新西行物語ー心の旅ー

新西行物語―心の旅     

佐々木 清人

新西行物語―心の旅―

(もく)()

(まえ)()き                                                                                              P3~4

(1)、()()ちと佐藤(よし)(きよ)時代(1歳―23歳)                                                             P5~15

(2)、出家(しゅっけ)と京の遍歴(23歳―26歳)                                                                   P16~37

(3)、奥州(おうしゅう)(しん)(しゅう)の旅路(26歳―29歳)                                                              P38~62

(4)、(よし)()(やま)への入山(29歳―32歳)                                                                   P63~75

(5)、高野山(こうやさん)への入山(32歳―39歳)                                                                   P76~85

(6)、京・東山(ひがしやま)の草庵(39歳―41歳)                                                                  P86~98

(7)、高野山(こうやさん)へ再入山(41歳―50歳)                                                                P99~107

(8)、()(こく)巡礼・西国(さいこく)の旅路(50歳―54歳)                                                    P108~127

(9)、高野山(こうやさん)へ再三入山(54歳―60歳)                                                         P128~137

(10)、(くま)()(さん)(ざん)めぐり(60歳―62歳)                                                         P138~145

(11)、伊勢・(ふた)(みが)(うら)の草庵(62歳―69歳)                                                    P146~161

(12)、奥州(おうしゅう)再訪の旅路(69歳―70歳)                                                         P162~172

(13)、京・嵯峨野(さがの)の草庵(70歳―72歳)                                                       P173~185

(14)、(ひろ)川寺(かわでら)での終焉(72―73歳)                                                            P186~190

(15)、西行法師の(でん)(しょう)()                                                                          P191~198

(16)、西行法師の(じん)(みゃく)                                                                            P199~206

(17)、西行法師の(きゅう)(せき)                                                                            P207~208

(18)、参考資料と関連する()()(しゅう)                                                                 P209~211

(あと)()き                                                                                    P212~213

(まえ)()

自分の一生を貫く趣味が最も大切な心の()り所と思った時、私には「詩歌」があった。ノートと鉛筆さえあれば、誰でも出来る趣味で、殆ど金のかからないのが良い。中でも「短歌」と「俳句」は、詩歌の双璧で、心の排泄物(はいせつぶつ)と思っている。俳句は小便のようにさらさらと(たん)(れい)に流れ、短歌は大便のように重苦(おもくる)しくも濃密(のうみつ)に落ちる。

俳句は、明治時代に正岡(まさおか)子規(しき)(1867―1902年)が広めた造語で、「俳諧(はいかい)(ほっ)()」を縮めたものである。短歌は古墳時代に(さかのぼ)る「和歌」が起源で、奈良時代に成立した『古事記(こじき)』に登場するスサノオノミコトの和歌が最古とされる。その和歌が隆盛を極めたのが平安時代で、王朝文化の一翼(いちよく)を担った。和歌に通じた人々を「歌人」と呼んでいるが、歌人に対する評価としては、「()(せい)」の尊称がある。万葉歌人の(かきの)(もとの)(ひと)()()(660?―724年)と山部赤人(やまべのあかひと)(?―736頃年)が有名である。中世では、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した()(そう)西行(さいぎょう)(ほう)()(1118―1192年)も歌聖と称されている。

西行法師という人を知ったのは、15歳の時から心の師と仰ぎ尊敬していた(まつ)()()(しょう)(1644―1694年)(おう)の影響による。25歳の頃、芭蕉翁が尊敬していた西行法師の生涯や歌風を勉強した。更に30歳の頃、芭蕉翁と法師の足跡を訪ねて(こう)()(さん)に参拝した時にスケールの大きな(くう)(かい)(だい)()(774―835年)に魅了された。その時に感じたことは、空海大師も漢詩に(ひい)でて、和歌にも造詣(ぞうけい)が深いことであった。高野山の奥ノ院()(びょう)に安置された大師を守るように、詩歌の()(おう)が立っている。それは、歌聖の西行法師と(はい)(せい)の芭蕉翁の2人に他ならない。

今回の主人公は西行法師で、生誕から没年に至るまでの旅と草庵(そうあん)の暮らしを法師の和歌を読み解きながら振り返りたい。法師の足跡は、芭蕉翁ほど明確な資料が少なく、ある程度は確証された場所と和歌を年代別に選んでいる。法師の和歌集は、『(さん)()(しゅう)』の他に『山家心中集(しんちゅうしゅう)』など5巻が存在するが、法師直筆の歌集は存在しない。『山家集』は、法師が60歳の()(しょう)2年(1178年)頃に(こっ)()がまとまったとされ、編集は法師の没後である。歌集以外には、鎌倉時代に描かれた『西行物語絵巻』を眺めながらの法師のイメージを想像したい。参考とした歌集は、佐佐木信綱(のぶつな)校訂の岩波文庫『山家集』で、絵巻は、中央公論社から昭和63年(1988年)に発行(はっこう)された『日本の絵巻19西行物語絵巻』を参考としている。

今回の『新西行物語―心の旅』は、法師の人生や和歌から新たな人間像を整理したいと執筆(しっぴつ)した。小学生から大人まで理解できる内容で述べたいと(こころ)()けたので、何かしら西行法師に興味を持ってもらえれは幸いと思います。

西行法師の生誕地の西行像(ウェブのコピー)        西行法師の真筆(ウェブのコピー)

(1)、()()ちと(のり)(きよ)時代(1歳―23歳)

西行法師の俗名は佐藤(のり)(きよ)で、平安時代末期の元永(げんえい)元年(1118年)、父は()()(もんの)(じょう)・佐藤(やす)(きよ)(生没年不詳)、母は監物(けんもつ)・源(きよ)(つね)の娘(生没年不詳)、その長男か次男に生まれた。左衛門尉と監物は官職名で、官位は共に六位相当であった。佐藤家の(えん)()は、藤原北家の藤原(うお)()(721―783年)で、9世の先祖は藤原秀郷(ひでさと)(891―958年頃)である。義清の曾祖父・佐藤(きん)(きよ)(生没年不詳)の代から佐藤氏を称している。祖父の(すえ)(きよ)(生没年不詳)の時から藤原北家の公家・徳大寺家に仕えた武門である。

佐藤義清の生誕地は、徳大寺家の荘園にある佐藤家の()(ぎょう)()で、紀伊(きいの)(くに)田仲庄であると言われる。田仲庄は、現在の和歌山県紀の川市竹房で、屋敷跡(現・龍蔵院(りゅうぞういん))に「歌聖・西行法師生誕の地」と刻まれた立派な石碑が建ち、少し離れた打田には、髙さ2mのブロンズ像が建っている。菅笠(すげがさ)を被り、右手に杖を持ち、左手に本を手にした立像で、左手の本を(じゅ)()に変えると、真言宗(しんごんしゅう)の寺院で見かけられる空海大師の修行大師像とそっくりである。また、(だい)()には、有名な歌碑が刻まれていた。

1番、「なげけとて 月やはものを 思はする かこち顔なる (わが)が涙かな」

出典・『山家集』の恋歌(こいうた)51番目の歌で、「月」と題した37首の13番目の歌でもある。この歌は、藤原定家(さだいえ)(1162―1241年)が撰した『小倉百人一首』の86番にも選ばれた秀歌である。「なげけとは」は、失恋による(なげ)きであろう。「やは」は反語であるが、「や」で区切り、「はもの」と読むと、()(もの)と漢字表記されて、月が欠けている様子を意味する。「かこち顔」は、(うら)みに思う顔つきで、月のせいにしている。私的に要約(ようやく)すると、「嘆いていると、月が欠けて満たされないような気持(きも)ちとなる。月のせいでもないだろうが、私の目に涙は止らない」と、一般的な解釈(かいしゃく)と違ったニアンスに感じる。失恋した相手は誰なの不明であるが、(しゅっ)()前の作と考えられる。西行法師の恋歌には、実際の恋愛感情を詠んだ歌なのか(うたが)われる歌も多い。

義清が成長し元服(げんぷく)した15歳前後は、亡くなった父の康清に倣って徳大寺家の徳大寺(さね)(よし)(1096―1157年)に出仕している。その後の(ほう)(えん)元年(1135年)、18歳となった義清は、()()(もん)(じょう)に任じられ、鳥羽上皇(1103―1156年)の御所を警護する(きた)(おもて)の武士に就いている。その就任のため、絹1万(ぴき)を朝廷に寄進したとされる。この時、義清と同年の北面の武士に平清盛(きよもり)(1118―1181年)がいたが、清盛は和歌には熱心でなかったようで。義清との接点は若い頃にはなかったようだ。徳大寺実能の養子となった同年代の藤原(きん)(しげ)(1118―1178年)から菊の会に招かれ、後の太政大臣・藤原(むね)(すけ)(1077―1162年)が鳥羽上皇に献上(けんじょう)した菊の会の和歌を詠んでおり、()(じん)として評価されていたようだ。

2番、「君が住む やどのつぼには 菊ぞかざる (ひじり)の宮と いふべかるらむ」

出典・『山家集』の秋歌(あきのうた)296番目の歌で、詞書には「京極(きょうごく)太政大臣、中納言と申しける折、菊をおびただしきほどにしたてて、鳥羽院にまゐらせ給ひたりける、鳥羽の南殿の東おもてのつぼに、所なきほどに植ゑさせ給ひけり。(きん)(しげ)少将、人々すすめて菊もてなさせけるに、くははるべきよしあれば」とある。この長い(ことば)(がき)を要約すると、「京極()(じょう)(だい)(じん)(藤原宗輔)が(ちゅう)()(ごん)であった時、菊を庭一杯に仕立てて、鳥羽院(鳥羽上皇)が()(こう)された。御所南殿の東面(ひがしおもて)の坪庭に、所狭しと菊が植えられてあった。公重少将(藤原公重)は、人々にすすめて菊の会を(もよお)したと折、私も参加させてもらった経緯がある」と述べた。歌の大意は、「上皇様の住む御所の坪庭(つぼにわ)には澄んだ菊が飾られて、仙人(せんにん)の宮殿と呼ぶに相応しく思われます」と()めちぎった内容になる。公重が右少将となったのは、40歳頃なので義清と同年であったことから少将と記したのは、『山家集』の書き(うつ)しミスであろう。いずれにしても、義清時代においては最初の(ころ)の和歌とされている。

当時の義清は、和歌のみならず、流鏑馬(やぶさめ)の達人でもあって、貴族の()(まり)にも優れていたとされ、文武両道の行く北面の武士であった。北面の武士は、上皇の親衛隊でもあって、(よう)姿()(たん)(れい)な若者が選ばれた。この頃の義清には妻子がいたが、徳大寺家に仕えていた頃、徳大寺実能の異母妹の(たい)賢門(けんもん)(いん)(しょう)()(1101―1145年)を思慕していたとされる。おそらく、17歳年上の璋子と男女関係にあったのではと、勝手に邪推(じゃすい)する。待賢門院は、鳥羽天皇の中宮(ちゅうぐう)となって入内(じゅだい)し、第1子の皇子(みこ)、後の()(とく)天皇(1119―1164年)を産んでいる。しかし、崇徳天皇は、白河法皇(ほうおう)(1053―1129年)の養女でもあった璋子との子であったとも言われる。鳥羽天皇からすると、崇徳天皇は皇子ではなく、祖父の皇子となり、16歳下の叔父(おじ)と言う不可解な立場となる。その(いびつ)な関係が、鳥羽法皇の崩御後に内乱へと発展することになった。

鳥羽天皇は5歳で即位し、祖父の白河上皇が実権を握る院政(いんせい)が始まる。鳥羽天皇の皇后であった()福門院(ふくもんいん)(とく)()(1117―1160年)が第9子の皇子・近衛(このえ)天皇(1139―1155年)を産むと、崇徳天皇は5歳で即位してから在位19年で上皇に追いやられ、鳥羽法皇が院政を敷くことになる。近衛天皇が17歳で崩御すると、崇徳上皇の実弟の()(しら)(かわ)天皇(1127―1192年)が天皇に即位するが、実権は鳥羽法皇が握ることになる。佐藤義清は、鳥羽上皇に仕えてはいたが、1歳年少(ねんしょう)の崇徳天皇は待賢門院の忘れ(がた)()でもあって、親近感を抱いて接していたと推測する。崇徳天皇が24歳で退位すると、義清は武士を捨てる覚悟(かくご)をする。おそらく、仕えていた鳥羽院と崇徳天皇との()(なか)が要因で、どちらにも肩入れしない立場を考えたのであろう。

義清と親しい人物に、同じ北面武士の佐藤(のり)(やす)(1116―1140年)がいた。『西行物語絵巻』には、範康との関係が描かれている。鳥羽院に呼ばれて、一緒に参内(さんだい)をする約束をしていた。翌朝、義清が馬に乗って範康の邸宅を尋ねると、門のあたりに時ならぬ人のざわめきがあって、19歳の若妻と50歳ほどの母親が泣きぬれているのであった。義清が()(さい)を聞くと、範康は昨夜に不帰(ふき)の客となっていた。範康は2つ年上の25歳で、その急死は、義清に()(じょう)迅速(じんそく)のはかなさを知らしめたとされる。

3番、「をしむとて ()しまれぬべき この世かは 身をすててこそ 身もたすけめ」

出典・『山家集』の(ぞう)()117番目の歌で、詞書には「鳥羽院に、出家のいとま申すとてよめる」とある。『(ぎょく)(よう)(しゅう)』の雑歌に載録された。『玉葉集』は、鎌倉時代後期の歌人・京極為兼(ためかね)(1253―1332年)によって()まれた和歌集で、西行法師の和歌は57首が選ばれた。この歌は、北面武士を退任し、出家する気持ちを詠んでいる。分かり易くも奥深い歌で、「この世は()(じょう)に満ちたものだから惜しんでみても仕方ない。自分は(はかな)いものだと思った方が気が楽である。」と、述べている気がする。

4番、「()がくれに 散りとどまれる 花のみぞ 忍びし人に あふここちする」

出典・『山家集』の恋歌29番目の歌で、詞書には「寄残花恋」とある。(ざん)()に寄せた恋心と題し、「葉に隠れて散り残った花だけが、(ひと)()を忍ぶような恋人に逢った気持ちにさせる」と、詠んだ歌である。人目を忍ぶ恋は、他ならぬ待賢門院であったか定かではないが、妻子ある武勇の義清が(れん)()したとも思えない一面(いちめん)もある。

5番、「何となく 春にならぬと 聞く日より 心にかかる み(よし)()の山」

出典・『山家集』の春歌(はるのうた)12番目の歌で、詞書には「(はる)()つ日よみける」とある。「春となった知らせを聞くと、何となく心の中には、吉野山の桜が浮びかかる」と詠じた。吉野の桜を詠んだ歌は60首あまりもあって、(おく)千本(せんぼん)に草庵を結ぶ以前も訪ねていると想像する。この歌も京の都で詠んだ歌で、毎年のように吉野の桜を恋しく思っていた(よう)()に見える。

保延(ほうえん)6年(1140年)の7月頃、義清は鳥羽院に(いとま)乞いをした後、家族に出家を告げる決意をした。『西行物語絵巻』の徳川美術館本には、帰宅した義清が出迎えた4歳の娘を蹴落(けお)とすシーンが描かれている。冷酷にも見えるシーンではあるが、迷いに迷っての行動で、(ぞく)()から逃れたい気持ちに満ちていた。絵巻のストリーでは、妻子を説得してから邸宅の一室に籠り、剃刀(かみそり)(もとどり)元結(もとゆい)の根から切り落とした。その後はすぐさま馬を飛ばして嵯峨野の奥に向って、懇意のあった寺の(ひじり)のもと剃髪(ていはつ)して(とく)()したとある。嵯峨野の奥の寺は、西山大原野の(しょう)()()である。義清には、(なか)(きよ)(生没年不詳)と言う兄か弟がいて、家族を含めた佐藤家の(こう)()を託したと思われる。また、北面武士の先輩である源(すえ)(まさ)(1108?―1173年頃)と気脈を通じていたので、互いに出家を考えていた様子である。この頃の義清の心境(しんきょう)を詠んだ歌が、6番の歌である。

6番、「世のうさに (ひと)かたならず うかれゆく 心さだめよ 秋の夜の月」

出典・『山家集』の秋歌264番目の歌で、「題しらず十一」にある。また、『西行法師集』では58番目に収められている。(のり)(きよ)は、世の中の人間関係に(もの)()さを感じ、尋常的(じんじょうてき)ではない世の中に浮ついて生きて来た自分を嫌悪する。秋の名月が決まった周期で(あらわ)れるように、自分の心も仏教に定めて人生をめぐりたいと決意したようである。その原因については、『西行物語絵巻』では、友人の佐藤範康の死を理由に武士を捨てたとする説、『源平(せい)(すい)()』では、高貴な女性にあこぎな恋をした失恋説を()っているが、そんな単純な理由ではなかったと思う。自分自身の本当の()()(しょ)を求めての出家であった推察する。それでも和歌に対する情熱は深く、自由きままに自然を見つめ、四季の移ろいを肌に感じて詠ずる吟行(ぎんこう)詩人の(さき)()けを演じたとも思われる。

保延(ほうえん)5年(1139年)頃、義清は、同僚の源(すえ)(まさ)を誘って嵯峨嵐山の法輪寺の別当・(くう)(にん)(1110―?年)を尋ねている。空仁は、俗名を中臣(なかとみの)(きよ)(なが)と言う神官出身の僧で、和歌にも精通(せいつう)していた風流な僧でもあった。

7番、「(おお)()(がわ) 舟にのりえて わたるかな (ながれ)にさをを さすここちして」

出典・『残集(ざんしゅう)』の23番目の歌で、上句は義清、下句は源季政(後の西(さい)(じゅう)法師)が詠んだ(れん)()である。詞書には「かくてさし離れて渡りけるに、故ある聲のかれたるやうなるにて(だい)()(とく)()(ごん)()()()(りょう)(しゅ)よみいだしたりける、いと尊く哀れなり」とある。舟で(さお)をさして岸を離れると、『()()(みょう)(ほう)(れん)()(きょう)』の経文を読誦する()れたような声がして、その()の2句を詠んでいる。その経文は、少々尊くも哀れに聞こえたようだ。歌の真意は、「大井川では仏法(ぶっぽう)(のっと)る舟に乗り換えて渡りたい」と義清が述べると、「それは、川の流れのような世の中に(こう)して棹をさすようなものですよ」と季政が下句を添えて同調している。

当時の義清は既に、仏教の経典(きょうてん)を学んでいたようで、空仁上人との出会いを次ぎの歌に詠んでいる。

8番、「いつか又 めぐり逢ふべき (のり)()の 嵐の山を 君しいでなば」

出典・『残集』の25番目の歌で、詞書には『かく申しつつさし離れかへりけるに、「いつまで(こも)りたるべきぞ」と申しければ、「思ひ(さだ)めたる事も侍らず、ほかへまかることもや」と申しける、あはれにおぼえて』とある。7番の歌では、舟で渡った様子に見えるが、当時は「()(げつ)(きょう)」の前身でもある「法輪寺橋」が架けられていたので、嵯峨野(さがの)の川岸から舟に乗り換える必要性はなかった。それはさておき詞書は、義清が帰り際に、「いつまで寺に居るのですか」と空仁に尋ねると、「この寺に定住(ていじゅう)するつもりはなく、他に行こうと思っている」と、答えられたのが、淋しく思われて歌を詠んだようだ。「法の輪」は、法輪寺での結縁(けつえん)を述べたもので、嵐山をあなたが去ると思うと、いつまためぐり逢えるか気がかりである」と別れを()しんだ。空仁上人の影響もあって、義清と季政は、この日の参詣を()して出家を決意したようである。

義清の出家後は、その影響で出家する歌人が多くいた。公家の藤原為業(ためなり)(1114―?年)、(ため)(つね)(1115―?年)、頼業(よりなり)(1118―1173年頃)の三兄弟に代表される。為業は「(じゃく)(ねん)」、為経は「寂超(じゃくちょう)」、頼業は「寂然(じゃくねん)」を法名とした。この三兄弟は「大原の(さん)(じゃく)」と称された。その後の西行法師とも関わりがあって、特に同年の寂然とは親交が深かった。

9番、「世をすつる 人はまことに すつるかは ()てぬ人こそ 捨つるなりけり」

出典・『山家集』の雑歌234番目の歌で、「題しらず十一」の中にある。この歌は、捨てると言う言葉を4度も繰り返した戯言(たわごと)にも見える。しかし、()(てき)に解釈すると、「世を捨てようとする人は、本当に世を捨てられるのか、捨てない人こそ、先に人生を(あきら)めて捨てているようなものだ」と、言わんとしている。仏教には、「捨身(しゃしん)」と言う概念があるが、これは世を捨てる意味ででなく、自分自身を犠牲(ぎせい)にして他者を救済するスタンスで、義清が詠じた「世を捨てる」こととは意味合いは異なる。柔道には、「捨て身」と言う技があるけれど、これは自分の(たい)()(たたみ)に捨てる反動で相手を負かすことで、捨て身は敗北ではない、逆転勝利の一面もある。()(とく)を相続して家庭を営む暮らしを放棄し、自分の引いたレールを歩むことが、義清の捨て身であった。

平安時代中期頃から仏教の末法思想が広がり、長承(ちょうしょう)3年(1134年)には、京では洪水や飢饉(ききん)が起こり、咳病(がいびょう)が流行した。保延4年(1138年)には、京()(ちゅう)で大火が発生している。また、保延5年には、(えん)(りゃく)()の僧徒が京に乱入しようとするが、平(ただ)(もり)(1096―1153年)らが防いだ。そんな時代を目の当たりした義清は、(しょ)(ぎょう)()(じょう)を感じだの確かであろう。

10番、「はかなくて 行きにし(かた)を 思ふにも 今もさこそは 朝がほの露」

出典・『山家集』の(あい)(しゅう)()75番目の歌で、詞書には「(しょ)(ぎょう)()(じょう)のこころを」とある。「(はかな)く過ぎて行く時を思うと、今ある命も朝顔(あさがお)の花の露のように消えてゆくのであろう」と、諸行無常の心を詠んだ。晩年の西行法師と親交のあった鴨長明(かものちょうめい)(1155―1216年)は、名著『(ほう)(じょう)()』の中で、京の惨状に対して世の無常を説いている。室町時代には、浄土真宗を中興した蓮如(れんにょ)上人(1415―1499年)も、西行法師の無常論を踏まえた『白骨(はっこつ)()(ふみ)』を作って、命の儚さを説いた。。

清水寺(平成3年撮影)                 下賀茂神社(ウェブのコピー)

(2)、出家(しゅっけ)と京の遍歴(へんれき)(23歳―26歳)

保延(ほうえん)6年(1140年)10月、23歳となった義清は、念願が叶って大原野の(しょう)()()で出家(とく)()する。正式な法名は、「(えん)()」と号し、(のち)に極楽浄土の西方に因み「西行(さいぎょう)」を名乗って併用するのである。勝持寺は、奈良時代に修験道の開祖・(えん)行者(ぎょうじゃ)小角(おづぬ)(634―701年)が開基し、平安時代初期に日本天台宗の開祖・伝教(でんきょう)大師最澄(さいちょう)(767―822年)が中興したと伝わる。現在は、約100本の桜があることから「花の寺」とも呼ばれて京都(らく)西(さい)の観光寺院となっている。不動堂前に剃髪に用いた鏡石(かがみいし)と西行姿見ノ池があって、鐘楼の側に西行手植えの3代目の八重桜があった。()()(こう)殿(でん)には、(よせ)()(づく)りで(うるし)()りされた高さ55㎝の西行法師像が安置されていた。出家後の西行は、勝持寺の境内に草庵(そうあん)を結んで暮らしたとされるが、疑問の余地がある。

北面武士の同僚・源季政も出家して「西(さい)(じゅう)」と称しているので、この頃は一緒に行動したものと考えられる。西住も西行と同様に法師と尊称されるが、和歌に関しては『(せん)(ざい)(しゅう)』に4首が入集しているだけである。西住法師は、駿河(するが)(のくに)岡部で西行法師よりは早く亡くなったため、(どう)(ぎょう)()(にん)の友人を哀悼(あいとう)する歌を(のち)に詠んでいる。同じ年の北面武士である平清盛は、保延6年(1140年)に(じゅ)()()()の官位に昇進し、着実に出世街道を歩いていた。

11番、「西に行く 月をやよそに 思ふらむ (こころ)にいらぬ 人のためには」

出典・『山家集』の(しゃく)(きょう)()19番目の歌で、詞書には「()(おう)()(にん)の文を」とある。法名の「西行(さいぎょう)」には、深い意味があるのかと調べたらの11番の歌が、西行の名の由来があると察した。「西に行く」は、阿弥陀(あみだ)(きょう)の西方浄土で、「月をやよそに」の以下は、月を阿弥陀如来に(たと)えて、よそ見して関心を示さない人のことである。「易往無人」は、正しくは「易往()無人」で、浄土教では極楽浄土は容易に行くことができるに関わらず、往生(おうじょう)する人は(まれ)であると言う説のようだ。

義清の出家に関して、周辺の人々がどんな印象を抱いたか調べると、左大臣・藤原頼長(よりなが)(1120―1196年)の『台記』には、「重代(じゅうだい)の勇士なるを(もっ)て法皇に仕えたり。(ぞく)()より心を仏道に入れ、家富み年若く、心(うれ)ひ無きも、遂に以て遁世(とんせい)せり。人これを(たん)()せるなり。」とある。義清の出家は、家族以外からは好意的に見られたようである。

12番、「(はな)()にと むれつつ人の 来るのみぞ あたら桜の とがにはありける」

出典・『山家集』の春歌120番目の歌で、詞書には「(ひま)ならんと思ひける頃、花見に人々のまうできければ」とある。出家後の春、勝持寺に花見に来る人々を詠んだ歌と想定(そうてい)した。「群衆が花見だと言って訪れる寺は不憫(ふびん)なものだ。桜の花が美しいばかりに、これは罪深いことでもある」と、敬虔(けいけん)な参拝客の少なさを(なげ)いている。

勝持寺での草庵暮らしは長くはなく、その後は、嵯峨野の()(ぐら)(やま)、洛北の鞍馬山(くらまやま)に移っている。小倉山には、公家で歌人の藤原(とし)(なり)(1114―1204年)が山荘を構えていて、西行法師とは和歌を通じた昵懇(じっこん)の仲であった。鞍馬山には、仏教修行が目的で入山(にゅうざん)している。勝持寺には晩秋まで2ヶ月ほと滞在し、小倉山に入ったと想像する。

13番、「松風の (おと)あはれなる 山里に さびしさそふる ()ぐらしの聲」

出典・『山家集』の雑歌46番目の歌で、「題しらず四」の13首の9番目の歌でもある。「日ぐらし」は、カナカナと鳴く(せみ)の一種で、秋の季語にもなっている。この歌は、耳に聞いた秋の風景で、「山里で松の枝が風に吹かれて(きし)む音を聞いていると、哀愁を感じるし、更にヒグラシの鳴く声が、寂しさを()えていようだ」と、ありのまま聞いた情景を詠んだ。

14番、「谷の()に ひとりぞ松は たてりける われのみ友は なきかと(おも)へば」

出典・『山家集』の雑歌47番目の歌で、「題しらず四」の中にある。山の谷間(たにあい)の一本松を眺めての詠で、「山の中に居るのは自分ひとりではなく、松が立っているのではないか」と、知るような山川(さんせん)草木(そうもく)を友として暮らした山居生活でもあった。この歌は、何時(いつ)頃、何処(どこ)で詠まれた歌なのかは不明であるが、269首が収められた雑歌の前の方にあるので、若い頃の作と推定した。

15番、「水の(をと)は さびしき(いほ)の 友なれや (みね)の嵐の たえまたえまに」

出典・『山家集』の雑歌50番目の歌で、「題しらず四」の13首の最後の歌でもある。この歌も前作と同様(どうよう)の山居生活を詠んだ歌である。「山の嶺から吹く嵐が(とき)()り止むと、その絶え間絶え間に(かけい)の水音が聞こえて来る。この水音も寂しい草庵では、愛しき友となる」と聴くのであった。西行法師は、音に対して大変に敏感(びんかん)であったようで、様々な水音を聞き分けて(かん)(じょう)()(にゅう)している。特に雨音などはうるさく、人工的な(すい)琴窟(きんくつ)や筧には、風流な奥ゆかしさがあるので、友と思うのも無理はない。

16番、「きりぎりす ()(さむ)に秋の なるままに よわるか(こえ)の 遠ざかり行く」

出典・『山家集』の秋歌82番目の歌で、「虫の歌よみ侍りけるに」と題した17首の歌の13番目の歌でもある。この歌は、昆虫(こんちゅう)のキリギリスが主題であるが、平安時代はコウロギもキリギリスと呼ばれたようである。(いず)れもバッタ科に属するが、コウロギは黒色で足が短く、キリギリスは緑色で足が長くジャンプもする。(いず)れも9月から11月頃までが寿(じゅ)(みょう)で寒さに弱い。その様子を観察(かんさつ)して歌に詠んでいる。コウロギは「コロコロリー」、キリギリスは「チョン・ギーッ」とオスだけか()(おと)(かな)でて鳴く。その声が秋の寒さで、次第に弱まって行く様子をよく(とら)えて詠んでいる。

17番、「()(やま)()(いほ)(ちか)く鳴く 鹿の()に おどろかされて おどろかすかな」

出典・『山家集』の秋歌108番目の歌で、詞書には「()の庵の鹿」とある。「小山田」は、地名ではなく、山を切り開いて作られた田んぼのことで、詞書からも推測できる。平明な歌で、「草庵に泊った朝方(あさがた)、庭先に鹿が現れて驚かされた。私は逆に()(せい)を発して鹿を驚かせてやったよ」と解釈される。実際は奇声ではなく、(かね)でも(たた)いたかも知れないが、洒脱(しゃだつ)に富んだ歌で、西行法師のユニークで子供のような一面(いちめん)を感じさせる歌である。

18番、「をじか鳴く ()(ぐら)の山の (すそ)ちかみ ただひとりきすむ 我が心かな」

出典・『山家集』の秋歌111番目の歌で、詞書には「小倉の(ふもと)に住み侍りけるに、鹿の鳴きけるを聞きて」とある。「小倉の山」は、標高は296mの小倉山で、お(わん)を伏せたような丸い形の山で保津川(大井川)沿いにある。歌の内容は、「牡鹿が鳴く小倉山の裾野近く、ただ一人で住んでいるので、私の心も澄みゆく心地がする」と、掛詞(かけことば)を交えて詠じた。単調な歌なので、若い頃の作と推察した。小倉山には、藤原(とし)(なり)の小倉山荘があったので、出家前から訪ねていたことであろう。小倉山荘は俊成の没後は、子の定家(さだいえ)が相続し、その時雨亭(しぐれてい)は、『小倉百人一首』を編纂(へんさん)した場所となった。山荘跡には、天龍寺塔頭の尼寺として(えん)()(あん)が創建されて、晩秋(ばんしゅう)の紅葉シーズンに一般公開されていると聞く。

19番、「小倉山(おぐらやま) ふもとの里に 木葉(このは)ちれば (こずえ)にはるる 月を見るかな」

出典・『山家集』の冬歌(ふゆのうた)43番目の歌で、詞書に「冬月」と題した4首の3番目の歌でもある。この歌碑が()尊院(そんいん)にあることから二尊院に草庵を結んだとされるが、それは晩年(ばんねん)のことであろう、歌の大意は、「小倉山の麓の里で、木の葉が散ると木の梢の見晴らしが良くなって、()(れい)な月が眺められる」と、分かり易い言葉で冬の月を詠んでいる。

()(せい)・西行法師の和歌の特徴は、分かり易い平明な歌が多いことで、()(けい)な解釈をしないで方がストレートに伝わるかも知れない。これは(はい)(せい)・松尾芭蕉(おう)にも共通して言えることで、子供から老人まで理解できるが、その奥深(おくふか)さは計り知れない。それが多くの詩歌(しいか)ファンに愛される所以(ゆえん)とも思うし、何よりも漂泊(ひょうはく)の詩人のイメージと生き様が美化されていると思う。

20番、「わりなしや こほる(かけい)の 水ゆゑに 思ひ捨ててし 春の待たるる」

出典・『山家集』の冬歌32番目の歌で、詞書には「世をのがれて(くら)()の奥に侍りけるに、かけひの(こお)りて水までこざけるに、春になるまではかく侍るなりと申しけるを聞きてよめる」と、鞍馬山の()(こく)な冬の様子を述べている。この歌の「わりなしや」は、現代語では「割が合わないこと」で、絶え難い()(つう)も意味する。要約すると、「この寒さには何とも絶え難い、手洗いの(そそ)ぎ口の水が氷ってしまった。これも修行と思って、これまでの思いを捨てて、春の訪れを待つばかりである。」と、寒中(かんちゅう)修行の厳しさを吐露(とろ)している。修行した鞍馬寺(くらまでら)は、奈良時代の(ほう)()元年(770年)に(がん)(じん)()(じょう)(668―762年)の高弟・(がん)(ちょう)上人(生没年不詳)が開基したと伝承される。鞍馬山と言えば、源義経(よしつね)(1159―1189年)が(うし)(わか)(まる)時代に武術を研鑽(けんさん)した寺として有名であるが、この頃はまだ生まれていない。西行法師は、鞍馬寺で越冬(えっとう)することになるが、草庵を結んだとされるのは間違いと思われる。おそらく僧坊(そうぼう)に寄宿したと想定するのが妥当であろう。現在の鞍馬寺には、西行法師に関する伝承が全くなく、()(けい)(どう)や義経公()(よう)(とう)など義経に関する史跡や伝承が多い。

2Ⅰ番、「(いは)()とぢし 氷も今朝は とけそめて 苔の下水(したみず) みち求むらむ」

出典・『山家集』の春歌15番目の歌で、詞書に「初春」と題した2首の1首でもある。『(しん)()(きん)(しゅう)』の春の歌にも採録されて、鞍馬山で詠まれた可能性が高い。曲解(きょっかい)すると、「岩と岩の間に()ざされていた氷が今朝は()けて、苔の生えた下を流れている。その流れが通り道を探すように、私も新たな道を求めて春に向って旅立つ時が()たようだ」と、鞍馬山から次の修行地に向う気概が込められている。『西行物語絵巻』には、旧宅(きゅうたく)に立ち寄って妻子の様子を(うかが)うシーンが描かれていて、陰ながらその行く末を()(まも)っていたのであった。その後の妻子は、法師の(はか)らいで紀州の天野に移り、出家したともされる。

京都市伏見区の白河天皇陵近くに「火消(ひけし)()(ぞう)(そん)」と言う半間ほどの小さな御堂があって、その左横に「西(さい)(ぎょう)()」と刻まれた自然石が立っていた。この西行寺が義清時代の邸宅跡とされている。この周辺には、鳥羽(とば)天皇陵と近衛(このえ)天皇陵もあって、鳥羽天皇が上皇(じょうこう)、更に法皇(ほうおう)となって28年間も院政を行った鳥羽離宮のあった場所でもある。

22番、「ふりつみし 高根のみ雪 とけにけり 清滝(きよたき)(がわ)の 水のしらなみ」

出典・『山家集』の春歌16番目の歌で、清滝川の初春を詠んでいる。清滝川は、北区にある標高896mの(さん)(じき)()(だけ)を水源とする川で、(たか)()(高尾)の(じん)護寺(ごじ)(まき)()()西(さい)(みょう)()(とが)()()(こう)(ざん)()(さん)()が有名である。清滝を起点に高雄までは「(きん)(うん)(けい)」、下流の落合までは「(きん)(れい)(きょう)」と呼ばれて、水の白波はいずれかの眺めであろう。三尾は現在、紅葉の名所で有名となっているが、残雪期の初春も絵になる眺めであろう。この歌の水の白波は、平安時代中期の女流歌人・(あか)(ぞめ)()(もん)(956?―1041年)の和歌の(ほん)()(とり)で、何作かの()(せい)()もあるようだ。

23番、「春あさみ (すず)のまがきに 風さえて まだ雪消えぬ しがらきの里」

出典・『山家集』の春歌19番目の歌で、「題しらず一」の2首の1首でもある。「しがらきの里」は、現在でもある滋賀県(こう)()()信楽(しがらき)の里である。京から何を目的に訪ねたのかは詞書がないので不明である。()(さい)なことではあるが、『西行全歌集』では、初句が、「春浅()」となっている。何れも春浅い早春(そうしゅん)で、初句に使用されているのはこの1首のみである。「篠のまがき」は、(しの)(たけ)の垣根である。歌の様子では、「早春の信楽の里は、吹く風も冷たく、(かき)()の雪も消えようとしない」と、感じたようだ。

24番、「ほととぎす 死出(しで)の山路へ かへりゆきて わが越えゆかむ 友にならなむ」

出典・『(きき)(がき)(しゅう)』の236番目の歌で、詞書には「北山寺(きたやまでら)にすみ侍りける頃、れいならぬことの侍りけるに、ほととぎすの鳴きけるを聞きて」とある。北山寺は、『源氏物語』の若紫(わかむらさき)の巻に登場する「北山のなにがし寺」で、鞍馬寺とされている。寺に住んでいる時、例外なくホトトギスが鳴き始めた。ホトトギスは死出の旅路の案内役とされた鳥で、「死出の()(おさ)」の異名や「不如帰」の漢字表記もある。「ホトトギスの声を聞くと、人生の旅路を一緒に越える友に(ほか)ならない」と詠じた。

25番、「さまざまに 花咲きたりと 見し()()の 同じ色にも 霜がれにけり」

出典・『山家集』の冬歌28番目の歌で、詞書には「野の(あた)りの枯れたる草といふことを(そう)(りん)()にてよみけり。」とある。鞍馬山から法師は、(えい)()元年(1141年)の初春に京・東山の(そう)(りん)()に入っている。雙林寺は、双林寺または双輪寺とも称され、寺のホームページによると、永治元年(1141年)に法師は、塔頭(たっちゅう)(さい)()園院(おういん)(現在の花月庵)に止宿したと伝えている。しかし、雙林寺には何度となく往来していて、京における()(てき)な滞在先の寺であったと言える。歌の(たい)()は、「様々な花が咲いていたように見える野辺には、同じ色のように霜枯れた様子である」と、見た風景を率直(そっちょく)に詠んだ自然描写の歌である。しかし、野辺には死者を風葬(ふうそう)した場所の意味もあって、東山には(とり)()()(そう)(そう)()があった。花を人に喩えると、(いのち)ある万物(ばんぶつ)の滅びの美学にも通ずる歌にも読める。法師の和歌に対する芸術感(げいじゅつかん)には、和歌の趣味的なイメージと異なる奥深さが感じられる。

東山()の西行法師の行動については、26歳の(こう)()2年(1143年)に奥州(おうしゅう)(しん)(しゅう)の旅に出立したという説と、29歳の久安(きゅうあん)2年(1146年)に出立したとする説がある。年代が明確となっているのは、32歳の久安(きゅうあん)5年(1149年)に高野山に上っていることである。吉野山で詠まれた歌の詞書には、「国々めぐりまはりて、春帰りて吉野の(かた)へまゐらむとし」とあるので、奥州、越後、信州の国々をめぐって吉野山に入ったと考えられる。そして約3年間は、吉野山の草庵に(とど)まっているので、吉野山に入ったのは、29歳の久安2年(1146年)となる。すると、最初の奥州の旅の出立は、康治2年(1143年)説が(ゆう)(りょく)()される。出家から3年間は京に留まっていたと推定して『新西行物語―心の旅』の年代を進めたい。また、『西行物語()(まき)』の渡辺家本には、京の北白河(きたしらかわ)で人々と和歌を詠む西行法師の姿が23紙に描かれている。東山の雙林寺(双林寺)、(ちょう)(らく)()を拠点に、京の市中を約3年間に渡って徘徊(はいかい)した可能性は高い。

26番、「霜さゆる 庭の(この)()を ふみ分けて 月は見るやと 訪ふ人もがな」

出典・『山家集』の冬歌47番目の歌で、詞書には「静かなる夜の冬の月」とある。「庭の枯葉に付いた霜は()え、月は煌煌(こうこう)と輝く、月を一緒に眺めようと尋ねて来る人のいないのは淋しい」と、(つぶや)いた歌である。この歌が詠まれた場所や年代は不明であるが、冬歌47番目の前後の歌から推察すると、京の草庵か寺の茅舎(ぼうしゃ)で詠まれた歌と思われる。

27番、「しばしこそ 人めづつみに せかれけれ はては涙や なる(たき)の川」

出典・『山家集』の恋歌10番目の歌で、「恋」と題した72首の1首で、鳴滝(なるたき)(がわ)を詠んでいる。勝手な解釈では、「堰堤(えんてい)のように目頭をおさえて止めようとするが、()え切れずに涙が鳴滝川のように流れでる」と、詠んだと思われる。鳴滝川は、京都市右京区鳴滝の街中(まちなか)を流れる川で、御室川(おむろがわ)とも称される。下流には康治元年(1142年)に落飾した待賢門院の(ほう)金剛院(こんごういん)がある。

