名山絶句八十八座

紫闇陀寂

前書き

「日本三景」など『旅の名数』を調査してまとめた所、山に関する名数が随分とあることを知った。富士山(静岡県・山梨県)、白山(石川県・岐阜県)、立山(富山県)は「日本三名山」または「日本三霊山」と呼ばれているようである。「日本三景」は江戸初期の儒学者・林春斎(1618-1680)によって刊行された『日本国事跡考』に由来するが、「日本三名山」に関しては命名者が不明である。また「日本四名山」と言う名数もあって、白山が除外されて御嶽山(長野県・岐阜県)と伯耆大山(鳥取県)が選ばれている。霊山を選定基準にしているのは理解できるが、曖昧な名数が氾濫しているのも事実である。

山の名数の中で一番驚いたのが、文筆家で登山家の深田久弥(1903-1971)氏が発表した『日本百名山』である。深田氏は、「日本百名山」の選定にあたり、山の品格、歴史、個性の三つに条件をおき、付加的条件に標高1,500m以上を基準としているようである。しかし、標高887mの筑波山、標高1,406mの天城山、標高924mの開聞岳が選ばれているのは何故だろうか。その選定に関しては異論を唱える登山家も多く、『新日本百名山』や『名峰百景』など様々な百名山の本も出版されている。

私が登山のベースに置いているのが、江戸後期の画家・谷文晁(1763-1841)が描いた「日本名山図譜」である。北海道から鹿児島まで88座を選び、岩手山と妙義山は2枚描かれていて、全作90画となっている。古くから二桁の名数に用いられる数値は、13、33、88が定番だったと言える。「十三仏」、「西国三十三ヶ所観音霊場」、「四国八十八ヶ所霊場」はその代表格であろう。谷文晁も八十八ヶ所にあやかって、八十八座を選定したのである。

富士山は人生に一度は登りたいと願う人が多いと思う。私も若い頃から登りたいと願っていたが、実現するまでには至らなかった。そんな折、金沢へ転勤となって白山を間近に眺める機会が多くなって来た。富士山の前に白山に登りたいと云う願望が増し、同僚を誘っても断られ、単独で登ること決意をした。ネット上で調べると、結構長い登山コースのようでもあり、いきなり白山登山は無理と判断して、難易度の低い越中の立山から登ることにした。平成20年(2008年)8月31日、55歳にして登山人生が始まったのである。

立山の登山後は、乗鞍岳、御嶽山、宝剣岳と登り、白山の登頂を果たしたのは、その年の9月15日であった。そして、9月27日、金沢から日帰りでオフシーズンの富士山に登頂して「日本三名山」をクリアした。この頃には「日本百名山」の存在を知っていたので、その登頂を5年間で果たすと言う志を描いたが、4年目で達成することが出来た。

 私が生業としている建築設備士の仕事も登山に都合の良い場所を選び、秋田県鹿角市、三重県四日市市、石川県野々市町、青森県五所川原市と工事現場を渡り歩いた。平成24年(2012年)9月8日、新潟県にある平ヶ岳登頂を果たして「日本百名山」の山旅を終了した。その後も登山を続け、「それぞれの百名山」を執筆して記録した。今回は「それぞれの百名山」をリメークして「名山絶句八十八座」を上梓することにした。選定の基準は、標高1,000m以上で登山口までのアクセスが良いこと。地域と密接な関係があり、霊山として崇められていること。再び登りたいと思う山であることの三点が基準である。

01利尻山

【別名】利尻富士、利尻岳、リシリ【標高】1,719m(北峰)、1,721m(南峰)。

【山系】独立峰(利尻島)【山体】成層火山【主な岩質】安山岩・堆積岩。

【所属公園】利尻礼文サロベツ国立公園【所在地】北海道。

【三角点】二等【国指定】なし。

【関連寺社】利尻山神社。

【登頂日】平成24年7月22日【登山口】利尻北麓野営場【登山コース】鴛泊コースピストン。

【登山時間】7時間22分【登山距離】12㎞【標高差】1,497m。

【起点地】青森県つがる市。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、森林浴の森100選、花の百名山、日本遺産百選、新日本百名山、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、名水百選。

【周辺の温泉地】利尻富士温泉。

山頂の利尻山神社奥宮

寛政5年(1793年)、探検家・最上徳内が登頂。

北海道の最北端・稚内港から52km西の洋上に浮かぶ島が利尻島で、その北西19km先には礼文島がある。利尻山は、外周55kmの利尻島の中心部に屹立する成層火山(コニーデ)で北峰の海抜は1,719mのに達する。「北海道百名山」では30番目の標高で、北海道・本州・四国・九州を除く島の中では屋久島のセブンマウンテンに次ぐ高さである。屋久島の面積は、利尻島の3倍近くもあるので同一視できないが、『名山絶句八十八座』の山旅は、利尻島に始まり、屋久島で終えるので感慨深く感じる。

利尻島への山旅は、車での移動は大変なので出費が嵩むけれど往復飛行機を利用することにした。出発日は、午後6時近くまで五所川原市の現場で仕事をして八戸市へと向かった。何度か日本百名山を一緒に登った甥のコーセイ君を誘っていたので、八戸駅で彼を乗せて苫小牧行きのフェリーに乗った。翌朝、飛行機の出発まで時間があったので、日本二百名山の樽前山に登った後に支笏湖を久々に眺め、北海道に渡った気分を満喫した。

飛行機には20年以上も搭乗したことがなく、その手続きの煩雑さにもう飛行機には乗りたくないと思うほど嫌なものであった。今日の利尻島上空は視界が悪く、稚内に着陸するか千歳に引き返す場合もあるとのアナウンス、なおさら飛行機への印象が悪くなった。離陸してから40分あまり、何とか利尻空港に着陸した時には、機内から拍手がおきていた。空港までは、予約していた宿の車が迎えに来てくれて、島らしい温かみを感じる。

夕食までは時間があったので、宿で傘を借りて鴛泊の港や町、利尻山神社やカルチャーセンターなどを訪ねて旅気分を少々味わった。宿の湯は利尻富士温泉の湯をタンクローリーで運んでいるようで、宿泊者も少なくのんびりと入ることができた。食事は大きなダラバガニと名産のウニ、その他海の幸色々で、広世君も満足したようであった。

翌朝、朝食代わりの弁当を作ってもらい、宿から利尻北麓野営場の登山口まで送ってもらって、午前5時には登山を開始した。3合目に「甘露泉水」の湧水があり、昭和の名水百選にも選ばれている。この水を汲むために空のペットボトルを用意して来たので水の心配はないが、標高差1,500mほどなので登り2本、下り1本は必要とされる。

小雨が降っていたので、宿を出る時から合羽に長靴をはいていたので、ぬかるみを歩くのも心配はないが、ガスの晴れる兆しが感じられないまま、第一見晴台、第二見晴台と高度は上がって行く。こんな天気の時であれば尚一層、山中に咲く高山植物に目が行き、ウグイスの囀りに反応し、口笛吹いて真似をしたりしてみる。

利尻島にもヒグマがいるかどうか心配であったが、明治45年(1912年)に300キロもある大物が射殺されて絶滅したとカルチャーセンターのリップ館の展示案内にはあった。しかし、ヒグマよりも落石に注意しない人間の方が怖い場合もある。他の登山者に対して所在を示すため、鈴はリュックにぶら下げたままにしておいた。

7合目の長官山を過ぎると、赤い屋根の利尻山避難小屋の建っていて、そこで雨具を脱いでリュックもデポして身軽な服装で急登への備えとした。ハイマツの群生地を過ぎると、ガレ場にロープが垂らしてあって、コーセイ君を先に登らせて平で安全な地面に立ったら止まって待っているよう指示を出した。続いて私も登るが、ロープを必要とする斜面でもないが利用できるものは利用した方がより安全と言える。

山頂直下で単独登山の下山者と遭遇し、「もうすぐ山頂ですよ」と声を掛けられたが、その一言がいつも嬉しい。赤褐色の山肌が切通しのように崩落した所が登山道となっていたが、山頂付近の浸食や崩壊が激しいようで、最北に聳える孤峰の定めのようにも見える。

北峰の山頂には小さな利尻山神社奥宮があるだけで、日本百名山○○山の標柱の類は全くなく素朴な景観ある。時折、雲の切れ間から立入り禁止の南峰と仏像のようなローソク岩がそそり立っている様子が見えた。登山道には薬師如来と刻まれた板碑が埋もれるように倒れていたが、幕末の会津藩士が国防のため島に渡った際、立てられたものだろう。

天候が回復する兆しが感じられなく、10分ほどで下山を開始すると、ガレ場で30人近い団体登山者とすれ違い、最悪の事態となった。小人数に分かれて登ればいいものの、金魚の糞のように繋がって登って来るから始末が悪い。登山口で一緒であったが、こんなに早く登って来るとは予想外で、10分近くも待つ羽目となった。

避難小屋に戻ってから、宿で作ってもらった弁当を食べたが、真心のこもったおかずに思わずカメラのシャッターを押した。山での思い出は小さなことでも記憶や記念に残しておきたいと思うので、コンビニの握り飯を常食としている私には弁当の味は格別であった。

下山途中にコーセイ君は、シマリスを見つけて私に知らせくれたが、登山途中にも数匹目撃しているので驚きはなかったが、その愛らしい仕草と縞模様の毛は忘れられない。このシマリス以外、イタチやミンクが島へ持込まれて繁殖しているらしいが、エゾシカやキタキツネがいないことは意外で、蛇類は1匹もいないと聞いて信じられなく思えた。

利尻山は高山植物の宝庫であり、「花の百名山」にもなっている。この時期に多く見られたの花は、島一体に咲く黄色いエゾカンゾウであったが、利尻山では8合目付近にわずかに咲いているだけであった。リシリヒナゲシはこの島だけの固有種で、他にも何種類かあるようだが、この花だけは未だ咲いていなかった。

下山を開始して約3時間、何とか無事に3合目の登山口に到着した。コーセイ君にとっては最長の登山となったが、危なげに思う行動も少なくなり、よく頑張ったと褒めてやりたい。下山したら宿に連絡することになっていたので、直ぐに携帯で電話したら長靴を洗っている間に迎えの車が来てくれて、利尻山登山は終了した。

町営の利尻富士温泉でさっぱりとしてから飛行機に乗りたかったが、搭乗時間に余裕を持とうと、空港まで送ってもらうことにした。至れり尽くせりの宿のサービスには、恐れ入るばかりであり、来年の5月には春スキーを兼ねてまた訪ねたいものである。

仕事の都合上、飛行機でのとんぼ返りの登山となってしまったが、「日本百名山」の旅は山だけに気持ちを集中させることが肝要であり、登山の終了までは気を許せない。その百名山に最初に登場するのが利尻山で、最後は宮之浦岳である。いずれも島に聳える高峰で、その移動距離は約1,900kmとなる。「日本百名山」の旅は、この長い距離を移動する旅でもあり、船や飛行機を利用しないと達成できないことになる。

「最北の 山の祠に 礼拝し 薬師様かと 知る利尻富士」 陀寂

02羅臼岳

【別名】チャチャヌプリ、良牛岳、知床富士【標高】1,660m。

【山系】知床半島【山体】成層火山・溶岩円頂丘(ドーム) 【主な岩質】安山岩・流紋岩。

【所属公園】知床国立公園【所在地】北海道。

【三角点】二等【国指定】なし。

【関連寺社】なし。

【登頂日】平成24年8月14日【登山口】岩尾別温泉【登山コース】岩尾別コースピストン。

【登山時間】7時間10分【登山距離】14㎞【標高差】1,460m。

【起点地】青森県つがる市。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、日本の秘境100選、日本遺産百選、花の百名山、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】岩尾別温泉、羅臼温泉。

羅臼岳山頂を遠望

昭和初期、網走の材木商・木下弥三吉が開発。

北海道では唯一、ユネスコの世界自然遺産に登録されている知床半島。日本刀の刃先のような形で、半島の直線距離は約65㎞であると聞く。半島の殆どが知床国立公園となっていて、人が殆ど立入ることのない区域もある。半島には脊梁を成す知床連山の山々が9座も連なっている。その最高峰が標高1,660mの羅臼岳で、アイヌ語で「熊や鹿の臓物や骨のある所を意味するようだ。地質学者で後に衆議院議員となった志賀重昂(1863-1927)の名著、『日本風景論』では良牛山と紹介していが、羅臼岳の方が聞こえは良い。

昨夜は清里温泉に泊り、早朝6時頃にそのホテルを出発したが、岩尾別温泉の登山口に到着した午前7時半頃は車が路肩まであふれていた。ホテルで着替えをして出て来たので、私も路肩の奥に車を停めてすぐに登山を開始した。この岩尾別温泉の「ホテル地の涯」は、1度は泊まりたい温泉であったが、盆休みとあって半年も前からふさがるらしい。

これだけの登山者がいれば、ヒグマも恐縮して出て来ないだろうと思って気軽な気持ちで最初の急登を越えた。間もなくオホーツク展望所に到着するが、小雨はまだ止まず見晴しは良くない。尾根を登ると清水があり、昭和初期に登山道を開いた木下弥三吉氏に因んだ弥三吉水と呼ばれているようであった。

極楽平に至ると雨は止み、ここで合羽を脱いで身動きを楽にした。羽衣峠を経て仙人坂を登ると、うまい按排に銀冷水がちょろちょろと流れていて、その冷水が喉を潤してくれたのは嬉しい。その先で大沢の長い登りが始まるが、登山道に咲き誇る花たちがその退屈さを忘れさせてくれる。大沢はほぼ一直線に伸びているので、先が見えて歩き易い。

この大沢で、2日前に「ぬかひら山荘」で同室だった名古屋の若者と再会した。彼も「日本百名山」を目指していて、幌尻岳に続いて羅臼岳を登っていたのであった。斜里岳と雌阿寒岳に登ると98座目となり、あとは名古屋に近い恵那山と御嶽山を残すだけだと言う。昨日は静養を兼ねて網走観光をしたそうで、元気に私を越して行った。幌尻岳では、登りも下りも私が彼に追い越されることはなかったのに、若者の回復力は早いものである。

大沢の最上部には雪が残っていたので、思わずその雪を手に取りタオルに包んで首の後ろに巻いた。その雪渓の上に寝転びたい気分であったが、後続する登山者の目線もあって大人げないと諦め、エゾツツジの花と一緒に写真を撮った。

大沢を越えると、羅臼平のお花畑に出て、山頂が射程内に見えるほどに近付いていた。城砦を思わせるような溶岩ドームの山頂で、多くの登山者が登下山する様子が見える。山頂直下にある岩清水を口に含んで、最後の登りに挑むことになった。百名山は斜里岳と平ヶ岳と2座となり、やっと岩場登りの楽しさを感じる気分となった。若い女性が素手で岩に手を掛けて登っていたが、とても痛々しく見え、滑り止め付の手袋は必需品である。

登山開始から4時間10分で山頂に立ったが、標準タイムが3時間50分であることを踏まえると、ここでも元気がなかったようである。昨晩はホテルの部屋のエアコンの具合が悪く、窓を開けて寝たため、蚊の猛攻に遭って一睡もできなかった後遺症であろう。それでも4匹は叩いて仕返しをしてやったが、その代償は大きすぎたようだ。

晴天となった山頂の眺めは素晴らしく、知床半島が手に取れるように見渡せた。若い頃にウトロから遊覧船に乗って眺めた硫黄山も知床連山の先に見える。半島西のオホーツク海には大きな国後島が横たわっていて、略奪されたままの現状を踏まえると、ロシア憎しの感情が高まって来るようだ。明らかに日本の領土と実感するが、返還は困難に思える。

山頂には20人ほどの登山者がいて、溶岩ドームの岩場に陣取っていた。羅臼岳の表示板の前には、中年女性が居座って動かないし、三角点の円盤の側にはリュックが置かれたままである。登山途中に熊除けを兼ねてラジオで夏の高校野球を聞いていたが、その音がうるさいと年輩者から注意されたばかりで、私のように我儘で身勝手な連中が集うのも観光登山の面白さである。登山者がエチケットやマナーばかり気にしているのも滑稽であり、みんな過ぎ行く旅人なのだから少しずつ変えて行かねばならない。

上り優先のマナーも苦しさに喘ぎながら登っている時に、目の前で待っている下山者を見ると、心臓のエンジンを全開させて急ぐことが多かった。最近の私は、急ぐ人を優先させるべきと思っているので、「疲れているのでお先にどうぞ」と声を掛けて下山者に道を譲ることにしている。上り優先よりも左側通行のルールを定着させて欲しいと思う。

山頂の景色を堪能して間もなく、下山する人の間合いが途切れた時を見計らって下山を開始した。それでも運動神経の鈍い親子連れがモタモタとして先に進まないし、スーパーのレジで老人が1円1円小銭を払う動作に似ていて目をつぶって怒りを抑えるだけである。

岩清水で再び滴り落ちる水を口に含み、羅臼平に向かって下りると、10人ほどの登山者がハイマツの登山道で立ち止まっていた。名古屋の若者もいたので聞いてみると、数頭のヒグマが登山道に立ちふさがっていると言う。私の目にはヒグマが何処にいるのか分からなかったが、ヒグマが登山道から退かない限り先に進めないことは理解できた。

待つこと数10分、ヒグマが登山道から移動したと分かり、年輩の男性が発煙筒を焚いて下山を開始すると、それに続いて待機していた下山者が鈴を鳴らしたらり、大声を出したりして一斉に羅臼平まで下山した。最近の知床ではヒグマが人を襲ったという例は少ないと聞くが、それでもテント泊する登山者も多いようで、羅臼平には数張りのテントがあった。香ばしい料理を作らないことと、残飯を放置しないことが鉄則であり、ヒグマに人間の食べ物の味を知らしめてはならないと思う。本州の各地でツキノワグマが出没するのも、人間の食べ物の味を覚えてしまった悲劇にも思える。

寝不足と疲労困憊が重なっていたが、下山はいつもスキーを滑るようなリズムで下山すので、スピードもアップされた。しかし、登山道の近くで黒ぽい枯れ木などの物体を目にすると立ち止って、ヒグマではないかと注意を怠らなくなった。一難去ってまた一難ではないけれど、車のハンドルを握るまでは緊張感は続く。ホテル地の涯で無料の露天風呂に入浴したが、3段に分かれた露天風呂は、脱衣室もない野趣に富んだ風呂で、北の果て岩尾別温泉らしい雰囲気である。昭和6年(1931年)、北海道を訪ねた与謝野鉄幹(1873-1935)・晶子(1876-1942)夫妻は知床まで来たようである。未開地の知床半島は、恐ろしく見えたようで、温泉好きの晶子が入浴すれば違った歌を詠んだであろう。

03阿寒岳

「オホーツクの 水面みれば 死の如く ただ黒々と 知床の山」 与謝野晶子

【別名】マチネシリ【標高】1,499m(雌阿寒岳)、1,370m(雄阿寒岳)。

【山系】阿寒山群【山体】成層活火山【主な岩質】玄武岩。

【所属公園】阿寒摩周国立公園【所在地】北海道。

【三角点】二等(雄阿寒岳)【国指定】なし。

【関連寺社】なし。

【登頂日】平成24年8月13日【登山口】雌阿寒温泉【登山コース】温泉コースピストン。

【登山時間】3時間17分【登山距離】6.6㎞【標高差】789m。

【起点地】青森県つがる市。

【主な名数】阿寒三山(雌阿寒岳・雄阿寒岳・阿寒富士)、日本百名山、名峰百景、花の百名山、新日本百名山、日本の山ベスト100、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】雌阿寒温泉、湯ノ滝温泉、阿寒湖畔温泉。

雌阿寒岳山頂の標識

安政5年(1858年)、探検家・松浦武四郎が登頂。

道東に位置する阿寒湖は特別天然記念物のマリモが有名で、その周辺に1,000m級の阿寒山群が点在する。阿寒岳と称されるピークはなく、雌阿寒岳(1,499m)・雄阿寒岳 (1,371m)・阿寒富士(1,476m)の「阿寒三山」を阿寒岳と称しているようだ。「日本百名山」では、阿寒岳と記されていて、雌阿寒岳を特定していない。深田氏がここを訪ねた当時は、雌阿寒岳は火山ガスの発生のため登山が禁止されていたようで、仕方なく雄阿寒岳に登ったようである。因みに『日本風景論』では、秀絶たる円錐体の山として阿寒富士を指している。

昨日は幌尻岳の登頂を終え、「ぬかひら山荘」に連泊した。今日は午前3時半頃に宿を出発し、占冠から足寄までは道東自動車道を走り、登山口の雌阿寒温泉に到着したのは6時半頃であった。途中の道路の脇に、立派な角の生えたエゾシカと小鹿の屍骸があり、キタキツネも撥ねられて間もない様子であった。スピードさえ控えれば接触は避けられそうにも思われるが、北海道では車に撥ねられる動物が多いようで、その冥福を祈るだけである。

この日は小雨の天気で、合羽を着るのも面倒に思い、長靴に傘を差して登ることにした。無料の登山口駐車場には数台の車が停まっていたので、既に何人かの登山者は雌阿寒岳に入っているように思われた。雨の日の単独登山は心細いもので、石鎚山に登った折りは誰とも逢うこともなく下山し、淋しい気持ちで登山を終えた思いが去来する。

雌阿寒岳に登った後は、午後から斜里岳も連登するつもりであったので、急ぎ脚で登山を開始した。アカエゾマツの樹林帯を行くと、やや急な登りがあり、そこに1合目の標識が立っていた。登山道は洗練された品格のある道で、とても登り易いコースであった。しかし、昨日の12時間に及ぶ登山の疲れもあってか、思うように前に進まず、先行していた男女3人グループを抜くのがやっとであった。

樹林帯を抜けて5合目に差しかかると、風が強くなりコンビニで買ったビニール傘は複雑骨折をしてしまい、岩場で風を避けて合羽に着替えた。ここで3人グループは引き返したようであったが、下山して来る単独登山者と挨拶を交わすと、自分も続こうとする勇気がわき、何とか6合目に達する。各合目の標識のある山は大変有難いもので、次の目標が定まって距離間も把握できる。日本で一番標高差のある合目の標識は富士山に違いないが、雌阿寒岳の合目は百名山の中では最も短い合目のように感じる。

6合目から先は荒涼した火山性の景観ではあるが、他の火山性の山のように可憐な高山植物が群生していて、悪天候の中であっても一服の安らぎを与えてくれる。ハイマツも岩場を除く随所に群生していて、そのマツヤニの匂いが漂っていた。

8合目付近で60代半ばの夫婦とおぼしきカップルとすれ違ったが、夫婦で「日本百名山」の踏破を目指している登山者も多い。雨の日でも小雨は決行と、私と同じように考えて登っているのだろう。北海道のような遠征登山では、晴天を待っている余裕もなく、盆休みのこのシーズンは宿の確保も儘ならないため、決めたスケジュールをこなすだけである。

9合目から先は強風が吹き荒れ、火口付近では風に飛ばされないよう腰を屈めて注意して通過したが、山頂は立っているのも儘ならない状態であった。山頂の写真を1枚撮って、9合目まで一気に下山することにした。多少なりとも恐怖心を感じたら、その環境から撤退するのが最善で、登山も危険な場所から遠ざかるに限る。

下山していると、疎らながら登って来る登山者がいて、私と同じように百名山の金縛りにあっているようにも見える。まずは百名山の山頂に立つことが課題であり、天気の良い日を選んで登るのはその後でもいいと思う。幸運にも、これまで雨天や曇りの百名山は10座だけであったが更に雌阿寒岳が加わり、またの再会が楽しみとなった。

5合目付近に来ると、流れゆく雲の合間からオンネトーが見え、思わず立ち止った。「オンネ」はアイヌ語で年老いたものさし、「トー」は湖の意味と聞く。このトーの名の付いた湖は阿寒岳の周辺に多いようだ。アイヌ語と言えば、雌阿寒岳は「マチネシリ」、雄阿寒岳は「ピンネシリ」と呼び、女山と男山の意味だそうだ。北海道の名山の中で漢字に定まった山でも、アイヌ語の呼び名も併記した方が親しみを感じる。

1合目の手前まで下りて来た時、8合目で会った熟年カップルを追い越した。そして、駐車場に着くと、そのカップルは多摩ナンバーの軽ワゴン車の前でリュックを降ろしていた。北海道の日本百名山に登る人は、レンタルカーを利用する人が多く、私や熟年カップルのように自家用車でわざわざ来るのは少数派のようだ。

登山を開始してから車に戻るまで3時間17分を要したが、標準タイムが3時間10分であるので7分もオーバーしたことになる。元気の良い時なら3時間は切っていたと思うが、体調に合わせた登山が何よりも安全で、無理をしないことに限る。登山口の直ぐ近くに雌阿寒温泉の野中旅館があるが、この宿に泊る予定で計画したが、満員と言うことで断られてしまった。最悪はオンネトーのキャンプ場でテント泊をしようとテントも車に積んであったが、日没のテント設営が面倒に思えたので、ぬかひら山荘に連泊したのである。

午後からは斜里岳を連登するつもりで車を走らせたが、途中の弟子屈で牧場風ラーメンを食べてみたり、郵便局で金を引き出したりと市内を徘徊した。清里の手前で睡魔に襲われ、仮眠している内に刻々と時間が過た。斜里岳の登山口である清岳荘に着いた時は、午後1時半近くになっていた。

駐車場には車が4・5台停まっていたので、雨の日でもまだ山に人がいると思うと多少は安心する。しばらく林道を歩き、登山道に入ると一ノ沢川の渡渉が続く。この沢は滝が多いことで知られているが、滑りやすく危険と思い、6合目にある下二股から新道の迂回路へコースを切り替えた。しかし、新道は山頂への距離も長く、熊見峠に到着する頃は午後3時近くになっていた。雨風が強くなり、ハイマツの尾根歩きも楽ではない。この時点で山頂を目指すのは無理と判断し、標高1,256mでリタイヤした。

この日は斜里岳にも近い、ホテル清里に投宿したが料金の高さに懐が痛み、何となく石川啄木(1886-1912)の歌を思い出した。石川啄木は明治41年(1908年)、1月21日から76日間、釧路に滞在しているが、釧路を去る船上から阿寒岳を眺め詠んだ歌である。子供の時から岩手山や姫神山を眺めて育った啄木にとって、山は偉大な存在であった。阿寒の山々も同様に、神のように威厳に満ちた存在に見えたようだ。

「神のごと 遠くすがたを あらはせる 阿寒の山の 雪のあけぼの」 石川啄木

04大雪山

【別名】カムイミンタラ、ヌタップカウシペ(旭岳) 【標高】2,291m(旭岳)。

【山系】石狩山地(大雪山系)【山体】複成活火山・火砕岩台地【主な岩質】安山岩。

【所属公園】大雪山国立公園【所在地】北海道。

【三角点】一等【国指定】特別天然記念物(天然)。

【関連寺社】なし。

【登頂日】平成24年7月16日【登山口】大雪山旭岳ロープウェイ姿見駅【登山コース】姿見ノ池コースピストン。

【登山時間】4時間15分【登山距離】6.9㎞【標高差】691m。

【起点地】青森県つがる市。

【主な名数】日本百名山、新日本百景、名峰百景、新日本旅行地100選、日本の秘境100選、日本の音風景百選、日本遺産百選、日本の紅葉百選、花の百名山、新日本百名山、百霊峰、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】旭岳温泉、中岳温泉、雪壁温泉、大雪高原温泉、層雲峡温泉。

大雪山旭岳と姿見ノ池

安政4年(1857年)、幕府役人・松田市太郎らが登頂。

北海道の中央部に位置する大雪山は、南北63km、東西59kmと広大な面積を誇る山塊である。北海道の屋根とも呼ばれ、その最高峰・旭岳(2,291m)の中腹までは大雪山旭岳ロープウェイがあり、黒岳(1,984m)の直下には大雪山層雲峡ロープウェイと黒岳ペアリフトが伸びている。今回は大雪山旭岳ロープウェイを利用して旭岳に登ることにした。

この日は旭岳温泉に前泊したが、高級な宿ばかりで大雪山の表玄関口には相応しいとは思うが、私のような貧乏登山者には敬遠したくなる。けれどもロープウェイの売店で、私が愛用しているリュックが1,050円で売られていたのは驚いた。私はホームセンターから980円で購入したが、観光地にしては良心的な値段であると感じた。

想像していたより旭岳ロープウェイの乗客は少なく、登山コースの人も疎らで快適な登山開始となった。姿見ノ池に到着すると、旭岳山頂が池に映し出されていて貴婦人でも見るような美しさに絶句である。池の近くに石室と呼ばれる避難小屋が建っていて、その寂れた様子は貴婦人と対比するような姿見ノ池の点景ともなっていた。

姿見ノ池から本格的な登山道となっていて、山頂までは見晴しの良い眺めが続き、一昨日登ったトラムウシ山が宝冠のような形に見える。少し距離を置いて、昨日登った十勝岳と美瑛岳が重なり合って聳えている。中腹からは幾つもの噴煙が立ち上り、別府温泉の源泉の煙を見るようである。中岳付近には野趣あふれる中岳温泉があると聞くが、ヒグマの生息地の露天風呂に裸で入るのは勇気のいることである。

6合目と7合目を過ぎると、エゾノマルバシモチケの花も見られなくなり、殺風景な火山礫の登山道となるが、姿見ノ池が眼下から遠ざかるに従い、高度が上がっていることを感じる。変わる風景を眺めることが登山の安らぎとなり、何度ともなく下界を見渡してはその広大な風景に絶句する。

8合目を過ぎるとニセ金庫岩が見えたが、有名な金庫岩は9合目の先の登山道の脇に立っていた。金庫岩とは珍しい命名であり、岩の中にダイヤモンドの原石でも入っているのかと想像して通過した。その先は最後の登りとなっているようで、自然とピッチも上がり、姿見駅を出発し約2時間で山頂に到着した。

その旭岳山頂に立った瞬間、憧れの大雪山の山塊はその全貌を見せてくれた。あまりの雄大さに声が出ず、溜息をつきながら立ち尽くした。「山の高さを知るなら富士山を知れ、山の広さを知るなら大雪山を知れ。」と言う名言を聞いたことがあるが、この大雪山の山塊は富士山の倍以上もあり単独の山塊では日本で最も広い。この大雪山の山並みを見ていると、ピークの旭岳をピストンする登山は邪道であることを知った。明日の今頃は仕事をしなければならない立場としては、山頂から先を目指して進めないのが不本意に思われた。もう1度来るぞという気持ちで、その山並みを見つめた。

アイヌの人達は、旭岳を「ヌタップカウシュペ」または「ヌタクカムウシュペ」と呼び、川の湾曲部の上にあるものを意味すると聞く。大雪山系は「カムイミンタラ」と呼び、神々の遊ぶ庭という意味が込められているそうだ。アイヌの神々たちと、馴染みの薄い私にとっては、アイヌの人達の山岳信仰は神秘的でもある。山伏たちが唱える「六根清浄お山は晴天」の掛け声を、アイヌの言葉で呪文ができない自分が恥ずかしく感じる。

広大な大雪山系は、旭岳や黒岳を中心とする表大雪、三百名山のニセイカウシュッペ山がある北大雪、二百名山の石狩岳がある東大雪、そして、十勝連峰の4つの山塊に区分されると聞く。表大雪は「大雪銀座」とも称されて、旭岳から黒岳へと縦走し、層雲峡に下るのが定番のようである。山頂からは4つのエリアがはっきりと見え、御鉢平と呼ばれる広大な火口原の緑地が鮮やかであり、その中央部に入浴禁止の有毒温泉があるようだ。

地図を見ていると、大雪山に関わりのあった人達の名前が見え、親近感を覚える。黒岳の近くには、紀行作家・大町桂月(1869-1925)の業績を称えた桂月岳、大雪高原温泉側には探検家・松浦武四朗(1818-1888)に因む松浦岳がある。また旭岳の直前には、樺太を発見した間宮林蔵(1780-1844)に由来する間宮岳があった。間宮岳に隣接する松田岳と荒井岳、赤岳手前の小泉岳、中岳の北に位置する永山岳も関係者の名に由来しているようだ。しかし、大雪山に初めて登ったのは、アイヌ人と思うがその勇士の名前がないは淋しい。

表大雪のエリアには、6ヶ所の登山口があり、銀泉台を除く5ヶ所にはそれぞれ温泉があり、その温泉をめぐるだけでも楽しそうである。残雪期は春スキーで、秋には紅葉狩りと最低も2度は訪ねたないと、この大雪山には未練が残りそうである。

旭岳は山麓から見上げると、尖がったピークと湾曲したピークが見え、9合目に至るまで尖がった方が山頂と誤解し、山頂直下に来るまでは比較できなかった。山頂に立って湾曲した山頂の方がかなり高いことを知って、自分の無知に呆れるばかりであった。

久々に広場のような山頂にいると、岩場の圧迫感や絶壁の恐怖感もなく、寛いだ気分となる。ウスバキチョウが山頂まで飛んで来て、私のリュックに止まったので、思わずカメラのシャッターを押した。槍ヶ岳や奥穂高岳の狭い山頂に比べると、広々としていて神々の遊ぶ山に相応しい山頂であった。

ビスケットを食べて間食をとり、苫小牧まで車をはしらせなければならず、10分ほどで下山を開始した。知り合いの山好きの女性から一言いわれたことがあった。佐々木さんは山頂にいる時間が短すぎると、私は反発も出来ずに考え直してみた。10分から20分が百名山に登った時の山頂滞在時間の標準であり、写真にさえ撮っていれば、いつも山頂にいる気分が味わえる。達成感は山頂で終わるわけでもなく、下山して煙草を吸うまでは緊張感は続く。山頂に山小屋でもあれば別として、私の登山は天候の急変や登山者の雑音を避けたいと言う願いが強いのかも知れない。

旭岳の景観は殆ど撮影したので、下山は一目散に火山灰と火山礫の登山道を下った。地下足袋を履いた私は、異端児のように他の登山者から見られるようで、挨拶なしで行き交う登山者も少なくはない。姿見ノ池まで下ると観光客も多く、誰も気にかける様子もない。格好は気にしないのが観光客であり、私も登山者という自負心を持ったことはない。スキーのウェアでも、滑降するだけに格好を気にしないのが私の流儀でもある。それにしても、北アルプスの雲ノ平の景観に感動したが、それを上回る大雪山は絶句するだけである。

「北海の 大雪山は 蝦夷の華 雲ノ平を 幾つ数える」 陀寂

05トムラウシ山 

【別名】富良牛山【標高】2,141m。

【山系】石狩山地【山体】成層火山・溶岩円頂丘(ドーム)【主な岩質】安山岩・凝灰岩。

【所属公園】大雪山国立公園【所在地】北海道。

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】なし。

【登頂日】平成24年7月14日【登山口】トムラウシ温泉【登山コース】前トムコースピストン。

【登山時間】8時間2分【登山距離】18.4㎞【標高差】1,176m。

【起点地】青森県つがる市。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、日本の名峰50選、日本の山ベスト100。

【周辺の温泉地】トムラウシ温泉。

トムラウシ山山頂を遠望

大正15年(1926年)、北海道大学山岳部員らが5月の積雪期に初登頂。

トムラウシ山(2,141m)は北海道の中央部、石狩山地の大雪山と十勝岳の中間に位置する。北海道では、旭岳に次ぐ標高を誇り、山名はアイヌ語のトンラウシ(水垢の多い所)に由来するそうだ。湿原や沼沢が多いことが要因と思うが、それだけ自然が豊かであると言える。

今回の第2次北海道遠征は、トムラウシ山、十勝岳、大雪山の3座を登る予定で、前日の早朝のフェリーで青森港を出発した。函館を出て、森インターから十勝清水インターまでは高速道路を走って登山口のあるトムラウシ温泉に前泊した。トムラウシ温泉からの標高差が1,176mと、前回登った利尻山や羊蹄山よりも低いのに、標準タイムが10時間20分は以外でもあり、それだけに厳しい登山となることは覚悟しなくてはならない。

高山植物にしてもカタカナ表記されると覚え難く、この山名も覚えるのに苦労した。トラムウシと誤解して覚え、牛を弔うことをイメージして何とか記憶した。北海道の地名の多くはアイヌ語に端を発しているように、山名もアイヌ語が多い。トムラウシ山は、富良牛山と漢字の表記もあるが、深田氏はトムラウシ山とアイヌ語のまま紹介している。

登山口にある唯一の宿・国民宿舎東大雪荘に泊まったが、客室は満室のことで大広間への泊りとなった。夕食の席に着くと、追加注文の中に「オショロコマの骨酒」があって3合入りで2,500円となっていたが、登山も旅も思い出づくりであり、迷うことなく頼んだ。初めて聞く川魚であったが、イワナの一種であると聞いて納得して堪能した。

同室した登山者グループは、未明の3時に起床して短縮コース登山口から登ると言う。私も彼らと一緒の時間に出発することにし、さりげなく彼らの車の後ろを走り、迷うことなく登山口に到着した。すでに10台以上の車が停まっていて、宿から後発した団体さんを乗せたマイクロバスも、私が登山支度をしている間に到着した。

登山を開始して15分を過ぎた頃には、前を登っている登山者は誰もいなくなっていた。結局、山頂までの4時間は一人旅で、キタキツネとエゾシカ以外とは遇わなかった。カムイ天上の先から新道となっていたが、笹藪を切り開いた道は前夜の雨降りでぬかるみばかり続く。私はゴム長靴も愛用しているので、嫌な思いをしなくても済んだけれど、滑りやすいのは長靴も一緒でストックは手放せない。

新道を過ぎると長い下りとなっていて、下山をしているような気分となり、コースを間違ったかと思うほどあった。コマドリ沢を過ぎて一直線に伸びた雪渓を踏み、前トム平に着いて不安は解消された。私は面倒くさいので地図を持つことは殆どなく、自分の頭に記憶した地名が頼りで、前トム平はカムイ天上から先の第二の目標地点としてインプットされていた。しかし、長い距離を登るには地図は不可欠で、明日の十勝岳はズボンのポケットにコピーした『日本百名山地図帳』を入れて登ろうと思う。

前トム平から先には形の整った美しいハイマツが群生し、あまり好ましくない笹藪とは対照的である。ケルンが積まれた岩礫帯の尾根を越え、危険な溶岩帯をトラロープに沿って横切り、再び下りるとトムラウシ公園の標柱が立っていた。

トムラウシ公園に着く頃には陽ざしが照りはじめ、天上の楽園を思わせる景観が広がる。高山植物は百花繚乱し、最初は雨雲かと勘違いしたトムラウシの山頂が顔をのぞかせる。まだまだ距離があるが、高山植物や自然庭園のような景観を眺めていると、殆ど体力の消耗はなく、前回の羊蹄山登山とは比較にならない。

南沼の分岐点に到着すると、2つの岩峰が重なった山頂が見え、30分ほどでトムラウシ山の山頂に立った。巨岩の積み重なった山頂の下には、かつて活火山であった火口跡があり、薄らと雪溶け水が輝いていた。その山頂を一人占めにしていると、何とも言えぬ満足感と優越感を感じる。私は空腹を感じないと、食べ物を口にすることはないので、この朝も昨夜の御馳走が残っていたようで、山頂に立つまでは空腹を感じなかった。宿で求めた温もりのない握り飯を食べ終え、下山の準備をしていると、ヒサゴ沼避難小屋に泊まったとみられる男性2人が山頂に近付いて来たので、私は席を譲るように下山を開始した。

下山して間もなくすると、昨夜は一緒の宿に泊まったと思われる登山者が続々と登って来る。岩場でガイドに伴われた団体さんとすれ違ったが、彼らも日本百名山を目指しているようで、かなり早いペースに思われた。私と同室だった男女4人グループも南沼分岐点を越えた地点まで来ていた。私が追い越した中で、最も遅い登山者はトムラウシ公園にいて、のんびりと高山植物を写真に撮っている。

登山はそれぞの体調や脚力に合わせたペースで登ることが大切で、団体登山には問題点を感じる。トムラウシ登山で忘れられないのは、3年前に8人が死亡した遭難事故である。悪天候の中を強行したことに原因があったようであるが、登山ガイド任せにしないで、それぞれがコースを把握し、それぞれの登山体験を活かしていれば違った判断をしていたと思う。私もこれまで日程上、雨天の日でも決行したこともあったが、厳冬期と台風が通過する時期には登らないことにしている。

新道に戻ると、チェインソーの音がするので何をしているのか気になったが、真新しい丸太が所々に積まれていたので、その敷設をしているのだと直感した。案の定、ボランティアと思われる人たちが4・5人いて作業をしていた。私は心をこめて「ご苦労様です」と声を掛けて通過したが、少しでもこの新道が歩き易くなることを願った。

カムイ天上まで下ると、登りの時に私が腰かけた丸太の上に、夫婦と思われる外国人男性と日本人女性が座っていた。私は到着時間をメモするために立ち止ったが、2人は宿の握り飯を食べている。私は昼食用にと、もう一つ包みの握り飯を持っていたので、連られるように空いている丸太に座って食べた。その女性と色々と山の話をしたが、外人男性は不機嫌そうな顔していたので、私は邪魔をしたと思い握り飯1個を食べて下山を続けた。

下山を終えて間もなく、再び東大雪荘に立寄って風呂に入った。登山後の温泉ほど気持ち良いものはなく、もう1泊して骨酒が飲みたい気分となる。トムラウシ山の登山口には、コースは長いが天人峡からのルートもあって、これこそ雲上の楽園にも思われる。トムラウシ山には、日本庭園と称される景勝地があるが、昨年訪ねた北アルプスの雲ノ平は「日本最後の秘境」と言われ、その景観に感動したものである。天人峡からのコースには、それ以上の魅力があるようで思え、再び登りたいものである。

「雲を行く 山の旅人 花まみれ 再び絶句 石狩の屋根」 陀寂

06羊蹄山

【別名】マッカリヌプリ、後方羊蹄山、真狩山【標高】1,898m。

【山系】独立峰【山体】成層火山・溶岩円頂丘(ドーム)【主な岩質】安山岩。

【所属公園】支笏洞爺国立公園【所在地】北海道。

【三角点】一等【国指定】天然記念物(植物)。

【関連寺社】羊蹄山神社(倶知安神社末社)。

【登頂日】平成24年7月24日【登山口】京極口【下山口】真狩口【登山コース】上り京極コース・下り真狩コース。

【登山時間】7時間15分【登山距離】14.5㎞【標高差】1,478m。

【起点地】青森県つがる市。

【主な名数】八十八座九十図、日本百名山、名峰百景、新日本百景、新日本百名山、百霊峰、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】まっかり温泉。

羊蹄山山頂の火口

明治45年(1912年)、オーストリア人将校・フォンレルヒが登頂。

羊蹄山(1,898m)は道南旅行をした際、何度となく眺めていたが登山をすることなど考えたこともなく、北海道の山に登ること事態が異次元の世界に思われた。それはヒグマに対する恐怖心から来ると思うが、危険を冒してまで登山をする必要性を感じていなかった。

千歳空港から喜茂別へと走ったが、信号機が殆どなく、道も極端な急カーブがなくタイ

ヤが嫌な音を出す箇所もなかった。さすがに北海道の郊外や山腹の道路は走りやすいが、真冬の道路を想像すると暗澹たる銀世界が脳裏に漂う。

昨夜の宿は温泉なら何処でいいと思い、京極登山口に近い川上温泉に予約したのであっ

たが、露天風呂は風に吹かれるままで、トイレも完全な水洗式でなく、昭和の香りが漂っていた。しかし、昔はどこの温泉宿も一緒であり、山小屋に1万円近くも払って不快な思いをするよりはまだ良い。内風呂だけは新装されたばかり清潔で、バス停にもなっている温泉の看板に偽りはなかった。部屋の窓の正面には尻別川が流れ、雲の端から雄大な羊蹄山が姿を現してくれた。寂れた宿にも何かしらの情緒があり、それを知るのも旅だ。

羊蹄山は蝦夷富士と言う郷土富士名があり、深田久弥氏は後方羊蹄山と「日本百名山」と紹介している。南東の尻別岳(1,107m)を前方羊蹄山と呼ぶことに対比しているようである。また一部の地図には真狩山の表記も残っていて、山名の変更には風土的な歴史の変遷を感じるが、アイヌ語のマッカリヌプリのままで良い気がする。山は道南の中央部に位置する独立峰で、円錐形の成層活火山であり、山頂が噴火口となっているようだ。

午前7時の朝食を済ませて宿を出立する予定であったが、30分早く食事を作って貰ったため、30分ほど時間に余裕ができたので、登山口近くの「羊蹄のふきだし湧水」に立ち寄った。昨日の利尻山甘露泉水と同じく、この湧水も昭和の名水百選になっていて、北海道では3ヶ所しか指定されておらず、2ヶ所もその水を味わえるのはラッキーである。

昨夜、甥のコーセイ君と話し合った結果、羊蹄山には登らないで私をサポートすると言う。標高差約1,500mの連登は、彼には少しハードであり、一般的でない京極コースにも不安はあった。しかし、外輪山のピークに最も近く、登りの標準タイムが4時間というのも魅力的で、千歳からの経路を考えると京極コースしか眼中になかった。

コーセイ君は運転免許を取って5・6年なるけれど、1度も私の車を運転すると言ってくれなかったのが残念に思っていただけに、その成長ぶりに驚くと同時に今回の登山に誘った意義は大きい。京極コースから登って、真狩コースに降りることが可能となり、私が最も理想とする縦走が叶えられそうになった。

京極登山口には10台ほどの車が駐車されていて、自分1人ではないことに安心はしたが7時20分の登山開始は遅いようである。宿の主人からの事前情報だと、羊蹄山にヒグマは殆どいないと聞いていたので、大げさな鳴り物は避けてラジオの周波数をセットした。

畑に面した農道をしばらく歩いて行くと、樹林帯の先に1合目の標識が木の幹に掲げられいてた。私の300mほど後方からも単独で登って来る登山者がいたので、ラジオを聴きながらリラックスした気分で登り始めた。しかし、連登の疲れもあり、思うように脚は上がらず、息も苦しくなって牛歩の歩きとなった。

単調な樹林帯が続くが、3合目からはエゾマツやトドマなどの針葉樹林帯に変化し、息を整えるために立ち止まっては林を眺めて深呼吸をした。5合目に到着して写真を撮っていると、後方から登って来る登山者に越されたが、顔を良く見ると中年女性のようであった。登山を始めて女性に抜かれることは滅多になかったが、ストックも手にしていない所を見ると、相当な上級者のようで脱帽しながら彼女を見送った。

登山道にはネマガリタケが旬を迎え美味しそうに生えていたが、採って行く登山者は少ないようで、私も手に触れないで見逃した。7合目付近から樹林帯にダテカンバが多く見られるようになり、8合目にガレ場があったがハイマツの中へと登山道は曲がっていたので安心した。9合目付近で、追い越し行った女性が下山して来る。「早いね」と声を掛けると、山頂には団体さんが沢山いるとの情報を伝えてくれた。

9合目のやや急な登りを行くと、目線の高さにお花畑が広がっていて、そこを登り切ると噴火口跡の外輪山に立っていた。登山を開始して4時間、標準タイムという不甲斐のない時間で三角点に到着した。標高1,898mの山頂をカメラの収めたのは、その15分後であった。羊蹄山は富士山のお鉢のような山頂で、火口の底には薄っすらと水が溜まっている。噴火口跡は大きい順に父釜・母釜・小釜に分かれているようだが、残雪に埋もれていて父釜だけが見えた。この山頂に日本人で最初に登ったのは、探検家の松浦武四郎(1818-1888)と言われ、155年前の安政4年(1857年)である。彼は北海道の名付け親であり、当時の登山がどんなものであったか、想像するのも楽しいものである。

利尻山と同様に羊蹄山も高山植物の宝庫で、倶知安コース側の一帯は国の天然記念物に指定されている。本来であれば、倶知安コースをピストンするのが良かったかも知れないが、山頂でメアカンキンバイやイワブクロの群落を見ただけでも幸せである。

長く広世君を待たせては可哀そうと思い、下山を急ごうとしたが、山頂から先は長い岩場が続き、真狩コースへの分岐点に至るのに35分も要し、9合目に到着したのが零時半頃であった。9合目の近くには羊蹄山避難小屋が見え、山のバッヂが売られていると確信していたが、往復すると30分ほどロスタイムするので断念した。

羊蹄山は霊山であり、古代のアイヌの人々は霊山などを「マチネシリ」とも呼び、コタンカラカムイ(地上創造神)が降臨した山として崇めたと聞く。日本人が北海道に侵略し、白老のアイヌ人たちが霊山としていた樽前山には、日本人によって樽前山神社が祀られた。羊蹄山に大きな羊蹄山神社を創建しなかったのが何よりも救いであり、羊蹄山はアイヌ人の霊山で有り続けることを望まずにはいられない。

ストックに助けられて無事に1合目まで辿り着くが、すでに脚力は限界を越えていた。登山口の看板には、ストックの先端にゴムキャップを取り付けるようと書かれていたが、ゴムキャップは外れ易く、2本のストックのゴムキャップはもうない。私にとってペットボトルの水とストックは車の両輪のようなもので、いずれストックの使用が禁止となれば山に登ることはないだろう。タバコも含めて環境保護派の宣揚は、極端すぎると思うのだが。

「花に雪 雲の上なる 蝦夷の富士 規制を気にして 下る虚しさ」 陀寂

07北海道駒ヶ岳

【別名】渡島・蝦夷駒ヶ岳、内浦岳、渡島富士【標高】1,112(砂原岳)、1,131m(剣ヶ峯)。

【山系】独立峰【山体】成層活火山【主な岩質】安山岩。

【所属公園】大沼国定公園【所在地】北海道

【三角点】一等(砂原岳)【国指定】なし。

【関連寺社】駒ヶ岳神社。

【登頂日】平成24年9月1日【登山口】6合目駐車場【登山コース】赤井川コースピストン。

【登山時間】2時間18分【登山距離】6㎞【標高差】414m。

【起点地】青森県つがる市。

【主な名数】新日本三景(大沼公園・三保の松原・耶馬渓)、八十八座九十図、日本二百名山、名峰百景、日本の紅葉百選。

【周辺の温泉地】流山温泉。

北海道駒ヶ岳山頂の遠望

文久元年(1860年)、ロシアの植物学者・マキシモヴィッチが登頂。

日本全国に駒ヶ岳と冠する山が数多あるけれど、北海道の駒ヶ岳と言えば渡島半島の内浦湾南部に聳える渡島駒ヶ岳である。蝦夷駒ヶ岳とも呼ばれ、標高1,131mの剣ヶ峯が最高峰で、大沼とのロケーションが素晴らしい。志賀重昂(1863-1924)も『日本風景論』では、大沼の景観に「磊落雄渾なるを添える」と述べている。

平成21年の3年前に駒ヶ岳登山に来たが、火山活動のため入山禁止となっていて断念したが、今は馬ノ背まで登れると聞いて函館からレンタルカーで登山口へ向かった。しかし、登山口前の林道ゲートが午前9時間でないと開かなくて、5分ほど待たされた。前日にレンタルカーを借りて早朝に出発していれば、1時間以上も待たされる羽目となったのでラッキーでもある。見知らぬ登山口には予期しない出来事が多く、困窮することも多い。そう言えば、北アルプスの薬師岳登山の折も有峰林道のゲートの前で待たされた思い出がある。

ゲートを開錠した山岳パトロールが登山口に陣取り、入山届の管理をしていたので久々に入山届に記帳した。登山口は霧が立ち込めたままであったが、日曜日とあって7・8人の登山者がいた。この登山道は山麓からもはっきりと見えるほど広く、スズキの「ジムニー」なら楽に走れる道であった。登り始めて30分足らずで9合目に到着し、山頂まで200mと記された真新しい標識があり、馬ノ背を仮の山頂と定めて設置したようだ。

この中途半端な場所が山頂と仮定されても、納得がいかないのが心情であった。駒ヶ岳登山のために遥々と海を渡って来た立場からすると、拍子抜けをしたような無念さが湧き起る。せめても、その先の丸山までは登らせて欲しいと願う気持ちで、霧(ガス)の先の200mを見据えた。登山は一にも二にも、山頂に立つことが目的であり、それが達成されないとすれば空しい登山となる。しかし、何事も経験であって今回は駄目でも、いつの日か山頂に立つことを夢見ることが登山の面白さである。

単独の登山者が「何も見えなかった」と言って下山して来たが、馬ノ背に着いた私は辺りに張り巡らされたロープ越しに剣ヶ峯に続く登山道を探した。馬ノ背には、長野と福岡から来たと言う私よりも年輩の単独登山者が二人いた。長野の登山者は、晴れていれば先に行きたかったと言って下山して行き、福岡の登山者は剣ヶ峯を目指して登って行った。山で出会った人たちとの会話は楽しいもので、かつてユースホステルに泊まり、同室した旅行者と語り合った時と全く同じである。

私もその後を追うように登ると、福岡の登山者は目印にするため、小石を大石や岩の上に乗せて行く。山を熟知した登山者のようで、ストックを持参していないことで心意気が伝わって来る。私にはストックなしの登山は考えられないので、脱帽するばかりである。

福岡の登山者は丸山に向かい、私は迂回をせずに剣ヶ峯の直下まで進んだが、途中で登山道を見失ってハナゴケの上を歩くのもしのびなく下山することにした。すると、立ち込めていた霧も上がり、剣ヶ峯の仏像のような威厳に満ちた岩峰が姿を現してくれて、手を合わせるように眺めた。私は見晴らしの良い標高902mの丸山に立つことで、駒ヶ岳登山の到着点と満足することにした。あの頂きに立つのは容易ではないと、福岡の登山者も感じたようで、丸山から一緒来た道を下山した。

馬ノ背には数人の登山者がいて、ルールを無視した私たちを蔑視するようにも見えたが、福岡の登山者は何食わぬ顔で弁当を広げながら休息し始めた。私は9合目で食事しようと思い、福岡の登山者に別れの挨拶をして下山を続けた。下山途中に多くの登山者とすれ違ったが、剣ヶ峯の山頂に立ちたいと思う願いは一様であると思う。浅間山は火口付近500mまで登れるようになったそうで、黒斑山を代替したことに無念が残る。来年は浅間山の火口付近まで登りたいと思うし、駒ヶ岳山頂への登山が解禁となる日が待ち遠しい。

大沼公園を訪ねた3年前は、遊覧船に乗って駒ヶ岳の美しさを堪能したが、今回は駒ヶ岳から大沼と小沼を眺めている。駒ヶ岳を初めて見たのは中学校3年生の修学旅行であるが、その時に覚えた自然美への感動ははっきりと脳裏を過る。それは盆地育ちの私が小学生低学年の頃、初めて日本海を見た時の感動に等しいものであった。青年期になって感動した景色と言えば、三保の松原と富士山、草千里と阿蘇山、十和田湖と奥入瀬、上高地と穂高連峰と思い起こすが、それでも大沼と駒ヶ岳の感動には及ばない。

大沼から眺める駒ヶ岳が観光スポットの定番であるが、室蘭の地球岬から内浦湾越しに眺めた駒ヶ岳も良かった。山の景観は眺める場所によって大きく異なるもので、様々な角度から眺めないと、山の美しさは満喫できない。世界文化社が昭和55年(1980年)に出版した『百峰百景』の写真には、大沼から眺めた夏の駒ヶ岳の夕暮の写真が記載されていた。

世人はよく、眺める山と登る山との違いを述べているが、今のところ駒ヶ岳は眺める山の部類に入りそうだ。私からすると、眺めて良し、登って良し、そして古より和歌の題材となった歌枕の山や霊山が名山に相応しいと考える。その結論は、剣ヶ峯の最高峰に立った時に感じる印象となるであろうが、山頂の険しい景観を見る限り例外もあると言える。

登山道の途中に大沼湖畔の駒ヶ岳神社から登るルートと合流する地点があったが、現在はこの登山道は閉鎖されていた。3年前もこのルートから登山しようとしたが、その時も閉鎖されていたので、登山道は随分と荒れてしまっているように見える。登山道なくして一般登山は不可能であり、地元の人々の協力は不可欠である。登山口で再び山岳パトロールの人と顔を合わせ、深々とお辞儀をしてその努力に感謝した。

大沼の中心部まで車で登山口から降りると、大勢の観光客が湖畔にいたのでそのまま素通りして、函館へと一路向かった。最近なって何度となく、函館から森へ向かう国道5号線を走ったが、その道路脇に「ソダシャロレー牧場」の看板を目にして驚いた。1度も訪ねたことはなかったが、思い出深い牧場の名前である。

私が中学生時代に「太陽野郎」というテレビドラマが放映されていて、俳優の夏木陽介氏が扮する牧童(カウボーイ)が格好良かった。そのロケ地がソダシャロレー牧場で、広大な北海道の牧場風景に憧れたものである。また、ドラマの挿入歌は、寺内タケシ氏が率いるエレキバンドであり、その音楽にもしびれたものである。夏木氏は齢80歳となったがスポーツカー好きの現役であり、寺内氏は73歳で精力的にコンサート活動を続けている。それに比べると私は58歳とまだまだ若く、生涯現役を続ける2人に学ぶことも多い。

「その昔 北海道に 憧れた 牧場の朝と 蝦夷駒ヶ岳」 陀寂

08岩木山

【別名】津軽富士、お岩木様、巌木山【標高】1,625m。

【山系】独立峰【山体】成層活火山・溶岩円頂丘(ドーム) 【主な岩質】安山岩。

【所属公園】津軽国定公園【所在地】青森県。

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】岩木山神社、大石神社。

【登頂日】平成21年5月16日【登山口】8合目駐車場【登山コース】嶽コースピストン。

【登山時間】1時間25分【登山距離】1.7㎞【標高差】155m。

【起点地】秋田県鹿角市。

【主な名数】八十八座九十図、日本百名山、名峰百景、新百名山、百霊峰、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】嶽温泉、百沢温泉、三本柳温泉。

岩木山と水田

平安時代初期、征夷大将軍・坂上田村麻呂が開山と伝承。

青森県の津軽地方には、御当地冨士の代表格で「津軽富士」と呼ばれる岩木山がある。標高は1,625mと高いわけではないが、典型的なコニーデ型火山で東北のふるさとの冨士では最も均整とれていて美しい。山頂は三峰のピークに分かれていて、中央の岩木山の他に北に巌鬼山(1,456m)、西に鳥海山(1, 502m)がある。岩木山登山は初めてであったが、津軽岩木スカイラインを利用すると楽に登れる山であった。

年が明けて間もなく、リーマンショックの影響で石川県の金沢営業所での仕事を打ち切られ、途方に暮れていたら他の会社の知人から秋田県鹿角市に病院の現場があるとの事で誘いがあった。「捨てる神あれば拾う神あり」で、多くの友人知己によって生かされている運命を痛感する。私は会社経営を辞めてから4年間、CADの図面屋として四日市と金沢と転任し、再び秋田に戻ったのである。現場は横手の自宅から最短で160kmも離れているため、大湯温泉に温泉付のアパートを借りて花輪の現場を往復した。東北の春は遅く、登山の再開は5月の連休まで待たねばならなかった。

大湯温泉は青森県境の近くにあり、青森県には岩木山と八甲田山が日本百名山である。今年は東北と北関東の百名山を何とか登りたいと思い、閑を見つけてはその山々に思いを寄せて計画を立てた。東北にある日本百名山登山では、青森県の岩木山がスタートとなった。5月連休中、青森港からフェリーに乗って函館に渡る際、明け方の津軽半島の奥に真白に輝く岩木山を遠望した。その美しさに見とれ、登山シーズンが始まったら真っ先に岩木山に登ろうと決意し、今日の日を迎えた。

東北自動車道を大鰐弘前インターで降りて、弘前市内を迂回するように間道を行くと、リンゴ畑の花は満開で、目前に雄大な岩木山が聳える。津軽平野の象徴的な存在で、岩木山神社の御神体でもある。岩木山神社の門前を経て、嶽温泉を通り、ブナの新緑が美しい九十九折りのスカイラインを上る。8合目に到着すると、春スキーのシーズンは終わったようで、数える程度の観光客や登山客がいるだけである。山頂直下の9合目から滑る岩木山の春スキーも楽しいだろうと想像し、ゲレンデの起伏を見上げた。

8合目からは昭和の時代を思い出すような古いシングルリフトで、9合目の鳥ノ海噴火口まで上る。噴火口の光景は、山塊の武骨さに比例するように深くえぐられていて、生々しく見える。登りはじめて直ぐ、鳳鳴ヒュッテに到着する。この山小屋は、昭和39年1月に遭難死した大館鳳鳴高校の山岳部員4人を哀悼して建てられた小屋らしい。今も生きていれば、61・2歳になっていだろう。今は中高年の登山ブームの最中、再び岩木山に登っていただろうと想像しながら慰霊碑に合掌して山頂を目指した。

 岩場の急登を一気に登ると、もう山頂である。時計を見たら25分が経過しただけで、額に汗をかく程度で、あまりにもあっけない登山となってしまった。山頂から眼下に広がる景色は春霞につつまれ、北海道の山々までは見えない。しかし、残雪の八甲田連峰と白神山地ははっきりと見え、近い内の再会を心の中で約束した。山頂には岩木山神社の奥宮があり、恭しく参拝して霊山登拝を果たした。広い山頂には2・3人がいるだけで、百名山にしては閑散とした様子である。コンビニで買い求めた握り飯を食べながら津軽平野を眺め、岩木山の初登頂を果たした実感をしみじみと味わった。

山頂にも荒々しい噴火口の景観が見られ、火山が活発だった1万年前の様子を伝えている。富士山と同じで、遠くから眺めると優しそうな曲線美を見せてくれるが、山頂に立つと険しい岩峰へと変貌し亜然とさせられる。登る山、見る山、拝む山と、山の歴史や特徴によって山に対する視線や見方は異なってくる。

津軽地方は多くの有名人を輩出しているが、太宰治や石坂洋次郎などの作家も岩木山を眺めながら育ったと思うと、環境が人を造ると言っても過言ではない。石川啄木や宮沢賢治も同様で、彼らのにとって岩手山は格別であったことだろう。私も鳥海山を眺めて育ったせいか、詩歌をこよなく愛する少年時代を過ごし、自然を礼賛する青年へと成長した。

下山はリフトを利用せず残雪を踏んで下りたが、防水性のない地下足袋を履いていたため、足の皮膚がふやけるほど雪で濡れてしまった。耐水性の地下足袋をリュックに詰めていたが、靴下の予備を忘れていたのでどうにもならない。リフトに乗ったアベックと殆ど同時に、8合目のレストハウスに到着した。早速、バッヂを購入してささやかな自己満足に浸った。北東北の百名山はすべて登ったことになるが、岩木山に関しては1合目の岩木山神社から登らないと達成感がなくやはり後味が悪い。

8合目からの津軽岩木スカイラインを約10km下った先の嶽温泉に立ち寄り、温泉場の雰囲気を車内から眺めた。嶽温泉は泊りに来たいと思っていた温泉街の1つで、中々実現していないのが残念である。また来る機会があれば泊まりたいと、旅館のパンフレットをもらって岩木山神社へと向かった。

著名な神社仏閣を参拝し、城郭や庭園を鑑賞するのが若い頃から継続している趣味であり、青森県一の格式を誇る岩木山神社も参拝したいと願っていた。参道の木立の正面に岩木山の山頂が頭を出していて、優しい表情に変わっていた。重要文化財の赤い楼門を潜り、同じく重要文化財の拝殿で参拝し、無事に下山したことを感謝した。

岩木山神社は奈良時代末の坂上田村麻呂(758-811)が創建したと伝えられ、真言宗の百沢寺を供僧院として修験道の霊場として栄えたようである。また津軽の一宮として地元民の信仰を集め、江戸時代は歴代藩主によって造営修復がなされて来た。現在の豪壮な社殿は、元禄年間の建築で「奥の日光」とも称されたそうである。

神社の門前は百沢温泉となっていて、その食堂で昼食を食べてから温泉に入った。他に入浴者がなく、ゆったりと湯船に浸かり寛いだ。帰路は弘前の郊外の神社仏閣を訪ね、観光客へと変身し春の津軽路を巡った。久渡寺山にある久度寺観音は、長い石段の上に雪が残り、まるで登山のような登りに胆をつぶしながら参拝した。

大鰐に入るまでは何度となく岩木山が望まれ、その存在感に再び脱帽した。日本アルプスの3,000mを超える山々に比べると、その半分の標高に過ぎないが、独立峰ならではの威厳に満ちた姿は実に美しく立派である。平野部の真ん中に屹立する独立峰は全国的に珍しく、百名山では他に例を見ない。

「新緑の 衣装う 津軽富士 四季折々に 変わる豊さ」 陀寂

09白神岳

【別名】しらかみの嶽、白髪山、白上山【標高】1,235m。

【山系】白神山地【山体】隆起山岳【主な岩質】堆積岩・流紋岩。

【所属公園】津軽国定公園【所在地】青森県。

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】白神大権現祠。

【登頂日】平成21年5月30日【登山口】黒崎駐車場【登山コース】蟶山コースピストン。

【登山時間】5時間45分【登山距離】11.8㎞【標高差】1,032m。

【起点地】秋田県鹿角市。

【主な名数】日本二百名山、日本の自然100選、水源の森100選、日本の秘境100選、日本遺産百選、新日本百名山、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山。

 一等三角点は 標高1,232m地点、世界自然遺産

【周辺の温泉地】白神温泉、みちのく温泉、黄金崎不老ふ死温泉。

白神岳山頂付近の残雪

寛政10年(1798年)、民俗学者・菅江真澄が津軽側から白神山地に入山。

白神山地は世界遺産に登録されてから随分と注目されるようになったが、ハイキングや登山で入れる地域は限定されていて、最高峰の向白神岳(1,250m)には登山道はない。二百名山の白神岳(1,235m)、東北百名山の天狗岳(958m)が可能のようだ。指定区域外では藤里駒ヶ岳(1,158m)、田代岳(1,178m)などが登山できる山のようである。秋田県側にある藤里駒ヶ岳と田代岳は紅葉の頃に登るとして、まずは青森県側の白神岳に登ることにした。

秋田県鹿角市の工事現場に来てから、4ヶ月が過ぎようとしている。今年の山行は、5月連休に北海道の松前公園に花見に行った帰りに登った恵山と、津軽富士の名で呼ばれている岩木山である。いずれも江戸時代の「名山図譜」に選ばれた山であり、「日本百名山」よりも魅力を感じている88座の2座である。今年の3回目の山行は、鹿角からも遠くない白神山地の白神岳に登ろうと予定したのである。

朝の5時過ぎに宿泊先の大湯温泉を出発し、登山口のある駐車場に到着したのは午前7時半頃であったが、既に10台近い車が駐車していた。案内板を見ると、蟶山へ登って尾根伝いに白神岳山頂を辿る蟶山コースと、途中から沢伝いに直登する二股コースがある。登りは蟶山コースで、下りは二股コースを歩くことにした。

世界遺産の名に恥じないような立派なトイレが登山口にあり、小用を済ませて団体登山客の後ろを登りはじめた。ガイド付きのツアーらしく、解説を交えてのんびりと登っていたので、一気に追い越してマイペースで蟶山を目指した。しかし、急登で喘ぎ立ち止まると、ブヨの大軍が体にまとわりつく。休むなと私に鞭打っているようでもあるが、防護ネットをするか何かしらの対策を考えなくはならないだろう。

新緑のブナの森をまだか、まだかという思いで、蟶山へ登ると白神岳が彼方に見える。すでに1時間半が過ぎていた。狭い蟶山山頂で小休止し、残雪の残る渓谷を望んだ。蟶山から先は、急登は少なくハイキングでも楽しむように白神岳山頂に到着する。小さな祠に礼拝するが、どのような神様なのか定でない。白神岳は古来より名前のように神の山とされて来たようだが、麓の村には白神岳を祀る神社はなく、山岳信仰は消滅したようである。

山頂から小奇麗な避難小屋に入ると、3人ほど休息していた。私も床に座り、スパイク付きの地下足袋に履き替え、パンを食べて軽食をとった。地下足袋が珍しそうで、どこで売っているのか1組の夫婦から質問があった。私は「ワークマンですよ」と答えて、「日本人なら地下足袋ですヨ」と付け加えた。登山靴を履く度に靴擦れの肉刺に悩まされていたので、格好よりも実用性を重視することにしたのである。

再び山頂に戻り、全方位の景色を眺め、写真を撮影した。幽かに岩木山が対峙するかのように白神山地の後ろに見えた。白神岳は本当に素晴らしい山であり、世界遺産に認定されなくても「日本百名山」に昇格させたい山である。日本の世界自然遺産は、白神山地と屋久島が最初に認定され、知床半島が最近になって認定登録された。屋久島には宮之浦岳、知床半島には羅臼岳と、それぞれに「日本百名山」があることを考えると、白神岳も「日本百名山」にと思いたくなる。

白神山地の世界遺産登録地域は、核心地域と緩衝地域に分かれていて、核心地域には学術調査以外は立ち入り禁止となっていると聞く。青森県側の白神岳、向白神山、天狗岳はその境界線に山頂が位置しており、秋田県側は二ツ森と焼山だけである。藤里駒ヶ岳や田代岳も良い山ではあるが、登録地域となっていないのが残念である。

私の生まれた秋田県は、県境争いに弱いようで、鳥海山の山頂は江戸時代に山形県(庄内藩)に奪われたままである。県境が有耶無耶だった十和田湖は六四の割合で青森県に譲歩し、白神山地の核心地域に至っては七三の割合で青森県に軍配が上がった。白神山地の主峰・白神岳と最高峰・向白神山は、青森県に属するが県境はあって無いに等しいとも思う。

平成の市町村合併の際は、せめて名前だけでもと言う事で、白神市構想が話題となったが、結局は青森県の反発で消滅した。実際の所、秋田県のブナの原生林を散策するのであれば、藤里町の岳岱自然観察教育林が数少ない見学コースであり、八峰町の二ツ森は最もアクセスの良い山であり、青森県にはない魅力が秋田県側にはある。

東北に戻ってからも山のことばかり考えて暮らして、「東北百名山」にも目を向けるようになった。白神山地からは天狗岳、白神岳、小岳(1,042m)、藤里駒ヶ岳、田代岳の5座が選ばれていて、十和田湖周辺からも酸ヶ湯大岳(1,584m)、櫛ヶ峯(1,516m)、戸来岳(1,159m)、十和利山(991)、白地山(1,034m)の5座が入っている。未踏の山ばかりであるが、それが鹿角にいる楽しみでもあり、2時間以内に車で登山口に入れるのが嬉しい。

「東北百名山」の山々は、「信州百山」に比べると標高では半分以下の山々ではあるけれど、東北の山々の紅葉は日本屈指の名所でもあり、ブナの原生林においては比較できないほど豊かである。信州の岩峰には遠く及ばないが、ブナの原生林の存在が信州にもない世界自然遺産となったので、白神山地だけは自慢できると言える。

山頂直下の二股コースから下山を開始したが、登って来た稜線とは異なり、残雪が消えぬ谷間のコースであった。雪溶け水の流れる渓流は変化に富んでいて、味わいが深い。山頂に向かうコースが色々とあると、楽しみも倍増する。登山道と下山道が選択できる山は多いが、同じ登山口に戻れるケースは稀である。そんな利便性を考えると、白神岳ほど整備されたコースは世界遺産の緩衝地域には見当たらない。

2時間半近くを経て、登山口に戻ったが、山のバッヂの収集は百名山にとどまらない。日野林道のロッジで「白神岳のバッヂあり」の看板を目にしていたので、オリジナルのバッヂを入手できたことは幸運である。旅の思い出は、絵葉書やバッヂの記念品と一緒にあるもので、絵葉書は約500組、山のバッヂは39個となって増えて行くのが嬉しい。

登山後の楽しみは麓の温泉であり、天下に名高い黄金崎不老ふ死温泉の露天風呂に入るのが常套であるが、混雑しているようなので遠慮した。この温泉施設の増築工事の際、その設備図面を書いたことがあり、無料で旅館にも泊まった。観光客とは違った思い出があり、一人眺めた海面すれすれに沈む夕日と、鉄さび色の露天風呂は心の宝物である。私が現在住んでいる大湯温泉のアパートには、共同浴場があり毎日入浴している。この大湯温泉の高温の泉質に慣れてしまったため、大湯温泉に戻ることが楽しみでもある。

「温泉に 一年間も 滞在し 毎週登る みちのくの山」 陀寂

10八甲田山

【別名】酸ヶ湯大岳【標高】1,584m(大岳)。

【山系】奥羽山脈(北八甲田山連峰)【山体】成層活火山・溶岩円頂丘(ドーム) 【主な岩質】玄武岩・安山岩。

【所属公園】十和田八幡平国立公園【所在地】青森県。

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】八甲田神社。

【登頂日】平成21年6月7日【登山口】酸ヶ湯温泉【登山コース】上り仙人岱・下り毛無岱コース。

【登山時間】4時間20分【登山距離】9.2㎞【標高差】685m。

【起点地】秋田県鹿角市。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、日本の秘境100選、新日本百名山、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】城ヶ倉温泉、酸ヶ湯温泉、谷地温泉、猿倉温泉。

酸ヶ湯温泉から望む八甲田大岳

寛政8年(1796年)、民俗学者・菅江真澄が浪岡から遠望。

八甲田山は奥羽山脈の北端に位置し、北八甲田山と南八甲田山に分類されるが、単に八甲田連峰と通称される。登山の対象になるのは北八甲田山で、北側から田茂萢岳(1,324m)、赤倉岳(1,548m)、井戸岳(1,550m)、酸ヶ湯大岳(1,585m)、小岳(1,240m)、高田大岳(1,551m)、前岳(1,252m)、石倉岳(1,295m)の8つの峰々で構成されている。一般的にロープウェイを利用して登る田茂萢岳を主峰とするが、最高峰の酸ヶ湯大岳(八甲田大岳)が登山者の目標となるようだ。避難小屋から田茂萢コースに向かう途中に噴火口跡があり、気象庁が指定した全国111ヶ所の活火山の1つにもなっている。

八甲田山には、5月連休に何度となく訪ねてロープウェイで上り、春スキーを楽しんだものである。地球温暖化の影響で、5月連休の田茂萢岳から一気に山麓まで滑る春スキーは不可能となり、次第に八甲田山は遠のいていた。また、八甲田連峰の最高峰である酸ヶ湯大岳には登ったことはなく、雪溶けが過ぎた八甲田山へも入っていない。そんなことから酸ヶ湯温泉に登山口がある酸ヶ湯大岳に登ろうと決意し、6月の初旬に決行した。

大湯温泉から十和田湖を経由して1時間半ほどで登山口の酸ヶ湯温泉に到着し、温泉の前に車を停めた。ここに車を停められたのは幸運で、シーズン時の混雑が脳裡を過る。酸ヶ湯温泉は秘湯の中でも最も人気が高く、混浴目当てに訪れた若い頃の自分が懐かしく思い出される。また下山後の入浴が最も楽しみで、その情景が見えるようである。

酸ヶ湯温泉からは、仙人岱コースが酸ヶ湯大岳までの最短コースであり、登りはそのコースを選んだ。実際はロープウェイを利用して田茂萢岳から往復すると3時間弱と近いのであるが、ロープウェイの待ち時間や搭乗時間を入れるとそんなに違いはないようだ。

薬師神社に参拝して登山道を行くと、二股に分かれた道があり、間違って右に行ってしまった。そこには酸ヶ湯温泉の沢水取水槽があり、その先に道はなかった。二股まで引き返し、20分ほど時間ロスしたが、気を取り直して再び登山道を登りはじめた。小雨の降る中、傘をさしての登山は御嶽山の登山以来である。合羽に着替えるよりも傘の方が便利であり、ブッシュ(藪)や岩場の急登でもない限り傘で十分である。

地獄湯ノ沢を越えると急峻な雪渓の横断があり、足を滑らせて滑落する場面があったが、幸い木の枝につかまり、10mほどで止まった。ピッケルを車に積んだままで持参しなかったことが悔やまれるが、スキー場のゲレンデのアイスバーンで転倒して滑ることには慣れているので、雪上の滑落はあまり心配をしない。

登りはじめて2時間余り、残雪におおわれた大岳の山頂に到着した。小雨がガスに変わり視界も悪く、強風も吹いていて、山頂で休憩する状況ではない。八甲田山神社の小さな祠を拝み、山頂の標柱を何とか写真に撮り、急ぎ避難小屋へと下って強風から避難した。5月の春スキーの折は機嫌の良かった八甲田山ではあるが、20数年ぶりの来訪を歓迎していないようで、機嫌良い時にまた登りたいものである。

ログハウスの洒落た大岳避難小屋(大岳ヒュッテ)に到着すると、登山客は私以外に誰もいない。1人でパンを食べながら休息していると、中年男性の登山者が入って来た。挨拶を交わして話をしたら、昨日も登ったが、私が滑落したあたりでコースを失い、今日改めて毛無岱から酸ヶ湯大岳を目指して登って来たという。2日続きの悪天候は気の毒な限りであるが、それにしても中年男性の執念に驚くばかりである。

避難小屋から上毛無岱の湿原に下ると、天気は回復し青空が広がっていた。小さな地塘が点在し、水芭蕉の花が咲いている。まだ名前の知らない高山植物などをカメラに写し、下山の心地良さを味わった。歩きやすい木道が続き、更に続く下毛無岱の湿原に下る頃には、初春の湿原にすっかり酔いしれていた。幾度となく途中で酸ヶ湯大岳を振り返ったが、山頂はとうとう姿を見せてはくれなかった。山で会ったのは、中年男性が1人だけでオフシーズンや曇天の山は淋しいものである。夏山の賑やかさや児童たちの歓声を恋しく思うのは、単独登山者の本音なのかも知れない。

5月末に白神山地の白神岳に登ったので、目標にしていた「青森三山」を登り終えた。白神山地は世界遺産に登録されてから人気が高まり、その主峰でもある白神岳は百名山に編入されても違和感はないと思うが、深田ファンには納得できない話だろう。

湿原を過ぎて湯坂を下ると、酸ヶ湯温泉は目の前に見える。かつては緑色に屋根が塗装されていたが、現在は茶色に統一されている。木造の温泉旅館として最大級の建物で、有名な「八甲田山死の彷徨」という映画の撮影の折は、俳優やスタッフたちが旅館に滞在したと聞く。私も1度泊まったことがあるが、歴史を感じさせる風格のある建物や湯治場の雰囲気に強く惹かれた思いが去来する。

登山を開始して4時間20分、9.2kmの登山道を登下山して車に到着した。天気が悪くても山頂を極めた満足感はひとしおであり、百名山をゲットしたことに変わりはない。地下足袋からサンダルに履き替え、着替えを紙袋に入れて千人風呂へと向かった。

酸ヶ湯温泉に入浴するのは久々で、プールのような浴槽の中央部に腰を下ろすと、回りには誰も近寄る気配がない。何か変だと思い湯船の回りを見渡すと、男性と女性の境界線が浴槽の縁に記されていた。私はその境界線を越えて女性側に入ったようで、それを知って何食わぬ顔を装い、入口の浴槽へと入り直した。しばらく訪ねていないと、勝手が変わるものであるが、総檜造り浴室は昔のままであり、その木の温もりは体に優しい。

帰路は十和田湖畔に立ち寄り、懐かし酒屋や土産物屋を訪ねた。私は若い頃、十和田ユースホテルのサブペアレントをしていた時期があり、随分と青春を謳歌したものである。そのユースホステルも何年か前に取り壊され、今は生出キャンプ場の一部となっている。十和田湖畔には潰れた旅館や土産物が多くあり、涙が流れるほど哀しい光景でもある。

しかし、今年の2月10日に九州から来た友人と湖畔の宿に1泊し、「十和田湖冬物語」の祭典を見物した際は、元気な十和田湖の一面を見て感激したものである。山登りと同じでコツコツと努力していれば、いずれは山頂を極め、至福の展望を味わうことができる。衰退する観光地であっても何か魅力のあるイベントがあれば、観光客は興味を寄せるのである。十和田湖人気の復活を願いながら私は発荷峠の展望台に立ち、十和田湖の北方に聳える八甲田山に一礼して大湯温泉へと帰った。

「十和田湖の 北に連なる 八甲田 一礼をして 峠を下る」 陀寂

11岩手山

【別名】厳鷲山、南部富士、南部片富士【標高】2,038m (薬師岳)。

【山系】奥羽山脈【山体】成層活火山【主な岩質】玄武岩・安山岩。

【所属公園】十和田八幡平国立公園【所在地】岩手県。

【三角点】一等【国指定】特別天然記念物(焼走り溶岩流)、天然記念物(植物)。

【関連寺社】岩手山神社。

【登頂日】平成21年5月30日【登山口】馬返し駐車場【登山コース】柳沢コースピストン。

【登山時間】5時間30分【登山距離】11.4㎞【標高差】1,388m。

【起点地】秋田県鹿角市。

【主な名数】岩手三山(岩手山・姫神山・早池峰山)、八十八座九十図、日本百名山、名峰百景、新日本百景、新日本百名山、百霊峰、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】焼走温泉、松川温泉、網張温泉。

東八幡平スキー場から望む南部富士

明治43年(1910年)、詩人・宮沢賢治が登頂。

岩手山(2,038m)は奥羽山脈から孤立した独立峰で、南部富士の別名をもち、その裾野は広く小岩井農場などの牧歌的な風景を展開している。また北東北には、2,000mを超える山は鳥海山と岩手山の2座しかなく、少年の頃から強い憧れを抱いていた。

今回の山行は1泊2日で朝日岳か那須岳かと考えていたが、先週の日曜日に眺めた岩手山の印象が強く、31年ぶりに登る決心をした。霊山登拝も兼ねていたので、岩手山神社のある馬返し口からの登山を計画した。一般的な岩手山の登山コースとあって、私が到着した7時40分頃は広い駐車場の8割は車でうめられていた。岩手山は霧につつまれていたが、裾野はよく晴れていて快適な登山日和である。駐車場の上は芝生の美しいキャンプ場となっていて、トイレなどの施設も整っている。テントはひと張りもなかったが、夏休みの賑やかなキャンプ場の光景が脳裏に浮かぶようだ。

自衛隊演習場に隣接した登山道を行くと、1合目の標識があり、登山道は新道と旧道とに分かれていた。上りは新道、下りは旧道を往来することにした。以前に登った時は、網張スキー場からリフトを使って登ったので、馬返し口からの登山は初めてである。

次第に高度も上がり、裾野の景色がよく見える。険しい急登が続くが、新道は登り易く難なく8合目近くに達したが、急に下痢をもよおし顔面蒼白となった。8合目避難小屋まで行くとトイレがあると思い、必死に我慢して平坦な登山道を急いだ。やっとの思いで有料トイレに入ると、洋式の水洗トイレである。昨年の晩夏から単独登山をはじめて、岩手山は39座目となるけれど、下痢になったのは初めての経験である。念のために携帯トイレは持参しているものの、非常時に備えてのものであり、使用したくないのが本音である。

安堵してトイレを出ると、避難小屋前の広場はたくさんの登山客が休憩をしている。御成清水が滾々とわき出ていて、山のオアシスのようだ。ペットボトルに清水を満たし、悠然と聳える山頂へと進んだ。不動平にはスイスアルプスで見られるような美しい石積みの不動小屋があり、山頂への急登が眼前に見える。火山灰が堆積した登山道は、それなりに整備されているが滑りやすく、杖には一層の力が入る。

山頂は風が強く、濃い霧が流れて来る。それでも多くの登山者が記念写真を撮って往来して行く。私は礼拝したあとしばらく霧の晴れるのを待ったが、眼下の噴火口が何とか見えるだけであった。10分ほど山頂でいたが、風の力には勝てず不動平まで下山して昼食を食べながら寛いだ。思えば31年前に友人と2人で登った時、友人はこの不動平でバテテしまい、私だけが山頂に立つという不本意な登山をした。今となって考えると、友人は軽い熱中症になっていたのだと思う。当時の私に現在の知恵があれば、熱中症対策を十分に考えて友人と仲良く山頂に立っていただろう。

岩手山は岩手の県都・盛岡にも近く、市内を流れる北上川を挟み眺める山頂が最も秀麗であるが、富士山とは山容が異なる。東八幡平スキー場から眺める岩手山の山頂が、円錐形に最も近いと思う。私は仕事に関連して2年ほど盛岡に滞在したが、岩手山を見る度に手を合わせて挨拶したものでもある。自然気胸という病気で盛岡の病院に入院したことがあったが、その時の何よりの楽しみは屋上から岩手山を眺めることであった。生まれ育った故郷の鳥海山が母なる山とすれば、最も永く居住した岩手県は第二のふるさとであり、その岩手山は父なる山とも言える。

下山の途中に先週登った姫神山を眼下に眺めたが、この山も富士山のように美しい三角錐の山で、その麓の渋民で有名な石川啄木(1886-1913)は生まれ育った。人口に膾炙される「ふるさとの山に向ひて云ふことなしふるさとの山はありがたきかな」の歌は、その姫神山を詠んだものだと解釈する人もいるが、啄木にとって周辺に見える山々のすべてがふるさとの山であり、その恵みに感謝したのものだと私は考える。姫神山は啄木も登ったであろうことは想像できるが、岩手山については確証がない。

