紫闇陀寂
- まえがき
- 001白神山地(世界自然遺産・県立自然公園・日本の自然100選) 藤里町
- 002十和田湖(国立公園・国特別名勝) 小坂町
- 003男鹿半島(国定公園) 男鹿市
- 004森吉山と阿仁スキー場(県立自然公園) 北秋田市阿仁
- 005太平山と太平山三吉神社(県立自然公園) 秋田市仁別
- 006田沢湖(県立自然公園) 仙北市田沢湖
- 007八幡平と秋田八幡平スキー場(国立公園) 鹿角市八幡平
- 008秋田駒ヶ岳とたざわ湖スキー場(国立公園) 仙北市田沢湖水沢
- 009鳥海山(国定公園) にかほ市鉾立
- 010栗駒山(国定公園) 東成瀬村須川
- 011象潟九十九島(国定公園) にかほ市象潟
- 012抱返り渓谷(県立自然公園) 仙北市神代
- 013小安峡(国定公園) 湯沢市皆瀬小安
- 014七滝(日本の滝100選) 小坂町七滝
- 015安の滝(県立自然公園・日本の滝100選) 北秋田市阿仁打当
- 016法体の滝(国定公園・日本の滝100選) 由利本荘市百宅
- 017奈曽の白滝(国定公園・国名勝・国史跡) にかほ市象潟
- 018六郷湧水群(名水百選) 美郷町六郷
- 019力水(名水百選) 湯沢市
- 020元滝伏流水(平成の名水100選) にかほ市
- 021獅子ヶ鼻湿原の出壺とあがりこ大王(平成の名水100選・森の巨人たち百選) にかほ市
- 022白神のシンボル(森の巨人たち百選) 藤里町岳岱
- 023きみまち杉(森の巨人たち百選) 能代市二ツ井田代
- 024コブ杉(森の巨人たち百選) 上小阿仁村大林
- 025日本一のブナ(森の巨人たち百選) 仙北市角館白岩
- 026日本一のクリ(森の巨人たち百選・県立自然公園) 仙北市神代
- 027筏の大スギ(新・日本名木100選) 横手市山内
- 028法内の八本杉(森の巨人たち百選) 由利本荘市東由利
- 029千本カツラ(新日本名木100選) 由利本荘市鳥海
- 030能代海岸の防風林(日本の自然100選・日本の白砂青松100選) 能代市浅内
- 031白神矢立湯原郷の宿・日影温泉 大館市長走
- 032湯瀬温泉湯瀬ホテルと姫の湯ホテル(東北の温泉宿200選) 鹿角市八幡平
- 033大湯温泉の共同浴場と千葉旅館、岡部荘(日本の名湯100選) 鹿角市十和田大湯
- 034八幡平温泉郷のふけの湯温泉と後生掛温泉(国民保養温泉地) 鹿角市八幡平
- 035乳頭温泉郷の鶴の湯温泉、黒湯温泉、孫六温泉(国民保養温泉地) 仙北市田沢湖
- 036玉川温泉と北投石(国民保養温泉地・特別天然記念物) 仙北市田沢湖玉川
- 037湯ノ沢湯本杣温泉旅館(日本秘湯を守る会) 北秋田市森吉
- 038男鹿温泉郷元湯雄山閣(日本秘湯を守る会) 男鹿市北浦湯本
- 039強首温泉樅峰苑(国登録有形文化財・日本秘湯を守る会) 大仙市強首
- 040岩倉温泉(日本秘湯を守る会) 大仙市南外
- 041金浦温泉学校の栖(大竹小学校跡) にかほ市大竹
- 042小安峡温泉旅館多郎兵衛と元湯くらぶ(栗駒国定公園) 湯沢市皆瀬
- 043泥湯温泉奥山旅館(栗駒国定公園・日本秘湯を守る会) 湯沢市高松
- 044秋ノ宮温泉郷稲住温泉と鷹の湯温泉(国民保養温泉地) 湯沢市秋ノ宮
- 045須川温泉栗駒山荘(栗駒国定公園) 東成瀬村椿川
- 046小坂の明治時代の建築群(小坂鉱山事務所・康楽館・旧小坂鉱山病院記念棟) 小坂町
- 047角館の武家屋敷群と檜木内川堤(重伝建・国名勝・日本桜の名所100選) 仙北市角館
- 048増田の商家群と真人公園(重伝建・日本桜の名所100選) 横手市増田
- 049亀田城下町と天鷺村 由利本荘市亀田
- 050三浦家住宅(国重文) 秋田市金足
- 051旧奈良家住宅(国重文) 秋田市追分
- 052鈴木家住宅(国重文) 羽後町飯沢
- 053両関酒造本館(国登録有形文化財) 湯沢市前森
- 054能代駅(日本の駅100選) 能代市
- 055十和田南駅(日本の駅100選) 鹿角市田錦木
- 056JR東日本五能線(能代駅~岩舘駅) 能代市・八峰町
- 057秋田内陸縦貫鉄道(角館駅~鷹巣駅) 仙北市・北秋田市
- 058由利高原鉄道鳥海山ろく線(本荘駅~矢島駅) 由利本荘市
- 059檜山城(国史跡) 能代市檜山
- 060脇本城(国史跡・続日本100名城) 男鹿市脇本
- 061秋田城(国史跡・続日本100名城・日本の歴史公園100選) 秋田市寺内
- 062久保田城(千秋公園・日本100名城・日本桜の名所100選) 秋田市千秋
- 063払田柵(国史跡) 大仙市払田
- 064金沢柵(金沢公園) 横手市金沢
- 065大鳥井柵(国史跡) 横手市大鳥
- 066横手城(天守風展望台・横手公園) 横手市朝倉
- 067尾去沢鉱山跡(近代産業遺産・日本の地質百選) 鹿角市尾去沢
- 068院内銀山跡(県史跡) 湯沢市院内銀山町
- 069天徳寺(国重文・県史跡) 秋田市泉山
- 070唐松神社(県文・県天然記念物) 大仙市協和
- 071蚶満寺(国天然記念物・国名勝・市文) にかほ市象潟
- 072大湯環状列石(特別史跡) 鹿角市十和田大湯
- 073杉沢台遺跡(国史跡) 能代市磐
- 074伊勢堂岱遺跡(国史跡) 北秋田市脇神
- 075地蔵田遺跡(国史跡) 秋田市御所野
- 076如斯亭庭園(国名勝) 秋田市旭川南町
- 077旧池田氏庭園(国名勝) 大仙市高梨
- 078秋田県立博物館 秋田市追分
- 079秋田市ポートタワー・セリオン 秋田市土崎
- 080白瀬南極探検隊記念館 にかほ市金浦
- 081道の駅象潟・ねむの丘(展望温泉) にかほ市象潟
- 082秋田ふるさと村 横手市赤坂
- 083横手市増田まんが美術館 横手市増田
- 084毛馬内盆踊りと花輪ばやし(国重文) 鹿角市
- 085大日堂舞楽(世界遺産・国重文) 鹿角市八幡平
- 086男鹿のナマハゲ(国重文) 男鹿市真山
- 087土崎港曳山まつり(世界遺産・国重文) 秋田市土崎
- 088秋田竿燈まつり(国重文・東北三大祭り・日本三大提灯祭り) 秋田市
- 089角館祭りのやま行事(世界遺産・国重文) 仙北市角館
- 090刈和野の大綱引き(国重文) 大仙市刈和野
- 091大曲の花火(全国花火競技大会・日本三大花火大会) 大仙市大曲
- 092六郷のカマクラ(国重文) 美郷町六郷
- 093横手のかまくら(みちのく五大雪まつり) 横手市双葉町
- 094西馬音内盆踊(国重文・日本三大盆踊り) 羽後町西馬音内
- 095比内鶏(国天然記念物) 大館市比内
- 096秋田犬(国天然記念物) 大館市大館
- 097きりたんぽ鍋(本場) 大館市、鹿角市
- 098石焼き鍋(本場) 男鹿市
- 099横手焼きそば(日本三大焼きそば) 横手市
- 100稲庭うどん(日本三大うどん) 湯沢市稲庭
- 番外・奥小安大湯温泉阿部旅館 湯沢市皆瀬
- あとがき
- 勝手に秋田ふるさと百景
まえがき
世界遺産は観光地のブランドとして確立されているが、それにあやかろうと北海道では平成13年(2001年)、「北海道遺産」として25件を指定し、平成30年(2018年)まで67件が選ばれた。自然景観の他に、温泉地、歴史的建築物、祭り、郷土料理、ウヰスキー工場など多岐に及んでいる。全国レベルでは平成14年(2002年)、シンクタンク総合研究機構が独自のアンケートから「日本遺産・百選」を発表した。全国各地から120件が選ばれていたが、秋田県からは「男鹿」のみであった。「白神山地」と「十和田奥入瀬」もあったが、どちらか言えば青森県が占める割合が高い。青森県は他に「青函トンネル」と「ねぶた祭り」が選定されていて、秋田県との格差を歴然と感じた。
平成19年(2007年)になると、福島県が「福島遺産百選」として120件を選定し、平成20年(2008年)には千葉県が「ちば遺産100選」を発表している。都道府県が独自の遺産選定を行うのは、時間の問題であろと認識する。秋田県も県内の魅力を発見し、観光客の誘致になるような遺産の選定するのが急務と思う。そこで私は「勝手に秋田遺産100選」を考察して、今後の選定に役立てばと考えた。
秋田遺産の選定の内容は、山岳とスキー場などが11件(7選)、湖沼が2件、半島と海岸が2件、峡谷と滝が7件(6選)、名水が3件、湿原が1件、名木と松原が9件、温泉地が15件、歴史的町並みが4件、古民家と商家が4件、駅舎と鉄道が5件、城跡は8件、鉱山跡が2件、寺社が3件、遺跡が4件、庭園が2件、博物館などの公共施設が6件、祭りなどが12件(11選)、動物2件、郷土料理などが4件と、合計106件の100選である。
今回選んだ中には、筆者の未踏の地と、見物していない名木や祭りなどが含まれている。
「夜明島渓谷と茶釜の滝」に関しては、遊歩道の整備と案内標識の設置が急務である。「森の巨人たち百選」に選ばれた仙北市の「日本一のブナ」と「日本一のクリ」も見物途中で断念している。この名木を観光資源として散策路を整備するかどうかは、山林の持ち主と仙北市との交渉に期待するしかない。遺跡では、能代市の「杉沢台遺跡」を見学していない。郷土芸能や祭りでは、鹿角市の「大日堂舞楽」、秋田市の「土崎港曳山まつり」、大仙市の「刈和野の大綱引き」がある。自分で「勝手に秋田遺産100選」を選びながらも、そこに執着することに、自分の人生があるとは思っていない。
私の達成した旅は、松尾芭蕉翁の『おくのほそ道』を自転車で踏破し、『奥の細道輪行記』を出版したここと、中山道と東海道を自転車で走り、『芭蕉の花道』を執筆したことである。四国霊場八十八ヶ所も最初は自転車で巡礼し、車遍路は3度も行った。平成24年(2014年)には勤務地を替えながら「日本百名山」を4年間で踏破して、登山記も執筆した。
平成31年(2019年)には、北海道根室市を初めて訪ね、「日本100名城」の最後の砦、根室半島シャシ群跡をゲットした。その年は、倶知安町のニセコで仕事をしていので、「北海道遺産」の存在を知った。その遺産はめぐることが目的となって、指定67件の殆どを見物することが出来た。秋田県にも観光地を宣伝する遺産が必要と思ったのが、北海道遺産との出会いであった。私が松尾芭蕉翁を真似るように、秋田県も他県を真似た方が良い。
001白神山地(世界自然遺産・県立自然公園・日本の自然100選) 藤里町
秋田県と青森県に跨る「白神山地」が、鹿児島県の「屋久島」と共に日本最初の世界自然遺産に登録されたのは、平成5年(1993年)12月であった。ブナの天然林が約130,000ha(130k㎡)と、世界最大級の規模であるのが選定の理由で、そのうち約17,000 ha(17k㎡)が自然遺産に登録された。白神山地の130,000ha は、九州の壱岐島(旧壱岐国)や瀬戸内海の周防大島(屋代島)の面積とほぼ同じである。
登録された核心地域約17,000 haの内、秋田県は4分の1の約4,300haを有している。学術調査以外は立入り禁止となっていて、マタギの狩猟も禁じられたと聞く。自然保護が重視されて、手つかずの自然が残されたことになる。かつて秋田県は、「千秋林道」を建設し二ツ森(1,086m)まで工事を進めた経緯がある。八郎潟の干拓、田沢湖への酸性水の導入など、自然破壊を堂々と行って来た県民性があり、白神山地の重要性も無視していた。
林道工事を中断したのは、自然保護団体の体を張った阻止運動と、点と線だけの林道に対する不信感が浸透した結果であった。工事の中止した4年後に、世界自然遺産に登録されたので、その重要性を秋田県人は認識したのである。
秋田県側で唯一、核心地域と接しているのは二ツ森で、八峰町の八森から続く千秋林道の終点に登山口がある。藤里町には「白神山地世界遺産センター藤里館」があるが、環境省・秋田県・藤里町が共同で平成10年(1998年)に建設したビジターセンターである。同年には青森県の西目屋村にも「白神山地ビジダーセンター」が開設されて、世界自然遺産・白神山地を宣伝する場となった。秋田県側から白神山地を一望するには、藤里町の駒ヶ岳(1,158m)の山頂が一番の眺めである。その先の小岳(1,042m)も有名であるが、悪路に拒まれてタイヤがパンクして登山を断念したことがあった。
白神山地の青森県側の深浦町には、日本二百名山の白神岳(1,232m)があって「津軽国定公園」の一部となっている。秋田県側の八峰町にある真瀬岳(988m)の以南は「秋田白神県立自然公園」に属する。また、昭和57年(1982年)には、森林文化協会などが選定した「21世紀に残したい自然100選」に白神山地のブナ林として選ばれた。
白神山地の拠点である藤里町の年間観光客数の推移を見ると、平成15年(2003年)の約38万人がピークで、平成30年(2018年)には約19万人まで落ち込んだ。青森県側の拠点である西目屋村は約60万人がピークで、約30万人まで激減したと聞く。白神山地は一般的な観光で訪ねる場所ではなく、登山や森林浴が目的とされる山である。屋久島と比較すると、ブナの自然林だけの単純な構成で、屋久島ほどの魅力は感じられない。それが観光客の衰退の要因で、世界自然遺産でなかったら知名度は低いままであったろう。
西目屋村から深浦町までは、白神山地を東西に貫く県道の「白神ライン」があるが、44㎞が未舗装の砂利道で環境に配慮している様子に感じられが、危険な林道で再び走りたいとは思わなかった。白神山地の最高峰は向白神岳(1,243m)で、青森県側の深浦町に白神岳と対峙するように聳える。登山道がなく残雪期に登る以外に手段はないが、1度はチャレンジしたもので、白神山地の主要部分は青森県側に多い。
002十和田湖(国立公園・国特別名勝) 小坂町
十和田湖と奥入瀬渓流は、国の特別名勝に指定された景勝地で、十和田八幡平国立公園に属する。奥入瀬渓流は青森県に独占されているが、十和田湖は周囲46㎞の内、約17㎞が秋田県小坂町に属している。湖面の境界に関しては、江戸時代までは南部藩に属していたので問題はなかったが、明治の廃藩置県で東岸は青森県、西岸は秋田県に分割された。曖昧だった湖面の境界が定まったのは、平成20年(2008年)9月25日で、青森県十和田市が約37㎢(6割)、秋田県小坂町が約24㎢(4割)となって140年ぶりの決着となった。
十和田湖の観光の拠点は、十和田市の休屋であるが、小坂町の大川岱も十和田湖プリンスホテルが開業して注目されるようになった。バブルの崩壊後は、破産するホテルや旅館が続出したが十和田湖畔も例外ではなかった。十和田湖の休屋では観光客が激減した平成15年(2003年)、地下936mをボーリングして温泉を掘りて、「十和田湖畔温泉」と命名された。翌年には大川岱の十和田湖プリンスホテルも温泉の掘削に成功して、「十和田湖西湖畔温泉」と称された。秋田県で養殖されたヒメマスにとっては、十和田湖に秋田県と青森県の県境がないように、互いに協力して観光客を誘致する機運が高まっているようだ。
十和田湖の全周は、国道102・103・454号線の3本の道路で結ばれていて、49㎞の距離がある。この道路際には4ヶ所の展望台があって、小坂町の「発荷峠」の展望台は絶景である。十和田湖の奥に八甲田の山々が聳え、中山半島、御倉半島が湖面に浮かぶ。休屋から東に進んだ御倉半島の手前にも「瞰湖台」があるが、両半島の繊細な景観が眺められる。
秋田県は十和田湖の開発に随分と投資して来たが、現在は十和田ホテルが残るのみである。十和田ホテルは、昭和15年(1940年)に開催予定の東京オリンピックに合わせ、昭和14年(1939年)に建てられた和洋折衷の木造一部鉄筋コンクリート造3階建てのホテルである。オリンピックを機会に海外から日本を訪ねた人々に、十和田湖の素晴らしさを紹介するためにオープンしたのであった。しかし、戦前のオリンピックは幻となり、戦後の昭和39年(1964年)に東京オリンピックが開催されて日本人の夢は果たされた。十和田ホテルは平成10年(1998年)に改修工事が行われた際、本館の建物は修復されて平成15年(2003年)には国の登録有形文化財に登録された。
戦後の高度成長期には、秋田県は生出地区の開発に力を入れ、た十和田ユースホテルやホテル発荷荘、県営キャンプ場も建設した。小坂町は診療所を建て、国民宿舎をオープンさせた。生出地区と隣接する和井内には、休屋とを結ぶ定期船も運行されて賑わった。当時の国鉄が後押しした「ディスカバージャバーン」は、一大ブームとなって十和田湖の人気も高まった。しかし、国内の旅行ブームが去ると、次第に生出地区は寂れて行き、平成20年頃にはキャンプ場を除き、殆どの宿泊施設が廃業して消失した。そんな中でも、鉛山地区にある十和田ホテルの凜として高台に屹立している建物の景観は誇らしく見える。
ホテルの下の湖畔には、「陛下のさんぽ道」があって、昭和天皇・皇后陛下が十和田ホテルに宿泊された際、好んで歩いた湖畔の道である。昭和36年(1961年)の秋田国体に開会式に参列した時で、昭和・平成・令和と約60年経ても愛される湖畔の道である。
003男鹿半島(国定公園) 男鹿市
男鹿半島は全国に57ヶ所ある国定公園に指定されているが、その全域が県内に属するのは男鹿半島国定公園だけである。最近の観光地を評価する場合、世界遺産に登録された観光地は知名度が高く、優位にあるのは否めない。国立公園や国定公園の表記を削除している地図も多く、観光地を選ぶ目安とはなっていない。
最近では「ジオパーク」と称される公園の方が人気は高いようだ。男鹿半島は全国に50地域ある「日本ジオパーク」に加盟して認定されている。国立公園や国定公園は、乱開発を防ぐことには貢献したと考えるが、その評価の見直しは必要であろう。男鹿半島においは、従来の観光地の他にも新たな観光スポットを整備する必要性を感じる。
高度成長期の男鹿半島には、「寒風山有料道路」、「入道崎八望台有料道路」、「大桟橋有料道路」と有料道路があって、一周するのに1,600円も徴収された。当時の1,600円は、旅館の宿泊費に相当する金額で、男鹿半島の観光は高嶺の花であった。昭和61年(1886年)に寒風山有料道路が無料化され、平成3年(1991年)には大桟橋有料道路が無料化されて有料道路は男鹿半島から消えた。それが集客力のアップとなったのは、歴然としている。
男鹿半島と言えば、寒風山、入道崎、男鹿水族館の見物が定番であったが、雲昌寺のあじさい、男鹿真山伝承館の「なまはげショー」が最近になって人気を集めている。また、脇本城跡(山城)は「続日本100名城」に選定されたこともあって、歴史好きの観光客の視線を集めている。登山愛好者に注目されるのは、「男鹿三山」の縦走であろう。真山神社から真山(567m)、本山(715m)、毛無山(677m)を経て、赤神神社五社堂まで下る霊山めぐりである。「お山かけコース」と呼ばれ、修験道の名残りが随所に見られる。
男鹿半島のジオパークで特徴的なのは、マールが3ヶ所もあることである。マールは水蒸気爆発によって生成された火口で、東北では「男鹿目潟火山群」が唯一とされる。「一ノ目潟」と「二ノ目潟」は八望台から遠望できるが、「三ノ目潟」は道が無いので近づくこともできない。集落の飲料水としているので人の立ち入りを禁止していると聞いたが、観光資源が空しく眠っているように思われる。「一ノ目潟」と「二ノ目潟」は国の天然記念物で、「三ノ目潟」は県の天然記念物に指定されている。
男鹿半島の西海岸は、奇岩怪石があって変化に富んだ造形美を堪能できる。特に「館山崎グリーンタフ」、「大桟橋」、「ゴジラ岩」などは「日本の奇岩百景」に選ばれ、「鵜ノ崎海岸」は「日本の渚100選」と「日本の地質構造百選」となっている。
入道崎にある白黒ツートンカラーの灯台は、「日本の灯台50選」に選ばれ、登れる灯台16ヶ所の1つでもある。海の際まで広がる草原も緑も美しく、灯台とマッチしている。入道崎では透視船の運航もあって、海上から眺める入道崎も絵になる。
男鹿半島での最大の自然景観は、標高355mの「寒風山」であり、「世界三景」と誇張されるほど有名な山である。全山が芝生で覆われた山は珍しく、他に奈良の若草山(342m)や長崎県福江島の鬼岳(317m)があるだけであるが、寒風山の火山地形には及ばない。山頂に昭和39年(1964年)に設置された回転展望台があり、消滅して行く中でその稀少価値が高い。
004森吉山と阿仁スキー場(県立自然公園) 北秋田市阿仁
霊峰・森吉山(1,454m)は秋田県を代表する山であるけれど、全国的な知名度を考えると1,500mに満たない標高と一緒で低いと言わざるを得ない。同じ秋田県の太平山(1,170m)の方が、三吉神社の御神体として有名である。しかし、森吉山は「日本二百名山」や「花の百名山」の選ばれていて、自然環境に関しては森吉山に軍配が上がる。
東北には平安初期の武将・坂上田村麻呂に関する伝説や伝記が多いが、森吉山にも蝦夷の首長・大滝丸を退治した話が伝わる。大滝丸は村人から鬼神として恐れられていたこともあって、村人たちは田村麻呂を顕彰するために大同2年(807年)に森吉神社を創建したとされる。御神体は森吉山であるが、山頂附近にそそり立つ奇岩・冠岩(山神様)がシンボルとして祀られた。江戸時代には民俗学者の先駆けとなった菅江真澄が、初冬と真夏に2度も登山したこともあって、記念の歌碑が建っている。
森吉山は平成の大合併が行われる前は、森吉町と阿仁町に分かれていた。いずれの町も鉱山の廃止や林業の衰退で、将来に不安を抱いていた。その時に浮上したのが、大規模なスキー場の開発による復興策であった。その担い手になったのが、西武鉄道グループの国土計画㈱である。昭和62年(1987年)12月に「森吉山スキー場」が森吉町に、「阿仁スキー場」が阿仁町にオープンした。当初の国土計画は、森吉山頂まで両スキー場を拡大させて合体させる予定であったが、自然保護団体の反対もあって頓挫した。
バブルの崩壊や人口減少による利用客の減少もあって、「森吉山スキー場」が平成18年(2006年)に閉鎖される。当時は、秋田県美郷町の旧千畑村にもコンドラリフトのある「千畑スキー場」も同様のシステムであったが、これも廃止された。唯一、「阿仁スキー場」だけは、リゾート会社に売却されて生き残るかに見えたが、平成20年(2008年)に新たに発足した北秋田市にギブアップ宣言をした。秋田県で唯一、コンドラリフトのあるスキー場を残そうと、NPO森吉山が「阿仁スキー場」の指定管理者となって現在に至っている。
阿仁ゴンドラは夏期運行が行われ登山客には評判も良く、冬は樹氷見物に利用する観光客もいるようだ。樹氷に関しては、蔵王、八甲田山と共に「日本三大樹氷」の1つとされるが、アオモリトドマツに付着する結氷なので東北に限定される三大でもある。
森吉山登山は、阿仁ゴンドラを利用するとハイキング気分で登れる山である。なだらかな三角錐の独立峰なので、山頂からの360°パノラマ眺望が素晴らしい。北方向には岩木山と八甲田山、東方向には八幡平と岩手山、微かに見える早池峰山。そして南方向には、鳥海山と月山が見えるので、北東北における「日本百名山」のオンパレードである。
森吉山の山麓は裾野が広く、景勝地が多く点在する。阿仁川の支流である小又川には、森吉山ダム(森吉四季美湖)と森吉ダム(太平湖)がある。森吉山ダムは平成23年(2011年)に完成した比較的新しいダムで、堤高89m、湛水面積320haの規模である。森吉ダムは昭和27年(1952年)に完成したダムで、堤高62m、湛水面積156haの規模である。森吉ダムは太平湖の名で知られ、湖内には遊覧船が運行されている。小又峡は遊覧船を利用すれば便利で、三階滝の紅葉は目を見張る美しさであった。
005太平山と太平山三吉神社(県立自然公園) 秋田市仁別
霊峰・太平山(1,170m)は秋田市内からも近く、秋田市民に最も親しまれている山である。また、太平山の奥宮には主神の大国主命が祀られ、山麓の里宮は太平山三吉神社の総本宮であり、東北や北海道に多くの末社を有する。神社の創建は、奈良時代の天武2年(673)に修験道開祖・役の行者小角が開山し、平安初期に征夷大将軍・坂上田村麻呂が堂宇を建立して開基したとされる。江戸時代まで太平山は、神仏混合の修験の霊山であったが、明治初期の廃仏毀釈で神道一色に改められたのである。昭和の敗戦によって宗教の自由が認められると、太平山にも修験道が復活してホラ貝の音が響くようになった。
修験道時代から太平山は、「三吉さん」と呼ばれ親しまれて来たのが「太平山大権現(三吉大神)」で、鳥海山の「大物忌神」と同様に「薬師瑠璃光如来」の化身とされた。鳥海山の修験道はすっかり消滅してしまったが、太平山の石仏が多く残っている。登山は登拝であって、山頂に鎮座する「三吉さん」に挨拶することが第一目的と言っていいだろう。
太平山は「東北百名山」に選ばれていて、県内在住の登山者なら1度は登っているだろう。太平山には6ヶ所の登山口があるが、最も楽に登れるが旭又登山口である。山頂までの標準タイムは3時間で、6時間もあれば余裕でピストンができるし、宝蔵岳を経由して下山するのも変化があって面白いと思う。
太平山には森吉山と同様に菅江真澄も登っていて、『月のおろちね』の挿絵には登山記録が添えられている。約200年前の文化9年(1812年)7月、真澄一行は目長崎の肝煎り・嵯峨勝珍家に前泊し、黒沢、皿見内、野田を経て山路に入っている。目長崎には、国指定重要有形文化財の嵯峨家住宅あるが、真澄一行が投宿した嵯峨勝珍家の分家と思われる。野田には当時も放牧場があったようで、中平の鳥居、あま池、不動の滝、女人堂、弟子返りと名所をめぐり太平山の山頂に到着した。女人堂は女性の登拝が許された地点で、弟子返りは年配の行者や法師のサポートをした弟子たちが引き返した地点である。山頂の権現堂に1泊した真澄一行は翌日、空滝、御手洗、あやめ坂、弟子返り沢、旭又、務沢、木曽岩沢と経て再び嵯峨勝珍家に投宿している。務沢は現在の森林博物館の周辺で、木曽岩沢は三吉神社の里宮がある場所である。真澄が当時住んでいた久保田城下からは、5泊6日の大変な霊山登拝となったようである。
太平山の山麓が観光開発されたのは、国が計画した中規模レクリエーション施設「家族旅行村」の認定を全国5ヶ所の1つに選ばれたことであった。昭和56年(1981年)には「ピクニックの森」がオープンし、昭和57年(1982年)には「仁別レジャーランド」が開園した。しかし、レジャーランドは、利用者の減少によって僅か7年で閉鎖に追い込まれた。その後の平成3年(1991年)、秋田市が主体となって「太平山リゾート公園」の総称で「ザ・ブーン」をオープンさせ、翌年には「太平山スキー場オーパス」を開設した。他にクアドーム「展望風呂」やオートキャンプ場などが次々にオープンさせ、平成21年(2009年)の多目的広場の完成で終了した。「仁別レジャーランド」の二の舞いを踏んで欲しくはないが、スキー場に関しては人工降雪機があるので雪不足は解消できそうである。
006田沢湖(県立自然公園) 仙北市田沢湖
自然景観の中で観光客に最も好まれるのが、天然の湖沼であろう。特に東北や北海道に多く、全国に約100ヶ所ある天然の湖沼のうち半数を占めている。天然の湖沼の比較では、面積、水深、透明度が重要視される。面積では、滋賀県の琵琶湖が669.20㎢と抜きん出ている。田沢湖の面積は27.79㎢で、日本で19番目の広さなのであるが、琵琶湖に田沢湖が24個も入る計算となる。水深は秋田県の田沢湖が1位の423mで、2位の北海道の支笏湖を63mも引き離している。透明度に関しては、北海道の摩周湖が25mと最大である。
個人的な見解だと最大という観点からは、「山は富士、海は瀬戸内海、湖は琵琶湖」と考える。景観上、最も美しい湖沼となれば評価は分かれると思うが、摩周湖(211m)、支笏湖(360m)、十和田湖(327m)などのカルデラ湖である。そのカルデラ湖には田沢湖も含まれるので、日本一の水深もカルデラ湖の特徴とも言える。
田沢湖の歴史の中で一番悲しい出来事は、太平洋戦争直前の昭和15年(1940年)に食糧増産と電源開発のために玉川の強酸性の水を導入させたことである。結果的には、田沢湖の生物は死滅し、田沢湖から流れる農業用水は稲作に使用できなくなった。田沢湖では当時、クニマスの孵化放流事業が行われ、約9万匹の漁獲高があった。食糧増産計画は皮肉なことに減産を余儀なくされ、最悪の自然破壊を招く結果となった。平成元年(1989年)に元凶であった玉川温泉に中和処理施設が完成すると、水質は改善されているが、湖全体の回復には至っていないようだ。それにもめげず、田沢湖の観光開発は進み、遊覧船の運航、辰子伝説による金色のたつこ像の設置など新たな名所も出現した。
最も印象に残るのは、昭和63年(1988年)に「田沢湖スイス村」が潟地区に開園したことである。前年に「田沢湖金色大観音」を建立したミナミユースランドと言う秋葉原に本社を無線会社の子会社であった。スイス村には子供たちや母親を連れて遊びに行ったが、平成13年(2001年)に閉園となった。
田沢湖畔に宿泊施設が開業したのは大正13年(1924年)で、白浜旅館湖心亭の絵葉書を見たことがある。現在の花心亭しらはま(旧白浜舘)とホテル湖心亭の前身である。田沢湖に初めて宿泊した半世紀前は、白浜には蓬莱館と観光亭、潟尻には田沢湖レイクサイドホテルがあった。春山には国民宿舎を兼ねた田沢湖ユースホステルがあって、ユースホステルが主催した田沢湖一周ウォークラリーに参加したことがあった。田沢湖一周は20.3㎞と、1日のんびりと歩くには丁度いい距離で、残雪の秋田駒ヶ岳を眺めてラリーは最高であった。
令和時代に入って田沢湖を訪ねると、春山にユースホステルはなく、国民宿舎は休業中であった。白浜のホテルには温泉が開湯されたようで、花心亭しらはま、ホテル湖心亭も天然温泉を謳っていた。潟には「思い出の潟分校」、「田沢湖クニマス未来館」が新たな名所になっていたが、クニマスが再び田沢湖で繁殖する様子を見たいものである。たつこ像には、殆どの観光客が見物するようで、秋田駒ヶ岳をバックに写真を撮っていた。潟尻から西木に向う途中に「田沢湖展望台」があるので立ち寄ったが、旧西木村が入口に開設した「山の幸資料館」は、閉鎖されて久しいようで痛々しく感じながら眺めた。
007八幡平と秋田八幡平スキー場(国立公園) 鹿角市八幡平
八幡平は平安時代初期、征夷大将軍・坂上田村麻呂が岩手山に籠る大武丸(大猛丸)を討つ時、拠点したと言われる。源大森を見張台として、山頂附近に祭壇を築き八幡神に戦傷祈願したことが地名の由来とされる。しかし、史実の田村麻呂は、胆沢城(現在の奥州市水沢)を拠点して戦っているので、八幡平の布陣は伝説の域を出ない。
八幡平は「十和田八幡平国立公園」に指定されているが、十和田地区の指定範囲は青森県が9割近くを占め、八幡平地区に関しては岩手県と拮抗している。岩手県の「八幡平スキー場」が消滅しても、秋田県は「秋田八幡平スキー場」の名称のままであるし、岩手県が「八幡平市」を命名しても何も文句を言わない。
八幡平は有名温泉のオンパレードで、殆どが国立公園内に位置する。秋田県では玉川温泉・後生掛温泉・蒸ノ湯・乳頭温泉郷があり、岩手県には藤七温泉・松川温泉・網張温泉・国見温泉がある。八幡平山頂附近にある藤七温泉は、岩手県に属しながも経営者は秋田県人で、八幡平温泉郷の奥の湯と考えている秋田県人が多い。
山岳に関しては岩手県には岩手山(2,038m)があって、秋田県には秋田駒ヶ岳(1,637m)がある。八幡平(1,613m)と乳頭山(1,478m)は、山頂を仲良く分け合っているが、岩手県では乳頭山を烏帽子岳と呼んでいる。八幡平の岩手県側には茶臼岳(1,578m)、秋田県側には焼山(1,366m)があるが、いずれの山も登山者の人気は高い山である。
岩手県側から山麓を上り、八幡平山頂を経て秋田県に下るアスピーテラインは、以前は有料道路であった。岩手県側は八幡平スキー場の上に料金所があったが、秋田県側は秋田八幡平スキー場の手前にあったため、春スキーで訪ねた際は5㎞ほど走っただけで料金を徴収されるジレンマがあった。そのジレンマから解放されて無料化となったのは、平成4年(1992年)4月からである。
八幡平山頂は春スキーのメッカで有名で、5月連休の時は山頂から松川温泉までシャトルバスが運行されていた。これがレトロなボンネットバスで、山頂から藤七温泉まで滑り降りるスキーヤーを山頂まで運んでいた。ボンネットバスが休止になると、友人と交互に運転を交代してスキーを楽しんだものである。
秋田県側のアスピーテライン沿いには、麓から大沼温泉、後生掛温泉、大深温泉、蒸ノ湯温泉の温泉地があるが、大沼温泉だけが大きく推移して来た。40年前には大沼の畔に八幡平レークイン、秋田八幡平スキー場の下には後生掛温泉別館ホテル山水、八幡平高原ホテル、八幡平グリーンホテル、八幡平大沼ユースホステル、国民宿舎八幡平大沼ロッジがあった。八幡平レークインは八幡平大沼茶屋湖に名称が変わり、ユースホステルと国民宿舎は消えていた。国民宿舎の跡地には、日帰り温泉施設・八幡平ふれあいやすらぎ温泉センターゆららが新たに建っていた。八幡平グリーンホテルは廃業したようで、八幡平高原ホテルが健気にも営業を続けていた。秋田八幡平スキー場だけは、ウインタースポーツ施設の最後の牙城として何とか残して欲しいと願う。そのためには「スキー場遺産」を創設して関心を高め、寄付金を集めてでも、未来の子供たちへ夢のリレーしなくてはならない。
008秋田駒ヶ岳とたざわ湖スキー場(国立公園) 仙北市田沢湖水沢
秋田県に山頂の籍を置く山で、標高が一番高い山が秋田駒ヶ岳の男女岳(1,637m)である。青森県の最高峰・岩木山(1,625m)よりも若干高いのは良いが、福島県の最高峰・燧ヶ岳(2,356m)に比べると、見劣りするのは否めない。それでも東北では人気の高い山で、シーズン中は8合目の登山口までシャトルバスが運行されている。
秋田駒ヶ岳の西斜面にあるのが「たざわ湖スキー場」で、田沢湖高原に残る唯一のスキー場である。昭和44年(1969年)、秋田県営田沢湖国際スキー場の名称で開設され、秋田県を代表するスキー場へと発展する。夏はサマーリフトも運行されていて、昭和48年(1973年)の秋田駒ヶ岳への初登山はサマーリフトを利用した。同様に岩手県の網張温泉スキー場も岩手山(2,038m)登山にサマーリフトを運行していて、現在も継続しているようである。秋田県は随分と昔に廃止し、がっくりした思い出がある。
秋田駒ヶ岳は森吉山と同様に、「日本二百名山」と「花の百名山」の選ばれていて高山植物の宝庫と言える。特に殆ど養分のない火山灰の上に咲くコマクサの大群落は、逞しく可憐に見える。他にチングルマ、タカネスミレの大群落もある。常時水を湛えている阿弥陀池の景観は素晴らしく、さながらこの世の浄土を感じさせる。1度だけではあるが、駒ヶ岳の焼森から湯森山、笊森山の稜線を縦走して乳頭山から下山したことがあった。休暇村乳頭温泉郷から定期バスがなく、タクシーで8合目登山口の駐車場まで戻ったことがあったが、とても贅沢な登山となったことが思い出に残る。
殆どのスキー場の駐車料金が無料となる中、県営田沢湖国際スキー場はがっちり徴収していて、ジュネス栗駒スキー場に行く頻度が増えた。モーグル競技のワールドカップが開催されると聞き、約20年ぶりに来てみると「たざわ湖スキー場」に名称が変わり、県営から第3セクターが運営しているようである。モーグル競技は黒森ゲレンデで行われていたので、滑る脚を休ませて見物した。若い頃は、駒ヶ岳第3リフト(600m)のコブは滑れたが、黒森ゲレンデのコブには手こずった思い出がある。そのコースをいとも簡単に、ハイスピードで滑る様子を見て絶句するだけであった。体操競技など技術的な進歩は、半世紀前と比較できないほどであるが、スキーも同様で大人と子供の差がある。
スキー場のコース自体は、20年前と大きな変化はないが、リフトの本数が9基から6基に減っていた。その分、クワツトリフト(1,568m)が新設され、銀嶺第3リフト(830m)も変更されてリフトの全長は伸びていた。田沢湖スポーツセンターも温泉付の立派な建物となっていて、スキー場のイメージアップに貢献しているように見えた。
秋田駒ヶ岳とたざわ湖スキー場が一体となって半世紀、湖を眺めながら滑るゲレンデは全国的に見ても数は少ない。モーグル競技のワールドカップに参加した海外の選手たちも、そのロケーションに感動を覚えたことであろう。ゲレンデから田沢湖を見慣れた秋田県人には、当然と思える風景であろうが、始めて見るスキー客にとっては驚きの風景に他ならない。「たざわ湖スキー場」が無くなることはないと思うが、北海道のニセコのスキー場のように、海外のスキー客からも注目されるスキー場に発展して欲しいものである。
009鳥海山(国定公園) にかほ市鉾立
石川啄木の有名な歌に「ふるさとの 山に向ひて 言うこしなし ふるとさとの山は ありがたきかな」がある。渋民村(現在の盛岡市玉山区)から岩手山(2,038)か、姫神山(1,124m)を詠んだとされる。秋田県の県南に住む者にとっての「ふるさとの山」は、「鳥海山(2,236m)」であり、物心ついた時から眺めて来た山である。初登山は19歳の夏で、山頂の山小屋に1泊しての登山であった。それから幾度なく登山したが、山頂が山形県と知って山小屋には泊まったことがなく、粗末な山小屋を嫌悪するようになった。
鳥海山は飛鳥時代の敏達天皇7年(578年)、大規模な噴火があったと記録されていて、その頃から「大物忌大神」の霊山として崇められた。秋田県側では木境(矢島)、森子(滝沢)に、山形県側では吹浦と蕨岡に大物忌神社が創建された。中世になって全国各地で修験道が盛んになると、秋田県側の木境は真言宗当山派が、山形県側の吹浦は天台宗本山派が拠点として、堂宇や坊舎が建てられた。山形県側は順峰、秋田県側が逆峰と称されていたが、江戸時代に入ると、山形県側は酒井氏の庄内藩と秋田県側は生駒氏の矢島藩が山頂本社の所有をめぐって対立した。元禄14年(1701年)、領地の境界線も含めて矢島藩は幕府に訴訟を起こした。宝永元年(1704年)に幕府の実地見聞が行われるが、庄内藩は14万石の親藩で、矢島藩は1万石にも満たない外様であったことから、庄内藩に有利な境界線が定められた。その歪な境界線が、約300年も続いていることになる。
写真撮影のため、山形県の庄内地区、新庄地区から鳥海山を眺めたが、秋田県の県南から眺める鳥海山が一番美しく「出羽富士」は山形県側にはない。山頂の山小屋は、吹浦の大物忌神社(旧出羽国一宮)が運営しているが、本来は県営の立派な山荘施設とすべきである。もしも、秋田県と山頂を共有していれば、世界に誇れる山荘の建設は可能と思う。
鳥海山の親分である富士山が、「世界自然遺産」に選ばれず、「世界文化遺産」になったのも、山頂の建物や山小屋が粗末であったことが理由の1つようだ。文化遺産も条件付きで、山小屋の環境改善もある。富士山の山頂は、富士山本宮浅間神社の所有となっているので、山小屋の営業も神社の許可が必要とされるので間接的には神社の営業と言える。
鳥海山の県境を地図で見ると、西側の稜線から稲倉岳(1,554m)を取り込むように北側に伸び、中島台の一部を包み込んでいる。誰の目から見ても不自然な境界線となっていて、鉾立から先の稜線が316年前の境界線であったことが推察できる。その316年前、矢島藩の交渉に当った若き家老は、庄内藩の陰謀を知って庄内藩に赴き切腹して抗議した。そんな悲話を思うと、戊辰戦争で庄内藩と矢島藩が戦ったのは、巨象に踏まれた鼠の意地とも言えるが、不法に占拠されている現実は、現在も未来も続いて行くのだろうか。
鳥海山には山形県の登山口からも登ったことがあるが、秋田県の鉾立口からのコースが一般的で、春スキーを楽しむなら祓川口の矢島コースに限る。「奈曽の白瀑谷」は国名勝、「鳥海山獅子ヶ湿原植物群落及び新山溶岩流末端崖と湧水群」は国天然記念物、「法体の滝」は日本の滝百選、ブナの奇形樹「あがりこ大王」は森の巨人たち百選と、山麓の名所は山形県を凌駕する。共通するのは、鳥海山麓の神社や修験道跡が国の史跡に指定されたこと。
010栗駒山(国定公園) 東成瀬村須川
秋田県の観光地で、3県に接しているのは「栗駒山(1,626m)」で、山頂は岩手県と宮城県が二分され、須川高原は岩手県と秋田県に分かれている。登山口は宮城県のいわかがみ平と岩手・秋田県の須川高原があるが、いわかがみ平はアクセスが良く、温泉がある須川高原も人気が高い。栗駒山には須川高原から何度となく登っているが、いわかがみ平から1度だけ登ったが、東栗駒コースと中央コースに分かれているのが魅力的であった。また、紅葉もいわかがみ平の方が雄大で、紅い絨毯の上を歩いている気分を味わった。
栗駒山は岩手県では、須川岳(酢川岳)と呼ぶようであるが、須川高原温泉の酸性の泉質に由来するようである。栗駒山を中心とする「栗駒国定公園」は3県の広範囲にまたがっているが、秋田県では小安峡、木地山高原、川原毛地獄、神室山(1,365m)の山頂附近などの名所がある。温泉では須川温泉、小安峡温泉、泥湯温泉、秋ノ宮温泉郷などが知られる。国定公園は国立公園のような単独の地図がなく、把握しぬくい盲点があって、焼石岳西麓の東成瀬村のジュネス栗駒が含まれるようである。確かに、栗駒山へのアクセスは小安峡を経由するよりも東成瀬の方が道路走行は快適であるので、秋田県側の玄関口と言える。
初めて栗駒山を訪ねたのは、中学3年生の夏休みで友人2人との自転車旅行であった。横手から大湯温泉に来ると、砂利道の林道となっていた自転車は無理と諦めて大湯温泉に自転車を預けて徒歩で須川高原まで登った。須川高原手前の須川湖には貸しボートがあって、栗駒山を眺めての遊覧は最高の思い出となった。しかし、須川高原にキャンプした夜は、激しい雨にみまわれてテントも衣服もずぶ濡れとなって、最悪の一夜となった。翌日の朝は意気消沈し、登山を断念して温泉に浸かった後に下山して旅を終えた。
それから3年後の昭和46年(1971年)の初夏、17歳の私は平泉や厳美渓を見物してからバスに揺られて須川高原に上り、単独で栗駒山の登頂を遂げてリベンジを果たした。前日は須川高原温泉に泊まったが、当時の宿泊費が2食付で2,000円とノートに記録してあった。その後に泊まったのは16年後の昭和62年(1987年)で、2食付で8,000円と4倍となっていた。平成時代に入ってから「日本秘湯を守る会」の会員旅館と知って、再び泊まろうとしたら、15,000円と失業した当時は手の届かない料金設定で断念したことがあった。
栗駒山で思い出されるのが、平成20年(2009年)6月に発生した「岩手・宮城内陸地震」で、宮城県側の被害が甚大であった。栗駒五湯で知られた温泉の何軒かは、建物の被害や土石流の流入で再建不能となった。秋田県側の被害は少なかったが、宮城県に通ずる国道398号線(小安街道)が寸断されて、開通されたのは震災から2年3ヶ月後であった。その間に両県の観光や交流が遮断され、経済的な損失や影響は計り知れなかった。
栗駒山も山頂に駒形根神社の嶽宮(奥宮)を祀る霊山で、宮城県栗原市沼倉に里宮がある。秋田県と岩手県には神社はないが、開湯約300年の須川温泉は江戸時代には仙台藩伊達領であったので、山頂の嶽宮を共有していたと言える。江戸時代の仙台藩と秋田藩は、秋田側の小安から花山越と文字越の山路を開き海産物の交易を行った。戊辰戦争の時は、仙台藩に侵攻されたが、庄内藩との関係よりは良好であって現在も良い関係が続いている。
011象潟九十九島(国定公園) にかほ市象潟
私にとって最も身近な海は象潟で、終の棲家と考えるほどである。平成30年(2018年)12月初旬から平成31年(2019年)4月末日までの約4ヶ月間、象潟にアパートを借りて少ない年金だけで暮らした。その時、興味を抱いたのが「象潟九十九島」で、その調査や研究に夢中になった。俳聖・松尾芭蕉と門人・河合曾良が象潟を訪ね、小舟で象潟の島々を巡ったのは江戸時代前期の元禄2年(1689年)6月17日(旧暦)である。6月17日は新暦に変えると8月2日で、夏の盛りであった。芭蕉は『おくのほそ道』の俳文で鳥海山が屹立する象潟の景色を絶賛し、松島との違いを陽気(太平洋)と陰気(日本海)に例え述べている。
九十九島があったとされる象潟は、江戸時代後期の文化元年(1804年)6月4日(旧暦)、マグネチュード7.0の象潟地震によって4mほど隆起して陸地になってしまった。本荘藩六郷家の絵師・牧野永昌が描いた六曲一双の「絹本着色象潟図屏風」は、往年の象潟九十九島をリアルに描いた秀作である。この絵の複製版がJR象潟駅の待合室に、道の駅象潟「ねむの丘」の6階展望室には縮小版が、3階大ホールには拡大版が展示されている。しかし、隆起した後に、本荘藩による新田開発が行われて崩された小島もあった。その時、蚶満寺の24世住職が死を賭して新田開発を阻止し、現在に残る象潟の景観を守ったのである。
