城郭その2 長句(短歌・狂歌)
八戸に 中世の城 根城あり 国の史跡で 一部復元(根城/城郭1) 41歳
築城は 南部師行 鎌倉期 八戸南部氏 初代でもあり(同上)
青森の 三戸城の 築城は 南部晴政 戦国中期(三戸城)
綱御門 平成元年 復元す 木造二階 大手門なり(同上)
模擬天守 昭和中期築 資料館 三層三階 コンクリートで(同上)
国史跡 七戸城の 築城は 南部政光 鎌倉後期(七戸城跡)
江戸中期 代官所となり 城郭は 櫓を残し 陣屋に移行(同上)
沼の柵 出羽清原氏 築城で 後三年の役 戦場となり(沼の柵跡)
城跡は 蔵光院の 境内に 城門変じて 楼門が建つ(同上)
草むらに 後三年の役 埋もれて 兵の夢 何と聞くらん(同上)
江戸前期 弘前城が 築城す 津軽信枚 父の意志継ぎ(弘前城)
小天守 櫓城門 九棟は 国の重文 城は史跡で(同上)
雪もよし 花もまたよし 弘前の お城の中で 酒を飲む時(同上)
胆沢城 平安初期に 田村麻呂 築城をした 出羽の政庁(胆沢城跡)
見渡せば 春風そそぐ 城の跡 周辺田んぼ 今も変わらじ(同上)
尾花沢 延沢城の 築城は 戦国中期 延沢氏とか(延沢城跡)
久保田城 御隅櫓が 建てられて 二十万石 それらしく見え(久保田城)
絵図になき 三層四階 模擬天守 御隅櫓は コンクリートで(同上)
江戸前期 新庄城の 築城で 六万石の 戸沢氏による(新庄城跡)
絵図見れば 四面水濠 櫓建ち 天守焼失 再建されず(同上)
室町期 岩出山城 築城で 伊達政宗が 一時居城に(岩出山城跡)
城跡の 政宗像は 老いた顔 当時政宗 三十五歳(同上)
鎌倉期 白石城の 築城で 仙台藩の 支城の一つ(白石城)
城門と 三階櫓 再建す 平成前期 政宗ブームに(同上)
鎌倉期 八柏城は 築かれて 城と言うより 館の跡で(八柏城跡)
角館 古城山の 築城は 室町中期 戸沢氏による(古城山)
秋なれば 桜紅葉に 菊まつり 弘前城の 四季を満喫(弘前城/城郭2) 49歳
三日月が 満月となり 弘前を 入りて出て行く 短期の仕事(同上)
まほろばの 唐松城は 中世の 能楽殿と 主殿再現(唐松城)
淀城は 江戸元和期の 築城で 五層六階 天守が聳え(淀城跡)
戦国期 花隈城は 築かれて 僅か十二年 廃城となり(花隈城城跡)
刀傷 受けるが度に 加増さる 藤堂高虎 三十万石(津城)
戦国期 津城築かれ 江戸前期 高虎により 改修されて(同上)
人目引く 模擬隅櫓 三重で 昭和中期の コンクリート造(同上)
伊勢の国 松阪城の 築城は 蒲生氏郷 桃山時代に(松阪城跡)
江戸時代 紀州藩の 城となり 十八万石 陣屋建てられ(同上)
城跡に 建屋の遺構 無いものの 附近に神官 邸宅門が(同上)
鎌倉期 亀山城の 築城で 伊勢の地頭の 関実忠が(伊勢亀山城)
江戸時代 亀山藩の 城となり 九家の城主 入れ替わるなり(同上)
桑名城 本多忠勝 築城で その後親藩 城主を務め(桑名城跡)
国史跡 小牧山城 築城は 織田信長が 永禄年に(小牧山城)
模擬天守 昭和中期の 建設で 展望兼ねた 歴史資料館(同上)
大手道 試掘調査の 成果かな 永禄年の 石垣掘られ(同上)
国史跡 犬山城の 築城は 戦国初期に 織田信康が(犬山城)
叶わざる 願いとなるや 雪景色 白帝城の 花雲の上(同上)
天守閣 三層四階 地下二階 望楼型の 複合式で(同上)
国宝は 守るが国の 常なれど どうにもならぬ 個人所有は(同上)
上流に 犬山橋と 成田山 犬山市内 名所が多く(同上)
白壁の 白帝文庫 土蔵には 六千点の 家宝ありきと(同上/城郭3) 51歳
桑名にて 七里の渡し 訪ねたら 思いも寄らぬ 蟠龍櫓(桑名城跡)
模擬櫓 河川水門 管理棟 国交省の 粋な計らい(同上)
室町期 岡崎城は 築城で 徳川家康 生誕の城(岡崎城)
天守閣 昭和中期の 再建で 三層五階 コンクリート造(同上)
歴史的 建造物は 無いけれど 城郭協会 五十名城(同上)
江戸前期 水口城の 築城で 将軍上洛 宿館として(水口城)
二階建て 乾矢倉は 再移築 平成前期 資料館にと(同上)
大手門 平成前期 復元で 木造二階 入母屋造り(掛川城)
遠江 掛川城の 築城は 室町後期 朝比奈氏とか(同上)
天守閣 三層四階 望楼で 平成前期 木造復元(同上)
珍しき 二ノ丸御殿 現存す 江戸後期築 国の重文(同上)
江戸時代 掛川藩の 政庁に 十三家もの 藩主入れ替わる(同上)
城郭の 建造物は ほぼ揃い 肩並べるは 高知城かな(同上)
神戸城 戦国初期の 築城で 織田信孝の 夢の城跡(神戸城跡)
明治まで 一万余石の 神戸藩 今は鈴鹿の 公園となり(同上)
一夜城 墨俣城の 別名で プレハブ工法 初めての城(墨俣城)
秀吉の 若き時代を 偲ぶには あまりに立派な 墨俣の城(同上)
模擬天守 平成期築 資料館 四層六階 大垣城似(同上)
岐阜城は 鎌倉時代の 山城で 戦国時代 信長改修(岐阜城/城郭4) 52歳
岐阜城は 金華山 山頂で ロープウェイに 乗るも楽しみ(同上)
模擬天守 昭和中期の 再建で 三層四階 コンクリート造(同上)
名古屋城 江戸慶長期 築城で 特別史跡 旧国宝で(名古屋城)
正門は 半切妻の 大手門 昭和中期に 天守と再建(同上)
空襲で 失われたる 金鯱城 再建しても 惜しまれるかな(同上)
大天守 五層七階 地下一階 千鳥と唐の 破風重なりて(同上)
この年は 百名城が 選ばれる 古代と近世 同じ土俵に(同上)
天守閣 尾張徳川 栄華見る 十七代の 六十万石(同上)
駅前に 高層ビルが 四棟も 城から見える 名古屋の景色(同上)
隅櫓 空襲逃れた 三棟と 門三棟が 国の重文(同上)
駅降りて 向かった先は 名古屋城 庭を学んだ 若き日の旅(同上)
二之丸の 庭園は良く 保存され 戦後間もなく 国名勝に(同上)
城郭の 庭園として 最大で 九千坪の 回遊式で(同上)
名古屋城 本丸御殿 再建の 計画ありて 楽しみは増す(同上)
二之丸の 東二之門 珍しき 江戸前期築 高麗門で(同上)
名古屋城 復元改築 成されれば 首里城に次ぐ 世界遺産に(同上)
吉田城 室町後期 築城で 東海道の 主要な城に(三河吉田城)
本丸に 三層四階 鉄櫓 昭和中期築 資料館なり(同上)
江戸後期 七万石の 吉田藩 老中首座の 松平氏で(同上)
歴代の 三十二人 城主たち 池田輝政 知名度勝る(同上)
安土城 織田信長の 築城で 日本最初の 望楼天守(安土城跡)
中腹に 家臣屋敷跡 点在す 秀吉邸や 前田邸など(同上)
信長が 本能寺にて 死去すると 城は焼かれて 廃城となる(同上)
城郭の 特別史跡 二十二で 優先順位 国宝に次ぐ(同上)
ああここに 地上六階 地下一階 織田信長は 美意識極め(同上/城郭5) 52歳
長浜の 宮川陣屋 石碑のみ 一万余石 堀田氏遠く(宮川陣屋跡)
上野城 城門写真 撮り忘れ 伊賀上野をば 再び訪ね(伊賀上野城)
剣術家 柳生宗矩 築城す 一万石の 柳生陣屋を(柳生陣屋跡)
陣屋跡 公園として 整備され 柳生の里の 観光ルート(同上)
国史跡 郡山城 築城は 筒井順慶 戦国跡期(大和郡山城)
桃山期 豊臣秀長 大納言 城主となりて 天守築造(同上)
柳沢 吉里移封 江戸中期 十五万石 明治に続く(同上)
追手筋 櫓三棟 石垣に 昭和後期に 復元されて(同上)
図書館の 柳沢文庫 昭和期に 毘沙門廓に 開設される(同上)
本丸の 柳澤神社 創建は 明治前期に 吉保祀り(同上)
勇壮な 八棟造り 二階建て 明治の館 城址会館(同上)
菜の花や 郡山城 様変わり 桜百選 千本桜(同上)
国史跡 長篠城の 築城は 室町後期 菅沼氏による(長篠城跡)
模擬天守 郡上八幡 城跡に 昭和八年 木造築で(郡上八幡城)
築城は 戦国後期 遠藤氏 江戸時代には 郡上藩の城(同上)
国史跡 篠脇城は 山城で 鎌倉後期 東氏築城(篠脇城跡)
山城の 霧山城は 国史跡 北畠氏が 伊勢に築城(霧山城跡)
小諸城 寄棟造り 三の門 江戸中期築 国の重文(小諸城)
遠州の 浜松城の 築城は 室町後期 今川氏により(浜松城)
望楼の 三層四階 模擬天守 昭和中期築 コンクリートで(同上)
中世の 真弓山城 復元し 平成五年 足助にオープン(足助城)
本丸は 長屋の奥に 高櫓 七棟ほどの 城郭が建つ(同上)
江戸時代 一万石の 足助藩 減封されて 藩は消滅(足助陣屋)
古民家が 残されながら 活かされず 中途半端な 足助の城下(同上)
伊勢の国 長島城の 始りは 鎌倉前期 公家の館で(長島城跡)
江戸時代 長島藩の 城となり 増山氏の世 明治に続く(同上)
城跡に 小中学校 建てられて 屋根形を 城郭風に(同上)
清洲城 管領斯波氏 築城で 織田信長が 十年居住(清洲城)
模擬天守 三層四階 望楼で 平成期築の コンクリート造(同上)
大手橋 高麗門が 大手門 往時を偲ぶ 復元はなく(同上/城郭6) 53歳
桶狭間 出陣前夜 信長の 昭和前期の 像は秀作(同上)
小谷城 戦国前期 浅井氏が 湖北の山の 尾根に築城(小谷城跡)
三代の 夢の山城 国史跡 日本五大の 山城と言う(同上)
田原城 室町後期 築城で 一万余石 田原藩の城(田原藩)
桜門 二の丸櫓 再建し 平成期以降 城らしくなり(同上)
城跡に 博物館が 建てられて 模擬城郭に 違和感にじむ(同上)
鳴海城 室町後期 築城で 桶狭間前 前哨戦が(鳴海城跡)
国史跡 大高城は 南北期 既に城あり 尾張の要(大高城跡)
本丸に 土塁が残る 程度でも 若き家康 兵糧届け(同上)
国史跡 高取城の 築城は 鎌倉末期 越智氏によると(高取城跡)
江戸時代 高取藩の 城となり 旗本藩主 明治の代まで(同上)
天守台 三層三階 地下一階 日本三大 山城の跡(同上)
埋木舎 特別史跡 屋敷跡 平成前期 復元されて(彦根城)
直弼に 重ね合わせる 桜かな 埋もれて生きる 雪の上にも(同上)
庭園も 素晴らしきかな 金亀城 琵琶湖を望む 高台に建ち(同上)
武家屋敷 四棟もの 長屋門 建ち並ぶ様 彦根城のみ(同上)
最大の 西郷屋敷 長屋門 三千五百 石高誇る(同上)
入母屋の L字形の 馬屋建つ 江戸中期築 国の重文(同上)
井波城 室町後期 築城で 一向一揆 拠点の寺に(井波城跡)
二ノ丸に 神武天皇 像が立ち 鳥居の先は 招魂社とか(同上)
安土期に 金沢城は 築かれる 佐久間盛政 加賀平定し(金沢城)
桃山期 前田利家 城を継ぎ 百万石の 礎築く(同上)
越前の 北ノ庄城址 確定し 柴田神社と 公園になる(北ノ庄城跡)
福井城 結城秀康 再興し 四層五階の 天守を築く(福井城跡)
石垣と 四方の堀を 残しては 本丸跡は 県庁となり(同上)
小丸城 佐々成政の 築城で 六年ほどで 廃城となる(小丸城跡)
猿憎し 狸を頼る 成政は 天下を望む 狐にも似ず(同上)
越前の 新善光寺 城跡は 南北朝の 激戦伝う(親善光寺城跡)
鎌倉期 大聖寺城 築かれる 江戸時代には 大聖寺藩に(大聖寺城跡)
関ヶ原 昨日の友は 今日の敵 豊臣方の 悲運は消えぬ(同上)
江戸時代 一国一城 令ありて 十万石も 陣屋強いられ(同上)
小松城 一国一城 例外も 前田利常 隠居の城は(小松城跡)
築城は 安土時代の 小松城 改修されて 巨大な城に(同上)
天守閣 二層三階 櫓風 幕府へ遠慮 見え隠れする(同上)
七尾城 能登畠山氏 築城で 室町中期 七つの尾根に(七尾城跡)
本丸に 城山神社 鎮座する 昭和前期に アマテラス祀り(同上)
七尾城 難攻不落 国史跡 かの謙信も 称えた古城(同上/城郭7) 53歳
朝倉氏 一乗谷に 城築く 南北朝期 特別史跡(一乗谷城)
一軒の 侍屋敷 十軒の 町家復元 町並みを成す(同上)
唐門は 江戸中期築 桧皮葺き 館の跡に 近年移築(同上)
四ヶ所の 枯山水の 庭園は 館無くとも 特別名勝(同上)
諏訪館は 義景の室 小少将 住まわす館 溺愛せしと(同上)
模擬天守 勝山城は 博物館 平成四年 起業家建てる(勝山城博物館)
大野城 金森長近 亀山に 桃山時代 築城せしと(越前大野城)
望楼の 二層四階 天守閣 昭和中期の コンクリート造(同上)
富山城 室町前期 築城で 江戸時代から 前田氏統治(富山城)
模擬天守 三層四階 連結の 戦後建造 博物館で(同上)
国史跡 春日山城 築城は 南北朝期 守護上杉氏(春日山城跡)
守護代の 長尾為景 居城して 江戸初期までの 百年の城(同上)
高速で 眺めた城を 逆に見る 途中下車して 念願叶う(同上)
昭和初期 毘沙門堂が 復元し 謙信公の 面影偲ぶ(同上)