旧道の登山コースを下りると、改め所跡という信仰の道があり、岩手山への登拝を取り締まっていた時代の名残を感じさせる。明治以前の登山は、修験道関係者や講を組織しての集団登山に限られていて、お山開きの期間だけであったようだ。入山を制限したのは、霊山の環境保護と噴火の対する警戒の両面があったのだろう。

馬返し口に戻ったのは、登山を開始して5時間30分後で、ちょうど良い日帰り登山となった。鬼又清水で体を拭い、喉を潤してペットボトルに清水を満たした。登山に際して一番大切なものは命をつなぐ水であり、登山時間に応じて500mlのペットボトル3本は持参する。登山途中で水を切らしたことはないが、登山道にある清水や沢水の水汲み場の場所は把握しておかないと命の水を失うことにもなる。岩手山は清水が豊富なので、御成清水と鬼又清水を空のペットボトルに詰めた。思い出の詰まった山の名水は、市販の天然水よりも旨いのは言うまでもない。

馬返し口から車で移動し、柳沢にある岩手山神社の里宮に参詣した。山頂の奥宮に対して里宮と呼ばれているが、宮沢賢治(1896-1933)は岩手山登山に際して、この神社の社務所で休息したと聞く。この神社の祭神は大名牟遅命とされるが、この神様は大国主神の別名であり、大己貴命と表記されることも多い。いづれにしても岩手山が御神体であることに変わりはなく、仏教の影響が少ない霊山でもある。また盛岡市内にも立派な社殿が建つ岩手山神社があり、南麓にはいわて山奥宮の社殿が新たに建てられていた。

岩手山西の中腹には網張温泉と言う有名な温泉があり、規模の大きなスキー場があるので何度となく滑りに来たものである。特に網張温泉は31年前の登山の際も宿泊したし、スキーを楽しんだ後に度々入浴をした。しかし、木造の質素な建物から鉄筋コンクリートの白亜の建物となって魅力を感じなくなった。今回も網張温泉には寄らず、秘境で知られる葛根田川の上流へと車を走られた。

葛根田川には玄武洞と呼ばれる大岩屋があるが、数年前の土砂崩れでその景観を失い見るも無残な姿となったと聞く。私は玄武洞を見物したことが無かったので、以前の景観と比較しないで済んだが、滅びゆく自然の景観美に心を痛めるばかりである。玄武洞のそば屋で手打ち蕎麦を食べ、遅い昼食をとった。そして、鳥越の滝を見物して後、その先にある滝ノ上温泉に入って岩手山の山旅を終えた。

「岩手山 秋はふもとの 三方の 野に満つる蟲 何と聴くらむ」 石川啄木

12早池峰

【別名】早池峰山【標高】1,917m。

【山系】北上山地(高地)【山体】隆起残丘山岳【主な岩質】橄欖岩・蛇紋岩。

【所属公園】早池峰国定公園【所在地】岩手県。

【三角点】一等【国指定】特別天然記念物(植物)、天然記念物(樹木)。

【関連寺社】早池峰神社。

【登頂日】平成21年8月2日【登山口】小田越【下山口】河原坊【登山コース】上り小田越コース・下り正面コース。

【登山時間】6時間35分【登山距離】7.2㎞【標高差】880m。

【起点地】秋田県鹿角市。

【主な名数】岩手三山(岩手山・姫神山・早池峰)、遠野三山(早池峰・六角牛山・石上山)、八十八座九十図、日本百名山、名峰百景、新日本百景、水源の森100選、日本遺産百選、花の百名山、百霊峰、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】なし。

遠野市内から望む早池峰

大同元年(806年)、猟師が山頂に十一面観音像を安置。

北上山地の中央に位置する早池峰(1,917m)は、日本で最も古い1億数千前に隆起した非火山性の残丘である。山名はアイヌ語のパヤチカ(東陸脚)に由来しているとも聞くが、諸説があってはっきりしない。早池峰山は数回の氷河期によって極北の植物がもたらされた高山植物の宝庫で、国の特別記念物にも指定されている。特にハヤチネユキワリソウは固有種で、日本のエーデルワイスとも呼ばれる花である。

早池峰の夏登山は、最近になって土日のマイカー規制をしているようで、シャトルバスを運行しているようだ。その時間に合わせ、大湯温泉のアパートを午前3時15分に出発した。大湯から約2時間でシャトルバスの出る駐車場に到着したが、思ったよりも登山客が少なく、混雑を予想して早出したのが正解であった。10人ほどの登山客を乗せたシャトルバスは、つづら折りの狭い山道を走って行くが、小田越までの25分間はとても遅い。自家用車なら15分で到着できると思うと、遅いバスは歯がゆい乗り物である。

30年前は河原坊にキャンプして小田越から登ったような気がするが、友人3人と会話に夢中になってしまい山の印象がとても薄い。真向かいの薬師岳を眺め、咲き誇るハヤチネウスユキワリソウなどの高山植物に足をとめ、1時間40分で山頂に到着した。山頂の奥宮を拝んであたりを見渡すと、3人ほどが休息していた。夏は空が霞んで遠くまで見えないが、大粒の汗をかいての夏山の涼しさは格別である。

北上に会社を構えていた10年前、仕事関係の仲間やその家族で早池峰登山に来たことがあったが、雨天のため登山を中止して遠野へ下りて観光地を巡ったことがある。その時は日曜日でも小田越まで自家用車で上れたのであったが、マイカー規制は不便なものであり、遠野へのアクセスが遮断されることになる。

山頂から河原の坊へ下山する予定であったが、案内標識を誤認し、縦走コースへと下ってしまった。しかし、その中岳への縦走コースが素晴らしく、岩場あり、ハイマツの大群生ありと、早池峰の魅力は高山植物だけではないことを知った。

山頂に再び引き返すと、山頂は登山客で溢れ、身の置き場もないほどである。手軽に登れる山とあってか、人気が高いことを実感した。今度は間違いなく、河原の坊コースを下山した。奇岩怪石が多く見所もあったが、岩や石の多さにはびっくりした。

私は夏場の登山は、ブヨやアブの襲撃に備え、上半身を覆う虫よけネットを着装していた。それが他の登山者には珍しそうで、何処で買ったかとよく聞かれる。ホームセンターの農作業着コーナーや山菜採りグッズコーナーで普通に売られでいる商品であるが、山用品の専門店しか知らない登山者には、入手困難な商品なのかも知れない。

岩石だらけの登山道は、登りよりも下りの方が転倒の危険性があり、慎重の上にも慎重に下った。しかし、急登を降り切っても石ころは続き、足腰はだいぶまいっていた。1度は越した若者に、渓流で冷水を浴びている間に追い越され、再び抜き去ることはなかった。やっとの思いで河原の坊登山口に到着すると、タッチの差でバスは出た後であった。係員が言うには1時間待ちだそうで、がっくりとリュックを下ろしてベンチに腰掛けた。

バス停の前にビジターセンターがあったので、館内に入って写真などの展示品を見物した。どこのビジターセンターも無料であるのが嬉しいが、どこのビジターセンターもパネル写真と動物や鳥の剥製が主で、斬新な展示品を見ることはない。

5時半のシャトルバスに乗車してから6時間半、正午には着替えを済ませ、山男から旅人へと変身する。登山は午前中に終えるのがベターであり、残りの時間を観光に向けられる。岳の集落には、早池峰神社の荘厳な社殿が建ち、明治以前は修験道の霊峰として栄えたようで、その宿坊跡が民宿として数軒残っていた。

この山を愛した文人も多く、民俗学者の柳田国男(1875-1962)は『遠野物語』の中で「早池峰の山は淡く霞み山の形は菅笠の如く、また仮名のへの字に似たり、此谷は稲熟すること更に遅く満目一色に青し・・・・」と述べている。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883-1956)も戦後に花巻の郊外に隠遁していた折、この早池峰を愛し格調高い詩歌を詠んでいる。

深田氏が「早池峰山」と呼ぶことを否定して、「早池峰」と主張したのは柳田国男が早池峰と紹介したことが前提となっていると思う。信州の霧ヶ峰を霧ヶ峰山と呼ばないのと同様であり、早地峰を早池峰山と呼ぶことには私も間違っていると考る。しかし、深田氏の表記にも矛盾があり、奈良の八経ヶ岳を大峰山と呼んで「峰」と「山」の字を重ねているし、大台ヶ原に山の字を加えている。これも信州の美ヶ原に山の字を加えるもので、これも間違った主張であると考察する。山名はいい加減なものと思うのが私の持論で、中国の影響でエベレストをチョモランマと言うのは、日本海を東海と呼ぶのと大差はない。

奈良の吉野には金峯山寺という寺があるが、この寺の山号は国軸山であり吉野山でないのが以外である。山号は架空の山名が用いられることが多々あり、吉野に吉野山という明確に表記された山がないのも、そのことを意味するだろう。峰と山が同意語である以上、それを重ねることはやはりタブーとしなければならないと私も思う。

早池峰神社を参詣するため、再び駐車場に車を停めて杉木立の参道を登り、本殿を参拝して無事に登拝できたことに感謝した。たまたま宮司さんがいたので、御朱印を頂戴する間、神社の由緒書きを読みながら神社とその別当寺(妙泉寺)が最も繁栄した中世に思いを馳せた。この神社で奉納される「早池峰神楽」は、国の重要無形文化財に指定されているが、山伏神楽とも称され、修験道の伝統を色濃く残している。早池峰への登山口は、岳の大迫口、門馬の川井口、大出の遠野口と3ヶ所に分かれるが、その登山口には今も早池峰神社があり、その信仰の根深さを伝えているようだ。

以前通った時に工事中であった早池峰ダムが完成し、ダムには噴水が設えられ、新たな観光地としてスタートしていた。その展望台に洒落たワインハウスが建ち、そのレストランに入って昼のランチを注文する。この大迫は地ワインで有名であり、食前酒にワインを味わえないが寂しく感じ、レストランで赤ワインを買い求めて自分への土産とした。

ダム湖から早池峰を遠望して思うと、今回はその魅力を再度認識した登山であった。全国でマイカーの入山規制している山岳道路は、全国に10ヶ所しかなく、東北では他に秋田駒ヶ岳がそうである。山の人気は移り変わるが、早池峰の歴史は変えようがない。

「早池峰は 気品に満ちて 美しく 一億年の 地球の宝」 陀寂

13秋田駒ヶ岳

【別名】秋田駒【標高】1,637m(男女岳)。

【山系】奥羽山脈【山体】成層活火山・楯状火山(アスピーテ) 【主な岩質】玄武岩・安山岩。

【所属公園】十和田八幡平国立公園【所在地】秋田県。

【三角点】一等【国指定】天然記念物(植物)。

【関連寺社】駒成神社。

【登頂日】平成21年9月27日【登山口】8合目駐車場【登山コース】上り新道コース・下り焼山コース。

【登山時間】3時間55分【登山距離】7.2㎞【標高差】243m。

【起点地】秋田県鹿角市。

【主な名数】日本二百名山、名峰百景、新日本百名山、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】田沢湖高原温泉、乳頭温泉郷。

生内郊外から望む秋田駒ヶ岳

平安時代初期、駒形神を山頂に祀る。

栗駒山、大駒ヶ岳、藤里駒ヶ岳と駒の字の付くみちのくの山を登って来て、次の日帰り登山は夏油駒ヶ岳かと思っていたが、秋田駒ヶ岳に登ろうと急遽決意した。秋田駒ヶ岳は、私的な霊山霊峰の登拝順位は下ではあるが、17歳のとき栗駒山に登り、18歳のとき秋田駒ヶ岳に登っているので、新たな気持ちで登ってみたくなった。秋田駒ヶ岳の山腹にある田沢湖国際スキー場は、私のホームゲレンデでもあり、若い頃は毎週のようにスキーに来ていた。しかし、登山となれば、38年以上も登っていないのが不思議に思われる。山は1度登ればいいやという気持ちがあり、秋田駒ヶ岳へ登ろうという意欲を抑えていたようだ。

横手から鹿角に向かう途中、国道46号線の刺巻から仰ぎみる秋田駒ヶ岳は、北海道の駒ヶ岳と実によく似ている。ここから見る秋田駒ヶ岳が最も美しいと私は思うが、生内郊外から見る山容も捨てがたい。残雪期に横手盆地から秋田駒ヶ岳を眺めても距離が遠く、存在感は希薄に見えたが刺巻まで近づくと、迫力ある山容に圧倒されそうになる。

秋田駒ヶ岳への一般登山は、土日祭日に限ってシャトルバスで8合目登山口に行くことになる。アルパこまくさの駐車場に午前7時半過ぎに到着したが、すでに多くの車が駐車していて、大勢の登山客が山に入っているようだ。ここに昔は「国民宿舎こまくさ荘」があり、何度となく露天風呂に入ったものである。シャトルバスは20分ほどで8合目登山口に到着したが、いたる所に登山客がいて、秋田駒ヶ岳の人気の高さを感じさせる。

8合目にある避難小屋は、休憩所ような立派な避難小屋であり、水洗トイレも備えていて、昔の掘建て小屋の面影は感じられない。小屋の前の駐車場には水場もあって、登山口としては申し分のない環境である。戦前は日窒コンツェルンの硫黄鉱山があった場所だそうで、採掘された山肌があちらこちらに残されている。

秋田駒ヶ岳は北から片倉岳(1,496m)、男女岳(1,637m)、男岳(1,623m)、女岳(1,512m)、横岳(1,583m)、焼森(1,551m)などの6ヶ所のピークからなる。男岳が本峰で駒形神社の祠が建ち、男女岳は男岳の寄生火山であるが、主峰を凌ぐまでに隆起している。火口丘の女岳は、昭和45年(1970年)の9月にマグマが噴火し、騒然となった時があった。

8合目からは新道、旧道、焼森の三つのコースがあり、以前に登った新道コースから登山を開始した。片倉岳の下には展望台があり、日本一の水深を誇る田沢湖が一望できる。お花畑の木道を進むと阿弥陀池が見え、男女岳と男岳の両雄が左右に聳えている。どっちを最初に登るかによって登山の趣も異なるが、阿弥陀池を巡ってから最高峰の男女岳に先ず登った。登山開始から1時間ほどで男女岳の山頂に立ったが、人も疎らで本峰の男岳を最初に登る登山者が多いようだ。

再び阿弥陀池まで戻って、男岳への急登を駈けるように登った。今回は霊山霊峰の登拝も兼ねていたので、先ずは駒形神社の祠に柏手を打って参拝した。今日の天気は快晴で、北東北の山々が一望のもとに見える。はるか北に岩木山・八甲田山が、その手前に森吉山と田沢湖は鮮明に望まれる。北東に八幡平・岩手山、南東に南昌山・早池峰山、南に和賀岳、そして、南西に鳥海山が悠然と聳えている。素晴らしい眺望であり、急登に喘いでは登るけれども、その後の楽しさが全身にわいて来る。以前に登山した時は、スキー場のリフトが運行されており、男岳から楽々と下山したものであるが、今は夏山のリフトは運行されず、そのコースは廃れてしまったようだ。

男岳を下山して横岳に向かうが、途中の馬ノ背は危なかしい岩場が続き、ちょっとしたスリルを味わえるコースであった。横岳の山頂に立つと、北東北で唯一2,000m級の鳥海山と岩手山が直線上に浮かび上がっている。両の手に鳥海山と岩手山を持ちあげているような気分になって、忘れ得ぬ感動を覚えた。

横岳から焼森へと尾根伝いに行くと、真っ黒な火山礫の焼森は異様な景観にも見える。しかし、このペンペン草も生えない火山礫を好んで咲くコマクサは、可憐さの中にも逞しさがある。高山植物の驚くべき生命力は、いったいどんな風に育まれて来たのか不思議に思われる。山頂一帯の高山植物群は、国の天然記念物に指定されており、田中澄江氏の『花の百名山』にも選ばれている。今回の秋田駒ヶ岳は紅葉シーズン前であり、次回は高山植物とのめぐり合いを楽しみにしたい。

焼森から先は乳頭山へと続く縦走コースがあり、一度は踏んでみたいと今も憧れている。かつて、常宿のように泊まった孫六温泉に下山して地下足袋を脱ぎたいものだ。私は乳頭温泉郷の七湯の中で、黒湯と孫六が特に好きである。黒湯は冬の営業をしておらず、田沢湖高原にスキーに来た折は、孫六温泉に泊まることが楽しみでもあった。

乳頭温泉郷の休暇村には、乳頭スキー場があり、緩斜面ながら秋田県で最初にオープンするスキー場で、スキー通なら誰もが待ち遠しかった新雪の感触を味わったものである。そのスキー場も閉鎖され、田沢湖高原に4ヶ所あったスキー場も田沢湖国際スキー場だけが残っている。思い出深いスキー場であっただけに、空しい気持ちが込み上がって来る。

焼森から乳頭山を見納めして、8合目に続く登山道を下山した。このコースを登下山する登山者は少なく、下山コースは快適であった。鉱山跡の山肌は哀れそのもので、人間が風光明媚な天地自然に痛々しい爪痕を残しはならいとつくづく思う。

シャトルバスに乗って車に戻ったのは、午前11時半過ぎである。あっけない登山であったことは否めないが、自分の記憶の中に何が残るかが大切であり、登山時間と比例するものでもない。秋田駒ヶ岳は、活火山帯の中にありながら、高山植物にも恵まれて眺望は抜群であり、眼下に陥没する田沢湖の存在は一級である。この山を百名山に選ばなかった深

田氏の眼力を疑いたくなるが、人それぞれに価値観が異なるのが人の眼力でもある。

田沢湖高原に来ると、必ず入浴するのが水沢温泉郷の露天風呂である。スキーの際もそうであるが、高原への行楽の折々も立ち寄った。秋田駒ヶ岳周辺は温泉の宝庫でもあり、水沢温泉郷、田沢湖高原温泉郷、乳頭温泉郷の3つのゾーンからなる。しかし、大露天風呂のある温泉は、水沢温泉郷の露天風呂水沢温泉だけであり、白みを帯びた硫黄泉と、囲い越しに望む田沢湖は絶賛に値する。全国的に名の知れた鶴ノ湯温泉や黒湯温泉の露天風呂も野趣にあふれてはいるけれど、見物だけの観光客も多く被写体になるのは御免こうむりたい。特に鶴ノ湯温泉は秘湯の宿では、全国一の人気を誇る秋田県の観光資源でもある。

「絶景や 秋風そよぐ 露天風呂 田沢湖眺め 雲をつかまえ」 陀寂

14栗駒山

【別名】須川岳(酢川岳)、大日岳【標高】1,626m。

【山系】奥羽山脈【山体】複層活火山【主な岩質】両輝石安山岩。

【所属公園】栗駒国定公園【所在地】岩手県/宮城県/秋田県。

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】駒形神社、駒形根神社嶽宮。

【登頂日】令和1年9月22日【登山口】いわかがみ平【登山コース】上り東栗駒コース・下り中央コース。

【登山時間】2時間34分【登山距離】6.6㎞【標高差】513m。

【起点地】岩手県奥州市。

【主な名数】日本二百名山、名峰百景、花の百名山、新日本百名山、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】須川高原温泉、駒ノ湯温泉、湯浜温泉、温湯温泉。

いわかがみ平から望む栗駒山

神代、日本武尊が山頂に奥羽鎮護の一ノ宮を創建したと伝承。

平成20年(2008年)の秋、福井県にある日本百名山の荒島岳(1523m)に登ったが、秋田・岩手・宮城の3県にまたがる栗駒山の方が優れていると実感し、日本百名山に栗駒山が選ばれなかったことが残念に思われた。おそらく、深田氏が個人的な思い入れがあって、荒島岳を選定したのであろうが、作者の自由なのでは方ないこととも思う。

栗駒山は宮城県側の呼び名で、岩手県側では須川岳と呼ばれているが、秋田県側では大日岳と呼んでいた時代もあったが、現在は栗駒山と呼んでいる。山頂は宮城県と岩手県に分かれているが、江戸時代は仙台藩の領地であった。東北の山の魅力は、火山性の温泉と紅葉の美しさであり、栗駒山はその代表格でもある。

栗駒山には、秋田と岩手の県境にある須川高原からいつも登っていたが、1度は宮城県側のいわかがみ平から登山したと思っていた。そんな折、奥州市の岩谷堂に仕事で来ていたこともあって、1時間ぼと移動時間が短縮されることもあって決行することにした。台風17号が接近しているので、日曜日を逃してはならいと思ったのである。

日曜日にいつも見ているNHKの「小さな旅」をパスして、午前7時過ぎにアパートを出立した。最近は経費節減を考え、高速道路は必要最小限の利用を心がけているので、約70kmの下道を走った。衣川から初めて走る道路もあったが、対向車が殆どなく登山口の駐車場まで快適なドライブが続いた。高速道路から遠回りして向かうより良かったと思う。

駐車場には30台ほどの車が停まっていて、台風の目を盗んで登ろうとする登山者である。詳しい登山コースを把握していなかったので、最短を目指したつもりが東栗駒コースを登っていた。このコースは、東栗駒山の山頂を経由して登るので、中央コースよりも800mほど長いようであった。それても、中年のカップルが1組登っていたので安心した。

そのカップルを追い越し、東栗駒山の山頂に立ったのは登山開始から1時間近くが過ぎていた。曇天であったが、薄雲の間から麓の展望は見えたので立ち止まりながら眺めた。何よりも驚いたのは栗駒山の雄大さと、ハイマツやナナカマドの美しさである。須川高原側と異なる景観で、リンドウのつぼみが無数に登山道を彩っていたのが印象的である。

山頂直下の急登の手前で、中央コースと合流していたが、ここから複数の登山者とすれ違った。東栗駒山から栗駒山頂まで30分程で到着したので、須川高原の産沼コースよりも距離は短いようだ。山頂に着くと登山客が数人いたが、須川高原から登って来たようである。私はコンビニで求めたお握りとサラミソーセージを食べて休息をした。

栗駒山に始めて登ったのは17歳の初夏であったが、中学校3年生の時も友人2人と自転車で来たこともあった。小安温泉から須川温泉までの林道を自転車で上るのは無理と判断し、大湯温泉に自転車を預けて、徒歩で須川温泉のキャンプ場まで登った。その日の夜は激しい雨降りとなり、テントの周囲に溝を掘らなかったのて殆どの持ち物がずぶ濡れとなってしまった。栗駒山の登山を断念せざる得なくなり、須川高原温泉の大浴場で暖まったのが唯一の救いであった。それから3年後に単独で登ってリベンジを果たしたのである。

人と言うものは不思議なもので、目標を設定して達成できないと、いつまでもそのジレンマが残ってしまう。子供の頃に体操が流行っていて、私は床運動のバク転と、鉄棒の大車輪が出来なかった。その悔しさは今も脳裏から離れない。他の子供たちに出来る事が何故は出来ないのかと言う劣等感である。登山に関しても、ロッククライミングを断念した青年時代も同じだ。努力不足は否めないが、スキーに専念したいと思う気持ちが有ったのだろう。スキーだけが、少年時代から青年時代を貫く1本の棒のようなものであった。

東栗駒コースで逢ったカップルが下山したので、私も後を追うように下山した。下山後、いわかがみ平のレストハウスでラーメンを注文して待っていると、カップルの男性が山のバッヂを購入してレストハウスを去って行った。新湯温泉の駐車場でも入浴するカップルと再会し、登山者の行動パターンは類似点が多いと感じた。

宮城県側の栗駒山麓には、「栗駒五湯」と称されれた温泉地が秘湯の魅力に溢れていた。しかし、平成20年(2008年)6月に発生した「岩手・宮城内陸地震」で、一迫川沿いのランプの宿・湯ノ倉温泉は土石流で消失し、温湯温泉の佐藤旅館は再建が進んでいないようだ。いずれも一度泊まった思い出があって、胸が痛む出来事となった。一迫川最上流の湯浜温泉といわかがみ平の入口の新湯は、被害も少なく営業を再開したと聞き、駒ノ湯は日帰り温泉として再建とたようである。今回は新湯と駒ノ湯は未訪問であったので、はしご入浴するために立ち寄ったのである。

栗駒山は横手盆地から遠望すると、インパクトの薄い山で、残雪期の山容を眺めないと、栗駒山と認識が出来ない。その点、鳥海山の偉容は、横手盆地に住む人ならば誰しもが眺める山であり、鳥海山は故郷の山である。何年か前に、岩手県の栗駒山麓で仕事をしたことがあるが、その時に眺めた栗駒山は別の顔をしていた。山形県側から眺めた鳥海山に失望した時があったが、栗駒山はその逆で、違った角度から眺める山容に本当の山の美しさを感じた。今回登った宮城県側の登山コースは雄大の栗駒山塊を眺めながらの登山で、須川高原からの登山コースとは趣が異なっていた。

栗駒山の秋田県側には須川湖という小さな沼があり、私が初めて来た頃は貸しボートもあってオールを漕いだものである。その貸しボート屋も無くなり、湖畔の売店も店を閉じていた。昔の賑わいが廃れるのは見るに忍びなく、通り過ぎて来た景観を懐かしむだけである。ただ有難いことは、栗駒有料道路が無料となって小安峡温泉を経由した帰路も行き易くなったことである。また、東成瀬村のアクセスが良くなり、横手の自宅から1時間余りで須川高原に到着するのが何よりも嬉しい。

山の評価と言うものは、そこに住む人々の評価が大切で、通りすがりの山旅人が後世に憂いを残すような評価をしてはならないと思う。けれども、「灯台もと暗し」の諺のように、地元に住む人たちの名所に関する無関心さに驚くばかりだ。大阪に住む友人の細君は、京都の三十三間堂近くに生まれ育った聞いたが、その細君は三十三間堂に入ったこはないと言うう。その細君曰く、「京都人は金を払ってまで名所は見とうおまへん」と、それも一理ある。山に興味のない人々にとって、何の価値も山にないと見えるだろうし、歴史に興味ない人々にとって京都や奈良はどうでもいい存在なのだろう。

「栗駒の 四季折々の フルコース 味わってこその 登山と言える」 陀寂

15鳥海山

【別名】鳥見山、出羽富士、庄内富士【標高】2,236m(新山)、2,229m(七高山)。

【山系】出羽山地【山体】成層活火山・溶岩円頂丘(ドーム)【主な岩質】安山岩・堆積岩。

【所属公園】鳥海国定公園【所在地】山形県/秋田県。

【三角点】一等【国指定】天然記念物(コケ類・湧水)、史跡(霊場)。

【関連寺社】大物忌神社。

【登頂日】平成21年8月8日【登山口】矢島口駐車場【登山コース】祓川コースピストン。

【登山時間】6時間10分【登山距離】8.8㎞【標高差】1,036m。

【起点地】秋田県鹿角市。

【主な名数】八十八座九十図、日本百名山、名峰百景、日本百景、新日本百景、新日本観光地100選、日本の地質百選、花の百名山、新日本百名山、百霊峰、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】湯ノ沢温泉、猿倉温泉、湯ノ台温泉。

矢島口より山頂を望む

平安初期、空海大師が吹浦から百宅まで縦走したと伝承。

海岸に面した「日本百名山」の中で、利尻山と宮之浦岳を除くと山頂からの直線距離で最も近いのが鳥海山で14㎞ほどである。それも標高が2,236mと、東北第2の高峰となれば存在感は別格である。秋田側では出羽富士と呼ばれ、山形側では庄内富士と呼ばれている。三角錐の美しい山容が見えるのが横手盆地で、私はその姿を眺め育った。

鳥海山には何度となく登っているが、その最高地点の新山に登った記憶がない。春スキーを楽しむための登山が主であり、七高山の山頂から大滑降をしたことは数回ある。今回は新山に至ることを目指し、最短の矢島口から登った。前日までは登山口を風光明媚な象潟口の鉾立にするか悩んでいたが、結局は時間短縮を考えて矢島口を選んだのである。

自分の庭のように思っていた鳥海山であるが、最後に登ってから20数年を経ている。昔のままの矢島登山口から竜ヶ原湿原を越えて登り始めるが、変わったことと言えば、祓川ヒュッテの名物管理人が亡くなり、私が初老の姿となったことである。昔のままの自然は有難い景観であり、スキーを担いで登った若き日の昔と時差はない。

軽快な足取りで先客を抜き去って登ったが、まだ雪が多くあるのには驚いた。夏山となっているので残雪は少ないが、それでも雪渓にはクレパスがあり、石橋を叩く気持ちで渓流の上にある雪渓を歩いた。賽ノ河原や御田の平地を過ぎると、七ツ釜の急登が「懲らしめてやるぞ」と待ち構えていたが、昔からの付き合いもあって難なく通過させてもらった。そして氷ノ薬師に到着し、小休止して眼下の裾野を見渡した。

9合目でもある氷ノ薬師で普段よりも長く休憩し、舎利坂から七高山までの一気の急登に備えた。私は長い急登の手前でいつも休息し、スタミナが回復してから登ることにしている。中年女性2人の大きなお尻をしり目に、喘ぎながらも一気に七高山へと登ると、火口に新山がそそり立っている。何度となく登った七高山の山頂ではあるが、単独で登るのは初めてであり、共に登頂を喜ぶ仲間がいないことに慣れてしまい、1人で万歳と呟いた。

新山を取り囲むように鉾立口側からも多くの登山者が登って来る。私は外輪山でもある七高山から火口に降りて、大物忌神社の本殿に参拝した。本殿の前には、石垣に囲まれたバラックの山小屋が建っていて若い頃に宿泊した思い出が蘇る。

鳥海山に初めて登ったのは、19歳の夏である。この時は岩手山に一緒に登った友人と2人、鉾立からサンダル履きのラフな服装で登った。鳥海湖まで登って戻る予定であったが、途中で仁賀保町のTDKに勤める女性3人と出会い、好奇心も募って、その後を追うように山頂の御室小屋まで来てしまったのである。素足のサンダルで残雪を踏んだ時は、その冷たさに友人と2人、顔をくもらせた。

御室小屋に着いたのは良いが、持ち合わせの金が無く、山小屋の宿泊費を払うと帰りのバス賃くらいしか財布に残っていなかった。女性たちから缶詰などの食料を分けてもらい、何とか空腹をしのぎ山小屋で夜を明かした。しかし、見知らぬ女性と背中合わせで寝るのは初めての経験であり、不純な思いも去来して登山に対する思いが増幅した。そんな昔の出来事を思い出し、御室小屋の中を覗いた。

新山を目指し登り始めると、積み木のブロックのように輝石安山岩が積み重なり、矢印に従って1つ1つの岩を超えて猫の額ほどの山頂に到着した。祓川の登山口を出発して3時間半が過ぎようとしていた。新山山頂のドームには、先客が3人ほどいて、その中に割り込むように立ち新山登頂を終えた。山頂を示す標識は、小さな木製の板と石板があるだけでドームの大きさに見合っているようだ。

新山は江戸時代の享保元年(1801年)に噴出したもので、享保岳の別名があるらしい。この時代、鳥海山の噴火の他にも大きな出来事があった。文化元年(1804年)の象潟地震によって海岸が隆起し、陸奥の松島と並び称された象潟の島々は陸地となって消えたのである。芭蕉さんが『おくのほそ道』の旅で、「南に鳥海、天をささへ、その陰うつりて江にあり」と眺めた鳥海山とは変わってしまい、「松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし」と述べた入江の風景も消失したのが残念である。そんな中、斎藤茂吉が詠んだ短歌が脳裏を過る。

「みちのくの 鳥海山に ゆたかにも 雪ふりつみて 年くれむとす 茂吉

この鳥海山には、不可解な出来事が1つある。それは鳥海山の山頂付近はすべて山形県となっており、山頂を二分して県境とする他の名山とは大きく異なる事である。また、出羽の一宮である大物忌神社の里宮も山形県の遊佐町にある。私は長い間、七高山だけは秋田県側に入るものと思っていたが、地図をよく見ると矢島口(祓川口)は七ツ釜まで、象潟口(鉾立口)の白糸の滝まで県境ラインが不自然に入り込んでいるのである。

日本古来の山岳信仰と奈良時代に役小角(634-701)が広めた呪術的宗教と、そして平安初期に開宗された真言・天台の密教の信仰が統一されて修験道が体系付けられた。真言宗系の修験道は当山派、天台宗系は本山派と呼ばれて勢力を二分していた。

鳥海山を修行地とする修験者たちも山形県側(荘内藩)は本山派、秋田県側(矢島藩)は当山派に分かれていた。その両者の対立は、鳥海山の領有権をめぐって藩同士の争いに発展したようだ。宝永元年(1704年)に幕府の裁決が下され、現在の境界に定められという。徳川親藩で17万石の荘内藩と、外様で1万石の矢島藩では不当な裁きであっても幕府に反発もできなかったし、相手にされなかったのだろう。

前も述べたが、鳥海山は秋田側の横手盆地から眺める姿が最も美しく、山形側の荘内平野から鳥海山を眺めてガックリとする秋田県人が多い。山頂一帯は山形県に奪われても、美しい景観は秋田県の宝であり、私も愛してやまない故郷の山である。

御室小屋は大物忌神社の山頂参籠所を兼ねていて、御朱印と山のバッヂを頂戴した。バッヂはシンプルなオリジナルのバッヂで、ここにしか無いのが嬉しい。御室小屋から外輪山に登り、午前10時半頃に七高山から下山を開始し、祓川の駐車場に着いたのは正午過ぎであった。下山に2時間10分も要したので、祓川まで雪が残っている5月であれば、七高山からスキーなら20分程度で下山できるので、春の登山とスキー下山に気持ちが揺らぐ。

矢島口には開山神社と木境大物忌神社の社殿が建っているが、参拝する人もいない寂しい佇まいである。往時の繁栄を思うと、山形県に負けた山頂争いの結末が哀れである。しかし、富士山山頂の県境をめぐる静岡県と山梨県との争いを思うと、静岡県と山梨県が一緒になって道州構想に加われば済む話であり、山に線引きすること自体ナンセンスである。

16月山

【別名】犁牛山【標高】1,984m。

【山系】出羽山地【山体】成層火山【主な岩質】安山岩・花崗岩。

【所属公園】磐梯朝日国立公園【所在地】山形県。

【三角点】一等【国指定】天然記念物(地質)。

【関連寺社】月山神社。

【登頂日】平成21年6月14日【登山口】姥沢口駐車場【登山コース】上り姥ヶ岳コース・下り姥沢コース。

【登山時間】3時間40分【登山距離】3.1㎞【標高差】475m。

【起点地】秋田県鹿角市。

【主な名数】出羽三山(月山・湯殿山・羽黒山)、日本百名山、名峰百景、新日本百景、森林浴の森100選、水源の森100選、日本の秘境100選、かおり風景百選、日本遺産百選、花の百名山、新日本百名山、百霊峰、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】湯殿山温泉、月山志津温泉、肘折温泉。

山頂付近の芭蕉句碑(雲の峯 幾つ崩れて 月の山)

推古天皇2年(594年)、崇峻天皇の第3皇子(蜂子皇子)が開山。

月山(1,984m)は山岳霊場でもある「出羽三山」の主峰で、出羽山地に属する成層火山であるが、休火山となっていて活火山リストの111ヶ所からは除外されている。「出羽三山」は他に月山西南の湯殿山(1,504m)、出羽丘陵の頂きでもある羽黒山(419m)から成る。羽黒山は出羽三山の表玄関であり、三山神社の合祭殿を参拝すると、三山を登拝した御利益があるとされる。江戸時代の後期に建てられた合祭殿は、国宝の五重塔に次ぐ立派な社殿で、羽黒山のシンボル的な建物と言える。

月山には30年前の昭和53年5月5日に、羽黒山口から弥陀ヶ原を経由して1度登っている。山頂はガスがかかっていて、空しく下山した思い出があるが、今回は松尾芭蕉(1664-1694)翁の月山での足跡を訪ね、湯殿山神社口からあえて登ることにした。芭蕉翁にとっては、2,000m近い月山登山は人生最初にして最後の登山となったので意義深い。

昨日は蔵王山へ登った後、湯治場の面影が残る肘折温泉の「日本秘湯を守る会」の鄙びた旅館に泊まった。遅い朝食を済ませて直ぐに旅館を出発したが、国道458線の悪路を通過するのに1時間を要してしまった。湯殿山道路の駐車場に車を停めて、神社の宝前(奥宮)を往復するシャトルバスに9時40分頃乗車した。この時期は物見遊山の観光客が殆どで、バスの中でも宴会の延長のような賑やかな雰囲気である。

シャトルバスを下りて本宮参道を登ると、脱衣所ならぬ脱靴所があり、ここで靴を脱ぎ恭しく湯殿山神社の御神体を拝観した。輝石安山岩から湧き出す温泉が御神体とされ、その聖域は写真の撮影が禁止されていて、錆びかけた記憶にファイルするしかない。かつて芭蕉翁が「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」と詠んだ霊場の雰囲気は今も変わっていない。

湯殿山には登山道がないと聞き、御神体のあるこの場所が湯殿山の信仰上の山頂であると実感した。比叡山・高野山・恐山の「日本三大霊場」は、山頂をあまり重要視していないし、霊山イコール山頂との思い込みがあったことを反省しなくてはならない。

再び靴を履いて月山へ向かおうとしたら、先発の中年男性が途中で引き返して来た。私も行ける所まで行こうとしたが、2m近い残雪や雪庇に登山道は遮られ、ピッケルとアイゼンがなくてはとても無理なようである。500mほど登って引き返すことにした。まだ10時を過ぎたばかりであったので、姥沢口に移動して再登山を考えた。

姥沢口は日曜日とあって春スキーを楽しむ若者であふれていた。殆どの車が関東方面のナンバーで、その人気の高さを感じる。有料駐車場から折畳み自転車でリフト乗場へと急ぎ、11時20分にはリフトに乗って雪原を蟻のように動きまわるスキーヤーを眺めた。

35年ぶりにピッケルを手に持って登ること20分、登山道のある姥ヶ岳の稜線に至った。月山山頂も手にとるように見えるが、道はまだ遠い。朝日連峰や飯豊連峰の山並みを眺めながら、雪が消えたら行くので「よろしくお願いします」と挨拶した。

急登に喘ぎつつ、やっとの思いで山頂に至ると、月山神社の脇で昼食をとっているグループがいるだけである。ピン打ちの完全防水の地下足袋に助けられ、1時間30分の雪山登頂である。月山はリフトの運行中に登るのが最短コースで、スキーを担いでの登山は楽しみも倍増する。恭しく月山の山神・月読命を祀る社殿に礼拝してから私もパンを食べながら遅い昼食を済ませ、山頂の景色を満喫した。

春山のゲレンデの下山は楽なもので、ナイロン袋を尻に敷き、ピッケルでブレーキをかけながら遊び半分でゲレンデを滑った。そして、ゲレンデの途中から登山道に入り、小走りしながら一気に姥沢小屋へと下った。ほぼ同時刻に山頂直下から滑って行ったスキーヤーたちを、自転車に乗って道路で追い抜いた時にはスキーヤーたちは一様に驚いていた。春スキーと月山登山を一緒に考えていなかったため、スキーを背負っていなかったことがやはり悔やまれる。鳥海山や八甲田山の春スキーを経験し、春スキーのメッカである月山山頂からの大滑降を経験していないのは、往年のスキーヤーとしては不本意であった。こんな時はいつも「必ず来るぞ」と、自分自身に言い聞かせるのである。

姥沢の登山口を車で下ると、月山志津温泉があり、入浴しようと立ち寄ったが1軒目で日帰り入浴を断られ、失望して車に戻った。この温泉は平成1年に開湯された比較的新しい温泉で、宿泊施設は10軒ほどあるらしい。春スキーに訪れたスキー客の宿として定番となり、この時期は予約が取れないと聞く。連日連夜の忙しさのため、日帰り入浴を断ったとしたら理解もできるが、閑散期も断っているならば論外とも思える。

月山はアスピーテ型の火山で、遠くから眺めると牛が寝ている姿に似ていることから、犂牛山の別名があるらしい。しかし、月山は雲に包まれていること多く、数え切れないほど月山の麓をドライブしているが、写真に収める機会はなかった。今日の月山は、秋田に戻る道路からも眺められて格別の登山となった。

また、山形県には5つもの日本百名山があり、百名山なしの秋田県人としては羨ましい限りである。『名山絶句八十八座』を執筆しようとした動機は、固定化されてしまった「深田百名山」の見直しをしてみたいと思ったからである。「日本百名山」のうち1割ほどの山々がそれに該当し、ふるさとの山である秋田駒ヶ岳や世界遺産の玄関口でもある白神岳を『名山絶句八十八座』で紹介したかった。また、日本アルプスに選定が偏っているのも否めないし、実際に登山者や地元の人々に愛されている山でなければ意味がない。

山の対する思い入れや評価は、個人差があるもので、万人の一致する選定というものは不可能に等しい。それを補うかのように「日本二百名山」と「日本三百名山」が選定されている。また「東北百名山」などの地方単位の百名山や、「山梨百名山」などの都道府県単位の百名山が存在し、百名山ブームは日本全国に波及しているようである。

近頃は山ばかりでなく名所史跡も百選ブームであり、その選定にも疑問や不満を感じる。長年に渡って神社仏閣や城郭、庭園などを主眼に旅して来た私にとって、五木寛之氏の『百寺巡礼』や日本城郭協会が選んだ「日本100名城」などは甚だ疑問に思うところである。名数の先駆けでもある「出羽三山」の神々は、どのような感想をもっているのだろうか。

明治から昭和に活躍した精神科医で歌人の斎藤茂吉(1882-1953)は、現在の上山市の生まれで、15歳までは月山を見て育った。戦時中は山形県の大石田に疎開し、ふるさとの山々を愛して過ごしたようで出羽三山の歌を詠んいる。

「みちのくの 出羽のくにの 三山は ふるさとの山 恋しくもあるか」 茂吉

17朝日岳

【別名】大朝日岳【標高】1,870m(大朝日岳)。

【山系】朝日連峰【山体】隆起侵食山岳【主な岩質】花崗岩。

【所属公園】磐梯朝日国立公園【所在地】山形県/新潟県。

【三角点】二等【国指定】なし。

【関連寺社】朝日嶽神社。

【登頂日】平成21年7月25日【登山口】古寺鉱泉【登山コース】古寺コースピストン。

【登山時間】8時間42分【登山距離】17㎞【標高差】1,200m。

【起点地】秋田県鹿角市。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、新日本百名山、百霊峰、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】古寺鉱泉、朝日鉱泉。

山頂の標識

白鳳時代、修験道開祖・役小角が開山。

東北地区に所属する「日本百名山」は15座あるが、その中で最もコースが長いのが飯豊山(2,105m)と朝日岳(1,870m)である。朝日岳は古寺鉱泉からの最短コースでも、山頂までは5時間30分が標準タイムのようだ。往復約10時間は日帰り登山の限界であり、私にとっては富士山に次ぐ最も長い登山距離への挑戦となりそうだ。

横手の自宅に前泊したが、留守が長く続き、カビ臭い布団は蚤や虱の住処となっていた。エアコンが故障しているため、窓を開けて眠ると蚊が入り込んで耳元でうるさく飛び回る。自宅に泊まる場合は酒に酔っていることが多く、蚤や虱の攻撃も気にならなかったようだ。結局、熟睡できないまま、朝を迎え午前4時45分に自宅を出発した。

蔵王登山、西吾妻登山と同じコースを走り、山形自動車道で月山インターを降りて、大井沢に向かうのであるが、15年ほど前の東北地図しかないので不安であった。何とか大井沢を通り、古寺鉱泉の駐車場に7時20分に到着した。既に30台ほどの車が駐車していて満車状態であり、水汲み場の横の濡れた地面に駐車した。登山着に着替えて自宅を出発しため、5分後には登山を開始した。

古寺温泉の真上にある古寺山に登り、そこから尾根伝いに歩き、小朝日岳の中腹を横切り、大朝日岳に至るのであるが、古寺山の山頂までがとても長い。全行程の半分以上の時間を要するのであった。杉の木の多い樹林帯が続き、古寺川の水音が聞こえなくなると、小鳥の囀りだけが響き渡る。古寺山に着くと、視界も開け緑一色に包まれた朝日連峰が美しく微笑む。何組かのパーティを抜き、笹に覆われた小朝日岳を抜けると、銀玉水あり数人が休息していた。この時が疲労のピークであり、命の湧水を千金のように味わった。

銀玉水を過ぎると急登から整備された登山道が続き、大朝日岳の山容がより一層美しく見える。朝日嶽神社の奥宮に礼拝し、大朝日避難小屋に到着すると、頂上までは意外と早かった。登山口を出発して4時間41分が過ぎていた。昨年登った富士山の4時間55分に次ぐ登頂時間である。富士山の距離が1kmほど長かったことを考えると、睡眠不足による体調不良が尾を引いているようだ。それでも難関に思っていた大朝日岳に何とか登れたことは、大きな満足であり、また一歩前進して行く自分を見るようだ。

山頂に他に登山者の姿はなく、1人で万歳を一唱した。山頂の北方には二百名山の以東岳が、南方には三百名山の祝瓶山が望まれ、南北に連なる朝日連峰がはっきりと見える。もう少し澄んでいれば、北に鳥海山や月山、東に蔵王連峰、南に飯豊連峰や磐梯山、西には日本海も見えるそうだ。山形県の人々は、この朝日岳の雲を眺めて明日の天気を予想することから雨告山の別名があると聞く。花崗岩の山体は、非火山性の隆起と侵食による山地で、純粋無垢な山でもあり、火山を噴火させて怒ることはない。

朝日連峰は縦走を楽しむ山のようで、多くの山小屋が登山道に点在し、6ヶ所ある登山口には民宿や旅館があるようだ。縦走には憧れは抱くものの、テントや寝袋、数日分の食糧など重い荷を背負って登るのが嫌いとなってしまった。山小屋に泊まっての2・3日くらいの縦走なら歓迎する所であるが、テントや寝袋を持って登ることはおそらくないだろう。

10分ほど山頂で休息し、大朝日避難小屋まで降りてからベンチに座って握り飯とパンを食べて昼食とした。隣のベンチでは留学生であろうか、金髪の若い女性が昼寝をしていて、長閑な山のひと時と国際的な雰囲気が感じられる。私がベンチを立ち、下山を再開する時も金髪の女性は美しい寝顔のままであった。

「花ひとつ 見つけて嬉し 朝日岳」 陀寂

下山途中の登山道で、避難小屋の管理人であろうか、草刈り機でコースの笹を払っていた。挨拶をしてその足元を見たら、私と同じピン打ちの地下足袋を履いている。「日本人なら地下足袋だよ」と私は呟きながら嬉しく思った。山小屋の関係者には、ゴム長靴や地下足袋を履いている人が多く、山で働くプロは高価な登山靴を敬遠しているのだろうか。

山頂に立つと言う目的を達成し、下山の足取りも軽快となり、1時間半ほどで古寺山頂に到着した。しかし、古寺山の急斜面は膝を酷使するため、笑うどころか悲鳴が上げる。林の間に水音が聞こえ、その音が次第に大きくなると、後少しと自分の体を励まして進む。古寺鉱泉朝日館の赤い屋根が見えて来た時は、安堵感に包まれていた。

朝日館で山のバッヂを購入し、風呂にでも入ろうとも思ったが、今夜は湯田川温泉に予約をしていたので、それまで辛抱することにした。登山中は煙草を吸わないのが私の流儀であり、着替えをして車で吸った煙草の味は格別であった。登山後の美酒はまだ早いので、登山後の「美煙」とでも言いたいが、登山後の「至福」が相応しいと思う。

車の中で登下山の所要時間を計算したら、8時間21分であった。まずまずの上出来で山頂のお鉢も廻った富士登山は8時間弱であったので、それを上回る日帰り登山となった。民宿が点在する山村の風景を眺めながら月山ダムまで来た道を引き返し、鶴岡の奥座敷でもある湯田川温泉へと向かった。

湯田川温泉には数年前の盆休みに甥子たちを連れて泊まったことがあったが、今回は「日本秘湯を守る会」の宿泊スタンプをゲットするために、「湯どの庵」に予約を入れたのである。宿泊料金が2万円を超える宿には泊まりたくなかったが、「日本秘湯を守る会」の温泉旅館には1回は泊まってみたいと望んでいたので仕方がない。

湯田川温泉は旅館やホテルが10軒ほどの小さな温泉街であるが、奈良時代に開湯された古くからの温泉場である。山形県でも新たに開発される温泉が多い中、歴史のある温泉街には格別の風情を感じる。湯どの庵の前身が庄内藩の御殿湯と聞き、和洋折衷の旅館ながらも貴重な史跡に泊まれる喜びがわく。

風呂に入って夕食となったが、料理が一品一品運ばれて来るので、写真も2枚ほど撮って飲酒と食事に集中した。山海の珍味が盛り沢山で、贅沢な料理に満足して部屋に戻ったが、登山の疲労感が一気に眠気を誘い、そのままベッドで寝てしまった。

翌日は羽黒山を登拝し、月山の8合目にある御田原参籠所まで行って、前回の月山登山で入手できなかった山のバッヂと月山神社の御朱印を頂戴し、やっと月山の登山登拝を結んだ。帰路は横手の自宅に立ち寄り、大湯温泉まで380kmの一般道路を走って朝日岳登山旅行を終えるが、東北地区の百名山中、最大の難関である飯豊山に向かおうとする心構えが備わって来たのを感じる。

18蔵王山

【別名】蔵王嶽、不忘山、刈田嶺【標高】1,841m(熊野岳)。

【山系】奥羽山脈(蔵王連峰)【山体】成層活火山・砕層丘【主な岩質】玄武岩・安山岩。

【所属公園】蔵王国定公園【所在地】宮城県/山形県。

【三角点】一等(屏風岳)【国指定】なし。

【関連寺社】蔵王山神社、刈田嶺神社。

【登頂日】平成21年6月13日【登山口】刈田レストハウス【登山コース】馬ノ背コースピストン。

【登山時間】2時間50分【登山距離】7.7㎞【標高差】114m。

【起点地】秋田県鹿角市。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、新日本旅行地100選、新日本観光地100選、日本遺産百選、日本の地質百選、新日本百名山、百霊峰、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】蔵王温泉、峩々温泉、青根温泉。

山頂付近の御釜

持統天皇4年(690年)、修験道開祖・役小角が開山。

何度となく蔵王山にスキーに来ているけれど、最高峰の熊野岳山頂を目指したことは1度もなかった。日本百名山でもなければ山頂を目指すこともなかったろうし、蔵王山の山頂がどの山なのかも知らないままだった。御釜(五色沼)を眺めて蔵王山の山頂だと思っていたし、私にとって蔵王山は登山の対象ではなく、スキーを満喫するための最高のゲレンデである山であった。そんなことで今回の登山は、「日本百名山」の踏破という義務的な登山でもあり、熊野岳(1,841m)の標柱を写真に収めることが目的となった。

蔵王エコーラインから現在も有料道路である蔵王ハイラインに入り、刈田岳山頂の駐車場に午前8時前に車を停めた。ここには刈田嶺神社の奥之宮があり、有名な御釜の見物コースにもなっている。まばらながらも観光客の姿が見られるが、登山者は殆どいない。

小雨降る中、傘をさして御釜の上に屹立する馬ノ背を歩きはじめた。馬ノ背は火山灰に包まれた緩やかな尾根で、登山コースには数m間隔で高い木標が無数に立てられいた。おそらく、冬の御釜を見物しようとするスキーヤーに配慮して設置されたものだと思うが、登山者にとっても天気の悪い日には助けとなるので有難い。

出発して20分が過ぎ、最高峰の熊野岳は私の目の前に聳えているようだが、濃霧に包まれ歓迎していないようにも見えた。時折その美貌を見せてくれるが、山頂の熊野神社に到着すると、また霧に包まれて私を遠ざける。以前、蔵王山には絶愛の美女を連れてスキーに来たことがあったが、それに嫉妬してのことなのだろうか。

熊野神社の祭神は男神なので、熊野岳に嫌われる謂われはないのであるが、今日の熊野岳は機嫌が悪いらしい。山の神の機嫌が悪い時は、早々に下山することに限るが、地蔵岳(1,736m)へと進むと、霧も流れて大きな石造の蔵王地蔵像だけは私を歓迎しているようである。蔵王地蔵像の前でその計らいに感謝し、「オン カカカビ サンマヤ ソワカ」と地蔵菩薩の真言を三度唱えた。

明治維新の廃仏毀釈で神道に染まった山の神は、仏教に帰依する私を嫌っていたようだ。貴方も昔は仏教に帰依した熊野権現ではなかったかと言おうとしたが、私自身が古の神への信仰も合わせ持っているので痛し痒しである。このジレンマから解放されるためには、明治の廃仏運動を否定し、神仏混合の時代を再構築するしかない。千年以上も続いた仏教と八百万の神との融和が、神国樹立の企みによって瓦解した明治以降が哀れでならない。

蔵王山は霊山の歴史よりも近代はスキーのメッカとして名を馳せ、温泉のあるスキー場としては日本一だろう。ロープウェイは3基、ゴンドラ1基、リフト22基と単立のゲレンデとしての施設規模は世界に例を見ない。そんなビックなスキー場の山頂を知らなかったのは、東北人として羞じるばかりである。

蔵王温泉からロープウェイで登って来る登山者もいて、まばらにそのコースを歩いていた。ロープウェイの山頂駅まで脚を延ばし、懐かしいゲレンデを眺望した。蔵王名物の樹氷を未だに見物していないので、また来るのも時間の問題である。再び赤い頭巾と前掛けを着けた蔵王地蔵像を拝み、来た道を引き返した。

神と仏がいがみ合っているような蔵王の山頂で、熊野岳に戻ると濃霧がまた襲う。やはり、熊野岳は私を嫌っているとしか思えない。私自身、好き嫌いが極端であり、私と接した人物も私を毛嫌いする人物も多かった。万人に好かれる歴史上の人物が存在しないように、万人に愛される山も存在しないだろう。

熊野岳の山頂には、斎藤茂吉(1882-1953)の歌碑が建てられていて昭和14年(1939年)の除幕式には、茂吉も出席している。当時の茂吉は57歳で、山頂まで登る元気があったようで、自分の詠んだ短歌の雰囲気を再び感じたのであろう。

「陸奥を ふたわけざまに 聳えたまふ 蔵王の山の 雲の中に立つ」 茂吉

東北は古来より奥羽、または道ノ奥とも呼ばれているが、奥羽は陸奥(奥州)と出羽(羽州)の略で、奥羽山脈を境に太平洋側が陸奥、日本海側が出羽となる。茂吉の短歌のように東北を二分する奥羽山脈は、青森県の夏泊半島から栃木県の那須岳までの約500kmに及ぶ日本一長い山脈である。その奥羽山脈のほぼ中央部に位置するのが蔵王連峰で、1,500m超える峰々が10座以上も連なる。この広大な蔵王連峰は、東北自動車道の村田インター付近から眺める景色が最も雄大であり、何度となく速度を落として通過したものである。

蔵王連峰において、スキー客は山形蔵王(中央蔵王)に奪われてしまったが、登山客は宮城蔵王(南蔵王)に思いを寄せるようである。刈田岳から宮城県の最高峰である屏風岳(1,817m)に登り、後烏帽子岳(1,681m)まで縦走しないと蔵王連峰の魅力は満喫できないと思う。その場合は、刈田岳山頂の駐車場に車を停めて屏風岳に登る相棒を探さねばならない。私はみやぎ蔵王えぼしスキー場に車を停め、屏風岳に登ってから刈田岳を目指す。途中の登山道で待ち合せ、お互い車の鍵を交換して下山後は峩々温泉か青根温泉に投宿するのである。これが理想的な縦走登山で、登山口が2ヶ所以上ある山ならば可能であるが、私の計画に協賛する相棒がいないのが現実である。

御釜付近にさしかかると、大勢の観光客が微かに望める御釜を見物していた。御釜は樹氷と共に蔵王観光の目玉でもあり、噴火口がコバルトブルーの湖となっている。太陽の光によっては、水の色が変わることから五色沼の別称もある。レストハウスから刈田岳(1,758m)に登り、刈田嶺神社奥之宮を参詣した。

刈田岳は宮城県側の霊峰であり、麓の遠刈田温泉には神社の里宮があるそうだ。山頂の神社には宮司が常駐していて、御朱印をいただけたのはうれしい限りである。東北の山々で山頂に社務所があって御朱印を授かる山は、秋田県の太平山、山形県の鳥海山と月山、そしてこの刈田岳くらいであろう。神社仏閣めぐりの延長線上に、霊山登拝の夢が芽生え、歳を重ねる旅人の目的がまた増えて行く。

蔵王エコーラインを下って蔵王ラインから蔵王温泉に立ち寄った。大正14年(1925年)にスキー場が開業されるまで、蔵王温泉は高湯と呼ばれる鄙びた温泉であったらしい。スキー場の発展と共に宿泊施設が雨後の筍のように建築され、現在は120軒もあると言う。ゲレンデ内には大きな露天風呂が3ヶ所もあって、蔵王温泉とスキー場のスケールの大きさを感じる。最近は韓国や台湾からのスキーヤーが多いと聞くが、韓国にもない樹氷、豊富な温泉だけでも訪ねるメリットはあるようだ。

19安達太良山

【別名】岳山、安達太郎山【標高】1,710m(乳首山)、1,718m(箕輪山)。

【山系】奥羽山脈【山体】成層活火山・溶岩円頂丘(ドーム)【主な岩質】安山岩。

【所属公園】磐梯朝日国立公園【所在地】福島県。

【三角点】二等【国指定】なし。

【関連寺社】安達太良神社。

【登頂日】平成21年6月28日【登山口】あだたらエキスプレスゴンドラ山頂駅【登山コース】薬師岳コースピストン。

【登山時間】2時間25分【登山距離】5.6㎞【標高差】359m。

【起点地】秋田県鹿角市。

【主な名数】八十八座九十図、日本百名山、名峰百景、花の百名山、新日本百名山、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】奥岳の湯、くろがね温泉、岳温泉、安達太良温泉。

安達太良山の山頂直下

平安時代初期、山頂に安達太良明神が祀られる。

安達太良山は奥羽山脈の南に位置する山と呼ぶよりも、那須火山帯に属する活火山の山と言った方が分かりやすい。山域の西側に箕輪スキー場と沼尻スキー場を抱えるスキーリゾートでもある。箕輪スキー場に聳える箕輪山(1,718m)が山域の最高峰であるが、安達太良山(1,700m)が主峰とされ、そのピークは乳首山やおっぱい山の名がある。また、安達太良山の周辺には、南に和尚山(1,602m)、北に鉄山(1,709m)など1,500mを超える山々が6座も連なり、豊かな景観に溢れている。

昨晩は押立温泉の旅館に泊まり、午前8時過ぎに旅館を出発した。復元された慧日寺の伽藍を見物し、名水百選で知られる磐梯西山麓湧水群のひとつ、龍ヶ沢湧水まで足を伸ばした。そして、磐梯河東インターから高速道路に入ると、タイヤの異音を感じてサービスエリアで点検すると、タイヤが破裂寸前である。恐る恐る運転して猪苗代磐梯高原インターを降りて大きなスタンドやタイヤ店を探した。幸いにもタイヤも販売しているスタンドがあり、4万円ほど払って交換してもらった。随分とタイムロスをしたが、安全運転は安全登山に直結するために仕方のないことである。

あだたら高原のスキー場に着いたの時には、午後零時半を過ぎていた。早速、スキー場の「あだたらエキスプレス」というゴンドラに乗り、標高1,350mまで一気に上り、標高差約360mとなった山頂を目指した。山頂駅のある薬師岳からは、なだらかな尾根の先に安達太良山がくっきりと見え、稜線を渡る風も爽やかである。

薬師岳からハイキングコースのような樹林帯を登ると、ほどなく仙女平への分岐点に到着した。その先はスキー場より南側の安達太良温泉登山口へ下る分岐点でもあるようだ。安達太良山には7ヶ所の登山口があるが、その6ヶ所に温泉があり、登山後にそれぞれの温泉を満喫しようとすると安達太良山を3度も縦走しなくてもならない。

ゴンドラを下りて55分で山頂の広場に到着し、乳首山の岩山に登った。すると、青いトレパン姿の中学生の一団が反対側のコースから登って来るのが見え、あわてて岩山の乳首山を降りた。しかし、集団で岩山に登るのは大変危険であり、引率の教師もそれを知ってか、生徒たちは下の広場で休息を始めた。私も遅い昼食ととりながら昨日登った磐梯山を眺め、山頂からの景色を楽しんだ。

深田氏の百名山は、必ずしもその連峰や山域の最高峰を山頂としている訳でもないらしい。風光明媚な主峰を山頂としているようだが、西吾妻山のように展望が全くないのに最高峰であるために山頂と明記されている例もある。いくつもの山々から構成されている場合、それぞれの好みの山頂があっても良いだろう。

山頂の広場には小さな石の祠があったが、神様の名を記した標柱がなく、かつて霊山であった面影を知るだけである。麓の本宮町には安達太良神社があり、安達太良山を遥拝する場所として建立されと聞く。安達太良山が立派な霊山であった証であるが、奥宮がないことは少々淋しい気がする。奈良時代に編纂された『万葉集』に、安達太良山を詠んだ和歌があり、当時から名の知れた山であったようだ。

「安達多良の 嶺に臥す鹿猪の 在りつつも 吾は到らむ 寝処な去りそね」詠み人不知

この山にはスキーで1度来たことがあるが、何と言っても高村光太郎(1883-1956)の詩集『智恵子抄』で山の名前を知り、少年の頃から憧れを抱いていた。何年か前に二本松城跡を登城した際、智恵子の生家を訪ねたことがあった。裕福な造り酒屋に生まれ、一途な光太郎の愛に支えられながら何で心を病んでしまったのか、不思議に思ったものである。その智恵子も実家に帰って安達太良山を眺めると、病気も落ち着いたと光太郎は述べている。

女性のような柔らかな山容は、東北自動車道から何度となく眺めて来たが、乳首のような岩山が山頂にあることをこの登山で知ったのである。反対側の登山道にはくろがね温泉があり、タイヤのトラブルがなければ生徒たちが登って来たコースを下山する予定であった。またゆっくりと登りたい山であり、その時に私の自由な登山が始まるのかも知れない。

日本百名山の登頂や霊峰霊山の登拝にすっかりとはまってしまい、朝昼晩と思うのは山のことばかりである。どんなに愛する女性がいたとしても、高速道路を5時間も走って逢いたいとは思わないが、山には女性を上回る魅力があり、深くて気高い憧れを抱く。これほど真摯に夢中になった趣味や目的はないし、好むと好まざるとに関わらず、百名山の登山は私に大きな刺激を与えたのは確かである。

安達太良山の中腹には、有名な岳温泉があり、1度は泊まってみたいと思っていたが魅力的な和風旅館が無いためにいつも素通りしていた。この温泉の湯は、登山コースの途中にあるくろがね小屋から引いているそうであるが、源泉となっているくろがね温泉に入れなかったのはやはり残念である。これからは時間に余裕をもって登山をし、登山コースにある温泉は極力入浴したいものである。

ゴンドラの搭乗時間も含め、往復約2時間半の安達太良山登山は、達成感に乏しい登山となった。しかし、今日中に出張先の秋田県鹿角市まで戻らなければならず、高速道路だけでも370kmは走らなくてならい。登山よりもその運転の方が大変であり、百名山完登の旅は距離への挑戦であり、その費用を工面するための格闘にも思える。

登山も旅の1つであり、国内旅行で最も時間と費用を要する旅は、「四国八十八ヶ所」の徒歩巡礼と思っていたが、「百名山」の登山旅行はそれを大きく上回る。徒歩での四国巡礼は50万円程度で済むけれど、百名山の旅は自家用車で移動し、ホテルや旅館に泊まったとすると、節約しても200万円の大台に乗るのは確実である。私の最長日数の旅は「奥の細道」の自転車旅行で、30日で60万円であった。最高金額の旅が「ヨーロッパスキー旅行」の100万円であったことを考えると、人生最大の旅行イベントとなるのは確実である。几帳面な性格ゆえに、1座1座の費用も記しているが、19座目で既に33万円となっているので、単純に計算しても200万円は優に越えるだろう。

昔の江戸っ子はよく、「宵越しの銭は持たない」と聞くが、これは「酔い越し」の誤りではないかと思う。ネオンの巷を徘徊した頃の私は、酔いにまかせて財布を空にし、帰りのタクシー代も無くて、7kmの雪道を歩いて帰ったという苦い思い出もある。登山も同じで、財布が軽いと帰りが心配で、愛車へのガソリンも満足に補給させてやれない。長距離運転の場合、スピードメーターよりも燃料ゲージが気になるのである。

20飯豊山

【別名】飯豊山【標高】2,105m(飯豊本山)、2,128m(大日岳)。

【山系】飯豊山地【山体】隆起侵食山岳【主な岩質】花崗閃緑岩。

【所属公園】磐梯朝日国立公園【所在地】山形県/福島県/新潟県。

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】飯豊山神社。

【登頂日】平成21年8月23日【登山口】大日杉【登山コース】地蔵岳コースピストン。

【登山時間】10時間7分、【登山距離】27.2㎞【標高差】1,49 5m。

【起点地】秋田県鹿角市。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、百霊峰、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】泡の湯温泉、湯ノ平温泉。

姥権現から望む山頂

白雉3年(652年)、渡来僧・知道と修験道開祖・役小角が開山。

飯豊山(2,105m)への日帰り登山は、とても無理と思っていたが、登山口に近い民宿に前泊すれば何とか日帰りできそうに思った。飯豊山は難関な山としては東北一で、この山をクリアすれば一人前の山人になれる気もする。最悪は車中泊もいとわない気持ちで大湯温泉を出発した。途中、横手の自宅に立ち寄り、野宿も覚悟してキャンプ用品を車に積んだ。

山形・福島・新潟の三県にまたがる広大な飯豊連峰には、山形県側に小国口(飯豊山荘)と中津川口(大日杉小屋)、新潟県側に足ノ松口(奥胎内ヒュッテ)と掛留沢口(湯ノ平山荘)、福島県側に弥平四郎口(祓川山荘)と実川口(湯ノ島小屋)など、それぞれの県に宿泊施設の整った登山口がある。私は秋田県横手市からの出発となったので、最も近い中津川登山口(大日杉小屋)から登ることにした。

飯豊連峰は地味な印象を持つ山塊ではあるが、名山名峰のベストでは常に上位にランクされるので、玄人好みの山として人気が高いようだ。日本アルプスの山々に比べると、岩峰でもなく標高も低いのに、何故愛されるているのか気になる所ではあるが、それは登って見て考えることにしよう。

日暮れ近くに中津川登山口に到着し、ロッジ風の大日杉小屋を訪ねて宿泊を乞うと、快諾してもらい、車からコンロや寝袋を小屋へと運んだ。山小屋は調理室やシャワー室の設備も整っていて素晴らしい。管理人が不在ということで、地元の山岳愛好家が2人いるだけであったが、老夫婦が1組飛び込んで来て宿泊することになった。老夫婦も交えて米沢牛に漬物、ドブロクまで振舞ってもらい感謝感激である。

日も明けぬ午前4時に起床し、購入したばかりのヘッドライトをつけて山小屋から登山を開始した。夜明け前の登山は初めての経験で、多少は心細い面もあったが、この歳になっても精神的に強くなって行く自分が感じられるのが嬉しい。一夜を共にした老夫婦も、思い出深い山と話していたので、山から元気をもらって帰るのだろう。

ザンゲ坂などの急登が続く樹林帯を2時間近く登り、地蔵岳の山頂で休息していると、単独登山の若者が狭い山頂へ登って来た。お互いに驚き、熊でなくて良かったと私は冗談を言った。その若者は休む間もなく、私より先に本山を目指して進んで行った。

地蔵岳から更に2時間近く長い尾根を歩き、切合小屋に到着した。小屋に泊まった団体の登山客が山小屋の提供した朝食を外で食べている。羨ましく思いながらパンをかじって小休止した私は、ペットボトルに水を補給し飯豊本山を目指して進んだ。

何度となく雑誌のクラビアや本の写真などを見て記憶に留めていた飯豊連峰である。ハイマツやクマザサに覆われた美しい緑の山肌を実際に眺め、感無量の思いがわく。広大な尾根に並行し、一筋の登山道が遥か彼方まで伸びていて、岩峰の芸術的な造形にも心引かれるが、山の持つ本当の魅力は、多種多様な生物が営み続ける緑の豊さではなかろうかと。

疎らながらも太陽が高くなるにつれ、登山者の数は増えて行く。東北地区の百名山は別としても、二百名山や三百名ともなれば、土日であっても登山客が全くいない名山もあった。雨天以外、週末はトレーニングのために殆ど山登りをしているので、自然と身近な二百名山や三百名にも足を向けている。

登山道には草履塚や御秘所などの名が残り、地元農民の信仰登山の面影が偲ばれる。草履塚は、履けなくなった草履に感謝の気持ちを込めて供養したもので、全国でも珍しいモニュメントである。御秘所は、岩場が立ち塞がる難所で、ここを越えて初めて一人前の男として認知されたそうである。

山頂直下の飯豊山避難小屋に至ると、隣接して飯豊山神社の小さな社が建っていた。五社権現を祀っていると聞いたが、素朴な飯豊信仰が細々と続いていることが嬉しく、深く頭を垂らし拝んだ。山に親しんで思うことは、山頂に挑むとか、頂上を制覇するとか、自力本願的な気持ちが薄れ、山頂に登らせてもらっているという他力本願的な思いに駆られる。

夏雲のペールを纏っていた飯豊本山は、少しは顔を見せてくれてカメラの被写体に納まってくれた。山頂にさしかかり、地蔵岳で会った若者とすれ違っが、単独登山を愛する気持ちが互いに伝わってくるようである。人生の苦楽の多くは、他人との交流の良し悪しであり、通り一辺倒の山人たちとの出会いも良き思い出となるものである。

登山を開始して5時間22分、念願の飯豊本山の山頂に到着した。登山口との標高差が1,49 5m、山頂までの距離が約14kmと、南アルプスの百名山に比的する難易度である。山頂は360°のパノラマが展望できる広場となっていて、木製の標柱、奥宮の石祠、三角点を示すコンクリー杭の3点セットが同じ場所に立っていた。

北にたなびく雲の中には朝日連峰が見え隠れし、西には飯豊連峰の最高峰・大日岳(2,128m)が目前に迫る。当初はこの大日岳に立ってこそ、飯豊山登頂の証にとなると思っていたが、飯豊山の山頂は飯豊本山以外にないと聞き、この登頂をもって百名山の一座達成とした。南には6月に登った磐梯山や吾妻連峰が微かに見え、東には夜明け前から登って来た地蔵岳が見える。その先の尾根には、急登に苦しんで来た自分の残影が浮かぶ。

誰もいない山頂は寂しく、10分ほどで下山を開始して避難小屋で食事をしながら休息をとった。食事はカロリーメイトや干し柿などの乾物が殆どで、フランスパンを齧って登山をしていた若い頃を思い出す。あの頃はウヰスキーの共としてコンビーフの缶詰は必ず持参したものであるが、コンビーフは高いので最近はサラミソーセージが多い。帰りの運転を意識してのことではあるが、日帰り登山は何かと制約が多いのが物足りない。

下山途中、切合小屋を過ぎて水辺で小休止していると、ゴム長靴を履いた若者が小走りに通り過ぎて行った。ゴム長靴も悪くはないなと感心し、地下足袋に拘らない実用に即した靴選びが大事なのだろうと思った。

再び地蔵岳の山頂にさしかかり、大日杉小屋で一緒だった老夫婦とすれ違った。私の倍以上の荷物を背負い、牛歩ながらマイペースで登る2人。この分だと切合小屋まで登るのが精一杯だろう。それでも登山を諦めない姿に敬服し、「ご安全に」と声を掛けて別れた。

午後2時27分、やっとの思いで大日杉小屋に到着し、自己記録を更新する約10時間の登山を終えた。小屋に立ち寄ると、昨夜お世話になった管理人代行の1人の方が残っていてくれて感謝の気持ちを伝え、約百里(400㎞)を超える帰路のハンドルを握った。

「最長の 登山となりし 飯豊山 本山日帰り ああ十時間」 陀寂

21磐梯山

【別名】会津富士【標高】1,819m。

【山系】独立峰【山体】成層活火山・カルデラ【主な岩質】安山岩。

【所属公園】磐梯朝日国立公園【所在地】福島県。

【三角点】三等【国指定】なし。

【関連寺社】磐椅神社、恵日寺。

【登頂日】平成21年6月27日【登山口】猫魔八方台駐車場【登山コース】八方台コースピストン。

【登山時間】3時間35分【登山距離】7㎞【標高差】625m。

【起点地】秋田県鹿角市。

【主な名数】八十八座九十図、日本百名山、名峰百景、日本の地質百選、新日本百名山、百霊峰、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】押立温泉、表磐梯温泉、磐梯はやま温泉。

磐梯山と猪苗代湖

大同2年(807年)、法相僧・徳一上人が開山。

磐梯山(1,819m)は東北自動車を走っていると、吾妻連峰から随分と離れているように思っていたが、白布温泉から西吾妻スカイバレーを通行すると意外と近いことに気が付いた。12時半頃に天元台ロープウェイ湯元駅の駐車場を出発し、磐梯高原のコンビニで握り飯を買って、車内で食べながら磐梯山ゴールドラインを上った。何度となく磐梯高原に来ているが、五色沼周辺のハイキングに終始し、眼前に聳える磐梯山に登ることはなかった。

登山口のある八方台駐車場は大型バスや乗用車でいっぱいであったが、案内板前のスペースが偶然にも空いていた。夏山シーズンでもないのに登山者の多いことに驚き、急ぎ身支度を整え、ブナの林道を歩き出した。『日本百名山地図帳』によると、八方台から山頂までは2時間20分と、楽に登るコースなので小学生の集団登山にも利用されているようだ。

林道では小学生の一行と遭遇するが、道幅が広く彼らの下山を見送る必要がなかったけれど、挨拶を交わすのが面倒であった。しかし、彼らの元気な声を聞き、西吾妻山に登ったばかり体も元気になって行くようだ。

林道を過ぎると、中ノ湯旅館の廃屋となった建物が残っており、入口の露天風呂が哀れを誘う。地図にも温泉跡と記されていたので、随分と前に廃業したのだろうが、その建物を荒れるにまかせて放置してある状況は見るに忍びない。温泉跡からは本格的な登山道となり、裏磐梯の檜原湖が光り輝いて樹木の間から望まれる。下山者も少なくなり、マイペースで登れたが午前中の登山の疲れからか、思うように急登を進めない。時折立ち止まって呼吸を整え、やっとの思いで9合目から山頂を仰いだ。

9合目の弘法清水に到着すると、土産物屋を兼ねた茶屋小屋が2軒あり、山のオアシスのように見えた。私が登山する時期は、閉業している小屋が多く、活気に満ちた小屋には嬉しさを感じる。飲み干したペットボトルに弘法清水を注ぎ、まず頭にかけ、喉を潤した。ボクサーがコーナーで休む時、セコンドがボクサーの頭に水をかけるように、私も体力が消耗すると、頭に水をかけるのである。

弘法清水から500mのガレ場を登り切ると、磐梯山頂であった。この500mがとても長く感じ、山頂はまだかまだかと何度となく呟いた。2時間弱で何とか山頂に到着し、小さな石祠を礼拝して登頂登拝を果たす。山頂で休憩していた5・6人ほどの登山客と挨拶を交わして岩の上に座った。猪苗代湖を眼下に望み、昔よく訪ねた裏磐梯の湖沼や車でめぐった観光道路を懐かしく思い出した。

子供の頃から民謡を聞き名前を覚えた磐梯山であり、会津に来たならまず独立峰の磐梯山を眺めてみたいと思う願いがあった。それが実現したのが19歳の時で、猪苗代湖でボートに乗って眺めた磐梯山は雄大であり、田沢湖の遊覧船から眺めた秋田駒ヶ岳の比ではなかった。山は色々な角度から見てみないと、その美しさは満喫できない。裏磐梯の五色沼でもボートに乗ったが、その眺めた山容の美しさは今も脳裏に焼き付いている。

その磐梯山も一生のうちに登りたい1座であったが、登山への興味が薄れ、神社仏閣の拝観や城郭史跡をめぐる旅に約30年を費やしてしまった。なぜ最っと早く山に興味を寄せなかったものかと、悔いは残る。これから先は、命尽きるまで霊山や名山に登ろうという意思は不変になりつつあり、登山中に心不全で野垂れ死することが理想とも思える。

磐梯山は明治21年(1888年)に大噴火を起こし、多くの犠牲者が出す惨事となったらしい。しかし、その大噴火による土石流によって川が堰き止められ、桧原湖や秋元湖などの現在ある裏磐梯の湖沼景観が誕生したと聞く。地球は破壊と創造を繰り返しながら生命のある星として、悠久の時を送っている。その地球に寄生する私たちは、人間という動物として地球の一部分の山を歩き、その歴史の中を旅しているのである。

磐梯山は奈良末期から平安初期に活躍した徳一上人(749-824)が開山したと言われ、裾野の磐梯町には慧日寺を建立している。その慧日寺は国の史跡にも指定され、往時を偲ぶ堂宇が復元されているようだ。徳一上人は奈良仏教を代表する名僧で、天台宗を開いた最澄さんと教義をめぐって激しく対立したことで知られる。磐梯山は古くから霊山として崇められ、山頂にも磐梯神社の奥宮を擬した石祠があったし、磐梯明神と刻まれた自然石も立てられていた。磐梯山が大爆発した平安初期の大同年間(806-810年)、朝廷は磐梯明神の怒りを鎮めようと、正一位の神階を贈った。鳥海山にも貞観13年(871年)、噴火があった際に贈られている。山にも官位があったことは、滑稽に思える時代の価値観と言える。

私が最も尊敬する空海大師(774-835)も磐梯山に登ったらしく、9合目の弘法清水の名があり、その登頂を記念するものと憶測した。空海大師を思う時、何度となく訪ねた高野山を思い出す。彼こそが、山を愛してやまなかった古の登山家ではなかったかと言うこと。

下山後に再び9合目の岡部小屋に立ち寄って山のバッヂを求めようとしたが、財布を車に置いて来たため諦めようと思っていた。その時に山小屋の女将さんは、お金は後で自宅に送ってくれればいいと、住所を書いた紙片とバッヂを渡してくれた。その親切に感謝して、秋田から持参して来て開栓していない白神山地のペットボトルの水を差し上げた。

山頂から一目散に下山して、駐車場に戻ると午後5時を過ぎていた。3時間弱の磐梯山ではあったが、1日2座を登った充実感や達成感に満たされる。また、今日は「日本秘湯を守る会」の宿に予約していたので、まだまだ楽しみは続く。

押立温泉の住吉館に着いたのは、午後6時近くであった。到着するなり恰幅のよい女将さんから、途中で連絡を入れて欲しかったと叱られてしまった。携帯電話に2度ほど連絡が入っていたようである。圏外でもあったのか、全く気がつかなかった。私にとって携帯電話は時計代わりに持参しているだけで、山に入って電話として使用することは殆どなかった。しかし、料理を作って客を待つ旅館のことを考えると、予定時刻に到着できない様であれば連絡するべきあったと反省しつつ痛感した。

「山の宿 フルコースの 山の幸 感激するは 岩魚の刺身」 陀寂 

私は岩魚の刺身が大好きで、ふるさとの釣り堀でよく食べたものだが、最近は殆ど口にしていなかった。秘湯の宿でも滅多に出て来ないし、天然物は寄生虫が多いので刺身にできないとも聞く。登山の楽しみは山頂で飲む缶ビールと、下山後の温泉と日本酒である。今日の西吾妻山と磐梯山の登山登拝は、天気も良く快適であった。明日は安達太良山に登って秋田県の鹿角へ帰る予定でいたので、再び温泉に入って床に就いた。

22那須岳

【別名】不明【標高】1,915m(茶臼岳)、1,917m(三本槍岳)。

【山系】奥羽山脈(那須連山)【山体】成層活火山・溶岩円頂丘(ドーム) 【主な岩質】安山岩・玄武岩。

【所属公園】日光国立公園【所在地】栃木県/福島県。

【三角点】一等(三本槍岳)【国指定】なし。

【関連寺社】那須嶽神社。

【登頂日】平成21年10月3日【登山口】那須ロープウェイ山頂駅【登山コース】三本槍コースピストン。

【登山時間】4時間26分【登山距離】10.8㎞【標高差】190m。

【起点地】秋田県鹿角市。

【主な名数】那須三山(茶臼岳・朝日岳・三本槍岳)、那須五岳(茶臼岳・朝日岳・三本槍岳・南月山・黒尾谷岳)、八十八座九十図、日本百名山、名峰百景、百霊峰、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】三斗小屋温泉、大丸温泉、北温泉、那須湯本温泉。

茶臼岳の山頂

昭和53年(1978年)、皇太子殿下(裕仁親王)が18歳の時に初登頂。

那須岳は日本で最も大きな火山脈である那須火山帯の主峰で、茶臼岳(1,915m)がその山頂と目されている。何度となく那須岳登山を計画したが、三斗小屋温泉の予約が取れず断念していた。今秋中には登山を結実したいと思っていたので、大丸温泉に切り替えたが、ここも満室とのことであった。登山計画の前日まで悩んだ挙句、有名な温泉旅館への宿泊を諦め、那須湯本温泉の喜久屋旅館に予約を入れたら簡単に予約が取れたのである。

飯豊山登山後は、北東北の著名な山々を毎週のように登って体力の維持と、山を愛する思いを深めて来た。東北地区に14座ある百名山の中で、会津駒ヶ岳を残すのみとなったが、高速道路から入り易い北関東地区の百名山を目指すことになった。明け方の4時20分に横手の自宅を出発し、8時20分には那須ロープウェイの山麓駅に到着した。ノンストップで走行し、391㎞の道のりを4時間ジャストで走って来たのである。2度目となる関東遠征は、登山よりも目的地までの運転が大変である。那須連山の主峰・茶臼岳に登るのが目的であったが、ロープウェイを降りてからコースを誤り牛ヶ首まで歩いていた。

それなら那須連山の最高峰・三本槍岳(1,917m)にまず登り、その帰路に茶臼岳に登ることにした。高度差もなく、朝日岳を横切る途中が大変なだけで、急登もなく歩き易い登山道が続く。しかし、清水平で急に下痢に襲われ、昨年の夏から数えて61回目の登山で、初めてのキジ打ちを体験することになった。携帯トイレは持参していたものの、急いでいたためハイマツの茂みに入り、何とか危機的状況を乗り越えた。

ロープウェイの山頂駅から1時間48分で三本槍岳の山頂に立ったが、私の体調の悪さのように山頂はガスにおおわれて視界不良である。周りにいる登山者も標柱の前で、記念写真を写して直ぐさま下山して行く。私も山頂の写真を撮り終えると直ぐに下山した。

下山途中に清水平で再びキジ打ちを余儀なくされ、食中毒にでもなったのかと心配もしたが、普段から下痢をする体質なので持病かと思い込んだ。しかし、登山中は胃腸の働きも活発となり、今まで下痢どころか大便をもよおしたのは岩手山の登山以来である。

思い起こすと、岩手山登山の時は巷で売られているスポーツ用の流動食を口にしていた。今回も栄養になると思い、間食として持参していた。普段から食べ慣れていない流動食で、消化不良を起こしたと自分なりに判断した。山登りには「握り飯」と昔から決まっているのに、現代風な流動食に頼った自分がいけない。

熊見曽根分岐に至り、その分かれ道から三斗小屋温泉に続く道を羨望の眼差しで眺めた。登山好きの友人達から三斗小屋温泉の魅力を何度となく聞かされ、私の心の未知なる部屋の壁にはいつも貼り付けられたままであった。那須から会津へ向かう中街道の間宿でもあり、そんな間宿に宿が残っているのは全国的にも珍しい。大内宿もそうであったが、歴史の面影が残っている旧道は歴史の教科書でもある。今度こそ泊りたいと思っていただけに落胆が大きいが、また来る楽しみが残り那須連山には思いが尽きない。

「染まり行く 那須の山並み 湯のけむり ランプの宿は あこがれのまま」 陀寂

那須連山には、「那須五岳」と称される峰々があり、主峰の茶臼岳を中心に北に朝日岳(1,896m)と三本槍岳、南に南月山(1,776m)と黒尾谷岳(1,589m)がほぼ一直に聳え立っている。その一峰である朝日岳が登山道の目前に迫り、その岩山に登った。3・4人が立てばやっとの山頂であったが、ロープウェイの山麓駅から眺める朝日岳はとても美しく、その山頂に登った喜びは大きい。「朝日岳に登らずして、帰ること勿れ」と言いたい。

再び峰ノ茶屋跡に立つ避難小屋に戻り、握り飯を食べて昼食をとった。那須岳は風が強いと聞いていたが、その通りであり、避難小屋の外は風音の調べが絶えない。しかし、この峠から眺める景色は最高で、眼下に那須野ヶ原の雄大な裾野が広がり、西の彼方には帝釈山脈や日光連山が見渡せる。

昼食と休憩を終え、念願の茶臼岳に登り、那須岳神社に礼拝した。那須岳と言えば、この茶臼岳を指すのであるが、深田氏は「那須五岳」を百名山としたため、百名山を目指す登山者は茶臼岳か三本槍岳かと迷走する。私が『名山絶句八十八座』で提唱したいのは、「深田百名山」の呪縛から逃れ、それぞれの価値観で判断して欲しいと思うことである。