昭和9年(1934年)、象潟九十九島は国の天然記念物に指定されるが、指定を受けた島々は103ヶ所と、九十九島より多い。にかほ市象潟郷土資料館には、象潟のジオラマが展示されていて、指定された103ヶ所の島々の位置が表示されていた。島々の中には民家の敷地もあって、島の面影が消失した所もある。実際に歩いて見て、松の美観を含めて良好な景観を残しているのは37ヶ所ほどであった。
蚶満寺から眺められる島々は、平成27年(2015年)に「おくのほそ道の風景地・象潟及び汐越三崎」の名称で国の名勝に指定された。その指定の島々は、みさご島・象潟島(蚶満寺)・八ツ島・駒留島・鮓蓋島・上堂ノ森・下堂ノ森・鮓桶島・弁天島の九島である。盆栽のように美しい景観であるが、耕作放置された田んぼがあって景観が損なわれている。その田んぼを池に改め、にかほ市が公園のように管理した方が良く、昔の海の面影が再現される。
象潟は松尾芭蕉が有名にした言えるが、それ以前の遥か昔の神代は、神功皇后が三韓(新羅・百済・高句麗)に遠征した帰路、象潟に漂着した伝説がある。平安時代初期には慈覚大師円仁が蚶満寺の前身である干満珠寺を開山し、中期には菅原道真の子・菅原淳茂(菅秀才)、歌人・猿丸太夫、能因法師が訪ねた伝説が寺に残る。末期には西行法師が訪ねたことで、歌枕の地として有名となって芭蕉の心を引き寄せた。鎌倉時代には執権・北条時頼が中興して禅宗に改めたとされ、手植えのツツジが伝承されている。
芭蕉以降の江戸時代は、広瀬惟然・天野桃隣・三上千那・池西言水・鈴木清風・各務支考・岩田涼莬・早野巴人・蓑笠庵梨一などの門人の他、与謝蕪村・平賀源内・小林一茶・伊能忠敬・菅江真澄・松浦武四朗・吉田松陰など錚々たる有名人が象潟を訪ねている。明治に入ると、落合直文・閑院宮載仁親王・正岡子規・田山花袋・河東碧梧桐らがいる。芭蕉を慕った外国人では、ドナルド・キーンと李登輝が象潟を訪ねて芭蕉の面影を偲んだ。
012抱返り渓谷(県立自然公園) 仙北市神代
秋田県には様々な峡谷があるけれど、最も親しまれているのが県立自然公園となっている「抱きかえり渓谷」であろう。アクセスが良くて、秋田県第一の観光地・角館に近く、わらび座の名で知られた「あきた芸術村」は直前にある。
玉川が生保内で生保内川と合流し、夏瀬ダム、神代貯水池を経た下流が抱返り渓谷となる。抱返り渓谷は「東北の耶馬渓」と称されるようであるが、大分県の耶馬渓は、国の名勝及び天然記念物で、耶馬日田英彦山国定公園に属し、渓谷の距離は32㎞もあるのでスケールが違い過ぎる。それでも遊歩道入口の石碑から神代貯水池の歩道終点までは約10㎞あるので、東北では屈指の渓谷であるのは事実である。
スタート地点の浅瀬には、松が生えた巫女石の奇岩が目を引き付ける。薬師参拝に訪れた巫女が増水により川を渡れずにいたところ、明神様が救ったことから生まれた岩と伝承される。その後の巫女が明神様に感謝し、巨岩となったと伝説される。その明神様を祀っているのが、左手の抱返神社と思いきや、祭神は水波能売神で奈良県の丹生川神社の分霊と聞き、薬師様や明神様は何処にあったのか気になる所である。
渓谷には赤い吊り橋が架かっているが、神の岩橋と言って、大正15年(1926年)に造られた秋田県最古の吊り橋と言う。この橋を含めて遊歩道はかつて、森林軌道であったようで、古き時代が偲ばれる。抱返神社は江戸時代前期の寛文13年(1673年)の創建で、若松地区への入植者が雨乞いのために祀ったとされるが、菅江真澄が訪ねていないのが不思議である。
遊歩道を歩いていると、紺碧の瀞の中に茣蓙の石と言う巨石がある。岩の上がゴザを数枚敷けるほどの平らになっていることから命名されたようである。ふと田沢湖にも同名の石があったことを思い出して調べると、田沢湖の石は御座石であった。二代秋田藩主・佐竹義隆が田沢湖遊覧の際に腰かけた石で、名前の由来が違うようだ。
若狭の急流を過ぎると、分流に架かる誓願橋がある。別に寺があったわけではないが、一帯は誓願寺と呼ばれているようだ。森林軌道があった時代に開通された3つのトンネル(隧道)を潜ると、けたたましい水音が響く右手に回顧の滝が見える。渓谷に滝がないと、魅力は半減し様にならない。高さ30mの二段瀑であるが、似たような滝が象潟にある奈曽の白滝であるが、回顧の滝の評価や知名度が低いのが残念である。
回顧の滝付近から先の遊歩道は通行禁止となっていたが、昔は夏瀬温泉まで歩いた思い出ある。度重なる土砂崩れが、通行止めの原因であるようだが、大概の観光客が回顧の滝で引き返すので無理もない。「何でも見てやろう」と思っている好奇心の旺盛な観光客が少なくなっているのも遠因であろう。
抱きかえり渓谷は、新緑や紅葉の頃が最も良いとされるが、雪景色にも魅力を感じる。ネット情報によると、神の岩橋から先は11月下旬から4月下旬まで通行止めとなっている。しかし、自己責任で入るのは雪山と同様と思う。歩くスキーかカンジキをはいて、氷結の回顧の滝を見てみたいし、雪化粧した巫女石や茣蓙の石を眺めてみたい。秋田県は冬の観光にも力を入れて、抱きかえり渓谷の「歩くスキーツアー」など企画すれば良いと思う。
013小安峡(国定公園) 湯沢市皆瀬小安
栗駒国定公園に属する小安峡は、秋田県屈指の温泉地でもあるので冬期間を除くと観光客の絶えることはない。殆どの観光客が400段近くある石段を下って見物するのが、岩の割れ目から噴きだす「大噴湯」であろう。宮城県にある鬼首温泉の「間歇泉」と同等で、親から子へ、子から孫へと見物のリレーが続いているような気がする。
約8㎞に及ぶ小安峡は、皆瀬川が侵食作用で削られたV字峡谷で、大噴湯がある附近の高さは約60mとされる。大噴湯を眺めるには、小安峡に架かる河原湯橋の上に立って眺めるのが圧巻であり、春夏秋冬の移ろいが絵になる。小安峡には下流から龍神の滝・銚子の滝・女滝・明神の滝と5つの滝が流れ落ち、上流の本流には落差の小さな不動滝がある。
不動滝の側には、「三途川層」と呼ばれる堆積物の地層が露呈している。堆積物は比較的柔らかな砂岩や泥岩で構成されるが、温泉成分の影響で硬くなった地層との境目に不動滝が出来たと言われる。滝には龍神が住んでいたと言う伝説があって、峡谷の上に大瀧不動尊が祀られている。日照りの時は雨乞いし、豪雨の時は晴れ乞いを行ったようである。身勝手な人間の祈祷であるが、不動明王は龍王や滝の化身とも言われるので無理もない。
大湯温泉の先の皆瀬川沿いには、トロッコ道跡があって現在はハイキングコースになっている。トロッコ道は木材を運び出す森林軌道で、昭和40年(1965年)頃まで運行されていたようだ。ハイキングコースには人面岩や猿飛峡の名所があるが、国道398号線にその案内標識はなかった。観光案内所で聞くと、ガイドがなしでは見物するのは無理と言う。
人面岩は河床から露呈した凝灰岩が、人の顔のように侵食された様子の岩である。熊本県上天草市の維和島には人面岩があるが、こちらは「日本の奇岩百景」に選ばれている。猿飛峡も富山県黒部市の黒部峡谷にあるが、自然美では最も評価が高い国の特別名勝及び特別天然記念物に指定されている。
ハイキングコースの終点は、トロッコ道の鉄橋跡で産業遺産として保存しているようには見えない。おそらく撤去する費用が捻出できず放置しているようであるが、ならば廃墟の建造物として見物させるのも手である。奥小安も約8㎞に及ぶ渓流であり、立派な観光資源と思うのであるが、現在は荒れるにまかせている情況であった。
小安峡にはかつて、小安温泉スキー場があったが平成29年(2017年)に閉鎖されてしまった。昭和55年(1980年)に旧皆瀬村が開設したスキー場で、ペアリフト1基・ロープトウ1基と規模は小さかったが上級者コースもあって楽しめるスキー場であった。閉鎖される前年には、写真に記録するためスキー場を訪ねて別れを告げた。
小安峡に併走する国道398号線は、奥小安から冬期間は閉鎖されるために宮城県からの来訪者はいない。冬期間は「雪まつり」でも開催して温泉街を盛り上げればいいと思うが、そんな気運がないのが秋田県らしさである。唯一、秋田県小坂町も協賛する青森県十和田市の「十和田湖冬物語」は、一大イベントとして21年目を数える。北海道上川町の層雲峡温泉で開催される「氷瀑まつり」は、45年の歴史がある。長野県や新潟県でも雪まつりは盛んに行われていて、イルミネーションの点灯や名所のライトアップは珍しくはない。
014七滝(日本の滝100選) 小坂町七滝
昭和時代の末年から平成時代にかけて、様々な100選(百選)が選定されて来た。その数は70選近くに及び、中でも定着した100選となっているのが、「日本の滝100選」である。平成2年(1990年)に緑の文明学会が選定し、グリーンルネッサンスから本が刊行された。この100選には、秋田県から七滝(小坂町)、茶釜の滝(鹿角市)、安の滝(北秋田市)、法体の滝(由利本荘市)の4ヶ所が選ばれていて、東北では最多を誇る。
七滝は十和田湖の発荷峠から大館市内に至る樹海ラインにあって、滝の前には「道の駅こさか七滝」が開設されている。滝の名前のように落差60mの七段瀑で、川は七滝沢と呼ばれている。滝の周辺は小公園となっていて、十和田湖観光の際に立ち寄る名所でもある。滝の下の平地には、龍神を祀る七滝神社や水車小屋が建っている。
滝と言えば昔話が多いが、この滝にも七滝伝説があって、七滝村の大地主・孫左衛門の話である。七滝には不思議な力があると恐れられて、滝に物を投ことが禁じられていた。自分の力を誇示したかった孫左衛門は、それを無視して滝に70本余りの薪を滝の上流に落した。薪が3段目の滝壺に落下すると同時に、天地を揺るがす大鳴動と共に苦痛のうめきが水中から聞こえ、薪は2度と浮かび上がらなかったと言う。孫左衛門は滝の恐ろしさに震え上がり、病の床についてしまった。滝は龍神の化身で、口の中に薪を入れられた龍神は、痛々しい姿で孫左衛門の枕元に現れて恨みを語った。孫左衛門は一心に反省し、七滝神社(不動神社)を建立して自分の罪を償ったとされる。
道の駅こさか七滝は、平成22年(2010年)のオープンであるが、それ以前は滝の茶屋「孫左衛門」があって、滝を眺めながら食事したことを覚えている。「日本の滝100選」に選ばれている滝は、辺鄙な山の中にある滝も珍しくはない。その点、七滝は車上からも眺められ、身近な場所にある日本の滝100選である。
江戸時代の文化4年(1807年)、民俗学者・菅江真澄は十和田湖遊覧の折、七滝に立ち寄ってスケッチと和歌を残している。明治になると、俳人・河東碧梧桐が明治40年(1907年)に七滝を眺め、現在の小坂町の様子を『三千里』の紀行文に記している。その紀行文で注目されるのが、「午後四時小阪銀山町に着く。脱硫塔の鼻をさす烟の匂いは足尾以来である。」と述べている一文である。明治35年(1902年)から昭和42年(1967年)までの65年間、日本最大の鉱山被害をもたらした足尾銅山と同規模の鉱山被害が発生していたのである。製錬所の排煙に含まれていた亜硫酸ガスにより、小坂町のほぼ全域と、旧大湯町の国有林が裸地化されたと言う。現在も小坂鉱山跡には、草木の生えないはげ山が存在している。
七滝の森林も鉱山被害に遭ったと思うが、負の歴史に口を閉ざすのが秋田県人の県民性である。数年前、足尾鉱山跡を見物したことがあったが、ある程度の緑地化は進んでいたものの、全面回復までは到っていなかった。昭和45年(1970年)、小坂町の鉛山鉱山では、鉱山所長が十和田湖の汚染の責任を苦に自殺する事件があった。戦後の高度成長期は、繁栄の時代であったかも知れないが、その反面、公害問題が全国各地で多発した。鉱山王国と称された秋田県の負の遺産は測り知れないが、七滝の自然が回復したことは喜ばしい。
015安の滝(県立自然公園・日本の滝100選) 北秋田市阿仁打当
マタギの里・阿仁には、「打当温泉マタギの湯」があって、「マタギ資料館」も隣接する。その山懐には、東北で唯一の熊牧場「くまくま園」もある。打当温泉の側を流れるのが打当川で、その上流の中ノ又沢にあるのが「日本の滝100選」に選ばれた「安の滝」である。「日本の滝100選」では先に紹介した「七滝」のようにアクセスの良い場所が選ばれているとは限らず、青森県の「松見ノ滝」などは案内板すらなかった。「安の滝」も駐車場から2㎞ほど歩かないと見物できない滝でもあるが、滝の魅力は上位にランクされている。
県道308号線は打当温泉を過ぎてからは未舗装の狭い道となっていて、4㎞ほど続いていた。9月下旬の平日にも関わらず駐車場には5・6台の車があって、それなりに人気があるようだ。中ノ又沢は「中ノ又渓谷」とも呼ばれているが、渓谷はV字の断崖のある谷間が一般的である。中ノ又沢の遊歩道を歩いて感じたのは、「中ノ又沢渓流」か「中ノ又沢清流」と呼ぶ方が相応しいと思うが、屋外にある石段や木段を階段と呼ぶのと同様である。
遊歩道を歩いていると滝の流下する水音が聞こえ、滝に下る遊歩道の手前に滝の展望所があった。目線の先に落差90m、二段瀑の滝の全貌が見えて絶句した。岩盤を滑るように流れ落ち、下段は末広がりに滝壺へ落下していた。紅葉の季節は、全国から滝を愛するマニアが訪ねることもあって、想像を絶する車が入ると聞く。滝は眺めるばかりではなく、滝の断崖を登攀する沢登りマニアがいるらしい。沢登りマニアのことを「滝屋」と呼ぶと聞いたが、鉄道マニアを「鉄ちゃん」と呼ぶのと一緒と思う。滝屋の中には「日本の滝100選」を制覇した兵がいるだろうが、私は「日本百名山」の登頂で満足しているので、行く先々の滝を無理しない範囲で見るだけで十分である。
それでも「日本の滝100選」の見物は、安の滝ので36ヶ所目となる。「日本の滝100選」に指定された秋田県の滝で、未踏の滝が鹿角市の夜明島渓谷にある「茶釜の滝」となった。
茶釜の滝は落差が約100mあって、上部は直瀑、下部は岩壁に接して筋状に流れ落ちる。奈良県天川村の「双門の滝」、愛媛県久万高原町の「御来光の滝」と並び、「日本の滝100選」の中では「三大難攻滝」と呼ばれる。滝までのアクセスが長く、危険が伴うからである。夜明島渓谷は昭和27年(1952年)に、地方紙・秋田魁新報社が「秋田県観光三十景」に選定した名勝で、昭和43年(1968年)には「森吉山県立自然公園」の一部に選ばれた。当時の人々は観光振興に期待を寄せ、辺鄙なダムに遊覧船を運航させるほど情熱的だった。
そんな中、夜明島渓谷の観光開発が積極的に行われず、鉱山の閉鎖や林業の衰退によって林道は荒れた状態のようだ。林業の振興は山林再生の道で、治山治水の土木工事は災害防止の先手策となる。人間の足音が深山幽谷から遠ざかり、クマやニホンジカの生息数が増え、イノシシの繁殖が東北の山々に忍びよる。令和の時代は、野生動物の適正な個体数を管理し、共存共栄をスローガンに居住地区との明確化が求められる。
安の滝の課題は、紅葉シーズンの渋滞を緩和することである。そのためには、「阿仁マタギ駅」の駐車場と打当温泉の駐車場から期間限定のシャトルバスを運行することに限る。シャトルバスは、土・日曜日に利用されないスクールバスを利用すれば良いだろう。
016法体の滝(国定公園・日本の滝100選) 由利本荘市百宅
法体の滝は鳥海山麓に位置しながら、比較的アクセスの良い林道の循環線にある。「日本の滝100選」に選ばれていて、上流部の甌穴と滝は秋田県の名勝及び天然記念物の第1号である。滝は3段瀑で上流の幅が約3m、下流の幅が約30mと末広がりに57.4mを落下する。約10万年前の鳥海山噴火で流れ出た一枚岩の溶岩が、川を堰きとめて滝となった。山頂に向かって流れ落ちる滝は、全国的に珍しいようで、はかり知れない自然の造形力を感じる。滝の上流部は玉田渓谷となっていて、いずれも鳥海国定公園に属する。
滝の手前の広場は、法体園地と呼ばれキャンプ場やバーベーキュー場として利用されている。春の新緑、夏の涼風、秋の紅葉、冬の氷瀑と滝の魅力は尽きないが、冬は除雪終点から3時間もあれば散策できるが、除雪を広場まで進める配慮がないのが残念である。猿倉地区には、旧鳥海町が開業させた「鳥海オコジョランドスキー場(旧猿倉スキー場)」があったが、平成26年(2014年)に廃止された。冬の楽しみが消えたなら、新たな楽しみを法体の滝に見出して欲しいと思うが、冬眠好きな地元の若者たちには無理な話のようだ。
伝説によると平安時代初期、日本真言宗の開祖・空海が法体(法衣姿)で百宅の村を訪ねた際、不動明王が現れたことから滝を礼拝したと言う。百宅の名も空海大師が「ゆうに百宅の人が住める所」と、集落の様子を述べたことによる。法体滝の入口には、空海大師が修行したとされる「弘法平(空海平)」がある。弘法は空海大師の死後の諡で、本人の知らない名称を唱えても意味はない。松尾芭蕉も『おくのほそ道』の日光の俳文では、空海大師と呼んでいる。その「空海平」には洞窟があって、大師の修行像が安置されていると聞く。
百宅地区には、大規模な「鳥海ダム」の計画があるらしい。法体の滝の下流は百宅川へ注がれて、子吉川に合流する。最近の異常気象によるゲリラ豪雨は、全国各地で多発している。子吉川も氾濫の絶えない川であるが、川底を掘り下げる河川改修を先行するのが手っ取り早いと思うが、国や県は自然破壊の象徴たるダムの建設に熱心のようだ。雄物川上流の成瀬川に建設中の成瀬ダムは、総事業費約1,530億円と聞き驚くばかりである。鳥海ダムは約863億円と試算されているが、建設費が嵩んで行くのが目に見える。
鳥海ダムが建設されると、百宅地区の48戸が移転を余儀なくされ、史跡・空海平が水没するようである。鳥海山の山体そのものがダムの役割を担っていて、秋田県では元滝伏流水、獅子ヶ鼻湿原、仁賀保高原の池沼などに代表される。法体の滝と空海平は、歴史的な繋がりあって、これを切り離すことは平安時代との決別に他ならない。単純に自然破壊して堰き止めるダムではなく、地下水路や貯水槽を設置した方が景観を損なわいと思うが、役人の頭の中は従来通りの発想しかないようだ。
古くから知られた法体の滝であるが、江戸時代の滝マニアであった菅江真澄は法体の滝を訪ねていないのである。真澄は秋田藩(久保田藩)の庇護を受けていたので、藩内は自由に旅しているが、法体の滝は矢島藩の領地であったため見物が出来なかったようだ。本荘藩の奈曽の白滝も同様で、滝の存在を後に知って見物しなかったことを後悔している。松尾芭蕉翁が象潟の名主に歓待されても、奈曽の白滝までは案内されなかったので無理もない。
017奈曽の白滝(国定公園・国名勝・国史跡) にかほ市象潟
秋田県にある滝の名所で、入口に土産物店や食堂がある滝は「奈曽の白滝」だけである。「日本の滝100選」に選ばれていないが、「奈曽の白瀑谷」の名称で国の名勝に昭和7年(1932年)に指定されている。他にも昭和25年(1950年)には、読売新聞社の「新日本観光地百選」に選ばれている。昭和45年(1970年)には、秋田県象潟と山形県吹浦とを結ぶ鳥海ブルーラインの有料道路が開通されると、奈曽の白滝は鳥海山麓観光のルートとして注目される。
鳥海山北麓には巨大なV字峡谷の奈曽渓谷があるが、その渓谷が奈曽川となった途中の滝である。この滝も鳥海山噴火で流れ出た小滝溶岩の造形で、幅11m、落差26mの直瀑である。滝マニアによると、厳かな金峰神社の境内にあって、滝壺、展望台、吊り橋の4つの異なったアングルから眺める滝の景観は垂涎の的と言う。そう言えば、石段から滝を眺め、滝壺まで下って滝を見上げ、展望台に立った後は、ねがい橋と言う吊り橋から滝を撮影する。新緑と白滝、紅葉と白滝、雪景色と鉛色の空と、色の対比が非常に特徴的である。
奈曽の白滝のある金峰神社は、奈良時代の天武9年(680年)に修験道開祖・役行者小角が蔵王権現を祀って創建し、平安時代初期の斉衡3年(856年)には、天台僧・円仁が鳥海山の化物退治をした際に鳥海大権現と蔵王権現を奉じて開基したとされる。鳥海山が修験道の霊場として崇められると、奈曽の白滝は禊の行場となり、小滝には別当寺(龍山寺)が創建されて宿坊も建てられた。江戸時代には、小滝修験道の一大集落が形成された。明治の廃仏毀釈で修験道は廃されると、小滝の集落の人々は金峰神社の氏子となって歴史を守っている。小滝の集落を歩いてみると、宿坊跡が残っていて往時の面影が伝わる。
鳥海山への登拝道は、金峰神社~奈曽の白橋~拝み松~霊峰~鉾立(五合目)~鳥ノ海(鳥海湖)~鳥海山大物忌神社の経路となっていた。拝み松は消失して不明であるが、霊峰には霊峰神社があって、社殿が多数建っていたようである。霊峰は4合目地点にあるので、ここから山頂を目指すのも良いであろう。平成21年(2009年)、鳥海山の信仰に関する神社などが国の史跡に指定され、秋田県からは「金峰神社境内」、「霊峰神社跡」、「森子大物忌神社境内」、「木境大物忌神社境内と道者道」が選ばれた。奈曽の白滝は金峰神社の境内となるので、国の名勝の他に史跡が付加されたことになる。
奈曽の白滝は何度なく訪ねているが、滝そのものの変化は見られないが、最近の金峰神社の社殿は衰退し、門前の食堂は随分と寂れた様子であった。神社の宝物殿は非公開となり、社務所に宮司は常駐していない。最近は御朱印の記帳がブームとなっているが、宮司の自宅に行かないと頂戴できないようである。
昔の滝の茶屋では、流し素麺が定番のようにあったもので、奈曽の白滝にもあったような気がするが、夏場だけの需要では商売にならないのだろうか。奈曽の白滝の近くに湯ノ台温泉があるが、この温泉の向かいあるラーメン店は行列が出来るほどの人気店である。辺鄙な田舎のラーメン店でも、ラーメンの評判が良いと立地条件は関係なくなる。天下の名瀑以外、何か観光客を引き付けるアイディアがあると思う。重い腰を上げてジンギスカン鍋を運ぶか、由利牛のステーキを運ぶか、いくらでも観光地には道が続いている。
018六郷湧水群(名水百選) 美郷町六郷
昭和60年(1985年)、当時の環境庁が「名水百選」を選定した。その後の平成20年(2008年)、環境省に昇格してから「平成の名水百選」が選定された。「名水百選」は「昭和の名水百選」と呼ばれて区別されたのである。「名水百選」には秋田県から旧六郷町の「六郷湧水群」と湯沢市の「力水」が選ばれた。いずれの名水も選定される前から知っていたので、驚きはなかったが、改めて「六郷湧水群」を巡ってその数の多さに驚いた。
六郷の湧水と言えば、「ニテコ清水」が有名で、湧水で作られる「ニテコサイダー」は地サイダーのブランドである。また盥のような容器に入れた「流し素麺」が有名で、避暑も兼ねて利用したものである。六郷町内に清水は大小合わせ60ヶ所ほどあるが、「藤清水」、「神清水」、「側清水」、「御台所清水」、「諏訪清水」が代表的な清水とされる。
旧六郷町は、室町時代末期に六郷氏が居城とした城下町で、江戸時代に佐竹氏が秋田に移封となると、第18代当主・佐竹義重が隠居城として使用した。六郷は寺町と呼ばれるほど寺が多く、5宗派27ヶ寺がある。これは寺を戦時の防衛も兼ねた配慮で、義重が築かせたとされる。典型的な平城であったので、義重が死去すると簡単に廃城となり、奉行所が設置された。江戸時代後期には、菅江真澄が六郷を訪ねて「六郷湧水群」に注目している。
真澄の描いた有名な湧水の絵は9点、「星山清水」、「宝門清水」、「鷹匠清水」、「御台所清水」、「浄海清水」、「藤清水」、「ニテコ清水」、「機織清水」、「清水川」である。星山清水と清水川は六郷町内から離れているため、残り7ヶ所の湧水を巡る。名水巡りの拠点となるのが中心部にある名水市場「湧太郎」で、旧京野酒造店の跡地と建物を利用している。
最初に訪ねた宝門清水は、「マタコの清水」とも呼ばれ樹齢約300年のケヤキの大木がある。真澄の絵に描かれていなことに歳月の隔たりを感じる。次は御台所清水で、第2代藩主・義重が炊事やお茶の水に使用したことに名の由来がある。鷹匠清水は義隆が鷹狩で六郷を訪ねた時、宿舎とした太桂寺にある清水である。
諏訪神社の境内にある諏訪清水、藤棚のある藤清水を経てニテコ清水に到着する。ニテコの地名は、北海道のニセコと似ていると思っていたら、語源はアイヌに由来すると言う。明治天皇が東北巡幸の際に飲料したことから、「御膳水」と呼ばれた時もあったようだ。
浄海清水は国道13号線沿いにあったが、僧侶が草庵を結んだ雰囲気はない。機織清水は水路となっていて、真澄の描いた池の雰囲気ではない。星山清水と清水川の調査は今回の予定から外してしまったので総論は無理であるが、カラーコピーして持参した真澄の絵と比較すると、昔の絵の様子と現在は異なっていて時代の変化を感じる。
六郷と言えば湧水群のほかに、国指定重要無形民俗文化財である「六郷のカマクラ」が有名である。この祭りを1度は見物したいと訪ねたら、暖冬の影響で雪が少なく道路に雪はなかった。「竹打ち」が始まるまで時間があったので、会場近くの湧水群を見て回った。「湧太郎」の中には有料の水文館があって、湧水に生息するハリザッコ(イバラトミヨ)を懐かしく眺めた。カマクラは横手のかまくらと違って、鳥追い小屋の雪室で、鎌倉大明神を祀っていた。江戸初期から行われて来た行事で、湧水の温かさを含め良い思い出となった。
019力水(名水百選) 湯沢市
湯沢市内の単なる湧水だった「力水」が「名水百選」に選定された35年、市内の観光地としてすっかり定着した。湯沢城址古館山(中央公園)の麓に湧く清水であるが、江戸時代には佐竹南家の御屋敷があって、力水は御用水であったと言われる。
佐竹南家は佐竹氏が常陸を領国としていた頃からあった「佐竹五家」の1つで、東西南北の四家と壱岐守家があった。宗家の居城が太田城にあった当時、城を中心に見て、どの方角に分家があったかで定められたようである。秋田に領地替えとなって、壱岐守家が江戸に転居した以外は四家が秋田に移った。北家は角館、東家は秋田、南家は湯沢、西家は大館であった。北家が秋田(宗家)の南・角館にあるのに、北家と呼ばれる疑問が解けた。
明治時代の廃藩置県で、南家の屋敷には湯沢東小学校の前身である湯沢尋常高等小学校が建てられた。御用水(御膳水)は飲料水として使われ、側には池が築かれて「トウホクサンショウウオ」や「モリアオガエル」が生息し、「ハリザッコ」を飼育していたとも聞く。御用水の使用は小学校に限らず、近所の人たちが昼食や休憩の時に喉をうるおした。
清水で沸かしたお茶は特別に旨いと飲んでいたが、誰言うとなく「この水を飲むと力が出る」と言うようになり、「力水」と称されるようになった。「力水」の石碑が建てられてから正式な名称となり、毎年9月5日は水神祭りが行われているようだ。
水質は中性、水量は毎分12リットル、水温は12°Cで年中一定のようである。しかし、令和元年(2019年)10月に水量が毎分0.9リットルまで減少して湯沢市が調査した所、導入管に木の枝が入り込んだのが原因とされた。温泉と同様に、地震などの地下変動によって枯渇しないように祈りたいものである。
湯沢市内には「力水」以外にも清水や湧水がたくさんあって、福小町、両関、爛漫、一滴千両の日本酒銘柄の産地である。良質の酒米も生産し、東北屈指の酒処を不動のものとしている。「福小町」は元和元年(1615年)、豊臣家武将・木村重成の子孫が創業した㈱木村酒造、「両関」は明治7年(1874年)、7代伊藤仁右衛門が創業した両関酒造㈱、「爛漫」は大正11年(1922年)、地元財界人が共同で創業した秋田銘醸㈱、「一滴千両」は昭和28年(1953年)、焼酎の醸造で創業した秋田県発酵工業㈱で、平成4年(1992年)から清酒を販売する。
同じ名水の里・六郷においては、江戸時代に20軒の酒蔵があったとされるので想像を超える規模に驚く。現在は造り酒屋が2軒あって、春霞と奥清水の銘柄がある。「春霞」は明治7年(1874年)、5代栗林直治が創業した(合)栗林酒造店、「奥清水」は昭和24年(2012年)、千畑村から移転した㈱高橋酒造店である。「六郷湧水群」でも少し紹介したが、明治天皇の東北巡幸に随行した森有礼(初代文部大臣)が「この酒は誠に優れており国の誉れだ。」と、絶賛したことで名付けられたのが「國之譽」であった。そんな栄誉ある日本酒の銘柄が無くなったのは残念に思われるが、仕込みが変われば味覚も変わるので時の運もある。
基本的には、「力水」や「六郷湧水群」などの名水があっての名酒で、酒米の良し悪し、杜氏の腕前によって出来栄えが決まる。余談になるが「令和元酒造年度全国新酒鑑評会」で秋田県から21点が入賞し、「両関」、「福小町」、「春霞」、「奥清水」の銘柄もあった。
020元滝伏流水(平成の名水100選) にかほ市
平成20年(2008年)、環境省が選定した「平成の名水100選」に秋田県からは、「元滝伏流水」と「獅子ヶ鼻湿原の出壺」が選ばれた。いずれも鳥海山麓にあって、清水と違って飲料水とはなっていない名水の共通点がある。「平成の名水100選」は、平成28年(2016年)に発行された「ライトマップル東北道路地図」に記載がない。昭和60年(1985年)の「名水百選」は地図に記載されて久しい。発表から記載までは10年くらいのタイムラグがあるようで、自分で地図に記入して忘れないようにしている。
市町村が毎年のように発行している観光パンフレットは対応が早く、いずれも秋田県にかほ市(旧象潟町)に所在があることから新たな観光名所として紹介している。元滝伏流水は幅約30m、高さ約5mの岩肌一帯から1日の湧水量約5万トンが滝のように流れ落ちている。この伏流水は、鳥海山に沁み込んだ雨水が、約80年という長い歳月をかけて元滝までたどり着くと聞いて驚きである。水量は年間を通じて安定しているようで、地域の生活用水・農業用水として利用されている。前にも述べたように、貯水や保水のメカニズムが鳥海山に存在することになる。
鳥海ブルーラインを鉾立方面に走って行くと、案内板があって右折すると、象潟病院や介護老人保険施設栗山荘が建っている。こんな所に元滝があるのかと、思いながら行くと広い駐車があって、元滝まで10分ほど遊歩道を歩くことになる。最初に訪ねた時は残雪があって、他人の歩いた足跡をなぞるように歩いて迷うことはなかったが、2度目の訪問時は遊歩道が2ヶ所もあることを知らなかったので、道に迷ってしまった。知名度が先行して、細やかな案内板の設置までは至らぬようである。
病院の直ぐ近くにジオパークがあるのは珍しく、自然を守るために2つの団体が積極的に保全活動を実施したようである。昭和51年(1976年)に発足された「鳥海国定公園を美しくする会」は、水質検査や公園区域の巡視活動を行っていると言う。平成4年(1992年)に発足された「鳥海山のブナを植える会」は、10年間で2万本のブナを植樹し、現在も年間2,000本以上を植えていると言う。
元滝伏流水と獅子ヶ鼻湿原を知ったのは、平成22年(2010年)に主婦の友社から発行された『平成の名水100選』を購入してからである。この年に主婦の友社は、100選シリーズを矢次早に発行し、『日本の温泉100選』、『日本桜の名所100選』、『日本の駅100選』、『日本の歴史的風土100選』と興味が注がれる本と出会った。その本の見出しのリストに、黄色の蛍光ペンで見物した先々をチェックするのも楽しみの1つとなった。名水の見物が旅の第一目標となることは殆どなく、元滝伏流水には例外的に引き付けられた。
元滝伏流水の特徴は、岩肌を覆う苔の緑と白い水しぶきのコントラストの美しさである。この清冽な水は元滝川と名を変え奈曽渓谷と合流し、奈曽の白滝となって再び水しぶきを上げて美を演ずる。約80年間も鳥海山の地下溶岩を彷徨った水滴は、大きな水の集合体となって元滝で空気に触れる。そして、約6㎞の山麓の旅を経て、蒸発して生まれた日本海へと帰る。蝉の幼虫が地中で7年を過ごし、成虫となって1週間で死ぬ様子に似ている。
021獅子ヶ鼻湿原の出壺とあがりこ大王(平成の名水100選・森の巨人たち百選) にかほ市
中島台レクレーションの森にある「獅子ヶ鼻湿原」には、「平成の名水100選」に選ばれた「出壺」と、「森の巨人たち百選」に選ばれた「あがりこ大王」がある。平均標高500m、約26haの広さをもつ「獅子ヶ鼻湿原」は、国の天然記念物でもある。「鳥海マリモ」と称される固有種のコケ類、ブナの奇形樹も多く、不思議な湿原の世界が見物できる。
象潟と矢島を結ぶ県道58号線の途中から中島台に入ると、トイレが完備された広い駐車場に到着する。中島台レクレーションの森は、林野庁が鳥海自然保養林として整備したもので、入口には休憩室を兼ねたキャンプ場の管理棟があった。林道を進むと、木道が敷かれた森となり、ここが獅子ヶ鼻湿原の始まりだった。湿原の豊かな湧水は、電力会社の発電用水に利用されているようで、不自然な導水路は景観上問題である。遊歩道の総延長は約5㎞、所要時間は約2時間20分とあったが、ちょうど良いハイキングコースに思える。
吊り橋を渡り赤川沿いに進むと、分岐点があったが、最初に「あがりこ大王」に挨拶しようと左折した。ブナの古木が散見される中で、驚いて眺めたのが木道の「燭台ブナ」である。西洋のローソク立てに似ているから名付けられたとあったが、「ニンフ(森の妖精)の腰掛」の別名もあると言う。近くに炭焼窯跡があったが、江戸末期から昭和初期まで炭に用いるためにブナは伐採して焼かれた。奇形樹は製品価値がなく残されたのが幸いである。
木道の終点に巨大なブナの奇形樹、「あがりこ大王」が見えたので、神木と接するように脱帽して一礼した。樹齢約300年、樹高24m、幹周り7.62mの風貌は大王の名に恥じず、「森の巨人たち百選」に選ばれた理由が一目瞭然である。「森の巨人たち百選」は平成12年(2000年)に林野庁が選定した巨樹や名木で、森林王国・秋田県からは9本が選ばれ、北海道が11本と全国1位であるが、それに次ぐ多さである。
木道を分岐点まで引き返し向かったのが、「出壺」の湧水群である。遊歩道から登山道を上り、標高556mの地点にあったのが出壺であった。「クマの水飲み場」の別名があることを知って、腰にぶら下げていた鈴を2・3度手で鳴らした。湿原の湧水は鳥海山の伏流水で、出壺の湧水は毎秒1.8トン超とあって、湿原の中で最大と言われる。どんな味なのか飲んでみたいので、クマの水飲み場ではなく、人の水飲み場を造って欲しいものである。
出壺を過ぎると、奇形ブナの個人展のような有様で、「モンキーダンス」や「ライオンの顔」の名があった。「あがりこ大王」だけでは可哀そうと、誰が名付けた知らないが「あがりこ女王」もあった。「あがりこ女王」は樹齢が約150年で、樹高や幹周りは不明であるが、すらっとした白っぽい幹で、何となく女性的な印象を受ける。
獅子ヶ鼻湿原を訪ねた殆どの人が見物するのが、「鳥海マリモ」と称される「ヒラウロコゴケ」と「ハンデルソロイゴケ」の群落である。マリモと聞けば、北海道の阿寒湖に生息する丸いマリモを想像するが、ヒラウロコゴケは川床の岩に生育するために丸くならないようだ。その成長はゆっくりで、50年~100年の歳月をかけて生育すると言う。何よりもマリモは丸い藻を意味し、苔とは種類が違い、「鳥海マリモ」と呼ぶことが間違っている。奇形ブナには様々な名前を付けても良いが、阿寒湖のマリモを連想させるのは良くない。
022白神のシンボル(森の巨人たち百選) 藤里町岳岱
平成5年(1993年)、白神山地が世界自然遺産に登録されて、関心が高まったのは秋田県藤里町の観光地である。平成10年(1998年)には、「白神山地世界遺産センター藤里館」が建設されるが、これはビジターセンターであってブナの天然林を肌で感じることができない。自然遺産に登録された核心地域とその周りの緩衝地域は、立入り禁止となっていて見物することはできないのが特徴である。そんな世界遺産はアイルランドの「スルツエイ」やオーストラリアの「マッコリー島」など4ヶ所ほどあるようだ。日本では他に、文化遺産に登録された福岡県宗像市の「沖ノ島」も信仰上の理由で観光ができない。
白神山地のブナ林が注目される以前から藤里町は、景勝地である太良峡のさらに奥にある岳岱のブナ林を保護した。昭和48年(1973年)に、レクレーションの森の指定された「岳岱風景林」で、平成4年(1992年)に「岳岱自然観察教育林」に名称変更をした。標高620mの岳岱にあって、ブナ林の面積は約12haである。この「岳岱自然観察教育林」に神のように鎮座するのが「白神のシンボル」と称される樹齢約400年、樹高26m、幹周り4.85mのブナである。平成12年(2000年)に林野庁の「森の巨人たち百選」に選ばれ、「岳岱自然観察教育林」も注目されるようになった。他にも白神山地の登録地域(16,971ha)にはブナの巨木が眠っているだろうが、調査できない現状である。世界自然遺産に同時登録された屋久島(10,747ha)では、縄文杉の巨木が発見されて新たな観光スポットとして注目されている。
白神観光の対局にある青森県鰺ケ沢町には、面積が52haに及ぶ有料のブナ観察施設「ミニ白神」があったが、平成26年(2014年)より「白神の森遊山道」に名称変更となった。西目屋村には藤里町と同じように、平成10年(1998年)に「白神山地ビジダーセンター」が開設されて、本家白神をアピールしているように感じた。ブナの巨木に関しても、津軽峠の西目屋村にシンボル的なブナである「マザーツリー」がある。樹齢約400年、樹高30m、幹周り4.65mと、「白神のシンボル」よりも樹高が高かったが、平成30年(2018年)9月の台風で主幹が折れるという不幸があったのは残念である。
青森県の白神山地には有名な「暗門の滝」があるが、その歩道が「世界遺産の径・ブナの散策道」となっている。ブナ林に関しては、「岳岱自然観察教育林」に比べてインパクトはなく、観光客の目的は滝の見物なのである。因みに「暗門の滝」は、落差73mの素晴らしい三段瀑であるが、「日本の滝100選」に選ばれなかったのが不思議である。
江戸後期に秋田の名所を踏破した菅江真澄は、藤里にも来訪して36枚のスケッチと17首の和歌を詠み残している。岳岱は訪ねていないが、湯ノ沢、真名子、水無沼、太良峡、などの藤琴川沿い、粕毛、米田、素波里などの柏毛川沿いである。特に太良峡近くにあった民営の太良鉱山の賑やかな様子に心惹かれ、印象深く述べている。真澄は地元の人たちと愛宕山の御堂を詣で、薬師山に登山したことを紀行文に記している。真澄も藤里のブナ林を歩き、その景観に魅了されたと想像する。青森県西目屋村では令和元年(2019年)6月、白神山地のブナ林に「菅江真澄古道」を開設して暗門の滝を訪ねた真澄を顕彰している。やはり白神本家・青森県の方が真澄に対する好意やブナ林に対する愛着は一枚上のようだ。
023きみまち杉(森の巨人たち百選) 能代市二ツ井田代
天然秋田スギは、木曽ヒノキ、青森ビバと共に「日本三大美林」として知られる。「森の巨人たち百選」に選ばれた「きみまち杉」は、旧二ツ井町田代の「仁鮒水沢スギ植物群落保護林」の中にある。樹齢約250年、樹高58m、幹周り5.15mで高さ日本一を誇るスギである。保護林の面積は18.46 haで、樹齢200~300年の天然秋田スギが約2,800本も林立している。林内には、スギ以外にトチノキ、ミズナラ、ブナ、イタヤカエデ、ホオノキなどの広葉樹もあって、1周約30分の散策はちょうど良い森林浴となる。
能代市二ツ井と上小阿仁村を結ぶ県道203号線沿いに駐車場があり、入口の右手に案内板が立っている。園路の左に「泣き杉」と「もっくん杉」、右に「秋田美人杉」と続き、待望の「きみまち杉」との対面である。大きな手書きの案内板には、高さ58m、直径164cm、材積40㎥と記してあった。この木1本で55坪(約182㎡)の家を建てることができ、推定価格は数千万円とされる。他に「たしろ杉」があって、休憩所の側には「仁鮒杉」と「恋文杉」があった。恋文と言えば、旧二ツ井町では東北巡幸中の明治天皇がきみまち坂で、皇后からの手紙を受け取ったことに因み、「きみまち恋文全国コンテスト」が開催されていたが、能代市との合併があってか、10年間で終ったようである。
秋田県人には天然秋田スギは、自慢の産物であるが、毎年春になって花粉症になる人にとっては嫌なスギと言える。スギの名の由来は、スギの木が真っ直ぐに育つ性質から「直木(スグキ)」が転訛したものと言われ、一本気にも通じる。「仁鮒水沢スギ植物群落保護林」の前身は、江戸時代に秋田藩が経営した「御直山」で、明治時代に国有林となって昭和22年(1947年)に保護林に指定された。昭和46年(1971年)には秋田県天然記念物に指定され、平成5年(1993年)に現在の「仁鮒水沢スギ植物群落保護林」と言う長い名称となった。
明治末年から昭和44年(1969年)までは、二ツ井仁鮒から田代までの川代川沿いに、森林鉄道(トロッコ列車)を敷設して木材を運搬した。二ツ井からは、米代川に巨大な筏が組まれ能代まで運んだと言う。米代川流域で生産それた秋田スギ材は、その優れた材質が賞賛され、昭和30年代をピークに全国に供給されたようだ。
二ツ井の観光スポットに「きみまち阪」があるが、桜まつり、つつじまつり、紅葉まつりと祭り続きの名所である。一帯は県立自然公園となっていて、七座山を囲んで大きく蛇行する米代川の眺望は圧巻である。七座山の名は、7つピークが存在することに由来するが、最高峰は権現座で標高は287mである。藩政時代はこの山も御直山であったが、現在は「七座山自然観察教育林」と称されていて、天然秋田スギ、ブナ、ミズナラ、イタヤカエデなどの混合林となっている。
江戸時代には菅江真澄も阿仁から「仁鮒水沢スギ植物群落保護林」の前を通り、「田代潟」の美しい自然をスケッチしている。二ツ井では「切石の渡し」や「七座山」もスケッチしているが、七座山の景観を「言葉にあらわしようもなく美しい」と絶賛している。この絶景ポイントは、きみまち阪キャンプ場方向の車道を走り、「夫婦岩」の広場に駐車して60mほど徒歩で上る。そこが真澄も立った展望所で、ベンチが設えてある。
024コブ杉(森の巨人たち百選) 上小阿仁村大林
秋田県にはかつて村名の自治体が8ヶ所あったが、平成の市町村大合併で県央の上小阿仁村と県南の東成瀬村だけになってしまった。上小阿仁村は人口2,000人ほどの村で、観光地と呼べる名所が少ない。その中で昭和41年(1966年)、秋田県が初めて建設した萩形ダム(小阿仁湖)、「森の巨人たち百選」に選ばれた「コブ杉」が有名と言える。
コブ杉は「上大内沢自然観察教育林」の中にあるので、10分ほど遊歩道を歩いて見物できる。林野庁が選定した自然観察教育林は、秋田県に9ヶ所あるが道路地図に記載がなく、カーナビにも出てこない。ウェブで住所を調べて訪ねたが、案内板があったので探すのに苦労はしなかったが、観光客に樹木周辺が荒されることを危惧して案内板を設置していない百選もある。駐車場のない場所などは、民家の空地や路傍に停めざるを得ない場合もあって、地元住民とトラブルになるケースがある。
上小阿仁村大林集落から三種町に至る県道37号線を走ると、大内沢沿いにコブ杉の案内板がある。大内沢山村広場に駐車場があって、「上大内沢自然観察教育林」が隣接している。面積が12.93 haの林内には、約700本の天然秋田スギがあって、平均樹齢が250年、平均樹高が40mで、50mを超えるものは50本ほどあるようだ。最高の杉の樹高56mで、「きみまち杉」の58mに匹敵する高さである。
コブ杉は東屋の近くに柵の中にあって、根元の上のコブは異様に見える。幹周りが3.8mに対して最大のコブ周りは6.6mと倍近くある。推定樹齢は200~300年で、樹高40mと巨木ではないが、神木として崇められるようになって伐採を免れたようだ。ゴブは樹木の病気で、虫や細菌によるものや食物ホルモンの異常が原因とされる。
林内を散策していると、「国立科学博物館に展示されている天然秋田杉の伐根」の案内板が立っていたので見物した。国立科学博物館は東京都台東区の上野公園にあるが、最近は訪ねていなので展示品は見ていない。樹齢255年、樹高48.6m、胸高直径1.36m、材積24㎥の天然秋田スギで、切株が残されていた。
他に「精英樹展示木」の案内板があったので読んでみると、「木が高く、太く、早く、素直に育ち、大きくなった時に木材としての利用価値が高くなるような特に優秀な遺伝子を持つ樹木を精英樹として選定している。」とあった。ここに展示されているスギの精英樹は「上小阿仁101号」と名付けられて、東北地方の森林造成に貢献しているそうである。また、スギの花粉症対策として「上小阿仁107号」や「秋田103号」などの精英樹から少花粉スギの品種に改良する研究を「秋田県森林技術センター」で行っていると記してあった。