二ノ丸も 杉の林に 覆われて 館の規模を 知る術もなし(同上)
明治期に 春日山神社 創建す 謙信公を 祭神として(同上)
天と地の 大河ドラマを 記念して 謙信像が 城跡に立つ(同上)
西尾城 鎌倉前期 築城で 江戸時代には 藩政庁に(西尾城)
昭和期に 鍮石門が 復元し 城址公園 整備が続く(同上)
江戸初期に 小倉山城 築城す 金森長近 隠居の城を(小倉山城)
模擬櫓 三層三階 展望所 本丸跡に 近年築く(同上)
重文の 石川門の 八棟は 江戸天明期 再建されて(金沢城)
四段の 辰巳櫓の 石垣に 城郭あれば 如何に豪華か(同上)
阿尾城は 戦国末期 菊池氏が 海断崖に 築城せしと(阿尾城跡)
飛騨の国 神岡城の 築城は 戦国末期 江馬時盛が(神岡城)
模擬天守 二層三階 木造で 三井金属 昭和に築く(同上)
新発田城 室町期頃 築城で 溝口秀勝 江戸期城主に(新発田城/城郭8) 54歳
表門 江戸中期築 重文で 三階櫓 近年復元(同上)
隅櫓 江戸後期築 重文で 鉄砲櫓に 移築されたと(同上)
室町期 飯山城の 築城で 江戸時代には 八家入れ替わり(飯山城跡)
辛うじて 南大手門 復元し 城郭愛は 消滅はせず(同上)
国史跡 観音寺城 築城は 南北朝期 六角氏による(観音寺城跡)
二年前 百名城に 選ばれて 知名度上がるも 人は上がらず(同上)
本丸の 石垣初期の 自然石 おそらく日本 最古と思う(同上)
梟雄の 松永久秀 夢の跡 信貴山城の 四層天守(信貴山城跡)
唐破風の 続櫓の 石落とし 優美の中に 怖さを隠し(金沢城)
石垣の 雪の付着は 野面積み 白き櫓に 程好く調和(同上)
珍しき 石川門の なまこ壁 四角い模様 色様々に(同上)
布積みの 切込接の 石垣が 石川門の 上級の技(同上)
乱積みの 打込接の 石垣が 石川門の 中級の技(同上)
戦国期 五城目城の 築城で 模擬天守閣 町資料館(五城目城)
五稜郭 江戸安政期 築城で 西洋式の 特別史跡(五稜郭)
列島の 桜前線 最終は 松前城の 桜に限る(松前城)
横手城 朝倉城の 別名も 小野寺氏消え 城の名変る(横手城)
鹿倉城 室町時代 大湯氏が 温泉街の 小山に築く(大湯鹿倉城跡)
城跡に 標識もなく 戸惑うが 平坦地見て 屋敷跡かと(同上)
桃山期 九戸の乱に 連座して 秀吉方と 籠城戦を(同上)
江戸時代 盛岡藩に 組み込まれ 下の湯側に 新たな城を(同上)
鎌倉期 鶴ヶ岡城 築城で 江戸時代から 庄内藩に(鶴ヶ岡城跡/城郭9) 55歳
城郭の 建屋残るは 長屋のみ あまりに寂し 十四万石(同上)
霊山は 平安前期 開山で 南北朝期 城郭となり(霊山城跡)
霊山は 国の史跡で 名勝で 奇岩怪石 風光明媚(同上)
石碑には 義良親王 名を刻む 明治中期の 城の記念碑(同上)
案内図 十四年経て 改まる 七戸城を 再び訪ね(七戸城跡)
史跡でも 百名城は 予想外 七戸城は 魅力乏しく(同上)
樅の木に 注連縄張られ 神木に 樹齢は何と 五百年とか(同上)
国史跡 九戸氏拠点 九戸城 コンクリートの 擁壁哀れ(九戸城跡)
九戸城 室町後期 築城で 盛岡移築後 廃城となる(同上)
南部での 九戸の乱は 悲惨かな 城兵五千 仕置で斬首(同上)
弘前の 大浦城の 築城は 戦国前期 光信による(大浦城跡)
城跡は 中学校の 敷地なり 積まれた雪が 土塁にも見え(同上)
本丸が 昔のままの 鷹城に 内助の功の 銅像を見る(高知城)
大洲城 鎌倉後期 伊予守護の 宇都宮氏が 築城せしと(大洲城)
名城の 桜の花を 満喫し 自転車で行く 四国霊場(同上)
城と寺 どちらを選ぶ 迷うけど 四国霊場 城も大切(今治城)
仰ぎ見る 丸亀城の 天守台 重文三棟 国の史跡を(丸亀城)
桃山期 高島城は 築城す 日根野高吉 諏訪湖東に(諏訪高島城)
現天守 三層五階 望楼で 昭和中期の コンクリート造(同上)
江戸時代 信濃諏訪藩 二万石 諏訪氏が城主 明治に続く(同上)
庭園は 回遊式の 林泉で 本丸御殿 跡に築かれ(同上)
膳所城と 松江城とに 肩並べ 日本三大 湖城の一つ(同上)
角櫓 二層二階の 板張りで 昭和中期に 復元されて(同上)
柿田川 泉頭城 築城は 戦国後期 北条氏康(泉頭城跡)
千早城 楠木正成 築城で 六十年の 激戦刻む(千早城跡)
幕府軍 兵力一万 楠木軍 兵力五百 歴史を変える(同上)
二ノ丸に 千早神社の 社殿建つ 八幡菩薩 正成祀り(同上)
上下の 赤坂城も 国史跡 楠木正成 思案の出城(同上)
悪党が 忠臣となり 神となる 英雄評価 時代の歪み(同上)
鳥羽城は 桃山時代 築城で 水軍武将 九鬼嘉隆が(鳥羽城跡)
本丸は 小学校の グランドに 明治と共に 海城は消え(同上)
備中の 松山城の 築城は 鎌倉中期 秋庭氏による(備中松山城/城郭10) 56歳
乱積みの 打込接が 連立す 大手門跡 石垣美観(同上)
無駄足を 初雪の上 踏みしめる 備中松山 重文の城(同上)
石段に 黒門跡の 石垣が 拒むが如く 前を塞いで(同上)
江戸時代 備中松山 藩となり 藩主は五家と 入れ替わるかな(同上)
元旦や 松山城へ 登城す 年末年始 閉門もあり(同上)
五と六の 平櫓二棟 喜ばし 平成九年 復元されて(同上)
天守閣 二層二階と 小さ目で 江戸前期築 国の重文(同上)
切妻の 東御門も 復元で 素木の色は 古びた風情(同上)
城郭の 全て復元 叶うなら 世界遺産は 夢ではないナ(同上)
国史跡 日本三大 山城で 百名城の 天空の城(同上)
鬼ノ城は 大和時代の 国史跡 鬼城山に 築城されて(鬼ノ城)
角楼の 復元石垣 美しく その展望に 瀬戸の島々(同上)
西門は 切妻造り 楼門で 平成中期に 復元される(同上)
城壁が 鉢巻状に 築かれて 約三キロの 長さに及ぶ(同上)
備中の 高松城は 国史跡 戦国中期 石川氏築く(備中高松城)
敗北の 将は哀れな 自刃かな 清水宗治 時の旅人(同上)
国史跡 岡山城の 築城は 南北朝期 名和一族が(岡山城)
廊下門 昭和中期 復元で コンクリートの 入母屋造り(同上)
国宝の 天守焼失 空襲で 昭和中期に 再建される(同上)
現天守 五層六階 地下一階 瓦に合わせ 壁は灰色(同上)
江戸時代 岡山藩の 政庁で 三十万石 城主池田氏(同上)
鯱や 名古屋城には 及ばざる 城の大きさ 石高もまた(同上)
戦災を 逃れた二棟 重文に 月見櫓と 西手櫓が(同上)
隅に建つ 三層二階 半地下の 月見櫓は 江戸前期築(同上)
泉水は 給水口の 復元で 井戸から土管で 汲み上げるとか(同上)
赤穂城 百名城で 国史跡 江戸前期頃 浅野氏築く(赤穂城)
三の丸 大手隅櫓 二階建て 昭和中期に 復元されて(同上)
赤穂藩 事件の後は 二万石 森氏継承 明治に続く(同上)
本丸の 高麗門と 櫓門 平成八年 公費復元(同上/城郭11) 57歳
あら何と 民家を全て 退去させ 二の丸門と 塀は築かれ(同上)
本丸と 二の丸庭園 珍しき 実体なくも 国の名勝(同上)
折曲る 厩口門 城壁は 多方向から 敵撃つ仕組み(同上)
龍野城 室町後期 築城で 脇坂安政 江戸期再築(龍野城)
埋門 続櫓を せり出させ 臨戦姿勢 迫力感ず(同上)
城郭は 昭和後期 復元で 本丸御殿 豪華な造り(同上)
入母屋に 向唐破風 玄関は 仏堂風の 書院造りで(同上)
領地替え 無くて幸い 脇坂氏 五万余石が 十代続く(同上)
古寺に 龍泉寺城 築城す 戦国後期 織田信行が(龍泉寺城跡)
寺宝館 三層四階 模擬天守 昭和中期の コンクリート造(同上)
外堀の 本町橋を よく見れば 明治期築の レンガアーチで(名古屋城)
天守閣 写したつもりで 写らない 木立の陰の 尾張名物(同上)
重文の 大手二之門 二の丸に 江戸前期築 高麗門で(同上)
国史跡 福岡城の 築城は 江戸時代初期 黒田長政が(福岡城)
枡形の 下之橋御門 櫓門 江戸文化期に 再建されて(同上)
伝承の 潮見櫓は 二階建て 昭和中期に 復元されて(同上)
南丸 多聞櫓は 重文で 二層櫓に 平櫓添う(同上)
往時には 四十七棟 櫓建ち 多聞櫓が 残されるのみ(同上)
不自由な 脚のことなど 気にもせず 天下目指した 如水の器(同上)
黒田家は 四十七万 石高で 如水を入れて 十三代が(同上)
二階建て 祈念櫓は 板壁で 江戸後期築 昭和期移築(同上)
人知れず 訪ねる桜 龍野城 誘われもする 映画の虚構(龍野城)
驚きは 桜百選 ならずとも 三千本が 城周辺に(同上)
赤松氏 鶏籠山城 築城す 戦国前期 龍野の山に(鶏籠山城跡/城郭12) 57歳
桃山期 麓に城は 移されて 七十年の 役割終える(同上)
苗木城 鎌倉後期 遠山氏 高森山に 築城をする(苗木城跡)
遠山氏 城手放すも 江戸時代 一万石の 苗木藩へと(同上)
北門は 打込接の 石垣で 甲斐武田氏の 侵攻続く(同上)
城域は 十万坪の 広大さ 半分ほとが 国の史跡に(同上)
頂きに 大きな岩の 天守台 展望台が 懸け造りされ(同上)
天平寺 石動山城 築城は 南北朝期 石動山に(石動山城)
押水の 末森城の 築城は 戦国中期 土肥親真が(末森城跡)
桃山期 末森山の 古戦場 猿と狸の 代理戦争(同上)
江戸初期に 廃城となり 本丸は 津幡に移築 御旅屋になりと(同上)
甲府城 桃山時代 築城で 最初豊臣 次徳川に(甲府城跡)
別名は 舞鶴城と 称されて 遊亀橋先 公園の名に(同上)
甲府城 百名城で 国史跡 江戸中期から 天領の城(同上)
平成期 鍛冶曲輪門 復元で 徐々に始まる 整備事業か(同上)
恩賜林 記念館建つ 曲輪跡 昭和中期の レトロな二階(同上)
武徳館 入母屋造り 二重破風 昭和初期築 寺社外観で(同上)
二階建て 稲荷櫓は 隅櫓 平成中期 復元されて(同上)
安土期の 館山城は 築城で 里見頼義 安房継承し(館山城)
模擬天守 三層四階 博物館 昭和後期に コンクリートで(同上)
二層目に 大屋根載せた 入母屋は 丸岡城を 模倣したとも(同上)
八犬伝 博物館の 別称も 展示の資料 戯作の世界(同上)
風流や 枯山水の 庭園に 雁月庵の 茶室が建ちて(同上/城郭13) 57歳
重文の 弘前城の 大手門 枝垂れ桜が 価値を高めん(弘前城)
気心の 知れた人と 旅をする 弘前城の 花見が最初(同上)
国宝は 弘前城に 無いけれど 重文九棟 十分満喫同上)
みちのくに 唯一残る 天守閣 日本三大 桜の名所(同上)
弘前は 弘前城に 武家屋敷 五重塔に 宣教師館(同上)
十三湖 福島城は 平城で 平安後期 十三氏が築く(福島城跡)
鎌倉期 安東貞季 進出し 十三氏退け 巨大な城に(同上)
本丸の 城門のみが 復元し 福島城の 姿留めん(同上)
奥州の 藤原四代 絶えるとも その血縁は 十三氏へと(同上)
国史跡 浪岡城は 築城は 北畠氏が 室町中期に(浪岡城跡)
北館の 館の数に 目を見張る 建坪復元 先まで見えず(同上)
戦国期 大浦為信 攻め落とし 平和な城も 露と消えにし(同上)
巨大なる 弘前城の 玉鹿石 金木の地から よくぞ運びし(弘前城)
鰺ヶ沢 種里城は 国史跡 室町後期 大浦氏築く(種里城跡)
下剋上 津軽の地まで 波及して 南部一族 光信離反
本丸に 大浦光信 銅像が 平成二年 建立されて(同上)
曲り屋の 光信公の 資料館 昭和末期に 新築される(同上)
主殿跡 四度改築 されたとか 忍耐強き 発掘調査(同上)
種里は 津軽氏発祥 地とされて 江戸時代まで 遺構守られ(同上)
廟所には 木柵のみが 設置され 墓石無いのは 明治期頃と(同上)
五稜郭 江戸慶応期 築城で 西洋式の 特別史跡(五稜郭)
星形の 土塁は一部 失われ 復元願う 人の少なさ(同上)
奉行所が 数年前に 復元す 八棟造り 望楼載せて(同上)
西洋の 影響受け 築城す ロシアに備えた 幕末の蝦夷(五稜郭/城郭14) 58歳
設計者 斐三郎の レリーフが 新政府では 陸軍大佐(同上)
甦る 百四十年 時を経て 箱館奉行 城のシンボル(同上)
五稜郭 箱館戦争 顧みる 裏門橋を 渡る歳三(同上)
志苔館 室町期築 国史跡 小林重弘 蝦夷に渡りて(志苔館跡)
小林氏 三代続いた 室町期 コシャマイン戦で 破れ廃城(同上)
大量の 中国銭が 出土して 想定外の 蝦夷の交易(同上)
戦死した 敵や味方に 関わらず 弔う慰霊碑 史跡の隅に(同上)
佐賀城は 江戸慶長期 鍋島氏 村中城を 改築せしと(佐賀城)
鯱の門 続櫓は 重文で 江戸末期築 一重二階(同上)