草庵に(こも)っていても、京の歌人たちとの交流は絶やさなかったようで、徳大寺家へ婿(むこ)(よう)()に入った藤原頼長(よりなが)(1120―1196年)を尋ねている。頼長は当時、内大臣の要職にあった実力者で、その辣腕(らつわん)ぶりから(あく)()()の異名を取っていた。西行法師は、待賢門院の落飾を祝うため、「(ほっ)()(きょう)廿(にじゅう)八品(はちぼん)」の写経を28人に分担させて勧請(かんじょう)して回った。頼長には、「(じょう)()(きょう)()(さつ)(ひん)」を依頼している。この経本に登場する常不軽菩薩は、法華経を信奉した童話作家の宮沢(けん)()(1896―1993年)か、「雨ニモマケズ」のモデルにしたともされ、()(がい)な所に平安時代との結び付きがあるものである。

28番、「(みやこ)にて 月をあはれと 思ひしは 数より(ほか)の すさびなりけり」

出典・『山家集』の秋歌170番目の歌で、詞書に「(りょ)宿(しゅく)の月といへるこころをよめる」と題した3首目の中の歌でもある。京の月の名所と言えば、嵯峨野の大沢(おおさわ)(のいけ)で、現在の(だい)(かく)()境内に嵯峨(さが)天皇によって(こう)(にん)元年(810年)に造られた。しかし、旅宿とあることから近江の(いし)(やま)()の名月と比較したと推察する。「都の月がとても()(ぜい)があると思っていたが、他に比べると、とるに足りない月で、()(なぐさ)めほどの価値しかない」と、都の月を酷評(こくひょう)している。西行法師は、約2090首の和歌を残しているが、月を詠んだ歌は396首もある。桜の230首よりも多いが、桜と月が重複(じゅうふく)する歌もあるので、主題がどちらかである。

29番、「柴の(いお)と きくはいやしき 名なれども 世に(この)もしき すまひなりけり」

出典・『山家集』の雑歌1番目の歌で、詞書には「いにしえごろ、東山にあみだ房と申しける上人の庵室(あんしつ)にまかりて見けるに、おはれとおぼえてよみける。」とある、昔の頃、東山に()()()(ぼう)と言う上人の草庵を訪ねた時に哀れに思って詠んだとある。「柴の(いおり)と聞くと、貧しいそうな名前に感じるけれど、実際に訪ねてみると、世にも立派な住まいであった」と、草庵のみそぼらしいイメージを(ふっ)(しょく)させた歌である。鎌倉時代に伝わった茶ノ湯(茶道)は、茶室あっての茶ノ湯で、茶室の建物の多くは、平屋建ての質素な草庵である。()(じょう)(はん)(みず)()のあるのが一般的で、現在では高尚(こうしょう)な茶室建築の建物としてのイメージが定着している。法師が()めた住処(すみか)の上人は、どんな僧侶であったかは不明であるが、阿弥陀(あみだ)(きょう)経典(きょうてん)にはとても興味があったようだ。

30番、「世の中を そむきはてぬと ()ひおかむ 思ひしるべき 人はなくても」

出典・『山家集』の雑歌2番目の歌で、詞書に「世をのがれける折、ゆかりなりける人のもとへいひ送りける」とある。隠遁者(いんとんしゃ)となった時、所縁(ゆかり)のあるの人に所に贈った歌である。「世の中に(そむ)いた身の志を語っても、分かってくれる人はいない」と、孤独な胸の内を吐露(とろ)したようだ。しかし、法師の(しゅっ)()(とん)(せい)の志は、托鉢(たくはつ)行脚(あんぎゃ)の漂泊の歌僧として評価が高まってゆくのであった。

31番、「まさきわる 飛騨(ひだ)のたくみや ()でぬらむ 村雨(むらさめ)過ぎぬ かさどりの山」

出典・『山家集』の雑歌7番目、「題しらず一」の歌で、「かさどりの山」は、京都府宇治市(うじし)にある標高396mの「笠取山」で、歌枕の山である。「飛騨のたくみ」は、飛騨国出身の大工のことで、その大工が笠取山で(まさ)()を伐っている様子を詠んでいる。その伐採の時、村雨が降って通り過ぎて行き、「飛騨の(たくみ)たちは、笠を(かぶ)って山を出たのだろうか」と、山名と笠を掛けている。

32番、「世の中を 捨てて捨てえぬ 心地して (みやこ)はなれぬ わが身なりけり」

出典・『山家集』の雑歌195番目の歌で、「題しらず八」の27首の中にある。西行法師は、出家しても正式な(そう)()の僧侶でもなく、寺に(じゅう)()することもなかった。京の周辺を彷徨(さまよ)う有様で、(ぞく)()に対する未練もあって半俗半(はんぞくはん)(そう)の立場にあった。そんな心境を詠んだ歌が32番の歌である。ストレートな歌で、訳する必要はない思われるが、念のため解釈(かいしゃく)を加えると、「出家して(ぞく)()を捨てようとして捨てきれない気持ちで、都の人々とも交わり続けている自分の姿がある」と、詠嘆(えいたん)するのであった。

33番、「いつの世に 長き眠りの (ゆめ)()めて おどくことの あらむとすらむ」

出典・『山家集』の雑歌203番目の歌で、「題しらず八」の27首の中にある。いつの頃の(さく)かは不明であるが、「いつになったら長い(ねむ)りの夢から覚めて、驚くことのない()(どう)の気持ちになれるのだろう」と、(おのれ)の至らなさを詠んでいる。おそらく、出家間もない頃の作と考えて、33番に選んだ。様々な煩悩(ぼんのう)(さいな)まれ、世俗を離れて環境を変えることしかないと考えたようである。それが吉野山への隠遁(いんとん)生活をさせるきっかけとなって現れ、行動するのである。

34番、「おろかなる 心のひくに まかせても さてさはいかに つひの(すみ)かは」

出典・『山家集』の雑歌241番目の歌で、「題しらず十一」の14首の中にある。西行法師の若き日々の旅は、()(どう)修行の旅でもあって、自問自答する歌が多い。この歌も「(おろ)かな心を引きずっている自分に対し、(なり)()きに任せていると、その先の(つい)棲家(すみか)が心配である」と、不安な気持ちを詠じた。『西行全歌集』では、「聞書集」の216首目にあって、結句が「つひの(おも)ひは」となっていて、ニアンスが異なってくる。「ついの思ひは」の方が、意味も(つう)じてしっくりする。終の棲家には、これでお(しま)いと言うイメージがあって、愚かな人間の(まつ)()とも思えない。

35番、「そらになる 心は春の (かすみ)にて よにあらじとも 思ひたつかな」

出典・『山家集』の春歌44番目の歌で、詞書には「世にあらじと思ひける頃、東山にて、人々霞によせて(おも)をのべけるに」とある。出家後に東山の(そう)(りん)()かどこかで、歌会があって、「霞」を歌題に詠まれたようである。「そらになる」は、(はん)(にゃ)(しん)(ぎょう)の「(くう)」、空虚(くうきょ)(くう)()の言葉にも通ずる。「自分の今の心境は、春の霞のような(くう)()な世の中から逃れたいと思ったのである」と、詠んだと(かい)する。この歌には下手な解釈を加えない方が、「そらになる」心境に近付(ちかづ)くような気がする。

36番、「世を(いと)ふ 名をだにもさは とどめ置きて 数ならぬ身の 思出(おもひで)にせむ」

出典・『山家集』の春歌45番目の歌で、詞書は前の歌と一緒で、「おなじ(こころ)をよみける」とある。『山家集』では雑歌243番目と重複していて、「世をいとふ 名をだにもさは とどめおきて 数ならぬ身の 思ひ出にせむ」とある。下句の「思ひ出に()む」と「思ひ出に()む」が、一字違いであっても別の歌として採録したのかは不明である、歌の内容は、「俗世を厭い暮らしていることは知られても、人の数にも入らない身の上なので、()()(まん)(ぞく)の思い出としたい」と、詠じたように感じられる。この頃の法師は、(しゅっ)()(とん)(せい)の心が定まらず、自分を理解してくれる人を求めていたようてある。

37番、「もろともに 我をも()して ちりね花 うき世をいとふ 心ある身ぞ」

出典・『山家集』の春歌206番目の歌で、「(らっ)()の歌あまたよみけるに」と題した36首の12番目の歌でもある。「諸共(もろとも)に」の詞を初句とした歌は、『山家集』には5首もあって、「みんな一緒」と言う意味の(ほか)に、「自然と共に」と言う概念が含まれている気がする。「(うき)()(いと)う心があるので、散り行く花に寄り添うように自然に身を置きたい」と、詠じたと解釈する。。

38番、「思へただ 花のなからむ ()のもとに 何をかげにて 我身住みなむ」

出典・『山家集』の春歌207番目の歌で、「(らっ)()の歌あまたよみけるに」と題した36首の13番目の歌でもある。この歌の2句目が、同じ岩波文庫の『西行全歌集』では、「花の()りなん」となっていた。校正者が変わると歌の内容が異なるのも問題で、「花のなからむ」とでは、意味合(いみあ)いが少し異なる。「思ってみると、桜の花のなくなった木の下で、何を頼りに住み続けるられるのだろうか」となる。散った桜には花びらが残っているので、()(いん)を楽しむことができる。

39番、「ながむとて 花にもいたく ()れぬれば 散る(わかれ)こそ 悲しかりけり」

出典・『山家集』の春歌208番目の歌で、「(らっ)()の歌あまたよみけるに」と題した36首の14番目の歌でもある。何時(いつ)何処(どこ)で桜を詠んだ歌なのか判然(はんぜん)としないが、慣れ親しんだ桜のようで、東山か吉野山の桜を想像してしまう。散る桜との別れを悲しいと詠んでいるが、これは(れん)()の別れも意味し、京に住む女性であった可能性が高い。西行法師は、出家をしても女性を愛する歌を数多(あまた)詠んでいる。そんな気持ちの歌が、恋歌にも込められていて、その葛藤(かっとう)が28歳頃まで続いたようだ。

40番、「ちりそむる 花の初雪 ふりぬれば ふみ()けまうき 志賀(しが)山越(やまごえ)

出典・『山家集』の春歌232番目の歌で、詞書には「(さん)()(らっ)()」とある。「志賀の山越」は、北白川から白川沿いに大津に抜ける志賀(しが)(ごえ)(みち)と呼ばれた(やま)()である。この歌は、「桜の花が散り始めた頃、その花びらが初雪のように思われたようで、実際の初雪を踏み分けるように志賀の山越は(つら)いものである」と、桜との別れも交えて詠じた。

41番、「五月雨に 水まさるらし 宇治(うじ)(ばし)や くもでにかかる 波のしら糸」

出典・『山家集』の夏歌61番目の歌で、「五月雨(さみだれ)」と題した7首の2番目の歌でもある。この歌は、『西行全歌集』では、3句目の「宇治橋」が「(うち)(ばし)」となっていて、何処の橋なのか不明である。「宇治橋」は、京都府宇治市の宇治川に架かる橋で、瀬田川の()(たの)(から)(はし)、淀川の山崎橋と並び「日本(さん)()(きょう)」の1つとされた名橋である。歌を解釈すると、「五月雨で水かさが増した宇治橋を眺めと、蜘蛛手(くもで)のような橋脚に水が当り、白糸を引くように波が立っているよ」と、(だい)()2年(646年)に初めて架けられた宇治橋を眺めたのである。「(うち)(ばし)」は、簡素な橋を意味するようで、宇治橋のような歴史的な重みはない。

42番、「(かわ)わだの よどみにとまる (ながれ)()の うき橋わたす 五月雨のころ」

出典・『山家集』の夏歌81番目の歌で、詞書には「ある所にて五月雨の歌十五首よみ侍りし、人にかはりて」とある。実際(じっさい)は16首が詠まれ、その15番目の歌でもある。様々な五月雨の歌が詠まれていて、流れ橋の歌は、現在の木津川に架けられた「(こう)()()(ばし)」を想定したい。平安時代の流れ橋は、もっと単純な構造であったと思われ、「よどみにとまる」の句から淀川も考えられなくもない。「五月雨の頃になると、曲った川の深みには、浮橋(うきはし)が架けられているよ」と、宇治橋とは対照的な歌を詠じた。

43番、「水の()に あつさわするる まとゐかな 梢のせみの 聲もまぎれて」

出典・『山家集』の夏歌107番目の歌で、詞書に「水辺納涼(のうりょう)といふことを、北白川にてよめる」とある。北白川で開催された納涼会(のうりょうかい)の歌で、「水音(みずおと)に暑さを忘れさせる納涼会で、梢からは蝉の声も紛れ込んで聞こえる」と詠んだ。現在でも鴨川の水辺に設置される納涼(のうりょう)(ゆか)は京都の風物詩で、西行法師の時代にも行われた様子に感じられる。

44番、「よもすがら 月こそ袖に 宿(やど)りけれ むかしの秋を 思ひ()づれば」

出典・『山家集』の秋歌216番目の歌で、「月の歌あまたよみけるに」と題した42首の15番目の歌でもある。「()もがは」は、一晩中(ひとばんじゅう)()(どお)しの意味であるが、初句に用いた歌は11首もあって、月を(から)ませた歌は4首もある。「一晩中、(むかし)眺めた月が懐かしく思い出され、流す涙の(そで)に月が宿(やど)っているよ」と、出家前の自分に思いを()せるのであった。西行法師は、花の歌人と称されるけれど、月の歌人でもあって、月を眺めながら(ごく)(らく)(じょう)()を夢見ていたのかも知れない。

45番、「山里は 秋の(すえ)にぞ 思ひ知る 悲しかりけり こがらしの風」

出典・『山家集』の秋歌312番目の歌で、「秋の末に(ほう)(りん)()にこもりてよめる」と題して詠んだ6首の4番目の歌でもある。『新勅撰集』の秋歌にも選ばれた(しゅう)()である。法輪寺は、嵐山にある真言宗の寺院で、()(どう)6年(713年)に行基菩薩(668―749年)が(かい)()したと伝承される。出家前の保延(ほうえん)5年(1139年)頃、空仁上人を尋ねている。難解な語もなく、そのまま読むと「山里は秋の末こそ、木枯(こが)らしが吹き、その悲しさを思い知らされる」となる。春になると、陽が長くなってうきうきとした気分になるが、それとは逆に秋になると、陽が短くなって悲しい気持ちになる。日本人が等しく思う晩秋に対する感覚(かんかく)であろう。

()(どう)に関して西行法師は、()(げん)元年(1156年)の39歳までは、崇徳院が主催する花壇と関わりを持ち、藤原俊成の評価もあって絶対的な自信があったと思われる。俊成の歌風は、「幽玄(ゆうげん)」の美を追求した絢爛華麗なもので、(ほん)()(とり)(もの)(がたり)(とり)を考案したとされる。西行法師の歌風は、「幽寂(ゆうじゃく)」の美を探求した自然平淡(へいたん)なものであるが、()()(あい)(らく)の情感を詠んだ歌も多い。

仏道(ぶつどう)に関しては、どの宗派に属したいか迷っていたと想像する。歌人の多くは、京にも近い()(えい)(ざん)(えん)(りゃく)()の天台宗と交わりが深かった。(とく)()した勝持寺、修行した鞍馬寺、草庵を結んだと雙林寺も天台宗の寺であった。法師が高野山に上り、真言宗に帰依(きえ)するのは9年後のことで、それまでは奈良仏教も含めて様々な宗派の(しゅう)()を学んでいたと推察する。藤原頼長が「(ぞく)()より心を仏道に入れ」と評したように、武道や歌道以外に仏道にも熱心であったことが理解できる。『山家集』の(しゃく)(きょう)()では、仏教教義を(どく)()に解釈した和歌57首を詠んでいる。

神道(しんとう)に関しても関心が高く、『山家集』の(じん)()()では、21首の(さん)()を詠んでいる。また、神仏習合の聖地でもある吉野山に行く前には伊勢(いせ)(まい)りに赴いた可能性もあって、吉野から(くま)()(もうで)を行ったことも想定される。そして、住み()れた京の都を離れ、初めての東国と奥州、越後と信州などの遍歴(へんれき)行脚(あんぎゃ)の旅に出るには26歳の春であった。

白河関(ウェブのコピー)                  姨捨山(ウェブのコピー)

(3)、奥州(おうしゅう)(しん)(しゅう)の旅路(26歳―29歳)

現在の東北は、奈良時代には道奥(みちのく)と呼ばれ、平安時代後期には陸奥(むつ)または奥州と称されるようになった。平安時代に奥州を訪ねるには、京からは陸奥の多賀城までを結んでいた東山道(とうざんどう)武蔵(むさし)(のこく)まで太平洋岸を行く東海道の2つの街道を利用することになる。『山家集』の()(りょ)()125番目の歌の詞書に、旧暦の10月12日に平泉(ひらいずみ)に到着したと記している。その年が何年であったかは記されていなが、京を出発して奥州平泉に向ったのは、(こう)()2年(1143年)の春、26歳の時であった。

西行法師の遍歴行脚の目的は、同族の奥州藤原氏が京に次ぐ繁栄を誇っていたこともあって、その(ぶっ)()を訪ねること、尊敬する能因(のういん)法師(988―1105年頃)の旧跡を踏むこと、様々な和歌に詠まれた歌枕の地を目にすることが主な目的であった。奥州藤原氏は、藤原秀郷を遠祖として、西行法師が訪ねた頃は、2代目藤原基衡(もとひら)(1106―1157年)が当主となっていた。奥州平泉から以北の旅の行脚は不明であるが、伝承では青森県の下北半島や津軽半島に赴き、(いわ)()(さん)蝦夷(えぞ)(北海道)を歌に詠んでいる。また、岩手県()()(むら)の玉川は、歌枕の「野田の玉川」であると公称し、「西行屋敷跡」の名所も存在する。先ずは東海道周辺で詠まれた和歌から約3年間の西行法師の旅を追跡(ついせき)してみたい。

46番、「心をば 深きもみぢの (いろ)にそめて 別れて行くや ちるになるらむ」

出典・『山家集』の(べつ)()()2番目の歌で、詞書に「年頃申しなれたりける人に、遠く修行するよし申してまかりたるけるに、紅葉のしたりけるを見せまほしくて侍りつるかひなく、いかに、と申しければ、()のもと立ちよりてよみける」とある。詞書に「遠く修行する」とあることから、奥州へ出立する際の挨拶(あいさつ)(まわ)りをした時の歌であろう。歌の意味は、「目の前で眺める(しん)()の紅葉のように熱き心に染めて、別れ行くとするか、散り行く身となるかも知れない」と、帰らぬ旅となる思いが()められている。

47番、「(きよ)()(かた) おきの岩こす しら波に 光をかはす 秋の夜の月」

出典・『山家集』の秋歌142番目の歌で、詞書には「名所の月とてふことを」とある。「清見潟」は、静岡市清水区(おき)()にあった名所で歌枕でもあった。清見関(きよみがせき)もあって、奈良時代に創建された清見寺(せいけんじ)が建っていた。おそらく寺に泊って境内から詠んだのであろう。「沖の岩を越す白波が、(あき)()の月の光に重なって、一層(いっそう)白く感じられる」と、清く見られた寺からの眺めを詠じた。
48番、「風になびく 富士の煙の 空にきえて 行方(ゆくえ)も知らぬ 我が思ひかな」

出典・『山家集』の()(りょ)()115番目の歌で、詞書には「あづまの(かた)へ修行し侍りけるに、富士の山を見て」とある。修行の行脚であったことから最初の奥州の旅に該当(がいとう)する。「富士山の噴煙が風になびいて空に消えて行くように、私の人生の行方も似たように思われる」と、これから先の行脚に対する()(あん)を詠んでいる。

49番、「心なき 身にもあはれは 知られけり (しぎ)たつ沢の 秋の夕ぐれ」

出典・『山家集』の秋歌105番目の歌で、詞書には「秋ものへまかりける道にて」とある。「鴫たつ沢」は、神奈川県大磯町(おおいそまち)にある渓谷で、この歌の評価によって鴫立沢は新たな名所になった。「心なき身」は、出家して煩悩(ぼんのう)を捨てた自分の心である。そんな(きょう)()にあっても、シギが飛び立つ秋の夕暮れの情景には、哀れ深い(おもむき)を感じたようである。この歌は、「三夕(さんせき)の歌」として有名になって、江戸時代には俳人の大淀(おおよど)()()(かぜ)(1639―1707年)が「(しぎ)(たつ)(あん)」の庵主となって現在に続いている。

50番、「(あずま)()や あひの中山 ほどせばみ 心のおくの 見えばこそあらめ」

出典・『山家集』の恋歌119番目の歌で、「恋」と題した72首の44番目にある。「(あひ)の中山」は何処(どこ)にあったか、不明であるが、相模(さがみ)(のこく)の相模原と目されているようだ。東国の間の中山は、「道が狭くて前が見えないように、人の心の奥も見たくても見えない」と詠じた。『山家集』では恋歌に入っているが、男色(だんしょく)が盛んだった頃なので、相手は女性と限らないと思う。

51番、「いかでわれ (きよ)く曇らぬ 身となりて 心の月の 影をみがかむ」

出典・『山家集』の雑歌154番目の歌で、「心に思ひけることを」と題した5首の中にある。武蔵野の隠者(いんじゃ)と対面した折の歌と伝承されている。「いかでわれ」は、(なん)とかしたい気持ちを意味し、初句には6首の歌に用いている。「何とかして清く曇りのない身となり、更に月の輝きを心の影に入れて自分を磨きたいものだ」と、90歳を過ぎたとされる隠者の(きょう)()を学んでいる。

52番、「汲みてしる 人もあらなむ おのづから ほりかねの井の 底の(ふかき)を」

出典・『山家集』の恋歌114番目の歌で、「恋」と題した中の39番目の歌でもある。「ほりかねの井」は、歌枕の「堀兼(ほりがね)の井」で、埼玉県()(やま)()の堀兼神社の境内に埼玉県の史跡として保存されている。解釈の(むずか)しい歌であるが、「水を汲んで知るのは、堀兼井戸(いど)の底の深さのように自分の心も()(りょ)深くであるべきと思う」と、詠んだものと思われる。

53番、「(やわ)らぐる 光を花に 飾られて 名をあらはせる さきたまの神」

出典・『補遺(ほい)』の88番目の歌で、「旅の歌とて」と題した6首の4番目の歌でもある。「さきたまの神」は、埼玉県(ぎょう)()()にある前玉(さきたま)神社の祭神で、神社は埼玉古墳群の中に建っている。「和らぐる」は、民衆の心を和らげる信仰(しんこう)(しん)であろう。「前玉の神の()()(こう)は、花にも飾られて、世に知られるようになった」と、神々が支配した古墳時代に思いを()せたのかも知れない。また、前玉神社は、「(さいわい)(のみたま)神社」とも称され、これが「埼玉(さいたま)」という地名の発祥地とされている。

54番、「霧ふかき 古河(こが)わたりの わたし(もり) 岸の舟つき 思ひさだめよ」

出典・『山家集』の秋歌126番目の歌で、詞書には「下野(しもつけ)武蔵(むさし)のさかひ川に、舟わたりをしけるに、霧深かりければ」とある。「古河」は、現在の茨城県古河市(こがし)で、「さかい川」は、境川と漢字表記される()()(がわ)のことである。この歌は、武蔵(むさし)(のくに)から下野(しもつけ)(のくに)に利根川を船で渡った時の歌である。船の船頭(せんどう)に対して、「(わた)(もり)さんよ、霧が深いので古河の()(こう)は注意して下さい。船着き場のある方向だけを思って心に(さだ)めてね」と、安全な航行(こうこう)をお願いするのであった。

55番、「山高み 岩ねをしむる (しば)の戸に しばしもさらば 世をのがればや」

出典・『山家集』の羈旅歌116番目の歌で、詞書に「東国修行の時、ある山寺(やまでら)にしばらく侍りて」とある。山寺が何処(どこ)の寺なのかは不明であるが、東国の山は、歌枕で有名な筑波山で、山寺は()(つく)()(さん)()であったとしても不思議ではない。筑波山には、西行法師が入山したとする伝承もあって、『山家集』にもない(つたな)い歌もある。この歌は、「高い山の(いわ)()に柴の小庵(しょうあん)を建てて住み、しばらくして立ち去る人の世から逃れ、孤高(ここう)に身を投じたいと思う」と詠んだと解釈する。

56番、「白川の (せき)()を月の もる影は 人のこころを とむるなりけり」

出典・『山家集』の羈旅歌119番目の歌で、詞書に「みちのくにへ修行してまかりけるに、白川(しらかわ)(せき)にとまりて、所がらにや常よりも月おもしろくあはれにて、能因(のういん)が、秋風ぞ吹くと申しけむ折、いつなりけむと思ひ出でられて、名残(なごり)おほくおぼえければ、関屋の柱に書き付けける」とある。詞書にあるように、東国修行の旅を終え、陸奥(みちのく)修行の旅に白河関(しらかわのせき)から入るのである。能因法師は、「都をば かすみとともに ()ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」と詠んでいる。その歌を念頭に西行法師は、「白河の関守(せきもり)の家に()れ入る月影は、人の心を誘惑して(とど)めようとする」と詠み、能因法師の昔を思い出して感慨に(ふけ)るのであった。

57番、「都()でて あふ坂越えし (おり)までは 心かすめし 白川の関」

出典・『山家集』の羈旅歌120番目の歌で、詞書に「さきにいりて、信夫(しのぶ)と申すわたり、あらぬ世のことにおぼえてあはれなり。都出でし()(かず)思ひつづくれば、霞とともにと侍ることのあとたどるまで来にける、心ひとつ思ひ知られてよみける。」とある。京から白河の関までは約700㎞、歌枕(うたまくら)の地に寄り道して到着したのは初秋となってと思う。この歌は、「都を出て逢坂の関を越えてからは、(とき)()り心に浮かぶのは奥州の白河の関である」と詠み、やっと白河の関に辿(たど)り着いた感慨に(ふけ)っている。

58番、「思はずば 信夫(しのぶ)のおくへ こましやは こえがたかりし 白河の関」

出典・『聞書集』の139番目の歌で、詞書には「(ぎょう)(がん)(しん)」とある。行願心は、(だい)()(しん)のことで、白河の関までの修行行脚が1つの修法(しゅほう)を達したことを意味する。その点を考慮して解釈すると、「修行と思い願わなかったら、信夫の奥までは来なかったであろう。越えるのが困難とされる白河の関を越えた」と、(あん)()の気持ちを詠んでいる。

59番、「ときはなる 松の緑 神さびて 紅葉(もみじ)ぞ秋は あけの玉垣(たまがき)

出典・『山家集』の羈旅歌122番目の歌で、詞書に「あづまへまかりけるに、しのぶの奥にはべりける(やしろ)の紅葉に」とある。「しのぶの奥」は、現在の福島市にある標高275mの信夫山(しのぶやま)が該当し、、神社は羽黒神社と思われる。「ときはなる」は、地名ではなく、一年中や常日頃を意味で、「あけの玉垣」は、朱色(あけいろ)に染まった垣根を指している。それを念頭に解釈すると、「常に変わらない松の緑は、神々(こうごう)しく、紅葉の秋は、朱色に染まった玉垣が(おごそ)かである」と、(しゃ)(そう)の色彩を対比させて詠んだ。江戸時代に「しのぶの里」を訪ねた松尾芭蕉(おう)は、この歌には興味を示さなかったようで、神社ではなく「()()(ずり)観音」を参拝した。

60番、「()ちもせぬ (その)名ばかりを とどめ置きて 枯野の(すすき) かたみにぞ見る」

出典・『山家集』の羈旅歌118番目の歌で、詞書に「みちのくににまかりたるけるに、()(なか)に、常よりもとおぼしき塚の見えけるを、人に問ひければ、中将(ちゅうじょう)の御墓と申すはこれが事なりと申しければ、中将とは誰がことぞと又問ひければ、実方(さねかた)の御ことなりと申しける、いと悲しかりけり。さらぬだにものあはれにおぼえけるに、霜がれの薄ほのぼの見え渡りて、(のち)にかたらむも、(ことば)なきやうにおぼえて」とある。実方は、公家の近衛中将・藤原実方(さねかた)(?―999年)のことで、陸奥(むつの)(かみ)として赴任した際に落馬して亡くなったとされる。実方は、「(ちゅう)()三十六歌仙」の1人で、歌人としても知られていた。西行法師が実方の墓と知って、「()(きゅう)の名声を残しているが、哀れな(まつ)()で枯野のススキが形見のように見える」と、144年前の歌人を死を哀れんだ。

61番、「枯れにける 松なき宿(あと)の たけくまは みきと云ひても かひなからまし」

出典・『山家集』の羈旅歌121番目の歌で、詞書に「たけくまの松は昔になりたりけれども、(あと)をだにとて見にまかりてよめる」とある。歌にある松は、現在の宮城県(いわ)(ぬま)()にある「武隈(たけくま)の松」で、(ふた)()に分れた松はみちのくのシンボル的な存在の歌枕でもあった。西行法師が訪ねた頃は、4代目の松が枯れたようで、宿りとした「(みき)」を()きと掛けても甲斐(かい)のないことと詠じた。江戸時代に芭蕉翁が「桜より 松は(ふた)()()(つき)()し」と詠んだ松は5代目で、現在の武隈の松は7代目の言われる。

62番、「なとり川 きしの紅葉の うつる影は 同じ錦を 底にさへ()く」

出典・『山家集』の羈旅歌124番目の歌で、詞書には「()(とり)(がわ)をわたりけるに、岸の紅葉の影を見て」とある。名取川は『古今集』にも登場する歌枕で、この川を題材とした歌を詠みたいと願っていたのだろう。「川岸の水面に映る紅葉は、同じ錦の(いろどり)を川底に敷いているように美しい」と、錦秋(きんしゅう)の名取川を見事にとらえた。

63番、「あはれいかに (くさ)()の露の こぼるらむ 秋風立ちぬ (みや)()()の原」

出典・『山家集』の秋歌27番目の歌で、詞書には「秋風」とある。『新古今集』にも選ばれた(しゅう)()で、「宮城野の原」は、宮城県(せん)(だい)()の郊外にあった歌枕の地である。「あはれいかに」は、感嘆詞で「ああ」と言うため息から詠みはじめている。「ああ、宮城野の原では、どれほどの草の葉に露が(こぼ)れているのだろう。もうすっかり秋風が立ち始めている」と、自然美に感嘆した。

64番、「みちのくの 奥ゆかしくぞ 思ほゆる つぼのいしぶみ そとの浜風(はまかぜ)

出典・『山家集』の雑歌77番目の歌で、「題しらず五」の5首の3番目の歌でもある。「つぼのいしぶみ」は、宮城県()()(じょう)()にある古碑(こひ)で、奈良時代の(じん)()元年(726年)に多賀城が創建された時の経緯(いきさつ)が記されている。「陸奥(みちのく)で奥ゆかしく思えたのは、(つぼ)(いしぶみ)と外の浜風である」と、絶賛(ぜっさん)したのである。「外の浜風」は、何処を指すのかは不明であるが、松島の海岸以外は考えられない。多賀城の古碑は、江戸時代初期に発見されて、芭蕉翁が訪ねた頃には、仙台藩主・伊達(つな)(むら)によって整備されていた。

65番、「たのめおきし (その)いひごとや あだなりし 波こえぬべき (すえ)の松山」

出典・『山家集』の恋歌196番目の歌で、「恋百十首」と題した49番目にある。「末の松山」は、多賀城市()(わた)にある歌枕で、多くの歌人に詠まれた景勝地である。歌の意味は、「頼みに思っていた約束事(やくそくごと)(あだ)となり、末の松山は波が越えそうである」と、清原(もと)(すけ)(908―990年)の恋歌を念頭(ねんとう)に詠んでいる。

66番、「ふままうき 紅葉の(にしき) 散りしきて 人も通はぬ おもわくの橋」

出典・『山家集』の羈旅歌123番目の歌で、詞書に「()りたるたな橋を、紅葉のうづみたりける、渡りにくくてやすらはれて、人に尋ねければ、おもはくの橋と申すはこれなりと申しけるを聞きて」とある。「おもわくの橋」は、野田(のだ)の玉川に架けられた歌枕の橋で、多賀城市の住宅街にある。この歌は、「踏むのが勿体(もったい)ないように紅葉の錦が散っているので、誰も思惑(おもわく)の橋を通ろうとしない」と、落葉の美しさに(けい)()をはらった歌である。

多賀城の近くには、奥州一宮の塩竈(しおがま)神社があって、西行法師が参拝した可能性が高いが、歌は詠まれていない。そして、みちのく最高の(けい)(しょう)()である松島へと入ることになるが、松の木の下で出会った(どう)()との和歌の問答に負かされて引き返したとの伝承がある。これが「西行戻しの松」で、松島の観光名所の1つともなっいる。松島は京でも知られた歌枕で、数多(あまた)の歌が詠まれて来た。江戸時代に松島を訪れた芭蕉翁が絶句(ぜっく)したように、西行法師も歌に表現できなかったと想像する。それでも松島の天麟院(てんりんいん)には、西行法師像が安置されていて、西行法師の面影を(しの)ぶことができる。出羽(でわ)(のくに)象潟(きさかた)で詠んだ歌に、松島の()(しま)が登場するので、松島を訪ねたのは()(じつ)であったと見てよいだろう。

67番、「()()(やま)の うへより落ちる 滝の名の おとなしにのみ みぬるる袖かな」

出典・『補遺』の64番目の歌で、「恋」と題した5首の中にある。小野山は、()(えい)(ざん)西麓の大原にある山と目されているが、宮城県(くり)(はら)()一迫(いちはざま)にある歌枕ともされる。そんな(へん)()な山中を分け入り訪ねたと推定したい。この歌は、「小野山の上より落ちる滝の名前は、(おと)(なし)の滝と呼ぶようで、声もなく涙して袖が濡れるように恋しき人を思う」と、音無の滝に偲ぶ恋とを重ねている。

68番、「とりわきて 心もしみて さえぞ渡る 衣川見に きたる今日(けふ)しも」

出典・『山家集』の羈旅歌125番目の歌で、詞書には「十月十三日、平泉(ひらいづみ)にまかりつきたりけるに、雪ふり嵐はげしく、ことの外に荒れたりけり。いつしか衣川(ころもがわ)見まほしくてまかりむかひて見けり。河の岸につき、衣川の城しまはしたる。ことがらようかはりて、ものを見るここちしけり。(みぎわ)氷りてとりわけさびしければ」とある。京を出立してから約半年をかけて平泉に到着し、先ずは衣川を眺めるのであった。衣川は現在、北上川(きたかみがわ)の支流となっているが、当時は北上川も衣川と称されていたようだ。歌枕として知られ、平安時代後期には安倍(あべ)氏が築いた関所もあって、「(ころも)(がわ)(のせき)」と称されていた。詞書にある「衣川の城」は、安倍氏の築いた(やかた)で、衣川に面して建っていたようだ。雪の降る嵐の中で、「特別に衣川城を見に来た今日は、その城に心が()せられて時代を()え渡るようだ」と、衣川と()(せん)(じょう)を眺めた第一印象であった。

69番、「(ころも)(がわ) みぎわによりて たつ波は きしの松が根 あらうなりけり」

出典・『聞書集』の253番目の歌で、詞書には「(そう)(りん)()にて、(まつ)(かわ)に近しといふことを人々のよみけるに」とある。この歌は、平泉に滞在した頃に詠んだ歌を()(きょう)()、東山の双林寺の歌会で、「松河」と題した歌で()(ろう)したようだ。「衣川の水際(みずぎわ)に寄って立つ波は、川岸の松の根元を洗うように荒々しい」と、衣川を見たこともない面々(めんめん)に大河の迫力(はくりょく)を示したのである。

70番、「雪降れば ()()(やま)()(うづ)もれて 遠近(をちこち)しらぬ 旅のそらかな」

出典・『山家集』の冬歌72番目の歌で、「雪の歌どもよみけるに」と題した9首の2番目の歌でもある。銀世界(ぎんせかい)に包まれた光景を詠んだ歌で、みちのくで詠まれたと想定する。平明な歌なので素読(すよ)みすると、「雪が降れば野山の道は埋もれて、遠近感のない景色となるが、これも旅の空の()()(ごと)でもあるよ」と、地吹雪(じふぶき)にでも接したような雰囲気が感じられる。

71番、「(つね)よりも 心ぼそくぞ おもほゆる 旅のそらにて 年の暮れぬる」

出典・『山家集』の羈旅歌126番目の歌で、詞書には「陸奥(みちのく)(のくに)にて、年の暮によめる」とある。平泉では、同族の2代目当主・藤原基衡(もとひら)(1106―1157年)の歓待を受け、越冬したと思われる。この歌は、「普段と違う年の暮れとなって、心細く思われる旅の空である」と、京より(はる)彼方(かなた)のみちのくに居る不安さを詠じた。

この時代の平泉の人口は、10万~15万人と言われ、京の人口が16万~30万人、日本全体(ぜんたい)の人口が1000万人と推定されているので、平泉がいかに大きな都であったと思うと想像を(ぜっ)する。それも仏都と称されるように、(ちゅう)(そん)()(もう)(つう)()(かん)()(ざい)(おう)(いん)の大伽藍と大庭園があって、柳之(やなぎの)御所、伽羅(から)御所と大邸宅を兼ねた政庁もあった。初代清衡が造営した仏都は、平和な時代を100年間も奥州(陸奥(みちのく))と()(しゅう)(出羽(でわ))にもたらした当時の理想郷とも言える。

72番、「聞きもせず たはしね山の 桜ばな 吉野の(ほか)に かかるべしとは」

出典・『山家集』の羈旅歌128番目の歌で、詞書には「みちのくにに、平泉(ひらいづみ)にむかひて、たはしねと申す山の侍るに、こと木は少なきやうに、桜のかぎり見えて、花の咲きたるを見てよめる」とある。平泉で初春(しょしゅん)を迎えた西行法師は、その周辺の山並みを眺めて驚くのであった。詞書には、(たば)稲山(しねやま)と言う山があって、樹木は少ないけれど桜の木だけはあったと述べて「聞いたこともないけれど、束稲山の桜の花は素晴らしく、吉野山(よしのやま)以外にこんな桜が山にかかるとは想像もしていなかった」と、絶賛するのであった。現在は中尊寺の(ひがし)(もの)()(だい)にこの歌碑があって、束稲山の「西行桜の森」には約3000本の桜が眺められる。

73番、「奥に(なお) 人みぬ花の 散らぬあれや 尋ねを入らむ 山ほととぎす」

出典・『山家集』の羈旅歌129番目の歌で、詞書が72番の歌と同じことから、(たば)稲山(しねやま)の奥の桜を訪ねての歌と推定する。「山の奥には、人の見たことのない桜の花が散らずにあって、更に探して入るとホトトギスが(さえず)っている」と、山深く桜を求めて入った様子を詠んでいる。当時の束稲山は、エドヒガンやオオヤマザクラが(しゅ)で、新種のヤエザクラでも見たのであろうか。

74番、「いたけもる あまみる時に なりにけり えぞが()(しま)を 煙こめたり」

出典・『山家集』の雑歌75番目の歌で、「題しらず五」にある5首の冒頭にある。「えぞが千島」は、蝦夷地(えぞち)(北海道)で、千島は島が沢山あることを意味するだろう。おそらく、下北半島から北海道の渡島(おしま)半島を眺めて詠んだと想像する。「いたけもる」は、意味の不明な語であるが、一説には巫女(みこ)を意味するとある。それを踏まえて解釈すると、「(あまつ)(かみ)に祈りを捧げる巫女を必要とする時が来たようだ。蝦夷の島々に噴煙(ふんえん)が立ちこめているのを見ると」と、()(さん)か渡島駒ヶ岳の噴火を見たのであろう。

西行法師の伝承歌には、津軽半島の岩木山(いわきさん)を詠んた歌があって、津軽を訪ねた可能性は高い。岩木山は歌枕で、他には青森市の外の浜と善知鳥(うとう)、六ヶ所村の()(ぶち)の駒、三戸町(さんのへまち)の奥の(まき)など挙げられる。詞書などから推察すると、津軽からは出羽の国に入り、山形から最上川沿いに行脚して、庄内(しょうない)象潟(きさかた)を訪ねている。

75番、「たぐひなき 思ひいではの 桜かな (うす)(くれない)の 花のにほひは」

出典・『山家集』の羈旅歌130番目の歌で、詞書には「又の年の三月に、出羽(でわ)の国に越えて、たきの山と申す山寺に侍りける。桜の常よりも薄紅の色こき花にて、なみたてりけるを、寺の人々も見興じければ」とある。「たきの山」は、(りゅう)(ざん)()のことで、当時は三百坊を数える大寺院であった。寺には、花の色の変わった(さくら)並木(なみき)があって、花見が行われていたようである。その中に混じって、「比べようにならない出羽での思い出は、薄紅色(うすべにいろ)の淡い匂いの桜の花を眺めたことであろう」と、出羽と思い出を掛けて詠んだ。山形市内にある三百坊跡には、75番の歌碑が建っていて、日本最古の(いし)(とり)()が残されている。

