名数に見る日本の風景

紫闇 陀寂

前書き

幼い頃から最もときめいた瞬間が、美しい自然景観との出会いであり、最も楽しかったのは小学校の遠足であった。マンネリ化された学校生活や家庭環境の中で、非日常的な遠足は実学そのもので有意義な時間であった。秋田県の横手盆地で生まれ育ったことから、登山やスキーを愛する少年でもあり、スキーは3度の飯よりも好きなスポーツであった。その反面、海に対する憧れが強く、松尾芭蕉(1644-1694年)に陶酔して「船の上に生涯を浮かべる」旅人の人生を志し、外航路の船乗りに成ることを夢見たのである。しかし、一部上場の海運会社に就職したものの、船長に反発して首となり現在の設備屋になった。

成人してから手にした本の中で、最も刺激を受けたのが地理学者の志賀重昻(1863-1927年)が明治27年(1894年)に執筆した『日本風景論』である。日本の自然景観を網羅しており、特に山岳の記述が多い。この本に記された山岳・渓谷・河川・海岸など8割はめぐり、18歳から68歳まで、会社を起業していた15年間のブランクはあったけれど日本各地を旅して来た。振り返ると、日本一の吉野の桜に憧れて行った吉野山、大師空海(774-835年)を慕って登った高野山、熊野古道に魅せられて訪ねた熊野山と。これが設備屋という手に職を持ち安定した仕事を得て向かった旅先で、『三野山巡礼』を自費出版した。

平成5年3月24日から4月20日まで約1ヶ月間、芭蕉さんの『おくのほそ道』を自転車で走って懐古した。会社を畳んで旅にウェイトを置いた頃からは、旅を目的に仕事をするようになった。その最初が「芭蕉の花道(東海道・中山道)」の自転車旅行である。平成19年9月25日から10月18日までの25日間である。続いて「四国八十八ヶ所霊場」を自転車で巡礼したのが、平成20年3月6日から4月4日である。これが、筆者の計画した「自転車三大旅行」であり、何とか人生のイベントを達成できたことは嬉しい限りであった。

平成20年8月31日、「日本三霊山」を登拝しようと「立山」に登ったことがきっかけに、深田久弥(1903-1971年)氏が選定した「日本百名山」を登ろうと決意した。東北や北関東の百名山に登った時は秋田県鹿角市に住み、南アルプスをクリアした時は三重県四日市市に、北アルプスを縦走した時は再び石川県野々市市に、そして、北海道の9座を目指した時は青森県つがる市の温泉旅館に泊まって仕事をしていた。平成25年11月4日、昨年秋の集中豪雨で登れなかった「平ヶ岳」を最後に4年に及ぶ「日本百名山」の山旅を終了した。

その後、仕事でメキシコに通算で1年間赴き、帰国後はあわら市、広島市、松山市、横須賀市、佐久市、いわき市、倶知安町、大阪市で仕事をしながら「温泉のあるスキー場めぐり」を新たな旅の目標とした。並行しながら「国宝建築の旅」や「日本三百名山の登山」を続けた。「国宝建築の旅」は、未公開の内部を除くと140ヶ所をめぐって、何とか目標を達成した。「日本三百名山」も残り120座となり、殆ど達成できそうな目標となっている。

日本の名所の8割を旅して来た時点で、自分なりに眺め、見て来た日本の風景を整理してみようと思ったのが、この書の執筆である。志賀重昮の『日本風景論』には太刀打ちできないが、名もなき凡人の目で見た日本の風景を『名数に見る日本の風景』で記したい。