数年前の話であるが、「新・日本の名木100選」に選ばれた徳島県鳴門市の「鳴門の根上り松」を訪ねに行ったことがあった。樹齢約300年で、国の天然記念部にも指定された名木である。カーナビにも表示があったのに、現地には案内板すらなかった。キツネにつままれた気分となって、ウェブで調べてみると、平成11年(1999年)に枯死したとのことであった。樹高の高いスギは、落雷に遭う危険性もあって油断ならない。「コブ杉」もいずれは枯死するのであるから、その時は記念碑を建てて後世に名を残して欲しいものである。
025日本一のブナ(森の巨人たち百選) 仙北市角館白岩
秋田県で観光に関連した日本一を調べた所、国指定の「重要無形民俗文化財」の件数が17件と2位の新潟県の13件をリードしている。他の日本一は、「森の巨人たち百選」にも選ばれたブナとクリの巨木である。「日本一のブナ」は、抱返り渓谷の対岸に聳える白岩岳(1,177m)の中腹にある。平成5年(1993年)、「巨樹の会」のメンバーによって発見された。それまでは旧田沢湖町の「小影山のブナ」が、推定樹齢400年、樹高33m、幹周り6.7mが日本一とされた。日本一の基準は幹周りで、樹高は関係ないようであるが、小影山のブナの樹高は日本一である。新に発見された白岩岳のブナは、推定樹齢300年、樹高24m、幹周り8.6mと2m近い差がある。いずれのブナも株立ちで、幹周りが太くなって当然であって「日本一太いブナ」とすべきであろう。
白岩岳のブナの発見後は、JRなどがツアーに組み入れほど注目された。平成12年(2000年)に「森の巨人たち百選」に選ばれた時がピークで、林道から2時間も歩くこともあって見物客は衰退したようだ。現在では登山道入口の案内板も外され、草が生い茂る入口を探すのも容易でないと言う。ガイドなしの見物は無理となり、苛酷な藪こぎを強いられる。
白神山地の世界自然遺産が立入り禁止の幻の遺産となっているように、日本一のブナも幻と言える。白岩岳のブナは発見される前の神秘さ取り戻したことになり、青森県十和田市の「森の神」が日本一のブナと称しているので、こちらを注目したい。推定樹齢400年、樹高30.2m、幹周り6.01mと、秋田県のブナよりは幹周りは細いが、株立ちではない単幹であるのが良い。単幹のブナとしての日本一で、嘘でも誇張でもない。先ず案内板があって、遊歩道が整備されていることが条件となる。
先に紹介したブナの奇形樹「あがりこ大王」の幹周りは、7.62mであったので白岩岳のブナに次ぐ太さである。「あがりこ」とは、幹が上がったところで子(枝)に分かれていることに由来する。あがりこ大王は「日本二位のブナ」であるが、誰でも見物できることを思うと、舘岩のブナを幻のブナとして封印し、日本一のブナを自称しても問題はないだろう。
日本一のブナは他の樹木と比較すると、樹齢、樹高、幹周りについては古木や巨木と言えない。樹齢に関しては、鹿児島県屋久島の「縄文杉」は樹齢3000年とも、7200年とも言われ、縄文時代まで遡るので杉の名前となった。樹高は京都府京都市の「花脊の三本杉」の1本が62.3mでブナの倍近い。幹周りについては、青森県深浦町の「北金ヶ沢の大イチョウ」は21mとブナとは比較にならない太さである。
日本一が出て来たところで、参考のため世界一を調べてみると、樹齢では2004年にスウェーデン国ダラルナ州の山中で発見された「ドイツトウヒ」の一種は、幹は600年足らずであるが、根は9550年まで遡るとされる。幹は変わっても根が生き延びたのである。
樹高世界一はアメリカ合衆国カリフォルニア州の「ハイペリオン」が115.55mで、幹周り世界一はメキシコ合衆国オアハカ州の「トウーレの木」は日本人が調査したところ45mあったとされる。樹齢に関しては、縄文杉の7200年説が有力とすれば誇らしいと思うが、樹高と幹周りに関しては日本の倍の高さと太さであり、やはり世界は広く大きい。
026日本一のクリ(森の巨人たち百選・県立自然公園) 仙北市神代
ブナに続いて「日本一のクリ」の巨木が抱返り渓谷の断崖に生育していることを知った。推定樹齢200年~300年、樹高22m、幹周り8.1mと、東北森林管理局のデーターにある。抱返神社駐車場から遊歩道を約1時間歩くと登り口で、ここから尾根をたどり徒歩50分で到着すると、アクセスデーターに記してあった。尾根には歩道がないとかっこ書きしてあったので、危険なコースが予想される。何事も安全が第一で、「森の巨人たち百選」に選ばれた「日本一のブナ」と同様にガイドがいなければ見物は無理かも知れない。
ブナ林が全国各地に残っているのは、ブナは保水性が高く乾燥困難なこともあって昔は木材に使用されることはなかった。最近は木材の乾燥技術が発達して、硬くて粘りのあるブナは家具材などに使用されるようになった。クリの大木の心材は硬く耐久性があったので、建築資材として広く伐採されて来た。抱返り渓谷の「日本一のクリ」は、人の立入れない断崖にあったので、伐採を免れたと推察する。
山形県西山町にある「大井沢の大栗」も日本一であると紹介している。推定樹齢約800年、樹高15m、幹周り8.5mとあったので、「太さ日本一のクリ」となる。抱返り渓谷のクリの方は「高さ日本一のクリ」で、どちらも日本一に間違いはなさそうである。大井沢の大栗は山形県の天然記念物であって、駐車場から10分ほど歩いて見物できる。秋田県の日本一のクリの見物が困難な場合は、山形県の日本一のクリを見て納得するのも手ある。
クリの日本一は栗の大きさにもあって、秋田県仙北市の「西明寺栗」が有名である。最大のものは50gで、直ぐに完売してしまうので幻の栗と言われる。藩政時代に佐竹氏が丹波地方(京都)と美濃養老地方(岐阜)から種子を取り寄せて栽培させたとされ、約300年の歴史があるようだ。佐竹の殿様は、農産物に関しては日本一でなければ気が済まなかったようで、久保田城内に大きな秋田蕗を栽培させている。
クリの木の下には大概、栗の毬が落ちているのでクリの木と分かるが、遠くから眺めていると見当がつかない。しかし、花の咲く季節になると特異な臭いと、白っぽいクリーム色の花でクリの木とひと目でわかる。樹高5mほどの民家のクリの木でも春には立派な花を咲かせ、迫力満点の姿を見せてくれる。秋になると実を結びが、その毬はクリの木だけが持つ特異なものである。海の生物・ウニの毬と同じで、美味しいものは簡単に食べられないように進化して来た証なのだろうか。最近は焼き栗も食べなくなったが、栗ご飯は格別の味わいがあって食べたいと思う時がある。
秋田県の「日本一のクリ」は、発見しても公表しなければと良かったと思う。いずれは枯れて消えて行く運命にあるのだから、一時の評価は人間の見勝手だと思う。「森の巨人たち百選」は、選定に対して無理があったと思う。一般の人々が辿り着けない場所にある巨木は除外すべきであった。そこを訪ねるために危険を犯して人が死ねば社会問題となる。
栗の日本一に関しては、「日本一の栗産地」もあって、これは茨城県笠間市である。2位は熊本県、3位は愛媛県と続いて16位まであったが、秋田県は順位に入っていなかった。西明寺栗は生産者が減っているのが実状で、それが幻の栗と呼ばれる原因のようだ。
027筏の大スギ(新・日本名木100選) 横手市山内
日本の名木で、国指定の特別天然記念物や天然記念物に注目して来たが、県や市町村指定の天然記念物はあまり関心を寄せて来なかった。しかし、「新・日本名木100選」の中に、県の天然記念物である。旧山内村の「筏の大スギ」と、旧鳥海町の「千本カツラ」が選ばれていて、県の天然記念物も注目するようになった。
「新・日本名木100選」は、平成2年(1990年)に大阪で開催された「花博」を記念して、大阪市と読売新聞社が選定したものである。「ゴブ杉」で紹介した「鳴門の根上りの松」のように枯死した名木もあって、30年も経た現在は見直しが必要と思われる。
平成17年(2005年)に山内村が横手市と合併したので、地元横手の名木となっている。筏の大スギは、筏集落の比叡山神社の境内にあるが、神社縁起によると平安時代初期の大同3年(808年)の創建であるので、創建当時からあったスギのようだ。その時のスギの樹齢が、正確な樹齢と思うが、創建前から存在していた大木の可能性は高い。新たな神社を創建する場合、山の奇岩を御神体と仰ぐことが多く、神々しい樹木も同様に考えられた。
比叡山は滋賀県大津市にある天台宗総本山延暦寺の山号であり、天台宗の別称でもある。1ヶ月の各日(20日間)に因み善神20座を祀り、30日を30番としたことから「三十番神社」とも呼ばれた。神仏習合の典型的な例で、善神には四天王、帝釈天、弁財天、鬼子母神、などの天部で、三十番神の1日目は伊勢神宮、10日目は日吉大社(聖真子権現)、20日目は鹿島神宮、最後の30日目が気多大社となっていて、著名な神社の中から選ばれている。
桃山時代の天正3年(1575年)、横手城主・小野寺景道(輝道)が社領30石を寄進し、社殿が改修している。この頃の筏の大スギは樹齢約800年を数え、「番神の大スギ」と地元の人に呼ばれ、授乳などに利益がある神木と崇められていた。しかし、本当の樹齢を調べる場合は、伐採して幹の年輪を数えるしか手がないと言うのも原始的である。横手市の調べによると、推定樹齢は1000年以上とされ、樹高43m、根周り12mとの計測があり、地上5.5mのところで主幹が東西各1本の支幹に分かれていると発表している。
江戸時代後期の文政9年(1826年)、菅江真澄は「雪の出羽路平鹿郡」の編纂のため訪れて見物している。その時のスケッチのタイトルは「三十番神社の斎杉」となっていて、斎(ものいみ))の神を意味する。「うべならむ神木の両双の大杉は(中略)三十番神社の斎杉もいくばくの年を歴たらむものか」と記述している。他にも大晦日に行われる「大松火」の神事と、その翌日の「初婿の相撲」は有名だったようで、その印象を後に記している。
かつて筏の大スギの支幹の分岐箇所には、ヤマザクラが2本着生されてあったと言われる。大きい方のサクラは樹齢60年にも達し、毎年春には美しい花を咲かせていた。しかし、サクラの成長によってスギの幹に亀裂が入ったため、平成元年(1989年)9月にサクラは伐採された。昭和63年(1988年)3月に秋田県の天然記念物に指定されたことも理由であろうが、「里の花見が終わったら大スギの南側のサクラ、それが散ったら北側のサクラ」と花見を楽しんでいた地元の人たちをガックリさせたと言う。皮肉なことに今度は、同じ場所からウルシの若木が育っているそうで、それならサクラの若木に変えたら良いと思う。
028法内の八本杉(森の巨人たち百選) 由利本荘市東由利
横手から本荘へ向かう国道107号線の途中に位置するのが旧東由利町で、平成17年(2005年)に本荘市と由利郡8町が合併して時に由利本荘市となった。旧東由利町は観光スポットの少ない所で、八塩いこいの森と平成7年(1995年)にオープンした「黄桜の里」の2ヶ所だけである。秋田県の史跡にもなっている縄文時代の「湯出野遺跡」があるが、復元された竪穴住居がいつの間にか無くなっていた。そんな時、秋田県の天然記念物である「法内の八本杉」が平成12年(2000年)、「森の巨人たち百選」に選ばれた。すると、旧東由利町は道路を拡張して駐車場とし、遊歩道を整備して新たな観光スポットとした。
国道107号線の蔵から県道30号線に入ると、法内の集落があって、更に農道を2㎞ほど行くと入口があって案内板が立っていた。案内板には、推定樹齢500年以上、樹高40m、幹周り11,5m、根周り17m、枝張り直径約18m、樹型(樹姿)は地上3.m附近より環状に6本の支幹に分岐した直立型であると、記されていた。この生立支幹6本に、すでに枯損した1本を加えても7本であり、呼称のようにもう8本の支幹があったかどうか、現在その痕跡は認められない、とも記してあった。しかし、「森の巨人たち百選」の案内板には、推定樹齢700年、樹高40m、幹周り11,5mとあって思わず笑ってしまった。推定年齢に200年の左があるのである。林野庁東北森林管理局のデーターでは、推定樹齢300年、樹高40m、幹周り11,5mとあって、推定樹齢に関しては最大400年の開きがある。
昭和59年(1984年)に秋田県の天然記念物に指定され、平成3年(1991年)には「植物群落保護林」に再編されて「法内の八本杉植物群落保護林」となった。この時の推定樹齢は500年以上とあり、平成12年(2000年)に「森の巨人たち百選」に選ばれた時に推定年輪700年となった。こんな場合は推定樹齢(500~700年)と表記すれば、正確な樹齢は不明と言うことで納得するのであろうが、林野庁のいい加減さは今に始まったことでもない。
法内の八本杉の遊歩道は、新奥の細道(東北自然歩道)の「古代大木と旧街道のみち」にも選ばれていてよく整備されていた。上り坂の遊歩道を5分ほど歩くと、土段の右手に神々しく屹立する杉の姿と、根元には小さな社(祠)が見える。先ずは、江戸時代から「神のやどり木」として崇められて来た祠に礼拝し、ご神木を見物する許可を願った。
法内の八本杉の周りには、トラロープが張りめぐらせてあったが、同じ「森の巨人たち百選」の「あがりこ大王」のように木道が設えていれば良いと思うが、そこまで気が回らないのも秋田県の過疎地の現実である。見物客は他に誰もいなかったこともあって、東西南北からの写真を撮影して下山した。この時期は、クマさんとの出会いが心配であり、鈴とストックの持参は不可欠である。鈴は「人間が来ていますよ」と言う意思表示で、ストックはクマさんが攻撃して来たら目を狙って突く武器でもある。
法内の八本杉を見物したら、蔵にある「岩舘のイチョウ」も見た方が良い。秋田県の天然記念物で、推定樹齢300年以上、樹高30m、幹周り9.2m、枝張り直径30mの大イチョウである。菅江真澄が興味を示しても不思議ではないが、真澄は旧東由利町を訪ねていない。旧東由利町は矢島藩に属していたため、真澄未踏の空白地帯となっているのである。
029千本カツラ(新日本名木100選) 由利本荘市鳥海
天然秋田スギは、秋田県の県木にもなっているが、スギ以外にもブナの名木は有名であるがカツラの名木は極めて珍しい。「千本カツラ」は旧鳥海町の栗沢地区にあるが、鳥海山麓とは離れた場所にあるため殆ど注目されていない。それでも、平成2年(1990年)に選ばれた「新・日本名木100選」の評価は、「森の巨人たち百選」以上の価値はある。
推定樹齢700~800年、樹高35m、幹周り18m、根周り20m「蛇喰の千本カツラ」とも呼ばれている。県内随一のカツラとして昭和35年(1960年)に秋田県の天然記念物に指定され、個人所有の山の上にある。個人所有の場合、私有地が荒らされるとして公開していないケースもあるが、ここの千本カツラは人里離れた標高約300mの山にあることから見物が可能のようだ。地元住民が神木と崇め、参拝することもあって解放しているのだろう。本来は自治体が買い取って管理すべきと思うが、その辺の事情は伝わって来ない。
湯沢市院内から由利本荘市を縦走する国道108号線から栗沢地区に入ると、二階集落と姥ケ懐集落を結ぶ道路にある。鳥海山を遠望する展望所でもあり、千本カツラは鳥海山を800年も眺めて来たのだから羨ましい限りだ。根元から無数のヒコバエが絡まって太い幹を形成し、造園用語では「株立ち」と称する。形が蛇に似ていることから蛇喰の名があるが、昔は大蛇が住んでいたと本気で信じられていた。
カララは面白い木で、大きなハート型の葉に特徴がある。落葉して丸裸になった樹姿は、人間の目で見るとケヤキほど美しくなく褒められたものではない。それでも雪化粧した樹木は皆美しく、冬に眺めたい木でもある。また、イルミネーションで飾るのも良いと思うし、何か冬の淋しさを払拭するようなイベントは必要であろう。
横手市平鹿町浅舞では毎年暮れ、「槻の木光のファンタジー」というイベントを開催している。令和元年で第32回を数え、何もない町に光明を与えているのである。槻の木は、実際は推定樹齢500年以上、樹高30m、幹周り8.3mのケヤキで、昭和43年(1968年)に秋田県の天然記念物に指定されている。千本カツラの指定は、浅舞のケヤキよりも8年も早く、その存在感と保護の必要性が高かったのである。
他にも千本カツラがあって、同じく「新・日本名木100選」に選定された富山県富山市の「今山田の大桂」も千本カツラである。推定樹齢700年、樹高25m、幹周り14mで、富山県の天然記念物でもある。日本最古の千本カツラは、兵庫県朝来市にある「糸井の大桂」である。推定樹齢2000年、樹高35m、幹周り19.2mで国の天然記念物に指定されている。
同じ東北では、岩手県一戸町に「小井田の千本カツラ」がある。推定樹齢700年、樹高24m、幹周り21.3mで、幹周りは日本一である。一戸町の天然記念物に甘んじているが、岩手県の天然記念物でなっても不思議ではない。
秋田県から脱線して岩手県のカツラの話になったところで、珍種の「枝垂れカツラ」を最後に紹介したい。岩手県盛岡市の瀧源寺境内にあり、国の天然記念物でもある。推定樹齢190年、樹高21m、幹周り3.5mの枝垂れカツは最大最古であり、広葉の落葉樹が下向きに枝を伸ばす木は他にないようである。
030能代海岸の防風林(日本の自然100選・日本の白砂青松100選) 能代市浅内
秋田県の西面全域が日本海であるが、にかほ市から八峰町までの砂丘海岸に防風林が植栽されて、砂塵による被害を防いでいる。殆どの防風林はクロマツやアカマツの松林で、「能代海岸の防風林」が日本最大である。長さは14㎞、幅は1㎞、面積は約760haにクロマツ700万本が植林されている。「風の松原」とも呼ばれ、京都府宮津市の「天橋立」、静岡県静岡市の「三保の松原」、福井県敦賀市の「気比の松原」、佐賀県唐津市の「虹の松原」と並び「日本五大松原」に選ばれていると言う。平成元年(1989年)に「松原サミット」が能代市で開催されて、それを機会に決定されたようである。
日本の100選に関しては、昭和58年(1983年)に「21世紀に残したい日本の自然100選」、昭和58(1983年)に「日本の名松100選」、昭和62年(1987年)に「日本の白砂青松100選」、昭和62年(1987年)に「森林浴の森日本100選」、平成8年(1996年)に「残したい日本の音風景100選」、平成13年(2001年)に「かおり風景100選」と6つも選ばれた。これは松原の中で最多であり、それほど価値の高い防風林なのであるが私のカーナビには出て来ない。
江戸時代初期、季節風による飛砂や砂塵で農地に大きな被害があって、野代(能代)の医師・長尾祐達が砂防の植林を提唱する。江戸時代中期に廻船問屋・越後屋太郎右衛門、庄屋・村田久右衛門らが自費でクロマツの植栽を始めるが、住民が薪に伐採して定着しなかった。江戸時代後期には、秋田藩が栗田定之氶を郡方砂留吟味役(砂防係)に命じて植林を始めさせた。定之氶は血の滲むような努力をし、独自の植栽方法を開発した。江戸末期には数百万本の松原が誕生し、明治になると国営事業として植林と管理が進められている。
菅江真澄は享和元年(1801年)、48歳の時に訪ねて「雪の陸奥雪の出羽路」の中にスケッチと紀行文を記している。防風林は当時、「住吉の松原」と称されたようで、その時の印象を「昔は西風が少し吹いても砂が舞い、家ごとの窓に入ってうっとうしいものだった。宝暦の頃、ここに住む白坂新九郎、鈴木助七郎の2名の武士が、公の許しを得て大勢の人を促して松を植えさせた。まるで般若山の尾を引くように。これで風が四方に立っても、砂吹雪にはならなかった。」と述べている。真澄の記述に定之氶の名がないが、寛政10年(1798年)から文化2年(1805年)まで定之氶は従事していたので、真澄の来訪と一緒である。
明治時代になると、文豪・幸田露伴が明治30年(1897年)7月、能代に1泊して大口(現三種町八竜)に向う途中で、能代海岸の防風林を見物している。その時に見聞した内容を『遊行雑記』に記しているが、江戸時代から様々な困難を克服して防風林を完成させたことを称えている。ただ植林の立役者として紹介している武士の名前が、木山方吟味役・加藤清右衛門であるが、この武士の存在も通説にマッチしない。
能代海岸は能代火力発電所の最初の工事の頃、防風林を訪ねたことがあった。この発電所の手前14㎞が「風の松原」となる。最近の映像を見て驚いたのが、風力発電所の風車が防風林に林立していたこと。地面から羽根の先端までの高さは68m、22階建てのビルに相当する。その風車が3㎞の間に24基もあるようで、単純計算しても125mに1基である。その風切り音を想像すると、「残したい日本の音風景100選」から除外されるであろう。
031白神矢立湯原郷の宿・日影温泉 大館市長走
白神山地の東端、青森県と秋田県の県境に羽州街道の矢立峠がある。矢立峠の秋田県側に矢立峠温泉「大館矢立ハイツ」と白神矢立湯原郷の宿「日景温泉」の2軒の温泉がある。盛時には日景温泉の側に「下内沢温泉」があって、矢立峠温泉の下の渓谷に矢立温泉「アクトバード矢立」があった。下内沢温泉はカーナビのデーターに残っていたが、現地には何も残っていない。アクトバード矢立は湯が赤いことから赤湯とも呼ばれ、平成26年(2014年)に廃業したまま廃墟と化して渓谷に残っている。
日景温泉は「日本秘湯を守る会」に「日景ホテル」として発足当時から加盟している。明治26年(1893年)に地元の名士・日景弁吉が開業した老舗温泉宿であったが、建物の老朽化と経営者の高齢化に伴い、平成26年(2014年)に閉館となった。目に効く大館の名湯を絶やしてはならないと、大館の「割烹きらく」が経営を引き継ぎ、平成29年(2017年)にリニューアルされて再建された。「日本秘湯を守る会」には復帰できないようで、スタンプが貰えないのが残念であるが、再び閉館とならぬことを願った。
最初に驚いたのは木造2階建ての建物の大きさと、2度目に驚いたのは浴室や露天風呂の数である。建物は創業時の本館、昭和館、静山館の3棟が迷路のように配置されている。浴室は露天風呂付の男女別大浴場、貸切り専用の内湯が2室、貸切り専用の露天風呂が2ケ所である。日帰り入浴が終了した時間帯にチェックインしたので、大浴場は独り占めであった。泉質的には仄かに硫黄臭がするが、白濁した湯花が沈殿していて浴槽の底が滑りやすい。これが配湯管に付着して石のように固くなり、パイプを塞ぐ厄介者でもある。源泉は3本、泉温は52.8℃、pH は6.3の中性で、含硫黄の塩化物泉である。
割烹料理店が提供する夕食の内容には、3度目の驚きを感じた。料理が一品ずつ運ばれて来て、いずれも創意に満ちた献立であったことである。きりたんぽ鍋を直ぐに食べられるよう小分けした容器は、特製の曲げわっぱに入れてあった。老齢になると量より質で、久々に美味しい料理を食べた印象が残った。
館内には資料室と図書室があって、日景家歴代当主のコレクションと蔵書があった。しかし、そのコレクションの解説が一切なく、こけしに関してはただ並べているだけで、誰の作品なのか不明であった。上皇夫妻と紀宮様の若き日の写真が飾ってあったが、何処で撮影された写真なのか判然としないのも後味が悪い。
平日の閑散日であったため、スタンダードな料金なのに特別な部屋を用意してもらった。テレビがないのはモノさみしい気がするし、ニュースだけでも見たいと思う。旅人にとって、天気予報などの情報は必要不可欠なもので明日の予定を左右する。
この温泉には彫刻家・高村光雲や政治家や犬養毅が宿泊しているが、『勝手に秋田遺産100選』のメインゲスト・菅江真澄につては不明である。天明5年(1785年)8月、大鰐温泉に泊まった真澄は、矢立峠を越えて大館に入っている。大鰐から峠までは約11㎞、峠から大館まで約20㎞で、立ち寄って投宿する距離でもない。真澄記には「折橋の番所を右の沢に降りると温泉がある。鬼湯だ。」と記しているが、これが日景温泉の前身の温泉だろう。
032湯瀬温泉湯瀬ホテルと姫の湯ホテル(東北の温泉宿200選) 鹿角市八幡平
湯瀬温泉は十和田と八幡平の中間に位置し、米代川の湯瀬渓谷にある。伝説によると大和時代、1匹のトンボ(とんぶり)の導きにより長者となった夫婦がいたそうだ。その娘が都に上って継体天皇の后・吉祥姫となるが、帰郷した際に病を患い、それを癒すために温泉に浸かったとされる。伝説を鵜呑みにすると、開湯約1500年で仙台の秋保温泉と肩を並べるが、実際の開湯は明治に入ってからである。
湯瀬温泉の源泉は、米代川河畔の急峻な斜面から20ヶ所ほどが湧出していると言う。湧出量は全体で約100ℓ/min、個人用・個人と営業の併用・営業用の3種に配湯されている。泉温は25~60℃で、無色透明なアルカル性単純温泉である。効能は美肌、関節痛、神経痛、リュウマチ、婦人病、不妊症、糖尿病、肌荒れ、ニキビなどとされる。美肌に良いことから「日本三大美人の湯」の1つと宣伝している。実際の「日本三大美人の湯」は、群馬県東吾妻町の中川温泉、和歌山県田辺市の龍神温泉、島根県出雲市の湯ノ川温泉が確定されていて、アルカリ泉のもつ美肌効果をピーアールするなら他の三大にしなくてはならない。
湯瀬温泉は明治43年(1910年)、4代目関直右衛門が湯宿を開業し、北海道で財を成した5代目関直右衛門(鶴蔵)が「湯瀬ホテル」を建設する。開湯110年を数えて湯瀬温泉では最も古く、高度成長期には鉄筋6階建て、客室124室の高層ホテルとなって団体向きの宿として発展した。盛時には玉川温泉、トロコ温泉ななかまど山荘、東トロコ温泉などの経営をしていたが、トロコ温泉と東トロコ温泉は廃業し、ドル箱であった玉川温泉からも切り離されて平成26年(2014年)から㈱せせらぎの宿が経営を引き継いでいる。
一方、湯瀬ホテルとライバル関係にある「姫の湯ホテル」は、鉄筋6階て、客室95室の高層ホテルで、こちらも団体向きの宿として発展した。八幡平山頂下の藤七温泉も経営していたが、経営不振から㈱ホテル東日本に譲渡されて「和心の宿姫の湯」となるが、更に
田沢湖高原のプラザホテル山麓荘を経営する秋田共立観光㈱の傘下に入る。最近の情報によると、令和2年(2020年)3月にアメリカの投資会社の子会社・マイスティズ社に売却されてコロナ禍の中でも営業を継続していると聞く。
昭和62年(1987年)、日本交通公社から出版された「東北の温泉宿200選」に湯瀬温泉からいずれのホテルも選ばれていた。この本に選ばれた温泉宿の内、廃業した宿が57ヶ所もあって、温泉宿を維持することの困難さが理解できる。湯瀬温泉の盛時は、旅館やホテルが8軒、共同浴場、土産店、飲食店などもあって小さな温泉街を形成していた。現在は旅館が2軒、ホテルが2軒、日帰り温泉が1軒と、寂れた温泉街となってしまった。
大館市にある大滝温泉は、開湯1200年の歴史ある温泉地であったが、17軒あった民間の旅館やホテルは全て廃業した。何軒は廃墟として残っていて、見苦しい景観を曝け出している。唯一、温泉街の郊外に秋田県北部老人福祉エリアがあり、温泉と宿泊施設も兼ねている。同じ県北にある湯瀬温泉が廃墟の温泉地とならないように、「勝手に秋田遺産100選」に選定して保護を促進するものである。昭和の高度成長期を象徴するような温泉宿であり、十和田八幡平国立公園の秋田県の観光をリードして来たのが湯瀬温泉である。
033大湯温泉の共同浴場と千葉旅館、岡部荘(日本の名湯100選) 鹿角市十和田大湯
十和田湖の秋田県側の玄関口にある大湯温泉は、かつては盛岡藩に属した温泉地である。室町時代後期の文明元年(1469年)の文献に「下の湯」の記載があり、文明年間(1469~86年)の開湯で、約550年の歴史があるのは定かと言える。江戸時代になると、南部藩が湯宿を開業して藩の湯治場として発展する。
大湯温泉街には、共同浴場が4軒、日帰り温泉4軒があるが、室町時代の「下の湯」と明治時代の「荒瀬の湯」は、源泉が足元から湧出する希少な温泉である。泉質は弱アルカリ性のナトリウム-塩化物泉で、無色透明である。泉温は約60℃で、足元湧出のため多少の加水は仕方ない。温泉の効能は、一般的適応症の他、切り傷、火傷、慢性皮膚病、虚弱児童、慢性婦人病など良いと表示してあった。効能について思うことは、「温泉分析書別表」に記載された効能は、検査する施設によってバラつきがあって明確とは思えない。
大湯温泉の盛時には、温泉宿が18軒あったが、現在は7軒に激減している。その7軒の内で創業が最も古いのが「龍門亭千葉旅館」で、明治2年(1869年)に元南部藩士・千葉胤虎が創業した。明治11年(1878年)には、元盛岡藩13代藩主・南部利剛が訪れて旅館を龍門亭と名付けたとされる。創業当時は茅葺屋根の平屋であったが、現在は鉄筋3階建て、客室数28室と大湯温泉を代表する旅館となった。
もう1軒、「勝手に秋田遺産100選」に選んだのが、敷地約2.000坪(6,600㎡)の宅内に自然湧出する5つの源泉を持つ「旅館岡部荘」である。昭和30年(1955年)に創業された木造2階建てで、大正時代に別荘として建てられたようである。客室数は21室と、木造旅館にしては大規模である。館内の浴場は、大正風呂、渓流露天風呂、桜風呂、庭園露天風呂、貸切り露天風呂と5ヶ所もあって、源泉100%掛け流しなのが良い。
大湯温泉は平成23年(2011年)、「健康と温泉フォーラム実行委員会」が選定した「日本の名湯100選」に選ばれた。先に紹介した「東北の温泉宿200選」には、「龍門亭千葉旅館」と「仙台屋旅館」が選ばれていた。仙台屋旅館は、「宿花海館」に名称変更して営業を続けていることを知って安心したことを思い出す。
文化4年(1807年)8月、54歳の菅江真澄は、毛馬内から大湯温泉を経由して十和田湖を訪ね、「十曲湖」の日記を残した。発荷峠から描いたスケッチは、現在と変わらぬ美しい景観を描写している。大湯温泉を「大湯村」のタイトルで、大湯川を大きく蛇行する全景を描いている。詞書には、甲・群杉明神(村杉大権現神社)、乙・大湯の館(大湯城跡)、丙・薬師仏(薬師神社)、丁・上湯(上の湯)、巳・下湯(下の湯)、辛・河原湯(川原の湯)、葵・腰廻村(腰廻地区)、康・集宮村(集宮地区)、戊・うちとの御社(不明)、任・普門山大園寺(大圓寺)、天・稲荷社(稲荷神社)の11ヶ所を名称が記入されていた。殆の名所が現存し、絵の左の林の奥に黒又山らしき山が描かれているのに興味がそそられた。
真澄は大湯温泉には泊まっておらず、十和田湖寄りの箒畑の成田庄吉宅に2泊している。当時の大滝温泉には、盛岡藩から派遣された南部氏一門の北氏が大湯の館に居住していた。この頃の真澄は、秋田藩の庇護を受けていて、盛岡藩に対する遠慮があったと推察する。
034八幡平温泉郷のふけの湯温泉と後生掛温泉(国民保養温泉地) 鹿角市八幡平
平成17年(2005年)、岩手県に「八幡平市」が誕生すると、「東八幡平温泉」と称していた温泉名から「八幡平温泉」と称するようになった。スキー場に関しても国立公園外で八幡平と関わりがないのに、「八幡平リゾート下倉スキー場」、「八幡平リゾートパノラマスキー場」を公言している。逆に秋田県は「秋田八幡平スキー場」と称して、昔は「八幡平村」と名乗っていたことを忘れたように岩手県に遠慮している。
温泉の利用促進のため、「国民保養温泉地」が選定されたが、その名称が「八幡平温泉郷」で、秋田県からは玉川、後生掛、蒸ノ湯、大沼、大深の5ヶ所の温泉が選ばれ、岩手県からは藤七温泉だけが選ばれた。その後は八幡平山麓の温泉も「八幡平温泉郷」と呼ばれるようになって、岩手県も東八幡平温泉から「東」の字を外した。そんな歴史もあって、秋田県側の八幡平の温泉地を「秋田八幡平温泉郷」と呼ぶのは不本意であるが仕方ない。
温泉郷で最古なのが「ふけの湯温泉」で、江戸時代中期の宝永年間(1704~11年)に開湯しと言われ、約300年の歴史がある。入口正面にあるのが、茶色い三角屋根の山小屋風の建物で、玄関とロビーを兼ねている。本館の赤い屋根は、校舎風の木造2階建てで、客室が26室もある。その奥にある大浴場は、約40坪(132㎡)の木造りある。昭和48年(1973年)の山崩れで、湯治棟の建物が瓦解して、旅館部のみの営業となっている。
ふけの湯温泉には3本の源泉があって、白濁色した単純硫黄泉である。泉温が88.3℃、pHは2.4の酸性で、効能は一般的適応症の他に、リューマチ、皮膚病、冷え症、不妊症などに良いと言う。高温泉で多少の加水はあるようだが、基本的には源泉掛け流しのようだ。八幡平温泉郷では、藤七温泉と共に「日本秘湯を守る会」に加盟していている。
八幡平温泉郷の中で、湯治宿として最大の規模を誇るのが「後生掛温泉」である。約300年前の「オナメとモトメの伝説」よりも前に温泉は発見されるが、明治14年(1881年)にカトリック教徒の阿部仁八によって開業された。開湯139年の歴史は湯治場の歴史であり、「馬で来て足駄で帰る御生掛」のキャッチフレーズが有名である。宿泊施設は旅館部と湯治部に分かれていて、本館の旅行部は鉄骨3階建てで、客室は27室ある。湯治部の5棟は木造の1~2階建てで、収容人員は200名である。湯治部には売店があって、自炊に必要な食材が販売されている。「湯治村」の名称もあって、村民になると色々と特典があるようだ。
後生掛温泉は日本一の大泥火山に立地し、温泉天国とも称される。源泉は4本あって、ここも白濁色した単純硫黄泉である。泉温が88.0℃、pHは2.9の酸性で、効能は一般的適応症の他、神経痛、リュウマチ、喘息、外傷、婦人病、交通事故後遺症等に良いとされる。かつては混浴の大浴場があったが、昭和61年(1986年)に男女別の温泉保養館が完成し、シンメトリな浴槽の配置となった。浴場には「箱蒸し風呂」があって、木製の箱から顔だけを出した姿はユニークな入浴風景で後生掛温泉の名物でもある。
ふけの湯温泉と後生掛温泉とに共通してあるのが、男根を御神体する神社である。ふけの湯温泉は浴室内に「ふけの湯神社」と称して祀り、後生掛温泉は焼山登山口の小社に「金精さま」を祀っている。いずれも安産や子宝に御利益があると、崇められているようだ。
035乳頭温泉郷の鶴の湯温泉、黒湯温泉、孫六温泉(国民保養温泉地) 仙北市田沢湖
乳頭温泉郷は「田沢湖高原温泉郷」として「国民保養温泉地」に選ばれている。乳頭温泉郷は秘湯ブームが始まった平成初年から人気の高い秘湯の温泉地となった。中でも「鶴の湯温泉」は「日本一の秘湯」と称されて、温泉郷では開湯が最も古い。鶴の湯温泉のように、湯の字の後に温泉を加えるのはどうかと思ったが、銭湯などの天然温泉でない湯と区別するために温泉の字を付けることが慣習となったのだろう。
鶴の湯温泉は江戸時代初期の慶長20年(1615年)頃、ツルが温泉で傷を癒している所をマタギの勘助が発見し、寛永15年(1638年)には秋田藩2代藩主・佐竹義隆が入湯している。この頃既に開湯していたと思われるが、湯宿は元禄14年(1701年)に開業し、宝永5年(1708年)には佐竹家の本陣が置かれている。湯守は羽川六右衛門に始まり、13代目まで羽川氏が行っていたが、矢島出身の佐藤和志氏に譲渡されて「日本秘湯を守る会」の宿となる。
鶴の湯温泉には、それぞれ泉質が異なる源泉が4本あるが、足元より湧出する露天風呂の白湯が最高である。泉質は含硫黄-ナトリウム・カルシウム-塩化物・炭酸水素泉で、白濁しているが、pHは6.5の中性である。泉温は58~59℃の高温泉で、多少の加水はあるものの源泉掛け流しに近い。効能は一般的適応症の他、高血圧症、動脈硬化症、慢性皮膚病、慢性婦人病、切り傷、糖尿病などに効くと言う。
乳頭温泉郷では、鶴の湯温泉の次に人気のあるのが「黒湯温泉」である。江戸時代初期に発見され、延宝2年(1674年)に角館北家初代当主・佐竹義隣が開湯して「亀の湯」と名付けられた。本家の「鶴の湯」に対抗した訳ではないだろうが、目出度い名前にしたのであろう。明治維新の戊辰戦争では、国境警備の最前線として田沢村の農兵や横手の兵隊が藁葺き小屋に泊まって警護したと言う。昭和初期になると、大曲の大地主・池田氏の所有となって現在に至っているが、黒湯温泉だけが冬期間の営業を休止している。
黒湯温泉には3本の源泉があって、源泉を間近に見ることができる。泉質は白濁色の単純硫黄温泉で、泉温が86.0℃、pHは4.2の弱酸性である。効能については、高血圧症、動脈硬化症、末梢循環障害、リュウマチ性疾患、糖尿病、皮膚掻痒症、慢性膿皮症、創傷、不妊症等に良いとされる。乳頭山(1,478m)の登山口でもあって、鄙びた景観は抜群である。
黒湯温泉とは先達川を隔てて建つのが、小ぢんまりとた「孫六温泉」である。鶴の湯温泉の客室は35室であるのに対し、孫六温泉は17室である。以前の鶴の湯温泉は、冬期の営業を休止していたが、孫六温泉は冬期間も営業していて、千達川の雪景色を眺めながらの露天風呂は最高のロケーションであった。
孫六温泉の開湯は、明治35年(1902年)に農村技師の桜井啓氏が発見し、明治39年(1906年)に田口久吉氏によって開業された。弱アルカリ性の単純硫黄泉で、泉温は56.1℃であるがほぼ源泉掛け流しである。源泉は4本あって、唐子の湯、石の湯、打たせ湯の杉皮葺きの小屋が並んでいる。石の湯を囲むように露天風呂は3ヶ所あって、2つは混浴である。黒湯温泉と同様に孫六温泉も乳頭山の登山口となっていて、上りは黒湯温泉から一本杉コースを登り、下りは孫六コースを降りて、孫六温泉に入浴するのが理想的な登山と言える。
036玉川温泉と北投石(国民保養温泉地・特別天然記念物) 仙北市田沢湖玉川
秋田県で最も有名な温泉は、十和田八幡平国立公園の西南に位置する「玉川温泉」であろう。平安初期の大同元年(806年)、焼山(1,366m)が大噴火して温泉が噴出したと言われる。
江戸時代前期の延宝8年(1680年)、鹿が温泉で傷を癒している所をマタギが発見したとされるが、温泉は活用されず、秋田藩は硫黄の採掘場とした。明治18年(1885年)に「鹿湯」の名で湯治場として開湯されるが、昭和8年(1934年)に玉川温泉に名称が変更されて本格的に開発された。開発したのは、湯瀬ホテルを創業した5代目関直右衛門で、馬車を利用しての営業であった。戦後は国道341号線が開通してバス路線が運営されると、単一源泉の湧出量が9,000ℓ/minと、日本一を誇る温泉として注目される。日本一の酸性泉で、青森県青森市の酸ヶ湯温泉、大分県由布市の塚原温泉と並び、「日本三大酸性泉」と言われる。
玉川温泉は国民保養温泉地にも指定され、旅館部163室、自炊部71室と単独の旅館としては東北最大規模である。玉川温泉を一躍有名にしたのは、台湾の北投温泉で発見された「北投石」が、玉川温泉でも発見されたことである。日本で唯一の石で、国の特別天然記念物に指定されている。北投石は温泉の湯花が沈殿して固形化したもので、半永久的に微量のラジウムを発している。このラジウムが病気の進行を抑える効果があるとされ、岩盤にむしろやゴザを敷いて横たわる姿は、玉川温泉の風物詩となった。
玉川温泉の泉質は含二酸化炭素・鉄(‖)・アルミニウム-塩化物泉で、泉温は98℃と高いので加水しているが、pH1.2の酸性泉を自然冷却して入浴できる浴槽もある。そのピリビリ感は刺激的で、長湯ができなかった思い出がある。岩盤浴場のある自然観察路に木造の露天風呂があったが、湯が抜かれて入浴できずがっくりしたことがあった。
平成24年(2012年)2月、岩盤浴場から数100m離れた場所で、雪崩が発生して宿泊客5名が巻き込まれる事故が発生した。その内に3名が死亡する痛ましい事故となって、冬期間の岩盤浴は中止になったと言う。そのニュースを聞いて思ったのは、玉川温泉では冬期間の営業が休止なのに何故かと思った。すると、冬期間は仙北市の田沢湖駅から宝仙湖を経由し、新玉川温泉まで冬期限定のバスとタクシーを運行しているようである。宝仙湖までは、ダムの管理事務所があるため除雪を行っていることは知っていたが、「新玉川温泉」までは約20㎞の区間も除雪を始めたのであった。
玉川温泉には以前、「ぶなの森玉川温泉湯治館そよ風」があったが、東日本大震災の影響や雪崩事故による風評もあって平成27年(2015年)に破綻した。その後、「玉川温泉クアハウス生命の泉」と改称するも1年で休業し、平成29年(2017年)には解体されたようである。
新玉川温泉は玉川温泉が療養や静養を目的とした長期滞在者のため、平成10年(1998年)にオープンさせた宿泊施設である。温泉は玉川温泉から引湯しているため一次冷却され、更に機械的に二次冷却して源泉掛け流しに配慮しているようである。館内には看護師が常駐していて、がん患者もいるので宿泊者の急変に対応しているようだ。この新玉川温泉を「新玉」、玉川温泉を「本玉」と通称しているようであるが、冬期間の営業は新玉だけのようである。創業者一族は玉川温泉の経営から手を引き、星野リゾートの進出が噂される。
037湯ノ沢湯本杣温泉旅館(日本秘湯を守る会) 北秋田市森吉
秋田の名峰・森吉山(1,454m)、その北側の山麓を流れる小又川の上流の深山幽谷の地にあるのが「湯ノ沢温泉」である。江戸時代中期の享保2年(1717年) 、秋田藩士・宮野四郎兵衛が巡検中に発見した。享和2年(1802年)と、その翌年に訪ねた菅江真澄は、既に開湯されていた湯ノ沢温泉を「小股の湯」と、『雪の秋田寝』の中で紹介している。お湯はきわめて温度は温く、硫黄臭がしたが、泊まる者はまれだったと記している。入浴後の真澄は、舟で機織渕を過ぎ「湯の岱」の民家に宿泊した。
湯ノ沢温泉は大正3年(1914年)、杣氏の所有となって湯宿が開業される。杣氏は元々、相馬氏であったが、土地を登記する際に役人が「相馬」を「杣」と書き間違えたエピソードがある。この時から開湯100年以上となるが、昭和中期は炭鉱の採掘で賑わった。
昭和11年(1936年)から37年(1962年)までは東北前田炭鉱が、昭和13年(1938年)から44年(1969年)までは奥羽無煙炭鉱がそれぞれ採掘を行っていた。この地には映画館、郵便局、理髪店、商店、小中学校が建てられた他、炭鉱で働く人の社宅も建てられた。湯の岱小中学校には最盛期、350人もの児童生徒が学んでいたと言う。昭和26年(1951年)には、森吉ダムの工事が着工し、翌年に完成している。しかし、石炭から石油に需要が変わると、全国で炭鉱の閉山が相次ぎ、森吉山の炭鉱も例外でなくなった。
その後に旧森吉町が活況を呈するのが、「森吉山森吉スキー場」の開発である。秋田県と旧森吉町、旧阿仁町が西武鉄道グループに働きかけ、国土計画によって昭和62年(1987年)に開業された。現在は森吉山ダムとなった様田から林道を入った先にスキー場があったが、運営していたプリンスホテルの経営不振で平成18年(2006年)に閉鎖された。同じくオープンした「森吉山阿仁スキー場」はウィンターガーデン・リゾートに売却されて後、NPO法人によって辛うじて維持されるが、「森吉山森吉スキー場」は19年の歴史に幕を閉じた。
湯ノ沢温泉には旧国民宿舎であった奥の湯森吉山荘があるが、ここの温泉は杣温泉旅館の源泉から引湯されている。そんな理由から「杣温泉旅館」は、「湯本」を名称の前に加えている。森吉山荘は平成10年(1988年)にロッジ風に全面リニューアルされて、人気のある温泉宿となっている。温泉に関しては、庇を貸して母屋が奪われている情況である。
湯本杣温泉の泉質は、無色透明な弱アルカリ性ナトリウム・カルシウム-塩化物・硫酸塩泉で、硫黄臭のある硫黄泉とは少々異なる。真澄が入浴した温い湯は、昭和50年(1975年)頃に行われた発破作業の影響で、急に温度が上昇したようだ。しかし、平成23年(2011年)3月の東日本大震災の影響で泉温が低下し、湧出量も減ったようである。その後にポンプで揚湯すると、泉温は53.7℃、湯量は毎分120ℓと回復し、源泉掛け流しを行っている。効能は一般的適応症の他、皮膚病、切り傷、火傷、婦人病、動脈硬化症などに良いと言われる。
宿の前には樹齢400年以上の夫婦杉があり、玄関に入ると小熊の剥製が置かれていた。宿の主人はマタギの仕事もしていて、冬にはキジやクマの鍋料理が振る舞われると聞く。杣氏の先祖の相馬氏は、森吉ダム(太平湖)に沈んだ砂子沢の庄屋であった。砂子沢は、盛岡藩との藩境を守るため秋田藩が武士を移住させた土地で、武士とマタギには共通性がある。
038男鹿温泉郷元湯雄山閣(日本秘湯を守る会) 男鹿市北浦湯本
秋田県内で一番大きな温泉街は何処と訊かれて、返答に窮してしまうが、旅館やホテルの客室数、つまり収容人数では男鹿温泉郷が他の温泉地を圧倒している。秋田県では唯一、ストリップ劇場があったのも男鹿温泉郷である。大滝温泉、大湯温泉、小安温泉と温泉街が次々に消滅している中で、その面影が残るのも男鹿温泉郷以外はない。
男鹿半島の寒風山や入道崎は、単なる観光地ではなく、ジオパークとして注目を集めている。平成23年(2011年)には「男鹿半島・大潟ジオパーク」として日本ジオパークに認定された。ジオパークは、NHKの番組で好評な「ブラタモリ」が火付役とも言えるが、令和元年(2019年)11月にタモリ御一行が男鹿半島を訪ねている。