茶臼岳の山頂では強風にもめげず、団体登山客が神社の各所に陣取って昼食を食べていた。どこへ行っても群れなし行動する日本人の気質にはうんざりとするが、個人個人が力を合わせ、1つの目的に向かう姿を否定はできない。私は若い頃から一人旅に染まり、単独登山を愛し、残り少ない命の灯を発散しているので、もう群れることはないだろう。

下山は再びロープウェイを利用することにしたが、火山灰の積もった山道は下るのは楽しい。すれ違うのは観光客ばかりで、私の方から挨拶はしないが時折「こんにちは」と声をかけて来る妙齢の女性もいる。思わず顔を見上げてみると、やはり妙麗の女性であり、口をポカンとあけたフーテンの寅さん状態に陥ることになる。

ロープウェイを降りると、まだ午後3時を過ぎたばかりであったので、温泉神社を参詣して殺生石を見物した。私の人生の師である松尾芭蕉翁は、『おくのほそ道』の旅の折、「石の香や 夏草あかく 露あつし」と詠んでいる。元禄2年(1689年)の時代と変わらず、硫黄の香りと噴気がただよい、温泉大明神の那須火山帯は熱気にあふれている。

那須湯本温泉には『奥の細道輪行記』の旅の際、芭蕉翁が泊まった旧跡に建つ旅館に泊まったが、今回は和風旅館ならどこでもいいと、ネットで調べ喜久屋旅館にしたのである。バブル経済の崩壊後、どこの温泉地も衰退が激しく、この温泉街にも幽霊屋敷となっているホテルや旅館もある。後継者不足か放漫経営か不明であるが、努力不足は否めない。

喜久屋旅館は土曜日というのに私の他に1組だけのようで、一抹の寂しさを感じ温泉気分も消沈気味となる。しかし、老女将と接しているうち、寄る歳にもめげずに旅館を守ろうとする気概が次第に伝わってきた。亡き主人の遺品と言う蔵書の多さに感激した私は、自費出版の書物を寄贈し、本棚の片隅に置いてもらうことにした。

那須湯本温泉には、共同浴場でもある鹿ノ湯の元湯が有名であり、木造の情緒にあふれる建物は見ているだけでも絵になる。旅館はこの元湯から引湯していることで、元湯まで足を運ぶことなく、その湯に浸かれることは何よりも嬉しいことである。泉質を第一に考える私としては、自然湧出の源泉かけ流しは最高の温泉と評価したい。翌日は朝風呂に浸かり、朝食を済ませて間もない午前8時過ぎに旅館を出発し、筑波山へと向かった。

23燧ヶ岳

【別名】燧岳【標高】2,346m(俎嵓)、2,356 m(柴安嵓)。

【山系】独立峰【山体】成層火山【主な岩質】花崗岩・輝石安山岩。

【所属公園】尾瀬国立公園【所在地】福島県。

【三角点】二等(俎嵓)【国指定】なし。

【関連寺社】燧大権現祠。

【登頂日】平成20年9月23日【登山口】御池駐車場【登山コース】上り御池コース・下りナデッ窪コース。

【登山時間】6時間40分【登山距離】15.2㎞【標高差】856m。

【起点地】石川県野々市町。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】赤田代温泉、渋沢温泉、檜枝岐温泉。

尾瀬沼と燧ヶ岳

明治22年(1889年)、檜枝岐村の住人・平野長蔵が開山。

前日は桧枝岐温泉のかぎや旅館に泊まり、桧風呂の温泉と桧枝岐料理を満喫しての燧ヶ

岳(2,356 m)の登山である。早朝の出発であったため、昨晩は5時間ほどしか熟睡していない状態であったが、あこがれの尾瀬をめぐり、東北一の山に登れると思うと、気持ちが一層高揚して来る。身支度を入念に整え、御池の駐車場を出発したのは、7時15分であった。私より5分前に出発した中年グループを急登で抜き、マイペースながら早いテンポで前へ前へと登って行く。燧ヶ岳は夏山シーズンを過ぎて登山客も少なく、他の登山者と挨拶を交わす煩わしさが少ない。混雑する山では、「こんにちは」の挨拶をテープに吹き込んで登りたい気分になる。特に急登でスタミナが切れ、喘いでいる時は声も出ない。

登山道は入念に整備されていて、ぬかるんだ道には角材を用いた木道が施され、日光国立公園から単独の尾瀬国立公園となった品位が感じられる。御池コースは快適なコースで、急登を越えると広田田代と熊沢田代の湿原があり変化に富んでいた。眼下の景色に目をとられながら心地よい登山が続けられ、気が付いたらガレ場の先の俎板嵓に登っていた。誰が置いたか知らないが、木段の中央には殆ど漬物石ほどの踏石が置いてあり、随分と助けられ、その思いやりが太腿に優しく感じられた。

俎板嵓には石の祠があり、燧大権現が祀られていた。仏教による山岳信仰が盛んとなっ

た平安時代初期から祀られているらしい。また、桧枝岐には村の鎮守様として駒形大明神と共にその社が建てられている。鎮守神社の境内には、桧枝岐歌舞伎で有名な能舞台があり、昨晩と早朝に見物して記念の写真を撮影した。

俎板嵓の前方には10m高い本峰の柴安嵓が聳えていて、俎板嵓を下り柴安嵓に登った。

御池から2時間半が過ぎていたが、標準が3時間20分であることを考えると、上出来の登りである。山頂には3・4人の登山者が寛いでいた。遥か彼方に富士山が微かに見え、尾瀬沼の後方には百名山がズラリとその雄姿を現していた。15分ほど休憩して再び俎板嵓に登り、ナデッ窪から下山した。尾瀬沼湖畔の沼尻まで1時間の下山であったが、急峻な岩礫と岩石が尾瀬沼の平地直前まで続き、急登を登って来る登山者に敬意を込めた挨拶をした。気の抜けない石だらけのコースで、楽な下山でもとても長く感じた。

湿原の木道に立った時は、膝はガクガクでやっとの思いで沼尻の休憩所にたどり着いた。休憩所の外の長いすに腰かけ、放心状態をリセットし、旅館で握ってもらったオニギリを食べながら尾瀬沼の景色をしばらく堪能した。

休憩所で燧ヶ岳のバッヂを買い求め、店員から沼山峠のバス停までの所要時間を聞くと、

2時間くらいと聞いてがっかりした。十分な計画でなかったため、尾瀬沼の遊歩道の距離が把握できていなかった。沼山峠に向かうのであれば、長英新道のコースをとるべきであったが、尾瀬沼を散策したいと言う理由でナデッ窪のコースを選んだのである。古い登山靴を履いていたので、足の肉刺が破れてズキズキと痛むが、なんとか我慢して歩いた。50分ほどで湖畔の長蔵小屋に着き、尾瀬沼ビジターセンターなどを見物した。

若い頃、長蔵小屋の歴史を綴った『山小屋三代の記』という本を読み、個人の力で三代にわたり、観光開発から尾瀬を守った業績を賞賛したことがあった。明治22年(1889年)、平野長蔵(1870-1930)が尾瀬の登山道を開き、尾瀬の魅力を広められて来年で120年になる。しかし、最近になって山小屋の従業員が、廃棄物を付近の空き地に埋設処分して検挙されたと言うニュースを耳にして残念に思った。それでも尾瀬は相変わらずの人気で、観光客も大勢来ていた。長蔵小屋も賑わっているようで、売店ではアイスクリームまで売られていて、商業化してゆく現状は否めない。

尾瀬といえば、有名な「夏の思い出」という唱歌があるが、私も随分と口ずさみ尾瀬に思いを馳せたものである。尾瀬沼の先にある尾瀬ヶ原が「夏の思い出」の場所であり、尾瀬の主役である。今回は燧ヶ岳登山が目的であったので、尾瀬ヶ原までは脚を伸ばせなったが、いずれは尾瀬ヶ原をめぐり、至仏山へも登りたいものである。また、尾瀬の北の只見川沿いには、温泉小屋が2ヶ所あるようなので入浴するのが楽しみである。

大江湿原の木道を歩いていると、小さな丘の上に墓石らしいものが見えた。平野長蔵、長英、長靖氏の三代の墓なのだろうか。自然破壊につながる道路建設に反対した時、二代目の長英氏は「私は尾瀬の自然の中に生きる、一個の生物にすぎないのだから」とマスコミに語ったとされる。そのお蔭で大江湿原も守られ、自力で歩いて来なければ味わえない自然景観がここに残ったのである。

最後の気力をふりしぼって、大江湿原の長い木道を歩き、沼山峠を必死に登った。そして、バスターミナルが見えた頃、前を行く中年男性が急に走り出した。バスが出発するのではと、察した私も懸命に走った。その男性は手を大きく広げて、走り出したバスを停めて乗車した。私も何食わぬ顔して、ほぼ満員のバスに便乗した。補助席のイスに座った時は「ああ助かった」と絶句するほどの疲労感であった。

登山に興味のない人は、こんな苦しい思いまでして何故山に登るのか不思議に思うかも知れないけれど、登山することによって得られる達成感は市民マラソンの比ではない。共に体力の限界を尽くし、挑むことでは同じであるが、山はたくさんの御褒美を与えてくれる。山頂からの美しい眺望、咲き乱れる高山植物の美しさ、小鳥たちの美しい囀り、渓流の流れる美しさと、「四美」以外にも数えれば枚挙にいとまない。

江戸時代の中期、林春斎という学者が、小学生でも知っている「日本三景」を選定した。この三景はすべて海岸に面した景勝地であり、交通が発達した近代において、山岳の景勝地がないことに不満があった。特に国の特別名勝に指定されている青森県の奥入瀬や長野県の上高地は、内陸の三景に値すると日頃思っている。この尾瀬もそれに比的する魅力があり、私のは富士山・上高地・奥入瀬・尾瀬・阿蘇山を「日本五景」として評価している。

「富士登山 いよいよと思う 尾瀬の山 越えにしあとに 自信は芽生え」 陀寂

沼山峠から20分ほどで、バスは御池の駐車場に着き、6時間40分におよんだ登山は終了する。旅館を出る時にもらったコインを駐車場の精算機に入れて、料金1,000円が免除された。桧枝岐の宿に泊まった客だけの特典だそうだ。御池は国道352号線に面していて、奥只見湖を抜けて魚沼に出られ便利なルート上にある。魚沼からは関越自動車道があり、西の先の柏崎から北陸自動車道があるが、金沢までは4時間を覚悟しなくてはならない。

24至仏山

【別名】至仏岳【標高】2,228m。

【山系】越後山脈【山体】隆起侵食山岳【主な岩質】蛇紋岩。

【所属公園】尾瀬国立公園【所在地】群馬県。

【三角点】二等【国指定】なし。

【関連寺社】なし。

【登頂日】平成21年8月17日【登山口】鳩待峠駐車場【登山コース】上り山ノ鼻コース・下り鳩待峠コース。

【登山時間】3時間44分【登山距離】11.9㎞【標高差】828m。

【起点地】秋田県鹿角市。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、花の百名山、日本の名峰50選、日本の山ベスト100。

【周辺の温泉地】赤田代温泉、尾瀬戸倉温泉。

山頂を遠望

明治31年(1898年)、植物学者・早田文蔵が入山。

少年の頃に覚えた「夏の思い出」の唱歌は、尾瀬の風景を彷彿とさせるもので、自然を恋しく思う時、その歌を口ずさみ、まだ見ぬ尾瀬に想像を膨らませていた。昨年の秋、桧枝岐の御池口から燧ヶ岳(2,356 m)に登り、初めて憧れ尾瀬と対面した。山頂から見下ろす本州最大の湿原に感動し、山頂から眺めた至仏山(2,228m)は尾瀬において燧ヶ岳と対局を成す山に見えた。燧ヶ岳は那須火山帯に属する成層火山であるが、至仏山は秩父古生層から成る非火山性の山で対称的な生い立ちであるのも不思議に見える。あの時は燧ヶ岳から尾瀬沼に下山し、沼山峠からシャトルバスに乗って自分の車に戻った。「尾瀬ヶ原を見ずして尾瀬は語れない」と、その思いが深く心に残り、次は至仏山と尾瀬ヶ原と考えていた。

平日は通行規制がないので鳩待峠まではすんなりと車で走れたが、既に峠の駐車は満車であった。その時、私の車の秋田ナンバーを目にした駐車場の係員は、特別にと自分の車を路肩に移動し、駐車スペースを空けてくれた。係員は秋田県秋田市の出身とのことで、同郷のよしみでなんとか駐車できたのである。他に駐車場もなく、私の後続を走って来た車は依怙贔屓に遭遇して哀れに思えた。

「紙一重 数秒タッチの 登山口 不運幸運 山神次第」 陀寂

尾瀬ヶ原の玄関口である山ノ鼻までは、木道の平坦な道が続き大変歩き易く、3.3kmの距離も43分で歩いた。山ノ鼻には洋風の大きな山小屋が数軒あり、至仏山が目前に聳え、尾瀬ヶ原の先には燧ヶ岳が見える。燧ヶ岳とは11ヶ月ぶりの再会であり、しばらく尾瀬ヶ原を牛首まで歩き遠望した。

尾瀬沼と尾瀬ヶ原は、燧ヶ岳からの噴出物によって渓流が堰き止められて湖沼となり、やがて湿原へと変化したらしい。更に進むと自然史的には草原へと移ってゆく運命と言う。日光の戦場ヶ原は湿原から草原へと変化した例であり、尾瀬ヶ原がまだ湿原の状態を保っている。貴重な自然遺産を人的な自然破壊から守るためにも、木道以外は歩いたり立ち入ったりしないのがベストである。尾瀬ヶ原から至仏山と燧ヶ岳の山頂がはっきりと見えるが、両峰とも甲乙付けがたい山容であり、長年連れ添った夫婦のようにも思える。

尾瀬ヶ原の牛首から昨年辿った尾瀬沼の沼尻平までは、5時間も要するようで水芭蕉の咲く季節に訪ねたいものである。山ノ鼻は平日にも関わらず、ハイカーや登山客が尾瀬だけに大勢いて賑わっていた。その人垣の間をぬって何とか至仏山の登山口へと入り、あこがれの至仏山への登山が始まった。

鳩待峠から至仏山へ登って山ノ鼻へと下山したかったが、植生保護のために山ノ鼻への下りコースは通行禁止となっていた。思ったよりも急登が多く、比較的楽な鳩待峠から登れなかったのが残念であるが、尾瀬ヶ原の景色は最高で、苦しみ多ければ喜びも多い。名前も知らない高山植物を写真におさめ、岩と岩との間に架けられた木段を上へ上へと進む。

山頂付近はハクサンシャクナゲやハイマツなどの灌木が多く、自然の庭園を見ているようである。山ノ鼻から登る登山客は意外と少なく、6組ほどの登山者を追い越して、ほぼ2時間で山頂に到着した。山頂には無数の岩石が立ち転がり、西側は岩壁となっていて、東側にはなだらかな斜面が小至仏山へと続いている。

至仏山は、その名が示すように霊山と思って期待していたが、山頂には祠もなく、手を合わせる対象がない。至仏山の名前の由来も定かではないが、一説によると登山道の無かった時代に渋沢沿いに登ったことから「しぶつさわ」と転訛されたものと言う。しかし、遥拝が主であった山岳信仰が全国津々浦々の山々まで及んでいないので、この至仏山も登拝の対象ではなかったと考える。

山頂には多くの登山客が陣取っていて、鳩待峠からのピストン登山者が殆どのようである。山頂からの眺めは素晴らしく、連登した谷川岳・武尊山の雄姿がよく見える。脚下の西には奥利根の峡谷が、何よりも東面の戦場ヶ原が一望できることが素晴らしい。燧ヶ岳は尾瀬沼と一体となっている美観を呈しているが、至仏山は尾瀬ヶ原と一体となっている。

カロリーメイトとビスケットを食べて10分ほど休息したが、秋田県鹿角市までの600kmの帰路を考えると、のんびりともできず、山頂で寛ぐ登山客をしり目に鳩待峠へと急いだ。下山した鳩待峠コースは変化に富んだ稜線の尾根で、小至仏山の山頂、オヤマ沢田代の湿原、原見岩と見所も多く、登山愛好家のベスト50座や100座に選ぶ理由が分かる。

深田百名山の登山は、初めて登る山ばかりで予期もせぬ景観に出会うことが多々あるが、今回の至仏山もそうである。しかし、深田百名山ばかりではなく、登山愛好家が選ぶ「ベスト50」や「ベスト100」には至仏山が必ず選ばれている。かつては穂高岳や剣岳などのような岩峰が一般登山者に好まれたようであるが、最近は高山植物や渓谷美など、山の総合的な豊かさに重きを置く登山者が増えているようだ。

鳩待峠の土産物屋に立ち寄り、山のバッヂと共に「尾瀬」の名が印された杖を入手した。西穂高山荘で買い求めた杖は、5㎝ほど擦り減り短くなって、その予備として新たな杖を購入したのである。地下足袋に杖、黄色いのジャンバーと印篭のような首にぶら提げたカメラ、水戸黄門様のような出で立ちが私の登山姿である。

車を駐車場から出す時、係員に深々と頭を下げて感謝の気持ちを伝えた。秋田県出身の係員が、秋田ナンバーの車に興味を持ったのは、秋田ナンバーの車が殆ど来ないからであろう。秋田県には山岳愛好者が少ないのか、北東北の百名山登山口でも少数派であった。それが関東の百名山ともなれば珍しい存在なのかも知れない。

帰路は鳩待峠から中禅寺湖といろは坂を経て、日光宇都宮道路から東北自動車道へと入ったが、途中の華厳の滝にはいつも未練が残る。日光には4回ほど来ているが、華厳の滝を見たことがないのである。直近の駐車場はいつ通っても満車で、今回も通過してしまった。しかし、日光には日光白根山と男体山の百名山が控えているので、その登山口を確認しながら「秋にはまた来ますと」と日光の神々に挨拶をし、いろは坂を越えた。

高速道路の運転は、単調で緊張感が薄れて退屈するので、睡魔に頻繁に襲われる。ガムをかじったり、頬を平手で敲いたりして睡魔を払おうとするけれど、危険と察知した段階でパーキングに入る。熟睡している訳ではないけれど、目を閉じているだけで随分と目の回復となる。そんなことを繰り返しながら、600kmを走って大湯温泉のアパートに着いた時は、やっと2泊3日の山旅が終わったことを実感して安堵する。

25八海山

【別名】八階山、八ツ峰【標高】1,778m(入道岳)、1,770m(大日岳)、1,654m (薬師岳)。

【山系】越後山脈【山体】隆起侵食山岳【主な岩質】礫岩・砂岩。

【所属公園】越後三山只見国定公園【所在地】新潟県。

【三角点】三等(薬師岳)【国指定】なし。

【関連寺社】八海山尊神社。

【登頂日】平成23年10月2日【登山口】八海山ロープウェイ山頂駅【登山コース】八ツ峰コースピストン。

【登山時間】4時間27分【登山距離】9㎞【標高差】537m 。

【起点地】石川県野々市町。

【主な名数】越後三山(越後駒ヶ岳・中ノ岳・八海山)、日本二百名山、名峰百景、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】畔地温泉、五十沢温泉、六日町温泉。

稜線より大日岳を望む

寛政6年(1794年)、修験僧・普寛行者が開山。

昨夜は念願であった栃尾又温泉自在館に泊まり、5ヶ所ある浴場を一通り入浴した。そして今日は、待望の八海山(1,770m)に登ろうと決心した。宿の朝食時間に合わせたため出発が遅くなり、八海山ロープウェイの山麓駅に到着したのは午前9時過ぎであった。朝食のおかずにに体に合わない品があったのか、急に腹の調子が悪くなり、まずはトイレに駆け込むと嬉しいことに洗浄便座であった。キジ打ちをしなくても済むように、登山前に必ず大用をするのであるが、水場とトイレの有る無しを確認するのは登山の大切な心得である。

日曜日とあって、結構な人数の登山者がロープウェイに乗り込んで行く。日本一うまいと定評のある魚沼産コシヒカリの産地が眼下に見え、魚野川が銀色に輝いている。山頂駅に降り立つと、快晴ではないが山頂がはっきりと見え、昨日眺められなかった越後駒ヶ岳の眺望が期待できそうである。ロープウェイが設置されている場所は、六日町八海山スキー場となっていて、西武グループが運営しているようだ。

八海山を知ったのは、1昨年放映されたNHKの大河ドラマ「天地人」のタイトルバックを見てからである。山頂の切り立った岩峰には、多少の恐怖感を覚えたものであるが、いずれは登らなくてならないと覚悟を決めて見ていた。いよいよ、その場に立つのも時間の問題ではあるが、下から仰ぎ見ていると、険峻な峰々に尻ごみしそうになる。

山頂駅の遥拝所に一礼し、尾根伝いに登って行くと漕池という小さな池があり、案内板にはモリアオガエルの生息地と記されている。搭乗したロープウェイの案内では、女人堂まで1時間、女人堂から千本檜小屋まで1時間、更に10合目の大日岳までは1時間と教えてくれたが、女人堂までは40分ほどで到着した。

女人堂の名は、かつて女人禁制だったの霊山の面影が今も残っていて、木曽御嶽山や高野山にもあった。現在では、烈女たちが勇猛果敢に山頂を目指して登って行く。女人堂は避難小屋を兼ねていて、水洗トイレまで備えていたのは驚きであった。ここで大勢の登山者が休息していたが、私は付近の写真を撮り終えると、そのまま山頂へと進んだ。

女人堂から薬師岳の8合目を経て千本檜小屋までは、短い急登があったもののすんなりと登って来られた。越後駒ヶ岳と中ノ岳が眼前に見え、山頂の峰々が跳び箱のように立ち塞がっている。千本檜小屋には、山のバッヂが販売されていたので購入して、リュックを置かせて貰った。これから先は、危険な岩場が予想されるので、身軽な方がより安全であり、不要なものを山頂まで背うこともない。

八海山の山名は、稜線直下に点在する八つの池を海に見立てて名付けられたと言う説と、峰々には八つの梯子段があったことから八階山とも称されたと言う説もある。八海山の八ツ峰は、百名山の八ヶ岳と同様に多くの峰々を意味する言葉のようで、屹立するピークを指しているようでもなさそうである。

大河ドラマ「天地人」で有名となった地蔵岳へ登ると、切り立った岩峰の連続で、尻ごみしたくなるような鎖場と梯子段が続く。私より年輩者が登って行くのを見ていると、私も負けられないと自分自身を奮い立たせ、不動岳・摩利支岳・白川岳の峰々を越えて、なんとか10合目の大日岳山頂に立った。リュックを背負った登山者は、更に奥に聳える最高峰の入道岳(1,778m)を目指すと言う。私は最高峰にも立ちたい気持ちもあったが、往復2時間近くを要するようだったので素直に諦めた。

「険しさや 槍も剱も 及ばざる 八海山の 峰の乗越え」 陀寂 

大日岳の山頂には、八海大明神の尊像とおぼしき小さな銅像が祀られ、今も霊山として崇められている証でもある。八海山は木曽御嶽山の王滝口登山道を開いた普寛行者(1731-1801)によって開山された霊山である。その仏教色の濃い修験道の霊山は様変わりして、山麓には八海山を御神体とする神社の里宮があるようだ。私的な「霊山霊峰100座」に、この八海山も選んでいたので、合格に値する霊山と太鼓判を押したい。山頂からの眺めは素晴らしいが、足元の断崖絶壁を見ると、下半身が竦んで来る。

高所恐怖症の私は、一刻も早く平坦な千本檜小屋まで下りようと、迂回路を急ぐことにした。しかし、大日岳の手前で引き返した老齢の登山者御一行が、迂回路を塞いでいた。先を行かせてくれる気配もなく、私は牛歩の如く歩くだけである。困ったものであるが、私一人の山でもないし、先客に主導権があるのはどこも一緒だ。千本檜小屋の手前で巾広くなった道で、先を譲ってもらったが時には既に遅しである。

千本檜小屋で缶ビールを購入し、安堵の気持ちを味わいながら登頂達成を乾杯した。小屋は間もなく閉じるようで、もう山のシーズンは終わろうとしていた。最近の登山は、地下足袋とゴム長靴が殆どであり、その姿に眉を顰めつ皮肉を言う登山者も多い。缶ビールを飲みながら休息している時も、異端児に見られたのか「地下足袋は疲れるでしょう」と野暮ったい質問をする登山者がいた。私は一言、「貴方は藁草履を履いて歩いたことがありますか、素足で大地を踏んだことがありますか」と。靴にばかり頼っていては、いざとなった時に人は歩けなくなるのである。

千本檜小屋からロープウェイ山頂駅に到着したのは、約1時間10分後で、往復に要した時間は約4時間であった。登山時間は短かったものの、変化に富んだ内容であり、大いに満足した登山であった。また来る機会があるならば、八海山から中岳、越後駒ヶ岳の三山がけをしてみたいものであるが、その前に吉野から熊野の「大峯奥駈道」を縦走しないことには、「越後三山」と言う先が見えて来ない。

ロープウェイから車に戻り、1合目にある八海神社里宮を参詣した。この神社の社務所はそば処も兼ねていて、宮司さんが不在との事で、その料理人から予め書き留めてあった御朱印を頂戴した。自選した『名山絶句八十八座』の登山は、「四国八十八ヶ所霊場」にあやかったもので、その証ともいうべき、御朱印の入手は極めて重要である。

明日は新潟市の手前に聳える弥彦山に登拝するため、付近の寺泊にでも泊まろうと八海神社を出発した。寺泊には知っている宿もなかったので、事前の予約はしていなかった。しかし、それが災いし、激しい雨の中、旅館やホテルに空室を尋ねたが満室と言うことで断られてしまった。こんな時は、観光案内所で紹介してもらしか術がいない。案内所の女性が、何軒か電話してくれて夕食なしでの投宿ができた。そして、その旅館の向かい居酒屋で、越後の酒と肴で秋田へ帰る最後の夜を過ごすことができたのは有難い。

26谷川岳

【別名】谷川富士(オキの耳)、薬師岳(トマの耳)【標高】1,977m(オキの耳)、トマの耳(1,963m)。

【山系】三国山脈(谷川連峰)【山体】隆起侵食山岳【主な岩質】花崗岩・蛇紋岩。

【所属公園】上信越高原国立公園【所在地】群馬県/新潟県。

【三角点(盤石)】三等(トマの耳)【国指定】なし。

【関連寺社】富士浅間神社奥ノ院。

【登頂日】平成21年8月15日【登山口】谷川岳ロープウェイ天神平駅【下山口】土合口【登山コース】上り天神尾根コース・下り西黒尾根コース。

【登山時間】4時間53分【登山距離】8.5㎞【標高差】644m。

【起点地】秋田県鹿角市。

【主な名数】日本三大岩場(谷川岳・剱岳・穂高岳)、日本百名山、名峰百景、新日本旅行地100選、新日本百名山、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】谷川温泉、湯檜曽温泉、大穴温泉、水上温泉。

山頂遠望

大正9年(1920年)、日本山岳会の藤島敏男らが初登頂。

群馬と新潟に跨る三国山脈、その中心部にあるのが谷川連峰である。最高峰は谷川富士とも称されるオキの耳で、標高は1,977mと平凡ではあるが山の存在感は日本アルプスを凌駕するであろう。一ノ倉沢には、日本一の長さ岩場があってアルペン的な表情を見せている。氷壁にアタックするクライマーにとっては、最高の練習場ともなっている。谷川岳は「魔の山」とも呼ばれるそうで、冬山の遭難事故では毎年のように新聞記事に登場する。そんな冬山のイメージは微塵もなく、微笑みを絶やさない夏の谷川岳は慈愛に満ちた極楽浄土のようである。それは非火山性の山の特色であるが、その山塊の中を関越トンネル(関越自動車道)、大清水トンネル(上越新幹線)、新清水トンネル(上越線)、清水トンネル(上越線)の4本の長いトンネルがあるのは異様とも言える。

盆休みが近づいた一週間前、ネット上の天気予報に目を凝らしながら2泊3日で北関東地区の百名山に登る計画を立てた。昨年の秋、一緒に伊吹山に登った甥子のコーセイ君が、三重県の勤め先から秋田の実家に帰省していたので、長旅の話し相手として無理に誘ったのである。横手の自宅から7kmほど離れた実家に立ち寄り、コーセイ君を伴ない夜も明けない午前3時半頃に谷川岳を目指して秋田を出発した。

横手インターから秋田自動車道、東北自動車道、磐越自動車道、関越自動道と走り続けて約6時間、ようやく水上インターに到着した。予想通りお盆の帰省ラッシュにも巻き込まれず、スムーズに谷川岳ロープウェイ駅に到着したのは午前10時前であった。

早速、身支度を整えて、ロープウェイで土合口駅から天神平駅へと上る。登山客と観光客とが入り混じるコースを歩き、熊穴沢避難小屋に到着する頃は山頂を目指す登山客一色である。同伴してくれたコーセイ君を気にかけながらも、前を行く登山客を追い越し追い越して肩ノ小屋へと到着したのは登山を開始して1時間半後であった。肩ノ小屋からはたくさんの登山客の間をぬって、双耳峰のトマの耳、オキの耳の山頂に立った。ロープウェイを下りてから約2時間、谷川岳の登頂は楽ではあるが、登山客の多さに驚いた。お盆休みの期間は、著名な山への登山は控えるべきと痛感させられた。

谷川岳はロープウェイがあるため、子供でも半日で日帰り登山が楽しめるのが魅力であろう。オキの耳から眺める360°のパノラマは絶景であり、明日登る予定の武尊山、明後日に登る予定の至仏山と、手に取るように見渡せる。オキの耳の先には、富士浅間神社の奥の院があった。なぜ富士山の御神体なのか不明だが、柏手を打ち登山の安全を感謝した。

コーセイ君は本格的な登山は今回が初めての経験であり、怪我をさせないことが私の役割であった。私のハイペースについて来てくれた彼は、この間までは目の中に入れても痛くなかった紅葉手の子供であったが、もう今は立派な大人である。コーセイ君には来た道を引き返し、ロープウェイで下山させた。谷川岳には多くの登山コースがあり、ロープウェイを利用したピストンではもの足りなさ感じ、私は単独で西黒尾根を下ることにした。それに西黒尾根は、烏帽子岳(北アルプス)のブナ立て尾根、甲斐駒ヶ岳(南アルプス)の黒戸尾根と並び「日本三大急登」と称されているので、登りは無理でも下りなら楽であろう。

樹木の少ない見晴らしの良いコースであったが、急な下りや岩場が多くあり、脚の膝が痛くなって来る。想像していたよりも過酷な下りとなり、ピンなしの地下足袋では滑りやすく心許なかった。やっとの思いで尾根を下り、樹林帯に入ると水汲み場あり、そこで頭へ冷水を浴びせ、自分の正気を蘇生させた。

土合口駅に向かう途中、小さな山岳資料館があったので覗き見した。主にロッククライミングのメッカでもある一ノ倉岳のパネル展示が多いようである。ロープウェイの駅に着くとコーセイ君が待っていが、私はベンチに座ったまましばらく身動きがとれない状態であった。長距離運転の疲れと、下山のハードさに体力が弱ってしまったらしい。山の遭難で最も多いのが墜落や滑落だと思っていたが、道に迷い体力が消耗して遭難するケースの方が多いらしい。多くの登山者がいるので夏の谷川岳は道に迷うことはなさそうであるが、いずれ春スキーのシーズンに再訪したいと思う。

土合口駅の駐車場から今夜の宿でもある湯の小屋温泉へと一目散に向かった。かつて勤めていた会社が倒産し、元上司と2人、傷心旅行でこの地を訪ねたことがあった。宿泊することは叶わなかったものの、有名な宝川温泉や法師温泉に入浴し、今後の将来に不安を抱く気持ちが少しは癒された旅であった。

宝川温泉と法師温泉は「日本秘湯を守る会」の会員旅館であったが、最近のガイドブックからは宝川温泉の名前が消えていた。湯の小屋温泉の洞元荘も加入していが、ここも脱会したようだ。その代わりでもないだろうが、同じ湯の小屋温泉の葉留日野山荘が新たに加入し、今夜の宿に予約したのである。

利根川の源流沿いに建つ葉留日野山荘は、廃校となった木造校舎を温泉旅館にリニューアルしたもので、全国的にもユースホステル以外は類例を見ない。モダンな洋館をイメージさせる木造校舎で、職員室は談話室に、講堂は食堂となっていて、学び舎の面影が随所に残っていてタイムスリップしたように思える。

久々に甥子と温泉に入り、共に歩んだ23年の歳月を思い出す。私の実家は酒販店を営んでいたが、大型店との安売り競争が激化すると、一年の内で休む日は元日だけと言う悲惨な営業を繰り返していた。そんな長男(兄)の甥子2人を不憫に思い、実子のように面倒を見て来た。それが独身を余儀なくされた私の生き甲斐でもあり、会社を起業して間もない私の心の支えでもあった。

今では長男のカッ君は防衛大学校をトップクラスで卒業し、航空自衛隊に入ってアメリカにパイロットの訓練のため留学している。次男のコーセイ君は、高校卒業後に季節工として自動車工場で働き両親の助けなっている。そのコーセイ君が初任給を家族や親戚全員に贈ってくれたことがあった。その五千円札には、今も私の涙が沁み込んでいる。そんな甥子の優しさに報いることを目的にしたのが、今回の谷川岳への山旅であった。

「二人とも 立派に育ち 不服なし 俺も育つぞ まだ見ぬ山で」 陀寂

殆ど寝ていない状態で6時間の長距離運転をして、約5時間の谷川岳登山に私は意識が朦朧とするほど疲れていた。元気いっぱいのコーセイ君を目の前にして、私は「バタンキュウ、サカモトキュウ」と一言、そのまま寝床に沈んでしまった。

27苗場山

【別名】不明【標高】2,145m。

【山系】三国山脈【山体】成層火山・カルデラ【主な岩質】安山岩。

【所属公園】上信越高原国立公園【所在地】新潟県/長野県。

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】伊米神社。

【登頂日】平成23年7月3日【登山口】小赤沢3合目駐車場【登山コース】小赤沢コースピストン。

【登山時間】4時間27分【登山距離】15㎞【標高差】815m。

【起点地】石川県野々市町。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、花の百名山、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】小赤沢温泉、結東温泉、みつまた温泉、貝掛温泉、赤湯温泉。

山頂直下の池塘

文化8年(1811年)、地元の随筆家・鈴木牧之が登頂。

苗場山(2,145m)は三国山脈の西に位置し、那須火山帯に属する成層火山である。苗場スキー場が有名なため、山頂が苗場山と勘違いする人も多いが、苗場スキー場は筍山(1,789m)を山頂としている。何故、苗場スキー場と命名したかは定かではないが迷惑な話である。文化8年(1811年)、商人で随筆家の鈴木牧之(1770-1842)が登頂したことで知られ、山頂付近は高層湿原となっていて、池塘の数は日本一であろう。

先週は180kmも北陸自動車を走って行き、大雨のために名立谷浜インターで引き返し

てしまったが、「今日は何としても登るぞ」と気概で臨んだ。上越インターを降りて、国道405号をひたすら走って行くと、小赤沢という長野県側の登山口に到着するようだ。この国道は道幅が狭く評判の悪い国道で、棚田を見物するために通った時はもう2度と走るまいと思った道でもある。その道を再び走るのも皮肉なもので、当時の様子が思い起こされる。

出発して1時間が過ぎようとしていた頃、カメラをレオパレスに忘れたことに気づき亜然とした。これまでメモリーカードは何度か忘れたことがあったので、予備をリュックに入れているが、カメラを忘れてしまったのは手痛い。津南まで行けばコンビニもあり、そこで使い捨てカメラを購入することにした。

今回の登山口は長野県側の小赤沢という集落から入るが、新潟県の集落も含めて秋川郷と称される観光地でもある。秘湯や秘境がブームとなった時代に、平家の落人伝説は格好の宣伝材料であった。しかし、道路が整備され大型バスが入り、団体客が訪れた時点で秘湯も秘境も失われ、変哲のない観光地に変わる。福島県の大内宿は、30年前はあまり注目もされなかったが、最近では大渋滞をしているようで立ち寄ることがなくなった。

小赤沢から3合目の登山口のある駐車場までは、20分ほど山道を上り、やっとの思いで到着した。金沢を出発して4時間半が過ぎ、予定の登山開始時間も大幅に過ぎていた。午前9時を過ぎたら高い山には入らないことを信条とおり、苗場山への標高差が1,000mを超えていれば断念も止も得ないと思っていた。

広い駐車場には10台ほど乗用車と中型バスが停まっているだけで、閑散としている。これが梅雨の季節の日曜日なのだろうか、それにしても淋しい。私の駐車した車の横には母1人、子供2人の登山客がいた。その家族に励まされるように、私は長靴に履き替え、傘とストックを手にして登山口に入った。

文字の消えかけた標柱から4合目までの時間が記されていて、目標地点が把握できるのが嬉しい。なだらかな登山道であるが、気温が高く額の汗は途切れることもなく続く。霧が立ち込め視界は良くないが、ウグイスの歓迎の囀りに下手な口笛で応答する。樹林帯には鳥たちとの交流の場であり、私の図鑑にない鳥の姿を見かけることも多い。

5合目に至ると、登山道の脇の笹藪からカサカサと音がする。ネマガリタケを採っている登山者かと思ったら、山菜採りの連中のようだ。私も山菜採りは好きではあるが、今のところ私は登山と山菜採りは区別して考えている。5合目を過ぎると雨が降りはじめたが、停滞している雨雲の中に突入したという表現が適切かも知れない。山側の沢には雪渓が残っていて、この場所だけは天然のクーラーのようでとても涼しい。

6合目から先はやや急な岩場の斜面が続き、ロープや鎖が垂れさがっていた。そこに中型バスの一団と見られる御一行様が下山して来る。道を譲ってくれるものの、20名近い男女混成の高齢者たちとすれ違うのは気持ちの良いものでない。

ダテカンバやナナカマドの灌木帯を抜けると高層湿原が広がり、明るい陽が差し込み苗場山の山頂も見える。歩き易い木道の横に標柱が立っていて、山頂まで1.2キロと記されていた。なんと広大な高層湿原なのだろうか。山頂まで湿原は続き、大小様々な地塘が点在する。その数は千ヶ所とも言われ、一昨年登った秋田県は田代岳の120余の比ではない。湿原の面積も田代岳の60倍に当たる600haと聞く。そのスケールの大きさに圧倒されながら木道を進むと、石祠や神々の名前を記した板碑が立ち、山への信仰を表している。

苗場山は山頂付近には、伊米神社と苗場神社の祠が祀られ、長野県側は栄村に、新潟県は湯沢町にそれぞれ里宮が建っている。湿原の地塘を水田になぞらえて崇拝したようで、田代岳では地塘の水の張り具合でその年の作占いをする神事が行われている。苗場山の由来も、初夏の地塘に生える植物が苗の田代に見えたからであろう。

山頂の手前にはヒュッテが建ち、苗場山自然体験交流センターの別名がある。これは国の補助金で建設されたため、それらしい施設名がないと国立の山小屋になってしまうからである。平坦な山頂には、遊仙閣という山小屋もあったが、こちらは休業中である。小屋の中からは、聞き慣れない御経を唱える人達の声がする。私は一等三角点の側にある鐘を鳴らすのをやめ、ヒュッテで休憩するため山頂を去った。

ヒュッテでの休憩は、有料となっていて300円を徴収されたが、中にはトイレも完備され、暖かいお茶が用意されていた。他に1組の登山者がいるだけで、私は缶ビールを買ってサラミソーセージを丸かじりしながら登頂の祝杯を上げた。ヒュッテでは山のバッヂ以外にも色々な物が売られていて、ついつい2,000円ほど買ってしまった。

木道の帰路は、湿原一面に咲く高山植物の景観に注意を払った。特にコイワカガミとチングルマの群落には目を見張り、しばらくは雲上の楽園に憩う。他にワタスゲ、イワイチョウ、コバイケソウなども咲き誇っていて、湿原ならではの魅力にあふれていた。約4時間半の短い登山ではあったが、高層湿原の素晴らしさは格別の味わいがあり、とても有意義な百名山登山となった。ありがとう苗場山であり、今度は新潟県側の和田小屋からも登ってみたいものである。

「梅雨の間や 苗場の山は 花博か」 陀寂

苗場山の山麓には、名の知られた山の出湯が点在し、立ち寄ろうとも思ってみたが、日帰り入浴で済ませるのは忍びない温泉ばかりだ。秋山郷の中津川沿いには、切明温泉雪あかり、屋敷温泉、逆巻温泉川津屋と、泊まってみたい温泉が目白押しである。秋山郷の周辺には、二百名山の佐武流山と鳥甲山もあり、百名山登山後の目標が見えて来るようだ。

結局、何処の温泉にも立ち寄らず、未だ通行したことのないルートで戻ろうと、津南から千曲川を遡り走行した。中部地方の地図を頻繁に開き、開田峠から光ヶ原高原の展望を楽しみ、上越高田インターから金沢への帰路を急いだ。

28男体山

【別名】黒髪山、日光山、二荒山【標高】2,486m。

【山系】日光連山【山体】成層活火山【主な岩質】安山岩・玄武岩。

【所属公園】日光国立公園【所在地】栃木県。

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】日光二荒山神社、輪王寺。

【登頂日】平成21年10月17日【登山口】志津峠駐車場【登山コース】志津峠コースピストン。

【登山時間】2時間17分【登山距離】6.2㎞【標高差】701m。

【起点地】秋田県鹿角市。

【主な名数】日光三山(男体山・女峰山・太郎山)、八十八座九十図、日本百名山、名峰百景、新日本百名山、百霊峰、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】中禅寺温泉、光徳温泉、湯元温泉。

山頂のモニュメント

天応2年(782年)、法相僧・勝道上人が開山。

「結構、日光、東照宮」のキャッチフレーズで有名な日光は、東照宮が建立される以前から古社・二荒山神社は創建されていた。その二荒山は男体山(2,485m)と太郎山(2,368m)の男神を指すらしいが、女神でもある女峰山(2,464m)を含めた「日光三山」を御神体とするとも社伝に書かれている。奈良時代の天応2年(782年)、勝道上人(735-817)が二荒山の登頂に成功し、中禅寺湖に中宮祠と神宮寺を創建したそうだ。その後に上人は、日光山内に二荒山神社本宮と輪王寺の前身である四本龍寺を建てたそうである。また、平安初期には、若き日の空海大師(774-835)も登頂したとされ、その際に二荒山を「にこうさん」と読み違え日光山ともなったとした説がある。

日光白根山は比較的楽な登山で、睡眠不足ながら体力は十分に残っていた。午後からは奥日光の観光地を見物し、明朝に男体山に登る予定だったが急遽の予定変更である。早朝から動き出す観光客に驚いていたので、午前中に奥日光を脱出しないと交通渋滞に巻き込まれて大変だ。そこで、戦場ヶ原など奥日光の観光を諦め、男体山に登ることにした。まだ午後1時を過ぎたばかりであったので、4時までには下山できるだろう。

懸念していた志津林道は、入口だけが悪路で、登山口のある志津乗越までは舗装された良い道であった。登山道へ入って間もなく避難小屋があり、二荒山神社の志津宮が建っていた。下山して来る登山客が殆どで、登って行くのは私ひとりのようである。男体山は中禅寺湖の二荒山神社中宮祠から登るのが正式の登山ルートであるが、『日本百名山地図帳』によると、中宮祠側の上りが4時間20分で、志津峠は2時間10分とあった。

1合目から一直線の急登が続き、5合目までは大変長く感じた。7合目からは展望が開け疲労も和らいだが、脆い岩盤の崩壊が進んでいてロープに縋り慎重に登った。視界の先には大きく土砂崩れした山肌が目に付き、台風や豪雨による爪痕が痛々しく残る。自然の摂理と言えば、致し方ないことではあるが、山肌だけは緑豊かであって欲しいと願う。

急ぎ足で登って来て、9合目の標柱の前に立ち、山頂と山小屋が見えて来てホットした。そして山頂に至ると、山頂には3人グループの中年男女がいるだけでひっそりとしていた。二荒山神社奥宮を拝んで、山頂の景色を眺めた。中禅寺湖は残照で銀色に輝き、午前中に登った日光白根山がはっきりと見える。

山頂をめぐると、山頂を記す標柱はなく、3mほどの鉄剣が地面から天空に突き立っているだけである。社務所に隣接した山小屋は廃屋同然となっていて、二荒山神社の入山料は何に使われているのか疑問に思った。3人グループは下山を始め、私はひとり山頂で古き時代の日光権現を慕って「般若心経」と神道の祝詞を唱え、神仏習合の礼賛をした。

男体山は黒髪山の別名があり、この山を松尾芭蕉(1644-1694)翁に同行して眺めたのが河合曽良(1649-1710)である。元長島藩士で神道を重んじていた曽良は、師匠の芭蕉翁の坊主姿に合わせ、髪を剃り宗旨変えをした自分の姿を句に詠んでいる。その後の曽良は、「おくのほそ道」の旅で、托鉢して旅費の工面をしていることから「般若心経」くらいは暗誦していたと考える。その曽良がいなかったら、芭蕉翁の旅が完結したかどうかは疑わしい。

「剃捨てて  黒髪山に  衣更」 河合曽良

この頃の日光は、新しく造営された東照宮の参拝も盛んであったと思うが、日光連山への信仰登山も盛んであったようである。下山しながら北面の日光連山を見渡したが、日光連山には「日光三山」の他、大真名子山(2,375m)、小真名古山(2,323m)、帝釈山 (2,455m)など連なる。いずれの山も標高においては大きな差がなく、男体山の登山だけでは不満が残る。日光三山の連登は無理としても、志津峠から大真名子山を経て女峰岳だけは縦走したいと思う新たな目標がわいてくる。

今回は登山口から最も近い光徳温泉のホテルを予約していたので急ぐ必要はなかったが、今日中に二荒山神社中宮祠の御朱印が欲しくて下山を急いだ。山頂から1時間で下山し、車に着いたのが午後4時近くで、30分後には二荒山神社中宮祠に到着した。登山口から続々と登山者が下山して来る。この中宮祠の登山口が一般的な登山コースで、500円の入山料を納めなくてはならない。何とか山のバッヂと御朱印を頂戴し、大満足な霊山登拝であった。

夕方の5時過ぎには光徳温泉のホテルに到着し、1泊2万1千円の和室へ案内された。最初に宿泊を予定していた日光湯元温泉の旅館には、1人旅のために悉く断られ、このホテルだけがOKしてくれたのである。宿泊費が2万円を超えたのは手痛いが、ホテルの温泉は日光湯元温泉から引いているそうなので、温泉は申し分なさそうである。

百名山を一日で2座登ったのは、一昨年の大峰山と大台ヶ原山、今春の西吾妻山と磐梯山に続いて3度目である。その勢いもあってか、あと1座と欲が出て来て明日は皇海山へ登ろうかと思った。登山ルートが不明で、ホテルで詳しい地図のコピーをもらった。しかし、目標とする登山口に至るのが登山の最も大事な第一歩であり、登山口を勘違いしていることを知るまでは、その直前に至るまで気が付かなかった。

翌朝、朝食を済ませて直ぐにホテルを出立した。中禅寺湖に至ると、華厳の滝の駐車場が空いていた。偶然といえば偶然、まだ午前8時前でだったので当然といえば当然。奥日光を訪れる大多数の観光客は華厳の滝が目当てのため、平日以外は満車状態が続くのである。奥日光には3度来ているが、華厳の滝は混雑していて1度も見たことがない。エレベーターを利用しての見物であったが、紅葉が進み感激して眺めた。さすが天下の名瀑であり、国の名勝にも指定されいる。那智の滝(和歌山県)や袋田の滝(茨城県)と共に「日本三名瀑」のひとつに選ばれているのも理解できる。

華厳の滝からいろは坂の越え、清滝から国道122号線を足尾鉱山跡地へと向かった。皇海山の前山である庚申山の登山口に到着したのは、午前8時半頃であった。路傍に車を停めて登山準備をしていると、宇都宮ナンバーの車が上って来た。その若者から皇海山の情報を聞くと、2・3時間で登れるルートは反対側の群馬県側だと言う。庚申山経由だとこの時間での日帰りは無理だと忠告してくれた。登山口を間違えたことに気付き、皇海山登山を断念し、足尾鉱山跡を見物しながら清滝へと戻った。事前の計画も予定もない思いつきの登山は、極めて危険であり、登山コースや目標地点のイメージがないと困難な登山となる。そんな自分への戒めを感じる唐突な皇海山への憧れであった。そして、福島の霊山に登る旅に変更し、奥日光へ押し寄せる車の多さに辟易としながら東北自動車道を北上した。

29白根山

【別名】日光白根山【標高】2,578m(奥白根山)、2,373m(前白根山)。

【山系】日光連山【山体】成層活火山・溶岩円頂丘(ドーム)【主な岩質】安山岩。

【所属公園】日光国立公園【所在地】栃木県/群馬県。

【三角点】二等【国指定】なし。

【関連寺社】前白根山神社、奥白根山神社。

【登頂日】平成21年10月11日【登山口】日光白根山ロープウェイ山頂駅【登山コース】上り樹林コース・下り六地蔵コース。

【登山時間】3時間28分【登山距離】8㎞【標高差】578m。

【起点地】秋田県横手市。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】丸沼温泉、座禅温泉、白根温泉。

山頂を遠望

江戸時代初期、山頂に荒山権現を祀る。

白根山の山名は日本に幾つもあるので、日光連山の奥地にある関東地方の最高峰・白根山(2,578m)は日光白根山と呼ばれている。富士山に次ぐ標高を誇る南アルプスの北岳は、白根山と呼ばれていたが、現在では北岳の名が定着したようである。日本百名山では他に草津白根山があり、混同を避けるために草津の地名が前置されている。

至仏山登山の折、日光白根山の前を中禅寺湖方面に向かったが、今回は逆に中禅寺湖から丸沼高原に入った。秋田県の横手を真夜中の午前2時30分に出発し、丸沼高原スキー場に到着したのは7時45分であった。スピード違反で捕まるギリギリの速度で、ちょうど500kmの道のりを5時間15分で走り切ったのである。睡眠不足で眠気がするが、登山支度をしていると気合が入り、眠気や運転の疲れは吹き飛んで行くようである。

丸沼高原スキー場のロープウェイは、実は循環式ゴンドラであった。スキー場のパンフレットには、日光白根山ロープウェイと明記されていたが、私も含めスキーヤーたちは、ゴンドラまたはテレキャビンと呼んでいる。ゴンドラは待ち時間がなく、人数が少ないと1人だけの空間を提供してくれるが、搭乗時間が長いのがロープウェイとの違いである。

日光白根山の裾野に広がる丸沼高原スキー場は、私がスキーに熱中した青春時代には無かったスキー場であり、このゲレンデも滑ってみたいと初体験のスキー場にも興味はわく。「日本百名山」の次は、「温泉とスキー場の旅100選」でも実践して書こうかと思っていたので、いずれこのゲレンデにシュプールを描く日もそう遠くない。「今できる事を今」が、私の残された人生の信条である。

土曜日は日曜日に比べ登山客が少なく、適度な人数が入っているようである。大日如来の石仏のある所までは、なだらかな遊歩道のハイキングコースで、それから先は登山道となる。山頂へ一直線に登るガレ場の急登は立ち入り禁止となっていて、迂回しながら登る樹林帯のコースを登った。登山道の回りにはダテカンバなどの落葉樹が多く見られたが、次第にコメツガやシラビソの針葉樹へと樹林帯も変わる。その高山分布による植生の変化を感じるのも楽しいもので、もっと植物の知識に詳しければ感慨も深まって行くだろう。

森林限界を過ぎると、登山道は火山灰につつまれていて荒々しい岩稜の山頂が見える。山頂は北峰、本峰、南峰と屹立し、だんご三兄弟のように仲が良さそうである。本峰まではあっという間で、山頂には2組の登山客がいるだけで、眼下には雲の間に間に丸沼や菅沼が見える。白根山神社とおぼしき木造の祠があり、礼拝して登山の無事を感謝した。山頂の溶岩ドームは迫力があり美しいが、帰路はその岩山の下山となるため細心の注意とテクニックが必要とされる。

それにしても山頂から見下ろす五色沼は、コバルトブルーの色彩が鮮やかで、山頂に登らなれば見つめられない景色である。山の魅力は何と言っても高きから望む景色であり、雲上を旅する仙人のような自分がここに居る。日本人なら誰しもが抱く、変化自在な仙人への憧れがあり、登山によってのみ味わえる至上の楽園への到着でもある。

日光白根山と言えば、シラネアオイの花が有名であるが、シラネアザミやシラネニンジンなど他にもシラネの名前の付く高山植物が多い。しかし、シラネアオイは殆ど見られなくなり、ハンゴウソウの大群落が有名になったと聞く。登山靴の底に土と一緒に着いた種子が運ばれて繁殖し、その山に存在していなかった植物が蔓延る例もある。昔の行者や登山者は、足も含めて身を清めから登ったので、種子が運ばれることはなかった。そんな昔を思うと、靴底は洗ってから山に入るべきであろう。

昔、フォークソングが流行った頃、岡林信康という人が、絶えず変わって行く人生哲学を訴えて、平々凡々と生きる人々に刺激を与えた。私もその刺激を受けた1人であり、哲学書や宗教書を乱読した。しかし、フォークの神様と呼ばれた岡林氏は、哲学書を農業書に変え、自給自足の生活に入った。あの印象が強烈であり、時代の風に飛ばされまいとする求道者の一面を見た。私の登山も、この求道者を強く意識する登拝であり、自然の息吹の前で謙虚になって行く自分を尊ぶ旅である。

下山は上りと異なる菅沼コースを選んだため不安であったが、視界がよくロープウェイの山頂駅も見えたので安心した。弥陀ヶ池に立ち寄り、火口の外輪山でもある座禅山に登った。陥没した火口には樹木が生い茂り、スリップでもしたら一直線に落ちてしまう。誰もいない林間コースを下り、六地蔵を参詣しながら山頂駅に無事に戻った。

この白根山には、弥陀ヶ池、座禅山、血ノ池地獄、賽ノ磧と仏教に因んだ名称が多く、七色平には大日如来、賽ノ磧には六地蔵と不動尊の石仏が建っている。かつて日光白根山は「白根権現」または「荒川権現」とも称される霊場であったようで、歴史的な雰囲気が残っているのも嬉しい。明治初年の廃仏棄釈の影響で、富士山頂の八葉は仏の名称が廃止されて、現在の名前に変更されたことを思うと幸いなことである。

スキー場の近くには、大尻沼、丸沼、菅沼の3つの沼が隣り合っている。ちょうど正午になろうとしていたので、丸沼温泉の食堂に立ち寄った。登山をはじめてから、昼飯はいつもコンビニの握り飯ばかり食べていたので、テーブルで食べた岩魚定食は格別の御馳走であった。丸沼温泉に入ってみたかったが、今晩は戦場ヶ原付近にある光徳温泉という所に宿をとっていたので断念した。

25年ほど前、勤めていた設備会社が倒産し、傷心旅行でこの地を初めて訪れたことがあった。その時はどんなに美しい山の景色を眺めても空しく見え、日光白根山のことは殆ど覚えていないが、金精峠の茶屋で休憩した記憶は残る。心血を注いで勤めていた会社の倒産はショックであり、無常観を深く意識するようになった。それ以来、会社員となることにジレンマを感じ、会社に就職したことがなく今日に至っている。そんな思い出が残る金精峠に立ち、日光白根山を再び眺めて一礼し、トンネルへと入って行く。

「岩山に 大満足の 奥白根 去年の秋は 知らネェ山よ」 陀寂 

日光連山では男体山しか知らなかったが、日本百名山を知って日光白根山のことも知るようになった。白根山と言えば草津温泉の白根火山が有名であるが、関東一の高山でもある日光白根山を知らなかったのは不思議なくらいである。ふるさと秋田の山以外は、興味が薄かったのが実状であるが、日本百名山の登山を契機に山への好奇心は深まるばかりである。最終的な目標は、三百名山以外にも霊山や歴史的な山は踏破したいものである。

30岩菅山

【別名】岩巣護山【標高】2,295m(岩菅山)、2,341m(裏岩菅山)。

【山系】志賀高原【山体】侵食成層火山【主な岩質】安山岩。

【所属公園】上信越高原国立公園【所在地】長野県。

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】岩菅大権現祠、高天原神社。

【登頂日】平成29年08月17日【登山口】東館山スキー場ゴンドラ山頂駅【登山コース】寺子屋山コースピストン。

【登山時間】4時間05分【登山距離】10.4㎞【標高差】301m、累積標高差700m。

【起点地】埼玉県本庄市。

【主な名数】日本二名山、花の百名山(志賀高原)、日本遺産百選(志賀高原)。

【周辺の温泉地】発哺温泉、志賀山温泉、幕岩温泉。

山頂遠望

江戸時代、岩菅大権現を山頂に祀る。

志賀高原は若い頃、スキー場のリフト監視員のアルバイトした思い出の地であり、スキーに熱中した頃が走馬灯のように脳裏を去来する。志賀高原は日本屈指のスキーのメッカであって、一度は志賀高原で滑ってみたいと思う憧れが強かった。志賀高原はスキー場のイメージが強く、登山の対称となる山は少ないが最高峰の裏岩菅山(2,341m)、日本三百名山の横手山(2,307m)、新日本百名山の志賀山(2,037m)などの名山がある。

今回の山旅は2泊3日の予定で、岩菅山、横手山、志賀山の三山に加え、日本三百名山の笠ヶ岳(2,076m)にも登ることにした。難易度の高い山は殆どなく、岩菅山が歩行時間の長い登山になりそうである。昨日は仕事で赴任している埼玉県本庄市を出発し、「続日本100名城」に今春選ばれた岩櫃城跡を訪ね登山した。そして、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている群馬県中之条町の六合赤岩の町並みを見物し、野反湖の入口にある尻焼温泉に投宿した。舌を噛みそうな長たらしい名称なので、私は「重伝建」と呼んでいるが、全国で110ヶ所の町並みが指定されていて、六合赤岩は81ヶ所目の訪問となった。

今朝は宿泊先から中之条草津道路(県道55号線)を走っている途中、チャツボミゴケ公園の案内板を見たので立ち寄った。見たこともない苔の大群生に驚き、その美しさに魅了された。あまり知られていない名所でも、感動を与えてくれる景観があるもので、全国各地を歩き回らないと発見できない出会いである。

草津温泉に入ると、道路は志賀草津道路(国道292号線)と合流し、草津白根山をぬうように上って行く。渋峠に到着すると、盆休みとあって多くの観光客が草津白根山や志賀高原の風景を楽しんでいた。先ずは渋峠の上に聳える横手山に登り、日本三百名山の1座をゲットすることにした。山頂までは、渋峠スキー場のペアリフトが夏山登山リフトとしてして運行していて、1時間も要しないで山頂の景色を満喫した。全国の観光リフトやロープェイに乗ってみたいと思っていたので、一石二鳥の登山となった。

横手山からは岩菅山までの縦走コースがあるようで、歩行距離は14㎞、標準コースタイムが5時間40分となっている。コースの途中には、鉢山(2,040m)、赤石山(2,109m)、金山沢ノ頭(2,130m)などのピークが連なる。岩菅山から一ノ瀬スキー場まで下山すると、6.7kmと2時間40分が加算される。日帰り縦走が可能なコースで、一ノ瀬スキー場から渋峠まではバスで戻るのも手で、最悪はタクシーで戻っても良いと横手山の彼方を眺めた。

渋峠からは広大な志賀高原を懐かしく眺めながら下り、発哺温泉に到着したがチャツボミゴケ公園に立ち寄ったため、予定時間を1時間もオーバーしての到着となってしまった。東館山スキー場のゴンドラリフトに乗って東館山頂駅に着いたのは、午後零時を過ぎた時間帯であった。昼食を食べていなかったので、山頂駅で食事をしようと思った所、立教大学の女子学生が運営している喫茶室には腹の足しになるのは、「キーマカレーガレィ」しかなかった。見たことも聞いたこともないピザのような料理であったが、それなりに美味しかったが空腹を満たすには至らなかった。

登山を開始したのが午後1時近くとなり、帰りのゴンドラリフトの終業時間に間に合うかどうかであった。東館山頂駅から寺子屋山スキー場のゲレンデを登った先に、岩菅山登山口と表示された案内板が立っていた。岩菅山の山頂までは3.7㎞も距離があり、2時半を目標に本格的な登山道を登り始めた。寺子屋山(2,125m)の山頂までは何組かの登山者とすれ違ったが、金山沢ノ頭を過ぎると登山者の姿はなかった。無謀な時間帯での登山となったが、一生懸命に登るしかないとアップダウンの続く尾根をひたすら登った。岩菅山の山頂が尾根からはっきりと見え、その距離間が縮って行く瞬間が一番大きな励みとなり、苦しいながらも楽しさを実感するのである。

岩菅山は「日本二百名山」であると共に、「花の百名山」としても有名で、登山道には様々な高山植物が咲き乱れていた。ゆっくり写真に収める時間を省略して先へと進み、山頂を目前とした岩場のピークに達して疲労感に鞭打った。そして1時間50分のタイムで何とか山頂に立った。山頂には岩菅山権現を祀る石祠が建ち、志賀高原で唯一の一等三角点が高山植物の中にあった。山頂には立派な避難小屋があったが、人の気配はなく淋しく眺めた。

下山のゴンドラに間に合うかどうか、山頂の様子を写真に撮って下山を開始した。午後4時間30分まで山頂駅に着くけるか心配であったが、アップダウンを通過している途中、ゴンドラに間に合わなかったら最悪は自力で下山することも考えた。寺子屋山を越え、ゲレンデの芝の上をスキーのウェーデルンをするように小走りした。下山開始から1時間45分、東館山頂駅に4時30分に到着し、滑りこみセーフの状態で登山は終わった。

「滑り込む ゴンドラセーフの 山歩き 岩菅山を 甘く見たかな」 陀寂

下山後は、志賀高原の入口でもある丸池に車を停めた。約44年前にアルバイトした丸池スキー場はあったが、その母体であった丸池観光ホテルの建物は消えていた。戦後の昭和27年(1952年)、長野電鉄がリフト付きスキー場として丸池スキー場がオープンし、間もなく大規模なホテル建てられた。これが丸池観光ホテルで、宿舎はスキー場にあったが、3度の食事はホテルでとっていた。ホテルは志賀高原で評判が高くは、当時アクションスターの千葉真一氏やカーレーサーの生沢徹氏の姿を見たものであった。創業から半世紀あまり、平成22年(2010年)に閉館して解体されたようである。

丸池から予約を入れていた志賀高原の麓にある地獄谷温泉に向かった。野生の猿が露天風呂に入浴する姿が評判となり、有名になって温泉地である。宿泊した後楽館は、創業が江戸時代末期とされる老舗の温泉旅館で、若山牧水夫人の太田喜志子(1888-1968)が愛した宿とも言う。宿には私以外、スペインから来たと言う50歳くらいの母親と中学生くらいの男の子の1組が泊まっているだけであった。この宿は、「日本秘湯を守る会」の会員旅館であるが、人気がイマイチのようで繁忙期にしては淋しい気がする。駐車場から10分ほど歩かねばならない不便さが、あるかも知れない。

昨年はメキシコに仕事で行っていたので、片言のスペイン語は話せると思っていたが、思うような単語が出て来ない。外国からの観光客が増え、せめて英語だけでも話せないと日本人としての立場がなくなってしまう。一期一会の出会いなのに、思い出に残る言葉も交わせないのは不幸な事であり、本当の自由人ではない。東京オリンピックも近くなり、英会話のマスターが山にも似た新たな人生の壁となりそうである。

31妙高山

【別名】越後富士、越の中山【標高】2,446m(北峰)、2,454m(南峰)。

【山系】頸城山塊【山体】成層火山・溶岩円頂丘(ドーム)・カルデラ【主な岩質】安山岩。

【所属公園】妙高戸隠連山国立公園【所在地】新潟県。

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】関山神社。

【登頂日】平成20年5月30日【登山口】妙高高原スカイケーブル山頂駅【登山コース】大谷ヒュッテコースピストン。

【登山時間】5時間50分【登山距離】12㎞【標高差】1,198m。

【起点地】石川県野々市町。

【主な名数】頸城三山(妙高山・火打山・焼山)、北信五岳(飯縄山・黒姫山・戸隠山・妙高山・斑尾山)、日本百名山、名峰百景、新日本百景、新日本百名山、百霊峰、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】燕温泉、関温泉、赤倉温泉、新赤倉温泉、池の平温泉。

妙高山と野尻湖

和銅元年(708年)、裸形上人が開山し、大同5年(810年)に空海大師が登頂。

妙高山(2,454m )は頸城山塊の主峰で、火打山と焼山と共に「頸城三山」と称されている。焼山は火山活動のため入山禁止となっているので、頸城三山を踏破するのは不可能のようだ。火打山も日本百名山であり、多くの百名山登山者は山小屋に1泊して火打山と縦走するようである。中には妙高山と火打山を日帰りで連登する強者の登山者もいるらしいが、初心者の私にはとても無理であり、改めて火打山を訪ねることになるだろう。

前日までは荒島岳と考えていたが、午前5時に起床すると体調もよく、天気は秋晴れであり、思い切って妙高山へ行くことにした。金沢を出で2時間ほどが過ぎ、北陸自動車から上信越自動車道へと入ると、妙高山の大きな山肌が鮮明に高速道路から見える。気分が高潮する中、妙高高原インターを降りて赤倉観光リゾートスキー場へ7時45分に到着する。ゴンドラは8時から運転開始されるが、既に10人程の登山者がその出発を待っていた。

ゴンドラを降り、ゲレンデの急登からブナ林の登山道へと入ると、ブナやダテカンバの落葉樹が色づいている。モミジやカエデほどの鮮やかさはないが、素朴な山の装いがある。登山道は前山を横切る長い林間コースで、落ち葉の絨毯に気を良くしたのも初めの時だけで、次第に疎ましく思うほど長いコースであった。

登りはじめて1時間が過ぎた頃、やっと林間を抜け、大谷ヒュッテの避難小屋があった。近くにはアスファルトの林道があり、南地獄谷まで続いているようだ。この大谷ヒュッテも登山口になっているようであるが、長い林道を車で入って来る登山者はないようだ。プレハブの作業小屋の前で小休止して、噴煙の上がる南地獄谷を眺めた。

南地獄谷は樹木のない白い谷で、妙高温泉の源湯があるらしい。関係者以外は立入禁止となっていたので、写真を撮って先へと進んだ。石の祠のある天狗堂で、燕温泉口からの登山道と合流し、登山者の顔も多くなった。草に囲まれた光善寺池に至ると、山頂まで1.4kmの案内板があり、もう少しだと思うと元気が出てくる。山によっては案内板の少ない山もあって、どこまで登っているのか見当がつかない場合がある。標識や案内板を設置してくれる関係者には、本当に感謝してやまない。

急登を過ぎて、尾根伝いに登ると岩場のあちらこちらに風穴があり、まだ名前の知らない高山植物が咲いていた。休息中に抜かれてしまった若者たちに追いつき、安心していたら鎖場に到着して一瞬びっくりした。山頂も近く、愛用の杖や不要な荷物を木の陰に置いて鎖場の岩を攀じ登った。思ったよりも楽で、拍子抜けしたが、その先の岩場では団体さんがもたついていた。先に登らせてもらい、ホイホイと音頭を取りながら登った。おばさんから「羨ましい」という声を聞いて、貴方たちと年代は変わらないよとニンマリした。

岩場を登り切ると、南峰の山頂であった。妙高大神を祀る石の祠が、山頂の天辺に立っていた。平坦な場所がなく、休憩するのは不向きであり、殆どの登山者は北峰で休憩しているようである。祠に向かって拍手をうち登頂を感謝して、北峰へと向かった。北峰には20人ほどの登山客がいて、標識のある撮影ポイントに立つのも時間待ちである。目の前には火打山と活火山の焼山が見え、高妻山や黒姫山もだいぶ近くに見える。雲海の上には、北アルプスの山々が浮かび素晴らしい眺めである。向かい側には斑尾山が横たわり、その奥に苗場山がかすんでいる。値千金の景色を眺めるため、登山者は執念を燃やすのである。

あまり時間が無かったので、団体さんが近づいて来た頃に下山を開始した。大谷ヒュッテから1時間20分で山頂に登った道のりを1時間で下山したが、大谷ヒュッテから林間コースは手間取ってしまった。落ち葉の下は粘土質でツルツルと滑り、小石や乾いた地面を狙って足をつくのに慎重になって登りよりも疲れる。革製の硬い登山靴に足の肉刺が破れたようで、傷みが神経を刺激する。急ぐにも急げず、スローペースでスキー場の草地にたどり着いた。革靴から地下足袋に変えることも真剣に考え、自分の足に合った物にしたい。

スキー場の斜面はかなり急で、道がないので真っ直ぐに下りたが、足への負担は想像以上である。そこでスキーで滑るウェルデンのようにジグザグに歩くと、足への負担が少ないこと知って少々楽になった。結局、ゴンドラの山頂駅まで、登りと同じ1時間を要してしまった。標準タイムの登りが3時間50分で、下りが2時間30分であるが、登りは標準タイムを大幅に短縮していたが、下山は30分しか短縮していないことを考えても下山に手こずった登山であったことは明白である。

再びゴンドラに乗って下山して、スキー場の売店で妙高山のバッチを探したが扱ってないと言う。車でゲレンデの中腹まで上り、赤い屋根のホテルの売店を覗いたが、ここにもなかった。諦めて赤倉温泉を経由して帰ることにした。赤倉温泉は結構な温泉街で、大きな土産物屋もあったので立ち寄ってみると、妙高山のバッチが柱の角にぶら下がっていた。大喜びでバッチを買うと、「火打山もあるよ」と店の女将に言われたが、まだ登っていないので、来週でも登れたらまた買いに来るよと答えて店を出た。

今までに登った百名山のバッヂは、すべて手に入れていたので、1個として欠かす訳には

行かない。最悪は自分でオリジナルを作ってでも揃えたいと思うほどである。山のバッヂを袋に入れたまま固めの紙に、登った順にホチキスでとめて保管している。そして、まじまじと眺めながら登山した様子を思い出して一杯やるのが至福の楽しみでもある。山は恋人でもあり、恋人の面影を追憶するには、形見のバッヂが必要なのである。

若い頃も登山をした山のバッヂやペナント、絵葉書を買い求めたものであった。登山帽に山のバッチを取り付けて、1つ2つと増えるのが楽しみであったが、10個ほど付けると帽子が重くなり、帽子も見苦しく見えた。ペナントは部屋の壁に貼り付けて飾ったが、部屋の壁が少なかっため、貼り切れなくなり購入することを止めてしまった。いつしか登山から遠ざかり、山のバッヂへの関心がなくなったが、日本百名山への登山を契機に再び山のバッヂに執着するようになったのである。

赤倉温泉の風呂に入ろうと思ったが、金沢で仕事関係者との親睦会を兼ねたボーリング大会があり、午後5時までに戻らなければならない。温泉街の様子をひと通り眺め、国道18号線から中郷インターへ入り、妙高山に別れを告げた。妙高山は平安時代、「越の中山」と呼ばれていたようである。西行法師(1118-1190)の『山家集』に「霞中帰雁といふことを」と題して2首が詠まれていて、帰雁の心境が湧くようである。

「かりがねは 帰る道にや まどふらむ 越の中山 かすみへだてて」 西行法師

32雨飾山

【別名】あらすげ山、天飾山、猫ノ耳【標高】1,963m(北峰)。

【山系】頸城山塊【山体】隆起山岳【主な岩質】安山岩・閃緑岩。

【所属公園】妙高戸隠連山国立公園【所在地】新潟県/長野県。

【三角点】二等【国指定】なし。

【関連寺社】山神祠。

【登頂日】平成22年9月25日【登山口】雨飾温泉【登山コース】薬師尾根コースピストン。

【登山時間】4時間10分【登山距離】4.4㎞【標高差】1,063m。

【起点地】三重県四日市市。

【主な名数】日本百名山、新日本百名山、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】雨飾温泉、小谷温泉。

雨飾温泉から望む山頂

文政元年(1818年)、雨飾温泉(梶尾新湯)が開湯。

  雨飾山(1,963m)には金沢にいた頃に登山を計画したが、温泉旅館の予約がとれず断念した経緯がある。今回は白馬岳がメインで、雨飾山はその前哨戦的な登山である。それにしても秋田県の横手から丁度6時間を要し、530km近く走ってからの登山となった。雨飾温泉の駐車場には7・8台の車が駐車していて、土曜日にしては少ない登山客である。雨飾山

は海谷山塊の最高峰であるが、北信五岳や高妻山の陰に隠れて知名度が低く、日本百名山に選ばれていなかったら無名の山に近かったであったろう。

当初は58座目の百名山登山に高妻山を候補に挙げていたが、雨飾山は高妻山よりコースが短く、4・5時間でピストンできる山なので、午前11時過ぎても何とか登れると予想した。しかし、どんな山も侮ってはいけないのが山旅人の鉄則であり、初めての山でもあり慎重に登りはじめた。登山道に散らばる角張った石には苔が生え、木の根も多く滑りやすい。登山事故の大半は、スリップによる滑落や転倒で、転んだら怪我をすると思って登り下りしている。これまで数回転倒したが、すべて下山途中のスリップによるもので、ストックを巧みに使うことが肝心のようだ。

雨飾山という山名は珍しい名であり、地元の人々からは嵐を鎮める風ノ神として崇められと言う。一説によると、山頂に祭壇を飾って雨乞いの祈祷をしたことから「天飾山」とも呼ばれたそうだ。雨乞いと嵐の退散を願う行為は、相反する人間の祈祷とも思えるが、この身勝手な要望を受けいれるのが風ノ神の懐の広さであろうか。

登山口には梶山薬師の御堂が建っていたが、昔は湯治客の信仰を集めていたのだろう。薬師尾根にも小さな石仏が祀られ、霊山として崇められていた様子がわかる。雨飾温泉は以前、梶山温泉と呼ばれていたそうだが、信州側にある小谷温泉は湯治場の雰囲気を残す秘湯として有名であるため、雨飾温泉の方は存在感が薄く思える。

難所のぞきと言う地点からは、薬師尾根の樹林帯が続き、アルミ製の長い梯子もあって気が抜けない。一ぷく処の看板を見ると、山頂まで1時間30分と記されていた。登山口から合目に例えると、ちょうど6合目に到着したことになる。更に樹林帯を進むと、笹平と称される場所で森林限界となっていた。海谷山塊や戸隠連峰が望まれ、登山の醍醐味は森林限界を越えてからの眺望にある。ゆっくりと登って4時間のコースタイムと案内板に書いてあったが、2時間30分で山頂に立つことができた。私の直後にスタートした青年は、1時間40分で山頂に着いたそうで恐縮するばかりである。長距離運転の疲れが登山に影響していたのだろうか、あくまでも体調に合わせたマイペースで登るのが大切である。

山頂は北峰と南峰から成る小規模な双耳峰で、北峰には長野県の小谷村が立てた標柱が三角点と並んでいた。他に石碑と祠があったが、風ノ神を祀ったものであろうか。南峰に行くと、大日如来、阿弥陀三尊、不動明王、薬師如来の4体の石仏が風化されながらも安置されていた。それにしても山頂が2県に跨っていると、厄介なもので標識や祠もそれぞれに分かれている。その山頂を浮雲のような私は、風のように過ぎて行くのである。

「山頂は 越後信濃と 分かれても 気ままな秋の 風雲ひとつ」 陀寂

山頂付近には、10数名の団体登山客がいたが、雨飾温泉口に小型バスが無かったことを考えると、長野県側の雨飾高原口から小谷温泉道を登って来たようである。こちらのコースの方が定番であり、距離や時間も短いようだ。いつも最短コースを狙っているが、新潟県から長野県に入って大きく迂回するのも考えもので、小谷温泉山田旅館の予約が可能であったならば登山口を変えていたかも知れない。

山頂はガスが掛かっていて、近隣の山々だけしか望めなかったが、駒ヶ岳(1,487m)や鋸岳(1,631m)のダイナミックな山容には驚きと畏敬の念をもって眺めた。鋸岳は切り立った尾根を持つ山で、とても一般登山の対象となるような山ではなさそうである。『日本百名山地図帳』にも登山道を表す緑色の点線はない。

下山して梶山薬師に登山の無事を告げて感謝し、雨飾山荘の温泉に入った。ここは1軒宿の温泉で、昔は山小屋だったと言う。誰もいない内湯と露天風呂は貸切り状態で、いつか泊まりたい「日本の秘湯を守る会」の温泉旅館でもある。その風呂に入っただけでも意義があるのに、バッヂまでゲットして達成感で胸がいっぱいの登山となった。

今夜の雨飾山荘は、若干の空室があると主人から聞いたが、明日は白馬岳登山を予定していたので、白馬村に宿の予約をとっていた。こんな時は予約によって行動が制約されるので、飛び込みで宿を探した方が良いのかも知れない。しかし、私の仏頂面を見て宿泊を断る宿も多く、当日の午後であっても予め電話で空室の有無を確認するようにしている。

車で国道に戻る途中で、展望所らしき駐車場があり、そこの山の地図には「雨飾山は猫ノ耳と呼ばれる双耳峰の山頂が山の奥に見える。」と記され、「雨飾山・鋸岳・鬼ヶ面山・駒ヶ岳へと続く登山道があり、初夏の新緑と秋の紅葉の季節は特に美しい。」とあった。「猫ノ耳」という別称は、数冊持っているガイドブックには出て来ない山名であり、海谷山塊を貫く登山道のあることもはじめて知った。ガイドブックは参考書と考えた方がよく、現地の情報が的確な場合が多い。

根知から国道148号に長野県に向かうが、この道路は千国街道と呼ばれた塩の道と重複する。小谷村にはその宿場や関所跡が残っていて、その面影をたどって旅したものであった。今日泊まる宿は、猿倉登山口に近い場所と思い、白馬村の旅館に予約した。旅館の直ぐ近くは、八方尾根スキー場となっていてシーズン中はかなりの賑わいとなるようであるが、今の季節は閑散としていて、泊まり客は私ひとりのようである。

前泊や後泊で宿をとる必要性があれば、オフシーズンのスキー場の宿泊施設を利用するのも手であるが、温泉がないと気がすすまないのが本音である。そこで有名な蓮華温泉に泊まろうとも思ったが、温泉口からだと白馬岳への登山コースが長くなり、名古屋への帰路を考えると交通の便の良い場所となってしまう。

登山と温泉の両得は難しく、雨飾山のように登山口の双方に温泉があるのは珍しい。小谷温泉の山田旅館も雨飾山荘と同じ「日本の秘湯を守る会」の会員旅館でもあり、山に登らなくて温泉に泊まるだけでも価値があり、ゆっくりと来たいものである。次回の雨飾山登山は、いずれの温泉にも泊まってスタンプをゲットしたい。

「雨飾 骨酒きのこ 湯のけむり」 陀寂

33戸隠山

【別名】表山【標高】1,900m (八方睨)、1,904m(戸隠山)、2,053m(西岳)。

【山系】戸隠連峰【山体】隆起侵食山岳【主な岩質】堆積岩(凝灰角礫岩)。

【所属公園】妙高戸隠連山国立公園【所在地】長野県。

【三角点】三等(九頭竜山)【国指定】なし。

【関連寺社】戸隠神社。

【登頂日】平成25年4月27日【登山口】奥社入口駐車場【登山コース】一不動コースピストン。

【登山時間】2時間38分【登山距離】3.2㎞【標高差】550m。

【起点地】福井県坂井市。

【主な名数】北信五岳(飯縄山・黒姫山・戸隠山・妙高山・斑尾山)、日本二百名山、名峰百景、花の百名山、百霊峰、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】なし。

戸隠山と鏡池

奈良時代に役小角が登頂し、嘉祥2年(849年)に学問行者が開山。

現在住んでいる福井県の三国から戸隠までは、300キロもの距離があり、日帰り登山を躊躇していた。「日本百名山」に挑んでいた時は、1,000kmも日帰りしたことがあったが、あれはもう過去の実績であり、あの元気と情熱は今の私にない。そんな時、急遽秋田に帰省する用事ができ、盆休みに帰ることにした。それなら途中で戸隠山(1,900m)に登ろうと決意し、普段のように起床して、午前7時半頃に三国を出発した。

23万kmも走行した車の調子が悪く、毎時100km以上はスピードが出せず、走行車線ばかりを走って、午前11時過ぎに戸隠に到着した。登山口のある戸隠神社奥社の駐車場は満車となっていたので、少し離れた森林植物園の駐車場に車を停めた。その駐車場からは折畳み式のマウンテンバイクで奥社へ向かった。

奥社までは杉並木の参道が2kmほど続いていたが、下馬の立札を無視して、そのまま自転車で入った。本来は自転車の乗り入れも御法度であると思ったが、遅れた時間を取り戻すにはこれしか手はない。奥社横の登山口には、山岳関係者が陣取っていて入山届を出すようと声を掛けられた。素直に記帳して山頂までの時間を聞くと、往復4時間を要すると言う。午後2時まで山頂に到着できれば思い、すぐさま登山を開始した。

よく整備された登山道であったが、急な登りもあってリュックに差し込んだストックを使おうとしたが、ストッパーが効かず持って来たのが無駄となってしまった。登り始めの30分がペースを取り戻す目安であるが、暑さのために拭って拭っても額に汗が流れる。ペットボトルの水を飲む回数も増え、吹く風を感じては立ち止まって涼んだ。

最初の鎖場を登ると、五十間長屋と表示された地点に到着した。風化によって山肌が長屋建築のようにえぐられたもので、その先には垂直にそそり立った山頂が見える。何人か下山して来る登山者とすれ違ったが、鎖場の数が多いのは驚いた。鎖はステンレス製と鉄製のものが取付けてあったたが、ステンレスは滑り易く、鉄はさびの匂いが手に残る。

「縦横の 鎖に縋る 岩登り 戸隠山の 険しさ怖さ」 陀寂

険しい鎖場を乗り切って尾根に出ると、噂に聞いていた蟻の塔渡が待ち受けていた。ナイフの刃のような狭い尾根に尻込みしそうになったが、右側に鎖の張られた巻道があったので、「君子危うきに近寄らず」ではないけれど、安全を期して巻道を通過した。しかし、その先には鎖も何もない剱の刃渡が続き、四つん這いになって何とか越えた。そして再び鎖場を登ると、平坦な山頂に出た。古ぼけた方位盤には八方睨と記されていて、目の前には高妻山の雄姿が見える。他の山々は夏雲に覆われていて、夏山の眺めは早朝の方が良い。

最近は星座や御来光を見るために登山に興味を示す若者が多いと聞くが、そのためには山小屋が必要となる。この戸隠山にも管理人が常駐する山小屋が1つぐらいあってもよさそうなものであり、山の魅力も深まって来るであろう。北アルプスや南アルプスに登った時は、山小屋で飲むビールが何よりも体に効く栄養ドリンクであった。そんな中で、白馬山荘や槍ヶ岳山荘で飲んだ生ビールの味は死ぬまで忘れることがないだろう。

八方睨から表山の最高峰である西岳(2,053m)までは、180分と表示されていたが、もうペットボトルの水も2本目に口をつけていたので、とても往復するのは無理である。時間も目標として午後2時としていたので、ここまで登って来たことに満足してしまった。一般的な戸隠山の山頂は、九頭龍山に向かう途中にあるようだが、この八方睨よりも4mほど高いだけなので引き返すことにした。

下山は完全な装備で臨もうと、滑り止めの手袋をし、カメラはリュックにしまい、下山を開始した。剱の刃渡を無事に通過し、鎖場も難なく下り終えた頃、1人登ってくる若者と遭遇した。私が今日最期の登山者と思っていたが、上に上がいるものである。写真に収めた高山植物を再び眺め、1時間も要しないで奥社へ下山した。

戸隠神社奥社はパワースポットとして人気があるようで、往復4kmもの参道を老若男女が列を成して歩いていた。その間を縫うように自転車で下りて行くのであるから、羨ましがられたり、迷惑そうに見られたりと白い目線を背中に浴びた。盆休みの人出が多い場合は、身勝手なことは慎むべきで、その場の雰囲気を察しなければと反省する点もある。

参道にはかつて、「戸隠13谷3千坊」と言われた顕光寺の講堂や院坊が林立していた場所で、比叡山や高野山と比肩するほどの繁栄を誇っていた。明治の神仏分離によって寺院は破却され、杉並木だけが残る草むらとなってしまった。それによって、霊山と一体であった修験道は廃れるが、戸隠神社の社紋でもある鎌卍に神仏習合時代の名残が感じられる。

北信五岳の麓には、俳人・小林一茶(1763-1827)が生まれ、放浪の後に晩年を過ごした信濃町柏原がある。戸隠神社には参拝したようで句も残っているが、戸隠山も含めた北信五岳に登拝したか否かは不明である。一茶記念館には旧宅の土蔵が残っていて、黒姫山も含む北信五岳が美しく見えたことが印象に残る。この山々の風土に育まれた一茶は個性的な俳人で、生々しい人間模様の詠んだ句に感じられる。