「旅に生き  旅に死なんと  志す  夢はさすらう  風流韻事」  紫闇陀寂

主な風景の名数

「日本三景」、江戸時代初期に儒学者の林春斎によって選定。

「日本三名園」、明治32年(1899年)頃に世論の評価で選定。

「新日本三景」、大正4年(1915年)に実業之日本出版が女性月刊誌で選定。

「日本八景」、昭和2年(1927年)に東京日日新聞(現在の毎日新聞)が選定。

「日本八景」、昭和61年(1986年)に平凡社の月刊誌「太陽」で選定。

「日本九峰」、江戸時代後期の修験僧・野田泉光院(成亮)が修行した霊山九峰。

「日本十二景」、明治31年(1898年)に文藝倶楽部が選定。

「日本25勝」、昭和2年(1927年)に東京日日新聞(現在の毎日新聞)が選定。

「西国三十三ヶ所観音霊場」、養老2年(718年)に徳道上人によって開基。

「坂東三十三ヶ所観音霊場」、鎌倉時代初期に源実朝によって制定。

「日本の灯台50選」、平成10年(1998年)に海上保安庁が公募によって選定。

「四国八十八ヶ所霊場」、平安時代初期に空海大師によって制定。

「日本名山図譜」、江戸時代に谷文晁によって88座の名山を選定。

「農村景観91地区」、平成3年(1991年)に農林水産省が選定。

「日本百景」、昭和2年(1927年)に東京日日新聞が99ヶ所を選定。

「日本百名山」、昭和35年(1960年)に深田久弥氏が選定して新潮社より刊行。

「新日本旅行地100選」、昭和41年(1966年)に月刊誌「旅」が99ヶ所を選定。

「プロが選ぶ日本の旅館・ホテル100選」、昭和42年(1973年)より業界団体が毎年選定。

「日本温泉旅行100選」、昭和49年(1974年)に平凡社が「別冊太陽」で選定。

「花の百名山」、昭和55年(1980年)に田中澄江氏が選定して文芸春秋より刊行。

「日本の自然100選」、昭和58年(1983年)に(財)森林文化協会と読売新聞社が選定。

「名水百選」、昭和60年(1985年)に環境庁(現在の環境省)が選定。

「新日本百景」、昭和61年(1986年)に平凡社の月刊誌「太陽」で選定。

「森林浴の森100選」、昭和61年(1986年)に林野庁が選定。

「新日本観光地100選」、昭和62年(1987年)に読売新聞社が選定。

「日本の白砂青松百選」、昭和62年(1987年)に日本の緑を守る会が選定。

「日本の都市公園100選」、平成1年(1989年)に緑の文明学会と日本公園緑地協会が選定。

「日本の滝百選」、平成2年(1990年)に緑の文明学会が選定。

「桜の名所100選」、平成2年(1990年)に(社)日本さくらの会が選定。

「新・日本の名木100選」、平成2年(1990年)に読売新聞社が刊行。

「古寺名刹百選」、平成2年(1990年)に平凡社が「別冊太陽」で選定。

「日本の渚100選」、平成6年(1994年)に運輸省(現在の国土交通省)が選定。

「水源の森100選」平成7年(1995年)に林野庁が選定。

「残したい日本の音風景百選」、平成8年(1996年)に環境庁(現在の環境省)が選定。

「水の郷百選」、平成8年(1996年)に国土庁(現在の国土交通省)が選定。

「日本百名橋」、平成10年(1998年)に村松博氏が選定して鹿島出版社より刊行。

「公共建築百選」、平成10年(1998年)に建設省(現在の国土交通省)が選定。

「日本百名峠」、平成11年(1999年)に井出孫六氏が選定して桐原書店から刊行。

「日本の棚田百選」、平成11年(1999年)に農林水産省が選定。

「日本百名谷」、平成12年(2000年)に岩崎元郎氏が選定して白川書房から刊行。

「都市景観100選」、平成12年(2000年)に建設省(現在の国土交通省)が選定。

「森の巨人たち百選」、平成12年(2000年)に林野庁が選定。

「日本百名湯」、平成12年(2000年)に日本経済新聞社が選定。

「かおり風景100選」、平成13年(2001年)に環境省が選定。

「日本遺産・百選」、平成14年(2002年)にシンクタンク総合研究機構がアンケートで選定。

「にっぽん温泉遺産」、平成15年(2003年)に旅行読売出版社が読者のアンケートで選定。

「新日本の夜景百選」、平成16年(2004年)に夜景倶楽部事務局が選定。

「百霊峰」、平成16年(2004年)に東京新聞の登山月刊誌「岳人」で選定。

「日本の夕日百選」、平成17年(2005年)にNPO法人が選定。

「ダム湖百選」、平成17年(2005年)にダム水源地環境整備センターが選定。

「漁業漁村の歴史文化財百選」、平成18年(2006年)に水産庁が選定。

「疏水百選」、平成18年(2006年)に農林水産省が選定。

「日本100名城」、平成18年(2006年)に日本城郭協会が選定。

「快水浴場百選」、平成18年(2006年)に環境省が選定。

「歴史の山100選」、平成18年(2006年)に秋田書店が刊行。

「日本の歴史公園100選」、平成18年(2006年)に国土交通省が112件を一次選定。

「日本の歴史公園100選」、平成19年(2007年)に国土交通省が138件を二次選定。

「ぼくの新日本百名山」、平成19年(2007年)に岩崎元郎氏が選定して朝日新聞社より刊行。

「平成の名水百選」、平成20年(2008年)に環境省が選定。

「平成百景」、平成21年(2009年)に読売新聞がアンケートによって選定。

「百寺巡礼」、平成21年(2009年)に五木寛之氏が選定して講談社より刊行。

「島の宝100景」、平成21年(2009年)に国土交通省が選定。

「日本の地質百選」、平成21年(2009年)に日本の地質選定委員会が120ヶ所を選定。

「日本の紅葉百選」、平成22年(2010年)に主婦の友社が選定。

「週刊ふるさと百名山」、平成22年(2010年)に集英社と山と渓谷社がクラビア雑誌で選定。

