執筆活動

過去の執筆活動を一部公開しております。ご自由にお読みください。

勝手に秋田遺産100選

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前書き

世界遺産は観光地のブランドとして確立されているが、それにあやかろうと北海道では平成13年(2001年)、「北海道遺産」として25件を指定し、平成30年(2018年)まで67件が選ばれた。自然景観の他に、温泉地、歴史的建築物、祭り、郷土料理、ウヰスキー工場など多岐に及んでいる。全国レベルでは平成14年(2002年)、シンクタンク総合研究機構が独自のアンケートから「日本遺産・百選」を発表した。全国各地から120件が選ばれていたが、秋田県からは「男鹿」のみであった。「白神山地」と「十和田奥入瀬」もあったが、どちらか言えば青森県が占める割合が高い。青森県は他に「青函トンネル」と「ねぶた祭り」が選定されていて、秋田県との格差を歴然と感じた。

平成19年(2007年)になると、福島県が「福島遺産百選」として120件を選定し、平成20年(2008年)には千葉県が「ちば遺産100選」を発表している。都道府県が独自の遺産選定を行うのは、時間の問題であろと認識する。秋田県も県内の魅力を発見し、観光客の誘致になるような遺産の選定するのが急務と思う。そこで私は「勝手に秋田遺産100選」を考察して、今後の選定に役立てばと考えた。

秋田遺産の選定の内容は、山岳とスキー場などが11件(7選)、湖沼が2件、半島と海岸が2件、峡谷と滝が7件(6選)、名水が3件、湿原が1件、名木と松原が9件、温泉地が15件、歴史的町並みが4件、古民家と商家が4件、駅舎と鉄道が5件、城跡は8件、鉱山跡が2件、寺社が3件、遺跡が4件、庭園が2件、博物館などの公共施設が6件、祭りなどが12件(11選)、動物2件、郷土料理などが4件と、合計106件の100選である。

今回選んだ中には、筆者の未踏の地と、見物していない名木や祭りなどが含まれている。

「夜明島渓谷と茶釜の滝」に関しては、遊歩道の整備と案内標識の設置が急務である。「森の巨人たち百選」に選ばれた仙北市の「日本一のブナ」と「日本一のクリ」も見物途中で断念している。この名木を観光資源として散策路を整備するかどうかは、山林の持ち主と仙北市との交渉に期待するしかない。遺跡では、能代市の「杉沢台遺跡」を見学していない。郷土芸能や祭りでは、鹿角市の「大日堂舞楽」、秋田市の「土崎港曳山まつり」、大仙市の「刈和野の大綱引き」がある。自分で「勝手に秋田遺産100選」を選びながらも、そこに執着することに、自分の人生があるとは思っていない。

私の達成した旅は、松尾芭蕉翁の『おくのほそ道』を自転車で踏破し、『奥の細道輪行記』を出版したここと、中山道と東海道を自転車で走り、『芭蕉の花道』を執筆したことである。四国霊場八十八ヶ所も最初は自転車で巡礼し、車遍路は3度も行った。平成24年(2014年)には勤務地を替えながら「日本百名山」を4年間で踏破して、登山記も執筆した。

平成31年(2019年)には、北海道根室市を初めて訪ね、「日本100名城」の最後の砦、根室半島シャシ群跡をゲットした。その年は、倶知安町のニセコで仕事をしていので、「北海道遺産」の存在を知った。その遺産はめぐることが目的となって、指定67件の殆どを見物することが出来た。秋田県にも観光地を宣伝する遺産が必要と思ったのが、北海道遺産との出会いであった。私が松尾芭蕉翁を真似るように、秋田県も他県を真似た方が良い。

名山絶句八十八座

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前書き

「日本三景」など『旅の名数』を調査してまとめた所、山に関する名数が随分とあることを知った。富士山(静岡県・山梨県)、白山(石川県・岐阜県)、立山(富山県)は「日本三名山」または「日本三霊山」と呼ばれているようである。「日本三景」は江戸初期の儒学者・林春斎(1618-1680)によって刊行された『日本国事跡考』に由来するが、「日本三名山」に関しては命名者が不明である。また「日本四名山」と言う名数もあって、白山が除外されて御嶽山(長野県・岐阜県)と伯耆大山(鳥取県)が選ばれている。霊山を選定基準にしているのは理解できるが、曖昧な名数が氾濫しているのも事実である。

