌を通じて多大な影響を日本人に与えた。
西行法師は入滅後、最も有名な歌人として語り継がれたが、その墓の存在は周知されることはなかった。江戸時代に入った享保17年(1732年)に、西行法師の足跡を訪ねて行脚していた浄土真宗の僧・似雲(1673ー1753年)が弘川寺で「西行塚(墓)」を発見するのである。西行法師が入滅し、542年を経ていて、歴史的な発見となったのである。似雲は「西行堂」を建立し、墓守として生涯を閉じたのである。昭和61年(1986年)には、西行法師の800年遠忌を記念して「西行記念館」が境内に建てられた。現在の弘川寺には、約1500本の桜が植栽されているが、西行墓に桜がなかったのが残念に思われた。
(15)、西行法師の伝承歌
西行法師の『山家集』にもない和歌を探したところ、インターネットのウェブ情報などで81首もの伝承歌を見つけた。他にも色々とあったが駄作は省略した。伝承歌には、松尾芭蕉翁が西行作と信じきっていた歌もあって面白い。その伝承歌81首を下手な解釈を省略して紹介することにする。殆どが歌枕で、実際に訪ねたかは不明な場所もあるが、その所在地を併記する。
01「胡沙吹かば くもりもぞする みちのくの えぞには見せじ 秋の夜の月」 蝦夷地の遠望、青森県外ヶ浜町
02「子を思う 涙の雨の 笠の上に かかるもわびし やすかたの鳥」 善知鳥神社の歌碑、青森県青森市
03「富士見ずば ふじとはいわむ みちのくの 岩木の嶽を それとながめむ」 岩木山、青森県弘前市
04「問へば名を 岩手の山に 年を経て 朽ちや果てなん 谷の埋もれ木」 岩手山、岩手県盛岡市
05「陸奥の和賀と江刺の さかひこそ 川にはいなせ 山にはまた森」 稲瀬の渡し、岩手県奥州市
06「陸奥の 門岡山の ほととぎす 稲瀬の渡り かけて鳴くなり」 門岡山は不明、岩手県奥州市
07「陸奥の 束稲山の 桜花 よしのの外に かかるしらくも」 束稲山、岩手県平泉町
08「錦木を 朽ちし昔を 思ひいで 俤にたつ 橋のもみじ葉」 錦木塚、秋田県鹿角市
09「象潟や 桜の花に うづもれて はなの上こぐ 蜑のつり舟」 象潟、秋田県にかほ市
10「月にそふ 桂男の かよひ来て すすきはらむは 誰が子なるらん」 西行戻しの松、宮城県松島町
11「瀧の山 かへりもうでの 袖ふれて 石の鳥居も 細らぎやせし」 瀧山寺、山形県山形市
12「あかずして 別れし人の すむ里は 左波子の見ゆる 山の彼方か」 飯坂温泉、福島県福島市
13「陸奥の 宇多の尾浜の 片背貝 合せても見む 伊勢の爪白」 松川浦、福島県相馬市
14「陸奥の 高瀬の清水 来てみれば あほいのくきの 下にこそあれ」 高瀬の清水、福島県田村市
15「陸奥の 古奴実の浜に 一夜寝て 明日や拝まむ 波立の寺」 波立海岸の歌碑 福島県いわき市
16「陸奥の 信夫の里に やすらひで 勿来の関を 越えへぞわずらふ」 勿来の関公園の歌碑、福島県いわき市
17「心ある 人に見せばや みちのくの 矢祭山の 秋のけしきを」 矢祭山公園の歌碑、福島県矢祭町
18「世の人の 寝覚めせよとて 千鳥なく 名坂の里の 近き浜辺に」 石名坂の歌碑、茨城県日立市
19「花紅葉 よこたてにして 山姫の 錦織りなす 袋田の滝」 袋田の滝、茨城県大子町
20「大田尻 衣はなきが 裸島 沖吹く風に 身にはしまぬか」 鵜ノ島温泉の歌碑、茨城県日立市
2Ⅰ「おふ国分の 田ものの畦 名のみして ね覚せよとて 鳴く声ぞうき」 多賀市民プラザの歌碑、茨城県日立市
22「盛りには などか若葉は 今とても 心ひかるる 糸桜かな」 法輪寺の西行桜、栃木県大田原市
23「磯遠く 海辺も遠き 山中に わかめあるこそ 不思議なりけり」 筑波山、栃木県つくば市
24「深草の 野辺の桜木 心あらば 亦この里に 黒染に咲け」 貴船神社の黒染桜、千葉県東金市