「ため池百選」、平成22年(2010年)に農林水産省が選定。

「続日本100名城」、平成29年(2017年)に日本城郭協会が選定。

「日本二百名山」、昭和59年(1984年)に深田クラブが「日本三百名山」から抜粋して選定。

「日本三百名山」、昭和53年(1978年)に日本山岳会が選定。

「重要文化的景観」、平成26年(2014年)より令和3年(2021年)まで文化庁が71件を選定。

「日本遺産」、平成27年(2015年)より令和2年(2020年)まで文化庁が104件を選定。

01.日本三景

名称    国の指定            公園名                面積㎢   観光客数    所在地

①松島    特別名勝            県立松島自然公園         54.1  年間370万人  宮城県

②宮島    特別名勝・特別史跡  瀬戸内海国立公園         30.4  年間309万人  広島県

③天橋立  特別名勝            丹後天橋立大江山国定公園 25.0  年間267万人  京都府

小学生6年生の時、秋田県平鹿町(現在の横手市)から修学旅行で宮城県の松島に行ったのが「日本三景」との初めての出会いであった。日本人の多くの人は、「日本三景」だけは訪ねて見たいと願う人も多いと思う。「日本三景」は江戸時代の中期、林春斎(1738-1793年)によって刊行された『日本国事跡孝』に記載され、一般的に知られる名所となった。「日本三景」の存在を知ったのは、小学校生の頃に集めていた記念切手にあった。いつしか、切手のデザインで覚えた「日本三景」や「日本三名園」、「国立公園」や「国定公園」のシリーズを集め、訪ねて見たいと思う気持ちが芽生えたのである。

概略に記した内容を見てみると、宮島だけは単独の世界文化遺産となっている。令和3年現在、登録された日本の世界文化遺産は20ヶ所で、宮島は6番目の順次となった。それほど日本での存在価値が高いわけで、「日本三景」の中で抜きん出ていることに他ならない。しかし、現在の視点から考えると、海岸美だけの選定であることが時代的な乖離を感じる。

文部科学省の文化庁が、日本各地の景観を特別名勝と名勝に区別して評価している。特別名勝は景観の国宝であり、名勝は重要文化財とも言える。名勝には庭園や公園などの人工的な景観も含まれているが、富士山や十和田湖・奥入瀬のように自然景観だけで選ばれている場所も少なくない。明治31年(1898年)の「日本十二景」に三景が含まれている。

宮島は厳島神社社殿の存在が光り、特別史跡にもなっている。満潮の海に立つ鳥居は宮島の象徴でもあり、松島の五大堂、天橋立の多宝塔も貴重な添景物となっている。かつて宮島と松島には展望タワーが存在し、松島には発電所の3本の煙突が立っていた。見苦しい景観であり、添景物には成り得ないと思っていた所、いつの日なくなっていた。宮島タワーが残っていれば、世界文化遺産に認定れたかどうか疑わしいものである。

公園の種別については、国立公園・国定公園・都道府県立自然公園に分類されるけれど、天橋立が若狭湾国定公園から分別され丹後天橋立大江山国定公園に変わっていた。しかし、松島が開発規制の緩やかな県立自然公園に甘んじていることが不可解であるが、指定公園の判断基準が曖昧で普遍性がないのが問題である。

面積に関しては、宮島は島全体の面積で、松島は県立自然公園の指定面積である。天橋立に関しては、小天橋・大天橋と傘松公園の面積で、国定公園に指定された範囲となる。面積の比較はあまり意味をなさないと思われるが、大雑把に捉えるには欠かせないと思う。

少年の日の憧れが実を結び、「日本三景」を心に捉えたのは最近のことである。特別な思い出で訪ねたのが日本三景であるけれど、その規模や共通点を探り、比較してみることが大切と思う。芭蕉さんが憧れた松島の月、世界遺産となった安芸の宮島、股覗きが定番となっている天橋立。この景観を分析しながら私的な感想を述べたい。

松島  平成21年11月28日  双観山より撮影

宮島大鳥居  平成25年11月24日  西松原より撮影

天橋立  平成19年8月12日  傘松公園より撮影

①松島  (訪問回数6回)

松島は宮城県の松島湾にあって、松島県立自然公園に位置する。古より文人墨客の憧れであった松島には、多くの著名人が訪ねている。歌聖と呼ばれた西行法師(1118-1190年)、松島の瑞巌寺を建立して現在の礎を造った伊達政宗(1567-1636年)、そして、俳聖・松尾芭蕉(1644-1694年)である。芭蕉さんは『おくのほそ道』の旅で、「松島は扶桑第一の好風にして、およそ洞庭・西湖を恥ぢず。」と述べている。松島は日本一の景観であり、唐土(中国)の洞庭湖や西湖に劣るものではないと絶賛している。地質的には、第三紀層の凝灰岩・砂岩・礫岩から成り、塩竈から奥松島まで230余島の小島が点在する。中でも松島の中心部である松島海岸には、橋が架けられた五大島・福浦島・雄島は徒歩で渡れる島となっている。一般的な島の定義は、周囲100m以上とされるので、五大堂が建つ五大島は島ではなく、岩礁となってしまう。しかし、岩礁には植物が生殖していないイメージがあり、松の茂る五大島は岩礁には見えない。「日本三景」に共通している言えることは、いずれも一宮が存在し、古刹が存在することである。松島には塩竈も含まれるので、陸奥国一宮の塩竈神社があり、天橋立には丹後国一宮の籠神社がある。そして、宮島には世界文化遺産の社殿を有する備後国一宮の厳島神社がある。古刹に関しては、松島には瑞巌寺と円通院、天橋立には智恩寺と成相寺、宮島に大願寺と大聖院があり、三景は古社や古刹の参詣の名所でもある。松島の瑞巌寺は、平安時代初期に慈覚大師円仁(794-864年)によって開基された天台宗の古刹であったが、伊達政宗が桃山時代に臨済宗に改め再興した。その時の本堂(旧大方丈)と庫裏が国宝となって、約400年前の桃山文化を現在に伝えている。