山の名数の中で一番驚いたのが、文筆家で登山家の深田久弥(1903-1971)氏が発表した『日本百名山』である。深田氏は、「日本百名山」の選定にあたり、山の品格、歴史、個性の三つに条件をおき、付加的条件に標高1,500m以上を基準としているようである。しかし、標高887mの筑波山、標高1,406mの天城山、標高924mの開聞岳が選ばれているのは何故だろうか。その選定に関しては異論を唱える登山家も多く、『新日本百名山』や『名峰百景』など様々な百名山の本も出版されている。

私が登山のベースに置いているのが、江戸後期の画家・谷文晁(1763-1841)が描いた「日本名山図譜」である。北海道から鹿児島まで88座を選び、岩手山と妙義山は2枚描かれていて、全作90画となっている。古くから二桁の名数に用いられる数値は、13、33、88が定番だったと言える。「十三仏」、「西国三十三ヶ所観音霊場」、「四国八十八ヶ所霊場」はその代表格であろう。谷文晁も八十八ヶ所にあやかって、八十八座を選定したのである。

富士山は人生に一度は登りたいと願う人が多いと思う。私も若い頃から登りたいと願っていたが、実現するまでには至らなかった。そんな折、金沢へ転勤となって白山を間近に眺める機会が多くなって来た。富士山の前に白山に登りたいと云う願望が増し、同僚を誘っても断られ、単独で登ること決意をした。ネット上で調べると、結構長い登山コースのようでもあり、いきなり白山登山は無理と判断して、難易度の低い越中の立山から登ることにした。平成20年(2008年)8月31日、55歳にして登山人生が始まったのである。

立山の登山後は、乗鞍岳、御嶽山、宝剣岳と登り、白山の登頂を果たしたのは、その年の9月15日であった。そして、9月27日、金沢から日帰りでオフシーズンの富士山に登頂して「日本三名山」をクリアした。この頃には「日本百名山」の存在を知っていたので、その登頂を5年間で果たすと言う志を描いたが、4年目で達成することが出来た。

 私が生業としている建築設備士の仕事も登山に都合の良い場所を選び、秋田県鹿角市、三重県四日市市、石川県野々市町、青森県五所川原市と工事現場を渡り歩いた。平成24年(2012年)9月8日、新潟県にある平ヶ岳登頂を果たして「日本百名山」の山旅を終了した。その後も登山を続け、「それぞれの百名山」を執筆して記録した。今回は「それぞれの百名山」をリメークして「名山絶句八十八座」を上梓することにした。選定の基準は、標高1,000m以上で登山口までのアクセスが良いこと。地域と密接な関係があり、霊山として崇められていること。再び登りたいと思う山であることの三点が基準である。

みちのく温泉風物詩

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編集後記

温泉地は大きく分けると、「湯都」、「湯街」、「湯郷」、「に分類される。旅館やホテルが100軒以上ある温泉地が「湯都」、10軒以上が「湯街」で、1軒宿が点在する温泉地が「湯郷」と言えるだろう。湯都や大きな湯街は「歓楽温泉街」と言う一面もあって、遊戯場が必ずあったもので、射的屋・スマートゲーム店・パチンコ店などで遊んだ記憶が脳裏を過る。また、歓楽温泉街にはストリップ劇場もあるのが定番で、生身の観音様に手を合わせて拝んだものである。温泉街にはスナック・バー・寿司屋・ラーメン屋などの飲食店もあって、旅館やホテルから浴衣姿で外出するのが楽しみでもあった。他に土産物屋も必ずあって、こけしや名産品を買い求める客で賑わっていた。