25「浅川を 渡れば富士の 影清く 桑の都に 青嵐吹く」 桑の都は八王子、東京都八王子市
26「柴松の 葛のしげみに 妻こめて となみが原に 牡鹿鳴くなりむ」 正覚寺に歌碑 神奈川県相模原市
27「芝まとふ 葛のしげみに 妻こめて 砥上ヶ原に 牡鹿鳴くな里」 砥上ヶ原は鵠沼附近、神奈川県藤沢市
28「甲斐が根の 麓の原は みな暮て 夕日残れる はじかのの山」 大和中学校の歌碑、山梨県甲州市
29「罪咎を あらひ流して いさきよき 清き海野や にこりなるらん」 海野は海野宿、長野県東御市
30「望月の 御牧の駒は 寒からじ 布引山を 北と思えば」 布引山釈尊寺(布引観音)、長野県小諸市
31「三年経て 折々さらす 布引を けふ立ちこめて いつかきてみん」 布引観音の歌碑、長野県小諸市
32「花まつり 諏訪わたりも あるものを いつを限りに すべきつららぞ」 諏訪湖、長野県諏訪市
33「駒か嶽 すそ野の森に 来て見れば 小町か家に はやすなな草」 裾野の森は松本附近、長野県松本市
34「信濃なる 有明山を 西にみて 心細野の 道を急ぎぬ」 長峰山いこい広場公園の歌碑、長野県安曇野市
35「信濃なる あかしの松の ありながら なそくらしなの 里といふらむ」 大日堂園地の歌碑、長野県千曲市
36「信濃なる 富士とは言わむ 冠着の 峯に一夜は 月は見むとぞ」 治田公園の歌碑、長野県千曲市
37「佐野山や うつや斧音の 遠くとも ふもとのおじか 小夜に見えつる寺」 佐野山薬師堂、長野県千曲市
38「信濃なる 花なし山の うぐひすは 己を春と しらでこそなけ」 柳原神社の歌碑、長野県長野市
39「立ち帰り 辺津の入り江に 舟とめて いくたびも見む 能登の島山」 穴水大宮の歌碑、石川県穴水町
40「越にきて 富士とやいわん 角原の 文殊ヶ岳の 雪のあけぼの」 浅水町の歌碑、福井県福井市
41「思ひきや 富士の高嶺に 一夜ねて 雲の上なる 月を見むとは」 源平盛衰記の歌、静岡県富士宮市、
42「西に行く 雨夜の月や あみだ笠 影を岡部の 松に残して」 岡部笠懸けの松、静岡県藤枝市
43「館山の 厳の松の 苔むしろ 都なりせば 君もきてみむ」 館山は館山寺温泉、静岡県浜松市
44「吹出でて 風はいぶきの 山の端に さそひ出づる 関の藤川」 伊吹山、岐阜県関ヶ原町
45「かくばかり 木陰すずしき 宮立ちを 誰が熱たと 名づけ初めけむ」 熱田神宮、愛知県名古屋市
46「根上りの 松に笠かけ ながむむれば 白浪よする しらつかの浜」 白塚の浜、三重県津市
47「疲れぬる 我を友呼ぶ 千鳥ヶ瀬 越えて相可に 旅寝こそすれ」 千鳥ヶ瀬の歌碑、三重県多気町
48「昔より 菩提の樹 それながら 出し佛の 影ぞ残れる」 金剛座寺、三重県多気町
49「小夜更けて たれその杜の ほととぎす 名のりかけても 過ぎぬなるかな」 垂園森の歌碑、三重県伊賀市、
50「あづさ弓 ひきし袂も ちからなく 射手の社に 墨の衣手」 射手神社の歌碑、三重県伊賀市
51「久かたの 天の長井田 くむ賤が 袖のつるべの 縄のみじかさ」 猪田神社の歌碑、三重県伊賀市
52「三熊野 御浜によする 白浪は 花の巌屋の これぞ白木綿」 花窟神社、三重県熊野市
53「水上は 清き流れの 醒井に 浮世の垢を すすぎてやみん」 醒ヶ井西行水、滋賀県米原市
54「この寺は ならぶはやしも なかりけり 一木の松に 青む芝草」 双林寺、京都市東山区
55「とくとくと 落つる岩間の 苔清水 くみほすほども なき住居かな」 吉野山、奈良県吉野町
56「日も暮れて 心も暗き 道すから あかりそ見えし 光荒神」 光三宝荒神社、和歌山県橋本市
57「身のうさを 思う涙は 和深山 なげきにかかる 時雨なりけり」 和深山の長井坂、和歌山県すさみ町