松島は何と言っても遊覧船に乗り、展望台に上らなければ、その魅力は満喫できない。松島の遊覧船は、塩竈から松島海岸に向かうルート、松島海岸から島々をめぐるルート、奥松島の嵯峨渓を遊覧するルートとある。松島の展望台は「松島四大観」に尽きるだろう。七ヶ浜町の多聞山、松島町の扇谷と富山、東松島市の大高森である。松島海岸に近い場所にある富山観音があるが、「松島四大観」では最高の眺望であり、ここに尽きると思った。絶賛する眺望には貴賓も訪ねているもので、富山観音の展望所には明治・大正両天皇の足跡が記されていた。名数では、昭和2年(1927年)の「日本百景」、昭和41年(1966年)の「新日本旅行地100」、平成21年(2009年)の「日本の地質百選」に選ばれている。

個人的には、松島には過去6回ほど訪ね、松島のホテルや旅館には泊まった。一番気に入ったのが、「松島城グランドホテル」であった。廃業して久しいが、大正時代に建てられた3階建ての木造旅館で、その天守閣に泊まった思い出は心の宝物になっている。

芭蕉さんは「松島の月」を見たいと、江戸深川から『おくのほそ道』の旅に発ったのである。江戸を出発して43日後に松島に到着している。あいぬくの曇り空で「松島の月」は見られなかったようであり、また、感動のあまり発句を詠めなかったエピソードもある。そこで芭蕉さんは、同行した弟子の河合曽良(1649-1710年)の句を採録している。松と鶴、松島には鶴がいなくては絵にならないと、曾良は日本人の古典的な風流を詠んだ。

「松島や  鶴に身を借れ  ほととぎす」河合曽良

②宮島  (訪問回数3回)

宮島は広島県廿日市市にあって、瀬戸内海国立公園の広島湾西端に位置し、面積30.2㎢の花崗岩で構成された島である。昔から神域として保護されたため、原生林と暖地性温暖標準林に包まれている。宮島の最高峰は標高535mの弥山で、山頂の眺望は初代内閣総理大臣・伊藤博文(1841-1909年)をして「日本三景の1つの真価は弥山山頂からの眺望に有り」と言わしめたほどの景観であり、奇岩奇石がその要と言えよう。宮島は何処を見ても絵になる景色ばかり続き、五重塔や多宝塔も見逃せない。厳島神社の圧倒的な知名度に押され、真言宗御室派の大本山・大聖院の存在が霞んでいるようだ。琵琶湖の竹生島のように、神社と寺院のバランスが拮抗していれば良いが宮島はそうでもなさそうである。厳島神社の9棟の建物が国宝に指定されているが、本殿や拝殿、幣殿や祓殿、東西回廊である。摂社の客人神社の社殿もそうで、平清盛(1118-1181年)が平安時代末期の仁治2年 (1241年)に建立して以来、台風や地震に壊されながらも復旧修復が成されて守られている。

瀬戸内海の海路を押さえることが大和政権や藤原政権の責務であったが、遣唐使船を中止してから唐国との交易も絶たれた。その後、瀬戸内海が宋国との貿易上の重要性を考え、清盛みずからが陣頭指揮し、音戸の切戸を開き海賊とも誼を通じたとされる。その折、清盛が篤く崇拝したのが厳島神社であり、宋貿易で得た利益を寄進している。時の権力者が心血を注いだ神社仏閣や城郭の遺構は、世界文化遺産の評価を受けている例が多い。名数では、昭和41年(1966年)の「新日本旅行地100選」、昭和61年(1986年)の「新日本百景」、昭和62年(1987年)の「新日本観光地100選」、昭和62年(1987年)の「日本の白砂青松百選」、平成21年(2009年)の「平成百景」、平成13年(2001年)の「かおり風景100選」に厳島神社潮のかおり、平成14年(2002年)の「日本遺産・百選」に厳島神社が選ばれている。

宮島を初めて訪問したのは平成22年(2010年)の3月の下旬で、老後の楽しみにと訪問を控えていた宮島である。九州地区の「日本百名山」に車で向かう途中であったので、丁度良いチャンスであった。宮島の老舗旅館「岩惣」に泊まって、世界文化遺産にも選ばれた宮島を満喫した。宮島口に車を停めて約1.8km離れた島までフェリーで渡ったが、乗船料が片道170円とその安さに驚いた。宮島に近づいてまず目にするのが、厳島神社の赤い大鳥居であり、添景物としての存在感は宮島随一である。上陸して真っ先に向かったのが、厳島神社の社殿である。国宝の指定は棟ごとに指定されるもので、斑鳩の法隆寺のように20棟にも及ぶ寺院もある。宮島に来たならば、弥山を登拝しないで宮島は語れない。紅葉谷からロープウェイを乗り継ぎ、山頂までは約1時間である。空海大師(774-835年)が開いた霊場であり、登山道に弥山本堂があって不滅の法灯が灯っている。2回目の訪問は平成25年(2013年)の11月の下旬で、紅葉見物の際は、ロープウェイを利用せずに登下山したが、単にロープウェイの順番待ちが嫌だった。3回目の訪問では雪景色の宮島を眺めたようと思ったが思いは叶わなかった。平清盛と並び太政大臣になった豊臣秀吉(1537-1598年)も宮島を訪ねて歌会を催している。その時の和歌からは天下人となった秀吉の姿が浮かぶ。