男鹿半島の北西部、入道崎の手前にあるのが男鹿温泉郷で、平安時代初期の大同年間(806~810年)に 征夷大将軍・坂上田村麻呂によって発見と伝承される。田村麻呂は実際に秋田や青森には来ておらず、青森の「ねぶた」の創始者が田村麻呂とされるのも伝説に過ぎない。実際に開湯したのは、600年ほど前の室町時代であったとされ、江戸時代に湯治場として栄え、佐竹藩主や菅江真澄が入浴したと言われる。明治時代になると、「大渕七兵衛旅館」の屋号で開業したのが、「温泉旅館ゆもと(旧湯本ホテル)」である。
現在の男鹿温泉郷の温泉街には7軒の旅館やホテルがあるけれど、「勝手に秋田遺産100選」に登録したいのは「元湯雄山閣」である。温泉街外れの高台にあってロケーションが良く、男鹿半島を3度も訪ねた菅江真澄の資料を展示しているである。温泉街の宿なのに、最近になって「日本秘湯を守る会」に加入している。多少の違和感を覚えるが、30年前には14軒あった温泉宿が半減したし、将来的には秘湯となる可能性もある。
元湯雄山閣は昭和40年(1965年)の開業で、泉質は弱アルカリ性のナトリウム-塩化物泉である。泉温は55.0℃の高温泉であるが、笹濁りの源泉掛け流しは素晴らしい。男女別に大浴場と露天風呂があるが、大きなナマハゲの面から注がれる湯が特徴的である。温泉の効能は、慢性関節痛、リュウマチ、腰痛、神経痛、創傷、痛風、尿酸素質、慢性皮膚病などに効くとされ、飲用も可能のようで胃腸に良いようだ。
男鹿温泉は団体旅行が盛んだった昭和40年代、「秋田の奥座敷」と呼ばれ、芸者や酌婦がたくさんいた。家族旅行で泊まったため、お座敷遊びとはならなかったが、どんな雰囲気だったのか気になる面もある。古い温泉のガイドブックを見ると、旧山本町の森岳温泉と大館市の大滝温泉が過激だったようで、男鹿温泉はそれほどでもなかったようだ。
再び真澄の話に戻ると、文化7年(1810年)に再び男鹿半島を訪れた真澄は、8月27日(新暦9月25日)に「文政男鹿地震」に遭遇し、その記録を日記に記している。寒風山西麓を通る活断層が震源の内陸直下型の地震で、マグニチュードは7.0と巨大であった。死者は57名、全壊家屋が1,003棟と被害が記録されている。この地震の発生時、真澄は寒風山から東方に3㎞離れた滝川の目黒氏宅に滞在中であった。「軒や庇が傾いて、人々は外に逃げて泣け叫び、健気な人は病人や老人に手を取って右往左往している。」と記している。真澄自身も「命ここに死す」と木にすがり、竹の林に逃れたと述懐する有様であった。
039強首温泉樅峰苑(国登録有形文化財・日本秘湯を守る会) 大仙市強首
秋田県第一の河川・雄物川が、南北から西東へ大きく蛇行する中に強首地区がある。ここで昭和39年(1964年)、帝国石油による天然ガスの試掘中に温泉が湧出する。強首の大地主だった小山田家15代目の夫人が、子供を育てるために昭和41年(1964年)に宿屋を開業する。開業当時は「強首ヘルスセンター」と称していたのが「樅峰苑」の前身である。
この頃、強首温泉には「強首ホテル」、「喜龍閣」、「亀楽館」、「雄物川観光おも観荘」などが次々にオープンして客の奪い合いが始まった。昭和61年(1986年)に強首ヘルスセンター時代に始めた訪ねたが、元大地主の邸宅はすごく立派に見えた。大正6年(1917年)の建築で、大きな入母屋造りの2階建て、屋根に千鳥破風、玄関の屋根は唐破風、客用の玄関の屋根は千鳥破風の下に唐破風を設えたもので、城郭風な外観となっている。内部の1階の廊下には、1枚の天然秋田スギが用いられ、階段は鹿鳴館風に造ったとされる。
平成11年(1999年)10月、強首温泉樅峰苑は「旧小山田家住宅」として国の登録有形文化財の指定を受ける。現役の秋田県の宿泊施設で、国の登録有形文化財を受けているのは他に、小坂町の十和田ホテル本館、仙北市の鶴の湯温泉本陣の3棟だけである。文化財の宿に泊まることは大変意義深いことで、青森県五所川原市にある太宰治の生家・斜陽館は個人の所有であった頃、旅館を経営していた。その時に治が年少期に使用した部屋に泊まったが、その経験が旅の宝物となった。その後に旧金木町の所有となり、太宰治記念館・斜陽館となって国の重要文化財に指定された。赤い屋根の大きな入母屋造りで、築年代は明治末期と大正初期の違いがあるが、赤い屋根や元地主など旧小山田住宅と共通点が多い。
開業当時の強首温泉樅峰苑は、源泉を3㎞も引湯していた。自前の温泉を求めていた現当主で社長の小山田氏は、平成20年(2008年)に敷地内での温泉の掘削に成功した。泉質は含ヨウ素-ナトリウム-塩化物強塩温泉で、茶褐色をしている。泉温は49.8℃、pHは6.9の中性で、湧出量は毎分240ℓと多い。加温も加水も必要としない温度で、100%源泉掛け流しである。効能はリウマチ、神経痛、創傷、火傷、皮膚病などに良いようだ。
平成27年(2015年)3月に発行された「日本の秘湯」という本に、強首温泉樅峰苑の名があった。この本は「日本秘湯を守る会」に加盟している温泉宿を紹介するガイドブックで、3~4年毎に版を重ねているようだ。「日本秘湯を守る会」が発足した当時のガイドブックはないが、平成2年(1990年)に宮城県川崎町の青根温泉湯元不忘閣で購入した第6版が今も手元にある。この第6版で秋田県からは、日景温泉日景ホテル、乳頭温泉郷鶴の湯温泉、泥湯温泉奥山旅館、秋ノ宮温泉郷鷹の湯温泉の4ヶ所が記載されていたが、現在は9軒にまで増えている。年々減少傾向にある「日本秘湯を守る会」の中では異例とも言える。
令和2年(2020年)の5月初旬に泊ったが、コロナウィルスの影響もあって客は私1人であった。外観も館内も34年前のままであったが、庭に上屋根のある露天風呂が2つ増えていた。貸切りであったが、いずれも入浴して写真に残した。昔に撮った写真を持参して来たので、同じアングルから再び撮影した。別棟はボロボロで、資料館となっている土蔵は閉鎖されていた。客室7室では利益が少なく、経営難にならないよう祈るだけである。
040岩倉温泉(日本秘湯を守る会) 大仙市南外
秋田県に9ヶ所ある「日本秘湯を守る会」の宿で、最も気に入っているのが「岩倉温泉」である。自宅がある横手からも近く、菅江真澄が泊ったことも理由であるが、何よりも小ぢんまりとした館内と家族的な雰囲気が良い。秘湯を歩くスタンプ帳が10泊目となって、無料の招待を受けた際も岩倉温泉に泊まった。
温泉の発見は江戸初期の正保4年(1647年)とされ、開湯から約370年となる。秋田藩佐竹家の御殿湯でもあったとされ、立派な石積みの露天風呂跡も残っている。菅江真澄が岩倉温泉を訪ねたのは、江戸後期の文政11年(1828年)、75歳の時であった。2年前には「雪の出羽路平鹿郡」を完成させ、今度は「雪の出羽路仙北郡」の編纂のために仙北郡の村々を巡っていたのである。真澄は岩倉温泉に3ヶ月も逗留し、湯治客とも交わったであろうし、宿の主人と酒を酌み交わしたであろう。
真澄が残した「磐倉温泉」のスケッチを見ていると、当時の温泉の様子が手に取るように見える。左に荒沢川、右に神楽良川(湯元川)が合流する地点に宿の建屋を描いている。右側に薬師神社と稲荷社、屋戸と記された建屋が湯守・佐々木牛ノ介の家である。大きな建屋が浴室で、老若男女10人ほどが入浴している様子で、その左側に浴舎(宿舎)が3棟描かれている。厠(便所)は川沿いにポツンとあって、夜は行燈を手にして用を済ませたようだ。
現在の建物は、ヒュッテ風の赤い屋根の平屋で、9代目当主の自宅も兼ねている。赤鳥居を設えた薬師神社は、ほぼ同じ場所に鎮座している。岩倉温泉のキャッチフレーズは、「深い眠りの湯」で、客室が7室の小さな旅館である。中庭の小さな池には錦鯉を放ち、ツツジの植え込みがある。宿に庭は不可欠で、あるとないとでは印象に大きな差が生ずる。数年前の洪水で浸水し、休業していた期間があって心配していが営業が再開されて安堵した。
温泉の泉質は、弱アルカリ性のナトリウム・カルシウム-塩化物・硫酸塩泉(旧芒硝酸)で、泉温は58℃なので「100%の源泉掛け流し」である。浴室は内風呂だけのシンプルさであるが、部屋から近いのが良い。私はあまり効能を気にしないが、骨折やかすみ目にも良いとされるので、登山や仕事で患った怪我や病気が少しでも癒えてくれれば嬉しい。
前回は岩倉温泉に1人で泊まったが、今回は航空自衛隊のパイロットである甥子が、防衛省でただ1人、オーストラリアの大学に2年間、国費留学することになった。しばらく温泉に入れなくだろうと、甥子とその嫁を誘って泊まったのである。いつも1人で食事するので会話がないが、3人で食事すると会話が弾み酒量も増えて行く。本場きりたんぽ鍋が旅館の名物で、愛媛県出身の甥子の嫁が大変喜んでくれたのが嬉しい。
岩倉温泉の近くには「天下の名湯」と謳われた滝温泉があったが、平成25年(2013年)に破産して閉鎖された。幼かった甥子を連れて泊まっただけに、胸が締め付けられる思いでニュースを聞いた。その時の甥子が成長し、防衛大学を次席で卒業し、戦闘機のパイロットとなってアメリカに留学した経験も持つ。エリート中のエリートとなって、雲の上の人となった自慢の甥子でもあるが、しばらくは遠く旅立つ甥子の無事を一心に祈るだけである。滅びゆく名湯もあれば、その湯に浸かり世界に羽ばたく勇士もいる。
041金浦温泉学校の栖(大竹小学校跡) にかほ市大竹
秋田県の日本海に面した由利本荘市やにかほ市には、1軒宿の温泉地があちらこちらに点在する。由利本荘市猿倉の湯ノ沢温泉は享保2年(1717年)の開湯、本荘市内の安楽温泉は明治32年(1899年)の開湯、にかほ市象潟の湯の台温泉は明治37年(1904年)の開湯と、100年以上の歴史を誇る温泉が3ヶ所もある。にかほ市金浦の大竹地区にも昭和初期に開湯された硫黄谷温泉があって、湯治場を営んでいたようである。
大竹地区は桃源郷のような雰囲気から「千年の村」とも呼ばれ、またフクジュソウの群落があることから「福寿草の里」とも呼ばれている。ここにあった大竹小学校は、明治7年(1874年)に大竹尋常小学校として開校し、昭和55年(1980年)に金浦小学校に併合されるまで106年間、子供たちの笑い声がこだました。この廃校を某新聞社の会長が1億円で買い取り、硫黄谷温泉を引湯し、北投石まで入手して社員のための保養所として開湯した。しかし、資金難から1年も経たずに秋田赤十字病院に売却されて、昭和56年(1981年)に金浦温泉診察所が開設される。診察所は平成2年(1990年)に閉鎖されて、県共済生活協同組合が入手すると、誰でも入浴できる温泉施設となった。その後、平成18年(2006年)には
象潟のたつみ寛洋ホテルに経営が移行された。数奇な変遷をたどりながらも、リニューアルされて入浴者が絶えない温泉旅館へと変貌した。
初めて「金浦温泉」を訪ねて車を降りた時、硫黄臭が漂っていて本物の温泉だと驚いた。火山地帯特有のものだと思っていただけに、日本海沿いにあるのは珍しいと感心した。何よりも驚いたのは、旧校門に二宮金次郎像である。いずれも学校の創立当時からあったすれば、147年の月日を数える。その旧校門に寄り添うようにケヤキの大木があって、旧校舎の黑い瓦屋根の上には鳥海山が顔をのぞかせていた。
客室の名称は学校の教室に倣い、1年1組から室名が付けられていて、廊下の雰囲気は昔の学校である。館内に職員室がなかったので安堵したが、事務室が職員室となっていたら蹴飛ばしていたかも知れない。それは冗談としても愛着を感じる館内である。
夕方になると、外来の日帰り入浴者が多く、ゆつくりと入浴できなかったが乳白色の単純硫黄泉は格別である。泉温は13.3℃の冷鉱泉で加温を必要とするが、加水する温泉に比べると、成分にあまり変化が生じないので良いと思う。pHは6.5の中性で、湧出量は毎分117ℓと豊富である。この硫黄泉の効能は、動脈硬化等循環器疾患、リウマチ性等神経疾患、糖尿病肝臓等新陳代謝疾患、皮膚疾患、アトピー、婦人病疾患とある。他に北投石を利用したラジウム鉱泉の浴槽があったが、昭和27年(1952年)に国の天然記念物に指定されて採取が禁止された。それ以前に採取したと但し書きがあったが、信じる人は少ないと思う。
金浦温泉が提供する魚介類は、金浦漁港から直接仲買しているようで、新鮮で安価であるようだ。野菜や果物は地元産が殆どで、ここに由利牛が加わるので申し分ない夕食であった。翌朝、一番風呂に入ろうとしたら、外来者が入浴して来た。30分ほどタイムラグがあれば良いと思ったが、入浴は地元民が優先されると聞いてがっくりした。しかし、「郷に入っては郷に従え」のことわざもあって、ここはやはり桃源郷なのである。
042小安峡温泉旅館多郎兵衛と元湯くらぶ(栗駒国定公園) 湯沢市皆瀬
秋田市に住んでいる人にとって身近な温泉地は、男鹿温泉郷か森岳温泉であるだろうが、県南の横手市や湯沢市では、秋ノ宮温泉郷か小安峡温泉が該当する。秋ノ宮温泉郷は衰退が激しく、30年前に12軒あった温泉旅館が7軒まで減った。しかし、小安峡温泉は27軒から14軒に減ったが、秋ノ宮温泉郷ほどでもない。
小安温泉は室町時代末期、小安村の百姓・久蔵が発見して湯小屋を建てたと伝承されている。江戸前期の寛文年間(1661~73年)頃、秋田藩の家老が湯治に訪れているので、既に湯宿が建てられて開湯されたようだ。湯左衛門と言う者が湯守に選ばれて、宅兵衛の家は御陣屋となった。文化8年(1811年)には、秋田藩9代藩主・佐竹義和が約300人の家臣を連れて巡回した折に宿泊している。その義和から地誌の作成を依頼された菅江真澄は、文化11年(1814年)に小安峡温泉を訪ねている。その頃の温泉には、伊藤多郎兵衛を始めとする14戸の宿屋があったと記している。仙台領の気仙沼から矢島藩に米の買い付けに来た商人は、その行き帰りは小安峡温泉に泊まって芸者を上げて遊興したと言う。
真澄が記した宿屋の中で、現在も営業しているのは「旅館多郎兵衛」だけである。戊辰戦争時の仙台藩の侵攻、昭和44年(1969年)の大火など困難な時代を経ての営業である。現在の当主は12代目伊藤多郎兵衛で、真澄が記した多郎兵衛を初代とすると200年以上となる。木造2階建て一部鉄骨造3階建ての大きな旅館で、26室の客室は小安峡温泉で最大である。以前は小安観光ホテル鶴泉荘が最大規模の旅館であったが、平成29年(2017年)に破産した。その後、建物は放置された状態であったが、湯沢市が費用を負担して撤去された。
小安峡温泉には4ヶ所の源泉があるが、この源泉をすべて引いているのが旅館多郎兵衛である。泉質はほぼ一緒で、無色透明な弱アルカリ性(pH 8.4)の単純温泉である。泉温は87.5℃の高温泉であるが、一部100%源泉掛け流しを行っている。浴場は男女別に薬師の湯、露天風呂、三宝の湯、子宝の湯がある。薬師の湯の外壁の窓は、群馬県の名湯・法師温泉長寿館の法師乃湯を模していて、知っている人は親近感を覚えるだろう。効能については、旅館のパンフレットには神経痛、筋肉痛、関節痛、打ち身、冷え症、婦人病ほかとあった。
小安峡温泉の旅館の中で最近評判となっているのが、「元湯くらぶ」である。旅館多郎兵衛の南隣に建っていて、昭和54年(1979年)の開業である。40年ほど前の開業なのになぜ元湯なのか不思議であったが、元湯くらぶの女将は旅館多郎兵衛の三女で実家でもあった。三女は嫁ぎ先の食堂の2階にある3部屋を利用して、最初は民宿からスタートとさせた。小安峡温泉に民宿が多いのも、この三女の影響があると思う。
バブル時代の好景気は小安峡温泉にも及んでいたが、崩壊後は停滞を余儀なくされる。平成20年(2008年)には、「岩手・宮城内陸地震」が発生し、平成15年(2003年)に改築したばかりの元湯くらぶも被害を受けた。平成23年(2011年)には、「東日本大震災」が発生して客足が鈍り、小安峡も影響を受ける。元湯くらぶの建物は、熊本県の黒川温泉、岐阜県の福地温泉の景観や建物を参考にしているので、県外からのリピーターも多い。現在は木造2階建て、客室12室の立派な旅館となっていて、駐車場にはいつも車が停まっている。
043泥湯温泉奥山旅館(栗駒国定公園・日本秘湯を守る会) 湯沢市高松
湯沢市にある秋ノ宮温泉は役内川、小安峡温泉は皆瀬川に沿った温泉地であるが、川原毛地獄の山中にあるのが「泥湯温泉」である。鎌倉時代初期の文治年間(1185~89年)に武将・宇佐美清左衛門が発見したとされ、江戸時代初期の延宝8年(1680年)に「安楽泉」の名で開湯している。明治時代には、1年間に7,000人も訪れる県南一の温泉地だったようだ。
平安時代初期の大同2年(807年)、月窓和尚が川原毛地獄に霊通山前湯寺を建立して開山した。後に天台僧・円仁が巡錫した頃、南部の恐山、越中の立山と並び、「日本三大霊地」と称された。川原毛の荒涼とした火山地帯が、地獄の様子を垣間見る霊地に選ばれたのである。湯前寺は室町時代初期に三途川の十王坂に移され、戦国時代には小野寺氏によって稲庭城下に移築されて曹洞宗の嶺通山広沢寺に改められた。
江戸時代に入ると、秋田藩は硫黄の採掘場として開発し、泥湯温泉は宿舎にあてがわれた。採掘は昭和41年(1966年)まで続いたようで、その爪痕が川原毛地獄に残る。水蒸気と共に酸性の熱水が噴出していて、それが川となって流れ落ちているのが「川原毛大湯滝」で、その滝壺が天然の露天風呂となっていて入浴者が絶えない。
泥湯温泉の盛時は4軒の温泉宿があったが、かなり以前に中山荘が、平成27年(2015年)に豊明館が廃業し、平成28年(2016年)7月には泥湯温泉の主役であった奥山旅館が火災を起こし焼失した。奥山旅館は焼失を免れた風呂を活用し、10月には日帰り入浴を再開させた。湯沢市が推進する「ゆざわジオパーク」の構想に泥湯温泉も含まれていたことから、国や県、湯沢市の補助金と地元銀行のバックもあって資金を捻出し、平成31年(2019年)4月に再建された。熊本県にある黒川温泉の1軒を切り取って拡大したような景観で、客室は22室と以前よりも増えている。喜ばしいことは、「日本秘湯を守る会」にも復帰しているし、5代目の活躍が早期再建に貢献したように思われる。
泥湯の名は、泥のように茶色の湯ではなく、乳白色の濁り成分が沈殿して泥のように足元で感じるからである。奥山旅館には4つの源泉があって、自炊棟の「天狗の湯」の露天風呂は酸性-鉄(Ⅱ)-硫酸塩泉、旅館棟の「新湯」の内風呂は単純泉、同じく「川の湯」の露天風呂は硫黄泉である。足湯の「目洗い湯」は酸性-含硫黄・アルミニウム-硫酸塩泉と面白いように泉質が異なっている。温泉の適応症は、一般的適応症の他、リュウマチ、事故の後遺症、高血圧症、動脈硬化症とある。
泥湯温泉にはもう1軒、奥山旅館の自炊棟の並びに小椋旅館がある。この旅館は老齢の4代目夫人が湯守をしていたが、日帰り入浴が専用のようである。男女別の浴室があるだけの簡素さで、入浴客は多くはない。泉質は灰白濁色の単純温泉で、pHが2.8の酸性泉である。泉温は64.9℃の高温泉であるが、毎分19ℓが自然湧出していて源泉掛け流している。温泉の適応症は、神経痛、筋肉痛、関節痛、冷え症などと簡素に記していた。小椋旅館が廃業すると、奥山旅館が1軒だけとなる。廃屋になりつつある2軒の旧旅館も含め、新たな湯守を募集し、泥湯温泉の再開発が必要と思う。泥湯温泉からも近い木地山高原温泉いこいの村、下の岱温泉くつろぎ荘などは廃業してから放置されたままである。
044秋ノ宮温泉郷稲住温泉と鷹の湯温泉(国民保養温泉地) 湯沢市秋ノ宮
秋田県の最南にある秋ノ宮温泉郷は、奈良時代に名僧・行基菩薩が発見した伝承から秋田県最古の温泉地と自称している。しかし、行基菩薩が雄勝郡に入った史実はなく、実際の開湯は、湯ノ岱温泉新五郎湯が江戸時代中期の元禄15年(1702年)に創業された時であろう。湯ノ岱温泉を始めとし、鷹ノ湯、湯ノ又温泉、稲住温泉、松ノ湯、秋ノ宮温泉、宝寿温泉と開湯されて秋ノ宮温泉郷となった。盛時には12軒ほど温泉宿があったが、櫛の歯が抜けるように廃業して、現在は7軒まで減り、「稲住温泉」も1度は幕を下ろしている。
稲住温泉は明治29年(1896年)に地元の押切氏が開業しているが、有名な設計家・白井晟一の作品として知られる。また、昭和の戦時中には作家の武者小路実篤が疎開したことで、「歴史と文學の宿」に紹介されている。昭和20年(1945年)4月から9月まで滞在した武者小路は稲住温泉の庭園を愛し、「山の落ち着きは無限、水の清さは無限」の名言を吐露した。
稲住温泉は個人的には秋田県で最も愛した温泉宿で、平成26年(2014年)に㈾稲住温泉が破産して閉館のニュースを見た時は大変ショックを受けた。10年の節目ごとに泊まりたいと願っていただけに、その希望が絶望に変わった。その後、学生寮などを全国展開する共立メンテナンスが、5年後にリニューアルして令和元年(2019年)に再建された。実篤の他にも、画家・小杉放庵、政治家・佐藤栄作、歌手・美空ひばり、女優・吉永小百合と秋吉久美子、俳優・津川雅彦が宿泊し、卓球で有名な福原愛が練習場にした。
稲住温泉の泉質は、無色透明な単純温泉であるが、泉温が90.0℃と高い。源泉は山中にある荒湯てはあるが、湧出量は毎分216ℓと多く、入口にある松ノ湯は稲住温泉から分湯していた。pHは3.6の弱酸性で、パンフレットの効能には脳病、リュウマチ、冷え症、婦人病、神経痛、胃腸病などと書かれていた。新しくなった稲住温泉には泊まっていないが、離れ山荘には専用の風呂があって、庭の眺めが良く、白井氏の美意識が垣間見られる。
稲住温泉が高級な温泉旅館とすると、庶民的な温泉旅館の代表が、「鷹ノ湯温泉」である。温泉名は鷹匠の太郎右衛門が、タカが温泉で傷を癒していた所を発見したことに由来するそうだ。開湯は明治18年(1885年)で、現在の小山田氏は4代目と言う。役内川に面して赤い屋根の建物が建ち、歩行用の橋を渡ると自炊棟の河鹿荘がある。対岸の敷地も含めると、秋ノ宮温泉では一番広い。本館の裏山には薬師神社や金勢神社が建ち、対岸の轟岩には弁財天も祀られている。秋ノ宮温泉郷では唯一「日本秘湯を守る会」にも加盟していて、スタンプ欲しさに泊まった時もあったが、新たな発見を求めて泊まりたい温泉宿でもある。
鷹ノ湯温泉の泉質は、無色透明なナトリウム-塩化物泉で、泉温は72℃、pHは7.3(中性)である。湯量は毎分44.4ℓと多いとは言えないが、自然湧出しているのが良い。温泉の効能は、神経痛、慢性リュウマチ、腰痛、切り傷、慢性皮膚病、婦人病、更年期障害、交通事故後遺症、病後の回復、その他とあった。この温泉の風呂は、混浴の大浴場と露天風呂が良い。堰堤から流れ落ちる滝が美しく、紅葉の頃に露天風呂から眺める景色は値千金である。菅江真澄が雄勝郡を巡村した際、秋ノ宮まで来ているが、鷹ノ湯温泉は開湯されていなかった。真澄さんに描いて欲しかったロケーションで、写真に残すだけでは物足りない。
045須川温泉栗駒山荘(栗駒国定公園) 東成瀬村椿川
栗駒山の8合目(標高1,120m)に秋田県では最も高地の「須川温泉栗駒山荘」がある。隣接する岩手県には「須川高原温泉」がある。国民保養温泉地の指定には「須川高原温泉・真湯温泉」となっていて、秋田県の須川温泉の名はない。恐らく、須川温泉の温泉は須川高原温泉から引湯しているので、同一視されたのだろう。
平安時代初期の貞観15年(873年)に「酢川」の名が知られ、江戸時代中期の開湯で約300年の歴史がある。それを証明するように文化11年(1814年)、菅江真澄は現在の東瀬成瀬村から秣岳(1,424m)に登り、栗駒山(1,626m)に登頂している。真澄の『駒形日記』には、秣岳を馬草山、栗駒山を駒形山と表記している。東瀬成瀬村椿川の桧山台に滞在して、赤滝を見物してスケッチも描いている。赤滝には赤滝神社があって、修験者たちが休憩所として利用していたであろう。真澄が栗駒山と須川温泉を描いたスケッチがあるが、その中に「御室」を描いたものがある。御室は山岳修験者の宿泊所で、栗駒山の山頂に駒形神社嶽宮が現存するので、秋田藩と仙台藩が管理する霊山でもあった。
開湯した当時は、源泉は秋田藩領に流れていたが、仙台藩への引湯を秋田藩が拒否すると、源泉は仙台藩領へ流れるようになったと言う。明治時代に入ると、神仏分離令によって、全国各地の修験道は衰退を余儀なくされた。須川温泉と須川高原温泉は、湯治場として辛うじて温泉が維持されたと想像する。
昭和の戦後になると、高度成長によって観光開発が活発となる。一関からの道路が整備されて大規模な須川高原温泉施設が建設された。須川温泉では昭和38年(1963年)、羽後交通によって平鹿郡内の木造校舎を解体利用して栗駒山荘が建てられた。更に秋田県では昭和49年(1974年)、小安峡温泉と須川温泉の途中に栗駒有料道路が開通された。平成10年(1998年)、栗駒山荘は東成瀬村が譲り受け、リゾートホテルとしてリニューアルされた。
往事の栗駒山荘は須川高原温泉の旅館に比べると、とても貧弱に見えて1度も泊まったことはない。須川高原温泉は「日本秘湯を守る会」にも加盟していて、頻繁に泊まっていたのである。しかし、令和2年(2020年)5月、コロナウィルスの感染で秋田県と岩手県の交流が絶えて、秋田県を元気にしないと考え、専ら県内の温泉を利用することにした。
栗駒登山の際、須川高原温泉の建物の横を通過したが、昔のままの赤い屋根で昭和のレトロな雰囲気であった。登山後は須川温泉栗駒山荘に温泉に入浴したが、大浴場と露天風呂がひな壇のようになっていて、そこから眺める展望は素晴らしかった。特にイワカガミ湿原が手に取るように見え、須川湖が見えたら最高である。
pHは1.9の酸性で、白濁した泉室は含鉄(Ⅱ)・硫黄-ナトリウム-硫酸塩・塩化物泉と長たらしく書かれていたが、含硫化水素の明礬泉である。湧出量は毎分6,000ℓと、分湯しても有り余る豊富さで、泉温は50℃と加水も加温も必要としないようだ。250mを引湯しているので、42~45℃まで下がるので100%の源泉掛け流しである。栗駒山荘の問題点は村営でありながらも、宿泊費や食事料金が少々高いことである。冬期間は休館しているので致し方ないとも思うが、民間施設よりも従業員が多いのは役所的な発想に見える。
046小坂の明治時代の建築群(小坂鉱山事務所・康楽館・旧小坂鉱山病院記念棟) 小坂町
繁栄の源は投資が伴う開発であり、繁栄の維持は需要に対する生産による供給である。秋田県は鉱山資源の宝庫であり、金山は微量であったが、銀山と銅山の生産量が多かった。中でも注目すべきは小坂鉱山で、幕末の盛岡藩の時代から鉱山開発は右往左往するものの、明治17年(0000年)に政府から藤田組に払い下げられると、安定した銅の生産を続けた。
採掘した黒鉱を「自熔製錬」と言う日本の鉱業史では画期的な製法を生み出し、落盤事故を回避するため、国内初の「露天堀方式」を採用して飛躍的な発展を遂げるのである。明治39年(1906年)には、ルネッサンス風の3階建て「小坂鉱山事務所」が完成し、同43年(1910年)には、従業員の慰安施設として「康楽館」が建てられた。いずれも国の重要有形文化財と近代化産業遺産に指定されている。他に明治41年(1908年)に建てられた木造平屋建ての旧小坂鉱山病院記念棟は、国登録有形文化財に指定されている。
小坂鉱山事務所の建物は、当時の繁栄を象徴するような豪華さで、2階のバルコニーやらせん階段が特徴的である。床面積は754㎡で、洋館の事務所建築では秋田市の赤レンガ館(旧日本銀行秋田支店)の467㎡を超える。康楽館(1,097㎡)は現存する国の重要文化財の芝居小屋としは、熊本県山鹿市の八千代座(1,487㎡)、香川県琴平町の金丸座(1,161㎡)に次ぐ床面積を誇る。歌舞伎の興行や各種芝居なども行われ、娯楽の殿堂の不滅を願うだけである。
明治百年通りには昭和初期の建築であるが、保育園として開園された「天使館」が国登録文化財されている。旧小坂鉱山工作課原動室は、明治37年(1904年)の建築で国登録文化財に指定され、「小坂町赤煉瓦にぎわい館」として明治百年通りに移築されている。古民家建築では、中小路の館(旧工藤家住宅)が市内にあって、秋田県指定の有形文化財である。
小坂町には、大館と小坂を結ぶ小坂製錬小坂線(小坂鉄道)があって、平成6年(1994年)までは旅客営業が行われ、平成21年(2009年)には貨物営業も終了して廃線となった。旧小坂駅は鉄道テーマパークと駅舎や車両が保存され、平成26年(2014年)に「小坂鉄道レールパーク」としてオープンした。翌年には、廃車された寝台特急「あけぼの」を譲渡され、列車ホテル「ブルートレインあけぼの」が開業する。小坂鉄道の線路は、専用自転車で走行するレールバイクもあって家族連れには好評である。
秋田県は鉱山王国であったが、北秋田市の阿仁鉱山、大仙市の荒川鉱山、湯沢市の院内銀山などはの鉱山跡は廃墟と化した。辛うじて鹿角市の尾花沢鉱山が史跡として保存されている。かつてはマインランド尾去沢の名称で観光スポットにもなっていたが、民営の限界もあって衰退した。その点、小坂鉱山の鉱山は閉鎖されたものの、鉱山遺産は広範囲に渡っていて、魅力的な文化財の建物や産業遺産も多い。
鉱山遺産については、島根県大田市の石見銀山は世界文化遺産に登録されたが、同年代に開発された院内銀山は県史跡となっていることに格差を感じる。小坂鉱山も世界文化遺産にチャレンジする価値はあるのであるが、ほら吹きが多い県民性と乖離しているようだ。群馬県富岡市の富岡製糸工場も世界文化遺産に登録されたし、小坂鉱山の建物群と産業遺産は富岡製糸工場を凌駕しているのは誰の目でも明らかである。
047角館の武家屋敷群と檜木内川堤(重伝建・国名勝・日本桜の名所100選) 仙北市角館
角館が注目されたのは、昭和45年(1970年)代に旧国鉄が提唱した「ディスカバー・ジャパン」で紹介されたことであった。飛騨高山や津和野の小京都がブームとなって、角館も小京都に名を連ねた。当時の若者がそのブームを牽引し、角館駅前にはリュックを背負った若者たちで溢れていた。角館にはユースホステルや民宿など若者向けの宿がなく、駅のベンチをステーションホテル、公園のベンチをパークホテルとして野宿を余儀なくされた。
あの当時に比べると、角館は東北屈指の城下町の地位を確立し、青森県の弘前に次ぐ人気を得ている。弘前公園(弘前城)は、奈良県の吉野山、長野県の高遠公園(高遠城)と共に、「日本三大桜名所」に選ばれているが、角館桧内川堤の桜は、「みちのく三大桜名所」に弘前公園、岩手県の北上展勝地公園と肩を並べているの過ぎない。いずれも「日本桜の名所100選」に選ばれていて、檜木内川堤のサクラは国の名勝、武家屋敷のシダレザクラ162本が国の天然記念物に指定されているのが嬉しい。
角館の武家屋敷は、国の「重要伝統的建造物群保存地区」の指定を受けているが、弘前市中町の武家屋敷も指定を受けている。その中で弘前の旧笹森家住宅は国の重要文化財であるが、角館の旧松本家住宅は県の有形文化財、旧青柳家住宅と岩崎家住宅は県の史跡となっているだけで、国の名誉ある評価は受けていない。弘前には弘前城や寺院など国の重要文化財が34棟も指定されていて、ゼロ棟の角館と比較にならないことを実感する。
令和2年6月28日、約10数年ぶりに角館を訪ねて見ると、コロナウィルスの影響もあって日曜日というのに閑散としていて、武家屋敷通り殆ど観光客はいなかった。それでも檜木内川堤に面した駐車場は有料となっていたので、武道館の駐車場に停めて折畳み式自転車に乗り換えた。新たに公開された武家屋敷もあったので、新鮮な気持ちで武家屋敷通りを走行した。そして中心部に入ると、シンボルタワーのような協働社ビル(角館プラザ)が姿を消し、和風建築の施設に建て替えられていた。
昔の佇まいも残っていて、旧角館役場庁舎であった仙北市市役所中町庁舎は懐かしく眺めたが、中心部から離れた場所に新庁舎が改築中で、来年には解体されそうなので写真を撮って記録することにした。中町通りには、「かくのだて温泉町宿ねこの鈴」と言う温泉宿もあって、機会があったら泊まってみたいと思う。
今回の訪問で知ったのは、安藤醸造所以外に五井酒造店(五井家住宅)の建物が残っていたことである。角館では現存する商家が少なく、貴重な存在である。江戸時代中期のマルチ学者・平賀源内は技術指導で阿仁鉱山を訪ねた際、五井家に泊まったようである。その折、角館在住の画家・小野田直武は平賀源内から西洋画の指導を受けている。
角館には有名な神社仏閣が少ないのが不満の種であるが、角館總鎮守の神明社は、「菅江真澄終焉の地」として有名である。文政12年(1829年)、真澄は秋田藩から依頼された地誌の調査のため、仙北郡を訪ねていた。しかし、旧田沢湖町の梅沢で病を得て、角館の神明社神職宅へと運ばれるが、看病の甲斐なく76歳で没した。弘前藩を追放され、秋田藩のお抱えとなって28年、秋田の風土を愛した真澄の終焉地に相応しい場所が角館となった。
048増田の商家群と真人公園(重伝建・日本桜の名所100選) 横手市増田
増田という町は、江戸時代末期から吉乃鉱山や朝市で栄えた町であるが、明治38年(1905年)に奥羽線が敷設されるて十文字駅が開業すると、時代の流れから隔離された町となった。地元の実業家が銀行の創設者であったこともあって、それなりの影響力があったが、その後の十文字の発展には及ばなかった。そんな増田の商店街には蔵座敷が多数あったことから歴史的な評価が下され、、平成25年(2013年)に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された。秋田県では角館に次ぐ指定で、増田の盛り上がりは尋常ではない程であった。
蔵座敷は間口の狭い商店の奥にあるため、人々の目に触れることはなかった。何度となく増田の市街地を通っても、蔵座敷の存在は知らなかった。蔵座敷はウナギの寝床のような主屋の中にある内蔵と、主屋の外にある外蔵に分かれている。外蔵の多くは、米や味噌などの貯蔵、普段は使用しない生活用品や味噌・米の収納のための土蔵となっている。
現在の増田には、商家や造り酒屋を中心に25棟の町屋が存在するが、国の重要文化財2棟、国登録有形文化財3棟、市指定文化財5棟と、15棟が指定されている。国の重要文化財の佐藤又六家住宅は、明治初年に建てられた豪商の店舗を兼ねた住宅で、その豪華さは増田一である。横手市の所有となった旧石田理吉家住宅は、増田では珍しい木造3階建てで、戦前までは「金星」の銘柄で造り酒屋を営んでいたと言う。
市営となった旧石田理吉家住宅の見学料金か、300円であったのは驚いた。他の商家は200円平均であったので、有料公開された商家を見学すると、3,000円の出費となってしまう。時代村などのテーマパークの料金と変わらず、「ぼったくり蔵」と揶揄される。市営なのだから無料化するのが、文化財に親しみ見学する時代の流れであると思う。
同じ東北で、福島県喜多方市の「小田付」が平成30年(2018年)に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された。土蔵の店舗や住宅が15棟も建てっているが、外観のみの見物が殆どである。重伝建に指定される以前のバブル期は、観光客を乗せた馬車が運行されて「蔵の街・喜多方」として注目された時代もあった。しかし、小田付は重伝建に指定されても増田のような雰囲気はなく、ブームの再来を期待する様子は感じられなかった。
いずれ増田も小田付のように衰退しないように願いたいが、増田には全国的に有名「横手市増田まんが美術館」や日本桜の名所100選に選ばれた「真人公園」があるので、極端な観光客の減少は考えにくい。菅江真澄は文政7年(1824年)、『雪の出羽路平鹿郡』の調査のため増田を訪ねていて、「真人山」をスケッチしている。三角錐の真人山と成瀬川を風景は現在も一緒であるが、サクラは明治時代に豪商・佐藤又六家によって植栽された。真人公園の花見時期に行われる「全日本元祖たいらこぎ選手権大会」は、増田の風物詩として定着していて、旧平鹿郡内では観光地としての存在感は一番であると言える。
真澄さんは他に「増田城跡」の絵をスケッチしていて、増田が城下町であった時代の記録とも言える。増田城は土肥館とも呼ばれ、現在の増田小学校にあった。鎌倉時代初期の築城で、江戸時代初期の佐竹氏時代には廃城となっている。真澄が訪ねた頃は、城跡に土塁が残っていたようで、平城と言うよりも邸宅のような雰囲気が伝わる。
049亀田城下町と天鷺村 由利本荘市亀田
明治初年の廃藩置県で秋田県が成立すると、大半が佐竹氏の秋田藩であったため、亀田藩などの小藩の存在は一般的に知られていなかった。亀田藩が存在感を秋田県に示したのは、平成3年(1991年)にオープンした岩城町による「天鷺村」であった。その中心となった建物が、3層4階の天鷺城である。実際の亀田藩には天守を備えた城郭ではなく、陣屋が建っていたのであるが、観光施設としての一面を優先させたようである。それでも秋田県では、横手城(横手公園展望台)と五城目城(森林資料館)以来の模擬天守の出現であった。
亀田藩は元和9年(1623年)、岩城吉隆が2万石で移封となって立藩された。北と東側は佐竹氏の秋田藩、南側は六郷氏の本荘藩と接していた。岩城氏は名前から推測できるように、現在のいわき市の磐城平を領していた大名であった。関ヶ原合戦で徳川家康に反目したことから改易となるも、吉隆の時代に小大名として家督は回復された。秋田の太守・佐竹氏と岩城氏は、同族関係にあったことから良好な関係が保たれた。
天鷺村は小さな歴史テーマパークで、陣屋の大手門を復元した城門が入口にあって、士農工商をテーマにした建物がある。模擬天守は藩主の宝物を展示する史料館、土蔵風の岩城歴史民俗資料館、商家の建物を模した阿部米蔵美術館、武家屋敷を復元し遠藤家、豪農の住宅を移築した佐々木家などで構成されている。真田幸村の娘・お田の方が岩城家に嫁いだこともあって、六文銭の旗指物が飾られ、真田家ゆかりの品々なども展示されている。
亀田陣屋は旧亀田小学校の敷地跡が中心部となっていて、亀田城佐藤八十八美術館が城郭風に建てられた。城門と石垣が復元された様子であるが、平成31年(2019年)4月21日の日曜日に訪ねた時は休業中であった。美術館を縮小して新たな施設に変更することが必要と思われるが、以前の賑わいを取り戻すには工夫とアイディアが必要とされる。
大概の城下町には、歴代藩主の菩提寺があるもので、亀田には龍門寺がある。寛永5年(1628年)、岩城吉隆が創建した曹洞宗の寺で、江戸時代に建てられた山門を入った先の鬱蒼とした杉木立の参道が印象的である。本堂の奥には、岩城家の御霊屋があって小藩と言いながらも立派な墓所である。他にお田の方(顕性院)が建立した妙慶寺は、日蓮宗の寺で宝物館には遺品や寺宝が保存されているようだ。
城下町の街並みは、戊辰戦争や明治初期の大火で武家屋敷など古い建物を焼失している。それでも大町には、木造の古い住宅が点在していて、写真に残したい建物もあった。亀田の街並みを見ていて驚いたのは、和風建築に統一された一戸建ての公営住宅である。空家のない状況で、旧城下町の佇まいは子供を育てる環境に相応しいと思った。
亀田の高城山(170m)は、平安時代初期に豪族・天鷺速男が築城した山城跡があって、車で山頂まで上れる。本丸跡には展望台があって、二の丸跡も残っていた。三の丸跡には天鷺ワイン城が建っている。昭和62年(1987年)、㈱天鷺ワインが設立されて、ワインやジュースなど製造販売し、亀田の名産品となっている。道川にある道の駅岩城や港の湯などを運営する岩城アイランドパーク㈱、天鷺村、㈱天鷺ワインの3事業所が合併して㈱岩城が平成26年(2014年)に発足する。この会社に旧岩城町の観光事業が託されることとなった。
050三浦家住宅(国重文) 秋田市金足
寺院や神社、城郭や本陣などの建築以外、最も親しみを感じるのが古民家である。特に国の重要文化財に指定された古民家は価値が高い。令和2年(2020年)現在、秋田県では10軒の古民家が、国の重要文化財に指定されていて、秋田市金足黒川にある「三浦家住宅」は平成18年(2006年)に指定された。三浦家の先祖は鎌倉時代の相模の豪族で、その一族が秋田に移住したようだ。佐竹氏の藩政時代は、金足の肝煎りを勤めた郷士の家柄である。
平成29年(2017年)6月に訪ねた頃は、通常の一般公開はされておらず、外観のみの見物となった。その後、令和2年(2020年)7月に再訪すると、特別に公開されていて拝観料は無料であった。三浦家住宅から三浦館と名称が変わっていて、久光製薬の所有となっていた。久光製薬の会長・中富博隆氏の妻は、旧姓が三浦たつ子さんと言い、三浦家のお嬢様であった。その関連性から久光製薬の子会社が三浦家住宅を保存することになったようだ。
表門を入ると、左手に大きな土蔵が建っていて、正面に主屋がある。他に屋敷内には馬小屋、文庫蔵、味噌蔵、米蔵、鎮守社などが点在する。表門、主屋、鎮守社が江戸末期の文久元年(1861年)、米蔵が明治24年(1891年)、文書蔵が明治35年(1902年)、その他は昭和初期までに建てられたとされる。
主屋はコの字形をした茅葺屋根の寄棟造りで、桁行27.0m、梁間13.6mの大きな平屋建てである。内部に入ると、土間正面に「おえ」と呼ばれる接客室があって、昭和51年(1976年)まで簡易郵便局として使用されたスペースが残されていた。主屋の奥の八畳間は「佐竹さんの部屋」と呼ばれ、最後の秋田藩主・佐竹義堯公が1度だけ宿泊されたと言う。土間の広さは、東北一を誇ると聞いたが、黒光りした八角形の大黒柱も見事である。
黒川街道沿いにも入口があって、右手に見える文書蔵の外観が素晴らしい。桟瓦葺の屋根の大梁には、「青海波」と呼ばれる文様が施されていた。米蔵の内部は、三浦家の資料館となっていて、年譜や歴代当主の写真などが展示されている。建物や庭園の維持管理は、久光製薬の援助で三浦館保存会のメンバーが行っているようだ。
最近のテレビコマーシャルで、喉薬の「龍角散」は秋田県が発祥の地と宣伝していた。秋田藩佐竹家の御典医・藤井玄淵によって創製されたようで、玄淵は義堯に仕えていた。玄淵の子孫で龍角散社長の藤井隆太氏は、雑誌の中で「うちや小林製薬さん、久光製薬さんと言った同族経営の製薬メーカーは、一緒にビジネスをしたり、系図をたどると遠縁にあったりと関係が深いです。」と発言している。小林製薬は「アンメルツ」、久光製薬は「サロンパス」がヒット商品として有名である。
黒川から10㎞ほど北東に離れた所に八郎潟町があるが、ここに江戸時代初期に築城された浦城があった。ここの城主が三浦盛永であるが、黒川の三浦家と関わりがあったと思われる。文化3年(1806年)、菅江真澄が浦城を訪ねた頃は、廃城となっていたようである。山城であったが山上は田畑となっていて、本廓、御座の間、馬だし、大鐘の櫓など城跡の様子を農民から聞いた真澄はメモしている。真澄は当時の三浦家に招かれた形跡がないことから、三浦家が肝煎りとなったのは真澄の死後と想定される。
051旧奈良家住宅(国重文) 秋田市追分
昭和60年(1985年)12月、国の重要文化財に指定された「旧奈良家住宅」を秋田県立博物館と兼ねて初めて見学した。この日は32歳の誕生日で、秋田市に本社を置く設備会社に勤めていた時である。仕事が多忙を極めていた頃の息抜きとして、小旅行を楽しんでいた。
旧奈良家住宅は、昭和40年(1965年)に国の重要文化財に指定された4年後に秋田県に寄贈され、昭和50年(1975年)に県立博物館分館として一般公開された。古民家に「旧」の文字が付くと、所有者が市町村や団体に移ったこで無住となった状態を意味する。前項でも述べたが、秋田県には10軒の古民家が国の重要文化財であるが、「旧」の字がかんむりするのは奈良家だけである。ある意味では先祖代々の住居や遺産を捨てたことに他ならず、没落に等しい寂しさを感じる。維持管理のために、多少の補助を国や市町村から受けたにしても、自力で維持するこが当主の当主たる力量が求められる。
旧奈良家住宅は江戸時代中期の宝永年間(1751~63年)、奈良家9代目・善政(喜兵衛)によって建築され、約260年の歴史がある。棟梁は土崎の間杉五郎八で、3年の工期と銀70貫を費やしたと言われる。銀1貫は現在の価値では約1,250,000円で、約9千万円の建築費となるが、米などで現物支給した金額は含まれないので億単位に達していたであろう。
冠木門を入ると左手に本邸があって、正面に管理棟がある。園路を進むと、右手に味噌蔵と座敷蔵があって、正面に北米蔵と南米蔵の大きな土蔵がある。左手の奥に明治天皇が休息された北野小休所が移築され、他に和風住宅と文書蔵が建っている。