私が温泉地のガイドブックにしていた「東北の温泉宿200選」は、昭和62年(1987年)に日本交通公社出版事業局から発行された本である。しかし、200ヶ所の温泉宿の内、平成30年(2018年)の現在は48ヶ所の温泉宿が廃業している。また、秋田市の(有)無明舎出版から平成12年(2000年)に発行された「日帰りカイド秋田の温泉」には80ヶ所の温泉が選ばれていたが、23ヶ所が閉館または廃業している。31年の間で約4割の温泉宿が消え、18年の間で約3.5割の日帰り温泉が消えたことを意味する。

温泉宿のみならず、宿泊客や日帰り温泉客を相手に商売をして来た土産物屋や飲食店を含めると相当数が廃業になっている。日本独自の温泉街の風景が、シャッター街から廃屋の建物が軒を並べる景観を見ていると、重ねて切ない気分にさせられる。なにかしら衰退する前に打つ手があったと思うが、何度も延べるように経営者の努力不足と後継者の不足、そしてリニューアルできない資金難にある。黙っていても観光客が来た時代と異なり、精一杯のサービスと、新しいアイディアがなければ生き残れない。

平成3年(1991年)に始まったバブル崩壊によって、日本経済は低迷して「失われた20年」と呼ばれる不景気が続いた。その影響を受けたのが、温泉地の旅館やホテルであったと思う。それも温泉地によってはバラツキがあって、慰安旅行や忘・新年会の団体客に異存していた温泉街は衰退を余儀なくされた。一方、料金が安価な1軒宿の秘湯がブームとなって、湯治客から一般客へと顧客のニーズが変わった。テレビの旅番組は、秘湯のある温泉地を紹介するだけで視聴率を稼げた時代でもあった。そんな温泉地の発展と衰退した時代の様子を見ていると、日本の景気や時代背景が反映されているようで興味は消えない。

中学三年生の15歳の冬、1人で田沢湖高原温泉の旅館に泊ったのが初めての温泉宿泊で、あれから50年が経ようとしている。温泉を愛する旅人として、全国各地の温泉宿に泊った。その中で地元・東北の有名な温泉地は大概回り終えたと思っている。そこで『みちのく温泉風物詩』を執筆して、温泉宿の思い出話を書き留めようとしたのである。

東北六県から10ヶ所の温泉地や温泉郷を選び、私が見聞きした50年の歴史を回想した記録である。特に東北の温泉宿の盛衰については、誰かが残さないと永遠に残らないと言う思いもあった。廃業した旅館やホテルなどは、跡形もなく消えてしまうと何も残らなくなってしまう。せめて、その名前だけでも記録しようと思ったのである。平成30年の7月から執筆を開始して約半年の月日を要したが、何とか執筆を終えてホッとしている。

温泉宿の盛衰を見ていると、江戸時代に建てられた湯宿は希少価値が高く、経営者が廃業や取壊しを考えた時、地方自治体は移築も含めて残す努力が必要と痛感する。岩手県では花巻温泉郷の大沢温泉菊水館、秋田県では乳頭温泉郷の鶴の湯温泉と黒湯温泉、福島県では飯坂温泉のなかむら旅館と白布温泉の西屋と、東北では5軒のみとなっている。中村旅館を除くと、茅葺屋根の建物となっていて、湯治場の原風景を残していると言える。

明治時代に建てられた温泉宿は、山形県では湯舟沢温泉の温泉旅館と瀬見温泉の至喜楼、福島県では飯坂温泉の花水館(奥の間)、芦ノ牧温泉の仙峡閣(移築)、湯野上温泉の扇屋、微温湯温泉の旅館二階堂、玉山鉱泉の旅館藤屋、岩瀬湯本温泉の源泉亭湯口屋旅館の6軒があって、合わせて8軒がある。花水館と旅館二階堂は、国の登録有形文化財にも指定されていて、江戸時代のなかむら旅館も同様である。