58「まちきつる やがみのさくら 咲きにけり あらくおろすな 三栖の山風」 三栖王子の歌碑、和歌山県田辺市
59「萩原や 野べより野辺に うつりゆく 衣にしたふ 露の月影」 内原王子神社、和歌山県日高町
60「津の国の 鼓ヶ滝に 来てみれば 岸辺に咲ける たんぽぽの花」 有馬温泉の鼓ヶ滝、兵庫県神戸市
61「はるばると 鼓ヶ滝に きてみれば 岸辺に咲くや 白百合の花」 川西の鼓ヶ滝、兵庫県川西市
62「音に聞く 鼓ヶ滝を うちみれば 川辺に咲くや 白百合の花」 下滝公園の歌碑、兵庫県川西市
63「立渡る 浦風いかに 寒からむ 千鳥むれゐる ゆふ崎の浦」 曽根天満宮、兵庫県高砂市
64「天照らす 神さへここに 有明の 月もさへぬる 秋の夜のそら」 増位山の歌碑、兵庫県姫路市
65「見渡せば 沖に絹巻 千歳松 波諸寄に 雪の白浜」 為世永の歌碑、兵庫県新温泉町
66「明日もまた 山路なれば 湯村なる ゆにいざ入りて 一休みせむ」 湯村温泉、兵庫県新温泉町
67「長船に 鍛冶する音の 聞ゆるは いかなる人の 鍛うんるらむ」 長船の歌碑、岡山県瀬戸内市
68「手にむすぶ 岩間の清水 底澄みて 行きかふ人の かげも涼しき」 歌の清水・御堂、広島県神石高原町
69「知らで見ば 富士とはいはむ 石見なる 佐比売の嶽の 雪のあけぼの」 三瓶山、島根県大田市
70「宿りして ここに仮寝の たたみ石 月はこよひの 主なりにけり」 屋島寺の歌碑、香川県高松市
71「讃岐では これをば富士と いいの山 朝げの煙 たたぬ日もなし」 飯野山(讃岐富士)、香川県丸亀市
72「月見よと 芋の子どもの 寝入りしを 起しに来とが 何か苦しき」 七仏寺の歌碑、香川県善通寺市
73「笠はあり その身はいかに なりぬらん あわれはかなき 天が下かな」 曼荼羅寺の歌碑、香川県善通寺市
74「山里の 秋の末にと 思ひしが 苦しかりける 木枯らしの風」 水茎の岡、香川県善通寺市
75「忘れては 富士かとぞ思ふ これやこの 伊予の高嶺の 峯の白雲」 余木崎神社の歌碑、愛媛県四国中央市
76「静かなる 山下影に 庵あり 雪粧わせて 見る桜かな」 龍穏寺、愛媛県松山市
77「西に来て 杖笠遺す この里の 初花桜 見捨てかぬれば」 天徳寺、愛媛県松山市
78「小萩より ゆすり出でたる 要川 扇のたかさ 浪やたつらん」 要川、福岡県みやま市
79「豊国の 由布の高根は 富士に似て 雲も霞も わかぬなりけり」 由布岳、大分県由布市
80「松浦潟 これより西に 山もなし 月の入野や かぎりなるらん」 入野の歌碑、佐賀県唐津市
81「薩摩かた 頴娃郡なる うつほ嶋 是や筑紫の ふじといふらむ」 開聞岳、鹿児島県指宿市
(16)、西行法師の人脈
①『山家集』に関連する歴代天皇
後三条天皇(1034―1073年)、84歳上、71代、後朱雀天皇の第2皇子、35歳で即位し40歳で崩御、後三条院
白河天皇(1053―1129年)、65歳上、72代、後三条天皇の第1皇子、21歳で即位し77歳で崩御、出家、白河院
堀河天皇(1087―1107年)、31歳上、73代、白河天皇の第3皇子、8歳で即位し21歳で崩御
鳥羽天皇(1103―1156年)、15歳上、74代、堀河天皇の第1皇子、5歳で即位し54歳で崩御、出家、鳥羽院
崇徳天皇(1119―1164年)、1歳下、75代、鳥羽天皇の第1皇子、5歳で即位し46歳で崩御、出家、崇徳院
近衛天皇(1139―1155年)、21歳下、76代、鳥羽天皇の第9皇子、3歳で即位し17歳で崩御
後白河天皇(1127―1192年)、9歳下、77代、鳥羽天皇の第4皇子、29歳で即位し66歳で崩御、出家、後白河院
二条天皇(1143―1165年)、25歳下、78代、後白河天皇の第1皇子、13歳で即位し23歳で崩御