佐賀の乱 焼失されず 目前に 城郭遺構 至福の眺め(同上)
歴史館 平成中期 開設で 本丸御殿 復元をして(同上)
佐賀藩は 三十六万 石高で 十一代を 鍋島氏継ぐ(同上)
天守台 四層五階 想像す 江戸享保期に 焼失したと(同上)
百名城 島原城の 築城は 江戸寛永期 板倉重政(島原城)
現天守 五層五階 地下一階 昭和中期の コンクリート造(同上)
島原の 乱が起こりて 板倉氏 改易となり 四家交替(同上)
城に立ち 城を思えば 悲しかり 城に埋もれた 白骨の数(同上)
三層の 丑寅櫓 民具館 昭和後期の コンクリート造(同上)
三層の 巽の櫓 記念館 地元出身 北村西望(同上)
自転車と 人力車との 合体は 珍しいなと 写真に残す(同上)
復興の 西の櫓が 創めなり 四十八基 櫓の中で(同上)
鳥取の 七曲城 築城は 南北朝期 赤松氏による(七曲城跡)
原爆後 復興された 天守閣 鯉城と呼ばれ カープの名となる(広島城)
城内に 四百本の 桜咲く 広島城の 花見楽しき(同上)
国史跡 広島城の 築城は 桃山時代 毛利輝元(広島城/城郭15) 59歳
御門橋 表御門に 隅櫓 平成二年 再建されて(同上)
新しき 草木は城に 育つとも 二度と戻らぬ 国宝の城(同上)
望楼の 五層五階の 大天守 昭和中期の コンクリート造(同上)
江戸前期 福島正則 改易後 浅野氏移封 明治に続く(同上)
天守閣 平成元年 改修し パネル展示の 歴史資料館(同上)
多聞櫓 太鼓櫓が 並び建つ 平成六年 木造復元(同上)
一重の 多聞櫓は その長さ 約六十八 メートルもあり(同上)
ジオラマは 郡山城 毛利氏の 発祥の城 リアルな作り(同上)
本丸に 護国神社の 社殿建つ 明治元年 創建されて(同上)
山城の 岩国城の 築城は 江戸慶長期 吉川広家(岩国城)
珍しき ロープウェイの 山城は 全国各地 四ヶ所ほどで(同上)
岩国や 米軍基地を 知るだけで 歴史を知らぬ 旅人哀れ(同上)
天守閣 三層四階 物見付 昭和中期の 南蛮造り(同上)
天守台 離れた場所で 発掘し 四層六階 天守建ちしと(同上)
江戸前期 城は陣屋に 移行して 立藩できず 明治期叶う(同上)
吉川氏 毛利両川 欠けるとも 六万石で 周防に残る(同上)
懐かしき 全国各地の 天守閣 写真パネルで 展示をしたり(同上)
大釣井 武器弾薬の 収納と 非常事態の 抜け穴もあり(同上)
福岡の 特別史跡 水城跡 白鳳時代 築城されて(水城跡)
倭の国は 白村江の 戦いで 大敗をして 国防急ぐ(同上)
大伴 旅人と遊女 贈答歌 石碑となりて 城跡に立つ(同上)
国史跡 石垣山の 一夜城 桃山時代 秀吉築く(石垣山城跡)
様々な ドラマが浮かぶ 一夜城 死に装束の 政宗の顔(同上)
包囲する 豊臣軍は 二十万 北条軍は 六万とされ(同上)
大戦 成らずに済んだ 小田原は 戦国時代 幕引きとなる(同上)
築城に 八十日は 要したと 小田原攻めは 頭脳作戦(同上/城郭16) 59歳
天守台 天守の規模は 不明なり 二層三層 脳裏に浮かぶ(同上)
国史跡 小田原城の 築城は 室町中期 大森氏による(小田原城)
二ノ丸の 銅門は 桝形で 平成九年 復元される(同上)
北条の 名こそここに 残りけり 関東の覇者 花と散るらん(同上)
望楼の 三層四階 天守閣 昭和中期の コンクリート造(同上)
北条氏 五代百年 君臨す 小田原藩は 歴史の裏へ(同上)
国史跡 八王子城 築城は 戦国後期 北条氏照(八王子城跡)
曳橋は 昭和中期の 復元で 虎口石垣 整備も成され(同上)
桃山期 豊臣方に 攻められて 三千人が 悲劇の中へ(同上)
八王子 神社創建 平安期 牛頭天王の 八将祀り(同上)
国史跡 棚倉城の 築城は 江戸寛永期 丹羽長重が(棚倉城跡)
江戸初期に 立花宗茂 入部して 一万石の 大名復帰(同上)
江戸時代 城主は八家 入れ替わり 最後は阿部家 十万石を(同上)
幕末は 戊辰戦争 参戦し 棚倉藩は 城焼き敗走(同上)
風流な 阿部正備は 殿様で ゆかりの茶室 城跡に建つ(同上)
城郭の 遺構少なき 城跡で 土蔵や茶室 心和ます(同上)
越前の 木ノ芽峠城 築城は 戦国後期 朝倉義景(木ノ芽峠城跡)
街道の 木ノ芽峠の 北面の 鉢伏城は 出城でもあり(鉢伏城跡)
楞厳寺 文殊山城 築城は 戦国時代 僧兵抱え(文殊山城跡)
山頂の 本丸跡の 避難小屋 バラック風で みすぼらしく建つ(同上)
国史跡 篠山城の 築城は 江戸慶長期 徳川家康(篠山城)
江戸時代 篠山藩の 政庁で 譜代大名 四家入れ替わり(同上)
二ノ丸の 鉄門の 跡地には 冠木門へと 建て替えられる(同上)
大書院 平成中期 復元で 百名城を 選ぶ評価に(同上)
城内の 青山神社 創建は 明治前期に 遠祖を祀り(同上)
殆どの 城は藩主の 私有地で 明治政府が 没収せずば(同上)
西国に 睨み利かせる 城なのに 天守築かず 櫓で済ませ(同上/城郭17) 59歳
懐かしき 木造校舎 並び建つ 三ノ丸跡 小学校が(同上)
見渡せば 高城山の 八上城 国の史跡で 江戸初期廃城(同上)
連立の 天守美し 大野城 二度の訪問 天守に登る(越前大野城)
五年前 荒島岳に 登山した 思い出浮かぶ 再び眺め(同上)
峠には 足柄城の 城跡が 北条氏康 改修したと(足柄城跡)
足柄は 駿河と相模 国境 街道があり 関所築かれ(同上)
池の水 道路工事が 禍し 水溜りかと 思う少なさ(同上)
この城も 小田原攻めの 標的に 山中城落ち 城主は退去(同上)
木橋には 通行止めの バリケード 予期せぬ事が 山城多し(同上)
府内城 桃山期から 江戸初期に 三氏が手掛け 築城されし(府内城)
城郭で 初めて目にす 廊下橋 平成八年 復元されて(同上)
本丸の 人質櫓は 二階建て 江戸後期築 県の史跡で(同上)
西丸の 多聞櫓門 大手門 昭和中期に 復元されて(同上)
何故ここに 大友宗麟 胸像が 府内城とは 関わりはなく(同上)
江戸期築 宗門櫓 珍しき 外観平屋 内側二階(同上)
重層の 着到櫓 復元は 昭和中期に コンクリートで(同上)
着到の 名には味方が 城入りす 軍勢などを 点検する事(同上)
岡城は 平安末期 緒方氏が 源義経 迎えんと築く(岡城)
岡城は 百名城で 国史跡 桜百選 七万坪も(同上)
桃山期 中川秀成 移封して 七万石の 岡藩となる(同上)
断崖に 切込接の 石垣が 群立するや 家老屋敷跡(同上)
島津氏に 再三城を 攻められて 難攻不落 岡城落ちず(同上/城郭18) 59歳
屋敷跡 土台に床を 復元す 中途半端も 無いよりマシと(同上)
岡城は 竹田城とよく 比肩さる 石垣だらけ 天空の城(同上)
三ノ丸 城郭印す 礎石なく 屋敷跡より 配慮に欠ける(同上)
空井戸は 三メートルの 井戸枠で 深さ七十 三メートルと(同上)
唯一の 歴史思わす 建物は 天満神社 小さな社殿(同上)
天守台 意外と低い 石垣に 建っていたのか 三層四階(同上)
桜咲く 岡城をまた 訪ねたき 桜百選 静かな歩み(同上)
宮崎の 延岡城の 築城は 江戸時代初期 高橋元種(延岡城跡)
城郭は 北大手門 建つのみで 平成五年 復元されて(同上)
内藤家 五家目の城主 江戸中期 七万石で 陸奥より移封(同上)
二ノ丸の 高石垣は 石一つ 外せば全壊 千人殺し(同上)
縄張りで 重きを成すが 石垣で 刻印に見る 石へ思い(同上)
本丸の 櫓の跡は 展望所 城の木立に 延岡市街(同上)
川岸に 旭化成の 煙突が 城下町から 企業の街に(同上)
城の鐘 若山牧水 歌に詠み 真似はできぬと 鐘の音を聴く(同上)
国史跡 郡山城 築城は 室町前期 毛利氏による(吉田郡山城)
尼子氏の 大軍三万 攻め込んで 籠城八千 五ヶ月死守す(同上)
最強の 武将の一人 元就で 尼子退け 快進撃を(同上)
尾根伝い 十段構え 大曲輪 創意工夫の 勢溜の壇(同上)
常日頃 曲輪に兵は 詰めたとか 戦時体制 山城変る(同上)
輝元の 時代の頃は 天守閣 本丸跡に 築かれた由(同上)
桃山期 広島城に 移るまで 郡山城 拠点の城で(同上)
二回り 先祖合墓は 大きくて 毛利九代 歴史を刻む(同上)
毛利氏が 長州萩に 移封後は 広島藩の 浅野氏管理(同上)
元就は 城で生まれて 城で死す 七十五年 七雄最長(同上)
洞春寺 嘯岳禅師 開山で 江戸天明期 寺跡に墓(同上)
矢不立城 帝釈峡の 館跡 築城不明 中世頃か(矢不立城跡)
津和野城 鎌倉期築 国史跡 地頭吉見氏 元寇に備え(津和野城跡/城郭19) 60歳
江戸時代 新たな城主 亀井氏が 山城嫌い 居館麓に(同上)
麓には 馬場先櫓 二階建て 江戸安政期 再建されて(同上)
秀麗な 溶岩ドーム 青野山 国の天記で 名勝指定(同上)
最高所 三十間台 見晴らしは 百名城の 価値に相応し(同上)
津和野藩 四万余石 亀井氏は 二百五十年 十一代を(同上)
戦国期 陶晴賢に 攻められて 吉見正頼 防戦したり(同上)
石垣や 崩れて哀れ 飛石に 織部出丸は 修復されず(同上)
津和野城 日本五大の 山城に 選定されぬ 疑問は深き(同上)
広島の 白山城の 築城は 戦国前期 平賀氏による(白山城跡)
麓には 浄土真宗 養国寺 江戸前期築 本堂が建つ(同上)
曲輪跡 鶯塚の 石碑立つ 芭蕉の孫弟子 風律による(同上)
光政寺 平賀氏創建 菩提寺で 廃寺の後に 近年再興(同上)
因島 水軍城は 資料館 昭和後期に 開設されて(因島水軍城)
二ノ丸は 入母屋造り 平屋建て 戦法会議 人形展示(同上)
本丸は 妻入り屋根に 塔屋載せ 村上水軍 資料を展示(同上)
城の建つ 片苅山に 中世は 清原守高 居城ありきと(同上)
まる上の 村上水軍 幟立つ 因島には 瀬戸内の覇者(同上)
仁保城は 黄金山の 山頂に 室町時代 築城されて(仁保島城跡)
戦国期 武田大内 その後は 陶と毛利の 争奪戦に(同上)
三ノ丸 重臣たちの 屋敷跡 遺構消えて 海の藻屑に(同上)
鞆城は 毛利元就 築城で 将軍義昭 亡命したり(鞆城跡)
鞆の浦 歴史民俗 資料館 昭和末期に 城跡に建てる(同上)
作曲家 宮城道雄 像が立つ 本丸跡の 新たな城主(同上)
山城の 神辺城の 築城は 室町中期 山名氏による(神辺城跡)
山名氏後 毛利氏城主 江戸初期に 福島氏経て 廃城となる(同上/城郭20) 60歳
山名氏は 神辺戦で 敗北す 大内氏とは 七年間も(同上)
二ノ丸は 事前調査の 無いままに 公園として 整備されたと(同上)
神辺は 神辺平野 市街地で 所々に 小山点在(同上)
山城の 堀切跡に 雰囲気が 登城の道は この一歩から(同上)
国史跡 福山城の 築城は 江戸元和期に 水野勝成(福山城)
水野家が 改易となり 変遷し 十万石で 阿部家が移封(同上)
天守閣 新幹線で 目に留まり 途中下車した 福山城か(同上)
大天守 五層六階 地下一階 昭和中期の コンクリート造(同上)
惜しまれる 国宝天守 空襲は 日本各地で 七つに及ぶ(同上)
天守内 武具甲冑の 資料館 文化財的 名品は無く(同上)
天守閣 福山一の 展望所 見渡す限り 街並み続く(同上)
資料館 博物館や 美術館 城周辺に 四ヶ所も建つ(同上)
洋風の 福寿会館 異観なり 昭和前期の 建築と言う(同上)
教会の 尖塔二つ 城の側 好対照な 街のシンボル(同上)
重文の 伏見櫓は 移築なり 三層三階 江戸初期築で(同上)
伏見城 御殿や櫓 移築され 残りし櫓 貴重な遺構(同上)
望楼の 月見櫓は 二階建て 昭和中期に 天守と共に(同上)
伏見から 湯殿も移築 焼失し 旧国宝を 戦後復元(同上)
重文の 筋鉄御門 移築とか 間口十間 奥行き三間(同上)
鐘櫓 切妻屋根に 楼載せ 昭和中期に 修復されて(同上)
重層の 鏡櫓は 文書館 昭和後期に 外観復元(同上)
内側の 伏見櫓は 異観なり 下層の柱 黒く塗られて(同上)
寒霞渓 山頂附近 星ヶ城 南北朝期 佐々木氏築く(星ヶ城跡)
星ヶ城 戦時下のみの 詰城で 常時は麓に 居城構えて(同上)
佐々木氏は 南朝方に くら替えし 北朝方に 攻め滅ぼさる(同上)
曲輪には 阿豆枳神社の 小社建つ 東峰西峰 二ヶ所に分れ(同上)
津山城 百名城で 国史跡 室町中期 山名氏築く(津山城/城郭21) 60歳
江戸初期に 森忠政が 入部して 近世的な 城に構築(同上)
往時には 七十七棟 櫓建ち 中国一の 城郭と言う(同上)
江戸中期 森氏断絶 その後は 松平氏が 十万石で(同上)
津山城 桜百選 名所でも 約二千本 今咲き誇る(同上)