大正時代や昭和初期に建てられた温泉宿でも7軒が、国の登録有形文化財の指定を受けている。秋田県では強首温泉の樅峰苑、山形県では銀山温泉の能登屋旅館と上山温泉の山城屋旧館、宮城県では鳴子温泉のゆさや旅館本館、青根温泉の湯元不忘閣御殿、鎌先温泉の一絛旅館本館の3軒で、福島県では会津東山温泉の向瀧がある。建築年が古くても、改造や修築が行われると、文化財の指定を受けるのは困難なようである。

温泉宿に宿泊して癒された思い出は尽きないのが、青森県では酸ヶ湯温泉、岩手県では藤七温泉、秋田県では乳頭温泉郷(鶴の湯・黒湯・孫六温泉)、宮城県では青根温泉不忘閣、山形県では銀山温泉能登屋旅館、福島県では芦ノ牧温泉仙峡閣が忘れられない温泉である。 

宿泊経験のない宿で泊りたい温泉宿は、青森県では青荷温泉、岩手県では国見温泉石塚旅館、秋田県では杣温泉、宮城県では峨々温泉、山形県では大平温泉滝見屋、福島県では木賊温泉井筒屋である。いずれも秘湯の宿で、青荷温泉を除くと「日本秘湯を守る会」の会員旅館ばかりである。もう何年、生きているのか自分では決められないが、「一期一会」が人との出合いならば、「一見一湯」が温泉との出合いであると思う。65年の生涯において、温泉との出合いは、格別の思い出を味わわせてもらったと思っている。温泉抜きの人生を考えこともないし、日本人に生まれて良かったと感じるのも温泉ありきである。

名刹本山100ヶ寺

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前書き

日本の仏教を勉強していると、日本独自の仏教が蔓延っていて、ブッタの教えが随分と形を変えた宗教となった痛感する。聖徳宗の聖徳太子、真言宗の空海大師、浄土真宗の親鸞上人、日蓮宗の日蓮上人などは、宗祖崇拝の独自の仏教と言える。

そもそも日本が仏教を学んだ本家の中国(※①華国)では、1)毘曇宗、2)成実宗、3)律宗、4)三輪宗、5)涅槃宗、6)地論宗、7)浄土宗、8)禅宗、9)摂論宗、10)天台宗、11)華厳宗、12)法相宗、13)真言宗の十三宗があった。宗教的な宗派ではなく学派として存在していたようで、奈良時代に三輪宗、成実宗、法相宗、俱舎宗(毘曇宗)、華厳宗、律宗の「南都六宗」が伝わった。平安時代初期には天台宗と真言宗が伝わり、平安時代末期には浄土宗(浄土教)が盛んとなった。鎌倉時代になって禅宗が伝わり、江戸時代初期に禅宗の一派である黄檗宗が伝えられたのが仏教伝来の最後となった。

その後、華国では共産党による一党支配の国になり、文化大革命によって華国仏教の殆どが消滅した。チベットの破壊は酷く、中国仏教教会の名誉会長であったダライ・ラマ師はインドに亡命する有様であった。華国の仏教は滅び、日本の仏教も明治初年(※②靖国時代の初年)の神仏分離令による廃仏毀釈と言う弾圧があった。しかし、仏教伝来から1330年も経ていた当時、華国のような全否定は不可能であったと推察する。逆にキリスト教が解禁されて、華国の文化大革命とは天と地の差があったと言えよう。

廃寺を免れた寺院の僧侶は、浄土真宗の非僧非俗の精神を真似て「肉食妻帯」の生活をするのが常態化した。霞ヶ関時代(※③戦後の時代)になると、宗教的には自由な仏教が蘇り、靖国時代に禁止されていた神仏習合が復活した。その最たるものが修験道であり、再興された寺院も多い。しかし、宗教法人法が昭和26年(1951年)に発令され、宗教施設に対する優遇措置がとられると、独立する宗派が増えた。京都の清水寺が法相宗から北法相宗に、鞍馬寺が天台宗から鞍馬弘教になっている。大阪の四天王寺も天台宗から聖徳太子の創建に因んで、和宗となった。岡山県の最上稲荷などは、神仏習合であったこともあって日蓮宗から独立したが、平成21年(2009年)には日蓮宗に復帰している例もある。