「ききしより  眺めてあかぬ  厳島  見せばやと思う  雲の上人」豊臣秀吉

②天橋立  (訪問回数3回)

天橋立は京都府宮津市の北部に位置し、若狭湾国定公園となっている。宮津湾と阿蘇海の間に南北約3㎞も伸びた砂嘴(砂州)で、幅は最大で110m、最小で37mの白砂青松が美しい。北側を大天橋、南側を小天橋といい、大天橋と小天橋とは回転式の廻旋橋で結ばれている。遊覧船が航行する際、橋は水路と水平に向きを変え歩行者は通行止めとなる。小天橋には「切戸の文殊」で知られ、古刹の1つ智恩寺があって、大天橋の先には丹後国一宮・籠神社がある。砂嘴には「日本の名松百選」に選ばれた約5,000本の松が茂り、中間地点の遊歩道脇には「日本名水百選」で知られる磯清水が湧いている。白砂の渚は絶好の海水浴場で、夏になると多くの人々が波除ブロックのない自然な環境で海と接する。

地学的には、約4,000年前の縄文時代に丹後半島の東側の河川から流出した砂礫が海流に流され、西側の阿蘇海の海流と衝突することによってほぼ真っ直ぐに砂礫が海中に堆積して形成されたと言われる。日本にはこうして自然的に形成された細長い砂嘴は珍しく、他には北海道の野付半島に見られるだけで、天然の造形にはいつも胸が打たれる。名数では他に、昭和41年(1966年)の「新日本旅行地100選」、平成14年(2002年)の「日本遺産・百選」、平成21年(2009年)の「平成百景」、平成21年(2009年)の「日本の地質百選」、平成29年(2017年)の「日本遺産」では丹後ちりめん回廊に選ばれている。

天橋立を初めて訪ねたのは昭和49年(1966年)の6月初旬で、放浪の旅の途上であった。傘松公園から眺めただけで、天橋立の核心部を踏んでいない。2回目の訪問は平成19年(2007年)の8月中旬で、天橋立の旅館に1泊して堪能した。天橋立は平安時代から歌枕の地として知られ。室町時代には第3代将軍・足利義満は6回も「切戸の文殊」を参拝に訪れたという話を聞く。京都から約100㎞も離れた名所によくも通ったものだと感心させられる。文殊堂の文殊菩薩像は重要文化財でもあり、出羽国亀岡の文殊、大和国安倍の文殊と共に「日本三文殊」と称されている。松島瑞巌寺の堂宇と宮島厳島神社の社殿は国宝であるが、知恩寺は多宝塔のみが国の重要文化財に指定されている。いささか残念な気もするが、神社仏閣の価値で「日本三景」の存在感は左右されるものでもない。

籠神社の近くからケーブルカーとリフトが傘松公園まで設置されていて、傘松公園から天橋立を眺められる。天橋立の眺望は「天橋立三大観」が有名で、栗田峠の斜一文字、大内峠の横一文字、そして傘松公園の股覗きの3ヶ所の展望所である。

傘松公園の上には、成相寺の境内となっていて、この付近の眺望も見事であり、白木の美しさが残る五重塔が現代に蘇っていた。また、成相寺の麓には、奈良時代に建立された国分寺跡があり、風光明媚な天橋立に建てられた意図を感じる史跡である。3回目の訪問は平成26年(2014年)の10月下旬で、大内峠の横一文字を眺めた。次回は雪景色に包まれた天橋立が見たいものである。松の美しさは雪景色に映えた時であり、春の柳、秋の紅葉、冬の松は絶対に見逃せない。芭蕉さんは天橋立までは来ていないが、「一声塚」と呼ばれる句碑が建っていて、その芭蕉さんを慕った与謝蕪村(1716-1783年)も訪れていて句碑がある。

「はし立や  松は月日の  こぼれ種」与謝蕪村

02.日本三名園

名称          国の指定    築造年   築庭者     石高   面積ha  来園者数  所在地

①金沢の兼六園  特別名勝    1837年  前田斉泰  102万   11.4    250万人   石川県

②岡山の後楽園  特別名勝    1700年  池田綱政   32万   13.3     65万人   岡山県

③水戸の偕楽園  名勝・史跡  1842年  徳川斉昭   35万   12.4     22万人   茨城県

日本を代表する「日本三名園」が選ばれたのは、明治37年(1904年)に外国人向けの写真集に「日本三名園」として紹介されて一般に知られた。「日本三景」と同様に人気の高い三名数である。庭園には日本人の美意識が凝縮されていて、随分と昔に訪ねた水戸の偕楽園には梅の季節に行っただけで、雪景色を見ないと完結しない。四季折々の魅力に満ちているのが「日本三名園」の奥深さである。しかしながら岡山の後楽園に雪が積もることは少なく、1度も眺めていないので「日本三名園」とは長い付き合いになりそうである。

その「日本三名園」は江戸初期から流行り始めた「大名庭園」と称されるもので、築山池泉の回遊式の庭園を言う。徳川将軍家とその御三家が積極的に大庭園を城内や下屋敷に築庭するようになった。それに倣うように諸大名の間にも庭園の規模を競うように築庭されたのが「大名庭園」の歴史であり、国の名勝に指定されている名園が数多く存在する。