六条天皇(1164―1176年)、46歳下、79代、二条天皇の第1皇子、1歳で即位し13歳で崩御
高倉天皇(1161―1181年)、44歳下、80代、後白河天皇の第7皇子、8歳で即位し21歳で崩御
安徳天皇(1178ー1185年)、60歳下、81代、高倉天皇の第1皇子、3歳で即位し8歳で崩御
後鳥羽天皇(1180ー1239年)、62歳下、82代、高倉天皇の第4皇子、4歳で即位し60歳で崩御
②『山家集』で追憶した人々
行基菩薩(668―749年)、法相宗の大僧正、24歳で出家、百済帰化人の末裔と伝承
空海大師(774―835年)、俗名は佐伯真魚、真言宗の開祖、別称は遍照金剛、31歳で出家
藤原頼忠(924―989年)、従一位の太政大臣、通称は三条太政大臣、藤原実頼の2男
寂照(962?―1034年)、俗名は大江定基、従五位の三河守、通称は三河の入道寂昭、27歳頃に出家、渡海し杭州で没
能因(988―1105年頃)、俗名は橘永愷、26歳で出家(融因)、小倉百人一首の歌人
良暹(998―106年頃)、祇園社別当、大原の雲林院に隠棲、小倉百人一首の歌人
源経信(1016―1097年)、正二位の大納言・太宰権帥、源道方の6男、小倉百人一首の歌人
明算(1021―1106年)、高野山検校、中院流祖、11歳で出家、紀野国田仲庄(現・紀の川市)の出身
周防内侍(1037―1111年頃)、本名は平仲子、後冷泉院の女房、72歳頃に落飾、平棟仲の娘、小倉百人一首の歌人
良禅(1048―1139年)、第22世高野山検校、明算の弟子、11歳で出家、紀野国那賀郡の出身
行尊(1055―11335年)、通称は平等院大僧正、熊野三山検校・天台宗座主、小倉百人一首の歌人
③『山家集』に関連または登場する人々
藤原為隆(1070―1130年)、48歳上、従三位の参議、61歳で出家後死亡、藤原為房の長男
藤原宗輔(1077―1162年)、41歳上、従一位の太政大臣、通称は京極太政大臣、藤原宗俊の次男
藤原定信(1088―1156年)、30歳上、従四位の宮内権大輔、通称は世尊寺定信、書家、64歳で出家、藤原定実の長男
覚雅(1090―1146年)、28歳上、東大寺少僧都、源顕房の庶子
藤原顕輔(1090―1155年)、28歳上、正二位の左京太夫、藤原顕季の3男、小倉百人一首の歌人
覚法法親王(1091―1153年)、27歳上、仁和寺第4世門跡、14歳で出家、白河天皇の第4皇子
平忠盛(1096―1153年)、22歳上、正四位の刑部卿、平清盛の父
徳大寺実能(1096―1157年)、22歳上、従一位の左大臣、徳大寺家の祖、待賢門院の異母兄
藤原成通(1097―1162年)、21歳上、正二位の大納言、通称は大納言入道、蹴鞠の名手(蹴聖)、63歳で出家(栖蓮)
待賢門院璋子(1101―1145年)、17歳上、藤原公実の娘、白河法皇の養女で愛妾、鳥羽天皇の中宮、42歳で落飾
待賢門院堀河(生没年不詳)、年齢差不詳、別称は斎院六条、待賢門院と一緒に落飾、源顕仲の娘、小倉百人一首の歌人
待賢門院中納言の局(生没年不詳)、年齢差不詳、小倉に隠棲後に天野に移住と伝承
上西門院兵衛(?―1184年頃)、年齢差不詳、兵衛の局、女流歌人、源顕仲の娘
源忠季(?―1150年頃)、年齢差不詳、宮内大輔、源顕仲の次男
藤原基衡(1105―1157年)、13歳上、出羽陸奥押領使、藤原清衡の次男
信西(1106―1160年)、12歳上、俗名は藤原通憲、正五位の少納言、39歳で出家(円空)、藤原実兼の長男
藤原朝子(?―1166年)、年齢差不詳、二位の局、藤原兼永の娘、藤原通憲(信西)の妻
藤原家成(1107―1154年)、11歳上、正二位の中納言、48歳で出家して死去、藤原家保の3男