76番、「風あらき 柴のいほりは 常よりも 寝覚(ねざめ)ぞものは かなしかりける」

出典・『山家集』の羈旅歌131番目の歌で、詞書に「おなじ旅にて」とあって、出羽(でわ)の国で詠まれたようだ。何処かの草庵に止宿し、「風の強い草庵の夜は眠られず、普段よりも寝覚めが悪く物悲(ものがな)しく感じられる」と、孤独な一夜を詠じた。

(えい)()元年(1141年)、崇徳天皇が鳥羽上皇に(うと)んじられていたこともあって24歳での退位を余儀なくされた。西行法師は、いずれの天皇にも仕えていたことから、その軋轢の挟間(はざま)にあった。鳥羽上皇は、康治元年(1142年)に東大寺戒壇院(かいだんいん)で受戒し、法皇となるが、住まいは鳥羽()(きゅう)(本院)にあった。崇徳天皇は、崇徳上皇となって新院に居を構えていた。その頃に西行法師が上皇(崇徳院)を尋ねて、「ゆかりありける人の、新院の勘当(かんどう)なりけるをゆるし給ふべきよし申し入れたりける御返事に」と詞書して、上皇との(ぞう)(とう)()を『山家集』の雑歌130番目と131番目に記載した。

おくり、「()(がみ)(がわ) つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ」

崇徳院は、「最上川で綱手を曳いて()(じょう)する稲舟が、暫しの時間は(いかり)を下して動じないように、その願いは聞き入れないことにしよう」と詠歌する。すると、西行法師は所縁(ゆかり)ある人ため、「御返りごとたてまつりけり」と題して返すのである。

77番(かへし)、「つよくひく (つな)()と見せよ もがみ川 その(いな)(ぶね)の いかりをおさめて」

「強く引く綱手のようにご(みちび)き下さい。最上川の稲舟が碇をおさめるに」と、お怒りを(しず)めるように懇願(こんがん)するのである。この頃の西行法師は、歌枕で知られた最上川の存在は知っていたが、実際(じっさい)に目にしたのは出羽の国に入ったからである。

78番、「松島や ()(しま)の磯も 何ならず ただきさかたの 秋の()の月」

出典・『山家集』の秋歌79番目の歌で、詞書には「遠く修行し侍りけるに、象潟(きさかた)と申所にて」とある。この歌は、昨年の秋に訪ねた松島を思い起こして詠んでいる。「松島の雄島の磯の風景は何ということもない。しかし、象潟の秋の月夜は(すぐ)れている」と、評した歌と思う。実際に西行法師が詠んだとする確証がなく、『西行全歌集』には記載されていない。また、人口に膾炙(かいしゃ)された歌に、「象潟や 桜の花に うづもれて はなの上こぐ (あま)のつり舟」の伝承歌がある。この歌を西行作と信じていた松尾芭蕉翁は、象潟を訪ねた折は、能因法師と西行法師を(あこが)れの歌人として故人の影を踏んでいる。

79番、「ふる(はた)の そばのたつ木に をる鳩の 友よぶ聲の (すご)き夕暮」

出典・『山家集』の雑歌13番目の歌で、「題しらず二」の5首の中にあって、出羽(でわ)(のくに)庄内(しょうない)で詠まれたとされる。他に鳩を詠んだ歌にも「凄く」の形容詞を用いて、山鳩の「デッデー・ポッポー」と鳴く声の何処に凄みを感じたのか()()(かい)である。歌の意味は、「古く荒れた畑の高い木に鳩が止っている。その鳩が仲間を呼んで鳴いてる声が(すさ)まじく聞こえる(ゆう)()れである」となる。何処かの寒村(かんそん)を訪ねた時の詠歌で、鳩に自分自身を投影(とうえい)し、一緒に旅する友を求めているようにも感じられなくもない。

80番、「いつとなく 思ひにもゆる (わが)()かな (あさ)()の煙 しめる世もなく」

出典・『山家集』の恋歌120番目の歌で、「恋」と題した72首の45番目の歌でもある。出羽の国から上州(じょうしゅう)を経て、信州へと入った様子で、標高2568mの雄大な(あさ)()(やま)を眺めるのであった。この歌は、「いつもと違った思いに自分の心は燃えている。浅間山の噴煙が絶える時代がないように」と、自分自身の情熱(じょうねつ)と噴煙を重ねて詠んでいる。

81番、「くまもなく 月のひかりを ながむれば まづ姨捨(おばすて)の 山ぞ恋しき」

出典・『山家集』の秋歌240番目の歌で、「月の歌あまたよみけるに」と題した42首の39番目の歌でもある。「姨捨山(おばすてやま)」は、長野県千曲市(ちくまし)の歌枕で月の名所でもあった。その昔、(くち)()らしのため老人を捨てた山ともされるが、単なる伝承に過ぎないよううだ。平明で率直(そっちょく)に詠まれた歌で、「雲もなく澄んだ月の光りを眺めていると、先ず恋しく思い出されるのは姨捨山である」と、姥捨山の月を絶賛(ぜっさん)した。江戸時代の松尾芭蕉翁も訪ねて、「(おもかげ)(おば)ひとりなく 月の友」と詠み、西行法師の面影を重ねた。

82番、「ねわたしに しるしの竿(さお)()てつらむ こひきまちつる (こし)の中山」

出典・『山家集』の雑歌5番目の歌で、「題しらず一」の8首の中の1首である。「越の中山」は越後にある標高2454mの(みょう)高山(こうさん)とされ、越後(えちご)(のくに)の歌枕となっている。「ねわたし」は、()(わた)しと漢字表記される稜線の尾根道で、その目印として(たけ)(ざお)を立てていた様子である。「こひき」は、木挽とも漢字表記されるが、ここでは()こりや案内人の行者(ぎょうじゃ)のことであろう。「妙高山の嶺を越えるには、目印の棹を立ててくれる案内人を待つことになる」と、修験(しゅげん)の山を越える困難さを詠んでいる。西行法師は、健脚(けんきゃく)の持ち主であったので、登山に対しても(きょう)()があって山に登り詠んだ歌が多い。

83番、「春を待つ 諏訪(すわ)のわたりも あるものを いつを(かきり)に すべきつららぞ」

出典・『山家集』の恋歌37番目の歌で、詞書には「()(ひょうの)(こい)」とある。「諏訪のわたり」は、氷結した湖水が盛り上がってできる「氷の道」を御神(おみ)(わた)りと言い、その出来栄(できば)えで()(つるぎ)神社の神官が(きっ)(きょう)を占う神事でもある。諏訪上社(かみしゃ)()(がみ)下社(しもしゃ)()(がみ)の渡る恋の道ともされる。(こおり)への恋の思いを寄せてと詞書し、「諏訪湖で待つ春は、御神渡りが終ると湖上の氷が解けて春になると言う。自分の恋心はいつになったら()けて消えるのか(つら)い気持ちが続く」と、絶ちきれない(れん)()に悩んでいた様子である。

84番、「波とみゆる 雪を分けてぞ こぎ渡る 木曽(きそ)のかけはし 底もみえねば」

出典・『山家集』の冬歌81番目の歌で、「題しらず七」の3首の中にある。「木曽の(かけはし)」は、長野県(あげ)(まつ)(まち)福島町(ふくしままち)の間にあって、木曽川沿いの断崖に架けられた桟道(さんどう)で、歌枕としても知られた難所であった。歌の意味は、「波のように積もった雪をラッセルをして分け進むと、木曽の桟から見る木曽川は底が見えないほどある」となる。険しい桟に(きょう)()(しん)を感じたと思われる。

85番、「ひときれば 都を()てて ()づれども めぐりてはなほ きそのかけ橋」

出典・『山家集』の雑歌175番目の歌で、「題しらず七」の6首の中にある。木曽路(きそじ)の難所を越えた安堵感(あんどかん)から詠まれた歌と推察する。「一旦(いったん)は京の都を捨てて旅立ったのであるが、めぐりめぐって来た果ての木曽の桟である」と、詠んだものと解釈する。木曽路を(なん)()したか、北上(ほくじょう)したかは不明であるが、信州の歌枕の山々を詠んだ伝承歌が多くあることから、信州をめぐり終えてから木曽の桟を京への折り返し地点(ちてん)と考え、南下した可能性が高い。

86番、「かざこしの 嶺のつづきに 咲く花は いつ(さか)るとも なくて散るなむ」

出典・『山家集』の春歌146番目の歌で、「花の歌あまたよみけるに」と題した27首の24番目の歌でもある、「かざこしの(みね)」は、現在の長野県(いい)()()にある標高ⅰ535mの「(かざ)越山(こしやま)」で、歌枕の山ともされる。この歌は、「風越山の稜線に続く桜の花は、いつ花盛りとなるか分からないまま散ってゆくのだろうか」と、簡明(かんめい)な言葉で旅先で見た桜を詠じた。実際に風越山の稜線まで登って小さな花のミネヤマザクラを眺めたのだろう。本当(ほんとう)にいつ咲き、いつ散るのか分からない桜の花である。

87番、「あはざらむ ことをば知らで (はは)(きぎ)の ふせやと聞きて 尋ね行くかな」

出典・『山家集』の恋歌1番目の歌で、詞書には「名を聞きて尋ぬる恋」とある。「帚木」は、現在の長野県()()(むら)園原(そのはら)(ふせ)()にあったヒノキの()(ぼく)と言われる。大正時代に(みき)の片方が折れ、昭和33年(1958年)には台風で倒れてしまい、根元周りが残されていると聞く。この帚木は、遠くから見ると、(ほうき)を立てたように見えるが、近づくと見えなくなると伝説された木ともされる。そんな伝説を知ってか、「逢ってもくれないことを知らないで、恋しく思う人が帚木の(ふせ)()にいると聞いて尋ねて行くことになった」と、帚木に(ちな)む片思いの恋歌(こいうた)を詠んだのであった。

88番、「郭公(ほととぎす) 都へゆかば ことづてむ 越えくらしたる 山のあはれを」

出典・『山家集』の夏歌49番目の歌で、詞書には「美濃(みの)の国にて」とある。この歌は『西行全歌集』にはなく、その逆もあるって、(ぞん)()()として区分する必要性を感じる。また、西行法師の(でん)(しょう)()も81首、現在の調査で見つけたので最後に紹介したい。『山家集』では39首もホトトギスを詠んだ歌があって、他の歌集を含める89首にも(およ)ぶ。山中で見たホトトギスに対し、「ホトトギスよ、私より先に都に行くなら伝言(でんごん)を頼みたい。美濃から先の山を越せずに苦労している哀れさをね」と解釈する。ホトトギスは、「()(じょ)()」とも漢字表記され、「帰る()かず」を意味し、都に帰りたい気持ちを表すしているようだ。

89番、「波よする 竹の(とまり)の すずめ貝 うれしき世にも あひにけるかな」

出典・『山家集』の雑歌58番目の歌で、詞書には「(だい)(二条院)に(かい)(あわ)せむと、せさせ給ひけるに、人にかはりて」とある9首の7番目の歌でもある。「竹の泊」は、石川県加賀市(かがし)にある(しお)()(みなと)の古名とされるが、歌枕てもなくに実際に訪ねたかは不明ある。「すずめ貝」は、巻貝(まきがい)の一種とされる1㎝ほどの小さな貝のようだ。「波が寄せた竹の泊の海岸には(すずめ)(かい)がいて、竹と雀の組み合わせは、世にも(うれ)しいものに逢ったことだな」と、昔の物語を思い起こして詠んだようだ。

90番、「しほそむる ますほのこ貝 ひろふとて (いろ)の浜とは いふにやあるらむ」

出典・『山家集』の雑歌57番目の歌で、89番の歌と同じ詞書である。「色の浜」は、現在の福井県(つる)()()の湾内にある海岸で、後に松尾芭蕉翁も訪ね、「(いろ)の浜」と誤記している。「ますほの小貝」は、(ます)()の小貝とも表記される小さな薄紫色の桜貝(さくらがい)のようだが、別説では赤い色の小貝を「()(すほ)」の小貝と書くそうである。「海辺では潮に染まったますほの小貝を拾うことできるので、色の浜と言うようである」と、詠んだと解釈する。芭蕉翁は、「波の()や 小貝にまじる 萩の(ちり)」と詠み、秋の景色を色の浜に(いろ)()えた。色の浜の本隆寺と言う小さな寺には、芭蕉句碑が建っていたが、最近になって西行歌碑が建てられたようだ。

91番、「(しの)むらや ()(かみ)が嶽を みわたせば ひとよのほどに 雪のつもれる」

出典・『聞書集』の280番目の歌で、詞書には「(かく)()僧都の六條の房にて、(ただ)(すえ)()(ない)(たい)()(とう)(れん)法師なむど歌よみけるにまかりあひて、里を隔てて雪をみるといふことをよみけるに」とある。「篠むら」は、篠群(しのむら)とも表記されるが、篠原の誤記ともされ、現在の滋賀県近江(おうみ)八幡(はちまん)()にある篠原と目されている。「三上が嶽」は、標高432mの()(かみ)(やま)で近江富士とも称される美しい山である。「篠原(篠群)から三上山を見渡すと、(いち)()のうちに雪が降り積もったようである」と、眺めた景観を率直に詠んでいる。

この歌は、奥州行脚の長旅からの帰路(きろ)に詠んだと想像するが、詞書に覚雅僧都、源忠季、登蓮法師の名があることから、京から訪ねて詠んだ可能性もあるので、西行法師が29歳頃の歌と確証(かくしょう)はできない。三上山は、(たわら)(とう)()こと藤原秀郷の「百足(むかで)退(たい)()」の伝説で有名な山でもあるが、藤原秀郷が西行法師の9世前の祖先(そせん)であるが、三上山を眺めて秀郷については触れていない。

約3年に及ぶ「奥州・信州の旅路」から京に戻った西行法師は、29歳になっていた。おそらく、暫くは京に滞在し、土産話(みやげばなし)や歌枕を訪ねて詠んだ歌を披露(ひろう)したものと思われる。この(ちょう)()の旅を経験したことよって、歌人仲間の大宮人(おおみやひと)や他の法師の見る目も変わり、大冒険を達成したヒーローのような(あつか)い方をされたと想像する。西行法師が尊敬した能因法師は、実際に旅はしておらず、留守(るす)をよそおい日焼けした顔を造って長旅を()(そう)したとも伝承されている。歌枕の現地に立って歌を詠むことに価値があったので、西行法師は如何(いかん)なくそれを実行したことになる。

吉野山中千本(平成2年撮影)                吉野山奥千本西行庵(ウェブのコピー)

(4)、(よし)()(やま)への入山(29歳―32歳)

(こう)()2年(1143年)の春、西行法師は桜の名所で名高い吉野山(よしのやま)へと上る。吉野山は馬の背のような山容(さんよう)をした山で、国宝の蔵王堂(本堂)を有する(きん)()(せん)()周辺が中心部となる。現在の吉野山には、約3万本のヤマザクラが自生または植栽されていて、標高は360mの中心部が「(なか)千本(せんぼん)」、山麓が「(しも)千本(せんぼん)」、山上が「(かみ)千本(せんぼん)」、更なる山奥が「(おく)千本(せんぼん)」と称される。西行法師は、奥千本の深山に草庵を結び、京を往来しながも約2年間()(きょ)した遺跡である。

西行法師の草庵は現在、約2間四方の(こけら)()(ほう)形造(ぎょうづく)りで復元され、「西行庵」と称しているようだ。堂内には、法師が(けっ)()趺坐(ふざ)した木像がポツンと置かれていた。西行庵近くには、法師が日常生活に用いた「(こけ)清水(しみず)」が流れ落ちている。この苔清水を詠んだ歌が、『山家集』や他の歌集にもない伝承歌が存在する。「とくとくと 落つる岩間の 苔清水 くみほすほども なき(すま)()かな」の歌である。西行法師を思慕していた松尾芭蕉翁は、(じょう)(きょう)元年(1684年)の「野ざらし紀行」と、貞享4年(1687年)の「(おい)()(ぶみ)」の旅で2度、吉野山の西行庵跡を訪ねている。芭蕉翁は、伝承歌を西行法師の自作と信じていたようで、その歌を念頭に、「(つゆ)とくとく (こころ)みに浮世 すすがやば」と詠じた。西行法師が命をつないだ霊水に触れて、自分も浮世の(あか)(そそ)ぎたいものだと、感慨(かんがい)にふけった。芭蕉翁の発句には、西行法師の和歌を踏まえての本歌取の句が結構多い。

92番、「()(かさ)(やま) 春はこゑ(おと)にて 知られけり 氷をたたく (うぐいす)のたき」

出典・『山家集』の春歌18番目の歌で、「題しらず一」の2首の中にある。しかし、『残集』の1番目の歌に、2句目の「(こゑ)」と「(おと)」の違いがあるだけの歌がある。『残集』の詞書には「奈良の(ほう)雲院(うんいん)のこうよ(公誉)(ほう)(がん)(もと)にて、立春をよみける」とある。おそらく、校訂ミスで『残集』が正しいと思う。三笠山は()(かさ)(やま)とも表記される歌枕の山で、吉野山に入る前に立ち寄った可能性が高い。この歌は、「三笠山で春の訪れを知らせるのは。氷を(たた)くような鶯の滝の水音です」と、(あい)(さつ)()に詠んだようだ。

93番、「春雨の ふる野の(わか)() おひぬらし ぬれぬれ摘まん (かたみ)()ぬきれ」

出典・『山家集』の春歌34番目の歌で、詞書には「雨中(あめのなか)若菜(のわかな)」とある。「ふる野」は、現在の天理市布留(ふる)(ちょう)とされる。「籠手」だと、剣道の「籠手(こて)」と同意語となるので、「手」の字を入れない方が良い。岩波文庫の佐佐木信綱校訂『山家集』は、当て字に()(ちが)いが多いが、この本のままに表記するのがブレなくて良いと思う。歌を解釈すると、「春雨の頃、布留(ふる)()では若菜が生えていたので、濡れ濡れになって摘まんとした。(かご)が一杯となったので袖にも入れた」と、旅先で自給する様子を詠じている。

94番、「(そら)()るる 雲なりけりな 吉野山 花もてわたる 風と見たれば」

出典・『山家集』の春歌96番目の歌で、「題しらず七」の5首の2番目の歌でもあるが、『西行全歌集』にないのが()()(かい)と思ったら、初句が「空はただ」となって記載されていた。どちらが正しいのか不明であるが、2句目との(から)みを考えると、「空はただ」の方が()つかわしい。歌の意味は「吉野山では桜の花をのせて渡る雲を見たと思ったら、空に見えたのは単なる雲だったようだ」と、受け止められる。朝霧(あさぎり)が立ち込めると、桜と雲の区別ができないほどの素晴らしい眺めてあったことを思い出す。

95番、「花をみし 昔の心 あらためて 吉野の里に すまむとぞ(おも)ふ」

出典・『山家集』の春歌122番目の歌で、詞書には「国々めぐりまはりて、春帰りて吉野の(かた)へまゐらむとし」とある。「国々めぐり」は、奥州・信州の旅路を()すと思われる。この歌は、「初めて吉野の桜を見た昔の気持ちを改めて、今度は吉野の里に住みたいと思う」と、新鮮(しんせん)な気持ちで吉野の花を眺めたいと詠んだ。

96番、「おしなべて 花の(さかり)(なり)にける 山の()ごとに かかる白雲」

出典・『山家集』の春歌127番目の歌で、「花の歌あまたよみけるに」の27首の5番目の歌でもあるが、『千載集(せんざいしゅう)』の春歌にも選ばれている。千載集は、正式には、『千載和歌集』で、藤原(とし)(なり)(ぶん)()4年(1188年)に完成させたもので、西行法師の歌は、(えん)()法師の名で18首が入集している。その数は、選者の俊成に次ぐ多さである。歌の大意は、「どこもかしこも桜の花盛りで、山の(はし)(はし)には花雲がかかったように見える」と、満開の季節を迎えた山里の桜の様子を(おお)らかに詠んでいる。

97番、「吉野山 梢の花を 見し日より 心は身にも ()はずなりにき」

出典・『山家集』の春歌129番目の歌で、「花の歌あまたよみけるに」の27首の中にある。現在の西行(さいぎょう)(あん)は、車で訪ねても(きん)()神社からは徒歩で標高765mの山道を入ることになる。芭蕉翁が訪ねた頃は、か細い獣道(けものみち)のような様子だったと俳文(はいぶん)に記している。西行法師の時代も同様であったと想像すると、(きこり)以外は立ち入らない場所であった。そんな奥山での生活を支えたのは何だろうか思う。米や味噌(みそ)は、麓に降りて托鉢(たくはつ)をして得て、山菜や(きのこ)()んで生活の(かて)としたと推測する。精神的な支えは、仏教へ深い帰依(きえ)、桜に対する思い入れであろう。97番の歌が、西行法師の気持ちを表していると感じられる。「吉野山で梢の花を見た日から(こころ)(うば)われて、寄り添いたい気持ちが高まった」と、吉野山のヤマザクラに()せられた初心を詠んでいる。

98番、「あくがるる 心はさても 山桜 ちりなむ(のち)や 身にかへるべき」

出典・『山家集』の春歌130番目の歌で、「花の歌あまたよみけるに」と(だい)した27首の8番目の歌でもある。「あくがるる」は、身体(からだ)から抜け出て行くことを意味すると、『西行全歌集』にある。それを踏まえると、「山桜が咲くと、心が抜け出た状態(じょうたい)になって、花が散った(のち)(からだ)に帰って来るものだよ」と、自分の心が花と(どう)()する姿を詠んでいる。

99番、「花みれば そのいはれとは なけれども 心のうちぞ (くる)しかりける」

出典・『山家集』の春歌131番目の歌で、「花の歌あまたよみけるに」と題した27首の9番目の歌でもある。解釈の(むずか)しい歌で、「桜の花を見ると、理由は分からないけれど、心の中が苦しくなって来る」と、桜の花と心の動きを相関的(そうかんてき)に詠んだと思われる。凡人(ぼんじん)にとって桜の花は、美の象徴のようにしか見えないが、西行法師は桜の花に感情(かんじょう)()(にゅう)ができるようだ。

100番、「花にそむ (こころ)いかで 残りけむ ()てはててきと 思ふわが身に」

出典・『山家集』の春歌138番目の歌で、「花の歌あまたよみけるに」と題した27首の16番目にある。桜の花に様々(さまざま)な思いを重ねて来た西行法師は、吉野山の桜を50首も詠んでいて、最も愛着(あいちゃく)の深かった桜の名所であった。この歌は、思慕する女性の()(れん)を絶ち切れず詠んだとされるが、()(けい)なことを考えず解釈すると、「花に染まるほど執着する心がどうして残っているのだろう。()(ぞく)は既に捨てたはずの自分なに」と、()(もん)する様子が読みとれる。

101番、「仏には 桜の花を たてまつれ わが(のち)の世を 人とぶらはば」

出典・『山家集』の春歌141番目の歌で、「花の歌あまたよみけるに」と題した27首の19番目の歌でもある。通常(つうじょう)であれば、菊の花を供えるが、(あえ)えて桜の花を添えることを詠んだ歌である。「仏前には桜の花を(そな)えして欲しい。私がいなくなった(のち)(とむら)う人がいるなら」と、死後も桜につつまれていたいと(ねが)ったようだ。

102番、「吉野山 やがて()でじと 思ふ身を 花ちりなばと 人や待つらむ」

出典・『山家集』の春歌151番目の歌で、「題しらず八」の4首の2番目にある歌でもある。草庵を閉じて新たな目標を()(さく)した頃に詠まれたと想像する。現代の短歌や俳句は、即興(そっきょう)で気に入った作品を詠まれることは少なく、芭蕉翁に限らず推敲(すいこう)してから発表する例が多い。西行法師も同様で、詠んだ和歌と発表した時期が異なるのは致し方ない。この歌も実際に吉野山から(たび)()つ時に詠まれたのかは、日時を記した詞書もなく確証はない。しかし、この歌を解釈すると、「吉野山からやがては()ようと思っている自分に、桜の花が散ったとしてもまた戻って来ると、(した)しい人は待っているようだ」と、吉野山を去る心境を詠んでいると思わざるを得ない。吉野山で3度目の桜を眺めた西行法師は、兼ねてから目標としていた(こう)()(さん)へと向うのであった。

103番、「吉野山 さくらが(えだ)に 雪ちりて 花おそげなる 年にもあるかな」

出典・『山家集』の春歌169番目の歌で、「題しらず九」の16首の2番目にある歌でもある。歌の(たい)()は、「吉野山では、桜の枝に雪が()り散って、(かい)()時期が遅くなるかも知れない。そんな年も吉野にあるのだな」と、去年の桜に比べて期待(はず)れとなった様子を気にかけている。一日でも早く桜の花を眺めたい思う気持ちが伝わり、桜に対する執着心は尋常(じんじょう)ではないと感じる。

104番、「吉野山 こぞのしをりの 道かへて まだ見ぬかたの 花を(たず)ねむ」

出典・『山家集』の春歌170番目の歌で、「題しらず九」の16首の3番目の歌でもある。(しょ)()に「吉野山」を用いた歌は、『山家集』で23首を詠んでいる。その中の代表作が105番の歌で、桜を詠んだ歌としては300番に次ぐ秀作(しゅうさく)と思う。「こぞ」は、去年(きょねん)のことで、「しをり」は、山道を歩く時に木の枝を折って目印にすることである。歌の大意は、「吉野山で、去年(きょねん)訪ねた時の()(おり)を変えて、未だ見ていない方角(ほうがく)の花を訪ねたい」と、桜の花に対する旺盛(おうせい)な好奇心が読み取れる。

105番、「吉野山 花の散りにし ()のもとに とめし心は 我を()つらむ」

出典・『山家集』の春歌184番目の歌で、「百首の歌の中に花十首」と題した1番目の歌でもある。歌の内容(ないよう)からすると、吉野で詠まれた歌でもなさそうだが、草庵を離れて越冬(えっとう)した時の歌とも思われる。「吉野山の桜の花が散った木の下に、心を(とど)めておいて来たが、その桜がまた花を咲かせて待っていることであろう」と、贔屓(ひいき)にしていた桜の木があったようだ。

106番、「この(もと)(たび)()をすれば 吉野山 花のふすまを 着する春風」

出典・『山家集』の春歌206番目の歌で、「(らっ)()の歌あまたよみけるに」と題して36首の12番目の歌でもある。草庵を離れ桜の木の下で野宿をした時の歌である。「花のふすま」は、(ふすま)と表記される平安時代の夜具のようだ。それを念頭に解釈すると、「桜の木の下で旅寝をすると、吉野山は春風が寒く感じられるが、花の()(とん)を着ているので大丈夫である」と、読み取ることができる。ふと、松尾芭蕉翁の弟子・服部(らん)(せつ)(1654―1707年)の句、「蒲団着て 寝たる姿や 東山」を思い出す。

107番、「立田川 きしのまがきを 見渡せば ゐせぎの波に まがう(うの)(はな)

出典・『山家集』の夏歌4番目の歌で、詞書に「水辺(みずべ)(のうの)(ばな)」とある。奈良の生駒(いこま)に赴き、(たつ)()神社を参拝した時の歌であろう。「立田川」は、奈良県斑鳩町(いかるがちょう)にある川で、一般的には「竜田川」と表記される。「竜田川の岸辺の茂みを見渡すと、(せき)()めて立つ波と()(ちが)うほどの卯の花が咲いている」と、紅葉(もみじ)の竜田川ではなく春の竜田川を詠んだ。

108番、「郭公(ほととぎす) ()(づき)のいみに ゐこもるを 思ひ知りても ()()くなるかな」

出典・『山家集』の夏歌15番目の歌で、詞書に「不尋聞(たずねずきく)子規(ほととぎす)といふことを、()()(しゃ)にて人々よみけるに」とある。西行法師は、吉野山の草庵から度々上京したと推定する。加茂社(下賀茂神社)は、歌会の場であったようで(こと)のほか多く参拝したようである。詞書の「不尋聞子規」は、ホトトギスが尋ねて来て鳴いてくれることで、「卯月のいみ」は、4月の賀茂祭で関係者が潔斎(けっさい)することである。そのことを踏まえると、「ホトトギスは、加茂祭のため卯月(4月)の()みで籠っているのをよく知っていて、自分が尋ねなくても(そば)に来て鳴いてくれる」と、夏の到来を告げるホトトギスを(いと)おしく詠んでいる。

109番、「水なしと 聞きてふりにし かつまたの 池あらたむる 五月雨(さみだれ)の頃」

出典・『山家集』の夏歌78番目の歌で、「ある所にて五月雨(さみだれ)の歌十五首よみし侍りし、人にかはりて」と題した15首の1首であるが、実際(じっさい)は16首あって、その12番目の歌でもある。「かつまたの池」は、奈良市西ノ京にある(かつ)()()の池で、『万葉集』にも詠まれた歌枕であるが、千葉県()(くら)()にも同名の池があるようだ。この歌は、「ふり」が経ると降るが掛詞になっていて、「(みず)()しの池と聞いていた勝間田の池であるが、五月雨が()ると池の名が改められる」と、水に満たされた様子を詠んでいる。

110番、「吉野山 うれしかりける しるべかな さらでは(おく)の 花を見ましや」

出典・『聞書集』の4番目の歌で、詞書には、(しん)()(ほん)()()(ぐう)()(もん)()()(ごん)(そく)(だい)(かん)()(とく)未曾有(みぞう)と記している。『聞書集』は、「聞きつけむにしたがいて書きべし」とあって、「(ほっ)()(きょう)廿(にじゅう)八品(はちほん)」を28首の和歌にアレンジして詠み替えたものである。法華経の教義については、深く理解していないので割愛(かつあい)する。歌の真意は、「吉野山で嬉しいのは尊者(そんじゃ)の道案内で、奥の桜を見るのも仏法の(おう)()があってのことで、その花を信解品の仏心として見る」と、曖昧な言葉で解釈する。

金峯神社の近くには、「義経(よしつね)隠れ塔」と称される小さな御堂があって、(きん)()(さん)()の僧兵の山狩りから身を隠した場所とされる。(ぶん)()3年(1187年)に奥州の(ひら)(いずみ)に逃げ延びた義経ではあるが、西行法師が東大寺大仏殿の再建のため勧進(かんじん)(ひじり)として平泉を再訪したのは文治2年(1186年)なので、2人の接点(せってん)はない。歴史好きの者としては、2人のエピソードがあって欲しかった。

111番、「尋ぬとも 風のつてにも きかじかし 花と散りにし 君が行方(ゆくえ)を」

出典・『山家集』の哀愁歌12番目の歌で、詞書には「(たい)賢門院(けんもんいん)かくれさせおはしましにける御跡に、人々、又の年の御はてまでさぶらはれけるに、南おもての花ちりける頃、堀河(ほりかわ)の女房のもとへ申し送りける」とある。待賢門院が()(あん)元年(1145年)8月、京の三条高倉(たかくら)(だい)で崩御し、(ほう)金剛院(こんごういん)に葬られた翌年に詠まれた歌である。享年(きょうねん)45歳と、美女薄命の死でもあったが、48歳上の養父の白河法皇、2歳上の大君(おおきみ)の鳥羽上皇、17歳下の西行法師などの異性関係は(ゆた)かであった伝えられる。そんな彼女の死に対して法師は、「尋ねても風の便りにも聞くことはないでしょう。花のように散った女院(にょいん)でありますから」と、その死に関しては、つれない歌を詠んでいる。堀河の女房(生没年不詳)は、西行法師の歌に「かへしの歌」を詠んでいるが、(たい)賢門院(けんもんいん)に寄り添いたい心情を詠んだ(せつ)ない歌となっいる。

かへし、「吹く風の (ゆく)()しらする ものならば 花とちるにも おくれざらまし」堀河女房

「吹く風が行方を知らせるものならば、花のように散った待賢門院の(あと)を追ったことでしょう」と返したのである。

112番、「露もらぬ (いわ)()も袖は ぬれけると 聞かずばいかに あやしからまし」

出典・『山家集』の羈旅歌74番目の歌で、詞書には「みたけより(しょう)の岩屋へまゐりたるけるに、もらぬ岩屋もとありけむ折おもひ出でられて」とある。「みたけ」は大峯山のことで、「生の岩屋」は現在の(しょう)(いわや)とされる。この歌は(ぎょう)(そん)僧正の本歌取で、「露も漏らない岩屋であるが、(ぎょう)(そん)僧正が袖を濡らしたと聞くと、如何にも怪しく感じられる」と、(いぶか)しく詠じている。

113番、「(ふか)き山に すみける月を 見ざりせば 思ひ出もなき 我が身ならまし」

出典・『山家集』の羈旅歌76番目にある歌で、詞書に「大峯のしんせんと申す所にて、月を見てよみける」とあって、深仙(しんせん)大峯(おおみね)奥駈(おくかけ)(みち)(ぎょう)()である。吉野山の草庵で安穏(あんのん)とした日々を過ごした訳ではなく、吉野の滞在中に2度に渡り修行に赴いた。大峯奥駈道は、吉野と熊野を結ぶ約170㎞の(にゅう)()修行の聖地で、標高1000~1900mの山々が連なる。厳しい修行の中でも月に安らぎを得たようで、「(やま)(ぶか)い深仙で澄んで輝いた月を見なかったら、思い出にも残らない私であっただろう」と詠んだ。

114番、「身につもる ことばの(つみ)も あらはれて 心すみぬる みかさねの瀧」

出典・『山家集』の羈旅歌90番目にある歌で、詞書に「()(かさね)の瀧をがみけるに、ことに尊く覚えて、三業(さんごう)の罪もすすがるる心地してければ」とある。「三重の滝」は、大峯奥駈道の行場の1つで、()(とう)千手(せんじゅ)()(どう)の滝の総称でもある。「三業の罪」は、仏教で言う、身と口と心で作る罪や(とが)である。その三業が(たき)(ぎょう)によって清められると考えられた。「身に積もる言葉の罪悪(ざいあく)も滝に(あら)われて心が澄んで行く三重の滝では」と詠じた。そして、更なる修行のため、生国(しょうこく)()(しゅう)にある高野山に上るのである。

高野山大門(平成22年撮影)               高野山不動堂・大塔(令和3年撮影)

(5)、高野山(こうやさん)への入山(32歳―39歳)

西行法師が高野山に入った年代については諸説があったが、久安(きゅうあん)5年(1149年)の春頃、32歳の時と比定されている。出家して9年が経て、厳しい仏道修行を重ね、高野山を開基した空海大師に()(けい)の念を抱いていたと考えられる、奥州や信州の旅路で「弘法伝説」を耳にしたり、足跡を見て来たと思う。また、佐藤義清時代に仕えた鳥羽上皇は、(てん)()元年(1124年)、(だい)()2年(1127年)、長承(ちょうしょう)元年(1132年)の3度、高野山を参拝している。その事も遠因(えんいん)としてあった気がする。

西行法師は、「(こう)()(ひじり)」であったと言われているが、これは誤解であろう。高野聖は浄土念仏を唱えて歩いた()(ぎょう)(そう)の一種とされ、その活躍は浄土宗が盛んとなった鎌倉時代以降と想定される。しかし、(ぶん)()2年(1186年)に東大寺大仏殿の再建のため、再び奥州を行脚したことがあって、「勧請(かんじょう)(ひじり)」のような活動をしたのは確かである。いずれにしても高野山に入山してから約30年間は、空海大師に帰依(きえ)して高野山を拠点とすることになる。久安5年(1149年)の5月には、落雷により()(えい)(どう)を除く(どう)(とう)()(らん)が焼失している。その再建の造営を担ったのが清盛の父・平(ただ)(もり)(1096―1153年)で、大火を()の当たりにした白河天皇の第4皇子・(かく)(ほう)(ほっ)(しん)(のう)(1091―1153年)の誘いもあって再建の一翼を担ったと想像する。

115番、「(さくら)ちる やどにかさなる あやめをば 花あやめとや いふべかねらん」

出典・『山家集』の夏歌53番目の歌で、詞書には「高野に(ちゅう)(いん)と申す所に、菖蒲(あやめ)ふきたる坊の侍りけるに、桜のちりけるが珍しくおぼえてよみける」とあって、「中院」は、明算(めいざん)阿闍梨(1021―1106年)の住坊があった(りゅう)(こう)(いん)で、ここに寄宿していたようである。そこで詠まれた歌は、「桜が散って宿坊(しゅくぼう)を飾る菖蒲を花あやめと言うべきであろう」と、解釈される。

高野山における西行法師の僧としての立場は不明で、現在の「壇上(だんじょう)伽藍」に「西行桜」があるのみである。寺伝では、西行法師は「三昧堂(さんまいどう)」で真言密教の修行をしたとされる。その折に植えた桜が西行桜で、桜が側になくては落ち着かなかったようで、桜の花こそが、西行法師の「(れん)()」でもあった推察する。

116番、「西にのみ 心ぞかかる あやめ草 この世はかりの 宿(やど)と思へば」

出典・『山家集』の夏歌55番目の歌で、詞書には「五月五日、山寺へ人の今日いるものなればとて、さうぶ(菖蒲)を(つかは)したりける返事に」とあって、(たん)()の節句に詠んだ歌である。アヤメとショウブは、いずれも「菖蒲」と漢字表記されるため、同じ花と誤解されやすい。アヤメは陸地に、ショウブは水辺に咲く。アヤメは花に(あみ)()(じょう)の模様あって、ショウブは花に黄色い模様があるし、()(もく)も異なっている。この歌の「西」は、西方浄土を意味し、その浄土に導く花があやめ草のようだ。「あやめ草を見ると、西方浄土に心がめぐらされる。この世を(かり)宿(やど)りと思えばこそである」と、浄土への(あこが)れを詠んだ。

鳥羽上皇は、高野山中興の祖と言われる覚鎫(かくばん)上人(1095―1143年)に帰依し、後援したのであるが、上人は進歩的な教義を掲げたため保守派に追われて根来(ねごろ)にあった()(ふく)()に拠点を移している。また、鳥羽上皇が出家(しゅっけ)(とく)()した折、受戒(じゅかい)の師をつとめたのが上皇の叔父・覚法法親王であった。覚法法親王は、(にん)()()の第4世門跡であったが、度々高野山を上っている。しかし、63歳となった仁平(にんへい)3年(1153年)、高野山の(しょう)(れん)()(いん)で崩御しているので、36歳の西行法師が立ち会った可能性が高い。

117番、「もの思ふ 心のたけぞ 知られぬる ()()な月を 眺めあかして」

出典・『山家集』の恋歌47番目の歌で、「月」と題した37首の9番目の歌でもある。桜が散っても月は(はな)れずに寄り添ってくれた友でもあったようで、高野山でも月を眺めて詠んでいる。この歌もその1首と思い採録(さいろく)した。「物思うことのすべてを知られるよな月明かりで、(まい)()眺めては夜明かしをしている」と、厳しい修行の(いき)()きを月に求めたようだ。

118番、「ともすれば (つき)()む空に あくがるる 心のはてを 知るよしもかな」

出典・『山家集』の恋歌70番目の歌で、「月」と題した37首の32番目の歌でもある。この歌は、「()(あい)によっては月澄む空を友のように憧れる。その友の心の果てを知る(すべ)があればよいのだか」と、澄んだ月に友への想いを(かさ)ねたとも読める。月の歌人と評された鎌倉時代の(みょう)()上人(1173―1232年)は、「山の()(われ)も入れなむ 月も入れ 夜な夜なごとに また友とせむ」と詠んでいる。明らかに西行法師の2首が念頭にあったのは明らかで、本歌を(しの)ぐ名歌と思う。

119番、「心から こころに物を おもはせて ()をくるしむる 我が身なりけり」

出典・『山家集』の恋歌234番目の歌で、「恋百十首」と題した中の87番目にある。この歌は、心の心理を探求(たんきゅう)した哲学的(てつがくてき)な意味合いもあって、「恋歌」に載録されているのが理解できない。歌の解釈は難しく、「自分の心を知るのは心であり、()(もん)()(とう)する(たび)に身が苦しめらるが、それが自分自身の本質なのだ」と、勝手に解釈する。

120番、「みがかれし 玉の(すみか)を 露ふかき 野辺(のべ)にうつして 見るぞ悲しき」

出典・『山家集』の哀愁歌15番目の歌で、詞書に「近衛院(このえいん)の御墓に、人に()して参りたりけるに、露のふかりければ」とある。近衛院は近衛天皇(1139―1155年)で、3歳で即位し、17歳で崩御(ほうぎょ)した。西行法師が38歳の出来事で、その葬送(そうそう)に参列しての歌で、近衛天皇の後は後白河天皇が即位する。歌の意味は、「(たま)のように(みが)かれた御所を出て、露の深い野辺にお移りなったのは、見るのも悲しい」となり、若き(みかど)の薄命を哀れみ追悼(ついとう)した。