「初梨の 天から降った 社壇哉」 小林一茶

それにしても険しい岩場に辟易としたが、新潟の八海山、群馬の妙義山に比肩するほどの山であった。この三山はいずれも修験道の霊山であった歴史があり、廃仏毀釈によって神社に改められたという共通点がある。私はこの三山を「日本三険峰」と名付けて、世の中に広めたいと思う。しかし、いずれの山も山頂への登山は難易度が高く、墜落の危険が伴うので、一般登山を楽しむ人々には無理をしない方が良いだろう。

戸隠登山の一般的なコースは、奥社から八方睨を経て九頭龍山に登り、不動へ下りて戸隠キャンプ場に到着する縦走コースが良いようだ。キャンプ場から奥社入口の駐車場まではバスもあるようなので、日帰りでも十分に満喫できるコースと言える。信濃インターに戻る途中、山のバッジを探すことを忘れたが、高妻山のバッヂは戸隠キャンプ場の店で入手したことを思い出して再びその店を訪ねた。すると、戸隠山のオリジナルバッヂまで置いてあったので、それを買い求めた。百名山のバッヂはすべてゲットしたが、二百名山や三百名山になると作られていない場合が多く、バッヂへの執着心も薄れた。しかし、それ以外の名山のバッヂはあるもので、先頃「雪彦山」に登った折は、下山途中にバッヂを販売している登山者がいたのは驚いた。バッヂは私にとっては有形物の勲章であり、写真やパンフレットに次ぐ宝物でもある。

34赤城山

【別名】赤城の山【標高】1,828m(黒檜山)。

【山系】赤城山群【山体】複成火山・カルデラ【主な岩質】安山岩。

【所属公園】県立赤城公園【所在地】群馬県。

【三角点】一等(地蔵岳)【国指定】なし。

【関連寺社】赤城神社。

【登頂日】平成22年8月11日【登山口】黒檜山登山口【登山コース】黒檜山コースピストン。

【登山時間】1時間35分【登山距離】2.2㎞

【起点地】三重県四日市市。

【主な名数】上毛三山(赤城山・榛名山・妙義山)、八十八座九十図、日本百名山、名峰百景、日本百景、日本の自然100選、水源の森100選、花の百名山、百霊峰、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】赤城温泉、滝沢温泉、忠治温泉。

地蔵岳と大沼

奈良時代、大沼に赤城大明神を祀る。

赤城山は那須火山帯に属する複成(二重式)火山で、大沼と小沼が噴火口跡のカルデラ湖となっている。赤城山と言うピークはなく、9ヶ所ほどの外輪山から成り、その山塊を総称して赤城山と呼んでいる。最高峰は黒檜山(1,828m)で、地蔵岳(1,674m)、長七郎山(1,579m)が主峰と言える。伝説によると、赤城山の山神がムカデに化身し、大蛇に化けた男体山の山神と敵地の戦場ヶ原で戦ったそうだ。赤城山の山神は対決に負け、傷ついて帰って来て赤城の山を血で赤く染めたことが山名の由来と言う。

草津白根山から赤城山へと向かうおうとするが、どのルートが近いのか見当がつかない。どうも黒檜山に登るならば、沼田から北面道路を入った方が近そうである。中之条から沼田まで、制限速度でトロトロと走るトラックがいて渋滞が続いていた。法律を順守するのも大切だが、道路事情にもよる。「走れトロイカー」を歌うと、滅多に笑わないコーセイ君が笑った。彼を笑わせるため、私がどれほどの駄洒落を言って来たか忘れているだろう。

黒檜山登山口の駐車場は、乗用車が1台停まっているだけで楽々と駐車ができたが、もう時刻は午後3時近くになっていた。今夜は伊香保温泉に泊まる予定でいたので、遅くても午後6時前には旅館に入りたい。そうすると登山時間も限られ、山頂までの1.1kmを1時間半でピストンしなければならず、下山の苦手な広世君を車に残して行かざるを得なかった。断腸の思いであったが、コーセイ君にはまだまだ先があるけれど、還暦が近くなった私には先がないのだから仕方ない。

『日本百名山地図帳』によると、駐車場からの標準タイムが2時間30分であったが、それを1時間も短縮して登ろうとしているのだから、必死の思いで黒檜山の登山道を登った。急登の樹林とガレ場を過ぎると、大沼が展望できる猫岩に到着し、地蔵岳と長七郎山を見下ろした。ここで、下山する年輩の登山者とすれ違うが、まだ中間点と聞いてガックリとする。それから心臓が破れるほど、太腿がギブアップするほど激歩して、登山開始から55分で何とか山頂に立つことができた。

山頂は樹木に覆われていて見晴らしはやや悪く、写真に撮るような展望はない。三角点の標はあるものの、祠や石仏もなく、大沼の湖畔に鎮座する赤城神社が山頂の奥宮を兼ねているのだろうか。黒檜山は大沼から眺める山容が最も美しいとされるが、見所が少なく登山に適した山とは言い難いのが実感であった。今回の登山で、遠くから眺めた赤城山とは趣が異なることに驚いたが、ただこの山の裾野の広さや連なる峰々は多さには脱帽するばかりだ。地蔵岳や駒ヶ岳もまたの機会に登ってみたい気もする。

赤城山と聞くと、江戸末期の侠客・国定忠治(1810-1850)の「赤城の山も今宵限りだ」という名台詞で有名な山ではあるが、大久保清(1935-1976)という性犯罪者の拠点でもあったことが記憶の隅から離れない。ベレー帽を被って画家を自称し、スポーツカーに乗って若い女性をナンパしては次から次へと強姦しては殺害した事件である。あの事件以来、私はベレー帽を被らなくなり、大久保清という人間を人と思えなくなった。

山頂から駆け足で下山すると、車の中でコーセイ君が待っていたが、その淋しそうな顔を見ると私も淋しい。もし、コーセイ君に事故や怪我が起きれば、私の責任であり、子供の頃に何度となく怪我をさせた嫌な思い出もある。連れて行くか行かないかは、私の目が彼の足もとに及ぶか及ばないかであり、私自身に余裕がない時は無理である。

大沼の土産物屋で山のバッヂを手に入れ、登山の証としたが、赤城神社にゆっくりと参詣できなかったことに未練は残る。神社はまたの機会に訪問できるが、山は今でなくては登れない。それにしても、2日間連続で「日本百名山」を4座登るのは無謀な計画であったのか知れないが、とにかく山頂に立つことが私の「日本百名山」への志である。

大沼から赤城道路を下って渋川へと向かうが、赤城山の裾野は実に広い。群馬県の象徴的な山であり、妙義山、榛名山と共に「上毛三山」に選ばれていることが頷ける。明日は榛名山にロープウェイで登る予定でいるので、三山めぐりの登山にも魅力を感じている。この三山と称される山々は、日本全国に100ヶ所以上もあって、「出羽三山」と「大和三山」が広く知られる所だ。日本人は古くから三と言う名数が好きらしく、「日本三景」や「日本三名園」などは旅行者なら誰でも知っているだろう。私も登山に目覚めなかったら、「上毛三山」などは知る由もなかったのである。

赤城山は大沼を含めた総合的な魅力もあるだろうが、山の知名度から「日本百名山」で選ばれたのだと思えてならない。郷土贔屓になるが、私のふるさとにある田沢湖と秋田駒ヶ岳を合わせれば、この赤城山には劣らなぬ景観である。深田久弥氏が秋田駒ヶ岳を入選させるかどうか、悩んだ話を聞いたことがあるが、秋田県は東北では唯一、単独の「日本百名山」がない県であり、選ばれなかったのが残念でならない。

登山は私自身の欲求や執着心で登っていることは事実であるが、山の神が微笑んでいる時は登り甲斐もあり、山の神の機嫌の悪い時は登って怪我をすることもある。登山を開始した時点で、その山の神の存在を意識せずにはいられない。私は山の神のすみかに無断侵略した人間であり、その山神や精霊に歓迎されなくてはならない。山の神に聞かせるために歌謡曲を歌ったり、「六根清浄、お山は天気」と連呼したり、「エサホイササ」と気合を入れたりと忙しい。最近は急登で喘ぎ出すと、「ヨッコラショ、ヨッコラショ」の言葉を無意識に繰り返している。この赤城山でもこの言葉を何度も吐き、激登したのである。

赤城山を詠んだ和歌を探したところ、江戸時代後期の尊王思想家であった高山彦九郎(1747-1793)が詠んだ1首があった。彦九郎は現在の群馬県太田市に郷士の子に生まれ、諸国を遊歴して尊王思想を広めたが、幕府に追われて九州の久留米で自刃している。

「赤城山 真白に積もる 雪なれば 我が故郷ぞ 寒からめやも」 高山彦九郎

下山後の楽しみは、昨夜の草津温泉に続いて、泊まってみたい温泉場が伊香保温泉であった。古くは歓楽街の温泉地として栄えたようであるが、現在は団体客の利用がめっきりと減って衰退したと聞く。私たちの泊まった宿も他に宿泊客もなく、閑散としていたのが哀れであり、草津温泉の賑わいとは比較できない有り様であった。それでも榛名山の中腹に位置した温泉街は、長い石段の両側に旅館や土産物屋の建ち並び、その景観は伊香保温泉らしい魅力に溢れている。夕食後、散歩を兼ねて石段を上り、伊香保神社に参拝したが、神社や寺院の存在は、その地域の繁栄と重なり、伊香保温泉の現在を見るようであった。

35浅間山

【別名】釜山【標高】2,568m(浅間山)。

【山系】浅間連峰【山体】成層活火山・カルデラ【主な岩質】安山岩。

【所属公園】上信越国立公園【所在地】群馬県/長野県。

【三角点】なし【国指定】特別天然記念物(火砕流溶岩)。

【関連寺社】浅間神社。

【登頂日】平成22年8月10日【登山口】車坂峠駐車場【登山コース】黒斑山コースピストン。

【登山時間】2時間15分【登山距離】4㎞【標高差】431m。

【起点地】三重県四日市市。

【主な名数】八十八座九十図、日本百名山、名峰百景、新日本百景、日本の地質百選、花の百名山、百霊峰、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】天狗温泉、高峰温泉、菱野温泉。

賽の河原より望む前掛山

奈良時代、浅間大明神を山頂に祀る。

浅間山は若い頃から何度か眺めているが、3年前の秋に自転車で中山道を走った際に小諸から眺めた浅間山が一番印象に残っている。なだらかなで端正な山肌は女性的であるが、その迫力と褐色の化粧は活火山そのものであり、山頂から吐き出される噴煙は悲しい歴史の余韻を残しているようだった。富士山以外に威風堂々とした存在感のある山は、浅間山ほかは見当たらない。浅間山は有史以来、70回ほどの噴火を繰り返し、活火山の権化のような山である。噴煙のない浅間山が珍しく、噴煙イコール浅間山のイメージが定着した。

「吹きとばす 石はあさまの 野分哉」 松尾芭蕉

中山道の自転車旅行は、松尾芭蕉(1644-1694)翁の足跡を辿ってのものであったが、その芭蕉翁が貞享5年(1688年)、『更科紀行』で詠んだ有名な句であるが、その句の前の真蹟草稿に、「秋風や 石吹颪す あさま山」という句があり、いずれも浅間山の噴石を意味する。芭蕉翁の行脚から95年後の天明3年(1783年)、浅間山は大噴火を起こし、その火砕流によって多大な被害を被っている。それからも度々噴火していて、最近では平成21年(2009年)にも噴火している。平成16年(2004年)の噴火後から浅間山の本峰は、登山規制区域となっている。登山が可能な山は黒斑山(2,404m)と前掛山(2,524m)であるが、今回は高峰高原の車坂峠から黒斑山をピストンすることにした。

小諸インターから高峰高原へ向かうチェリーパークラインに入ると、交通量の少ない観光道路で、車坂峠の駐車場は数台の車が停まっているだけで寂しい登山口でもあった。おそらく、浅間山荘登山口から前掛山を目指す登山者が多いのであろうし、規制を無視して本峰に登る登山者もいると聞く。

今回の盆休みも昨年と同様、我が子同然の甥のコーセイ君を同伴しての登山である。日帰りで黒斑山・四阿山・草津白根山の登頂を目標にしているが、登山口に到着した時間が午前7時40分頃であったため、三山を連登するのは天気次第である。黒斑山登山口には表コースと中コースとがあったが、登りは表コースで、下りは中コースを行くことにした。

浅間山の山頂はガスに包まれていて、黒斑山の山容も見えないが、クマザサが茂り、美しい檜林に包まれた登山道は品格が漂い、存在感の高さが身にしみる。視界がはっきりしていれば、浅間山全体の景観も見え、さぞや美しい眺めであろうと想像するが、山は何度となく登らないと、最も美しい景色は堪能できない。

コーセイ君はしっかりとした足取りで、岩石の間をぬって後ろから登って来る。立派な後継者が出来たものだと思うが、成長して行くスピードが私の青春時代よりも遅いの気がかりである。昨年の谷川岳が本格的な登山デビューであったが、登山に興味はあるようであるが熱意が感じられない。私の方が少しでも彼と思い出を共存したいと願っているようで、親離れならぬ伯父離れをしていないようだ。

登山道に沿って敷設されたケーブルがあり、何の用途なのか不思議に思ったが、火山活動を監視する装置が登山道にあったので納得した。下山する2人組の高齢登山者から「もう直ぐ先が山頂だヨ」と励まされて安心した。

「浅間山 煙りと霧に 巻かれては またの登山を 願う地下足袋」 陀寂

山頂に到着すると、私たちと同年代の親子連れが、カップ麺を食べていた。駐車場でスタートが一緒のグループであったが、中コースを登って来たらしく、私たちよりも5分ほど到着が早かったようである。そのお父さんは食事の手を休めて、私のカメラを手にしてコーセイ君とのツーショットを写してくれた。登山慣れしたお父さんのようで、他の登山者に気遣う気持ちには脱帽してしまう。私はまだまだ他人と距離を置いているのが悲しい。

山頂でのささやかな出会いが深い思い出となり、一期一会の残影を脳裡に刻んでくれる。一人ひとりの顔までは思い出せないが、写真に撮って残されるた場面を見ると、瞬時にその思い出が蘇る。登山を始めた当初は、山頂ではなるべく人物をカメラに入らないように心掛けていたが、多少なりとも人物が入っていた方がその場の雰囲気を思い出せる。しかし、私の性格からすれば被写体を無断で撮る行為はやはり異にそわない。

外輪山の最高峰・黒斑山はガスが停滞したままで、山頂から浅間山本峰は全く見えず、待っていても晴れそうにないので、8分ほどで下山することにした。次の四阿山・草津白根山と、百名山を日帰りで登ろうと挑戦していたので、急ぎ中コースを下山する。表コースのように変化に富んではいないが、ハイキングコースのように歩きやすい道である。

本峰に登れなかった無念さは残るが、次回は本峰に最も近い前掛山に登りたいものである。下山して高峰高原のホテルで山のバッヂを購入したが、一帯はアサマ2000パークスキー場となっていて、高峰温泉の看板もあった。2000パークは高原の標高から由来するであろうと推察するが、国道18号線から高峰高原までは長い登り坂が続き、スキーに来るのも大変なことである。ローカルなスキー場や温泉のあるスキー場を極力訪ねたいと願っていたので、高峰高原には再び来る事になるだろう。

夏休みで盆休みも近いと言うのに、高峰高原の施設はどこも閑散としている。気になったことは一つ、車坂峠には鳥居が建っていて、高峰山の山頂に高峰神社があるらしい。霊山を登拝することも旅の目的であるが、今回は「日本百名山」の登山が最優先されるため足を延さなかったが、参道でもある登山道を目前にして通過するのはやはり残念である。霊山と言えば、浅間山はその本山のような山であり、改めてその存在感に感服する。

浅間山を音読みで読むと、浅間となり富士山の祀る浅間神社に関連していると思われる。活火山の山々は、神代の昔より霊山として崇められ、その御魂を鎮めるために神社を創建し、供物をそなえて噴火しないように人々は祈った。浅間山にも浅間大明神が祀られ、山岳信仰のメッカとして栄えた時代もあるようだ。軽井沢には、その里宮でもある浅間神社があり、信仰の面影を残している。

浅間山には、浅間山荘と言う忘れられない登山口がある。私がまだ19歳の昭和47年(1972年)、連合赤軍による「浅間山荘事件」が起きた。浅間山荘の管理人を人質にして、革命家を気どった連合赤軍の残党5人が銃を乱射して籠城したのである。機動隊と連合赤軍との攻防は、テレビ中継されて一部始終が脳裡に残っている。いつの時代も反社会的な思想を持つ若者は集団で暴走するもので、オウム真理教も同根と言える。その後の浅間山荘を見たいとは思わないが、前掛山に登ろうとすれば避けて通れない登山口でもある。

36荒船山

【別名】京塚山【標高】1,423m(経塚山)、1,340m(艫岩展望台)。

【山系】秩父山地【山体】侵食台地(メサ) 【主な岩質】安山岩。

【所属公園】妙義荒船佐久高原国定公園【所在地】群馬県/長野県。

【三角点】二等【国指定】なし。

【関連寺社】荒船出世不動尊、荒船神社。

【登頂日】平成25年4月4日【登山口】相沢口【登山コース】相沢コースピストン。

【登山時間】2時間49分【登山距離】8㎞【標高差】843m。

【起点地】秋田県横手市。

【主な名数】日本二百名山、新日本百名山、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】荒船の湯、内山温泉。

経塚山の三角点と標識

奈良時代、荒船山大明神を山頂に祀る。

荒船山(1,423m)は両神山(1,723m)に登った折、国道299号線から眺めたテーブル状の山容が印象に残っていたこともあって、この山にも登りたいと思う気持ちが今日まで続いていた。荒船山は標高が1,500m以下のため、「日本二百名山」に甘んじているが、テーブル状の山では日本一の規模であり、その価値観は高いと思う。このテーブルは、南北に約2km、東西に約0.4kmのカルデラ火山の跡地で、殆どが安山岩で生成されていると聞く。長い間の浸食によって、固い安山岩だけが残ったメサと呼ばれる地形で溶岩台地ではないようだ。香川県の屋島などもこのメサに属する地形と言う。

下仁田温泉で朝食を済ませたため出発するのが遅れてしまったが、今日は晴天が続きそうなので、午前中に下山できれば良いのだが、登山口の内山峠に到着して愕然とした。登山口の駐車場に車は1台もなく、登山道の入口には錆びついた通行禁止の看板が表示されていた。強引にこの登山道から登るのは危険と思い、来る途中で見かけた案内板を頼りに相沢登山口から登ることにした。

集落奥の林道の右側に登山口があり、車が2・3台停められるスペースがあったのでそこに車を停めた。他に登山者がいる様子もなく、杉木立の登山道を先へ先へと進んだ。屋根のように突起した大岩の下に中の宮があって、かつては登拝道であったのだろうか。山頂まで70分と表示された看板があり、内山峠よりはコースタイムが短いようである。これであれば、最初から相沢口から登っていれば、内山峠を往復した時間が無駄にならなくて済んだのだが。私の持っていた山と渓谷社の「日本三百名山」のガイドブックが古いようで、登山は常に新しい情報を得ないと徒労に終わる時もある。

胸突き八丁を登りきると、艫岩展望台との分岐点に到着し、その先は平坦な台地となっていた。荒船山を航空母艦やタンカーに例えるなら、そのデッキに立っていることになる。しかし、ブリッジにあたる最高峰の経塚山までは、まだ1.2kmもあるようだ。やれやれという気持ちを抑え、ブリッジを目指すことにした。

笹原に落葉樹が点在する台地の登山道は広く歩き易く、小さな石祠が数基あって一礼して霊山の面影を偲んだ。この道で男性1人と女性2人の高年グループと、単独登山の高齢男性とすれ違った。恐らく荒船出世不動尊口の方から登って来たのだろうか、そのコースが群馬県側からの一般的な登山道であるようだ。

経塚山らしきピークが見えるが、結構な高さでまだかまだかと思いながら登った。山頂にも石祠が祀られていて、不動寺の奥ノ院になるのだろうか。標識の側には三角点もあって、標高を記した標識・三角点の石柱・小社や石祠の三点セットは整っている。山頂の眺めは、木立の枝に挟まれて良くないが、それでも真っ白な残雪の八ヶ岳が見えた。

下山して艫岩展望台に立ち寄ったが、値千金の眺めに思わず絶句した。登山途中に何度も眺めた浅間山が鮮明に見え、眼下は絶壁となっていた。漫画家の臼井儀人(1958-2009)氏が墜落した場所だろうと思うが、好奇心も度が過ぎると命取りとなる。

「事故もなく 下山するのが 山人よ 臆病こそが 山の心得」 陀寂

この艫岩の大岩壁は船尾に例えられ、200メートルの断崖は国道254号線からもはっきりと眺めることができる。その国道を内山峠へ向かう途中、運転しながに往復見上げたが、垂直に屹立した大岩壁は迫力満点であった。展望台には東屋とトイレがあったが、屋根には苔が生えて随分と寂れた様子で、ここで休憩する気にはなれなかった。

最近になって名山には、山小屋が不可欠に思えるようになったが、山小屋に泊まって山で一夜を明かしたいと願う登山者も多いと思う。この荒船山に避難小屋がないのが以外にも思え、テントの設営地すらないのは物足りない気がする。自然景観を損なうことは明らかであるが、山小屋には安らぎがあり、雨天時や緊急時の避難場所として大切な物である。

経塚山に向かう途中ですれ違ったグループと、単独登山者も艫岩で休憩していたが、こ

こは絶景ポイントとあって、不動尊側から登ったとしてもここまでは足を運ぶようだ。午後からは妙義山に登ろうとしていたため、10分ほどいて再び下山を開始した。

広い山頂台地には、登山道が1本だけしかなく他に散策路がないのが淋しい。周遊する小道があれば理想的であり、荒船山の魅力も増すことであろう。この笹原であれば、木を伐採しなくてもコースを造るのは簡単であろう。そんな感想を抱きながら分岐点から台地を眺め、比類なきメサ景観から別れた。

登って来た道を下るのは感慨深いものがあり、踏んだ木の根や石を思い出しては必死で登った時の自分が去来する。よく登って来たものだと信じられない気もするが、登らせてもらっていることに感謝せずにいられない下山道である。登山口には相沢集落があるので、人の手の入っている里山の雰囲気が感じられ、ほのぼのとした気分となる。

往復3時間に満たない登山ではあったが、「日本二百名山」と「新日本百名山」の1座を登り得た満足感は時間の長短ではないと感じる。昨日は高尾山と八王子城跡に登ったが、これも短時間の登山であった。しかし、「日本の名峰山50峰」の高尾山と「日本100名城」の八王子城跡をめぐり終えた満足感は貴重な旅の経験と言える。

登山口の近くにはも日帰り温泉の「荒船の湯」があったが、今夜は霧積温泉に予約を入れておいたので、入浴の方はパスした。しかし、荒船不動尊には1度は拝観したいと思うので、今度は秋の頃でも荒船出世不動尊口側から登山して、相沢登山口へと縦走したい。そして、「荒船の湯」に入って帰るのが理想的な荒船山の登山と思える。

荒船山の近くには、「日本三大奇勝」で知られる妙義山があるが、この山には男性的な荒々しさを感じる。一方の荒船山は、女性的な穏やかさを感じる山で、同じ地域にありながも好対照な山容には地形の不思議さを思わずにはいられない。荒船山を『名山絶句八十八座』に選んだ理由も、妙義山を選んで荒船山を外す分けにはいかなかったことが大きな理由でもある。また、最初にも述べたようにテーブル状の山を一つは選びたかったこともある。

最近になって飛行機に乗る機会が増え、空から眺める景色に感動することが多くなった。特に雲海の上を行くと、仙人にでもなった気分となり、気持ちの良いものである。この荒船山の麓に雲のかかった景色は、海に浮かぶ航空母艦そのものに思えてならない。その景色が眺められる山が、長野県側の佐久高原にある物見山(1,375m)であろう。

「雲海や 荒船山は 空母かな」 陀寂

37妙義山

【別名】表妙義、裏妙義【標高】1,081m(白雲山)、1,103m(相馬岳)。

【山系】秩父山地【山体】隆起侵食山岳【主な岩質】安山岩・凝灰岩・礫岩。

【所属公園】妙義荒船佐久高原国定公園【所在地】群馬県。

【三角点】二等(相馬岳)【国指定】名勝(景観)。

【関連寺社】妙義神社、中之嶽神社。

【登頂日】平成25年4月4日【登山口】妙義神社入口駐車場【登山コース】大ノ字コースピストン。

【登山時間】2時間43分、【登山距離】4㎞【標高差】661m。

【起点地】秋田県横手市。

【主な名数】上毛三山(赤城山・榛名山・妙義山)、日本三大奇景(妙義山・寒霞渓・耶馬渓)、八十八座九十図、日本二百名山、名峰百景、日本百景、日本の紅葉百選、百霊峰、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】磯部温泉、下仁田温泉。

大のぞきから浅間山を望む

明治45年(1912年)、英国人登山家・ウォルターウェストンが登頂。

何とか荒船山を登り終えて、午後からは妙義山へと向かった。妙義神社の参道のシダレザクラは満開となっていて、高年のアマチュアカメラマンが5・6人、三脚にカメラを据えて写真を撮っていた。私も何枚か写し、本殿を参拝して登山口へと向かった。本殿の裏が妙義山への登山口となっていたが、午後1時半を過ぎていたので登山者の姿はなかった。

妙義山は大分県の耶馬溪、香川県の寒霞渓と共に「日本三大奇勝」の1つで、山水画に描かれるような険峻な山々が連立している。その景観は高速道路からも眺められ、奇岩怪石の奇妙な景観は異彩を放っている。この山は、相馬岳を最高峰とする白雲山山塊と中ノ岳を最高峰とする金洞山山塊とに分かれている。そこに南端の金鶏山などを含めて表妙義と称されているそうだ。表があれば裏があり、中木沢を挟んだ谷急山などの山々は裏妙義と呼ばれている。妙義山群では、この谷急山は1,162メートルと標高が最も高いようだが、一般的には表妙義の相馬岳の1,104mを最高地点と見ているようだ。白雲山塊の登山口は妙義神社にあって、金洞山塊の登山口は中之岳神社にある。私は相馬岳を登るために妙義神社の入口に車を停めたのである。

妙義神社の境内から先ずは大ノ字を目指したが、大ノ字の直前からは険しい岩場登りが続き、奥ノ院からは更に険しさを増した。大ノ字は展望地に大という白地の文字が設置されているので、この名があるようだ。京都の大文字に倣ったものであろうが、ここでは「妙義大権現」を略したものと言う。この時間帯では他に登山者がいないので、コースを間違えたらアウトであり油断がならない。奥ノ院には、岩屋に鎮座された石祠があり、神仏習合時代の面影が今も残っているようだ。今までに登った修験道の山としは、新潟県の八海山が最も険しかったが、この妙義山はその上をいっている。

奥ノ院から間もなく見晴台を経て白雲山の山頂に立ったが、標識の類はないので標高がはっきりとしない。相馬岳まで行こうと先へと進んだが、午後3時までは何としても相馬岳の山頂に立たないとタイムアウトとなってしまう。大のぞきを過ぎると登山道は途切れたキレットとなっていて、目前に聳える天狗岳と相馬岳へのルートを探せない。時間があれば気長に見つけ出せたと思うが、もう時間切れと観念して下山することにした。

ある程度の鎖場は予想していたものの、垂直にそそり立った岩場には多少なりとも恐怖心を覚えた。登山は無理が禁物で、時間に余裕がない限り、最高峰に立つことに執着してはならないと自分に言い聞かせた。妙義山は一度の登山で満喫できる程度の山ではなく、中之岳神社から登る金洞山コースや麓の石門をめぐるコースも魅力的である。

下山を開始して50分、妙義神社に戻ってご朱印を頂戴した。午後5時までは受付しているとのことであったが、早めに今日の宿である霧積温泉に行こうとしたので、この時間帯がベストでもある。それにしても、妙義山は神々の宿りそうな山であり、その異様さには改めて脱帽し、無事に登らせもらったことに感謝した。

「難関の 岩場を登り 満足す 妙義の山の 奇岩奇峰よ」 陀寂

妙義山の山頂群は安易に登る山ではなく、眺めるだけに留めておくのが無難のようである。時間がなくて相馬岳には立てなかったが悔いは殆どない。むしろ、中腹の石門めぐりのハイキングコースを歩いた方が妙義山の魅力が満喫できるだろう。相馬岳を目指すだけであれば、天狗岳と相馬岳の中間にあるタルワキ沢コースを登った方が無難のようだ。

下山してから白雲山塊を再び眺めたが、この奇妙な山容はどのようにして出来たか興味がわく。地質的には安山岩の溶岩、凝灰岩、礫岩から成り、約700年前の噴火によって出現した火山と言われている。その後の風化や浸食作用によって、鋸状の荒々しい岩峰の山容になったとされる。この山容は国の名勝にも指定され、「日本三大奇勝」の他にも「日本名山図譜(八十八座九十図)」、「日本二百名山」、「名峰百景」、「日本百景」、「百霊峰」、「週刊ふるさと百名山」、「日本の紅葉百選」と選ばれて多大に評価されている。

この妙義山を『名山絶句八十八座』に当初から選定したかったのは、注目されている山だからである。「日本百名山」だけは「四国八十八ヶ所霊場」のように固定されて欲しくなかった私の願いがある。そもそも私が「日本百名山」の存在を知ったのは、5年前ほど前のことであり、それが登山愛好者の憧れとなっているのが不可解であった。

しかし、日本百名山を登り終えた得た感想は、それぞれが愛する山を忘れてはならない事である。妙義山の近隣に住む人たちやここで育った人たちにとっては、妙義山がふるさとの山であり、私がふるさとの鳥海山をこよなく愛している心情に通じる。

妙義山で思いおこされる短歌が、歌人・若山牧水(1885-1928)の詠んだ歌にある。明治41年(1908年)、早稲田大学英文科を卒業した年に軽井沢から碓氷峠を越えて、妙義山の東雲館に投宿している。この宿には古くは随筆家・大町桂月(1869-1925)、小説家・子母沢寛(1892-1968)、歌人・吉野秀雄(1902-1967)などの文人も泊まったとされる。

「川上の 妙義巌山 白雲の おくにこもりて この朝見えず」 若山牧水

江戸時代には松尾芭蕉(1644-1694)翁も妙義山の奇峰を眺めたことは確かであるが、妙義山の句を詠んではいない。浅間山の句は残しているに不思議であるが、みちのくの松島でも句を詠めず絶句した芭蕉翁は、この妙義山の奇峰を眺めて絶句しただろうと想像する。

荒船山と妙義山の登山を終えて、早く霧積温泉の金湯館に行きたと思う気分が高まった。妙義神社で御朱印を書いてもらった老女の話だと、神社から30分ほどで到着するとのことであったが、国道18号線から県道に入ってからが長かった。霧積館の駐車場に到着すると、金湯館までの林道は一般車の乗り入れができないため、金湯館の車が駐車場まで迎えに来ることになっていた。霧積館は最近になって廃業したようで、まだ建物自体は老朽化している分けではないのに貴重な温泉遺産が消えて行くのは遣り切れない寂しさを感じる。宿に電話して間もなく、金湯館の4代目という中年の男性がRV車で迎えに来てくれたが、林道は道幅が狭く一般車が往来するのは考えものであった。

群馬県には泊まってみたい温泉旅館が多くあって、川中温泉のかど半旅館、法師温泉の長寿館、沢渡温泉のまるほん旅館、そして霧積温泉の金湯館は泊まりたいと長い間願っていた。中には若山牧水ゆかりの宿もあって、泊まりたいと願う憧れは尽きない。その1軒に今回は泊まることが出来たが、これも平日だから可能であった思う。仕事をリタイヤしない限り、この目標の達成は無理なので隠居後の楽しみとしたい。

38金峰山

【別名】金峰山(長野県側)、甲州御岳山【標高】2,599m(五丈岩)。

【山系】秩父山地(奥秩父山塊)【山体】隆起山岳【主な岩質】花崗岩。

【所属公園】秩父多摩甲斐国立公園【所在地】山梨県/長野県。

【三角点】三等【国指定】なし。

【関連寺社】金櫻神社。

【登頂日】平成23年6月5日【登山口】大弛峠駐車場【登山コース】朝日岳コースピストン。

【登山時間】3時間10分【登山距離】7.8㎞【標高差】239m。

【起点地】石川県野々市町。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、花の百名山、新日本百名山、百霊峰、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】増富ラジウム鉱泉、黒森温泉。

五丈岩(御神体)

仁寿元年(851年)、天台僧・智証大師円珍が開山。

奥秩父山塊の百名山で、1座だけ登頂が残っていた山が金峰山(2,599m)である。奥秩父山塊は山小屋関係者たちによって「東アルプス」と呼ばれるようになったそうだが、私も南北アルプスと中央アルプスがあるので東アルプスがあってもいいと思っていた。それでは西アルプスはと言うと、方向的には白山を主峰とする両白山山地が該当するだろうが、役者不足は否めないので西アルプスの命名は撤回して保留にしたい。

今回も金沢から往復1,000kmに及ぶので東アルプスへの日帰り登山は無理と考え、甲府のビジネスホテルに予約した。土曜日であっても午後5時まで仕事をしているので、金沢を立つのは6時近くとなり、遅い時間でも入れるビジネスホテルに泊まるざるを得ない。四日市にいた頃は、午後から休みをとって温泉旅館に予約を入れることも度々であったが、休みに恵まれない突貫工事の現場とあっては、その雰囲気に耐えるだけである。

ビジネスホテルで寝る前に地図をよく見ていると、昇仙峡からクリスタルラインで乙女高原を経由して大弛峠に至る林道があるようであった。大弛峠は金峰山登山の最短コースでもあり、この峠から登ることを目的にしていた。以前に登った瑞牆山の瑞牆山荘口と、金峰山は登山口を同じくしているので安心感はあったが、遠方からの登山となるで、どうしても最短コースに目が行ってしまう。

午前5時30分過ぎにホテルをチュックアウトし、間もなく昇仙峡に到着したが、クリスタルラインと呼ばれる林道の案内板は、荒川ダムや金櫻神社へ行っても案内板はなかった。それらしき林道もなく、右往左往した挙句、ガソリンも少なくなったので、甲府市内に戻り当初予定していた乙女高原から大弛峠へ向かうことにした。折角来たのだからと、昇仙峡の仙娥滝を久々に見物し、嫌なムードを払拭する。

登山よりも登山口に至るのが大変であり、百名山を目指すに当たって何度となく経験しているが、それでも迷い途方に暮れることが多い。雁坂みち(国道140号線)の牧丘から乙女高原を経て、午前8時30分頃に大弛峠に到着した。2時間近いタイムロスであり、予測通りに峠手前の路肩は既に車で溢れていた。金峰山と峠を挟んだ国師ヶ岳も下山後に登ろうと計画していたので、速足で金峰山を目指して登山道を急ぐ。

登山口に入って間もなく、15人ほどの老齢のグループが木段の急登を塞いでいる。先に登らせもらったのは良かったが、ハイペースで通過したため、ハアハアゼイゼイとなり、自分のペースを回復するのに10分ほどの時間を要してしまった。あまり力まないで登ろうと心掛けているものの、団体登山者の喧噪から逃れようと急いでしまったようだ。

朝日峠を越え朝日岳に到着すると、金峰山山頂の五丈岩が神々しく鎮座して独特の風貌を現している。まだまだ山頂は先のようだが、素晴らしい景色を眺めると急に元気になり、行くぞという気合が満ちて来る。その反面、朝日岳からは急な下りの鞍部が続き、帰りの登りを考えると気合も気持ちも萎えてしまいそうである。

山頂を目前にした稜線は360度の視界が開け、昨年の夏に登った瑞牆山が手にとるように見える。登っている時は分からなかったが、遠くで見ていると花崗岩の大岩を積み重ねた岩峰で、宮之浦岳から眺めた永田岳の岩峰を彷彿とさせる。

標識の立つ模擬山頂には岩がゴロゴロと転がる狭い場所で、写真を撮るにも足場の悪い岩の上に立ち、先客が写し終えるのを待つ状況である。実質的な山頂である五丈岩の前は広場となっていて、たくさんの登山客が休憩していた。山頂の広場はよく晴れても暖かく、風もなく穏やかで、まるで山の楽園のように感じられる。五丈岩は金峰山の御神体でもあり、赤い鳥居が立ち、小さな石祠が巨石の上に祀られていた。

五丈岩の山頂に立とうと巨大な岩を登ったが、御神体の保護のためか鎖や梯子の類は一切なく、フリークライミングで登らなくてならない。中間地点まで登ると、三点確保が困難となり、足の短さと体力低下が災いし、先を行く若者のようには行かない。自分の体を腕力だけで持ち上げられなくなり、懸垂を20回もした若い頃の自分が嘘のようである。若者の手助けがあれば何とか登れそうであったが、危険な登山に変わりなく、潔く断念して広場の石の上に腰を下ろした。

「あと数歩 山頂に立てぬ 悔しさに 老いを感じる 五丈岩かな」 陀寂

金峰山は山梨県と長野県にまたがっているが、その呼び名が両県で異なるらしく、山梨県では「きんぷさん」、長野県では「きんぽうさん」と呼ぶそうだ。金峰山と云う名の山は、ふるさとの横手盆地にも同名の山があり、確か「きんぽうさん」と呼ばれていたが、私は「平鹿富士」と命名し、貴重な修験の山と考えている。他に熊本県熊本市や山形県鶴岡市にも金峰山があって、霊山として崇められているようだ。

平鹿富士の山頂には金峰神社の社殿があり、この山頂にある金櫻神社の奥宮(石祠)よりも立派である。修験道の山岳には、険しい峰々が多いのが特徴であるが、金峰山と瑞牆山も平安時代から登攀された峰々に違いはないであろう。金峰山の山名は、蔵王権現を祀る奈良県吉野町の金峯山寺に由来する。金峯山寺は修験道の根本道場でもあり、天台宗の本山派と真言宗の当山派を統合していた時代もあったと聞く。金峰山にも大勢の山伏たちがホラ貝を吹き、錫杖を突きながら登拝した様子が脳裡を過る。

山頂から誰もいない見晴らしの良い稜線まで戻り、数週間前に登った甲武信ヶ岳や雲取山を眺めながらコンビニの握り飯を食べた。同じコンビニの握り飯でも、車の中で食べるのでは、雰囲気と次元が違う。背中のリュックで登山を共にして来た握り飯は、格別の味わいで、至福の喜びでもあり、最高の昼飯でもある。そこに冷えた缶ビールでもあれば、胃は大喜びとなり、活性化されるのに残念なことである。

大弛峠に戻り、三百名山の国師ヶ岳にも登ろうとしたが、雨が降りそうな気配を感じたので断念した。国師ヶ岳は1時間半でピストンできる距離にあり、ロスタイムが無ければ楽勝で登っていただろう。日本庭園のような景観があって、金峰山とは違った魅力があるようだ。大弛峠の大弛小屋で金峰山のバッヂを購入してから、そのまま帰路に着いた。

東アルプスには6座の百名山があるけれど、その山名を殆ど知らなかったのが私の現実である。旅と酒におぼれた酔狂の人生を考えると、東アルプスの山々を知ることは、また新しい天地自然との出会いであり、私の脳みそがリセットされた瞬間でもあった。そして、私のささやかな旅の人生に、未知なる山旅の世界が広がったのである。

39雲取山 

【別名】雲採山【標高】2,017m(大雲取山)。

【山系】秩父山地(奥秩父山塊)【山体】隆起山岳【主な岩質】堆積岩。

【所属公園】秩父多摩甲斐国立公園【所在地】東京都/埼玉県/山梨県。

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】三峯神社。

【登頂日】平成23年5月3日【登山口】後山林道口【登山コース】三条コースピストン。

【登山時間】7時間30分【登山距離】28.4㎞【標高差】1,317m。

【起点地】石川県野々市町。

【主な名数】三峰三山(妙法ヶ岳・白石山・雲取山)、日本百名山、名峰百景、花の百名山、

新日本百名山、百霊峰、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】三条の湯、丹波山温泉。

山頂の景観

明治15年(1882年)、地理局長・塚本明毅らが登頂して三角点を設置。

両神山に続く百名山の登拝は、5月連休を利用して雲取山(2,017m)と大菩薩嶺(2,057m)を計画した。東日本大震災で苦しむ人々を思うと居た堪れない気持ちになるが、日本人のすべてが奈落の底に落ちることはない。運よく私はその場に居合わせなかっただけで、私の命も諸行無常の世の中、天地驚異の地球の上に生きているのである。

金沢から雲取山の登山口までは400km近くあり、甲府のビジネスホテルに泊まって、早朝に出立することにした。午前5時過ぎにはビジネスホテルを出て、登山口の後山林道に入ったが、林道が工事中のため2.3㎞先から通行止めとなっていた。引き返して鴨沢の登山口から登ろうとも思ったが、数10台の車を見てその後に続くことにした。

林道からは、満開のヤマザクラが残雪のように咲き、ヤマツツジやヤマブキの花色が鮮やかである。後山川に沿った林道の終点に至るまで、1時間以上も歩き、MTB (マウンテンバイク)を積んでいなかった事に悔いが残った。林道の終点までは、日常的に車で到着できると思った私が愚かであった。後川林道の終点が青岩谷橋で、瑞々しい新緑と青みがかった清流がとても心地良い。本来はここまで車で入れるのであるが、運が悪いと言うか、何か損をしたような気持ちになる。自分勝手な事ばかり考えるのが私の悪い癖で、林道の安全のために工事をしている訳でだから関係者に感謝しなければならないのに。

青岩谷から登山道に入って間もなく、三条ノ湯の山小屋に到着したが、山小屋と呼ぶよりも秘湯の宿のような雰囲気である。帰りは必ず温泉に浸かろうと思い、山頂を目指した。登りは山頂を目的とするからいいが、下山する時の目的が無いと元気が出ないものである。

三条ノ湯を経由する登山コースは、裏コースとなっていて、山頂までの距離や時間を示す案内板が全くないのが難点である。標高や時間を表す標識があれば、現在地点も把握でき、その役割は大きい。三条ノ湯から樹林帯の長い長い水無尾根が続き、1時間41分後に三条ダルミに着いた時はやれやれと思った。三条ダルミは縦走コースの合流点で、樹木も途切れた砂礫の草地となっていた。その景観は荒廃した高原の植生にも見え、見晴らしは良いが褒められた山の景観ではない。

三条ダルミから30分ほどで雲取山の山頂に到着したが、山頂には結構な人数が陣取っていて、標柱の撮影も待たされる有り様であった。7㎞の林道歩きは予想外であったが、鴨沢口から登った時の混雑を考えると、それを避けられたのは正解であった。私は登り3時間、下山2時間が理想的な登山と考えている。可能であれば午前中に登山を終了し、午後からは温泉に入って名所旧跡を訪ねたいと思う。

雲取山は秩父山地の主峰で、妙法ヶ岳(1,329m)、白岩山(1,921m)と共に三峯または三峰山と呼ばれている。かつては修験道の霊場でもあり、「三山駈け」が行われたと聞く。三峯神社は、三山を祭神としていたであろうが、現在は伊奘諾尊と伊奘冊尊を祀っているそうだ。その奥宮が妙法ヶ岳山頂にあるので、ここまで登拝する白装束の信者がいると聞く。  

雲取山の山頂は、東京都、山梨県、埼玉県が境を接しており、それぞれに登山口があるが埼玉県の三峯神社口と山梨県の鴨沢口がメインのようである。山頂にある雲取山避難小屋は、ログハウスの頑丈な建物で、さすがに予算の桁が違う東京都は太っ腹である。

雲取山の名は、「雲をも手に取るが如く」と標高の高さに由来しているそうだが、別説では「熊野の大雲取山から導かれし」とある。いずれにしても雲を手にするような山に変わりはない。山頂では、その雲を手にするには至らなかったが、ぼんやりとした春霞は手にした。そんな春霞の眺望ではあったが、明日登る予定の大菩薩嶺と、翌週に登る甲武信岳を確認できたことは満足に値する。

山頂一帯の落葉樹は、芽吹き始めたばかりで本格的な春は訪れていなかったが、中腹はヤマツツジの紫色の花が咲き、ヤマモミジの新緑も鮮やかで春の訪れを感じさせる。三条ノ湯まで下山して缶ビールを買い、カップラーメンを食べて昼食とした。北アルプスの山荘は、生ビールと生麺の提供が標準化しているので、ちょっと拍子抜けしてしまった。

食後には待望の温泉に入ったが、泉温10.5°Cの冷鉱泉であったのはカップラーメンと同様にこれも拍子抜けしてしまった。しかし、火山地帯以外の場所に良質の温泉を求めるのが間違いであり、微かに香る硫黄臭だけでも温泉気分は高まる。

三条ノ湯の下にある三条谷には、3張りのテントが見えたが、小さな滝と三条沢の清流ももあって絶好のロケーションである。私の登山も日帰り登山に重視せず、キャンプ地の直ぐ側に温泉があるのであれば、テント泊も悪くはないだろうと思った。

東京都側の日原登山口には、日原鍾乳洞があり、随分と昔に秋山渓谷を経て見物に行ったものである。この三条ノ湯の近くにも青岩鍾乳洞があり、立ち寄ろうと思って三条ノ湯の人に聞くと、山道が荒れていて道に迷うだろうと言う。道があるから行こうと思うのであるが、道が無ければたとえ名所であっても危険が伴うので断念した。

私は極めて臆病な人間であり、危険や危機という場には立ちたくないと願っている。よく夢に見るのは、高所から墜落してい行く自分の姿である。若い頃は、ロッククライミング、モトクロス、ハングライダーと一応は経験したものの、事故死する知り合いを見て怖くなってしまった。次は自分かと、あれから危険を伴うアウトドアスポーツを止めて、スキー、自転車、ボートと危険性の少ないアウトドアスポーツに徹するようになった。

三条ノ湯から林道に戻り、再び林道を歩くのは気が重くなる。ならば小走しようと走ったが、普段は殆ど走らないので200mほどで飽きてしまう。ならば林道の風景を見てやろうと、目を凝らして退屈を紛らわせた。工事現場には、色々な仮設の機械があり、その用途を推察した。蜜柑畑でよく見られる小型のモノレールがあり、これは作業員の移動に利用されるようだ。後山川の両岸の谷間には、ワイヤーが張られていて「ケーブルクレーン」が設置されていた。資材の運搬に使われるのは理解できるが、その操作が何処でどのように行われているかは休止日のために把握できなかった。

車に戻ったのは、登山を開始して7時間半後であったので、日帰り登山としては難易度が高い。塩山に戻る途中、丹波山温泉のめこい湯があったが、今夜の宿も民宿温泉であり、通過して、残りの時間を雲峰寺の参詣にあてることにした。大概の寺には山号があって山と関わりがあるが、架空の山名が殆どで雲峰寺の山号もそうである。

「雲取に 続く登山は 雲峰寺 裂石山の 山号もあり」 陀寂

40大岳山

【別名】鍋冠山、大岳【標高】1,266m(大岳山)、1,084m (鍋割山)。

【山系】奥多摩山域【山体】隆起山岳【主な岩質】堆積岩。

【所属公園】秩父多摩甲斐国立公園【所在地】東京都。

【三角点】二等【国指定】なし。

【関連寺社】大岳神社。

【登頂日】平成28年7月9日【登山口】御岳登山ケーブル駅【登山コース】奥ノ院コースピストン。

【登山時間】6時間7分【登山距離】9.8㎞【標高差】437m。

【起点地】群馬県伊勢崎市。

【主な名数】奥多摩三山(大岳山・三頭山・御前山)、日本二百名山、花の百名山、森林浴の森100選、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】松乃温泉、麻葉ノ湯。

御岳山から望む大岳山

神代、大国主命を山頂に祀る。

奥秩父の霊山と言えば三峰山(三峯神社)で、奥多摩の霊山は御岳山(武蔵御嶽神社)である。三峰山(1,102m)の先には奥宮のある妙法ヶ岳(1,329m)があり、御岳山(926m)には奥ノ院のある男具那ノ峰(1,070m)がある。妙法ヶ岳は3月に登っているので、私の行きたい場所の優先順位は武蔵御嶽神社と、その奥に屹立する「日本二百名山」の大岳山であった。

群馬県伊勢崎市に来て40日が過ぎるが、広島の友人が東京に出て来ることになり、今日はその友人と夜、神田で再会することにした。それならば、奥多摩を経由してから都内に向かおうと、友人と同じ神田のビジネスホテルに予約を取った。友人とは9月初旬に富士山に登る約束をしていて、登山の仲間でもある。

伊勢崎市からカーナビをセットしたが、奥多摩に入ると、御岳登山ケーブルへエスコートしてくれず走って来た道を引き返し、道路の案内板だけを頼りにした。おそらく、ケーブル以外の住民専用道路を走らせようとしているようだ。カーナビは便利であるが、パーフェクトではなく、騙されたことも度々ある。最近では目的地が近付いたら案内標識を優先するようになったが、今回はそれを無視したのが災難であった。

御岳登山ケーブルの滝本駅に到着すると、8時50分のケーブルカーは出発していたが、入念な登山支度をしてケーブルカーの発車を待った。小雨が降っていたが合羽を着る程度ではないと思い、長靴に傘を差して登ることにした。ケーブルカーには数人しか乗車しておらず、高尾山ケーブルカーの賑わいとは対照的な光景である。また神奈川県の相模大山にも大山ケーブルカーがあり、阿夫利神社と大山寺(不動尊)があるが、縁日でもないのに大変賑わっていたことを思い出す。

御岳山駅から武蔵御嶽神社の参道を歩き、宿坊街に到着すると哀れな光景が目に入った。茅葺屋根の宿坊は廃屋となり、20数軒ある宿坊も閑散としていた。土産物や食堂が並ぶ通りも参拝客の姿は殆ど見られない。石段を上り、社殿の前に立つと拝殿が修復中であった。この社殿の場所が御岳山の山頂であるが、山頂を示す三角点も標識もなく、山頂に立った実感が伝わって来なかった。想像していたよりも小規模の社殿で、関東一円から信仰を集める神社にしては華やかさに欠けている雰囲気である。

社務所で御朱印を頂戴し、大岳山へと本格的な登山を開始した。林道を歩いていると、長尾平に小さな茶屋があり展望所まで300mと記されていたが、帰りに立ち寄ることにしてそのまま林道を進んだ。林道の右側に鳥居が建っていて、奥ノ院への登山道となっていた。登山道は歴史を感じさせる木の根の登拝路で、奥ノ院には拝殿と本殿が建っていたが、荘厳さはなくどことなく寂しい感じがした。

奥ノ院のピークを過ぎると、鍋割山(1,084m)の山頂まではあっと言う間で、廃屋となった大岳山荘があり、大岳神社の社殿が建っていた。神社の狛犬は可愛らしいオオカミの石像で、撫でてみたい気持ちになる。神社の先からは急な岩場の登山道が続いたが、危険な個所もなく登り易い岩場である。雨も上がり、尾根道に心地良い風が吹いていたが、すれ違う登山者もなく二百名山にしては人気がなさそうである。

登山開始から2時間15分、視界が一気に開けたと思ったら既に山頂に立っていた。山頂には誰もいないと思っていたら、若い単独登山者と中年の男女登山者の3人がいた。雲の間からは時折、秩父の山並みが見える程度であったが二百名山の1座を極めたことに今回の登山の意義を感じた。コンビニの握り飯を食べ、下山の準備をすると、他の登山者も下山する様子であった。一緒に下山することをためらい、一足先にリュックを背負った。

下山途中に長尾平の展望所に立ち寄ると、大岳山の山頂が見え登り終えた満足感を覚えた。土産屋の軒先に御岳山と大岳山のバッヂの他、日の出山のバッヂもぶら下がっていた。ラーメンを食べながら思ったのは、天狗岩やロックガーデンに行くことを諦め、日の出山に登ることであった。日の出山登山を決意し、宿坊街からハイキングコースへと入った。

宿坊街にはユースホステルや国民宿舎もあり、若い頃ならいずれかに泊まっていたであろう。評判の良い安宿に泊まることが当時の目的であったがので、懐かしく見えた。神社の宿坊には泊まった経験がなく、歴史ある宿坊には1度は泊まってみたいと思う。

日の出山への登山コースは、御岳山から緩やかな鞍部となっていて、2kmほど歩いて一気に山頂に登った。山頂は広場となっていて、展望が良さそうであったが、裾野は雲に隠れ見えない。それでもバッヂを購入した手前、登山を達成できたことは嬉しく感じた。山頂の手前には、ログハウス風の東雲山荘があったが、日常的に利用されている様子はない。

日の出山から再び宿坊街に到着して思ったことは、車の殆どが軽自動車であり、住民だけが利用する道路があるようである。道幅が狭いために軽自動車に乗っているのであろうが、狭い山間部にこれほどの宿坊や商店が密集した場所は、吉野山以外に見たことはない。ある意味ではこの景観も大切であり、この景観を高め維持する工夫が大切と痛感を感じた。御岳ビジターセンターの展示も陳腐なもので、立ち寄る価値もないと思った。御岳山頂駅のある御岳平には、リフトが設置されていたが運休となっていた。ケーブルカーの滝本駅には、乗車客よりも多い駅員がいたが、彼らが御岳山の未来を考えているとは思えない。

武蔵御嶽神社の衰退は、門前で宿坊を営み神社を支えて来た御師と呼ばれる人たちの衰退と重なる。御師は関東一円の信者たちを回り御札を売り、講中の際は宿坊に泊めて持て成した。平成時代になって団体旅行客が減少したように、講を組んで参拝する信者が少なくなったことが原因と思われる。昔は宗教的な結び付きが集落などの地域社会にあったが、新興宗教や信仰の自由によって失われたことも否めない。

この地域は御岳山(武蔵御嶽神社)を中心に霊山として栄え、自然環境や歴史的に富んだ山である。重ねて高尾山と比較するが、同じ霊山ある高尾山とは雲泥の差がある。宿坊もあって高尾山以上の集客能力があるのに、一般参拝客や観光客が集まらないのはアクセスの問題と駐車場の高い料金にあると思う。高尾山は京王高尾線に直結していて、徒歩で難なくケーブルカーや観光リフトにアクセスできる。しかし、御岳山はJR青梅線の御岳駅からのアクセスがない。シャトルバスはあるだろうが、新たな参拝客や観光客の誘致にはトロッコ列車を新設するか、魅力あるアクセスを考えないといけない。また、駐車料金の徴収もネックで、料金を割引くべきで1,400円はないだろうと思う。

「霊山の 昔の賑わい 何処にか 鳳来山も 御岳山も」 陀寂

41丹沢山

【別名】丹沢山塊【標高】1,567m(丹沢山)、1,673m(蛭ヶ岳)、1,491m(塔ノ岳)。

【山系】丹沢山地【山体】隆起山岳【主な岩質】堆積岩・石英閃緑岩。

【所属公園】丹沢大山国定公園【所在地】神奈川県。

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】なし。

【登頂日】平成22年11月6日【登山口】塩水橋空地【登山コース】天王寺尾根コースピストン。

【登山時間】4時間15分【登山距離】12.2㎞【標高差】1,113m。

【起点地】三重県四日市市。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、新日本百名山、森林浴の森100選、水源の森百選、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】中川温泉、別所温泉。

尾根より望む丹沢山

明治23年(1890年)、修験僧・天野磯次郎が登頂。

丹沢山は首都圏に近く昔から知っていたので、百名山に選ばれなくとも1度は登りたいと憧れていた山である。友人と本厚木駅で待合わせをしていたため、塩水橋から最短コースをピストンすることになった。四日市を早朝の4時40分に出発し、東名自動車を順調に走って来て、カメラのチップメモリーを忘れたことに気づいた。秦野のコンビニまで引き返すことになり、塩水林道のゲートに駐車したのは午後8時となっていた。百名山を登っていると言う夫婦と一緒となり、登山口まで林道を「日本百名山」の話をしながら歩く。

登山口からは急いでいたので先行して、急登を天王寺尾根へと登った。案内標識に丹沢山まで3時間と表記されていて、そんなに時間がかかるのかと不安であったが、堂平分岐点まで約2時間で到着してやれやれである。山頂までは長い木段が続いたが、30分ほどの距離だったので難なく山頂に着いた。

山頂は好天であったこともあって、たくさんの登山者で賑わっていた。塩水橋から天王寺尾根を登る人は少なく、裏通りから大通りに出て来たような感じである。富士山は雲間から雪化粧した顔を覗かせ、丹沢山塊は紅葉した樹木が点在している。三角点や小さな石像を写真に収め、みやま山荘に入ってバッヂを購入した。

山小屋はまだ新しく、スタッフの応対も良く、1度泊まってみたい気分になる。時間の都合で、丹沢山塊の最高峰である蛭ヶ岳(1,673m)まで足を伸ばせなかったので、ヤビツ峠から縦走するのも楽しそうである。丹沢山は雪が少なく、山小屋も年中営業しているとのことで、豪雪地帯の秋田県から来るのも良い気分転換となるだろう。

丹沢山塊は、丹沢山地とか丹沢山系とか呼ばれていて、固有名詞がないように思える。一般的感覚では、帯状に長く伸びた山々の集合体が山脈で、その小規模なものが山地であると思うが、山塊や連峰、連山の定義は曖昧に思える。山塊は平面的な広がりのある山の部分的な集合体で、連峰は一定の高さを持つ山の部分的な集合体と認識する。連山や山系という言葉には、明確な答えを出せない。日光連山や御嶽山系を知る限りでは、連山は連峰よりもやや低い山のイメージがあり、山系は主峰に付随した山を指すと思う。

丹沢山塊は呼び名も曖昧ならば、主峰も曖昧である。丹沢山塊の最高峰は、蛭ヶ岳の1,673mであり、丹沢山は106mも低い1,567mしかない。蛭ヶ岳を百名山とするか、丹沢山を百名山とするかは意見の分かれる所であると思う。2座を一緒に登ればいい訳であるが、時間に制限されている私としては、丹沢山の1座を登っただけで「日本百山」の登頂と考えたい。そう言えば、飯豊連峰の最高峰は大日岳であるが、大概の登山者は飯豊本山を主峰と見做し、その登頂をもって百名山登頂としている。

10分ほど山小屋で他の登山客と語り下山を開始すると、登山口まで一緒だった老夫婦と木段の最終地点ですれ違った。さすが、百名山を目指す人たちは健脚である。私より20分ほど遅いペースであるが、六十半ばの年齢を想像すると立派なものである。私は友人との待ち合わせに遅れまいと、駆け足で木段を下り、走るように尾根を下山した。

「ちょうど良い 丹沢登山 4時間余 午後は大山 寺社詣で」 陀寂

車に戻って着替えをしていると、塩水川の谷間にニホンジカの走り去る姿を目にした。丹沢山はニホンジカによる食害が深刻なようで、登山道の中腹から山頂付近まではシカ除けのフェンスがめぐらされていた。そればかりではなく、ヒノキや杉の若木はネットで囲まれ、成木も樹皮が食べれれないように人の背丈までネットが張られていた。丹沢山地には、4,500頭のニホンジカが生息していると聞くが、これは半端な頭数ではない。本州のツキノワグマの生息数は、12,000頭前後と言われているので、ニホンジカの頭数の多さに驚愕するばかりだ。人間の首都圏への過密化に合わせ、ニホンジカも丹沢山地に集まっている訳ではないだろうが、憂慮すべき問題が日本百名山には山積みだ。

丹沢山地には、「大山詣」で有名な大山もあり、午後からは友人と大山阿夫利神社と大山寺を参拝した。上りはケーブルカーに乗って阿夫利神社の本殿を参拝したが、下りのケーブルカーは混雑していたので、石段を下りて大山寺に立ち寄ることにした。登山の苦手な友人は、石段の下りがキツそうで、車に積んでいたストックを貸したいくらいであった。剣道で鍛えた足腰も、長い間運動をしていないと急速に衰えるようである。

阿夫利神社は関東総鎮護の神社で、大山祗大神を祀っている事で大山の名がある。しかし、鳥取県の大山と間違われるため、相模大山と旧国名を付けて呼ぶ例が多い。私も「霊峰霊山100座」では相模大山と記している。阿夫利神社と大山寺で御朱印を頂き、神社では168社、寺院では382ヶ寺の御朱印が集められた。「四国八十八ヶ所霊場」の巡礼や「日本百名山」の登山は名数の旅であり、自分なりに生涯の目標として定めた神社が300社、寺院が500 ヶ寺ある。これも名数の旅であり、まだまだ巡礼半ばの旅である。

単独であれば、三百名山でもある大山の山頂まで登ってみたかったが、またの機会の楽しみとすることにした。ケーブルカー山麓駅の参道には、土産物屋や食堂、旅館が軒を並べる門前町となっていて、江戸時代の盛況ぶりを今に伝えている。今夜の宿の予約は友人に任せておいたが、七沢温泉と聞いて私はニンマリ顔となった。

大山の山麓には温泉が点在していて、中でも七沢温泉が宿の軒数も多く有名らしい。友人は設備屋の大先輩であり、尊敬する技術屋の1人だ。東京で2年ほど仕事した時は、月給を100万円も払ってくれて有頂天になったこともあった。今日の私があるのも、友人の助力に寄る所が大きい。

鎌倉に住む友人は、七沢温泉は初めてのようで、身近な場所にこんな良い温泉があることに驚いていた。ただ泉温が23°Cの低温泉であるため、加温しているのが難点であるが、ぬるぬるとした泉質はやはり温泉であり、満足に値する温泉である。入浴後、イノシシの鍋を突っつき、熱燗の酒を酌み交わすしながら旧交を温めた。

「丹沢や 大山参り 牡丹鍋」 陀寂

いつの日か、ニホンジカの肉が美味しく食べられるように工夫されれば、シカ肉料理が丹沢の名物となり、丹沢山塊のシカの頭数も緩和されると思うのである。シカ肉鍋は「紅葉鍋」とも呼ばれ、昔から食べられていたようであるが、ジビエ料理の定番にはなっていない。イワナのように養殖よりも天然物が旨いとされるように、飼育されたシカよりも野生のシカが旨いと、持て囃される将来を願って止まない。

42箱根山

【別名】函根山、函嶺【標高】1,438m(神山)、1,356m(駒ヶ岳)。

【山系】箱根連山【山体】複成活火山・楯状火山(アスピーテ)【主な岩質】玄武岩・安山岩。

【所属公園】富士箱根伊豆国立公園【所在地】静岡県/神奈川県

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】箱根神社。

【登頂日】平成25年4月2日【登山口】箱根駒ヶ岳ロープウェイ山頂駅【登山コース】神山コースピストン。

【登山時間】1時間47分【登山距離】3.8㎞【標高差】81m。

【起点地】秋田県横手市。

【主な名数】八十八座九十図、日本25勝、新日本百景、日本三百名山、新日本百名山、日本の自然100選、日本遺産百選、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】箱根温泉郷。

ロープウェイより眺める大涌谷

天平宝字元年(757年)、修験僧・万巻上人が開山。

箱根山は芦ノ湖に聳える山塊の名称で、箱根連山とも呼ばれ、火口丘と外輪山から成る楯状に広がる複成活火山である。火口丘の最高峰が神山(1,438m)で、駒ヶ岳(1,356m)や冠ヶ岳(1,409m)などが有名である。外輪山の最高峰が金時山(1,212m)で、明神ヶ岳(1,169m)や明星ヶ岳(924m)が東西に連なる。世界の名峰・富士山とは、水平距離で30kmほどしか離れておらず、箱根山はその影に隠れて富士山ほどの存在感はない。しかし、箱根火山のもたらす恩恵は富士山を凌駕し、江戸時代には東海道沿いの温泉地として「箱根七湯」が栄えた。近年はリゾート開発が進み、「箱根二十湯」と呼ばれているらしい。

昨夜は七湯の1つ、姥子温泉にある「かんぽの宿・箱根」に投宿して箱根の湯を満喫した。箱根山の最高峰・神山への登山口は、箱根駒ヶ岳ロープウェイ山頂駅であり、駒ヶ岳から神山まではハイキングコースがあるようだ。しかし、今日は朝から小雨が降っていて、かんぽの宿箱根を出発する時点で合羽に着替えて車に乗った。箱根園のロープウェイ乗り場に到着し、ジャストタイミングで始発のロープウェイに乗ることが出来た。

こんな雨の日に登山をするのは狂気の沙汰で、ロープウェイには私以外に乗客はいない。それでも運行してくれるロープウェイのスタッフには感謝感激であり、おぼろに見える芦ノ湖を眼下に見て7分ほどで駒ヶ岳山頂に到着した。笹の繁る駒ヶ岳山頂から下り、岩の交じった落葉樹林を行くと、大きな山が微かに見える。あれが神山かと想像しながら登り続けると、登山開始から50分ほどで山頂へとたどり着いた。

小雨の山頂は視界が殆どなく、落葉樹が覆っているので晴天であっても駒ヶ岳ほどの眺望が開けないようにも思われる。ただ山頂に立った満足感だけを噛みしめて、下山を開始して分岐点に到着すると、高齢者が5・6人登って来た。雨の日の登山者は、私1人だろうと予測していただけに予想外であった。雨の日に登るバカは私だけではなかったのが嬉しいし、多少の雨でも登らなければならないのが遠征登山の宿命でもある。

駒ヶ岳の山頂には、箱根元宮神社の礎石が散乱していて、再建がままならないのが悲しい限りだ。箱根神社は2度ほど参詣したが、その繁栄ぶりを考えるのならば、奥宮として再建して霊山の体裁を整えて欲しいものだ。様々な霊山を登拝して来て、山頂の奥宮や奥社が衰退している現状を見て来た。山頂を御神体と拝む風習が廃れ、里宮だけの参拝で済ませるケースが増えたことに他ならない。霊山の山頂に神官が常駐する神社は減っているのが実状で、火山を鎮めることを目的としていた信仰が様変わりしたとも言える。

山頂駅に到着してジャストタイムでロープウェイに乗ったが、こんな雨の日も利用する観光客が疎らにいた。箱根園の駐車場に戻ると、私の車の横にはずらりと車が並び、それなりの観光客で賑わっていた。今回は芦ノ湖の遊覧船に乗ろうと、箱根園から関所桟橋、元箱根桟橋を経由して、箱根園に戻るコースに乗船した。登山と遊覧船が楽しめるのは、山麓に湖沼があることが条件となる。自分が登った山を湖上から眺めのも格別の味わいがあって、富士山への登山後は富士五湖の川口湖と山中湖の遊覧船から眺めた富士山は忘れられない。箱根芦ノ湖遊覧船の乗客が少なく、貸切り状態で箱根山を眺めることができた。

「双胴船 定員七百 ぞっとする 十人前後の 静寂もあり」 陀寂

箱根山には様々な思い出があるが、松尾芭蕉(1644-1694)翁の足跡を追って旧中山道と旧東海道を自転車で訪ねた折、箱根の山を越えた。平成19年(2007年)の10月14日のことで、当時拠点としていた四日市を出発して20目である。既に京都から中山道を踏破し、東京から小田原を経て最大の難関にさしかかったのである。毎年恒例の「箱根駅伝」で有名になった箱根の山上りで、箱根湯本から標高差864m、距離13kmの坂道が自転車の前に立ち塞がる。自転車には30キロほど荷物を積んであり、勾配のきつい坂道では自転車を押して上った。特に樫の木坂が最大の難所とされ、旅人は栗の大きさほどの涙を流したと里謡に揶揄される。猿すべり坂を過ぎると茶屋が建っていて、甘酒を飲みおでんを食べたと記憶する。そして、峠を上りきって眺めた芦ノ湖の景観は万感胸に迫る眺めであった。湯本の正眼寺には、芭蕉翁の句碑が建っていて写真に収めたことを思い出す。

「山路きて なにやらゆかし 菫草」 芭蕉

箱根山で体験して見たかったのが、箱根登山鉄道の乗車と箱根ロープウェイの搭乗であった。平成25年(2013年)10月初旬、強羅温泉に宿をとって車を停めさせてもらった。箱根登山鉄道の強羅駅で1日乗り放題の乗車券を購入し、箱根湯本駅まで下って電車の旅が始まる。箱根湯本には、木造の老舗旅館が多く、国の重要文化財の萬翠楼福住、登録有形文化財の元湯環翠楼への宿泊は長年の夢でもある。

箱根登山鉄道を各駅下車して再び強羅駅に戻り、早雲山駅から箱根ロープウェイに乗った。大涌谷駅で降りて、噴煙が上がって硫黄臭が漂う大涌谷との対面である。大涌谷は昔、「大地獄」の名称で呼ばれ、北海道の登別温泉、九州の別府温泉や雲仙温泉の地獄谷を彷彿とさせるが、大涌谷の方がスケールは大きい。ロープウェイから眺めると硫黄採掘の鉱山ようで、美しい景観とは言い難い。それでも地球の大自然が造形した火山作品で、砂漠や凍土の地形とは対照的な作品に見える。

箱根山の理想的な山旅は、箱根登山電車と箱根ロープウェイを乗り継ぎ芦ノ湖に下りる。湖尻港から箱根芦ノ湖遊覧船に乗って箱根関所跡港で一旦降りて、関所跡や旧東海道の石畳みを歩き散策。再び箱根関所跡港から遊覧船に乗って箱根園港で下船し、箱根神社を参拝して箱根駒ヶ岳ロープウェイで駒ヶ岳に上る。駒ヶ岳から神山と冠ヶ岳に登り、大涌谷に下山して箱根ロープウェイで箱根登山鉄道まで戻る。箱根山を訪ねたことのない知人には、1泊2日でこのコースを案内したい。泊まる旅館は塔ノ沢温泉の福住楼も良いだろう。

芭蕉翁の名句に「箱根こす 人も有らし 今朝の雪」の句があるが、この句の前書きには「蓬左の人々にむかひとられて、しばらく休息する程」とある。貞享4年(1687年)に「笈の小文」で詠んだ句で、名古屋の熱田で門弟たちに迎えられた時の感慨である。芭蕉翁が江戸を発ったのは10月で、この年は故郷の伊賀上野で越冬している。雪の降る箱根の山を越えたわけではないが、雪の峠を越える危険性を危惧したようである。私自身も雪の箱根山を見たことがないので、どんな雪景色なのか見てみたいと思う。富士山の雪景色は何度となく眺めているので想像がつくが、箱根山は全く想像がつかない。その年によって降雪量は違うだろうし、大涌谷は地熱によって溶けていまうだろうし、どんなものだろう。

43天城山

【別名】狩野山、尼木山【標高】1,406m(万三郎岳)、1,299m (万二郎岳)。

【山系】伊豆半島(天城連山)【山体】成層火山【主な岩質】安山岩。

【所属公園】富士箱根伊豆国立公園【所在地】静岡県。

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】天城神社

【登頂日】平成22年11月21日【登山口】天城高原ゴルフ場【登山コース】上り馬ノ背コース・下りシャクナゲコース。

【登山時間】3時間0分【登山距離】8.4㎞【標高差】515m。

【起点地】三重県四日市市。

【主な名数】八十八座九十図、日本百名山、名峰百景、森林浴の森100選、水源の森100選、花の百名山、新日本百名山、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】湯ヶ島温泉。

中腹より眺める天城山

平安時代初期、真言宗開祖・空海大師が巡錫。

今週は京都の愛宕山へ日帰りで登ろうと計画していたが、前日になって気持ちが変わり急遽、天城山に日帰りで登ることを決心した。天城山登山は、修善寺温泉にでも泊まって年内までに登る予定であったが、1日でも早く、日本百名山登山の今年のノルマを達成して、安心したかったのである。百名山の未だ見ぬ姿に固執し、旅の優先順位は第1位である。

いつも混雑する東名高速道路は、走りたくないと常日頃思っていたが、慣れて来ると沼津インターまでの上りは楽勝となった。伊豆の修善寺までは以前に訪ねたこともあって道は知っていたが、伊豆スカイラインは初めて走行する道路で、未だに有料道路となっているのは驚いた。私の住む秋田県には、5ヶ所の有料道路があったが、すべてが廃止されて久しい。伊豆スカイラインは37年(1962年)に開通されているので、償還期間は終わっていると思われるが、静岡県が永遠に通行料金を徴収する姿は異常と言わざる得ない。

天城峠は良く知っていたが、天城山につては殆ど無知で、天城山が伊豆半島の中央部に連なる天城山脈の総称であることを知ったのは最近の事である。標高1,406mの万三郎岳が最高峰で、小岳(1,360m)、万二郎岳(1,299m)の主峰がその前後に連なる。万一郎岳は何処にあるのだろうと、『日本百名山地図帳』にルーペを中てて探したが何処にもない。私が思うには、万三郎岳を万一郎岳として、小岳を万二郎岳に、万二郎岳を万三郎岳とした方が理解しやすいと思うのであるが。伝説によると、かつて天城山に住んでいた天狗の兄弟の名前に因むと聞くが、私には奈良から伊豆に流されたと言う修験道の開祖・役小角(634-701)の伝説の方が親近感をもって思いおこされる。

天城山の山名についても、高く聳える天の城という説と、木甘茶を産したことから「あまぎ」となったという説もあって理解に苦しむ。山名は時代によって変名しているのが現実であり、天城山は狩野山とか、尼木山と呼ばれた時代もあったと聞く。川端康成(1899-1972)の不朽の名作『伊豆の踊子』で、天城峠の名が世に知られた訳だから天城山の名で定着して欲しいと願うばかりだ。

登山口は天城高原ゴルフ場の入口の道路脇にあったが、天城山への案内標識が道路に全くなかったのは不便に思われた。暖かな小春日和の天気で、山頂には若干のガスが立ち込めているだけで、快適な登山である。万二郎岳までは、ヒノキやスギ、ブナなどの原生林に覆われていて、豊な植生に目を見張った。

万二郎岳の山頂に至ったが展望は悪く、小休止もせず前に進んだ。馬の背からアセビのトンネルを抜けると、ラクダの背に似た万三郎岳の山頂が見えて来た。石楠立という難読な地名の場所は、アマギシャクナゲと言う固有種の石楠花が群生するとの事。高木の原生林ばかりではなく、灌木のアセビやシャクナゲが咲く季節を想像した。『花の百名山』という本も出版されているようで、この天城山は8番目に紹介されている。

先行する登山客を追い越し、万三郎岳の山頂に到着したのは登山開始から1時間30分後である。山頂には、一等三角点の石柱と山頂を表示する標識はあったが、祠や小社の類は無かった。ただ「弥栄の神」という石碑が小じんまりと置かれているだけである。山頂の眺望は、樹木に遮れて褒められたものではなかったが、その間に富士山が眺められたことが印象深い。大室山も洗面器を伏せたような山容で、私の登山を誘っているようだ。

「日本百名山」の標準的なコースタイムから選定した「楽々百名山三十三座」では、暫定ランクは28位である。「楽々百名山三十三座」は、山頂までの最短コースに限られるが、天城山は万二郎岳を経由したコースの方が近いようだ。登山ペースには個人差があって、コースタイムだけでは難易度の判断はむずかしい。コース距離も高低差によって異なってくるので、距離だけの判断も無理がある。私は標高差と距離から難易度を決めているが、実際に登山していみないと判らないのが登山の奥深さである。

緩さかで広い登山道は遊歩道のようであり、登山と言うよりもハイキングをしているようである。紅葉は終盤となり、落ち葉の登山道を歩くのは気持ちの良い。山頂付近には山小屋や避難小屋がなかったので物足りなさを感じるが、都心から日帰りで登山する人々には丁度いい山なのかも知れない。

帰りは山頂直下からシャクナゲコースを下山したので、上りの登山客と会うこともなく、独占状態で落ち葉の絨毯を歩いた。涸沢付近では苔生した岩石や倒木が点在し、日本庭園のような雰囲気である。シャクナゲコースは四辻で本コースと合流し、駐車場が間近となる。3時間ジャストの登山は、多少の物足りなさを感じるものの、これも「日本百名山」の1座だと思うと念願の1つが叶ったことになる。

車に到着するとリュックを降ろし、ゴルフ場の売店に行って山のバッヂを探したが置いてないようである。付近には土産物屋などもなく、天城山脈を大きく迂回して天城峠の売店まで行かないと駄目かと思った。伊豆スカイラインを走っている途中に、「万天の湯」という日帰り温泉があったので立ち寄ってみた。以前は中伊豆荘という国民宿舎であったが、日帰り温泉として伊豆市が営業しているようだ。中に入ると、料金所のガラスケースの上に、天城山のバッヂが売られているのを見て歓喜の声を上げた。山小屋やロッジがないと、バッヂ探しは困難を極める。大変幸運であり、登山以上に嬉しい気分となった。露天風呂から富士山を遥拝し、優しく見守ってくれた富士山にも感謝した。

予定よりも早い下山であったので、国道136号線の道路沿いにある上白岩遺跡を見物した。旅先の名所や旧跡は「何でも見たやろう」というのが私の旅の流儀であり、予期もしない場所に遺跡があれば素通りは出来ない。また、国道1号線沿いの沼津市清水町にも、有名な柿田川湧水群があるので立ち寄った。柿田川湧水群は、富士山の伏流水が湧き出る川で、「名水百選」にも選ばれている。その清流は、長良川、四万十川と共に「日本三大清流」と称されているそうだ。「名水百選」も知らず知らずの内に、30ヶ所も回っていた。「日本百名山」に関わる「名水百選」も多く、立山の玉殿湧水や剣山の御神水は忘れらない。

沼津インターから再び東名高速道路に上ったが、道草をして過ごした時間が長くなり、混雑する時間帯に突入してしまった。先々週よりも渋滞が激しく、岡崎から豊田まで1時間以上も要し、四日市のレオパレスに着く頃は、大好きな「笑点」が終わろうとしていた。この番組は、毎週欠かさず見ていたので少々残念に思われた。

「登山より 危険できつい 高速道 睡魔を乗せて 渋滞を行く」 陀寂

44富士山

【別名】不二山、芙蓉峰、八葉嶽【標高】3,776m(剣ヶ峰)。

【山系】独立峰【山体】成層活火山【主な岩質】安山岩。

【所属公園】富士箱根伊豆国立公園【所在地】静岡県/山梨県。

【三角点】二等【国指定】特別名勝(景観)・天然記念物(樹海と風穴)・史跡(霊場)。

【関連寺社】富士山本宮浅間大社(静岡県)、北口本宮冨士浅間神社(山梨県)。

【登頂日】平成20年9月27日【登山口】河口湖口駐車場【登山コース】お鉢一周・吉田口コースピストン。

【登山時間】8時間5分【登山距離】20.8㎞【標高差】1,471m。

【起点地】石川県野々市町。

【主な名数】日本三名山(富士山・立山・白山)、日本四名山(富士山・立山・御嶽山・大山)、日本八景(中世)、八十八座九十図、日本百名山、名峰百景、新日本百景、新日本旅行地100選、新日本観光地100選、日本の自然100選、森林浴の森100選、日本の音風景百選、日本遺産百選、日本の地質百選、新日本百名山、百霊峰、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】富嶽温泉、須走温泉。

外輪山から望む剣ヶ峰

貞観17年(875年)、漢学者・都良香が登頂。

富士山(3,776m)に登るためにこの1ヶ月間、トレーニングを兼ねて休日の登山を繰り返して来た。白山や燧ヶ岳では約15kmを歩き、富士山に挑戦できそうな体力と気持ちになった。天気予報の晴天を信じて、午前3時には起床して、その30分後に金沢を出発した。

東海北陸道の飛騨清見インターを降り、国道158号線を松本へと向かった。阿房峠道路のトンネルを抜け長野県側に入ると、上高地に向かう対向車と頻繁にすれ違い、「こんな早くから」と上高地の人気の高さを思い知らされる交通量である。松本に向かう車は少なく、夜が明けた頃にはスムーズに長野自動車道へと上り、中央自動車道の大月から東富士五湖有料道路に入った。路上からは富士山が美しい容姿を現して歓迎してくれた。気持ちが高揚する中、河口湖インターで降りて、更に富士スバルラインを上って河口湖登山口に着いたのは、午前8時30分であった。金沢を出て5時間ジャスト、約400kmの運転に少々疲れ気味であったが、秀麗無比の富士山を仰ぎ見るとシャキッとした気分にさせられる。

この河口湖登山口には、ふた昔前に倒産した会社の慰安旅行で秋田から訪ねたことがあ

った。記憶の片隅に残っていた観光乗馬や小御嶽神社の赤い鳥居などが、なつかしく思い出される。身支度を調えて、以前に西穂山荘で求めた木製の杖を片手に出発した。この杖と山登りを共に過ごすのは、8回目となったが、同じような杖を持った登山者と合ったことが無いのが寂しい限りで、折畳み式のストックに替えるべきかと考えてしまう。

登山道に入り、下山して来る登山者らと挨拶しながら進むと、河口湖口の登山道がクロ

ーズとなっていたため、1㎞ほど下った富士吉田口から登る羽目となってしまった。余計に歩く時間と体力の消耗が勿体無く、何か損をしたような気分になる。

登山道は火山灰と石炭の燃えかすのような礫地で、歩き易いが景観としては最悪である。天候もよく快適的な登山となり、何人かを追い越し7合目へと辿り着いた。バラックとしか見えない小さな山小屋が斜面に点在し、世界自然遺産を逸した理由が理解できる。その付近では登山道の擁壁工事が行われていて、重機のバケットが自然のままの景観を歪める。

8合目に到ると、牛歩の歩みとなり殆ど足が上がらなくなっていた。体に負担をかけまい

と、溶岩流跡の岩場では、杖を巧みに用いて小刻みに足を上げて登ったが、腕力も衰えて杖にも力が伝わらない。ここでリタイヤする気は全くないが、のろまの亀もいずれはゴールするだろうと、自分自身を叱咤した。そして、富士登山のために購入した携帯用の酸素ボンベで酸素を吸引すると、途端に元気が出てくる。

しかし、根本的な原因は酸欠ではなく、睡眠不足と5時間に及ぶ運転による体力の疲労であり、ゆっくりと登るたけだった。ここまで他の登山者に越されたことが無かったが、登山慣れした中年の女性にあっけなく越されてしまった。その女性が9合目で連れ添いを待っている間、追い付いて何とか私の方が先に山頂に立ち、男の面目を保つことができた。山頂といっても、富士吉田口の山頂であり、はるか彼方に気象観測施設のある剣ヶ峰が聳えていた。岩場には氷柱が垂れ、想像もしていなかった光景である。とりあえず、剣ヶ峰を目指して、外輪山を縦走するお鉢廻りを歩いた。

日本の国体の象徴は、一部の日本人を除き天皇陛下であると言うだろうが、日本の国土

の象徴を万人は富士山と認めるだろう。日本人は古来より天地自然を崇拝する民族であり、一部の日本人を除き神道と仏教を信奉する国民でもある。根本的な日本人の信仰は、天地自然の天であり、福沢諭吉(1834-1901)翁の言葉を借れば「天は人の上に人を創らず、人の下に人を造るらず」の天を信じているのである。神も仏も人間が作った信仰であるけれど、宇宙の真理と地球の実態は天地であり、富士山の存在も天地の一つである。

富士山に最初に登山した有名人は誰かと調べた所、聖徳太子(574-622)が推古6年(598年)に登頂したとされ、役小角(634-701)が天智2年(663年)、都良香(834-879)が貞観17年(875年)に登頂したとされる。また、坂上田村麻呂(758-811)と空海大師(774-835)も登ったとされるが、信憑性が高いのは官人だった都良香で、「富士山記」を残している。富士山を詠んだ和歌の中で、奥州平泉に赴く際に西法法師(1118-1190)の和歌が印象的である。

「空になびく 富士の煙の 空に消えて 行方もしらぬ わが思ひかな」 西行

山頂には八つの峰があり、明治の廃仏毀釈以前は八葉蓮華と呼ばれて仏の名前が峰の名前になっていたと聞く。富士宮口の山頂には、浅間神社奥宮が建てられていて、自己責任で登って来た登山者が多くいた。山小屋も数軒あったが、営業している山小屋は一軒もない。奥宮に参拝して、いよいよ剣ヶ峰への道を登った。山頂には若者が2人いて、互いのカメラのシャッターを押し合った。夢にまで見た標高3,776mであり、数えの五十五歳になる私にとって、人生最大の旅となった。

日本一の山頂の風景は値千金であり、雲海の間から広大な関東平野が望まれたが、駿河湾は時計の指針方向にお鉢を廻らないと見えないようである。何度となく遠望した美しい富士山の円錐形ではあるが、山頂の岩稜景観は予想外で、休火山の大迫力を感じる。剣ヶ峰を下山しながら唱歌「ふじの山」を歌い、駿河湾の展望を眺めて意気揚々と行くと、火口付近で吹き飛ばされそうになった。青ざめた私は、引き返すことも考えたが、吉田口が近づいていたので、体を縮めて地面を這い蹲るように通過した。富士山火口で突風に飛ばされて転落死した話は聞いていたが、自分の身に迫るとは全く考えていなかった。

登山の無事を感謝して久須志神社を再拝し、山小屋の脇のベンチで遅い昼食を食べた。午後2時を過ぎていたが、単発的に登山者が目の前を通過する。特に欧米人が多いのには驚いた。「富士山はまだ世界遺産ではないぞ!」と叫びたい雰囲気であったが、「こんにちは」と日本語で挨拶されると急に親しみを感じる。

下山してから6合目に下りると、午後から停滞していた雲の中に入り、ガスに遮られ下山コースが良く見えなった。道なりにゆっくりと確認しながらコースを歩いていたら、見覚えのある吉田口に到着していた。約8時間の登山は、体力の限界に達していたが、歯を食いしばって登山口に戻った。河口湖5合目の散策路には、中国人の団体客が歩いていて、富士山を見えようとする外国人は欧米人よりも中国人が多いようだ。