仰ぎ見る 長屋櫓の 跡地には 石垣飾る 桜のアーチ(同上)
表裏 鉄門は 堅牢で 鉄板張りの 虎口の極致(同上)
三ノ丸 表中門 入口で 鶴山館の 古建築建つ(同上)
書院風 鶴山館は 明治初期 建築されて 末期に城に(同上)
館内に 大名駕籠の 復元が 一度は乗って みたい物かな(同上)
天守閣 四層五階 地下一階 明治六年 破却の憂き目(同上)
明治初期 明治政府の 失策は 神仏分離 廃城令で(同上)
復元は 備前櫓が 先ず最初 平成中期 以外と遅く(同上)
木造の 櫓の中は 天守風 畳敷かれて 襖も仕立て(同上)
涌谷城 室町時代 築城で 大崎氏配下 涌谷氏による(涌谷城)
隅櫓 江戸後期築 太鼓堂 二層二階の 寄棟造り(同上)
模擬天守 三層三階 資料館 昭和中期の コンクリート造(同上)
江戸時代 涌谷伊達氏の 要害に 二万二千石 明治に続く(同上)
一層の 壁は漆喰 二層目は 横板張りの 白ペンキ塗り(同上)
命かけ 伊達騒動の 危機救う 伊達宗重の 胸像が立つ(同上)
本丸に 涌谷神社の 社殿建つ 明治前期に 宗重祀り(同上)
千石家 茅葺き屋根の 薬医門 麓に残る 江戸の面影(同上)
黒川の 大衡城の 築城は 戦国中期 大衡宗氏(大衡城跡)
城跡の 城郭風の 三階は 青少年の 交流館で(同上)
大衡氏 奥州仕置で 追放に 城の生涯 四十五年(同上)
国史跡 月山富田城 築城は 平安末期 佐々木義清(月山富田城跡)
功を成し 建てた城郭 草茫々 男のロマン 一代限り(同上)
室町期 尼子経久 城奪い ここを拠点に 中国二分(同上)
尼子氏が 滅びし後に 毛利氏の 支城となりて 江戸初期廃城(同上/城郭22) 60歳
猛勇の 山中幸盛 記念塔 本丸跡に 明治期建立(同上)
山頂に 勝日高守 神社建つ 大和時代の 創建と言う(同上)
毛利氏の 城攻め三度 退けて 最後は兵糧 尽きて落城(同上)
現在の 月山富田城 城評価 五大山城 百名城で(同上)
中腹の 山中御殿 千坪と 石垣群が 跡地に残る(同上)
花ノ壇 侍所 二棟建つ 平成八年 最初の復元(同上)
国宝に 昇格したる 松江城 望楼天守 湖上で望む(松江城)
出雲路の 月山富田城 受け継いだ 新たな城は 松江城なり(同上)
米子城 桃山期築 国史跡 毛利一族 吉川広家(米子城跡)
江戸初期に 中村一忠 移封して 城郭拡張 米子藩主に(同上)
江戸初期は 四層五階 大天守 三層四階 小天守建ち(同上)
米子藩 江戸元和期に 廃されて 鳥取藩の 荒尾氏が継ぐ(同上)
花植えて 三ノ丸跡 美化すれば 空虚な城も 花園となる(同上)
菩提寺の 八巻城の 築城は 鎌倉後期 有元氏による(八巻城跡)
那岐山の 登山の帰路に 立ち寄れば 城跡淋し 自然に帰する(同上)
尾根行けば 大別当城 本城に 那岐山中に 城が連立(同上)
山陰の 水の都に 聳え建つ 松江の城の 優美な姿(松江城)
松江城 平山城の 築城は 江戸慶長期 堀尾忠氏(同上)
松江城 百名城で 国史跡 桜百選 国宝天守(同上)
二ノ丸の 櫓三棟 建ち並ぶ 平成中期 復元されて(同上)
中櫓 外装異なる 二階建て 一階漆喰 二階板張り(同上)
松江藩 堀尾京極 経た後に 十八万石 松平氏に(同上)
二ノ丸に 松前神社 社殿建つ 初代藩主の 直政祀り(同上)
天守閣 四層五階 地下一階 一部を除き 黒い板張り(同上)
柱には 鉄輪を覆う 包板 三百本の 半分近く(同上)
階段は 四階までが 桐材で 最上階は 栗材使用(同上/城郭23) 60歳
北面に 大平山の 山並みが 大学除き 緑地が続く(同上)
嵩山と 和久羅山とか 東面に 寝仏さんと 地元で言われ(同上)
本丸の 櫓や門の 復元は いつに成るかと 期待膨らむ(同上)
小倉城 戦国後期 毛利氏が 築城しては 細川氏継ぐ(小倉城)
再建の 着見櫓は 塔屋付き 二層三階 昭和中期に(同上)
天守閣 四層五階 附櫓 昭和中期の コンクリート造(同上)
明治初期 第十二師団 司令部が 松ノ丸跡 創設されて(同上)
大正期 師団は久留米に 移されて 八坂神社が 遷座されたり(同上)
小倉沖 西国一の 魔の海で 明治六年 灯台設置(同上)
江戸前期 小笠原氏が 入部して 十五万石 小倉藩主に(同上)
幕末は 長州征討 先鋒に 参戦するも 敗れ退散(同上)
国史跡 松山城の 築城は 江戸慶長期 加藤嘉明(松江城)
大天守 三層三階 地下一階 江戸後期築 三代目とか(同上)
城郭の 二十一棟 重文で 三十一棟 復元されて(同上)
門櫓 外観黒塗り 基調とし 乾櫓も 独自の二層(同上)
本丸の 本壇上に 並び建つ 大小天守 櫓六棟(同上)
黒壁の 上は漆喰 白壁で 本壇八棟 異観に唖然(同上)
小天守 復元なれど 風格が 四十五年 過ぎた床板(同上)
加藤氏後 伊予松山藩 入れ替わり 十五万石 松平氏に(同上)
全国に 重文天守 七ヶ所で 四国四ヶ所 ああ松山城(同上)
松山に 暮らして見えた 四季の城 十五万石が 五十万人に(同上)
大天守 刀剣甲冑 展示室 松平氏の 影は朧に(同上/城郭24) 60歳
本丸に 立派な井戸が 残されし 屋根が架けられ 釣瓶備えて(同上)
二之丸は 江戸前期築 国史跡 蒲生忠知 城の麓に(松山城二之丸史跡庭園)
二之丸の 御殿庭園 復元は 平成四年 表と奥とが(同上)
重層の 多聞櫓は 形変え 手間を省いた 平櫓かな(同上)
櫓内 変った神輿 展示する 松平氏の ゆかりの品と(同上)
いつの日か 表御殿が 復元し 松山城は 完璧となる(同上)
庭に建つ 勝山亭は 聞くところ 桂離宮の 茶室模したと(同上)
塀の中 四脚御門 薬医門 開設以来 開かずの門か(同上)
番所とは 思えぬほどの 大きさで 注連縄張れば 拝殿となる(同上)
国史跡 松本城の 築城は 戦国前期 小笠原氏が(松本城)
松本に 来るたびに寄る 深志城 現存天守の 東の横綱(同上)
未だ見ぬ 北アルプスの 山並みに 負けじと聳ゆ 松本城は(同上)
大天守 五層六階 櫓付き 桃山期築 石川父子と(同上)
中層の 破風は少々 控え目で 腰壁総て 黒漆塗り(同上)
江戸時代 松本藩は 変動し 六万石は 松平氏に(同上)
太鼓門 櫓と共に 木造で 平成前期 復元される(同上)
国宝の 天守五つを 比べれば 姫路一番 松本二番(同上)
国史跡 丸亀城の 築城は 室町初期に 奈良元安が(丸亀城)
江戸時代 生駒山崎 経た後に 六万石が 京極氏へと(同上)
重文の 大手一ノ門 二ノ門は 江戸寛文期 建造のまま(同上)
天守閣 三層三階 櫓風 江戸前期築 重文最小(同上)
三階の 二・五倍 一階は 逓減率が よく保たれて(同上)
兜には 烏天狗と 般若面 風変りかな 天守の展示(同上)
天守から 眺める港 絶佳かな 瀬戸内海の 島々も見え(同上)
京極家 邸宅一部 移築され 三ノ丸跡 城郭を成す(同上)
外堀は 戦後間もなく 埋めらて 残る内堀 寂しく眺む(同上)
八角の 井戸の屋形は 珍しく 日本一の 深さともされ(同上)
山麓に 藩主玄関 先御門 江戸前期築 御殿表門(同上/城郭25) 60歳
四年前 眺めた天守 登城し 重文七つ 念願果たす(同上)
吉野川 川島城の 模擬天守 室町後期 築城跡に(川島城)
出石城 江戸慶長期 築城で 小出吉英 古城の下に(出石城跡)
出石藩 小出家藤井家 経た後に 三万石の 仙石家へと(同上)
登城門 平成前期 再建で 手前に架かる 登城橋とも(同上)
東西に 塀で連結 隅櫓 昭和中期に 復元されて(同上)
出石そば 仙石秀久 創始者で 感応殿に 祀られるかな(同上)
国史跡 有子山城 築城は 戦国後期 山名氏による(同上)
有子山 稲荷社建つは 曲輪跡 築城当時 創建されて(同上)
秀吉に 有子山城 攻められて 但馬守護職 山名氏は消え(同上)
洲本城 国の史跡で 築城は 室町後期 安宅氏による(洲本城)
桃山期 淡路討伐 落城し 城主は替わり 一時廃城(同上)
江戸前期 徳島藩の 所領地に 稲田一族 城を再建(同上)
天守台 四層四階 模擬天守 昭和三年 コンクリート造(同上)
石積みの 日月の池 風変り 中島白洲 岸に設え(同上)
湯築城 百名城で 国史跡 南北朝期 河野氏築く(湯築城跡)
桃山期 福島正則 居城後に 他に移りて 廃城となる(同上)
中世の 武家屋敷二棟 門土塀 平成中期 復元される(同上)
武家屋敷 切妻屋根の 平屋建て 当時の武士の 人形飾り(同上)
河野氏は 二百五十年 伊予の守護 長宗我部氏に 敗れるまでは(同上)
松山は 百名城が 二ヶ所あり 中世近世 移ろいを見る(同上)
日和佐城 城郭不詳 山城で 室町時代 日和佐氏築く(日和佐城)
模擬天守 三層三階 町施設 昭和後期の コンクリート造(同上)
ウミガメの 産卵地たる 大浜が 城から見えて 感慨も湧く(同上)
萩城は 江戸慶長期 築城で 毛利輝元 指月の山に(萩城跡)
輝元が 広島城を 築城し 十五年後に 新たな城を(同上)
萩城は 百名城で 国史跡 指月の山は 国の天記で(同上/城郭26) 61歳
山頂に 詰丸要害 築かれる 徳川幕府 念頭にあり(同上)
天守台 五層五階の 天守消え 封建制度 同じく消える(同上)
指月山 三方海に 囲まれて 難攻不落 海城であり(同上)
幕末の 原動力は 萩城下 尊王攘夷 倒幕志向に(同上)
東園は 二ノ丸内の 庭園で 七代藩主 旧園整備(同上)
林泉の 回遊式の 庭園で 池の奥には 御殿再建(同上)
東園や 六景観と 二十勝 素人目には 判然とせず(同上)
鶴江台 テーブル状の 小島なり 萩市内では 隠れた名所(同上)
出雲路に 本宮山城 古城跡 鎌倉初期に 大野氏築く(本宮山城跡)
山城の 城井ノ上城は 鎌倉期 宇都宮氏が 豊前に築く(城井ノ上城跡)
桃山期 黒田孝高 攻め込んで 四百年の 山城消える(同上)
平戸城 百名城の 築城は 桃山末期 松浦鎮信(平戸城)
重厚な 北虎口門が 入口に 江戸中期築 狸櫓も(同上)
江戸時代 六万石の 平戸藩 平穏無事に 十二代経る(同上)
模擬天守 三層五階 望楼で 昭和中期の コンクリート造(同上)
附櫓 一層のみが 板張りで 破風は控え目 シンプルな天守(同上)
名君の 松浦静山 文筆家 甲子夜話読んだ 事思い出す(同上)
二ノ丸の 見奏櫓 復元で 二層二階の コンクリート造(同上)
松浦氏は 朝鮮出兵 一軍で 薩摩と同じ 陶工を連れ(同上)
二ノ丸の 地蔵坂櫓 北側で 高石垣に 二層二階が(同上)
二ノ丸の 懐柔櫓 東側 二層二階は 立入禁止(同上)
山鹿流 築城法の 城郭は 十五年もの 歳月要し(同上)
石田城 江戸後期築 海城で 福江藩主の 五島氏による(石田城)
幕末の 新たな城は 珍しき 北海道と 福江島のみ(同上)
天守風 三層三階 資料館 平成元年 二ノ丸跡に(同上/城郭27) 61歳
大手門 唯一残る 城郭で 簡素な造り 薬医門風(同上)
太宰府の 特別史跡 大野城 大和時代に 山城築く(大野城跡)
城跡の 四王寺山の 標高は 四百十と 意外と高く(同上)
盲目の 玄清法師 墓ありき 筑前琵琶の 創始者とされ(同上)
南側 太宰府口の 城門に 日本最古の 土塁が残る(同上)
城壁は 約七キロの 外周で 日本一の 古代山城(同上)
城跡に 毘沙門天王 鳥居立つ 昭和前期の 野暮な建立(同上)
攻めて来る 新羅の軍を 警戒し 守る山城 朝鮮式で(同上)
大野城 百名城に 選ばれる 古代近世 分離すべきで(同上)
名護屋城 豊臣秀吉 築城の 朝鮮侵攻 前線基地で(名護屋城跡)
城跡は 五万余坪の 広大さ 特別史跡 百名城に(同上)
最盛期 十万人が 城に詰め 百二十ヶ所 陣屋も置かれ(同上)
一度目の 文禄の役 日本軍 十五万余が 朝鮮渡海(同上)
南西の 隅櫓台 本丸に 礎石が残り 輪郭を見る(同上)
二ノ丸は 長方形の 石垣で 樹木数本 枝葉を競う(同上)
開戦の 三ヶ月後 平壌に 小西行長 一番隊は(同上)
秀吉は 本丸御殿で 謁見す 三百畳の 広間の中で(同上)
明軍の 参戦により 八道の 侵攻作戦 紆余曲折を(同上)
搦手の 弾正丸は 五奉行の 浅野長政 居館の跡で(同上)
開戦の 一年半後 休戦し 文禄の役 次の戦へ(同上)
武断派の 加藤清正 文治派の 小西行長 対立もせし(同上)
天守閣 五層七階 望楼で 大阪城を 凌ぐ規模かと(同上)
文禄と 慶長の役 名護屋城 城跡眺め 学ぶ機会に(同上)
井戸見ては 十万人の 悩み知る 水の不足で 喧嘩絶えずと(同上)
宗茂が 蔚山城の 戦いで 加藤清正 窮地を救う(同上)