最近の華国では、仏教寺院の復興が少しずつ行われているものの、宗教の自由がないのが実状である。華国からの日本を訪ねる観光客は、仏教が盛んだった昔の華国を日本で感じられているように思える。華国の南北朝代、朝鮮半島の百済から仏教が伝来されてから様々な変遷を経て、現在の日本の仏教は十三宗五十六派が林立している。今回の「名刹本山100ヶ寺」は、林立する宗派を眺めながら感想を述べたいと思う。

※記についてのコメント。※①日本の中国地方との混同を避ける意味で中華人民共和国は、華国と呼ぶのが相応しいと筆者は思う。※②日本の時代名は、飛鳥や奈良のように地名で統一するのが良いと思う。明治、大正、昭和、平成は年号ではなく、時代的背景や政治形態を考慮して地名に改めるべは思う。明治初年から昭和の戦前までの77年間は、軍国主義的の時代だったので靖国時代がマッチする。昭和の戦後から現代までは、官僚支配の時代なので霞ヶ関時代と呼ぶのが良いだろう

名数に見る日本の風景

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前書き

幼い頃から最もときめいた瞬間が、美しい自然景観との出会いであり、最も楽しかったのは小学校の遠足であった。マンネリ化された学校生活や家庭環境の中で、非日常的な遠足は実学そのもので有意義な時間であった。秋田県の横手盆地で生まれ育ったことから、登山やスキーを愛する少年でもあり、スキーは3度の飯よりも好きなスポーツであった。その反面、海に対する憧れが強く、松尾芭蕉(1644-1694年)に陶酔して「船の上に生涯を浮かべる」旅人の人生を志し、外航路の船乗りに成ることを夢見たのである。しかし、一部上場の海運会社に就職したものの、船長に反発して首となり現在の設備屋になった。

成人してから手にした本の中で、最も刺激を受けたのが地理学者の志賀重昻(1863-1927年)が明治27年(1894年)に執筆した『日本風景論』である。日本の自然景観を網羅しており、特に山岳の記述が多い。この本に記された山岳・渓谷・河川・海岸など8割はめぐり、18歳から68歳まで、会社を起業していた15年間のブランクはあったけれど日本各地を旅して来た。振り返ると、日本一の吉野の桜に憧れて行った吉野山、大師空海(774-835年)を慕って登った高野山、熊野古道に魅せられて訪ねた熊野山と。これが設備屋という手に職を持ち安定した仕事を得て向かった旅先で、『三野山巡礼』を自費出版した。

平成5年3月24日から4月20日まで約1ヶ月間、芭蕉さんの『おくのほそ道』を自転車で走って懐古した。会社を畳んで旅にウェイトを置いた頃からは、旅を目的に仕事をするようになった。その最初が「芭蕉の花道(東海道・中山道)」の自転車旅行である。平成19年9月25日から10月18日までの25日間である。続いて「四国八十八ヶ所霊場」を自転車で巡礼したのが、平成20年3月6日から4月4日である。これが、筆者の計画した「自転車三大旅行」であり、何とか人生のイベントを達成できたことは嬉しい限りであった。

平成20年8月31日、「日本三霊山」を登拝しようと「立山」に登ったことがきっかけに、深田久弥(1903-1971年)氏が選定した「日本百名山」を登ろうと決意した。東北や北関東の百名山に登った時は秋田県鹿角市に住み、南アルプスをクリアした時は三重県四日市市に、北アルプスを縦走した時は再び石川県野々市市に、そして、北海道の9座を目指した時は青森県つがる市の温泉旅館に泊まって仕事をしていた。平成25年11月4日、昨年秋の集中豪雨で登れなかった「平ヶ岳」を最後に4年に及ぶ「日本百名山」の山旅を終了した。