本邸の建築様式は座敷の中門と馬屋の中門が主屋から突き出していることから、「両中門造り」とも称されているが、門でもないのに門造りとはおかしいと思う。三浦家住宅と同じ造りなので、コの字形の寄棟造りと呼びたい。日本人は屋外にあっても石段などを、「階段」と呼んでいるのと同様である。本邸の大きさは、桁行21.8m、梁間12.7mとされているので、三浦家住宅の主屋よりは少し小さい。三浦家住宅は7棟が国の重要文化財なのに対して、旧奈良家住宅は本邸だけの指定で、他の6棟は国登録有形文化財となっている。
奈良家は大和国(奈良県)生駒から移住して来たようで、奈良姓を名乗ったのも頷ける。豪農として定住し、江戸時代には金足の肝煎り役も務めている。著名人としは、金足村の村長や秋田銀行の頭取を務めた奈良磐松が、奈良家から輩出している。磐松氏は昭和38年(1963年)に亡くなっているので、古民家建築として秋田県最初の国の重要文化財を指定されたことやその住宅が寄贈されたことを知らなかったのが幸いかも知れない。
江戸時代後期の文化8年(1811年)、58歳となっていた菅江真澄は、奈良家に滞在して奈良家の当主・喜兵衛の歓待を受けている。本邸が建築されて約50年、真澄は上座敷を書斎として使用したようで、藩主や奉行などの上客と同様に扱われている。秋田藩校明徳館の学者・那珂通博は真澄を尊敬していて、その紹介があったものと推察する。
秋田県立博物館は昭和50年(1975年)に開館しているが、市内の千秋公園ではく、金足の男潟の地を選んだのは奈良家住宅の存在があったようだ、平成8年(1996年)には「菅江真澄資料センター」が博物館に併設されて、真澄さんを大切にする気持ちは今も変わらない。
052鈴木家住宅(国重文) 羽後町飯沢
歴史と言うものは面白いもので、実際に名所旧跡を訪ねて知識が得られることが多い。「鈴木家住宅」はその一例で、羽後町の山中に古民家の先祖が源義経の家臣であったこと知って大変驚いた。昭和60年(1985年)8月、盆休みが過ぎた頃に初めて見学した。
鈴木家の由来書によると、平安時代末期の文治5年(1189年)、義経七人衆の1人・鈴木三郎重家が奥州平泉から落ちのびて現在地に土着したと言う。その先祖は紀州国(和歌山県)藤代(現海南市藤白)で、「鈴木屋敷」は全国の鈴木姓の総本家と言われ、東北地方の鈴木姓はこの鈴木家が発祥と伝えられる。江戸時代になると、佐竹氏から代々肝煎り役を任じられ、文政13年(1830年)に名字帯刀が許された言う。名家の特徴としては、同じ名前を世襲する風習があり、鈴木家は杢之助を名乗っていた。
私が訪ねた頃は、45代目当主が案内してくれて、羽後町の助役を務めていると聞いた。設備会社に入社して初めて担当したのが、仙道小学校と三輪中学校の改築工事で羽後町には毎日のように横手から通っていた。県道57号線を毎日のように走っていて、その都度「鈴木家住宅」の案内板を目にしていたので、仙道の向かう途中に飯沢に左折した。仙道へ通って約4年が過ぎた頃で、一目逢いたいい恋人に会う気分で見学した。
茅葺葺きの主屋は、江戸時代前期の建築とされるが、はっきりとした年代は不明である。典型的な曲り屋であるが、主屋を「本屋」と呼び、馬小屋を「中門」と呼んでいるのは旧奈良家住宅の本邸と同様である。私の見解からすると、Lの字形の茅葺平屋建て寄棟造りと称するのが分かり易いと思う。本屋の大きさは、桁行25.5m、梁間11.2mと肝煎りの住宅に相応しい規模である。この住宅が国の重要文化財に指定されたのは、昭和48年(1973年)で、旧矢島町の土田家住宅、旧八竜町の大山家住宅、秋田市の嵯峨家住宅も選ばれている。いずれも豪農の古民家で、土田家と大山家はLの字形で、嵯峨家はコの字形の茅葺屋根の建物である。武士から帰農した名家で、その家柄も選定基準のように見られる。
鈴木家住宅の中門には馬3頭の入るスペースがあって大きいし、その側に外便所があるのが面白い。馬と人との糞尿臭を1ヶ所にまとめたのである。本屋の西側には縁側があって、茶処、茶ノ間、広間、内座、納戸、コザ、バケモノ座敷の名称の部屋がある。茶ノ間には仏壇があって、45代に亘る先祖の霊が祀られていると思うと驚きである。
主屋と隣接して土蔵が建っているが、平成6年(1994年)に国の重要文化財に追加指定された。内部には蔵座敷、漬物部屋、味噌部屋があって、蔵座敷は「ギャラリー長右エ門」となっているようだが、私が訪ねた頃の土蔵は未公開であった。鈴木家住宅のホームページを見ると、現在の当主は46代目で、主屋の平面積が308.3㎡(約93坪)、棟高が約9.5mと懇切丁寧な詳細が記されいたが、敷地面積も表記されていれば満点である。
天明4年(1784年)の初冬、31歳の菅江真澄は、矢島領の伏見から八木山を越えて秋田領の軽井沢に入っている。軽井沢では田茂ノ沢に泊ってから西馬音内に来ているので、鈴木家を訪ねていない。歴史に「もしも」は禁物であるが、源義経の重臣・鈴木重家の末裔と知れば、訪ねなかった筈がなく、名字帯刀が許されるまで落人として暮らしていたようだ。
053両関酒造本館(国登録有形文化財) 湯沢市前森
古民家3軒を『勝手に秋田遺産100選』を選んだが、古民家以外にも秋田県には風格のある木造建築がたくさんある。中でも酒処の秋田県に相応しい建物が、「両関酒造本館」で何度となく外観を撮影した。国の重要文化財(重文)よりは、ランクが下がるものの国の登録有形文化財(登録)に指定された。この制度は、平成8年(1996年)に文化庁が明治以降の優れた建物や江戸時代の建物でもあっても、その価値を評価して後世の遺産に指定した。
平成8年(1996年)、最初に登録に指定された建物は秋田県に5軒あったが、その中に両関酒造本館が選ばれていた。両関酒造は明治7年(1874年)、7代目当主・伊藤仁右衛門による創業であるが、同じ湯沢市の木村酒造は江戸時代初期と最も古い。しかし、上には上があるもので、にかほ市平沢の飛良泉本舗は室町時代の創業で県内では最も古い造り酒屋である。酒造会社や造り酒屋では、他に旧関善酒店(鹿角市)、旧菊池酒造店(五城目町)、福禄寿酒造五城目町)、國萬歳酒造(秋田市)、斎彌酒造店(由利本荘市)、奥田酒造店(大仙市)、鈴木酒造店(大仙市)、旧勇駒酒造(横手市)、日の丸醸造(横手市)の9ヶ所が国登録有形文化財に登録されているが、最も存在感があるが湯沢市の両関酒造本館であろう。
本館は大正12年(1923年)に事務所併用住宅とし建築された木造2階建ての切妻造りで、屋根は鉄板葺きである。建築面積は215㎡(約65坪)で、間口の広さや棟の高さに比べると比較的小さい。他には1号蔵は土蔵造り2階建ての漆喰屋根で、建築面積は178㎡(約54坪)、明治25年(1892年)の建築である。2号蔵も1号蔵と同様の建築様式で、建築面積は416㎡(約68坪)、明治41年(1908年)の建築。3号蔵の建築面積は224㎡(約54坪)、明治末年から大正初期の建築。4号蔵の建築面積は297㎡(90坪)、大正5年(1916年)の建築となっていて、秋田県では最大級の木造による酒造工場の建築群である。
両関の名の由来は、名刀・正宗が東の大関、名剣・宗近が西の大関と言われ、この東西両方の大関にあやかって君臨するようと名付けられたと聞く。私は日本酒が好きで、秋田県横手市に住んでいた時は、両関酒造の銘柄である普通酒の「銀紋両関」を愛飲した。
日本酒の出来栄えを評価する機関の中で、最も権威があるのが「全国新酒品評会」である。明治40年(1907年)に第1回全国新酒品評会が開催されるが、両関の出品した清酒は「1等賞」の評価を受けている。大正2年(1913年)の第4回全国新酒品評会においては、待望の「優等賞」を秋田県の酒造会社で初めて受賞した栄誉に輝いている。
酒造に美味しい水の存在が欠かせず、両関酒造では先に紹介した名水「力水」を仕込み水として使用していると聞いた。「名水ある所に名酒あり」で、私の生まれた現在の横手市平鹿町浅舞には、2軒の造り酒屋があるが、いずれも琵琶沼の湧水を使用している。菅江真澄も注目してスケッチした小さな沼であるが、今でも清らかな水が湧いている。
最近の酒造会社や造り酒屋では、酒蔵見学が観光コースの定番となっていて、両関酒造も無料で酒蔵を開放している。ビール工場やウヰスキー工場も一緒で、試飲が何よりの楽しみであるが、自家用車での移動が多く、バスでの団体旅行に限られてしまう。しかし、鉄道を利用すると、湯沢駅から歩いてもそんなに遠くないので酒蔵を訪ねてみたいと思う。
054能代駅(日本の駅100選) 能代市
旅に関する名数を調べているうち、「日本の駅100線」があることを知って、主婦の友社から平成22年(2010年)に出版されていたので購入した。その中で秋田県からは、能代駅、男鹿駅、十和田南駅の3ヶ所が選ばれていたので、「勝手に秋田遺産100選」に現存の駅舎を選定することにした。
明治35年(1902年)、秋田から鷹ノ巣間が開通して、「奥羽北線」と当時は称された。その時に能代の玄関口は現在の東能代駅であった。米代川沿いの平坦地に鉄道を敷設したため、市街地から4㎞も離れた場所に能代駅が設置されたのである。その不便さを解消するため明治41年(1908年)、東能代と能代市街地を結ぶ「能代線」が開通し、能代駅が新設された。その後、奥羽北線は「奥羽本線」となって、能代駅は東能代駅に改称された。
能代線は更に海岸線に沿って北方向へと延伸され、青森県側から南進して来た陸奥鉄道の五所川原線と接続された。昭和11年(1936年)の出来事で、東能代駅から奥羽本線の川部駅まで「五能線」と称された。五所川原と能代を結ぶため、頭文字をとって命名されたようであるが、冬期間は風雪のため運休することが多く、「不能線」とも揶揄される。
現在の能代駅の駅舎は、昭和15年(1940年)に改築された木造2階建て、一部鉄骨造である。青色の屋根は切妻、横長の中央部に三角屋根の出入口がある。ペディメント部分には秋田杉の銘木が使用され、駅の看板も奥ゆかしい。秋田杉と言えば、能代市内にある旧料亭「勇駒」は、天然の秋田杉で建てられた大きな建物で、国登録有形文化財となっている。
能代は秋田杉の集散地であったが、能代の名を全国的に有名にしたのが能代のバスケットである。県立能代工業高校の男子バスケットボール部は、全国大会において圧倒的な強さで優勝を重ねた。その縁によって、能代駅にはバスケットゴールが設置されていて、誰でもフリースローができる。他にもバスケットボールに関する展示もあって、能代の玄関口に相応しい能代の自己アピールのように見える。
平成の大合併によって秋田県には、北秋田市と仙北市と新たな市が誕生し、大曲市が大仙市、本荘市が由利本荘市に改称した。現在は10ヶ所の市が秋田県に存在し、それぞれの市の中心にJRの駅がある。木造の駅舎は能代駅だけとなって、昭和の時代を伝える駅舎は貴重と言える。私の現住所のある横手駅は、普通列車のみ走行であるが、新幹線の駅かと思うほどの立派な駅となった。この間、しばらくぶりに湯沢市の湯沢駅を訪ねてみた所、新しい駅舎となっていて驚いた。最近は駅前通りの様子を写真に残そうと訪ねることにしているが、駅舎が新しくなっても、人の賑わいが戻らなくは意味がない。
主要な駅には必ず駅前通りがあって、旅館や食堂、商店や酒店が軒を並べていた。しかし、衰退が著しいのも駅前通りで、シャッターを閉じたままの商店も多い。そんな中で、能代駅の駅前通りには駅前旅館が残っていたし、食堂もあった気がする。「五能線」に乗車したことがなく、折畳み自転車をリュック入れて1度は乗ってみたいと考えている。古希まで3年と迫っているが、古希を過ぎたら運転免許を返上する予定なので鉄道や路線バスに親しむことも多くなるであろう。
055十和田南駅(日本の駅100選) 鹿角市田錦木
鹿角市の「十和田南駅」はJR花輪線の駅で、十和田湖観光には欠かせない秋田県側の駅である。鉄道を利用して十和田湖を観光するには、青森県のJR奥羽本線と青い森鉄道の青森駅から十和田湖の中心部で休屋まで路線バスで3時間30分、JR奥羽本線の弘前駅からは2時間40分、青い森鉄道の三沢駅を利用すると2時間10分を要する。しかし、十和田南駅からは、1時間13分と最短の所要時間である。そんな十和田南駅もディスカバー・ジャパンによる鉄道ブームが流行した昭和40年(1970年)がピークであった。
団塊世代の旅好きの若者は、薄茶色のキスリング(リュクサック)にシュラフ(寝袋)を入れ、キャラバンシューズ(軽登山靴)を履いていた。そのキスリングを背負った格好がカニの姿に似ていることから、その一団は「カニ族」と呼ばれていた。そのピークであった昭和50年(1975年)、私は十和田ユースホステルの管理人をしていた。十和田南駅で下車するホステラー(ユースホステル会員)を迎えに何度も通ったものである。
十和田南駅は大正9年(1920年)、私鉄であった旧秋田鉄道の駅として開業し、木造平屋の駅舎は当時の建築である。青い鉄板屋根の切妻造りで、ローカル線の駅舎は安らぎを感じさせる意匠である。旧秋田鉄道は、大館駅から毛馬内駅まで敷設されるが、昭和6年(1931年)に岩手県の盛岡駅から陸中花輪駅まで延伸されると、昭和9年(1934年)に国鉄に買収された。毛馬内駅は十和田南駅に改名されるが、当初の計画では大湯温泉まで延伸する計画であったが頓挫しての買収となったのである。その影響もあって、坂でもないのにスイッチバックする駅となった。鉄道ファンとっては、たまらない線路と駅舎に違いない。
平成22年(2010年)と平成24年(2012年)にも自家用車で駅舎を訪ねているが、衰退する様子を感じるものの、線路とホームは昔のままであった。十和田南駅を詠んだ詩があるようで、その詩を記した案内板が立っていた。この駅から花輪線に乗ってみたい憧れが、過ぎ行く時間を取り戻す旅となるであろう。
十和田南駅から毛馬内の中心部までは2㎞ほど離れているが、駅の近くの「錦木塚」が有名である。室町時代の猿楽師・世阿弥が能や謡曲のモチーフにし、平安時代には能因法師が和歌にも詠んだことから歌枕の地でもある。錦木の伝説は、奈良時代か平安時代初期の頃、政子姫という美しい娘と若者の悲恋を描いた物語である。政子姫の美しさに魅了された若者が、毎日毎日、求婚のしるしに錦木を姫の門の前へ立てた。雪の降る日も1日も休まず千束になる当日、若者は疲労のため急死し、姫はその後を追うように死んだと言う。姫の父親は2人の死を哀れに思って、千束の錦木と一緒に夫婦の墓として葬ったと言う。
文化4年(1807年)、54歳の菅江真澄は2度目の鹿角訪問の折、毛馬内に7月から9月までの3ヶ月間も滞在し、錦木塚も取材してスケッチしている。その絵で、囲いの中の石が錦木塚のようで見える。他にも地理学者・古川古松軒や探検家・松浦武四郎が江戸時代に訪ねている。明治34年(1901年)には、16歳の石川啄木が金田一京助から錦木塚の伝説を聞いて訪ねている。その折に「錦木塚」と言う長詩を詠んでいるが、更に周遊した十和田湖での短歌が有名となったので、錦木塚の長詩は記念碑として記されていない。
056JR東日本五能線(能代駅~岩舘駅) 能代市・八峰町
現在の秋田県には、秋田新幹線、奥羽本線、羽越線、五能線、男鹿線、花輪線、田沢湖線、北上線の8路線がJR東日本の営業となっていて、秋田内陸縦貫鉄道と由利高原鉄道の第3セクターの営業である。北海道に比べると、廃線となった路線は少なく、鉄道を走る機関車や電車は絵になるし、子供たちも大人たちもその風景に憧れる。
平成6年(1994年)に淡交社から出版された本に「鉄道の旅100選」があるが、その中で選ばれた秋田県内の鉄道は、五能線、北上線、小坂鉄道、秋田内陸縦貫鉄道、田沢湖線の5路線であった。小坂鉄道は平成21年(2009年)に廃線になったため、現在は4路線が残っている。JR東日本の「五能線」は、秋田県の東能代駅と青森県の川部駅の区間、147.2㎞が路線距離である。停車駅は43駅あって、秋田県には11駅が存在する。54番目で「能代駅」については紹介したので、秋田県内の所属する残りの五能線の駅を紹介したい。
南側から駅名を列記すると、奥羽本線の駅でもある東能代駅、能代駅、向能代駅、北能代駅、鳥形駅、沢目駅、東八森駅、八森駅、滝ノ間駅、あきた白神駅、岩舘駅となる。東能代駅は鉄筋造平屋建ての直営駅で、乗車人員は488人/日、檜山城跡や能代川が近い。能代駅は一部鉄骨造の木造2階建ての業務委託駅で、乗車人員は399人/日、旧料亭の金駒が名所。向能代駅は木造平屋建ての業務委託駅で、乗車人員は30人/日、能代港や能代温泉がある。北能代駅は貨車を改造し駅舎の無人駅で、昔の駅名は羽後東雲駅であった。
鳥形駅からは山本郡八峰町となり、鳥形駅は駅舎のない無人駅で、近くに道の駅みねはまやポンポンコ山公園がある。沢目駅には木造一部2階建ての新しい駅舎であるが、これは商工会館と待合室を兼ねていて駅は無人駅である。東八森駅は白いカプセル式の駅舎の無人駅で、かつては潮浜温泉と呼ばれたあきた白神温泉が直ぐ側にある。八森駅は山小屋風の木造2階建てで、白神八峰商工会が併設されるが駅は無人駅である。旧八森町の中心に近く、乗客で賑わっていた時代が脳裏に浮かぶようだ。滝ノ間駅は駅舎のない無人駅ではあるが、滝ノ間海水浴場があることから待合所とトイレはあるようだ。
あきた白神駅はプレハブの駅舎で、他にあきた白神中央管理センターが隣接していて、駅の業務を行っているようだ。乗車人員は29人/日となっていているが、無人駅が多いために乗車人員の把握は難しい。あきた白神駅の跨道橋を渡ると、八森いさりび温泉ハタハタ館があり、あきた白神体験センターや御所の台ふれあいパークが近くにある。岩舘駅が秋田県最終の駅となるが、木造平屋建てのレトロな駅舎は平成22年(2010年)にリュニューアルされたと言う。現在は無人駅となっているが、青森との県境には道の駅はちもりがあり、佐竹の殿様が絶賛もした名水・お殿水もある。
五能線に関して言えば、青森県側の海岸線が優れていて、「車窓の絶景100選」には艫作から千畳敷間が選ばれている。その中に「みちのく温泉」があって、桜の季節に宿泊したが、露天風呂の前を五能線の車両が走って行くのである。こんな絶景は日本中を探してもないと衝撃を受けた。しかし、みちのく温泉は平成28年(2016年)頃に廃業したと聞いてショックであった。そこを走っていた五能線が消えたら、夢も希望もなくなってしまう。
057秋田内陸縦貫鉄道(角館駅~鷹巣駅) 仙北市・北秋田市
50年ほど前の昔、「秋田内陸縦貫鉄道」は鷹ノ巣と角館を結ぼうとした事から、頭文字をとって「鷹角線」と呼ばれていた。しかし、秋田内陸縦貫鉄道の歴史を調べると、波乱に富んだ開業が見えて来る。国鉄時代の昭和38年(1963年)10月、阿仁合線(鷹ノ巣~比立内間)が開通し、昭和45年(1970年)11月に角館線(角館~松葉間)が開業した。国鉄の分割民営化が進む中、阿仁合線の廃止が決定すると、第3セクター方式による秋田内陸縦貫株式会社が昭和59年(1984年)10月に設立されて鉄道事業は継続される。
昭和61年(1986年)11月、阿仁合線は秋田内陸北線となり、角館線は秋田内陸南線となった。そして平成元年(1989年)4月に全線(92.2㎞)が開通し、悲願であった鷹ノ巣と角館間が結ばれる。その後の経営状況は、人口減少によって乗車客は年々減って累積赤字が続き、厳しい経営となっている。平成29年(2017年)11月には、「スマイルレール秋田内陸線」の愛称が付けられて奮闘している様子であるが、先行きが見えない情況に変わりはない。
現在の秋田内陸縦貫鉄道には29ヶ所の駅があるが、直営駅が3駅、業務簡易委託駅が3駅、無人駅が23駅となっている。角館駅は木造平屋建てのシンプルな駅舎で、令和元年(2019年)の乗車人員は517人/日である。阿仁合駅は木造2階建ての三角形の駅舎で、平成14年 (2002年)、「東北の駅百選」に選ばれている。阿仁合駅の平成29年(2017年)の乗車人員は135人/日と少なく、車で駅舎を訪ねる観光客が多いようである。鷹ノ巣駅の駅舎は木造平屋建てあるが、構内はJR東日本のノ鷹巣駅と共用しているようだ。鷹ノ巣駅の令和元年(2019年)の乗車人員は565人/日と、秋田内陸線の中では利用頻度が一番高い。
無人駅を除く業務簡易委託駅の3駅を紹介すると、阿仁前田駅は鉄筋CR造2階建てで、改札口と温泉施設「クウィンス森吉」の1階にある。阿仁前田駅の平成29年(2017年)の乗車人員は92人/日と少ないが、「東北の駅百選」にも選ばれていて、阿仁前田地区の中心的な駅となっている。合川駅は木造平屋建ての駅舎で、旧合川町の名前を残す駅である。近くには北欧の杜公園があるものの、平成29年(2017年)の乗車人員は112人/日と、辛うじて100人台を維持している。米内沢駅は旧森吉町の中心部で、平成29年(2017年)の乗車人員は135人/日となっているが、駅周辺に名所旧跡がないので観光客は下車しない。
秋田県人は商売が下手で、宣伝が苦手とよく言われるが、全くその通りであって「殿様商法」が殆どである。一般的にお金を支払う立場の客が優位であるのに、秋田県の昔の商人は「売ってやっているのだ」と言う意識が強く、客を客とも思わなかった時代が続いた。そこに登場したのが、全国ネットで商売をする量販店の出店である。特定の顧客を持たない商店は店を閉じ、殿様商法は存在しなくなったが、鉄道にはそのイメージが残っている。
新潮社から出版された本に、「日本の鉄道・車窓絶景100選」があるが、その中で秋田県が関わる鉄道は3路線が選ばれていた。五能線の艫作駅~千畳敷駅間、花輪線の松尾八幡平駅~-安比高原駅間、秋田内陸縦貫鉄道の阿仁マタギ駅~阿仁前田駅間であった。五能線も花輪線も秋田県外で、秋田内陸縦貫鉄道は唯一、秋田県内に属している。阿仁マタギ駅から線路は打当川に沿い、比立内駅から阿仁前田駅までは阿仁川を眺めながらの景色である。
058由利高原鉄道鳥海山ろく線(本荘駅~矢島駅) 由利本荘市
秋田県には秋田内陸縦貫鉄道の他に、第3セクター方式による鉄道、「由利高原鉄道鳥海山ろく線」がある。この鉄道も、秋田内陸縦貫鉄道ような波乱に満ちた歴史の中で存続している。大正5年(1916年)に横手鉄道が発足し、内陸の横手と日本海の本荘を結ぶ「横荘線」が計画された。大正7年(1918年)には先ず、横手と沼館間が開通し、昭和5年(1930年)には横荘鉄道東線が横手から老方まで38.2㎞が開業した。横荘鉄道西線は大正11年(1922年)、本荘から前郷まで11.7㎞が開業した。しかし、横手鉄道から横荘鉄道、羽後鉄道から羽後交通に社名変更し、鉄道事業からバス事業にシフトする。
私の実家が横荘線の浅舞駅前にあったが、昭和46年(1971年)7月に廃止となって列車も駅舎も姿を消した。一方、昭和12年(1937年)には、横荘鉄道西線は国鉄に買収されて、前郷から羽後矢島まで延伸されて「矢島線」として路線変更となった。昭和60年(1985年)、矢島線は廃止されることになったが、第3セクター方式の由利高原鉄道に譲渡されて存続する。羽後本荘駅から矢島駅までの23㎞、子吉川沿いを紆余曲折しなが走行する。晴れた日には車窓より鳥海山が望め、秋田内陸縦貫鉄道と共に鉄道遺産として残したい。
由利高原鉄道には、羽後本荘、薬師堂、子吉、鮎川、黒沢、曲沢、前郷、久保田、西滝沢、吉沢、川辺、矢島の12ヶ所の駅があるが、駅舎のある駅は8駅あって、その駅舎の建物、周辺の施設、平成30年(2018年)の乗車人員を見てみたい。
出発駅の羽後本荘駅は、JR東日本の羽後本荘駅の駅舎、構内を往時のまま共用している。平成30年(2018年)の乗車人員は277人/日と少なく、ラッピングした車両で有名であるが、赤字経営が続いているようだ。薬師堂駅は無人駅であるが、小さな御堂風の駅舎で瓦屋根の旧駅舎が残され、乗車人員は83人/日である。子吉駅は簡易郵便局を兼ねた駅舎で、ここも平屋の旧駅舎が残され、乗車人員は23人/日と少ない。鮎川駅は無人駅であるが、瓦屋根の駅舎があって乗車人員は54人/日、廃校となった鮎川小学校を整備して開館した「鳥海山木のおもちゃ美術館」は好評である。黒沢駅も駅舎のある無人駅で、乗車人員は10人/日。
前郷駅は旧横荘鉄道西線の最終駅で、旧由利町の玄関口とあって、平屋建てながら立派な駅舎である。乗車人員は146人/日と中間停車駅では利用率が高い。駅の近くには「由利の里交流センターゆりえもん」の温泉施設があって、子吉川を渡った先には、森子大物忌神社の社殿と鳥海山の遥拝所がある。西滝沢駅は無人駅で瓦屋根の小さな駅舎で、乗車人員は60人/日、川辺駅も無人駅であるが切妻の二重屋根の立派な駅舎があって、乗車人員は40人/日である。いずれにしても、木造の小さな駅舎を見るのも楽しい鉄道である。
最終駅は矢島駅で、由利高原鉄道鳥海山ろく線の牙城に相応しい駅舎を兼ねた本社でもある。木造2階建てのモダンなた建物で、「東北の駅百選」に選ばれている。乗車人員は284人/日と最大であるが、秋田内陸縦貫鉄道の鷹ノ巣駅の565人/日に比べると、半数である。
矢島駅のある矢島は、四国の雄藩・生駒家17万石を没収されて、勘忍料として与えられたのが矢島領であった。1万石にも満たない小さな城下町であったが、陣屋跡や寺院、造り酒屋などに応時を偲ぶ魅力は残されていて、由利高原鉄道と共に残って欲しい遺産である。
059檜山城(国史跡) 能代市檜山
秋田県には城郭や陣屋の史跡が55ヶ所ほどあるが、その中で国の史跡に指定されている城郭は4ヶ所ある。「檜山城」は米代川の支流・檜山川の南に位置する標高147mの山城である。「霧山城」や「堀ノ内城」の別名もあって、城下は羽州街道が南北に縦走する宿場町でもある。檜山城は室町時代の康正2年(1456年)、檜山安東氏の4代当主・安東政季、5代当主・忠季の父子によって築城されたとされる。安東氏は平安時代中期の奥州の武将・安倍貞任の子孫とも言われ、秋田県北部一帯で勢力を誇っていた。
檜山安東氏の8代当主・愛季は、戦国時代に武将として活躍して安東氏の最盛期を構築する。名字を安東から秋田に変えて秋田愛季を名乗ったが、天正15年(1587年)、角館城主・戸沢盛安と戦っていた陣中にて48歳で病死する。その後、江戸時代になると、秋田氏は常陸国(茨城県)宍戸に転封となり、かわりに常陸から佐竹氏が秋田領に入った。
武蔵国の豪族・多賀谷氏出身の多賀谷宣家が城代として1万石で入るが、江戸幕府の一国一城令によって元和6年(1620年)に廃城となる。多賀谷氏は代々、檜山宿の代官としてとどまり、明治維新をむかえている。明治になると、檜山は政治や文化の中心となって栄え、民謡の「秋田音頭」で唄われる納豆が名産品となっている。
昭和55年(1980年)に檜山城跡を中心に、茶臼館跡、大館跡、国清寺跡が「檜山安東氏城館跡」として国の史跡に指定された。茶臼館は檜山城の西にあった支城で、津軽の北畠氏が築城したと伝承される。大館は古くはアイヌ人の城郭であったシャシとされるが、そのことを指摘したのが他ならぬ菅江真澄であった。真澄は蝦夷(北海道)に渡って実際にシャシを見ているので、大館跡に土塁などにシャシとの共通点を感じだのであろう。国清寺は安東氏の菩提寺であったが、安東氏の転封によって廃寺となった。多賀谷氏は茶臼山に居館を築き、多宝院を建立して菩提寺とした。
福島県の三春町を何度か訪ねたが、三春藩には秋田愛季の孫・俊季が常陸国宍戸から5万石で転封されていたのであった。秋田愛季を祖に秋田氏は15代続き、最後の藩主・一季まで三春を領地とした。「三春町歴史民俗資料館」に入ると、秋田氏の細やかな歴史が紹介されていて、秋田県で伝えられていない史実もあって興味津々に見学した。
再び檜山に目を向けると、三春は城下町として面影があって観光客が多いが、檜山の城跡を訪ねても閑散としている。国の史跡であっても関心を示されないは、来て欲しいと願う熱意が希薄だからであろう。地元の人々がふるさとの歴史にオンチであることと、歴史に残る遺跡を活用することを考えて欲しい。
安東氏のゆかりの寺院として浄妙寺があるが、この寺の山門は檜山城の城門(薬医門)であったとされ、寛永11年(1634年)の建築である。母体八幡神社は秋田愛季の再興し、近くには北限のモミの自生地があって県の天然記念物である。羽州街道の面影を残す遺産としては、鴨巣一里塚が残っていて、檜山追分には黒松の並木が残っている。いずれも県の史跡に指定されているが、私も含めて殆どの人に知られていない。魅力的な遺産がたくさんあるのに、「檜山納豆」以外は評価されないて現実に肩を落すだけである。
060脇本城(国史跡・続日本100名城) 男鹿市脇本
城郭の築城の目的は、外敵からの侵攻を防ぎ、その地域の安寧を守ることが目的である。中世から見晴らしの良い高台や小山の山頂を選んで築城されて来たのが山城で、その中でも海に面した山城は全国各所に点在する。秋田県において、海に面した大規模な城郭は男鹿半島の「脇本城」に他ならない。
脇本城は戦国時代の天正5年(1577年)頃、檜山城主・安東愛季によって改修されたとされるが、それ以前の築城者は不明である。前項でも紹介した愛季は、現在の秋田市土崎を領していた湊安東氏を併合して檜山安東氏の絶頂期を構築する。檜山城は長男の業季に譲って、湊城との中間に位置する脇本城を愛季は居城とするのである。しかし、愛季が淀川で没すると、城主となった次男・秋田実季は12歳と若く、一族の謀反もあって長男亡き後の檜山城に移っている。江戸時代となった慶長7年(1602年)に実季は、常陸国の宍戸藩初代藩主となって転封したため、脇本城は廃城となったのである。
男鹿半島には何度となく訪ねているが、脇本城跡が脚光を浴びるのは最近のことで、平成16年(2004年)に国の史跡に指定されたことと、平成29年(2017年)には㈶日本城郭協会が選定した「続日本100名城」に選ばれたことで有名になった。何気なく車で走っていた国道101号線の生鼻崎トンネル上に脇本城跡があったことが何よりも驚きであった。
脇本城は日本海に張り出した標高110mの生鼻崎にあったため、生鼻城とも呼ばれる。入口の坂道には、菅原神社があって駐車場にはプレハブ案内所と簡易トイレが建っていた。「続続日本100名城」に選ばれてにわかに設置された様子で、各所に案内板も立てられていた。「日本100名城」の場合、スタンプ帳が販売されていて、スタンプラリー化していたが、「続続日本100名城」も同様にスタンプが置いてあった。「日本100名城」は最近になって制覇したが、スタンプの収集はしていない。城郭に関しては、絵葉書、パンフレット、キーホルダー、手形などは必ず購入して登城の記念品としている。
脇本城跡は芝などの広大な草地となっていて、土塁や空堀が点在し、内館などの曲輪跡、井戸跡、虎口(城門跡)が残されている。史跡指定の面崎は、約130ha(1,287,383㎡)と東北最大級の規模である。江戸時代の地震によって海中に沈下した城跡もあったと聞いて、驚く広さである。生鼻崎の突端に立つと、弓なりに伸びた男鹿半島の海岸線が実に美しい。海を眺めるだけでも楽しいのに、ここが戦国時代の城跡と思うと感慨もひとしおとなる。
文化元年(1804年)には、51歳の菅江真澄も菅原神社と脇本城跡を訪ねていて、「男鹿遊覧記」に記している。菅原神社は菅原道真公を祀る神社であるが、一般的には天満宮や天神社と呼ばれることが多い。脇本の菅原神社は安東氏の創建で、当初は脇本城の内館にあった社殿を愛季が現在地に遷したとされる。神社には樹齢400年以上の「細葉の椿」と称される古木がある。それを眺めた真澄は、「生い茂る 細葉の椿 ふとまにの うらなみかけて 八千代経ぬらし」と詠じている。城跡を訪ねた真澄は、安東友季と秋田実季の対立の逸話を記し、太平山、森吉山、姫ヶ嶽を一望したとも記している。姫ヶ嶽は阿仁にある標高650mの姫ヶ岳と思われるが、いずれの山も訪ねているので印象深かったようだ。
061秋田城(国史跡・続日本100名城・日本の歴史公園100選) 秋田市寺内
昭和54年(1979年)5 月、高清水公園の名で知られていた「秋田城」を初めて見学した。この頃は発掘調査事業が行われていて、ベールに包まれていた城郭の規模が次第に明らかにされていた。江戸時代中期、菅江真澄は寺内地区の民家に滞在して城跡を調査している。その結果、高清水の丘が秋田城の所在地であったことを発見するのである。明治以降の調査研究の結果、昭和14年(1939年)に国の史跡に指定される。
奈良時代の天平5年(733年)、秋田城は山形県庄内地方にあった出羽柵が移転して構築された。出羽柵は和銅2年(709年)、元明天皇の時代で翌年には藤原京から平城京に遷都されている。天平5年は聖武天皇の時代で、出羽柵から100㎞も北に移転したのは、同時期に交流のあった渤海国との関わりが有力視されている。秋田城の近くには古代から土崎湊があって、渤海の使節団を歓待したと考えられている。
平成元年(1989年)から国の補助によって、発掘調査と共に復元事業が行われ、古代沼が復元される。平成10年(1998年) には外郭東門と築地塀が復元され、「秋田城跡歴史資料館」が平成28年(2016年)に開館した。資料館の見学を兼ねて久々に訪ねてみると、史跡公園として整備され、秋田城の全貌が手に取るように理解できた。史跡面積は約90ha(893,733㎡)で、政庁区域(東西94m×南北77m)と外郭(東西・南北約550mの不正方形)に区分される。外郭の中で、日本最古の水洗トイレと称される遺構が復元されていたのは驚きであった。
政庁跡も鮮明に区画されていたが、その復元には更なる歳月を要するだろうが、未来に残す遺産として復元して欲しい。資料館にはリアルな復元ジオラマがあったので、カメラに収め資料とした。秋田城の発掘調査では大量の遺物が発見されているが、和銅開珎の銀銭が展示されていた。平安時代初期の兜が復元されていて、真澄さんに見せてやりたい。
秋田城にはどんな人物が関わったのか調べると、鎮狄将軍(征狄将軍)が奈良朝廷から派遣されていた。鎮狄将軍は蝦夷征討のため日本海側を北に進む軍隊の名称で、太平洋側を進む軍は征夷将軍(征東将軍)と呼ばれていた。四国や九州に向う軍は征西将軍(鎮西将軍)で、時代によって名称は変わっている。武士の棟梁の代名詞となった征夷大将軍は、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて任じられ、その副使は有名な坂上田村麻呂であった。
鎮狄将軍に最初に選ばれたのが佐伯石湯で、遣新羅大使・佐伯麻呂の子である。石湯は越後を平定してから秋田城に入ったとされる。天平宝字4年(760年)、「阿支太城」と表記されていた名称が「秋田城」に改称される。宝亀11年(780年)に安倍家麻呂が出羽鎮狄将軍に任じられて秋田城に入っている。家麻呂の提言によって、防衛強化が図られて出羽国には国司が派遣され、「秋田城介」と称される。
菅原道真の進言によって遣唐使船は寛平6年(894年)に廃止され、渤海国が延長6年(928年)に滅亡する。天慶2年(938年)、蝦夷の俘囚による天慶の乱が勃発すると、秋田城介・源嘉生が戦闘に関わっていた。その後、秋田城は役割を終えたようで、10世紀後半の980年代に廃城となったようである。平成10年(1998年)、高清水公園は「日本の歴史公園100選」に、平成29年(2017年)、秋田城は「続日本100名城」に選ばれた。
062久保田城(千秋公園・日本100名城・日本桜の名所100選) 秋田市千秋
秋田県を代表する城跡と言えば、秋田藩佐竹氏20万石の居城であった、「久保田城」となるであろう。子供の頃から秋田市に来ると、秋田駅に近かったこともあって必ず立ち寄ったものである。当時から城跡は、千秋公園と呼ばれていて、大森山に動物園が移転する前は千秋公園にあった。秋田市内の会社に勤務していた頃、メーデーの日は千秋公園で花見をするのが恒例であった。千秋公園は「日本桜の名所100選」に選ばれていて、ヤマザクラやサメイヨシノが約770本植えられている。城郭や城跡にサクラは不可欠で、日本桜の名所100選の内で28ヶ所は城郭や城跡で、天守や櫓に寄り添うサクラは実に美しい。
慶長5年(1600年)の関ヶ原において、佐竹氏19代当主・佐竹義宣は分家の義久を東軍の徳川家康方に援軍するも、本人は水戸を動かず日和見的な態度で傍観した。その結果、常陸一国54万石から左遷に近い状況で、秋田への国替えとなった。ただ当時の領地の石高は不透明で、実高は約40万石であったとされ、鉱山資源を含めると相当の経済力であった。
久保田城は矢留城とも称され、慶長9年(1604年)に義宣が神明山(40m)に構築した平山城である。江戸幕府の警戒心をとくために遭えて天守は築かず、三層二階の御隅櫓が久保田城のシンボルタワーであった。津軽氏の弘前城も同じで、三層の三階の小天守であったことと共通する。外様でも伊達政宗の仙台藩は別格で、幕府に遠慮するのが外様にあった。
佐竹の殿様で最も聡明であったのは、8代藩主・義和であろう。米沢藩主・上杉鷹山、白河藩主・松平定信と並び、江戸中期の「三名君」と称された藩主であった。弘前藩から幕府のスパイと怪しまれ追放された菅江真澄を迎え入れたのが義和で、藩校「明徳館」も設立している。しかし、41歳の若さで病死し、62歳の真澄を悲しませることになる。
立藩から266年目の明治元年(1868年)、秋田藩は奥州列藩同盟に加わらず、明治新政府を支持したため、庄内藩と盛岡藩からの攻撃を受けることになる。明治新政府の主導した長州藩と薩摩藩は、関ヶ原の合戦で敗北した歴史があり、秋田に国替えとなった佐竹氏も同調しアンチ徳川幕府となったのである。この頃の古写真を見ると、久保田城には城郭の建物が残っていたが、廃城と共に建物は売却や棄却されて、土地の所有は陸軍省に移った。
明治23年(1890年)、陸軍省から元の所有者・佐竹氏に城跡が払い下げられた。本丸や二の丸跡を秋田市が借り受け整備し、旧藩士たちがサクラの苗木1,170株を植林した。明治末期に城跡の管理が秋田市から秋田県に移管されると、八幡秋田神社(現彌高神社)が創建され、城跡の全域が千秋公園として整備される。昭和59年(1984年)には、佐竹氏の35代当主・義栄氏の意志によって城跡の約14.6ha(146,000㎡)が秋田市に寄贈される。
土類や堀などが残る久保田城であったが、平成元年(1989年)に御隅櫓(本丸新兵具隅櫓)が復元され、平成13年(2001年)には本丸表門が復元される。江戸時代の城郭は公園の造成のため破壊され、国や県の史跡を受けていないが、平成18年(2006年)に「日本100名城」に選ばれた。東北では他に青森県の弘前城と根城、岩手県の盛岡城、宮城県の多賀城と仙台城、山形県の山形城、福島県の二本松城・会津若松城・白河小峰城の9ヶ城が選ばれているだけなので、「日本桜の名所100選」の13選よりも少なく、名誉ある100選である。
063払田柵(国史跡) 大仙市払田
明治末期の頃、旧千屋村(現美郷町)で耕地整備が行われた際、水田からたくさんの木片が発見された。大正8年(1919年)、文筆家で六郷町長であった後藤宙外は、木片は文字が書かれた「木簡」であることを知って研究調査を進める。昭和5年(1930年)に文部省による調査が始り、「払田柵」の存在が明らかになって、翌年に国の史跡に指定される。本格的な発掘調査の前に史跡に指定するのは、開発を防ぐ目的もあって秋田県では最初であった。
昭和49年(1974年)に「払田柵跡調査事務所」が開設され、本格的な遺跡調査が行われた。真山と長森の丘を囲むように払田柵は築かれ、外郭は東西約1,370m、南北約780mで、面積は約87.8ha(878,000㎡)と東北でも最大級である。築城年代は、9世紀初頭(平安初期)で陸奥国の胆沢城や志波城と同時代とされる。出羽国には酒田に城輪柵があったことが立証されたが、天平宝字4年(760年)に秋田に築城されたとされる雄勝城の所在は不明である。宮城の多賀城と秋田城との中間に築かれたとされ雄勝城であるが、払田柵が雄勝城ではなかったかと推定する歴史学者もいる。しかし、年代的には40年ほどのタイムラグあって、雄勝城は雄物川流域、雄勝郡羽後町の水田に眠っているような気がしてならない。
払田柵の外郭南門が平成6年(1994年)に復元された頃、見学したことがあったが、仙北温泉柵の湯を訪ねた際、25年ぶりに見学してその広さに驚いた。南門から北門まで大路が整備され、長森の丘の上に政庁の建物跡が区画されていた。その一角に菅江真澄の足跡を示す白い標柱が立っていて、あれよと思った。江戸時代の古代の払田柵があったのは知られておらず、真澄は真山の城跡や長森にあった八幡宮を訪ねたようである。
真山には戦国時代、角館城主・戸田氏の支配下にあった堀田氏の居城・堀田城があった。真澄が来訪した時は三本の大杉、早坂の清水、大日如来を館神に祀っていた堂宇が本丸跡にあったようだ。大日如来堂は大正時代に高梨神社に改められ、社殿の彫刻は円満造の屋号で知られる高橋市蔵の作品である。城跡の三本の大杉は、一本だけ姥杉として現在も残っている。しかし、真澄のスケッチのような迫力は、神木となった現在の姥杉にはない。
真山の一帯は真山公園となっていて、旧払田池田氏の回遊式庭園が平成20年(2008年)に国の名勝に追加指定された。その面積は1.8ha(18,000㎡)と、本家庭園の半分弱の広さである。古代の遺跡から明治・大正の遺産がある大仙市払田地区は、秋田遺産に相応しい。
払田柵の南門の近くにある駐車場には、小さな案内所が建っていて、無料の案内書やパンフレットが置かれていた。史跡のパンフレットを収集するのが最大の楽しみで、城郭のパンフレットだけでも段ボール1箱分はある。
払田柵跡の道路を隔て先に、「秋田県埋蔵文化財センター」があったので入った所、係員の女性が出て来て、「マスクをして下さい」と言われて車に戻ってマスクをして再入館した。コロナウィルスの影響で、入場者に予防策を強要するのは仕方ないにしても今度は、住所は電話番号まで訪ねて来る。全国各地の博物館や資料館を回って来たが、無料であっても根掘り葉掘りと聞かれることはなかった。私以外に来館者がいないのに、マニュアル通りの応対しかできない係員に深く幻滅し、見学しないまま私は車に引きかえした。
064金沢柵(金沢公園) 横手市金沢
もう47年も昔の話になるが、長野県の志賀高原スキー場でアルバイトしていた頃に知り合った淡路島出身の知人が、私の実家の浅舞(現横手市)に訪ねて来た。その時、奥羽本線の「後三年駅」の駅名を目にして、恐ろしい駅名に驚いたと知人は言っていた。「後三年」を「あとさんねん」と読み違いしたようで、歴史を知っていれは理解できたと思うが、読み違いをする駅名や地名は全国各地に非常に多い。
翌日に車で知人を後三年駅から「金沢柵」を案内して、平安時代中期に興った「後三年の役」の内戦を説明した。一般的に人は、平安時代末期の源頼朝・義経の兄弟の名は知ってはいるが、その先祖である八幡太郎義家こと源義家の名はあまり知らない。しかし、源氏の棟梁で秋田に入ったのは義家だけで、親近感を覚えるは秋田県人だけであろうか。
後三年の役は、源義家・藤原清衡軍と、清原家衡・清原武衡軍が沼柵(沼館)と金沢柵を主戦場に、永保3年(1083年)から寛治元年(1087年)まで4年間に及んだ一族の内戦であった。家衡は清衡の異父弟で、武衡は家衡の叔父であった。義家の父・頼義と武衡の父・武則は、朝廷の命によって、前九年の役で陸奥の安倍一族を滅ぼす。その時、藤原経清の遺児となったのが清衡で、母が清原武貞の室となって家衡が生まれた。清原一族に権力争いが始まると、陸奥守となった源義家が加担することになる。
沼柵に籠る家衡軍を義家と清衡の連合軍は攻撃するも冬将軍の到来に敗北を余儀よくされる。家衡軍には叔父の武衡が加わり、平城の沼柵から山城の金沢柵に城郭を遷して守りを拳固にした。寛治元年(1087年)、連合軍では義家の弟・義光が活躍し、兵糧攻めで勝利している。金沢柵は現在の金沢公園(金沢城)が比定地とされているが、決定的な出土品がないため、国や県の史跡にもなっていない。
金沢柵跡には寛治7年(1093年)、義家が清衡に命じて創建させた金沢八幡神社がある。清衡は奥州(陸奥国)の覇者となって、平泉に仏都の礎を築いた。沼柵の遺跡は空虚な歴史に埋没したが、現在の沼館にある蔵光院が本城跡とされる。金沢公園には八幡神社の他に、景正功名塚や兵糧庫跡が残っていて金沢柵跡の可能性は非常に高い。
室町時代の長禄2年(1458年)、陸奥の南部氏が金沢城を築き、戦国時代は小野寺氏の居城となった。江戸時代になって佐竹氏が秋田に入った際、金沢城も久保田城と共に居城の候補地となったが、最終的には久保田城が選ばれ、大規模な城下町が建設されて秋田の中心として発展するのである。佐竹氏は源義光を先祖といているので、不思議な縁がある。