西住(1108?―1173年頃)、約10歳上、俗名は源季政、右兵衛尉、醍醐寺理性院の僧、33歳頃に出家、源季貞の子
藤原教長(1109―?年)、9歳上、正三位の右中将、54歳で出家、藤原忠教の次男
空仁(1110―?)、8歳上、俗名は中臣清長、正六位の神祇官、別称は少輔別当入道、嵐山法輪寺の住持
勝命 (1112―1187年頃)、6歳上、俗名は藤原親重、従五位の美濃権守、62歳頃に出家、阿闍梨勝命
俊恵(1113―1191年頃)、5歳上、東大寺の僧で歌人、通称は俊恵法師、源俊俊頼の子
良仁(1114?―1209年)、4歳上、伊勢神宮寺の住持、通称は菩提山上人
藤原俊成(1114―1204年)、4歳上、正三位の皇太后宮太夫、63歳で出家(釈阿)、五条三位入道、小倉百人一首の歌人
寂念(1114―?)、4歳上、俗名は藤原為業、従五位の皇太宮大進、44歳頃に出家、藤原為忠の次男、大原三寂
徳大寺公能(1115―1161年)、3歳上、正二位の右大臣、実能の長男、歌人、娘の忻子は後白河天皇の皇后
寂超(1115―?)、3歳上、俗名は藤原為経、従五位の皇太宮少進、30歳頃に出家、藤原為忠の3男、大原三寂
佐藤範康(1116―1140年)、2歳上、左兵衛尉、西行(佐藤義清)の従兄
美福門院得子(1117―1160年)、1歳上、藤原長実の娘、鳥羽天皇の皇后、40歳頃に落飾
寂然(1118?―1182年頃)、同年代、俗名は藤原頼業、従五位の壱岐守、36歳頃に出家、藤原為忠の4男、大原三寂
平清盛(1118―1181年)、同年代、従一位の太政大臣、別称は六波羅太政入道、51歳で出家(浄海)、平忠盛の嫡男
西行(1118―1190年)、本人、俗名は佐藤義清、左兵衛尉、23歳で出家(円位)、佐藤康清の長男、小倉百人一首の歌人
静忍(生没年不詳)、年齢差不詳、別称は忍西入道、西山と嵯峨野に隠遁
行蓮(生没年不詳)、年齢差不詳、別称は法橋行遍
兼賢(生没年不詳)、年齢差不詳、俗名は藤原顕兼、通称は兼賢阿闍梨、仁和寺住持
六角の局(生没年不詳)、年齢差不詳、亮子内親王の女房
江口の妙(生没年不詳)、年齢差不詳、江口の遊女、平資盛の娘と伝承
藤原頼長(1120―1196年)、2歳下、従一位の左大臣、通称は悪左府、藤原忠実の3男、保元の乱で敗死
重源(1121―1206年)、3歳下、東大寺大勧進職、房号は俊乗房、13歳で出家、入宋3度、
藤原秀衡(1122?―1187年)、4歳下、従五位の鎮守府将軍・陸奥守、藤原基衡の嫡男
公誉法眼(1125―?年)、7歳下、興福寺法雲院の住持、徳大寺家の出身
覚性法親王(1129―1169年)、11歳下、仁和寺第5世門跡、7歳で出家(信法)、鳥羽天皇と待賢門院の皇子
平時忠(1130?―1189年)、12歳下、正二位の権大納言、平清盛の妻・徳子は姉
藤原基家(1132―1214年)、14歳下、正二位の権中納言、別称は持明院基家、70歳で出家(真智)、藤原通基の3男
八条院暲子親王(1137―1211年)、19歳下、鳥羽天皇・美福門院の皇女、20歳で落飾
藤原脩憲(1143―?年)、25歳下、正三位の参議、41歳で出家、藤原通憲(信西)の5男
院少納言の局(生年没不詳)、年齢差不詳、藤原通憲(信西)と藤原朝子(二位の局)の娘
源頼朝(1147―1199年)、29歳下、従二位(西行訪問時)、正二位の征夷大将軍、52歳で出家後に死去、源義朝の3男
源通親(1149―1202年)、31歳下、正二位の内大臣、別称は土御門内大臣、源雅通の3男
登蓮(?―1181年頃)、年齢差不詳、近江阿弥陀寺に住持
隆聖(生年没不詳)、醍醐寺理性院の僧都、西行法師の子と伝承
空寂(生年没不詳)、弘川寺住持、年齢差不詳、文治4年(1188年)後鳥羽天皇の病気平癒を祈願