その後、仕事でメキシコに通算で1年間赴き、帰国後はあわら市、広島市、松山市、横須賀市、佐久市、いわき市、倶知安町、大阪市で仕事をしながら「温泉のあるスキー場めぐり」を新たな旅の目標とした。並行しながら「国宝建築の旅」や「日本三百名山の登山」を続けた。「国宝建築の旅」は、未公開の内部を除くと140ヶ所をめぐって、何とか目標を達成した。「日本三百名山」も残り120座となり、殆ど達成できそうな目標となっている。

日本の名所の8割を旅して来た時点で、自分なりに眺め、見て来た日本の風景を整理してみようと思ったのが、この書の執筆である。志賀重昮の『日本風景論』には太刀打ちできないが、名もなき凡人の目で見た日本の風景を『名数に見る日本の風景』で記したい。

国宝建築の旅

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国宝建築の旅(前書き)

国宝建築との最初の出会いは、小学6年生の時に修学旅行で行った松島の瑞巌寺庫裡であった。何となく見ただけで、五大堂ほどの印象は残っていなかった。しかし、鎌倉の絵葉書を近所の兄さんから貰って、円覚寺舎利殿の杮葺きの仏殿には強い憧れを抱くようになって大人になったら必ず見物に行こうと志した。

17歳の春、取りあえず自分の住んでいる秋田県平鹿町から遠くもない、平泉の寺院を巡ったのが「国宝建築の旅」の最初であった。あれから半世紀、50年の歳月を要し、「国宝建築の旅」も光明寺二王門の見物をもって完結する日を迎えた。この旅を記念して、上梓したのがこの紀行文である。旅行の当初は、国宝建築をめぐると言う目的はなく、著名な城郭・寺院・神社を見て回ることに主眼が置かれた。その結果として国宝や重要文化財の古建築を見物していることに気が付き、その訪問を意識するようになったのは50歳を過ぎた頃であった。何と言っても老後の楽しみとしていた「厳島神社」の国宝建築群を見て、歴史的景観の尊さを感じ得たことである。

平成24年(2012年)の春、東京に「スカイツリー」が完成して、マスコミや人々の関心はそこに目が向けられた。これは民間の建造物であるが、平成のシンボルタワーであり、昭和の東京タワーから数えると、54年を経ている。かつての日本にも、その時代を代表するような建築物があった。特に東寺(教王護国寺)の五重塔は、高さ55mと木造建築としては日本一高い。新幹線で京都を通過する時、ビルの谷間に浮かぶ五重塔に自然と目が向く。

古墳時代には、日本最大の大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)があり、飛鳥時代は法隆寺五重塔、奈良時代は東大寺大仏殿と、古代国家の一大プロジェクトであり、その時代のシンボルタワーであった。平安時代には、法勝寺の六角九重塔が日本最高の木造建築があり、鎌倉時代には、鎌倉大仏殿が建立された。現在は金銅の大仏像(阿弥陀仏坐像)しか残っていないが、創建当初は東大寺の大仏殿と同様に上屋があったようだ。

安土時代には織田信長が日本最初の天守閣を建て、その権力と想像力を誇示した。その後を担った豊臣秀吉は大阪城を、徳川家康は江戸城を建てている。神社仏閣や城郭の高層建築には、それぞれの時代の意匠と創意が施され、施主や設計者の個性、大工や左官など職方の巧みな技術が見えて来る。

平成10年(1988年)の時点において、国宝建造物には209件の寺院や神社、城郭などが指定されている。その中でも単独の世界文化遺産に登録された法隆寺、姫路城、厳島神社は特別な価値があり、未来永劫に残さなければならない建造物である。

最近、私の住む東北は、かつてないほどの地震と津波、そして原発事故によって未曾有宇の被害がもたらされたが、中尊寺を含めた「平泉」が世界文化遺産に登録されてことが明るいニュースの一つとなった。「国宝建築の旅」は、最初に訪れたその中尊寺の印象から随筆し、国宝ではないけれど世界文化遺産に登録された白川郷や首里城などの建物も紹介して結びとしたいと考えている。私の人生の50年間は、国宝建造物との出会いであり、日本史にはまった者にとっては忘れられない旅の思い出でもある。

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