121番、「今宵(こよい)こそ 思ひしらるれ 浅からぬ 君に(ちぎり)の ある身なりけり」

出典・『山家集』の哀愁歌の16番目の歌で詞書に「一院(いちいん)かくれさせおはしまして、やがて御所へ渡しまゐらせける夜、高野より()であひて参りたりける、いと悲しかりけり。此後(こののち)おはしますべき所()(らん)じはじめけるそのかみの御ともに、右大臣さねよし、大納言(だいなごん)と申しけるきぶらはれける、しのばせおはしますことにて、(また)人さぶらはざりけり、(その)をりの御ともにさぶらひけることの思ひ()でられて、折しもこよひに参りあひたる、(むかし)(いま)のこと思ひつづけられてよみける」とある。「一院」は、鳥羽法皇(1103―1156年)のことで、北面武士であった時代に仕えた主君である。「右大臣さねよし」は、徳大寺(さね)(よし)(1096―1157年)で、保延(ほうえん)2年(1136年)に大納言に昇進している。西行法師39歳の時で、法皇の遺骸が(あん)(らく)寿(じゅ)(いん)に移された折に葬送に立ち会ったのであった。この歌は、「今宵の葬送に参列して浅からぬ(いん)(えん)が思い出される。大君(おおきみ)とは出仕(しゅっし)し契りある身であった」と、男色(だんしょく)関係にあったことを匂わせているようにも感じられる。当時の西行法師は18歳、鳥羽院は33歳であった。

鳥羽法皇の没後、崇徳上皇(1119―1164年)と、後白河天皇(1127―1192)との間で、()(げん)元年(1156年)7月に「保元の乱」が勃発する。(せっ)(かん)()の内紛の一面もあったが、政僧の信西(しんぜい)(1106―1160年)や平清盛などを味方に付けた後白河天皇方が勝利して、西行法師と関わりのあった崇徳上皇方の左大臣・藤原頼長(よりなが)(1120―1196年)は敗死している。

122番、「かかる世の 影もかはらず すむ月を みる我が身さへ (うら)めしきかな」

出典・『山家集』の雑歌121番目の歌で、詞書には「世の中に大事()できて、新院(しんいん)あらぬさまにならせおはしまして御ぐしおろして、(にん)()()北院(ほくいん)におはしましけるに参りて、けんげんあざり出であひたり。月あかくてよみける」とある。「世の中の大事」は、保元の乱のことで、敗北した崇徳上皇は、新院から仁和寺北院(喜多院)に移り蟄居(ちっきょ)していた。「けんげんあざり」は、兼賢(けんげん)阿闍梨(生没年不詳)のことで、西行法師と面会したようである。その時に詠んだ歌で、「(らん)()となっても澄んだ月の影は変わらない(さま)を見ると、どうしようも出来ない自分自身が(うら)めしく思われる」と、崇徳上皇を助けてやれない()(りょく)さを詠んだ。

123番、「世の中を そむく便(たより)や なからまし うき折ふしに 君があはずば」

出典・『山家集』の雑歌122番目の歌で、詞書には「讃岐(さぬき)にて,御心ひきかへて、後の世のこと御つとめひまなくせさせおはしますと聞きて、女房のもとへ申しける。(この)(ぶん)をかきて、若人不嗔打以何修忍辱」とある。詞書終りの漢文には、「()し人が怒って自分を打つことがあれば、何を以て忍辱(にんにく)を修めるのか」とある。崇徳上皇は、仁和寺から讃岐に流刑となるが、その処遇に対する()(ちょう)を促した文にも見える。また、上皇は讃岐配流後(はいるご)からは、「崇徳院」と称されるようになっていた。この歌は、「この世の中から離れ仏道にお入りになったのは、大君(おおきみ)が憂き目に遭われたことが良いきっかけででしょう」と、出家した崇徳院を励ます歌を女官(にょかん)(かい)して讃岐に送るのであった。讃岐院は38歳、西行法師は39歳の時である。

124番、「(あさ)ましや いかなるゆゑの むくいにて かかることしも ある世なるらむ」

出典・『山家集』の雑歌123番目の歌で、詞書には「(これ)もついでに()して参らせける」とある。この歌も崇徳院の()(ぐう)に対して同情する歌で、「(なげ)かわしいな、どんな理由の配流になってしまったのか、有り得ないことが起きる世の中となってしまった」と、詠んだのである。天皇経験者が流刑されたのは、(じゅん)(にん)天皇を始めに崇徳院が2人目で、その後の前例(ぜんれい)となってしまった。

125番、「ながらへて つひに住むべき 都かは (この)()はよしや とてもかくても」

出典・『山家集』の雑歌124番目の歌で、詞書は124番の歌と一緒で、高野山で(どう)()()に詠まれた歌と推定した。この歌は、「いくら長生きしても永久(えいきゅう)に住む都ではないのだから、結局はところは(げん)()はこれで良しと思いたい」と、(らい)()の幸福に期待する気持ちが込められているようた。「(いち)()(かぎ)りの人生は、その長短に(あら)ず」とも読み取れる。

126番、「(まぼろし)の 夢をうつつに 見る人は めもあはせでや 夜をあかすらむ」

出典・『山家集』の雑歌125番目の歌で、詞書は124番の歌と一緒である。この歌も世の中のことを詠んでいて、「今生(こんじょう)の世を夢や幻の(うつつ)と見る人は、()(みん)に悩まされて夜を明かすことが多いだろう」と、現実に目を向けることを(すす)めている。その反面、豊臣秀吉(1537―1598年)と徳川家光(いえみつ)(1604―1651年)は、人生は夢のようだったと()(せい)の和歌に詠じた。

127番、「かさねきる (ふじ)の衣を たよりにて 心の色を 染めよとぞ思ふ」

出典・『山家集』の哀愁歌の19番目の歌で詞書に「右大将きんよし、父の(ぶく)のうちに、母なくなりぬと聞きて、高野よりとぶらひ申しける」とある。「右大将きんよし」は、徳大寺(きん)(よし)(1153―1161年)で、父・(さね)(よし)()(げん)2年(1157年)に68歳で亡くなって()に服していた時に、弔う意味の歌を詠んだ贈答歌である。「母の死、父の死と、()(ふく)を重ねて着ていたことを聞きました。今度は(すみ)(ごろも)に替えて仏道に帰依(きえ)したらいかがですか」と、西行法師は出家を(うなが)した歌でもある。

かへし、「(ふぢ)(ころも) かさぬる色は ふかけれど あさき心の しまぬばかりぞ」 徳大寺(きん)(よし)

西行法師から出家を勧められた公能は、「度重(たびかさ)なる親の死に藤衣の色は深くなりましたが、私の心は浅くて出家まで至りません」と、返した。公能はその後、()大臣(だいじん)まで昇進するが、返歌を詠んだ4年後の(おう)()元年(1161年)に47歳で没している。

128番、「たのもしな 雪を見るにぞ ()られぬる つもる思ひの ふりにけりとは」

出典・『聞書集』の234番目の歌で、詞書には「醍醐に(とう)(あん)()と申して、()(しょう)(ぼう)の法眼の房にまかりたるけるに、にはかにれいならぬことありて、(だい)()なりければ、同行に侍りける上人たちまで来あひたりけるに、雪のふかく降りたるけるを見て、こころに思ふことありてよみける」とある。「理性房の法眼」は、理性院の開祖(げん)(かく)で、「同行の上人」は、西住法師である。西住法師は、義清時代の北面武士の先輩で、出家した時期が一緒である。西行法師が寺で(やまい)に倒れたと聞いて、西住法師が見舞(みま)い訪ねてくれた。その折、「わざわざ来てくれて頼もしく嬉しい、雪が降り積もっているのは貴方(あなた)の思いやりのようだ」と詠じた。

かへし、「さぞな君 こころの月を みがくには かつがつ四方(よも)に ゆきぞしきける」 西住法師

「それは君が心の月を磨いたことで、一面(いちめん)の雪となって美しく現れたのだよ」と、同性愛者とも目される西行法師を(いたわ)わった。

東山双林寺西行庵(ウェブのコピー)            鴨川納涼床(ウェブのコピー)

(6)、京・東山(ひがしやま)の草庵(39歳―41歳)

西行法師が39歳になった頃、高野山を離れて京に(しばら)く滞在したようで、この時期を「京・東山の草庵」として区分した。西行法師にとっては、保元の乱後の京の情況を()(さつ)する意味もあっただろうし、崇徳院の開催していた歌会サロンの歌人たちと交わることも念頭にあったと推察する。高野山に身を置く立場としては、京の政局を把握して高野山に伝える(じょう)(ほう)(いん)の役割を担っていたとも思う。その一方、勧請(かんじょう)(ひじり)としての活動にも()(ねん)がなかっただろう。

この頃の京では、源氏の内部紛争があって、源義朝(よしとも)が父の為義(ためよし)や弟の(より)(かた)を討つのである。また、後白河天皇が二条天皇に(じょう)()して、上皇となって院政(いんせい)を始めるのであった。後白河上皇の信任を得ていた同輩(どうはい)の平清盛は、正四位下の官位と、播磨(はりま)(のかみ)の官職を得ていた。()(げん)元年(1156年)には、清盛が父・(ただ)(もり)の高野山復興の事業を継承して大塔を落成(らくせい)させている。

東山には過去、(そう)(りん)()(ちょう)(らく)()に草庵を結んでいたが、再度の滞在での草庵は定かではない。真言宗の高野山に入ってから天台宗寺院との関わりが薄くなったような傾向(けいこう)がある。現在、「西行庵」として再建された建物は、丸山公園近くの双林寺の飛び地ある。(かっ)()たる確証はないが、東山周辺で詠まれた歌、京山城の隣国(りんこく)で詠まれた歌などを採録してみたい。

129番、「(おと)()(やま) いつしか峰の 霞むかな 待たるる春は 関越えにけり」

出典・『(まつ)()(ぼん)山家集』の春歌の1番目の歌で、詞書には「(はる)(たつ)心を、人々五首よみけるに」とある。「音羽山」は、標高593mの弓形(ゆみなり)をした山で清水寺(きよみずでら)の山号ともなっている。歌の内容は、「音羽山の峰にいつの間にか霞がかかり、待ちわびていた春が逢坂(おうさか)(せき)を越えて来たようだ」となる。音羽山は歌枕でもあって、清水寺では年越しに参籠(さんろう)したと(しゃく)(きょう)()の詞書にあった。

130番、「いつしかも 春きにけりと ()の国の (なに)()の浦を 霞こめたり」

出典・『山家集』の春歌5番目の歌で、詞書には「難波にわたり(とし)()えに侍りけるに、春立つこころをよみ」とある。「津の国」は、摂津(せっつ)(のこく)の略で、「難波の浦」は、難波津とも呼ばれた歌枕である。この歌の初句が『西行全歌集』では「いつしか()」となっているが、「いつしかも」の方がしっくりと読める。「何時(いつ)()にか春が来たようだ。津の国の難波の浦には霞が立ち()めている」と、音羽山と対照的な海辺の(はる)(がすみ)を詠んでいる。

131番、「わきて今日(けふ) あふさか山の 霞めるは 立ちおくれたる 春や越ゆらむ」

出典・『山家集』の春歌6番目の歌で、詞書には「春になりける(かた)たがへに、志賀の里へまかりける人に()してまかりけるに、逢坂山(あふさかやま)の霞みたりけるを見て」とある。「逢坂山」は、逢坂(おうさか)(せき)があった山で歌枕でもある。「志賀の里」は、琵琶湖西南岸や南滋賀地方を指すようだ。詞書に道の方向を(たが)えたとあるので、「とり分けて今日は、逢坂山が霞んで見えるのは、遅れて来た春が山を越えているようた」と、遠い昔に霞のように消えた志賀の(みやこ)(大津京)に偲んだのかも知れない。

132番、「春たつと 思ひもあへぬ 朝とでに いつしか霞む (おと)()(やま)かな」

出典・『山家集』の春歌9番目の歌で、「立春(たつはる)の朝よめける」と題した5首の3番目の歌でもある。この歌は、「まだ春が来ると思っていなかったが、朝方(あさがた)の音羽山には春の霞が立っているようだ」と、129番の歌とは異なり、思わぬ春の訪れを詠んでいる。西行法師の歌は、花や月に限らず、()(しょう)(げん)(しょう)を詠んだ歌も多く、特にぼんやりと見える霞を好んで詠んだ。

133番、「見る人に 花も昔を 思ひ()でて 恋しかるべし 雨にしをるる」

出典・『山家集』の春歌106番目の歌で、詞書には「(じょう)西(さい)(もん)(いん)の女房、(ほっ)(しょう)()の花見られけるに、雨のふりて暮れにければ、帰られにけり。又の日、(ひょう)()(つぼね)のもとへ、花の()(てら)おもひ出させ給ふらむとおぼえて、かくなむ申さまほしかりし、とて(つか)しけるに」とある。「上西門院」は、鳥羽天皇と待賢門院との第2皇女・(とう)()(ない)親王で、「兵衛の局」はその女房(女官)ある。「法勝院」は、白河天皇が建立した寺で高さ約80mの八角()(じゅう)(のとう)が聳えていた。この歌は、「花を見る人を、花も昔を思い出して、恋しく思っているはずで、その涙のように雨がしみじみと感じられる」と、桜の花を()(じん)()している。

かへし、「いにしえを (しの)ぶる雨と 誰か見む 花もその世の 友しなければ」 上西門院兵衛

「昔を偲ぶような涙の雨と誰が見るのでしょう。花も昔の友と一緒(いっしょ)だったと思いたいものです」と、法師の意を()んで返した。

134番、「ちるを見て 帰る心や (さくら)(ばな) むかしにかはる しるしなるらむ」

出典・『山家集』の春歌112番目の歌で、詞書には「世をのがれて東山に侍る頃、白川(しらかわ)の花ざかりに人さそひければ、まかり帰りけるに、昔おもひ()でて」とある。詞書からすると、出家()もない頃の作と思われるが、人を誘って花見をしたとあるので、精神的に()(ゆう)のあった頃と推定した。「白川」は、白河法皇の御所・白河北殿があった場所で、法皇の後は上西門院の御所となっていた。この歌は、「散る花を見終(みお)えると、桜の花から心が身体(からだ)に帰って来て、昔と変わってしまった印なのだろうか」と、桜の花に対する心境(しんきょう)が年々変化している様子を詠んでいる。

135番、「春風(はるかぜ)の 花をちらすと 見る夢は ()めても胸の さわぐなりけり」

出典・『山家集』の春歌233番目の歌で、詞書には「()(ちゅう)(らっ)()といふことを、(さきの)(さい)(いん)にて人々よみけるに」とある。「斎院」は、現在の京都御所近くにあった()()(いん)(勢賀院)とされる。平明(へいめい)な歌でも奥深く、「春風が花を散らしている夢は、夢から覚めた(あと)(むな)(さわ)ぎする」と、花の散る哀しみをトラウマのように夢にも浮かんだようだ。

136番、「古郷(ふるさと)の 昔の庭を (おも)()でて すみれつみにと 来る人もがな」

出典・『山家集』の春歌245番目の歌で、「(すみれ)」と題した3首の中の1首でもある。西行法師が思い出した「古郷」は、生まれ故郷の紀伊の国の()(なかの)(しょう)であろう。「故郷の昔の庭を思い出すと、スミレを()みに来る人が居てくれればいいのに」と、スミレの花があまり見向(みむ)きをされない様子を詠じた。「()(ちょう)(ふう)(げつ)」に対する興味や好奇心は旺盛で、西行法師に学ぶことが多い。

137番、「その折の (よもぎ)がもとの 枕にも かくこそ虫の ()にはむつれめ」

出典・『山家集』の秋歌93番目の歌で、詞書には「もの心ぼそう哀なる折しも、(いおり)(まくら)ちかう虫の音きこえければ」とある。『山家集』では、秋歌が318首も収められていて、春歌の260首を大きく上回(うわまわ)っている。秋歌が多いのは、西行法師が好む題材が(ほう)()であったことに尽きる。「その折」は、自分が死ぬ時のことを意味し、旅寝して野垂(のた)()する様子が想定される。「死ぬ折は、ヨモギの草の枕にあっても、このような虫の鳴き音を(むつ)ましく聞くであろう」と、草庵の枕辺で聞いた印象を詠じた。

138番、「ゆくへなく 月に心の すみすみて ()てはいかにか ならむとすらむ」

出典・『山家集』の秋歌218番目の歌で、「月の歌あまたやみけるに」と題する42首の17番目にある。この歌は、「行方(ゆくえ)(さだ)まらない自分ではあるが、月を見ると心が月に()まされる。その澄んだ果ての心はどうなるのだろうか」と、月に寄せる思いを定まっていない様子を詠んでいる。当時は、月に住む「桂男(かつらおとこ)」の伝説もあって、そのことが脳裏にあっても不思議でない。

139番、「天の原 (あさ)()(やま)より 出づればや 月の光 昼にまがへる」

出典・『山家集』の秋歌224番目の歌で、「月の歌あまたよみけるに」と題した42首の23番目の歌でもある。「(あま)(はら)」は、広々とした大空を意味し、「朝日山」は、京都府宇治市(うじし)にある標高124mの歌枕の山で、宇治川右岸に位置する。この歌は、「大空の中、小高い朝日山から昇る月の光は昼に(まが)うばかりに明るい」と、朝日山の名のある月の明るさを強調した。

140番、「よもすがら をしげなく吹く 嵐かな わざと時雨(しぐれ)()むる紅葉を」

出典・『山家集』の冬歌1番目の歌で、詞書には「(ちょう)(らく)()にて、(よる)紅葉(もみじ)を思ふといふことを人々よみけるに」とある。「長楽寺」は、現在の東山区丸山にある()(しゅう)の寺で、当時は(えん)(りゃく)()の別院であった。そこでの歌会の歌で、「一晩中、惜しげもなく吹く嵐となり、いたずらな時雨が降って紅葉(もみじ)を白く()める」と詠んだ。『西行全歌集』では、結句が「染むる(こずえ)を」となっている。

141番、「かきこめし 裾野の(すすき) 霜がれて さびしさまさる 柴の(いほ)かな」

出典・『山家集』の冬歌27番目の歌で、詞書に「(さん)()()(そう)といふ事を、(かく)()(そう)()(ぼう)にて人々詠けるに」とある。覚雅僧都(1090―1146年)は、東大寺(しょう)(そう)()で、この頃には小野の里に草庵を結んでいたと考えられる。「かきこめ」は、垣籠めと表記される垣根である。覚雅僧都の坊舎(ぼうしゃ)で歌会があったようで、山家枯草が()(だい)となっていた。「垣根に裾野のススキを植えたが霜枯れてしまい、客が帰った(あと)は寂しさが増すばかりの草庵である」と、自分の草庵で詠んだ歌を()(ろう)した。

142番、「(とし)()れし そのいとなみは 忘られて あらぬさまなる いそぎをぞする」

出典・『山家集』の冬歌118番目の歌で、詞書には「東山にて人々年の暮に思ひをのべけるに」とある。東山の草庵で年末(ねんまつ)を迎えての歌で、「年が暮れたが、世俗の恒例(こうれい)行事は忘れてしまって、僧形(そうぎょう)(さま)となって今は仏事の準備に忙しい」と詠んだ。出家してから世俗の風習に(うと)くなったようで、忙しいと言う情況から何処(どこ)の寺で正月の準備をしていたのであろう。

143番、「おのづから いはぬをしたふ 人やあると やすらふ(ほど)に 年の暮れぬる」

出典・『山家集』の冬歌121番目の歌で、詞書には「(せい)()に人のもとにつかはしける」とある。歌の意味は、「こちらから言わなくても(した)ってくれる人がいると思ってぐずぐずしていると、もう年も暮れてしまった」と解釈する。この歌は、『新古今集』にも選ばれていて評価が高いようで、自分自身を冷静(れいせい)に見て率直に詠んでいる。

144番、「()()(がわ)(はや)()おちまふ れふ船の かづきにちかふ こひのむらまけ」

出典・『山家集』の雑歌254番目の歌で、詞書には「宇治川をくだりける船の、かなつきと申すものをもて(こい)のくだるをつきけるを見て」とある。「れふ船」は漁船で、「かづき」は、金突(かなつき)と漢字表記される漁具で、(もり)やヤスなどを指すようだ。宇治川で(こい)(りょう)を見ての歌で、「早瀬を落ちて舞う漁船からは、鯉の(むれ)に銛が交差するように投げ込まれた」と、殺生(せっしょう)する様子を詠んだ。

145番、「(とり)()(やま) わしの高嶺の すゑならむ 煙を分けて ()づる月かげ」

出典・『山家集』の哀愁歌75番目の歌で、詞書には「(とり)()()にてとかくのわざしける(けむり)のうちより山づる月おはれに見えければ」とある。東山の鳥部野は、奥嵯峨の(あだし)()、船岡山の蓮台(れんだい)()と並ぶ「京の三大(そう)()」と称された。この歌は、釈迦(しゃか)が説法した(りょう)鷲山(じゅせん)を「わしの高嶺」と呼び、その末に鳥部山も連なることを念頭に(かみ)()(長句)を詠み、「荼毘(だび)に付した煙りを分けて月が出て、月影が美しく輝いている」と、月の加護もあることを(しも)()(短句)を詠んでいる。

おくり、「寺つくる (この)()が谷に つちうめよ 君ばかりこそ 山もくづさめ」 観音寺入道生光(せいこう)

出典・『山家集』の釈教歌7番目の歌で、詞書には「定信(さだのぶ)入道、観音寺に堂つくりに結縁(けつえん)すべきよし申しつかはすとて」とある。「定信入道」は、能書家の藤原定信(1088―1156年)で、「観音寺」は、現在の東山区(せん)(にゅう)()にあるの(いま)(ぐま)()観音寺とされている。この歌は、定信が観音堂を建てるに()たり、西行法師と交わした贈答歌で、「寺を造るので、私の土地の山を崩してこの谷に土を埋めて下さい」と、高野山の復興にも関与した土木技術を知って西行法師に()(らい)するのである。

146番(かへし)、「山くづし 其力(そのちから)ねは かたくとも 心だくみを 添へこそはせめ」

「山を崩すほど大きな力はないですが、様々な工夫をして(ちから)()えをしましょう」と、少し控えめな歌で返した。

147番、「つらなりし 昔に露も かはらじと 思ひしられし (のり)の庭かな」

出典・『山家集』の釈教歌9番目の歌で、詞書には「阿闍梨(しょう)(みょう)、千人あつめて(ほっ)()(きょう)結縁(けつえん)せさせけるに参りて、又の日つかはしける」とある。「阿闍梨勝命」は、俗名が藤原(ちか)(しげ)(1112―1187年頃)で62歳頃に出家し、千僧供養の結縁で出会ったようである。この歌は、釈迦が(りょう)鷲山(じゅせん)で説かれた法華経を念頭に、「昔につらなる説法は(かん)()のように変わらないと、思い知らされるような庭訓(ていきん)の教えでもあった」と、法華経の有難さを詠じた。

148番、「神の()も かはりにけりと 見ゆるかな (その)ことわざの あらずなるにて」

出典・『山家集』の(じん)()()の9番目の歌で、詞書には「北まつりの頃、賀茂に参りたりけるに、(おり)うれしくて侍たるる程に、使(つかひ)まゐりたり。はし殿につきてついふしをがまるるまではさることにて、(まい)人のけしきふるまひ、見し世のことともおぼえず、あづま遊にことうつ(べい)(じゅう)もなかりけり。さこそ(すえ)の世ならぬ、神いかに()(たま)ふらむと、恥じきここちしてよみ侍りける」とある。詞書を要約すると、「賀茂祭を見物して嬉しく思ったは、朝廷の(ちょく)使()が来て(はし)殿(どの)平伏(へいふく)し礼拝するまでは昔のままであった。けれど舞人(まいひと)の衣装、振舞いは昔のものとは思われず、東国の()(がく)で琴打つ(ばい)(じゅう)がいない。末法(まっぽう)の世とは言え、神様はいかにご覧になるかと思うと()ずかしい気分となって歌を詠みました」となる。歌に関しては、詞書をまとめて、「神の時代も変わったと見え、祭りの(しん)()も昔の(よう)ではない」と、戦乱で衰退(すいたい)する神社の情況を詠んでいる。

149番、「いとへただ つゆのことをも (おも)ひおかで 草に(いほり)の かりそめの世ぞ」

出典・『聞書集』の114番目の歌で、詞書には「東山に(しみ)()(だに)と申す山寺に、世(のが)れて(こも)りゐたりける人の、れいならぬこと大事なりと聞きて、とぶらひにまかりたるに、あとのことなど思ひ()てぬやうに申しおきけるを聞きてよみ侍りける」とある。「清水谷の山寺」は、おそらくは清水寺(きよみずでら)(せい)(かん)()と思われる。そこに隠遁(いんとん)していた無名の僧が急死したことを聞いて(とむら)いに尋ねた時に詠まれた歌である。「現世をただ(いと)うのは、露のように今日ある命が明日はないことで、草庵の暮らしも仮の世界なんだ」と、隠者(いんじゃ)の死に対する持論(じろん)の哲学を詠嘆した。

150番、「比良(ひら)の山 春も()えせぬ 雪とてや 花をも人の たづねざるらん」

出典・『聞書集』の248番目の歌で、詞書には「(はな)(ゆき)に似たりといふことを、ある所にてよみけるに」とある。「比良の山」は、琵琶湖西岸に連なる山塊(さんかい)で、標高ⅰ214mの武奈ヶ(ぶなが)(だけ)が最高峰である。西行法師は、(おお)(みね)(おく)(かけ)(みち)を2度も踏破した健脚の持ち主であって、実際に()()(さん)に登って詠んだ歌であろう。この歌は平明で、「比良の山には、春でも消えない雪があると思われるが、それが花であることを知らず、訪ねず去る人がいる」と、歌枕でもある山の(にん)()のなさを詠じた。

151番、「物思(ものおも)ひて 結ぶたすきの おびめより ほどけやすなる 君ならなくに」

出典・『残集』の37番目の歌で、詞書には「北白川の基家(もといえ)(さん)()のもとに、(ぎょう)(れん)法師に逢ひにまかりたりけるに、心にかなはざる恋といふことを、人々よみけるにまかりあひて」とある。「基家の三位」は、藤原基家(1132―1214年)で(かん)()(しょう)二位(にい)まで昇進した。「行蓮法師」は、法橋行遍(ぎょうへん)(生没年不詳)の誤りともされる。基家邸の歌会では、叶わぬ恋が歌題に詠まれ、「君を思って心の中で結ぶ(たすき)(おび)()は固く締まっていますが、君の心はつれなく帯目が寄り(ほど)け易くなってます」と法師は詠じた。

152番、「さ()ふけて 月にかはづの 聲きけば みぎはもすずし 池のうきくさ」

出典・『残集』の38番目の歌で、詞書には「(ただ)(もり)の八條の泉にて、高野の人々仏かきたてまつることの侍りけるにまかりて、月あかかりけるに池に(かはづ)の鳴きけるをききて」とある。「忠盛」は、平清盛の父・平忠盛(1096―1153年)で、その屋敷である八條の屋敷(六波(ろくは)羅館(らのやかた))を尋ねての歌である。高野山にゆかりある人々が集い、仏画を描いて月見をした様子に見える。歌の意味は、「夜も更けて、輝く月に呼応して(かえる)の鳴く声を聞くと、池の浮草(うきくさ)と同様に涼しく感じられる」と解釈する。平清盛は、あまり和歌に(きょう)()()(よう)もなかったようで、彼の詠んだ歌は殆ど無きに等しいのが残念に思われる。

高野山奥ノ院御廟橋(令和3年撮影)          高野山弁天社(平成22年撮影)

(7)、高野山(こうやさん)へ再入山 (41―50歳)

西行法師の行動が確証されるのは、仁安(にんあん)2年(1167年)に四国順礼と西国の旅に出立したことである。それまでの約9年間は、再び高野山を拠点として活動したと推測される。42歳の(へい)()元年(1159年)12月には、有名な「平治の乱」が勃発しした。後白河上皇の院政派と二条天皇の親政派の対立で、院政派の権力者であった信西(しんぜい)(藤原(みち)(のり))が討たれ、後白河上皇は仁和寺に幽閉された。翌年になると、熊野参詣から帰京した平清盛は、信西に厚遇されたこともあって(ほう)()し、首謀者の藤原信頼(のぶより)と源義朝らを放逐(ほうちく)した。それによって平家一門の権力は増し、後白河上皇は法皇となって院政に返り咲いた。

(おう)()元年(1161年)に左京太夫(さきょうたゆう)となった藤原(とし)(なり)が高野山を訪ね、歌会が催された。応保2年には、蹴鞠の師匠でもあった藤原成通(なりみち)が62歳で没している。長寛(ちょうかん)2年(1164年)には、崇徳院が配流先の讃岐で46歳で崩御した。生前の崇徳院とは、女房(女官)を介して和歌の贈答を行っていたようで、随分と落胆したことであろう。(えい)(まん)元年(1165年)には、二条天皇が23歳で崩御し、六条(ろくじょう)天皇が1歳で即位すると言う異常な皇位継承が朝廷で行われた。高野山西麓の橋本には、頻繁に()宿(しゅく)した(えい)(らく)()があるが、天野の里には西行法師の妻女(さいじょ)()(そう)となって住んでいた草庵(現・西行堂)もあって往来したようである。

153番、「なれきにし 都もうとく なり果てて 悲しさ()ふる 秋の(くれ)かな」

出典・『山家集』の秋歌280番目の歌で、詞書には「秋の末に寂然(じゃくねん)高野にまゐりて、(くれ)の秋によせておもひをのぺけるに」とある。寂念(1118―1173年頃)は、西行法師と同年代で、俗名は藤原頼業(よりなり)、官位官職は(じゅ)五位(ごい)壱岐(いきの)(かみ)、36歳頃に出家している。寂然に対して、「住み慣れた都も(うと)くなって、秋も暮れて来ると悲しさが寄り添います」と、親しみを込めて詠んだ。

154番、「雪深く うづめてけりな 君くやと 紅葉の(にしき) しきし(やま)()を」

出典・『山家集』の冬歌94番目の歌で、詞書には「秋の(ころ)高野へまゐるべきよしたのめて、まゐざりける人のもとへ、雪ふりてのち申し(つか)しける」とある。一緒に高野山に(まい)ろうと頼んだのは、西住法師だったのでは推測する。「君くやと」は、「君()や」と、『西行全歌集』にある。他に難解な言い回しはなく、「雪が深く()まったようで、君が()れなくなったは残念だが、今度は冬ではなく、紅葉(もみじ)の錦を敷いた山道(やまみち)を歩きたい」と、詠んで贈ったと解釈する。

155番、「あまくだる 名を吹上(ふきあげ)の 神ならば (くも)()れのきて 光あらはせ」

出典・『山家集』の羈旅歌145番目の歌で、詞書には「()(ぐら)をすてて高野の麓に(あま)()と申す山に住まれけり。おなじ院の(そち)の局、都の外の(すむみか)とひ申さではいかがとて、分けおはしたりける、ありがたくなむ。帰るさに()(がわ)へまゐられけるに、御山よりいであひたるけるを、しるべせよとありければ、ぐし(もう)して()(かは)へまゐりたりける、かかるついでは今はあるまじきことなり、吹上(ふきあげ)みんといふこと、()せられたりける人々申し出でて、吹上へおはしけり。道より大雨風吹きて、(けふ)なくなりにけり。さりとてはとて、(やしろ)にこしかきすゑて、思ふにも似ざりけり。能因(のういん)苗代(なはしろ)水にせきくだせよとよみていひ伝へられたるものをと思ひて、社にかきつけける」とある。詞書を要約すると、「京の小倉から高野山麓の天野に(ちゅう)()(ごん)(つぼね)は移住していた。同じ待賢門院に仕えていた(そち)の局が都から訪ねて来た。帰りに粉河寺(こかわでら)に詣でることになって、西行法師が案内役を頼まれる。折角(せっかく)来たのだからと吹上(ふきあげ)を訪ねると、途中から風雨となってがっくりする。吹上神社に着いても為す術もなく、能因(のういん)法師の和歌を思い出して神社の書き付けた」とある。そして、「天下(あまくだ)り吹上の名で鎮座する神ならば、嵐を退(しりぞ)けて日の光を(あらわ)し給え」と詠んだ。

166番、「こととなく 君こひ(わた)る 橋の上に あらそふものは 月の影のみ」

出典・『山家集』の羈旅歌150番目の歌で、詞書には「高野の(おく)(いん)の橋の上にて、月あかかりければ、もろともに眺めあかして、その頃西(さい)(じゅう)上人京へ出でにけり。その夜の月忘れがたくて、又おなじ橋の月の頃、西住上人のもとへいひ(つか)しける」とある。高野山奥ノ院の()(びょう)(ばし)で西住法師と眺めた月が忘れられなかったようで、再び同じ場所で月を眺めて歌を詠み贈った。「(なに)()なくあなたを恋しく思われ、一緒(いっしょ)に渡った橋の上で眺めた月と競うものは、今日の月影だけです」と、月影と西住法師の面影(おもかげ)を重ねて詠んだ。この歌と詞書から推察して、高野山に再入山した頃の作と思われる。

かへし、「(おも)ひやる 心は見えで 橋の上に あらそひけりな 月の影のみ」 西住法師

「私を心配(しんぱい)していると思ったら、あなたの心に見えるのは橋の上で競い合う二つの月のようですね」と返す。この贈答歌から2人の親密さから同性愛の歌と評されるが、現在でも男色(だんしょく)は裏社会で存在しているので、目くじらを立てる問題でもないと思う。

157番、「山ふかみ さこそあらめと きこえつつ (おと)あはれなる 谷川の水」

出典・『山家集』の羈旅歌152番目の歌で、詞書には、「入道(にゅうどう)寂然(じゃくねん)大原に住み侍るけるに、高野より(つか)しける」とある。この歌は、寂然との贈答歌で、「山ふかみ」の初句を10首を贈り。寂然からも「大原の里」と結句された10首が返答(へんとう)されている。

「高野山は(やま)(ふか)いので、そうであろうと聞いたが、やはり谷川の水の音は(あわ)れに感じられます」と、高野山の山の様子を伝えた。

かへし、「あはれさは かうやと君も 思ひ知れ (あき)()れがたの 大原の里」 寂然法師

「哀れさは高野と同じと、あなたに思い知って()しいものです。秋の暮れの大原の里もね」と返した。

おくり、「おどろかす 君によりてぞ 長き()の 久しき夢は さむべかりける」 藤原成通

出典・『山家集』の雑歌87番目の贈答歌で、詞書には「()(じゅう)大納言のもとへ、後の世のことおどろかし申したりける返りごとに」とある。「侍従大納言」は、藤原成通(なりみち)(1097―1162年)のことで、西行法師よりも21歳も年長であった。()(まり)の名手で、西行法師も師と仰ぎ学んだ。法師の勧めもあって()(げん)元年(1159年)に出家し、3年後に没している。成通の贈りの歌は、「君のお陰で気付(きづ)かせてもらったよ。長い(よる)の久しい夢もいずれは()めることを」と詠んだ。

158番(かへし)、「おどろかぬ (こころ)なりせば 世の中を 夢とぞかたる かひなからまし」

「気付きない心のままでいるならば、世の中を見て来た多くの夢を語っても甲斐(かい)のないことと思います」と返した。

159番、「いとふべき かりのやどりは ()でぬなり 今はまことの 道を(たず)ねよ」

出典・『山家集』の雑歌118番目の歌で、詞書には「(さきの)大納言(だいなごん)成通(なりみち)世をそむきぬと聞きて、(つか)しける」とある。藤原成通は60歳の時、(しょう)二位(にい)大納言に昇進するが、出家したために前大納言と詞書に記された。「世をそむきぬ」とは、官位官職を捨てて出家したことを意味する。その事を念頭に解釈すると、「俗世は(いと)うべき仮の宿りに(ほか)なりません。これからは仏道に専念(せんねん)して人の真の道を探して下さい」となる。知り合いの公家たちに出家を(すす)めて来た西行法師にとって、面目(めんもく)だけは保たれたようだ。

160番、「いかでわれ こよひの月を 身にそへて しでの(やま)()の 人を照らさむ」

出典・『山家集』の雑歌189番目の歌で、詞書には「七月十五日月あかかるけるに、舟岡(ふなおか)と申す所にて」とある。「舟岡」は、京都市上京区にある船岡山で、当時は埋葬地となっていた。この歌は分かり易い歌で、「何とかして私は、今宵の月に身を()えて死出(しで)の山路を越え行く人を照らしたいものだ」と、()()(ぼん)()に死者の霊魂(れいこん)を救済したい気持ちを詠んでいる。

161番、「今日(けふ)の君 おほふ(いつ)つの 雲はれて 心の月を みがき出づらむ」

出典・『山家集』の哀愁歌14番目の歌で、詞書には「()(とく)(いん)の御骨、高野の()(だい)(しん)(いん)へわたされけるを見たてまつりて」とある。「美徳門院」は、本名が藤原(とく)()(1117―1160年)で、鳥羽天皇の皇后となって、近衛天皇を産んでいる。「五つの雲」は、青・赤・黄・白・黒の()(しき)の雲を指すが、この歌では女性の持つ()(しょう)を意味しているようだ。「今日のあなたは、女性が()う五障の雲が晴れて、お心に宿しておられた月のような(ぶっ)(しょう)(みが)いて照らすのでありましょう」と、美徳門院の輝きを詠んだ。

162番、「今宵(こよい)(きみ) しでの山路の 月をみて 雲の上をや 思ひいづらむ」

出典・『山家集』の哀愁歌27番目の歌で、詞書には「五十日の(はて)つかたに、二條院の御墓に()(ほとけ)()(よう)しける人に()して参りたりけるに、月あかく(あわれ)なりければ」とある。「二條院」は、二条天皇(1143―1165年)で、17歳で即位し、23歳で崩御した。その五十日供養に参列した際の歌で、西行法師が48歳となった時の作である。この歌は、「今宵の大君(おおきみ)は、死出(しで)の山路で月をご覧になり、雲の上のような宮廷(きゅうてい)を思い出しておられることでしょう」と、極楽(ごくらく)往生(おうじょう)した様子を詠んでいる。

163番、「かくれにし 君がみかげの 恋しさに 月に(むか)ひて ねをやなくらむ」

出典・『山家集』の哀愁歌28番目の歌で、詞書に「御跡に()河内(かわのない)()さぶらひけるに、九月十三夜入にかはりて」とある。「三河内侍」は、生没年は不詳であるが、二條院に仕えていた女官で歌人でもあった。また、西行法師の盟友(めいゆう)・伊賀入道寂然(じゃくねん)の娘ともされる。この歌は三河内侍との贈答歌で、「亡くなった二條院のお姿(すがた)の恋しさに、そのお住いになる月に向って声を上げて泣いておられることでしょうか」と、三河内侍に()(づか)う歌を贈った。

かへし、「我が君の 光かくれし 夕べより やみにぞ(まよ)ふ 月はすめども」 三河内侍

「私の仕えた二條院が崩御してお(かく)れなった夕方より、(ひかり)を失って(やみ)()で迷っています。どんなに月が澄んでも私の心は晴れません」と、()(かん)に明け暮れる様子を詠んで西行法師に返答した。

164番、「流れゆく 水に玉なす うたかたの あはれあだなる (この)()なりけり」

出典・『山家集』の哀愁歌45番目の歌で、「院の二位(にい)(つぼね)身まかりける跡に、十の歌、人々よみける」と題した中の1首目の歌でもある。「二位の局」は藤原(ちょう)()(?―1166年)で、藤原(みち)(のり)こと僧・信西(しんぜい)(1106―1160年)の妻でもあった。その二位の局が亡くなって詠まれた歌で、「流れ行く水に浮かぶ玉のような泡と同じで、哀れで(はかな)いこの世の中である」と、あはれを泡に掛けている。何となく鴨長明(かものちょうめい)の『(ほう)(じょう)()』の序文を彷彿(ほうふつ)させ、後輩の長明はこの歌からヒントを得たとも思われる。

二度目の高野山での修行や暮らしも約9年を経て、空海(くうかい)大師の生誕地である(ぜん)(つう)()と、崇徳院の御陵のある讃岐の国を訪ねることが(のう)()(よぎ)ったようである。また、平清盛と一族が「(ほっ)()(きょう)」を書写して(いつく)(しま)神社へ奉納したとの話を聞き、厳島神社を参拝したいと願ったようである。西行法師は既に,18年間も高野山で修行しているのに僧籍(そうせき)を得ていない。それは自由な立場で高野山と関わりたい一念があって、(がく)(りょ)方(学僧)・行人(ぎょうにん)方(修行僧)・(ひじり)方(念仏僧)の高野三方(さんかた)では聖方に属していたようだ。

白峯寺(平成28年撮影)                 厳島神社大鳥居(平成25年撮影)

(8)、()(こく)順礼・西国(さいこく)の旅路(50歳―54歳)

西行法師が四国順礼に旅立ったのは、詞書にあるように仁安(にんあん)2年(1167年)10月10日と断定したい。50歳の時、()()(しゃ)に参詣後で、大和(やまと)河内(かわち)摂津(せっつ)播磨(はりま)の国々をめぐり、四国の讃岐へと渡っている。讃岐の国では、松山の津に上陸し、崇徳院の(しら)(みねの)(みささぎ)を参拝した。その後は、空海大師の聖跡を訪ねた後、善通寺の塔頭(ぎょく)泉院(せんいん)(きゅう)(しょう)(あん)(西行庵)と、(まん)()()()附近の水茎(みずくき)の岡に草庵を結び、約3年間滞在することになる。滞在中は、仏道に専念(せんねん)したようで詠まれた歌が少ない。