二回目の 慶長の役 集結は 皮肉なことに 秀吉の死で(同上)
終戦後 朝鮮国は 通信使 派遣をしては 日本重視を(同上/城郭28) 61歳
明の国 朝鮮出兵 契機とし 政情不安 その後滅亡(同上)
先陣の 小西行長 殿で 島津義弘 これを援護す(同上)
記念碑は 東郷元帥 揮毫とか 秀吉の夢 明治に叶う(同上)
伊勢志摩の 波切城の 築城は 南北朝期 川面氏による(波切城跡)
水軍の 九鬼氏が城を 受け継いで 鳥羽城移築 前まで居城(同上)
国史跡 山形城の 築城は 南北朝期 斯波兼頼が(山形城)
二ノ丸の 東大手門 復元す 平成三年 門櫓共(同上)
江戸時代 最上氏改易 その後は 水野氏までは 十二家替わり(同上)
城郭の 復元進み 本丸に 高麗門や 土塀加わる(同上)
槍を手に 最上義光 馬上像 百名城の 名に相応しく(同上)
本丸の 一文字門 大手橋 平成中期 復元される(同上)
城の名は 砂沢城が 正式で 戦国後期 五十目氏居城(砂沢城跡)
模擬天守 三層四階 資料館 昭和後期 今クリード造(同上)
下野の 宇都宮城 築城は 平安末期 宇都宮氏が(宇都宮城)
江戸時代 日光参拝 将軍の 宇都宮城 宿泊所にも(同上)
木造の 富士見櫓は 二階建て 平成中期 復元される(同上)
本丸の 清明台に 櫓建つ 二層二階は 天守を兼ねて(同上)
入れ替わり 宇都宮藩 激しくて 戸田家最後に 十家に及ぶ(同上)
有名な 吊天井は 濡れ衣か 本多正純 故郷で死す(同上)
館風 清明館が 本丸に 平成期築 多目的施設(同上)
忍城は 室町後期 築城で 武蔵七党 成田氏による(忍城)
江戸時代 四家が統治 忍藩は 十万石で 松平氏に(同上)
模擬天守 三層三階 資料館 昭和末期に 再建される(同上)
百名山 百名城に 百観音 振り回されず 我れ歩み行く(同上)
忍城は 難攻不落 浮き城で 石田三成 落城できず(同上)
本丸に 博物館が 建てられて 行田名産 足袋など展示(同上)
国史跡 鉢形城の 築城は 室町後期 長尾景春(鉢形城跡)
戦国期 後北条氏の 要塞に 上杉武田 侵攻防ぐ(同上)
城跡は 八つの曲輪 点在す 百名城の 評価もされて(同上)
入口の 三の曲輪に 城門と 土塀の一部 仮想復元(同上)
切妻の 小さな館 復元す 秩父曲輪に 中世を見る(同上)
堀切に ハナダイコンが 群生し 桜以外に 目を見張る(同上)
諏訪神社 戦国時代 創建で 唯一残る 城の建物(同上)
桃山期 小田原攻めの 一環で 鉢形城は 初の開城(同上)
包囲した 三万五千 敵方を 三千の兵 ひと月籠城(同上)
開城後 鉢形城は 廃城し 深沢川に 時は流れる(同上)
外曲輪 鉢形城の 歴史館 平成中期 町が開設(同上/城郭29) 62歳
山内 上杉氏と 扇谷 上杉氏との 攻防の城(同上)
室町期 太田道灌 城を攻め 長尾景春 追放される(同上)
笠間城 鎌倉前期 築城で 笠間時朝 佐白山上に(笠間城跡)
山麓に 浅野長直 下屋敷 赤穂以前は 笠間藩主で(同上)
笠間氏は 十八代も 君臨し 桃山時代 突如滅亡(同上)
笠間藩 九家が藩主 交代し 八万石の 牧野家最後(同上)
城跡に 治功神社 社殿建つ 牧野氏祖先 その他祭神(同上)
中腹の 八幡台は 櫓跡 明治前期に 櫓は寺に(同上)
山頂の 佐志能神社 鎮座する トヨキイリヒコ 祭神として(同上)
城下には 大石邸の 跡地あり 内蔵助祖父 暮らした歴史(同上)
赤穂市の 大石邸に 比べれば 荒れた史跡は 雲泥の差で(同上)
国史跡 金山城の 築城は 室町後期 岩松氏による(新田金山城跡)
関東に 石垣のある 山城は 希少とされて 百名城に(同上)
空堀の 石垣間の 橋狭き いざ橋落す 工夫もなされ(同上)
岩松氏 由良氏に城を 乗っ取られ 由良氏の時代 六十余年に(同上)
見上げれば 大手虎口に 石垣に 復元された 長屋が建ちし(同上)
日ノ池や 月ノ池より やや広く 金山城の 時のモニュメント(同上)
本丸に 新田神社の 社殿建つ 明治八年 義貞祀り(同上)
戦国期に 後北条氏に 降伏し 小田原攻めで 廃城となる(同上)
山麓に 石垣模様 外壁が 特徴的な ガイダンス施設(同上)
箕輪城 百名城で 国史跡 戦国中期 長野氏築く(箕輪城跡)
長野氏は 三代にして 武田氏の 侵攻受けて 城明け渡す(同上)
城跡は 十四万坪 広大で 曲輪十ヶ所 段丘の上(同上)
武田氏後 織田・後北条 徳川と 城主は移り その後廃城(同上)
沼田城 室町後期 築城で 沼田顕泰 河岸段丘に(沼田城跡)
安土期に 真田信幸 奪取して 江戸初期までの 居城としたり(同上)
沼田藩 真田家以降 二家を経て 最後は土岐家 三万余石(同上)
鐘楼は 二層四階 袴腰 昭和中期に 移築復元(同上)
北面に 円錐形の 戸神山 真田時代の 金鉱山で(同上/城郭30) 62歳
日本一 重さ一トン 天狗面 大きさならば 迦葉山が上(同上)
昭和初期 英霊殿は 創建す 日清日露 戦死者祀り(同上)
土岐氏より 真田時代が 親しまれ 真田信之 小松姫像(同上)
上州の 高崎城の 築城は 桃山時代 井伊直政が(高崎城跡)
七家経る 高崎藩主 再任の 松平氏が 八万石で(同上)
入口に 敬礼姿の 幼児像 西望作の 将軍の孫(同上)
三ノ丸 乾櫓は 二階建て 昭和後期に 移築復元(同上)
房総の 大多喜城の 築城は 戦国中期 真里谷氏による(大多喜城)
五家を経て 大多喜藩の 六家目は 松平氏が 二万石にて(同上)
模擬天守 三層四階 コンクリで 昭和後期築 県博物館(同上)
館内は 歴史資料の 展示室 刀剣甲冑 森家文書も(同上)
名の知れた 城主と言えば 桃山期 本多忠勝 十万石で(同上)
厩橋 前橋城の 築城は 室町中期 長野方業(前橋城跡)
戦国期 後北条氏に 攻められて 長野氏敗れ 越後に逃る(同上)
江戸時代 前橋藩の 政庁に 十七万石 松平氏が(同上)
大胡城 戦国前期 築城で 東毛豪族 大胡氏による(大胡城跡)
上州は 上杉武田 後北条 巴戦なり 城の争奪(同上)
訪れる 人などいない 城跡で 二ノ丸の中 愛車を停める(同上)
空堀に 架かる木橋が 唯一の 復元された 建造物で(同上)
江戸前期 前橋藩の 管轄に 城郭破棄し 廃城となる(同上)
面白き 太鼓櫓の 石垣に 遊び心か ハトの切り絵が(松山城)
筒井門 昭和戦後に 放火され 昭和中期に 木造復元(同上/城郭31) 62歳
城郭の 松山城は 見本市 四十棟が 勝山の中(同上)
松山の 街を見下ろし 酒飲めば さながら我れは 城主となりて(同上)
大洲城 四層四階 天守閣 市民の寄付で 木造復元(大洲城)
重文の 櫓四棟 大洲城 江戸後期築 二層二階で(同上)
宇和島に 天守が一基 残りけり 創建当時は 望楼天守(宇和島城)
飫肥城は 南北朝期 築城で 日向の土豪 土持氏による(飫肥城跡)
大手門 昭和後期の 復元で 百名城の 雰囲気感ず(同上)
戦国期 伊東島津の 奪い合い 秀吉に付き 伊東氏勝利(同上)
本丸に 城郭風の 資料館 昭和後期に 開設されて(同上)
堅牢な 城には見えぬ 縄張りで 水堀わずか 櫓は二ヶ所(同上)
武家屋敷 御殿を模した 木造で 昭和後期の 八棟造り(同上)
江戸時代 伊東氏による 飫肥藩は 五万余石で 十四代を(同上)
飫肥藩は 植林事業 強化して 領民二分で 藩は一分を(同上)
国史跡 人吉城の 築城は 鎌倉前期 相良長頼(相良城跡)
水堀に 江戸中期築 御門橋 御館跡は 神社の鳥居(同上)
江戸時代 人吉藩も 相良氏が 二万余石で 十六代を(同上)
明治初期 西南戦争 巻き込まれ 城は焼失 哀れな面も(同上)
白塀の 水の手門の 復元は 予算の都合 中途半端に(同上)
御館の 堀合門は 四脚門 平成中期 復元されて(同上)
九州の 百名城を クリアして 満足感は 胸八分目(同上)
土佐の国 中村城の 築城は 室町後期 為松氏による(中村城)
江戸初期に 山内氏が 改修し 一城令で あえなく廃城(同上)
模擬天守 四層五階 資料館 昭和後期の コンクリート造(同上)
中村に 一条教房 下向して 展示室にも 京文化あり(同上)
陶芸に 縄文土器も 並べられ 器の歴史 一万年に(同上/城郭32) 63歳
天守から 眺める道に 自転車で 四国霊場 旅した日々が(同上)
平穏な 中村城は 戦国期 長宗我部氏に 討ち滅ぼされ(同上)
城跡に ソメイヨシノが 五百本 花咲く頃に また訪ねたき(同上)
山城の 川之江城の 築城は 南北朝期 土肥義昌が(川之江城)
土肥氏後は 城主は九氏 変遷し 江戸前期から 天領となる(同上)
隅櫓 涼櫓や 櫓門 昭和後期の 模擬新築で(同上)
望楼の 三層四階 模擬天守 昭和後期に コンクリートで(同上)
天守内 歴史資料の 展示室 大名駕籠や 武具など多し(同上)
江戸前期 西条陣屋 築造で 三万石の 一柳氏(西条陣屋跡)
江戸中期 一柳氏 改易し 松平氏が 西条藩主に(同上)
大手門 江戸後期築 薬医門 西条高校 正門となる(同上)
夢に見た 松山城の 雪景色 温暖化かな 今年叶わず(松山城)
本壇の 連立天守 壮観で 和歌山姫路 並ぶ三大(同上)
松山や 五十万人 城下町 十五万石が 金沢を超え(同上)
全面と 側面からも 矢弾飛ぶ 乾櫓の 守りは堅く(同上)
黒茶けた 下見板張り 調和する 松山城の 特徴であり(同上)
石垣と 乾櫓は 築城時 正木城から 移築されしと(同上)
松山に 過ぎたるものが 二つあり 松山城と 道後温泉(同上)
安芸城は 鎌倉末期 築城で 土佐の国人 安芸親氏が(安芸城跡)
戦国期 長宗我部氏に 攻められて 安芸氏は自害 親泰入城(同上)
城内の 藤崎神社 創建は 城主五島氏 一族祀り(同上)
江戸初期に 山内家臣 五藤氏が 千石取りで 城の主に(同上)
久保田城 江戸慶長期 築城で 二十万石 佐竹義宜(久保田城)
表門 平成中期 復元で 石高誇る 楼門造り(同上/城郭33) 63歳
衰退の 波の狭間に 久保田城 昔に戻る 熱意消え失せ(同上)
久保田城 天守築かず 土塁上 御隅櫓の 座敷を建てて(同上)
世田山の 笠松城の 築城は 南北朝期 伊予河野氏が(笠松城跡)
北朝の 七千人に 包囲され 激戦の前 南朝負ける(同上)
首里城や 懐かしきかな 守礼門 沖縄返還 その年眺め(首里城)
重文の 園比屋武御嶽 石門は 唯一残る 城壁門で(同上)
正門の 歓会門は 楼門で 石のアーチに 入母屋を載せ(同上)
首里城は 百名城で 国史跡 室町期頃 尚巴志築く(同上)
入母屋の 奉神門は 壮大で 平成四年 復元される(同上)
正殿は 二層三階 入母屋で 下層正面 大きな唐破風(同上)
奥書院 入母屋造り 板張りで 正面五間 吹き放しなり(同上)
御差床の 玉座の柱 頭貫 豪華絢爛 装飾がされ(同上)
一階に 国王執務 下庫理が 変柄色に 気は落ち着かず(同上)
首里城は 明治前期に 廃城し 昭和四年に 国宝指定(同上)
国史跡 中城城 築城は 室町中期 護佐丸按司が(中城城跡)
江戸時代 琉球侵攻 薩摩藩 和睦を受けて 番所を築く(同上)
中城 先の大戦 幸いに 被害少なく 百名城に(同上)
国史跡 勝連城の 築城は 室町前期 勝連按司が(勝連城跡)
沖縄の 城跡を見て 思う事 海より他に 守るものなし(同上)
王府軍 室町後期 攻め込んで 城主阿麻和利 死して廃城(同上)
山頂の 一ノ郭の 石垣は 本土に劣らぬ 打込み接ぎで(同上)
読谷の 座喜味城は 国史跡 室町中期 護佐丸築く(座喜味城跡)
一時期は 米軍基地に 摂取され 返還されて 世界遺産に(同上)
城壁に 一ノ郭は 囲まれて 建物跡の 礎石が残る(同上)
国史跡 今帰仁城 築城は 室町前期 湧川王子(今帰仁城跡)
郭には 集落跡の 杭が立つ 常時城詰 緊迫感ず(同上)
沖縄の 世界遺産は 遠すぎて 百名山の 後になるとは(同上/城郭34) 63歳
屋嶋城 大和時代の 築城で 瀬戸内海の 四国の防御(屋嶋城跡)
城壁は 平成中期 修復で 屋島北嶺 西側に立つ(同上)
大和期の 白村江の 戦いに 日本大敗 国防強化(同上)
知覧城 平安末期 築城で 知覧忠信 シラス台地に(知覧城跡)
国史跡 十四万坪 広大で 未調査区域 堀の木立に(同上)
室町期 島津配下の 城となり 佐多忠光が 新たな城主(同上)
本丸の 曲輪以外に 七曲輪 出城や屋敷 八ヶ所ほども(同上)
一時的 伊集院氏に 乗っ取られ 奪還しては 江戸初期を経る(同上)
清正の 熊本城は 不滅なり 廃城に勝ち 地震乗り越え(熊本城)