御三家の水戸藩は、偕楽園以外にも小石川の下屋敷に後楽園を造っている。尾張藩は城内の二ノ丸庭園と城外の徳川園があり、江戸屋敷には甘泉園があったが後世に清水家(御三卿)に譲渡されている。紀州藩には城内の西ノ丸庭園(紅葉谷庭園)と城外に養翠園が現存する。江戸屋敷に造られた大名庭園で、現在もほぼ原形を留めるものとしては、大和郡山藩柳沢家の六義園(文京区)、徳川将軍家浜御殿の浜離宮恩賜公園(中央区)、小田原藩大久保家の旧芝離宮恩賜庭園(港区)、盛岡藩南部家の有栖川宮記念公園(港区)等が東京都にある。

大名庭園が都市公園等に改修されて残されている例としては、高遠藩内藤家の新宿御苑(新宿区)、関宿藩久世家の清澄庭園(江東区)、熊本藩細川家の新江戸川公園(文京区)、加賀藩前田家の育徳園遺構である東京大学三四郎池(文京区)、岡山藩池田家の池田山公園 (品川区)、肥後藩細川家の戸越公園(品川区)が東京都に所在する。

地方に残る大名庭園で有名な庭園は、盛岡藩南部家の御薬園(盛岡市)、秋田藩佐竹家の如斯亭庭園(秋田市)、仙台藩伊達家の旧有備館庭園(大崎市)、庄内藩酒井家の酒井氏庭園(鶴岡市)、会津藩松平家の御薬園(会津若松市)、新発田藩溝口家の清水園(新発田市)、福井藩松平家の養浩園(福井市)、彦根藩井伊家の玄宮園(彦根市)、徳川将軍家の二条城二ノ丸庭園(京都市)、美作藩森家の衆楽園(津山市)、広島藩浅野家の縮景園(広島市)、徳島藩蜂須賀家の旧徳島城表御殿庭園(徳島市)、高松藩松平家の栗林公園(高松市)、宇和島藩伊達家の天赦園(宇和島市)、肥後藩細川家の水前寺成趣園(熊本市)、薩摩藩島津家の仙厳園(鹿児島市)がある。

「日本三名園」の共通した特徴としては、庭園面積がほぼ拮抗し江戸後期の築庭であることである。石高も35万石以上と大大名であったことも共通している。実際に「日本三名園」を訪ねてみて金沢の兼六園は抜きんでている存在に思える。仕事で石川県の野々市に3年ほど住んでいたので最も身近に感じた「日本三名園」の1つでもある。

兼六園  平成20年4月13日  撮影

後楽園  平成25年10月20日  園内から岡山城を撮影

偕楽園  平成4年3月15日  園内の好文亭を撮影

①兼六園  (訪問回数5回)

兼六園は石川県金沢市にあって、北陸の観光地としては1番にランクされる。金沢市内に車で入ると、道路の案内板には兼六園の文字が目立つ。兼六園の美しさは松の枝ぶり、池の曲線、築山や組石の配置と、どれをとっても洗練された意匠を感じる。特に徽軫(琴柱形)灯籠は、兼六園独自のもので、この石灯籠の写真を見ただけで兼六園と分かるほどでもある。兼六園は文政5年(1823年)、加賀藩12代藩主・前田斉広(1782-1824年)が金沢城の東南に築いた竹沢御屋敷がその原型である。その完成の際、老中首座を隠居して楽翁を名乗っていた松平定信(1758-1829年)に庭園の命名を依頼した所、「兼六園」と揮毫したそうである。宋の利格非が書した『洛陽名園記』から引用し、宏大、幽邃、人力、蒼古、水泉、眺望の六つを兼ねた庭と評している。実際に楽翁は兼六園を見たわけではなく、広大にすれば幽玄さが失われ、人工を多用すれば自然さが乏しくなり、池や滝を多く配置すると眺望が難しくなると、作庭の極意を授けたように思える。竹沢御屋敷は楽翁の意向にそぐわず、斉広の御殿は部屋数200室、建坪4,000坪という広大なもので、庭園を凌ぐ面積であったそうだ。その建築のため藩の財政は大いに傾き、斉広が亡くなって、その子の前田斉泰(1811-1884年)が13代藩主になると、御殿は解体されて、規模を縮小して隣地の成巽閣へ移築される。兼六園はその後、斉泰によって大幅な改築がなされ、現代の名園に生まれ変わったのである。正門から真弓坂を上ると瓢池があり、そこには夕顔亭が建ち、手水鉢の存在が目立つ。池の背後には那智滝を倣ったとされる翠滝であり、池の中島の「海石塔」と称される石塔が建っている。この石塔は豊臣秀吉(1536-1598年)が朝鮮の役の折、藩祖・前田利家(1538-1599年)に贈ったものとされるが、定説とはなっていないようだ。