歴史研究家でもある菅江真澄は、75歳の高齢にも関わらず、『月の出羽路仙北郡』の執筆の折、金沢柵跡を訪ねて調査とスケッチをしている。後三年の役に関する遺跡や「後三年合戦絵詞」の巻物を見ては、独自の歴史解釈や印象を述べている。江戸時代における「後三年の役」の評価を知る上で、貴重な歴史資料でもある。
金沢柵跡の近くには、横手市が平成3年(1991年)に開館させた「後三年合戦金沢資料館」があって、後三年の役を知る手がかりとなる。城外戦となった西沼には、「平安の風わたる公園」が開設され、三連の太鼓橋は応時と関わりがないが、雁の乱行に因んでいると聞く。
065大鳥井柵(国史跡) 横手市大鳥
国の史跡と言っても、一般の人々には興味がないと思われるが、歴史好きの旅人にとっては訪ねて見たい名所旧跡の選定基準と言える。「大鳥井柵」は、テニスコートや屋外プールなどがある旧横手市の総合運動公園で、「大鳥井山遺跡附陣館遺跡」として国の史跡に指定されたのは、平成22年(2010年)2月である。陣館遺跡は金沢柵の近くのあった小さな丘で、清原武則の館跡とも言われる。現在は私有地となっているため、立入り禁止である。
総合運動公園の開発当初、遺跡があったことが明らかになって、昭和52年(1977年)から昭和58(1983年)までの7年間、発掘調査が行われた。その結果、南北に約680m、東西に約200m、比高約20mの平山城であることが判明した。西面の境界には横手川(旭川)となっていて、川に面していない三方向は土塁と堀で囲まれた。土塁は幅10m、高さ2mで、堀は幅8~10m、深さ3~3.5mと平安時代の築造としては前例のない規模とされる。
大鳥井柵の築造は平安時代後期の1030年頃で、清原光頼と子の大鳥山頼遠とされるが、出羽清原氏の系譜は明確ではない。光頼の父・光方までは知られているが、その先祖は不明である。光頼の弟には、武勇を馳せた清原武則がいる。武則は陸奥守・源頼義と共に安倍一族を滅ぼしたことによって、鎮守府将軍となっている。しかし、頼義の子・義家と後三年の役で戦い敗北し、清原一族は滅びることになる。
大鳥井柵はその後、藤原清衡の三男・正衡によって「関根柵」と改められ、出羽国横手における藤原氏の居館となった。平安時代末期の文治年(1189年)、源頼朝によって奥州藤原氏が滅ぼされると、関根柵は廃城となったようで、歴史に登場することはなかった。正衡の業績としては、八丁という集落に明永山大義寺を建立したことであろう。
その後、居館跡には小さな大鳥井山神社が創建されるが、小高い鎮守の森となって約800年間、人知れず眠っていたが、総合運動公園の建設で、大鳥井柵跡が史跡として整備された。最近になって訪ねてみたが、案内板が少なく埋戻しされた堀跡もあって史跡の有りのままの保存を重視すべきであっと思った。調査報告書を見ると、物見櫓跡、掘立柱建物跡、竪穴住居跡などがあったようであるが、現状ではその場所は特定できない。
藤原清衡は平泉に柳之御所を造営する際、大鳥井柵の館を参考にしたとされる。柳之御所遺跡も国の史跡に指定されているが、その保存については歴史的な判断があった。柳之御所跡は、北上川の防波堤と平泉バイパス工事中に偶然に発見されたもので、旧建設省は遺跡の保存を優先し、バイパスのルート変更をしたと聞く。
城郭史上、希に見る大鳥井柵ではあるが、秋田県も横手市も深く認識していない。と言うよりも遺跡の存在に熱心ではない。お隣りの岩手県では、NHKの大河ドラマ「炎立つ」が放映されて、奥州藤原氏の名を全国区にした。その藤原氏の前の時代を築いたのが清原氏で、その存在を誇りに思うのであるが、関心が薄いのは救われない。
沼館、大鳥、金沢に居館を構えていた清原一族は、陸奥の安倍一族に拮抗する勢力を誇っていたのに、英雄視する風潮は秋田県南にはない。その後の小野寺氏も同様に顕彰碑はあるももの、佐竹氏ほど知られていないのが現状である。
066横手城(天守風展望台・横手公園) 横手市朝倉
山と川のある街をキャッチフレーズに、観光地として人気を高めようとした横手市であるが、「送り盆」や「かまくら」の年中行事がある季節以外は、さほど観光客は集まらない。集まらないのは、「つまらない」からで、横手の特徴である殿様商売が根底にある。商人は農民よりも偉いと自負する風潮があって、心の中で客を客とも思わない、「売ってやっているのだ」と言う気持ちが殿様商売である。そんな横手の繁華街であって「四日町」が衰退した様を見て、「驕れる者久しからず」の諺は現実であったと実感した。
そんな殿様ばかりの横手市内の繁華街をパスし、浅舞から「横荘っこ」で横手に来ると必ず訪ねたのが横手公園であった。春はぼんぼりに屋台もあった桜まつり、夏は避暑を兼ねた牛沼のボート、秋は時代絵巻の菊まつり、冬は唯一のロープトウがあったスキー場を訪ねたものである。そんな横手公園で最も脚光を浴びたのが、昭和40年(1965年)に「横手城」をピーアールするために完成したの模擬天守(天守閣風展望台)である。
この頃の私は、小学校6年生で、「忍者ごっこ」に夢中になっていた時である。展望台の石垣を登ろうとして叱られた思い出がある。他県から来横した知人を最初に案内するのは、横手公園の模擬天守であった。Lの字に蛇行して流れる旭川に架かる蛇の崎橋、その先に聳える鳥海山の眺望は、知人に自慢する最高の景観であった。
横手城の築城に関しては諸説があって確定されていないが、朝倉城(阿桜城)や韮城とも呼ばれ、大鳥井柵が廃城した後、新たな横手の城郭として築かれた。稲庭城を居城としていた雄勝郡の地頭・小野寺氏は、湯沢城、西馬音内城を支城としていた。戦国時代になると平鹿郡にも勢力拡大をして12代当主・稙道は沼館城を築き、13代当主・景道(輝道)は横手城を居城として最盛期を築き、織田信長に謁見したとされる。嫡男・光道が病死すると、次男・義道に家督が譲られるが、南から最上氏に侵略され、北からは戸沢氏に攻められて領地は縮小する。小田原攻めの豊臣秀吉に謁見するが、奥州仕置で3分の1の領地を失い、徳川家康の時代に西軍に加担したため改易となっている。
慶長7年(1602年)、横手城は秋田に転封となった佐竹氏の所有となり、家臣が城代となって入城した。伊達氏、須田氏と城代は変わるが、寛文12年(1672年)に佐竹氏一門の戸村氏になって明治まで続く。江戸時代初期の横手における事件と言えば元和8年(1622年)、宇都宮藩主・本多正純が改易となって、横手の地に流罪となったことであろう。2代将軍・徳川秀忠に疎まれたことが要因で、幽閉されたとは言え、15年間を横手で過ごしている。
明治になると、横手城は廃城となって本丸跡には明治12年(1879年)、初代藩主・佐竹義宣と最後の藩主・義堯を祀る秋田神社が創建された。そして昭和の二の丸跡には、天守風展望台が建てられ、横手城の知名度はアップした。しかし、横手公園の全体を見てみると、菊まつりは秋田ふるさと村に移り、桜まつりの屋台は消え、スキー場は消滅した。そんな公園の中でも、菅江真澄の足跡が残っていれば救われるのであるが、横手城や城下の様子は記していない。辛うじて、『雪の出羽路平鹿郡』の執筆で来横した際、梵天が奉納される旭岡神社の杉と、大屋の梅をスケッチして残している。
067尾去沢鉱山跡(近代産業遺産・日本の地質百選) 鹿角市尾去沢
奈良時代初期の和銅元年(708年)、「尾去沢鉱山」で金や銅が発見されてから、昭和53年(1978年)の閉山まで1270年の鉱山史を刻んで来た。採掘された金や銅は、東大寺大仏殿の鋳造や中尊寺金色堂に用いられたと言われる。江戸時代になると、尾去沢を領していた盛岡藩は、金山が枯渇したため、銅山の開発に切り替えた。その結果、秋田の阿仁銅山、伊予の別子銅山と共に江戸時代における主力の銅山となった。江戸時代初期には、「隠れキリシタン」が鉱夫として潜伏していたが、次第に取締りが厳しくなった寛永20年(1643年)、白根金山では多くのキリシタンが処刑されたと言うエピソードがある。
明治になると、三菱財閥の岩崎家が鉱山経営をすることになって、近代化が図られて生産性は向上した。それでも戦後の高度成長期の鉱物資源を担うために、急激な採掘が行われ、全国各地の銅山などは閉山となる。その頃、三菱マテリアルが鉱山を経営していたが、閉山に伴って、鉱山遺産のテーマパークである「マインランド尾去沢」が昭和57年(1982年)に開業する。十和田八幡平ルートの新たな観光地となって、大型バスがたくさん駐車していた記憶が残っている。石切沢通洞杭コースは江戸時代の鉱山の様子が見学でき、産業遺産コースや砂金採り体験コースなどがあった。
尾去沢鉱山で採掘された鉱石は約3,000万トンとされ、坑道の総延長は800㎞と言うから驚きである。平成19年(2007年)には、経済産業省の「近代産業遺産」に選ばている。平成21年(2009年)には、地質に関する団体が発表した「日本地質の百選」にも選ばれた。三菱マテリアルは、新潟県の佐渡島にある子会社・ゴールデン金山とマインランド尾去沢を統合させ、平成20年(2008年)に「史跡尾去沢鉱山」に名称を変更してリューアルした。この変更によって、尾去沢鉱山跡が国の史跡にでも選ばれたかと錯覚したが、県の史跡にもなっていなかった。いたずらに史跡や名勝を肩書に付けるのは、間違いの原因となる。
ゴールデン金山が運営する佐渡島の「史跡佐渡金山」は、昭和42年(1967年)に国の史跡に選ばれているので文句なしの史跡である。他に鉱山跡が国の史跡となっているものは、宮城県の黄金山産金遺跡、山形県の延沢銀山遺跡、山梨県の甲斐金山遺跡、島根県の石見銀山遺跡、山口県の長登銅山跡と数えるほどしかない。ここに秋田県の阿仁銅山跡、院内銀山跡、そして尾去沢鉱山跡が入っていないのは残念の極みである。史跡などの文化財は、文化庁が勝手に選んでいる訳でもなく、県が指定に向けて答申しないと何も始まらない。
鉱山跡の観光化にはリスクも大きく、大仙市と合併した旧協和町は、マインランド尾去沢を模して荒川鉱山跡に「マインロード荒川」を平成5年(1993年)にオープンさせた。荒川鉱山は明治の中頃、三菱財閥によって本格的な開発が進められ、周辺人口約8,000人の大規模な鉱山町が形成された。しかし、急激な採掘で資源は枯渇し、昭和15年(1940年)に閉山している。その鉱山遺跡を訪ねようとして行くと、平成19年(2007年)に坑道が崩壊して休業したが、観光用坑道の再開は無理と判断されて閉鎖されていた。その点、尾去沢鉱山跡の観光施設は、開業から38年を迎え、更に50年、100年と鉱山遺産としての存続を願うだけである。秋田県に日本屈指の鉱山跡がいくつもあって、その消失は防ぎたい。
068院内銀山跡(県史跡) 湯沢市院内銀山町
尾花沢鉱山跡は「史跡尾去沢鉱山」として多少の観光客は訪ねるようであるが、殆ど観光客が訪ねない鉱山遺跡が「院内銀山跡」である。国道108号線の矢島街道沿いにあるが、年々寂れて行く鉱山跡の景観で、33年前に訪ねた頃は坑道の入口を見物できたが、今は立入られる場所が限られる。院内銀山跡で唯一の建物が金山神社の社殿であるが、神社の名前は地図にも記載がない。神社の例祭の時だけは、院内の住民や関係者が集まるようだ。
院内は銀山で栄えた町で、日本一の産出量を誇った江戸時代後期の天保年間(1830~43年)は、世帯数4,000戸、人口15,000人を超え、秋田藩の久保田城下を凌ぐ都市が出現したのである。諸国から人々が集まり、浪人・商人・芸人・芸妓と、鉱山労務者以外の人々も定住した。寺院は真言宗などの5宗派が11ヶ寺を開基し、金山神社も創建されたと、「院内銀山史跡保存顕彰会」は『院内銀山』の地誌で伝えている。
菅江真澄は天明5年(1785年)の春、32歳の時に院内銀山の銀山町を訪ねている。秋田藩による銀山開発が進む頃で、その様子を見た真澄は「あさつゆを はらえば袖に 玉とちる 光りことなる 白銀の山」と詠み、朝露と白銀のしずくを掛けて、その美しさをたたえた。文化11年(1814年)、61歳の時も『雪の出羽路雄勝郡』の執筆で院内銀山を訪ねている。銀山の様子をスケッチしたようであるが、秋田藩には絵は献納されなかった。鉱山開発は企業秘密の一面もあって、あえて献納から削除したのであろう。
旧銀山町入口、十分一沢川の橋を渡ると、迎えてくれたのが「芭蕉の碑」である。松尾芭蕉翁は私の旅の師匠であり、空海大師と共に最も尊敬する日本人である。院内銀山跡に建つ碑は、「芭蕉翁」と記されているが、在住していた徘徊仲間が150年忌を期して建立した塚碑である。江戸時代から芭蕉翁と所縁のない土地にも建てられ、句碑・塚碑・文学碑などは全国に3,230基もあって、俳諧愛好家にいかに慕われたかが理解できる。
道路を入ると右側に、十分一番所跡・異人館跡・白銀尋常高等小学校跡と連なる。三番共葬墓地には無数の墓石があって、咄嗟に「舎利礼賛」を読誦した。金山神社の社殿は往時のまま残っていたが、御幸杭への入口は通行止めとなっていた。靖国時代の明治14年(1881年)、明治天皇(1852~1912)は院内銀山を御臨幸され、見物した坑道が御幸杭である。昭和6年(1931年)には、国の史跡に指定されたものの、現在は銀山跡の全体が県の史跡となっている。院内銀山とライバル視された島根県の「石見銀山遺跡」は世界文化遺産、隣りの山形県の「延沢銀山遺跡」は国の史跡、何故に格差が生じたのだろう。
33年も前に比べると、見捨てられた鉱山跡と言う状況で、唯一救われたのは神社前広場に立つ、「雄物川源流」の案内板であった。大仙山(標高920m)の山頂近くの大仙中沢が源流と記してあって、雄物川の源流を知り得たことは大きな喜びである。正楽寺跡の案内板があって、院内銀山の発見者の1人・村山宗兵衛が開基した一向宗(真宗)の寺と書かれていた。院内銀山が秋田藩の管轄から明治政府の官営となった時、初代鉱山長が福島晩郎で、明治天皇を御案内した人物でもある。宗兵衛と晩郎の墓があるようだが、源流に架かる歩橋は壊れて参墓もできない有様となっていたのが痛々しく哀れに見えた。
069天徳寺(国重文・県史跡) 秋田市泉山
青森県には恐山、岩手県には中尊寺、宮城県には瑞巌寺、山形県には出羽三山と山寺、福島県には白水阿弥陀堂と、秋田県以外の東北5県では全国的に有名な神社仏閣(寺社)ある。秋田県にも太平山三吉神社の総本宮はあるが全国ネットの神社ではない。秋田県で最も注目したい寺院が、秋田市内にある佐竹家の菩提寺「天徳寺」である。
天徳寺は室町時代の寛正3年(1462年)、佐竹氏12代当主・佐竹義人(義憲)によって常陸太田に創建された。道元禅師が開創した曹洞宗に属し、山号は萬固山と称する。水戸に移転された後、19代当主・佐竹義宣の時、秋田への移封に伴い秋田の楢山(現在の金照寺山)に移された。しかし、寛永元年(1624年)12月、火災によって総門を残し全焼し、泉山に移されるも延宝4年(1676年)には再び全焼する。貞享4年(1687年)、9年の歳月を経て本堂が再建された。焼失をまぬがれた総門は移転当時の慶長7年(1602年)、佐竹家霊屋は寛文12年(1672年)の建築である。その後の堂宇建築としは、書院が文化3年(1806年)、山門が宝永6年(1706年)に建築されている。江戸時代に建築された堂宇4棟と霊屋1棟は、平成2年(1990年)に国の重要有形文化財に指定された。
建築文化財の中で最も重要視されるのが「国宝」で、東北6県の中では国宝建築物がないのは青森県と秋田県だけである。国宝に続く建築文化財は重要文化財になるが、寺院に関して青森県は4ヶ寺にも及ぶが、秋田県は天徳寺だけなので大変貴重な寺である。
天徳寺の参道を進むと、総門前の左側に自然石に刻まれた不動明王と思われる石仏がある。総門は杮葺き切妻造りの四脚門で、築地塀が附帯している。総門から一直線に伸びた参道に聳える山門は、杮葺き入母屋造りの3間1戸の楼門である。仁王像が安置されているので仁王門とも称されるが、仁王像は名君であった佐竹義和が寛政9年(1797年)が寄進している。参道の正面に本堂が建っているが、茅葺き入母屋造りで、間口が約30mもある大建築である。本堂の奥に建つ書院は、鉄板葺きの寄棟造りで、客殿とも称される。上段の間や茶室があるが、観光寺院のように一般公開が行っていないようだ。本堂の西側には、赤い鉄板屋根の佐竹家霊屋が建っている。入母屋造りの主殿に唐破風の前殿を備え、向拝を設けている。霊屋建築には風変りな意匠が多く、天徳寺の霊屋も類似したものはない。
令和2年の現在、本堂、書院、開山堂は平成27年(2015年)から進められて来た修繕工事中で、令和5年(2023年)の完成と聞く。工期が8年と長いのも驚きであるが、工事費が約20億円と言うのも驚きである。完成したあかつきには、再び拝観したいと思うが、それまで神仏に生かしてもらえるかが心配である。
秋田県人の多くは、小学校6年生の修学旅行で宮城県の松島に行き瑞巌寺を拝観する。山形県の山寺(立石寺)も大概の秋田県人は訪ねたと思う。しかし、秋田市内にある天徳寺をどれほどの秋田県人が知っていると言うと非常に少ないと思う。私自身も重要文化財の堂宇でなかったら惹かれなかったと思う。最近では男鹿の雲昌寺があじさいの寺として有名になって、花見の頃は長蛇の列が境内に並ぶと言う。修繕後の天徳寺も人々に愛される観光寺院となって欲しいし、県外からも参詣される佐竹氏ゆかりの寺であるように願いたい。
070唐松神社(県文・県天然記念物) 大仙市協和
秋田県の神社でどこか1社を秋田遺産に選定しようと考えるが、太平山三吉神社は太平山に含まれるので省いた。社殿が国の重要文化財である神社は、秋田県に大館市の八幡神社、男鹿市の赤神神社、潟上市の神明社、大仙市の古四王神社、横手市の波宇志別神社、羽後町の三輪神社の6社ある。大館市の八幡神社以外は、神官や巫女が常駐していない神社で、参拝者が少ないのが難点であった。そこで、御朱印を記帳してもらった経験のある大仙市の旧協和町の唐松神社が相応しい神社として選んだ。
平安時代前期の天元5年(982年)、587年に蘇我馬子に暗殺された物部守屋の末裔・物部氏によって唐松岳に創建されたと言われる。平安時代後期には、源義家が戦勝祈願で参拝し、物部氏の協力もあって前九年の役に勝利する。その恩賞に社殿を修復し、領地を寄進したとされる。当時は修験道が流布されたこともあって、唐松岳は唐松山光雲寺が開基されている。後三年の役で最後に勝利して陸奥守となった義家は、蛇頭神楽の巡業を唐松神社に許可する。それが現在も続く唐松神社の神楽とされ、その後の能舞台へと関連する。
室町時代なると、安東氏によって唐松岳には唐松城が築かれ、神社や寺院はその保護下に置かれた。山の麓には邸宅も築かれ、宗教と城郭が一体化した世界が具現される。戦国時代が終わって安東氏が秋田から消えると、新たに秋田に入った佐竹氏は延宝3年(1680年)、唐松神社の修復に際して、唐松岳から拝殿を現在地に遷している。伝記によると、3代藩主・佐竹義処が乗馬したまま参詣しようとした処、下乗を守らず度々落馬した。その神の所業に怒った義処は、平坦な場所に拝殿を遷したのである。拝殿の中にある奥殿は、移転当時の社殿で、県の有形文化財である。また、参道には植樹された杉並木は、樹齢約300年を経ていて、県の天然記念物に指定されている。
文政9年(1826年)、73歳となった菅江真澄は、『月の出羽路仙北郡』の着稿し、その調査のため唐松神社も訪ねている。明徳館の学者で友人の那珂通博が著した『六郡歳時記』を引用して、唐松神社について述べている。唐松神社の主祭神は息長帯姫命(神功皇后)であるが、三韓征伐の際に船を守護したのが英術太郎で、迦具土神の化身であることで合祀されたと記している。神功皇后の船団が象潟沖で難破をした伝説は聞いたことはあったが、懐妊中に使用した腹帯が唐松神社の神宝で御神体となっているのは知らなかった。そのためか、神社では腹帯が販売され、安産の神として有名なようである。
神仏混合の時代は、唐松権現とも称されていたようであるが、明治の神仏分離令によって、唐松神社は物部氏の邸内神社とされた。その後、郷社に昇格すると一般の人々が参拝する神社へと発展した。特に女性による信仰が高まり、「女一代守神」として全国各地から訪ねる人気スポットとなった。その盛況ぶりに注目した旧協和町は、かつて城跡があった唐松岳の麓に新たな観光施設の設置を計画する。
平成2年(1990年)、ふるさと創生事業の一環として「まほろば唐松中世の館」が建てられ、京都西本願寺の北能舞台(国宝)を模した能楽殿もある。しかし、秋田県では唯一の能舞台で、年2回の能の公演があるようだが施設を運営するのは厳しいと思われる。
071蚶満寺(国天然記念物・国名勝・市文) にかほ市象潟
神功皇后が三韓征伐の帰路、象潟に漂着したことは唐松神社で述べたが、皇后が象潟の地で皇子(応神天皇)を出産したと伝説される。「蚶満寺」には、皇后が衣を掛けた「袖掛けの松」の名もあり、山号の皇宮山は皇后に因んでいる。
蚶満寺は仁寿3年(853年)、天台僧・円仁が東北巡錫中に開基したとれるが、翌年には第3代延暦寺座主となっているので信じ難い面もある。平安時代末期の頃、天台宗から真言宗に改宗され、皇宮山象潟寺(蚶方寺)と称された。正嘉年間(1257~59年)、鎌倉幕府第5代執権・北条時頼(覚了房道崇)が真言宗から臨済宗に改宗して中興したとされる。しかし、前年の弘長3年(1263年)、時頼は鎌倉で死去しているのでこれも疑わしい。天正15年(1587年)、曹洞僧・栄林示幸が師の直翁呈機を再興開山として曹洞宗に改めた。
蚶満寺の名を有名にしたのは松尾芭蕉翁で、元禄2年(1689年)6月に訪れている。その来寺を記念して宝暦13年(1763年)に芭蕉翁の句碑が建立された。象潟の蚶満寺は、芭蕉ファンの聖地となって、寛保4年(1744年)には与謝蕪村が、安永2年(1773年)には平賀源内、寛政元年(1789年)には小林一茶、天明4年(1784年)には菅江真澄が来寺している。真澄が訪ねた頃は、度重なる火災から本堂・庫裡・衆寮・禅堂・鐘楼堂・皇宮殿などが竣工し旧観に復した時である。しかし、文化元年(1804年)に象潟大地震が発生して地蔵堂を残して堂宇は崩壊、象潟島にあった境内は陸地に変貌した。
文化6年(1809年)、本荘藩が隆起した象潟を新田に開墾しようと計画するが、時の住職であった24世・全榮學林が命を賭して象潟の九十九島の保存のため奔走した。その結果、昭和9年(1934年)には、国の天然記念物に指定されて開発の規制が厳しくなった。更に平成26年(2014年)には、芭蕉翁の『おくのほそ道』に関連した所縁の地が国の名勝に指定された。全榮和尚の名を知らない象潟の住民も多く、歴史を知らない住民が哀れに見える。
象潟の半年間住んだこともあって、蚶満寺には雨の日以外は毎日のように境内を散歩した。旧参道の松並木の正面に山門(仁王門)があるが、現在の蚶満寺では最も古い明治2年(1869年)の再建で、にかほ市の文化財になっている。この山門は瓦葺き切妻造り八脚門で、仁王像は、参道の正面に立っているのではなく、互いに向かい合っているのは珍しい。芭蕉翁にあやかってか、袴造りの鐘楼の前に大きな芭蕉が植栽されている。
受付で拝観料を支払い庭園に入ると、親鸞上人の腰掛石、北条時頼公手植えのツツジ、西行桜や猿丸太夫姿見の井戸などあって歴史を偲ぶには事欠かない。舟つなぎの石と象潟島の標柱もあって、昔の島の様子が脳裏に浮かぶようだ。
明治16年(1883年)には、俳句の用語を発案した正岡子規が来寺し、明治の文人墨客の多くが訪ねるようになった。戦後の作家・司馬遼太郎の戦友であったのが、39世住職・碧天能忍で、その縁で昭和61年(1986年)に来寺している。芭蕉ファンは海外にもいて、最近亡くなった米国人のドナルド・キーン氏、元台湾総督・李登輝氏なども来寺している。芭蕉翁は松島と象潟の様子を陽と陰で俳文に記したが、象潟に生まれて松島に死した紅蓮尼の物語は悲話ではあるが、松島と象潟を結び付ける縁となって現在に続いている。
072大湯環状列石(特別史跡) 鹿角市十和田大湯
平成25年(2013年)以降、毎年のように日本から「世界文化遺産」への登録が行われた。昨年の令和元年(2019年)には、大阪府の45件49基の古墳群が指定となって古代の遺跡が選ばれるようになった。古墳時代の次は縄文時代に目を向け、北海道と北東北の3県(青森・岩手・秋田県)の縄文遺跡群が令和2年(2020年)に登録申請された。北海道からは5ヶ所、青森県からは8ヶ所、岩手県からは1ヶ所、秋田県からは「大湯環状列石」と「伊勢堂岱遺跡」の2ヶ所が選ばれた。秋田県においては、世界文化遺産の登録申請は初めてであり、これからの先の観光資源としての活用が期待される。
大湯環状列石は一般的に大湯ストーンサークルと呼ばれていて、昭和6年(1931年)に発見され、戦後になって本格的な発掘調査が行われた。大湯環状列石のある場所は、大湯温泉の南西の舌状台地の先端部に位置する。りんご畑の続く長閑な田園地帯に、突如として縄文時代が出現し、昭和31年(1956年)に国の特別史跡に指定された。
この遺跡は今から約4000年前の縄文時代後期の築造とされ、万座と野中堂の2つの環状列石が主体となっている。万座の最大径は54m、野中堂の最大径は44mと巨大である。因みに大湯環状列石は、北海道小樽市の忍路環状列石、同じく深川市の音江環状列石と共に「日本三大ストーンサークル」と称されている。忍路は長径30m・短径23mの楕円形で、音江の1~10号まであるが最大径は5mとなっている。
大湯環状列石の特徴は立石を中心に日時計状に石組みがされ、三角形をした黒又山(280m)が北東に聳えている。原始宗教の祭祀施設であったと推測されるが、宇宙人との交信に関わった可能性もある。青森県新郷村には人為的な大石神ピラミッドがあるが、黒又山も環状列石との関連性が指摘されている。ペルーにある巨大なナスカの地上絵は、宇宙人が描いた可能性が高いと私は思うが、賛同する人は殆どいない。
初めて大湯環状列石を見学したのは、昭和50年(1975年)の春である。その頃は十和田ユースホステルで働いていたので、花輪に用事あると必ず立ち寄っていたが、小さな資料館に発掘された土器などが展示されていた。その後、27年を経た平成14年(2002年)、鹿角市が大湯ストーンサークル館をオープンさせ、国の特別史跡に相応しいガイダンス施設となった。特別史跡や特別天然記念物など特別扱いされるものは、国宝と同等と考えて良い。
縄文時代の特別史跡は他に、青森県の山内丸山遺跡、千葉県の加曾利貝塚、長野県の尖石石器時代遺跡が指定されている。山内丸山遺跡は観光地として定着して、ねぶた祭りと併せ、不動の名所となっている。大湯環状列石は掘立建物などが復元されているものの、山内丸山遺跡に比べると復元の規模は小さく、宣伝不足は否めない。
秋田遺産に大湯温泉を選んだが、温泉地から大湯環状列石までは約3㎞と、非常に近い距離にある。大湯温泉には、縄文時代をモチーフにした「縄文の宿」があってもいいと思うが、大湯環状列石とコラボしようとする気配が感じられない。好景気に座して滅んだ大滝温泉が身近にあるのに、大湯温泉も仕方ないと思う住民が多いようだ。アイディア1つで世の中は変わって行くのに、何もしないのが良いと思う気質が鹿角にもある。
073杉沢台遺跡(国史跡) 能代市磐
秋田県の遺跡について調べてみると、面白いと思ったのが、国の史跡でもある「杉沢台遺跡」である。縄文時代前期の大集落で、弥生時代から平安時代まで継承された遺跡としては、秋田県では非常に珍しい。古代の遺跡に関しては、国の特別史跡に選ばれた有名な遺跡には興味を示すものの、単なる国の史跡を訪ねる人は少ない。昨年は北海道で半年を過ごし、スキー場と温泉、古代の史跡やアイヌの遺跡を訪問して見学した。縄文時代には、北海道や東北は大きな交流圏で、戦争のない平和な時代が2000年も続いた。
杉沢台遺跡は未だに訪ねたことのない遺跡であるが、ネットや書物で調べるかぎりは、「勝手に秋田遺産100選」に相応しい遺跡であると判断した。秋田県には未だに発見されていない遺跡があって、奈良時代の天平宝字3年(759年)に築造された「雄勝城」は、最大の埋蔵文化財と言える。青森県の三内円山遺跡を凌ぐ縄文遺跡が、秋田県にあった可能性は高い。古代遺跡の多くは、道路工事や大規模な建築工事の際に発見されるケースが多い。
杉沢台遺跡の場所は、米代川下流域の北、竹生川に接した標高約35mの東雲台地北側にある。昭和55年(1980年)に能代開拓建設事業で発見され、すぐさま発掘調査が行われた。竪穴住居跡44棟、食糧の貯蔵穴が109基も発見され、翌年には国の史跡に指定された。遺跡の範囲は36,000㎡(約10,600坪)もあって、昭和56年(1981年)に国の史跡に指定された面積は3,714㎡(約1,124坪)と、遺跡全体の1割ほどである。発見当初、秋田県教育委員会が行った調査面積は4,672㎡であったが、平成15年(2003年)から能代市教育委員会が調査範囲を広めた。その結果、弥生時代や平安時代の遺構や遺跡が発見されて注目された。
縄文時代前期の磨製石斧の石が、北海道日高地方で産出された「アオトラ石」と判明し、この頃既に北海道との交易があったことが証明された。東雲台地の最も高い場所からは、面積が222㎡(約67坪)もある大型の住居跡が発見され、日本最大級とされる。山内丸山遺跡の大型掘立柱建物跡よりも大きく、物見櫓を兼ねていた可能性は高い。
杉沢台遺跡の調査後は、住居跡の復元などの変化はなく、草地の状態で放置されているようだ。能代市には歴史博物館や民俗資料館がないので、出土品の見物はできないようである。未来に歴史遺産を伝えるためには、税金の支出は不可欠である。現在の所、秋田県埋蔵文化センターが保存している出土品は、秋田県立博物館に定期的に展示するようであるが、もう少し工夫が必要である。
秋田県を能代ブロック、大館ブロック、秋田ブロック、大曲ブロック、本荘ブロックの横手ブロックの6ヶ所に秋田県の歴史全般を紹介する展示室を既存の博物館や資料館を利用して開設することである。横手市から秋田市の秋田県立博物館に行かなくも、秋田県の縄文時代が理解できる展示が必要なのである。
県や市町村が収蔵庫に眠らせている出土品を分散させ、横手市に住んでいても杉沢台遺跡のことが学べることが大事である。能代市の人が、横手市の後三年合戦金沢資料館にわざわざ来なくても「後三年の役」の内容が理解できる展示が必要なのである。地域だけに限定した歴史の紹介よりも、様々な企画展示がないとリピーターは増えないと思う。
074伊勢堂岱遺跡(国史跡) 北秋田市脇神
秋田県で大湯環状列石と共に「北海道・北東北の縄文遺跡群」に選ばれたのが「伊勢堂岱遺跡」である。遺跡は縄文時代後期のもので、秋田内陸縦貫鉄道の縄文小ヶ田駅の南方、湯車川沿いの標高40~50mの河岸段丘の北端台地の上にある。この遺跡も平成4年(1992年)も大館能代空港へのアクセス道路建設で発見され、平成6年(1994年)から平成8(1996年)まで発掘調査が行われた。その結果、大湯環状列石に類似した環状列石(ストーンサークル)が4ヶ所も確認されて、AからDまでの名称が付けられた。
環状列石Aは、最大径が45mで列石の輪が三重となっている。環状列石Bは、最大幅が15mの弧状をした列石で、環状列石Cは最大径45mの円形、環状列石Dも最大径36mの円形である。サークルの中心に立石があることから大湯環状列石と同様に日時計説が有力であって、宇宙人との交信説は引っ込めなくてはならないようだ。日時計説が正しいとすれば、時代の権力者(村長)によってサークルの築造が変化したと思われる。
遺跡の範囲は20ha(200,000㎡)と広く、平成13年(2001年)にはその8割の16ha(160,000㎡)が国の史跡に指定された。その後も調査が進められ、戦国時代には城郭であったことも判明し、平成17年(2005年)に北秋田市となってからは、伊勢堂岱遺跡の観光地化を積極的に計画した。平成28年(2016年)には、ガイダンス施設として「伊勢堂岱縄文館」がオープンした。私が訪ねたのは、平成21年(2009年)で、展示館もなく、案内板があるだけであったたが、これは凄いと実感した思い出が脳裏を過る。
その後、伊勢堂岱遺跡を訪ねていないが、毎年9月には「縄文まつり」が行われ、北秋田市は観光遺産のピーアールに余念がないようだ。その反面、前項で紹介した同じ国の史跡である杉沢台遺跡は、縄文時代に憧れて回帰しようと盛り上る気配が感じられない。秋田県を元気にするのは、やる気の問題であって、東北電力や風力発電会社の補助金に異存している能代市にはハングリー精神がないようだ。
伊勢堂岱遺跡は世界文化遺産となって、観光客や歴史愛好家に注目させる遺跡となったので、世界標準のグローバルな施設と進化しなくてはならない。同じく世界文化遺産となった大湯環状列石のある鹿角市までは、約50㎞の距離である。縄文人の行動範囲は北海道にまで及んでいることを思うと、互いに往来するのは容易いことであったと想像する。
環状列石に関して調べてみると、北東北や北海道に限らず、和歌山県の溝ノ口遺跡にもあったことが発掘調査で明らかになった。「日本三大ストーンサークル」について、先に紹介したが、私が実際に見物して来た感想としては、北海道深川市の音江環状列石と秋田県北秋田市の伊勢堂岱遺跡とを入れ替えるのが妥当と考える。
環状列石Bだけが規模の小さな弧状をしているのか調べた所、昭和9年(1934年)に開通した国鉄阿仁合線(現在の秋田内陸縦貫鉄道)の工事に伴って遺跡の一部分が破壊されたようである。当時は「日本三大銅山」の1つであった阿仁鉱山から産出される鉱石輸送が急務であって、遺跡調査など考える余裕は無かったのである。この頃に発見された大湯環状列石は戦後になって調査され、令和に世界文化遺産に申請しているのが不思議である。
075地蔵田遺跡(国史跡) 秋田市御所野
縄文時代の遺跡3ヶ所を「勝手に秋田遺産100選」を選んだが、弥生時代の遺跡から秋田市の御所野台地にある「地蔵田遺跡」を選定した。選定理由は、旧石器時代の遺物も発見されて、国の史跡にもなっていることである。遺跡の発見は、昭和46年(1970年)頃に秋田新都市開発整備事業が計画され、以前から台地上に遺跡があったとされた場所の調査が行われた。昭和61年(1986年)に約12,000㎡が発掘調査されて、地蔵田遺跡と称された。
地蔵田遺跡の特徴は、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、平安時代と複合した遺跡であり、西日本で多く発見された環濠集落であること。環濠集落は柵をめぐらした防御施設を伴う弥生時代の遺跡で、日本列島では最も北に存在するようだ。九州佐賀県の吉野ヶ里遺跡が弥生時代の遺跡として特別史跡に指定されているが、そこで発見された人骨からは刀剣による傷痕があって戦争があった証拠となっている。縄文時代は集落の争いのない時代であったが、弥生時代から集落の争い始まると城郭機能を備えた集落へ変貌するのである。
弥生時代の集落はムラとも呼ばれ、狩猟から農耕へと生活様式も変わり、広場を中心に竪穴住居が建てられた。竪穴住居跡4軒、木柵跡3条、土器棺墓25基、土壙墓51基が発見されているが、墓地やゴミ捨て場が離れた場所にあった。木柵跡の3条は、条という長さの単位ではないので、3ヶ所の柵状跡と表現した方が分かりやすい。木柵跡の全長は約170mの楕円形で、何度か造り替えが行われたことが柱穴の形状から推察された言う。
平成8年(1996年)11月、調査した史跡面積の半分、6,046㎡が国の史跡に指定される。平成13年(2001年)には、「御所野〝弥生っこ村〟」と公募によって命名される。平成18年(2006年)度には、秋田市によって竪穴住居3棟、木柵が復元された。また、市民による「弥生っこ村まつり」のイベントなどが開催されていると聞く。地蔵田遺跡を含め、御所野総合公園が整備されて御所野地区の新たな観光スポットとなっているようだ。平成25年(2013年)には、「地蔵田遺跡出土品展示施設」がオープンしている。秋田市の面子にかけても、遺跡の保存と出土品の展示をしてそのピーアールに努めている姿勢は頼もしい。
復元された地蔵田遺跡は未だ見物していないが、市町村によっては発掘した遺跡を再び埋戻し、案内標識だけ設置している遺跡もある。しかし、復元して保存するのが理想的で、せめて国の史跡に指定された遺跡は復元を期待したいものである。その点を考えると、秋田市の地蔵田遺跡に対する保存と継承の在り方を示す良い例となっている。
御所野の名前で思い出したが、お隣の岩手県にも御所野遺跡があって、岩手県では唯一、「北海道・北東北の縄文遺跡群」に選ばれた遺跡である。国の史跡に指定されていることもあって訪ねたことがあったが、一戸町の小さな自治体では保存や復元に限度があると思った。しかし、一戸町は竪穴住居や土屋根住居を復元し、博物館まで建てて「御所野縄文公園」として整備した。世界文化遺産の登録を受けた時の関係者の喜びは秋田県以上になるだろうと推察する。秋田県の主な遺跡4ヶ所を紹介したが、能代市の杉沢台遺跡だけが再び埋没のしてしまった。復元に向けた能代市の努力を期待したいし、国の史跡に指定された重要性を認識して欲しいと能代市に願うだけである。
076如斯亭庭園(国名勝) 秋田市旭川南町
東北六県の庭園に関して、その評価でもある国の名勝が最も少ないのが秋田県である。秋田藩主・佐竹氏の別邸にあった「如斯亭庭園」が国の名勝に指定されたのは、平成19年(2007年)である。秋田市に寄贈された時、名勝の指定が一旦は解除され、再び指定されたのは平成23年(2011年)であった。それまでは、大仙市高梨の旧池田氏庭園が平成16年(2004年)に指定されたのが秋田県では初めての国の名勝・庭園となったのである。
如斯亭庭園の起源は、藩士の大嶋小助が3代藩主・佐竹義処より賜った土地に「得月亭」の名称で建てた元禄年間(1688~1704年)の別荘である。5代藩主・義峯が鷹狩の際に休息所としたこともあって、藩主に献上された。9代藩主・義和の時代に現在の規模に庭園は整備され、秋田藩における迎賓館の役割を果てしていて、庭園の名は「如斯亭」と改められた。
江戸時代の庭園の特徴としては、諸大名による池泉回遊式の大規模な庭園がブームとなって、「大名庭園」が全国の諸藩で築造された。加賀の前田家は兼六園、水戸の徳川家は偕楽園、岡山の池田家は後楽園を築造して、「日本三名園」に選ばれてからは不動の名園となっている。東北には岩手県盛岡市の南部氏御薬園、山形県鶴岡市の酒井氏庭園、宮城県大崎市の有備館庭園、福島県会津若松市の会津御薬園が大名庭園として知られている。
如斯亭庭園は様々な変遷を経ているが、廃藩置県で佐竹氏から那波氏に譲渡され、更に戦後は丸野内氏の所有となる。昭和27年(1952年)には県の史跡に指定されたが、昭和39年(1964年)に旅館と茶寮を兼ねた施設として開業される。若い頃には、1度は泊まりたと願っていたが、平成2年(1990年)に旅館が廃業してしまって夢は叶えられなかった。廃屋となった旅館の建物を写真に収めたことがあったが、庭園の様子は知る術もなかった。
国の名勝に指定された3年後、丸野内氏から秋田市に寄贈される。保存のための修繕工事が秋田市によって平成26年(2014年)から行われ、平成29年(2017年)に完成して一般公開が行われた。待ちに待った如斯亭庭園の見物であったが、以外と庭園面積が小さく感じられた。園内の面積は4,055㎡(約1,230坪)と言われ、日本最大の大名庭園である四国香川県の「栗林公園」の庭園面積は750,000㎡(約227,300坪)なので、規模に置いては殆ど比較にならない。因みに仙台藩の有備館庭園の庭園面積は13,160㎡(約3,990坪)なので、池泉回遊式庭園としては有備館庭園が標準的な広さと言える。
3年間に及ぶ庭園の整備工事には、約4億円もの工事費が投じられた。主屋の如斯亭と茶室の清音亭の屋根が、鉄板葺きから茅葺きや杮葺きに葺き替えられて旧観を呈していた。主屋から眺める築山と池泉、その先に借景として周囲の山々が眺められたようであるが、周辺は住宅地へと変貌して借景は消えた。庭前の巨石(高野石)は、紀州徳川家より佐竹家に贈られたもので、他の大名からも注目された庭園であったようだ。
如斯亭庭園の整備に関しては、佐竹義和が藩主だった頃の庭園を基本としていると考える。義和は藩校・明徳館の那珂通博に「園内十五景」を選ばせた上、「如斯亭」と改めさせているが、二人を知る菅江真澄が登場していなのが以外である。しかし、真澄が晩年に描いた「久保田十景」の泉河清流に辛うじて如斯亭が描かれていて、救われる思いで見た。
077旧池田氏庭園(国名勝) 大仙市高梨
若い頃に庭園好きが昂じて、透視図を描き造園の設計を手掛けたことがあって、全国各地の庭園めぐりは尽きることがない旅のテーマである。秋田県の庭園では、角館の武家屋敷庭園が有名であるが、いずれも規模の小さな観賞式庭園で建物が重視されるようだ。そんな時、殆ど知らなかった旧仙北町の「池田氏庭園」が平成16年(2004年)に国の名勝に指定されたことで、その存在を知った。池田氏は乳頭温泉郷黒湯温泉のオーナーで、元大地主であったことは知っていたが、名勝の指定される庭園を所有していたのは知らなかった。
池田氏庭園の敷地面積は約4.2ha(42,115㎡)と広大で、維持管理を考えてか、平成1 9年(2007年)に合併して大仙市となった市に寄贈された。そのため、旧の字を付けて「旧池田氏庭園」となって、期間限定で一般公開されるようになった。平成29年(2017年)の初夏、待望の旧池田氏庭園を見学して感動した。
池田氏は江戸時代、高梨村の肝煎りを勤めた旧家で、明治時代には一円の大地主となった。山形県酒田市の本間氏、宮城県石巻市の斎藤氏と並び、「東北三大地主」と称されたようである。本間氏と斎藤氏の庭園も池田氏庭園と同様に国の名勝に指定され、「大名庭園」から「地主庭園」へと回遊式庭園が発展した歴史遺産である。
池田氏庭園の造園は、13代当主・池田文太郎の依頼を受け、造園家・長岡安平が設計したとされる。造園されたのは明治末期から大正11年(1922年)頃とされ、久保田城跡に造営された千秋公園の設計にも長岡氏は携わっていて、秋田県に関わり深い造園家であった。他にも払田池田氏分家庭園も長岡氏の手によるものであり、戦前戦後の県南で活躍した建築家・白井晟一氏と、秋田県での貢献度が重複する。
入口の駐車場から鬱蒼と樹木が茂る邸内に向うと、家の格式を示す立派な正門(薬医門)が建っていることに先ず驚く。大きな池の西側には、今までに見たこともない高さが約4mのも巨大な雪見灯籠がある。石は男鹿半島から搬出された男鹿石(寒風石)と聞いたが、財力がなければ入手困難な景石も目に付く。
池の南東岸に立つ2階建ての洋館は、大正11年(1922年)に完成した秋田県最初の鉄筋コンクリート造と言われ、国の重要文化財に指定されている。私設図書館として建てられたようであるが、1階には食堂を兼ねた音楽室があって、内装の豪華さやシャンデリアのきらめきを見ると、私設迎賓館と呼ぶに相応しい建物である。
邸内の主屋も立派な建物であったが、プールや運動場も備えていて、造営を計画した文次郎氏が大正ロマンの影響を受けての発想のように感じる。また、高梨村村長の文太郎氏は、村の発展にも私財を投じ、学校や病院、農村共同施設などの建設に寄与したとされる。文次郎の弟・禮二が明治41年(1908年)、払田に分家して建てたのが「旧払田分家庭園」で、平成20年(2008)に国の名勝に追加指定された。指定面積は1.8ha約(18,000㎡)と本家よりはかなり小さいものの、庭園は余計な建造物がなく、紅葉がとても美しい。本家よりも豪華ではないが、正門(棟門)と塀だけが建造物として残っている。庭園は無料で常時一般公開されていて、払田柵や高梨神社と併せてめぐる散策コースともなっている。
078秋田県立博物館 秋田市追分
秋田県人として、県外から来た友人や知人を案内したい観光地は色々とあるが、その中で史跡や名勝でもない博物館や記念館など施設を精査した。その結果、「秋田県立博物館」を筆頭に、6ヶ所を「勝手に秋田100選」にピックアップしたのである。これは独断と偏見に満ちていて、確定させるつもりないので、県民の意見を聞きたいと思う選定でもある。
秋田県立博物館は昭和50年(1975年)、敷地面積14,885㎡(約4,510坪)の秋田市街地の追分に開館される。鉄骨鉄筋コンクリート造りの地上3階・搭屋1階建てで、建築の延床面積は11,946㎡(約3,620坪)である。建築費は約20億円であったと聞いたが、㎡当りの単価に換算すると約170,000円となる。令和2年の秋田県発注の㎡当りの単価が約20,000円であることと比較すると、当時の物価を考慮すると想像以上の破格の建築費であった。