屋根瓦 崩れて哀れ 天守閣 四十年過ぎ 眺める景色(同上)
登城は 百名城で 最多なり 松山城は 四季折々を(松山城)
春や今 松山城は 観光地 百名城で 桜百選(同上)
入口に 新たに設置 鳥瞰図 三年前に 有ればと思う(岡城跡)
岡城の 桜見たさに 来てみれば 山城なのに 葉桜気味に(同上)
二ノ丸に 御風呂屋模した 休憩所 昨年の秋 開設されて(同上)
岡城は 桜百選 名所なり ソメイヨシノが 千五百本(同上)
臼杵城 国の史跡で 築城は 戦国後期 大友宗麟(臼杵城跡)
江戸時代 稲葉氏移封 五万石 臼杵藩主で 十五代経る(同上)
城壁に 卯寅口門 脇櫓 江戸後期築 重箱造り(同上)
二ノ丸に 大門櫓 楼門が 平成中期 模擬復元す(同上)
庭園に 護国神社が 建てられて 城の景観 失われる行く(同上)
阿波阿南 岩脇城の 築城は 南北朝期 三枝氏による(岩脇城跡)
城跡の 面影殆ど 消え失せて 展望台に 景色が残る(同上)
屋嶋城 千間堂跡 登城し 未だ見ぬ景色 眺めんとする(屋嶋城跡)
城域は 南北嶺に 点在し 訪ね歩くも 右往左往す(同上)
撫養城は 鎌倉時代 築城か 小笠原氏が 妙見山に(撫養城)
三好氏や 長宗我部氏と 経た後に 蜂須賀氏時代 廃城となる(同上)
模擬天守 三層三階 記念館 昭和後期の コンクリート造(同上)
堀田城 払田柵跡 真山に 室町時代 堀田氏築く(堀田城跡/城郭35) 63歳
堀田氏は 角館城主 戸沢氏の 配下とされて 江戸初期廃城(同上)
国史跡 脇本城の 築城は 鎌倉後期 幕府方とも(脇本城跡)
室町期 安東政季 入城し 五代続いて 江戸初期廃城(同上)
城域は 四十五万 坪もあり 見渡す限り 曲輪と土塁(同上)
内館は 高所附近の 主郭なり 城主の館 目に浮かぶかな(同上)
城跡は 男鹿半島の 入口で 寒風山や 真山が見え(同上)
戦国期 安東愛季 君臨し 十万石の 領地を誇る(同上)
山城の 西馬音内城 築城は 鎌倉後期 小野寺道直(西馬音内城跡)
城好きが 遠くへ足を 伸ばす時 我れは地元で 城めぐりせり(同上)
戦国期 茂道の頃 小野寺氏 内紛起こり 最上氏侵攻(同上)
小野寺氏 西馬音内城 拠点とし 三百余年 八代続く(同上)
関ヶ原 戦い時には 上杉に 味方したため 廃城となる(同上)
上野の 猿ヶ京城 築城は 室町後期 上杉顕定(猿ヶ京城跡)
温泉を 訪ねてみれば 城の跡 模擬石垣に 石塔が建ち(同上)
月夜野の 名胡桃城 築城は 室町後期 沼田氏による(名胡桃城跡)
戦国期 後北条氏と 真田氏の 名胡桃城は 争奪戦に(同上)
十年の 争奪戦は 天正期 後北条氏が 滅び廃城(同上)
武蔵にも 松山城の 名の城が 室町前期 上田氏築く(武蔵松山城跡)
戦国期 上杉朝定 入城し 後北条氏と 争奪戦に(同上)
山頂の 本曲輪跡 基礎残る 岩室観音 堂宇の跡か(同上)
上杉氏 川越夜戦で 敗走し 松山城は 後北条氏に(同上)
上田氏は 後北条氏に 寝返りて 松山城に 返り咲くかな(同上)
江戸初期に 松山藩に なるものの 移封と共に 廃城となる(同上/城郭36) 63歳
国史跡 比企周辺の 四ヶ城 城館跡群 松山城も(同上)
山城の 河村城の 築城は 平安末期 河村氏による(河村城跡)
建武期に 南北朝の 戦いで 落城しては 河村氏去る(同上)
城域は 二万五千坪 東西に 尾根を隔てて 二つに分れ(同上)
城跡は 歴史公園に 整備され 空堀跡に 新たな橋が(同上)
戦国期 後北条氏の 支配下に 小田原攻めで 廃城となる(同上)
小倉城 築年不詳 室町期 両上杉氏 戦ありきと(武蔵小倉城)
戦国期 城主となりし 遠山氏 後北条氏の 重臣であり(同上)
小倉城 後北条氏の 滅亡で 廃城となり 国の史跡に(同上)
国史跡 菅谷館は 鎌倉期 畠山氏が 平城築く(菅谷館跡)
山内 上杉氏継ぐ 室町期 拠点となりて 城を再興(同上)
戦国期 後北条氏に 奪取され 廃城までは 武蔵の支城(同上)
嵐山の 杉山城は 山内 上杉氏による 築城とされ(杉山城跡)
お祝いの 幟が上がる 城跡に 続百名城 選定されて(同上)
城域は 四万二千 坪もあり 十の郭が 山城の中(同上)
謎多き 杉山城の 来歴は 後北条氏の 関わりなしと(同上)
郭下 中学校の 校舎見え 中世現生 ここに共存(同上)
山城の 岩櫃城の 築城は 南北朝期 吾妻氏による(岩櫃城跡)
室町期 吾妻氏子孫 斉藤氏 城主となりて 城を強固に(同上)
戦国期 真田氏勢に 攻め入られ 斉藤氏負け 越後に逃避(同上)
山頂の 本丸跡の 幟にも 真田びいきの六文銭が(同上)
江戸初期に 幕府に憚り 廃城に 真田信幸 苦汁の決意(同上)
太鼓門 平成中期 復元で 二ノ丸跡に 旧観戻る(松本城)
終戦後 松本城の 天守群 国宝修復 第一号で(同上)
久々に 天守に登り 内覧す 五度の訪問 二回目となる(同上)
四階に 簾の囲い 板の間が 戦支度の 御座所の様子(同上)
六階に 写真パネルが 四方向 それに合わせて 撮影したり(同上/城郭37) 63歳
昔見た 山への思い 進化して 北アルプスに 登り眺める(同上)
松本は 城の見学 以外にも 名所が多く 住みたい街で(同上)
本丸の 御殿焼失 江戸中期 二ノ丸御殿 政庁となる(同上)
遠眼鏡 辰巳附櫓 展示物 花頭窓から 覗いてみたし(同上)
風流な 月見櫓に 月なくも 雰囲気だけは 勾欄に見る(同上)
埋橋 改修するも 渡れない 橋の役割 放棄したかと(同上)
山城の 枡形城の 築城は 鎌倉初期に 稲毛氏による(枡形城跡)
氏親と 早雲連合 城に入り 立河原へと 戦さに挑む(同上)
堀切に 城の面影 残るのみ 戦国期後に 廃城となり(同上)
久留里城 室町後期 山城で 上総武田氏 築城せしと(久留里城)
戦国期 武田氏子孫 真里谷氏 衰退しては 里見氏が継ぐ(同上)
二ノ丸の 薬師曲輪は 展望所 眼下に望む 三ノ丸跡(同上)
寄棟の 久留里城郭 資料館 昭和後期に 開設されて(同上)
二ノ丸に 新井白石 像が立つ 父に従い 久留里に住す(同上)
望楼の 二層三階 天守閣 昭和後期に 浜松城模し(同上)
展望は 二ノ丸とほぼ 同じかな 本丸跡を 俯瞰するのみ(同上)
里見氏は 秀吉時代 禁犯し 久留里の領地 家康の手に(同上)
模擬天守 横には古き 天守台 珍しきなり 土盛りの基壇(同上)
久留里藩 大須賀土屋 経た後に 黒田直純 三万石で(同上)
平山の 石神井城の 築城は 鎌倉後期 豊嶋氏による(石神井城跡)
城跡は 自然要害 見る如く 三宝寺池 石神井川と(同上)
室町期 太田道灌 攻め入りて 豊嶋氏滅び その後廃城(同上)
江戸城は 百三十万 坪もあり 内郭だけど 日本最大(江戸城)
城めぐり 二十歳の頃と 変らない 城の魅力は 尽きることなく(同上)
江戸城は 特別史跡 重文は 門三棟と 寂しき限り(同上)
城見れば 流れる時の 間より 武士の世の中 ふと偲ばれる(同上)
天守閣 五層五階 地下一階 三度築かれ 再建されず(同上)
武道館 コンサートホール 名に高し 江戸城跡に 八角大堂(同上/城郭38) 64歳
江戸城で 現存する 建造は 櫓四棟 門十一棟(同上)
外苑に 旧三ノ丸 正門が 平川門で 江戸前期築(同上)
明治初期 東京城に 名を変えて 徳川家から 天皇家へと(同上)
石垣は 時代と共に 様変わり 切込み接ぎが 最終形で(同上)
下総の 関宿城の 築城は 室町後期 簗田氏による(関宿城)
戦国期 後北条氏が 三度攻め 北関東の 拠点としたり(同上)
模擬櫓 三層三階 天守風 平成期築 博物館で(同上)
城郭の 博物館は 多かれど 千葉県立は 外観優れ(同上)
江戸時代 関宿藩の 城となり 八家を経ては 久世家が最後(同上)
両側に 蔵と町家の 外観が 五百石舟 模型を展示(同上)
下総の 逆井城の 築城は 室町後期 逆井氏とか(逆井城)
戦国期 後北条氏が 侵攻し 北条氏繁 城を改築(同上)
城郭は 時代考証 忠実に 平成元年 木造復元(同上)
橋に塀 物見櫓と 城門と 黒を主体に 見事な調和(同上)
城郭は 小規模なから 完璧で ひと味違う 中世の城(同上)
主殿は 入母屋平入り すがる破風 大台城の 御殿復元(同上)
移築した 観音堂は 赤塗りで 寄棟造り 茅葺きの屋根(同上)
城山の 大権現の 祠建つ 一ノ曲輪の 木立の中に(同上)
戦国期 逆井城は 特色は 風魔忍者の 拠点地となり(同上)
小田城は 国の史跡で 築城は 鎌倉初期に 八田知家(小田城跡)
平城は 六万五千 坪もあり 水堀の中 六つの曲輪(同上)
八田氏は 常陸の守護と 御家人で 小田氏を名のり 戦国期まで(同上)
北畠 親房城に 陣を張り 南北朝期 南朝側に(同上)
戦国期 後北条氏と 上杉氏 その攻防に 小田氏巻き添え(同上)
佐竹氏に 小田氏は追われ 佐竹氏も 秋田に移封 江戸初期廃城(同上/城郭39) 64歳
旧常陸 土浦城の 築城は 室町中期 若泉氏が(土浦城)
戦国期 小田氏配下の 菅谷氏に 城主は代わり 佐竹と抗す(同上)
本丸の 東櫓は 二階建て 平成前期 木造復元(同上)
桃山期 結城氏家臣 多賀谷氏 城代となり 江戸期迎える(同上)
櫓内 博物館の 別館で 太鼓や鯱 展示もされて(同上)
江戸時代 土浦藩の 政庁に 六家が推移 最後土屋家(同上)
本丸の 太鼓櫓門 箱造り 江戸前期築 時刻を鳴らす(同上)
西櫓 崩壊するも 旧部材 再利用して 復元される(同上)
江戸前期 山本勘助 その子孫 武田流義の 築城残す(同上)
下総の 亥鼻城の 築城は 平安末期 千葉常重が(亥鼻城)
室町期 原胤隆に 攻められて 三百余年 千葉氏は滅ぶ(同上)
模擬天守 四層五階 付櫓 昭和中期の 博物館で(同上)
戦国期 真名城主の 三上氏に 原氏は敗れ 廃城となる(同上)
横須賀の 衣笠城の 築城は 平安後期 三浦為通(衣笠城跡)
頼朝の 挙兵に三浦氏 参戦し 石橋山で 敗れて安房に(同上)
鎌倉期 宝治合戦 北条氏 三浦氏を討ち 廃城となる(同上)
大善寺 衣笠城の 中に建ち 三浦為通 不動崇拝(同上)
国史跡 仙台城の 築城は 江戸慶長期 伊達政宗が(仙台城跡)
大手門 一部二階の 脇櫓 昭和中期に 唯一復元(同上)
城跡の 所有は三者 複雑で 市と大学と 神社に分れ(同上)
本丸に 見聞館を 開設し 百名城の 空気ガイダンス(同上)
昭忠碑 天守築かぬ 城に建つ 明治政府の 思いのままに(同上)
トビの像 昭忠碑より 落下して その後は地上 空に戻れず(同上)
本丸で 城にゆかり ある物は 政宗像と 荒城の月(同上)
戦時中 政宗像は 撤去され 熔解されず 再び城に(同上)
神社側 青葉城と 呼称して 仙台城は 市側の呼び名(同上)
哀れかな 土井晩翠の 胸像は 六十万石 消えた城には(同上)
出羽国 松山城の 築城は 江戸天明期 酒井氏による(出羽松山城跡)
松山は 庄内藩の 支藩にて 盛時石高 二万五千石(同上)
大手門 江戸寛政期 再建で 山形県で 唯一現存(同上)
城跡の 伝承館は 館風 昭和後期に 開設されて(同上/城郭40) 64歳
陸奥相馬 中村城の 築城は 平安初期に 田村麻呂とも(相馬中村城跡)
中村氏 南北朝期 館建て 戦国初期まで 城主務める(同上)
城跡は 中村神社 境内で 史跡指定 除外されたり(同上)
戦国期 相馬隆胤 入城し 北の難敵 伊達氏と抗す(同上)
江戸時代 相馬利胤 世襲して 六万石の 中村藩に(同上)
上田城 国の史跡で 築城は 桃山時代 真田昌幸(上田城)
本丸の 東虎口の 櫓門 平成前期 復元されて(同上)
見残しの 城郭訪ね 甲府城 平成後期 城門復元(甲府城)
五年前 鉄門は 復元す 七年前は 工事途中で(同上)
西口の 内松陰門 薬医門 平成前期 復元されて(同上)
裏門の 山手御門 復元は 平成中期 高麗門で(同上)
二階には 舞鶴城の ジオラマが 地元の人は 舞鶴と呼ぶ(同上)
時の鐘 六階建ての レンガ造 復元された ランドマークで(同上)
遊亀橋 立てば正面 天守台 築造されぬ 幻浮かぶ(同上)
十八の 初の信州 小諸城 回を重ねて 四度目となる(小諸城)
長屋風 島崎藤村 記念館 谷口吉郎 昭和期設計(同上)
屋代城 有明山の 山城で 戦国前期 屋代氏築く(屋代城跡)
屋代氏は 武田氏側に 臣従し 川中島へ 数度出陣(同上)
荒砥城 金比羅山の 山城で 室町時代 山田氏築く(荒砥城跡)
城跡に 中世の城 復元し 平成前期 史跡公園に(同上)
本郭 兵舎や館 並び建ち 井形に組んだ 物見櫓も(同上)