寂蓮(1151―1184年)、 33歳下、俗名は藤原定長、従五位の中務少輔、30歳頃に出家、小倉百人一首の歌人
覚恵(1151―1184年)、33歳下、初めの法名は元性、通称は宮法印、12歳で出家、崇徳天皇の第5皇子
荒木田氏良(1153―1222年)、35歳下、伊勢神宮内宮神官
藤原泰衡(1153―1189年)、37歳下、出羽陸奥押領使、藤原秀衡の次男
鴨長明(1155―1216年)、37歳下、従五位の神官、49歳で出家(蓮胤)、『方丈記』の作者
慈円(1155―1225年)、37歳下、通称は慈鎮和尚、大僧正で天台宗座主、小倉百人一首の歌人
藤原定家(1162―1241年)、44歳下、正二位の権中納言、藤原俊成の次男、小倉百人一首の選者
九条良経(1169―1206年)、51歳下、従一位の太政大臣、九条兼実の次男、小倉百人一首の歌人
(17)、西行法師の旧跡
①草庵と堂宇
分水の西行堂 大正5年(1916年)に来訪に因み新築、トタン葺切妻造平屋建て、新潟県燕市
正覚山永楽寺の西行庵 建築年不明(比較的最近)、瓦葺寄棟造平屋建て、西行坐像を安置、和歌山県橋本市
天野の西行庵 昭和61年(1986年)に新築、平成18年(2006年)に改修、瓦葺切妻造平屋建て、和歌山県かつらぎ町
東山の西行庵 明治26年(1893年)に移築、昭和58年(1983年)に改修、茅葺寄棟造平屋建て、東山の西行堂(花月庵)
明治26年(1893年)に新築、茅葺寄棟造平屋建て、西行坐像を安置、双林寺の飛び地、京都市東山区
吉野山の西行庵 建築年不明、杮葺宝形造平屋建て、西行坐像を安置、奈良県吉野町
弘川寺の西行堂 享保16年(1731年)に似雲法師が建立、茅葺寄棟造平屋建て、西行坐像を安置、昭和61年(1986年)に西行記念館が開館、入母屋造平屋建て、大阪府河南町
玉泉院の西行庵(久松庵) 建築年不明、瓦葺宝形造平屋建て、香川県善通寺市
水茎の岡の西行庵 平成元年(1989年)に再建、銅版葺宝形造平屋建て、香川県善通寺市
大田の西行堂 寛政4年(1792年)に建築、瓦葺入母屋造平屋建て、西行坐像を安置、島根県大田市
呉の西行庵 平成元年(1989年)にグリーンピアせとうちに新築、板葺切妻造平屋建て、西行立像を安置、広島県呉市
②草庵跡と屋敷跡
野田の西行屋敷跡 野田の玉川に因んだ伝承、岩手県野田村
船形の西行庵跡 西行法師の没後に奥州行脚で逗留した縁で豪族が西行寺を開基、千葉県館山市
小石川の西行庵跡 小石川後楽園が造園される以前に草庵があったと伝承、東京都文京区
南部の西行庵跡 西行公園にある西行跡で富士山を詠んだ歌碑が建つ、山梨県南部町
永田の西行庵跡 梅露庵公園にある西行庵跡で西行塚も合わせて伝承、岐阜県恵那市
田口の西行庵跡 福王山の麓に草庵を結んだと伝承、三重県菰野町
二見の西行庵跡 廃寺となった安養寺にあったと伝承、三重県伊勢市
西行谷の西行庵跡 松尾芭蕉翁も訪ねた神照寺跡にあったと伝承、三重県伊勢市
大江の西行屋敷跡 旧東海道沿いの瀬田小学校前に石碑が立つ、滋賀県草津市
竹田の西行寺跡 出家前の邸宅跡とされて江戸時代に西行寺が建立、京都市伏見区
二尊院の西行庵跡 昭和38年(1963年)に記念碑のみ建立、京都市右京区
西光寺の桜元庵跡 西行法師の草庵跡と伝承 京都市西京区
王越の西行庵跡 四国行脚の折に滞在したと伝承、香川県坂出市
③主な名所や旧跡