四国からは、()(ぜん)備中(びっちゅう)備後(びご)を経て安芸(あき)の国に行き(いつく)(しま)神社を詣でている。瀬戸内海の島々を和歌に詠んでいるので、往きは(かい)()で厳島神社の宮島(みやじま)まで船で渡った可能性もある。安芸の国から先の西国の行脚は、何処(どこ)まで実際にめぐったかは不明である。西行法師の伝承歌には、島根県(おお)()()三瓶山(さんべさん)、福岡県()()(まち)の宇美八幡宮、佐賀県(から)()()(まつ)(うら)(かた)、大分県()布市(ふし)()()(だけ)がある。また、鹿児島県()(おき)()(ふき)上浜(あげはま)には、西行(さいぎょう)(いし)があると聞く。これは和歌山県和歌山市にあった吹上浜を西行法師が訪ねたことに因んで、勝手(かつて)(でん)(せつ)()したものと推察する。伝承歌については、『山家集』や他の歌集にもないことから()(さく)として区別したい。従って、安芸の宮島が西国の旅路の終点(しゅうてん)()と考えたい。

165番、「かしこまる しでに涙の かかるかな 又いつかはと おもふ(あはれ)に」

出典・『山家集』の雑歌272番目の歌で、詞書には「そのかみこころざしつかうまつりけるならひに、世をのがれて(のち)も、賀茂に参りける、年たかくなりて四国のかた修行しけるに、又帰りまゐらぬこともやとて、仁安(にんあん)二年十月十日の夜まゐりて(ぬさ)まゐらせけり。内へもまゐらぬことなれば、たなうの社にとりつぎてまゐらせ給へとて、こころざしけるに、木間(このま)の月ほのぼのと常よりも神さび、あはれにおぼえてよみける」とある。詞書の「たなうの社」は、(かみ)()()神社末社の(たな)()(しゃ)で、この社に参拝して(ちょう)()の旅の安全を祈願したようだ。その時の気持ちを、「(かしこ)まり(たてまつ)(しで)には涙がかかるようです。無事に戻ってまた何時(いつ)の日に参拝できるかどうかと思う心に対して」と、(ぜん)()()(なん)な旅を予想して詠ずるのである。

166番、「思へただ ()れぬとききし 鐘の()は 都にてだに 悲しきものを」

出典・『山家集』の羈旅歌1番目の歌で、詞書に「旅へまかりけるに入相(いりあい)をききて」とある。旅立ちに際して聞いた入相の鐘で、具体的な寺は不明であるが、西行法師の旅を祝福(しゅくふく)するような鐘の音ではなかったようだ。「夕暮れに聞く鐘の音は、京のように栄えた都でも悲しい思いがする」と、()(おん)(しょう)(じゃ)の鐘の音を聞くように詠嘆した。

167番、「山城(やましろ)の みづのみくさに つながれて こまものうげに 見ゆるたびかな」

出典・『山家集』の羈旅歌57番目の歌で、詞書には「西の国のかたへ修行してまかり侍るとて、みづのと申す所に()しならひたる(どう)(ぎょう)の侍りけるに、したしき者の(れい)ならぬこと侍るとて()せざりければ」とある。詞書には、一緒に四国を含む西国に修行行脚する(どう)(こう)(しゃ)がいた。しかし、同行者の親類(しんるい)に不幸があって引き返すことになった記している。「みづの」は、美豆野と表記される歌枕で、現在の京都市伏見区にあったとされる。この歌は、「山城の国の()()()と言う(ぼく)(じょう)に馬が(つな)がれていたが、その(もの)()げな様子はこれから先の旅を見ているようだ」と、西住法師が引き返した寂しさを詠んだ。

168番、「何となく おぼつかなきは (あま)(はら) かすみに消えて 帰る(かり)がね」

出典・『山家集』の春歌86番目の歌で、詞書には「()(ちゅう)()(がん)といふことを」とある。「天の原」は、地名ではなく、ここでも大空を意味する。この歌も何処で詠まれた歌かは、判然としないが霞中帰雁と題した歌は、蹴鞠(けまり)の師匠・藤原成通(なりみち)も詠んでいる。また、初句の「何となく」は、曖昧(あいまい)な副詞であるが現在も一般的に使用されている。この「何となく」を西行法師は好んだようで、『山家集』で13首も初句に用いている。簡略すると、「何となく覚束(おぼつか)ないは、大空に霞と消えて北に帰る(かりがね)の群のことある」とにる。春になって雁がシベリアに帰る渡り鳥との認識(にんしき)がなく、不思議に眺めた詠んだ様子である。

169番、「ま(すげ)おふる 山田に水を まかすれば 嬉しがほにも 鳴く(かわず)かな」

出典・『山家集』の春歌240番目の歌で、詞書には「(かわず)」とある。「ま菅」は、()(すげ)と表記され、奈良県橿(かし)(はら)()に真菅の地名があって、万葉歌人の柿本(かきのもと)人麻呂(のひとまろ)(660?―724年)が和歌にも詠んでいる。この歌は、真菅で実際に詠まれたかは定かでないが、「真菅の()えている山田に水を引くと、いかにも嬉しそうな顔をしてカエルが鳴くようだ」と詠じた。西行法師は、自分自身をカエルに(たと)えたようで、荒れた田んぼに水が張られて開墾(かいこん)される営みを喜ばしく感じだようだ。

170番、「(いほ)()る 月の影こそ 寂しけれ 山田はひたの 音ばかりして」

出典・『山家集』の秋歌56番目の歌で、「人々秋の歌十首よみけるに」と題した8番目の歌でもある。室町時代の『(ふう)()(しゅう)』の秋歌にも選ばれている。この歌は旅路と無関係であるが、秀歌と思って採録(さいろく)した。「山田のひた」は、山の田んぼに張りめぐらした(なる)()引板(ひた)と呼ぶようである。「草庵に月の影が入って来て静寂(せいじゃく)であるが、山の田んぼからは引板の音ばかりして風情なく(さわ)がしい」と詠じた。草庵の側には田んぼがあって、山里の雰囲気が感じられ、嵯峨野の(らく)()(しゃ)を想起させる。

171番、「秋しのや ()(やま)の里や 時雨(しぐ)るらむ ()(こま)のたけに 雲のかかれる」

出典・『山家集』の冬歌5番目の歌で、「時雨(しぐれ)」と題して詠まれた4首の4番目の歌でもある。『新古今集』の冬歌にも選ばれた名歌でもある。「秋しの」は、奈良市北西部にある秋篠で、「外山の里」は、現在の奈良市(なか)(やま)(ちょう)の古名のようである。「生駒のたけ」は、標高642mの()(こま)(やま)で、弓形(ゆみなり)した歌枕の山でもある。その山を眺めて、「秋篠の外山の里には時雨が降ってくるのか、生駒の嶽に雲が懸かっているから」と、微妙な雲の動きを見て、現在の()(しょう)()(ほう)()のような歌を詠じた。

172番、「さびしさに ()へたる人の (また)もあれな いほりならべん 冬の山ざと」

出典・『山家集』の冬歌112番目の歌で、詞書には「冬の歌よみける中に」とある。この歌は今回の旅とは()(かん)(けい)であるが、『新古今集』にも選ばれた秀歌と思っているので、旅路の中に入れた。平明な歌ではあるが解釈すると、「冬の山里(やまざと)()らしの淋しさに堪えて来た私ではあるが、他にも堪えている人がいれば、草庵(そうあん)を並べて一緒に過ごしたいものだ」と詠んでいる。

173番、「かずかくる 波にしづ()の 色染めて 神さびまさる (すみ)()の松」

出典・『山家集』の賀歌(がのうた)12番目の歌で、「(いわい)」と題する13首の11番目の歌でもある。「住の江」は、歌枕で有名な摂津(せっつの)(くに)の住之江で、現在の住吉大社附近にあった歌枕の松を詠んでいる。歌の意味は、「数多(かずおお)く打寄せる波に下枝(したえだ)は色が染まり、神々しく見える住の江の松です」と、眺めることを(こい)しく思って待っていた様子を掛けている。

174番、「(すみ)よしの 松が根あらふ 浪のおとを 梢にかくる 沖つしら波」

出典・『山家集』の神祇歌4番目の歌で、詞書には「(しゅん)()(てん)(のう)()にこもりて、人々()して住吉にまゐり歌よみ」とある。詞書の「俊恵」は、俊恵法師(1113―1191年頃)のことで、東大寺出身の歌僧である。その俊恵が天王寺に(こも)っていた頃、人々を伴い住吉神社で歌会を(もよお)したようで、西行法師も加わっていた。「住吉では松の根を洗うような波の音が聞こえるが、沖に風が立つと、(こずえ)にかかるほどの大波が打ち寄せる」と、詠んで歌会で披露したと思われる。

175番、「世の中を いとふまでこそ かたからめ かりのやどりの ()しむ君かな」

出典・『山家集』の羈旅歌5番目の歌で、詞書には「天王寺にまゐるけるに、雨ふりければ、()(ぐち)と申す所に宿を借りけるに、かさざりければ」とある。この歌は、江口の遊女(ゆうじょ)との贈答歌で、(あま)宿(やど)りをさせて欲しいと西行法師が願うと断られしまった時の歌である。「あなたが世の中を(いと)う気持ちは、仮の宿さえ貸さないほど(かた)いのですか」と、詠み贈った。

かへし、「家を()づる 人とし聞けば かりの宿に 心とむらと 思ふばかりぞ」 遊女(たへ)

「あなたが出家した人と聞いて断ったのです。世の中を仮の宿と思うならば、雨宿りにも執着(しゅうちゃく)しない(ほう)が良いではと申し上げたい」と、返答するのである。西行法師が一本取られたようなエピソードで、(わらべ)との贈答でも負かされた伝承が派生しいてる。『西行物語絵巻』でも欠かせないシーンとして描かれ、遊女の妙は仏門に入って亡くなった後に江口(えぐちの)君堂(きみどう)に祀られたとされる。

176番、「あさからぬ (ちぎり)の程ぞ くまれぬる (かめ)()の水に 影うつしつつ」

出典・『山家集』の羈旅歌8番目の歌で、詞書に「天王寺へまゐりて、(かめ)()の水を見てよめる」とある。「天王寺」は、飛鳥時代の(すい)()元年(593年)に(しょう)(とく)(たい)()が創建した日本最古の寺で、現在は四天王寺と称される。「亀井」は、現在も四天王寺中央伽藍の亀井堂内にある井戸である。聖徳太子は、井戸に映る顔を見て()()(ぞう)を描いたと伝承される。「亀井の井戸には、浅からない仏縁(ぶつえん)の契りのほどが感じられる。自分の姿を水に映すと、飛鳥時代から続く仏法(ぶっぽう)()み取れるようだ」と、詠じたと思う。

177番、「消えぬべき (のり)(ひかり)の ともし火を かかぐるわたの みさきなりけり」

出典・『山家集』の羈旅歌9番目の歌で、詞書には「(ろく)()()()(じょう)(にゅう)(どう)()(きょう)(しゃ)千人あつめて、津の国わたと申す所にて供養侍りける、やがてそのついでに(まん)(とう)()しけり。夜更くるままに灯りの消えけるを、おのおのともしつきけるを見て、」とある。「六波羅太政入道」は、平清盛のことで、()(おう)2年(1170年)に清盛と共に出家した後白河法皇を福原の和田(輪田)に招いての法要であった。法皇44歳、清盛53歳の時で、清盛は既に()(じょう)(だい)(じん)を辞していたが、朝廷の実権は握っていた。この歌は、一大イベントでもあった万燈会を見て、「灯し火の消えることのない万燈会は、仏法の光を(あまね)く輝すように掲げられた(おお)()()(とまり)(港)である」と、大輪(たいりん)のようにリレーされる(とう)()の様子を詠んでいる。

178番、「()の国の (なん)()の春は (ゆめ)()れや (あし)の枯葉に 風わたるなり」

出典・『山家集』の冬歌22番目の歌で、「題しらず三」にある1首で、摂津(せっつ)(のこく)難波(現・大阪市浪速区(なにわく))の春を詠んでいる。この歌は、能因(のういん)法師の本歌取で、「津の国の難波の春景色を詠んだ歌は、夢のように慣れ親しんだが、今は蘆の枯葉に風が渡って荒涼(こうりょう)としている」と、(あこが)れの春に訪ねられなかったことを()(ねん)に感じたようだ。

179番、「さゆる()は よその空にぞ をしも鳴く こほりにけりな こやの(いけ)(みず)

出典・『山家集』の冬歌99番目の歌で、「冬の歌十首よみけるに」と題した4番目の歌でもある。「こやの池」は、兵庫県伊丹市(いたみし)にある()()(いけ)である。「をし」は、おしどり(鴛鴦)を縮めた名詞である。歌の意味は、「()える渡る夜となって、鴛鴦(おしどり)他所(よそ)の空で鳴いているのだろう。昆陽の池の水は(こお)ってしまったのだから」となるので、池の周辺に(しばら)く滞在した様子である。

180番、「津の国の (なが)()の橋の かたもなし 名はとどまりて きこえわたれど」

出典・『山家集』の雑歌251番目の歌で、詞書には「長柄を過ぎ侍りしに」とある。「長柄の橋」は、飛鳥時代に(きゅう)(よど)(がわ)()けられたと伝承される歌枕で、平安時代初期の(にん)寿(じゅ)3年(853年)頃に水害で廃絶(はいぜつ)したとされる。その(きゅう)(せき)を訪ね、「津の国の長柄の橋は跡形(あとかた)もなく消えていた。名前だけが聞こえ渡って歌枕として残っている」と、掛詞を交えて詠じた。

181番、「月さゆる 明石(あかし)のせとに 風吹けば (こおり)の上に たたむしら波」

出典・『山家集』の秋歌241番目の歌で、「月の歌あまたよみける」と題した42首の40番目の歌でもある。鎌倉(かまくら)時代の『(ぎょく)(よう)(しゅう)』にも選ばれた秀歌である。「明石のせと」は、明石海峡の流れ早い瀬戸で、「氷の上」は、月の光を(あん)()させている。「月の光が()え渡る明石の瀬戸に風が吹くと、氷のような海面に(いく)()にも(たた)まれた白波が立っている」と、絵画的に詠んだ。

182番、「月を見て 明石の浦を ()る舟は 波のよるとや 思はざるらむ」

出典・『山家集』の秋歌279番目の歌で、「百首の歌の中、月十首」と題した3番目の歌でもある。「明石の浦」は、(うた)(まくら)で有名で、近代では加茂川・塩釜浦・住吉浦・富士山・最上川・吉野山・和歌の浦と並び「日本八景(はっけい)」に選ばれた景勝地でもある。この歌は、明石の浦から舟に()り込み詠まれたようで、「月を見ながら明石の浦を出港(しゅっこう)すると、波の()(よる)となるとは思わなかった」と、波の寄ると夜を駄洒落(だじゃれ)のような掛詞を詠み込んでいる。

183番、「()(たい)ひく (あみ)のかけ(なわ) よりめぐり うきしわざある しほさきの浦」

出典・『山家集』の羈旅歌53番目の「題しらず一」の4首の中の歌でもある。「しほの浦」は、(あわ)()(しま)にある潮崎の浦で、現在は兵庫県南あわじ市の温泉地となっている。この歌は、「小鯛を()(りょう)は、()き網とかけ綱による漁法(ぎょほう)であるが、それは(せっ)(しょう)であって(うれ)うべき(わざ)であるんだと知った潮崎の浦であった」と、複雑な気持ちを詠んでいる。鯛は神前にお(そな)えする代表的な魚で、仏教徒の西行法師にとっては()(じゅん)する問題であったと思われる。また、『西行全歌集』では、二句目が「網の()け縄」となっていて、()きを用いた漁とも受け止められるので、()(さい)なことであるが、佐佐木信綱校正の『山家集』の精査が必要とされる。

184番、「(はり)()()や 心のすまに (せき)すゑて いかで我が身の 恋をとどめむ」

出典・『山家集』の恋歌121番目の歌で、「恋」と題する72首の中の46番目の歌でもある。「播磨路」は、現在の(ひょう)()(けん)で、「心のすまの関」は、奈良時代まであった須磨(すま)()(せき)のことで、歌枕であったことで心にあったようだ。この歌は解釈に困るが、「播磨路には須磨の関があって心に住まわせ据えて来た。何とか恋に気持ちが向うことをこの(せき)(あと)で留めたいものだ」と、須磨の関に心の住む関を掛けて詠じたと思われる。その後、須磨一帯が源平(げんぺい)戦場(せんじょう)となることは、予想外のことであったろう。

185番、「はりま(がた) (なだ)のみ沖に ()ぎ出でて あたり思はぬ 月をながめむ」

出典・『山家集』の秋歌194番目の歌で、「月」と題する13首の6番目の歌でもある。「はりま潟」は、明石(あかし)()西(せい)の海岸で、ここも歌枕であった。「灘」は、海流(かいりゅう)(ちょう)(りゅう)の速い場所で、「み沖」の()は水で沖の助詞であろう。歌の意味は平明で、「播磨潟の灘の沖に舟を漕ぎ出して、周辺を気にかけないで月を眺めたいものた」と、海上から見る月を風流(ふうりゅう)に感じたようだ。

186番、「昔見し ()(なか)の清水 かはらねば 我が影をもや (おも)()づらむ」

出典・『山家集』の羈旅歌11番目の歌で、詞書には「(はり)()書写(しょしゃ)へまゐるとて、()(なか)の清水を見けること、(ひと)むかしになりにける、年へて(のち)修行すとて通りけるに、同じさまにてかはらざりければ」とある。「野中の清水」は、神戸市西区に現在もある清水で、歌枕として有名であった。「播磨書写」は、兵庫県(ひめ)()()にある書写山(しょしゃさん)(えん)(きょう)()で、天台宗の西の大本山である。歌と詞書によると、若い頃にも(しゅ)(ぎょう)行脚(あんぎゃ)で野中の清水を通過したようである。その時を思い出して、「昔に見た野中の清水が変わらないと、池の清水に(うつ)る自分の影が変わったことも思い出せない」と、変わらずの清水とも(しょう)されたことに水を差している。

187番、「しきわたす 月の氷を うたがひて ひびのてまはる (あじ)のむら鳥」

出典・『山家集』の羈旅歌18番目にある歌で、詞書に「讃岐(さぬき)(くに)へまかりて、みの津と申す津につきて、月のあかくて、ひびのてもかよはむほどに遠く見えわたりけるに、水鳥(みづとり)のひびのてにつきて飛びわたりけるを」とある。「ひびのて」は、(ひび)の手と表記される漁具の一種で、「味のむら鳥」は、(ともえ)(がも)の古名が(あじ)(がも)で、その群である。「みの津」は、香川県()(とよ)()に現在もある()野津(のつ)のようだ。この歌は、「月の光が輝く海の上では、氷を()いたように見える。その光景を(うたが)ってか、(あじ)(がも)(むれ)(ひび)の手のまわりを飛んでいる」と詠じた。水鳥は(りょう)の仕掛けから逃れた魚を狙って飛び回っていて、それを違った観点(かんてん)から見ている。

188番、「まつ山の (なみ)のけしきは かはらじを かたなく君は なりましにけり」

出典・『山家集』の羈旅歌29番目にある歌で、詞書には「讃岐にまうでて、松山(まつやま)と申す所に、院おはしましけむ()(あと)尋ねけれども、かたもなかりければ」とある。「松山」は、香川県(さか)(いで)()にあった松山の津で、()徳院(とくいん)が配流された折の上陸地とされる。そこで詠まれた歌で、「この松山の波の景色は、変わることはない。崇徳院も変わることもなくお過ごしと思っていたのに、(あと)(かた)もなくお()くなられてしまった」と、松山の潟と跡形を掛詞に哀悼(あいとう)した。

189番、「よしや君 昔の(たま)の 床とても かからむ(のち)(なに)にかはせむ」

出典・『山家集』の羈旅歌30番目にある歌で、詞書には「白峰(しらみね)と申す所に、御墓の侍りけるにまゐりて」とある。崇徳院は、長寛(ちょうかん)2年(1164年)に46歳で崩御して、(しら)(みね)(みささぎ)に葬られた。その御陵を参った時の歌で、「たとえば大君(おおきみ)よ、昔の(ぎょく)()に座っていたと言えど、お亡くなられた今は何になるのでしょう」と、現世に執着しないで成仏(じょうぶつ)して欲しいと願った。崇徳院の没後は、怨霊となって都に災いをもたらすと恐れられ、京では(しら)(みね)神宮、讃岐では(しろ)(みね)()(とん)(しょう)()殿(でん)が創建されて()(たま)を鎮めた。

190番、「くもりなき 山にて海の 月みれば 島ぞ氷の (たえ)()なりけり」

出典・『山家集』の羈旅歌31番目にある歌で、詞書には「同じ国に、大師のおはしましける御あたりの山に(いほり)むすびて住みけるに、月いとあかくて、海の(かた)くもりなく見え侍りければ」とある。「大師」は、真言宗開祖の空海大師であるが、「弘法」の()(ごう)があるが、生前の(おくりな)で呼ぶのが正しく、「遍照(へんじょう)金剛(こんごう)」である。大師号を付けるのであれば空海大師で、松尾芭蕉翁も『おくのほそ道』の俳文(はいぶん)では、空海大師と称しているので、弘法大師ではなく、空海大師が相応(ふさわ)しく思われる。「山の庵」は、標高481mの()(はい)()(さん)の北麓に建てた草庵で、現在は水茎(みずくき)の岡と呼ばれている。この歌は、空海大師の聖地でもある我拝師山に登って詠まれたと推察する。「曇りのない霊山(れいざん)で海から昇る月を見れば、氷のように冷え冷えと澄み渡った空の絶え間には、瀬戸内海の島々が浮かんでいる」と、空海大師の名に(ちな)んだ空と海を想起させる。

191番、「ここを(また) 我が住みうくて うかれなば 松はひとりに ならむとすらむ」

出典・『山家集』の羈旅歌34番目の歌で、詞書には「庵のまへに松のたてりけるを見て」とある。仁安(にんあん)2年(1167年)に水茎の岡に、仁安3年(1168年)には、善通寺塔頭の(ぎょく)泉院(せんいん)にも草庵を結んだと推定したい。この歌は、「この庵でもまた自分が住むことに憂鬱(ゆううつ)になり他に()かれて移ることになったら、庵の松は独りぼっちになってしまうね」と、松の(せい)()に語っている。

192番、「岩にせく あか()の水の わりなきは 心すめとも やどる月かな」

出典・『山家集』の羈旅歌44番目の歌で、詞書には「大師の(うま)れさせ給ひたる所にて、めぐりしまはして、そのしるしの松のたてりけるを見て」とある2首の歌の1首である。「あか井」は、大師の(うぶ)()に使われた閼伽(あか)()のことで、善通寺誕生院(たんじょういん)に現存している。「しるしの松」は、倒木してしまったが、()(かげ)の松として(かれ)()が飾られている。誕生院は、大師の父・佐伯()(ぎみ)の邸宅跡で、大師が実際に生まれたのは、母・(たま)(より)()(ぜん)の実家ともされる。そのため、()()()(ちょう)(かい)(がん)()にも大師の産湯の井戸が伝わっている。「岩の(せき)にある閼伽井の水は、格別(かくべつ)清らかで心を澄ませと言うように、月の光が反射(はんしゃ)して心に宿る」と詠じた。

193番、「めぐりあわむ ことの(ちぎり)ぞ たのもしき きびしき山の (ちかい)見るにも」

出典・『山家集』の羈旅歌45番目の歌で、詞書には「まんだら寺の(ぎょう)(どう)どころへのぼるは、よその大事にて、手をたてたるやうなり、大師の()(きょう)かきてうづませおはしましたる山の嶺なり。ぼうのそとは、(いち)(じょう)ばかりなるだんつきてたてられたり。それへ日毎にのぼらせおはしまして、行道しおはしましけると申し伝へたり。登る(ほど)のあやふき、ことに大事なり。かまへて、はひまりつきて」とある。詞書の概略は、「(まん)()()()から我拝師山に()(はい)するのが大事で、山は手を立てたような(かたち)をし、山頂に大師が埋めた経塚(きょうづか)がある。坊の外には高さ1丈(約3m)の壇が建っていて毎日お参りする。更に巡る参道には二重に石段が築かれ、登るほど(あぶ)なく(なん)()になり、身構えして這いつくようにお参りして」となる。(けわ)しい山頂へ到着し、「釈迦(しゃか)と大師が巡り逢ったことの契りが(たの)もしく感じられ、(きび)しい山の修行での誓願(せいがん)を見るようである」と、大師の捨身(しゃしん)伝説を詠んだ。

194番、「(ふで)の山に かきてのぼりても 見つるかな (こけ)の下なる 岩のけしきを」

出典・『山家集』の羈旅歌46番目の歌で、詞書には「やがてそれが上は、大師の(おん)()にあひまゐらせさせおはしましたる(みね)なる。わがはいしさと、その山をば申すなり。その辺の人はわかいしとぞ申しならひたる。山もじをばすてて申さず。また(ふで)の山ともなづけたり。遠くて見れば筆に似て、まろまろと山の嶺のさきのとがりたるやうなるを申しならはしたるなめり。(ぎょう)(どう)所より、かまへてかきつき登りて、嶺にまゐりたれば、師に遇はせおはしましたる所のしるしに、(とう)()ておはしましたりけり。塔の石ずゑ、はかりなく大きなり。高野の大塔(だいとう)ばかりなりける塔の跡と見ゆ。(こけ)は深くうづみたれども、石おほきにしてあらはに見ゆ。筆の山と申す名につきて」とある。更に「(ぜん)(つう)()の大師の()()には、そばにさしあげて、大師の御師かき()せられたりき。大師の()()などもおはしましき。四の門の(がく)少々われて、大方(おほかた)はたがはずして侍りき。すゑにこそ、いかがなりなんずらんと、おぼつかなくおぼえ侍りしか」とある。詞書の前文では、大師が捨身で釈迦と遭遇(そうぐう)したとされる我拝師山について説明し、筆の山とも呼ばれると述べている。また、山に建っていた大塔の()(せき)は苔に埋もれていたと評している。

詞書の(こう)(ぶん)は、善通寺で大師が描いた釈迦如来像や自画像に触れ、四ノ門の扁額(へんがく)が割れている様子などを記している。そして、「筆の山に草を()きわけ、岩を()じ登って見えるのは、苔の下に()もれた大塔の景色である」と、高野山の大塔と重ねて詠んだ。

195番、「昔みし 松は(おい)()に なりにけり 我がとしへたる (ほど)も知られて」

出典・『山家集』の羈旅歌58番目の歌で、詞書には「西国へ修行してまかりける折、()(しま)と申す所に、八幡(はちまん)のいははれ給ひたるけるにこもりたりけり。年へて又その(やしろ)を見けるに、松どものふる木になりたるけるを見て」とある。「小嶋」は、備前(びぜん)(のこく)の児島で現在の岡山県(くら)(しき)()にある、「八幡の社」は、(きよ)()八幡宮(はちまんぐう)で、境内には「西行の腰掛岩(こしかけのいわ)」があるとされる。この歌から推察すると、若い頃にも一度訪ねているようで、出家以前か、出家後なのかは定かでない。再び松を眺め、「昔に見た常盤木(ときわぎ)の松は、老木(ろうぼく)となったように、私も年を取って月日も()てしまい、そんな身の程を知らされるようだ」と、述懐(じゅっかい)するのである。

196番、「まなべより しはくへ通ふ あき(んど)は つみをかひにと 渡るなりけり」

出典・『山家集』の羈旅歌49番目の歌で、詞書には「まなべと申す島に、京よりあき(んど)どものくだりて、やうやうのつみのものどもあきなひて、又しはくの島に渡りてあきなはんずるよし申しけるを聞きて」とある。「まなべ」は、()鍋島(なべしま)で現在の岡山県(かさ)(おか)()にある。詞書には、京の商人たちが船に様々な荷を積んで塩飽(しあく)諸島に渡り、商売をしていたと記している。その様子を、「真鍋島より塩飽諸島に通う商人は、()み荷を(かい)()ぎ渡って行くが、阿漕(あこぎ)な商売は(つみ)に成り果ている」と掛詞を交え批判した。

197番、「波のおとを 心にかけて あかすかな (とま)もる月の 影を友にて」

出典・『山家集』の羈旅歌59番目の歌で、詞書には「(こころざ)すことありて、あきの一宮へ詣でけるに、たかとみの浦と申す所に、風に吹きとめられてほど経けり。(とま)ふきたる庵より月のもるを見て」とある。「あきの一宮」は、安芸(あき)(のくに)宮島の(いつくし)(しま)神社で、「たかとみの浦」は、現在の広島県(くれ)()にある高飛(たかとび)の浦とされる。「苫」は、(こも)()きの漁師小屋で、そこで一夜を明かしたようだ。この歌は、「波の音を心に()けるように一夜を明かした。屋根の苫から()れる月の影が友にも思える」と、波音を()(とん)見立(みた)て心に掛け、月の光を()え寝する友とも感じて詠んだと思う。現在は、高飛の浦に西行庵が来訪記念として建てられていた。

198番、「()えたりし 君が()(ゆき)を 待ちつけて 神いかばかり 嬉しかるらむ」

出典・『山家集』の羈旅歌65番目の歌で、詞書には「承安(じょうあん)元年六月一日、院、熊野へ参らせ給ひけるついでに、住吉の御幸ありけり修行しまはりて二日かの(やしろ)に参りたりけるに、住の江あたらしくしたてたりけるを見て、後三条院の御幸、神も思ひ出で給ふらむと覚えてよめる」とある。詞書の承安元年(1171年)は、西行法師が54歳の時である。()(しら)(かわ)法皇が熊野御幸の(あと)に、建て替えられた住吉社(すみよししゃ)に参拝したとある。()三条(さんじょう)天皇(1034―1073年)が延久(えんきゅう)5年(1073年)に御幸されて以来と記しているが、実際は白河(しらかわ)天皇(1053―1129年)、鳥羽(とば)上皇(1103―1156年)も御幸している。「大君(おおきみ)の御幸が絶えて、待ち続けていた住吉(すみよしの)大神(おおかみ)はどんなに嬉しく思っていることでしょう」と、後白河法皇の御幸に随行して詠じた。

199番、「朝日さす かしまの杉に ゆふかけて くもらず()らせ 世のうみの宮」

出典・『補遺』の「題しらず一」3首の1首の歌で、「うみの宮」は、福岡県()()(まち)の「宇美八幡宮」との説がある。すると、九州まで西行法師が訪ねたことになる。通説では、安芸(あき)(のくに)が西国の最終地点とされるので矛盾する。そこで仮定したいのは、「うみの宮」は、兵庫県神戸市にある「(わたつみ)神社」ではないだろうか。「朝日の差す鹿島の杉に木綿(ゆう)の布をかけて祀り、曇らさせないで世を照らして下さい海の宮の神様よ」と、解釈できる。しかし、「鹿島の杉」は、茨城県鹿()(しま)()の鹿島神宮が想定されるし、うみは産みの掛詞なので不可解な歌である。実際に参詣していな神社を朗詠(ろうえい)した可能性もあり、曖昧(あいまい)に捉えるしか手段はない。

四国順礼・西国の旅路は、約4年間に及んだと推定するが、その後は高野山に戻り、仏道修行や和歌に(いそ)しんだであろう。

高野山金剛峯寺(令和3年撮影)              高野山三昧堂西行桜(ウェブのコピー)

(9)、高野山(こうやさん)再三(さいさん)入山(54歳―63歳)

三度目の高野山は、承安(じょうあん)元年(1171年)と推定し、()(しょう)4年(1180年)に(くま)()(さん)(ざん)を巡礼するまでの約9年間滞在したと考える。この年代の出来事としては、承安元年(1171年)に平清盛の娘・(とく)()(1155―1214年)が入内(じゅだい)し、高倉(たかくら)天皇(1161―1181年)の(にょう)()となった。承安4年(1174年)に平清盛が摂津の大輪(おおわ)(だの)(とまり)の前面に経ヶ島(兵庫島)を築いている。

安元(あんげん)元年(1175年)の58歳の時は、大原の寂然と贈答歌を通じて交流している。治承元年(1177年)には、有名な「鹿(しし)()(たに)事件」が発生し、平家打倒の陰謀(いんぼう)が僧・(しゅん)(かん)(1143―1179年)の山荘で行われた。密告によって捕えられ、首謀者の僧・西光(さいこう)(ざん)(しゅ)され、俊寛、平康頼(やすより)、藤原(なり)(つね)薩摩(さつま)(のくに)()(かい)()(しま)に流刑となった。

西行法師の直筆(じきひつ)の書籍を探したところ、全国に5点の書状などがあるようだ。その1点が高野山(こん)(ごう)()()に所蔵されていて、承安(じょうあん)4年(1180年)に書かれた「僧(えん)(くい)(西行)書状」1巻である。また、京都国立博物館には、「(いっ)(ぽん)(ぎょう)(がい)()」一幅一帖が所蔵されていて、いずれも国宝に指定されている。ウェブの情報(じょうほう)を見ると、和歌山県立博物館では平成30年(2018年)に生誕900年を記念して「西行展(さいぎょうてん)」が開催され、国宝の2点が一般公開されたようである。

200番、「今宵(こよい)こそ あはれみあつき 心地して 嵐の(をと)を よそに聞きつれ」

出典・『山家集』の羈旅歌140番目の歌で、詞書には「ことの外に()れ寒かりける頃、宮法印(みやのほういん)高野にこもらせ給ひて、此ほどの寒さはいかがするとて、小袖(こそで)給はせたりける又の朝申しける」とある。「宮法印」は、法名が(かく)()(1151―1184年)で崇徳上皇の第5皇子(みこ)でもあった。33歳年下の宮法印は、西行法師にとっては崇徳院の忘れ(がた)()の見えたに違いない。宮法印も老齢の西行法師に気遣って小袖を与えている。それに対して、「今宵だけはあなたの気持ちが(あたた)かく感じられて、嵐の音も()()(ごと)のように聞こえました」と、宮法印の思いやりに()(れい)の歌を詠んだ。

201番、「ちる花の いほりの上を 吹くならば (かぜ)()るまじく めぐりかこはむ」

出典・『山家集』の羈旅歌173番目の歌で、詞書には「高野に(こも)りたりける頃、草の庵に花の散りつみければ」とある。この詞書から(さっ)すると、草庵を結び暮らしたようだが、その草庵跡が比定されていないのが残念である。この歌は、「散る桜の花が庵の屋根の上に(つも)るならぱ、吹き散らないように(まわ)(かこ)って風が入るのを防きたい」と、誰も考えつかない着想で詠んでいる。

202番、「しをりせで (なお)山深く 分け入らむ うきこと聞かぬ (ところ)ありとや」

出典・『山家集』の羈旅歌174番目の歌で、詞書には「思はずなること思ひ立つよしきこえける人のもとへ、高野より()ひつかはしける」とある。詞書には、思ってもいない辛い知らせを聞いて詠み、高野山から贈ったとある。「()(おり)もしないで帰路(きろ)を断ち切り、猶も奥深く山に分け入りました。憂慮(ゆうりょ)するような(はなし)の聞こえぬ所があると思いまして」と、死を覚悟した歌である。

203番、「もろともに ながめながめて 秋の月 ひとりにならむ ことぞ(かな)しき」

出典・『山家集』の哀愁歌11番目の歌で、詞書に「同行にて侍りける上人、(れい)なきこと大事に侍りけるに、月あかくて(あわれ)なるを見ける」とある。この「同行の上人」は西(さい)(じゅう)法師で、その病気死を知っての哀歌である。「いつも一緒(いっしょ)に秋の名月を眺め重ねて来たが、これから(ひと)りで眺めることになるのは、とても悲しいことである」と、(せつ)ない気持ちを詠んだ。

おくり、「乱れずと 終り聞くこそ 嬉しけれ さても(わかれ)は なぐさまねども」 寂然法師

出典・『山家集』の哀愁歌33番目の歌で、詞書には「(どう)(ぎょう)に侍りける上人は、をはりよく思ふさまなりと聞きて、申し送ける」とある。寂然から高野山の西行法師の(もと)に西住法師の死去を知らせが届いたのであった。その知らせの贈答歌で、「西住法師は取り乱すこともなく臨終(りんじゅう)したと聞いて嬉しくなります。だからと言って別れの悲しみに対して(なぐさ)めようもありまん」と、寂然法師は、最愛(さいあい)の友を失った西行法師を()(づか)うのであった。

204番(かへし)、「(この)()にて 又あふまじき 悲しさに すすめし人ぞ 心みだれし」

「もうこの世で西住法師と逢えなくなると思うと悲しく、臨終の正念(しょうねん)を勧めた私の方が心を乱しています」と返した。伝承によると、西住法師は東海道岡部宿(現・静岡県藤枝市)で亡くなったとされ、西住笠懸(かさがけ)(のまつ)宝篋(ほうきょう)印塔(いんとう)の西住墓がある。しかし、寂然からの知らせを踏まえると、(えん)()ではなく、京の()(ちゅう)ではなかったかと推定したい。

205番、「けさの色や わか(むらさき)に 染めてける 苔の(たもと)を 思ひかへして」

出典・『山家集』の雑歌103番目の歌で、詞書には「阿闍梨(けん)(けん)、世をのがれて高野に住み侍りれり。あからさまに(にん)()()に出でて帰りもまゐらぬことにて、(そう)(ごう)になりぬと聞きて、いひつかはしける」とある。「苔の袂」は、僧位のない普通の僧の黒染めの(ころも)の袂である。「阿闍梨兼堅」は、兼賢が正しい表記であるが、その経歴は不詳である。「僧綱」は、僧位の総称で一般的には僧正(そうじょう)(紫色)・(そう)()(緑色)・(りっ)()(水色)を指すとされる。兼堅が高野山から仁和寺に行くと言って山を下りた後、僧正となった聞いて兼堅に歌を贈ったのであった。「袈裟(けさ)の色が若紫(わかむらさき)に染め変り、出世したのですね。黒染めの袂を思い返して下さい」と、(せい)(そう)に甘んずることを(さと)したような歌である。

206番、「何ごとも (むな)しき(のり)の 心にて 罪ある身とは つゆも思はず」

出典・『山家集』の釈教歌39番目の歌で、詞書に「心経(しんぎょう)」とある。「心経」は、「(はん)(にゃ)()()()()(しん)(ぎょう)」の略で、浄土真宗と日蓮宗以外の宗派で重要視されるポピュラーな()(きょう)である。その276文字の(きょう)(ぶん)を31文字の和歌に西行法師は詠み替えた。この歌は、「何事も(くう)である般若心経の心からすれば、自分は罪深い人間であることは(つゆ)(ほど)も思わない」と、西行法師は詠じた。

207番、「朝夕(あさゆう)の 子をやしなひに すと聞けば 苦にくずれても 悲しかるらむ」

出典・『山家集』の釈教歌43番目の歌で、詞書には「六道(ろくどう)の歌よみけるに」とある6首の1首で「餓鬼(がき)」と題した歌でもある。飢餓道は、(あく)(ぎょう)の報いとして死後()(かつ)に苦しむ世界とされる。それを念頭に読むと、「朝夕に食事を与え子供を養育していると聞けば、死後に()()(どう)の苦しみに(くず)れても悲しいこととは思わない」と、死後の世界に()(てい)(てき)(げん)()()(えき)の歌とも言える。

208番、「雲の(うへ)(たのし)みとても かひぞなき さてしもやがて 住みしはてねば」

出典・『山家集』の釈教歌47番目の歌で、詞書には「六道の歌よみけるに」とある6首の「(てん)」と題した歌でもある。「雲の上」は、六道で最もすぐれた果報を受ける天道(てんどう)で、天国や極楽と考えられる。そんな天道を、「雲の上にある天国の楽しみは()るに(たり)りないだろう。それでもやがて住む()てと思わねばなるまい」と詠じた。()獄道(ごくどう)の修行よりも天道に草庵暮しを夢見たようだ。

209番、「さらにまた そり橋わたす 心地(ここち)して をぶさかかれる かつらぎの嶺」

出典・『残集』の39番目の最後にある歌で、詞書に「高野へまゐりけるに、葛城(かつらぎ)の山に虹の立ちけるを見て」とある。「葛城の山」は、奈良県と大阪府に(またが)る標高959mの霊山である。葛城山の御神体でもある(ひと)(こと)(ぬし)(のかみ)が、修験道の開祖・(えんの)行者(ぎょうじゃ)小角(おづぬ)(634―701年)に命じて架けさせた橋が途中まであったと伝説される。その山に立つ虹を見て、()(ふさ)の飾り(ひも)(あん)()して詠んでいる。「葛城山には、幻の橋に更にまた反橋(そりばし)を渡すような雰囲気で、緒総に似た虹が懸っている」と、詠んだと解釈する。

2Ⅰ0番、「春ごとの 花にこころを なぐさめて 六十(むそぢ)のあまりの としをへにける」

出典・『(きき)(がき)(しゅう)』の132番目の歌で、「花の歌十首人々よみけるに」と題した5番目にある歌でもある。4句目に六十路(むそじ)とあるので、()(しょう)元年(1177年)の作となる。「春になる(たび)、桜の花に心が慰められて来て、もう六十路余りの年が経たんだな」と、60年の人生が日々異なっていたように、毎年眺めて来た桜の花も(おもむき)が異なっていたことを詠嘆(えいたん)した。