切妻の 城主の館 裳階付 床は板張り 一段高く(同上)
戦国期 山田氏滅び 屋代氏が 本城を去り 城主となりて(同上)
二ノ郭 虎口板塀 馬防柵 井楼櫓と 長屋の兵舎(同上/城郭41) 64歳
山城の 本格的な 復元は 荒砥城ほか 数えるほどで(同上)
古常滑 大甕展示 目を見張る 他の遺跡で 出土したとか(同上)
武田氏が 滅んだ後は 上杉氏 屋代氏を討ち 城は廃城(同上)
千曲川 親しみやすき 川の名で 信濃川へと 名を変えるまで(同上)
上山田 温泉街を 眺め見る 下城の後の 楽しみ浮かぶ(同上)
飯田城 平山城の 築城は 室町前期 板西氏とか(飯田城跡)
エドヒガン シダレザクラが 結合し 四百年の 夫婦桜に(同上)
二ノ丸に 飯田市美術 博物館 奇妙な屋根が 新たな天守(同上)
戦国期 甲斐武田氏に 組み込まれ その滅亡で 坂西氏消ゆ(同上)
坂西後 城主は変り 江戸時代 飯田藩庁 三家がリレー(同上)
本丸に 長姫神社 社殿建つ 藩主堀氏の 三代祀り(同上)
南牧 海尻城の 築城は 戦国前期 井出以季とか(海尻城跡)
武田氏と 村上氏との 合戦が 海尻城で 繰り返されて(同上)
武田側 板垣隊の 謀略で 落城しては その後廃城(同上)
国史跡 村上城は 本庄氏 室町後期 築城したり(村上城跡)
戦国期 上杉勢が 攻め入るも 手堅く守り 桃山期へと(同上)
江戸時代 村上藩の 政庁に 八家を経ては 内藤家継ぐ(同上)
復元の 城郭を見ぬ 寂しさは 甲冑脱いだ ふんどし武士で(同上)
江戸前期 三層四階 天守燃え 再建されず 三百五十年(同上)
本丸に 舞鶴城趾 石碑立つ 舞鶴城は 十八もあり(同上)
城跡は 観光資源 投資して 櫓一棟 有ればと願う(同上)
姫神の 松山城の 築城は 平安後期 安倍氏とされる(羽後松山城跡)
城跡に 姫神ハイツ レストラン 閑散として 秋風が吹く(同上)
国史跡 鳥海柵の 築城は 平安中期 先の安倍氏か(鳥海柵跡)
朝廷の 胆沢城を 念頭に 鳥海柵は 築かれたとも(同上)
発掘し 竪穴住居 五十棟 その概要は うやむやのまま(同上)
米沢の 館山城は 国史跡 戦国中期 伊達氏が築く(館山城跡)
鬼面川 大樽川に 挟まれた 館山城は 平山城で(同上)
政宗が 岩出山城に 転居して 桃山時代 廃城となる(同上)
本丸の 城主の館 杉の木に 発掘すれば どんな遺物が(同上/城郭42) 65歳
生誕の 城を旅立つ 政宗は 二十三歳 東北の覇者(同上)
登城路に コンクリ蓋の カルバート 発電施設 導入水路か(同上)
大正期 水力発電 施設建ち 今も現役 水音がする(同上)
多賀城は 特別史跡 築城は 奈良神亀期に 大野東人(多賀城跡)
久々に 訪ねて見ても 変りなし 外郭南門 復元を待つ(同上)
本荘の 鶴舞城の 築城は 江戸慶長期 最上氏家臣(鶴舞城跡)
最上氏が 改易されて 一時的 本多正純 左遷の城に(同上)
望楼の 本丸の館 催事場 平成中期 新築されて(同上)
藩校の 修身館を イメージし 平成中期 城に再現(同上)
江戸前期 六郷政乗 入封し 二万余石の 本荘藩に(同上)
本荘に 一年勤務 若き日を 空しく思う 城跡知らず(同上)
模擬櫓 宝形造り 二階建て 腰袴付け 勾欄回す(同上)
山根館 室町中期 築造で 仁賀保氏先祖 大井友挙(山根館跡)
登城路に 馬頭観音 祀る堂 六角堂が 切妻屋根に(同上)
江戸初期に 国替えとなり 山根館 百三十年 居城は消える(同上)
院内に 中世の城 良く残り 油田開発 影響されず(同上)
羽後矢島 八森城の 築城は 室町中期 大井義久(八森城跡)
江戸初期は 最上氏領に なるももの 生駒氏入封 矢島立藩(同上)
秋田城 奈良天平期 築城で 律令国家 最北の城(秋田城跡)
久々に 訪ねて見れば 東門が 復元されて イメージ変る(同上)
渤海の 国と交流 秋田城 迎賓館の 役割もせし(同上)
見残しの 山形城の 三ノ丸 宅地化の中 土塁が残る(山形城跡)
最上氏は 五十七万 石高で 城郭規模は 東北屈指(同上)
最上氏が 改易されて 仁賀保氏が 故地へと戻り 陣屋を築く(仁賀保陣屋跡)
仁賀保氏の 一万石は 分知され 旗本となり 分家存続(同上)
陣屋跡 仁賀保神社の 社殿建つ 初代七代 仁賀保氏祀り(同上)
陣屋跡 見晴らしの良い 高台で 民家密集 平沢の街(同上)
北西の 泉ヶ岳の 更に奥 船形山の 白い船首が(仙台城跡/城郭43) 65歳
城跡に 目を引くものは 二つのみ 政宗像と 護国神社で(同上)
みちのくの 船岡城は 山城で 鎌倉初期に 四保氏が築く(船岡城跡)
江戸前期 城主は家臣 原田甲斐 伊達騒動で お家断絶(同上)
原田氏後 新たな城主 柴田氏で 明治へ続き 町の名となる(同上)
庄内の 鶴ヶ岡城 花見頃 桜百選 七百余本(同上)
望楼の 三層四階 模擬天守 天鷺城は 歴史資料館(天鷺村天鷺城)
来る度に 観光客は 目減りせし 天鷺村に 花は咲くとも(同上)
亀田城 亀田藩庁 築城は 江戸元和期に 岩城吉隆(亀田城)
城跡に 佐藤八十八 美術館 平成三年 居館復元(同上)
豪商が 三代収集 美術品 休館続き 未だ目にせず(同上)
高城の 赤尾津城の 築城は 南北朝期 小笠原氏と(同上)
彦御蔵 土蔵造り 二階建て 唯一残る 江戸の城郭(盛岡城跡)
国史跡 盛岡城の 築城は 桃山時代 南部信直(同上)
玉手箱 また開けて見る 乙姫は 盛岡城の 姫より優し(同上)
旭城 鎌倉後期 熊谷氏 常葉地区に山城築く(常葉旭城)
室町期 常盤顕則 城を継ぎ 戦国期まで 五代が続く(同上)
模擬天守 二層二階の 展望所 昭和中期の コンクリート造(同上)
戦国期 田村氏配下 石沢氏 城主となりて 城を改修(同上)
相馬氏と 岩城氏との 連合が 落城させて 廃城となる(同上)
山麓に 城郭風の 集会所 児童生活 センターの名で(同上)
三春城 田村義顕 築城す 戦国前期 大志多山に(三春城跡)
藩講所 明徳堂の 表門 移築されつつ 小学校に(同上)
田村氏後 蒲生氏を経て 江戸前期 三万石で 松下氏継ぐ(同上)
松下氏 十六年後 改易に 秋田俊季 新たな藩主(同上)
秋田氏の 祖先名門 安東氏 三春に移り 五万五千石(同上)
三春には 半世紀越し 友もいて 親しみが増す 城下町かな(同上)
小高城 平山城の 築城は 南北朝期 相馬氏による(小高城跡/城郭44) 65歳
相馬氏が 中村城に 移るまで 二百六十 年月刻む(同上)
真壁城 国の史跡で 築城は 平安末期 真壁長幹(真壁城跡)
真壁氏は 鹿嶋神社を 勧請し 外曲輪跡 小社が残る(同上)
二ノ丸は ブルーシートが 被せられ 発掘調査 継続中か(同上)
真壁氏は 十八代も 居城して 佐竹氏移封で 角館へと(同上)
真壁氏後 浅野長重 入城も 笠間に移り 廃城となる(同上)
平城の 小堤城の 築城は 鎌倉後期 武石氏とか(亘理小堤城跡)
武石氏 南北朝期 亘理氏に 戦国期には 伊達氏と共に(同上)
山城の 宇津峰城は 国史跡 南北朝期 田村氏築く(宇津峰城跡)
登城路の 看板見ては 腰引ける マムシの大群 立入禁止(同上)
平城の 磐城平城 築城は 江戸慶長期 鳥居忠政(磐城平城跡)
城跡は 私有地多く 破却され 中門櫓 名ばかりとなり(同上)
二階建て 城郭風の 美術館 閉館されて 久しいようで(同上)
鳥居家後 内藤・井上 両家経て 磐城平藩 安藤家へと(同上)
城の名は 鶴舞城で あるけれど 紛らわしいと 本荘城に(本荘城跡)
城跡に 芭蕉翁碑 建立す 没二百年 記念の年に(同上)
外郭に 踏み入る渡橋 今はなし 下の国道 車優先(同上)
幕末の 戊辰戦争 政府方 煙硝倉に 火を付け退去(同上)
奥州の 水沢城の 築城は 不明なれども 葛西氏による(水沢城跡)
江戸初期に 伊達領となり 宗利が 水沢藩の 初代藩主に(同上)
本荘に 立ち寄る度に 弓櫓 立ちて眺める 鳥海の山(本荘城跡)
秋田でも 自慢のできる 城跡は 本荘城と 久保田城かな(同上)
続日本 百名城に 選ばれて 脇本城に 再び登る(脇本城跡)
出羽湊 檜山に分離 安東氏 脇本城に 愛季統合(同上)
館山の 岩谷堂城 築城は 平安末期 藤原氏とも(岩谷堂城跡)
江戸前期 伊達宗規か 入封し 二ノ丸跡に 政庁築く(同上)
二清院 藤原経清 清衡の 木像安置 八角堂に(同上)
木造の 展望台は 櫓風 眺め良からぬ 五千石かな(同上/城郭45) 66歳
みちのくの 藤原文化 絶えるとも 伊達政宗の 領地組みす(同上)
白老の 仙台藩の 陣屋跡 江戸安政期 築造されて(白老仙台藩陣屋跡)
陣屋跡 国の史跡や 二万坪 堀をめぐらし 二つの曲輪(同上)
江戸末期 ロシアの南下 警戒し 二十四ヶ所 蝦夷に陣屋を(同上)
長屋には 百二十名 藩兵が 仙台離れ 駐屯したと(同上)
アイヌとの 友好的な 交易し 毛皮手に入れ 寒さ凌いだと(同上)
本土では 戊辰戦争 勃発し 十二年後に 陣屋撤収(同上)
根室には 百名城の チャシ砦 四十五年 ゴールは長く(根室半島チャシ跡群)
国史跡 二十四ヶ所 築城は 十六世紀 以降二世紀で(同上)
シャシ群は 根室半島 北側に 多く集中 敵国後か(同上)
甲冑を 除くと武具は 日本なみ 戦う様子 想像の域(同上)
百名山 百名城を クリアして 残る目標 桜百選(同上)
春取湖 ハルトルチャランケ チャシ跡が 丘先式で 住居の跡も(春取湖チャシ跡)
釧路川 四十ヶ所が 流域に シャシ跡群と 確認されて(同上)
親ひだか シベチャリチャシ跡 国史跡 丘先式が 静内川に(シベチャリチャシ跡)
シャシ跡は 江戸寛文期 シャクシャイン 松前藩を 相手に蜂起(同上)
敗北の アイヌは哀し 隷属化 松前藩と 和人の前で(同上)
久々に 払田柵跡 訪ねれば 復元進み 史跡新たに(払田柵跡)
国史跡 払田柵の 築城は 平安初期と 推定されて(同上)
政庁の 黄褐色の 石塁が 独自の積みで 外郭沿いに(同上)
外郭に 東建物 復元す 切妻平屋 ベランダ付で(同上)
築城は 胆沢城とは 同じ頃 文献になく 柵は仮の名(同上)
政庁は 内郭の中 門四つ 建屋の跡は 五棟に及ぶ(同上)
真山に 中世に城 築かれて 廃墟とならず 城郭続く(同上)
長森の 東地区には 掘立の 平屋建物 二棟復元(同上)
都より 下向をしたる 役人は 出羽の山々 如何に眺めん(同上/城郭46) 66歳
不明なる 嗚呼幻の 雄勝城 払田柵に 重ね見るかな(同上)
長屋風 払田柵跡 案内所 切妻造り 越屋根を載せ(同上)
桂城は 大館城の 別名で 桃山時代 浅利氏築く(大館城跡)
江戸初期に 佐竹西家の 城となり 一万余石 十一代が(同上)
本丸の 跡に樹齢が 二百年 日本最大 シロヤナギ立つ(同上)
望楼の 宝形二階 桜櫓館 昭和初期築 城跡側に(同上)
山城の 稲庭城は 鎌倉期 羽後進出の 小野寺氏築く(稲庭城)
湯沢城 稲庭城後 築城で 桃山期まで 不動の城に(湯沢城跡)
桃山期 最上氏攻めて 落城す 家臣楯岡氏 新たな城主(同上)
江戸初期に 佐竹南家 入封し 八千余石 二十一代(同上)
城郭の 遺構一棟 表門 昭和後期に 公園移転(同上)
横手城 模擬天守閣 資料館 新たな展示 求めて登る(横手城)
城からの 鳥海山の 絵図見れば 蛇の崎橋を 渡る人影(同上)
明治期の 中山人形 多種多品 作家は一人 行く末案ず(同上)
絵の構図 鳥海山と 鐘楼と 蛇の崎の 横手川かな(同上)
鶴ヶ城 百名城で 国史跡 南北朝期 蘆名氏築く(会津鶴ヶ城)
みちのくの 若松城の 悲しみは 思い出すたび 胸が詰まれり(同上)
天守閣 五層五階の 櫓付 昭和中期に 外観復元(同上)
江戸期築 茶室麟閣 里帰り 平成二年 移築復元(同上)
麟閣は 蒲生氏郷 庇護をした 千少庵 作庭せしと(同上)
蘆名氏後 城主は四度 入れ替わり 保科正之 会津に根ずく(同上)
北出丸 昭和初期築 武徳館 入母屋二層 一階建てで(同上)
鶴ヶ城 会館が建つ 馬場の跡 土産屋兼ねた 食事の店で(同上)
会津向 羽黒山城 国史跡 安土時代に 蘆名氏築く(向羽黒山城跡/城郭47) 67歳
二の曲輪 展望に富み 井戸もあり 居館の跡と 推定されて(同上)
蒲生氏後 上杉領に 組み込まれ 朝鮮式の 城に改修(同上)
この城が 続百名城 選ばれて 見物するが 感動薄く(同上)
上杉氏 江戸慶長期 米沢へ 減封となり 城は廃さる(同上)
三芦城 石川有光 築城す 平安後期 八幡山に(石川城跡)
石川氏 桃山期まで 城主なり 二十八代 五百余年も(同上)