東北六県には、押しなべて県立博物館があるものと思っていたが、青森県に県立博物館がなく、昭和48年(1973年)に開館した県立郷土館が該当する。また、宮城県も同じで、平成11年(1999年)に県立東北歴史博物館として多賀城市に開館した博物館が、県立博物館に準ずるだろう。岩手県の県立博物館は昭和55年(1980年)、山形県の県立博物館は昭和46年(1971年)、福島県の県立博物館は昭和61年(1986年)に開館されたが、福島県だけは県庁所在地の福島市ではなく、会津若松市に建てられたのが特徴と言える。
秋田県立博物館が開館して間もない昭和54年(1979年)、63.7ha(637,000㎡)と広大な秋田県立小泉潟公園が開園されると博物館の存在感は高まる。秋田県に関する考古、歴史、民俗、工芸、生物、地質を展示する総合博物館で、旧奈良住宅が分館となっている。平成8年(1996年)には、「菅江真澄資料センター」と「秋田の先覚者」がオープンした。また、平成16年(2004年)には、建設から約30年を経て老朽化し、リューアル工事が行われた。入館料が無料となったと聞き、20年ぶりに訪ねてみた。
今回の目的は、「勝手に秋田遺産100選」の影の案内人である菅江真澄氏の足跡や資料を見学することであった。私の師匠は松尾芭蕉翁であるが、芭蕉翁の影響受けて真澄氏も旅を生涯のはかりごとしたのである。芭蕉は発句(俳句)、真澄は和歌(短歌)と表現方法は違っていたが、真澄が芭蕉に憧れていたのは事実で、松島も平泉も象潟も訪ねている。三河出身の真澄を歓迎するのは、江戸時代後期の秋田の地を愛してくれた偉人と思うからである。
久々に訪ねた博物館で印象に残ったのは、縄文時代の土器や土偶などの展示で、秋田県の遺跡だけで発見された特有の出土品もある。また、潟上市にあった狐森遺跡の「人面付環状注口土器」、東瀬成瀬村にあった上掵遺跡の「磨製石斧4箇」は、考古資料で国の重要文化財の指定されている。青森県で発見された土偶は国宝であることを考えると、秋田県の縄文遺跡を精査して欲しいと思うが、自然破壊と同様に遺跡破壊も厭わないようだ。
分館となっている旧奈良家住宅は、宿泊施設して活用できると考えるし、実際に厩跡には再び馬を飼育し、馬乗り体験を行う良いと思う。博物館は見るものから体験する施設に変貌すること大事で、何をすれば喜ばれるか、どうすれば人が来てくれるのか考えて欲しいのが、これからの博物館や資料館に求められる課題であると思われる。
079秋田市ポートタワー・セリオン 秋田市土崎
何処の県にもシンボルタワーがあるもので、東北六県では青森県八戸市にグレットタワーみなと(24m)、宮城県角田市にスペースタワー(43m)、山形県酒田市に北港緑地展望台(18m)、福島県いわき市にいわきマリンタワー(60m)がある。岩手県たげが今はないが、かつては平泉タワー(50m)があった。秋田県には天王グリーンランド・スカイタワー(59m)と「秋田市ポートタワー(143m)」の2つのタワーがあって、秋田市ポートタワーは「セリオン」の名称で呼ばれていて、その高さは東北一を誇る。
昭和60年(1985年)、旧運輸省が「ポートルネッサンス構想」を提唱し、港湾の観光整備を秋田県に促した。そこに秋田市も協力して第3セクターのポート秋田が設立されて、平成6年(1994年)4月に完成する。鉄骨造り地下2階・地上5階・搭屋階建てで、建築の延床面積4,747㎡(約1,440坪)である。建築費は約43億円で、㎡当りの単価に換算すると約900,000円となるが、塔建築物と言う特殊性があったにせよ、これも破格であった。
平成7年(1995年)には、ガラス張りの屋内緑地「セリオンスタ」がオープンした。約14.6億円もの巨額を投じた施設ではあるが、室内植物園とも異なりインパクトが小さい気がする。平成8年(1996年)には、飲食店や土産店が入居する「セリオンプラザ」がオープンするが、ポート秋田の経営悪化が表面化する。展望室への入場料が800円から400円に引き下げられるが入場者は増えず、秋田県から秋田市へと所有が移る。名称も「秋田ポートタワー」から「秋田市ポートタワー」に変更された。
平成19年(2007年)には、入場料を無料化して、3階をギャラリーの文化活動の場にして改善した結果、入場者も増えた。市営から指定管理者にタワー経営が委託され、平成22年(2010年)には、施設全体が「道の駅あきた港」として登録された。翌年には秋田県で最初の「恋人の聖地」に認定され、モニュメントも設置された。
仕事の関係で新日本海フェリーを利用する機会が多く、乗船するのは海の玄関口は秋田港(土崎港)であった。敦賀港に行くときは新潟港から乗船したこともあったが、北海道に行く時は、秋田港が便利である。秋田港のシンボルタワーとなったセリオンの存在は、「勝手に秋田遺産100選」に相応しい建造物である。
展望室の高さは100mであるが、ここから眺める360°のパノラマは秋田市内一の絶景である。北西は寒風山をはじめととする男鹿半島の山々、南東は秋田市街地の奥に聳える太平山の山並み、南の日本海の先には鳥海山も顔を出す。海に沈む夕焼けや市街地の夜景も素晴らしく、「夜景100選」に選ばているようであるが、これは初耳である。かつては、日中のみの営業であった展望室、スポットライトもあって本気で頑張っている様子が伝わる。
江戸時代後期の文化元年(1804年)、菅江真澄は男鹿半島に向う途中に土崎湊を通過しているが、湊については記述をしていない。文化8年(1811年)にも男鹿半島を旅行しているが、金足の奈良家で那珂通博と初めて会うものの、土崎湊についてはふれていない。晩年の真澄は、「久保田十景」の中に土崎湊も描いていて、終の棲家と選んでいたと思われる。北前船からは、物資ばかりなく、生まれ故郷の三河の情報も伝わったことは想像できる。
080白瀬南極探検隊記念館 にかほ市金浦
明治45年(1911年)1月16日、元陸軍中尉・白瀬矗(1861~1946)を隊長とする南極探検隊が南極の雪原に上陸した記念すべき年である。その白瀬中尉の出身地である旧金浦町が、白瀬の業績と南極探検隊の歴史を紹介するため、平成2年(1990年)に「白瀬南極探検隊記念館」としてオープンさせた。建物は、建築家・黒川紀章のデザインによるもので、中央部には南極の氷山をイメージしたとされる三角錐のオーロラドームがある。その周りに池を配し、ドーナッツ状に展示室や事務室などがある。
記念館の建物は、鉄筋コンクリート造の地上1階建てで、建築の延床面積が1,005㎡(約304坪)と大きくはないが、総工費が約5億円とされるので、㎡当りの単価に換算すると約500,000円と大きな建設費となった。しかし、記念館の前の竹嶋潟には、白瀬中尉が使用した船「開南丸」の実物大の遊具があって、鳥海山も見える時がある。秋田県出身の偉人でもあり、生家の浄蓮寺には記念墓が立てられた。
初めて白瀬南極探検隊記念館を訪ねたのは、平成31年(2019年)4月で開館から30年近く経ていた時である。年金生活をしていた時で、入館料300円は大きな出費であったが、1度は見学しようと思って訪ねた。ユニークな建物にも驚いたが、南極探検の資料や展示品が豊富で、白瀬中尉の晩年の孤高も偲ばれた。
真宗大谷派の浄蓮寺の長男として生まれた白瀬中尉は、当然ながら僧侶となる定めにあったが、軍人の道を選び陸軍教指団騎兵科に入学する。卒業後は物資の輸送を担う輜重兵となって、兵站を担当している。陸軍大将・児玉源太郎と面談し際、北極探検の夢を語ると、「北極探検の前に、樺太や千島を探検するように」と薦められる。しかし、千島探検を志ものの、上司の郡司成忠大尉の下で苛酷な情況に追い込まれている。明治38年(1905年)の44歳の時、日露戦争に参加するが右手と胸を負傷する。この年には陸軍中尉に昇進して、白瀬中尉の名で呼ばれるようになった。
長年のロマンであった北極探検を計画するが、アメリカの探検家に先を越されたこともあって、南極探検に目的地を変更して資金を募る。明治政府は白瀬中尉が率いる探検隊の成功を危ぶみ、3万円の補助金しか出さなかったと言う。当時の貨幣価値では、渡航費用は14万円と試算され、不足分は国民の義援金と白瀬中尉が自ら借金した。
船は漁船を改良した204トンの小さな木造帆船で、東郷平八郎が「開南丸」と命名したとされる。船は東京の芝浦埠頭を出航するが、航海中に輸送力に積まれた29頭の犬の殆ど原因不明で死に、船内でも白瀬中尉と船長との対立があって、順風満帆の船出でもなかった。ニュージーランドのシドニー港に入港し、樺太犬を入手し体制も立て直して南極大陸の発見にチャレンジすることになる。白瀬中尉は上陸した場所を「開南湾」と命名し、クジラ湾から南極点を目指した。しかし、南極点の到着出来なかったものの、大和原に日章旗を掲げて日本の領土であることを世界にアピールした。その頃、ノルウェーの探検家・アムンセンはが南極点を踏破しており、白瀬中尉はどんな気持ちで出会ったかは知りたいものである。南極の観測は現在も続いているが、その功労者の名は日本の誇りと言える。
081道の駅象潟・ねむの丘(展望温泉) にかほ市象潟
一般道路を走行すると、必ず目にするのが「道の駅」であり、最初の道の駅は平成3年(1993年)に山口県、岐阜県、栃木県に設置された。その時から27年を経た令和2年(2020年)の現在、国土交通省が認可して登録された道の駅は、全国に1,180ヶ所もある。その中で、東北六県には165ヶ所、秋田県には33ヶ所の道の駅がある。秋田県一の集客力を誇るのが「道の駅象潟・ねむの丘」であるが、東北六県のベスト10にも入っていない。人口密度の比重と利用頻度は関連するので、日本海側より太平洋側に人気が集中するのは致し方ない。
道の駅象潟・ねむの丘は平成10年(1998年)3月、国道7号線(羽州浜街道)沿いの風光明媚な才の神海岸にオープンした。約66,000㎡(20,000坪)の広大な敷地にあって、展望温泉や九十九島や鳥海山の展望室を備える。鉄筋コンクリート造の地上5階建てで、建築の延床面積は約4,600㎡(1,394坪)である。1階は土産や物産の販売店、2階はレストランや宴会場、3階は事務室、4階が展望浴場、5階が展望室となっている。展望浴場から眺める四季折々の海の景色が素晴らしく、真っ赤な夕日が沈む様子は絶景である。また、展望室では、ガラスに反射してフラッシュバックした日本海が鳥海山とコラボするのである。
海水浴場のある象潟海岸は、年々寂れて悲惨な状況にあるが、道の駅象潟は盛況である。平成28年(2016年)には「にかほっと」がオープンし、飲食店や地物の海産物販売店が入居して、新たな観光拠点センターとなっている。様々なイベントも企画され、日本海側の南の玄関口に相応しい道の駅象潟・ねむの丘である。
秋田県内の道の駅で、温泉施設があるのは大館市の「道の駅やたて峠(1995年登録)」、潟上市の「道の駅てんのう(1998年登録)」、由利本荘市の「道の駅岩城(1999年登録)」、「道の駅東由利(1996年登録)」、「道の駅にしめ(1995年登録)」、「道の駅おおうち(2000年登録)」と、道の駅象潟以外に6ヶ所もある。鹿角市の「道の駅おおゆ(2017年登録)」は、大湯温泉街の中に新たに平成30年(2018年)にオープンしている。
夏場になると、キャンピングカーや車内で宿泊する観光客が多く、一般利用者が駐車できない情況が問題視される。象潟海岸には昔からのキャンプ場があるので、象潟温泉を配湯して温泉施設を作れば道の駅からの分散も図れる。道の駅の利用に限らず、象潟全体の集客アップを考えなくてはならない。道の駅象潟は、東京ドームの約1.5倍も広い敷地があるが、その有効的な活用がなされていないし、改善の余地もたくさんある。オートキャンプ場は指定された場所に有料で利用させ、ねむの丘直前の駐車場は一時的に利用する一般客のみの駐車場とする。また、才の神海岸もクリンアップをして、漂流物を除去して欲しい。九十九島の1つ、鷹放島も遊歩道を造って整備して欲しいものである。
11番目に選定した「象潟九十九島」があるが、その大半が道の駅象潟・ねむの丘の展望室から眺められる。九十九島の周辺の水田に水が張られた時が最も美しく、まるで巨大な盆栽を見るようである。最近では耕作放置した水田もあって、草茫々の見苦しい場所もある。ならば、にかほ市が所有して常時水を湛えた公園にすれば、昔の九十九島の一部が蘇る。そんなことを提案しても聞く耳を持たない姿勢(市制)には、がっくりとさせられる。
082秋田ふるさと村 横手市赤坂
横手市郊外あるりんご畑の丘陵地帯に、秋田県によるテーマパーク「秋田ふるさと村」は、平成6年(1994年)に開村された。平成3年(1991年)には、直ぐ近くに「横手インターチェンジ」が開通していて、立地条件は抜群であった。ふるさと村の敷地は、秋田県の公共施設では最大の164,936㎡(49,980坪)、東京ドーム約4個分の広さである。
正面玄関を入ると、「ふるさと広場」と称される中心的な建物があって、その右側に郷土料理を提供する「ふるさと料理館」、左側には土産品コーナーの「ふるさと市場」、軽食コーナーがある「もくもく広場」が続いている。その廊下の先には工芸展示館があって、秋田県を代表する工芸品が1階と2階に展示されている。その2階を進んだ右側に、工芸体験のできる手作り工房、更なる先には、プラネタリウムの星空探検館「スペーシア」がある。そして、ふるささ村の建物で異色な放つのが西洋の城郭を模した「ワンダーキャッスル」でトリックアートや室内アスレチックとなっている。
ふるさと村の最大の建物が「秋田県立近代美術館」で、巨大な軍艦空母を模したようなデザインである。空間の広さでは最大の「ドーム劇場」が西側に建っている。ふるさと村全体の建築の延面積は28,081㎡(約8,500坪)、総事業約185億円から換算すると、約660,000円の㎡当りの単価である。バブル期に計画されたプロジェクトであったにせよ、今では考えられない県営施設である。しかし、美術館の周辺には、彫刻の小径や彫刻の丘があって、彫刻家に支払った費用、展示する絵画の費用を含めると、法外であったとは言い難い。
他に屋外にはイベントに使用される「お祭り広場」、子供の遊戯を備えた「わんぱく広場」があって、村内にはレトロな汽車型のバス「チューチュートレーン」が運行されている。決して税金を無駄に使った施設ではないと思うけれど、民営のテーマパークは閉鎖が続いている。新潟県では巨額を投じた「新潟ロシア村」が廃墟と化し、岩手県の「ニュージーランド村」も同様である。田沢湖には「スイス村」があったことを思うと、「秋田ふるさと村」も消滅しないことを願って、「勝手に秋田100選」に選んだ。
私は横手市に自宅があるにも関わらず、仕事の関係上、自宅の不在が多く、秋田ふるさと村を初めて訪ねたのは開村された年の12月であった。当時の入場料が1,600円と破格であったこともあって、2度と行くまいとと思っていたが、「ふるさと市場」の土産店の販売品は県内では最大であった。そこて私は、「土産品を買うのに1,600円も払うのは馬鹿ではないか」と、職員に詰問したことがあった。すると職員は、そんな顧客のために午後4時を過ぎると、通用口から入れると言う裏事情を教えてくれた。
秋田ふるさと村の社長には県職の幹部が天下っていて、赤字が毎年続いた。その時、民間から社長を迎えると、有料施設を特化して入場料を無料とした。開村から5年を経た平成11年(1999年)のことであった。それからは、美術館は県営のままであったが、他の施設は全体的に黒字となった。令和2年(2020年)5月、工芸展示館のコーナーを借り、「比類なき旅のコレクション」と題した展示を行ったが、コロナウィルスの影響もあって、注目されず終わった。秋田ふるさと村は、秋田県人の魅力を発信する場でも有り続けて欲しい。
083横手市増田まんが美術館 横手市増田
平成7年(1995年)、旧増田町が「増田ふれあいプラザ」内に開館したのが「増田町まんが美術館」であった。「釣りキチ三平」の作者として知られる漫画家・矢口高雄の出身地とあって、彼の記念館的な役割も担っていた。日本で最初のまんが美術館として有名となって、原画の収集と保存も行っていた。
20歳を過ぎた頃から漫画とパチンコには興味が薄れ、旅行が最大の趣味となっていた。それでも平成14年(2002年)5月、県南の美術館めぐりの小旅行で、羽後町の「天馬美術館」、横手市の「秋田県立近代美術館」と合わせて訪ねている。美術館は入館料が高いというイメージあって、積極的には見学していない。博物館や郷土資料館などの見学が多く、全国各地で約500ヶ所を数えるが、美術館」に関しては、その1割の50ヶ所を数える程度である。例外としては、庭園鑑賞で訪ねた島根県安来市の「足立美術館」の入館料2,300円は破格に思えた。しかし、庭園の美しさは評判通りで、島根県まで行った甲斐があった。
令和元年(2019年)5月、移転工事を行っていた「横手市増田まんが美術館」がリューアルオープンした。鉄骨鉄筋コンクリート造の2階建てで、建築の延床面積は3,363㎡(約1,000坪)である。建築費は約9億円で、㎡当りの単価は260,000円となる。セリオンの約900,000円に比べると、3分の1の価格であるが、投資に見合った成果が得られるかが課題である。
コロナウィルスの影響で、県外への旅行を控えていた9月初旬、横手市まんが美術館を訪ねた。混雑を避けて平日の金曜日であったが、駐車場には50台ほどが停まっていた。殆どが他県ナンバーで、漫画好きには聖地のような場所なのだろうか。建築家のアントニオ・ガウディのデザインを模したとされる建物は、蔵の町のイメージも取り入れた言う。漫画家183人の原画約22万点を所蔵し、漫画本約2万5千冊を蔵書していると聞く。
館内に入ると、老若男女の世代や性別を超えた入館者が散見された。見るからに私よも年輩の老人もいて、漫画好きの人は多いようだ。子供の頃から20歳までは、私も夢中なって読んだいたので、大概の漫画家の名前は知っていたが、女性の漫画家は殆ど知らない。最も関心のあるのが手塚修や赤塚不二夫で、そのコーナーだけは立ち止まった。漫画本が読書コーナーでは、熱心に読んでいる老人もいたが、「少年サンデー」や「少年マガジン」が販売された当時の読者は既に80歳を超えているのが現実である。
この美術館の名誉館長となっているが矢口高雄氏で、11月20日に81歳で病死したとの訃報が耳に入った。白瀬中尉がいなかったら「白瀬南極探検隊記念館」は建設されることなかっただろうし、矢口高雄がいなかったら「横手市増田まんが美術館」も同様である。有名人の記念館ではなくても、郷土の偉人達が残した影響力は不滅のようにも思える。
増田町に来て、大変残念に思えたのが旧増田町によって建てた「上畑温泉さわらび」の休館である。増田の蔵の町並は「重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)」に指定されて、真人公園は「日本さくらの名所100選」に選ばれている。ここに横手市増田まんが美術館を加えると、一級の観光地と言える。この3ヶ所の名所と上畑温泉をコラボすれは良いわけで、館内に漫画室を新設し、蔵をイメージした客室にすれば宿の魅力はアップするはず。
084毛馬内盆踊りと花輪ばやし(国重文) 鹿角市
鹿角市毛馬内は江戸時代初期の慶長12年(1607年)、盛岡藩の毛馬内政次によって柏崎館が築かれた城下町である。積雪による通行が妨げられないように「こもせ」と呼ばれるアーケードの商店や住宅が建てられた。その通りで毎年行われるのが「毛馬内盆踊り」である。江戸時代中期頃から行われたようで、太鼓と笛の囃子で踊る「大の坂」と、無伴奏の唄のみで踊る「甚句」に分かれる。2つの踊りはかがり火を囲んで踊る輪踊りで、常に内側を向いて優雅に踊るのが特徴と聞く。羽後町の西馬音内と地名や盆踊りに共通性はあるものの、毛馬内盆踊りは笑うが如しの松島で、西馬音内盆踊りは恨むが如し象潟とも言える。
毛馬内盆踊りは、西馬音内盆踊り、八郎潟町の一日市盆踊りと共に「秋田県三大盆踊り」の1つとされる。しかし、西馬音内盆踊りは昭和56年(1981年)に、毛馬内盆踊りは平成10年(1998年)に国の重要無形民俗文化財に指定されている。一日市盆踊りは秋田県の無形民俗文化財に過ぎず無理やりの「三大」と思えてならない。毛馬内盆踊りは毎年8月21日から23日まで3日間行われるが、艶やかな女性の着物姿が印象に残る。江戸時代後期の文化4年(1807年)、菅江真澄は十和田湖の遊覧の際に毛馬内に泊まっているが、既に盆踊りが終わった頃で、見て入れはどんな絵を描いてくれたか気になる所である。
鹿角市花輪の「花輪ばやし」は、東京神田祭の神田囃子、京都祇園祭の祇園囃子と並んで「日本三大囃子」に数えられる。実際に見物すると、これこそ文句のない「三大」と秋田県人としは花輪囃子を褒めたくなるが、千葉県佐原市の佐原囃子も名乗りを上げている。名数に関しては、「日本三景」や「日本三名園」のように絶対的な評価が得られていないケースが多く、歴史的見地からすると「秋田県三大盆踊り」も仕方のない選定かも知れない。
花輪ばやしは「花輪祭」の屋台巡幸に伴う囃子で、祭典は鎌倉時代に遡るとされるが、現在の形式になったのは、江戸時代後期とされる。花輪の総鎮守・幸稲荷神社の神輿が本殿を出発して「御旅所」に安置される。神様が神輿に乗って町内を一巡する小旅行で、神様に楽しんでもうらうのが屋台のパレードである。豪華絢爛な屋台10台が町内を練り歩き、花輪駅前に集結する様子は花輪祭の圧巻である。笛と太鼓に鉦と三味線が加わった囃子は、日本の原風景ならぬ、「日本の原音楽」である。
花輪ばやしは平成26年(2014年)に「花輪祭の屋台行事」として国の重要無形民俗文化財に指定された。平成28年(2016年)には、ユネスコ無形文化遺産として「山・鉾・屋台行事」33件の中に登録されている。祭りは毎年8月19日、20日の2日間行われるが、秋田県の統計によると、平成29年(2017年)には26万人の来場者数があったとされる。
豪華な屋台の建造は、氏子に莫大な財力がないとできないことで、その財源が尾去沢鉱山の開発にあった。鹿角観光のスケジュールを組むなら、8月20日、21日に「大湯温泉」に2泊3日するのが理想的である。20日の日中は「尾去沢鉱山跡」、「十和田南駅舎」、「大湯環状列石」を見物して、夜は花輪祭の屋台を眺めて「花輪ばやし」を聴く。21日の日中は「十和田湖」を遊覧し、「七滝」と「小坂の明治時代の建築群」を見物する。そして、夜に「毛馬内盆踊り」を観賞すれば、「勝手に秋田遺産100選」の8つをクリアしたこになる。
085大日堂舞楽(世界遺産・国重文) 鹿角市八幡平
舞楽は唐代の中国から伝わった舞踊で、地元では大日堂祭堂または在堂とも称される。日本に伝わって間もない奈良時代の養老2年(718年)、鹿角郡八幡平に大日堂(大日霊貴神社)が再建された時代まで遡る。平城京から落成法要のため下向した名僧・行基菩薩と共に楽人が祝賀のために舞楽を披露して里人に伝えたとされる。しかし、東北における行基菩薩の足跡を調べた所、岩手県奥州市の黒石寺の創建が東北最北の地であったと言える。聖武天皇の命で、諸国の国分寺の開基に携わってはいるが、大日堂の再建に顔を出したとは思われない。実際に都から下向した僧侶は別人であった可能性は高いが、空海伝説と同様に、当時の里人にとっては都から来る僧侶は皆、行基菩薩に見えたのかも知れない。
大日堂の創建に関しては、大日如来に帰依して富豪となった「たんぶり長者」の娘が、両親の菩提を弔うために建てたと伝説される。これも根拠のない伝説で、大日如来の信仰が広まったのは、空海大師が布教した平安時代初期である。奈良時代の仏教は「南都六宗」が有名であるが、その中に「大日経」は入っていない。
舞を担うは「能衆」と呼ばれる舞人らで、旧家を中心に4つの集落(小豆沢、大里、長嶺、谷内)が舞楽を分担して伝承して来たと言う。小豆沢は「権現舞」、「田楽舞」、大里は「駒舞」、「鳥舞」、「工匠舞」、長嶺は「烏遍舞」、谷内は「五大尊舞」を担当しているようだ。
権現舞は「五の宮権現の舞」とも言われ、8人の中の1人が獅子頭をかぶり、オッパカラミと称される子供が尾を持ち、笛や太鼓に合わせて舞われる。田楽舞は6人が綾笠をかぶり、1人が小鼓を持ち、1人が太鼓をさげ、他の4人がささらを持ち、笛や太鼓の囃子に合わせて、天狗鼓舞・立ささら舞・大車の3節が舞われる。駒舞は垂手笠をかぶった2人によって、笛や太鼓の囃子に合わせて、礼拝・馬替・一人舞・片手舞・仁義・大車・拝礼の7節が舞われる。鳥舞は「たんぶり長者飼育の鶏の舞」とも言われ、子供3人が雄、雌、雛の鳥甲をつけ、右手に日の丸の扇を持ち、雄は左手に鈴を持って、笛や太鼓の囃子に合わせて、膝切・耳切・腰切の3節を舞う。工匠舞は「バチドウ舞」とも言われ、直垂、脚絆、高立烏帽子に鉢巻をして帯刀し、両手にばちを持ち、笛や太鼓の伴奏で4人によって静かに舞われる。烏遍舞は折烏帽子に顆面をつけ、太刀を抜き持ち、声明を唱えながら、笛や太鼓の囃子で六人立・大博士舞・二人舞の3節が舞われる。最後に五大尊舞は「たんぶり長者の舞」とも言われ、袴、脚絆、打越をつけた6人が、金剛界大日如来、胎蔵界大日如来、普賢菩薩、八幡菩薩、文殊菩薩、不動明王の面をつけ、太刀を抜き持ち、太鼓と祭文、板子の囃子に合わせて舞われる。
大日堂舞楽は毎年正月2日、午前8時から11時30分まで大日堂境内で奉納される。古くから舞楽に関わる人たちに土地が与えられ、「地村神役」として身分が保証されたようである。江戸時代にも盛岡藩が土地を与えて保護し、その伝統が現在に続いている。昭和27年(1952年)、当時の文部省が無形民俗文化財に選び、昭和51年(1967年)には重要無形民俗文化財に指定された。更に平成21年(2009年)には、ユネスコ無形文化遺産に登録される。東北では宮城県仙台市の「秋保の田植踊」と岩手県花巻市の「早池峰神楽」だけである。
086男鹿のナマハゲ(国重文) 男鹿市真山
秋田県を代表する祭りのビックスリーは、男鹿市の「男鹿のナマハゲ」、秋田市の「竿燈まつり」、横手市の「かまくら」ではないかと思っている。男鹿のナマハゲは、子供の頃からテレビニュースなど知ってはいたが、実際に大晦日の晩に行われる祭事は見たことがない。ナマハゲ行事は男鹿半島のみならず、周辺の地域を含めて約80地区で行われている。その中で小正月の7~9日まで真山神社で開催される「なまはげ柴戸まつり」が、観光客でも楽しめるナマハゲ行事として有名になった。柴戸は煩悩を消滅させて清らかにする灯火を意味し、3日間で22地区から162体のナマハゲが集結すると言う。
毎年、ナマハゲ行事がテレビニュースで放映されると、赤鬼・青鬼の面をつけた若者が、藁蓑に藁靴姿に模造の鉈や包丁を手にしている様子が映し出される。その時のセリフが「泣く子は居ねがー」、「悪い子は居ねがー」と言う奇声で、自然と耳に残っている。江戸時代から数えて200年以上の歴史があり文化8年(1811年)、58歳の菅江真澄もナマハゲ行事を見てスケッチに残している。真澄は正月15日、宮沢(男鹿市野石)のナマハゲ行事を見物したようで、この記録がナマハゲに関して最も古い文献のようだ。
男鹿半島を訪ねると、あちらこちににナマハゲの大きな像が設置されていて、何度か写真に残したことがあった。真山(567m)、本山(715m)、毛無山(677m)の「男鹿三山」を登った時、山麓の真山神社を参拝した。境内には、ナマハゲにまつわる風俗、農具類を展示する「男鹿真山伝承館」と、ナマハゲ行事の様子を実演する「なまはげ館」がある。男鹿真山伝承館には約150体ものナマハゲ人形が展示され、様々な面や衣装の展示があった。なまはげ館は茅葺き屋根の曲屋で、ナマハゲが家主に挨拶する口上と迫力満点の演技をする。実際に体験すると、ナマハゲ行事の素晴らしさが伝わって来るようだった。
ナマハゲ行事は昭和53年(1978年)、秋田県では鹿角市八幡平の「大日堂神楽」、横手市大森の「保呂羽山の霜月神楽」に続いて国の重要無形民俗文化財に指定される。平成30年(2018年)には、「来訪神:仮面・仮装の神々」として8県10件の行事がユネスコの無形文化遺産に登録された。その10件の中に山形県遊佐町の「アマハゲ」、石川県能登の「アマメハギ」も登録されて、ナマハゲ行事と類似した祭りが日本海側にあることを知った。特に能登のアマメハギは、男鹿のナマハゲとほぼ一緒で、400年以上前から伝わる厄除け神事と聞いて、男鹿のナマハゲはそのパクリとも言える。しかし、本家よりも分家が栄えることもあるので、男鹿のナマハゲは全国区となったようだ。
秋田県に道の駅は33ヶ所あるが、ナマハゲに関連した土産物を扱っていない道の駅は皆無と言える。セロロイド製の赤と青の鬼面、クッキーや饅頭など色々とあるが、インパクトのある土産物が少ないのが現状である。それはナマハゲ行事の衰退もあって盛り上がりがイマイチなのである。少子高齢化による後継者不足と、子供たちが少なくなってまわる家々が少なくなっている。地元の男鹿半島に限らず様々なアトラクションにも参加しているようであるが、空港での出迎えだけでは物足りないと思う。実際のナマハゲショーを見物するのが第一で、男鹿観光の折はなまはげ館を必ず訪ねて欲しい。
087土崎港曳山まつり(世界遺産・国重文) 秋田市土崎
足腰が衰えてきたら登山やスキーから祭りの見物にシフトしようと思っているが、満67歳になっても登山とスキー、その後の温泉めぐりの旅は続いている。それでは駄目と思い、今年から積極的に祭りを見物しようとしたところ、コロナウィルスの影響で全国各地の祭りは中止となった。特に国の重要無形民俗文化財に指定された祭りや郷土芸能は、写真と紀行文に記録してしようと思っている。土崎神明社の例祭である「土崎港曳山まつり」も未だ見ぬ祭りの1つだけに残念に思われた。
曳山は山車を曳くことの略語と思われるが、山車の中でも有名な武将や名僧の人形を仕立てた飾山は、時代絵巻を見るような豪華絢爛さが特徴である。土崎町内にある「秋田市土崎みなと歴史伝承館」には、過去に使用された曳山(飾山)が展示されていた。その飾山には3体の人形があったが、山形県新庄市の新庄祭りと仙北市の角館祭りの山車も3体であった。同類の山車でも青森県八戸市の八戸三社大祭の飾山は、その巨大さと人形の数が20体を超える豪華さは日本一と思った。祭りは市町村の財力と情熱に左右されるもので、八戸三社大祭の山車を見た時から秋田県の山車は貧弱に見えてならない。
それでも祭りの規模は小さいものの、北前船の港町として栄えた存在感は、単なる漁港であった八戸港よりは優れていると思う。宝永元年(1704年)、北前船で寄港した船主から神輿が土崎明神社に奉納される。その頃から同じ神明社の祭礼である角館祭りの山車を模して奉納されたようだ。毎年9月20日、21日の両日に開催されるが、角館祭りは毎年9月7日から9日まで行われている。新庄祭りはそれよりも早い8月24日・25日・26日に行われている。横手市浅舞の八幡神社の例祭でも山車が作られるが、その人形などは新庄からのレンタルと聞いたことがあるが、土崎はどうなのか知りたいものである。
20日は宵宮と呼ばれ、各町内の20台ほどの山車は土崎神明社に祀られている「天照大神」に奉納される。翌日が例祭となって、神輿に遷された大神が「御旅所」までの日帰りの町内旅行を楽しまれるのである。その神輿を出迎えるため、殻保町の御旅所に氏子や関係者に曳かれた山車が集結する。御旅所で祭事が行われると、次の御旅所の相染町に移動して再び祭事が行われから神社へと神輿は戻るようだ。殻保町と相染町を曳山が、笛や太鼓の囃子を奏でながら練り歩く。神輿を先導する「猿田彦命」に扮した男性は、面をつけ足駄をはいて、槍を手にしている様子が祭りのポスターに記載されていた。
菅江真澄は文化9年(1812年)、土崎港を訪ね『おものうらかぜ』の中に土崎周辺の様子を記しているが、祭りの季節ではなかったのでスケッチはない。それから66年後の明治11年(1878年)、イギリス人女性のイザベラ・バードが旅行中に偶然、曳山を見て『日本奥地紀行』の中で描写している。それはが外国人が初めて目にした土崎港曳山まつりであった。
土崎港曳山まつりが国の重要無形民俗文化財に指定されたのは平成9年(1997年)、平成年代の指定は比較的新しい。しかし、平成28年(2016年)には、ユネスコ無形文化遺産として「山・鉾・屋台行事」33件の中に、「土崎神明社祭の曳山行事」として登録されている。他に秋田県では鹿角市の「花輪祭の屋台行事」、仙北市の「角館祭りやま行事」がある。
088秋田竿燈まつり(国重文・東北三大祭り・日本三大提灯祭り) 秋田市
毎年8月3日から6日までの3日間行われる「秋田竿燈まつり」は、夏の風物詩として、青森のねぶた祭り、仙台の七夕まつりと並んで「東北三大祭り」に選ばれている。また、福島県の二本松提灯祭り、愛知県の尾張津島天王祭と並び「日本三大提灯祭り」にもなつている。令和元年(2019年)は、3日間で約131万人が来場したとされ、角館の桜まつりが15日間で約140万人であったことと比較して驚くべき観光客数である。昭和55年(1980年)には、国の重要無形民俗文化財に指定されて、その価値が認められたようだ。
竿燈まつりは七夕行事でもあった「眠り流し」が原形とされ、江戸時代中期の宝暦年間(1751~64年)頃に現在の竿燈が始まったとされる。神社の祭礼でもなく、町人による娯楽であったのが特徴で、町内ごとに竿燈の大きさと妙技を競うようになった。その時代に菅江真澄も秋田藩の久保田城下に身を寄せているが、竿燈まつりに関するスケッチを残していない。この頃の竿燈は貧弱なもので、真澄の興味を引くような祭りに進展してないようだ。
横手市に在住していた私が、初めて竿燈まつりを見物したのは、忘れもしない昭和59年(1984年)の8月5日であった。当時は秋田市に本社を置く、設備会社に在籍していたので元請の所長を誘っての接待も兼ねていた。会社は桟敷を予約してくれて、翌日のゴルフの段取りまで手配してくれた。兎に角、竿燈まつりは腰を据えて観覧するに限る。
稲の穂をイメージしたとされ竿燈は、大若、中若、小若、幼若の4種類に区別される。大若は重さ50㎏、長さ12m、提灯数は46個と規定されているようだ。中若は重さ30㎏・長さ9m・提灯数46個、小若は重さ15㎏・長さ7m・提灯数24個、幼若は重さ5㎏・長さ5m・提灯数24個が詳細である。おそらく、年齢や技術によって、大人、青年、少年、児童と区別されていると思う。竿燈の本数は280本近くとされ、約10,000個の提灯が、長さ800mの山王大通り(竿燈大通り)に灯されて、夜空を彩る。本当に稲穂が揺れている姿に見え、米どころ秋田を象徴する祭りと言える。
竿燈の妙技は、流し、平手、肩、額、腰の5種類があるとされる。所長と私は、桟敷を立って小若を持たせてもらったが、手に持って支えるだけで精一杯で、肩に乗せること、腰に支えるなど不可能なことであった。東北三大祭りは静と動の祭りで、仙台七夕まつりは七夕飾りを見る「静」の祭りで、秋田竿燈まつりの妙技を見る「動」の祭りで、青森ねぶた祭りは、跳人が激しく踊る「走」の祭りである。
この三大祭りを同じ祭りとして比較するのは間違いで、七夕祭りは神奈川県の平塚、愛知県の安城と一宮、東京都の阿佐ヶ谷と全国的であるが、竿燈は秋田県、ねぶたは青森県と秋田県の一部に限定されている。仙台の七夕まつりは1度見物しているが、青森のねぶたは5回、竿燈は3回見ている。この三大の他に盛岡のさんさ踊りと山形の花笠まつりを加えて「東北五大祭り」と称されているが、花笠まつりだけは1度も見ていない。東京を起点として4泊5日で、五大祭りの全部めぐるツアーが好評のようだ。宿泊先は周辺の温泉地が選ばれるようで、毎年参加している常連客もいると言う。私は電車でめぐる5泊6日の個人旅行を企画しているので、実践する日が楽しみである。
089角館祭りのやま行事(世界遺産・国重文) 仙北市角館
角館祭りが文献で初見されるのが『佐竹北家日記』で、元禄7年(1694年)に「鹿島祭り」として記録される。鹿島神社は町内の北端にあるが、現在は南端に位置する総鎮守・神明社と、勝楽山成就院薬師堂の祭礼とされている。平成3年(1991年)には、「角館祭りのやま行事」の名称で国の重要無形民俗文化財に指定され、平成28年(2016年)には、ユネスコの無形文化遺産の「山・鉾・屋台行事」に登録された。
菅江真澄と角館は、死の直前に縁があって文政12年(1829年)7月、田沢湖の生保内梅沢村において病となって角館の神明社に運ばれた。看病の甲斐なく76歳で病死したようで、真澄は角館祭りをあの世から見物したことになる。更に真澄の遺体は秋田の寺内に運ばれて、大好きな秋田の地に骨を埋める。その墓を詣でたことあるが、私の尊敬する松尾芭蕉翁とも共通点があって、秋田の風土が育てた江戸時代後期の偉人に他ならない。
角館祭りは、毎年9月7・8・9日の3日間行われるが、「飾山囃子」が祭り全体の名称で呼ばれている。7日が神明社の宵祭り、8日が神明社の本祭りと薬師堂の宵祭り、9日は薬師堂の本祭りとなっている。明治初期は神仏分離令によって紆余曲折したようであるが、現在は神仏習合を尊重する祭りとなっている。
角館祭りの山には置山と曳山があって、置山は神明社鳥居前と薬師堂前、立町の十字路などに置かれる。曳山は各丁内から17台ほどが出るが、武者人形や歌舞伎人形の他に、秋田おばこが曳山の上で民謡を踊るのである。有名な歌手の藤あや子も少女時代に踊っていたと聞いたことがあるが、若い頃は踊りを見に行ったようなものである。その踊りをサポートする笛や太鼓、摺り鉦や三味線の囃子は素晴らしく、民謡歌手の高らかな歌声が加わって、「歌舞音曲」の極みと言っても過言ではない。
曳山のもう1つの特徴は、「曳山ぶつけ」と称される曳山同士のぶっつけ合いである。狭い角館の道路で曳山同士が交差する際、どちらの曳山が道を譲るか交渉がなされる。交渉が決裂すると、曳山のぶっつけが始まる。重さが4.5トンもあるとされる曳山の衝突音はすさまじく、耳心地の良い音ではない。曳山に挟まれねて死亡するケースもあって、怪我をする参加者も多い。観光客向けにわざととぶつけることもあるようで、祭りは喧嘩ではないので、参加者も観覧者も祭りを楽しむことが第一と思う。
角館は桜の花見シーズンが最も観光客が多く訪ねるが、秋の角館祭りは観光が意外と少ない。そもそも祭りは、寺社の祭礼が多く、檀家や氏子による祭りである。地元住民のイベントであって、観光客を呼び込むために開催されることはない。観光客に対しても冷淡に思えるのは、角館は街や道路が狭く、多くの観光客を受け入れるキャパシテーにない。要するに観光地と言えど、地元住民の生活が優先されるべきであって、「小京都」と呼ばれているものの、京都のように観光客であふれる街となってはならない。
今年の令和2年(2020年)、角館を春と秋の2回訪ねたが、コロナウィルスの影響で閑散とした状況であった。この時がチャンスと思う観光客は少ないようで、私もその1人となった。かつては注目もしなかった五井家の建物、取り壊される角館庁舎を写真に残した。
090刈和野の大綱引き(国重文) 大仙市刈和野
秋田県人は大きなものが好きらしく、江戸時代の佐竹の殿様は江戸詰の折、秋田の「大蕗」を諸大名に自慢した話が有名である。現在は仁井田のフキは人の背丈の大きさがあるが、上には上があるのもで、北海道名寄町の「ラワンブキ」は、高さ約3m、太さ10cmと日本一の大きさである。樹木の部では「勝手に秋田遺産100選」に仙北市の「日本一のブナ」と「日本一のクリ」を選んだが、知らない所に秋田県の日本一があるものである。
祭りや郷土芸能の部門で、何か日本一を誇れるものがないかと調べた所、北秋田市鷹巣の「綴子大太鼓」が、太鼓の大きさでギネスの認定を受けていた。巨大な太鼓を造ることにどんな意味があるかと思うと、佐竹の殿様から始まる見栄の連鎖に他ならないと感じる。そこで注目したのが「刈和野の大綱引き」で、室町時代から500年以上と歴史は古い。それに、昭和5 9年(1984年)には国の重要無形民俗文化財に指定されているので文句はない。
ただ残念なことは、「勝手に秋田遺産100選」に選んだものの、祭りや郷土芸能の部門に関しては、大日堂舞楽、土崎港曳山まつりと同様に未だに見物していないことである。
全国各地に綱引き祭りはあって、福井県では「敦賀西町の綱引き」と「日向の綱引き」、兵庫県は「但馬久谷の菖蒲綱引き」、鳥取県は「因幡の菖蒲綱引き」、佐賀県は「呼子の大綱引き」、沖縄県は「沖縄の綱引き」、この5県が「日本三大綱引き」を豪語している。沖縄の綱引きは、日本最大を自慢とているが、綱の長さなのか、太さなのか定かではない。私が調べた中では、刈和野の大綱は左右に分かれていて、雄綱は64m(42尋)、雌綱は50m(33尋)もあって、重さ各々10トンにもなるので国内では最大であると思う。
大きさもさることながら、東西や紅白に分かれて市内や町内を二分して競う祭りは、価値観を共存する地域社会の必要不可欠なレクレーションやコミュニケーションでもある。私が子供の頃から最も楽しみしていたのは、郷土の祭りであった。普段では想像もできないような人出と、夜店の屋台には惹かれるものがあった。人が集まる所には、食べ物屋を中心に様々な商売が成り立っていたし、祭りは地域の活性化を担っていた。
刈和野の町は昭和の戦後になると、捕鯨船に乗り込み出稼ぎをする若者が増えて、その収入に支えられた面がある。どんな祭りでも住民の寄付や志納によって成り立つもので、大綱引きが行われる2月10日は、大枚の寄付が寄せられたと思う。秋田県には他に類似した祭りはないので、「勝手に秋田遺産100選」に選んだ。
祭り当日の昼ごろには大綱が路上で磨れ切れるのを防ぐため、旧奥州街道の刈和野大通りにはダンプカーで大量の雪が運ばれる。浮島神社の宮司が町内の安全や五穀豊穣を祈願する神事も行われ、大綱の上からは餅やミカンがまかれると言う。二日町と五日町に分かれた総勢約六千人が、大綱の側にしゃがんでスタートを待つ。建元と呼ばれる主催者の「ソラー」の合図で、老若男女が一体となった大綱引きが始まる。「ジョヤサ、ジョヤサ」や「ジャー、サノー」の掛け声で、渾身の力で手綱を引く。その様子を眺めた菅江真澄は、『月の出羽路仙北郡』の取材で、文化10年(1727年)に刈和野を訪ねていて、男根女根の陰陽二柱を大綱の中間に鎮座させて市神としてを祀ったことを記している。
091大曲の花火(全国花火競技大会・日本三大花火大会) 大仙市大曲
秋田県において最大の祭りと言えば、毎年8月の最終土曜日に開催される「大曲の花火」で、正式名称は「全国花火競技大会」である。明治43年(1910年)、諏訪神社の余興として開始された「奥羽六県煙火共進会」が前身である。しかし、110年目を迎えた令和2年(2020年)の大会は、コロナウィルスの影響で中止された。第二次世界大戦で中止されて以来の出来事となって、花火大会で潤った地元の大きな損害ともなった。
大仙市に自治体名が変わったが旧大曲市の花火大会は、茨城県土浦市の「土浦全国花火競技大会」、新潟県長岡市の「長岡まつり花火大会」と並び「日本三大花火大会」に選ばれている。土浦市とは長い間、「全国花火競技大会」の名称を競っていたが、平成4年(1992年)に土浦市は「土浦全国花火競技大会」に変更したことにより問題は解消されが、互いに80万人の人出があって、良きライバル関係は続いている。
長岡の花火大会は2夜にわたって行われ、約104万人の人出があると言う。土浦や長岡の花火は見たことはないが、発達障害の画家・山下清の「長岡の花火」の貼り絵は脳裏から消えたことはない。山下画伯は日本で最初の花火愛好家とされるが、大曲の花火を見ていないのが残念であるが、当時はあまり有名でなかったのが事実である。
大曲の花火が有名になった背景には、当時の諏訪神社の余興から大曲市と観光協会が独自の大会として分離させ、PR活動を行ったことである。昭和59年(1984年)に初めて桟敷で、花火大会を観賞した。当時は岩手県北上市で仕事をしていたが、午後5時に北上を車で出発しても7時からの夜花火には余裕で到着した。その頃は15万人ほどの人出であったと思われるが、その後はうなぎ上り増え、車で大曲市内に入ることを諦め、奥羽本線横手駅を利用するようになった。最近は1人で見物することが多く、桟敷の購入をしなくなったが、昨年(2019年)の大会から規制が厳しくなって、桟敷席の入場券を持たない客は、大会本部近くには入れなくなったし、土手からも眺められなくなった。
大曲の花火の特徴は、まだ明るい午後5時頃から行われる昼の花火で、様々な色の煙火が空を彩る。ライバルの土浦でも行っていないオリジナルである。競技大火なので、10号玉2発の競技となる。最高点に達したときに開く「座り」、真円であるかどうかの「盆」、まんべんなく放射状に広がっているかの「肩」など他、「消え口」や「配色」が審査される。その後に創作花火の部となって、花火師の個性が夜空を散りばめる。