車で5合目を下りて、近くの温泉宿にでも泊まろうとも思ったが、飛び込みで宿を探すのも面倒なので、眠くなったら車で仮眠することにして金沢への帰路に着いた。富士登山の満足感は、金沢に戻って祝杯を上げる気分に傾き、長い1日はまだまだ続く。

45霧ヶ峰

【別名】御射山【標高】1,925m(車山)。

【山系】霧ヶ峰高原【山体】成層火山・溶岩台地【主な岩質】安山岩。

【所属公園】八ヶ岳中信越高原国定公園【所在地】長野県。

【三角点】二等【国指定】天然記念物(湿原植物)

【関連寺社】車山神社、霧ヶ峯本御射山神社。

【登頂日】平成22年7月18日【登山口】車山肩駐車場【登山コース】車山コースピストン。

【登山時間】1時間0分【登山距離】3.4㎞【標高差】130m。

【起点地】三重県四日市市。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、花の百名山、かおり風景百選、日本の紅葉百選、新日本百名山。

【周辺の温泉地】毒沢温泉、下諏訪温泉、上諏訪温泉。

霧ヶ峰車山と白樺湖

古代、旧石器人から縄文人が霧ヶ峰に居住。

霧ヶ峰は霧ヶ峰高原と称した方が馴染み深く、山と高原はイメージ的に異なったものだと考える。表面上は山も高原も一帯であるが、山には禅風的な険しさがあって、高原には牧歌的な優しさがある。霧ヶ峰高原はゲレンデのスキーや湿原のハイキングが主で、登山の対称として見る人はいないが、「日本百名山」に選ばれた理由を探ってみたい。

霧ヶ峰は以前に訪ねたことがあったが、遠い昔のことで記憶に殆ど残っていない。東京から信越本線で小諸を散策し、その日は上諏訪温泉の旅館に泊まって、翌日に霧ヶ峰と白樺湖を見物した。その時の旅の様子を写真や日記にでも残していれば、何度も思い起こすことが出来たであろうが、カメラも買えなかった青年時代の空白が惜しまれる。

霧ヶ峰の最高峰は車山(1,925m)で、中央自動車道を走っていると白いドーム型の気象観測レーダーが目に入り、車山の所在を認識することができる。午後5時50分頃に霧ヶ峰に入り、登山口のある車山肩に到着した。車山はなだらかな丘陵のような山で、車山肩からは山頂が見えないが、山頂までの『日本百名山地図帳』の標準タイムが40分となっていたので気軽な気分でレンゲツツジが密生した緑の山肌を眺めた。

登山を開始したのが午後6時15分であったが、山頂に向かう観光客が数人いて、私も直ぐにその後を追った。空木岳では新調した登山靴を履いたため、踵に肉刺ができた。柔らかい地下足袋に変えたの良かったが、小石だらけの遊歩道は、地下足袋では歩きづらく、快適な登山とはならなかった。立ち入り禁止の草地には、霧ヶ峰の名物であるニッコウキスゲの花が咲き、山頂まで一直線に伸びる旧登山道の方が歩き易そうである。

車山肩から25分ほどで山頂に至ると、数人のカメラマンが霧ヶ峰の夕日を撮影していて、気象観測レーダーの近くではアベックが肩を寄り添えていた。レーダーのアンテナを覆うドームの大きさと高さに驚くと同時に、車山にレーダーが設置されたことで富士山の気象観測が中止されたことを知った。同じ百名山同時が、妙な因果関係にあるものである。

車山高原スキー場のリフトが山頂まで伸びていて、営業時間中にリフトを利用すると1分ほどで山頂の標柱の前に立つことができる。「日本百名山」の中でも最短最楽のコースのようで、ここまで短縮されると登山の味わいは全くなく、幻滅を感じるしかない。深田氏が百名山を選定した当時とは名山の状況や価値観が変わっており、それでも百名山とすることにやはり疑問を感じるのは私だけもないと思う。

山頂には車山神社の小社が鎮座し、四方八方に見える霊山と結びついているようだ。そして、日も落ちて北の美ヶ原、西の乗鞍岳、南の甲斐駒ヶ岳、東の蓼科山・赤岳と、「日本百名山」の山々が目前から消えようとしている。北アルプスに沈む夕日はとても美しく、この草原の広大さに脱帽しながらしばらく眺めた。

車に戻り、強清水のキャンプ場に向かったが、暗くなったのでテントの設営が面倒になって温泉旅館に空室を探した。もう午後8時近くになっていたが、道路端の旅館が素泊まりならと受け入れてくれて、温泉で疲れを癒すことができた。右足の踵には大きな肉刺が出来ていて、水疱は既に破れていた。皮を剝いて浴槽に浸すと、痛みが脳天まで達する。やはり、ゴァテックスの登山靴も私の足に合わないようで、空木岳のような長距離歩行には履けないようである。私の足にはスパイク付き地下足袋か、ゴム長靴が一番良いようだ。

3連休とあって旅館は満室のようで、トイレが共同であったことやエアコンがなくて暑苦しかったことなど不満が残る。家電メーカーの某社が、エアコンに「霧ヶ峰」という商品名を付けてヒットを飛ばしたが、あのイメージが残っていて霧ヶ峰の涼風を楽しみにしていただけに残念に思う。しかし、昔ながらのの旅館が健気に残っているのは嬉しい反面、この霧ヶ峰の道路沿いにも廃屋となった旅館の建物があったのは痛々しく見えた。

少子高齢化やアウトドアスポーツが衰退する中、温暖化の影響もあって廃業となったスキー場も多く、霧ヶ峰スキー場も例外にもれず存亡の危機にあるようだ。私のホームゲレンデであった田沢湖高原には、4ヶ所のスキー場の内に3ヶ所が廃業し、田沢湖国際スキー場の1ヶ所のみという悲惨な状況となった。

翌朝、霧ヶ峰に1店だけあるガソリンスタンドの開店を待って、高原の周辺を散策した。北アルプスの山並みが、まだ雪を残して横一直線に聳えている。観光馬に跨った少年少女が草原の風に吹かれながら馬子にひかれて行く。晴天にも関わらず観光客が打ち鳴らす霧鐘塔の鐘音が聞こえ、爽やかな高原の風景を肌で感じる。やはり、霧ヶ峰は高原であり、登山を主目的に登る山ではないようだ。

霧ヶ峰の強清水を出発し、次の百名山登山は蓼科山か美ヶ原かと迷っていたが、霧ヶ峰から美ヶ原まではビーナスラインで一直線でもあり、午後3時過ぎには高速道路に乗りたいと思っていたので、名古屋方面に近い美ヶ原の方を選んだ。また、途中にある八島湿原を見物するのも良いだろうと考えた。

霧ヶ峰の魅力は、広大な高原と八島湿原(八島ヶ原湿原)の存在だと認識していたが、八島湿原には行ったことがなく心ときめかせながら立ち寄った。緑の一色の鷲ヶ峰が美しく見え、昨日に登った車山の白いドームも良く見える。散策路はすべて木道で、コバイケソウやノハナショウブなど花が咲いている。

高山植物の名前は殆どカタカナが多く覚えるのが中々と大変で、コバイケソウの名前はプロ野球球団・広島東洋カープの往年の名監督・古葉氏をもじって、来季も「古葉で行けそう」と覚えたものである。図鑑に漢字が併記してあると覚えやすいけれど、山菜でもあるシオデ(牛尾菜)は、逆に漢字を覚えるのが大変な名前でもある。

八島湿原は尾瀬に次ぐ高層湿原であるが、尾瀬ほどの雄大さはなく比較するのが馬鹿げていると思う。尾瀬にもない八島湿原の圧巻は、鎌ヶ池に点在する小岩の風景である。澄んだ池の青さ、水面に立ち並ぶ小岩の配置には浄土庭園の極致を見るようである。日本庭園でも表現できない美しさに何度となくカメラのシャッターを押した。日本庭園の美観は、所詮は自然美の真似であり、この目の前に佇む純粋無垢な景色を超えられないと感じた。

八島湿原からの帰り際、入口付近に立つ「あざみの歌」の歌謡曲碑を見つけた歩み寄った。ユースホステルのミーティングでよく歌われた名曲であり、懐かしさもあって石碑の歌詞を目で追いながら口ずさんだ。諏訪出身の歌人・島木赤彦(1876-1926)も忘れられない。

「霧ヶ峰 登りつくせば 眼の前に 草野ひらけて 花咲きつづく」 島木赤彦

46八ヶ岳

【別名】南八ヶ岳、北八ヶ岳【標高】2,899m(赤岳)、2,646m( 天狗岳)、2,480m(横岳南峰)。

【山系】八ヶ岳連峰【山体】成層火山【主な岩質】玄武岩・安山岩。

【所属公園】八ヶ岳中信越高原国定公園【所在地】山梨県/長野県。

【三角点】一等【国指定】天然記念物(植物)。

【関連寺社】八嶽神社。

【登頂日】平成22年7月25日【登山口】美濃戸口駐車場【登山コース】上り文三郎屋根コース・下り中岳コース。

【登山時間】6時間18分【登山距離】11.1㎞【標高差】1,199m。

【起点地】三重県四日市市。

【主な名数】八十八座九十図、日本百名山、名峰百景、新日本観光地100選、日本の地質百選、新日本百名山、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】渋ノ湯、唐沢鉱泉、本沢温泉、夏沢鉱泉、鹿の湯。

八ツ岳と千曲川

江戸時代中期、泉野に住む行者が赤岳権現を祀り開山。

白樺湖から八ヶ岳の登山口である美濃戸へと走ったが、途中で尖石石器時代遺跡の看板が目に付いた。立ち寄ってみたかったが、時間も遅くなっていたので素通りするしかない。旅先では、神社仏閣や城郭、庭園めぐりを優先させているために古代遺跡の見学は後回しにされて来たが、極力見てみたいと思うのが私の旅の新たな信条である。遺跡を目の前にして素通りするのは、勿体無い気もするが足腰が弱まったらゆっくり来ようと思うだけだ。

大門街道から三井の森や鹿島の分譲地に入り、優雅な別荘地の週末を見物した。赤岳の最短コースでもある美濃戸口に続く道路が閉鎖されていて、原村の集落に戻ってから心細い林道の終点に着いた時は日が暮れようとしていた。赤岳山荘で駐車料金とキャンプ代を2,500円払ったが少々高いように感じた。放浪の旅以来、36年ぶりに1人用の黄色い三角型テントを張った。最近の小型テントは、カマボコ型やドーム型が主流となっていて三角型テントは殆ど見かけることが無い。時代遅れの恥ずかしさもあって、車の横に身を隠すようにテントを張って八ヶ岳山麓の夜を過ごした。

八ヶ岳は広大な裾野を持つ連峰で、主峰赤岳(2,899m)のある南八ヶ岳と、横岳(2,480m)のある北八ヶ岳に分類されている。富士火山帯に属する成層火山で、横岳だけが活火山に指定されいてる。稜線が県境と重なって長野県と山梨県に区分され、山梨県には有名な清里高原がある。清里高原は車で2・3度通過しただけで、泊まって遊んだことはないが軽井沢に次ぐ避暑地として人気が高かったことを思い出す。

夜明けを待って起床し、午前5時には他の登山客に交じって登山を開始した。赤岳鉱泉を経由する北沢コースと、行者小屋へ直進する南沢コースとあったが、最短で赤岳に登ることを目指していたので、南沢へと入って行く。この登山コースには案内標識がなく、漠然と登って行くだけであったが、途中から中岳や阿弥陀岳が見えた時は感歎の声を上げた。

登山道には、エキスパンドメタル(鋼製網目板)で設えた長い踏段があったが、こんな利用方法があるかと感心して踏んだ。よく登山道の木段や石段を階段と表現している場合があるが、山は建物ではないのだから、登山道の石段や木段を階段と呼ぶのはおかしいと思う。私は登山道の階段を単に石段や木段と表記し、それ以外は踏段と呼んでいる。

早朝にも関わらず、行者小屋の広場はキャンプしている登山客で賑わっていた。山小屋では「おでん」まで売られていて、缶ビールでもつい飲みたくなって来る。登り始めて2時間、文三郎道を越えて中岳への分岐地点に到着すると、赤岳山頂は目前である。旭岳や権現岳も目前に屹立し、北アルプスの山々が棚引く雲の上に連なっている。

登山道は鎖場と梯子の岩山となり、超スローテンポで登る老齢の団体客が道を遮る。夏山シーズンに入った八ヶ岳は、人気が高いだけに老若男女の中には軟弱な登山者も多く、ペースを乱されるのが厄介である。硫黄岳へと続く赤褐色の絶壁は、さながら屏風絵のようであり、朝日に照らされて美しい。午前8時35分には山頂に到着したが、既に数10人の先客が狭い山頂で休息していた。

富士山は無論こと、御嶽山もはっきりと見え、しばらく写真を撮りながら山々に目を凝らした。山頂にはいくつか石祠が祀られていて、今も霊山として崇められているようだ。赤嶽神社の祠がこの山の山神様なのだろうが、前日の蓼科神社に比べると少々見劣りする祠であるが、山頂の面積に準じた社殿や祠が相応しいと思う。

山頂付近はハイマツと共生しているシャクナゲの白い花が咲き誇っていて、思わす花弁に手を差し伸べてみる。「立てばシャクナゲ、座ればボタン、歩く姿はユリの花」と言われるように、シャクナゲは美人の形容であり、特別な思いを抱かせる。

「石楠花に 手を触れしめず 霧通ふ」 臼田亞浪(石楠の俳人)

頂山小屋行きをパスして、中岳の山頂に立ち寄ったが、正面の阿弥陀岳の急登は数珠つなぎの行列で、阿弥陀岳登山を諦めて私は行者小屋へと登山道を下った。行者小屋では、パンを食べながら登山客の様子を眺め、夏山の賑わいを再び肌で感じた。

登山者は高齢者が圧倒的であり、五十代半ばの私はまだ壮年の部類に入るのだろうか。特に女性が多いことに驚くし、昔の岩山には女性が少なく、高齢者は滅多にいなかったものである。ゲレンデも同様に、私の若い頃はコブや急斜面に女性はいなかったが、今は多くの女性がそこを滑っている。モーグルスキーで活躍しているのも女性が多数だ。

車で林道を走りはじめて、下山途中に挨拶を交わした中年女性がひとり、林道をトボトボと歩いていたので車に乗せて美濃戸口まで送った。登山中は滅多に他人に声を掛けることのない私であるが、林道歩きを好む登山者はなく、気の毒に思ったのである。

「数分の 山の話も 忘れ得ぬ 一期一会の 夏山の旅」 陀寂

八ヶ岳人気の高さを調べると、山と渓谷の読者が選んだ「日本の山100」では1992年(平成4年)版では6位に、2002年(平成14年)版では7位にランクされている。また、NHKが2006年(平成18年)に視聴者の投票によって選んだ「日本の名峰50」では8位となっている。少しつづランクを下げているが、ヤマケイでは8位と5位になっていた富士山が、NHKでは1位にランクされているので、山の評価は時代や世代によって変わっているようだ。

当初、八ヶ岳は富士山頂の八葉のように8つの峰から構成されていると思っていたが、南八ヶ岳だけでも8座以上の峰々がある。「八百万神」のように八の字は、多数の峰々を意味するらしい。山の名称は、その山の特徴を現す場合もあり、主峰の赤岳は岩肌が赤みを帯びた褐色なので、そう呼ばれているそうだ。

八ヶ岳はとごからでも眺められる山で、JRの中央本線と小海線の車窓からも雄大な山塊が望まれる。晴れた日に中央自動車道を走っていると、残雪に包まれた八ヶ岳の雄姿には脇見運転を強要される。茅野から麦草峠を越えて佐久穂へ抜ける縦断道路があり、山麓と南八ヶ岳と北八ヶ岳の間を走行できるのである。また、北八ヶ岳の山麓にはスキー場が4ヶ所もあって、登山に限らず夢中になれる山である。

八ヶ岳の山域は温泉や鉱泉が多く点在し、1つ1つ入浴してみたくなる。赤岳鉱泉に入って下山する手もあったが、夏の盛りでもあり、入浴後に再び汗を搔くのも考えものと思い断念した。スキー場と温泉地がペアのような存在であるよう、登山口に温泉があれば理想的である。その要件を満たす八ヶ岳は何度でも来ようと思っているので、次回は縦横無尽に縦走しながら温泉三昧と行きたい。

47白馬岳

【別名】西岳・西山(長野県側)、大蓮華岳(富山県側)【標高】2,933m(本峰)。

【山系】飛騨山脈(後立山連峰)【山体】褶曲隆起山岳【主な岩質】蛇紋岩。

【所属公園】中部山岳国立公園【所在地】富山県/長野県。

【三角点】一等【国指定】特別天然記念物(植物)。

【関連寺社】白馬岳神社。

【登頂日】平成22年9月26日【登山口】猿倉荘駐車場【登山コース】大雪渓コースピストン。

【登山時間】8時間0分【登山距離】14㎞【標高差】1,682m。

【起点地】三重県四日市市。

【主な名数】白馬三山、日本二十五勝、日本百名山、名峰百景、花の百名山、新日本百名山、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】鑓温泉、蓮華温泉、元湯栂の森。

白馬山荘と山頂

明治16年(1883年)、北安曇郡長・窪田畔夫らが初登頂。

北アルプスの穂高岳、槍ヶ岳、剱岳の三山を「日本三名山」とアルピニストたちは呼んでいるらしいが、白馬岳(2,933m)を入れて「日本四名山」としたいのが私の気持ちである。白馬岩岳スキー場にスキーに来て以来、白馬岳の山並みが好きになったが、白馬岳山頂に実際に登ろうと思ったのは百名山登頂を目指してからのことである。

白馬岳はシラウマタケと呼ぶそうだが、自治体が白馬村なので、ハクバダケと呼んでも良いと思うが、登山家の人たちには頑固者が多く、読みやすい名前に変えてくれない。南アルプスの光岳と同様に難解な山名は、山だけに頂けないものである。古くから白馬岳は、神聖な山とされて来て、修験道の開山もなく前人未踏の山であった。明治16年(1883年)、北安曇郡の初代郡長であった窪田畔夫(1838-1921)が、随行者8名と初登頂して開発された。

そのため霊山的な雰囲気がなくても、威厳に満ちた尊く美しい山である。

白馬岳は後立山連峰の盟主と言われるが、後立山とは富山県側から見ての立山連峰の後方に位置することから呼ばれるようになったと推察する。後立山連峰は南の爺ヶ岳から北の朝日岳まで範囲を指している。この中には五竜岳と鹿島槍ヶ岳の百名山があるが、白馬岳の存在感は他を圧倒しているように感じる。白馬岳から南に連なる杓子岳と鑓ヶ岳は、「白馬三山」と称されていて、その三山を縦走するのも将来的な目標と考える。

白馬村の旅館を夜明け前に出て、コンビニで食糧を購入してから猿倉荘の登山口に向かった。午前5時頃にヘットライトをつけて駐車場を出発したが、長袖シャツにジャンバーを着ただけではめっぽう寒く身震いがする。林道を歩いていると、樹木の間から十八夜の名月が輝きを放ち、顔を出している。私はその名月に手を合わせ、その美しさに感謝した。

「名月に 誘われ行く 大雪渓」 陀寂

背中に朝日を浴びる頃、大雪渓上に浮かぶ白馬岳に名月は消えようとしていた。こんな美しい山の眺めは、初めて目にする景観であり、夢中でカメラのシッターを切った。ちょうど良い時間帯に登り始めたのがラッキーであったが、月見と雪見が一緒にできることは想像もしていなかった。大雪渓入口には白馬尻小屋があり、簡易なアイゼンが販売されていたが、ピンのある地下足袋を持参していたので何とかなるだろうと踏んだ。

設置意味の不明な大きなケルンを過ぎると、いよいよ大雪渓への登りとなる。9月の終わり近い時期に残雪を見るのは初めであり、消え細ってはいるものの2kmほどの距離がある。山の名数には、「日本三大雪渓」というものがあって、この白馬大雪渓の他に針ノ木岳の針ノ木大雪渓と剣岳の剣沢大雪渓がある。大概の雪渓はサマースキーのメッカでもあり、この大雪渓にも憧れていたが、想像していたよりも斜面が緩かであった。おそらく、飯豊山の石転び沢大雪渓の方が距離も規模も大きいだろう。

途中で滑りそうになり、ゴム長靴からピン入りの地下足袋に履き替え登ったが、下山の方が大変そうに見える。急な登りが続くが、渓谷の美しさや奇岩怪石に目を見張っていると、疲れが癒されそうである。大雪渓の左側には、杓子岳の白い岩峰が聳え、大雪渓を登り切ると葱平にお花畑があって極楽浄土のような趣に見える。

お花畑には、黄色いヤマガラシ、紫色のオヤマリンドウやシロウマアザミなどの花が咲いていた。葱平の高山植物たちが、雪の布団から目覚めて太陽の恵みを得られるのは3ヶ月ほどである。日本で最も長い冬を過ごすことになり、この地に生きる高山植物の逞しさにはただ脱帽するばかりだ。白馬岳は「花の王国」とも呼ばれ、亜高山帯から高山帯にかけた山域一帯で350種を超えると言う。シラウマの名の付く貴種も多く、雪渓や雪田に積った雪の豊かさが、高山植物の宝庫につながっているようだ。

葱平には石室跡があり、近くには緊急用の避難小屋が建ち、その背後には鑓ヶ岳の鋭鋒が間近に聳えている。葱平から先は急登が続き、城砦のような村営白馬山頂宿舎が見えるが遠い道のりに感じる。小雪渓の雪は衰退していて、山頂直下に残っているだけだった。

何とか急登を乗越え、村営白馬山頂宿舎に到着して小休止するが、登山客は殆どいない。大雪渓に入って直ぐ、中年の男女を追い越しただけで他に誰も見ていない。秋晴れの日曜日というのに、あまりに少ない登山者に疑問視するばかりだ。山頂宿舎からは緩やかな登山道で、日本一の規模を誇る民営の白馬山荘が見えた。山荘のどでかい建物に圧倒されて、その先に見える白馬岳の頂きがとても小さく見る。

白馬山荘には下山時に立ち寄ることにして、一路山頂へと歩みを進めた。山荘の裏側には、豪華な御影石に「国指定特別天然記念物・白馬連山高山植物帯」と、富山県知事名で建てられた記念碑があった。42年前の石碑であるが、手入れがよくなされていて今でもピカピカである。しかし、山頂から長野県側に下がった場所が何故、富山県に属するのか疑問に思った。山頂の県境が曖昧な場合もあり、富士山は標高1,906mの小富士から外輪山まで山梨県と静岡県の県境線がない。白馬岳もそうかと思い、虫メガネで見てみると山頂の前後で県境線が途切れていて、富山県知事が記念碑を建ててもおかしくない訳だ。

山頂の直下に大きなケルンにレリーフが嵌め込まれて立っていたが、その人物像を確かめずに登りつめると、大きな大理石の方位盤がモニュメントのように立っていて、私はすでに白馬岳の山頂に立っていた。山頂に数人の登山者がいたが、私が到着すると山頂から去り、私ひとりが山頂の景色を独占した。

北に雪倉岳と朝日岳、西に黒部市街地と日本海、南西に旭岳と立山連峰のパノラマの景色が広がっている。特に三角錐の剱岳は直ぐに分かり、来年行くからよろしくと挨拶をした。更に南には杓子岳・鑓ヶ岳と五竜岳・鹿島槍ヶ岳が続き、その遥か先には本家の槍ヶ岳も見える。そして、東の雲海の彼方には、八ヶ岳と南アルプスが望まれた。鑓ヶ岳・鹿島槍ヶ岳・槍ヶ岳を直線上にヤリの3座が見られるのは、白馬岳ならではの眺望であろう。

山頂を下りて白馬山荘のレストランに入ったのが、まだ午前10時前であった。この山荘の収容人員は1,200人と聞き、その桁はずれの規模に驚くと同時に、標高2,832mに本格的なレストランがあったことに、私の抱いていた山小屋のイメージは一新された。

「絶品や モツ煮におでん 生ビール 白馬岳は 天空の園」 陀寂

 下山を開始して再び大雪渓を歩いたが、ピン打ちの地下足袋も完全ではなく、ストックを突きながら滑落に注意した。白馬尻小屋では大雪渓を下った安堵感に浸り、再びおでんを食べて寛いだ。そして、猿倉荘から車に無事に戻って8時間の登山を終えた。

48五竜岳

【別名】五菱岳、餓鬼ヶ岳、後立山【標高】2,814m。

【山系】飛騨山脈(後立山連峰)【山体】隆起山岳【主な岩質】流紋岩。

【所属公園】中部山岳国立公園【所在地】富山県/長野県。

【三角点】三等【国指定】特別天然記念物(高山植物)。

【関連寺社】なし。

【登頂日】平成23年8月6日【登山口】白馬五竜スキー場テレキャビンアルプス平駅【登山コース】遠見コースピストン。

【登山時間】7時間34分【登山距離】18㎞【標高差】1,214m。

【起点地】石川県野々市町。

【主な名数】日本百名山、名峰百景。

【周辺の温泉地】十郎の湯。

唐松岳より望む五竜岳

明治40年(1907年)、登山家・三枝威之助らが初登頂。

本州中部を南北に横断する糸魚川‐静岡構造線断層帯、その断層帯に平行するように屹立する大山脈が日本アルプスである。その中でも北アルプスと称される飛騨山脈は、名山名峰のオンパレードである。北方より飛騨山脈を分類すると、黒部峡谷を挟んだ西側に立山を主峰とする立山連峰、東側に白馬岳を主峰とする後立山連峰から成る。後立山連峰と言うのは、富山県側から見ての後ろに位置するからであろうが、長野県側から見ると逆になるわけで、「白馬連峰」と変えた方が偏見はないように思える。

今回は白馬連峰の中央にある五竜岳(2,814m)をゲットしたいと思い、登山を予定した。五竜岳登山は、白馬五竜スキー場のテレキャビンを利用して遠見尾根から登ると、日帰り登山ができそうある。早朝の運転が辛いので、前夜にスキー場前のホテルに泊まろうと思っていたが、日曜出勤を控えていたために土曜日の日帰り登山を強行することになった。

白馬五竜スキー場のテレキャビンは、午前6時30分から運行されると知って、その時間に間に合うように金沢を夜明け前の午前4時に出発した。白馬村までは順調であったが、白馬五竜スキー場は範囲が広く、飯森ゲレンデに入ってしまい、テレキャビンのあるエスカルプラザに着いた時は午前6時40分となっていた。

ロープウェイや登山バスを利用した登山は、最終運転時刻に間に合わないと、山中で野宿するか、引き続き徒歩で下山するしか術がない。テレキャビンの降り口にあるアルプス平から五竜岳へのピストン登山は、標準コースタイムが約12時間の長距離コースであり、午前中に山頂に到着しなかったら日帰り登山は無理となってしまう。

スキー場のゲレンデは、高山植物園となっていて、わざわざ登山をしなくても大概の高山の花は見られるようである。テレキャビンからリフトに乗って、咲き競う高山植物に目をそそいだ。アルプス平からは、昨年の秋に登った白馬岳が流れる雲間から顔を出して、私に挨拶をしてくれる。私も恋人でも見るような眼差しで、見つめ返して挨拶をした。

五竜岳の名は、山頂直下の雪形が甲斐武田氏の家紋である四ツ菱(武田菱)に似ていることから「御菱」と呼ばれたと聞く。また、この地方では断崖や絶壁を「菱」とも言うらしく、岩肌の岩稜が五本ほど走っていることから「五菱」が「五竜」となったと言う人もいる。また、餓鬼ヶ岳や後立山の別名があるようだが、表記されることはないようだ。

地蔵ノ頭の手前からの登山となったが、小遠見山まではハイキングとして整備され、ビール会社の寄贈した木段や木道が目に付く。早くも缶ビールが飲みたいと言う衝動にかられるが、山頂まではまだまだ先で、案内板には6時間と記されていた。

遠見尾根は人気の高い登山コースのようで、30人ほどの高齢者の団体が下山して来る。昨夜は五竜山荘にでも泊まったのだろうか、のんびりとした贅沢な登山を楽しんでいるようである。殆どが元公務員などの高額年金受給者が多いようで、死ぬまで税金で養われようとする姿勢は、生活保護受給者と同様で褒められたものではない。人間の生活は自給自足が理想的であり、自立自営の精神が肝要であろう。

小遠見山から中遠見・大遠見、更に西遠見と歩き易い遠見尾根を進むと、白岳(2,541m)の急登が遮る。しかし、足元付近に咲く様々な高山植物を見ていると、喘ぎ声が感歎の声へと変わり、白馬連峰の山は何処も高山植物の宝庫のようだ。その喜びも束の間、五竜山荘に到着する目前に雨が降り出し、山荘へと一目散に避難する。

山荘の玄関は登山客で溢れていたが、入口の軒下でコーヒーを飲みながらパンを食べ、休憩した。そして、汗と雨で濡れたシャツとズボンを脱ぎ、愛用の合羽に着替えた。今回は安物の膝当てを捨て、大枚2,500円で購入した膝用のサポートを装着した。宮之浦岳登山で痛めた左膝が完治せず、その傷みに苦しみられているのである。

リュックを山荘の入口にデポし、傘と杖、水とカメラ、貴重品と手帳だけを持って午前11時40分に山荘を出発した。小雨降る中、目前に見える頂が山頂かと思ったら、G0と称されるピークであった。そのピークを過ぎると、明らかに五竜岳の頂上と思える岩稜が薄らと見えて安堵の気持ちが過る。

この雨の中でも、私と同じように時を惜しんで山頂を目指す登山者がいる。数人の下山者と挨拶すると、岩場の急登となり、傘を畳んで滑り止めの手袋で岩に手を添えて登る。傘を差したままだと、姿勢が高くなり、岩場の上ではバランスを崩し易くなり危険である。何度となく「ヒヤリハット」を経験したので、岩場では手を使って登るようにしている。そんな中、黒ずくめの服装をした若者ひとりが私を追い越して行く。岩場ではいつも腰を引いて慎重になるので、遅いペースとなってしまう。

ほどなく山頂に到着し、「日本百名山」の84座目の登頂を達成した。山頂の標柱の回りには、誰も登山者がおらず、再び傘を差して標柱を写真に撮った。先行した若者の姿を探すと、黄色い×点記の先の岩に座っていた。霧雨に霞み、黒ずくめの若者は岩と一緒に見え、ケルンか石仏かと思ったほどである。山頂に立っていても眺望は全く望めず、10分ほどで下山を開始した。再び五竜山荘に立ち寄って缶ビールを買い、単独登頂を祝福した。最近は安いサラミソーセージを持参して、ビールのツマミとして丸かじりするのである。これがまた旨くて、登山には欠かせない食料となっている。

白馬連峰南の爺ヶ岳から北の小蓮華山まで尾根道で結ばれていて、2泊3日の大縦走を行うことも可能のようだ。そうすれば百名山3座、三百名山2座の登頂が達成でき、最も効率的な大縦走に思える。しかし、不帰キレットの大難所が唐松岳の先に待ち構えていて、無事に通過できるかが問題だ。また、車を扇沢に停めるため、下山先でもある栂池自然園からはタクシーで戻るか、バスと電車を乗り継いで戻るか、いずれの手段しかない。随分と金の掛かる登山とはなるが、百名山の利尻島の利尻山や屋久島の宮之浦岳へ飛行機で行くことを考えると、安価な旅費の山行にも思える。大縦走を夢見ながら白岳から遠見尾根を下り、再びテレキャビンに乗って車に戻った。テレキャビンに乗っていた時間を含めると、9時間15分の五竜岳登山となり、晴天であればどんなに良かったかと未練は尽きない。

天気予報と睨めっこして山行を計画するので、思うように休みがとれないのは致命的である。北アルプスの初等科を卒業したら、今の現場を辞めることを決意した。仕事は登山と同様に楽しみが多くなくてはならないし、それまでは絶え難きを絶えて辛抱しよう。

「仕事より 登山重視の 人生を 歩いてみたい 六十路を前に」 陀寂

49剱岳

【別名】剱嶽【標高】2,998m。

【山系】飛騨山脈(立山連峰)【山体】隆起・氷食尖峰(ホルン)【主な岩質】石英閃緑岩。

【所属公園】中部山岳国立公園【所在地】富山県。

【三角点】三等【国指定】なし。

【関連寺社】剱嶽社祠。

【登頂日】平成23年7月17日【登山口】馬場島駐車場【登山コース】早月尾根コースピストン。

【登山時間】11時間37分【登山距離】17.2㎞【標高差】2,239m。

【起点地】石川県野々市町。

【主な名数】日本三大岩場(谷川岳・剱岳・穂高岳)、日本百名山、名峰百景、新日本百名山、百霊峰、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】なし。

山頂遠望

明治40年(1907年)、測量技師・柴崎芳太郎らが登頂。

北陸自動車道を何度ともなく走って来て、車から剱岳(2,998m)を遠望していた。富士山に登って気をよくした時も、次は早月尾根からの剱岳登頂と思ったものである。しかし、百名山の登山を経験する内、日帰り登山で最も困難な山と知って次第に遠ざかっていった。登山適期を待ち、剱岳登山を決意するまでは、今日のこの日まで延長されていたのである。

午前3時に起床し、17分後には野々市のレオパレスを出発した。北陸自動道を運転しながら立山インターで降りるか、滑川インターで降りるか悩んでいたが、登山口のある馬場島までは地図上では、滑川インターの方が分かりやすかった。しかし、その道路にとんでもない落とし穴があった。滑川インターを降りて山側に直進すると、県道51号線に馬場島への迂回路を示す案内板があった。私は迂回路に従って簑輪まで走ると、県道51号線をそのまま走ってしまい、再び滑川インターに戻った時はキツネにつままれた気持ちとなった。

日も明けてしまい、登山意欲も失速する中、箕輪に戻って馬場口に到着した。登山口のある馬場島荘の駐車場は満車で、登山口の先の離れた場所に空き地を見つけ停めた。登山口の前には路上駐車が多く、早月尾根を案内する石碑も車の陰に隠れていた。その立派な石碑を見落とす若者もいて、私が車を停めた方向へと歩いて来る。案内板の前に駐車するような不心得な登山者がいるものだと、眉をひそめてしまう。

登山口の広場には、石碑や慰霊碑が立ち並び、特別な山への誘いとも受け止められる。中でも「試練と憧れ」と自然石に刻まれた文字には、これから先の厳しい登山を認識させる。馬場島から剱岳山頂までは、標高差が2,239mもあり、日本百名山の一般登山としては最大である。また、早月尾根は「日本三大尾根」の1つで、他に北アルプスの烏帽子岳の橅立尾根と燕岳の合戦尾根が選ばれていると聞く。

「剱岳 試練と憧れ 蝉の声」 陀寂

広場を過ぎると直ぐに急登が待ち構え、試練のはじまりとなった。樹間から見える早月川が音をひそめ、銀色の糸のように細くなり、1,000m地点に到着した。木製の大きなベンチに腰掛ける間もなく、次の1,200m地点を目標に流した汗以上の水分を補給し、200m先だけを念頭に置き登る。登山道の先々には立山杉の巨木が立ち、その樹形に見とれて、写真を撮ったりした。巨木に名称が無いのが寂しく思い、この尾根を登った故人の名前に因み、次郎杉とか伝蔵杉とか勝手に命名して声をかけた。

1,600m地点に到着すると、まだ樹林帯の尾根から毛勝三山や周辺の山々も見え、呼吸を整えながら眺めた。2,000m地点を過ぎ、早月小屋の赤い屋根が見えた時には、安堵の声を上げた。登山を開始し既に3時間40分が過ぎようとし、やっとの思いで目標としていた早月小屋に到着する。早月小屋では剱岳のバッヂが販売されていないと聞きがっくりとしたが、缶ビールはよく冷えているようで帰りが楽しみである。

2,800m地点に来るとガレ場から岩場へと変わり、ストック1本をリュックにしまい片手を自由にした。滑り止めの手袋をして、岩場を攀じ登って行く。高所恐怖症の私は、垂直にそそり立つ岩場は苦手で、度胸がわかない場合はリタイヤも考えていた。鎖場の登りは下山者の降りるのを待ち、落石させないように細心の注意を払って登ったので、午前中の登頂を目指していたが、結局13分ほどオーバーして山頂に立った。

山頂には定番の標柱もなく、木造の小さな祠が建っているだけである。岩だらけの狭い山頂には、10人ほどが陣取っていて奥穂高岳の山頂を思い出す。片道6時間43分の激登は自己記録であり、奥穂高岳の岳沢コースを1時間も上回る。立山の室堂口から登ると、標準タイムは6時間50分であるが、カニのタテバイ・ヨコバイの難所の渋滞を考えると片道7時間を切るのは無理があるように思われる。

剱岳は、穂高岳・槍ヶ岳と並び、登山の「日本三名山」と称される岩峰であり、その2座に立ったことは人生の良き思い出となり、自分を褒めてやりたい。また、「日本百名山」登頂の旅も81座目となって8合目を過ぎ、実り多き剱岳登山となった。槍ヶ岳は、やり残しのゴロ合わせもあって最後に登ろうと思っている。

立山信仰の盛んだった頃の剱岳は、針の山と畏怖された山で、かの空海大師(774-835)も登頂を果たせなかったと言う。近代日本では前人未到の山とされ、明治40年(1907年)に陸軍測量部隊の柴崎芳太郎(1876-1938)氏が初登頂を果たすのである。しかし、空海大師の生きた時代のものとされる錫杖の頭と焚き火跡が発見されて、測量部隊の面々を亜然とさせたそうである。そのストリーは、新田次郎氏の小説『剱の記』と、それに基づいた最近の映画で広く知られるようになった。

山頂からの大展望は素晴らしく、立山三山(別山・雄山・浄土山)はもとより、北アルプスの山々が見渡せて、富山平野の先の日本海には能登半島が横たわっている。値千金の眺望であり、崇拝している空海大師も果たせなかった登拝だと思うと感慨もひとしおである。「何故山に登るのか」と問われれば、「山頂の景色を眺めるため」と答えたい。

山頂が混み合って来たので、長居は無用と20分ほどで下山を始めた。危険な岩場を無事に下り、ガレ場を下る途中に足を滑らせて転んでしまった。幸いハイマツの枝に体が止められて、滑落することはなったが、手袋に穴が開き、指先に少量の血が滲んでいた。斜面の上にいた登山客からは、「大丈夫ですか」と声をかけられ、右手を大きく振って答えた。いつもであれば、下山の際はスパイク付きの地下足袋に履き替えるのであるが、時間短縮を考え、樹林帯に入る直前に履き替えようと考えていた。登る途中もバランスを失い、後ろ向きに転倒しそうになってヒャリとする場面もあった。疲労によるトラブルは避けなければならないし、単独登山は安全第一でなければ認められない。

熱中症対策に飲んだ牛乳も含め、2ℓの水を飲みほし、もう水はない。登山道の雪渓が空洞となっていたので、その滴をペットボトルに補充する。その間、雪の上に大の字になって寝た。ひんやりとして気持ち良く、暑さにへばった体には最高の休憩となった。

「寝そべって 戯れてみる 雪の上 真夏の陽差し 暑く涼しく」 陀寂 

下山後、11時間37分の試練の登山を終えて車を運転したが、放心状態がしばらく続き、運転に集中できなかった。山のバッヂを探すために富山電鉄の立山駅まで行ったが、室堂まで行かないと売っていないようである。バッヂを求めるために室堂まで行くのも馬鹿らしく思え、みくりが池温泉に泊った時にでもゲットするしかないと諦めた。

50立山

【別名】不明【標高】3,003m(雄山)、3,015m(大汝山)。

【山系】飛騨山脈(立山連峰)【山体】隆起山岳・カルデラ【主な岩質】堆積岩。

【所属公園】中部山岳国立公園【所在地】富山県。

【三角点】一等(雄山)【国指定】天然記念物(地質)。

【関連寺社】雄山神社。

【登頂日】平成20年8月31日【登山口】室堂ターミナル【登山コース】一ノ越コースピストン。

【登山時間】6時間40分【登山距離】8.1㎞【標高差】553m。

【起点地】石川県野々市町。

【主な名数】日本三名山(富士山・立山・白山)、立山三山(雄山・大汝山・富士ノ折立)、日本四名山(富士山・立山・御嶽山・大山)、八十八座九十図、日本二十五勝、日本百名山、名峰百景、新日本観光地100選、森林浴の森100選、日本遺産百選、日本の地質百選、花の百名山、新日本百名山、百霊峰、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】みくりが池温泉。

雄山遠望

大宝元年(701年)、慈興上人こと佐伯有頼が開山。

生涯の内に一度は富士山に登りたいと願っていたが、1人で登る自信がなく、登るための努力も怠っていた。そんな折、石川県の金沢市近郊へ仕事で赴任し、現場から白山を眺める機会が多くなった。白山は「日本三名山」でもあり、立山(3,003m)も白山(2,702m)も金沢からだと日帰り圏内で、登山への憧れが次第に強まって行く。

金沢に来て間もなく、残雪の多い立山に観光旅行には行って来たものの、単独で立山登山をするまでは、1年以上が過ぎようとしていた。地元に住む知人の同行を待っていたが、標高差500m程度の立山でさえ登ろうと決心しない。知人を誘うことを諦めた私は、もう単独で登るしかないと、8月の末に立山へ1人で向かった。

立山は北アルプス(飛騨山脈)の 立山連峰に位置し、雄山(3,003m)、大汝山(3,015m)、富士ノ折立(2,999m)の三峰の総称である。また、雄山に別山(2,880m)と浄土山(2,831m)を合わせて「立山三山」と称されている。立山と言えば、単に雄山を指すようであるが、大汝山が立山連峰の最高峰であり、大汝山まで行く登山者が多い。更に先に聳える剱岳を目指す登山者は、重装備の本格的な装いである。

立山は公共の交通料金が高く、立山駅前に車を停めて、美女平までケーブルカーで上り、美女平から専用バスで立山の室堂まで上るが、往復で4,200円もかかる。前回は室堂からトロリーバスで大観峰まで行ったが、料金の高さに黒部ダムの手前で腰が引けてしまった。日本一のボッタクリ観光地であるが、中部山岳国立公園では上高地と並ぶ最大の観光地でもある。富山県の立山町から長野県の大町へと立山を貫く立山アルペンルートは、一生に一度は行ってみたい観光地に挙げられる。他には黒部峡谷が有名で、昨年はトロッコ列車で往復し、秘湯にも入浴して爽やかな黒部の夏を満喫した。

室堂には、江戸時代に建てられた山小屋が国の重要文化財として残されていて、歴史的な雰囲気が味わえる。江戸時代の人々が立山登拝をして、どんな感想を抱いたか知らないけれど、奈良時代に越中国司・大伴家持(718-785)が詠んだ和歌が『万葉集』に残る。

「立山に 降り置ける雪を 常夏に 見れど飽かず 神からならし」 大伴家持

発句と付句を自分で詠んでしまったが、相棒でも居れば立山を題材に連句のやりとりするのも登山の趣向になると思う。ただ登って帰るだけではつまらなく、スケッチをしてみたり、写真に残してみたりと、貴重な登山経験の思い出を深めることも大切であろう。

室堂ターミナルの前には、旧環境庁の「名水百選」に選ばれている「玉殿の湧水」があり、その水量の多さは驚くばかりである。大観峰までのトンネル工事に伴い湧水したそうであるが、立山権現が風穴をあけられて流した涙なのかと邪推する。その涙をペットボトルに詰めて、晴天の立山登山を開始した。

雄山への登山道は、石畳の歩き易いハイキングロードで一ノ越まで続いたが、一ノ越から先はガレ場の本格的な登山道となっていた。久々の登山に気持ちは浮足立ち、眺める立山の景色に絶句するばかりである。登山には観光旅行では味わえない自然との接触があり、雄大な山岳を眺望する楽しみがある。

一ノ越へ至ると、山荘があって雄山山頂は近い。山荘で休息していると、老若男女や富裕貧民と様々な登山客が目の前を往来する。私はゴム長靴での登山なので、胡散臭い貧民親父に見られているのかも知れない。しかし、登山の服装や履物、持ち物は値段やブランドではなく、機能性と耐久性であり、何よりも安価であることに限る。スキー用品のように一式20万円もかかるようであれば、登山人口は激減しただろう。登山用品のブランド性を信奉する人々はごく一部であり、オーソドックスな装備や服装が大衆的で好きである。

一ノ越山荘からガレ場の急登を30分ほど登ると、山小屋を兼ねた雄山神社奥宮の社務所があり、巫子さんが霊験あらたかな記念品を販売していた。雄山の山頂には、雄山神社山頂社の新しく立派な社殿があって、そこで神主さんからお祓いをして貰い、霊山登拝を達成するのである。登拝料500円は少々高いと思ったが、鈴や御神酒も含まれていたのですっかり恐縮してしまった。若い頃に登った月山や鳥海山にも、夏山シーズンに限り神官が駐在していたと思ったが、巫女さんまでいる霊山は珍しく、安全登山の御利益がありそうな思いを感ずる。霊山登拝の旅は、終わりなき巡礼の旅であり、「四国八十八ヶ所霊場」などの遍路旅と共通性を感じる。

志賀重昂(1863-1924)の『日本風景論』には、雄山の標高を2,936mと記していて、67mも誤差があり、3,000m以下とされていたことが面白い。明治16年(1883年)から水準測量によって標高が測定されているが、測量の精度が低かったのだろうか。3,000m超えに固執し、慎重に測定していれば誤差は少なかったと思う。3,000mを超える登山は、穂高連峰の涸沢岳以来30年ぶりであり、殆ど初体験に等しい登山だ。

立山を日帰りするのは勿体無い山旅行であり、標高2,410mのみくりが池温泉に1泊したい気分は高まる。しかし、契約労働者の私は、明日の仕事をスッポカス勇気はなく、生活にゆとりがないのが残念である。下山後に室堂平を散策し、温泉に立た寄ったが、以前訪ねた時の静寂な雰囲気はなく、大勢の登山客や観光客が宿に群がっていた。客の少ない観光地は淋しい気がするが、逆に客が多いのも困りものである。

立山から様々な山頂が望まれるが、未熟者の私には数えるほどの山名しか知らない。剱岳も認識するまで時間を要し、富士ノ折立・大汝山の二峰を未踏のまま引き返してしまった。こんな時は立山に詳しいそうな登山者から山名を聞くことが手っ取り早く、立ち止って聞くこともしばしばである。「何でも見て見て、何でも聞いてみる。」この気持ちが山を理解する早道であり、謙虚な姿勢が自分を向上させる。

下山するバスの中から何度も立山連峰を振り返り、無事に登頂登拝できたことを感謝した。氷河によって造成され天然記念物の山崎カールもじっくりと見てみたかったが、立山は一度や二度の訪問で満喫することは不可能であり、春と秋の盛時に再び来てみたいものである。憧れる対象がある限り、旅の人生に終わりはない。

いずれは登る剱岳は、穂高岳や槍ヶ岳と同じ岩峰の「日本三名山(三名峰)」に選ばれた山であり、この地を再び訪れなくてはならない。また、「日本秘湯を守る会」の会員旅館でもある「みくりが池温泉」に泊まってみたいものである。スキーと温泉に夢中なった三十代から今は、登山と温泉に夢中の五十代半ばとなっている。

51雲ノ平

【別名】奥ノ平【標高】2,825m(祖父岳)、2,560m(祖母岳)、2,464(雲ノ平)。

【山系】飛騨山脈【山体】溶岩台地【主な岩質】流紋岩。

【所属公園】中部山岳国立公園【所在地】富山県。

【三角点】三等【国指定】なし。

【関連寺社】なし。

【登頂日】平成23年9月9日【登山口】折立駐車場【登山コース】太郎平コースから雲ノ平山荘に投宿し水晶岳・鷲羽岳を縦走。

【登山時間】7時間12分【登山距離】16.1㎞【標高差】1,294m。

【起点地】石川県野々市町。

【主な名数】なし。

【周辺の温泉地】高天原温泉。

奥日本庭園

昭和38年(1963年)、三俣山荘経営者・伊藤正一が登山道を開き小屋を開設。

紀伊半島に甚大な被害をもたらした台風12号も去り、2泊3日の予定で雲ノ平への山旅

を実行する日を迎えた。計画当初は、飛越新道口から黒部五郎岳に登って黒部五郎小舎に泊まり、翌日は三俣蓮華岳・鷲羽岳・水晶岳と連登し、雲ノ平山荘に泊まって太郎平を経由して下山する予定であった。しかし、車上荒らしの被害や駐車場の確保を考えると、有料林道にある折立登山口の方が安全に思われた。また、黒部五郎岳までは1時間ほどコースタイムが長いのであるが、熊の出没を考慮すると登山者の多い方が安心の度合いは高い。

折立登山口は薬師岳に日帰り登山した際にも入っているのでスムーズに到着できたが、平日にも関わらず駐車場はほぼ満車状態であり、台風が去る日を待ちかねていたのは私1人ではないようである。小雨降る中、ゴム長靴に傘を指し、薬師岳に登った時と同様に先ずは折立コースの三角点(1,871m)を目指して登山を開始した。

日帰り登山の際は、小さなリュックで良かったが、山小屋2泊ともなれば荷物も増え、山スキーをしていた頃のリュックを久ぶりに背負った。重量も1.5倍ほどとなり肩に堪える。それでも三角点までの登りは、前回よりも6分も短縮していた。2度目の折立コースなのに再び雨の中の登山となってしまったが、明日からは晴れるとの予報なので期待したい。

太郎平小屋には、三角点から1時間36分で到着したが、このコースでは前回のタイムを7分ほどオーバーしてしまい、結果的には折立からのタイムは前回と同様、2時間20分となった。山小屋では、生ビールを飲みながら持参したサラミソーセージを丸かじりした。これが最近の定番となり、それが山小屋のある山に登る楽しみとなっている。

太郎平から黒部五郎岳を目標に右回りに縦走する予定で、木道を歩き始めて数10分が過ぎた頃、単独の若者が木道の上に立っていた。若者いわく「稜線は風が強く近づけなかった」と言う。若者の前を歩いていた2人組の登山者も引き換えしたと聞き、安全登山を第一に考え、私は雲ノ平から左回りに変更することにした。

小雨は断続して降っていたが、前回よりも弱く、傘だけで十分であった。太郎平から最低鞍部にあたる薬師沢までは、3.7㎞と記されていた。太郎平の先のカベッケガ原は、殆どが歩き易い木道となっていて楽しい気分にさせる。何組かの登山者を抜いて薬師沢に下って行くと、赤い屋根の薬師沢小屋が建っていた。

正午を過ぎた頃であり、玄関先で雨宿りしながら握り飯を1個食べた。転倒でもしたのだろうか、鮮血で染まったタオルを額に巻いた高齢の男性がフロントで傷の手当を受けている。この男性のようになりたくないと、慎重さを失わないよう自分自身に喚起した。私が小屋を出て吊り橋を渡ろうとした所、追い越して来た若者夫婦が下りてきた。この若者夫婦とは縁があるらしく、同じコースを雲ノ平まで行くことになる。

足を踏み外したら怪我をするような吊り橋を渡ると、雨にぬれた鉄梯子が待ち受けており、傘をたたみ三点確保で慎重に下りた。太郎平小屋で入手したパンフレットの地図には、ここから急登と記されていたが、想像を絶するようなゴロゴロ岩の連続で、その長さには気が折れそうになる。単独で下山して来る登山者に急登の現在地点を確認するが、まだまだと答えるだけである。3人目の高年男性から「もう少し先の木道まで」と聞かされた時には、笑顔の自分が戻ってくるようだった。

1時間25分の格闘も終わり、木道を歩いている時には地獄から天国へでも上ったような気分となり、アラスカ庭園に到着すると天国が地上の楽園と変わっていた。雲ノ平は日本最高地点の溶岩台地であり、庭園のような自然景観が多数存在していて、「日本最後の秘境」と絶賛されているようだ。日帰りでの行楽は不可能に近く、私の脚で約7時間と屋久島の縄文杉の見学コースの比ではない。

木道を歩いていると小雨も止み、暖かな日差しが雲間より射しこむ。祖母岳や奥日本庭園を眺めて、雲ノ平山荘へ入って宿泊手続きをした。外観が牛舎風の山荘は、昨年新築されたそうで、室内はコメヅカの木の香りが匂い、豪華な木造の山荘となっている。申込書を書き終え、2食付きに弁当を頼んだ所、10,000円ジャストであった。昨年泊まった南アルプスの山小屋は、8,000円であったことを考えると、北アルプスの格上なのか随分と高い気がするが、山小屋は名山には不可欠な存在なので致し方ない。

3階の相部屋には頭上の高さに梁があって、濡れた衣服を乾かすには絶好のスペースである。ズボンから雨が沁み込みゴム長靴も濡れていたので、乾燥室に持って行ったがヒーターが点火されておらず、乾くことはないだろう。雨に濡れた衣服は意外と重くなるもので、長靴も同様であり、ドライヤーがあれば問題はないのであるが、携帯電話の充電も無理なようなので、山小屋にそこまで望むのは登山者の我儘かも知れない。

今日は金曜日、雲ノ平山荘に泊まって正解であった。太郎平から右回りに縦走していれば、黒部五郎小舎に泊まっていたであろう。土曜日が雲ノ平ともなれば、混雑に巻き込まれるのは避けられなかった。1つの布団に見知らぬ男性と寝るのは最悪の状況である。夕食は石狩鍋に漬物とご飯と、一汁一菜の質素な内容であったが、鮭の身が旨くて思い出に残る食事であった。隣に座っていた高齢男性も百名山をめぐっているらしく、「平ヶ岳の登山は、集中豪雨の影響で年内は無理であろう」と言う、貴重な情報もキャッチした。

「山に来て 弾む話は 尽きもせぬ 一期一会の 山小屋の夜」 陀寂

雲ノ平山荘のトイレは快適で、混雑しない内に用を済ませてベランダに出ると、夜も明

けない空は満天の星が輝いている。滅多に見る事のなくなった星空を眺めては、星の名前を必死に覚えた少年の頃を思い出す。雲ノ平の溶岩台地は、面積が25万㎡と広大なもので、そのシンボル的な山が祖父岳である。標高が2,825mもある高山なのに、水晶岳や鷲羽岳への登山ルート上にあるためか、あまり知られていない。

雲ノ平山荘を出発したのは6時ジャストで、途中にあるスイス庭園と祖父庭園を見物した。西欧や北米の地名が多く、最初は違和感を覚えたが、実際にスイス庭園の前に立って眺めていると、他に思い当たる名前が浮かばなかった。ここに高天原温泉のような出湯があれば、「日本最後の秘境」と言うよりも「日本最後の天空の楽園」と称しても良いだろう。

未踏の日本百名山は、北海道の9座が全くの足つかずで、本州では越後の山が2座、北アルプスが5座となった。今秋中には北海道の9座を残して登頂したいと念願していたが、平ヶ岳の年内の登山無理と知って、最後の百名山登山は平ヶ岳になりそうである。

52黒部五郎岳

【別名】中ノ俣岳(岐阜県側)、鍋岳【標高】2840m。

【山系】飛騨山脈(立山連峰)【山体】隆起山岳【主な岩質】花崗閃緑岩。

【所属公園】中部山岳国立公園【所在地】富山県/岐阜県。

【三角点】三等【国指定】なし。

【関連寺社】なし。

【登頂日】平成23年9月11日【登山口】黒部五郎小舎【登山コース】上りカールコース・下り折立コース。

【登山時間】7時間30分【登山距離】20.8㎞【標高差】1,974m。

【起点地】石川県野々市町。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、花の百名山。

【周辺の温泉地】なし。

山頂遠望

大正13年(1924年)、実業家・伊藤孝一が登頂。

昨日は雲ノ平山荘に泊まり、今日は午前6時には登山を開始して祖父岳(2,825m)、水晶山(2,978m)、鷲羽岳(2,924m)、三俣蓮華岳(2,841m)の4座を登った。13.5㎞の登山コースであったが、天気にも恵まれて快適な登山となる。黒部五郎小舎には午後2時過ぎに到着したため、ゆっくりとした奥山奥地での時間を過ごすことが出来た。黒部小五郎小舎のある五郎平の湿原には、遊歩道がないので散策はできなかったが、キャンプ場を往復したり、黒部五郎カールの途中まで行ってみたりした。それでも夕食までの時間を余し、談話室でワンカップを3本も飲みながら、小舎にある山の雑誌を読み耽る。部屋では布団1つに1人であったが、頭上に棚があり、何度も頭をぶつけたことが不愉快で気に入らなかった。

夜も明けない3時半頃に起床すると、山頂の御来光を見ようとする登山者が数名出発していた。私は外に出て昨日に続いて満天の星を眺めたが、星の輝きが昨日よりも鮮明で、布団を外に出して寝そべりながら眺めてみたい気分となる。朝食を待つ間、出発準備をして身支度を済ませると、予定時刻よりも早く食事が提供されて、午前5時には朝食を済ませることが出来た。そして、登山を開始したのは10分後で、朝日に輝いた美しい山頂を目指した。黒部五郎カールの草地には数羽の雷鳥が姿を現し、歓迎してくれているようで朝からテンションが上がって来る。

15人ほどが黒部五郎小舎やキャンプ場から登りはじめていたが、私が黒部五郎岳の肩に着く頃は、前を登る登山者はいなくなっていた。御来光を見に登った登山者とすれ違い、挨拶を交わしたが、その顔は満足感に漲っている様子である。黒部五郎岳の肩にリュックをデポし、山頂へと進んだが、20代の若者に越されてしまうが、マイペースで登るのが私の信念でもあり、登山速度を競っているわけではない。ただ山の天候は変化が激しく、早めの登山、早めの下山が求められる。

山頂に到着すると、若者以外に誰もいない。その若者は、尾根コースを下山して双六岳に行くと言う。私は山頂を示す表示板と、三角点をカメラに収めたが、霊山でもあった黒部五郎岳に祠が無いのは寂しい気がする。しかし、日本人の宗教に染まらない山が自然的であり、私を登らせてくれた山ノ神様に手を合わせて感謝した。

山頂のからの展望は、他の百名山からの眺めとは異なり、薬師岳、水晶岳、鷲羽岳の表情が横向きとなっている。山容が最も美しく見える角度は、裾野の幅が広い面であると思っているが、黒部五郎岳からは正面は見えないのである。そんな中で感動したのが、御嶽山、乗鞍岳、笠ヶ岳が右方向から遠い順序に並んでいる景観であった。御嶽山は3番目に、乗鞍岳は2番目に、笠ヶ岳は65番目に登った百名山でもあり、感慨深く遠望した。

山頂から黒部五郎カールを眺めながら残雪期にスキーを担いで登れば、穂高岳の涸沢と同様に絶好のゲレンデになると思う。無雪期の北アルプス初等科を卒業し、残雪期の中等科に進む時期もそう遠くなさそうである。残雪期はスキーで下山しないと、登った意味がない。身長と変わりない短いカービングスキーとなって、リュックに背負いやすくなった。

因みに私はスキーを生涯のスポーツと意識しており、若い頃の音楽はチャイコフスキー、アルコールはウィスキー、そして遊びはお座敷(お座スキー)とスキーに絡めて来た。しかし、最近はCDになってから音楽は殆ど聞かないし、ウィスキーから日本酒に戻り、お座敷は馴染みのスナックの椅子となった。

すべての目的を達成したため、折立の駐車場に一刻も早く戻ることであり、2日間も風呂に入っていないと、薬師岳山麓の亀谷温泉に入りたい一念が高まって来る。薬師岳登山の折はパスしたものの、1度はその泉質を肌で感じないと、温泉をこよなく愛した自称・温泉評論家の名が廃れると言うものだ。午前7時前には下山を開始したが、折立登山口までの18㎞近い距離を思うと安心もしていられない。太郎兵衛平への分岐点でもある北ノ俣岳までは、アップダウンが何ヶ所かありそうで、下り一辺倒の下山とはなりそうにない。中俣乗越まで下山すると、赤木岳の岩峰が聳えていて、その頂きに至るのも必至である。黒部五郎岳に向かう登山者は意外と少なく、月曜日からの仕事を控えた若者は誰も登っては来ない。殆どが年金生活者か、平日の休暇を取って登って来ているのだろう。

そんな折に、すれ違った年輩の単独登山者が声を掛けてくれた。「黒部五郎小舎から登って来たのですか」と。「そうです」と答えると、「随分と早いですネ」と返事が来て、数分に及ぶ山談議に会話が弾んだ。相手方は百名山を踏破したらしく、私が宮之浦岳で遭難しそうな話をすると、興味深く聞いてくれた。ここで登山を断念し、酒を酌み交わすのが中国の李白と杜甫のような交わりと思うが、酒も酒杯もないので会話も中途半端で失礼した。

稜線の先には、なだらかな曲線の北ノ俣岳の山頂が見える。この山を過ぎると太郎兵衛平までは下りが続いているようである。赤木岳から北ノ俣岳までは30分ほどであったが、消化試合をしているような帰路であり、気分は太郎平小屋で生ビールを飲み、ラーメンを食べることに興味が注がれていた。

北ノ俣岳から太郎兵衛平までは、印象に残る風景は少なく単調な下山となったが、太郎山付近に登山客が群がっていた。おそらく、薬師岳や黒部五郎岳を眺めるために登って来たハイカーたちのようであり、黒部五郎岳まで登る装備も気配も感じられない。その一団の前を通過して、2日前に引き返した地点を探したが、はっきりとは思い出せない。あの日に出会った若者の助言が無ければ、私は今回のコースとは逆回りに縦走していたことだろう。どんな波瀾が待ち受けていたかも想像できないし、あの若者は山ノ神様が使わした案内人ではないかと、感謝する気持ちで胸がいっぱいとなった。

太郎平小屋に着いたのは、下山を開始して3時間30分後であった。生ビールは格別の味わいで、ラーメンも美味しい。更に2時間25分も歩いて折立の駐車場に到着し、登山を終えた。そして、亀谷温泉の白樺ハイツに立ち寄り、温泉に入って登山の垢を落とした。

「まず煙草 車に戻り 吸う紫煙 禁煙三日 旨さ格別」 陀寂 

私は四日市にいた頃は、全く煙草を吸わなかったが、金沢に行ってから無性に煙草が吸いたくなった。煙草を吸う連中と、意外と話が合ったことと、長距離運転中の睡魔を撃退するには煙草が必要だと思ったからである。世間の価値観が変わっても、煙草を吸っている映画スターは格好良かったし、煙草はいつでも止めらられると思うと、自由自在に嗜好品と接するのが、本当の自由だと痛感する。

53燕岳

【別名】北アルプスの女王【標高】2,763m。

【山系】飛騨山脈(常念山脈)【山体】隆起山岳【主な岩質】花崗岩。

【所属公園】中部山岳国立公園【所在地】長野県。

【三角点】二等【国指定】なし。

【関連寺社】なし。

【登頂日】平成25年5月4日【登山口】中房温泉【登山コース】合戦尾根コースピストン。

【登山時間】6時間3分【登山距離】15㎞【標高差】1,301m。

【起点地】福井県坂井市。

【主な名数】日本二百名山、名峰百景、新日本百名山、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】中房温泉、有明温泉。

山頂直下

大正4年(1915年)、評論家・長谷川如是閑が登頂。

今回の燕岳登山は、北アルプスの中等科への入学式と考えていた。私は夏から秋にかけての北アルプスの山を初等科、残雪期の初春の山を中等科、そして厳冬期の山を高等科と考えている。しかし、昨日の針ヶ岳登山で多少気持ちが萎縮してしまい、北アルプスの中等科への進級は早かったのかも知れないと思う。北アルプスは東北の山々とは雪質が異なっていて、雪山の装備が第一であるが、その認識が甘かったのである。アイゼンは最低でも8本爪、そしてピッケルとカンジキも必要であった。その装備がないまま、今度は燕岳に登ろうと大町温泉を出発したが、途中で引き返すことも念頭に入れての登山となった。

登山口のある中房温泉に到着すると、既に登山用の駐車場は満車に近かったが、今回は中房温泉を予約していたので登山口の直前まで車で入ることが出来た。登山後に麓の温泉に泊まることが、理想的な登山計画と思っている。それも「日本秘湯を守る会」の宿であれば申し分がなく、スタンプ帳に押印してもらう楽しみがある。

大町温泉の宿で朝食をしっかりと食べたので、中房温泉に着いたのは午前8時半過ぎとなってしまった。しかし、この温泉以外に他に移動することはないので、ゆっくりと登ればいいと思って登山を開始した。この時間帯からも登り始める登山者も多くいて、燕岳の人気の高さを物語っているようで、北アルプスの入門コースと呼ばれる理由も理解できる。

中房温泉の湯原の湯から登山道に入ると、いきなりの急登が続き、10分も経たないのに汗が流れる。登り始めて20分ほどで第一ベンチに到着したが、陽射しが強くなりって来たので上着を脱いだら丁度よい体感となった。

第一ベンチを過ぎると登山道には雪が残っていて、殆どの登山者がアイゼンを装着していた。私も第三ベンチに到着して、簡易アイゼンを装着した。10時半を過ぎた頃になると、続々と降りて来る登山者がいて、待っている時間も多くなった来る。先を行く登山者の足元を見ると、真新しい登山靴にアイゼンである。雪道には慣れていないようで、後ろから声を掛けながら追い越しを繰り返す。

合戦小屋に到着すると、屋外ベンチは満員御礼の状態で、私は日の当たらないベンチに座ってコーヒーを飲みながらカレーパンを食べた。合戦小屋は休憩だけで宿泊ができないようであるが、朝からお湯を沸かしてカップラーメンやコーヒーなどを販売していた。

小屋の入口には、合戦尾根の由来が記された案内板があった。平安時代の初期、征夷大将軍の坂上田村麻呂(758-811)がこの地に棲む鬼の大王と合戦でしたことから名付けられたと言う。田村麻呂伝説は全国各地にあるようだが、実際に蝦夷(陸奥)に赴き胆沢城を築いて地方豪族・阿弓流為らと戦ったことで知られている。

小屋を出ると、もう合戦沢ノ頭に到着し、北アルプスの山々も順次見えて来る。天気が良いのはいいが、日焼け止めクリームを塗り忘れたので、顔の頬がヒリヒリとする。雪の残る春山は、紫外線が強くサングラスと日焼け止めクリームは欠かせないようだ。

「名に聞きし 合戦尾根を 越え行かば 絶景絶句の 山は連なり」 陀寂

広々とした雪の尾根を行くと、燕山荘の赤い建物が見え、登山者の行列が続いていた。山荘の直前まで先行する登山者を追い越し、山荘に到着したのは登山開始から約2時間後であった。午後から天候が崩れると聞いていたので、美しい北アルプスの雪山を写真に収めて、直ぐに山頂を目指して進んだ。

山頂は穏やかな表情を浮かべ、「北アルプスの女王」と呼ばれる相応しい景観で、林立する花崗岩の岩塔が美しい。山頂付近は雪が殆どなく、風雨によって削られた柔らかい花崗岩の砂礫が登山道を覆っていた。この女王が「日本百名山」にないのは絶対におかしいと、確信をもった瞬間でもあった。私は夢中でシャッターを押しながらそう呟いた。

山頂を目前にすると急に元気が出るもので、山荘から山頂までの1㎞の道のりも24分と楽に登れた。私とほぼ同時に到着した若者が1人いるだけで、大勢の登山者が登っていることを考えると非常にラッキーな山頂のひと時である。山頂には標柱がなく、石に刻まれたプレートがあるだけで、簡素な趣で味わい深い。

山頂の雲行きが怪しくなって来て、槍ヶ岳は雲に隠れて小雪が舞って来た。シャッターを押してあげた若者と会話を交わしていると、まだ大学生だと言う。氷点下なのに手袋もしていない様子であったので、予備としてリュックに入れてあった手袋を貸してあげた。そして、一緒に燕山荘まで降りることにした。

山荘に入ると中は、活気に満ち溢れていて、私は生ビールを飲んでから山菜うどんを食べた。若者はカレーライスを食べていたが、この時に彼の所持金が殆どないことを知っていれば、生ビールぐらい奢ってやったのにと後で聞いて後悔した。私も貧乏学生の頃は、大人たちから随分と親切にされたので恩返しの気持ちもある。

昨日の針ノ木岳登山に比べると、燕岳は天国のような山に見える。緩斜面では合羽を履いていたので尻滑りをして降り、急斜面も長靴なので両手のストックを使いスキーでもするように滑り降りた。そんな下山を繰り返し、合戦小屋に到着した。そこで、若者から手袋を返してもらい、私は一足先に中房温泉へと向かった。

登山を開始する際、駐車場係の爺さんに、鍵に名前と車番を書いて渡した。その時に午後3時頃までは下山するようにアドバスされたが、3時前に車に戻れたので約束を守れたことを嬉しく感じた。早めの登山、早めの下山がベストであり、温泉でのんびりと過ごすのも登山の後の楽しみでもある。

長靴やアイゼンを洗って温泉に入って着替えようとした頃、山頂で一緒だった若者が下山して来た。所持金がないことを合戦小屋で知ったので、千円札を「学生さんへのカンパだ」と言って手渡した。折角、中房温泉に来ているのに風呂にも入らず帰るのは気の毒に思ったからである。彼は富山の大学に行っているようだが、出身は愛知県と知って親近感を覚える。私の友人が東海市でフランス料理店を経営しているので、その店の名前を教えてやった。社会人となった時に、彼女でも連れて料理店に行ってもらえれば幸いである。

中房温泉にはあちらこちらに露天風呂と浴室があって、どこから入ればいいのか見当がつかない。取りあえず、今日泊まる部屋がある本館の不老泉に入って登山の疲れを癒した。そして、温泉水を用いたという地酒を買って飲み、素晴らしい登山の余韻を楽しんだ。

「女王と デートをしたり 春登山 燕岳の 雪の微笑み」 陀寂

54槍ヶ岳

【別名】槍【標高】3,180m。

【山系】飛騨山脈【山体】隆起・氷食尖峰(ホルン)【主な岩質】凝灰角礫岩

【所属公園】中部山岳国立公園【所在地】長野県/岐阜県。

【三角点】二等【国指定】なし。

【関連寺社】三仏祠。

【登頂日】平成23年9月25~26日【登山口】上高地【登山コース】槍沢コースピストン。

【登山時間】14時間15分【登山距離】38㎞【標高差】1,680m。

【起点地】石川県野々市町。

【主な名数】日本三大名峰、日本百名山、名峰百景、花の百名山、新日本百名山、百霊峰、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】なし。

山頂直下

文政11年(1828年)、浄土僧・播隆上人が開山。

百名山登頂の旅も佳境を迎え、北アルプス初等科の卒業記念となる「槍ヶ岳」へのチャレンジとなった。槍ヶ岳は北アルプス最後のやり残しと考えていたので、予定していた登山でもある。願わくば日帰り登山と思っていたが、最短距離の新穂高温泉から往復すると、約30km近くあり、日の短くなったこの時期は無理と思い1泊2日で計画した。

計画当初は、新穂高温泉から飛騨沢コースで登ろうと思っていたが、徳沢園や横尾山荘への道を34年振りに歩きたいと思い、距離は長いが安全な槍沢コースから登ることにした。そのためには、9月連休の当日は山小屋が込み合うことが予想されたため、最終日の日曜日ならば山小屋も居心地が良いだろうと推察して予約した。

普段通りに起床して、金沢の野々市を出発したのは午前5時30分であった。東海北陸自動車道は、10kmほどのトンネルが2ヶ所もあり、制限速度で走っているトロイカーが前を走っていると最悪である。何とか平湯温泉のアカンダナ駐車場に着いたのは7時40分であった。以前は2時間ジャストで到着したことを考えると、トロイカーの存在が尾を引く。

上高地と穂高連峰が笑みを浮かべて歓迎してくれて、梓川の清流も心地良いメロディを演奏してくれた。好天に恵まれた3連休の最終日とあって、見たこともない人数の登山客が下山して来る。平坦な登山道を明神館前、徳沢園、横尾山荘前と進むが、明神岳の鋭鋒が眼前にそそり立ち、梓川の流れも早さを増して行く。絶好の景観であり、上高地の魅力を再認識しながら横尾山荘前に到着した。

34年前の記憶は殆ど蘇っては来ないが、横尾大橋を渡って長い登山道を涸沢へと向かったことが思い起こされた。新宿から夜行列車に乗り、友人2人と車内で痛飲したので2日酔いの登山だったと記憶する。6月初旬のことであり、涸沢は大雪渓に包まれていて涸沢ヒュッテから貸しスキーを借りて滑った日々が懐かしい。

横尾を過ぎると、槍沢沿いに登山道は続き、槍沢ロッヂまでは以外と近く感じた。コンディションが悪ければ、ここに泊まろうと思っていたが、午後2時となったばかりで山頂まで一気に行けそうな気分となった。しかし、天狗原の分岐点を過ぎると登りも次第にきつくなり、播隆上人(1786-1840)が籠ったと聞く坊主岩屋に着く頃はへとへととなった。登山開始から7時間45分、槍ヶ岳山荘にやっとの思いで到着した。

山荘で宿泊手続きをし、今日中の登頂を目指してカメラと貴重品だけ持って山荘を出発した。残念ながらガスに包まれて、山頂は薄らとしか見えない。何人か登って行く登山者を追い越し、岩や鎖にしがみつき、梯子を攀じ登った。岩場の途中から上りと下りのコースが分かれていたが、それを知らずに数mの下りコースを登っていた。白いペンキで矢印が表示されていたので、その矢印を従って更に進むと、垂直に架けられた長い梯子があった。流石に怖さを感じる梯であり、手足が滑って脱落しないように祈りながら最上部の手すりを乗り越えると、そこが槍ヶ岳の山頂であった。

梯子を登って山頂というのも槍ヶ岳ならではの情景であり、槍の穂先が険しいことを肌で知る。猫の額ほどの頂きには、他に3人ほどが立って記念写真を撮っていた。三角点の標石とミニチュアのような祠が置いてあるだけであり、ガスは停滞したままで晴れる兆しもない。私は「般若心経」を唱え、槍ヶ岳に4度も登頂した播隆上人に敬意を表した。上人は銅造の阿弥陀如来と観世音菩薩、木造の文殊利菩薩の三尊を山頂に安置したとされるが、祠の中にあるとは思われない。

山頂で一番高い岩の先端に唇を当て、生まれて初めて山の頂きにキスをした。そんな無意識の行動に駆り立てるのが、槍ヶ岳の魅力である。上高地のバスターミナルを出発して7時間27分、槍ヶ岳の登頂を達成して、北アルプス初等科の卒業することになった。ガスのかかった山頂に長居しても仕方なく、山荘へと間もなく下山した。山荘に戻って早速、生ビールを飲んで1人祝杯を上げる。この瞬間が至福の時であり、体力の限りを尽くして登って来ただけに感無量の美酒である。

槍ヶ岳山荘は旅館のような建物で、本館、東館、西館、新館とニーズに応えて増築を重ねて来たようである。部屋の寝床は、二段式の雑魚寝スタイルで、ユースホステルの二段式ベッドが懐かしく思い出される。食堂は山小屋では見たこともない広さであったが、それでも1/4ほどの宿泊客で賑わっている。昨日の満員状態を想像すると、ゾッとするような雰囲気が漂う。何処の山小屋も快適なトイレと寝床はないようで、食事後は直ぐに寝ようとすると蚤や虱の猛攻に会い、結局は一睡もせずに朝の来るのを待った。

「蚤虱 隣はいびき 槍ヶ岳」 陀寂

松尾芭蕉(1644-1694)翁の「蚤虱馬の尿する枕もと」の句をもじって詠んだが、今夜の山荘は江戸の昔以上に悲惨である。これならテントを持参してキャンプした方が、どんなに心地良かったかも知れない。これからの登山は、テント泊も重要視しなくてはならないようだ。水晶岳小屋のように布団干しをまめにしないと、快適な睡眠は提供できないと思う。

夜も明けない内から外に出て、満天の星空を眺め、朝日の登るのを待った。すると、八ヶ岳方向から見たこもない、深い紅色の朝焼けが帯状になって棚引く。これがモルゲンロートの光景なのだろうか、標高3,000mの御来光は神秘的な異次元の世界である。蚤や虱の不快な夜を払拭するような夜明けであり、山頂で一夜を過ごすことも悪くはない。

午前5時30分には朝食を食べ、6時10分には槍ヶ岳山荘から下山を開始した。途中で何度となく山頂を仰ぎ見たが、槍ヶ岳殺生ヒュッテの下から見上げる山頂が正三角形に尖がって一番美しいようだ。今度来る時は、スキーを背負って登って一気に滑り降りたい。

下山して4時間50分、上高地でも最も人気のある明神池に立ち寄って散策路を歩いた。絶好スポットを見るためには、穂高神社奥宮で入場料を払わなくてはならなかったが、二ノ池から眺める明神岳は素晴らしく、清く澄んだ池には番いの鴨が仲良く泳いでいた。河童橋に続く散策路の途中に、奥穂高岳への岳沢登山口があり、去年登った思い出が蘇る。

上高地に入るには、長野県側の沢渡か、岐阜県側の平湯に自家用車を停めなくてはならないが、東京に近い沢渡の利用率が圧倒的に高く、シーズン中の混雑は半端でないようだ。私は沢渡に停めたことはないが、平湯温泉のアカンダナ駐車場の方が利用しやすいと感じる。駐車場の直ぐ近くには神の湯という日帰り温泉があり、立ち寄って入浴した。月曜日とあって私以外に客はなく、露天風呂でゆっくりと山旅の疲れを癒すことが出来た。

55常念岳

【別名】まゆみ岳【標高】2,857m。

【山系】飛騨山脈(常念山脈)【山体】隆起山岳【主な岩質】花崗岩・粘板岩・礫岩。

【所属公園】中部山岳国立公園【所在地】長野県。

【三角点】一等(前常念岳)【国指定】なし。

【関連寺社】岡宮神社。

【登頂日】平成22年9月5日【登山口】一ノ沢駐車場【登山コース】一ノ沢コースピストン。

【登山時間】7時間31分【登山距離】14.6㎞【標高差】1,597m。

【起点地】三重県四日市市。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】穂高温泉。

山頂遠望

明治27年(1894年)、英国人宣教師・ウォルターウェストンが登頂。

四日市から日帰り可能な百名山が少なくなり、3,000mクラスの山は前泊か、1泊しないと登山は無理なようである。高速道路から登山口が近い事を条件に色々と調べていると、北アルプスの常念岳が穴場であった。登山口までの片道距離が300km未満であり、四日市を午前4時頃に出発しても日帰り可能であると判断した。塩見岳や聖岳で酷使した膝の痛みもやわらぎ、9月の登山は北アルプスの前方部に位置する常念岳となった。

四日市に来て中央自動車道を走るのは9度目で、殆どが深夜の3時頃に出発し、百名山への往来に利用して来た。高速道路から明け方に日本アルプスを眺めることが多く、北アルプスの常念岳も脳裏に焼き付いていた。三角錐の山容は、美しい田園風景が残されている安曇野の象徴でもあり、「ふるさとの山」を代表するような山であると思う。

豊科インターを降りると安曇野であり、道を間違って三股登山口に向かってしまい、20分ほどロイタイムしてしまった。早朝の時間の無駄使いは避けたかったが、駐車場から登山口までは、500mほど離れていたり、いつもの様に大用を済ませたりして、一ノ沢登山口から登りはじめたのは午前7時半頃であった。登山口のトイレは、石垣を積んだ木造で、随分と金を掛けたトイレであり、北アルプスの東の玄関口に相応しい建物である。

一ノ沢口からの標準的なコースタイムが10時間25分なので、午後4時頃までには下山できるだろうと予想した。『日本百名山地図帳』の標準コースタイムを念頭においているが、その7掛けから8掛けが私の登山ペースのようだ。連登による疲労困憊や寝不足で体調が悪い時でも、標準コースタイムをオーバーすることはない。

一ノ沢口は一ノ沢沿いに開かれた緩やかな登りの登山道で、山ノ神の小さな鳥居と祠が登山道の脇に祀られていた。安曇野には、男女の仲睦ましい姿を表現した道祖神の石像が多く祀られているが、村人の無病息災や旅人の交通安全を祈ったものとされる。私も常念岳の山ノ神に登山の安全を祈って、未だ見ぬ登山道を先へと進む。

登山口から2.1㎞地点に、大滝の案内板が立っていて、渓流の滝を見るのも登山の楽しみの1つだ。登るに従って渓流の水音は小さくなって、か細い流れとなり、烏帽子沢や笠原沢を過ぎる頃には清流が貧流となっていた。胸突八丁までは快適な登りであったが、常念小屋の建っている常念乗越までは長くて遠かった。

常念乗越から北方向は、横通岳や大天井岳へ続く尾根コースとなっていて、またいつの日か踏みしめたいと思う願いがわいて来る。常念乗越から山頂までは、ザレ石やガレ場が続く登山道で、珍しく悪戦苦闘する。リュックサックを常念小屋近くにデポし、身軽に登ったが、常念小屋より約1時間を要し、コースタイムとほぼ一緒であったのが残念である。

山頂には10人近くの登山者が、麗らかな初秋の陽ざしを浴びて寛いでいた。まず私は、山ノ神の奥宮であろうか、木造の小さな祠に柏手を打ち、登頂をさせて貰ったことに感謝した。山頂の景色は素晴らしく、雲が流れる合間に穂高連峰や槍ヶ岳がはっきりと見える。まるで、北アルプスの主峰を屏風絵に写したような眺めである。

奥穂や槍は、今の私にはまだ遠い存在であり、南アルプスの登山にある程度の目途をつけてから登ろうと思う。山頂は大きな岩が積み重なっていて、写真の被写体の1つである三角点を見つけられなかったが、三角点が有るか無いのか分からないレベルが私の今の知識である。事前の知識や調査は、知っていて損はない。登って初めて知るのが山頂の景観であり、登山道の斜面以外は切り立った崖ばかりで多少の恐怖感を覚えるが、北アルプスの名峰を眺めていると飽きることはない。ここまで登って来られたのは本当に良かったと、全身のすべてが満たされるような達成感に浸った。

 北アルプスの人気スポットでもある常念岳は、さすがに登山者も多く、挨拶が忙しかったが、その分、熊との遭遇を心配することもなく往復できたが幸いである。熊の生態を良く知らないが、熊も山頂の景色を眺めに登るのだろうと邪推する。かつて日本にいたニホンオオカミが、山頂や切り立った崖の上に立っている姿を想像してしまう。今春に旅した『四国巡礼自転車旅行』の際、第21番札所・太龍寺の崖の上にニホンオオカミの銅像が置かれいいる風景を目にしたのが印象に残っていたからであろうか。

下山して常念小屋で缶ビールと山のバッヂを購入し、登頂の余韻をかみしめた。本来であれば、常念岳から蝶ヶ岳を縦走して三股口で下山するのが通常のコースと聞く。蝶ヶ岳は常念山脈の盟主でもあり、一度は登ってみたい山の1つだ。江戸時代の後期、槍ヶ岳に4度も登頂した播隆上人(1786-1840)は、蝶ヶ岳を経由して槍ヶ岳に登っている。この上人の足跡を辿り、鍋冠山・大滝山・蝶ヶ岳を縦走し、横尾山荘がある梓川に下ってから槍ヶ岳に登るのも有意義な登山となることであろう。

下山開始から2時間51分、車に戻った時はまだ午後3時を過ぎたばかりであった。道祖神の招きを受け入れて、安曇野みさと温泉にでも立ち寄ろうと考えたが、恵那インターから先の渋滞を予想すると、そうもできない。安曇野はまたの機会にゆっくりと、折畳み式の自転車で回りたいものである。

平安時代の初期、征夷大将軍であった坂上田村麻呂(758-811)がこの地を遠征した折、常念坊という重臣が離脱して山に逃げたことから常念岳と呼ばれたと言う。また一説には、正福院に住む修験者の常念坊が、頻繁に山に入っていたことで名付けられたとも聞く。他にも樵が山に入った時、常に念仏の声がするので逃げ帰ったとことから名付けられたと言う説もある。いずれにしても仏教が山名に由来している事は明らかであり、山頂の荒涼とした景色と共に忘れられない山の名である。

土日・祭日に限定された高速道路の一律1,000円料金は、多いに助かり300㎞の往復は苦に思えなくなった。『1000円で行く週末マイカー登山』というガイドブックもあるくらいで、その活用が広まっているようだ。その分、高速道路の渋滞個所も増え、四日市に帰るのも大変であるが、午後3時半頃には豊科インターから長野自動車道に入った。

毎週日曜日は、日本テレビの「笑点」を見る事を楽しみとしているが、大幅な渋滞に巻き込まれることもなく何とか大喜利のコーナーには間に合った。無事に常念岳の登山が達成され、笑点を見ながら飲む酒は格別である。そして、酔いにまかせて短歌や俳句を詠むことが、私の至福の時でもあり、下手な短歌が手帳に書き込まれて行く。