本丸に 石川城の 石碑立つ 三芦城の名 別名となる(同上)
城跡は 石都々古和気 神社でも 物見台跡 面影残る(同上)
平城の羽後吉田城 築城は 戦国中期 小野寺景道(羽後吉田城跡)
小野寺氏 改易となり 廃城に 三吉神社が 土塁に残る(同上)
明治期の 秋田における この地域 自由民権 発祥の地と(同上)
国史跡 鍋倉城の 築城は 戦国末期 阿曽沼氏とか(鍋倉城跡)
桃山期 遠野は南部 領となり 城主三転 治安は乱れ(同上)
江戸前期 八戸直義 入城し 城を改修 治世は続く(同上)
櫓風 展望台が 北端に 木造二階 洒落た造りで(同上)
不可解な 洗心のところ 平屋建て 二ノ丸跡に 新築されて(同上)
大慈寺の 南部家墓所を 移転とか 昭和中期に 二ノ丸跡に(同上)
空堀は 行燈灯し 掘りしとか 岩石多く 工期が遅れ(同上)
花見んと 払田柵に 来てみれば 外柵寄りに わずかに二本(払田柵跡)
芥川 山城跡は 国史跡 室町後期 高国築く(芥川山城跡)
細川氏 高国・晴元 争いて 晴元勝利 城を増強(同上)
戦国期 三好長慶 城落とし 十五年間 三好氏城主(同上)
三好氏後 城主は替わり 廃城に 高槻城に 集約される(同上)
国史跡 飯盛山城 築城は 南北朝期 恩地氏とされ(飯盛城跡)
戦国期 木沢長政 入城し 詰城改め 居城の城に(同上)
城域は 飯盛山の 山頂部 一万坪に 曲輪八ヶ所(同上)
南側 千畳敷の 郭跡 コンクリートの 電波塔建つ(同上)
本願寺 門徒一揆に 攻められて 三十年は 戦の城に(同上)
永禄期 三好氏城を 改修し 織田信長に 攻められ廃城(同上/城郭48) 67歳
山頂に 楠木正行 像が立つ 四條畷は この城の下(同上)
林氏が 山崎城を 築城す 南北朝期 天王山に(山崎城跡)
秀吉の 中国からの 大返し 天王山で 勝敗決まり(同上)
秀吉は 山崎城を 居城とす 大阪城に 移る一年(同上)
新たなる 福知山城 築城は 安土時代に 明智光秀(福知山城)
江戸時代 福知山藩 政庁で 一時天領 五家が藩主に(同上)
連結の 三層四階 天守閣 昭和後期に 外観復元(同上)
城内に 朝暉神社の 社殿建つ 朽木稙綱 藩祖を祀り(同上)
姫路城 訪問するは 三回目 心行くまで 眺めみたき(姫路城)
桜門 大手門とも 称される 昭和期築の 高麗門で(同上)
姫路城 特別史跡 築城は 南北朝期 赤松氏とか(同上)
戦国期 黒田重隆 改築し 羽柴秀吉 拠点の城に(同上)
江戸初期に 池田輝政 入城し 現在残る 城郭築く(同上)
池田氏後 姫路藩主は 入れ替わり 九氏に及び 最後酒井氏(同上)
大天守 五層六階 地下一階 現存天守 規模最大で(同上)
姫路城 国宝八棟 重文は 七十四棟 比類なき城(同上)
姫路藩 江戸前期から 一貫し 親藩譜代 十五万石(同上)
千姫が 本多忠刻と 再婚し 化粧櫓を 個室に使用(同上)
廊下から 渡櫓の 屋根変化 切妻の上 入母屋を載せ(同上)
大天守 重なり合うや 小天守 将軍坂の 塀の上には(同上)
はノ門の 手前と奥に 石段が 拳固な櫓 戦国のまま(同上)
にノ門も はノ門に次ぎ 櫓門 本丸守る 最後の門で(同上)
仰ぎ見る 渡櫓の その奥に 三層三階 乾小天守(同上)
唐破風の 三層三階 地下二階 西小天守 乾と並ぶ(同上)
姥が石 老婆石臼 差し出して 築城進み 秀吉安堵(同上)
櫓門 水ノ五門は 変り門 大小天守 つなぐ二階で(同上/城郭49) 67歳
大天守 入城するは 二回目で 四十五年 記憶は消えし(同上)
櫓数 四十三棟 完成時 現在減じ 十五棟ほど(同上)
門の数 八十余棟 完成時 残りし門は 十九棟で(同上)
五階では 西大柱 先細り 四十センチ 地下半分に(同上)
大天守 最上階に 神棚が おさかべ姫を 神と祀るとか(同上)
姫路城 世界遺産は 単独で 百名城で 桜百選(同上)
大天守 西小天守 左側 乾小天守 一眼の中(同上)
鯱が 太鼓櫓に 三つ見え 下を覗く T字形なり(同上)
チの櫓 二層二階 隅櫓 上山里の 曲輪の中に(同上)
折廻 櫓は哀れ 明治期に 凹字型から Lの字型に(同上)
埋門 帯ノ櫓は 怪奇なり 腹切丸の 名を耳にして(同上)
播州の 皿屋敷とも 称される お菊の井戸が 城にあるとは(同上)
姫路城 以外と多い 非公開 別料金で 渡櫓に(同上)
櫓内 大名行列 調度品 二十八点 展示がされて(同上)
鯱は 明治と昭和 平成と 大天守閣 大修理物(同上)
石垣は 秀吉築造 継ぎ足しで 池田輝政 更に大きく(同上)
戦時下の 大空襲は 姫路にも 焼け跡の中 城は無傷で(同上)
切妻の 迎賓館が 入口に 昭和中期に 新築されて(同上)
白鷺城 世界遺産の 第二号 三ノ丸から 御殿消えても(同上)
一日を 大阪城に 陣を張り 眺めてみたり 五百年史を(大阪城)
枡形の 石垣の中 巨石あり 畳で比すと 三十三畳(同上)
錦城と 大阪城は 称されて 桃山時代 規模日本一(同上/城郭50) 67歳
大阪城 天守は徳川 紋は桐 六文銭が はためく城址(同上)
武将より 智将が勝る 天下取り ごますり猿に あの古狸(同上)
建築美 城や寺院に 求めれば 時代は変る 桐から葵(同上)
客疎ら ロードトレイン 寂しかり コロナウイルス 娯楽狂わす(同上)
力ずく 淀や松丸 太閤腹 乗らぬガラシャは 大和撫子(同上)
大阪に 来る度に ため息す 大阪城の 進まぬ復元(同上)
太閤の 成金趣味の 茶室には 愛想笑いの 顔ぶればかり(同上)
秀吉の 立身出世の 天守閣 なにわの夢に 浮かぶ瓢箪(同上)
天守閣 昭和六年 再建で 築九十年 国登録に(同上)
戦前の 第四師団 司令部の 庁舎の跡が 博物館に(同上)
旧庁舎 石とレンガの 外観で 三階建てに 中央塔屋(同上)
展示室 コピーパネルが 殆どで 忍者のグッズ 興味引くなり(同上)
本願寺 時代の遺構 今はなく 石山合戦 偲ぶ余地なし(同上)
江戸前期 豊臣色を 一掃し 大阪城は 徳川色に(同上)
青屋門 東外郭 出入口 昭和中期に 復元されて(同上)
二ノ丸に 豊国神社 社殿建つ 大正時代 遷座がなされ(同上)
神社横 修道館は 武道館 昭和中期に 市民の寄付で(同上)
城跡は 特別史跡 城郭の 十三棟が 国の重文(同上)
城内の 最大巨石 蛸石で 蛸の模様が 石の左に(同上)
重文の 六番櫓 二ノ丸に 江戸前期築 隅櫓なり(同上)
石山の 本願寺跡 推定地 南無阿弥陀仏 記念碑が立つ(同上)
枡形に 多聞櫓の 門が建つ 江戸後期築 渡櫓で(同上)
大手門 江戸前期築 黒塗りの 鉄板張りの 高麗門で(同上)
外堀や 続櫓に 並び建つ 千貫櫓 多聞櫓が(同上)
恩地城 平山城の 築城は 南北朝期 恩地氏による(恩地城跡)
恩地氏は 四條畷の 戦いで 敗れ廃城 敢えなく消える(同上)
名月に 見放されても 大阪は 宵の明星 天守を輝らし(大阪城)
天守閣 第二寝屋川 散歩中 大阪城の 予期せぬ眺め(同上)
最上部 屋根の二ヶ所が 唐破風で 下層は全て 千鳥破風なり(同上)
秋晴れの 難波宮跡 訪ねれば 大阪城の 天守閣見え(同上)
平城の 高槻城の 築城は 南北朝期 入江氏とされ(高槻城跡/城郭51) 68歳
石垣や 三層三階 天守閣 消えて久しき 城跡を見る(同上)
高槻は 西国街道 通過点 戦国時代 戦は絶えず(同上)
江戸時代 高槻藩は 五家を経て 最後永井氏 三万石で(同上)
羽後由利の 滝沢城の 築城は 江戸慶長期 滝沢政道(羽後滝沢城)
江戸前期 主家の最上氏 改易し 滝沢城も 廃城となる(同上)
築城に 四年も要し 居城して 十六年の 廃城哀れ(同上)
城跡に 三光神社 社殿建つ 孝女おさんの 慰霊を祀り(同上)
浮牛城 平山城で 築城は 平安中期 安倍貞任(浮牛城跡)
口内氏 鎌倉期から 戦国期 長きにわたり 居城としたり(同上)
桃山期 伊達領となり 要害に 五家入れ替わり 最後中島家(同上)
中島家 二千五百石 二百人 侍足軽 抱えていたと(同上)
口内は 南部領との 藩境 明治初期まで 緊張続く(同上)
田瀬館は 天正期頃 江刺氏が 今は田瀬湖の 畔に築く(田瀬館跡)
江刺氏は 奥州仕置き 連座して 主家葛西氏と 共に滅亡(同上)
桃山期 八石館は 築造で 政宗家臣 の中島定成(八石館跡)
釣山の 一関城 築城は 安土時代に 小野寺氏とか(一関城跡)
桃山期 伊達領となり 一関 政宗の叔父 政景城主(同上)
本丸に 田村神社の 小社建つ 藩主田村氏 祖先を祀り(同上)
江戸前期 田村建顕 移封して 一関藩 三万石に(同上)
城跡に 珍しきかな 野草園 庭園風に 植栽されて(同上)
村田城 平山城の 築城は 室町中期 村田氏による(村田城跡)
桃山期 伊達政宗の 長男の 伊達秀宗が 生まれた城で(同上)
秀宗は 側室の子で 跡継げず 宇和島藩主 十万石を(同上)
江戸初期に 政宗七男 新城主 若死にしては 城主は替わる(同上)
麓には 人で賑わう 道の駅 城跡までは 人立ち入らず(同上)
丘陵の 城跡に立ち 思うこと 三万石の 城下の眺め(同上)
観光地 村田町では 荒れるまま 村田城跡 八幡神社(同上/城郭52) 68歳
皆瀬川 岩崎城の 築城は 鎌倉前期 藤原氏とか(羽後岩崎城)
戦国期 小野寺家臣 岩崎氏 城主となるが 最上氏に敗す(同上)
江戸初期は 佐竹氏領の 城なるも 城主を置かず 廃城となる(同上)
久々の 稲庭城の 訪問は スロープカーを 使わす登る(稲庭城)
模擬天守 三層四階 資料館 平成元年 コンクリートで(同上)
天守閣 頭上に石が 横たわり 崩れまいかと 唖然と上を(会津鶴ヶ城)
鶴ヶ城 桜の名所 百選で 約千本の 花見楽しむ(同上)
天守内 大河ドラマで 有名な 八重と桜の 衣装を展示(同上)
白虎隊 天守眺めた 悲壮感 忠義の心 永久に消えざる(同上)
張り出しの 屋根より低き 千鳥破風 天守閣では 独自の意匠(同上)
いつの日か 茶壺櫓の 再建を 願いなからも 早や五十年(同上)
戦闘時 鉄門の 上に立ち 藩主容保 自ら指揮を(同上)
滝桜 見物後には 三春城 千本桜 眺めと見んと(三春城跡/城郭53) 69歳
石碑には 舞鶴城の 名がありき 鶴でなくても 花に我れ舞う(同上)
三春では 唯一無二の 滝桜 城の桜は 見向きもされず(同上)
来年は 野宿しながら 三春城 吉野以来の 花見とならん(同上)
国史跡 二本松城 築城は 室町中期 畠山氏が(二本松城跡)
戦国期 二本松氏が 城の主 伊達政宗に 敗れ滅亡(同上)
桃山期 城主度々 入れ替わり 江戸前期まで 波乱は続く(同上)
江戸前期 丹羽光重が 移封して 二本松藩 十万余石(同上)
城跡は 桜の名所 百選で ソメイヨシノが 千七百本(同上)
江戸期作 戒石銘碑 国史跡 藩士の掟 漢文四行(同上)
入口に 少年隊の 群像が 戦闘姿勢 哀れを誘う(同上)
三ノ丸 二階櫓は 花の上 昭和後期に 木造復元(同上)
箕輪門 附櫓共 復元で 百名城の 選には恥じず(同上)
維新なら 我れも屍 晒すかな 戊辰の役の みちのくの意地(同上)
三ノ丸 相生の滝 庭園は 昭和九年 作庭されし(同上)
茅葺きの 洗心亭は 再移築 唯一残る 江戸の建物(同上)
城の花 福島終えて 山形へ 上山城 先ずは見物(上山城)
平山の 上山城 築城は 戦国前期 武衛氏とされ(同上)
模擬天守 三層五階 資料館 望楼付で 昭和後期築(同上)
江戸時代 上山藩 政庁に 五家入り替わり 三万石に(同上)
壮大な 東大手門 復元は 堀田氏時代 参考とされ(山形城跡)
枡形に 高麗門と 櫓門 更に堀側 北櫓建ち(同上)
騎馬像の コンテをすれば 上位には 最上義光 上杉謙信(同上)
本丸の 復元間もない 大手門 桜の木々は まだ小振りなり(同上)
天守閣 無くも絵になる 城跡に 国重文の 病塔見るとは(同上)
湯沢城 堀切跡の 周辺は 杉の植林 ヤマザクラなし(湯沢城跡)
本丸の 景色殆ど 変らない 一鳥聞かず 雪が無いだけ(同上/城郭54) 69歳
城の花 本荘城が 秋田一 ソメイヨシノが 千本も咲く(本荘城址)
俯瞰する 修身館の 中庭は 芝に砂利敷き 殺風景で(同上)
丘陵の 大森城の 築城は 室町後期 小野寺氏による(大森城跡)
戦国期 上杉方に 加勢して 最上氏攻めて 落城となる(同上)
ふるさとの 城と桜の 見物は 大森城が 最後の城に(同上)
花見客 人の集まる 名所へと 角館まで わざわざ出かけ(同上)
往時には ぼんぼり飾り 屋台あり 大森公園 人影もなし(同上)