兼六園を初めて訪ねたのは昭和49年(1974年)の6月上旬で、まだ庭園の知識が乏しかったので、その素晴らしは感じ取れなかった。2回目の訪問は昭和55年(1980年)の4月初旬で、会社の慰安旅行での見学であったため、慌ただしい庭園鑑賞となった。3回目の訪問は平成19年(2007年)の11月初旬で、兼六園の紅葉を眺めるのが目的であったが那谷寺の紅葉には及ばなかった。4回目の訪問は平成20年(2008年)の4月中旬で、満開の桜と庭園の隅々まで鑑賞した。庭園の中心部に霞ヶ池、池の中に蓬莱島、北の水際に徽軫灯籠があった。東の丘には近江八景の唐崎松の種子を育てた黒松、西の岸には水面に飛び出た内橋亭、その後ろには観月台、東の丘からは遠く日本海まで見渡せ、桜の咲く兼六園は最高のロケーションであった。5回目の訪問は平成21年(2009年)の1月中旬で、テレビのニュースで知られる雪吊りを見るため、冬の兼六園を訪ねた。園内には茶店が何軒かあって、そこでワンカップを買って飲んだ「雪見酒」の味わいは格別であった。風流の神髄は景観美を直視することであり、楽翁の伝えた兼六の意味も自然に近い庭園美を模索した結果であろう。

園内で最も違和感を持ったのが、山崎山入り口に建つ芭蕉さんの句碑である。芭蕉さんが金沢を訪ねた時には兼六園は存在していなかった。それなの弘化3年(1846年)に建立された句碑があるのは、芭蕉さんに対する追慕の念が金沢では深かったに違いないと思う。

「あかあかと  日は難面も  秋の風」松尾芭蕉

②後楽園  (訪問回数3回)

後楽園は岡山県岡山市にあって、築庭は岡山藩主2代藩主・池田綱政(1638-1714年)が貞亨3年(1689年)、家臣の津田永忠(1640-1707年)に命じて着工させ、元禄13年(1700年)に完成している。三名園の中では最も古く、江戸初期の造園伝統である遠州流の意匠である。庭園の命名は「天下の楽に後れて楽しむ」という意味で名付けられたそうだが、明治以前の後楽園は、「御楽園」と呼ばれていたので、綱政が命名した分けではなさそうだ。明治17年(1884年)、池田家から庭園の保存にため岡山県に譲渡されたが、領地を失った池田家では庭園の維持管理は不可能となったのであろう。他の大名庭園もそうであるが、自治体に寄贈や譲渡が行われ、明治の実業家に売却された例も多い。

後楽園では江戸時代、藩士や領民も園内に招待されて能が披露されたと聞く。5代藩主・池田斉政(1773-1833年)の頃は初午の祭礼に約6万人の領民が参観したと記録にある。ただ残念に思うことは、太平洋戦争の空襲で、岡山城の天守を含めた城郭や庭園の建物を失ったことであり、今も残されていれば国宝や国の重要文化財になっていただろう。名数では、平成14年(2002年)の「日本遺産・百選」に偕楽園とともに選ばれている。

後楽園を初めて訪ねたのは昭和50年(1975年)の12月中旬で、岡山城見物の一環でもあった。その頃は「日本三名園」へのこだわりがなく、ゆっくり鑑賞した記憶も写真もない。2回目の訪問は平成23年(2011年)の1月初旬で、36年ぶりに訪ねて目を凝らしながら庭園を眺めた。正門を入ると、茅葺き屋根の延養亭と能舞台・栄唱の間が建ち、大きな沢ノ池が正面に見えて来る。池の手前の左側には、鶴舎が建っていて戦後に中国の要人が贈られた丹頂鶴の子孫が飼育されていた。鶴舎と塀の際には、庭園には珍しい馬場が一直線に伸び、馬術や弓術を競った面影が偲ばれる。後楽園の最高の景観は、唯心山のからの眺望も悪くはないが、沢ノ池の北西に望まれる岡山城の天守閣の風景であろう。他の都市部の庭園のように、景観を損なうようなビルや鉄塔がなく、江戸時代の空間が保たれている。沢ノ池には3つの島があって、中ノ島には鳥茶屋が建ち、御野島には釣殿があり、砂利島には白砂青松の美しい眺めがある。池の南西には井田(水田)が広がり、茶畑もあって田園風景が庭園と一体となっているのが、兼六園との違いだろう。3回目の訪問は平成25年(2013年)の10月中旬で、先ずは天守閣に上り庭園を眺めた。後楽園は陸続きだと思っていたが、天守閣から庭園を眺めた時、岡山城と旭川を挟んで干拓された土地で、周りを川と堀で囲まれた中州の庭園であることが分かった。天守閣からの庭園の眺めも格別で、歴代藩主はここから庭を眺め、安らぎを求めたのだろう。庭園に戻り、花葉ノ池の周辺をめぐって延養亭の軒下に腰を下ろした。車でなければ、一杯飲みながら鑑賞でしたい気分となる。

後楽園には詩歌碑や記念碑が多くあるけれど、藩主の綱政に関する記念碑はない。ただ、作庭の総指揮を執った津田永忠(1640-1902年)の顕彰碑があったのが、せめてもの救いであった。詩歌碑では、岡山県邑久町出身の竹久夢二(1884-1707年)の「宵待草」の詩文が刻まれていた。後楽園の堀を渡った蓬莱橋の側には、「夢二郷土美術館本館」が建っている。