「安曇野の 常念岳も 秋の風 十五時間の 日帰り登拝」 陀寂

56笠ヶ岳

【別名】傘ヶ岳、肩ヶ岳【標高】2,898m。

【山系】飛騨山脈【山体】隆起・氷食尖峰(ホルン)【主な岩質】流紋岩。

【所属公園】中部山岳国立公園【所在地】岐阜県。

【三角点】二等【国指定】なし。

【関連寺社】笠ヶ岳神社。

【登頂日】平成22年11月24日【登山口】新穂高温泉【登山コース】笠新道コースピストン。

【登山時間】10時間5分【登山距離】18㎞【標高差】1,693m。

【起点地】三重県四日市市。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、花の百名山、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】新穂高温泉。

山頂直下

天和3年(1683年)、修験僧・円空上人が開山。

3,000m級の登山では、年内最後の登山を槍ヶ岳か笠ヶ岳にしようかと迷っていたが、土曜日は半日しか休めそうになかったので、新穂高温泉に前泊して笠ヶ岳に登ることにした。槍ヶ岳と笠ヶ岳は、新穂高温泉からの日帰り登山だと同じようなコースタイムとなるが、槍ヶ岳は上高地から登る方が魅力的である。自分は逃げることがあっても山は何処へも逃げて行かないから、槍ヶ岳はやり残しという事で来年の楽しみとする。

笠ヶ岳は4年前の夏、新穂高温泉の槍見館に泊まった際に山容を眺めている。実際に屏風のように屹立する勇壮な山肌を眺めたのは、2年半前の6月中旬で新穂高ロープウェイに乗った時である。その時は観光旅行であったが、西穂山荘から丸山まで脚を延ばした。そして上高地を眼下に眺め、北アルプスに魅せられた34年前の興奮を思い起こした。

新穂高温泉の佳留萱山荘に電話したらキャンセルがあったとのことで、直前に予約がとれた。紅葉シーズンに著名な温泉宿に泊まれることは、至福の喜びでもあり、良運と不運は紙一重である。日本最大級と称している大露天風呂も良かったが、特別に頼んだ岩魚の骨酒が殊の外おいしく、贅沢な温泉宿の味を堪能した。

明け方の午前4時30分に新穂高温泉市営駐車場から折畳みのMTBで出発したが、真っ暗闇の左俣林道は漕ぐよりも押す方が多かった。駐車場から笠新道登山口までは、3.3kmの道のりがあり、約1時間もかかってしまい歩行と大差はない。しかし、帰りが20分であったので、これから登山で林道を歩くような場合、MTBに乗って行く機会が増すだろう。

登山口からは涸れた沢を利用したガレ場の急登が続き、杓子平までの標高差約1,000mを一気に登る急斜面のコースであった。誰とも会うことはないと思っていたが、この登りで中年の男女ペアと単独の若者の3人と会ったことで少しは元気となった。標高1,700mの標識を過ぎると、ブナ林の合間から穂高連峰が見えて来る。焼岳や乗鞍岳も姿を現し、友人と再開するような眼差しで眺めた。

標高1,920m地点が杓子平までの中間地点と記されていて、ヤレヤレという思いとなるが、穂高連峰の手前の下丸山や笠ヶ岳の穴毛谷の紅葉が美しく、小休止を繰り返した。登るほどに穂高連峰の頂部に目線が近付いて行き、樹林帯も終盤に差しかかり、杓子平に到着する頃は槍ヶ岳の穂先が水平線上に浮かんでいた。

杓子平からは、笠ヶ岳の深編み笠の山頂と山荘が見えるが、登山道は抜戸岳の手前を経由して、大きく迂回するコースとなっている。杓子平の一帯はお花畑でもあるが、薄茶色の草紅葉となっていて、ハイマツとの色合いも捨て難い風情がある。広々とした杓子平の前にも後ろにも人影がなく、鳥の囀りすら聞こえない。ただ秋の風が吹いている登山道を、私1人だけが歩き続けている。

笠新道からの最後の急登を踏むと、遥か双六岳に続く尾根道となっている。広々とした尾根道から眺める笠ヶ岳の山頂は、新穂高温泉から遠望した様子とは異なり、複雑な山容となっている。富士山の山頂に初めて立った時の、あの驚きにも等しい。抜戸岩を越えると、小笠の手前にカール地形の播隆平があった。槍ヶ岳を開山した播隆上人(1786-1840)に因んで名付けられたと聞くが、播隆上人はクリヤ谷コースを登っているので、カール地形に足を踏み入れたかどうか定かでない。尾根道コースは北アルプス全体を見渡せる眺望が素晴らしく、爽快な気分にさせるが、先週で閉鎖となった笠ヶ岳山荘に人気のないのは寂しいものである。ある程度の登山者がいるから、山に活気があって登山は楽しいものだ。

笠ヶ山荘の前でひと息ついて、10数分で山頂に到着した。山頂には小さな祠があり、播隆上人が江戸後期の文政6年(1823年)に銅製の仏像を安置したと聞く。播隆上人はこの笠ヶ岳から槍ヶ岳を眺めて、槍ヶ岳開山の大願を決意したそうだ。播隆上人が登頂する以前は、道泉禅師という人が室町時代末期に、鉈彫りの円空仏で知られる円空上人(1632-1695)が江戸時代初期に登って開山したとされる。文献に残っている登頂は、飛騨高山宗猷寺の南裔禅師が天明2年(1782年)に登頂を果たしたそうだ。いずれにしても道なき道を切り開く登山は、並みの人間では果たせない願望であったであろう。

山頂からの眺めは壮大で、黒部五郎岳・鷲羽岳・水晶岳の百名山が顔を揃え、その先には立山連峰が連なる。南アルプスの山々もはっきりと見えるが、富士山は仙丈ヶ岳の背後に隠れ頭を出しているだけだ。眺望の圧巻は、穂高連峰の岩峰を直前で目視する光景で、以前常念岳で眺めた穂高連峰とは趣を異にする。

山に裏表があるとするなら、常念岳から眺める穂高連峰は表の顔であり、笠ヶ岳からの眺めは裏の顔でもある。いずれにしても主役は穂高連峰であり、常念岳と笠ヶ岳は脇役だ。その様子を相撲に例えるなら、横綱・穂高連峰を睨めつけて対峙しているのが、東の関脇・常念岳と西の関脇・笠ヶ岳に他ならない。

下山を開始して笠ヶ岳山荘に下りると、単独登山の若者とすれ違った。笠ヶ岳で会う4人目の人間であり、熊でないのが幸いである。10月も末になると、南アルプスと同様に北アルプスの登山者は激減し、山の愛好家は雪の無い山へと移行するのだろうか。

新穂高温泉の売店で山のバッヂをゲットし、車に戻ったのは午後2時25分であった。登りは6時間ジャストで、下りは3時間半であったので、MTBの活用が功を奏したようである。来シーズンからは、蒲田川の左俣・右俣林道への自転車乗り入れが禁止されると聞き、滑り込みセーフの登山であった。これで来年の槍ヶ岳登山は、右俣林道コースは無理となり、上高地からの登山が確定したようなものである。

車での帰路は、再び佳留萱山荘に立ち寄り、親切に接客してくれた従業員に登山の無事を伝え、露天風呂に入って汗を流した。本来であれば、登山後に宿泊して温泉を楽しみたかったが、土曜日の出勤が多くなって半日働いてからの山行が増えている。奥飛騨温泉郷で最も有名な福地温泉には手も足も触れていないし、奥飛騨の魅力を満喫していない。しかし、温泉地は多いけれど、スキー場が平湯温泉だけになったのは淋しい話である。

「奥飛騨や 名残は尽きぬ 湯のけむり」 陀寂

東海北陸自動車道の開通によって、四日市から飛騨高山はグーンと近くなり、高山インターまでは2時間ジャストである。そのインターを下りて、直ぐに目にする高峰が笠ヶ岳である。市女笠の先を太くしたような笠ヶ岳の山容は、笠の名に相応しい命名だと思う。その山容を再び眺めて一礼し、私は愛車と共に高速道路へと消えて行く。

57穂高岳

【別名】御幣岳、保高嶽【標高】3,190m(奥穂高岳)。

【山系】飛騨山脈【山体】隆起山岳【主な岩質】安山岩・凝灰岩。

【所属公園】中部山岳国立公園【所在地】長野県/岐阜県。

【三角点】一等(前穂高岳)【国指定】なし。

【関連寺社】穂高神社。

【登頂日】平成22年10月2日【登山口】上高地ターミナル【登山コース】岳沢コースピストン。

【登山時間】11時間15分【登山距離】22.8㎞【標高差】1,690m。

【起点地】三重県四日市市。

【主な名数】日本三大岩場、日本百名山、名峰百景、新日本百景、花の百名山、新日本百名山、百霊峰、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】上高地温泉、中の湯温泉、新穂高温泉。

涸沢小屋と奥穂高岳

明治39年(1906年)、測量技師・阿部郡治らが初登頂。

10月に入り、登山シーズンも終盤に迎えるが、どうしても年内に登っておきたかったのが穂高岳である。登山者なら誰もが1度はアタックする山であり、岩山の殿堂とも言われ、ロッククライマーにとっては聖地のような存在と聞く。かつて、十和田ユースホステルのサブペアレントをしていた頃、「雪山に消えたあいつ」と言う穂高岳をテーマにした歌を仲間たちとよく歌ったものである。その歌をきっかけに、穂高岳に対する憧れは続いている。

四日市を出発して2時間40分、平湯温泉のアカンダナ駐車場に到着して、ここからシャトルバスで上高地へと入るのである。タイミング良くバスに乗り込み、上高地に着いたのは午前6時25分であった。バスターミナルから眺める焼岳は、朝日に照らされて美しく輝いていた。河童橋から眺める穂高連峰も、朝日を浴びて目を見張るような美しさである。

22歳の時、涸沢にキャンプして春スキーを楽しんでから34年ぶりの上高地となった。河童橋から眺める梓川と北アルプスの山々は当時のままであり、心のふるさとにでも帰って来たような懐かしさを感じる。あの頃は涸沢キャンプ場まで登るのが精一杯で、残雪期の奥穂高岳へ登るなど夢のような話であった。

明神池への木道からは、梓川の対岸にある六百山の鋭角な山容が目に飛び込み、美しい景観に思わずカメラを向けた。明神池から緩やかに流れて来る清流にも目が離せない。山に登らなくても、河童橋から明神池までのハイキングコースを散策するだけでも上高地に来る意義はある。上高地は紅葉シーズンに入り、早朝にも関わらず多くの観光客や登山客で賑わっていたが、その喧噪も岳沢コース登山口の手前までであった。

登り出して先ず目標においたのが2km先の岳沢小屋であった。『日本百名山地図帳』には、岳沢ヒュッテ跡と記されていて、豪雨による水害で建物が壊されたようであるが、今年から岳沢小屋として営業を再開したようだ。日帰り登山が無理なようであれば、この山小屋に泊まろうと考えていたので、登山者からすれば山小屋の存在が精神的な支えとなる。

岳沢へ入って1時間が過ぎ、樹林帯を抜けてガレ場を登って行くと、ジャンダルム・西穂高岳・天狗岩などの名所に視線が行く。風穴の前では、思わずしゃがみ込んで天然クーラーの効力を確かめた。真っ青な秋空に聳える穂高の峰々は、淡い灰色の岩肌と谷間を埋める白い瓦礫をあらわにしていた。その中腹を緑色の低木が様々な曲線を描いて彩っている。人の手による庭園や絵画も、この天地自然の造形美を超えることはできない。私は短歌や俳句も詠めず、自分の無力さを謙虚に受け止めるだけだった。

岳沢は難コースのため登る人が少なく、岳沢小屋までは5・6人抜き去っただけである。このコースは重太郎新道とも呼ばれ、今田重太郎(1898-1993)という穂高の山岳ガイドが切り開いたコースと言う。登るのも大変なのに、登山道を造るには想像を絶するような苦労をしたと思う。穂高連峰の魅力を後世に伝えようとした、先人のパイオニア精神が見えるようだ。登山道の先々では、谷間越えに焼岳や乗鞍岳が見えた。既に登頂を果たした山々なので、知人と会うような気持ちで思い出深く眺めた。

今回は日帰りしようと最短コースのピストンを選択したが、穂高連峰を知っている人なら最初から日帰り登山など野暮な計画はしないと思う。「日本百名山」の登山を「四国八十八ヶ所霊場」の巡礼に例えるならば、本堂と大師堂を礼拝することのみ考え、他の諸堂や奥ノ院を巡らないのに等しい。

岳沢小屋から梯子段や鎖場の続く岩場を2時間近く登ると、紀美子平に到着した。重太郎氏が幼い娘の紀美子を遊ばせていた場所と言い、奥穂高岳と前穂高岳の分岐点でもある。私はそのまま奥穂高岳に向かうつもりであったが、他の登山者につられて前穂高岳に登ってしまった。往復1時間ほどの時間ロスではあったが、穂高連峰の名峰1座をクリアできたことの喜びの方が遥かに大きい。

吊尾根の難路を越え、6時間近くを要して何とか奥穂高岳の山頂に到着したが、10人ほどが山頂で寛いでいた。前穂高岳山頂で知り合った若者に写真を撮ってもらい、「日本三高山」の2座を登った記念とした。山頂には穂高神社嶺宮の祠と方位盤があったが、最高地点の岩の上にも祠がある。岐阜県側の穂高神社の奥宮であろうか、重太郎氏が南アルプスの北岳(3,193m)に負けまいと3mも積み上げたケルンだそうだが、奥穂高岳をこよなく愛した執念を感じるエピソードである。

標高3,190mの展望は、富士山と北岳に次ぐ日本第三の展望であり、生きてここに立てるのは夢のようである。本当に自分は、「奥穂高岳の山頂に立っているのか」と信じられない気分となった。山頂から望まれる山々や大キレットは、筆舌に尽くし難い大自然のパノラマで、悠久の歴史を感じさせる風景である。

山頂に祀られた穂高神社嶺宮の中宮が明神池のほとりにあり、本社は安曇野の里にある。安曇野は綿津見神の子孫である安曇氏が、九州から信州へ移り住んだことから地名となったと聞く。綿津見神の子である穂高見神が、奥穂高岳に降臨したとする伝説からその御魂を山頂に祀ったそうである。綿津見神は海の神の代表であり、その系譜に連なる神々が高山に祀られた例は殆どないだろう。しかし、太古の頃、穂高も海の底であったことを思うと関連性はある。その穂高見神に柏手を打ち、無事に山頂に立たせて貰ったことに感謝した。

下山途中に吊尾根に再び立ち止って涸沢カールを除き見ると、涸沢小屋と涸沢ヒュッテの赤い屋根が染まり始めた紅葉のように映る。山頂で会話した単独登山の若者は、涸沢にテント泊して登って来た言う。豆粒のように見えるカラフルなテントの中に、彼の愛用するテントもあるのだろう。私もそこにテントを張った思い出があって、あの世からでも眺めていめような錯覚に陥り、涸沢よりも遥か上に立っている自分に戸惑った。

山頂で30分ほど休息してから下山を開始してから2時間、岳沢小屋に立ち寄って生ビールを飲み、百名山では60座目の節目の登頂を1人で祝した。そして、上高地のバスターミナルに戻ったのは午後4時20分であった。上高地を愛する登山者なら誰でも憧れる帝国ホテル、1度は泊まってみたかったが、混雑が予想されるたので平湯温泉に切り替えた。車で平湯温泉に到着する頃は、午後5時を過ぎていたが、旅館案内所で旅館の紹介をしてもらって何とか泊まることができた。温泉地に旅館案内所があれば、飛び込みで1軒1軒尋ねて空室を問うよりも、手っ取り早く便利なものである。

「山小屋に 1万払い 泊まるより 湯宿があれば 下山を急ぐ」 陀寂

58焼岳

【別名】硫黄岳【標高】2,393m(北峰)、2,455m(南峰)。

【山系】飛騨山脈【山体】成層活火山・溶岩円頂丘(ドーム)【主な岩質】花崗岩・堆積岩。

【所属公園】中部山岳国立公園【所在地】長野県/岐阜県。

【三角点】二等(南峰)【国指定】なし。

【関連寺社】秀綱神社。

【登頂日】平成22年8月1日【登山口】阿房峠路肩【登山コース】新中ノ湯コースピストン。

【登山時間】3時間45分【登山距離】7.4㎞【標高差】793m。

【起点地】三重県四日市市。

【主な名数】日本百名山、名峰百景。

【周辺の温泉地】中の湯温泉、板巻温泉、平湯温泉。

笠ヶ岳から望む焼岳

大正4年(1915年)、登山口に中の湯温泉が開業。

今日は桑名市の「石取祭り」を見物したいと思っていたので、登山距離の短い百名山ということで、北アルプスの焼岳(2,393m)を選んだ。夜中の3時頃に四日市を出発して東海北陸自動車道を走り、飛騨高山を通過する頃にはもう太陽が昇って明るくなっていた。平尾温泉から阿房峠を越え、焼岳登山口に到着するが、直近の駐車スペースや路肩は既に満車である。少し離れた所に湘南ナンバーの車が停まっていたので、その隣に車を停めた。

旧国道沿いから入る新中の湯コースの登山道は、焼岳への最短コースとして人気が高いそうである。湘南ナンバーの車には、30代前半と思われる若者が1人、登山支度を整えていたが、往復4時間足らずの登山にしては大げさな装備である。私は極力荷物を減らすことを目標としており、ペットボトル3本(1.5ℓ)の水が一番の重量があるようだ。このコースには水場が無いとの情報を得ていたので、水だけは十分に確保しておかないと危険な登山となる。私の登山荷物では、水とタオルと杖は欠かせない3点セットである。

山はガスに覆われて、遠くの景色は良く見えないが、雨降りよりはまだましである。急いでいるつもりはないが、林間の先を行く登山者を次々に追い越し、1時間を過ぎた頃には釜トンネルコースとの合流地点に到着した。この山も合流地点まで案内標識が全くなく、予想が立たないのが困る。『日本百名山地図帳』によると、3時間10分が登りの標準タイムであるらしいが、現在のペースだとあと1時間は登らなければならないようだ。

登山道にはヤマブキショウマやヤブカンゾウの花が咲いていて、視界は悪くても花だけは良く見える。高山植物の名前は中々覚えられないもので、写真に撮って図鑑で調べることが殆どだ。最近は、植物の名前をカタカナ表記する書物が多く覚えづらい。漢字だと山吹升麻、藪甘草とすんなりと覚えられるに不便な一面もある。

分岐地点から尾根に出ると、森林限界を越え、硫黄ガスの匂いが鼻をつく。焼岳は大正4年(1915年)に大爆発し、梓川を堰止めて大正池が誕生したそうである。昭和37年(1962年)にも噴火し、しばらく登山禁止の時代が続いたらしい。北アルプスでは乗鞍火山帯に属する活火山で、北アルプスの玄関口でもある焼岳をまず目指す登山者が多いと聞く。

山頂が近くに至ると、岩場が続きゴォーとけたたましい音を発して硫黄ガスが噴出している。周辺の岩は黄色く変色して、硫黄だけに異様な光景を見せつける。丸印しのペイントマークに従って登って行くと、北峰の山頂に到着した。まだ午前8時なのに山頂は、満員御礼の状況である。時折、太陽が顔をのぞかせ、ガスが少しずつ晴れて行きそうな気配であったので山頂にしばらく留まった。

登山口に高級なバイクが停まっていたが、山頂にいる登山客の会話を聞いていて、バイクの持ち主が意外と高齢であったことに驚いた。バイクを運転するだけで大変なのに、バイクで「日本百名山」を目指すのだから上には上がいるものである。

焼岳には上高地から大正池を眼下に登るコースがあり、西穂山荘まで縦走して新穂高ロープウェイで下山するコースも魅力的だ。私が登山に夢中になる2年前、金沢で仕事をしていたいた頃である。新穂高ロープウェイで西穂山荘から丸山まで登り、上高地を眼下に望み観光したことがあった。その折、上高地から焼岳を登って来たと言う、高齢の団体登山客と遭遇した。殆どが70代半ばと聞いて、その元気さ驚いた記憶がある。

焼岳の山頂は、北峰と南峰とに分かれているが北アルプスでは唯一の活火山とあって、南峰は立ち入り禁止となっている。南峰は2,444mと、北峰よりも51mほど標高が高く、本来なら妙高山のように南峰・北峰を踏破できれば満喫できるのであるが残念に思える。しかし、硫黄臭のする山や温泉地は、有毒ガスも発生しているので気をつけなくてはならない。細菌やウィルスにしても目に見えないものほど怖いものはないだろう。

「日本百名山」の中で活火山は14座もあり、浅間山と草津白根山は山頂への一般登山が禁止されている。焼岳も南峰への登山はできなかったものの、北峰のだけでも登れたことに満足しなければと思う。しかし、浅間山と草津白根山のように長期間に亘って山頂への登山が禁止されているようであれば、「日本百名山」からは除外したいと考える。活火山は刻々と変化し、危険性も高いので登山の対象としない方が良いだろう。

ガスに包まれた山頂で、晴れ間を待つのも馬鹿らしく思えて20分ほどで下山開始した。途中からガスが流れて行き、谷間の景色が少しずつ開けだした。車に戻った頃は、青空の空模様になっていた。1時間ほど後に登山を開始すれば、上高地を眼下に望んだことであろうが、それは後の祭りで、桑名で本当の祭りを楽しむことにする。4時間にも満たない登山で、車に戻った時は午前10時前であったので、朝湯にでも入ることにした。

登山口の近くには、中の湯温泉があるので立ち寄った。山のバッヂをゲットして、温泉に入ることが目的であったが、温泉の方は掃除中とのことで断られてしまった。しかし、山のバッヂを予想通りに購入できたことが嬉しい。この温泉旅館は、「日本の秘湯を守る会」の会員旅館でもあり、いずれは泊まることになると思う。国道158号線から上高地に向かうゲート横に、剣豪・塚原卜伝(1489-1571)ゆかりの「卜伝の湯」がある。日本でも数えるほどしかない洞窟風呂と聞き、1度は入ってみたいが、中の湯温泉旅館が管理しているようで宿泊しないと入浴は無理なようだ。

中の湯温泉から阿房トンネルを抜け、平湯温泉に立ち寄ろうと思ったが、上高地や乗鞍岳の登山基地でもあり、混雑が予想されたので新平湯温泉に向かった。公共の日帰り温泉は午前11時からの営業開始とあって、待つこともないと引き返すことにした。笠ヶ岳に登る際、新穂高温泉が登山口となっているため、その時に新平湯温泉も通過するので、また寄ればいい。しかしながら、知らない温泉に入りたいと思う気持ちが今日は削がれ、奥飛騨温泉郷の湯めぐりの旅はまだまだ達成されそうにないようだ。

飛騨高山から四日市までは、高速道路を走ると2時間程度で行けるので便利になったものである。焼岳登山に4時間ほど要したが、10時間で日帰り登山を楽しめるのだから、名古屋の近郊は交通の便に恵まれている。飛騨高山観光も殆ど日帰りコースであり、四日市に以前住んでいた頃は頻繁に来ていた。未だに春と秋の高山祭を見ていないので、今日の夕方に見物予定の桑名市の石取祭りと同様に祭りも全国各地を見て歩きたい。足腰が弱まったら来たら、山は山でも祭りの山車の方に興味が移って行くことだろう。

「山めぐり 島々めぐり 老いたなら 祭りめぐりと 花火に散らん」 陀寂

59乗鞍岳

【別名】愛宝山、位山、鞍ヶ嶺、朝日岳(長野県側) 【標高】3,026m(剣ヶ峰)。

【山系】飛騨山脈【山体】複合活火山・溶岩円頂丘(ドーム)【主な岩質】安山岩・花崗岩。

【所属公園】中部山岳国立公園【所在地】長野県/岐阜県。

【三角点】一等【国指定】特別天然記念物(噴湯丘)。

【関連寺社】乗鞍神社。

【登頂日】平成20年9月7日【登山口】畳平バスターミナル【登山コース】肩ノ小屋コースピストン。

【登山時間】4時間30分【登山距離】6.4㎞【標高差】324m。

【起点地】石川県野々市町。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、新日本百名山、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】乗鞍高原温泉、泡ノ湯、白骨温泉。

不消ヶ池と畳平

天和3年(1683年)、修験僧・円空上人が開山。

乗鞍岳(3,026m)は北アルプスに属しながら、広い裾野をもっているので独立峰のような山に見える。身近に聳える御嶽山(3,063m)の山容が男性的であるのに対し、乗鞍岳はしなやかな丸みを帯びた女性的な山容をもっているのが特徴と言える。いずれも活火山であって、古くから山岳信仰の対称とされて来た山であるが、観光開発が進んでいる山でもある。

立山登山で山の魅力に惹かれた私は、1週間後の日曜日も登山をすることにした。間を置くと、太腿の筋肉が散漫となって再び筋肉痛を起こすからである。とにかく天気の良い日は、毎週山に出かけようと臨んだのである。この頃の登山の目標は富士山であって、それまでは著名な山を踏破したいと思っていた。

金沢から日帰りで登れる霊山霊峰を探した所、乗鞍岳が脳裏に浮かんだ。何度となく車で通った飛騨高山からの国道158号線沿いにあり、8合目までは登山バスで登れるとのことで、素人向きの山とあって即決した。また、乗鞍岳は春スキーのメッカとして知られ、位ヶ原の大雪渓に憧れていた青春時代を思い出す。

登山口である畳平、は標高2,715mで日本一高いスカイラインとして知られ、岐阜県からは乗鞍スカイラインが、長野県からは乗鞍エコーラインで結ばれている。楽して登りたいと願うのが、55歳にならんとする私の登山であり、バスやロープウェイなど利用できる乗物は利用しない手はない。名山の登頂は最短コースがベストで、登山は午前中が勝負であり、早朝に登りはじめることが肝心に思う。

早朝の午前5時45分に野々市を出発し、金沢西インターから富山インターで降りて、国道41号線と471号線を経由して平湯温泉に入った。平湯からも乗鞍畳平行きのバスが出ていたが、駐車料金が有料であったため、ほおの木平へ車を停めることにした。しかし、乗鞍方面の標識に誘われて、マイカー乗り入れ規制のゲートまで走っていた。ゲート付近には、閉店したドライブインやホテルがあって、規制前の賑やかさを思い起こさせる。車で2,700mまで上れるのは、乗鞍スカイラインだけであると聞くが、平成15年から環境保護のためにマイカーの乗入れを規制したそうだ。交通渋滞を緩和する意味でも必要な措置だったと思うが、自家用車で行けないのはやはり残念である。

ほおの木平の駐車場に駐車したのは、午前8時を過ぎた頃であった。金沢を出て2時間あまりが過ぎていたが、8時25分のバスには間に合ったようだ。バスには10人ほどの登山客が乗っていだけで、混雑を予想していただけに拍子抜けしてしまった。バスは1時間ほどで乗鞍岳の山肌を縫うように上り、ハイマツの美しい畳平に到着した。バスターミナルには土産物屋や山宿が建ち並び、その中に乗鞍神社の中宮社もあった。神社にお参りしてから乗鞍岳の主峰・剣ヶ峰を目指して登りはじめた。途中お花畑に立ち寄ったが、秋の高山植物は少なく、枯れはじめた草の葉が橙色に色づき草紅葉になっている。

お花畑から平坦な砂利道を歩き、長野側の乗鞍エコーラインを眺めて、肩ノ小屋へ到着した。肩ノ小屋からはガレ場の急斜面が続き、50人ほどの団体登山客を一気に追い越してからスローペースで登ったが、山頂まで誰にも追い越されることはなかった。剣ヶ峰の山頂までは、登山開始から1時間を切り、あっけない登山となってしまったが、山頂からの眺望は充実したものであった。乗鞍本宮(奥宮)の小さな社に参拝し、宮守の中年男性からバッチと手形を購入した。ご朱印は畳平の中宮社で頂けるとのことで、狭い山頂に団体客が登頂して来ると身動きできなくなると思い、その人塊が見えて来た頃に下山を開始した。

1時間程度の時間で3,000mに登れるのは、この乗鞍岳をおいて他にない。私も立山に続き3,000メートル超えを果たしてことになる。3,000mを超える山は、日本に21座しか存在せず、大変に貴重な登山と言える。松本出身の歌人・窪田空穂(1877-1967)は、その乗鞍岳を愛して池沼を詠んだ歌が残されている。

「乗鞍岳 三つ立つ峰の ふところに 湛えへて青き 水のある見ぬ」 窪田空穂

山で出会う人たちは、圧倒的に中高年が多い。何故、中高年の多くが山に惹かれたのか理由が理解できないが、体力の維持と山頂に立つ満足感や達成感であろうと推察する。昨年の秋は自転車で、中山道と東海道を踏破した経験があり、体力維持のために何かしないといけないと思い、登山に挑戦したのである。それによって登山の素晴らしさを再認識し、これからの旅の大きな目的となった。まずは「日本三霊山(三名山)」と「日本七霊山」であり、「日本百名山」はぼちぼちと登ることになる。如何せん素人の域を超えていないので、穂高連峰などの岩山はまだまだ遠い先の存在である。

肩ノ小屋で缶ビールを飲んで休憩し、登ったばかりの剣ヶ峰を仰ぎ見た。宮守の男性から聞いた所、乗鞍本宮の里宮が麓の丹生川にあるというが、ネットで調べたところ随分と廃退している様子である。乗鞍岳の祭神は、五十猛大神・天照御大神・大山津見大神・於加美大神の四柱を合わせた乗鞍大神であるが、紀伊の国からの移民が建立したそうである。立山、御嶽山、白山と並び古来より霊峰とされているが、現在の信仰の度合いは三山には遠く及ばないようだ。江戸時代初期、ユニークな仏像の作者で知られる円空上人(1632-1695)が開山し、江戸時代中期には遊行僧・木喰上人(1718-1810)も登拝したと言う。

マイカー規制中の乗鞍エコーラインであったが、観光バスとタクシーは規制外だそうで、黒塗りのタクシーを貸し切って登って来る老夫婦もいた。別に登山する様子でもなく、剣ヶ峰をじっと見ていた。観光バスもひっきりなしに畳平に停車して、観光客が一斉に降りて散策をはじめる。下山のバスを待つ間、畳平を往来する観光客を眺めた。マイカーならこの待ち時間がないので便利であるが、リュックサックがふれあうのも旅の縁で、登山バスを利用した登山もいい気分転換となる。

夏山の混雑期だけ、登山バスやシャトルバスを運行している山が多くなり、事前の情報がないと、地図を見ただけでマイカーを乗り入れたくなりそうになる。また、山岳道路は土砂崩れなどで通行止めの頻度が多く、事前の情報は欠かせない。ネットで調べるか、観光案内所に問い合わせするのが確実である。山登りは事前の情報が第一で、天気予報・道路情報・登山口の確認は最低限必要な情報である。

下りのバスは補助席を使用するほどで、ほぼ満員の状態であった。ほおの木平で降りたのは数人で、他の乗客は平湯温泉のターミナルまで乗って行った。ほおの木平にはスキー場もあるので、次回の訪問はスキーが目的になるであろう。

60御嶽山

【別名】王嶽、御岳、日和田富士【標高】3,063m(剣ヶ峰)、2,959m(摩利支天山)。

【山系】独立峰【山体】成層活火山【主な岩質】安山岩・流紋岩

【所属公園】御岳県立自然公園、御嶽山県立自然公園【所在地】長野県/岐阜県。

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】御嶽神社。

【登頂日】平成20年9月13日【登山口】御岳ロープウェイ飯森駅【登山コース】女人堂コースピストン。

【登山時間】5時間20分【登山距離】7.8㎞【標高差】917m。

【起点地】石川県野々市町。

【主な名数】木曽三岳(木曽駒ヶ岳・御嶽山・南木曽岳)、日本四名山(富士山・立山・御嶽山・大山)、日本八景(近代)、八十八座九十図、日本二十五勝、日本百名山、名峰百景、日本の地質百選、新日本百名山、百霊峰、日本の名山50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】濁河温泉、明神温泉、中の湯。

山頂遠望

大宝2年(702年)、役小角が初登頂し、寛政4年(1792年)に普寛が開山。

「木曽のナァ中乗りさん、木曽のナァ御嶽山はナンジャラホィ・・・・」と木曽節を祖母がよく唄って聞かせてくれた。その民謡が脳裏を離れず、どんな山なのか子供の頃から想像を膨らませていたものだ。地図で御嶽山(3,063m)の所在を確認すると、飛騨高山から木曽路とを結ぶ道路があり、金沢からは3時間で行けそうであった。それに御岳ロープウェイで2,150mまで上れるので、楽な登山を想像したのである。

金沢を午前5時30分に出発し、東海北陸自動車道の飛騨清見インターから高山に入り、国道361号線を進み、鹿ノ瀬に着いたのは8時30分であった。3時間ジャストの運転で、日帰りの登山の運転は片道3時間程度が限界に思える。

案内では鹿ノ瀬の御岳スキー場で、御岳ロープウェイに乗る予定であったが、ロープウェイではなくただの循環式のゴンドラであった。ガラガラの状態で、待ち時間ゼロ、タイムロスがなくスムーズにゴンドラに乗った。ロープウェイに比べてスピードは遅いものの、運搬人員では格段の違いがあり、スキー場にはなくてはならない乗物である。登山で利用するのは初めてであり最初は違和感を覚えたが、運行時間の制限もなく混雑したロープウェイに比べたら天国のようだと思い、鼻歌も出てくる気分であった。

ゴンドラは15分ほどで、標高2,150mの飯森駅に着き、小雨のために合羽に着替

えて登った。傘をさして登る登山者もいて、小雨程度なら傘の方が便利そうに思え、次回

から私も折畳み傘を携帯しようと思った。登山装備は他の登山者を参考にすることも大切で、その観察も疎かにできないが、雨の日はゴム長靴が定番と思う。

7合目には、百草丸の幟がはためく行場山荘が建ち、写真に収めたいほどの古い木造建

築である。近くには御嶽神社の拝殿が建ち、一礼して道を急いだ。樹林帯を過ぎ、見晴らしの良い山腹を行くと、御嶽山の登山道を開いた行者の覚明と普寛とおぼしき、西開霊神と西覚霊神の坐像が鳥居を前に立っていた。阿波ヶ岳霊神場は、霊山に相応しい雰囲気であるが、慰霊碑や記念碑などの石碑が多く建ち過ぎ、山の景観的には目障りに見える。

登山道は閑散としていて登山客も疎らであり、何か変だと思いながら8合目まで登ると、

9月3日で山終いしたそうで、女人堂の小屋は辛うじて営業していた。雨が上がり、合羽を脱いで小休止しながら、帰りにゆっくりと立ち寄ろうと周辺の風景を見入った。

御嶽山の山域は広く、摩利支天山・継母岳・継子岳・剣ヶ峰・飛弾頂上の六つの峰から成り、最高峰の剣ヶ峰はまだ遠くに聳えている。雲海の彼方には、中央アルプスの山並みが顔をのぞかせ、壮観な眺望である。日本アルプスに位置する百名山では、唯一の独立峰であり、開発規制の緩い岐阜県立自然公園に指定されている。百名山の殆どが国立公園や国定公園に指定されているけれど、県立自然公園は珍しく他に岐阜県と長野県に跨る恵那山だけで、群馬県の赤城山が県立自然公園に準ずるようだ。

急登の石段を行くと、屋根に石を乗せた山小屋・覚明堂休泊所があったが、入口は施錠されて無人のようである。ここが9合目で、もう一息と思うと気が楽になる。写真を撮りながら小休止して、石段ばかりの登山道を更に登って行く。剣ヶ峰の尾根に出ると、コバルトブルーの二の池が眼下に見え、その辺に山小屋(二の池本館)が建っていた。美しい景観を眺めると、自然と元気が出て来て脚も軽やかになる。

登山を開始して約2時間が経ち、登山口から標高差912mを登り、剣ヶ峰の3,067mの頂に立った。山頂には御嶽神社奥社本宮が建っていて、結構な登山客で賑わっている。山のシーズンが終わっても私のような登山客は、気まぐれに登って来るので、雪が降るまでの間は相変わらずの賑わいとなるだろう。

登山道が閑散としていたのに、なぜ山頂に人が多いのかと思ったら、王滝口から登る登山客が多いそうだ。7合目まで車で上れて、最短のコースだと言う。私はロープウェイに乗ることしか考えていなかったので、調査不足は否めない。山頂は時折、霧が流れて写真が撮れない状況となったが、3,000mを越える霊山は数えるほどしかないので、その峰に立つのは最高の気分である。

御嶽神社の由緒によると、信濃の国司・高根道基が大宝2年(702年)に山頂に奥社を創建したそうだ。その後は平安貴族の登拝も盛んとなって、応保元年(1161年)には後白河上皇(1127-1192)の勅使が登拝したと伝えている。奥社の横に束帯姿の立像や坐像が建てられていたが、道基らを讃えたものであろう。真新しいブロンズ像が山頂に立てられ、異様な雰囲気である霊山とは言え、祠だけの素朴な山頂の状態が好ましい。

奥社に参拝してから15分ほどで下山を開始し、山頂山荘が営業していたのでバッヂを買うため中に入った。この時期は日帰りの登山客が多いので、泊まってくれる客が少ないと主人はぼやいていた。夏山の賑わいを私は知らないが、山小屋の数から察して、相当な人数の信者や行者、一般登山者が登って来るのだろう。

二の池をめぐり、万年雪を眺めてから8合目まで降り、再び女人堂にたどり着いた。女人堂は山小屋と食堂を兼ねていて、登山客にはありがたい存在である。缶ビールを飲みラーメンを食べて休息したが、山小屋はカップ麺が多い中、生麺のラーメンは嬉しいものである。往復4、5時間の登山がちょうどいい疲労感であり、このまま温泉にでも入って泊まれれば申し分ない山の旅となる。

再びゴンドラに乗って車に戻り、御嶽神社の里宮を参拝するため黒沢の登山口方面に向かった。太陽の丘公園の入口に社務所があり、里宮はその入口の反対側の道路沿いに鎮座されていた。主祭神は国常立尊・大己貴命・少名彦命の三神で、総じて御嶽大神と称していると聞く。無事に下山できたことに感謝込めて参拝し、社務所で御朱印を頂戴して登拝の記念とした。本来は山頂で頂戴したかったが、シーズンが終わったので仕方がない。

このまま金沢へ来た道を戻るか、駒ヶ根温泉に1泊して木曽駒ヶ岳に明日登るか。宿の予約を入れていなかったので不安はあったが、午後2時を過ぎたばかりだったので、何とかなるさと駒ヶ根温泉を目指した。伊那から駒ヶ根に向かっている途中、格安な料金の駒ヶ根温泉ホテルの看板を目にした。車を停めて携帯で連絡すると、シングルベッドの部屋なら開いているとのことで予約が取れた。温泉に入れるとはラッキーであり、ウキウキとした気分で駒ヶ根温泉ホテルに投宿した。

「木曽節の 中乗さんは 知らぬけど 忘れられない 御嶽の山」 陀寂

61宝剣岳

【別名】錫杖岳【標高】2,931m(本峰)、2,956m(木曽駒ヶ岳)。

【山系】木曽山脈(駒ヶ岳連峰)【山体】隆起・氷食尖峰(ホルン)【主な岩質】花崗岩。

【所属公園】中央アルプス県立自然公園【所在地】長野県。

【三角点】なし【国指定】なし。

【関連寺社】信州駒ヶ岳神社。

【登頂日】平成20年9月14日【登山口】駒ヶ岳ロープウェイ千畳敷駅【登山コース】八丁坂コースピストン。

【登山時間】2時間41分【登山距離】5.2㎞【標高差】319m。

【起点地】石川県野々市町。

【主な名数】名峰百景。

【周辺の温泉地】こまくさの湯。

山頂直下

寛政7年(1795年)、小町谷文五郎と唐木五郎右衛門が山頂に不動尊を奉納。

早朝の出発となったため、弁当を作って貰ってホテルをチェックアウトした。ホテルの前にバス停があり、車をホテルの駐車場に置いて6時10分のバスに乗った。菅の台バスセンターに車を停めると400円の駐車料金を取られる上、混雑しているとバスに乗れない場合があるらしい。菅の台の手前の切石公園から乗車したので、何の心配もなく、車内でおにぎり弁当を食べて、しらび平までの40分ほどの時間を車窓からの景色を見て楽しんだ。

駒ヶ岳ロープウェイは混み合っていたが、20分ほど待って乗ることが出来た。登山ばかりではなく、千畳敷カールのハイキングを楽しむ観光客も多いようだ。よく晴れた秋空で、宝剣岳の岩峰がくっきりと見える。木曽駒ヶ岳も千畳敷カールも、数日前まで私は知らなかった。数年前に四日市から高遠の花見に赴く際、中央自動車道から眺めて山の大きさに驚いたのが、宝剣岳(2,931m)や木曽駒ヶ岳(2,956m)のある駒ヶ岳連峰であった。

千畳敷駅から千畳敷カールの雄大な原野を眺めて登りはじめると、駒ヶ岳神社の小さな社殿があったので登山の安全を祈念した。天国のような千畳敷の上には、剣先のような岩が聳え、老若男女が八丁坂の急登を超スローテンポで登っている。私はトップギヤで老若男女を追い越し、30分ほどで乗越浄土に立ち、中岳を経て駒ヶ岳へ進んだ。乗越浄土から先は山小屋が多く、宝剣山荘・天狗荘・駒ヶ岳山荘・山頂木曽小屋と続く。

中岳(2,925m)の山頂には、小さな石の祠があって手を合わせて小休止する。どこもかしこも人ひとヒトであり、真夏の混雑したプールでも見ているようだ。中岳から谷間に建つ駒ヶ岳山荘まで下り、急登を登ると木曽駒ヶ岳の山頂であった。

山頂には駒ヶ岳神社の奥宮が木曽側と伊那側に建ち、霊山らしい雰囲気を残している。木曽側にはガードマンボックスのように小さい神社の売店があり、70歳くらいのおじさんが詰めていた。神社の由来などを色々とたずねて、木曽駒ヶ岳のバッヂを購入した。

駒ヶ岳神社は今から約400年前に上松町に里宮が、駒ヶ岳山頂に奥宮が創建されたそうで、豊受大神と保食大神を祭神としているそうだ。豊受大神は伊勢神宮の外宮に祀られている神様で、保食大神はお稲荷さんやお馬の神様ともされている。いずれも女神であり、木曽駒ヶ岳のやさしい山容とマッチしているようだ。

山頂は広く、ゆったりとでき眺望も申し分ない。目前の南側には中岳・宝剣岳が聳え、その先には同じ中央アルプスの空木岳が見える。東側には八ヶ岳連峰、北側には乗鞍岳が、その先に北アルプスの名山が薄っすらと見える。そして、西側には、昨日登った御嶽山が微笑んでいるように美しい。20分ほど360°のパノラマを満喫して下山を開始した。

 途中、宝剣山荘から宝剣岳(2,931m)に向かう登山者がたくさんいた。岩山はまだ無理だと思っていたが、女性や高齢者までが登って行くのを見ていて私もその後を追った。鎖に身を任せ、岩に手をかけて登ると、そんなに危険でもなく怖くもない。工事現場の足場や鉄骨の上の方がもっと怖い。10人ほど抜いて10分ほどで山頂に着いたが、山頂の岩に立つのは順番待ちの状態であった。強引に行くのは危険であり、写真だけ撮って引返した。こうやって経験を積むと、少しずつ岩山に対する恐怖心がなくなり、剱岳、槍ヶ岳、奥穂高岳の「日本三名峰」にチャレンジする日も近そうである。

  若い頃の私は高所恐怖症を克服しようと、ロッククライマーを夢見て岩壁にチャレンジしようと思ったことがあったが、転落事故を目の当たりにして腰が引けてしまった。その反動でハンググライダーをするきっかけとなったが、これも墜落死する仲間を見て途中で止めてしまった。獣のように山野をモトクロスで走り、魚のように海でスキューバーダイビングをし、鳥のようにハンググライダーで空を飛ぶことが私の夢見た青春時代であった。

そんな青春時代の夢を辛うじて実現したのが、山スキーであった。地元の鳥海山から始まり、スイスのマッターホルンまで脚を伸ばしたものである。本格的な登山には出かけなくなったものの、スキーだけは少年時代から続けている生涯のスポーツとなった。ある人から「スキーヤーが歳を取ると、いずれは登山に目覚めて真の山男になる」と、その言葉が的中するような現在の私である。

「宝剣の 岩場登りは 面白く ザイルなしでも 辿り着くとは」 陀寂 

乗越浄土から八丁坂を一気に下山しようとするが、登って来る登山者が優先となるので、立ち止まって待つしかない。千畳敷カールに着いて、広々とした遊歩道を歩きお花畑を散策した。トリカブトやノハラアザミの花がまだ咲き残り、ナナカマドは赤く実を結んで葉は染まりはじめていた。今が夏山だと思うと、いっそう秋を恋しく思う千畳敷カールの風景である。残雪期は春スキーが可能なようで、乗鞍岳と同様に千畳敷カールもスキーで滑ってみたい。遊歩道沿いに佇む剣ヶ池で、宝剣岳周辺を写真に撮って、千畳敷駅のあるホテル千畳敷の展望台に戻った。

登山開始から2時間40分の短い時間であったが、中岳、木曽駒ヶ岳、宝剣岳の「駒ヶ根三山」を踏破した内容は充実したものであった。駒ヶ岳ロープウェイの到着を待って下山し、しらび平駅から再びバスで菅の台に戻った。まだ、午前11時を過ぎて間もない時間であったが、太田切川の河川敷でリュックに詰めていたカロリーメイトなどの非常食を平らげて昼食とした。侘しい昼食であるが、天気が良いので気分よく食べられた。

今にして思えば私の初登山は、17歳の春に栗駒山(1,624m)に単独で登ったことに始まるが、それから以降は本格的に単独登山をすることは全くなかった。いつも友人を誘っての登山で、最後に登ったのが22年前の焼石岳(1,548m)であった。怪我や体調不良を考えると、登山は友人と一緒にするものと思っていた。既に単独で3,000m級の山を5座も登頂して、単独登山に対する不安は解消された気がする。むしろ、単独登山はいいものだと思う気持ちの方が強い。大人になって35年の旅の人生が殆ど一人旅であったように、山の旅も単独登山で、行ける所まで行ってみようと思うのである。

車に戻り、駒ヶ根のまだ見ぬ名所旧跡を訪ねて散策した。そして、木曽路から野麦峠に上り、飛騨高山に下りて、東海北陸自動車道を走り野々市のレオパレスに午後6時頃に帰宅した。この自動道のお蔭で、信州の山々が大変近くなり、しばらくはこの道を往復するだろう。三連休で明日も休みであり、明日は念願の白山に登ることを決意して、早めに床に就いた。山に狂ってしまったとしか言いようない三連登であるが、今できることを今やらないで、たった一度の人生を閉じる訳には行かないのである。

62仙丈ヶ岳

【別名】前岳、千丈ヶ岳、南アルプスの女王【標高】3,033m。

【山系】赤石山脈【山体】褶曲隆起・氷食尖峰(ホルン)【主な岩質】硬砂岩・粘板岩。

【所属公園】南アルプス国立公園【所在地】長野県/山梨県。

【三角点】二等(前岳)【国指定】なし。

【関連寺社】なし。

【登頂日】平成22年9月12日【登山口】北沢峠バスターミナル【登山コース】小仙丈尾根コースピストン。

【登山時間】4時間20分【登山距離】10.8㎞【標高差】2,040m。

【起点地】三重県四日市市。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、花の百名山、新日本百名山、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】なし。

山頂直下

明治42年(1909年)、日本山岳会の河田黙が登頂。

今週は南アルプスの仙丈ヶ岳(3,033m)に登ろうと四日市を午前3時に出発したが、3時間でシャトルバスの乗場まで着けるかどうかが心配であった。伊那インターを降りて高遠までは順調であったが、国道152号線を反対方向に走ってしまい、引き返して戸台口に着いた時にはバスは出発した後であった。そんな時に駐車場の係員が直ぐに出発できるかと言って、軽トラックで後を追いかけてくれた。何と親切な係員がいるものだと感心し、ほぼ満員状態のバスに戸台大橋のゲート前で割り込み乗車させてもらった。

走り慣れない一般道路を、シャトルバスの時間に合わせて走行するのは至難の業であり、マイカー規制のある山は厄介なものである。40代後半と思える親切な係員から軽トラックの中で南アルプスの話を聞いたが、甲斐駒ヶ岳(東駒ヶ岳)が一番好きだと言う。来週はその甲斐駒に登ろうと内心で思った。

北沢峠は南アルプスの登山基地とあって多くの登山客で賑わっていたが、仙丈ヶ岳に登る人は意外と少なく見えた。北沢峠の北東が甲斐駒ヶ岳で、南西が仙丈ヶ岳であり、南アルプスの盟主の間に北沢峠は位置するが、やはり甲斐駒ヶ岳に向かう人が圧倒的である。

立派なトイレの裏手にある登山口からはやや急な登りが続くが、シラビソやコメツガの亜高山帯の登山道は広くて歩き易い。私の前には、ハイペースで登る好敵手の単独登山者がいて、マラソンのペースメーカーのような存在となり、そのスピードにつられるように登った。大滝ノ頭の5合目までは1時間弱で到着し、標準的なコースタイムの半分ほどである。午後からは天気がくずれるという予報もあって、登山を急がせる理由となった。

小仙丈ヶ岳の山頂は風が強く、写真だけ撮って通過したが、仙丈ヶ岳に至ると5・6人の先客が陣取っていた。巨大な山容の山の大きさに比べて山頂は狭く、10人も居れば窮屈に感ずる。しかし、ガスが流れる合間に見える眺望は素晴らしく、鳳凰三山や白根三山がはっきりと見え、富士山もその美貌を覗かせてくれた。中央構造線と糸魚川-静岡構造線が交差する伊那谷も見え、高遠城址公園の桜がなつかしく思い出される。

山頂には新旧の標柱以外に、三角点の石柱に交じって小さな石碑や石仏が横たわったりしながら残されていた。地蔵尊と思しき石仏は、首から上が切断されて置かれていた。明治初期の廃仏毀釈の運動が、この山頂にまで及んでいたことを知ると悲しいやら情けないやらである。私は神仏習合の時代や修験道の理念を尊ぶし、明治新政府の掲げた「神国日本」は、日本人の宗教色を統一するためのでっち上げであると思っている。神社を参拝していると、祀っている神様の名前や祭神が、明治になってから様変わりしていることもあって違和感を覚える。この仙丈ヶ岳も甲斐駒ヶ岳と同様に、信仰の山と見做されたものと推察するが、それにしても哀れな山頂の廃仏棄釈の景観である。

登山開始から甲斐駒ヶ岳は、山頂付近だけがガスに包まれていて、見えない状態が続いている。仙丈ヶ岳は「南アルプスの女王」の称されているが、仙丈ヶ岳と甲斐駒ヶ岳は姉妹なのだろうか、妹が姉の仙丈ヶ岳に嫉妬しているようにも思える。来週には甲斐ヶ駒岳にも行くよと、声を掛けて下山を開始した。

下山途中の高山帯で、ナナカマドの赤い実が突然と目に飛び込んでくる。その先に富士山が聳えていて、思わずカメラのシャッターを押して一句を詠む。ナナカマドは真っ赤に色ずく紅葉が最も美しいが、春に咲く白い花も魅力的である。

「富士を背に 赤い実いっぱい ナナカマド」 陀寂

登っている時は気づかなかったが、山頂直下の薮沢カールが大鍋の底のように眼下に広がっている。何でも穂高連峰の涸沢カールと立山の山崎カールと共に「日本三大カール」と呼ばれているらしい。私が『旅の名数』を編集する時に、その名数までは調べなかったが、「日本三大キレット」や「日本三大急登」は書き入れた記憶がある。仙丈ヶ岳の名は、このカールが千畳ほどもある広さに由来しているそうだが、カールばかりではなく、山全体の広大さや高さから「千丈」と言う名が付けられたのだろう。

昨年の夏、乗鞍岳の畳平に熊が現れて大暴れする出来事があって、熊との遭遇に対する警戒心が以前よりも強まって来た。しかし、仙丈ヶ岳にはそれなりに登山者がいるので、熊に対する警戒心が薄れ、鈴やラジオの音も細って行くようだ。イノシシも同じであるが、人が抵抗しないと察すると、警戒心が薄れて凶暴になる傾向にある。

下山して1時間30分で北沢峠に到着し、4時間20分のピストン登山となったが、さほど疲れはなく、北沢峠の長衛荘に泊れば甲斐駒ヶ岳と2座の日帰りも可能のようだ。まだ時刻は午前11時25分で、バスの時刻表を見ると午後1時まで便がなさそうである。1時間35分も待つのも辛いと思っていたが、日曜日とあって人数がまとまれば臨時バスが出るらしい。5分ほど待っていると、20人ほど集まって来て11時30分にはバスは出発した。

行きも帰りもグッドタイミングでバスに乗れて、無駄な待ち時間がなくて済み、早池峰登山の1時間待ちを思うと、サービス満点の登山基地に思えた。シャトルバスの走る南アルプススーパー林道は、長野県の戸台と山梨県の夜叉神峠を結んでいる登山バス専用道路である。白山スーパー林道などとは異なり、登山者以外に利用する人が殆どなく、バスの中もみんな登山者であった。このバスのお陰で、登山口まで安全に連れて来てもらえたと思うと、発着時間に拘束されるものの南アルプス登山には欠かせない存在であると思う。

バスに揺られながらウトウトとすること1時間弱、バスは戸台口の駐車場に到着した。臨時バスが出たため時間に余裕ができ、バス停に隣接する仙流荘の風呂に入って汗を流してさっぱりした。仙流荘の湯が天然温泉であれば、申し分のない施設であり、食堂で伊那名物の「ローメン」を食べて昼食とした。山小屋や食堂でゆっくりと昼食を食べることは少なく、それがご当地の名物であれば格別の味わいとなる。

四日市のアパートに戻ってから仙丈ヶ岳の詳細を改めて調べてみると、山頂から仙丈小屋と馬ノ背ヒュッテを経て大滝ノ頭に至る登山道があった。『日本百名山地図帳』しか持っていかなかったため、赤い点線で記された一般コースしか念頭に無かったのである。登山計画は綿密に練らないと、悔いを残すことになる。馬ノ背コースが緑色の点線ではなく、赤色になっていれば、下山路は馬ノ背を経由したと考えるからである。今までは山頂に立つことを目的としていたが、今回のように登山時間が短いのであれば、迂回してでも様々な風景を眺めないと損をしたような気分となる。

63甲斐駒ヶ岳

【別名】東駒ヶ岳、甲斐駒【標高】2,967m(本峰)、2,820(摩利支天)。

【山系】赤石山脈【山体】隆起山岳【主な岩質】花崗岩。

【所属公園】南アルプス国立公園【所在地】長野県/山梨県。

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】横手駒ヶ岳神社、竹宇駒ヶ岳神社。

【登頂日】平成22年9月20日【登山口】北沢峠バスターミナル【登山コース】上り駒津峰コース・下り仙水峠コース。

【登山時間】5時間21分【登山距離】11㎞【標高差】1,970m。

【起点地】三重県四日市市。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、日本百景、新百名山、花の百名山、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】藪ノ湯。

山頂遠望

文化13年(1816年)、弘幡行者・小尾権三郎が開山。

土日の連休がとれれば、1泊2日で南アルプスの白根三山に登ることも考えていたが、土曜日の休みがとれそうもなく、先週に引き続き予定通り、日曜日は北沢峠から甲斐駒ヶ岳(2,967m)に登ることにした。今日も午前3時に四日市を出発して、今回はすんなりと戸台口にある仙流荘駐車場に到着したが、連休の中日とあって駐車場は満車に近い。仙流荘の日帰り入浴者の駐車場に停めて、次発のバスに乗り込んだ。先週と同様にバスは満員状態で、補助席では身体を寄りかける術がなくて不便なものである。

北沢峠は南アルプスの玄関口に相応しい賑わいを見せ、これほど多くの登山者を見るのは九州の久住山登山の以来のことである。樹林地帯の双児山(2,649m)までは、追い越し易い登山道が続いていた。見晴らしの良い尾根に出ると、その先の尾根の岩場には蟻の行列のような登山者の列が見えて先が思いやられる。

今日は天気が良く、先週登った仙丈ヶ岳は、そのずっすりとした山容のすべてを披露してくれて嬉しい限りだ。三角錐のアサヨ峰や鳳凰三山が南東に聳え、眼下には戸台川の増水で削られた川原が褐色の帯ように谷間にぬっている。また、前方には緑の絨毯を敷き詰めたような駒津峰(2,752m)が見える。その先の甲斐駒ヶ岳の山頂部は、雪のような白い山肌を露わに見せくれて、1週間前の不満を解消してくれたのは嬉しい。

バスで一緒だった高齢登山客の追い越しを完了し、駒津峰に着くと、前日に山小屋やテントに泊まったであろう若者が先陣を切って登っていた。高齢者の多い登山道で若者の姿を見るのは良いが、40代前後の中年層が少ないのが気にかかる。恐らく、この世代は子育ての真っ最中であり、単独の旅行に出られないしがらみがあるのであろう。

駒津峰の山頂からは、甲斐駒ヶ岳の花崗岩の山肌と、雪のような白砂が手にでも触れるように見え、その容貌に圧倒されそうである。仙丈ヶ岳が一家を担うたくましい姉とするなら、甲斐駒ヶ岳は美貌を誇る妹のような存在に思える。山に神代の神霊がやどっているとするならば、姉は豊玉比売命で、妹は玉依比売命に該当すると勝手に思う次第だ。

六万石と呼ばれる大岩からの直登は、鎖場の岩壁が続いているので登山客の渋滞が激しく、私は巻き道と呼ばれている初級者用の迂回コースをたどった。興味本位で危険な場所を順番待ちして登ることもない。安全登山が私のモットーであり、救急車やヘリコプターで運ばれる経験だけは絶対に避けたいものである。

山頂と共に屹立する摩利支天(2,820m)も迫力のある山容で、その山頂を目指す登山者も多いようだ。私はこの日ばかりは、一途に甲斐駒ヶ岳の山頂を目標としていたので、摩利支天へは登らず、先へ先へと進んだ。私の前には「山ガール」と称される女の子たちが登っていたが、私の前を遮ることもなく颯爽とした足取りで登って行く。私がいつも「山姥」と呼んでいる昔の娘さんたちとは大違いである。

歩きづらい火山灰と岩場の登山道を越えて山頂に至ると、小学校の運動会のような人ひとヒトである。山頂の標識の被写体にも人が入ってしまうし、困りながらも連休中は人気の高い名山への登山を控えるべきだと知る。山頂には頑丈そうな石の小社が建てっていたが、山梨県側にある横手駒ヶ岳神社と竹宇駒ヶ岳神社の奥宮のようである。左に「大己貴命」、右に「馬頭観音」と刻まれた石標が立っていた。大己貴命は大国主命の別称とされ、「日本百名山」では那須岳と赤城山が大己貴命を山の祭神としている。私が感じた女神でないのは残念であるが、人間の抱く概念を山に当てはめようとしたことに無理があったようだ。

今回は出発地点である四日市が南アルプスの西方面に位置していたため、北沢峠からの登山となったが、登拝を目的とするのであれば里宮から登るのが正規のコースとなる。登拝路は、江戸時代の文化13年(1816年)に弘幡行者・小尾権三郎(1796-1819)が開いたと聞くが、往復で16時間も要する難路であり、「日本三大尾根」の1つである黒戸尾根も侮れない。取りあえず「日本百名山」の登頂を達成したら、再び登ってみたいと思う山の1座だ。

信州の人々は、木曽駒ヶ岳と甲斐駒ヶ岳との混同を避けるために、木曽駒ヶ岳を西駒ヶ岳、甲斐駒ヶ岳を東駒ヶ岳と呼んで区別しているそうで、単に西駒・東駒と言う人も多い。駒ヶ岳と称される山は、全国に18座あるそうだが「日本百名山」には4座もある。駒の字つく山名となると他に25座もあるようだ。この甲斐駒ヶ岳も山頂に馬頭観音が祀らていたことから、農耕馬に対する感謝のあられと思う。馬のことを駒と呼ぶ古来の習わしが、山名に残っているのは感慨深い。

山頂では数え切れないほどの登山者が休憩していたが、それだけ山頂が広いことを意味し、それぞれの想いを胸に山頂からの景色を楽しんでいるようだ。これだけの登山者が一斉に下山を始めたら、続々と登って来る登山者と鉢合わせとなり大渋滞は避けられない。休憩もそこそに、山頂の写真を撮り終えると下山を開始した。

渋滞を避けて早く下山するためには、登山客の少なそうな仙水峠へ下山した方が得策と思った。案の定、駒津峰から分岐する仙水峠コースは、急な下りのガレ場が続き、登りの登山者が少なくて助かった。仙水峠から眺める甲斐駒ヶ岳も雄々しく立派で、その山肌の白さは雪と見紛うほどである。

仙水峠の先は、黒ぽい溶岩の上を歩く登山道となっていて、山頂の白さと対照的な光景である。仙水小屋を通過して北沢駒仙小屋まで下り来ると、赤や黄色、青や緑色のテントが所せましと河原に設営されていた。殆どの登山者が山頂を目指して登っているようで、テントの回りには人影はない。

北沢駒仙小屋は、南アルプスの案内人として名を馳せた竹沢長衛(1889-1958)氏が、昭和5年(1930年)に開設したそうだから、80年の歴史を誇ることになる。長衛氏を顕彰するレリーフが小屋の近くにあり、上高地の「ウェストン祭」に倣って「長衛祭」が行われるようだ。北沢峠に戻った時点で、5時間21分の実質的な登山を終えるが、しばらくシャトルバスの到着を待った。前回の仙丈ヶ岳登山よりは約1時間長い時間を要したが、今回も仙流荘の風呂に入って日帰り登山の締めくくりとしよう。

下手な自作の短歌で甲斐駒ヶ岳の締めくくるのはどうかと思った所、俳人・飯田蛇笏(1885-1962)の句に甲斐駒ヶ岳を詠んだ句があった。蛇笏氏は現在の笛吹市の出身で、黒戸尾根から甲斐駒ヶ岳に登った時、絶壁の谷間で雪解けを見た印象を詠んでいる。

「雪解する 無間の谷に 駒嶽の壁」 飯田蛇笏

64鳳凰山 

【別名】法王山【標高】2,764m(地蔵岳)、2,841m(観音岳)、2,780m(薬師岳)。

【山系】赤石山脈【山体】褶曲隆起山岳【主な岩質】花崗岩。

【所属公園】南アルプス国立公園【所在地】山梨県。

【三角点】二等(観音岳)【国指定】なし。

【関連寺社】地蔵尊。

【登頂日】平成23年6月18日【登山口】青木鉱泉【登山コース】上りドンドコ沢山側コース・下り川側コース。

【登山時間】8時間50分【登山距離】7.8㎞【標高差】1,614m。

【起点地】石川県野々市町。

【主な名数】鳳凰三山(地蔵岳・観音岳・薬師岳)、日本百名山、名峰百景、新日本百名山、花の百名山。

【周辺の温泉地】御座石温泉、青木鉱泉。

オベリスク(地蔵仏)

天平宝字8年(764年)、第46代・孝謙天皇が開山。

今回の鳳凰山登山は、南アルプス初等科の卒業式である。無雪期を初等科、残雪期を中

等科、厳冬期を高等科と私は考えている。これは北アルプスと南アルプスに限ったもので、南アルプスの「日本百名山」10座を登り終えて、その初等科を卒業するのである。また別の意味では、百名山が初等科、二百名山が中等科、三百名山が高等科とも考えている。

夜も明けない午前3時25分に金沢を出発し、登山口の青木鉱泉に着いたのは午前8時を過ぎていた。中央自動道の須玉インターを降りて間もなく、武川で道路を間違えロスタイムとなってしまった。しかし、それが幸いして以前から気になっていた「神代桜」の所在地が分かったのは、大きな収穫であった。

青木鉱泉には天気予報の情報をギリギリまで待って、2日前に予約を入れた。「日本秘湯を守る会」の会員旅館であれば、土曜日の直前の予約は困難であるが、それ以外の秘湯はそれほどでもないようである。旅館のチックインを済ませ、宿泊者専用の駐車場に車を停めて、午後8時20分に登山を開始した。

ドンドコ沢コースを歩き始めると、小武川上流は崩壊対策工事が行われ、夥しい土砂が河原に堆積されていた。川には幾つもの砂防ダムが築かれ美観を損ねているが、荒れ狂う豪雨から河川を守るために致し方ない人間の対応でもある。しかし、砂防ダムを見る度に自然景観が破壊されたことは否めないし、むき出しのコンクリートは好きにはなれない。

新緑の瑞々しい樹林帯に入ると、若い女性2人が急登を下山して来て、若い男性1人がその下で2人を待っている場面に遭遇した。私は女性2人が下った道が登山コースと、咄嗟に思いこんしまった。涸れ沢には人の足跡が残っていたので、途中までは正規のコースと判断したが、マーキングやリボンテープが無いことに気づいた時にはかなりの高さを登っていた。三点確保の困難な斜面もあり、胆をつぶしながらやっとの思いで涸れ沢を登り切る。Tシャツや軍手が落ちていたので、山側の古い登山コースのようであるが、道標がないのは致命的である。引き返すの馬鹿らしく思え、そのまま進むことにした。

山腹の道ならぬ道を辿り、ドンドコ沢を目指して進むと堰堤があり、付近には青木鉱泉と記された小さな案内板が立てられていた。堰堤工事が始まる以前は、この山側コースが利用されていたと思うが、危険極まりないコースで、廃道の恐怖を実感したことは良い教訓となった。マーキングやリボンテープのない場所には、立ち入らぬことが肝心のようだ。

登りはじめて1時間が経過した頃、小雨が降り出し、リュックにカバーして傘をさしながら南精進ノ滝へと到着した。すると、下山したと思っていた若い女性2人と男性1人が前にいるではないか。私は相当のロスタイムをしていたことに気が付き、この3人組がいなければと思うと、とても歯がゆく思った。

そういえば昨年、初めて南アルプスに登った光岳で、山頂を間近にした私は、分岐点で若者2人が登山道を塞いでいることも知らず、真っ直ぐに進んで引き返したことがあった。あの時の再現のような若者の無礼や、思いやりの言葉を発しない若者たちに怒りを覚える。現在の流行語となりつつある「山ガール」ではなく「やばいガール」である。

ドンドコ沢コースは渡渉と滝のオンパレードで、百名山の登山コースとしては日本一ではなかろうか。この沢には、南精進ノ滝・鳳凰ノ滝・白糸ノ滝・五色ノ滝と名前が付く滝は4つあったが、無名の滝を含めるとかなりの数に及ぶだろう。雨を予想してゴム長靴で登っていたので、渡渉にうろたえることなくスムーズに通過できた。

登山道には、目的地までの距離や時間を示す案内がなく、五色ノ滝を越えて水音が消えれば鳳凰小屋も近いと思い、自分の心に鞭を入れて気合いを促した。日本庭園のような流れの緩斜面を行くと、赤やオレンジのテントが見えたので小屋が目前に迫ったこと知る。山躑躅のオレンジ色の花に惑わされ、山小屋の屋根かと勘違いすることも屡であった。

山小屋の玄関先で、雨宿りをしながら握り飯とカレーパンを食べて昼食とした。山小屋でカップ麺でも買って食べようと思ったが、午後1時近くになっていて時間的余裕が全くなくなっていた。当初予定していた鳳凰三山の縦走も無理と判断し、1kmほど先の地蔵ヶ岳に登って引き返すことにした。青木鉱泉の若女将には、午後5時頃まで下山すると言って来たので、それもギリギリのようである。

山小屋から先は、途中まで登り易い木段があったりしたが、賽ノ河原付近に至ると登りづらい砂礫の登山道となり、疲労も重なって思うように前へ進めない。しかし、朦朧とした雨空の中に、山頂と称されるオベリスクが見えて来た時には安堵の気持ちが湧いて来た。山頂の稜線に広がる賽ノ河原には、無数の石仏が祀られてあり、「おん、かかかび、さんまい、そわか」と地蔵菩薩の真言を唱えて合掌した。

オベリスクは地蔵仏とも称される岩の尖塔で、巨大な仏像を見るようである。三山の総称でもある鳳凰山の名前の由来は、奈良時代の孝謙天皇が法皇になった伝説に因るとも云われるが、鳳凰という架空の鳥の姿に山容が似ていることから名付けられたとも聞く。

熟年の団体の登山客が下山して行き、山頂には私のほか誰もいないようである。地蔵岳のオベリスクに登ろうとしたが、古くから人々が崇めて来た聖なる仏像でもあり、山頂へ導くマーキングはない。小さな地蔵尊の石仏が一体安置されているだけで、この場所を模擬山頂として下山することにした。

「梅雨の山 地蔵菩薩の 涙かな」 陀寂

砂礫の登山道は下山が楽であり、ストックを手にスキーでもするように小走りに賽ノ河原を滑り降りた。樹林帯に入る途中、足で白い砂礫を払いのけると、下には雪が残っていて、砂礫は最近の豪雨で流されたようである。それを思うと日々変化する山の様子に、これも自然だと思わずにはいられない。

青木鉱泉に下ったのは、登山を開始して8時間30分後の午後5時10分であった。若い女性2人の下山に惑わされずに正規のコースを登っていれば、最高峰の観音岳(2,840m)までは所定の時間内に到着できたと思う。悔しさの残る登山であったが、登山コースをしっかりと把握していなかった私が未熟であったのだと総括する。

青木鉱泉には、山のバッヂが販売されておらず、翌朝、御座石温泉に立ち寄った。何とか山のバッヂは求められたが、宿の主人からここから登った方が地蔵岳は近いと言う話を聞き、次回はこの温泉に泊まって三山めぐりの雪辱を果たしたいものだ。

65北岳

【別名】白峰山、白根山、白根岳【標高】3,191m。

【山系】赤石山脈【山体】褶曲隆起山岳【主な岩質】石灰岩・玄武岩・堆積岩。

【所属公園】南アルプス国立公園【所在地】山梨県。

【三角点】三等(白根岳)【国指定】なし。

【関連寺社】なし。

【登頂日】平成22年10月6日【登山口】広河原【下山口】奈良田【登山コース】白根御池コースから間ノ岳・農鳥岳を縦走。

【登山時間】5時間15分【登山距離】7.9㎞【標高差】1,693m。

【起点地】三重県四日市市。

【主な名数】白根三山(北岳・間ノ岳・農鳥岳)、日本百名山、名峰百景、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】奈良田温泉。

山頂遠望

明治4年(1871年)、修験僧・名取直江が開山。

富士山に次ぐ日本第二の高峰を白根山と覚えていたので、何年か前までは北岳(3,191m)と聞いてもピンと来なかった。「日本百名山」には、北岳に接した間ノ岳も含まれていて、農鳥岳と合わせて「白根三山」と呼ぶらしい。草津と日光にも白根山があるので、本家本元の白根山は主峰の北岳がその代名詞となったのだろうか。

先々週は奥穂高岳に登り、今田重太郎(1898-1993)氏がケルンを3mも積み上げ、ライバル視していた北岳に今週は登ろうとしている。奥穂高岳と北岳の標高差は、僅か3mしかなので、同位に着けたいとした重太郎氏の執念には敬服する。

四日市から奈良田温泉までは、東名高速の清水インターを経由して約4時間である。先週の同時刻に走った畑薙第二ダムへの道のりと酷似し、ここもインターから遠い。麓に奈良田温泉があるのが嬉しく、早めに下山できれば良いが、それも天気次第である。

シャトルバスは1時間に1本で、乗り遅れたら登山の予定が立たなくなるので、1時間前に駐車場に到着したが、バスの乗客は3人だけで拍子抜けしてしまった。登山基地の広河原には真新しいインフォメーションセンターが建ち、南アルプスの最高峰・北岳の登山口に相応しい景観となっている。広河原は上高地に似ていて、梓川のような野呂川に河童橋のような吊橋(野呂川橋)が架かっていた。吊橋の手前からは、北岳の鋭角的な山頂部がはっきりと見えるが、河童橋から見上げる穂高連峰とは趣が異なる。

登山コースは、大樺沢道と白根御池道の2つに分かれていて、大樺沢道は八本歯ノコルのある左俣と、白根御池道と合流する右俣に更に分かれていた。白根御池道は眺望が良く、安全なコースとガイドブックに書かれていたので、距離は長いが白根御池を経て肩ノ小屋から山頂に登るコースを選択した。

樹林帯の急斜面を1時間40分ほど登り切ると、小さな白根御池があり、手前に小奇麗な山小屋・白根御池小屋があった。私は外のベンチに腰掛け休息し、野良仕事をしている管理人の女性と挨拶を交わした。秋の陽差しを浴びて気持ちの良さそうに働いている姿は、桃源郷(ユートピア)に暮らす天女のようだ。

山頂の中腹は、草紅葉が3段染めに彩られ、どこを眺めても絵になる美しさである。白根御池から草原すべりに至ると、周辺はお花畑になっていて、ヒメザクラにも似た白い花が咲いていた。10月の時期に咲く高山植物があることに驚き、名前も知らない花でも急登の疲れをしばし癒してくれる。小太郎山への分岐点から小太郎尾根に入ると眺望が抜群で、北に甲斐駒ヶ岳と仙丈ヶ岳、東に地蔵岳のオベリスク、南に間ノ岳と南アルプスの北部に連なる百名山がすべて顔を出してくれた。東の彼方には、八ヶ岳と富士山までも特別参加してくれて、名山名峰ショーは開幕された。

なだらかな尾根の肩には、青い屋根の肩ノ小屋があり、山頂もかなり近づいて来た。山小屋の屋根は大概が赤色で、茶色も見受けられるが青色の屋根は珍しい。山小屋にラーメンのメニューがあったので、迷うことなく注文した。大豆もやしとコンビーフの入ったラーメンで、思い出に残る味であった。

肩ノ小屋から休憩もはさんでで約1時間、山頂に到着すると、岩場は若者で一杯であった。10月も中旬となり、オバチャマご一行様の行列がなかったのが救われた。一緒に登って来た若者に写真を撮ってもらい、日本第二位の高峰に登った記念とした。残雪の春の登山も良いが、晩秋の登山は登山者も少なく最高である。

山頂には、北岳の標高を表す標柱が3本も立っていたが、3本まとめても聖岳の標柱の立派さには及ばない。標柱の側には、風化して鼻筋だけが残るお地蔵さんと、南無妙法蓮華経の板碑が置かれていた。山頂での名山名峰ショーは最高潮に達して、3,000mを超える仙丈ヶ岳・間ノ岳・農鳥岳・塩見岳・荒川東岳と役者の立姿は凛々しい。

「北岳や 高峰五山 顔そろえ 南アルプス 雲上の宴」 陀寂 

富士山が最も端正に見えるのが、この北岳からの眺めではないだろうか。3,756mの白山岳と、3,776mの剣ヶ峰が左右対称に尖がっていて、そのお鉢が平に見える。思わず手を合わせ、北岳登頂の喜びを富士山にも感謝した。

北岳は白根三山の最北部に位置することから名付けられたそうだが、山梨県だけの単独の山なので昔は甲斐ヶ根と呼ばれたそうである。明治初期には甲斐ヶ根神社が建てられ、夜叉神峠の入口に里宮が、白根御池に中宮があって山頂に本宮があったと聞く。奥深い山であっために山岳信仰は廃れ、イギリス人宣教師・ウォルターウェストン(1861-1940)が登った明治35年(1902年)頃には、神社の痕跡はなかった言う。

北岳に登ったことによって、日本の高峰3座を登り得たことになり、夢のような心地がする。最初は富士山に登ることだけが夢であったので、感慨もひとしおである。高峰4座目の間ノ岳(3,189m)は目の前に聳えていて、これから登る山となる。

今日は農鳥小屋に予約の電話を入れてあったので、山頂を15分ほどであとにした。距離的にはまだ、半分も達していないので、のんびりもしていられない。1泊2日の白根三山縦走は、無謀な登山とならないように休憩時間を短縮するのが最良のようだ。

吊尾根分岐で北岳の山頂を仰ぎ見ると、岩肌の灰色にハイマツの緑色、草紅葉は薄茶色になっていて3色の色合いが絵画的で美しい。北岳は高山植物の宝庫でもあり、白馬岳と同様にキタダケの名前のついた固有種や稀産種も多いようで、今度は花のシーズンにもう1度登ってみたいものである。長野県側の山並みを見渡すと、その稜線がいくつも重なっていて、数えてみると七重となっていた。三重、四重はしじゅう見るが、七重は初めて見る光景あり、下手な句が脳裡に浮かぶ。

「眼下には 山並み七重 秋の空」 陀寂

下山開始から25分で、北岳と間ノ岳の鞍部に建つ山梨県営の北岳山荘に到着した。赤い屋根の品格のある山荘で、三山縦走を考えなかったらここに泊まってみたいと思うほどである。山小屋と山荘との違いは、建物の規模と施設の内容であると思うが、同じ料金なら山小屋よりも山荘に泊まりたいと願うのが本音である。

農鳥小屋に山のバッヂがないことを想定して、北岳山荘で北岳と間ノ岳のバッヂを購入した。北岳と間ノ岳の登山の区切りは、この北岳山荘を基点に考えていたので、北岳へ一礼して、間ノ岳へと気持ちを切り替える。

66赤石岳

【別名】赤石嶽【標高】3,120m。

【山系】赤石山脈【山体】隆起・氷食尖峰(ホルン)【主な岩質】輝緑凝灰岩・堆積岩。

【所属公園】南アルプス国立公園【所在地】長野県/静岡県。

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】なし。

【登頂日】平成22年10月9日【登山口】椹島【登山コース】赤石東尾根コースから荒川小屋に投宿し東岳を縦走。

【登山時間】8時間35分【登山距離】10.9㎞【標高差】2,020m。

【起点地】三重県四日市市。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、新日本百名山、日本の名峰50選、日本の山ベスト100。

【周辺の温泉地】赤石温泉、東河内温泉。

赤石小屋

明治12年(1879年)、測量技師・梨羽晴起らが初登頂。

一昨日までは、今回こそは白根三山を1泊2日で縦走しようと考えていたが、来週に予

定していた赤石岳と悪沢岳(荒川東岳)にある山小屋が今週でシーズンを終えるとのことであった。そこで急遽、赤石岳と悪沢岳を先に登ることにした。

四日市を午前3時過ぎに出発したが、相良牧之原インターから一般道路を110kmも走らないといけない。赤石岳と悪沢岳の山々やその林道は、製紙会社の民有地でもあって施設管理をしている「東海フォレスト」のお世話にならないといけないと聞く。畑薙第二ダムの駐車場に着いたのは午前8時20分で、着替えや準備をしていたら待ち時間はなかった。東海フォレストが運営する山小屋に宿泊する者のみが利用できるマイクロバスだそうで、私は荒川小屋に泊まる予定であったその権利は得られたようだ。

バスには10人ほどが乗っていたが、悪天候を嫌ったのか最終日にしては少ない登山者である。1時間ほど悪路に揺られたが、運転手が懇切丁寧に周辺の山や登山口の説明をしてくれるので、寝ることも忘れて聞き入ってしまった。大井川沿いの東俣林道は、車で自由に入れない林道なので畑薙湖の景観は見逃さないように注意した。

合羽に着替えてバスに乗っていたので、椹島に到着すると直ぐに赤石岳へと登りはじめた。林道に面した鉄段を登ると、急な登山道が営々と続く。この先の赤石小屋に泊まると言う中年の単独登山者を追い越し、赤石東尾根の樹林帯を過ぎ、赤石小屋に到着したのは午後3時間近くになっていた。山小屋で缶ビールを飲みながら小休止したあと、激しさを増す雨の中、傘をさして赤石岳の山頂を目指した。

こんな雨の日に登る馬鹿は私だけと思っていたら、途中のトラバースで3人ほどの登山者とすれ違った。山頂まであと少しと聞いて、必死の思いで踏ん張って登り山頂に立った。

赤石岳は南アルプスでも数少ない一等三角点のある山で、その石柱に触れただけでも有難い。しかし、風雨が激しくなり、山頂の写真を2枚撮影して山頂近くの避難小屋にも寄らずに北沢カールの分岐点まで引き返した。

赤石岳の山名は、山肌が赤味を帯びていると言う単純な理由に由来するらしい。その赤味の要因は、ラジオラリアと呼ばれる放散虫の化石と溶岩が海水で冷やされて出来た凝灰岩にある。その赤石は、赤石東尾根の下を流れる赤石沢に多く見られると聞くが、またの機会に見てみたいものである。

赤石岳もかつて信仰の山とされ、明治時代の頃は「敬神講」が組織されて登拝が盛んだったと聞く。しかし、富士山や御嶽山などの独立峰とは異なり、南アルプスでも最も奥地にあたりアクセスも悪く、登拝道もあまり整備されていなかったと思う。

霊山の面影も薄れた山頂を下り、鞍部から小赤石岳を登って大聖寺平に到着する頃は、風はおさまり雨だけとなった。約20年間も愛用しているゴアテックスの合羽も、くたびれたようで、雨水が滲み込んで来るようになった。『奥の細道輪行記』などの自転車旅行には欠かせない合羽であっただけに、様々な思い出が沁み込んでいる。雨の日の登山は、意味のない無駄な登山だと思うが、松尾芭蕉(1644-1694)翁の「雨もまた奇なり」という言葉を思い出すと、これもまた自然なのだと受け止める。視界が悪く、何度か下山コースを見失い、遭難の文字が少しばかり脳裡を過る。稜線直下のガレ場を更に下り、緑地に荒川小屋の明かりを目にした時には本当に安堵した。

「山小屋の 明かりに続く この命 コース逸れても 辿るうれしさ」 陀寂

荒川小屋までは、椹島登山口を出発してから約7時間半の時間を要したが、快晴ならば道草を食い、もう少し到着が遅れていたかも知れない。荒川小屋には電話で予約を入れておいたので、あまり遅いと迷惑をかけてしまう。午後5時までに到着すれば良いと思うが、早い人は午後3時頃には到着して骨やすめをしているようだ。

荒川小屋には、私の他に3人の登山者がいたが、みんな雨に打たれたようで、濡れた衣服をストーブの前で乾かしていた。荒川小屋はペンションのような建物で、新築して間もないようだ。部屋には暖房がないので、ロビーのストーブで暖を取りながら寛いだ。ここに風呂があれば最高であるが、せめてシャワーだけでも浴びたい欲求は残る。

身体も温まった頃、夕食の時間となったのでテーブルに座った。まず驚いたのが料理の豪華さである。塩見岳に登った折、三伏峠小屋に泊まったが、ユースホステルの食事と変わりのない料理の内容だったので、あまり期待はしていなかった。その料理の内容は、カレーライスをメインに、肉ジャガにマグロの刺身、アジのフライに鶏のから揚げと他に色々あった。ワンカップを2杯飲みながら、他の山小屋ではとても味わえないと思う料理に満悦した。殆ど冷凍物であると思うが、カニなどは冷凍でしか買えない時代になっているので、冷凍だから不味いとは思わない。

夕食後は、ロビーに居座りながら赤石岳について知っていることを思い出しみた。赤石岳と言えば、山一帯の所有者であった大倉喜八郎(1837-1928)氏が、明治15年(1926年)に前代未聞の登山をしたことが記憶の奥底から蘇って来た。喜八郎氏は当時88歳、駕篭に担がれながら200人に及ぶ社員や人夫を引き連れて、自分の所有地だけを通って赤石岳に登ったのである。風呂桶まで背負わせたと言うのだから、大名行列を凌ぐ成金行列である。これだけの労力を費やした登山なのだから、後世に残る登山記や詩歌、絵画でも残して欲しかったものである。所詮は成金趣味的な道楽の域を超えていなかったのであったのか。

南アルプスは通称名で、地理学の標記は赤石山脈である。赤石岳に因んで名付けられたことは理解できるが、中央アルプスは木曽山脈、北アルプスは飛騨山脈と、地名や旧国名を用いていることを考えると不可解である。おそらく、南アルプスは甲斐・信濃・駿河の三国にまたがっていることで、無難な選択をしたのであろうか。

「日本百名山」に赤石岳が選ばれていなかったら、殆ど興味を感じていなかったと思う。しかし、百名山と共に二・三百名山が視野に入り、3,000m級の山々は全て登りたいという欲望がまで芽生えて来て、赤石岳は百名山でなくても遠からず登っていただろう。

同宿した高齢者の3人はグループのようで、単独登山者の私が彼らの会話に割り込む余地はない。私の口は閉じたまま、手帳に下手な歌を記し、彼らの会話が終わると枕元のライトを消した。若い頃、旅先のユースホステルに投宿して袖触れ合った人たちと、進んで旅の会話をした自分の姿が遠い存在に見える。

67聖岳

【別名】日知ヶ岳【標高】3,013m(前聖岳)、2,978m(奥聖岳)。

【山系】赤石山脈【山体】褶曲隆起山岳【主な岩質】花崗岩。

【所属公園】南アルプス国立公園【所在地】静岡県/長野県。

【三角点】三等【国指定】なし。

【関連寺社】なし。

【登頂日】平成22年8月28日【登山口】便ヶ島駐車場【登山コース】便ヶ島コースピストン。

【登山時間】9時間3分【登山距離】16.6㎞【標高差】2,093m。

【起点地】三重県四日市市。

【主な名数】日本百名山、名峰百景。

【周辺の温泉地】赤石温泉、東河内温泉。

山頂直下

明治38年(1905年)、陸地測量部の測量技師らが初登頂。

今回は白根三山を1泊2日で巡拝する予定であったが、予約を申し込んだ山小屋が定員をオーバーし、2人で1つの布団に寝るという。7,900円も払って窮屈な思いはしたくないと、白根三山は断念して、以前に登山を諦めた聖岳(3,013m)を日帰りすることにした。