西行戻しの松公園 宮城県松島町、滝山三百坊跡 歌碑 山形県山形市、矢祭山公園 歌碑 福島県矢祭町、芦野遊行柳 歌碑 栃木県大田原市、西行戻し石 歌碑(稲荷神社) 栃木県日光市、西行法師見返りの松(永福寺) 石碑 埼玉県杉戸町、西行杉(あじさい公園) 埼玉県越生町、西行塚(長心寺) 東京都八王子市、西行もどりの松 石碑 神奈川県藤沢市、正覚寺(俳句寺) 歌碑 神奈川県相模原市、鴫立庵 歌碑 神奈川県大磯町、西行桜(戸隠神社) 長野県長野市、釈尊寺(布引観音) 歌碑 長野県小諸市、西行硯水公園 岐阜県恵那市、西行塚(長国寺) 岐阜県恵那市、清見潟跡(清見寺) 静岡県静岡市、西行法師笠懸の松 静岡県藤枝市、小夜の中山公園 歌碑 静岡県掛川市、西行岩(舘山寺) 静岡県浜松市、伊良湖岬 歌碑 愛知県田原市、西行戻り地蔵 石川県加賀市、色の浜(本隆寺) 歌碑 福井県敦賀市、二見浦 歌碑 三重県伊勢市、答志島(碁石浜) 歌碑 三重県鳥羽市、比叡山無動寺 滋賀県大津市、下鴨神社 京都市左京区、北白川天神宮 歌碑 京都市左京区、仁和寺雲林院 京都市右京区、法金剛院 京都市右京区、西行井戸(広源寺) 歌碑 京都市右京区、大沢池(大覚寺) 京都市右京区、雙林寺 供養塔 京都市左京区、長楽寺 京都市左京区、松尾大社 京都市西京区、西行桜(法輪寺) 京都市西京区、西行桜(勝持寺) 京都市西京区、四天王寺 大阪市天王寺区、住吉大社 大阪市住吉区、弘川寺 西行墓 大阪府河南町、昆陽池公園 歌碑 兵庫県伊丹市、増位山頂展望台 歌碑 兵庫県姫路市、潮崎の浜(淡路島) 歌碑 兵庫県南あわじ市、西行桜(高野山三昧堂) 和歌山県高野町、龍蔵院 生誕碑 和歌山県紀の川市、西行腰掛岩 岡山県瀬戸内市、三津浜 歌碑 香川県三豊市、西行法師像(渋川海岸) 岡山県玉野市、崇徳天皇白峯陵 香川県坂出市、善通寺 香川県善通寺市、厳島神社 広島県廿日市市など。
(18)、参考資料と関連する和歌集など
①引用和歌集と参考書
『新訂山家集』佐佐木信綱校訂、岩波文庫(昭和3年初版)、山家集(1726首)、聞書集(285首)、残集(39首)、補遺(119首)、他の歌集からの補選が多く、歌数や歌の順番も新潮社版山家集とは大きな隔たりがあると聞く。
『西行全歌集』久保田淳・吉野朋美校注、岩波文庫(平成25年初版)、山家集(1552首)、聞書集(263首)、残集(32首)、御裳濯河歌合(77首)、宮河歌合(74首)、拾遺(307首)
『日本の絵巻19西行物語絵巻』小松茂美編集、中央公論社(昭和63年発行)
②参考にしたウェブ情報
「ウィキペディアフリー百科事典」、「西行ゆかりの地」、「西行の和歌―出家と草庵をめぐってー」、「入道西行をめぐって」、「菅江真澄が採集した西行伝承」、「百首繚乱~百人一首の雑学」、「西行と熊野・伊勢移住」、「西行の大峰修行をめぐって」、「高野山大学図書館蔵の翻刻と紹介」、西行の京師」、「隆聖僧都と西行」、「高野山における西行」、「あの人の人生を知ろう~西行法師」、「西行四国行脚の旅程について」、「西行法師の遺跡一覧」、「千人万首―西行」、「詩人の妄執―佐藤義清遁世考―」など。
③関連和歌集及び関連書籍
『山家集』西行自選集、松屋本(写本)、室町時代、1252首・独自歌69首
『山家集』西行自選集、陽明文庫本(写本)、江戸時代初期、1552首
『山家集』西行自選集、細川幽斎奥書本(写本)、慶長3年(1598年)、収歌数不明
『西行上人集(聞書集)』、伝寂連選、治承2年(1178年)頃、山家集の原形本、597首、所蔵者不明(国宝)
『西行上人集』選者不明、李花亭文庫本、鎌倉時代中期、697首
『西行法師歌集(異本山家集)』選者不明、建久元年(1190年)頃、山家集の原形本、787首
『山家心中集』西行自選集、治承2年(1178年)、374首(他者詠14首)、写本個人所蔵(国重要文化財)
『聞書集』藤原俊成書、鎌倉時代初期、263首(連歌2首・他者詠149首)、天理大学所蔵(国重要文化財)
『残集』藤原俊成書、鎌倉時代初期、32首(連歌7首)、冷泉家所蔵(国重要文化)
『御裳濯河歌合』藤原俊成の判詞、文治3年(1187年)頃、西行歌(72首)
『宮河歌合』藤原定家の判詞、文治5年(1189年)、西行歌(72首)