2Ⅰ1番、「見るも()し いかにかすべき 我がこころ かかわる(むく)いの 罪やありける」

出典・『(きき)(がき)(しゅう)』の199番目の歌で、「()(ごく)()を見て」と題した7首の1番目の歌でもある。源平合戦のあった晩年の作と思われるが、仏教の聖地・高野山に(ちな)むと考えて採録した。地獄絵は、仏教の説く六道(ろくどう)(地獄道・飢餓(きが)道・畜生(ちくしょう)道・()(しゅ)()道・人道・天道)の世界を描いた(ぶつ)()で、好んで鑑賞する人は少ないと思う。その絵を見て、「見るのも憂慮(ゆうりょ)する絵で、どう受け止めていいのか自分の心は()(りょ)する。六道に関わる報いや罪があっのだろうか」と、思い悩む気持ちを吐露(とろ)した。「いかにかすべき我がこころ」の句が素晴(すば)らしく、人は毎日、それを考え生きているような気がする。

2Ⅰ2番、「うけがたき 人のすがたに うかみいでて ()りずや誰も またしづむべき」

出典・『聞書集』の202番目の歌で、「地獄絵を見て」の4番目にある。人間(にんげん)に生まれた運命を、「受け(がた)い地獄の底から再び人の姿に生まれて()いて来たのに、それにも懲りないで人は誰でも再び地獄に沈むだろうか」と、(いん)()(おう)(ほう)を詠んだ。平家一門が権力のトップに浮かび、壇ノ浦(だんのうら)の地獄の底に沈んだことを比喩(ひゆ)しているとも思われる。

2Ⅰ3番、「重きいはを ももひろ()ひろ 重ねあげて (くだ)くやなにの (むく)いなるらむ」

出典・『聞書集』の205番目の歌で、「地獄絵を見て」の5番目にある。「ももひろ千ひろ」は、漢字表記すると(もも)(ひろ)()(ひろ)で、両手を広げた長さやとても深く長いことを意味するようだ。この歌は、「重い岩を(もも)(ひろ)()(ひろ)に積み重ね上げても砕けて壊れるのは、何の報いがあってのことなのだろう」と詠じた。平清盛が大輪(おおわ)(だの)(とまり)に築いた人工島の(きょう)()(しま)のことが脳裏を(よぎ)る。

2Ⅰ4番、「(ひと)つ身を あまたに風の 吹ききりて ほむらになすも かなしかりけり」

出典・『聞書集』の207番目の歌で、「すなわとまうす物うちて()()りけるところ」と題した3首の1首目の歌でもある。この歌も(ふく)め218番までの6首は、高野山で詠まれた確証(かくしょう)はないが、仏教に関わりある歌なので選んだ。詞書の「すなわ」は、墨縄(すみなわ)が短縮して転化した言葉で、大工道具の(すみ)(つぼ)を意味する。身体に墨を付けて裁断(さいだん)される様子を歌題にし、「一つだけの身体(からだ)が風に吹き千切(ちぎ)られて数多(あまた)に分れる。そして(ほむら)となって消えることは悲しいことである」と、戦乱(せんらん)の風に吹かれる時代を詠んだ。

2Ⅰ5番、「なによりも (した)ぬく苦こそ かなしけれ 思ふことをも 言わせじの(はた)

出典・『聞書集』の208番目の歌で、「すなわとまうす物うちて身を割りけるところ」と題した3首の3番目の歌でもある。拷問(ごうもん)などの刑罰(けいばつ)を詠んだ歌で、「何よりも悲しいことは舌を抜かれる責め苦で、思うことも言わせない刑である」と詠じた。しかし、実際に舌を抜く刑罰はなく、()(けい)(()(ざい)(じょう)(ざい)()(ざい)()(ざい)()(ざい))であった。(えん)()(だい)(おう)から舌を抜かれることを意識したようだ。

2Ⅰ6番、「なべてなき くろきほむらの (くる)しみは よるのおもひの (むく)いなるべし」

出典・『聞書集』の209番目の歌で、「黒き(ほむら)の中に、をとこ女のもえけるところを」と題した5首の1番目の歌でもある。詞書には、(ほのお)の中で男女(だんじょ)の燃えることとあるので、男女の色欲の歌と察せられる。「(なみ)ではない黒い炎につつまれて焼かれる苦しみは、夜の交わりを思うことの報いの(ごう)()なんだ」と、不純な男女の交わりを(いまし)めた歌とも読み取れる。

2Ⅰ7番、「あはれみし ()(ぶさ)のことも わすれけり 我がかなしみの 苦のみおぼえて」

出典・『聞書集』の212番目の歌で、「黒き炎の中に、をとこ(をんな)のもえけるところを」と題した5首の4番目の歌でもある。2句目の「乳房」は、母のことを指しているが、漢字だと女性の体の部位(ぶい)を想像してしまう。この歌の意味は、「私を(あわ)れみ育ててくれた母のことはすっかり忘れてしまった。私自身の(かな)しみや(くる)しみだけは覚えているが」と、直訳(ちょくやく)される。

高野山に三度目の長期滞在した西行法師、その後の行動年代が明確となっているのは、()(しょう)3年(1179年)に伊勢(いせ)(のくに)二見浦に草庵を結んだことである。それまでの約2年間は、高野山に軸足を置き、同じ紀伊(きい)(のくに)の熊野三山を巡礼したと考えたい。

大峯奥駈道大峯山寺(平成24年撮影)            那智の滝と青岸渡寺三重塔(平成2年撮影)

(10)、(くま)()(さん)(ざん)めぐり(63歳―64歳)

(くま)()(もう)では、紀野(きの)(のくに)熊野の本宮(ほんぐう)大社・新宮(しんぐう)大社・那智(なち)大社を巡礼する参拝で、「熊野三山詣で」とも称される。(おう)(とく)3年(1086年)に、天皇では白河(しらかわ)上皇(1053―1129年)が初めて熊野三山を参拝した。熊野詣では、京から往復1ヶ月もの日程(にってい)を要する大旅行で、莫大(ばくだい)な費用が掛かったと想像する。西行法師の主君であった鳥羽(とば)上皇は、祖父の白河上皇に伴われて参拝してから通算で21回も参拝を繰り返したと言われる。また、西行法師が思慕(しぼ)していたとされる(たい)賢門院(けんもんいん)御幸(みゆき)には12回も同行した。おそらく、西行法師は、義清時代に護衛として加わっていた可能性は高い。西行法師は、吉野山滞在中に「大峯(おおみね)奥駈(おくがけ)(みち)」の(あら)(ぎょう)を2度も行っている。吉野山から熊野本宮までの大峯奥駈道は、険しい(やま)(みち)が約170㎞も続く。上皇らの御幸は、この難路を避けて紀ノ川沿いに海に出て()(かい)し、(おお)()()(なか)()()から熊野三山に入っている。現在の熊野三山とその古道は、世界文化遺産を構成する史跡として知られ、昔さながらに徒歩(とほ)で巡礼する海外からの観光客もいると聞く。

西行法師の熊野詣の手がかりとしては、『西行物語絵巻』の(まん)()美術館本で、その十紙には、残雪の吉野を出て熊野に向う様子が描かれている。その途中で、紀伊国(せん)()の浜(現・和歌山県みなべ町)や()(かみ)(おう)()(現・和歌山県上富田町(かみとんだちょう))を通っている。

2Ⅰ8番、「ちらでまてと (みやこ)の花を おもはまし 春かへるべき わが身なりせば」

出典・『山家集』の春歌119番目の歌で、詞書には「那智に(こも)りし時、花のさかりに()でける人につけて(つか)しける」とある。那智の滝で修行した頃に、花の盛りとなって、都に出立する人に詠んだ歌を(たく)したのである。「散らないで待って欲しいと、都の花を思うけれど、この春に帰京する今の自分ではない」と、帰りたいけれど帰れない(せつ)ない()(じょう)を詠んでいる。

2Ⅰ9番、「かつみふく (くま)()まうでの とまりをば こもくろめとや いふべかるらむ」

出典・『山家集』の夏歌58番目の歌で、詞書には「五月会(さつきえ)に熊野へまゐりて()(こう)しけるに、()(だか)に、宿(やど)にかつみを菖蒲(あやめ)にふきたりけるを見て」とある。「かつみ」は、花かつみであるが、()(こも)とも花菖蒲(はなしょうぶ)ともされる。『西行全歌集』では「かつみを葺く」としているので、屋根に葺いたようである。「「五月会」は、(たん)()の節句で、宿(やど)のかつみをあやめに葺き替えたとある。それを念頭に訳すと、「熊野詣でで泊った宿(やど)では、かつみで屋根を葺き、(こも)(くろ)()と言うそうである」と、イメージが(つか)めない歌となる。

220番、「雲消ゆる 那智の高嶺に 月たけて 光をぬける (たき)のしら糸」

出典・『山家集』の秋歌144番目の歌で、詞書に「(つき)(たき)を照らすといふことを」とある。「那智の高嶺」は、那智の滝の背後の()()(さん)であるが、特定された山頂ははない。その那智山の滝と月を眺めて、「雲が消えて那智の高嶺に月が空高く昇って()え渡っている。その光の中を那智の滝が白糸(しらいと)のように抜けて浮かぶように見える」と、モノクロ写真のように詠じた。

221番、「いとか山 時雨に色を 染めさせて かつがつ()れる (にしき)なりけり」

出典・『山家集』の秋歌300番目の歌で、詞書に「紅葉()(へん)といふことを」とある。「いとか山」は、現在の和歌山県(あり)()()にある標高ⅰ67mの(いと)()(とうげ)で、熊野古道の糸我王子社があった。時雨が降ると寒くなるので、寒くなるほど紅葉は一層(いっそう)赤く染まるのである。「糸我山の紅葉(もみじ)は、時雨に(なお)も色を染めさせてもらい、ひとまずは錦に()り上げられている」と詠じた。

222番、「松がねの (いわ)()の岸の 夕すずみ 君があれなと おもほゆるかな」

出典・『山家集』の羈旅歌67番目の歌で、詞書に「夏、熊野へまゐるけるに、岩田と申す所にすずみて、()(こう)しける人につけて、京へ同行に侍りけるに(じょう)(にん)のもとへ(つか)しける。」とある。熊野詣での途中で、京へ戻る参詣者と出会って、京の友人に和歌を託するのである。歌の大意は、「(いわお)の松の根を眺め、岩田の川岸で夕涼みをしていると、あなたが一緒にいてくれればと思われてならない」と、久しく逢っていない友への思慕(しぼ)(じょう)吐露(とろ)している。『西行全歌集』の詞書には、京の上人を西住上人と記しているので、西行法師が60歳以前の作かも知れない。

西行法師は熊野三山をどのルートで巡拝したのかは明確になっていないが、222番の歌にある「岩田」は、(なか)()()に続く海岸寄りの入口であることから往きは、中辺路から本宮に入ったと思われる。本宮から熊野川を船で下って新宮へ、新宮から(おお)()()を経て那智に至って熊野三山をめぐったと推定する。帰路は(くも)取山(とりやま)を越えて本宮に戻り、(おお)(みね)(おく)(がけ)(みち)を吉野へと強行した可能性もある。いずれにしても年代に(へだ)たりてはあるものの、熊野三山を2度めぐったのは確かなことである。

223番、「待ちきつる やかみの桜 咲きにけり あらくおろすな みすの山風(やまかぜ)

出典・『山家集』の羈旅歌69番目の歌で、詞書には「熊野へまゐりけるに、やかみの王子の花(おも)(しろ)かりければ、社に書きつけける」とある。「やかみの王子」は、熊野古道にあった九十九王子の1つ八上王子で、王子は熊野権現(ごんげん)の子とされて神社に祀られていた。「みすみ」は、ここも()(すみ)王子があった()(すみ)(やま)である。そこで桜を見て、「心待にして()た八上王子の桜が咲いている。その桜を()(あら)()()ろさない欲しい三栖山の風よ」と、風神に向って(ささや)いたような歌である。

224番、「()のもとに ()みけむ跡を 見つるかな 那智の高嶺の 花を尋ねて」

出典・『山家集』の羈旅歌70番目の歌で、長い詞書には「那智(なち)(こも)りて、瀧に入堂し侍るけるに、(うえ)(うえ)(いち)()の瀧おはします。それへまゐるなりと申す(じゅう)(そう)の侍るけるに、()してまゐりける。花や咲きぬらむと尋ねまほしかりける折ふしにて、たよりある心地(ここち)して分けまゐりたり。二の瀧のもとへまゐりつきたり。(にょ)()(りん)の瀧となむ申すと聞きてをがみければ、まことに(すこ)しうちかたぶきたるやうに流れくだりて、(とうと)くおぼえけり。()(さん)(いん)の御庵室の跡の侍るける前に、年ふりたる桜の木の侍りけるを見て、(すみか)とすればとよませ給ひけむこと思ひ()でられて」とある。要約すると、「那智の()(どう)に籠って滝を眺めると、上流に一の滝と二の滝がある。その滝に参ると常駐(じょうちゅう)の僧がいて一緒に参った。花の咲いている季節に訪ねたかったので、その便り心待ちにしての入山であった。二の滝の元に参ると、如意輪の滝と言うと聞き、(おが)みて眺めると斜めに流れ落ち、尊く思われた。花山院(969―1008年)の()(あん)(しつ)(あと)の前に、桜の()(ぼく)があって、花山院の詠まれた歌を思い出す」と、花山院が那智の滝で詠んだ和歌の上句を(ほん)()(どり)して、詠んだのが西行法師の224番の歌である。「住みけむ」は、「()むけむ」の掛詞になっている。「桜の木の(もと)(すみか)とされた花山院の住居跡を見ると、心が澄まされて那智の高嶺に花を尋ねた登った甲斐(かい)があった」と詠んだ。

花山院は、在位期間2年の薄幸(はっこう)の天皇であったが、仏教に深く帰依して「西国三十三ヶ所観音霊場」を巡錫(じゅんしゃく)して再興させている。その第一番札所である(せい)(がん)渡寺(とじ)は、修験道が盛んで「那智四十八滝(かい)(ほう)(ぎょう)」も花山院が始めたとされる。西行法師も回峰行を行ったことは想像に(かた)くない。那智四十八滝回峰行は、明治元年(1868)の「神仏分離令」によって修験道が禁止されて(すた)れた。また、青岸渡寺は、明治以降からは真言宗から天台宗に改宗(かいしゅう)されて現在に至っている。そして、那智四十八滝回峰行は、青岸渡寺が平成4年(1992年)に124年ぶりに復活(ふっかつ)させた。

225番、「立ちのぼる 月のにあたりに 雲消えて (ひかり)(かさ)ぬる ななこしの嶺」

出典・『山家集』の羈旅歌71番目の歌で、詞書には「熊野へまゐりけるに、ななこしの(みね)の月を見てよみける」と、記されていて、熊野本宮で詠んだ歌である。「ななこしの嶺」は、熊野本宮大社旧社地であった(おお)(ゆの)(はら)の東、熊野川対岸の標高262mの(なな)(こし)(みね)である。分かり易い歌なので、漢字に変えると(かみ)(のく)は、「立ち昇る月の辺りに雲消えて」とそののままになる。(しも)(のく)の「光重ぬる」は、月の光と、消えゆく夕陽の光が重なり合った状況(じょうきょう)で、「光が重なる七越の峰」となる。

226番、「(くも)(とり)や しこの山路は さておきて をくちかはらの さみしからぬか」

出典・『山家集』の雑歌6番目の歌で、「題しらず一」の4番目にある歌でもある。熊野詣(くまのもう)でに関する西行法師の和歌は、『山家集』に15首ほどあるが、新宮で詠まれた歌がなく、本宮の歌もこの1首が確認される。この歌は、本宮から那智に戻る道中吟(どうちゅうぎん)であると推察する。「雲鳥」は、標高966mの大雲(おおくも)取山(とりやま)のことで、「しこ」は、地名で現在の新宮市熊野川町()()、「をくちかはら」は、()口ヶ原(くちがはら)と漢字表記される山村である。歌の大意は、「雲取や志古の山路が淋しいのはさておいて、小口ヶ原集落も淋しくないはずもない」と、雲取山麓の寒村(かんそん)風景を(とら)えている。

227番、「なみよする しららの浜の からす(かい) ひろひやすくも おもほゆるかな」

出典・『山家集』の雑歌59番目の歌で、詞書に「内に(かい)(あわ)せむと、せさせ給ひけるに、人にかはりて」と題した9首の8番目の歌でもある、「しららの浜」は、(しら)(らの)(はま)と漢字表記され、現在の和歌山県(しら)(はま)(ちょう)にある。(だい)()で催された歌会で、貝合わせの歌題に女房(女官)に代わって詠んだようだ。「波が寄せる白良浜では、カラス貝が(ひろ)(やす)く思われる」と、見たままの情景を詠んでいるが、白浜と黒いカラス貝の色を(たい)()させている。現在の白良浜には、この歌の歌碑が建っていた。

熊野三山めぐりを終えた西行法師は、高野山に戻って公的な活動を行っている。承安(じょうあん)4年(1180年)には、高野山の領地に課せられた(ぜい)の免除を行うため奔走し、「僧円位書状」をしたためり、最高権力者となった平清盛にも懇願(こんがん)したようである。

伊勢神宮内宮(ウェブのコピー)              二見浦夫婦岩(ウェブのコピー)

(11)、伊勢・(ふた)(みが)(うら)の草庵(64歳―69歳)

()(しょう)4年(1180年)6月になると、平清盛が後白河法皇の院政を廃し、摂津の福原(ふくはら)に遷都する暴挙(ぼうきょ)を行った。平清盛とは友好的な関係にあったが、西行法師も流石(さすが)に憂慮したようで、高野山から伊勢(いせ)(のくに)への移住を決意させたと思われる。高野山に居ると、平家一門に反目する勢力と()(さつ)が生じかねないと判断し、中立を守って逃れるのが良いと判断したのであろう。

伊勢では当初、伊勢(こう)大神宮(たいじんぐう)(内宮(ないぐう))近くの(しん)(しょう)()に草庵を結んだようだ。この草庵跡は現在、西行(さいぎょう)(たに)と呼ばれ、三重県営総合競技場の近くにある。その後は二見(ふたみ)(がうら)に移り、(あん)(よう)()に草庵を構えたとされる。いずれの寺も明治の廃仏毀釈で廃寺となった。源平合戦が終り、奥州に大仏殿再建のため勧請(かんじょう)に赴く(ぶん)()2年(1186年)までの約5年間、伊勢に滞在することになる。

伊勢滞在中にあった事件としは、治承4年(1180年)8月に、源義仲(よしなか)(1154―1184年)が信州木曽(きそ)で、源頼朝(よりとも)(1147―1199年)が伊豆韮山(にらやま)で、後白河法皇の勅命(ちょくめい)を密かに受けて平家打倒を掲げて挙兵(きょへい)した。(よう)()元年(1181年)(うるう)2月には、平清盛が享年(きょうねん)64歳で亡くなると、平家一門は衰退の一途をたどる。(げん)(りゃく)2年(1185年)には、長門(ながと)(のくに)の壇ノ浦で滅亡することになる。西行法師が68歳の時で、義清時代から接点(せってん)のあった平家との関係が45年で(しゅう)()()が打たれたのである。

228番、「雲の上や ふるき(みやこ)に なりにけり すむらむ月の 影はかはらで」

出典・『山家集』の雑歌142番目の歌で、詞書には「福原(ふくはら)へ都うつりありときこえし頃、伊勢にて月の歌よみ侍りしに」とある。福原遷都は衝撃的(しょうげきてき)なことであったにも関わらず、批判めいた歌を詠むのは差し控えたのだろうか、昨今(さっこん)の出来事を昔のことのように詠んでいる。「雲の上のような(みかど)の京は、古い都となってしまった。(すみ)行く月の照る世は変わらないのに」と詠み、帝の住む場所が変わってしまったと(あん)()し、批判したとも感じられる。

229番、「もしほやく 浦のあたりは 立ちのかで (けむり)あらそふ 春霞かな」

出典・『山家集』の春歌41番目の歌で、詞書には「海辺の霞といふことを」とある。「もしほやく」は、()(しお)()くと漢字表記されるので古墳時代から続く製塩(せいえん)を意味する。二見浦には、伊勢神宮が神前に供える塩を製塩する施設があって、()(しお)殿(どの)神社と称される。「藻塩を焼いている二見浦の空には、その烟が(あらそ)うように立っていて、春霞を思わせるようだ」と、春景色を詠じた。

230番、「波こすと ふたみの松の 見えつるは (こずえ)にかかる 霞なりけり」

出典・『山家集』の春歌42番目の歌で、詞書には「おなじこころを、伊勢に(ふた)()といふ所にて」とある。詞書の「同じ心に」は、歌枕の二見浦で見た波を()す松が、「他の歌人の詠んだ心と同じだよ」と(まえ)()きしている。「波が二見の松の木を越して打寄せていると思ったら、それは梢にかかる霞であった」と、白浪(しろなみ)と松の緑を対比させて詠んでいる。

231番、「()ぐる春 潮のみつより (ふね)()して 波の花をや さきにちつらむ」

出典・『山家集』の春歌254番目の歌で、詞書には「伊勢にまかりたりけるに、みつと申す所にて、海辺の春の(くれ)といふことを、神主(かんぬし)どもよみけるに」とある。「潮のみつ」は、潮の満ちると、歌枕の三津の浜とを掛けている。結句の「さき」も波の花が咲くことと、船の舳先(へさき)(えん)()としている。「過ぎ行く春に潮の満つる三津の浜から船出して、浮かぶ波の花は船の舳先の方が先に散るようである」と、珍しい波の花が海に浮かび岸に(ただよ)う景観を詠んだ。

232番、「柴の(いほ)に よるよる梅の 匂ひ来て やさしき(かた)も あるすまひかな」

出典・『山家集』の春歌57番目の歌で、詞書には「伊勢のにしふく山と申す所に侍りけるに、庵の(うめ)かうばしくにほひけるを」とある。「にしふく山」は、確証されてはいないが、三重県(こも)()(ちょう)にある標高598mの(ふく)(おう)(ざん)とされ、巡見(じゅんけん)街道の(かたわ)らに西行庵跡の石碑が立っていて、この歌の歌碑もある。伊勢滞在中の約5年間、何ヶ所かの草庵を転々(てんてん)としたことは否定できない。それを踏まえると、「今度の粗末な柴の庵では、()()な梅の匂いが漂って来て、(ゆう)()な過ごし方があることをこの住まいで感じた」と、桜一辺倒(いっぺんとう)から梅にも魅力を感じたようだ。2句目の「よるよる」は、『西行全歌集』では「とくとく」になっている。

243番、「聞かずとも ここをせにせむ ほととぎす 山田の原の 杉の村立(むらだち)

出典・『山家集』の夏歌41番目の歌で、「郭公(かっこう)」と題した8首の最初の歌でもある。「山田の原」は、伊勢市(ふた)()(ちょう)に山田原と言う歌枕の地名があるので、ここで詠まれた歌であろう。平明(へいめい)な歌で、「今は聞こえなくても、ここでホトトギスの鳴く声を待つ場所としよう。山田の原の杉の群れ立つ林で」と詠んでいる。普段からホトトギスの特徴(とくちょう)を観察していた様子に感服(かんぷく)する。

244番、「めぐりあはで 雲のよそには なりぬとも 月になり行く むつび(わす)るな」

出典・『山家集』の秋歌178番目の歌で、詞書には「伊勢にて、()(だい)(さん)上人、月に対し述懐(じゅっかい)し侍りしに」とある。「菩提山」は、伊勢神宮の神宮寺で、「上人」は、(りょう)(にん)上人(11151209年)ことであるが、神宮寺は明治の(はい)(ぶつ)()(しゃく)で廃寺となった。

「めぐり逢わないで雲が消えるように他所(よそ)に行ったとしても、あなたが月になって行くように、いつでも眺められる結び付きを忘れないで欲しい」と、結びと陸奥(むつ)を掛けて遠く旅立つ心境を詠んだ。

235番、「(すず)鹿()(やま) うき世をよそに ふりすてて いかになりゆく (わが)()なるらむ」

出典・『山家集』の羈旅歌93番目の歌で、詞書には「世をのがれて伊勢(いせ)の方へまかりけるに、鈴鹿山にて」とあって、俗世から逃れたい気持ちが歌に込められている。その反面、自分自身の心が定まっていないことを()(あん)()している。歌の内容から推察すると、出家して間もない頃の歌で、鈴鹿山には当時、鈴鹿関(すずかのせき)があったので、関所を越えると俗世から逃れられると考えていたようである。「鈴鹿山を(さかい)(うき)()他所(よそ)に振り捨てて来たが、どうなるのだろうか私の未来は」と詠じた。

236番、「ふかく入りて (かみ)()のおくを 尋ぬれば 又うえもなき 峰の松風」

出典・『山家集』の羈旅歌94番目の歌で、詞書には「高野山を住みうかれてのち、伊勢(いせ)(のくに)二見浦の山寺に侍りけるに、(だい)神宮(じんぐう)の御山をば(かみ)()(やま)と申す、大日(だいにち)の垂跡をおもひて、よみ侍りける」とある。詞書の「伊勢の山寺」は、草庵を構えた安養寺で、神路山は、皇大神宮(内宮)の南面にある山域(さんいき)の総称で、特定の山頂はないようだ。「(すい)(せき)」は、(すい)(じゃく)の誤りで、皇大神宮の祭神・(あま)(てらす)大御神(おおみのかみ)は大日如来が本性とされる(ほん)()(すい)(じゃく)(せつ)による。平明な歌で、「深く入って神路山の奥を訪ねると、尊さは更に上もなく峰の松には神風が吹いている」と解釈されるが、神仏に深く帰依(きえ)している心境が感じられ名歌である。

237番、「(さかき)()に 心をかけん ゆふしでて 思へば神も 佛なりけり」

出典・『山家集』の羈旅歌95番目の歌で、詞書には「伊勢にまかりたるけるに、(たい)神宮(じんぐう)にまゐりてよみける」とある。3句目の「ゆふしで」は、木綿(ゆう)四手(しで)と漢字表記される木綿(もめん)の布で、伊勢神宮では榊に付けたり、肩に掛けたりして使用するようだ。それを念頭に読むと、「榊葉に木綿四手を付け、肩に()けて信心(しんじん)を神に()けると、神も仏と同じように思われる」と、木綿四手を()()()と同一視しているように(うかが)える。神仏習合の時代を彷彿(ほうふつ)とさせる歌で、神棚(かみだな)仏壇(ぶつだん)を祀る日本人の原点が見える。

238番、「(かみ)()(やま) 月さやかなる 誓ひありて (あめ)の下をば てらすなりけり」

出典・『山家集』の羈旅歌97番目の歌で、詞書には「神路山にて」とある。『新古今集』にも入選(にゅうせん)された秀歌でもある。西行法師が祝詞(のりと)まて(とな)えて拝んだかかは不明であるが、神に誓った歌は月を天照大御神の()()(こう)として眺めたようだ。「神路山の月が(さや)かに澄んでいるので、天照大御神と思って誓願すると、その御威光は天下を照らしているようだ」と、詠じたと解釈する。

239番、「ここも又 都のたつみ しかぞすむ 山こそかはれ 名は宇治(うじ)の里」

出典・『山家集』の羈旅歌99番目の歌で、詞書には「内宮のかたはらなる山陰(やまかげ)に、庵むすびて侍りける頃」とある。この歌は『西行全歌集』にはなく、校注者(こうちゅうしゃ)の見落としなのか、(あえ)えて(はず)したは分からないが、『小倉百人一首』にも選ばれた()(せん)法師の本歌取である。「ここの(いおり)も都の辰巳(たつみ)鹿(しか)ぞ住むと、詠まれた山こそ変ってはいるが地名は宇治の山里と言うのである」と詠じた。

240番、「さやかなる (わし)の高嶺 (くも)()より 影やはらぐる 月よみの森」

出典・『山家集』の羈旅歌101番目の歌で、詞書には「伊勢の月よみの(やしろ)に参りて、月を見てよめる」とある。「鷲の高嶺」は、釈迦の聖地の(りょう)鷲山(じゅせん)が想定され、「月よみの森」は、内宮の別宮である(つき)()(みの)(みや)の森のことである。この歌は、「(さや)かな月の光が遠い天竺(てんじく)(インド)の鷲の高嶺から雲に影を(やわ)らげられて、月夜見の森を照らす」と、釈迦と月読(つくよみ)(のみこと)を合体させて詠んだ。

241番、「すが島や たふしの()(いし) わけかへて 黒白まぜよ 浦の浜風」

出典・『山家集』の羈旅歌104番目の歌で、詞書には「伊勢のたふしと申す(しま)には、小石の白のかぎり侍る浜にて、黒は一つもまじらず、むかひて、すが嶋と申すは、黒かぎり侍るなり」とある。「すが島」は、鳥羽湾にある(すが)(しま)で、「たふし」は、(とう)()(じま)で、いずれも万葉集にも詠まれた歌枕である。菅島の海岸には黒い小石、答志島には白い小石だけであると、詞書で述べ、「菅島と答志島の小石を分け()えて黒石と白石とを()ぜておくれよ、浦の浜に吹く風よ」と、ユニークな発想の歌を詠んだ。

242番、「さぎじまの ごいしの白を たか浪の たふしの浜に (うち)()せてける」

出典・『山家集』の羈旅歌105番目の歌で、242番と詞書は同様である。「さぎじま」は、(さき)志摩(しま)と称される地名か、(さぎ)(じま)、の島名(しまめい)かは不明で、「ごいし」は、囲碁(いご)の碁石とも思われるが、『西行全和歌集』では小石になっている。歌の意味は、「さぎじまの鷺のような白い小石を高波が答志島の浜に打寄せたのだろうか」となる。西行法師は、白黒の小石に()せられたようで、『西行物語絵巻』の徳川美術館本には、囲碁を打つ様子(ようす)が描かれているので無理もない。

243番、「今ぞ知る ふたみの浦の はまぐりを (かい)あはせとて おほふなりけり」

出典・『山家集』の羈旅歌108番目の歌で、詞書には「伊勢の二見の浦に、さるやうなる()(わらべ)どものあつまりて、わざとのこととおぼしく、はまぐりをとりあつめけるを、いふかひなきあま人こそあらめ、うたてきことなりと申しければ、貝合(かいあはせ)に京よりひとの申させ(たま)ひたれば、えりつつとるなりと申しけるに」とある。詞書の概要は、「二見浦で童女(どうじょ)らが集まって(はまぐり)採集(さいしゅう)している。身分の低い家の海女(あま)ではなく、裕福な家の童女には嘆かわしい。話を聞くと、京では貝合わせの(ゆう)()があって拾っていると言う」となる。その(はなし)を聞き、「今初めて知った。二見浦の蛤で貝合わせの遊びをしていることを」と詠じたのである。

244番、「いらご(ざき)に かつをつり舟 ならび浮きて はかちの浪に うかびてぞよる」

出典・『山家集』の羈旅歌110番目の歌で、詞書には「沖の(かた)より、風のあしきとて、かつをと申すいを()りける舟どもの帰りけるを見て」とある。「いらご崎」は、渥美半島の先端にある()()()(さき)で、4句目の「はかち」は、西北の風とも東北の烈風とも言われるようだ。「伊良湖崎の沖では、(かつお)の釣り船が一斉(いっせい)に並んで浮いているが、風が強くなり時化(しけ)て波に揺られて近寄って来る」と、(りょう)から()(はん)する様子を詠んでいる。

245番、「いつか又 いつきの宮の いつかれて しめのみうちに (ちり)を払はむ」

出典・『山家集』の神祇歌5番目の歌で、詞書には「伊勢の(さい)(おう)おはしまさで年()にけり。斎宮(さいぐう)()(だち)ばかりさかりと見えて、つい(かき)もなきやうになりたるを見て」とある。「いつきの宮」は、現在の三重県(めい)()(ちょう)にあった斎宮で、伊勢神宮に奉仕した(さい)(おう)の御所である。後白河法皇の第5皇女・(じゅん)()内親王(1158―1172年)が斎王であったが急死して、斎王不在の年が()って、木立が伸びて(つい)(かき)もない有様と詞書で述べている。その様子を見て、「いつになったら斎王また斎宮に()まわれて注連(しめ)のめぐらされた()(うち)の塵を払って奉仕なさるのだろう」と詠んだ。その後、斎王が再任されたのは()(しょう)元年(1177年)であった。

246番、「初春(はつはる)を くまなく照らす 影を見て 月にまず知る みもすその岸」

出典・『山家集』の神祇歌20番目の歌で、詞書には「みもすそ二首」とある1首でもある。「みもすそ」は、神路山を(げん)(りゅう)から内宮を流れる()()(すそ)(がわ)で、()()()(がわ)の別名でもある。分かり易い歌で、「初春になると御裳濯の川岸に立ち、(くま)なく照らす月影(つきかげ)を見て、その月に()ず春の訪れを知るのである」と、西行谷の草庵からは眺められない月を()でた。

247番、「何事の おはしますをば しらねども かたじけなさに (なみだ)こぼるる」

出典・『西行法師家集』の138番目の歌で、詞書には「(だい)神宮(じんぐう)()(さい)(じつ)によめる」とある。この歌は、『山家集』にはないので、(ぞん)()の歌ともされるが、伊勢で詠まれたことと、実直な歌なので採録した。伊勢神宮で最も重大な行事が遷宮で、第26回式年(しきねん)遷宮(せんぐう)が行われた。内宮は承安(じょうあん)元年(1171年)に、外宮は承安3年(1173年)となっているが、西行法師は高野山にいた時期なので見物した可能性は薄い。「大神宮御祭日」は、新嘗祭(にいなめさい)のことと思われる。この歌も分かり易く、「この御祭日にどんな(かた)がいらしているのか知りませんが(おそ)れ多いことで、涙がこぼれ落ちます」と、シンプルに詠んでいる。

248番、「はまゆふに 君がちとせの (かさ)なれば よに()ゆまじき 和歌の浦波」

出典・『聞書集』の103番目の歌で、詞書には「()(じょう)三位(さんみ)入道(にゅうどう)のもとへ、伊勢より(はま)()綿()(つか)しけるに」とある。結句の「和歌の浦」は、現在の和歌山県和歌山市にある景勝地で歌枕である。「五條三位入道」は、藤原(とし)(なり)(1114―1204年)の通称名で、和歌の第一人者であった、。安元(あんげん)2年(1176年)に63歳の時に出家し、法名を(しゃく)()と称していた。この歌は、釈阿との贈答歌で、「君が千歳」は、紀貫之(きのつらゆき)の詠んだ「春くれば 宿にまず咲く 梅の花 君が千歳の かざしとぞみる」の本歌取である。それを踏まえて解釈すると、「浜木綿(はまゆう)の花を君が千歳(ちとせ)の梅に重ねて見ると、大君(おおきみ)の世が絶えないように和歌の歴史も和歌の浦に打寄せる波のように続くのです」となる。この歌には、古希(こき)を迎えた釈阿の長寿(ちょうじゅ)を祝う意味合いもあったと想定する。。

かへし、「(はま)()綿()に かさなる年ぞ あはれなる わかの浦波 よにたえずとも」 (しゃく)()

「浜木綿に千歳の年を重ねるのは少々(あわ)れに感じられます。たとえ和歌の浦の波が()の中に()えずと言われてもね」と、西行法師の歌を評して返すのである。西行法師はその後、自信作72首を選び釈阿に批評を()っている。それが「御裳濯河歌合(おもすがわうたあわせ)」にまとめられているが、248番の歌は入っていないので、秀歌に(あたい)する歌ではないようだ。

249番、「死出(しで)の山 越ゆるたえまは あらじかし なくなる人の かずつづきつつ」

出典・『聞書集』の225番目にある歌で、詞書に「世のなかに()(しゃ)おこりて、西(にし)(ひむがし)(きた)(みなみ)いくさならぬところなし。うちづつき人の死ぬる数、きくおびただし。まこととも覚えぬ程なり。こは何事(なにごと)のあらそひぞや。あはれなることのさまかなと覚えて」とある。源平合戦が()(れつ)(きわ)めていた頃の作で、詞書では全国各地で(いくさ)のない場所はなく、戦死する武士の数が(おびただ)しい。何のための争いなのか、(あわ)れと呼ぶより外にないと、歴史上最大の悲劇となった源平合戦を述べている。その様子を見て、「冥途(めいど)に旅立つ死出(しで)の山を越える死者は()()がない。今日も(いくさ)で亡くなる人の数が続いている」と、悲惨な情況を詠じた。

250番、「()()(びと)は 海のいかりを しづめかねて 死出の山にも 入りにけるかな」

出典・『聞書集』の227番目にある歌で、詞書には「木曽と申す武者、死に侍りけりな」とある。「木曽人」は、信濃(しなの)(のくに)木曽出身の源(よし)(なか)(1154―1184年)を指す。義仲は平家に勝利して入京するが、源氏の分裂によって源義経軍との宇治川の戦いで討ち死にする。寿(じゅ)(えい)3年(1184年)の1月中旬で、享年31歳であった。この時に67歳であった西行法師は、「山育ちの義仲は、海のような都の(いか)り((いかり))を(しず)((しず))めることができず、死出の山に入ってしまった」と、追悼(ついとう)するのであった。

251番、「いかばかり 涼しかるらむ つかへきて ()()(すそ)(がわ)を わたるこころは」

出典・『聞書集』の280番目にある歌で、詞書には「公卿勅使に(みち)(ちか)宰相(さいさう)のたたれけるを、五十鈴の(ほとり)にてみてよみける」とある。「通親」は、源通親(1149―1202年)で、勅使として伊勢神宮を参拝して、その()(きょう)に際して詠んだ歌のようだ。勅使と言えば、(きゅう)寿(じゅ)2年(1155年)頃には、平清盛が後白河天皇の勅使として参拝している。この歌は通親に対して、「どれほど涼しく感じられましたか、勅使として(つか)えて来て御裳濯川を渡られた今のご気分は」と詠じ、若輩の公家を(いた)わっている。

252番、「ながれいでて ()(あと)たれます みづ垣は 宮川(みやがわ)よりの わたらひのしめ」

出典・『補遺』の75番目の歌で、「題しらず二」の4首の1首目の歌でもある。「御跡」は、大日如来(だいにちにょらい)(すい)(じゃく)した聖跡で、「わたらひ」は度会(わたらい)と漢字表記される御跡の呼び名のようである。「宮川」は、三重県南部を流れる大きな()(せん)で、河原から採取(さいしゅ)される白い小石は、神宮式年遷宮で使用されると聞く。この歌は少々難解で、「天竺(てんじく)の空から流れ出た大日如来は、伊勢の()(かみ)となって度会(わたらい)に垂迹し、宮川に瑞垣(みずがき)(水垣)をめぐらし、注連縄(しめなわ)を渡して鎮座された」と、勝手ながら解釈する。

253番、「この春は 花を()しまで よそならむ こころを風の 宮にまかせて」

出典・『補遺』の79番目の歌で、詞書には「風の宮にて」とある。「風の宮」は、()(ぐう)の別宮で、風の神である()()()(ひこの)(みこと)()()()(べの)(みこと)の二神を祀る。別宮になったのは正応(しょうおう)6年(1293年)で、西行法師が参拝した頃は小さな社だったと推察する。この歌は平明な歌で、「今度の春は、花の散るのを()しまないで、他所(よそ)に見るようにしよう。心は風の吹くまま風の神にまかせて」と、解釈する。桜の花に対する情熱も()(れい)と共に衰え、その温度差が感じられる歌である。

254番、「流れたえぬ 波にや世をば をさむらむ 神風(かみかぜ)すずし みもすその岸」

出典・『補遺』の81番目の歌で、詞書には「伊勢にて」とある。()()(すそ)(がわ)で詠んだ歌で、平家が滅亡して平穏(へいおん)が戻って来た時の歌に感じられる。この歌からは、「流れな()えない御裳濯川の波によって、世の中は平和に(おさ)まるであろう。神宮の風が涼しく吹く御裳濯川に立って思うのである」と、平和への祈りを(ささ)げていた様子が見える。

255番、「波もなし ()()()が崎に ごぎいでて われからつれる わかめかれ海士(あま)

出典・『補遺』の86番目の歌で、「旅の歌とて」と題した6首の2首目の歌でもある。「伊良胡が崎」は、(あつ)()半島の伊良湖崎で、伊勢から船で訪ねた時の歌である。戦乱(せんらん)の暗い時代の中でも、伊良湖崎の漁師の暮らしは変らなかったようで、そんな様子を見て、「波もない穏やかな伊良湖崎へと船を漕ぎ出て浜に到着すると、(われ)(がら)に付着した若布(わかめ)海女(あま)が刈っている」と詠んだ。