花火の打ち上げ数は、15,000~20,000発と言われるが、開催時間に制限があるので、数を競う花火大会でない。約80万の観客が一体感となれるのが、大曲の花火の素晴らしさで、秋田県民歌が流れ、最後に打ち上げられるスターマインは圧巻である。ここ数年は混雑を避けるため、スターマインを見たことはないが、ナイアガラの滝のような広がりである。大会には約660社から3億4千円の寄付金が寄せられそうで、その大金が4時間で消えて行くのである。観客が大曲で消費する金額は1人当たり約2,000円とされるが、単純に計算すると16億円となるので、寄付金の5倍返しとなる。この経済効果が大曲の街や関係者の生活を潤すことになるので、秋田県にとっても名誉ある観光事業と言える。
092六郷のカマクラ(国重文) 美郷町六郷
横手のかまくらは全国的に有名であるが、他にもかまくら行事があるのを知ったのは、最近のことである。栃木県日光市の湯西川温泉かまくら祭、岐阜県高山市新穂高温泉の中尾かまくらまつり、長野県飯山市のかまくら祭り、長野県木曽町の開田高原かまくらまつりなどがあった。そこで秋田県内に目を向けた所、横手市の隣町でもある美郷町に「六郷のカマクラ」があるを知った。それも国の重要無形民俗文化財に昭和57年(1982年)に指定された。無冠である横手のかまくらに比べると、知名度は小さくて存在感は大きい。
六郷のカマクラは、有名な「竹うち」を見物に来た時にカマクラ(鳥追い小屋)とめぐりあった。行事の歴史は古く、鎌倉時代に六郷の地頭・二階堂氏が豊作祈願として行った火祭(左義長)が起源とされ、700年余り続く小正月行事である。現在は毎年2月11日から15日まで5日行われ、11日は「蔵開き」と「天筆書初め」、12日は「小正月市」と「鳥追い小屋」づくり、15日の最終日が「天筆焼き」と「竹うち」が行われる。この一連の催しを「六郷のカマクラ」と呼び、江戸時代初期に定着したようである。
文政11年(1828年)、菅江真澄は『月の出羽路仙北郡』の取材で六郷の高野に滞在し、カマクラで遊ぶ子供の姿を紹介している。また、秋田諏訪宮の様子をスケッチしているが、左下に見える清水は、神主の斎藤家の庭園にある心地ヶ池で、2本の御神木の右側には、竹うちが行われ広場となっている。当時はヘルメットもない時代で、その竹うちがどんなものであったのかと、気になる所である。
六郷の町内を散策すると、鳥打ち小屋があちらこちにあったが、横手のかまくらのような雪洞ではなく、40~50㎝四方の雪を積んで壁をつくり、その上に茅で編んだむしろを屋根にしているようである。小屋の中で子供たちが炭火で餅を焼いてもガス中毒にならないように通気を良くする工夫のようた。横手のかまくらは「水神様」であるが、六郷は「鎌倉大明神」を祀っていた。それがカマクラの語源のようで、横手とは違った歴史を感じる。
六郷で有名な六郷湧水群は「勝手に秋田遺産100選」にも選んだが、その湧水群を見物して竹うちの会場へと戻った。先ずは参拝客の絶えない秋田諏訪宮を詣で、寒さに耐えながらも北軍と南軍に分かれ陣取る会場で、その雄叫びが空に響く時を待った。午後7時過ぎ、煙火の合図とともに町内の男衆約200人が広場に集結して来る。長さ7~8mの青竹が約3,000本用意され、竹が折れると新しい竹に替えられるようだ。また、積雪が少ないと危険防止のため中止されたことが何度かあったようである。
北軍が勝てば豊作で、南軍が勝てば米の値段が上がるとされるが、どちらが勝っても良いことされている。勝負が開始されると竹やりによる戦でも見るように塩梅で、押しては引いての繰り返しが行われる。1回、2回と竹うちが行われた後、一旦は休憩となって会場で「天筆焼き」が行われ。天筆は「吉書」とも呼ばれ、宮中から伝わった書初めである。七夕の短冊と同じく、子供たちの願い事が書かれ、神官の松明で点火して燃やされる。その火が消えない中で、3回戦が始まって六郷のカマクラのクライマックスを迎える。火の粉が舞いあがる幻想的な風景であるが、参加者よりも観客が少なかったのが淋しく見えた。
093横手のかまくら(みちのく五大雪まつり) 横手市双葉町
小学生の頃、自分でかまくらを作ろうとしたが、上手に作れずに近所の中学生の兄さんに手伝ってもらって完成させたことがあった。キャンプなど知らなかった時、隠れ家的な雰囲気を味わったものである。もっとも身近なかまくらでも「横手のかまくら」を始めた目にした時は、その大きさ驚いたものである。
横手のかまくらは、毎年2月15日から16日の2日間行われるが、その様子は全国ニュースで放映されるので、知名度は高いと思われる。横手市は平成3年(1991年)には、横手市ふれあいセンターかまくら館を市役所に隣地にオープンさせた。館内には約マイナス10℃の冷凍室が設けられ、年中実物大のかくまらを保存展示し、PRに余念がない。また、かまくらを作る人を「かまくら職人」と呼んで、その育成も行っているようだ。
かまくらの設置の会場は昔、本場の二葉町、横手駅前や横手公園と限られた場所かだけであったが、最近では秋田ふるさと村、市役所通り、武家屋敷の羽黒町と増え、旧雄物川町の木戸五郎兵衛村にも作られるようになった。そのかまくらの総数は100基にもなると言うが、雪不足の年は数を減らしていると聞く。何度か道路に雪のない状況のかまくらを見物したことがあったが、幻想的と言われるかまくら情緒は全く感じられなかった。
かまくらの開催時期、横手市の自宅にいれば見物して来たが、最近の冬は横手で過ごすこと少なくなった。昨年は北海道の温泉とスキー場を制覇するため、倶知安町の工事現場を仕事場所に選んだ。その前の年は長野県小諸市で、これも温泉とスキー場をめぐることが目的であった。その時に長野県にもかまくら祭りがあることを知って、驚いたのである。
横手のかまくらは、室町時代から約400年の伝統があると自負し、その頃は六郷のカマクラ(鳥追い小屋)と同様に「鎌倉大明神」をかくまらに祀ったと言っている。しかし、横手のかまくらは明治の頃、火祭の古式を改め、「水神様」を祀って六郷のカマクラとは違った風習となった。天明4年(1784年)の訪ねた菅江真澄は、「かまくらあそび」と題した絵と文章を残したとされるが、未だに見たことがない。
有名な人物が横手のかまくらを見物しているが、中でも昭和11年(1936年)に来日したドイツの建築家であるブルーノ・タフトが横手のかまくらを見物して絶賛した話がある。また、昭和15年(1940年)には民俗学者の柳田國男も訪ねて「雪国の民俗」に記している。昭和30年代に画家の岡本太郎も「芸能風土記」の取材で訪ね来て、メルヘンチックと彼らしい言葉を残した。そんな来訪者があったことを横手市は、パンフレットなどに一切伝えていないのが残念に思われるし、かまくら行事の真実を調査すべきであろう。それがあって、国の重要無形民俗文化財に指定されることも夢ではないと思う。
2月16日の午前中、かまくら行事と一緒に行われる「梵天コンクール」は見逃せない。梵天の奉納は、横手市大沢にある旭岡山神社の小正月の行事であったが、昭和27年(1952年)より新暦の2月17日に奉納が変更された。1度だけ神社の石段に陣取って奉納を見物したが、勇ましい若衆が履いているゴム長靴やスノーシューズを見てがっくりした思い出がある。雪祭りには藁ぐつ、それがイナセと思うが、そこまで拘る祭りではないようだ。
094西馬音内盆踊(国重文・日本三大盆踊り) 羽後町西馬音内
国の方針で実施された平成の市町村大合併、秋田県の南部においては由利郡、仙北郡、平鹿郡が消失したが、雄勝郡には羽後町と東瀬成瀬村が合併をしないで存続している。東瀬成瀬村は、県南唯一の大規模なスキー場があって、巨額を投ずる東成瀬ダムの建設が予定されていた。それでは羽後町には何があるのか思案した所、「西馬音内盆踊」が関連しているのではと思った。毎年8月16日から18日まで3日間行われるが、約10万人が訪れると言われる。様々な場所で夏祭りが行われので、人口が約1万4千人の羽後町としては全国から集客できる祭りに町の発展を期待しているように思われる。
西馬音内盆踊を初めて見物したのは昭和54年(1979年)のシーズンで、仕事の関係で西馬音内に来ていた25歳の時である。この頃は知名度が低く、昭和5 6年(1981年)に国の重要無形民俗文化財に指定されるまではあまり注目されなかった。桟敷席は簡素なもので、そこに座って鑑賞する直木賞作家・色川武大(阿佐田哲也)の姿を目にした。この頃の観光客は数千人の規模で、私も含めたアマチュアカメラマンも50人程度であったと思う。
盆踊りの歴史は古く、鎌倉時代に修行僧が豊年祈願として躍らせたと言われ、関ヶ原の戦いで滅んだ西馬音内城主・小野寺一族の供養のため踊ったとも言われる。踊りの場所が寺の境内から現在の西馬音内本通りに移ったのは天明年間(1781~89年)の頃と言われる。天明4年(1784年)の晩秋、31歳の菅江真澄が西馬音内を訪問しているが、盆踊りについてはこの頃の著作である『鰐田濃仮寝』には触れていない。しかし、明治になると、俳人・河東碧梧桐や民俗学者・柳田國男などが盆踊りを絶賛している。昭和10年(1935年)4月、日本青年館主催の「第9回全国郷土舞踊民謡大会」へ東北代表として出場した結果、注目される踊りとなって現在に受け継がれている。
西馬音内盆踊の特徴は衣装で、女性は編み笠に端縫いの着物、男性は彦三頭巾に藍染浴衣に統一されていることである。道路の中央に篝火がともされ、舞台には歌い手や囃子方が上がって、賑やかで少し卑猥な音頭や甚句を披露する。その歌や伴奏に合わせ、女性はしなやかな踊り、男性はひょうきんに踊る。特に妖艶にも見える女性の姿には、夢中になってしまう。最近は桟敷も取れず混雑していると聞き、見物が遠のいてしまったが、機会があれば、再びカメラを手にして眺めたい。
西馬音内盆踊は岐阜県郡上市の「郡上踊り」、徳島県徳島市の「阿波踊り」と並んで「日本三大盆踊り」に選ばれているが、同一視するのは問題があると思う。阿波踊りは編み笠に着物姿で踊る形態は一緒であるが、約100万人の観光客数である。郡上踊りは約20万人で、西馬音内盆踊の倍ではあるが、阿波踊りほどの格差はない。そこで富山県富山市の「おわら風の盆」は約27万人であることを踏まえると、「日本三大盆踊り」に相応しいと思うし、阿波踊りは世界中から観光客が集まるので別格と言える。
秋田県の伝統芸能の中で、国の重要無形民俗文化財に指定されているのは16件で、これは全国第一位である。その中から数は10軒を「勝手に秋田遺産100選」で取り上げたが、この評価を再認識して、観光資源として活用することが望ましい。
095比内鶏(国天然記念物) 大館市比内
国の特別記念物や天然記念物には様々あるが、秋田県特有の家畜や家禽に関しては「比内鶏」、「声良鶏」、「秋田犬」の3件が選ばれている。その中から「比内鶏」と「秋田犬」を「勝手に秋田遺産100選」に選んだ。比内鶏は秋田県北部・米代川流域の比内地方で飼育されている家禽である。首長く鶏冠が小さいのが特徴で、軍鶏の一種とされる。縄文時代の遺跡から比内鶏の骨が発見され、家禽として存在したと言われる。江戸時代から比内鶏の名で愛好されたが、明治時代なると外来種が輸入され飼育されると、絶滅危惧種となって、昭和17年(1942年)に国の天然記念物に指定されて保護された。
比内鶏は野鶏に近く、ヤマドリに似た風味があることから食用にと考えらたが、飼育が難しく品種改良されたのが「比内地鶏」である。雄の比内鶏と雌のロードアイランドレッド種を掛け合わせ、加熱しても固くならい濃厚な鶏肉の誕生となった。余談になるが「比内地鶏」は、愛知県名古屋市の「名古屋コーチン」、鹿児島県鹿児島市の「薩摩シャモ」と共に「日本三大地鶏」に選ばれている。数年前に偽装事件で評判を落としたものの、比内地鶏の肉の味は日本一と思っているし、地元の人々にも自信を持って地鶏を育てて欲しい。
比内鶏は大館に来れば、様々な場所で見られると思ったが、初めて見たのは大館郷土博物館に隣接する「秋田三鶏記念館」であった。この秋田三鶏記念館では、国の天然記念物である比内鶏と声良鶏、県の天然記念物である金八鶏の「秋田三鶏」と称される鶏を飼育しつつ、紹介する施設である。私が訪ねた時は、冬期期間の休館中であったので、三鶏の実物と出会うことはなかったが、大館郷土博物館に三鶏のはく製が展示されていて、その美しく凛々しい姿を観察することができた。金八鶏は比内鶏と軍鶏とを交配した際、突然変異で生まれた鶏とされ、気が短いが人にはよくなつくようである。
養鶏は食肉や鶏卵の生産のために家畜であるが、秋田三鶏の飼育は道楽や趣味の世界で、錦鯉などを飼うことと共通する。自分の育てた三鶏を自慢することが楽しみであったと思うし、競い合う仲間が大館に多くいたことが三鶏の存続に関わっている。
大館郷土博物館で解説書をよく見ると、声良鶏も「日本三大長鳴鶏」に選ばれていて、高知県の「東天紅鶏」、新潟県の「唐丸」が三大であった。いずれも標準の体高75㎝、体重は5㎏にもなる非常に大きな鶏である。その鳴き声の長さは15~20秒間と言われ、その聴き比べをしたいと思うのであるが、そこまでサービスするほど力んでいないのが大館市らしい。大館の街を発展させた花岡鉱山の閉山で、時代の流れに翻弄されて来た歴史があるにせよ、寂れて行く街の様子は尋常でないと思った。
大館市の悪口を敢えて言わせてもらうと、開湯1200年の大滝温泉を廃墟の温泉街としたのは大館市の責任で、繁華街を鉛色に放置しているのも大館市である。秋田犬の産地、きりたんぽ鍋の本場に限らず、創業127年の日景温泉、旧鳥潟家住宅の名園である鳥潟会館、佐竹西家の館があった桂城公園(大館城跡)など優れた観光遺産があるのにPRしようとする情熱が感じられない。旧大曲市は「全国花火競技大会」に命運をかけ、旧横手市が「かくまら祭り」と「横手焼きそば」を猛烈に宣伝した結果がその評価となったのである。
096秋田犬(国天然記念物) 大館市大館
ロシアの女子フィギニュアスケート選手・アリーナ・ザギトワ(当時15歳)に、「秋田犬保存会」から秋田犬が贈られて大きなニュースとなった。ザギトワ選手は、子の雌犬なのに「マサル」と名付けたこも耳に残っている。また、モンゴル出身の元横綱・朝青龍(ドネゴロスレン・ダグワドルジ)にも秋田犬が贈られて「さくら」と命名された。海外では秋田犬の人気が高いようで、日本の全体の頭数より、海外の方か多いようだ。
秋田犬の雄は、体重が35~50㎏、体高が61~67㎝にもなる大型犬で、寿命は10~12年と短いようだ。その特徴は足が長く腰高の体躯、、耳は三角形の立ち耳、尻尾は太く丸く、体の毛は短毛で、毛の色は薄い茶褐色と白色の混合色が一般的のようだ。秋田犬の性格は、飼い主には忠誠心が厚く、それ以外の人や犬に対しては警戒心が強いと言われる。
秋田犬の名を一躍有名にしたのは、「忠犬ハチ公」で、昭和9年(1934年)に東京渋谷駅に銅像が立てられ、はく製となった遺骸は上野公園の国立科学博物館に展示されている。余談になるが、名馬や名犬の名前は良く聞くけれど、名牛や名猫の名前は聞いたことが無い。馬も牛も農耕や荷の運搬で人の手助けとなって来たが、牛は馬ほど利口でないのが原因であろう。猫に関しては化け猫と嫌われることがあって、化け犬の話は聞かない。犬は単純で人になつきやすい面があるが、猫の気持ちには裏表があるように見えてならない。
名犬の話では、新潟県にも「忠犬タマ公」がいて、猟師の飼い主を雪崩から2度も救ったそうである。この犬は「越後柴犬」で、猟犬として飼われていた。秋田犬も昔は「大館犬」と言われる猟犬で、マタギ犬や大館地方の地犬との交配と言われる。昭和7年(1937年)、国の天然記念物に指定されて、「秋田犬」の名称に改められた。
地元の大館市には、昭和52年(1977年)に秋田犬保存会によった「秋田犬会館」建てられ、その3階が秋田犬博物室となっている。犬種に特定した博物館としては、日本で最初の唯一の博物館であるが、建物の老朽化と展示品の古さが開館40年余の歴史を語っていた。秋田県は秋田犬の宣伝には余念がなく、どこの観光地にも生き人形のように飼育展示されているが、大館犬会館の檻で飼われていた秋田犬は私の顔を見て終始吠えていた。基本的に動物は狭い檻の中で飼うのは問題と思うが、あまり気にしていないようだ。
子供の頃、放し飼いにしていた大きな秋田犬に追われ、泣きながら逃げた思い出がある。また、大人たちの中には白い秋田犬は旨いと、肉鍋にして食べていた様子を見たことがあって、秋田犬に対しては良いイメージがない。戦後の食糧難の頃は、犬ばかりではなく、スズメやハトも食べられていたので、野蛮な国民性は否定できない。最近の観光地で見る秋田犬はおとなしく、愛嬌良く振る舞う姿を見ると、近づいて頭を撫でてやることもある。ナマハケと秋田犬は、秋田県の二大キャラターで、県民が宣伝をする対象となっている。
秋田犬のように猟犬として活躍した柴犬も国の天然記念物に指定されているが、その犬種は全国に広まっている。雄の体高は38~40㎝の小型犬であるが、ツキノワグマに立ち向かうほど勇猛な犬で柴犬の方が好きである。知人の中に柴犬を飼っている家かあったが、最初は吠えられていたが、何度となく顔を出すうち、身内と思ったらしく吠えなくなった。
097きりたんぽ鍋(本場) 大館市、鹿角市
秋田県には様々な郷土料理があるが、全国的に有名なのは「きりたんぽ鍋」で、鹿角市が発祥の地と称し、大館市はきりたんぽ鍋を広めた本場であると主張している。しかし、実際に「きりたんぽ鍋」を全国に広めたのは、秋田市川反通りに軒を並べた料亭や郷土料理店であると思っている。特に「料亭濱乃家」は、比内地鶏に秋田の新米を使った「きりたんぽ鍋」で、それが最初に食べた「きりたんぽ鍋」であった。
きりたんぽ鍋の主材である「きりたんぽ」は、カタカナ表記されることもあるが、漢字では「切蒲英」と、蒲公英みたいに表記されていた。古くから「たんぽ餅」とも呼ばれ、うるち米で炊いたご飯を杉の棒に竹輪のように巻き付けて焼いたものである。十和田湖畔の土産店などでは、たんぽ餅を味噌で焼いて提供している。おそらく、長野県飯田市の「五平餅」のように、ご飯をすりつぶして竹に差して、直火であぶって味噌だれをかけて食べるやり方を真似たものであろう。しかし、たんぽ餅は杉の串から切り離し、鍋にした方がはるかに美味しいと思う。五平餅と似ているようであるが、その風味は全く異なる。
30年ほど前から知人が「きりたんぽ鍋セット」の販売を始めたこともあって、毎年5軒ほどに送っていたが、コロナウィルスの影響もあって今年は中止した。北海道の毛ガニや北陸の越前ガニに比べると、有難味を感じてもらえないと承知している。鍋を囲んでいた友人の子供にも子供ができ、きりたんぽ鍋よりも食べたいものは色々とあると思う。郷土料理は、その地を旅行して一杯飲みながら食べることに尽きる。
きりたんぽ鍋の発祥の地を自負する鹿角市は、八幡平トロコ地区のマタギの料理であった言う。江戸時代の中期頃、岩手県の南部地方には「たんぽ」の名で呼ばれていたようで、盛岡藩の殿様も食べたと言われる、寛政6年(1794年) 、下北半島を訪ねた菅江真澄も『おくのてぶり』の道中記の中てで「たんぽやき」のことを記している。江戸末期の慶応元年(1865年)、阿仁前田(現在の北秋田市)の役人で俳人であった庄司唫風が、『郡方勤中日記』の中に「きりたんぽ」のことを記載している。これが文献上、「きりたんぽ」の名が最初に記された古文書とされる。明治時代になると、湯瀬温泉に開業した関直旅館(現在の湯瀬ホテル)が「きりたんぽ鍋」を提供したとされる。昭和26年(1951年)頃から大館市では一般家庭でも食べられるようになって、その普及に努めたことから本場と称しているようだ。
きりたんぽ鍋の具材は様々であるが、大館では一般的に出汁(比内地鶏のがら・塩・醤油)、きりたんぽ、比内地鶏、ごぼう、舞茸、長ねぎ、セリのようである。最近は鍋料理用のカット野菜があるので、自分で作る時はそれを使って1人鍋を楽しんでいる。比内地鶏は高いので、安いハタハタを代用する時もある。
令和2年(2020年)1月、北海道帯広市に住む従姉を訪ねた時、「居酒屋秋田」という郷土料理店できりたんぽ鍋を食べたが、従姉は殆ど食べたことがないと言って感激していた。私が東京に住んでいた時は、秋田の郷土料理店が好きで、上野の駅前まで食べに行ったことがあった。鍋に限らず郷土料理は良いもので、その店には秋田の名酒がずらりと揃えられていて、地元・横手市の居酒屋よりも酒の種類が豊富であった。
098石焼き鍋(本場) 男鹿市
男鹿半島の男鹿湯本温泉に泊まると、どこの旅館やホテルでも出されるのが「石焼き鍋」で、「日本秘湯を守る会」の旅館では真夏でも提供していた。石焼き鍋は元々、男鹿の漁師たちが浜辺で焚き火しながら食べる料理方法であった。木桶を鍋代わりとして味噌仕立ての汁と魚介などを入れ、400℃以上に加熱された石を入れることで一気に沸騰させるのである。漁師ならではの豪快な料理で、木桶を用いた場合は「石焼き桶鍋」と呼び、海辺で料理することから「磯焼」とも言うらしい。
石焼きに用いる石は何でも良いわけではなさそうで、「金石」と呼ばれる溶結凝灰岩が使われている。波でもまれて丸くなったもので、金属のように固く重くなった石が良いとされる。木桶がない時は、岩場のくぼみに材料と焼き石を投じて料理したようで、焚き火さえおこせば良いわけである。
石焼き料理と聞くと、韓国料理の「石焼きビビンバ」を想像する人も多いだろう。これは石をくりぬいた石製の容器を加熱するもので、男鹿の石焼きとは全く異なる。石焼き鍋と類似した料理がないかと調べた所、静岡県下田市にも石焼き鍋を提供するホテルがあった。男鹿のように郷土料理として確立されたものではなく、「いけんだ煮みそ」の郷土料理をアレンジしたよようで、全国区とはなっていない。
石焼きの食材は、カワハギやタラの魚、貝類、野菜は白菜・ねぎ・セリで、きのこ、しらたき、豆腐など使用する。男鹿の旅館やホテルでは、エビやカニなどを入れて、高級感を演出しているようだ。わざわざ男鹿まで行かなくても、秋田市内の料亭や郷土料理店で提供している店が多い。一方、本家の男鹿市では、石焼き鍋を売りにしようと躍起である。
平成31年(2019年)3月、道の駅おがで行われた「冬の男鹿グルメマーケット」では直径1.8mの巨大な秋田杉の木桶に巨大な金石を入れて石焼き鍋が作られた。他にもしょっつる鍋やたまご鍋が作られ、350人が試食するイベントとなって、ギネスブックの世界記録に認定されたと聞く。これが毎年行われると、初春の風物詩となって、全国ネットのニュースに放映される。その宣伝効果は絶大で、男鹿半島の魅力が増えることになる。
菅江真澄は男鹿半島に3度も訪れてしばらく滞在もしたが、石焼き鍋の風習については、記録を残していない。真澄が死去した文政12年(1829年)、10代秋田藩主・佐竹義厚は、川狩りと称して岩見川流域を訪ねている。その時に獲った鱒を石焼料理にして食べたとされる。男鹿半島だけの料理ではなかったようで、石焼き鍋の発祥の地は旧河辺町で、本場が男鹿市と、きりたんぽ鍋のような経緯となるようだ。おそらく、文献に残っていないので、男鹿半島の石焼き鍋は明治以降の漁師たちによるものだろう。
秋田県には石焼き鍋の他にもハタハタを使用した「しょっつる鍋」、タラの白子を使用した「だだみ鍋」など鍋料理が多い。漬物などは種類も豊富で、「いぶりがっこ」や「田舎漬」が有名である。昔の流行歌にザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」があたったが、その歌詞に「酒は美味いし、ネエちゃんは綺麗だ」の文言があったが、そこに旨い郷土料理を加えると、秋田県をイメージした歌に思えてならない。
099横手焼きそば(日本三大焼きそば) 横手市
平成18年(2006年)、青森県八戸市で「第1回ご当地グルメでまちおこしの祭典・B1グランプリin八戸」が行われた。その時、ゴールドグランプリに輝いたのが、静岡県富士宮市の「富士宮焼きそば」で、シルバーグランプリとなったのが「横手焼きそば」であった。平成20年(2009年)には、第4回目のB1グランプリが秋田県横手市で開催されると、地元とあって、横手焼きそばはゴールドグランプリを獲得して雪辱を果たした。B1グランプリは全国的な食の祭典となって、第1回目は約1.7万人の来場者数であったが、福岡県北九州市で開催された第7回目の時は、約61万人と最多を記録した。
B1グランプリの影響もあってか、横手焼きそばと富士宮焼きそば、そこに群馬県屋太田市の太田焼きそばが加わって、「日本三大焼きそば」と称されている。青森県黒石市の黒石焼きそばや全国的なホルモン焼きそばもあって、決定的な日本三大ではないと思う。私も全国の焼きそばを食べて来たが、手前味噌であるが横手焼きそばが好きである。
横手焼きそばは昭和23年(1948年)、中央町(旧馬喰町)に元祖神谷やきそば屋が創業し、「横手焼きそば発祥の地」とされる。しかし、現在のソース焼きそばは、昭和10年(1935年)頃に東京浅草の屋台で作られていたようだ。戦後は祭りの屋台の名物となって、その香ばしい匂いに誘われて、焼きそばは全国に広まった。広島や大阪では名物の「お好み焼き」でも食べられていて、焼きそばの起源を特定するのは難しい。
横手焼きそばは、パサパサとした麺と、あっさりとしたソースが特徴である。キャベツなどの野菜だけが入ったものを「普通」、それに挽肉を入れたもの「肉入り」、目玉焼きを添えたものを「玉子入り」と呼び、全て入ったものが「肉玉入り」と称している。また、麺の量によって、「並」、「中盛」、「大盛」と呼び、店によっては麺が二束、肉と玉子が入ったものを「特製」と言う店もある。
私は横手市の隣町・浅舞に生まれ育ったが、浅舞にも焼きそばの専門店、商店や食堂など約10軒で提供されていた。特に有名だったのは、「今野食堂」と「ふじたやきさば」であった。いずれの店も贔屓にしていたが、今野食堂で名物バァーちゃんが亡くなると、息子の父さんと、嫁の母さんが焼きそばを焼いていた。焼きそばは焼く人によって味が変わるもので、今野食堂では、母さんの顔を見て焼きそばの特製を注文した。
実家の浅舞を離れてからは、横手駅前の焼きそば専門店「ふじわら」に通うようになって40余年が経つ。横手市では平成13年(2001年)、横手焼きそばを町おこしに利用しようと「横手やきそば暖簾会」の設立に尽力し、B1グランプリの誘致を実現する。平成19年(2007年)には、焼きそば店の資質向上を目指して焼きそばのグランプリが行われ、上位4店に「横手焼きそば四天王」の称号が与えにれた。1回目の大会には、「ふじわら」も参加して四天王に選ばれるが、年齢的な問題もあって以降の大会には参加していない。
実家のある浅舞では、唯一残っているのが「ふじたやきそば」で、味噌汁などのサービスがあって、値段も安くて忘れた頃に食べに行っている。焼きそばは、祭りなどの屋台でも美味しい店もあるし、スーパーの焼きそばもそんなに悪くはないと思うようになった。
100稲庭うどん(日本三大うどん) 湯沢市稲庭
ラーメン、蕎麦、うどん、そうめんなどの麺類の中で、何が一番好きかと自問した時、毎朝食べているのが盛り蕎麦であった。ゆでた蕎麦の値段が40~90円と安いこともあるが、調理が簡単でシンプルなことが良い。ラーメンは具材に左右され、麺だけを食べることは全くない。うどんに関しては「鍋焼きうどん」が大好きで、冬場の食生活には欠かせない。うどんはうどんでも別格に思うのが、主に湯沢市稲庭で生産される「稲庭うどん」である。
子供の頃は、実家の浅舞から30㎞ほどしか離れていない旧稲川町に有名な稲庭うどんがあるのは知らなかった。大人になってから、秋田の名産品を土産に贈る際に初めて稲庭うどんの存在を知った。一般の食堂のメニューにもなく、横手では土産物屋の嶋津か有名な料亭でなければ食べられなかった。40年ほど前、顧客の接待で本場・稲庭まで行って食べた美味しさは鮮明に覚えている。しかし、ラーメンや蕎麦のように毎日のように食べたいと思わない。やはり高価高級というイメージがあって、気軽に食べる麺類ではない。
江戸時代初期の寛文5年(1665年)、稲庭地区小沢に住む佐藤市兵衛が地元産の小麦粉を使って干しうどんを製造したのが始まりとされる。この当時、名前に名字があるのは武士だけで、小野寺氏の元家臣から帰農した可能性が高い。その後、秋田藩の御用達となって、その伝統が脈々と続くのである。文政5年(1824年)に菅江真澄は『雪の出羽路雄勝郡』を再びまとめている。その中で稲庭うどんは、元文年間(1736~40年)に佐藤氏5代目の吉左衛門が由利郡本荘で製法を習って干しうどんを始めたと記しいる。創業には70年ほどの開きがあるものの、江戸時代前期であったのは間違いなく、約300年の伝統は嘘ではない。
真澄も美味しいと褒めた稲庭うどんは、つるつるとした喉ごしの滑らかさと、心地良い歯ごたえが特徴である。桐の箱に入った稲庭うどんは、最上級品で贈答に欠かせない。香川県の「讃岐うどん」、群馬県の「水沢うどん」と並び、「日本三大うどん」の1つに入っているが、最近では「水沢うどん」に代わって、愛知県の「名古屋きしめん」、長崎県の「五島うどん」、富山県の「氷見うどん」が三大を主張している。ならば、北前船の交易によって、奈良の三輪素麺の伝わったとされる「本荘うどん」は、稲庭うどんよりも歴史が古いようなので、「新日本三大うどん」と言われるよう頑張って欲しいものである。
現在の稲庭地区には10軒ほどの製造工場があるが、昭和47年(1972年)に製造方法が公開されてから家内工業から企業化が進み、秋田県を代表する名産品に発展した。平成13年(2001年)には「秋田県稲庭うどん協同組合」が発足し、ライバル関係にあった製造工場が互いに協力しながら更なる発展を目指しているようだ。
平成19年(2007年)に農林水産省の「農山漁村の郷土料理百選」に「稲庭うどん」が選ばれている。他に秋田県からは「きりたんぽ鍋」が入っている。同時に「御当地人気料理特選」の別枠があって、「横手焼きそば」が全国の料理23品目の中にあった。
横手に戻ると、外食する店は殆ど決まっていて、稲庭うどんに関しては「秋田ふるさと村」で食べること多い。どんな美味しい店でも並んでまで食べようと思わないので、混雑する時間帯を避けることが多い。郷土料理は酒を友として、ゆっくりと味わいたいと思う。
番外・奥小安大湯温泉阿部旅館 湯沢市皆瀬
昭和43年(1968年)の中学3年生の夏休み、横手から自転車で級友2人と「栗駒登山」を計画してやって来たのが大湯温泉阿部旅館であった。大湯温泉からは砂利道の林道となっていたので、自転車を大湯温泉に預け徒歩で長い林道を登った。雨天のため須川高原キャンプに1泊して下山したが、自転車を預けて貰った御礼に須川高原温泉の売店で購入したお饅頭を手渡した思い出がある。
大湯温泉の開湯は、江戸時代後期の文化年間(1804~1816)と言われるが、文化11年(1814年)に菅江真澄が訪ねて温泉の様子をスケッチしているので、文化年間以前の開湯であろう。真澄のスケッチ「小安大温泉(大湯温泉)」には、山の斜面の中央に築館に通じていた「陸奥越路(小安街道)」があって、右側の切立った小山の頂に「温泉神社」が祀られている。神社の下には田畑や池が描かれ、浴室や湯治小屋が点在する。面白いのは「明礬製舎」があって、温泉から明礬を採取していたようだ。湯滝や皆瀬川がスケッチの下に描かれていることから、現在の阿部旅館は左に描かれた「浴舎」であったと見受けられる。「湯滝」は阿部旅館入口の国道下にあって、そのまま皆瀬川に注がれていた。
秋田県では現在、「日本秘湯の守る会」の加盟している宿が9軒あるが、客室が9室と小ぢんまりした宿である。『日本の秘湯』の本の中で、180年前に湯治場として発見されたと記述されているが、220年前の間違いと思う。最近では「100%源泉掛け流し」が有名温泉のキャッチコピーとなっているが、ここの泉温は92℃と熱いので沢水で加水している。
群馬県の草津温泉では、90℃の高温泉を「湯畑」で50℃まで冷却し、更に草津名物の「湯もみ」をして43~44℃まで下げているのである。基本的に源泉の成分を損なわない「加温」は許されても「加水」はいけない。「天然川風呂」は川の水で源泉が稀釈されるのは、致し方ないと思うが川から少し離した場所にプールするのが理想的である。
「せせらぎの風呂」の屋根だけが鉄板葺きではなく、石置小羽葺き屋根である。乳頭温泉郷黒湯の露天風呂のように野趣があって良い。建物は黒と山吹色で、自然に配慮した景観に見える。客室からのロケーションも、四季折々の山々と大湯沢の水音が楽しめる。難点は客室が狭く、布団を敷くと2・3人の場合は居場所がなくなるのがことである。
夕食の料理に関しては、吸い物とご飯を除くと12品ほどがテーブルに並ぶ。山菜やきのこ、イワナ焼きなど地物が主であるが、刺身に添えられたボタンエビには違和感が残る。料理にはあまり頓着しないが、日本酒に私は少々うるさい。毎晩飲んでいる酒が良く、「高清水辛口」か「両関銀紋」である。とっくりのベールに包まれた酒は、「両関銀紋」であったので、ついつい痛飲してしまった。
大湯温泉が1軒宿として紹介する本もあるが、実際は小安山荘よし川が国道398号線を隔てた向かい建っている。昔は営林署の宿泊施設であったが、現在は民宿となっている。よし川の温泉の泉質も、阿部旅館と同様に高温泉のアルカリ性単純硫黄泉であるが、山の源泉から300mも引湯しているので自然冷却されて「源泉掛け流し」していると言う。この宿にも1度は泊まってみたいし、本物の源泉に触れてみたい。
あとがき
秋田の県民性なのかも知れないが、自然や歴史に対して無関心な人々が多い。私は若い頃から哲学や仏教を勉強して思ったのは、人の心を豊かにするのは知識と教養であると認識した。しかし、読書だけではうわべの知識となると思い、自分の目で見聞する必要性を感じ、中学卒業と同時に旅の人生を夢に描いた。それは生涯にわたる人生の師である松尾芭蕉翁の影響で、『おくのほそ道』の名文は殆ど暗記している。
詩歌をこよなく愛し、独身を終始貫き、花鳥風月を友とし、自由きままな毎日に浸る。究極の人生は平凡な家庭にはなく、孤独の中でも笑い楽しむ自分の世界、創作に夢中になる自己の主張があっての自分史である。松尾芭蕉翁が東北を旅して、国宝にも指定されている『おくのほそ道』を執筆し、東北の名所旧跡を不動のものとした。とあるウヰスキー会社の会長が東北は「熊襲の地」と卑下する発言をして顰蹙をかったが、松尾芭蕉翁の思想に接していれば、そんな発言はしなかったと思う。「金はあっても頭の教養は空っぽ」が多いのは、関西実業家の特徴であろう。芭蕉翁は、同年代の作家・井原西鶴を嫌って一度も会うことはなかったのは、そのいい加減さを熟知していたのである。
僻地・東北を松尾芭蕉が愛してくれたように、奥地・秋田を愛してくれたのは、菅江真澄である。今回の「勝手に秋田遺産100選」では、真澄の視点から秋田の名旧跡を紹介したが、真澄あっての秋田史と言いたい気がする。真澄が克明に秋田の風俗や歴史について調査研究してくれなかったら、郷土に対する認識は相当に低いものになっていたであろう。民俗学の先駆者・菅江真澄先生には、この場を借りて感謝申し上げたい。
また、明治11年(1878年)、イギリス人女性の旅行作家であるイザベラ・バードが、その名著『日本奥地紀行』に秋田の印象を記している。7月18日に山形から雄勝峠を越えて秋田に入り、14日目の7月31日に矢立峠から青森に抜けている。山形県の米沢周辺は、アルカディア(桃源郷)のようだと褒めていたが、秋田県の湯沢や横手に関しては、農民の貧しさに眉をひそめている。神宮寺から雄物川を船で下って、久保田(現秋田市)に投宿しているが、城下町は気に入ったようで、良い印象を述べている。
過去に秋田県を旅した著名人の足跡を訪ねることも意義あって、そうした人々の案内板を設置すべきとも思う。菅江真澄だけに偏らない、頼らない、新たな観光を考えるべきと思う。秋田県は輝かしい歴史の宝庫であるが、その保護ではなく反故にしているようだ。
今回の「勝手に秋田遺産100選」は、私の独断と偏見が多いが、国(文化庁)指定の有形無形の文化財、天然記念物、名勝、史跡を重視した。また、百選(100選)などの名数に選ばれている名所旧跡、自然景観も念頭に置いた。先ずは県民のアンケートや旅行関係者の意見なども聞いて、「秋田遺産百選」を決定して欲しいと願う。北海道や福島県のように、100件にこだわらないことも大切と思うし、令和から次ぎ時代に変わったら選定の見直しも必要と思う。兎に角、秋田県人が秋田県の良さを知って、1人1人が秋田県の広告塔となって宣伝することが重要である。毎日がお祭りのように賑やかな秋田県であって欲しい、北海道よりも食べ物が美味しく、灘よりも酒が旨く、京都より女性が綺麗な県を夢に見る。
参考資料
新観光秋田三十景
(01)入道崎・桜島・大桟橋ライン 〇
(02)小安峡大噴湯 ○
(03)仁賀保高原 △
(04)奈曽渓谷 ○
(05)鶴ヶ池公園 ×温泉地の休業
(06)森山公園(五城目町にある標高323mの森山) △
(07)真人公園 △
(08)田沢湖高原温泉 ×温泉地の衰退
(09)原生林の七座山 △
(10)山内渓谷(岩見川上流の岨谷峡) △
(11)鷹巣中央公園 ×知名度の低下
(12)森岳温泉 ×温泉地の衰退
(13)大佐沢公園(旧西仙北町の大佐沢沼) ×知名度の低下
(14)勢至公園 △
(15)黒森貯水池(旧本荘市の黒森川のため池) ×知名度の低下
(16)角館武家屋敷 ○
(17)生保内公園(田沢湖町の運動公園) ×知名度の低下
(18)日本国花苑 △
(19)大谷池沼と南由利原 △
(20)鯉茶屋温泉(上小阿仁村にあった温泉) ×温泉地の消滅
(21)湯瀬渓谷 ×知名度の低下
(22)一丈木と仏沢公園(旧千畑町のため池の公園) ×知名度の低下
(23)房住山 △
(24)高尾山(旧協和町にある標高383mの山) ×知名度の低下
(25)やしま花立牧場高原 △
(26)大平山・仁別国民の森 ×霊山として評価
(27)大柄の滝(能代市の常盤川にある滝) ×知名度の低下
(28)大森公園 △
(29)姫神公園 △
(30)安の滝 △
「新観光秋田三十景」は昭和52年(1977年)、秋田魁新報社がハガキのアンケートで選定したものであるが、40年以上も経過しているので再評価できない選定となっている。山内渓谷は「岨谷峡」に名称が変更され、上小阿仁村の鯉茶屋温泉は消滅している。新たに選定するとすれば、「秋田ふるさと百景」が相応しく思われるので、これも勝手に選定した。
勝手に秋田ふるさと百景
(001)五能線の車窓から見る日本海沿岸 八峰町岩舘
(002)二ッ森から眺める世界遺産の白神山地 藤里町
(003)菅江真澄が訪ねた太良峡と峨瓏峡 藤里町
(004)発荷峠から眺める十和田湖と八甲田山 小坂町
(005)長者伝説の残る七滝の四季 小坂町七滝
(006)小坂鉱山の歴史を伝える明治時代の建築群 小坂町
(007)東北唯一の鉄道博物館・小坂鉄道レールパーク 小坂町
(008)室町時代より続く大湯温泉の共同浴場 鹿角市十和田大湯
(009)大湯環状列石とりんご畑 鹿角市十和田大湯
(010)国指定の毛馬内盆踊り 鹿角市毛馬内
(011)日本三大囃子の花輪ばやし 鹿角市花輪
(012)尾去沢鉱山跡の坑道見学路 鹿角市尾去沢
(013)八幡平大沼と八幡平温泉めぐり 鹿角市八幡平
(014)日本三大松原の風の松原 能代市浅内
(015)七座山の自然林と蛇行する米代川 能代市二ツ井
(016)安東氏ゆかりの檜山城跡 能代市檜山
(017)自然豊かな霊山・房住山 三種町
(018)森山森林公園から眺める旧八郎潟 五城目町
(019)入道崎の灯台と芝生海岸 男鹿市入道崎
(020)半島西海岸の奇岩怪石 男鹿市
(021)男鹿のナマハゲと真山神社 男鹿市真山
(022)寒風山から眺めパノラマ風景 男鹿市
(023)広大な脇本城跡と日本海 男鹿市脇本
(024)県営の北欧の杜公園の四季 北秋田市合川
(025)森吉山の樹氷と雲海 北秋田市阿仁
(026) 太平湖遊覧船で行く小又峡 北秋田市森吉
(027) 秋田内陸縦貫鉄道の車窓から見る阿仁川 仙北市・北秋田市
(028)安の滝と渓流遊歩道 北秋田市阿仁打当
(029)日本国花苑の花だより 井川町
(030)天王グリーンランドの古代景観 潟上市天王
(031)秋田県立博物館と小泉潟公園 秋田市追分
(032)秋田市ポートタワー・セリオンからの秋田港の展望 秋田市土崎
(033)北前船の繁栄を刻む土崎港曳山まつり 秋田市土崎
(034)奈良時代の史跡・秋田城 秋田市寺内
(035)霊山・太平山と太平山三吉神社 秋田市仁別
(036)東北三大祭りの秋田竿燈まつり 秋田市山王
(037)久保田城跡の御隅櫓と桜 秋田市千秋
(038)天徳寺の伽藍群 秋田市泉山
(039)如斯亭庭園の四季 秋田市旭川
(040)新屋海浜公園と雄物川河口 秋田市新屋
(041)秋田市近隣のミニ秘境・岨谷峡 秋田市岩見
(042)玉川温泉の湯治場風景 仙北市田沢湖町
(043)県最大のダム・宝仙湖の四季 仙北市田沢湖町
(044)乳頭温泉郷の湯めぐり 仙北市田沢湖町
(045)秋田駒ヶ岳ざわ湖スキーから眺める田沢湖 仙北市田沢湖町
(046)田沢湖遊覧船から眺める秋田駒ヶ岳 仙北市田沢湖町
(047)田沢湖線の車窓から眺める生保内川 仙北市田沢湖町
(048)抱返り渓谷の四季 仙北市神代
(049)角館の武家屋敷群と檜木内川堤のサクラ 仙北市角館
(050)角館祭りのやま行事 仙北市角館
(051)物部氏ゆかりの唐松神社 大仙市協和
(052)冬の風物詩・刈和野の大綱引き 大仙市刈和野
(053)菅江真澄が描いたままの岩倉温泉 大仙市南外
(054)姫神公園大平山から眺める雄物川 大仙市大曲
(055)日本三大花火大会の大曲の花火 大仙市大曲
(056)奈良時代の史跡・払田柵 大仙市払田
(057)旧池田氏庭園の四季 大仙市高梨
(058)一丈木松並木と千畑ラベンダー園 美郷町千屋
(059)六郷湧水群めぐり 美郷町六郷
(060)六郷のカマクラ行事の竹打ち 美郷町六郷
(061)羽越線の車窓から見る日本海 由利本荘市岩城
(062)亀田城下町と天鷺村 由利本荘市亀田
(063)本荘公園の城門とサクラ 由利本荘市本荘
(064)由利高原鉄道鳥海山ろく線の車窓から見る鳥海山 由利本荘市前郷
(065)大谷池沼と南由利原のコスモス 由利本荘市由利
(066)日本名木100選の千本カツラ 由利本荘市鳥海
(067)空海大師ゆかりの法体の滝 由利本荘市百宅
(068)花立牧場公園の四季 由利本荘市矢島
(069)竜ヶ原湿原から眺める鳥海山 由利本荘市矢島
(070)平安の風わたる公園の太鼓橋 横手市金沢
(071)蛇崎橋から眺める観音寺鐘楼と横手城展望台 横手市四日市
(072)武家屋敷のかまくら 横手市羽黒町
(073)秋田ふるさと村と秋田県立近代美術館 横手市赤坂
(074)日本名木100選の筏の大杉 横手市山内
(075)北上線の車窓から眺める黒沢川 横手市山内
(076 )浅舞公園のアヤメ 横手市浅舞
(077)大ケヤキのイルミネーション 横手市浅舞
(078)中央公園木戸五郎兵衛村のかまくら 横手市沼館
(079)大森公園リゾート村のシバザクラ 横手市大森
(080)霊山・保呂羽山と波宇志別神社 横手市八沢木
(081)増田の商家群の蔵座敷 横手市増田
(082)真人公園の桜とタライ漕ぎ競技 横手市増田
(083)勢至公園のサクラ にかほ市金浦
(084)仁賀保高原と土田牧場 にかほ市仁賀保
(085)道の駅象潟展望温泉から眺める日本海 にかほ市象潟
(086)蚶満寺境内の芭蕉像と合歓の花 にかほ市象潟
(087)水田の象潟九十九島 にかほ市象潟
(088)奈曽の白滝と金峰神社境内 にかほ市象潟
(089)鳥海山の恵み元滝伏流水 にかほ市象潟
(090)獅子ヶ鼻湿原のブナの奇形樹群 にかほ市象潟
(091)五合目鉾立から眺める鳥海山 にかほ市鉾立
(092)芭蕉と曾良の歩いた三崎の古道 由利本荘市三崎
(093)日本三大盆踊りの西馬音内盆踊 羽後町
(094)名水の力水と酒蔵めぐり 湯沢市
(095)小安峡の大噴湯 湯沢市皆瀬小安
(096)川原毛地獄と大湯滝 湯沢市高松
(097)自然豊かな秘湯・泥湯温泉 湯沢市高松
(098)小野小町ゆかりの遺跡と小町堂 湯沢市横堀
(099)秋の宮温泉郷役内川の湯けむり 湯沢市秋の宮
(100)栗駒山と須川湖 東成瀬村椿川