南アルプスの3,000m級の山は標高差が高く、どこもかしこも過酷な日帰り登山となる。どうしても朝7時前後に登山を開始しないと、夕暮れになってしまう。今回は深夜の2時20分に四日市を出発し、便ヶ島の駐車場に到着したのは午前6時過ぎである。お盆休みは光岳に登るために、易老渡までやって来たのだが、国道152号線からの狭い山道と、遠山川沿いの悪路には辟易とさせられた。その易老渡の先の便ヶ島には、立派な駐車場とトイレがあるのには感激し、聖岳への直登のコースとして定着しているようである。

トレパンに着替えて、大用している間にも続々と入山して行く登山者が目に付き、私の気合も高まって行く。午前6時20分には登山を開始したが、寝不足による体力の低下は否めず、天気が良いことが救いである。西沢渡までは平坦な林道が数㎞続き、折畳み自転車を積んでいれば往復40分の時間短縮になる。西沢渡には手動のゴンドラがあったが、増水していなかったので渡し板の上を歩いて、聖岳の山懐へと入って行く。

シラビソやダテカンバの繁茂する亜高山帯を一気に進むと、2,200m地点で聖岳のお椀を伏せたように丸味を帯びた山頂が見えて来て、目指す先を彼方に捉えることできた。

登山道の各所には、標高を示す案内板もあり、約30分で約200mを登っているようだ。登山開始から丁度3時間、標高差約1,300mの急登を踏み、高山帯の薊畑まではマイペースで登って来た。薊畑のアザミの花はもう枯れていたが、草地の広がりは予想以上であり、晴れ渡る青空と共に無くてはならない山の景色でもある。

薊畑から標高2,662mの小聖岳までは順調に登っていたが、眼前に聳える前聖岳への道のりは易しくない。目標タイムはクリアしていたが、標高差350mは最後の難関であった。想像していたよりも登山者は疎らで、後にも先にも登山者がいなかったので、カメラと貴重品と水だけを携えて、リュックは小聖岳の山頂にデポした。目前の山頂を仰ぎ見て登る山ほど楽しいものはない。綺麗な女性の目を見つめて語りかけるような、その女性の話を聞くような気分とダブる。

小聖岳から下って登る鞍部が辛かったが、聖岳の山頂を目前に登って行くと、不思議と元気が蘇って来る。便ヶ島の登山口から4時間40分、直登コースは意外と短く感じるものである。標高が34m高い塩見岳に比べると、遠巻きに登った塩見岳よりも時間的には直登の方がはるかに早いことを知った。この登山を契機に、残された「日本百名山」の日帰り登山を可能とするのは、直登コースしかないと思うようになった。

山頂からのは、上河内岳など近隣の山々ははっきりと見渡せるが、白根三山は雲に隠れて良く見えない。それでも広い山頂にいると晴れ晴れとした気分となり、何よりも聖岳の山頂を示す標柱が重厚で立派に見えたことである。

「聖とは 空也食わずの 聖人か それを忘れて 拝む頂き」 陀寂

山の名が聖岳となっているので、山岳信仰の山と思っていたが、山頂に祠の類は一切なく、純粋無垢な自然の姿があるだけである。一説によると、山頂から赤石ダムに流れる聖沢が肘を曲げたような形に似ていることから、そのヒジルが転化したものと言われる。威厳に満ちた山容から想起すると、聖なる山の雰囲気が感じ取れる。

山頂には数人の登山者がいたが、どうもグループで登って来たようで、単独登山者にとっては話し掛けづらい対象である。2人連れならともかく、彼らは彼らのだけの登山を楽しんでいるのであって、彼らの会話に水を指すようで声をかけても空しい。

山頂で昼食をとるのは登山者の定番ではあるが、リュックを小聖岳にデポしたため、小聖岳で昼食をとることにして、写真撮影を終えて間もなく、聖岳から下山を開始した。登頂を果たしてから求めるものは山のバッヂであるが、登山口に建つ聖光小屋は管理人が不在のように見えたので、薊畑の近くにある聖平小屋で求めるのが無難に思えた。

薊畑に戻り、山梨県側の登山コースが合流する聖平まで下ってまた登ることになるが、寄り道も楽しいもので、黄色いミヤマキンボウゲの花が可憐に咲いている。聖平の草原には、倒木した木の株が無数に残っていたが、昭和34年(1959年)に発生した伊勢湾台風によって倒されたものだと聞く。それまでは樹木に覆われて、深緑り一色であったであろう。

人為的に伐採されたのであれば考えものであるが、天地自然が齎した細工には文句は付けられない。そのお陰でと言えば変であるが、その後に高山植物が咲く草原に変化したことを思うと、これも松尾芭蕉(1644-1694)翁の説く「自然の造化」と捉えたい。山の草原化は山の荒廃であるけれど、森林限界を超えて樹木が繁茂するのは登山者の好む所ではない。

聖平小屋は聖岳登山の最前線基地とあって、登山客で賑わっていた。聖平小屋は真新しい木造りの山小屋で、赤い長尺屋根とパラボラアンテナが現代的に見えた。聖平小屋では、缶ビールと山のバッヂを購入して、山小屋の前のベンチで休息した。

今日を有意義に生きることは、未知なる風景や人々との出会いであり、それを書き記し、語ることにあると思う。その積み重ねが人生であり、一度だけの生命の灯を無駄に照らさない真髄が登山には秘められている。この山小屋では、未知なる人との出会いはなかったが、私がまだ幼い頃の伊勢湾台風の影響が、この聖なる山にまで爪痕を残したことを知っただけでも寄り道をした意義はある。

薊畑に引き返して一路、便ヶ島の登山口を目指して下山したが、登りが長ければ下山も長い。まだかまだかと念じながらも、登った来た思い出がまだ温かい登山道を踏みしめる。時折、立ち止って眼下の景色を見てみると、遠山川は銀色の帯のように谷間に輝いているだけだ。標高の高い山を下山する時は、川との距離やその水音が登山口へ到着する目安となるが、その水音を聞きまでの時間が長い。

登山開始から約9時間、体力的には余裕を残しての下山となった。しかし、これから国道152線までの林道と村道は、第二の下山でもあり気を抜くことはできない。易老度から先は光岳登山の折も通っているので道は分かっているが、好んで走りたい道路ではない。また、高速道路の走行も自分の最適速度を維持するためには追い越しは頻繁に起きる。登山中の缶ビールと一緒で、愚直に法律のしがらみを遵守する必要性はないだろう。

68恵那山

【別名】胞山、胞衣山、舟覆伏山、野熊山(長野県側)【標高】2,191m。

【山系】木曽山脈【山体】隆起侵食山岳【主な岩質】花崗岩・流紋岩。

【所属公園】中央アルプス県立自然公園、胞山県立自然公園【所在地】長野県/岐阜県。

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】恵那神社。

【登頂日】平成22年7月10日【登山口】広河原口駐車場【登山コース】広河原コースピストン。

【登山時間】5時間19分【登山距離】10.2㎞【標高差】1,021m。

【起点地】三重県四日市市。

【主な名数】恵那三山(恵那山・富士見台・根ノ上高原)、八十八座九十図、日本百名山、名峰百景、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】月川温泉。

恵那山神社本宮

明治26年(1893年)、英国人宣教師・ウォルターウェストンが登頂。

四日市に赴任してから2度目の週末となり、本格的な夏山のシーズンが始まった。中央アルプスと南アルプスの「日本百名山」が主な登山先の山々となる。まずは中央アルプスの恵那山と空木岳をクリアにしてから南アルプスへ挑むことにした。

  北アルプス(飛騨山脈)は中部山岳国立公園に属し、南アルプス(赤石山脈)は南アルプス国立公園に属しているのに、恵那山のある中央アルプス(木曽山脈)は、国定公園にも指定されていない。辛うじて、長野県では「中央アルプス」の名称で、岐阜県では「胞山」を県立自然公園に指定しているだけである。国立公園や国定公園に比べて県立自然公園は、観光開発や林業開発の規制が緩和されているので、駒ヶ岳ロープウェイで2,612mの千畳敷カールまで上れるのは、その恩恵を受けて建設されたのであろう。

中央自動車道の園原インターを降りて月川温泉を過ぎ、本谷川沿いの峰越林道に入り、林道路肩の駐車場に到着する。殆ど舗装されているが、4kmほどの林道の内、約2kmは土砂崩れの復旧工事中で封鎖となっていた。既に10台ほどの車が駐車していて、広河原の登山口へは林道を更に2kmほど歩くことになった。こんな時に車に自転車を積んでいればと思うのだが、今回の登山はそこまでの準備を怠ってしまった。

登山口へ入ると、すぐに本谷川の渡渉があったが、丸太橋が架けられてあって、水量も少なくひと安心であった。カラマツ林の登山道がしばらく続くが、リボンテープが木の枝に結んであるだけで、案内標識が全くないので心細くなって来る。登山コースに案内標識がないと、時間や距離の把握できず、途中の目標が定まらないとメリハリのない登山となる。平成13年に開かれた最短コースらしいので、整備が行き届いていないようだ。

山に登りはじめていつも思うことは、尾根や森林限界へ出るまでの樹林の変化が楽しみであり、また苦しみの連続でもある。しかし、恵那山は高度が増しても森林限界は見当たらず、トドマツなどの樹木が山頂まで生い茂っていた。クマザサも繁殖し、1,500mクラスの山頂の様相を呈しているのであるが、岩盤の露呈は殆ど見当たらない。山頂への距離感を掴めないまま、登り続けていると、山頂の直前まで進んでいた。

樹木に遮られた山頂に立つと、登山者に申し訳なさそうに木製の展望台が設えてあるが、上ってみても代わり映えはしないようだ。山頂の眺望を期待して2時間45分も登って来たのに、恵那山神社の山神様からの御褒美を頂戴できなかったのが残念である。

山頂には数組の単独登山者が寛いでいて、情報交換など山の会話も弾む。三重県の津市から来たと言う若者もいて、親近感を覚えると同時に別れるのが辛いものである。山頂に到着すると誰もが皆、達成感に満たされ開放的な気分となる。顔の目じりと心の緊張感が緩み、自然と口も軽くなり、会話が弾むのだろう。

山頂には恵那山神社本宮の小社があり、現在も霊山として崇められているようだ。その神社の前社(里宮)が中津川市の川上にあり、伊邪那岐命と伊邪那美命の両神を祀っていると聞く。両神の娘である天照大神が産湯に使った胞衣を山中に納めたという伝説があり、山の名前はその胞衣に由来するようである。

かつては修験道の霊山であった恵那山も神教色に染まり、神仏習合の面影は残っていないようだ。中津川の川上から修験道の参道があり、その面影を訪ねて古道を踏むのが正規の登山と言える。山頂に最短コースで立とうとする考えは、霊山登拝も踏まえたいと願う志とは合致していなようで、今回はただ単に百名山の山頂だけ目指したのは軽率であった。

山頂の避難小屋を見物して下山を開始しするが、すれ違う登山客が少なく、登山適期に入っている百名山にしてはちょっと淋しい山の休日である。何度となく登りたいと思う「日本百名山」はどれ程あるのだろうと、山の魅力について再考察をする必要性を感じる。

私は「日本百名山」の登頂と合わせ、霊山を自選した「霊峰霊山100座」の登拝も目的としている。恵那山は霊峰霊山に相応しい山であったことは確かであり、次回は前宮ルートの古道を踏んで、その魅力を満喫したいものである。また、江戸時代中期の絵師・谷文晁(1763-1841)が描いた「日本名山図譜」の八十八座九十図にも選ばれている。この88座の登頂も「日本百名山」と同様にターゲットに考えている。

登山を開始して5時間19分、午後1時には下山を終えて車に到着した。先週の御在所岳登山に続き、今年の夏山シーズンは2度目の登山となったが、体力的には十分に余裕があり、次回に予定している空木岳の日帰り登山への自信となった。

帰路は月川温泉に立ち寄って温泉と思ったが、入浴よりも食欲に気持ちが大きく傾いた。

青木屋という料理店で、イワナとアマゴの焼き魚定食を注文したが、五平餅が付いていたのが嬉しい。食後に店主から山のバッヂを売っている場所はないか聞くと、富士見台ロープウェイ山麓駅で売られていると言う。大枚2,450円の昼食となってしまったが、普段はコンビニの握り飯とパンで済ませているので、贅沢な昼食も忘れられない味覚の思い出となれば安いものである。

ヘブンスそのはらの富士見台ロープウェイ山麓駅に立ち寄ると、その切符売り場にバッヂは置いてあった。神社仏閣を拝して御朱印を頂戴する以上に山のバッヂには価値観があり、自分への勲章だと思っている。へブンスそのはらは、冬は「ヘブンスそのはらスノーワールド」というスキー場で、夏場は高原の花畑として観光客を集めているようだ。およそ30年前に私が提唱した夏場のスキー場の活用が実践されているようで嬉しく思った。

恵那山は中央アルプス(木曽山脈)の南端に位置し、濃尾平野からは櫛形をした山容が見えるそうだが、私はその山容を見ていなのが残念である。山頂を目指す登山も大切であるが、山容も知らずに登るのは、容姿を見ないで異性と交わるようなもので、基本的にはその山の特徴を知ることが登山の第一歩となる。

恵那山の名前を初めて知ったのは、島崎藤村(1872-1943)の『夜明け前』に描かれていたことであった。その藤村が愛したふるさとの馬籠から眺める恵那山は、どんな眺めであったのか気になる所ではあるが、2度も馬籠を旅行して恵那山を意識しなかった当時の自分を後悔している。山への興味が薄れて20年、昔のように地図を片手に、眺める山を見比べて山名を覚えようとした若い頃の情熱が再び蘇る。高速道路を走っていても気になる形の山は、その名前を覚えようとし、著名な山はその所在を確認するようになった。

「仰ぎ見る 山は憧れ 登り見る 馬籠も恋し 雲に消えしも」 陀寂

69白山

【別名】越白嶺、白峰【標高】2,677m(剣ヶ峰)、2,702m(御前峰)。

【山系】両白山地【山体】成層活火山【主な岩質】輝石安山岩・花崗岩。

【所属公園】白山国立公園【所在地】石川県/岐阜県。

【三角点】一等(御前峰)【国指定】天然記念物(化石)。

【関連寺社】白山比咩神社。

【登頂日】平成20年9月15日【登山口】別当出合駐車場【登山コース】上り砂防新道コース・下り観光新道コース。

【登山時間】7時間25分【登山距離】14.1㎞【標高差】1,442m。

【起点地】石川県野々市町。

【主な名数】日本三名山(富士山・立山・白山)、白山三峰(御前峰・剣ヶ峰・大汝峰)、白山五峰(御前峰・剣ヶ峰・大汝峰・別山・三ノ峰)、日本百名山、名峰百景、新日本百景、日本遺産百選、花の百名山、新日本百名山、百霊峰、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】白山温泉、大白川温泉、新岩間温泉。

弥陀ヶ原と山頂

養老元年(717年)、修験僧・泰澄上人が開山。

古くからの友人の招きで、金沢の近郊にある液晶工場の工事現場に来たのは、約1年半ほど前であった。当初は能美市の寺井のレオパレスに住んでいたが、昨年の10月から野々市町に引っ越し、現場を行く途中に白山を何度も遠望した。ここに居るうちに登ってみたいと思うようになり、今日の日を迎えた。

白山は飛鳥時代に泰澄上人(682-767)によって開山されたとされ、登拝の歴史が千年も続いていることになる。都から近いこともあって、平安時代には和歌にも詠まれ、三十六歌仙の1人・壬生忠岑(860-920)の和歌が有名である。

「年ふれば 越の白山 老いにけり おほくの冬の 雪つもりつつ」 壬生忠岑

江戸時代には多くの植物学者が白山に登って新種の高山植物を発見している。ハクサンの名前の付く高山植物は、この頃の命名だと聞く。その種類は20種以上もあるとされ、ハクサンイチゲ・ハクサンオオバコ・ハクサンスゲは絶滅危惧種に指定されているようだ。

野々市を午前5時半頃に出発して、市ノ瀬に1時間ほどで到着したが、既に駐車場は車でいっぱいである。登山準備にもたついている間、別当出合へのシャトルバスは出発してしまった。30分ほど待ってから7時5分の便に乗り、25分でバスは別当出合に到着する。

休日やシーズン中は、登山者のマイカー規制をする山が多く、白山もその一つであり、今回のように30分ものロスタイムが発生する。バスの出発時間に合わせて入山するのが良いと思うが、初めて走る山岳道路の距離や時間は予測ができないのが現実である。

別当出合から御前峰までは、標高差が1,400mもある。日帰りで標高差1,400mを登山は初めての経験であり、全く自信がない情況で歩き出した。他の登山客を追うように鳥居をくぐり、吊橋を渡って砂防新道へ入ったが、直ぐに石積みの急登となり、連日の疲労に太腿筋が悲鳴を上げる。ゆっくりと歩いているつもりであったが、数人を抜いて、30分ほどで中飯場に着いた。真新しい丸太や礫石が敷かれた登山道で、歩き易く、天下の霊山霊峰に相応しい道でもある。甚ノ助ヒュッテ(避難小屋)に着き、他の登山客に交じって写真を撮りながら小休止した。

南竜道分岐からは山腹沿いのなだらかな道が続き、短い急登を過ぎて黒ボコ岩に到着した。数人の若者が岩に登って写真を撮っていた。私もカメラを片手に、紅葉の進む周辺の山の景色を堪能した。さらに登って行くと、弥陀ヶ原の湿原が現れ、そこから歩き易い木道となっていた。五葉坂の急登を過ぎると、もう室堂である。赤い屋根の大きな建物が白山室堂ビジターセンターで、スキー場のレストハウスのような立派な感じがする。

息をつく間もなくセンターを出ると、登山道に白山比咩神社奥宮が建っている。小さな社務所があったが、シーズンオフで閉じていた。御朱印を頂戴したかったが、礼拝しただけで山頂へと登って行く。室堂付近の雄大な景色を振り返りつつ、40分ほどで御前峰に到着した。山頂にも小さな社殿があったので、柏手を打ち登頂を感謝した。

山頂には20人ほどの登山客がいて、雲海に浮かぶ御嶽山や北アルプスの山々を眺めて寛いでいた。空が澄んでいれば富士山も見えるそうだが、私の目には映らなかった。御前峰の先には、剣ヶ峰と大汝峰と続いていたが、最高峰の登頂に満足した私は、山頂の景色をカメラに収めて15分ほどで下山を開始した。

再びビジターセンターに戻って、大きな達成感を肴に缶ビールを買って祝杯を上げた。ここが2,450mの高地とは思えないような大きく立派な建物であり、安らぎを感じる空間でもある。そして、バッヂと鈴を購入して登山の記念とした。

下山のコースは、黒ボコ岩から観光新道を行くことにした。砂防新道は登り易いコースであるが、コンクリート製の砂防ダムが雛壇のように重なっていて登山道の自然景観を損なっている。観光新道のコースは、白山信仰が盛んであった時代の越前禅定道と重複するコースで、景観が良いと聞いていた。蛇塚、馬の鬣などの名所を過ぎると、殿ヶ池避難小屋に到着したので小休止した。砂防新道をピストンする登山者が多いらしいが、尾根伝いに歩く観光新道も魅力を感じる。

断崖の岩場にある仙人窟を緊張しながら通過すると、別当坂分岐で越前禅定道から離れ、きつい斜面を別当出合まで下ることになる。既に足の踵には肉刺が出来ていて、膝も運動の限界を超えている。今回は35年前に東京上野のアメ横で購入した革の登山靴で登ったが、足の方が経年変化をしたようで、初老の足にはマッチしないようである。予備として、愛用のワークシューズをリュックに詰めていなかったことを悔いても既に遅かった。

殿ヶ池避難小屋からノンストップで下山して1時間半、やっとの思いで別当出合に到着すると、ちょうどバスが出発する直前であった。痛む足を引きずって走り、何とか間に合ってひと安心する。もう2度とこの登山靴を履くことは無いだろうが、青春時代に私と共に歩いて靴であり、捨てるのもしのびない気もする。

白山は今までの軽登山とは違って、日帰りにしては難易度の高い登山であった。標準タイムで登りが5時間10分、下りが4時間であるらしい。私の場合は登りが3時間10分、下りが2時間35分で、合計タイムで3時間25分も標準タイムを短縮させた。登山は早ければいいと言うものでもないだろうが、山の天気の気まぐれを思うと、晴天の内に下山するのが望ましいと実感する。私のように写真に残そうとする者は、なおさらである。そして痛切に感じることは、登山は「天気・運気・元気」の三気に左右さる他力と自力の本願に他ならないことである。

市ノ瀬には白山温泉があり、「日本秘湯を守る会」に加盟している永井旅館に立ち寄り、温泉で疲れを癒した。館内は登山客で混雑していたが、浴室には客がおらず、好きな桧風呂に心ゆくまで入ることが出来た。この旅館は泊まってみたい旅館であったが、休日はなかなか予約がとれないのである。私の登山は天気予報を見て日程を決めるので、宿の予約はどうしても前日近くになってしまうのが難点である。

白山登山からの帰路、鶴来に鎮座する白山比咩神社に参詣して登山の無事を感謝した。何度も参拝している神社ではあるけれど、白山神社の総本宮であり、白山信仰のメッカでもあることを改めて考えると、その存在感の大きさを感じる。ただ鶴来から白山までは遠すぎて、富士山や立山とは異なる。そのためか、白山信仰は次第に薄れているようで、白山に登る一般登山客は、修験者(行者)や信者よりもはるかに多いことだろう。

70伊吹山

【別名】伊吹山、大乗峰、滋賀富士【標高】1,377m

【山系】伊吹山地【山体】隆起山岳【主な岩質】堆積岩・石灰岩。

【所属公園】琵琶湖国定公園【所在地】滋賀県/岐阜県。

【三角点】一等【国指定】天然記念物(植物)。

【関連寺社】伊吹山寺、伊夫岐神社、伊富岐神社。

【登頂日】平成20年10月13日【登山口】山頂駐車場【登山コース】上り東コース・下り中央コース。

【登山時間】30分【登山距離】1.5㎞【標高差】117m。

【起点地】石川県野々市町。

【主な名数】八十八座九十図、日本百名山、名峰百景、百霊峰、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】須賀谷温泉。

山頂の日本武尊像

奈良時代、修験道開祖・役小角が開山。

琵琶湖方面に来たなら必ず伊吹山に登ろうと考えていた。おそらく「日本百名山」でなければ魅力を感じていなかっただろう。石灰の採掘で山肌はえぐられ、スキー場の開発で樹木は失われ、高速道路から見る限り、哀れな名山となっていて心の痛む思いで見ていた。

今回の登山に同行した甥のコーセイ君は、私の最愛の肉親であり、彼が生まれてから20数年間、友人のような交際を重ねて来ている。近江八幡を一緒に旅して旧中山道武佐宿の旅籠に泊まり、安土・五個荘をめぐって昨日は余呉湖の国民宿舎に泊まった。

本来であれば、裾野から登山を開始したかったが、登山経験の乏しいコーセイ君と一緒であり、彼には徐々に山に親しんでもらいたいと思った。伊吹山ドライブウェイを利用して一気に9合目の駐車場に到着した。山頂一帯は高原や展望台の山のような賑わいで、遊歩道のような登山道は観光客であふれていた。

東の遊歩道の入口には、松尾芭蕉(1644-1694)翁の「そのままよ 月もたのまし 伊吹山」の句碑が立っていた。この句碑は、ドライブウェイの1,000m地点にある展望所にもあり、内容は同じである。私の『芭蕉句集』には、「月もたのまじ」とあるけれど、伊吹山は月がなくても立派な山だという句意に変わりはない。芭蕉翁が『おくのほそ道』の旅を大垣で終えた折、門人の大垣藩士・高岡斜嶺邸に泊まった時の挨拶句である。句の詞書には「戸を開けば西に山あり、伊吹といふ。花にもよらず、雪にもよらず、ただこれ弧山の徳あり。」と伊吹山のことを述べている。

伊吹山は近江と美濃を分け隔てる伊吹山地に位置し、両国から崇められて来た霊山である。中山道や北国街道を往来する旅人にとって伊吹山は、琵琶湖と共に忘れられない山の風景であろう。私は長浜から竹生島を船で遊覧した際、湖上から伊吹山を眺め、その雄姿に感動をした思い出がある。有名な「百人一首」に藤原実方(不詳-999)が詠んだ伊吹山の和歌があるが、さしも草はもぐさで、洒落を交えた歌となっている。

「かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」 藤原実方

観光客の列をかき分けて、20分ほどで山頂に到着した。土産物や食堂の建物が建ち並び、山頂は観光地そのものであった。「楽々深田百名山三十三座」を自選した時、自家用車(マイカー)で登れる百名山の第1位にランクしたのが伊吹山である。因みに2位は八幡平で、3位は霧ヶ峰である。ロープウェイやリフトに乗れば、簡単に登れる百名山もある。

本来であれば、三宮神社のある1合目から登山するのが常道であるが、富士登山と同じで車で行ける所までは、車で登ろうとするのが中高年の登山である。1合目から登ると、往復5時間以上は覚悟しなければならない。伊吹山ドライブウェイを車で行くと、のんびりと登っても往復1時間で山頂を満喫できる。

山頂には山小屋風の伊吹山寺覚心堂があり、堂内の受付には老女が1人座っていた。平成3年に建立された伊吹山修験道の本堂であるらしい。天台宗に属し、役行者小角(634-701)ゆかりの由緒正しい寺院であったが、明治の廃仏毀釈で破却され昭和56年に再興が始まったそうだ。安置された薬師如来に合掌礼拝し、御朱印を頂戴した。また、近くには日本武尊の立像や伊吹神社の小さな社殿があり、霊場であった時代の面影が残る。山頂は晴れているものの、裾野には雲が棚引き、近くの山々が見えるだけであった。琵琶湖の全貌を眺めて見たいと思う一念もあったが、思い通りにならないのが山の天気であり、1度や2度でめぐり合える事象ではないようだ。

伊吹山の直下にはスキー場があり、近場にでも住んでいれば、山頂からの大滑降を試みた事であろう。スキーが3度の飯よりも好きだった青春時代、八甲田山・鳥海山・八幡平と春山の山頂からの大滑降を実現した。この伊吹山も山頂からの滑降が可能であり、スキーと登山がダブってしまうのも山の持つ魅力でもある。

山頂の喧噪に嫌気がさしたのは、コーセイ君も同じであり、早々に下山することに合意した。乳児の頃から実子のようにいとおしみ、愛情を注いで来た甥子ではあるが、成長と共に自我に目覚め、私に反発することもあった。彼の反発は彼の自立であり、私の意のままに動いていた幼年期とは別人のようである。その成長を尊重しようと、今回の旅も彼の意見を聞き、行動するようになった。

彼とその兄と共に旅行に行ったり、スキーをしたり、キャンプをしたりと思い出は尽きないが、登山を共にするのは今回が初めてである。甥子たちを登山に誘わなかったのは、危険な場所に連れて行けないと思う気持ちと、時間的な余裕がなくて長時間を要する登山を敬遠したことにある。今にして思えば、山を愛する気持ちを幼児から抱かせたかった。

山頂から中央コースを下山すると、10分ほどで駐車場に到着した。山頂に立ったという思い出しか残らない楽々登山ではあったが、高山植物や薬草の宝庫でもあるそうで、花の季節に登らないと理解できないだろう。特にイブキジャコウソウ、イブキアザミ、イブキコゴメクサなど伊吹山固有の植物がある。話によると、安土桃山時代にヨーロッパから宣教師が持ち込んで植えた品種もあると言う。

『名山絶句八十八座』を執筆するに当たって、この伊吹山は標高が低く除外したいと思う深田久弥氏の「日本百名山」であった。しかし、琵琶湖の湖畔に聳える立つ存在感は、比叡山や比良山地の山々を圧倒している。北アルプスや南アルプスの山々に比べると、見劣りのする標高ではあるけれど、この山の歴史やその存在感を思うと、低山ではあるけれど重みのある名山に他ならない。

私も含めて、1,500mを超える山々を登山の対象と考える登山者が多いようである。秋田県生まれの私が、若い頃に東北の山々にあこがれを持ち登った基準は、1,500m以上の山であった。しかし、2,000mを超える山であっても魅力に乏しい山もあり、伊吹山はたった1,377mの山だけれど、山頂の景観は2,000mクラスの山である。

ドライブウェイを下る途中、展望台で望遠カメラを三脚に固定させて写真を撮っている連中がいた。おそらく、鷲などの大型の野鳥を撮影しているものと思うが、飛来を待つのも根気のいる趣味である。山には登山やスキー以外に、様々な趣味を持つ人達がやって来る。大きなアンテナを山頂に設置しアマチュア無線を楽しむ者、山菜採りや渓流釣りなど自然の恩恵を授かる者など枚挙にいとまない。そんな中、山野草を不法に採取する者には怒りを覚えるし、恥ずかしい限りであり、取締まりを強化するべきであろうと思う。

71金剛山

【別名】高天山、葛城嶺、葛木山【標高】1,112m(湧出岳)、1,125m(葛城岳)。

【山系】金剛山地【山体】隆起山岳【主な岩質】花崗岩。

【所属公園】金剛生駒紀泉国定公園【所在地】奈良県/大阪府。

【三角点】一等(湧出岳)【国指定】史跡(霊場)。

【関連寺社】葛木神社、転法輪寺。

【登頂日】平成22年12月12日【登山口】金剛山登山口【下山口】ロープウェイ前【登山コース】上りタカハタ道コース・下り金剛山ロープウェイ。

【登山時間】2時間2分【登山距離】7.2㎞【標高差】387m。

【起点地】三重県四日市市。

【主な名数】日本二百名山、森林浴の森100選、百霊峰、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】長野温泉。

山頂の標識

奈良時代、修験道開祖・役小角が開山。

大阪平野と奈良盆地を分断する金剛山地は、南北20km余り、東西5kmほどの丘陵性の山地である。二上山雄岳(517m)、葛城山(959m)、金剛山(1,125m)などの霊山が有名で、金剛山は大阪府の最高峰でもある。山域は金剛生駒紀泉国定公園に属し、関西では多くの人々に親しまれている「ふるさとの山」である。

修験道の開祖である役小角(634-701)は、葛城山の麓に生まれ、葛城山に金剛山、吉野山を開山している。神道の名家・加茂一族の分家に生まれ、当時流布してい仏教や道教を神道と融合させて山岳修行の重要性を説いている。その修行中に母親が着せてくれた唐衣を捨てて、修験道に身を置く境地を詠んだ和歌が有名である。

「たらちねの おらで着せてる から衣 いま脱ぎ捨つる 吉野河上」 役小角

修験道のルーツでもある金剛山は、日本二百名山で、百霊峰候補でもあるので、前々から登りたいと思って計画していたが、今日まで延び延びとなってしまった。新名神が開通し、大阪は国道25線の専用道路で行くよりもグーンと近くなった。藤井寺インターから登山口までは30分ほどであり、千早城跡などの史跡を見物しての登山となる。

登山口に到着すると早朝でもあり、駐車場はガラガラであったが、早朝から登山客や参拝客が多く入山しているようだ。登山口の直前にも駐車場があったが、帰りは金剛山ロープウェイの千早駅からバスで戻る計画なので、バス停の駐車場の方が便利に思った。1合目を過ぎると、千早城跡に向かう登り道があり、先ず千早城跡と千早神社を見物した。

千早城は鎌倉時代末期の元弘2年(1332年)、楠木正成(1294-1336)によって築かれた城で、金剛山城とも称し難攻不落と言われた。約2万5千人の鎌倉幕府軍に対し、楠木軍は千人ほどで籠城して幕府軍を蹴散らしたことで知られる。中世の城郭跡は、石垣や土塁など手の込んだ遺跡はなく、自然の地形を利用した要塞が多く、この城も同様である。それにしても正成のゲリラ戦略は、当時としては常識外れでもあったようだ。正成の孫・正勝(1351-1400)が、北朝方から攻められて守れなかったことでも想像できる。

千早城本丸跡には、千早神社が建っていて、正成が八幡大菩薩を祀ったされるが、現在は正成と子の正行(1326-1348)が合祀されていると聞く。ここに最後の城主で孫の正勝の名がないのは、正勝は正成の三男の子であるため嫡孫ではない。そのために重要視されていないようだ。山神の役小角は、正成・正行の父子が霊山を拠点に防御のためとは言え、殺戮を繰り返したことをどんな風に感じたのだろう。戦争にはある程度のルールは必要で、原爆の使用のような無意味な殺戮が金剛山に昔はあったことを学ぶ機会となった。

城跡から登山道に進むと、2段に落ちる腰折滝があり、一の滝、二の滝と滝のオンパレードである。登山道に渓流や滝のある風景は、自然の豊かさを感じさせる場面であり、二の滝の氷結は有名なようであるが、12月では少し早いようである。厳冬期の関西の山は、降雪が少なく、危険性が少ないので憧れは尽きない。

登りはじめて1時間ほどで8合目に辿り着き、山頂付近に建つ転法輪寺にはその15分後に到着した。関西を代表する名山とあって、遠方からの登山者や参詣者が多く、転法輪寺は結構な賑わいであった。美人の寺守に惹かれて、あれこれと記念品を求めたら朱印代も含めて2,400円であったが、山のバッヂを得られたことは大きな喜びであった。この寺は京都の醍醐寺に属する修験道の大本山で、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となるが、戦後に篤志家の寄付で再建したそうだ。

寺の開基は役小角で、天智天皇(626-672)の天智2年(665年)と伝わる。法相宗の名僧・行基(668-749)、律宗の開祖・鑑真(688-763)、天台宗の開祖・最澄(766-822)、真言宗の開祖・空海(774-835)、当山派修験道の開祖・聖宝(832-909)らが修業した地とされる。伝説的な役小角であるが、彼の影響力を感じさせる後日談でもある。聖宝は醍醐寺を開基したことで知られるが、天智天皇の6世孫であることはあまり知られていない。

転法輪寺から300mほどで葛木神社があり、その社殿が金剛山の山頂であった。しかし、社殿は立ち入り禁止となっていて、山頂(1,125m)に立つことはできない。常駐の神官がいないためか、京都の愛宕神社ほど厳粛ではないが、金剛山が霊場として栄えた時代の面影は残っている。祭神は「善き事も一言、悪しき事も只一言のたまえば叶う神」の一言主命で、二千年前の崇神天皇の時代に祀られたようである。

神というのは不思議な存在で、「二礼二拍一礼」で参拝者の願いを叶えてくれる。私が信奉する高野山真言宗の「仏前勤行次第」は結構長く、そのお経を唱えるのには10分ほど要する。他の宗派も一緒で、毎朝のお勤めは神道の比ではない。神様に対する接し方は、仏教と異なり、理屈や能書きに拘らないのが良い。仏教は宗派によっては一神教的な宗派もあるが、「八百万の神」のとも俗称される神道に対立はない。仏教は小乗から大乗へと解釈も異なるが、神道の教義は単純明確で神々の存在も曖昧なのが日本人に好まれると思う。

山頂で目にして驚いたのは、売店で登山回数表が販売されていて、回数に応じてバッヂがもらえることであった。その掲示板を見ると、登山回数の多い人は1万回を超えている。悪天候を除いて毎日登山したとするば、約30年を要する計算となるので、強靭(狂人)的な記録と思える。標高差が200m程度の低山なら、朝飯前に登れると思うが、金剛山の標高差は約400mであるので楽ではないと脱帽する。

葛木神社からロープウェイの山頂駅に向かうと、放送局のアンテナが立っている湧出岳(1,112m)に一等三角点があり、ここを金剛山の山頂としているようだ。ここが大阪府の最高峰であるが、山頂が接する奈良県の最高峰は八経ヶ岳(1,915m)であるので奈良県が関西では最も高い山々を有している。しかし、関西屈指の霊山である金剛山を共有している大阪府は、それを誇りと思う気風があって良い。毎日登頂登拝する人々がいる限り、金剛山は不滅であって、人々に愛される山として存続するのである。

ロープウェイを降りてバス停でバスを待ったが、乗れ慣れないバスの乗車は不安を感じるもので、小銭だけあればいいと言うものでもない。登山口のバス停を見逃してはならないと思い、運転手に声をかけて登山口で下車するむねを伝えた。万が一を考えれば、その予防策を講ずることが大切である。登山中のトラブルに関しても同様で、財布と命を落とさないことが肝心である。自分の身元引受人のメモ書きは、財布の中に入れたいものだ。

「野垂れ死ぬ 我が身の定め 思うなら 財布に残す 連絡先を」 陀寂

72大峯山

【別名】山上ヶ岳、大峯、金峰山【標高】1,719m。

【山系】大峰山脈【山体】隆起侵食山岳【主な岩質】礫岩・硬砂岩。

【所属公園】吉野熊野国立公園【所在地】奈良県。

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】大峯山寺。

【登頂日】平成20年11月1日【登山口】清浄大橋駐車場【登山コース】洞辻茶屋コースピストン。

【登山時間】4時間0分【登山距離】10.4㎞【標高差】793m。

【起点地】石川県野々市町。

【主な名数】日本三大修験山(羽黒山・大峯山・英彦山)、日本七霊山(富士山・立山・白山・大峯山・釈迦ヶ岳・大山・石鎚山)、日本遺産百選、百霊峰、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】洞川温泉。

山頂遠望

奈良時代、修験道開祖・役小角が開山。

深田久弥(1903-1971)氏の「日本百名山」では、大峰山脈の最高峰・八経ヶ岳が大峰山として選ばれている。しかし、大峰山は大峰山脈の総称であると同時に、大峯山(山上ヶ岳)を指す場合がある。私は八経ヶ岳を大峰山とするのは間違いの元で、山上ヶ岳を大峯山とするのが正しいと思う。その大峯山が今回の登山のターゲットで、1泊2日の予定である。

金沢を午前3時40分に出発して、登山口のある大橋茶屋の駐車場に着いたのが9時40分であった。380kmを6時間ジャストで走って来たのであるが、黒滝で近道を走ろうとして道に迷い、余計に時間がかかってしまった。大橋茶屋では1,000円もの駐車料金を要求されて、しぶしぶと払って身支度をした。私の推測では、登山道は参道でもあり、よく整備されているのではないかと思い、地下足袋で登ることにした。

午前10時に駐車場を出発し、清浄大橋(大峯大橋)を渡ると、右手に御堂がある。正面には「従是女人結界」の石碑の立つ結界門があり、女人禁制の山をあらわしていた。平成2年(1990年)には、山好きの皇太子殿下も登拝したようで、立派な記念碑が立っていた。一面杉林の参道は、1,300年の歴史を感じさせるような道でとても歩き易い。途中に一ノ世茶屋跡があり、粗末なトイレが傍に建っていた。快晴なのに登山者は私1人かと思っていたら、一本松茶屋で60代と思しき2人が休憩していた。この山にある茶屋は、中抜けと称して茶屋の中が参道となっていたのである。

特に険しい道もなく登ってゆくと、お助け水の水場があったが、ペットボトルの自然水を首からぶら下げていたので、帰りに補給することにした。このお助け水は、この山を開いた役小角(634-701)の御利益とされるが、名水百選に指定されていないが惜しまれる。徳島県にある剣山には、「御神水」は昭和の名水百選であったことを思い出す。

登りはじめて1時間が過ぎた頃、洞辻茶屋に到着してので、リュックを下ろして休憩した。ロールパンを2個食べて、腰を上げると先ほどの2人が追いついて来た。越されまいと先を行くと、はじめて下山する登山客とすれ違ったが、革靴に普段着姿であり、「ようお参り」と声をかけられ、私は「こんにちは」と返答した。服装からして地元の人のようであり、山の様子を巡回しているようにも見えた。山頂にある大峯山寺は、9月23日の戸閉式が終わると、寺は無人となるらしい。それでも登山者は来るのであるから無用心となってしまい、山頂の建物に放火でもされては最悪である。

だらにすけ茶屋を過ぎると、鐘掛岩があって立ち寄ってみた。断崖絶壁に木造の回廊が掛けられてあり、鎖場を攀じ登ると大峰山系の山なみが一望できた。高所恐怖症の私は、下をあまり見ないようにして早々に参道に戻った。程なくニュースなどで知られる西ノ覗があって見てみた。ここも断崖の上に岩場があり、覗き見ると実に怖い。関西の若者はここで命綱を身に着け、落下寸前の恐怖を味わい、親孝行と善良な大人になることを誓うと言う。原始的な風習ではあるけれど、修験ならではの体験であり、シーズン中なら私もチャレンジしていたことだろう。

緩やかな岩場を登ると、大峯山寺の山門が立ち、宿坊(詰所)の大きな建物が見えて来た。そして、大峯山寺の本堂に至り、山上ヶ岳の標柱の立つ山頂に立った。登りはじめて2時間ちょうどのコースタイムで、標準より1時間ほど早い。山頂のお花畑は、クマザサが生い茂り、数人の若者が昼食をとっていた。私は本堂付近に戻り、長いすに座って残りのロールパンを食べなが休憩した。

本堂の建物は立山の室堂に続き、高所にある国の重要文化財として知られる。寄棟造りの大きな堂内には、蔵王権現と役小角が祀られていると聞く。規模を考えずに高さだけ考えると、高野山で1,000mであり、大峯山寺は1,700mと遥かに高い。人力で木材や瓦を運んだ昔の人々の労苦が偲ばれる遺構である。

30分ほど山頂で休憩して下山するが、途中に立ち寄った宿坊も大きな建物であった。同じ様式で5棟もあるので驚いた。それぞれが護持院で、洞川の龍泉寺、吉野の桜本坊、東南院、竹林院、喜蔵院の所有のようだ。入口には鍵がかけられて、内部の様子は分からなかったが、積雪に耐えられるよう、頑丈な木組みがされているだろう。

 まばらではあるが、山で出合ったのは一般登山者が殆どで、山伏姿の本格的な行者を見ることは無かった。夏場は行者や信者の登拝が盛んとなり、一般登山者よりも多いと言う。修験道は大きく分けて、天台宗系(本山派)と真言宗系(当山派)の二つであったが、明治の廃仏棄釈によって神道を兼ね備えた修験道が禁止された。戦後になって復活したが、様々な流派が存在しているようである。この大峯山寺は、天台宗系の吉野の金峯山寺と真言宗系の洞川の龍泉寺を核としている。金峯山寺は金峯山修験本宗の総本山で、本堂(蔵王堂)や仁王門の国宝建築を有する。龍泉寺は醍醐派の大本山であり、京都の真言宗醍醐派の総本山醍醐寺がバックに控えている。

下山をはじめても登って来る人も少なく、女人禁制が解禁されれば随分と賑わっているだろうと思うが、相撲の土俵のような頑な文化も賛否両論が成立する。1時間30分で下山を済ませ、駐車場の大橋茶屋に山上ヶ岳のバッヂを求めると、売っていないとの事である。百名山でもないので仕方のないことであるが、バッヂは自分への勲章のようなもので、有るにこしたことはないが無い物ねだりは好まない。

時間に余裕があったので、洞川で龍泉寺を参詣して、面不動鍾乳洞を見物した。そして、写真のフィルムを求めて小さな土産物に入ったが、フィルムは置いてなくて大峰山のバッチが置いてあった。洞川の土産屋にはバッチはないと他の店で言われたので、これには感無量であった。デジタルカメラが普及し、フイルムカメラの時代が消えて行くようである。

今回の山の旅は、天気予報とにらめっこであったため、前日まで予定が立たなかった。日帰り登山なら簡単であるが、1泊2日となれば宿の確保が第一となる。都市部ならビジネスホテルがあるので心配はないが、山間部は宿を予約して置かないと車で仮眠するしか手がない。洞川温泉の旅館にはすべて満室で断られ、何とか栃尾の大谷屋という民宿に予約が取れたのである。宿に向かう途中、天河大弁財天社、栃尾観音堂などに立ち寄り参拝した。天河大弁財天社は明朝に登る弥山に経つ弥山神社の里宮も兼ねているそうだ。みずはの湯という温泉に入り、6時頃に宿に入った。

「湯に結ぶ 男ならばの 登山かな 女人禁制 大峯山寺」 陀寂

73大台ヶ原

【別名】大台ヶ原山【標高】1,579m(大蛇嵓)、1,695m(日出ヶ岳)。

【山系】台高三眽【山体】隆起準平原【主な岩質】砂岩・堆積岩。

【所属公園】吉野熊野国立公園【所在地】奈良県/三重県。

【三角点】一等(日出ヶ岳)【国指定】特別天然記念物(地形)。

【関連寺社】なし。

【登頂日】平成20年11月2日【登山口】山頂駐車場【登山コース】中道コースピストン。

【登山時間】1時間45分【登山距離】5㎞【標高差】115m。

【起点地】石川県野々市町。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、日本百景、新日本旅行地100選、森林浴の森100選、日本の秘境100選、かおり風景百選、日本遺産百選、花の百名山、新日本百名山、日本の名峰50選、日本の山ベスト100

【周辺の温泉地】小処温泉。

日出ヶ岳山頂

明治18年(1885年)、探検家・松浦武四郎が登山道を整備。

大台ヶ原は登山が目的でなくても訪ねたいと思っていた景勝地であったが、三重県側か

らのアクセスが悪く、四日市で仕事していた頃には実現しなかった。今回は金沢から2泊3日の予定で奈良に来て、大峯山と八経ヶ岳に登り、念願の大台ヶ原訪問が叶いそうである。

八経ヶ岳の登山を終えて、行者還トンネルを11時20分に出発した。そして1時間が過

ぎた午後、大台ヶ原の駐車場付近に到着したが、渋滞のため駐車場までは行けそうにない。仕方なくUターンして路肩に車を停めた。そして、500mほど道路を歩いて大台ヶ原の最高峰である日出ヶ岳への登山口に入った。

国道169号線から大台ヶ原山頂を結ぶ大台ヶ原ドライブウェイは、かつては約16kmの有料道路であった。約30年前のガイドブックによると、通行料金が850円となっていた。現在も有料を続けている伊勢志摩スカイラインは、大台ヶ原ドライブウェイと距離が同じで料金が600円であった。現在の伊勢志摩スカイラインは1,420円を徴収しているので、対比計算をすると2,000円となり、有料道路の無料化は実に有難いことである。

駐車場の周辺は行楽の観光客で溢れ、登山道も数珠つなぎである。地下足袋を履いた私は、競歩するように登り、40分ほどで日出ヶ岳の山頂に立った。登山でもハイキングでもない、観光地の遊歩道を歩いているような雰囲気であった。それでも登山道を蔽う針葉樹林の下は、一面ササが生い茂り、庭園のような景観である。

山頂駐車場から登る人達は何を求めて大台ヶ原に来たのだろうか、私は最高峰に立つことが目的であるが、殆どの人は大台ヶ原に行くことが目的であり、何かを見たいという特別の思いはないようだ。大台ヶ原は様々な百選に選ばれていて、有名な所では「森林浴の森」、「かおり風景」、「日本の秘境」、「日本の遺産」などがある。千石嵓の近くにある滝は「日本の滝百選」に選ばれた名瀑で、大台ヶ原は見所たくさんの山上の楽園である。はっきりとした目的がなくても、遊歩道を散歩するだけで心が癒されるのかも知れない。

山頂からの眺めは素晴らしく、午前中に登った大峰山脈の八経ヶ岳や弥山が手にとるように見え、熊野灘の海岸線も見える。しかし、あまりの人の多さに幻滅した私は、早く下山して帰ることばかり考えていた。日出ヶ岳のピストンで納得してしまい、結局、大台ヶ原の目玉である大蛇嵓を見ないでしまった。シャクナゲの花の咲く春の平日にゆっくりと再訪し、紀伊半島の秘境・大杉谷へと向かいたいものである。

日帰りで「深田百名山」の2座をゲットできたことは大きな喜びで、山上ヶ岳を登拝できたことも意義深い。私の百名山登山は、休日を利用しての登山のため、省エネ・省マネー・省タイムをモットーとし、常に最短最速を目指すことになる。他にも日帰りで2座3座と登れる例はあるようで、蓼科山と霧ヶ峰、美ヶ原の3座は楽に登れそうである。

奈良県と三重県にまたがる大台ヶ原は、本州で最も雨の多い山地として知られ、貴重な薬草の宝庫とも聞く。北に降った雨は、吉野川へ流れて紀ノ川に合流し紀伊水道に注がれる。東に降った雨は、大杉谷を経て宮川に流れ伊勢湾に至る。南に降った雨は、東ノ川から北山川へと流れ、熊野川に合流して熊野灘へ辿り着く。また、その雨の恵みは伊勢、大和、紀伊の三国に分かれるのである。

登山コースは奈良県側から2ヶ所、三重県側から1ヶ所あり、原生林に覆われた大台ヶ原の魅力を満喫するには登山道を歩くしかないようである。大台ヶ原は「深田百名山」以外にもNHKの視聴者のアンケートで選した「日本の名峰50」にも入っていて、殆どの百名山に登場してくる。その名山を尻目に帰りの渋滞を恐れるあまり、1時間45分で退散しのは間違いだったかも知れない。ただただ、また来るぞと思う気持ちを繰り返すだけある。

日出ヶ岳は台高山脈の主峰で、大台ヶ原山と呼ばれているが、これも間違った山の名と思う。東北の八幡平の山頂を「八幡平山」と呼ぶようなもので、美ヶ原の王ヶ頭を「美ヶ原山」とは誰も言わない。深田氏の表記とは言え、適正な名称を用いるべきで、大台ヶ原山は単に日出ヶ岳と呼ぶべきである。その半面、深田氏は峰と山は同意語であると主張し、東北の早池峰山を「早池峰」と表記している。この意見に私も賛同するが、山と岳の違いについては触れていない。樹木の繁った山頂がある山を「山」とし、樹木のない山頂を有する山を「岳」と呼んだ方がわかり易いと思うのであるが。

下山して登山口にあるビジターセンターに立ち寄って、大台ヶ原の自然景観を展示した写真パネルなど、ひと通り見物した。そして、売店を数軒のぞいて見ると、先ほど他の店で買ったバッヂと同じものが30円も安く売られていた。30円で動揺はしたくなかったが、同様の物だけにショックであった。

車に戻ろうと道路を歩いたが、路上駐車が多すぎて自分の車がわからない。冷静に停めた場所の特徴や歩いた道の印象を思い出してやっと車に到着した。車をすぐに発進して、見晴らしの良い場所に車を停めた。目の前の紅葉を眺めながら民宿の女将さんが作ってくれた弁当を広げ、遅い昼食を済ませる。本来であれば、山頂で食べようと考えていたが、座れる場所もなくて車に戻って食べることにしたのである。大きく厚い卵焼きと、鮭の焼物は大変おいしく味わった。

食後、真っ盛りの紅葉を再び眺めながら大台ヶ原ドライブウェイを下って一路、大宇陀へと向かった。時間に余裕があれば登山口にある小処温泉に立ち寄ってみたかったが、ドライブウェイの出口から随分と距離があり、断念せざるを得なかった。前日は天川村の薬湯に入ったので、それで満足するしかないようだ。温泉で疲れを癒すのが登山後の楽しみであるが、先を急ぐあまり立ち寄る機会が少ないのが残念である。

国道370号線は何度となく通った道であり、吉野を旅した頃の出来事が走馬灯のように思い出される。また、道路から奈良の著名な山々が望まれ、退屈な運転を楽しませてくれた。奈良と三重の県境に位置する台高山脈の北端には、高見山・三峰山・倶留尊山の三百名山があり、冬期間の体力維持のために登るにはもってこいの山々である。

針インターから名阪国道に入るが、制限速度60kmなのに、殆どの車が80から100kmで走行し、高速道路並みの危険な道路ある。この道路では何度となく交通事故を見ているので、緊張しながらハンドルを握った。途中に宿でもあったら泊まろうと思っていが、結局は芭蕉翁の故郷・伊賀上野まで走ってビジネスホテルに泊まった。

「ゆっくりと また来ることを 夢に見て 秘境遠のく 大台ヶ原」 陀寂

74高野山

【別名】八葉蓮華【標高】984m (弁天嶽)、1,004m(摩尼山)、1,008m(楊柳山)。

【山系】紀伊山地【山体】隆起準平原【主な岩質】砂岩・堆積岩。

【所属公園】高野龍神国定公園【所在地】和歌山県。

【三角点】三等(楊柳山)。【国指定】史跡(霊場)。

【関連寺社】金剛峰寺。

【登頂日】平成27年4月19日【登山口】奥ノ院駐車場【登山コース】摩尼山コースピストン。

【登山時間】54分【登山距離】3.4㎞【標高差】104m。

【起点地】広島県広島市。

【主な名数】日本三大霊場(高野山・比叡山・身延山)、高野三山(摩尼山・楊柳山・転軸山)、外八葉蓮華(楊柳山・摩尼山・姑射山・宝珠山・今来峰・弁天岳・鉢伏山・転軸山)、名峰百景、歴史の山100選

【周辺の温泉地】高野山温泉、美里温泉。

摩尼山の祠

弘仁2年(816年)、真言宗開祖・空海大師が開山。

高野山に「外八葉蓮華」と「内八葉蓮華」の山並みがあることを知ったのは、「日本百名山」の登山を目指した頃であった。特に高野山の境内を城壁のように囲む「外蓮華八葉」の存在は、高野山の新たな魅力を私に教えてくれた。

平成22年3月31日、四国八十八ヶ所霊場の自転車遍路の結びに、5度目の高野山奥ノ院参詣を果たした。宿坊に1泊した翌日、霊峰・高野山の主峰に登ることを試みた。「日本百名山」の登頂と合わせ霊山登拝の山旅も志し、高野山の山頂にも思いをめぐらしていた。外八葉蓮華は、弁天嶽(984m)、鉢伏山(880m)、転軸山(930m)、楊柳山(1,008m)、摩尼山(1,004m)、姑射山(919m)、宝珠山(910m)の8座から成る。最高峰はの楊柳山であるが、弁天嶽の山頂には弁財天を祀る小社が建っていると聞き、霊峰に相応しいと考えて高野山外八葉蓮華の主峰に位置付けた。

弁天嶽に登るには、大門コースと女人堂コースの二つの登山道があるが、距離はいずれも同じようで、久しく足を踏み入れていない女人堂から登ることにした。大門も女人堂も一般車の駐車場がなく、金剛峯寺前の駐車場に車を停めて800mほど歩かなければならない。登山というよりも、塔堂伽藍めぐりの延長のようなもので、大門から奥ノ院まで4kmの参道を歩くことに比べれば、距離的には楽な道のりである。

初めて高野山に来たのは、23年前のことで電車やケーブルを乗り継ぎ、女人堂から参詣をはじめたのであった。その女人堂を参詣してから細い山道に入り、弁天嶽へと登って行く。杉の木立の登山道は、ハイキングコースのような道であり、谷上女人堂跡があるだけで、山頂までは変哲のない登山道が続いた。

15分ほど登って山頂に到着すると、朱色の鳥居を五基も構えた御嶽弁財天社が建っていて、一対の灯籠や狛犬まで設えてある。山頂には他に東屋が建ち、三角点の石柱も埋設してあった。立派な山頂であり、空海大師(774-835)が高野山を開山するにあたって、天川から弁財天を勧請して祀った歴史が残っている。

山頂の眺望は、北西側だけが開けていて、大和街道の町並みや紀ノ川、和泉葛城山と一帯の山々が見渡せる。壇上伽藍の根本大塔は、高野山のシンボルタワーであるけれど、その大塔を山の上から撮影した写真を見たことがある。その撮影場所が弁天嶽かと勘繰っていたけれど、残念ながら私の思い違いであった。

高野山は日本最大の宗教都市であり、高野山真言宗は全国に約3,700ヶ所の末寺を抱え、383万人の信徒を有する。信徒数に関しては浄土真宗本願寺派の792万人に対して半分ほどであるが、長年ライバル関係にあった天台宗の153万人を凌いでいる。世界文化遺産にも登録された高野山には、欧米の観光客も多く、真言密教の神秘さに青い目を白黒させていたのが印象的である。

現在の日本において、神道の霊山と言えばに「日本三名山」の富士山、立山、白山であることに異存はないが、仏教の霊山となれば賛否両論となる。私は全国各地の霊山を訪ねた所、真言宗の高野山、天台宗の比叡山、日蓮宗の身延山が相応しいと感じ、「日本三大霊山」と呼ぶことを奨励したい。

「神仏 恙無くあれ 高野山 死後の果てなる 密厳浄土」 陀寂

平成27年4月19日、四国八十八ヶ所霊場の車遍路の集大成として、高野山の奥ノ院を参拝するのが常道であり、S氏と早朝の新幹線で広島を出発した。S氏とはメキシコで知り合って、肝胆相照らす仲となった。日本も戻ってから偶然にも、私が広島で仕事することになって、彼との付き合いは増幅した。2度目の富士山にも一緒に登山し、3度目の四国八十八ヶ所霊場の車遍路も一緒に巡礼した。

高野山の奥ノ院は、5年前の自転車遍路の際も参拝し、今度で6度目の奥ノ院の参拝となる。前回は八葉蓮華と呼ばれる八峰の弁天嶽に登ったが、今回は第2峰の摩尼山(1,004m)に登山することにした。奥ノ院から登山口が近かったことが選定した理由であり、日帰りで広島まで戻ろうとしたので仕方ない選択であった。本来であれば、最高峰の楊柳山をクリアにして置きたい気分であるが、高野山の参拝はこれからも続くので焦ることはない。

高野山駅から大門までバスで行き、金堂などの大伽藍を巡拝して、奥ノ院の鬱蒼とした霊域を歩き奥ノ院に参拝した。奥ノ院は観光客や参拝客でごった返し、かつて見たこともないほどの人々が押し寄せていた。開創1200年という記念すべき年でもあり、遍路が多いのは分かるが、欧米人が非常に多いことに改めて驚いた。世界遺産認定の効果もさることながら、日本で唯一の宗教都市の景観に魅力を感じているのであろう。

奥ノ院の案内所で摩尼山に向かう道を訪ね、奥ノ院の裏山から林道を歩き登山道へと入った。杉の木に覆われた摩尼山には、目を見張るような景観はなかったが、奥ノ院の景観を成す玉川の支流が摩尼山にあり、その優しげな流れが印象的である。時折、仏法僧の鳴き声も聞こえ、姿は見えぬが歓迎されているようで嬉しい。

登山開始して約30分、摩尼山の山頂に到着すると、高齢男性の単独登山者が昼食を終えたのかシートを畳んでいた。八葉蓮華を縦走するコースが整備されていて、この男性は楊柳山(1,008m)まで行くのであろうか。私が最高峰と思っていた摩尼山よりも楊柳山の方が4mほど高いことを案内所でもらったマップを見て知った。午後3時30分の「特急こうや」で大阪に戻る予定であったので、次回にしようと山頂の祠を礼拝して下山を開始した。

佐藤氏はだいぶ腕ではなく、足を上げたようで、小走りする私に歩調を合わせるようにリズミカルに下山をした。奥ノ院から中ノ橋に戻ってバス停の近くの食堂に入り、昼食を取り、金剛峰寺や霊宝館をめぐってぎりぎりのタイミングで高野山を後にした。

次回の高野山参拝の予定は、四国八十八ヶ所霊場の歩き遍路を達成した後になるであろう。その時は九度山の慈尊院から町石道コースを登って、高野山に入りたいと思う。町石道は1町(約109m)置きに設置された石柱で、約22kmの参拝路に180基あると聞く。高野山に辿り着くまで1日は要するだろうが、念願だった楊柳山も含めて八葉蓮華を縦走して見たい。また、宿泊する宿坊は、平成29年6月1日に泊まった福智院は高野山で唯一の温泉を持つ宿坊であったので、再び泊まりたいと思う。四国に桜の花が咲く頃に歩きたいと思うので、5月の中旬には高野山を訪ねているだろう。

「ありがたや 高野の山の 岩かげに 大師はいまだ おわしますなる」 御詠歌

75氷ノ山

【別名】氷山、須賀ノ山、ヒエの山【標高】1,509m。

【山系】中国山地(氷ノ山山系)【山体】隆起山岳【主な岩質】安山岩・玄武岩。

【所属公園】氷ノ山後山那岐山国定公園【所在地】鳥取県/兵庫県。

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】氷ノ山地蔵堂。

【登頂日】平成25年3月31日【【登山口】わかさ氷ノ山スキー場【登山コース】三ノ丸コースピストン。

【登山時間】4時間13分【登山距離】12㎞【標高差】813m。

【起点地】秋田県横手市。

【主な名数】日本二百名山、名峰百景、日本の自然100選、日本の秘境100選、新日本百名山、百霊峰、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】ハチ北温泉、中間温泉。

山頂の標識

神代、天照大神が命名と伝説。

今回の遠征計画では、神戸から雪彦山に登って大阪に泊まる予定であったが、どうしても氷ノ山登山が諦めきれず、氷ノ山に登る決意をした。6日前に登山口まで行っているので、道に迷う心配はないが、どれほど雪が残っているか気がかりな所である。

この山を「名山絶句」に選んだのは、中国地区の「日本百名山」が大山1座ということに疑問をもったからである。深田久弥氏が「私の百名山」というタイトルにして発刊してくれれば、何の疑問もなかったのであるが、日本の百名山ともなれば、中国地方を第2の高峰である氷ノ山は絶対に外せないと私は考える。

氷ノ山は「日本二百名山」の他に「新日本百名山」・「新・花の百名山」・「ふるさと兵庫50山」・「21世紀に残したい日本の自然100選」・「日本の秘境100選」と様々な角度から評価されているのも選定の一つである。名山は身近な存在であることが大切で、住民に愛されている氷ノ山は「ふるさとの山」そのものであろう。

トイレのある駐車場に車を停め、スキー場のリフトに沿って登山を開始するが、途中でアスファルトの林道に出たため、この道はスキーリフトのメンテナンスのためにあるものと勘違いしてしまった。1㎞ほど歩いて行くと、スキー場からそれて下りとなっていたため、途中で引き返してスキー場のコースを登った。スキー場には登山道の案内板が少なく、広いゲレンデを彷徨い歩くことが多い。

何とかリフトの最高地点に到着したが、そこは三ノ丸コースとなっていて、氷ノ山山頂には大きく迂回するルートのようである。リフトの最高地点には、仙谷コースへ向かう1kmほどのバイパスルートがあったが、雪のため殆どコースが分からず、100mほど行って引き返した。時間はかかるけれど素直に三ノ丸コースを登るのが無難に見え、雪道が続くコースを上へ上へと登った。

雪の上には登山者の足跡が残っていて、その足跡を頼りに尾根に達すると三ノ丸の展望台と、はるか彼方に氷ノ山の山頂が頭を出していた。この尾根からだと三ノ丸が中間地点になるようである。なだらかな雪の斜面を歩き続けて、登山開始から2時間ほどで三ノ丸の展望台に到着した。そして、午後2時まで山頂に到着しなかったらタイムアウトで引き返すことも考え、少しペースを上げて登った。

三ノ丸の山頂を越えた所で、高齢の男性1人と女性2人のグループと遭遇した。そして、仙谷コースは下山できるか尋ねてみると、残雪期はとても危険だと教えてくれた。私は時間短縮を念頭に入れているので、登山距離の短いコースを選ぶことが多いので良いアドバイスとなった。2年前に屋久島の宮之浦岳に登った際、縄文杉へ向かう途中で残雪に阻まれコースを見失ったことがあった。あの時の教訓は、他の登山者の残した足跡を確実に辿ることの大切さを教えてくれた。

私は長靴で登っていたが、彼らはみんな登山靴にスノーシューを履いていた。新雪なら兎も角、スノーシューは考え物である。ただアイゼンだけは必需品で、万が一のため私はリュックに入れていた。彼らの残したスノーシューの跡は、鮮明に雪の上に残っているので、下山時には良い目印となるだろう。

山頂に付近に到着すると、急にガスが立ち込めて視界が悪くなった。そこで若い男性1人と女性2人のグループと遭遇したので驚いた。しかし、天候が悪化した時、他の登山者に会うと安心するもので、下山の心配はなくなった。日曜日なのに私の他に2組の登山者というのも淋しい気もするが、夏山になると大勢の登山者が訪ねるだろうが。

彼らと別れて直ぐに山頂に到着し、微かに見える標識を写真に撮った。避難小屋に入って時計を見ると、午後2時ジャストで私の思いが通じたようである。長居は無用と下山を開始し、雪の上を小走りしながら若いグループを追い抜いて一目散に下った。雪道は障害物がないから下るのも早く、リフトの最高地点まで1時間も掛からなかった。

最高地点まで来ると、視界も良くなって来て、すれ違った高齢グループが土くれのゲレンデを下山している最中であった。小さな石もゴロゴロと転がっているので、落石させては不味いと思い慎重に降りた。そして、三ノ丸コースからそれてリフト直下を降りようとしたが、危険を感じたので杉林を横断して車の停めてある場所へと向かった。

スキー場のゲレンデ歩きは、平坦な道がなく登山には不向きで、なるべくならコースに面した木立の中を登下山した方が楽に思える。登山コースはゲレンデの中にあっても登り易いように木段や石段を設えて欲しいものであるが、衰退しているスキー場の現状を考えると身勝手な話かも知れない。

駐車場に戻ると、車が1台入って来て30代と思われる男性が降りて来た。その男性は明日、登山するということで私に山の様子を聞き来たのである。登山者の少ない時期は、事前の情報が大切で、私のようにコースを間違えたりするケースが多い。私も不安になると、必ず道行く人に尋ねることにしている。

山のバッヂがあれば幸いと、ユースホステルの建物を目にしたので車で行ってみると、営業を休止して久しいようで廃墟となっていた。スキー人口の激減で、このユースホステルも廃業したのだろうか、それにしても建物だけ残っているのは哀れである。私がかつて勤めていた十和田ユースホステルは、跡形もなく取り壊されて往時を偲ぶことはできないが、再建が可能であれば他の用途に利用した方が得策と思う。

温泉にでも入って汗を流したかったが、大阪の友人と再会を約束していたため、大阪へ急ぐ必要があった。中国自動車道に入ったのは良かったが、神戸ジャンクションで渋滞に巻き込まれて1時間も遅れて大阪の玉造に到着した。日曜日の渋滞を考慮に入れなかったは迂闊であり、用心深く先を読まないと酷い目に合うようだ。カーナビの必要性は感じるが、登山用のGPSと同様に今すぐに欲しいという物でもない。

大阪は桜が満開で、氷ノ山で雪を嫌というほど見て来たので、雪見の後の花見は格別であり、花見を兼ねた今回の西日本登山遠征は大成功であった。一昨年に続いての遠征であり、「日本桜の名所100選」も極力訪ねたいと考えていたので、明日は醍醐山登拝と醍醐寺の桜を見ようと思う。氷ノ山の山麓を含め、西日本では屈指のスキー場がたくさんあって、今度はスキーをするために氷ノ山に来たいものである。

「雪を踏み 花雲分けて 消ゆる旅 わが人生の 思い出とせむ」 陀寂

76伯耆大山

【別名】大神岳、角盤山、伯耆富士【標高】1,709m (弥山)、1,729m(剣ヶ峰)。

【山系】大山山系【山体】成層火山・溶岩円頂丘(ドーム)【主な岩質】堆積岩。

【所属公園】大山隠岐国立公園【所在地】鳥取県。

【三角点】三等(弥山)【国指定】特別天然記念物(樹木)

【関連寺社】大山寺、大神山神社。

【登頂日】平成22年11月14日【登山口】夏山登山口駐車場【登山コース】夏山コースピストン。

【登山時間】4時間7分【登山距離】6.2㎞【標高差】929m。

【起点地】三重県四日市市。

【主な名数】伯耆三山(大山・船上山・三徳山)、日本四名山(富士山・立山・御嶽山・大山)、八十八座九十図、日本百名山、名峰百景、日本百景、新日本百景、新日本旅行地100選、花の百名山、新日本百名山、百霊峰、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】関金温泉。

剣ヶ峰遠望

養老2年(718年)、俊方(金蓮上人)が開山。

中国地方で唯一の「日本百名山」が大山であるが、四日市から360kmと中途半端に離

れている。来年は北陸地方か上越方面で仕事をする予定であり、大山は遠い存在となってしまう。登山前日となって鳥取まで走る気になり、大山中腹にあるホテルを予約した。百名山は登山する距離よりも、車で走る距離が厄介であり困難を極める。金沢から約18時間を要して登った富士山を思うと、前泊しての日帰り登山は楽勝に思えて決心したのである。

大山には前々日に雪が降ったと聞いて、ゴム長靴で登山に臨んだが雪は殆どなく、前回の丹沢山と同様にゴム長靴が活躍するコンディションではなかった。それにしても雄大な山であり、大規模な大山の霊場にも驚いた。大山寺の広大な境内に旅館や門前がある有り様で、山岳信仰や修験道が栄えた時代が見えて来るようだ。

相模大山とは対照的で、伯耆大山は寺院の方が崇拝を集めているようだ。大山寺の先に大神山神社があるが、大山の山域では陰が薄いように見える。私は明治初期の廃仏毀釈を快しとしない日本人であり、神仏習合の古き時代を懐かしく思っている。ただ神も仏もキリストもないのが自然の姿であり、ふるさとの山を神仏と崇め、山岳信仰という心の化粧で山頂を飾ることに違和感はない。山ノ神や山の霊気を信じて山頂に祠や小社を祀ることは、山そのものを大切に思う気持ちの顕れであり、日本人の自然崇拝の理念でもある。

午前6時にホテルから徒歩で出発したが、登山道は真っ暗闇で、久々にヘッドライトを点灯して登り始める。私以外にも登山者がいて、みんなヘッドライトを付けて登っているようで、大山登山の人気の高さを痛感する。老齢の夫婦も登っていたが、フウフウと言う溜め息をしながらも仲の良さが伝わって来るようだ。

5合目に達した頃に、あたりは明るくなって来て、今日初めてカメラのシャッターを切った。8合目までは土留めの木段の急登が続き、8合目からはダイセンキャラボクの繁茂する尾根道となっていた。その尾根道は山頂まで木道で結ばれていて、とても歩き易い。登り始めて1時間40分、標高1,709mの弥山山頂に到着した。私の企みでもある「楽々百名山三十三座」の33座目にランクしたい山でもあるが、まだ北海道の雌阿寒岳や伊豆の天城山など登っていない山が5座ほどあるので、結論は再来年に持ち越しとなるだろう。

昨日は黄砂で視界が悪かったが、今日は朝霧と黄砂のダブルパンチで、山頂からの展望は全く望めない。山頂の弥山の先には剣ヶ峰があり、大山の最高峰であるが、登山道の岩盤が脆く通行止めとなっている。大山頂上避難小屋に管理人がいたので、せめて三角点だけは辿りたいと所在を聞いて、通行止めのロープの中に立ち入った。後ろめたさも感じるが、山頂付近に誰も登山者がいなかったので、これ幸いと急ぎ足で写真に収めた。

大山頂上避難小屋でホテルから提供された弁当を食べ、ガスの晴れるのを待ったが、回復の兆しはなく、5合目から元谷を経て下山することにした。雑誌のグラビアやガイドブックの写真を見る限りは、大山の山頂は富士山を真っ二つに切断したような景観であり、晴れた日にじっくりと眺めてみたいものだ。

「大山や 初雪消えて 黄砂降る」 陀寂

大山山頂避難小屋の売店に山のバッヂが置かれていたので購入したが、11月の時期に管理人がいたのはラッキーであり、天候には恵まれなかったが、人には恵まれたようだ。管理人から色々と山の話を聞くと、弥山から最高峰の剣ヶ峰へ向かうラクダの背が通行禁止となっているだけで、剣ヶ峰には上宝珠越のコースから登れると言う。1回の登山では味わえない奥深さが大山にはあるようで、山が大きいと魅力も大きい。

下山を開始すると朝霧も消え、疎らながら登山者は登って来るが、登山口の直上で追い越した老夫婦の姿が見当たらない。6合目の避難小屋で休憩しているのだろうかと、一緒に登り始めた登山者の動向は気になるものである。無事に登下山して、素晴らしい登山となるようにと祈りながら周囲の情況を確認した。

5合目から行者谷を経由して下りたが、剣ヶ峰直下の北壁や大屏風岩は、人を寄せ付けまいと威圧するかのように垂直にそそり立っていた。思わず足を停めて絶句したが、下れば下るほどその迫力は増して行くようだ。元谷の登山道に立った時が圧巻であり、大山は登るだけの山ではなく、眺める山でもある。

佐陀川の最上流部が元谷で、長い砂防堤の対岸近くには乗用車が停められていた。林道を走ってここに駐車すれば、最短コースで大山に登れることになる。ダムや砂防堤があれば、メンテナンスのための林道が付帯する。シマッタと思ったものの、地元の人しか知り得ない道を他所者が行くのは邪道かも知れない。

大山は中国地方で唯一、標高1,500mを超える山で、伯耆富士とも称される独立峰である。独立峰の「日本百名山」は11座だけであり、日本海に面した独立峰ともなれば北海道の利尻山の2座だけである。その利尻山の標高は1,721mで、剣ヶ峰の1,729mとは僅か8mの差しかない。北国と西国の山には、不思議な共通性が秘められているものであるが、利尻島の一周距離が55kmに対し、大山は倍もある。

元谷から黄葉するブナの木を見ながら下ると、大神山神社の境内に到着した。ここは奥宮で大己貴命を祭神しているようだが、米子市の本社は大穴牟遅神を祭神していると聞く。いずれも大国主神の別名であるが、出雲は神話のふるさとであり、本家本元のような出雲大社の大黒様(大国主神)に遠慮しているのだろうか。

奥宮の参道の途中から大山寺に続く小道があって、境内の諸堂を拝した。天台宗の別格本山でもあり、堂々とした堂宇の景観である。神仏習合の時代は、大国主神が地蔵菩薩の本地仏に混淆され、智明権現の名で諸国に知られたそうだ。

大山の門前は衰退が著しいようで、廃墟となったホテルや旅館、廃業した土産物屋が目に付く。昨夜泊まったホテル大山しろがね荘の駐車場に車を停めてあったので、ホテルに戻って約4時間の大山登山を終える。大山は百名山に恥じない山で、1度だけの登山では満喫できないし、四季折々を登ってみたい山である。

冬の大山は、大陸の寒気を直接受けるので積雪量も多く、北に大山国際スキー場、南に奥大山スキー場など4ヶ所にスキー場がある。昨年からスキーを再び始め、冬は「全国スキー場の旅」をしているので、大山でスキーをする日も近いと思う。その時はスキーを担いで山頂近くまで登りたいと思っているので、また会う日が楽しみである。

77三瓶山

【別名】佐比賣山、石見富士【標高】1,126m(男三瓶山)、957m(女三瓶山)。

【山系】独立峰【山体】成層火山・溶岩円頂丘(ドーム)【主な岩質】堆積岩。

【所属公園】大山壱岐国立公園【所在地】島根県。

【三角点】一等【国指定】天然記念物(樹木)。

【関連寺社】佐比賣山神社。

【登頂日】平成25年3月27日【登山口】西の原駐車場【登山コース】西の原コースピストン。

【登山時間】2時間37分【登山距離】5.8㎞【標高差】666m。

【起点地】秋田県横手市。

【主な名数】日本二百名山、名峰百景、森林浴の森100選、新日本百名山、百霊峰、日本の名峰50選、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】三瓶温泉、小屋原温泉、池田ラジウム温泉、湯抱温泉、千原温泉。

西の原から望む山並み

神代、八束水臣津野命が創造。

昨夜泊まった三瓶温泉のさんべ荘は、国民宿舎にしては料理も風呂も申し分の温泉施設で、三瓶山のバッヂがあったことは感動的であった。しかし、今朝は曇り空で、雨の予報もあって期待できる登山とはなりそうにない。気温も低く、最初から合羽の上着だけ羽織って登山を開始した。登山口は西の原と言う裾野で、曇天ながら三瓶山が良く見える。

三瓶山は昔、石見国と出雲国の国境に位置することから「国引き神話」で知られ、『出雲風土記』では佐比売山の山名で登場するそうだ。北麓の旧三瓶町には郷社の佐比売山神社があり、霊山とし崇められて来た歴史的な山でもある。

三瓶山は男三瓶山(1,126m)、女三瓶山(957m)、子三瓶山(961m)、孫三瓶山(907m)、大平山(854m)、日影山(718m)の6座の総称で、瓶を伏せた形から山名が名付けられたと想像する。西の原の牧草地を過ぎると縦走コースの分岐点があり、そこからが本格的な登山道となっていた。先ずは三瓶山の最高峰の男三瓶山を目指すことにした。

登山道は緩やかな九十九折となっていて、とても登り易く快適であったが、小雨が降り始めたのでズボンを履いて傘を広げた。からまつ林の登山道は、枯葉が堆積して柔らかくて歩き易い。林を過ぎると展望が開けて来て、西の原の駐車場や浮布池が見える。自分の車の横に2台ほど車が停まっていたので、雨の日に私以外にも登山する人がいるようだ。

1,000m付近に達すると、ガレ場が続き、前を登っている人が1人いるようである。風も相当強くなってきたので、傘を畳んで手に持った。ガレ場を過ぎると山頂までは緩やかな草地の斜面が続き、三瓶山は変化に富んでいて魅力的な山である。山頂に到着すると、同年代の男性が1人、山頂の写真を撮っていた。

山頂は殆ど視界が開けない状態で、標識だけが何とか確認できた。気温も低く、濡れた手袋をはめた手はかじかんでいる。私も写真を撮ると、先客の登山者の後を追うように山頂避難小屋へ入った。避難小屋は比較的新しく、毛布なども用意されていていた。先客の登山者は神奈川県から来たそうで、私が秋田県から来たと言うと驚いていた。

女三瓶山へ縦走するかどうか迷っていたが、小雨で視界は悪く、先客の登山者も下山するとの話であったので、私も下山することに決めて先発した。この三瓶山は、孫三瓶山まで縦走することに意義があり、消化不良のまま下山するのは忍びない。しかし、また来る楽しみは残ったのであるから何度となく登らないと山の良さは満喫できそうにない。

「三瓶山 男と女 子と孫の 顔を拝める 時ぞ待たれる」 陀寂

三瓶山は室の内池を火口として成立した山々で、その火口原湖を囲むように環状に並んでいる。男三瓶山・女三瓶山・子三瓶山・孫三瓶山以外に大平山を加えた5座が「三瓶五山」と称されていると聞く。やはり、この五山を縦走できなかったのは、今回の遠征で最も残念な登山となってしまった。そんなに険しい山でもないので、こう少し年老いてから来るのが楽しみでもある。どんな山でも四季折々の季節を旅しなくては、その山の良さが分からないものであるが、何と言っても紅葉の時期は最高と思う。まだ訪ねていない三段峡の紅葉見物と兼ねて、「また来るぞ」という気持ちが高まって来る。

この三瓶山は様々な百選に選ばれていて、「日本二百名山」の他に「新日本百名山」・「花の百名山」・「歴史の山100選」・「週刊ふるさと百名山」・「百霊峰」にも選ばれている。また、私が最も重視しているのが、かつてNHKで放映された「日本の名峰山50峰」である。これにも三瓶山が選ばれていて、これだけ知名度のある山なので、私は「名山絶句」に選んだのである。山に対する認識や価値観は絶えず変化するものであり、その時代の人気と支持がその時代の「日本百名山」を選ぶのが妥当であろう。

昨日は石見銀山跡を見物したが、私の愛用している古いガイドブックには石見銀山跡の紹介は全くなく、世界遺産に登録されてから脚光を浴びたようである。世界遺産には特別な価値観があるようで、メキシコでも世界遺産の街では観光客が多く見られた。共に銀の産出量は世界の筆頭であり、その文化が世界遺産に押し上げた理由であろう。

石見銀山跡に入る前、世界遺産センターの近くにあった展望台に上ったが、その時に眺めた三瓶山の山容が印象深い。瓶よりも鍋を伏せた形の山が三つ見えるが、その中でも男三瓶山は最も高く立派な鍋の形をしている。明日はあの山に登ると思うと、恋しい人に会うような気持ちとなり、ワクワクしたものである。下山している間は、他に登山者に会うこともなく、駐車場へと到着した。

三瓶山の登山口は西の原の他に、国立三瓶青年の家のある北の原、登山リフトのある東の原、そして三瓶温泉の南の原がある。男三瓶山には北の原から登るコースが最短のようで、更に兜山・女三瓶山・大平山・孫三瓶山・子三瓶山を経て西の原へと縦走するコースが定番のようである。山と渓谷社の『日本三百名山』によると、この縦走の標準タイムは4時間25分とされているので、ちょうど良い縦走登山である。

着替えを済ませ、定めノ松の古木を眺めていると、山頂で出会った登山者が下山して来たので、無事であったことは幸いある。下山をする時は、私と50mも離れていなかったのに、20分近くも時間が経過していたので心配になったのである。登下山は、人それぞれのペース配分があるので一概には言えないが、私は「ゆっくりと登り、早く下りる」ことを心がけている。そのため危険性のない場所は、下る勢いに任せて殆ど駆け足である。これは長年スキーをやっていた体質上、山は滑り下りるものだと言う意識が体に働いているのであろか。下山は登りのおさらいで、気になった場所に立ち止まるだけである。

三瓶山の駐車場を出て、今日は広島市内に泊まる予定を組んでいた。今回の遠征の目的は、メキシコから無事に帰国した挨拶まわりも兼ねていたので、仕事を斡旋してくれた友人と今夜会う約束をしていたのである。工事現場は最悪の状態であったが、メキシコは親日的な国でもあり、メキシコは最高の旅行先に感じた。

僅か半年の間に、仕事の合間にメキシコの世界遺産を8ヶ所も回り、カリブ海と太平洋にも足を運んだ。何よりもメキシコで4番目に高いネバド・デ・トルーカ山に登ったことが印象深い。標高が4,500mを超える山で、4,000mまで車で行けたことで、日帰り登山が可能となって、生まれて初めて4,500mに立ったのである。帰国して最初に登ったのが福井県と京都府の位置する青葉山(693m)で、秋田から鶴賀までカーフェリーで移動した後である。そして今日は三瓶山に登り、本格的な登山を楽しんでいる。

78剣山

【別名】大剣、石立山【標高】1,955m(太郎笈)。

【山系】四国山地【山体】隆起山岳【主な岩質】玄武岩・蛇紋岩・石灰岩。

【所属公園】剣山国定公園【所在地】徳島県。

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】剣神社、大剣神社、龍光寺、円福寺。

【登頂日】平成22年3月22日【登山口】見ノ越駐車場【登山コース】上り大剣道コース・下り遊歩道コース。

【登山時間】2時間30分【登山距離】6㎞【標高差】535m。

【起点地】秋田県横手市。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、水源の森100選、花の百名山、新日本百名山、百霊峰、日本の山ベスト100、名水百選、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】岩戸温泉、四季美谷温泉。

山頂遠望

奈良時代、修験道開祖・役小角が開山。

昨年の晩秋、金沢にいる時に剣山と石鎚山を1泊2日で登ろうと計画した。11月になると日本アルプスの山々は、初雪が降り冬山登山の経験のない素人には半年以上も入山できない山々となる。そんなシーズンは、雪の少ない西日本の山々へと目が向き、主に近畿の山へと金沢から車を飛ばした。しかし、四国の山行の旅は金沢からだと5万円ほど要するため、金欠病に陥っていた当時は断念せざるを得なかったのである。

あれから1年半が過ぎ、やっと念願が叶って、四国八十八ヶ所霊場の自転車旅行が終了した時点で剣山へと向かった。秋田県は鹿角市の工事現場も2月の中旬に終了し、3月の初めから15泊16日の予定で「四国霊場八十八ヶ所」を自転車旅行したのである。この自転車旅行は、『奥の細道輪行記』や『中山道・東海道芭蕉の花道』と重ねた、私の自転車旅行三大イベントの1つでもあった。そのイベントも無事に終了し、次は四国・九州地区の日本百名山に目が向けられたのである。

昨日は自転車巡礼をスタートさせた第一番札所・霊山寺に戻り、門前の旅館に再び泊まった。約2週間の私の足助けとなった自転車を車に終い、快く自家用車を停めさせてくれた旅館の主人には深く感謝した。やはり、四国霊場は自転車巡礼よりも歩き遍路に意義があり、また来ますと挨拶をして再出発をした。

剣山は山に登るよりも登山口の見ノ越に至るまでが車の運転が大変で、高速道路を下りて貞光から1時間10分も要してしまった。オフシーズンでもあり、土産物屋や旅館は休業中で静まり返っていて、期待していたリフトも運休中である。しかし、晴天の休日とあって登山客も散見され、私と同じ時間帯に登山する若者グループもいた。

登山口に剣神社の社殿があって、安全を祈願して参拝して登山を開始した。リフト降り場の西島駅までは、それなりの勾配の登山道であったが、それから先はハイキングコースである。次郎笈の緑一色の山容がとても美しく、女性的な柔らかな稜線が印象に残る。登山道からは剣山の山容は把握できなかったが、次郎笈と同様であろうと想像した。