256番、「藤波(ふじなみ)を みもすそ川に せき入れて ももえの松に かけよとぞ思う」

出典・『(ふう)()(しゅう)』の神祇にある歌で、佐佐木信綱(のぶつな)校訂の『山家集』にはない。この歌は、単なる自然描写の歌ではなく、日本人の血統(けっとう)(あん)()した歌で、藤原俊成に「御裳濯河歌合」の(はん)()を依頼し時に表紙に添えた。「藤波」は、藤の花が風で波のように揺れる動くことであるが、この歌では藤は藤原(ふじわら)()を指している。2句目の()()(すそ)(がわ)は、伊勢神宮の祭主である(おお)(なか)(とみ)()の比喩である。藤原鎌足(かまたり)を始祖とする藤原氏は、大中臣氏の末裔(まつえい)で、その血統に自分も(ぞく)していることを言わんとした。4句目の「ももえ」は、たくさんの枝に分れることで、たくさんの血脈に例えている。「藤原の源流でもある御裳濯川の大中臣氏に(せき)(堰)を入れて、(もも)()の松の中に私の歌も掛げて神に(ささ)げて下さい」と、俊成に懇願(こんがん)するのである。

かえし、「藤波(ふじなみ)()()(すそ)(がわ)(すえ)なれば しづ()もかけよ 松の(もも)()に」 藤原俊成

出典・『西行全和歌集』の「御裳濯河歌合」の73番目にある歌で、『風雅集』の神祇にもある。4句目の「しづ()」は、松の下の枝の(しず)()ではなく(しず)()を比喩し、自身も身分の低い者と俊成は謙遜(けんそん)した。「藤原も大中臣氏の末裔ならば、百枝の松に賤枝を掛けることにしましよう」と、「御裳濯河歌合」の判詞を書き()えて返しの歌を添えるのであった。

中尊寺金色堂(ウェブのコピー)               束稲山(ウェブのコピー)

(12)、奥州(おうしゅう)再訪の旅路(69歳―70歳)

二度目の奥州平泉の訪問は、(ぶん)()2年(1186年)の9月頃とされ、西行法師は(よわい)69歳の老骨(ろうこつ)(むち)()っての旅となったが、おそらく、その殆どは馬に鞭打っての旅であったであろう。その目的は、東大寺大仏殿再建のため、大勧進(だいかんじん)(しょく)重源(ちょうげん)(1121―1206年)の要請を受け、3代目・藤原秀衡(ひでひら)(1122?―1187年)から寄進を得ることであった。

鎌倉ではこの年の8月中旬、源頼朝(よりとも)(1147―1199年)と面会して(きゅう)()や和歌について語ったとされる。頼朝から銀製の猫の置物を(もら)い受けたが、門外で遊ぶ子供に与えた言う伝説が有名である。この頃、頼朝の弟・源義経(1159―1189年)は、頼朝に追われ、()しくも西行法師が草庵を結んでいた吉野山に潜伏(せんぷく)していた。義経との接点はないが、崇徳院や平清盛の没落(ぼつらく)を見て来た西行法師にとっては、気がかりな存在であったと思われる。結局、文治3年(1187年)9月頃に平泉に落ち()びた義経は、翌年の春に秀衡が没したこともあって、子の泰衡(やすひら)(1153?―1189年)の襲撃を受け衣川館(ころもがわやかた)で自害した。

今回の奥州再訪問の旅路では、17首の歌を選んだが、確実に詠まれたと断定できる歌は6・7首ほどで、他は推定(すいてい)の範囲内であることを前置きしたい。また、寄り道したと思われる場所も前回の旅で詠んだ可能性が高いので、今後の研究に(ゆだ)ねたい。

257番、「朝風に みなとをいづる とも舟は (たか)()の山の もみぢなりけり」

出典・『補遺』の53番目の歌で、「題しらず一」の3首の1首の歌でもある。「高師の山」は、現在の愛知県(とよ)(はし)()にある高師の原とされる歌枕である。一説によると、西行法師は()()()(ざき)から奥州に向ったとされ、伊良湖崎から更に船で豊橋を経由したのだろう。この歌からも船から眺めたようで、「秋風が吹く頃、大漁旗(たいりょうばた)を掲げ港を(つら)なって()て行く船は、高師の山の紅葉のようだ」と詠じた。別の解釈をすると、錦の紅葉を錦の大漁旗と()間違(まちが)えた歌にも思える。

258番、「年たけて (また)こゆべしと 思ひきや 命なりけり さやの中山」

出典・『山家集』の羈旅歌113番目の歌で、詞書には「あづまの方へ、(あひ)()りたる人のもとへまかりけるに、さやの中山見しことの、昔になりたりける、思ひ出でられて」とある。「年たけて」とあることから年齢(ねんれい)を重ねたことを意味し、二度目の旅であったされる。「年齢を重ね、再び小夜(さよ)の中山を越えるとは思ってみなかった。それは命があってのことなんだなあ」と詠んだ。

259番、「(なみだ)のみ かきくらさるる 旅なれや さやかに見よと 月はすめども」

出典・『山家集』の羈旅歌114番目の歌で、詞書には「駿河(するが)の国()(のう)の山寺にて、月を見てよみける」とある。「久能の山寺」は、現在の久能山(とう)照宮(しょうぐう)が建っているが、平安時代は(ぎょう)()()(さつ)が開基した()(のう)()があった。その山寺で月を見て、「涙のみを流し()()れる旅ではあるけれど、澄みきった月は(さや)かに見よと言ってくれる」と、月に(はげ)まされていることを詠んだ。

260番、「けぶり立つ 富士(ふじ)に思ひの あらそひて よだけき恋を するがへぞ行く」

出典・『山家集』の恋歌115番目の歌で、「恋」と題した72首の40番目の歌でもある。()()(さん)を詠んだ歌は、『山家集』に4首が記載されているが、1首は(とう)(れん)法師の作で、実際は3首である。その1首を最初の旅に、残り2首を2度目の旅に振り分けた。富士山の歌には季語(きご)がなく何時の季節に詠まれたかは不明で、本当に眺めたかどうかも不明である。2度目の旅では、急ぎ旅だったので、富士山の前を往復したのは明らかである。この歌は、「富士山に立ちのほる煙は、(はげ)しい恋でもする(●●)()(ごと)くに思いを争い、駿河(するが)の方に行くようだ」と、富士の煙を恋に(たと)え、すがる気持ちを駿河(するが)に掛けて詠じた。

261番、「(はこ)()(やま) こずゑもまだや 冬ならむ (ふた)()は松の ゆきのむらぎえ」

出典・『聞書集』の48番目の歌で、「松上(しょうじょう)残雪(ざんせつ)」と題した2首の1首である。「箱根山」は、相模(さがみ)(のくに)の箱根山とされ、「二見」は、伊勢国の二見浦(ふたみがうら)とされる。初春の歌なので、一度目の旅は秋、二度目の旅は夏なので、箱根山の残雪は眺めていない。それでも歌枕の箱根山を詠じたいと思ったようだ。「箱根山は木々の梢もまだ冬であろう。二見(ふたみ)(がうら)では松の上に雪がまばらに残っているだけである」と、二見浦から箱根山の初春を想像(そうぞう)して詠んだようである。

262番、「むかしおもふ 心ありてぞ ながめつる (すみ)()河原の ありあけの月」

出典・『補遺』の87番目の歌で、詞書に「旅の歌とて」と題した6首の3番目の歌でもある。「隅田河原」は、武蔵(むさし)下総(しもふさ)の国に境の川で、現在の隅田川上流の荒川(あらかわ)が該当する。河原や()(はん)で眺める月は格別で、何度も眺めて来た月や昔の歌人の歌を懐かしみ詠んだようだ。歌の意味は、「昔の事を懐かしく思う気持ちがあって眺めている。隅田川の河原に()かる有明けの月を」となる。全く同じ雲がないように、全く同じ有明けの月も存在しない。そんな月の()(りょく)を現代人以上に感じ取った歌である。

263番、「都近き 小野(おの)大原(おおはら)を 思ひ出づる (しば)の煙の あわれなるかな」

出典・『山家集』の羈旅歌117番目の歌で、詞書には「下野(しもつけ)の国にて、柴の煙を見てよみける」とある。「小野大原」は、京郊外の小野の里と大原の里である。「柴の煙」は、(すみ)()き小屋の煙を意味する。「下野で炭を焼く煙を見ていると、都近くの小野や大原を思い出して感慨深(かんがいぶか)い気持ちになるよ」と、遠く離れた場所にも炭焼きの煙があることに心()かれたようである。

264番、「さみだれに 佐野(さの)舟橋(ふなばし) うきぬれば のりてぞ人は さしわたるらむ」

出典・『山家集』の夏歌76番目の歌で、詞書には「ある所にて五月雨(さみだれ)の歌十五首よみ侍りし、人にかはりて」とある。佐野の渡し場に関しては諸説があるが、群馬県(たか)(さき)()にあったする説を採りたい。平明(へいめい)な歌で、「五月雨で水かさが増し浮いた舟橋は、人が乗ったまま(さお)をさして渡った(ほう)がよいかも」と、そのまま読める。この歌の本歌取にしたのが藤原定家(さだいえ)の歌で、佐野の渡し場を一躍有名にした。その歌は、「(こま)とめて 袖うちはらふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮」と絶唱とされる歌である。

265番、「道の()に 清水ながるる (やなぎ)(かげ) しばしとてこそ 立ちとまりつれ」

出典・『山家集』の夏歌110番目の歌で、「題しらず七」の6首の2番目の歌でもある。栃木県()()(まち)にある(あし)()の「()(ぎょう)(やなぎ)」が西行法師が歌に詠んだ柳とされている。()(ぼう)に清水が流れる柳の木陰であって、そこで少し休もうと思った西行法師は立ち寄った。しかし、その涼しさに(なが)()してしまったことを詠んだ歌である。その後、西行法師の足跡を慕って訪ねた松尾芭蕉翁は、「()一枚(いちまい) 植ゑて(たち)()る 柳かな」と吟じた。更に芭蕉翁を慕った与謝(よさ)()(そん)は、「柳散清水涸石処ゞ(やなぎちりしみずかれいしところどころ)」と漢詩調の句を詠んだ。その3人の歌碑と句碑が、遊行柳の側に()(くう)を超えて立っていたことを思い出す。

266番、「ひろせ河 わたりの沖の みをつくし みかさそうらし 五月雨(さみだれ)のころ」

出典・『山家集』の夏歌70番目の歌で、「ある所にて五月雨の歌十五首よみ(はべ)りし、人にかはりて」と題した16首の4番目の歌でもある。誰に代わって詠まれた歌なのかは不明であるが、(じゅっ)(かい)の歌と理解される。「ひろせ河」は、大和国(やまとのくに)奈良の広瀬川とされているが、陸奥(みちのく)(のくに)千代(せんだい)(仙台)の広瀬川も想定される。いずれも歌枕となっていて、「わたりの沖」は、地名の亘理(わたり)を掛けているとも感じられる。また、奈良の広瀬川では沖のイメージは伝わらない。そんな()(ゆう)からかは知れないが、広瀬川を仙台とする説が多い。この歌は、「広瀬川の渡しの沖の(みお)つくし((みず)(ぐい))は、五月雨の頃は水嵩(みずかさ)が深くなるそうである」と、解釈される。

267番、「涙をば (ころも)(がわ)にぞ 流しつる ふるき都を おもひ出でつつ」

出典・『山家集』の羈旅歌127番目の歌で、詞書には「奈良の僧、とがのことによりて、あまた陸奥国へ(つか)はされしに、中尊(ちゅうそん)()と申す所にまかりあひて、都の(もの)(がたり)すれば、涙ながす、いとあはれなり。かかることは、かたきことなり、(いのち)あれば物がたりにもせむと申して、遠国(おんごく)(じゅっ)(かい)と申すことをよみ侍りしに」とある。詞書の内容は、「奈良の僧が(とが)により、多くが陸奥(みちのく)の中尊寺と言う寺に送られて来た。その僧がら都の話などを聞いて、涙を流すほど哀れに思えた。このような()(ちょう)な話は、私の命が永らえるならば物語と残したいと思い、遠国を述懐すると題した歌を詠みました」となる。「遠く離れた陸奥(みちのく)の国で、故郷でもある都のことを思い出し、衣川(ころもかわ)に涙を流しました」と、衣の袖を濡らしたことを掛けて詠んだ。

西行法師が平泉の藤原氏を尋ねた頃は、2代目・基衡(もとひら)は29年前に亡くなっていて、3代目・秀衡(ひでひら)(1122?―1187年)が当主となっていた。しかし、秀衡は翌年に亡くなるのて、実権は4代目の泰衡(やすひら)(1155?―1189年)が握っていたので、泰衡と交渉して大仏殿再建の寄進(きしん)をうけたと推察する。また、泰衡の歓待を受け、翌年の文治3年(1187年)の初春まで滞在した可能性は高く、白河(しらかわ)(せき)で桜の花を詠んだ歌があることからも推察できる。

268番、「(おさ)ふれど 涙ぞさらに とどまらぬ (ころも)(せき)に あらぬ(たもと)は」

出典・『(まつ)()(ほん)山家集』の「恋百十首」と題した中の1首で、平泉(ひらいづみ)を思って詠まれた歌と理解される。この歌は、「抑えても抑えても涙が(とま)らない。衣の関(平泉)の滅亡(めつぼう)に思わず涙で衣の袂は重くなる」と、解釈される。西行法師が平泉を去った翌年の(ぶん)()5年(1189年)9月初旬、源頼朝は大軍を率いて奥州合戦を仕掛(しか)け、奥州藤原氏を滅亡させるのである。その話を聞いた西行法師は、自分に関わった平家一門、奥州藤原氏の滅亡に対して痛恨(つうこん)の涙を流したと想像したい。

269番、「白河の (せき)()の桜 さきにけり あづまより来る 人のまれなる」

出典・『補遺』の13番目の歌で、詞書に「花」と題した14首の6番目の歌でもある。平泉(ひらいずみ)からの帰路の歌であるのは明確で、白河の関の春を歌に詠んだことに意義(いぎ)を感じる。以前訪ねた時は、秋だったので、能因法師の和歌も秋風を詠んでいる。カメラマンがシャッターチャンスを待つように、春の桜を(ねら)っていたようだ。この歌はそのまま読める歌で、「白河の関への旅路では、桜の花が咲いている。そんな季節なのに(あずま)の方から来る旅人は(まれ)に見られるだけである」と、みちのくを訪れる人の少なさを詠んでいる。源頼朝の奥州征伐(せいばつ)が予測されたのか、不気味(ぶきみ)な静かさが奥州に漂っていたようにも受け止められる。

270番、「ながむながむ 散りなむことを 君もおもへ 黒髪山(くろかみやま)に 花さきにけり」

出典・『聞書集』の59番目の歌で、詞書には「老人(ろうじん)(けん)()」と題してある。「黒髪山」は、現在の栃木県(にっ)(こう)()にある標高2486mの男体山(なんたいさん)の別名で、当時は日光修験の霊山として知られ、歌枕の山でもあった。詞書には、「老人が花を見る」とあるので、老齢となった自分を自覚しているようだ。「有名な黒髪山にも桜の花が咲いている。(なが)(なが)めて(つい)には()る老人のことを君たちにも思って欲しい」と、花の歌人の名を伝え残そうとした心理が(うかが)える。

271番、「雨しのぐ ()(のぶ)の郷の かき柴に ()(だち)はじむる 鴬のこゑ」

出典・『山家集』の春歌70番目の歌で、「題しらず五」の5首の4番目の歌でもある。「身延の郷」は、現在の山梨県()(のぶ)(ちょう)で、平安時代は甲斐(かい)源氏の拠点として栄えた。身延と言えば、(にち)(れん)(しゅう)の聖地・身延山が有名であるがこの頃は創建されていない。この歌が詠まれた時期は不明であるが、違った方角(ほうがく)から富士山を眺めたいと思う気持ちが、身延の郷に向かわせたと推測する。「身延の里に行った時、垣根の側で雨を(しの)いでいると、(しば)の木から巣立ちはじめるウグイスの声が聞こえてきた」と、(あま)宿(やど)りしながら見た思わぬウグイスの巣立ちに目を(ほそ)めたことであろう。

272番、「いつとなき 思ひは富士の (けむり)にて うちふす床や うき島が原」

出典・『山家集』の恋歌214番目の歌で、「恋百十首」と題した中の67番目の歌でもある。「うき(しま)(はら)」は、現在の静岡県富士宮市(ふじのみやし)にある浮島ヶ原自然公園で、広い湿原地帯となっている。そこで眺めた富士山を、「いつまでも続く恋の思いは、富士山の煙のように消えず、起き伏す()(どこ)は、浮島ヶ原の湿原のように涙で濡れている」と、絶ち切れない(れん)()に例えて詠んだ。

佐佐木信綱(のぶつな)校訂の『山家集』には、268首の恋歌が(おさ)められているが、秋歌の318首に次ぐ多さである。その中には、「(なみだ)」を詠んだ歌が40首、涙を思わせる歌が32首にも及び、花の詩人ではなく、涙の詩人と称した(ほう)が良いとも思われる。松尾芭蕉翁も「おくのほそ道」では、5度の涙を句や俳文に記している。詩人を代表とする芸術家の多くは感性(かんせい)が極めて繊細(せんさい)で、悲哀に関する感情もデリケートで(ゆた)かであると言える。その最高作と評価したい歌は、「雑歌」の126番目に「かくて後、人のまゐるに」と詞書し、()徳院(とくいん)の崩御に対する涙で、「その日より 落つる涙を (かた)()にて 思ひ(わす)るる (とき)()もなし」であろう。

273番、「()でながら 雲にかくるる 月かげを かさねて待つや (ふた)むらの山」

出典・『山家集』の秋歌129番目の歌で、詞書には「(ひさ)しく月を待つといふことを」とある。「二むらの山」は、現在の愛知県(とよ)(あけ)()にある標高72mの(ふた)(むら)(やま)で、()(かわ)(のくに)()(わり)(のくに)(またが)る歌枕の山でもある。京からの距離を考えても奥州からの帰路に立ち寄ったと考えられる。分かり易い歌で、「二村山から()て来た月は雲にかくれてしまった。その月影を(むら)がる雲から再び現れることを時間を(かさ)ねて待っている」と、掛詞を交えて詠じている。二村山にはその後の(けん)(ちょう)元年(1190年)ⅰ0月、源頼朝が(はつ)(じょう)(きょう)の際に立ち寄り、和歌を詠んだとされる。その歌は、「よそに見し をささ(小笹)が上の 白露(しらつゆ)を たもとにかくる 二村の山」の歌で、『続古今集』に選ばれ、頼朝の和歌は珍しい。4句目と結句が(るい)()していて、西行法師の本歌取とも言える。

嵐山渡橋(令和3年撮影)                 二尊院西行庵跡(ウェブのコピー)

(13)、京・嵯峨野(さがの)の草庵(70歳―72歳)

(ぶん)()3年(1187年)の夏頃、約一年余に及ぶ奥州の旅から戻った西行法師は、伊勢にも高野山にも戻らず、京に入ったようである。晩年(ばんねん)は京の都近くで過ごしたいと思ったのだろう。嵯峨野に入って再び草庵を結ぶことになる。おそらく、()尊院(そんいん)が近くであったと想定される。ある意味で嵯峨野は、出家当初から暮らした場所で、第二の故郷(ふるさと)とも思っていたと考えられる。西行法師が高野山に戻らなかった理由を考えると、(そう)(こう)を得た正規な僧でもなく、隠居(いんきょ)生活を保障されていなかったことも一因(いちいん)と思われる。いずれしてもこの()(てん)では、嵯峨野を(つい)棲家(すみか)と考えたのは明らかであろう。

この頃の出来事としては、文治5年(1189年)9月初旬、源頼朝(よりとも)が藤原泰衡(やすひら)を討って奥州藤原氏は滅亡している。この年には、比叡山()(どう)()()(えん)大僧正(1155―1225年)を訪問している。西行法師を和歌の師と仰ぐ若輩者が多く、慈円もその1人で、藤原(とし)(なり)の子・定家(さだいえ)(1162―1241年)もそうである。西行法師は定家の和歌の才覚(さいかく)を評価していて、「宮河歌合」の判詞を依頼している。また、『(ほう)(じょう)()』の作者である鴨長明(かものちょうめい)(1155―1216年)は、伊勢二見浦の草庵を訪ねたが、丁度、西行法師が奥州に旅立った直後で、面会(めんかい)できなかったと言うエピソードがある。

274番、「おぼつかな 春の()(かず)の ふるままに 嵯峨野の雪は 消えやしぬらむ」

出典・『山家集』の春.歌20番目の歌で、詞書には「嵯峨にまかりたりけるに、雪ふかかりけるを見おきて()でしことなど申し(つか)はすとて」とある。この歌は、(しょう)(にん)法師(生没年不詳)との贈答歌で、晩年の作と推定した。静忍法師は、別称は(にん)西(さい)入道とも称され、西山から嵯峨野に移った草庵の友でもあった。分かり易い歌で、漢字に置きかえると、「覚束(おぼつか)ない春の日数の()るまま時が過ぎても嵯峨野の雪は消えませんね」と、(やく)する必要のない平明な言葉で歌を贈るのである。

かへし、「立ち帰り 君やとひくと 待つほどに まだ消えやらず 野辺(のべ)のあわ雪」 静忍法師

「奥州の旅から貴方(あなた)が帰られることを待っていました。(あだし)()の野辺では未だに雪が消えず淡雪(あわゆき)が舞っています」と、返したと解釈する。ちょと難解(なんかい)(へん)(とう)()であるが、西行法師に関わった人々は、奥州への勧請の旅を(しゅう)()していたと考える。

275番、「ぬしいかに (かぜ)(わた)るとて いとふらむ よそにうれしき 梅の(にほ)を」

出典・『山家集』の春.歌55番目の歌で、詞書には「嵯峨に住みけるに、道を(へだ)てて坊の侍りけるより、梅の風にちりけるを」とある。詞書から住んでいる草庵の前に()(ぼう)があったようで、その庭の梅を()でいる。「寺坊の(あるじ)は戸を閉じて、風が吹く渡る()(ぜい)を何で(いと)うのだろう。そんなことを他所(よそ)に、私の草庵に梅の香りが運ばれて来るのが(うれ)しい」と、風の(もたら)(さち)を詠んだ。

276番、「水無瀬(みなせ)(がわ) をちのかよひぢ 水みちて 船わたりする 五月雨の頃」

出典・『山家集』の夏歌69番目の歌で、「ある所にて五月雨(さみだれ)の歌十五首よみ侍りし、人にかはりて」と題した16首の3番目の歌でもある。「水無瀬河」は、水の無い川の代名詞であるが、この歌では、現在の大阪府(しま)(もと)(ちょう)にある水無瀬(みなせ)(がわ)を指し、歌枕の川としても知られる。嵯峨野嵐山の(おお)()(がわ)(桂川)は、下流で()()(がわ)()()(がわ)と合流して淀川となるが、その分流の一部が水無瀬川と呼ばれている。その川を、「普段は水が少ない船の(すい)()であるが、五月雨が降る頃は水路が満ちて船も往来する」と詠んだ。

277番、「やどしもつ 月の(ひかり)の 大沢は いかにいづとも ひろ沢の池」

出典・『山家集』の秋歌147番目の歌で、詞書に「同じこころを(へん)(じょう)()にて人々よみけるに」とある。「遍照寺」は、現在も広沢(ひろさわ)(のいけ)の南側に建っている小さな寺である。この歌は、校訂ミスとも思われる歌で、『西行全歌集』では3句目が「ををしさは」、4句目が「いかにいへども」となっている。『山家集』の歌は、「月の光を池が宿(やど)()つと思うと、大沢の池が如何(いかに)()でも広沢の池が宿す月の光が広い」と、池の月を()(かく)した歌とも読める。一方、『西行全歌集』の歌は、「月の光を池が宿し持つと思うと、その雄々(おお)しさは何を指しても広沢の池に及ばない」と、広沢池を()(たた)えた歌となる。『西行全歌集』の歌の方が正しいと思うし、大沢池は(みやび)な庭園の池で、広沢池は(ひな)びた灌漑(かんがい)の池の違いがある。

278番、「()れわたる 草のいほりに もる月を (そで)にうつして ながめつるかな」

出典・『山家集』の秋歌213番目の歌で、詞書に「月の歌あまたよみけるに」と題した42番の12番目の歌でもある。嵯峨(さが)()の草庵で詠まれた歌か(いな)かは確証できないが、何となく嵯峨野の草庵での歌と想定した。分かり易い歌で、そのまま、「荒れ果てた草庵に()れる月の明りを、()(こう)の涙にぬれた袖に写して眺めている」と読める。

279番、「ひとりすむ いほりの月の さし()ずば (なに)か山べの 友とならまし」

出典・『山家集』の秋歌249番目の歌で、「題しらず十一」の33首の6番目にある歌でもある。この歌も孤高の(いおり)を詠んでいるので、嵯峨野で詠まれたと想定した。「(ひと)り住む庵に月の光が()()まないと、何のための(やま)()の暮らしなのか分からず、月は()(こう)の友になる」と詠じた。「春は花 夏はととぎす 秋は月 冬雪()えて 涼しかりけり」と、道元(どうげん)禅師(1200ー1253年)の歌ではないが、四季折々が西行法師の友で、山川(さんせん)草木(そうもく)も友であったと痛感する。

280番、「玉がきは あけも緑も (うづ)もれて 雪おもしろき (まつ)()の山」

出典・『山家集』の冬歌69番目の歌で、詞書には「(しゃ)(とう)(のゆき)」とある。「松の尾」は、奈良時代に創建された(まつ)()神社で、元々は標高223mの(まつ)()(やま)の山頂に鎮座されていたようだ。嵯峨野から最も近い大社(たいしゃ)で、頻繁に参拝していたと思われる。この歌の意味は、「松尾神社(まえ)玉垣(たまがき)は、朱色の板垣(いたがき)も緑色の(かき)()も真っ白な雪に(なか)()もれている景色が面白い」と、解釈する。社殿のコントラストな景観を面白く眺めた()(せん)は、現在にも通じる()()(しき)である。

28ⅰ番、「つつめども 人しる恋や (おお)()(がわ) ゐせぎのひまを くぐる白波」

出典・『山家集』の恋歌175番目の歌で、「恋百十首」と題する中の28番目の歌でもある。「大井川」は、()(げつ)(きょう)を挟んだ上流の広い流域で、現在は大堰(おおぜき)(がわ)と呼ばれ、更に上流は()()(がわ)(保津峡)となっている。また、渡月橋の下流は、桂川と称されて複雑な川で、名称を統一(とういつ)した方が外国人観光客にも分かり易くなると思う。この歌は川の名前のように難解で、「(つつ)(かく)しても自分の恋は人の知ることになる。(たと)えるなら大井川の()(ぜき)(すき)()を白波が(くぐ)るようなものである」と、詠んだと解釈する。

282番、「いとどいかに 山を()でしと おもふらむ 心の月を (ひとり)すまして」

出典・『山家集』の雑歌119番目の贈答歌で、詞書には「(さき)大僧正()(ちん)()(どう)()に住み侍りけるに、申し(つか)しける」とある。「前大僧正慈鎮」は、()(えん)大僧正(1155―1225年)のことで、天台宗座主となった高僧である。西行法師よりは、37歳も年少であったが、西行法師を和歌の師と慕っていた。この歌は、「如何(いかに)に考えて()(えい)(ざん)を出まいと思っているのだろうか。心に宿る仏心(ぶっしん)を月の光明(こうみょう)のように独り()ましている様子に見える」と、詠んで贈ったエールに感じられる。

かへし、「うき身こそ なほ山陰(やまかげ)に しづめども 心にうかぶ 月を見せばや」 前大僧正慈鎮

憂世(うきよ)に浮いた我が身を(なお)も山陰に(ひそ)(しず)めているが、私の仏心に浮かぶ月の輝きを見せたいものです」と返したのである。天台宗の()(えん)大僧正は、西行法師との交流からライバル関係にあったにも関わらず、高野山真言宗の()(えい)()を作っている。

283番、「いにしへを こふる涙の 色に似て (たもと)にちるは 紅葉(もみじ)なりけり」

出典・『山家集』の雑歌220番目の歌で、詞書には「()紅葉(こうよう)懐旧(かいきゅう)といふことを、(ほう)金剛院(こんごういん)にてよみけるに」とある。「法金剛院」は、西行法師が思慕した(たい)賢門院(けんもんいん)(しょう)()(1101―1145年)が中興し、葬られた寺である。嵯峨野から離れてもおらず、待賢門院が作庭(さくてい)させた「(せい)(じょ)の滝」は、日本最古の人工滝として国の特別名勝に指定されている。その寺を参詣し、「(いにしえ)に恋しく思った時の涙は、真っ赤な色のように燃えて(たもと)を濡らした。いま袂に散るのはその時の紅葉(こうよう)である」と、述懐する。

284番、「(この)里や さがのみかりの (あと)ならむ 野山もはては あせかはりけり」

出典・『山家集』の雑歌228番目の歌で、詞書には「嵯峨野の、みし()にもかはりてあらぬやうになりて、人いなむとしたりけるを見て」とある。「さがのみかり」は、嵯峨の()(かり)と漢字表記される天皇の(しゅ)(りょう)()のようだ。その旧跡を訪ねて、「この里は、嵯峨野の狩猟場の跡と言う。野山も荒れ果てて()せ変ってしまった」と、昔に見た時の景色と異なった有様を詠んだ。

285番、「庭の(いは)に めたつる人も なからまし かどあるさまに たてしおかねば」

出典・『山家集』の雑歌229番目の歌で、詞書には「(だい)(かく)()の、金岡(かなをか)がたてたる石を見て」とある。「大覚寺」は、平安時代初期の嵯峨(さが)天皇の離宮が改められて真言宗の寺となった。「金岡」は、絵師の()(せい)(かな)(おか)のことで、大沢池の庭石(にわいし)(はい)したとされる。その庭石を眺め、「池の岩や石を目立(めだ)った場所に配置しなかったら人は気にも留めなかったであろう。金岡が石の(かど)を頂点した有様(ありさま)に立てなかったならば」と、庭石の見立(みた)てを詠んでいる。おそらく、名古曽の滝の石組みも金岡の作であろう。歌枕にもなっていて、西行法師も「今だにも かかりと()ひし (たき)つ瀬の その折までは 昔なりけむ」と、名古曽の滝を詠んでいる。

286番、「うらうらと しなんずるなと 思ひとけば (こころ)のやがて さぞとこたふる」

出典・『山家集』の哀愁歌98番目の歌で、「百首の歌の中に()(じょう)十首」と題した10首の8番目の歌でもある。この歌は、地名を記した詞書もなく、嵯峨野で詠まれた歌ではないが、歌の内容からして晩年に詠まれた歌であろう。()()(しょ)を失った秀歌なので、ここに(しゅう)(ろく)することにした。この歌は、「やすらかに死にたいと思うと、心はすぐさまそうだと答える自分がいる」と、無常よりも()(せい)(かん)を詠じた歌に感じる。人は誰でも生まれて来る選択(せんたく)はできないけれど、死に対する考え方は自由である。

287番、「うなゐ子が すさみにならす 麦笛(むぎふえ)の こゑにおどろく 夏のひるぶし」

出典・『聞書集』の166番目の歌で、「嵯峨に()みけるに、たはぶれ歌とて人々よみけるを」と題した13首の1番目の歌でもある。結句の「ひるぶし」は、昼伏(ひるぶし)と漢字表記されるので、昼寝を指す。この歌の意味は、「うない髪の子供が気ままに吹き()らす麦笛の音に、はっと(おどろ)いて夏の昼寝から目が覚めた」となる。うない髪は、12・3歳の子供がうなじで(たば)ねた髪形と言う。

288番、「竹馬(たけうま)(つえ)にも今日は たのむかな わらわ遊びを おもひいでつつ」

出典・『聞書集』の168番目の歌で、「嵯峨に()みけるに、たはぶれ歌とて人々よみけるを」と題した13首の3番目の歌でもある。西行法師は()(ちょう)(ふう)(げつ)を詠んだ歌が多いが、子供の遊びからヒントを得た作品は珍しい。この歌の意味は、「竹馬を今日は(つえ)()わりに(たよ)ることにしよう。子供の頃の遊びを思い出しながら」となる。竹馬はちょっと大きく重いので杖の代わりにならないと思うが、杖を必要とする年齢(ねんれい)になっていたようだ。
289番、「(むかし)せし かくれ遊びに なりなばや かたすみもとに よりふせりつつ」

出典・『聞書集』の169番目の歌で、「嵯峨に()みけるに、たはぶれ歌とて人々よみけるを」と題した13首の4番目の歌でもある。長く続いた戦乱(せんらん)も治まり、嵯峨野にも平和が戻って来た様子を感じさせる歌である。この歌は、「昔に遊んだ(かく)れんぼのようになればいい。草庵の片隅(かたすみ)にでも寄り伏せながら」と、童心(どうしん)に帰って戯れる様子を詠んでいる。

290番、「恋しきを たはぶれられし そのかみの いはけなかりし (おり)のこころは」

出典・『聞書集』の175番目の歌で、「嵯峨に()みけるに、たはぶれ歌とて人々よみけるを」と題した13首の10番目の歌でもある。詞書からは、西行法師の草庵に人々が集まって、(たわむ)れの歌をテーマに詠んだとあるので、四方山話(よもやまばなし)昔話(むかしばなし)に花が咲いていたと推察する。この歌は解釈に()(りょ)するが、「初恋をからかわれて赤面(せきめん)したことがある。その昔のあどけなかった心は何処に行ったのであろう」と、詠んだと解釈する。『山家集』の恋歌では268首の詠まれているが、何人(なんにん)の女性や男性を恋しく思ったのかが気になる所である。出家しても煩悩(ぼんのう)を捨てず、心の自由を(おう)()した姿も西行法師の魅力の1つである。

29ⅰ番、「はちす咲く みぎはの波の うちいでて ()くらむ(のり)を 心にぞ聞く」

出典・『聞書集』の34番目の歌で、詞書には「阿弥陀(あみだ)(きょう)」とある。いつ頃の作か、どこで詠まれたかも不明であるが、晩年の作と想定した。この歌は、(どう)()と呼ぶのが相応しく、「蓮の花の咲く池の(みぎわ)に風が吹くと、阿弥陀経の説く仏法(ぶっぽう)が心の(うち)に現れて、その清らかな声明(しょうみょう)を聞いている」と、(げん)()でも(ごく)(らく)(じょう)()が心の中にあると詠じた。

292番、「光させば さめぬかなへの ()なれども はちすの池と なるめるものを」

出典・『聞書集』の215番目の歌で、詞書には「阿弥陀の光願にまかせて、重業障(じゅうごっしょう)のものをきらはず、地獄をてらしたまふにより、地獄のかなへの湯、(せい)(れい)の池になりて、はちすひらけたるところを、かきあらはせるを見て」とある。(ぶん)()5年(1189年)の頃は、(ほう)(ねん)上人(1133ー1212年)が阿弥陀経を信奉して、浄土宗を(かい)(しゅう)してⅰ5年を経ていたので、西行法師も阿弥陀経に関心(かんしん)を寄せていたと思われる。上句の「かなへの湯」は、(かなえ)(古代中国の煮炊き用の器)の湯が沸騰(ふっとう)してひっくり返る様子から人々が混乱することを比喩している。詞書の「重業障」は、仏道の(さまた)げとなる(あく)(ぎょう)を重ねることを意味するようだ。詞書の訳は省略するが、歌の意味は、「阿弥陀仏(如来)が衆生(しゅじょう)を救わんとする(こう)(がん)()すと、常に()めない地獄の(かなえ)の湯でも極楽にある(はちす)の池のようになるものでしょう」と、阿弥陀仏を(さん)()した。

293番、「いかばかり あはれなるらむ ゆふまぐれ ただ一人(ひとり)ゆく 旅のなかぞら」

出典・『聞書集』の232番目の歌で、詞書には「(ちゅう)()の心を」とある。「中有」は、仏教用語で人が死んで次に生まれるまでの間の時間とされ、四十九日が通例(つうれい)のようである。この歌は、旅の中空(なかぞら)に中有を(あん)()させ、「どんなに哀れになるのだろうか、夕暮れて暗くなる旅路を(ひと)り行く私は、まだ中空にある」と、中空から生まれ変わる明日を詠じた。

294番、「(にお)てるや なぎたる朝に 見渡せば こぎゆくあとの 波だにもなし」

出典・『補遺』の69番目の歌で、詞書には「()(どう)()へ登りて大乗院(だいじょういん)のはなち()(うみ)を見やりて」とある。「鳰てるや」の鳰は、鳰は水鳥のカイツブリの名前であるが、この歌では琵琶湖の()(しょう)の鳰の海を指している。「無動寺」は、比叡山延暦寺の塔頭の1つで、大乗院はその住坊であった。当時は、()(えん)大僧正がいて、大乗院の(はな)ち出の客間から琵琶湖を眺めたようである。「琵琶湖が()り輝き()ぎとなった朝を見渡すと、、()ぎ行く船の波の跡さえ残らない」と、(すい)(ぼく)()のような静かさを詠んでいる。

295番、「萌えいづる 峯のさ(わらび) なき人の かたみにつみて みるもはかなし」

出典・『補遺』の103番目の歌で、詞書には「源氏物語の巻々を見るによめる」とある。2句目の「さ蕨」は、()を出したばかりのワラビで()(わらび)とも表記する。「源氏物語第四十八帖早蕨の部」で、宇治の(なかの)(きみ)が詠んだ、「この春は 誰にか見せむ 亡き人の 形見に摘める 嶺の早蕨」の歌を本歌取(ほんかとり)している。西行法師の歌は、「萌え()でている峯のサワラビを、亡き人の形見のように()むのは(はかな)いことかも知れない」と訳せるが、何となく贈答歌の返しのような歌の雰囲気である。

西行法師が(むらさき)(しき)()(973?ー1031年頃)の『源氏物語』を読んでいたのは、ちょっと()(がい)に思われる。平安時代末期となっても『源氏物語』は愛読されたようで、現在でも()るぎないファンがいるので、文学作品として日本第一ではないかと考える。その次ぎは藤原定家(さだいえ)の『小倉百人一首』か、松尾芭蕉翁の『おくのほそ道』と個人的には思っている。

嵯峨野の草庵には、何歳まで暮らしたかは定かではないが、藤原定家に依頼していた「宮河歌合」の(はん)()が完成したの(ぶん)()5年(1189年)ⅰ0月で、この時は河内(かわち)(ひろ)(かわ)(でら)で病床にあった時とされるので、その年の夏頃までは嵯峨野に居たと推測する。

弘川寺西行庵(ウェブのコピー)               弘川寺西行墓(ウェブのコピー)

(14)、(ひろ)川寺(かわでら)での終焉(72―73歳)

西行法師の終焉(しゅうえん)の地となったのは、河内国(かわちのくに)の弘川寺であった。現在の大阪府()(なん)(ちょう)にある真言宗(だい)()()の寺で、白鳳(はくほう)時代の(てん)()天皇4年(665年)に(えんの)行者(ぎょうじゃ)小角(おづぬ)によって開基されたと伝承される。西行法師が広川寺を訪ねたのは、文治4年(1188年)に後鳥羽天皇の病気平癒を祈祷して名声を得た(くう)(じゃく)上人(生年没不詳)を知ってのことであった。しかし、西行法師は文治5年(1189年)の秋頃から体調を(くず)し、弘川寺に(とど)まることになった。そして、翌年の文治6年(1190年)2月ⅰ6日(新暦3月31日)、釈迦が入滅した翌日、桜の花の咲いた頃に西行法師は弘川寺で入滅(にゅうめつ)する。享年73歳、その日は満月であったと言われ、同年の平清盛より9年も長生きし、完成したばかりの「宮河歌合」を(めい)()への土産(みやげ)として手にしていた。

その後の出来事としては、(けん)(きゅう)3年(1192年)7月、源頼朝は征夷大将になり鎌倉幕府を開いた。建久6年(1195年)2月には、東大寺大仏殿の落慶(らっけい)供養が行われ、源頼朝も参列している。鎌倉時代中期には、『西行物語絵巻』が完成され、後鳥羽上皇は、生まれながらの才能のある「生得(しょうとく)の歌人」と評した。しかし、後鳥羽上皇は、「承久(じょうきゅう)の乱」で鎌倉幕府軍に敗北して、子の土御門(つちみかど)上皇、(じゅん)(とく)上皇と共に配流となる。後鳥羽上皇は隠岐に流され崩御するが、どことなく崇徳院の悲話と重なる。

296番、「世の中を おもへばなべて 散る花の (わが)()をさても いづちかもせむ」

出典・『山家集』の春歌225番目の歌で、「(らっ)()の歌あまたよみけるに」と題した36首の32番目の歌でもある。(ひろ)川寺(かわでら)で詠まれたと断定できる歌は1首もなく、『弘川寺での終焉』章の5首は、西行法師の最後に相応(ふさわ)しい歌として選んだ。296番の歌は、「世の中を思うと、すべてが散る花のように(はかな)く、私の身もさてさてどうなることやら」と訳され、花のように(いさぎよ)く散れない人生を(あん)()している。この歌はまた、『新古今集』にも選ばれた秀歌でもある。