『六家集』藤原俊成選、鎌倉時代初期、西行歌(1572首)
『詞花和歌集』勅選(崇徳上皇)、藤原顕輔選、久安6年(1150年)頃、西行歌(1首)
『千載和歌集』勅選(後白河上皇)、藤原俊成選、文治4年(1188年)、西行歌(18首)
『新古今和歌集』勅選(後鳥羽上皇)、藤原定家他4名選、承元4年(1210年)頃、西行歌(94首)
『新勅撰和歌集』勅選(後堀河天皇)、藤原定家選、嘉禎2年(1235年)、西行歌(27首)
『玉葉和歌集』勅選(伏見天皇)、京極為兼選、正和元年(1312年)、西行歌(57首)
『風雅和歌集』勅選(花園上皇)、光厳天皇選、正平4年(1349年)、西行歌(13首)
『二十一代集』勅選(不明)、選者(不明)、吉野時代(南北朝時代)、西行歌(267首)
『西行上人談抄』蓮阿著、享保18年(1733年)、西行の歌論書
『山家集』後藤重郎校注、新潮社(昭和57年発行)、1500首を収録
後書き
西行法師が武士の道をリタイヤし、自分の敷いたレールを歩いたように、私の尊敬する人々にはそう言う人が多い。空海大師(774―835)は、高級官僚の道を捨て、日本真言宗を開祖した偉大な宗教家となった。松尾芭蕉翁(1644ー1695年)も下級武士の身分を捨て、俳諧師として最大の門弟を抱える蕉門を開いた。また、好きな人物としては、新撰組の土方歳三(1835―1869年)は、薬の行商人から最後の武士と称されるサムライになった。封建時代の身分制度に縛られた世の中で、それぞれが自由な道を歩んだことに感銘を受ける。やはり底辺から努力して這い上がり歴史に名を残した人物は尊い。
西行法師は、73年の生涯で約22000首の歌を詠んだとされる。近代歌人の与謝野晶子(1878―1942年)と比較すると、与謝野晶子は65年の生涯で約50000首も詠んだと言われる。14歳から詠んだと仮定すると、1日2・5首を詠んだ計算になる。西行法師の歌碑は、日本全国に146基あるが、与謝野晶子の場合は125基と、西行法師よりは少々少ない。
因みに松尾芭蕉翁の句碑は、3200基以上と日本最多を誇る。西行法師と松尾芭蕉翁が崇拝した弘法大師の像は、実際に調査されていないけれど、修行大師像を含めると、最低でも2万体はあるであろう。また、高野山の奥ノ院には、松尾芭蕉翁の句碑、与謝野晶子の歌碑があるけれど、西行法師の歌碑がないのは淋しい限りである。
今回の『新西行物語』の執筆で、殆どの蔵書を処分したので、手元にあったの本は、佐佐木信綱校訂の『新訂山家集』と『日本の絵巻19西行物語絵巻』の2冊だけであった。他の資料はインターネットのウェブ情報に頼った。西行法師の和歌に関しては、好きな歌を10首ほどしか暗唱しておらず、未知との出会いでもあった。しかし、『新訂山家集』は、ひらがなが多く、漢字にすれば理解できる歌も多かった。これできはいけないと思い、『西行全歌集』を入手した。すると、『新訂山家集』の不備の点が結構見つかり、2冊を併用して何とかまとめることが出来た。『新訂山家集』は、出版から95年も経つので、ベターな
山家集と言えない。その点、『西行全歌集』は、平成25年(2013年)の出版なので比較的新しく、優れた山家集であると思う。西行法師の和歌は、平明で分かり易い歌が多く、掛詞以外はあまり技巧を凝らしていない。多くの都の歌人は、見た事もない歌枕を想像して詠んでいるが、西行法師は実際に歌枕を訪ね詠んでいる違いは大きい。今回は自分自身が西行法師を学ぶためにその生涯を追ってみたが、史実と合致していな点があったこと、歌の解釈が正確でなかったことをご容赦も願いたい。西行法師ファンにとって、それぞれの西行像があって良いと考えるし、それぞれの学び方があると思う。
令和5年(2023年)8月5日、編集終了