お塔岩を背に大剱神社の社殿あり、礼拝してさらに登って行くと、頂上ヒュッテの青い屋根が見えて来て、もう山頂に到着していた。登山を開始して1時間15分と、リフトを利用しなくても楽な登山である。山頂にも本宮の社殿が建っていて、山岳信仰の風習が根強く残っているようだ。山頂は平家の馬場と呼ばれていて、安徳天皇の宝剣を埋め平家再興の祈願をしたと伝えられている。

なだらかな山頂は、すべてに木道が敷かれていて湿原を歩いているような景観に少々幻滅した。しかし、山頂からの眺めは素晴らしく、谷間に点在する集落が手にとるように見え、三嶺や矢筈山など著名な山も望まれる。帰路は名水百選の「御神水」に立て寄って西島まで戻って下山した。天気が良いので、一ノ森や二ノ森を経由で西島に戻るコースも魅力的であったが、名水へのこだわりの方が強かった。

霊峰剣山への登山は、見ノ越だけがその基地となっているようであるが、かつては剣峡から剣神社の里宮を経て登る表参道が一般的なコースであったようだ。熊野古道のような歴史的な登山道も大切であり、そのコースを辿った方が味わい深く思える。しかし、上りだけでも5時間は要すると聞くと、楽な登山道を選んでしまうのが人の常である。

平家伝説の伝えられる剣山であったが、平家一族の悲惨な滅亡は日本史上例を見ないほど哀れなものである。しかし、平家一族の家族愛は、尊敬に値する逸話や伝説が数多い。平家を滅ぼした源頼朝と言えば兄弟を悉く殺し、その子供も骨肉の争いを演じて源氏の天下は、三代で消滅してしまうのであるから。

「平家にも 誇れる絆 家族愛 太郎次郎の 山並みに見る」 陀寂 

往復2時間半の登山には達成感はないものの、全国で唯一訪れていない県が徳島県であり、その奥地まで来られたことは満足できるものであった。今夜の宿は祖谷温泉に予約を入れていたので、徳島県の秘境をめぐりるのも楽しみである。

下山して直ぐに登山口にある剣神社に御礼参りをしてから拝殿の横にある社務所で、山のバッヂと御朱印を頂戴した。この神社は別棟に簡易宿泊所と食堂も兼ねていたが、山頂でコンビニの握り飯を食べたばかりで、その食堂でお茶を御馳走になり暫く休憩した。この神社の食堂だけが見ノ越の登山口で営業をしており、大変にラッキーであったと思う。

見ノ越から祖谷川沿いの国道を下って行くと、二重かずら橋があったので立ち寄った。かずら橋と言えば、びわの滝にあるかずら橋が有名であるが、二重かずら橋は剣山への行楽を兼ねて訪ねる人が多いようだ。祭日にも関わらず数人の観光客がいるだけで、土産物屋は店を閉じ、駐車場の料金所に係員はいなかった。

東祖谷に山道を走っている途中で、国指定の重要文化財でもある木村家住宅の案内板が目に付き、迷うことなくその道を上った。山の斜面に石垣を積んだ典型的な寒村の民家であり、そこに住む人たちは平家の落ち武者たちの子孫なのであろうか。軒下の廊下に大きな太鼓が置いてあり、来客者はその太鼓を敲き、見学を促すようであった。登山客から観光客へと変身し、座敷に上がってコーヒーを飲みながら古民家について話しを聞いた。

最近までこの家の当主と名古屋に住んでいたという30代の奥方は、この古民家に魅力を感じ、喫茶店を兼ねて一般に公開しているそうだ。有名な寺院などは抹茶付きで拝観料を千円も徴収する所もあるが、500円でコーヒーと御菓子付きは旅人には嬉しい接待である。

西祖谷のかずら橋に至ると、関西方面からの車で混雑していた。明石海峡大橋と大鳴門橋で本州と四国は結ばれて、日帰りの観光客が増えているのだろうか。本家本元のかずら橋も見物したかったが、予想以上に人出に辟易し、祖谷温泉へ行って寛ぐことにした。

祖谷温泉は祖谷渓の絶景地にあって、四国では唯一「日本秘湯を守る会」の会員旅館でもある。以前から知っていた温泉でもあり、是非にも泊まりたいと切実に願っていた。県道脇に旅館の建物は立っているが、自噴の温泉は谷底にあって、そこまではケーブルカーを利用するというユニークな温泉である。

建物は和洋折衷にリメークされ、鄙びた温泉場の雰囲気はないが、渓谷の景観は申し分なく、硫黄の香る温泉は四国では珍しい。谷底の露天風呂は、泉温のままの源泉かけ流しで温い湯であるが、ずっと浸かっていると次第にポカポカとして来る。登山もスキーも一緒であるが、温泉あっての登山とスキーであり、ご飯とみそ汁の関係にあると言える。

79東赤石山

【別名】赤太郎尾【標高】1,706m。

【山系】法皇山脈(赤石山系)【山体】隆起山岳【主な岩質】橄欖岩。

【所属公園】なし【所在地】愛媛県。

【三角点】三等【国指定】なし。

【関連寺社】なし。

【登頂日】平成26年11月8日【登山口】筏津登山口駐車場【登山コース】上り左股コース・下り右股コース。

【登山時間】4時間24分【登山距離】9.3㎞【標高差】1,006m。

【主な名数】土居三山(東赤石山・二ツ岳・赤星山)、日本二百名山、花の百名山。

【周辺の温泉地】なし。

山頂直下

元禄3年(1690年)、住友家の番頭が別子銅山を検分中に登頂。

先週の金曜日に登ろうとしが、雨で断念したことが悔やまれて遥々と広島からまたやって来た。広島から226km、約3時間半を要して登山口に到着した。筏津の駐車場には、多摩ナンバーのワゴン車が停まっているだけで他に車がない。平均コースタイムが往復7時間とされ、一般登山者が気軽に登れる山ではなさそうだ。四国の日本二百名山の中で、最も長いコースと覚悟を決めて登山を開始した。

登山口には単独登山をしないよにとの注意書きがあったが、これまで登った357座中、18座だけが友人や甥と一緒であった。殆どが単独登山と言っても過言ではない。しかし、万が一の遭難を考えると閉口してしまうが、大勢の登山者で賑わう山や登山コースの短い山は許されても良いと思うし、危険な山は単独登山者同士が一緒に登ることもある。

杉木立の登山道を行くと、かつて豊後集落あったとされ、建物跡の石垣が苔に包まれて残っていた。登山道からは大きな八間滝が見え、疎らながなも紅葉した樹木が目を引く。40分ほど過ぎた頃、赤石山荘を経由する左股(瀬場谷)コースと、赤石山に直接向かう右股(土居)コースに別れていた。左股コースの方が険しいと聞いていたので、登りは急なコースの方が良いと判断した。瀬場沢の渓流に沿った登山道で、名もなき滝が次から次へと現れて来る。急斜面のトラバースも多く、気の抜けない登山道の連続である。渡渉も多くあったが、年季の入った丸太の橋が架けられいて立ち往生することもなかった。

登山開始から2時間が過ぎた頃、森林限界を越えて笹が繁茂し、クロベやハイマツも生え、豊かな植生を見せてくれた。そして、見晴らしが開けたて、茶褐色の城塞のようなカンラン岩の岩峰が2峰見えて来た。左側が物往頭で、右側が東赤石山のようであるが、その中間に鋭角の八巻山の岩峰が見え、唖然とした気持ちで眺めた。かつて眺めた日本百名山の瑞牆山のようでもあるが、迫力に関してはその比ではない。

岩場の登りを覚悟して、ストックを1本畳み左手を自由にして挑んだが、鎖場やロープもなく、危険を感じる個所もない。男女4人組の登山客を追い越し、山頂に到ると同年代と思われる夫婦も山頂に到着したばかりであった。この夫婦が多摩ナンバーの車の持ち主のようであるが、4人組は瀬津からでも登って来たのだろうか。

私たちが陣取った場所には、三角点がなく何か変だと思い、握り飯を食べた後に先へと進むと、三角点の設置された狭いながらも平坦な山頂があった。また山頂を示す立派なプレートもあり、東側の展望も先ほどのピークよりも勝っている。おそらく、三角点ある山頂よりもピークの方が数㎝高いようである。

東には山脈に連なる権現山やエビラ山が聳え、北の瀬戸内海には新居浜の街並みが白く輝いている。快晴の天気ではなかったが、石鎚山や瓶ヶ森が確認できて嬉しい登山となった。模擬山頂で食事をしている登山客に、この先の三角点がのある山頂が真の山頂であることを告げて下山を開始した。赤石山荘に立ち寄ろうとも思ったが、引き返すのが億劫になり、別の右股コースを下山することにした。

右股コースの方が初級者向きのコースのようで、隘路のトラバースもなく、橋や渡渉も少ない。しかし、途中で熊のウンチを見て、鈴を高く鳴らし、歌を歌ったりして熊を寄せ付けないように注意した。ツキノワグマがいないのは九州だけであり、生息数は少ないものの四国でも熊には注意が必要である。

「日本三百名山」ともなれば、国道や県道に面しているの登山口は殆どなく、先週は筏津を通過して引き返した経緯がある。雨の登山を断念したことが、今日の満足感に至っている。改めて登山の3原則を思い出す。1つ雨の日は登らない。2つ登山道のない山には立ち入らない。3つ必要最小限の装備で臨む。

100パーセント安全な登山などはあり得ないが、安全な登山を心がける工夫が大切であり、岩場での3点確保は常識で、木の幹や枝を利用することも欠かせない。下山時は飛んだり跳ねたりしないことも重要で、踏む石も大きく平坦な石を選ぶことが肝心である。それでも今回は3度ほどスリップし、ストックに助けられたが、1度は転倒していた3年前に比べると格段の違いを感じる。ペースも早くなり、7時間の標準コースも4時間半に短縮できるようになって来ているのである。

山頂の分岐点から麓の分岐点まで1時間ほどで下山し、距離も短いようにも思われた。想像していたよりも早い時間で登山を終え、午後2時前には車を再び走らせた。しかし、駐車場には筏津山荘があったらしく、その看板が空しい時の風に吹かれていた。山荘が残っていれば、山のバッヂも売っていたと推測すると、勲章を求めらえなかった無念さは残る。結局、四国の二百名山でゲットしたバッヂは1個もなく、山を案内するパンフレットもなく、記念に残すべきものは写真だけとなった。

先週立ち寄った道の駅マイントピア別子で再び入り、中華そばを食べた。そして、登山着姿から白のトレパンに着替えて、巡礼の旅人へと変身する。本来の目的は、開創1200年を記念した四国霊場の車による巡礼であり、そこに四国三百名山をからませたのが今回の旅であった。「日本百名山」の石鎚山(1,982m)と剣山(1,955m)へは2度目の登山を達成し、「日本二百名山」は三嶺(1,893m)、笹ヶ峰(1,859m)、東赤石山(1,706m)とクリアした。四国の「日本三百名山」も伊予富士(1,756m)、瓶ヶ森(1,896m)を登ったので残りは三本杭(1,226m)と篠山(1,066m)の2座となり、年内には登頂を目指したいものである。

「登り終え 霧の晴れたる 心地なる 四国の高峰 7座に挑み」 陀寂

マリンピア別子から新居浜にある旧広瀬邸と広瀬歴史記念館を訪ねた。別子銅山の総支配人・広瀬宰平(1828-1914)が建てた豪邸で、庭園は国の名勝、建物は国の重要文化財である。庭園や史跡をめぐる旅行が好きで、未だ見ぬ名所に訪ねたい思いが募る。主屋二階から眺める庭園も素晴らしかったが、昔は別子銅山も見えたと聞くと繁栄の面影が偲ばれる。

今回の四国八十八ヶ所霊場の巡礼は、第64番札所・前神寺から第61番札所・香園寺まで逆打ちで4ヶ所を打った。登山を兼ねて打っているので、殆ど「乱れ打ち」の情況であるが、四国遍路も立派な登山であると思っている。大概の寺院には、「山号」があるので、寺院めぐりは登山と同一視できる面がある。特に四国霊場は平坦な土地にある場所が少なく、山登りと殆ど変らない札所もある。土曜日の今日は、鈍川温泉の美賀登を予約していたので、登山の疲れを癒してくれるものと期待しながら再び山道に入った。

80石鎚山

【別名】石土山、石鈇山【標高】1,974m(弥山)、1,982m(天狗岳)。

【山系】四国山地(石鎚山系)【山体】隆起侵食山岳・カルデラ【主な岩質】安山岩。

【所属公園】石鎚山国定公園【所在地】愛媛県。

【三角点】三等(弥山)【国指定】なし。

【関連寺社】石鎚神社、前神寺、極楽寺、横峰寺。

【登頂日】平成22年3月23日【登山口】石鎚登山ロープウェイ山頂成就駅【登山コース】成就社コースピストン。

【登山時間】3時間5分【登山距離】9.4㎞【標高差】682m。

【起点地】秋田県横手市。

【主な名数】伊予三名山(石鎚山・瓶ヶ森・笹ヶ峰)、日本七霊山(富士山・立山・白山・大峯山・釈迦ヶ岳・大山・石鎚山)、日本百名山、名峰百景、日本百景、花の百名山、新日本百名山、百霊峰、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】石鎚山温泉。

石鎚山天狗岳

奈良時代、修験道開祖・役小角の開山し、嘉祥3年(850年)に修行僧・寂仙が成就社を開基。

祖谷温泉で一夜を過ごし、四国の秘湯を満喫しての出発となったが、朝から「小便小僧」

の悪戯な雨降りは続き、傘を差しながらその立像を見物した。断崖絶壁に立つ子供像は、勇ましく立派な姿であり、高所恐怖症の私は恐縮するばかりであった。

吉野川の大歩危や小歩危の渓谷を車から眺め、遊覧船に乗ってみたいと思いつつ通過し箸蔵寺に立ち寄って諸堂を参詣した。四国八十八ヶ所の別格霊場であるが、訪れる遍路さんも少なく、重要文化財の荘厳な七堂伽藍はひっそりと春雨に濡れていた。

井川池田インターから徳島自動車に入り、川之江ジャンクションから松山自動車道をいよ西条インターで下り、国道11号線を走ってゆくと、石鎚山登山口の案内標識が立っていたので分かりやすい。四国一の名峰に相応しい歓迎ぶりであるが、雨は止みそうにない。

何とか午前中に登山口に到着すればと思っていたが、旅館の有料駐車場に車を停めてロープウェイ山麓駅に着いたのは12時20分であった。改札係のおばさんが、これから山頂を往復するのは時間的に無理と言う。最終のロープウェイは、山頂成就駅を17時に出発するとのことで、逆算すると2時間で山頂に到着しなかったら、そのまま引き返すしかない。

ロープウェイを下りて合羽に傘をさして登りはじめると、石鎚神社の中社にあたる成就社が建っている。その門前には土産物屋や旅館が立ち並んでいるが、閑古鳥が鳴いている有様で、素通りするのも気が引ける。昨日の賑わいを知らないので、雨の平日はこんなものかと淋しさを感じる門前であった。

神門を過ぎると参道から登山道となり、アップダウンがしばらく続く。夜明かし峠からは木段の登山道となり、みすぼらしいバラックの一ノ鎖小屋が建っていた。登山者は私ひとりのようであり、雨の中の鎖場は滑り易く、安全第一を考えて鎖場コースを避けて迂回路を登った。他に登山者がいないので、万が一を考えた時に安全が最優先される。

この山は役小角(634-701)が開山した霊場で、空海大師(774-835)も修行された聖跡であり、現在も修験道の聖地として有名である。パンフレットには「日本七霊山」と記されていたが、この七霊山は富士山・白山・立山の「日本三霊山」に四ヶ所の霊山(大峰山・釈迦ヶ岳・伯耆大山・石鎚山)を加えたものである。月山と御嶽山が外れているので、再考の余地はある。「日本三景」に四景を加えるようなもので、あまり意味のないことだと思う。

若き日の空海大師は、四国各地の霊山や辺境の地で修行され、超人的な能力を取得するのであるが、その後の活躍はこの山岳修行が基本となっている。空海大師の故地を訪ねる四国巡礼の旅は、石鎚山登拝で結ばれたことは意義深いことである。また、空海大師を慕い四国行脚をした歌僧の西行法師(1118-1190)は、石鎚山を訪れて歌を詠んでいる。

「わすれては 不二かとぞ思ふ これやこの 伊予の高嶺の 雪の曙」 西行法師

富士山と石鎚山を同一化する感覚が西行法師のユニークさで、四国で富士山を見た驚きの歌である。似たような法師の和歌に、みちのく平泉の束稲山で、吉野山のような桜を見て詠んだ歌が、「聞きもせず 束稲山の 桜ばな 吉野の外に かかるべししは」である。

二ノ鎖、三ノ鎖を過ぎると風が強くなり、山頂が近いことを知り、傘を閉じて岩場の隅に置いた。山頂に到着すると、石鎚神社奥宮頂上社の比較的新しい社殿が建っていて、恭しく礼拝した。ナイフの刃先のような天狗岩まで行こうとしたが、風が強く飛ばされたら断崖の尾根を一直線に墜落するので、身の危険を感じて引き返した。

山頂へは1時間47分で到着したので、目標の2時間はクリアできた。しかし、山頂に立ったという目標は達成したものの、石鎚山の魅力を感じるには至らず、雨の登山は得るものが少ない。できれば雨の日の登山は避けたかったが、九州の友人と会う約束もあって、スケジュールの変更ができなかったのが残念である。

西日本の最高峰を誇る石鎚山は、古くから信仰登山が盛んで、麓の石鎚神社の御神体が

7月1日の山開きと同時に山頂に移されると言う。御神体の石鎚毘古命は、石鎚山そのものであるので、御神体が麓の社殿に移るのもおかしな話であるが、不可解な信仰が神道の特徴であり、明治維新後の廃仏毀釈によるものであろう。

神様のいない今日の石鎚山は、機嫌が悪いようで雨風は強さを増すばかりである。急ぎ

足で下山し、遥拝所で一礼してから中宮成就社を参拝した。社務所で御朱印と山のバッヂを頂戴し、登拝と登山の記念品として大切にしたいと思う。

ロープウェイの山頂成就駅に着くと、タイミングよく16時の便に搭乗することができ、改札係のおばさんに「山頂まで往復できました」と言うと、とても驚いていた。自転車で1,200kmを走行したばかりで、脚力が増強されたのは確かであり、「山は太股で登り、膝と脹脛で下る」ということに効果があったようだ。

ロープウェイ下谷駅の下にある旅館の駐車場に車を停めたが、その旅館の風呂が登山客も利用できると聞いていたので入浴を楽しみにしていた。しかし、旅館は休館の看板を掲げ、駐車料金を払った旅館の主人の姿もない。私は雨のあたらない旅館の入口に車を移動し、着替えをしてから駐車場を出た。

西条に向かう途中に、極楽寺という大きな寺があり参詣した。この寺は石鎚山真言宗の総本山で、石鎚山修験道を再興した寺でもある。役小角が開基したと伝えられ、急勾配の石段を上り、諸堂を巡ってから御朱印を頂戴した。

明日は広島の宮島観光を考えていたので、できるだけ進行方向に近い宿を探したが、ビジネスホテル以外に飛び込みで泊まれる宿はなさそうだ。自転車巡礼で泊まった湯之谷温泉に再泊しようとも思ったが、この時間帯となれば素泊まりしかないので断念した。

何とか西条のビジネスホテルに投宿し、四国最後の18泊目の夜を過ごした。この西条市

には、甥子の嫁さんの実家があるが、世捨て人の私には友人知己はいても親類縁者との結び付きは少ない。心の通じない親戚は、たとえ兄弟であっても縁遠くなってしまう。

今回の百名山の旅は、「四国八十八ヶ所霊場」の自転車旅行に付随して行われたが、霊場は徒歩でも回ってみたいと思っているので、その時はまた石鎚山にも登ってみたい。旅は私の人生の最大のテーマであり、外航路の船乗りを志した少年の日と変わっていない。

「日本三景」の中で、唯一訪ねていないのが安芸の宮島であり、老後の楽しみにと思っていたが、空海大師の霊跡でもあることから九州遠征の前に急遽立ち寄ることにした。また、霊山登拝も百名山に準じて行っているので、宮島の弥山に登るのも楽しみである。

81英彦山

【別名】日古山、彦山【標高】1,192m (北岳)、1,199m(南岳)。

【山系】筑紫山地【山体】隆起侵食山岳【主な岩質】礫岩・凝灰岩。

【所属公園】耶馬日田英彦山国定公園【所在地】福岡県/大分県。

【三角点】一等【国指定】天然記念物(鬼杉)。

【関連寺社】英彦山神宮、霊泉寺。

【登頂日】平成23年4月5日【登山口】高住神社駐車場【登山コース】北岳コースピストン。

【登山時間】2時間12分【登山距離】4.2㎞【標高差】400m。

【起点地】秋田県横手市。

【主な名数】日本三彦山(英彦山・弥彦山・雪彦山)、日本三大修験山(羽黒山・大峯山・英彦山)、八十八座九十図、日本二百名山、名峰百景、日本百景、日本の自然100選、森林浴の森100選、新日本百名山、百霊峰、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】釈迦岳温泉。

山頂直下

継体天皇25年(531年)、北魏の僧・善正が開山。

九州北部の福岡県と大分県にある筑紫山地、その最高峰が英彦山(1,199m)で、九州屈指の霊山として崇められて来た山である。昔は豊前、筑前、豊後の三国に山塊は跨り、修験の霊場として栄えて来た。英彦山と表記して「ひこさん」と読ませるのは無理があると思う。志賀重昂(1863-1927)も『日本風景論』では、彦山と紹介して難読を避けている。彦山に「英」の字を付けるように指示したのは、第112代・霊元法皇(1654-1732)とされるが、どんな関連があってのことか詳らかではない。

どうしても英の字を用いたい理由があるのであれば、「えひこさん」と読ませるのが分かり易い。観光立国を目指すなら、外国人にも理解される地名や山名に改めるべであろう。曖昧でいい加減な表現や名称は排除するべきであり、「わかり易い日本」にすることが求められる。信州の白馬岳の名も「しらうまだけ」から「はくばだけ」に改められて欲しい。

英彦山は新潟県の弥彦山(634m)、兵庫県の雪彦山(915m)と並び「日本三彦山」と称されている。弥彦山は弥彦神社からロープウェイも出ていて、スカイラインを利用すれば山頂まで行ける観光地でもある。しかし、雪彦山は険しい岩山で、標高差505mのスリルに富んだコースであったと記憶する。登山時間は3時間を越え、賀野神社に参拝した後、雪彦温泉に入ったことは良く覚えている。

阿蘇山の登山後は別府温泉に1泊し、耶馬渓を経由してへ英彦山へと向かう。林道のように狭い国道496号線を過ぎると、高住神社の駐車場で登山服姿の人たちを目にし、すぐさま車を停めた。茶店の人に聞くと、ここから英彦山の山頂でも上宮までは1時間半ほどで登れると言う。奉幣殿から登ろうとしていたので、約1時間の短縮になる。この神社から登ることにして、急遽登山の支度をした。

登山をする直前に先ず考えるのが、地下足袋かゴム長靴か履物である。地下足袋も滑りにくいピン付きのものと、底の厚い農作業用とがあり、登山道の情況に応じて臨機応変に考えるのである。下草が多ければ長靴となるし、岩場が多ければ農作業用となるし、残雪があればピン付きとなる。念のためピン付きを予備としてリュックに詰めてスタートした。

高住神社からはやや急な登りが続き、鎖やロープも要所にある。宮之浦岳に比べれば可愛らしい程度の残雪があるだけで快適な登山道、いや登拝道である。

登山開始から約40分で標高1,192mの北岳に到着した。北岳からは、上宮のある中岳が望まれて霊山の雰囲気が漂っている。大和(奈良県)の大峯山(1,719m)、羽前(山形県)の月山(1,984m)と並び、「修験道三霊山」の1つでもある英彦山は、九州を代表する信仰の山である。正式に仏教が伝来する以前から山岳信仰の歴史があったようで、開山は継体天皇25年(531年)と、九州の霊山では最も古い。

何人かの登山客と出会い、北岳からダウンアップして中岳に到着すると標高1,200mと記された大きな標柱が立っていた。上宮の社殿は大きく立派に見えたが、近づくと屋根の傷みが激しく修復できない状態になっている。上宮の前では孫3人と食事をしていた老人がいて、少し離れた石段に座って私も耶馬渓のコンビニで買った握り飯を食べた。この日も天気が良く、最高の登山日和である。

中岳の先には最高峰の南岳が聳えていて、そこに一等三角点があるようだが、今回は最高峰に登ることを断念した。次ぎの予定が控えていることがあったが、国の天然記念物である鬼杉、梵字ヶ岩や材木岩などの奇岩も日を改めてゆっくりと見てみたいと思ったのである。そのためには奉幣殿から南岳に向って登らないと、見物できないコースとなっていた。2時間少々の登山で満喫できるほど、英彦山は甘い山ではなさそうに見えた。

下山途中に屹立する奇岩を眺め、望雲台に登ろうとしたが、長い鎖場を見て腰が引けて断念した。連日の登山で体力も気力もなく、興味本位の鎖場は危険極まりもない。回りに登山者がいれば少しは安心するが、誰もいない状況では興味も薄れる。天狗神を祀る高住神社を参拝し、茶屋で山菜うどんを食べた。茶屋の老女将から豊前坊天狗の話など聞いて、その霊魂が今も存在するそうで、客が撮影したという天狗の写真を見せてもらった。

「行く春や 六根清浄 天狗様」 陀寂

車で正式な登拝口である奉幣殿まで移動し、拝殿の役割を担っている奉幣殿を参拝することにした。駐車場からは、英彦山花園スロープカーが設置されていて搭乗した。スロープカーは、モノレールでもケーブルカーでもない乗り物で、中間駅のある本格的なスロープカーに乗るのは初めてである。英彦山神宮が営業しているようにも見えず、良く見ると神宮が立地する添田町が建設したようである。モノレールやスロープカーには車輪がないので、車両と呼ぶのも変で、リフトなどのように搬器と呼ぶのも抵抗を感じる。乗り籠と言う人もいるけれど、外来の乗り物なのでキャビンと呼ぶのが相応しいと思う。

奉幣殿は元和2年(1616年)の建築で、霊仙寺の大講堂であった。明治初年の廃仏棄釈で焼かれるところであったが、老僧の機転で焼失を免れたようである。現在は国の重要文化財に指定されていて、文化財の保存のエピソードを思いながら拝観した。かつて天台系修験の本山派であった霊仙寺は、廃仏棄釈で廃寺となるが、戦後に霊泉寺として復興されて現在に至っている。英彦山神宮の神官たちも神仏習合の時代を偲ぶように、「六根清浄」を唱え、「柴灯大護摩供」の仏事も執り行っているようだ。

霊場・英彦山は、江戸時代中期が盛時で、坊舎800棟、山伏らの僧衆3,000人を擁していたと言われる。その坊舎の1つであった旧亀石坊は庭園のみが残っているが、明国から帰国した画聖・雪舟等楊(1420-1506)が3年間逗留している時に作庭したものである。現在は国の名勝の指定を受け、旧亀石坊庭園となっている。今回は時間の都合上、庭園を鑑賞する時間的余裕がなかったが、英彦山も山頂の登拝だけでは満足できるものではなかった。再び訪ねて登りたい霊山であり、未練が尽きないのも山旅である。

英彦山の登山を終えて、この日は福岡県大野城市のY氏宅に投宿することになっていて、久々の大野城市入りとなった。Y氏とは1年ぶりの再会で、心のこもった歓待を受けた。一緒に久住山に登った思い出があり、一緒に入浴した別府の鉄輪温泉が脳裏に浮かぶ。私より8歳も年長の66歳であるが、70歳までは働くと言っていて、その元気さにはいつも脱帽させられる。翌日は福岡市内のビジネスホテルに投宿し、福岡城や大濠公園の桜を訪ねて登山以外にも九州まで来た日々を楽しんで秋田へと戻った。

82由布岳

【別名】柚冨峯、油布山、豊後富士【標高】1,583m(西峰)。

【山系】独立峰【山体】成層火山・溶岩円頂丘(ドーム)【主な岩質】安山岩・デイサイト。

【所属公園】阿蘇くじゅう国立公園、【所在地】大分県。

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】宇奈岐日女神社、佛山寺。

【登頂日】平成25年3月30日【登山口】南登山口駐車場【登山コース】合野越コースピストン。

【登山時間】3時間35分【登山距離】9.8㎞【標高差】813m。

【起点地】秋田県横手市。

【主な名数】日本二百名山、名峰百景、日本の名峰50選、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】由布院温泉。

山頂遠望

平安時代中期、天台僧・性空上人が開山。

昨日は宝満山の登拝後、九州国立博物館や大宰府天満宮を訪ね、筑前国分寺や水城跡も見物した。東京・京都・奈良の他に九州にも国立博物館が開館したが、入館者よりも職員の人数が多いようで、1度行けば2度目はないだろう。それよりも大宰府政庁跡の桜がそれなり楽しめたのが良い。アリーナみたいな博物館を建設するよりも、大宰府政庁を復元した方が観光的な価値観があったと思うのだが。

大宰府からは湯布院温泉に投宿して、初めての入浴する温泉の湯を堪能した。由布岳登山は、湯布院温泉への宿泊もしくは入浴なくしては成り立たず、最初からセットで考えていた。いつも不可解に思うのは、温泉は湯布院と表記し、街の名前は、由布市と表記している。大分県はへそ曲がりが多いのか、九重連山の名峰を久住山とも呼んでいる。

湯布院温泉の旅館で朝食を食べて出発したため、登山するには遅い出発となったが、由布岳は市街地の東端にも登山口があるほど温泉からは近い。過去2度、やまなみハイウェイから由布岳を眺めながら車で通過したが、その堂々とした独立峰ならではの景観に感服したものである。あれから2年が経過して、今回は由布岳に登山をするために走っている。

やまなみハイウェイに面した無料駐車場には20台ほどが既に駐車していて、反対側の有料駐車場に車が流れるのも時間の問題と地元の登山者は言う。今日の登山は、天気も良いので、地下足袋で登ることにした。雄大な由布岳の双耳峰を眺めながら緩やかな草地の斜面を登るのは、大変気持ちの良いもので気分が心底から満たされて行く。

登り始めて30分ほどで市街地の岳本口側から登るルートと合流する合野越に到着し、由布市の街並みが一望できた。その奥には九重連山が聳え、東寄りには阿蘇五岳と祖母山が連なって見える。この合野越を過ぎると、遮る樹木もなく由布盆地が眼下から少しずつ遠ざかって行く。歩き易かった登山道は次第にガレ場となり、西峰と東峰への分岐点のマエタに着く頃には本格的なガレ場となっていた。そこで休憩している若者の一団を尻目に、私は一気に東峰へと向かったが、その険しい岩場には尻込みしそうな状態となった。

実際の所、岩場登りはあまり好まないが、どこの山でも一般登山道には鎖や梯子があるので手足を滑らせない限り、登りはそんなに危険にも思わない。しかし、下りは三点確保を確実に行い、慎重の上にも慎重を期さないと危険である。

走りながら登るトレイルが最近は流行っているようで、私を抜き去って行った中年男性2人に岩場で追いつき、ほぼ同時に西峰の山頂に立った。360°のパノラマは、最高の眺めで、合野越で眺めた景色の他にこの後に登る鶴見岳が目の前に迫って来る。私は双眼鏡をリュックから取り出して、食い入るように九重連山の峰々に焦点を合わせた。

「双眼鏡 見えぬ所も 見渡せる 夢心地なる 由布岳山頂」 陀寂

短時間でも山頂で休息している間は、誰でも開放的となって登山者同士の話は弾む。普段は単独登山者以外とは会話も交わさない私も、山頂にいた2人とは山の話をした。そして、持参していた双眼鏡を手渡し彼らにも楽しんでもらった。

トレイルする人たちは、ウエストバックに必要最小限の物を入れるため、コンパクト双眼鏡まで持参しようとは考えていないようである。登山をマラソンと兼ねたようなトレイルには、最初は抵抗があったものの、軽量化と時間短縮を考える私とは共通点も多い。しかし、あまりにも身軽な服装と装備に、同化する気にはなれないのが現在の心境である。

西峰山頂には一等三角点の標石と、標高が記された標識があるだけで、小社も無ければ石祠も無い。かつては山岳信仰の霊場として崇められ、中腹には佛山寺の堂塔伽藍があったと聞くが、今の由布岳にはその面影すら残っていない。明治初年の廃仏棄釈の影響と思われるが、礼拝する対象がないのは少々淋しい気がする。霊山の文化遺産に固執しているわけではないが、古き良き時代の神仏混合の歴史を霊山に求めたいものである。

西峰山頂からお鉢回りコースがあって、東峰山頂を経てマエタで合流するのである。私は鶴見岳へロープウェイで上りたい欲求もあって、お鉢回りへと西峰を下った。途中に剣ヶ峰があったが、その名の通り険しい岩場と切り立った尾根が続き、緊張の糸は東峰の山頂まで続いた。私の後を追うように、トレイルの2人も登って来たが随分と距離が離れているのを感じた。高所恐怖症の私は、危険な場所から一刻も早く立ち去りたい気持ちがあって、自然と早足となる傾向にあるようだ。

東峰の山頂には、1,580mを記す標識が立っていたが、西峰とは3.5mの差しかない。本当に猫の耳のような双耳峰で、豊後富士と呼ぶに相応しい山容ではないような気がする。それは兎も角、最初は西峰をピストンすることも考えていたが、谷川岳にしても、妙高山にしても双耳峰の山は両峰に立たないと満足感は半減するように思える。

下山を開始して間もなくマエタに到着すると、続々と登山者が登って来る。3年前の春に九重山に登山した時、その登山者に多さに驚いた事があったが、九州の山にシーズンオフはないようである。マエタから先は、走る降りるように下山して30分ほどで合野越に到着した。午前11時を過ぎた時間帯であったが、これから登る人もいて庶民的な山と言える。

車に戻って着替えている最中に、トレイルの2人も駐車場に戻って来たが、私の隣りに車を停めた高齢の単独登山者はまだ下山して来なかった。メキシコに行っていた半年間のブランクがあったものの、「日本百名山」を踏破した昨年と体力的には衰えていないの感じがする。しかし、3,000m級の山となれば、恐らくは苦労することは明白である。

メキシコから帰国して成田空港に到着した時、金沢の友人から携帯電話に連絡が入って来た。メキシコでは携帯電話を利用していなかったため、何度となく掛けたようであるが通じなかったようだ。その友人からの連絡は、福井県で仕事があるので来てくれとの依頼で、その時は北アルプスの未踏の山々が頭を過った。10月までであったことと、芦原温泉の近くだと言うことで、今回の遠征登山が終わったら行くことにした。また3,000m級の山々に登れることが何よりも嬉しい。

由布岳登山に満足した私は、鶴見岳に登るために別府ロープウェイの高原駅へ足を運んだ。ここで由布岳の山のバッヂが販売されていると聞いたが、売られているのは鶴見岳のバッヂだけであった。以前は置いてあったようであるが、二百名山のバッヂは稀にあるだけで、百名山のように揃えることは不可能のようである。それでも売られていれば購入し、その数を増やすことは楽しみの1つでもある。

83九重山

【別名】久住山【標高】1,787m(久住山)、1,791m(中岳)。

【山系】九重連山【山体】成層活火山・溶岩円頂丘(ドーム)【主な岩質】安山岩・堆積岩。

【所属公園】阿蘇くじゅう国立公園【所在地】大分県。

【三角点】一等(久住山)【国指定】天然記念物(樹木)。

【関連寺社】法華院。

【登頂日】平成22年3月28日【登山口】牧ノ戸峠駐車場【登山コース】牧ノ戸コースピストン。

【登山時間】3時間10分【登山距離】9.2㎞【標高差】457m。

【起点地】秋田県横手市。

【主な名数】日本百名山、名峰百景、花の百名山、新日本観光地100選、日本の秘境100選、新日本百名山、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】法華院温泉、白水鉱泉、赤川温泉、七里田温泉。

九重山の御池

文明2年(1470年)、天台修験僧・養順法印が開山。

前日に泊まった田の原温泉は、家族的な雰囲気で露天風呂は野趣にあふれ、印象に残る温泉旅館であった。日本酒好きのY氏と九州の地酒を堪能し、熊本の郷土料理に舌鼓を鳴らして満悦したのである。Y氏とは一緒に久住山(1,787m)に登る計画を立てていたので、午前8時30分過ぎに温泉旅館を出発して牧ノ戸峠へと向かった。

大分県の別府へと続くやまなみハイウェイを走って牧ノ戸峠に到着するが、峠の広い駐車場は既に満車状態である。想像を絶するような登山客が山に入っているようだ。昨日登った祖母山北谷登山口とは雲泥の差、そのギャップに驚くばかりである。人気のある山々の共通点は、登山口までのアクセスが良いことのようだ。

野暮ったいアスファルトの登山道を登りはじめて間もなく、Y氏の携帯に連絡が入り、親戚に不幸があったとのことである。本来であれば、登山を中断して福岡に戻るべきであるが、そのまま登山を続けると言う。遠路秋田から来た私に気遣ったのだろう。駐車していた車に比例して、登山道には老若男女の長い行列が続いている。沓掛山(1,503m)まで遊歩道となっていて歩き易く、霜が解けてぬかるんだ登山道を1人抜き、2人抜きながら西草千里まで緩やかな登山道を登った。

九重山は九重連山の総称で、久住山系と大船山系に二分され、久住山系は主峰の久住山、最高峰の中岳(1,791m)、稲星山(1,774m)などの1,700mを超える山々から構成される。大船山系は規模が小さいが大船山(1,786m) 、北大船山(1,706m)から成る。鎌倉時代に南麓の赤川には久住山猪鹿狼寺が開基され、室町時代に西麓の坊ガヅルに九重山白水寺が開山されたと聞く。いずれも廃寺となったが、白水寺の支院であった法華院は、温泉宿となって久しく、寒ノ地獄温泉と共に泊まってみたい宿でもある。

西草千里から殆どの登山客は、登山道を左に曲がって稲星山を目指しているようで、中岳や九住山に向かう登山客は少ない。九重連山の魅力を知らない2人は、ただ百名山の山頂を目指したが、この連山には地元の登山者しか知らない魅力があるようだ。

三角形を右に傾けちような久住山の山頂が眼前に聳え、凛々しく立派な山容に暫し見惚れながら立ち止った。人に品格があるように山にも品格があるように思え、「山格」とでも呼びたいものであが、「三角」と混同するのでやめよう。山容には、山の持つ顔のような独自性であり、槍ヶ岳の鋭鋒や富士山などの円錐形の山が最も美しく感じる。緩やかな駒形をした山も魅力的であるが、天を突き、天を支えるその姿に神秘的な造化の功を観る。久住山にもその片鱗を観るようだが、九重連山には1,700m級の山が11座もあって、久住山に比肩する山々が多いのが特徴だ。

私がユースホステル活動に熱中していた若い頃、「坊がつる賛歌」という叙情歌を聞いて坊ガヅルが九州の登山基地を指しているのは知っていたが、上高地や尾瀬のような強烈な印象はなかった。今回の登山で、坊ガヅルが九重連山の中心部に位置することを知り、再びその歌の歌詞を思い起こして思い入れを新たにした。

登りはじめて1時間、3kmほど進んで久住分れの避難小屋に到着した。私より8歳も年上のY氏は、還暦を過ぎてもタフである。学生時代はワンダーフォーゲル部に属していたと聞いていたが、昔とった杵柄は本物のようだ。

中岳と久住山の分れから山頂までは、ザレ場の登山道が続き、石コロだらけの山頂には傾いた木標が立つだけの殺風景さである。しかし、見渡す眺望は素晴らしく、満足感も高まって来る。Y氏と2人、山頂に立って眼前に浮かぶ山々の名を確認しながら四方八方に視線をそそいだ。阿蘇五岳もさることながら、九重連山の端から端までの山々に登る日を焦がれるだけである。次回は大船山(1,786m)に先ず登って、法華院温泉に泊まり、中岳(1,791m)を経て、再び久住山に登りたい夢を描いた。

「九州の 遠征登山は 短くて 恋しき山に 未練は尽きず」 陀寂

山頂は風が強く、座って休憩するような風避けもない。仕方なく避難小屋まで一気に下山し、パンを食べながら休息した。百名山を登り始めて殆どが単独登山であり、甥のコーセイ君を誘って伊吹山と谷川岳に登っただけであった。今回はY氏が私の夢に友情出演してくれて、共通の思い出を達成できたのは有難かった。今後も単独登山が続くと思われるが、1人でも同伴者がいれば、思い出深い登山となるのは明らかである。

西日本の最高峰は四国の石鎚山で1,982mあるが、九州の最高峰は屋久島の宮之浦岳で1,936mである。しかし、九州本島の最高峰となれば直ぐに答えられなかったが、九重山の中岳の1,791mと認識できたのは今日の登山の成果でもある。

九州の山は、四国の山に比べ200mほど低い山々ばかりであるが、雲仙普賢岳の平成新山は、その噴火によって標高を約130mも上げている。活火山の多い九州にあっては、2,000mを超える新山が発生しても不思議ではない。それが松尾芭蕉(1664-1694)翁の述べた「造化の天工」で、地球の自然現象なのである。

久住山へのピストン登山は、3時間10分と標準コースタイムを1時間近く短縮していた。改めてY氏のスタミナには脱帽し、宮之浦も一緒に登りたいと願った。登山口の売店に立ち寄ると、入手困難と諦めていた祖母山のバッジが売られていて感激した。九重山のバッヂと2個購入したが、二百名山の大船山のバッヂも置かれていて、いずれはゲットしたいと思う。Y氏とコーヒーを飲みながら売店の母親と娘さんを交えて雑談をし、四方山話に一期一会のふれあいを楽しんだ。

牧ノ戸峠の登山口から再びやまなみハイウェイを走り、別府温泉へと向かうが、あこがれの湯布院温泉を通り過ぎると、由布岳の双耳峰がその頂きを現していた。Y氏と登ってみたいと思う衝動に駆られたが、Y氏は親戚の不幸のため福岡に早く戻る必然性があり、私は夕方のフェリーで大阪へ向かう必然性があった。そんなY氏であったが、私を別府八湯の1つ鉄輪温泉に案内してくれて、ひょうたん温泉に2人で入浴した。

別府温泉郷は、静岡県の熱海温泉、群馬県の草津温泉と共に「日本三大温泉」の一つであるが、源泉数2,850本と湯量は日本の温泉の1割を占めると言われる。その別府温泉郷の中でも鉄輪温泉のひょうたん温泉は人気が高いと聞く。浴後、Y氏を別府駅まで送って、私は別府駅から大阪行きのフェリーに乗船するために別府港へと向かい、1度目の九州地区遠征の「日本百名山」の山旅を終えた。

84阿蘇山

【別名】不明【標高】1,337m(烏帽子岳)、1,592m(高岳)。

【山系】阿蘇山系【山体】複層活火山・カルデラ【主な岩質】安山岩・溶結凝灰岩。

【所属公園】阿蘇くじゅう国立公園【所在地】熊本県。

【三角点】一等(烏帽子岳)【国指定】名勝・天然記念物(米塚・草千里)、天然記念物(原生林)。

【関連寺社】阿蘇神社、西厳殿寺。

【登頂日】平成23年4月4日【登山口】阿蘇山ロープウェイ阿蘇山上駅【登山コース】砂千里ヶ浜コースピストン。

【登山時間】4時間41分【登山距離】8.2㎞【標高差】450m。

【起点地】秋田県横手市。

【主な名数】阿蘇五岳(高岳・中岳・根子岳・杵島岳・烏帽子岳)、八十八座九十図、日本二十五勝、日本百名山、名峰百景、新日本百景、新日本旅行地100選、新日本観光地100選、日本の秘境100選、日本遺産百選、日本の地質百選、新日本百名山、百霊峰、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】垂玉温泉、地獄温泉、白水温泉。

阿蘇山の火口

神亀3年(726年)、天竺僧・最栄読師が十一面観音菩薩を安置し開山。

屋久島から鹿児島に戻り、車で磯庭園を見物した後、阿蘇山近くの垂玉温泉に投宿することにした。「日本秘湯を守る会」の温泉宿で泊まって見たい宿の1つでもあった。屋久島登山の疲れを癒し、明日の阿蘇登山に備ることであったが、脚の筋肉や節々が痛み、垂玉温泉の館内に4ヶ所ある湯めぐりするのがひと苦労であった。

阿蘇山には昨年の九州遠征で登る予定では仙酔峡ロープウェイまで行ったのであったが、時間が遅くなり断念した経緯がある。今年は阿蘇山ロープウェイを利用して登る計画をした。阿蘇山は比較的楽な登山であり、宿を通常通りに出発して阿蘇山西駅に到着した。強風で登山支度がままならぬ状態であり、風の弱い建屋の直近に車を移動した。

改札口に向かうと、強風のため始発の運転を控えていたロープウェイが運転されるが、登山するのは私だけのようであり、中国や韓国の旅行客で搬器内は満員であった。火口を眺めようと外に出ると、風の影響で二酸化硫黄ガスが漂っているため退避命令が出て、火口西駅舎へ戻される。登山はできないのかと不安に思ったが、高岳の登山コースは立ち入り可能のようで、係員の許可を得て砂千里へと下った。しかし、地図を見誤り、車を停めてあった西駅まで下ってしまい、ロープウェイに乗ったことが藪蛇となってしまう。

心機一転、砂千里から再スタートしたのは、登山を開始して30分が過ぎていた。砂千里は荒涼とした火山灰の原で、強風で砂が舞い上がり、目の中まで入って来る。岩場の急登に到着すると、風は穏やかになったが、筋肉痛が癒えていない脚には堪える登りである。何とか急登を通過すると中岳までは尾根歩きとなったが、再び強風で飛ばされそうになり、安全のため登山道から2mほど下のザレ場を歩いた。

青々とした火口は地獄の釜のように見えるが、天気が良いのに誰もいない登山道も不気味である。中岳の山頂を通過して前を見ると、高岳の山頂付近に人影が見え、私以外にも登山者がいるのと思ったが、高岳の山頂付近には誰もいなかった。幻覚でも見たのか、それとも避難小屋に下ったのか、阿蘇大明神が私を励まそうと人影に扮していたのか、いずれにしても強風にあおられて、尻込みしそうな時に励まされたのは事実である。

高岳の山頂に到着すると、南に祖母山、北に久住山と昨年登頂した山々が微笑んでくれた。山頂の眺めは絶景で、阿蘇五岳の根子岳は鋭い岩峰を半分ほど現し、草千里ヶ浜に聳える烏帽子岳も美しく見える。仙酔峡ロープウェイもよく見えるが、強風で止まっているような様子である。登山者がいないのも、その影響なのかと邪推した。山頂付近の強風は次第におさまり、絶景を独占する気分は最高である。

「若き日の 感動再び 阿蘇の山 九州一の 山の眺めよ」 陀寂

阿蘇山の名前の由来は、燃える火口を意味するアイヌ語の「アソオマイ」が語源とされるが、浅間山や吾妻山も同様のようである。地球の生命力を表す火山は、畏敬と恐怖の対象として古来より特別視されているが、マグマの排出という自然現象に過ぎないのである。

下山を開始して目に映る景色をよく見ると、樹木が一本もない荒涼とした高岳山頂ではあるけれど、火山礫に這い蹲るように多少の草むらが点在していた。吹き飛ばされそうになった尾根の風は弱まり、地獄の釜にも見えた噴火口が次第に天国の鍋のように優しく思える。息を切らした急登も難なく下り、砂塵に悩まされた砂千里も過ぎ、登山開始から2時間45分後に出発地点に到着した。

駐車場から出てからの登山所要時間は、約4時間も要してしまい、標準コースタイムを大幅にオーバーしてしまった。しかし、風が強かったものの阿蘇の高岳を満喫できた喜びは大きく、初めて阿蘇を訪れた感動と共に生涯忘れられない光景が目に焼きついた。

阿蘇山西駅の横には、阿蘇山上神社と西巌殿寺奥之院の神仏が仲良く建ち並んでいる。阿蘇山上神社は阿蘇神社の奥宮で、健磐龍命を祀っているそうである。西厳殿寺は天台宗の古刹で阿蘇修験道の本拠地でもあったそうであるが、現在では侘びしい規模の寺院となって往時を偲ぶことはできない。奈良時代の神亀3年(726年)、インドから来朝した最栄読師が、聖武天皇(701-756)の勅願で開山し、盛時は36坊52庵の堂宇があったと伝わる。

駅舎内のレストハウスのレストランで田舎そばを食べ、遅い昼食をとって阿蘇パノラマラインを下って草千里ヶ浜に向かった。褐色の阿蘇山が荒々しく見えたのに対比して、緑一面の草千里ヶ浜には牧歌的な安らぎを感じたものである。あれから37年の月日を経て眺める草千里ヶ浜は、季節的に涸れたままの草紅葉には幻滅はしたものの、草原を往来する観光乗馬は今も続いているようで、あの時の思い出が脳裡を去来する。

阿蘇火山博物館に入ろうと駐車場に入った所、博物館の駐車場が有料であったのには驚いた。博物館や歴史資料館を見て回ることも旅の楽しみであり、時間に余裕があれば入館することにしている。博物館で放映された阿蘇山の立体映像は、随分と古い時代の撮影にも関わらず、迫力は満点で噴火口の様子が良く見える。

阿蘇パノラマラインの途中に、阿蘇ユースホステルの鉄筋コンクリートの建物が見えた。ユースホステルが激減してしまった時代にあって、公営とは言え今も営業しているのは珍しく、私がサブペアレントをしていた十和田ユースホステルが跡形もなくなって久しいことに比べると、宿泊した思い出のある阿蘇ユースホステルの存続が嬉しく感じられた。

一宮から先は昨年走った道路で、大観峰展望所の案内板が記憶に残っていた。阿蘇随一の眺望と聞いていたので、案内板に導かれるまま、その展望所に立った。まさに絶景の極致で、阿蘇五岳はもちろんのこと阿蘇山の全容が一目瞭然である。この展望台から眺めると、阿蘇五岳はお釈迦様の寝姿に似ていることから涅槃像とも言われていると聞く。

大観峰は北外輪山に位置し、標高936mの丘陵のような山であるが、視界を遮る樹木がなく、世界一とされるカルデラ盆地の広大さを感じとることができる。盆地に点在する町並みが隅々まで見え、九重連山も望まれて素晴らしい鳥瞰である。阿蘇山は登るだけではなく、眺めることにも価値があり、絵の才能でもあればここに逗留し、納得の行くまで描き続けたい衝動に駆られる。

大観峰からやまなみハイウェイへと戻り、別府温泉へ向かった。熱海温泉、草津温泉と共に「日本三大温泉」の1つである別府温泉は、今までに泊まったことがなく、どうしても「日本三大温泉」の宿泊を達成したいと願っていた。1人旅の客でも快く迎えてくれるかんぽの宿を利用する機会が増え、別府温泉もかんぽ宿に予約を入れて投宿したのである。

85雲仙岳

【別名】温泉山、温泉岳【標高】1,359m(普賢岳)1,483m(平成新山)。

【山系】【山体】成層活火山・溶岩円頂丘(ドーム)【主な岩質】安山岩・堆積岩。

【所属公園】雲仙天草国立公園【所在地】長崎県。

【三角点】一等【国指定】天然記念物(樹木)。

【関連寺社】温泉神社、満明寺。

【登頂日】平成27年5月7日【登山口】仁田峠駐車場【登山コース】雲仙ロープウェイから妙見岳コースピストン。

【登山時間】2時間12分【登山距離】3.7㎞【標高差】289m。

【起点地】広島県広島市。

【主な名数】八十八座九十図、日本二百名山、名峰百景、森林浴の森100選、日本の地質百選、新日本百名山、百霊峰、週刊ふるさと百名山、歴史の山100選。

【周辺の温泉地】雲仙温泉。

雲仙普賢岳の山頂

大宝元年(701年)、法相僧・行基が開山。

日本二百名山でもある雲仙普賢岳は、登山愛好家なら1度は登りたいと思う山であろう。19年前の平成8年(1996年)、火山活動で平成新山という新たな山が隆起した。日本の火山活動では、北海道の昭和新山(407m)に次ぐ大きな活動であるが、それは70年前の遠い出来事となったいた。昭和新山には昭和46年(1971年)の夏、18歳の時に登って以来、何度となく登っている。噴火によって隆起した山の特徴を見ているので、雲仙普賢岳には他の名山にない山の雰囲気を期待して登山を決意したのである。

雲仙岳は妙見岳(1,333m)、国見岳(1,347m)、普賢岳(1,359m)の3つの山の総称であったが、新たに平成新山(1,483m)が隆起しピークが増え、雲仙岳の最高峰となった。今回の登山目標は普賢岳であるので、混同を避けるために「雲仙普賢岳」と呼ぶことにした。

仁田峠の駐車場に車を停めたが、峠には多少の霧がかかっていて残念に感じた。それでもミヤマキリシマが満開に咲く様子は見え、雲仙ロープウェイ仁田峠駅の山肌を彩っていた。10万本とも称されるミヤマキリシマの群落を見られたことが嬉しく、山の名物は見逃してはならないと実感した。天気が良ければと思うのであるが、それは贅沢な願望と思う。

ロープウェイを利用した九州の登山は、この普賢岳が最後となったが、昨日は長崎ロープウェイに搭乗し、九州に4基あるロープウェイと1基あるケーブルカーをクリアした。妙見岳駅を降りると、そこが妙見岳の山頂であり、近くに妙見神社の小さな社殿が建っていた。妙見神社は一般的に天地開闢の際、高天原に最初に現れた天之御中主神(国之常立神)を祀るが、これは想像上の神である。雲仙火山に対する恐怖心をぬぐい、火山活動を鎮めようとして祈った山神様への信仰が原点であろう。

妙見岳から鞍部へ降りると次第に雲も上がり、国見岳の険峻な山肌はくっきりと見え、ミヤマキリシマの花が美しく咲き誇っていた。短い鎖場もあって、朝露で濡れた岩に注意を払いながらも国見岳の岩場の山頂に立った。東に平成新山が水蒸気を吐きながら三角錐の真新しい溶岩の山容を見せ、東南に雲仙岳の主峰・普賢岳がその貫禄を示していた。南には馬の背のような妙見岳が続いている。

国見岳から再び鞍部に降り、普賢岳の山頂を目指した。25分ほどで山頂に到着したが、平成新山が威圧するような不気味な佇まいを見せ、目前に迫って来る。下山後に霧氷沢まで行き、立入り禁止の柵が設けられた平成新山を仰ぎ見た。何となく鳥海山の新山を思い出したが、噴煙が消えて新山のような優しい岩山となるには相当の年数を要するだろう。

雲仙岳の平成新山が出現する前の平成3年(1991年)、火砕流が発生して山麓に甚大な被害を及ぼした記憶が脳裏を過る。テレビニュースで火砕流にのみこまれる様子が放映され、興味本位に近付いたカメラマンが被害に遭ったと記憶する。死者43名、行方不明者9名の人的被害をもたらし、住宅や田畑の被害も大きかったようだ。自然の猛威に対する油断、火山のシステムに対する無知、情報の不伝達による不備と天災から人災へと変貌した様子が見える。平成23年(2011年)の3月に発生した東日本大震災の被害も、避難を躊躇した人々の様子は雲仙岳の噴火に対する意識と共通しているように思える。

「山神の 怒りや未だ 治まらぬ 雲仙岳の 荒ぶる姿」 陀寂

平成新山が見える霧氷沢から薊沢を経て、仁田峠まで下山することにした。薊沢は林野庁と緑の文明学会が選定した「森林浴の森100選」に選ばれていている。途中に紅葉茶屋と称される場所があったが、別に茶屋らしき建物もなく、地名だけの茶屋であった。

下山を開始して50分、以外と早く駐車場に到着した。下りはロープウェイを利用しなかったが、搭乗待ちの時間が省かれるので時間的に大差はないようである。雲仙ロープウェイは、全長500m、定員36名の山岳ロープウェイにしては距離が短いが存在感はある。九州には10ヶ所ほどのロープウェイがあったが、多くが廃止されてしまった。雲仙を含め、長崎(稲佐山)・阿蘇山・別府(鶴見岳)と4ヶ所のロープウェイがあるだけである。四国には11ヶ所あったロープウェイの内、7ヶ所のロープウェイが現在も運行されていることを考えると、九州のロープウェイの衰退は歴然としている。

雲仙普賢岳のある島原半島は、長崎県の南東端に位置し、早崎瀬戸を挟んで熊本県の天草の上島と下島が横たわる。島原湾に面した島原市と熊本市にフェリーが運航されていて、長崎と熊本を周遊するには便利である。長崎には短距離のフェリーが多く、2日前の5月5日は、長崎港から福江島にフェリーで渡っている。

福江島の最高峰は父ヶ岳(461m)であるが、芝生に覆われた鬼岳(315m)が素晴らしかった。マグマの噴火によって出来たスコリア丘で、伊豆半島の大室山(580m)や阿蘇の杵島岳(1,326m)を彷彿とさせる眺めである。福江島では他に、念願だった石田城跡や五島氏庭園を訪ねられたことが大きな収穫で、他に訪ねた堂崎教会の天主堂が印象的である。天主堂はその後、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界文化遺産の暫定リストに記載されたが、資料館として使用されていることもあって除外されてしまった。福江島に世界遺産が無いのは淋しいけれど、島原半島では原城跡のみが認定されている。

島原半島で忘れられないのが、原城跡の外に島原城跡と武家屋敷跡である。城郭と庭園めぐりは、青年の頃から旅の目的として最優先に選んでいた。この島原城跡に昭和39年(1964年)、鉄筋コンクリート造の5層地下1階地上5階の大天守に再建された。武家屋敷跡の神代小路は、平成17年(2005年)に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された。最近の私は、この名称を「重伝建」と省略して呼んでいるが、全国に110地区が指定されていて、その全てを回りたいと力んでいる昨今である。世界文化遺産に登録されることが、歴史的景観の価値ではないし、国宝建築や特別名勝や特別史跡の方が素晴らしいと思う。

仁田峠から昨夜泊まった小浜温泉に戻り、島原半島から有明海に出て、日本三百名山の多良岳(996m)に登るために轟渓流へと入った。雲仙普賢岳の所要時間が3時間未満だったので、2座の連登は昼飯前であった。今回の北九州旅行は12泊13日の長旅で、今日で8泊目となる。島原半島では雲仙温泉と並ぶ名湯・小浜温泉は、福井県の小浜市と同様、アメリカ大統領のオバマ氏にあやかった展示広告に知名度を上げようとする様子が良く見えた。雲仙温泉は雲仙地獄を見て素通りしただけなので、秋のシーズンにもう一度訪ねたいものである。その時は、再建された熊本城を見物し、熊本港から島原港まで再び車ごとオーシャンアローに乗って島原湾を渡りたいものである。

86大崩山

【別名】なし【標高】1,643m。

【山系】九州山地【山体】隆起侵食山岳・カルデラ【主な岩質】花崗岩・砂岩。

【所属公園】祖母傾国定公園【所在地】宮崎県。

【三角点】一等【国指定】なし。

【関連寺社】祝子川神社。

【登頂日】平成25年11月4日【登山口】祝子登山口駐車場【登山コース】坊主尾根コースピストン。

【登山時間】5時間50分【登山距離】12.3㎞【標高差】1,023m。

【起点地】広島県広島市。

【主な名数】日本二百名山、名峰百景。

【周辺の温泉地】祝子川温泉。

山頂遠望

大正時代以前の登山者は皆無とされる。

福岡県の宝満山に登った折、登山道で挨拶をした老齢女性と会話した際、私が秋田県から来たと言うと、鳥海山に行ってみたいと希望を述べていた。私が「日本百名山」を登り終えて、今は霊山を登拝していると言うと、北アルプスにも負けない山が九州にあると力説してくれた。その山は大崩山(1,643m)と言い、「日本二百名山」にも選ばれている山で、「九州最後の秘境」とも呼ばれているそうだ。秘境と言えば、北アルプスの雲ノ平が「日本最後の秘境」とされ、私は秘境という言葉につい憧れてしまう。

福井県のあわら市から広島への転勤が決まり、大崩山は随分と近づいて来た。そして広島から宮崎へと1泊2日の登山スケジュールを立て出発した。片道500kmの運転となるが、現場へは自転車通勤をしているため、1週間ぶりの車の運転となる。登山前日は雨の予報もあったので、大分城、岡城、延岡城とまだ見ぬ城郭の散策をした。

延岡のビジネスホテルで朝食を食べて、登山口近くにある祝子川温泉美人の湯に着いたのは午前8時頃になっていた。それから林道を上って行き、岩峰が見えたのでうっかり左折してしまい、砂防ダム工事現場の終点へと上ってしまった。登山口を間違うのは、いつもの早合点であり、案内標識がないと余所者には辛い林道となる。登山口のある林道は走りやすい道で、登山口の前後100mの道路は路上駐車の車で一杯であった。

登山を開始したのは8時48分で、午後零時まで山頂に立たないと、引き返すしかないと考えて登った。昨日の雨やコースの渡渉を考え、新調した長靴を履いて登ったのが幸いし、坊主尾根コースの渡渉も難なく過ぎる。しかし、樹木の繁る坊主尾根は長く、先の見えない上りが続く。救われるのは落葉樹が多く、所々に見られる紅葉や黄葉の美しさである。

登山道では大崩山荘で休息している登山者以外、登山者とすれ違うことがなかったが、林道分岐に到着すると、単独の高齢者が立ち止っていた。その登山者の様子を見ると、ここまで来るのがやっとのような雰囲気である。下山後にその登山者と再会したら、山頂まで行かずに林道コースを下って登山口に戻ったと言う。

「恐怖心 大崩山の 装備なり 姿勢は低く 三点確保」 陀寂

短歌に詠んだような心境で坊主岩に登ると、間近にそそり立つ岩峰がこの山の特徴を示すようで、山水画の絶景を見るようである。妙義山の岩峰群と異なり、突端が丸みを帯びているのが特徴で、この景色には独自の味わいがある。しかし、登山は厳しさを増し、梯子やロープに頼る岩壁が続き、やっとの思い出で山頂へ続く分岐地点に到着する。枯れ尽きたスズタケの笹原がしばらく続き、その先も落ち葉が舞う落葉樹林帯で、森林限界を超えて生き延びるブナの巨木には脱帽するばかりだ。

山頂への登山道は、リボンやテープが少なく、土が剥れた人の足跡を探してコースから逸れないように注意を払った。見通しの良い登山道とは言っても、初めて登る山は登山コースを着実に踏むことが大切であり、岩峰は越えたと言っても油断は禁物である。大崩山の山頂は人気がないようで、1度登れば十分だと思う登山者が多いらしい。

山頂への登山道では、10人前後のパーティとすれ違っただけで、石塚に至るまで誰とも会うことはなかった。登山口にはあれほど多くの車が停まっていたのに、登山者とすれ違うことは少ないようだ。坊主尾根コースでは、単独の登山者3人と会っただけであったが、石塚で休息している4・5人のグループと挨拶を交わした時は安堵した。そのグループから山頂までの時間を聞くと、5分ほどで到着すると言う。

再び枯れた笹原を分け行くと、三角点の近くに小さな標識の立つ、狭い山頂に到着したが私以外に誰もいない。山頂の写真を心とカメラに収めて、大好きなサラミソーセージを丸かじりした。先ほどの石塚を山頂とすれば、大崩山の印象も変わるだろうと思いながら何とか山頂まで時間通りに辿れたことに満足した。

山頂には一等三角点の石標が祠のように鎮座していて、そこに賽銭を置いて行った登山者がいたようだ。修験道の霊山に相応しい山と思えたが、あまりにも奥深い山であっため、大正時代までは前人未到の山のようである。信州の戸隠山、越後の八海山、上州の妙義山の「日本三険峰」に比肩する九州の霊山に思えたが、例外の山もあったようだ。九州の霊山は、英彦山に尽きるとも言える。大崩山頂の眺望は、樹木に遮られているものの、落葉した分だけ見晴らしが良く、晩秋の登山も捨てがたい魅力がある。

下山後は美人の湯に浸かって午後9時まで広島に戻ろうと思うと、遅くても午後3時頃までは下山を急がねばならない。下山を開始して間もなく、石塚でまだ休憩しているグループと立ち話をし、大崩山の素晴らしさを称えた。彼らは宇土内から登って来たようで、この登山コースは山頂への最短ルートでもある。私もこのルートの登山を考えたが、道路のアクセスが悪く今回は断念したのである。

下山コースは、坊主尾根分岐点から湧塚(和久塚)コースを選んだため、慎重な下山が求められる。駒次郎ダキを越え、中湧塚までは長いトラバースが続き、リボンやテープを見失う場面も数回あった。そんな場合は木の枝の隅々を熟視してテープを確認し、目印の小石が積み重ねられた場所はないか探す場合もある。

坊主尾根分岐点から約1時間が過ぎ、下山している登山者に追い着いた時は、仲間がいたと安堵するほどの不安なコースであった。祝子川に至ると、渡渉に戸惑う登山者が5・6人いたが、ここで長靴が本領を発揮する分けで、浅瀬を渡って対岸に渡る苦労はなかった。

大崩山荘に到着したのは午後2時を過ぎた頃で、下山開始の時間から逆算すると、登りに要した時間よりも8分も短縮しただけであった。下山に手間取ったのは明らかであり、コース途中の岩峰に登ったのも予定外であった。大崩山荘は無人の避難小屋で、泊まってみるのも悪くはない雰囲気が感じられた。ここからは登って来た道なので、それほどの不安もなく、20分ほどで車に戻れて満足感に浸った。

路上に停まっていた車も半分ほどに台数が減り、天気に恵まれた登山日和でもあり、それぞれが満足感を胸に残して帰ったようである。この山は山頂を目指す登山者よりもそれぞが登りたい岩峰を目指すようである。登山コースの案内には、その岩峰を「○○ダキ」という名称で表現されていたが、このダキは岩壁を意味する登山用語のようである。ロッククライミングのメッカとして知られているようだが、私の知らない場所で岩壁に挑んだ勇敢な登山者がいたのであろうか、遠い昔に諦めた山登りである。

87高千穂峰

【別名】霧島【標高】1,574m

【山系】霧島連山【山体】成層活火山・溶岩円頂丘(ドーム)【主な岩質】安山岩。

【所属公園】霧島錦江湾国立公園【所在地】宮崎県/鹿児島県。

【三角点】二等【国指定】なし。

【関連寺社】霧島東神社、霧島神宮、狭野神社。

【登頂日】平成28年10月9日【登山口】高千穂河原駐車場【登山コース】馬ノ背コースピストン。

【登山時間】2時間10分【登山距離】5.6㎞【標高差】604m。

【起点地】愛媛県松山市。

【主な名数】日本二百名山、新日本百名山、日本の紅葉百選。

【周辺の温泉地】霧島温泉、湯之谷温泉、極楽温泉。

山頂の風景

神代、瓊瓊杵尊の降臨伝説の山。

霧島山という山名はないけれど、霧島山の象徴と言えば高千穂峰(1,574m)である。深田久弥(1903-1971)氏の「日本百名山」では、霧島連山の最高峰である韓国岳を選定しているため仕方なく韓国岳(1,700m)に登ったが、私としは霧島連山の第2峰・高千穂峰に登りたかった。残念ながら6年前は噴気による入山規制があって登頂を果たせなかった。その思いを胸に、再チャレンジの日を迎えたのが今日の登山である。

天気予報は雨であったが、小雨決行で高千穂河原登山口から登山を開始した。雨の日は長靴に傘と決めているので、傘を差せないほど風が強くなっら合羽に着替えるか下山するだけである。高千穂峰は皇祖・天照大神の孫である瓊瓊杵尊が降臨した山とされる。その天孫降臨籬斎場に続く広い参道の右側に登山道があり、石畳が敷かれ石段が設えられた古道のような格式を感じさせる道である。登山道には赤褐色の溶岩礫が散らばっていて、他の登山道にない異様な雰囲気に包まれていた。

樹林帯を過ぎると、火山灰と噴石の急な登山道が続いていた。ここで私よりも早く登山を開始した若い女性2人を追い越し、お鉢の馬ノ背に到着した。雲の切れ間に中岳が見え、お鉢の眼下には火口の底が姿を見せていた。馬ノ背から鞍部へ少し下ると、霧島神宮元宮の小祠が建ち、かつては山頂直下に社殿が建っていたようだ。

高千穂峰は宮崎県側の都城盆地から眺めると、雲の上に浮かぶ島のようにも見えたこと霧島の名があると聞く。欽明天皇(509-571)の大和時代に山頂と背門丘に社殿が建立されたと言われ、天歴年間(947-957)には天台僧・性空上人(910-1007)によって登山口の高千穂河原に社殿が遷されたようである。

登山を開始して43分、お鉢に到着すると火口の様子が良く見え、山頂もまじかに見える。荒涼とした外輪山には、ミヤマキリシマの樹木が群落していて、花の咲く頃に訪ねたいとも思う。馬ノ背を過ぎると霧島神宮元宮の社殿が建っていて、瓊瓊杵尊を主祭神としているようだ。御神体は高千穂峰であり、富士山と同様の山岳信仰が感じられる。

元宮から山頂までは480mと記されていて、最後の急な登りが待っていた。落石の恐れを感じたので、万が一の場合に備え大石に身を隠すことを考え、登山道にある大石に目配りをした。登山開始から70分、山頂に到着すると数人の自衛官と1組の登山がいて、山頂小屋の中には緑色のジャンパーを着た老若男女がいた。何かイベントがあるようであるが、関心がなかったので詳しくは聞かなかった。

山頂には天の逆鉾が石祠のように鎮座し、その後ろに三角点と方位盤が設置されていた。この天の逆鉾は、坂本龍馬(1836-1867)が妻となったお龍(1841-1906)と一緒に登山して引き抜いたと伝説されている。2人の旅行は新婚旅行の先駆けとも言われているが、神罰が下ったのか1年後に龍馬は暗殺され、お龍は数奇な運命を辿っている。

山頂では雨雲の中から霧島連山が微かに望まれ、雨の日でも満足するような登山であった。今回は時間の都合で最短コースからの登山となったが、東霧島神社側の登山口からも登ってみたいものである。その日は是非に晴天であって欲しいと願い、下山を開始した。

「高千穂は 神のふるさと 降臨地 頂きに建つ 天の逆鉾」 陀寂

下手な短歌を披露してしまったが、歌人の与謝野鉄幹(1873-1935)は昭和4年(1929年)、妻の晶子(1878-1942)を伴って高千穂を訪ねている。その時の情況を詠んだのが下記の短歌であるが、妻の晶子が韓国岳を詠んだ短歌の方が私は好きである。

「高千穂を 空に望めば 心さえ ほのぼのとして 明かりゆく」 鉄幹

「霧島の からくに岳の 麓にて わがしたしめる 夏の夜の月」 晶子

晴天であれば、山頂からは噴煙の上がる新燃岳(1,395)、6年前に登頂した韓国岳は見えなかったが、前方に聳える中岳(1,332m)は辛うじて眺められた。山頂には霧島連山で唯一の山小屋があって、登山客で賑わっていた。山に山小屋のないのは淋しいもので、霧島連山では他に、大浪池登山口から韓国岳に向う途中に霧島山避難小屋があるだけである。

山頂には30分ほど居て下山を開始したが、1時間もかからないで高千穂河原の登山口に戻った。まだ午前10時を過ぎたばかりであったので、高千穂河原ビジターセンターを見物した。全国各地に山岳や高原を紹介するビジターセンターが建設され、環境省や都道府県が運営しているようである。しかし、その展示内容が写真パネル、動物の剥製が主で金太郎あめのようである。そこに無駄な税金が投入されて、生産性のない雇用が発生する。私も就職するならば、好きな本に囲まれた図書館の職員や国立公園のレンジャーに憧れたものであったが、今ではあこがれの薄れた職業の一種となっている。

余談はさておき、高千穂峰を祀る霧島神宮には2度参拝しているが、高千穂河原から現在地に社殿が遷されたのは薩摩の国主・島津忠昌(1463-1508)によってである。薩摩国の一宮となり、霧島連山の表参道の神社とも言える。石川県の白山比咩神社が白山を御神体とする神社で、加賀国に一宮でもある。白山比咩神社は全国に末社約3,000ヶ所を有する総本社で、霧島神宮も総本社である。また山頂に奥宮や元宮を祀るなどの共通点が多い。

登山を早々と終了し、再び宮崎県へと入り日南市の飫肥に向かった。飫肥は飫肥藩約5万石の城下町で、桃山時代から明治維新まで伊東氏が治めた。飫肥城跡は「日本100名城」に選ばれ、城下町は「重伝建」に指定されている。「日本100名城」は北海道の根室半島チャシ跡群を除き城登を終え、全国に110ヶ所ある「重伝建」も20ヶ所ほどを残すだけとなった。「日本二百名山」と同様に「続日本100名城」が発表されて忙しい旅を強いいられる。

高千穂峰は「日本二百名山」であるが、今回の登頂で1座減らしたものの、未だに37座が残っている。「日本三百名山」も47座も残っているので、「日本百名山」ほど容易いものではなそさうである。しかし、全国の301座に拘るつもりはなく、「それぞれの百名山」や「名山絶句八十八座」があって良いと思う。ふるさとの鳥海山のように、好きな山に何度となく登るのが今後の登山となるだろう。

宮崎県は隣接する鹿児島・熊本・大分の県に比べると、極端に温泉地が少ない県である。宮崎市内に泊まろうと温泉のある宿を探したが、本格的な温泉宿はなく、「たまゆら温泉」と称される老舗ホテルに予約を入れた。宮崎市が新婚旅行の目的地として絶頂を誇った時代もあったようである。古いガイドブックには20軒ほどの旅館やホテルが記載されていたが、現在は3軒となり私の泊まったホテルも翌年には廃業したようで悲しい限りである。

88宮之浦岳

【別名】奥岳【標高】1,936m。

【山系】八重岳(屋久島)【山体】隆起侵食山岳【主な岩質】堆積岩・花崗岩。

【所属公園】屋久島国立公園【所在地】鹿児島県。

【三角点】一等【国指定】特別天然記念物(屋久杉)。

【関連寺社】一品宝珠大権現、益救神社。

【登頂日】平成23年4月2日【登山口】淀川登山口【下山口】荒川登山口【登山コース】上り淀川コース・下り縄文杉コース。

【登山時間】10時間27分【登山距離】23.9㎞【標高差】571m。

【起点地】秋田県横手市。

【主な名数】屋久島三山(宮之浦岳・永田岳・粟生岳)、日本百名山、名峰百景、日本の自然100選、森林浴の森100選、水源の森100選、日本の秘境100選、かおり風景百選、百霊峰、日本の名峰50選、日本の山ベスト100、名水百選、週刊ふるさと百名山。

【周辺の温泉地】尾之間温泉、屋久島温泉、湯泊温泉。

山頂直下

室町時代末期、岳参りが始る。

九州の南端・佐多岬の60km南西に浮かぶ屋久島は、周囲130㎞と全国の島では7番目の面積となる。屋久島には最高峰の宮之浦岳(1,935m)を筆頭に、標高が1,800mを超える山が7座もあって、私は「屋久島のセブンマウンテン」と称している。また、屋久島には良質の温泉があるのが特徴で、島の温泉は珍しいと言える。日本には、北海道・本州・四国・九州・沖縄本島を除くと6,852ヶ所の島数があるとされるが、有人島は422ヶ所まで激減する。その有人島の中で、温泉のある島を調べた所、65ヶ所しかない。温泉のある島の中には、淡路島のように橋が架けられ陸続きとなっている島も多く、その島を差し引くと46ヶ所まで激減するので価値が高いのが「温泉のある島」である。

宮之浦岳の屋久島は、登山目的に限らず1度は訪ねてみたい島であった。世界自然遺産に登録されたのが第一の理由であるが、悠久の時を生き続ける縄文杉を見てみたかった。大阪南港から鹿児島県の志布志へ、垂水から鹿児島へと車と共にフェリーを乗り継ぎ、鹿児島から屋久島へは、ジェットフォィル(水中翼船)に乗って宮之浦に午後3時頃到着した。

今夜の宿は淀川登山口に近い安房の民宿に予約を入れておいたので、安心して宮之浦の街並みを散策した。安房からタクシーを呼び寄せ、民宿へと向かったのであるが、明日の早朝は淀川登山口までタクシーで送ってもらい、下山口の屋久杉ランド入口まで迎えに来てもらう予約をとることが必要であった。民宿は屋久島に移住した家族の経営する宿で、コテージ風の離れは気兼ねなく利用でき、早朝の出立には申し分のない便利さである。夕食も風呂も満足のゆく内容で、飾り気のない家族的な雰囲気が印象に残る宿であった。

タクシーは予定時間より早く来ていたようで、私が部屋から外に出るとライトを消して

待っていた。午前5時より少し前に民宿を出発し、淀川登山口に向かった。途中の道路脇には紀元杉が暗がりの中に見え、推定樹齢3,000年と聞き驚いた。車窓から見物できる唯一の屋久杉と運転手さんは言う。

登山口には私の他に2組が準備をしているだけであるが、早朝登山は私だけではないと思うと安心する。1組はガイド付きの熟年夫婦で、1組はガイドなしのこれも熟年夫婦であった。私と同じ百名山を目指しているのだろうか、荒川登山口まで約11時間の長丁場となるので、会話を交わす時間を惜しみ、5時50分に登山を開始した。

ヘッドライトをつけて登ったが、30分が過ぎて淀川小屋に着く頃は、写真が撮れるほど明るくなっていた。見たこともない清流の美しさに屋久島の奥深さを感じ、遠路はるばる来た甲斐があったと思い始める。淀川小屋には人のいる気配を感じたが、邪魔しちゃいけないと思い戸を開けて覗き見るのを止めた。淀川は湿原地帯を流れる川で、オアシスのような雰囲気が感じられ、しばらく立ち止まって眺めていたい気分にさせる。

登山道には小花之江河、花之江河と湿原が続き、更に投石湿原があって、これほどの湿原の多い登山コースは初めてである。投石岩屋では前に入り込み過ぎて、登山コースから逸れてしまったが、岩屋の手前に戻ると上へ導く矢印があったので安心した。登山道が凍結し、残雪で覆われていたものの、午前10時前には宮ノ浦岳の山頂に到着した。

登山者は自分だけと思っていたら、単独登山の若者ひとりが食事中であった。私も安房で買い求めた弁当を食べ、晴天の景色を満喫した。目前に迫る永田岳は荒々しい岩峰が屹立し、男性的な雰囲気で感じる。それに比べ宮之浦岳は女性的な趣であり、その優しさに包まれているようだ。私がまだ弁当を食べている間、若者は縄文杉を経て白谷水雲峡まで降りて行くと言って先に下山していった。このコースは私も当初予定していたが、時間短縮のため荒川登山口にコースを変更したのである。

間もなく私も下山し、焼野三叉路で外人男性と日本人女性のカップルにすれ違ったが、高塚小屋までは誰とも会うことはなかった。途中、何度となく残雪に阻まれコースを見失い、遭難寸前まで追い込まれが、先行した若者の足跡や赤いコースリボンを必死に探し、何とかコースに戻れた。ペットボトルの水も少なくなり、ストックで雪を砕いてボトルに詰めながら雪山の怖さを再認識した。タクシーの運転手さんが、今年は雪が多くガイドでも道に迷うと教えてくれた助言を目の当たりにする出来ごとであり、無謀な登山は慎むべきだと思いを新たにした。新高塚小屋に着いたときは、雪は殆どなくなり、助かったと思う安堵感に満たされた。新高塚小屋には誰もいなかったが、高塚小屋まで到着すると何人かの若者が寛いでいた。しかし、先行した若者は、驚異的な早さで進んだ行ったと見える。

高塚小屋から縄文杉は直ぐ近くにあり、木道からその神々しい日本最古の古木を眺めた。観光客は既に帰った時刻でもあり、貸切り状態で推定樹齢6,000年の縄文杉に手を合わせる。縄文杉の近くには渓流が流れ、その取水口からペットボトルに水を詰めて再び安堵した。水とストックと地下足袋は、私の三大必需品でこれが無ければ登山はできない。

ウィルソン株まで来ると、観光客が休息していて、これが屋久島のメインの観光コースだと認識した。トロッコのレールが残る大株歩道に到着すると、観光客は大幅に増えレールの間に敷かれた木道を歩けないことも度々である。タクシーを屋久杉自然館に待たせていたので、荒川登山口から16時30分の登山バスに乗る必要性があった。のんびりとハイキング気分に浸ってもみたかったが、強行軍で屋久島へは来るものではなさそうだ。

かつて林業で栄えた小杉谷集落跡を過ぎると、木道は無くなって歩きにくいトロッコレールの枕木が地下足袋には辛い。競歩して歩くこと50分、荒川登山口に着いて宮之浦岳登山は終了し、バスからタクシーに乗り移ると、緊張感から開放された安楽な自分に戻っている。運転手さんは常人よりも早い下山に驚いていたが、残雪のブッシュを歩きもがいた無数の擦り傷の跡が両足に痛々しく残っていた。

宮之浦の小さなホテルに到着し、まず風呂に入ったが10時間を超える登山で、脚の筋肉は疲労で泣いていた。屋久島まで来て2泊して戻るのは勿体ないけれど、来週中には金沢に仕事で赴任しなくてはならない。また来たいと思う気持ちで、風呂から上がり部屋の外の桜を眺めた。ホテルでは夕食の提供がなく、隣接する居酒屋に行って1人祝杯を挙げていると、若者が1人で入って来た。カウンターの隣に座ってので、声をかけると山頂で会った若者でないか。不思議な縁を感じると共に、足跡を残してくれた若者に深く感謝した。そのお礼にチュハイをご馳走し、山の話に店主も交えて盛り上がった。

「登山者の 足跡たどる 雪の道 遠く険しき 宮之浦岳」 陀寂

後書き

平成27年(2015年)から「世界文化遺産」の日本版と言うべき「日本遺産」が文化庁を中心として選定されている。令和元年(2019年)5月の今日まで複数県にまたがるものも含めて、83の名称が選定されている。令和2年(2020年)まで100選すると聞くが、遺産に関しては100選に拘る必要はないように思う。観光に関する最も古い100選は、昭和2年(1927年)に東京日日新聞が選定した「日本百景」で、その後「新日本百景」が昭和61年(1986年)、平凡社が月刊・太陽で発表している。「日本百名山」や「花の百名山」、「日本100名城」や「日本桜の名所100選」ほどインパクトがなく、殆ど無視されていると言っていい。

100選の選定には無理が伴うもので、登山者や観光客の人気に左右される。深田百名山では、再び登りたいと思わない山もあったし、北アルプスや南アルプスの選定が多いと思われる。また、「日本100名城」に吉野ヶ里遺跡を選んでいることに無理があり、古代の城と戦国時代の城は分けるべきと考える。因みに私は、「古代と中世・アイヌと沖縄の城郭100選」と「戦国・江戸時代の城郭100選」の2冊を執筆して区別している。最近は桜と城郭の存在を絶対視していて、「城と桜の100選」の執筆に夢中である。

脱線ついでに寺社について少し述べておきたいが、様々な100選本が出版されて曖昧なものとなっている。神社については、平安時代から著名な22社(上7社・中7社・下8社)に、「諸国一宮」の68社、蝦夷、津軽、陸中、岩代、秩父、琉球の6国の一宮を加えると96社となる。二・三宮の中からも鶴岡八幡宮、熱田神宮、日吉大社、多賀大社を選び100選としたのが、私が推したい「神社神宮百選」である。

寺院の100選は非常に難しい面があり、小説家・五木寛之(1932-)氏の『百寺巡礼』がポピラーとなったが、あまり知られていない浄土真宗の寺もあって納得できない面があった。基本的には七堂伽藍が整い、万人を受け入れる観光寺院を重視したい。そこで私が選んだのは、「名刹本山100ヶ寺」で、十三宗五十六派の総本山・大本山・本山・別格本山から実際に参詣して選んだので、これが究極の寺院百選と自己満足している。

 再び山の話に戻すと、『日本百名山』は深田久弥(1903-1971)氏によって昭和39年(1964年)に出版された。そのあと書きでは、東北の秋田駒ヶ岳(1,637m)と栗駒山(1,626m)、九州の由布岳(1,583m)を選ばなかっことを悔いている様子であった。そうなると、1,000mの以下の筑波山(877m)と開聞岳(924m)、深田氏個人のふるさとの山・荒島岳(1,523m)は入れ替わったであろうと想像したい。深田百名山に抗するように平成10年(2006年)、一般登山家の岩崎元郎(1945-)氏によって『新日本百名山』が出版された。岩崎百名山は、都道府県を網羅して選んでいるようであるが、あまり意味がないと思う。その中に秋田駒ヶ岳や栗駒山、由布岳を選んだことは評価に値するが、沼津アルプスの選定はどうかと思う。

私の選んだ『名山絶句八十八座』についても賛否と酷評があると思うが、前書きでも述べたように88と言う名数には、日本人の特別な思いが感じらる。本格的な霊山でもない雲取山(2,017m)、雲ノ平(2,464m)、宝剣岳(2,931m)、東赤石岳(1,706m)の選定は再考の余地があると思うし、その選定は次世代の地下足袋の登山屋に任せたい。

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