297番、「ひまもなく ふりくる雨の あしよりも 数かぎりなく 君が御代(みよ)かな」

出典・『山家集』の賀歌(がのうた)2番目の歌で、「(いわひ)」と題した13首の1首目の歌でもある。日本の国歌は、「君が代は 千代(ちよ)八千代(やちよ)にさざれ(いし)(いわお)となりて (こけ)のむぶまで」となっているが、『古今集』の賀歌にある読み人しらずの和歌から採られたことは知る人は少ないと思う。西行法師はその歌を知っていて、類似した歌を多く詠んでいる。その1首がこの歌で、(ちょく)(やく)すると、「(ひま)もなく()りしきる雨脚(あまあし)の長さよりも数限(かずかぎ)りなく続く君が御代である」となる。しかし、小石のさざれ石が岩の厳となって苔が生えて、無限に近い八千代まで続くと詠んだ歌の方が(すぐ)れていると思う。

298番、「山深く さこそ心は かよふとも ()まであはれは 知らむ物かは」

出典・『山家集』の雑歌249番目の歌で、「(さん)()のこころを」と題した4首の最後の歌でもある。『新古今集』の雑歌にも選集されていて、道歌と考えてもよい秀歌である。歌の大意は、「深山(しんざん)幽谷(ゆうこく)に心が()かれて(かよ)ったとしても、四季を通じて山居(さんきょ)しなれければ、物の(あわ)れや幽玄(ゆうげん)さを知ることはできない」となる。ただうわべの知識ではなく、実践(じっせん)して得た知識が大切と説いているのである。(しょく)人肌(にんはだ)の空海大師が、学者(がくしゃ)(はだ)最澄(さいちょう)大師と袂を()かったことにも共通する価値観である。

299番、「ひとすぢに こころのいろを ()むるかな たなびくわたる (むらさき)の雲」

出典・『聞書集』の144番目の歌で、「(じゅう)(らく)」と題した10首の1番目の歌でもある。1首目は(しょう)(じゅ)(らい)(らく)、2首目は(れん)()初開(しょかい)(らく)、3首目は身相神通楽(しんそうじんつうらく)、4首目は()(みょう)境界(きょうかい)(らく)、5首目は快楽無退(かいらくむたい)(らく)、6首目は引接(いんじょう)結縁(けちえん)(らく)、7首目は聖衆(しゅうじゅ)俱会(くえ)(らく)、8首目は見佛聞(けんぶつもん)法楽(ぼうらく)、9首目は(ずい)(しん)()(ぶつ)(らく)、10首目は増進佛(ぞうしんぶつ)道楽(どうらく)となっている。詳細については省略するが、極楽浄土の十楽の概念を詠んだもので、西行法師の仏教に対する知識は、気まぐれな()(そう)のイメージを(くつがえ)している。この歌は、誰でも理解できる言葉で、「一筋(ひとすじ)に心の色を染めるように専修(せんしゅう)念仏(ねんぶつ)をする。すると(たな)()き渡る紫の雲が来迎(らいごう)して浄土へと(みちび)く」と説いている。

300番、「ねがはくは 花の下にて (はる)()なん そのきさらぎの もち月の頃」

出典・『山家集』の春歌140番目の歌で、「(はな)の歌あまたよみけるに」と題した27首の18番目の歌でもある。また、『続古今集』の雑歌にも選ばれている。西行法師を代表する歌で、60歳頃に詠まれた歌ではあるが、()(せい)()そのもので、最後の歌に相応しく選んだ。4句目の「きさらぎ」は、旧暦(きゅうれき)の2月のことで、新暦(しんれき)では3月となる。西行法師のロマンは、「(ねが)いとするのは、桜の花が咲いている春に死にたい。その日は2月15日、月も満ちた望月(もつづき)の頃である」と詠じ、釈迦の入滅日に好きだった花と月に見守られて往生(おうじょう)したいと願ったのである。西行法師の()(らん)に満ち人生は、和歌を通じて多大な影響を日本人に与えた。

西行法師は入滅後、最も有名な歌人として語り継がれたが、その墓の存在は(しゅう)()されることはなかった。江戸時代に入った享保(きょうほう)17年(1732年)に、西行法師の足跡を訪ねて行脚(あんぎゃ)していた浄土真宗の僧・()(うん)(1673ー1753年)が弘川寺で「西行塚(墓)」を発見するのである。西行法師が入滅し、542年を()ていて、歴史的な発見となったのである。似雲は「西行堂」を建立し、墓守(はかもり)として生涯を閉じたのである。昭和61年(1986年)には、西行法師の800年(えん)()を記念して「西行記念館」が境内に建てられた。現在の弘川寺には、約1500本の桜が植栽(しょくさい)されているが、西行墓に桜がなかったのが残念に思われた。

(15)、西行法師の(でん)(しょう)()

西行法師の『山家集』にもない和歌を(さが)したところ、インターネットのウェブ情報などで81首もの伝承歌を見つけた。他にも色々とあったが()(さく)は省略した。伝承歌には、松尾芭蕉翁が西行作と信じきっていた歌もあって面白い。その伝承歌81首を下手(へた)な解釈を省略して紹介することにする。殆どが歌枕で、実際に訪ねたかは不明な場所もあるが、その所在地を併記する。

01「胡沙(こさ)吹かば くもりもぞする みちのくの えぞには見せじ 秋の夜の月」 蝦夷地の遠望、青森県外ヶ浜町

02「子を思う 涙の雨の 笠の上に かかるもわびし やすかたの鳥」 善知鳥(うとう)神社の歌碑、青森県青森市

03「富士見ずば ふじとはいわむ みちのくの (いわ)()の嶽を それとながめむ」 岩木山、青森県弘前市

04「問へば名を (いわ)()の山に 年を経て 朽ちや果てなん 谷の埋もれ木」 岩手山、岩手県盛岡市

05「陸奥(みちのく)の和賀と江刺の さかひこそ 川にはいなせ 山にはまた森」 稲瀬の渡し、岩手県奥州市

06「陸奥の (かと)岡山(おかやま)の ほととぎす 稲瀬の渡り かけて鳴くなり」 門岡山は不明、岩手県奥州市

07「陸奥の (たば)稲山(しねやま)の 桜花 よしのの外に かかるしらくも」 束稲山、岩手県平泉町

08「(にしき)()を 朽ちし昔を 思ひいで 俤にたつ 橋のもみじ葉」 錦木塚、秋田県鹿角市

09「象潟(きさかた)や 桜の花に うづもれて はなの上こぐ (あま)のつり舟」 象潟、秋田県にかほ市

10「月にそふ 桂男(かつらおとこ)の かよひ来て すすきはらむは 誰が子なるらん」 西行戻しの松、宮城県松島町

11「瀧の山 かへりもうでの 袖ふれて 石の鳥居も 細らぎやせし」 (りゅう)(ざん)()、山形県山形市

12「あかずして 別れし人の すむ里は ()()()の見ゆる 山の彼方か」 飯坂温泉、福島県福島市

13「陸奥の 宇多(うた)()(はま)の 片背貝 合せても見む 伊勢の爪白」 松川浦、福島県相馬市

14「陸奥の (たか)()の清水 来てみれば あほいのくきの 下にこそあれ」 高瀬の清水、福島県田村市

15「陸奥の ()()()の浜に 一夜寝て 明日や拝まむ 波立の寺」 波立海岸の歌碑 福島県いわき市

16「陸奥の 信夫の里に やすらひで 勿来(なこそ)の関を 越えへぞわずらふ」 勿来の関公園の歌碑、福島県いわき市

17「心ある 人に見せばや みちのくの ()(まつり)(やま)の 秋のけしきを」 矢祭山公園の歌碑、福島県矢祭町

18「世の人の 寝覚めせよとて 千鳥なく ()(ざか)の里の 近き浜辺に」 石名坂の歌碑、茨城県日立市

19「花紅葉 よこたてにして (やま)(ひめ)の 錦織りなす 袋田の滝」 袋田の滝、茨城県大子町

20「大田尻(おおたじり) 衣はなきが 裸島 沖吹く風に 身にはしまぬか」 鵜ノ島温泉の歌碑、茨城県日立市

2Ⅰ「おふ国分(くぼ)の 田ものの畦 名のみして ね覚せよとて 鳴く声ぞうき」 多賀市民プラザの歌碑、茨城県日立市

22「盛りには などか若葉は 今とても 心ひかるる (いと)(さくら)かな」 法輪寺の西行桜、栃木県大田原市

23「(いそ)遠く 海辺も遠き 山中に わかめあるこそ 不思議なりけり」 筑波山、栃木県つくば市

24「(ふか)(くさ)の 野辺の桜木 心あらば 亦この里に 黒染に咲け」 貴船神社の黒染桜、千葉県東金市

25「浅川を 渡れば富士の 影清く 桑の都に 青(あらし)吹く」 桑の都は八王子、東京都八王子市

26「柴松の 葛のしげみに 妻こめて となみが原に ()鹿(じか)鳴くなりむ」 正覚寺に歌碑 神奈川県相模原市

27「芝まとふ 葛のしげみに 妻こめて ()(かみ)()(はら)に 牡鹿鳴くな里」 砥上ヶ原は鵠沼附近、神奈川県藤沢市

28「甲斐(かい)が根の 麓の原は みな暮て 夕日残れる はじかのの山」 大和中学校の歌碑、山梨県甲州市

29「(つみ)(とが)を あらひ流して いさきよき 清き(うん)()や にこりなるらん」 海野は海野宿、長野県東御市

30「望月の ()(まき)の駒は 寒からじ 布引山を 北と思えば」 布引山釈尊寺(布引観音)、長野県小諸市

31「()(とし)経て 折々さらす 布引を けふ立ちこめて いつかきてみん」 布引観音の歌碑、長野県小諸市

32「花まつり 諏訪(すわ)わたりも あるものを いつを限りに すべきつららぞ」 諏訪湖、長野県諏訪市

33「駒か嶽 すそ野の森に 来て見れば ()(まち)か家に はやすなな草」 裾野の森は松本附近、長野県松本市

34「信濃なる 有明山(ありあけやま)を 西にみて 心細野の 道を急ぎぬ」 長峰山いこい広場公園の歌碑、長野県安曇野市

35「信濃(しなの)なる あかしの松の ありながら なそくらしなの 里といふらむ」 大日堂園地の歌碑、長野県千曲市

36「信濃なる 富士とは言わむ (かむり)()の 峯に一夜は 月は見むとぞ」 治田公園の歌碑、長野県千曲市

37「()()(やま)や うつや斧音の 遠くとも ふもとのおじか 小夜に見えつる寺」 佐野山薬師堂、長野県千曲市

38「信濃なる 花なし山の うぐひすは (おのれ)を春と しらでこそなけ」 柳原神社の歌碑、長野県長野市

39「立ち帰り 辺津の入り江に 舟とめて いくたびも見む 能登(のと)の島山」 穴水大宮の歌碑、石川県穴水町

40「(こし)にきて 富士とやいわん 角原の 文殊ヶ岳の 雪のあけぼの」 浅水町の歌碑、福井県福井市

41「思ひきや 富士の高嶺に (いち)()ねて 雲の上なる 月を見むとは」 源平盛衰記の歌、静岡県富士宮市、

42「西に行く 雨夜の月や あみだ笠 影を(おか)()の 松に残して」 岡部笠懸けの松、静岡県藤枝市

43「館山(かんざん)の 厳の松の 苔むしろ 都なりせば 君もきてみむ」 館山は館山寺温泉、静岡県浜松市

44「吹出でて 風はいぶきの 山の端に さそひ出づる 関の藤川(ふじかわ)」 伊吹山、岐阜県関ヶ原町

45「かくばかり 木陰すずしき 宮立ちを 誰が(あつ)たと 名づけ初めけむ」 熱田神宮、愛知県名古屋市

46「()(あが)りの 松に笠かけ ながむむれば 白浪よする しらつかの浜」 白塚の浜、三重県津市

47「疲れぬる 我を友呼ぶ ()(どり)()() 越えて(あう)()に 旅寝こそすれ」 千鳥ヶ瀬の歌碑、三重県多気町

48「昔より 菩提の(うえき) それながら 出し佛の 影ぞ残れる」 金剛座寺、三重県多気町

49「小夜(さよ)更けて たれその杜の ほととぎす 名のりかけても 過ぎぬなるかな」 (たれ)(その)(もり)の歌碑、三重県伊賀市、

50「あづさ弓 ひきし袂も ちからなく 射手(いて)の社に 墨の衣手」 射手神社の歌碑、三重県伊賀市

51「久かたの 天の長井田 くむ(しず)が 袖のつるべの 縄のみじかさ」 猪田神社の歌碑、三重県伊賀市

52「三熊野 御浜によする 白浪は 花の(いわ)()の これぞ白木綿」 花窟神社、三重県熊野市

53「水上は 清き流れの (さめが)()に 浮世の垢を すすぎてやみん」 醒ヶ井西行水、滋賀県米原市

54「この寺は ならぶはやしも なかりけり (いち)()の松に 青む芝草」 双林寺、京都市東山区

55「とくとくと 落つる岩間の 苔清水 くみほすほども なき(すま)()かな」 吉野山、奈良県吉野町

56「日も暮れて 心も暗き 道すから あかりそ見えし (ひかり)荒神(こうじん)」 光三宝荒神社、和歌山県橋本市

57「身のうさを 思う涙は ()(ふか)(やま) なげきにかかる 時雨なりけり」 和深山の長井坂、和歌山県すさみ町

58「まちきつる やがみのさくら 咲きにけり あらくおろすな 三栖(みす)の山風」 三栖王子の歌碑、和歌山県田辺市

59「萩原(はぎはら)や 野べより野辺に うつりゆく 衣にしたふ 露の月影」 内原王子神社、和歌山県日高町

60「津の国の (つづみ)()(たき)に 来てみれば 岸辺に咲ける たんぽぽの花」 有馬温泉の鼓ヶ滝、兵庫県神戸市

61「はるばると 鼓ヶ滝に きてみれば 岸辺に咲くや 白百合(しらゆり)の花」 川西の鼓ヶ滝、兵庫県川西市

62「(おと)に聞く 鼓ヶ滝を うちみれば 川辺に咲くや 白百合の花」 下滝公園の歌碑、兵庫県川西市

63「立渡る 浦風いかに 寒からむ 千鳥(ちどり)むれゐる ゆふ崎の浦」 曽根天満宮、兵庫県高砂市

64「天照らす 神さへここに 有明(ありあけ)の 月もさへぬる 秋の夜のそら」 増位山の歌碑、兵庫県姫路市

65「見渡せば 沖に絹巻 千歳松 波諸寄(もろよせ)に 雪の白浜」 ()()(なが)の歌碑、兵庫県新温泉町

66「明日もまた 山路なれば ()(むら)なる ゆにいざ入りて 一休(ひとやす)みせむ」 湯村温泉、兵庫県新温泉町

67「長船に 鍛冶(かち)する音の 聞ゆるは いかなる人の (きた)うんるらむ」 長船の歌碑、岡山県瀬戸内市

68「手にむすぶ (いわ)()の清水 底澄みて 行きかふ人の かげも涼しき」 歌の清水・御堂、広島県神石高原町

69「知らで見ば 富士とはいはむ 石見なる ()()()の嶽の 雪のあけぼの」 三瓶山、島根県大田市

70「宿りして ここに(かり)()の たたみ石 月はこよひの 主なりにけり」 屋島寺の歌碑、香川県高松市

71「讃岐(さぬき)では これをば富士と いいの山 朝げの煙 たたぬ日もなし」 飯野山(讃岐富士)、香川県丸亀市

72「月見よと (いも)の子どもの 寝入りしを 起しに来とが 何か苦しき」 七仏寺の歌碑、香川県善通寺市

73「笠はあり その身はいかに なりぬらん あわれはかなき (あめ)が下かな」 曼荼羅寺の歌碑、香川県善通寺市

74「山里の 秋の末にと 思ひしが (にが)しかりける 木枯らしの風」 水茎の岡、香川県善通寺市

75「忘れては 富士かとぞ思ふ これやこの 伊予(いよ)の高嶺の 峯の白雲」 余木崎神社の歌碑、愛媛県四国中央市

76「静かなる 山下影に 庵あり 雪粧(ゆきよそ)わせて 見る桜かな」 龍穏寺、愛媛県松山市

77「西に来て 杖笠(のこ)す この里の 初花桜 見捨てかぬれば」 天徳寺、愛媛県松山市

78「小萩より ゆすり出でたる 要川(かなめがわ) 扇のたかさ 浪やたつらん」 要川、福岡県みやま市

79「豊国(とよこく)の 由布の高根は 富士に似て 雲も霞も わかぬなりけり」 由布岳、大分県由布市

80「松浦(まつうら)(がた) これより西に 山もなし 月の入野や かぎりなるらん」 入野の歌碑、佐賀県唐津市

81「薩摩(さつま)かた 頴娃郡なる うつほ嶋 是や筑紫の ふじといふらむ」 開聞岳、鹿児島県指宿市

(16)、西行法師の(じん)(みゃく)

①『山家集』に関連(かんれん)する歴代天皇

()三条(さんじょう)天皇(1034―1073年)、84歳上、71代、後朱雀天皇の第2皇子、35歳で即位し40歳で崩御、後三条院

白河(しらかわ)天皇(1053―1129年)、65歳上、72代、後三条天皇の第1皇子、21歳で即位し77歳で崩御、出家、白河院

堀河(ほりかわ)天皇(1087―1107年)、31歳上、73代、白河天皇の第3皇子、8歳で即位し21歳で崩御

鳥羽(とば)天皇(1103―1156年)、15歳上、74代、堀河天皇の第1皇子、5歳で即位し54歳で崩御、出家、鳥羽院

()(とく)天皇(1119―1164年)、1歳下、75代、鳥羽天皇の第1皇子、5歳で即位し46歳で崩御、出家、崇徳院

近衛(このえ)天皇(1139―1155年)、21歳下、76代、鳥羽天皇の第9皇子、3歳で即位し17歳で崩御

()(しら)(かわ)天皇(1127―1192年)、9歳下、77代、鳥羽天皇の第4皇子、29歳で即位し66歳で崩御、出家、後白河院

()(じょう)天皇(1143―1165年)、25歳下、78代、後白河天皇の第1皇子、13歳で即位し23歳で崩御

(ろく)(じょう)天皇(1164―1176年)、46歳下、79代、二条天皇の第1皇子、1歳で即位し13歳で崩御

高倉(たかくら)天皇(1161―1181年)、44歳下、80代、後白河天皇の第7皇子、8歳で即位し21歳で崩御

安徳(あんとく)天皇(1178ー1185年)、60歳下、81代、高倉天皇の第1皇子、3歳で即位し8歳で崩御

()鳥羽(とば)天皇(1180ー1239年)、62歳下、82代、高倉天皇の第4皇子、4歳で即位し60歳で崩御

②『山家集』で追憶(ついおく)した人々

(ぎょう)()菩薩(668―749年)、法相宗の大僧正、24歳で出家、百済帰化人の末裔と伝承

空海(くうかい)大師(774―835年)、俗名は佐伯真魚(まお)、真言宗の開祖、別称は遍照金剛、31歳で出家

藤原(より)(ただ)(924―989年)、従一位の太政大臣、通称は三条太政大臣、藤原実頼の2男

(じゃく)(しょう)(962?―1034年)、俗名は大江定基(さだもと)、従五位の三河守、通称は三河の入道寂昭、27歳頃に出家、渡海し杭州で没

能因(のういん)(988―1105年頃)、俗名は橘永愷(ながやす)、26歳で出家(融因)、小倉百人一首の歌人

(りょう)(ぜん)(998―106年頃)、祇園社別当、大原の雲林院に隠棲、小倉百人一首の歌人

(つね)(のぶ)(1016―1097年)、正二位の大納言・太宰権帥、源道方の6男、小倉百人一首の歌人

明算(めいざん)(1021―1106年)、高野山検校、中院流祖、11歳で出家、紀野国田仲庄(現・紀の川市)の出身

周防(すおう)(ない)()(1037―1111年頃)、本名は平(ちゅう)()、後冷泉院の女房、72歳頃に落飾、平棟仲の娘、小倉百人一首の歌人

(りょう)(ぜん)(1048―1139年)、第22世高野山検校、明算の弟子、11歳で出家、紀野国那賀郡の出身

(ぎょう)(そん)(1055―11335年)、通称は平等院大僧正、熊野三山検校・天台宗座主、小倉百人一首の歌人

③『山家集』に関連または登場(とうじょう)する人々

藤原(ため)(たか)(1070―1130年)、48歳上、従三位の参議、61歳で出家後死亡、藤原為房の長男

藤原(むね)(すけ)(1077―1162年)、41歳上、従一位の太政大臣、通称は京極太政大臣、藤原宗俊の次男

藤原定信(さだのぶ)(1088―1156年)、30歳上、従四位の宮内権大輔、通称は世尊寺定信、書家、64歳で出家、藤原定実の長男

(かく)()(1090―1146年)、28歳上、東大寺少僧都、源顕房の庶子

藤原(あき)(すけ)(1090―1155年)、28歳上、正二位の左京太夫、藤原顕季の3男、小倉百人一首の歌人

覚法(かくほう)法親王(1091―1153年)、27歳上、仁和寺第4世門跡、14歳で出家、白河天皇の第4皇子

(ただ)(もり)(1096―1153年)、22歳上、正四位の刑部卿、平清盛の父

徳大寺(さね)(よし)(1096―1157年)、22歳上、従一位の左大臣、徳大寺家の祖、待賢門院の異母兄

藤原成通(なりみち)(1097―1162年)、21歳上、正二位の大納言、通称は大納言入道、蹴鞠の名手((しゅう)(せい))、63歳で出家((せい)(れん))

待賢門院(しょう)()(1101―1145年)、17歳上、藤原公実の娘、白河法皇の養女で愛妾、鳥羽天皇の中宮、42歳で落飾

待賢門院堀河(ほりかわ)(生没年不詳)、年齢差不詳、別称は斎院六条、待賢門院と一緒に落飾、源顕仲の娘、小倉百人一首の歌人

待賢門院中納言の(つぼね)(生没年不詳)、年齢差不詳、小倉に隠棲後に天野に移住と伝承

上西門院(ひょう)()(?―1184年頃)、年齢差不詳、兵衛の局、女流歌人、源顕仲の娘

(ただ)(すえ)(?―1150年頃)、年齢差不詳、宮内大輔、源顕仲の次男

藤原基衡(もとひら)(1105―1157年)、13歳上、出羽陸奥押領使、藤原清衡の次男

信西(しんぜい)(1106―1160年)、12歳上、俗名は藤原(みち)(のり)、正五位の少納言、39歳で出家(円空)、藤原実兼の長男

藤原(ちょう)()(?―1166年)、年齢差不詳、二位の局、藤原兼永の娘、藤原通憲(信西)の妻

藤原(いえ)(なり)(1107―1154年)、11歳上、正二位の中納言、48歳で出家して死去、藤原家保の3男

西(さい)(じゅう)(1108?―1173年頃)、約10歳上、俗名は源(すえ)(まさ)、右兵衛尉、醍醐寺理性院の僧、33歳頃に出家、源季貞の子

藤原(のり)(なが)(1109―?年)、9歳上、正三位の右中将、54歳で出家、藤原忠教の次男

(くう)(にん)(1110―?)、8歳上、俗名は中臣(なかとみの)(きよ)(なが)、正六位の神祇官、別称は少輔別当入道、嵐山法輪寺の住持

(しょう)(みょう) (1112―1187年頃)、6歳上、俗名は藤原(ちか)(しげ)、従五位の美濃権守、62歳頃に出家、阿闍梨勝命

(しゅん)()(1113―1191年頃)、5歳上、東大寺の僧で歌人、通称は俊恵法師、源俊俊頼の子

(りょう)(にん)(1114?―1209年)、4歳上、伊勢神宮寺の住持、通称は菩提山上人

藤原(とし)(なり)(1114―1204年)、4歳上、正三位の皇太后宮太夫、63歳で出家(釈阿)、五条三位入道、小倉百人一首の歌人

(じゃく)(ねん)(1114―?)、4歳上、俗名は藤原為業(ためなり)、従五位の皇太宮大進、44歳頃に出家、藤原為忠の次男、大原三寂

徳大寺(きん)(よし)(1115―1161年)、3歳上、正二位の右大臣、実能の長男、歌人、娘の(よし)()は後白河天皇の皇后

寂超(じゃくちょう)(1115―?)、3歳上、俗名は藤原(ため)(つね)、従五位の皇太宮少進、30歳頃に出家、藤原為忠の3男、大原三寂

佐藤(のり)(やす)(1116―1140年)、2歳上、左兵衛尉、西行(佐藤義清)の従兄

美福門院(とく)()(1117―1160年)、1歳上、藤原長実の娘、鳥羽天皇の皇后、40歳頃に落飾

寂然(じゃくぜん)(1118?―1182年頃)、同年代、俗名は藤原頼業(よりなり)、従五位の壱岐守、36歳頃に出家、藤原為忠の4男、大原三寂

清盛(きよもり)(1118―1181年)、同年代、従一位の太政大臣、別称は六波羅太政入道、51歳で出家(浄海)、平忠盛の嫡男

西行(さいぎょう)(1118―1190年)、本人、俗名は佐藤(のり)(きよ)、左兵衛尉、23歳で出家(円位)、佐藤康清の長男、小倉百人一首の歌人

(しょう)(にん)(生没年不詳)、年齢差不詳、別称は忍西入道、西山と嵯峨野に隠遁

(ぎょう)(れん)(生没年不詳)、年齢差不詳、別称は法橋行遍

(けん)(けん)(生没年不詳)、年齢差不詳、俗名は藤原顕兼、通称は兼賢阿闍梨、仁和寺住持

六角(ろっかく)の局(生没年不詳)、年齢差不詳、亮子内親王の女房

江口の(たえ)(生没年不詳)、年齢差不詳、江口の遊女、平資盛の娘と伝承

藤原頼長(よりなが)(1120―1196年)、2歳下、従一位の左大臣、通称は(あく)()()、藤原忠実の3男、保元の乱で敗死

重源(ちょうげん)(1121―1206年)、3歳下、東大寺大勧進職、房号は俊乗房、13歳で出家、入宋3度、

藤原秀衡(ひでひら)(1122?―1187年)、4歳下、従五位の鎮守府将軍・陸奥守、藤原基衡の嫡男

(こう)()法眼(1125―?年)、7歳下、興福寺法雲院の住持、徳大寺家の出身

(かく)(しょう)法親王(1129―1169年)、11歳下、仁和寺第5世門跡、7歳で出家(信法)、鳥羽天皇と待賢門院の皇子

(とき)(ただ)(1130?―1189年)、12歳下、正二位の権大納言、平清盛の妻・徳子は姉

藤原基家(もといえ)(1132―1214年)、14歳下、正二位の権中納言、別称は持明院基家、70歳で出家(真智)、藤原通基の3男

八条院(しょう)()親王(1137―1211年)、19歳下、鳥羽天皇・美福門院の皇女、20歳で落飾

藤原(なが)(のり)(1143―?年)、25歳下、正三位の参議、41歳で出家、藤原通憲(信西)の5男

(いん)(しょう)()(ごん)の局(生年没不詳)、年齢差不詳、藤原通憲(信西)と藤原朝子(二位の局)の娘

頼朝(よりとも)(1147―1199年)、29歳下、従二位(西行訪問時)、正二位の征夷大将軍、52歳で出家後に死去、源義朝の3男

(みち)(ちか)(1149―1202年)、31歳下、正二位の内大臣、別称は土御門内大臣、源雅通の3男

(とう)(れん)(?―1181年頃)、年齢差不詳、近江阿弥陀寺に住持

(りゅう)(しょう)(生年没不詳)、醍醐寺理性院の僧都、西行法師の子と伝承

(くう)(じゃく)(生年没不詳)、弘川寺住持、年齢差不詳、文治4年(1188年)後鳥羽天皇の病気平癒を祈願

(じゃく)(れん)(1151―1184年)、 33歳下、俗名は藤原定長(さだなが)、従五位の中務少輔、30歳頃に出家、小倉百人一首の歌人

(かく)()(1151―1184年)、33歳下、初めの法名は(がん)(しょう)、通称は宮法印、12歳で出家、崇徳天皇の第5皇子

荒木田(うじ)(よし)(1153―1222年)、35歳下、伊勢神宮内宮神官

藤原泰衡(やすひら)(1153―1189年)、37歳下、出羽陸奥押領使、藤原秀衡の次男

鴨長明(かものちょうめい)(1155―1216年)、37歳下、従五位の神官、49歳で出家(蓮胤)、『方丈記』の作者

()(えん)(1155―1225年)、37歳下、通称は()(ちん)和尚、大僧正で天台宗座主、小倉百人一首の歌人

藤原定家(さだいえ)(1162―1241年)、44歳下、正二位の権中納言、藤原俊成の次男、小倉百人一首の選者

九条(よし)(つね)(1169―1206年)、51歳下、従一位の太政大臣、九条兼実の次男、小倉百人一首の歌人

(17)、西行法師の旧跡(きゅうせき)

①草庵と堂宇

分水の西行堂 大正5年(1916年)に来訪に因み新築、トタン葺切妻造平屋建て、新潟県燕市

正覚山永楽寺の西行庵 建築年不明(比較的最近)、瓦葺寄棟造平屋建て、西行坐像を安置、和歌山県橋本市

天野の西行庵 昭和61年(1986年)に新築、平成18年(2006年)に改修、瓦葺切妻造平屋建て、和歌山県かつらぎ町

東山の西行庵 明治26年(1893年)に移築、昭和58年(1983年)に改修、茅葺寄棟造平屋建て、東山の西行堂(花月庵) 

明治26年(1893年)に新築、茅葺寄棟造平屋建て、西行坐像を安置、双林寺の飛び地、京都市東山区

吉野山の西行庵 建築年不明、杮葺宝形造平屋建て、西行坐像を安置、奈良県吉野町

弘川寺の西行堂 享保16年(1731年)に似雲法師が建立、茅葺寄棟造平屋建て、西行坐像を安置、昭和61年(1986年)に西行記念館が開館、入母屋造平屋建て、大阪府河南町

玉泉院の西行庵(久松庵)  建築年不明、瓦葺宝形造平屋建て、香川県善通寺市

水茎の岡の西行庵 平成元年(1989年)に再建、銅版葺宝形造平屋建て、香川県善通寺市

大田の西行堂 寛政4年(1792年)に建築、瓦葺入母屋造平屋建て、西行坐像を安置、島根県大田市

呉の西行庵 平成元年(1989年)にグリーンピアせとうちに新築、板葺切妻造平屋建て、西行立像を安置、広島県呉市

②草庵跡と屋敷跡

野田の西行屋敷跡 野田の玉川に因んだ伝承、岩手県野田村

船形の西行庵跡 西行法師の没後に奥州行脚で逗留した縁で豪族が西行寺を開基、千葉県館山市

小石川の西行庵跡 小石川後楽園が造園される以前に草庵があったと伝承、東京都文京区

南部の西行庵跡 西行公園にある西行跡で富士山を詠んだ歌碑が建つ、山梨県南部町

永田の西行庵跡 梅露庵公園にある西行庵跡で西行塚も合わせて伝承、岐阜県恵那市

田口の西行庵跡 福王山の麓に草庵を結んだと伝承、三重県菰野町

二見の西行庵跡 廃寺となった安養寺にあったと伝承、三重県伊勢市

西行谷の西行庵跡 松尾芭蕉翁も訪ねた神照寺跡にあったと伝承、三重県伊勢市

大江の西行屋敷跡 旧東海道沿いの瀬田小学校前に石碑が立つ、滋賀県草津市

竹田の西行寺跡 出家前の邸宅跡とされて江戸時代に西行寺が建立、京都市伏見区

二尊院の西行庵跡 昭和38年(1963年)に記念碑のみ建立、京都市右京区

西光寺の桜元庵跡 西行法師の草庵跡と伝承 京都市西京区

王越の西行庵跡 四国行脚の折に滞在したと伝承、香川県坂出市

③主な名所や旧跡

西行戻しの松公園 宮城県松島町、滝山三百坊跡 歌碑 山形県山形市、矢祭山公園 歌碑 福島県矢祭町、芦野遊行柳 歌碑 栃木県大田原市、西行戻し石 歌碑(稲荷神社) 栃木県日光市、西行法師見返りの松(永福寺) 石碑 埼玉県杉戸町、西行杉(あじさい公園) 埼玉県越生町、西行塚(長心寺) 東京都八王子市、西行もどりの松 石碑 神奈川県藤沢市、正覚寺(俳句寺) 歌碑 神奈川県相模原市、鴫立庵 歌碑 神奈川県大磯町、西行桜(戸隠神社) 長野県長野市、釈尊寺(布引観音) 歌碑 長野県小諸市、西行硯水公園 岐阜県恵那市、西行塚(長国寺) 岐阜県恵那市、清見潟跡(清見寺) 静岡県静岡市、西行法師笠懸の松 静岡県藤枝市、小夜の中山公園 歌碑 静岡県掛川市、西行岩(舘山寺) 静岡県浜松市、伊良湖岬 歌碑 愛知県田原市、西行戻り地蔵 石川県加賀市、色の浜(本隆寺) 歌碑 福井県敦賀市、二見浦 歌碑 三重県伊勢市、答志島(碁石浜) 歌碑 三重県鳥羽市、比叡山無動寺 滋賀県大津市、下鴨神社 京都市左京区、北白川天神宮 歌碑 京都市左京区、仁和寺雲林院 京都市右京区、法金剛院 京都市右京区、西行井戸(広源寺) 歌碑 京都市右京区、大沢池(大覚寺) 京都市右京区、雙林寺 供養塔 京都市左京区、長楽寺 京都市左京区、松尾大社 京都市西京区、西行桜(法輪寺) 京都市西京区、西行桜(勝持寺) 京都市西京区、四天王寺 大阪市天王寺区、住吉大社 大阪市住吉区、弘川寺 西行墓 大阪府河南町、昆陽池公園 歌碑 兵庫県伊丹市、増位山頂展望台 歌碑 兵庫県姫路市、潮崎の浜(淡路島) 歌碑 兵庫県南あわじ市、西行桜(高野山三昧堂) 和歌山県高野町、龍蔵院 生誕碑 和歌山県紀の川市、西行腰掛岩 岡山県瀬戸内市、三津浜 歌碑 香川県三豊市、西行法師像(渋川海岸) 岡山県玉野市、崇徳天皇白峯陵 香川県坂出市、善通寺 香川県善通寺市、厳島神社 広島県廿日市市など。

(18)、参考資料と関連する()()(しゅう)など

①引用和歌集と参考書

『新訂山家集』佐佐木信綱校訂、岩波文庫(昭和3年初版)、山家集(1726首)、聞書集(285首)、残集(39首)、補遺(119首)、他の歌集からの補選が多く、歌数や歌の順番も新潮社版山家集とは大きな隔たりがあると聞く。

『西行全歌集』久保田淳・吉野朋美校注、岩波文庫(平成25年初版)、山家集(1552首)、聞書集(263首)、残集(32首)、御裳濯河歌合(77首)、宮河歌合(74首)、拾遺(307首)

『日本の絵巻19西行物語絵巻』小松茂美編集、中央公論社(昭和63年発行)

②参考にしたウェブ情報

「ウィキペディアフリー百科事典」、「西行ゆかりの地」、「西行の和歌―出家と草庵をめぐってー」、「入道西行をめぐって」、「菅江真澄が採集した西行伝承」、「百首繚乱~百人一首の雑学」、「西行と熊野・伊勢移住」、「西行の大峰修行をめぐって」、「高野山大学図書館蔵の翻刻と紹介」、西行の京師」、「隆聖僧都と西行」、「高野山における西行」、「あの人の人生を知ろう~西行法師」、「西行四国行脚の旅程について」、「西行法師の遺跡一覧」、「千人万首―西行」、「詩人の妄執―佐藤義清遁世考―」など。

③関連和歌集及び関連書籍

『山家集』西行自選集、松屋本(写本)、室町時代、1252首・独自歌69首

『山家集』西行自選集、陽明文庫本(写本)、江戸時代初期、1552首

『山家集』西行自選集、細川幽斎奥書本(写本)、慶長3年(1598年)、収歌数不明

『西行上人集(聞書集)』、伝寂連選、治承2年(1178年)頃、山家集の原形本、597首、所蔵者不明(国宝)

『西行上人集』選者不明、李花亭文庫本、鎌倉時代中期、697首

『西行法師歌集(異本山家集)』選者不明、建久元年(1190年)頃、山家集の原形本、787首

『山家心中集』西行自選集、治承2年(1178年)、374首(他者詠14首)、写本個人所蔵(国重要文化財)

『聞書集』藤原俊成書、鎌倉時代初期、263首(連歌2首・他者詠149首)、天理大学所蔵(国重要文化財)

『残集』藤原俊成書、鎌倉時代初期、32首(連歌7首)、冷泉家所蔵(国重要文化)

『御裳濯河歌合』藤原俊成の判詞、文治3年(1187年)頃、西行歌(72首)

『宮河歌合』藤原定家の判詞、文治5年(1189年)、西行歌(72首)

『六家集』藤原俊成選、鎌倉時代初期、西行歌(1572首)

『詞花和歌集』勅選(崇徳上皇)、藤原顕輔選、久安6年(1150年)頃、西行歌(1首)

『千載和歌集』勅選(後白河上皇)、藤原俊成選、文治4年(1188年)、西行歌(18首)

『新古今和歌集』勅選(後鳥羽上皇)、藤原定家他4名選、承元4年(1210年)頃、西行歌(94首)

『新勅撰和歌集』勅選(後堀河天皇)、藤原定家選、嘉禎2年(1235年)、西行歌(27首)

『玉葉和歌集』勅選(伏見天皇)、京極為兼選、正和元年(1312年)、西行歌(57首)

『風雅和歌集』勅選(花園上皇)、光厳天皇選、正平4年(1349年)、西行歌(13首)

『二十一代集』勅選(不明)、選者(不明)、吉野時代(南北朝時代)、西行歌(267首)

『西行上人談抄』蓮阿著、享保18年(1733年)、西行の歌論書

『山家集』後藤重郎校注、新潮社(昭和57年発行)、1500首を収録

(あと)()

西行法師が武士の道をリタイヤし、自分の()いたレールを歩いたように、私の尊敬する人々にはそう言う人が多い。空海大師(774―835)は、高級官僚の道を捨て、日本真言宗を開祖した偉大な宗教家となった。松尾()(しょう)(おう)(1644ー1695年)も下級武士の身分を捨て、(はい)(かい)()として最大の門弟を抱える蕉門(しょうもん)を開いた。また、好きな人物としては、新撰組の土方(とし)(ぞう)(1835―1869年)は、薬の行商人から最後の武士と称されるサムライになった。封建(ほうけん)時代の身分制度に縛られた世の中で、それぞれが自由な道を歩んだことに感銘を受ける。やはり底辺から努力して()い上がり歴史に名を残した人物は尊い。

西行法師は、73年の生涯で約22000首の歌を詠んだとされる。近代歌人の与謝野(よさの)(あき)()(1878―1942年)と比較すると、与謝野晶子は65年の生涯で約50000首も詠んだと言われる。14歳から詠んだと()(てい)すると、1日2・5首を詠んだ計算になる。西行法師の歌碑(かひ)は、日本全国に146基あるが、与謝野晶子の場合は125基と、西行法師よりは少々少ない。

因みに松尾芭蕉翁の句碑(くひ)は、3200基以上と日本最多を誇る。西行法師と松尾芭蕉翁が崇拝した弘法大師の像は、実際に調査されていないけれど、修行大師像を含めると、最低でも2万体はあるであろう。また、高野山(こうやさん)の奥ノ院には、松尾芭蕉翁の句碑、与謝野晶子の歌碑があるけれど、西行法師の歌碑がないのは(さみ)しい限りである。

今回の『新西行物語』の執筆で、殆どの蔵書(ぞうしょ)を処分したので、()(もと)にあったの本は、佐佐木信綱校訂の『新訂山家集』と『日本の絵巻19西行物語絵巻』の2冊だけであった。他の資料はインターネットのウェブ情報に(たよ)った。西行法師の和歌に関しては、好きな歌を10首ほどしか暗唱(あんしょう)しておらず、未知との出会いでもあった。しかし、『新訂山家集』は、ひらがなが多く、漢字にすれば理解できる歌も多かった。これできはいけないと思い、『西行全歌集』を入手(にゅうしゅ)した。すると、『新訂山家集』の不備の点が結構見つかり、2冊を併用(へいよう)して何とかまとめることが出来た。『新訂山家集』は、出版から95年も()つので、ベターな

山家集と言えない。その点、『西行全歌集』は、平成25年(2013年)の出版なので比較的新しく、(すぐ)れた山家集であると思う。西行法師の和歌は、平明で分かり易い歌が多く、掛詞以外はあまり技巧を()らしていない。多くの都の歌人は、見た事もない歌枕を想像して詠んでいるが、西行法師は実際に歌枕(うたまくら)を訪ね詠んでいる違いは大きい。今回は自分自身が西行法師を学ぶためにその生涯を追ってみたが、()(じつ)と合致していな点があったこと、歌の解釈が正確でなかったことをご容赦(ようしゃ)も願いたい。西行法師ファンにとって、それぞれの西行像(さいぎょうぞう)があって良いと考えるし、それぞれの学び方があると思う。

令和5年(2023年)8月5日、編集終了

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