「まてどくらせどこぬひとを  宵待草のやるせなさ  こよいは月もでぬそさうな」夢二

③水戸の偕楽園  (訪問回数2回)

偕楽園は茨城県水戸市にあって、築庭は水戸藩で名君の1人ともされる9代藩主・徳川斉昭(1118-1190年)である。梅干しにする梅の栽培を目的に築かれたので、約100種3,000本の梅がある。名庭園にしようとした意識がなく、小さな池泉や中島が築かれたのは明治以降のことである。他の大名庭園と比較した場合、石組みや大きな池がないのが特色であるが、それは目前に広がっている千波湖を借景としたからである。好文亭の3階に上がれば、庭園を挟んで千波湖が望まれる。作庭当時の千波湖は現在の倍の広さであったと聞くので、その雄大な景観は偕楽園の最大の魅力であったと想像する。梅林の他に京都の男山から移植され竹林、中門の園路には杉林、好文亭には躑躅の大きな刈込がある。どうみても古木の松や巨石を配した大名庭園の豪華さは感じられないが、素朴で野趣的な味わいがある。

庭園の名称に「楽」の字が結構見受けられるが、庭園は楽しみとする憩い場であり、そういった意味合いからすると、偕楽園は皆(偕)が楽しむに相応しい。冒頭で紹介した庭園以外にも青森県の「瑞楽園」、山形県の「御苦楽園」、福島県の「浄楽園」、静岡県の「楽寿園」、滋賀県の「楽々園」、兵庫県の「相楽園」、福岡県の「楽水園」と、「楽」の字が多い。

偕楽園を初めて訪ねたは昭和51年(1976年)の10月中旬で、この訪問も水戸城跡の見学が最優先の目的であった。しかし、水戸城跡には城郭の遺構は城門があるだけで、国の史跡にもなっていない。落胆した後に訪ねた偕楽園には感動を覚えた思い出がある。2回目の訪問は平成4年(1992年)の3月中旬で、「梅まつり」のタイミングを狙って訪ねた。もう20年以上も前となってしまい、印象も薄れて写真の記録だけが頼みの綱である。「日本三名園」の中で最も人気が高いのが兼六園で、逆に人気のないのが偕楽園である。大都市の東京から日帰りできる距離にありながら、「梅まつり」のシーズンもそんなに混雑していなかった。観光という目的から考えると、庭園プラス城郭が他の庭園よりも劣っているからである。兼六園には金沢城が、後楽園には岡山城がマッチしているが、偕楽園と水戸城は距離も離れていて連携関係が乏しい。何よりも水戸城跡の城郭復元が皆無で、城郭としての魅力に乏しいことが理由であろう。県庁所在地で、城下町の歴史遺産を大切にしないのは、秋田県秋田市に類似している。かつての水戸は、秋田藩主となったの佐竹氏が長年支配した領地で、その間柄は観光開発にも影響しているようだ。秋田市には佐竹氏が残した国の名勝の「如斯亭庭園」があるけれど、民間に払い下げられて料亭となったため、一般人の目に触れることはなかった。その料亭が店を閉じて、秋田市に寄贈されるが、復元保存まで7年間も要している。水戸を訪ねて思うことは、「徳川御三家」の中でも異色の存在であると言える。特に水戸黄門の名で知られる徳川光圀(1628-1701年)は、晩年に「西山荘」を現在の常陸太田市に築造したが、その影響が偕楽園にも感じられる。

梅の花に誘われて歩いていると、南門とくぬぎ門の間の斜面に、正岡子規(1867-1902年)の句碑が建っていた。子規が学生の頃、友人を訪ねて水戸に来た際に詠んだ句であった。あいにく友人は不在で、偕楽園の広場で野球をしている子供のことが印象に残ったようだ。

「崖急に  梅ことごとく  斜めなり」正岡子規

03.日本三名山(三霊山)

名称    標高    国の指定  公園名              神社名    登山者数     所在地

①富士山3,776m  特別名勝 富士箱根伊豆国立公園 浅間神社   30万人    山梨・静岡県

②立山   3,003m          中部山岳国立公園      雄山神社  100万人         富山県

③白山   2,702m          白山国立公園          白山神社    5万人    石川・岐阜県

若い頃に登山に夢中になった時期があったが、1人で山に登る勇気がなく本格的な登山はここ20数年間行ってこなかった。しかし、富士山だけは一生の思い出として登ってみたいと思っていた。いきなり富士登山は無理と思い、『名数の旅』を編集していて知った「日本三名山」をクリアすることにした。立山は麓からケーブルカーと登山バスが運行されていて、所要時間もそんなにかからない。そこで最初に選んだのが立山への登山である。

日本三名山は「日本三霊山」とも言い、山全体が御神体として崇められて来た歴史あり、山岳信仰の聖地でもあった。修験道の登山や富士講の登拝などに代表される。古より日本人は、自然を崇拝して八百万の神々を創造し、山や海、古木や巨木、滝や岩などに鳥居を建てたり、注連縄を張ったりして神々と見做してに祈りを捧げて来た。自然の恵みに対する感謝の念であり、風雨順時や五穀豊穣を願う安らぎの祈りであった。

登山で常々思うことは、山頂を極めるとか征服するという言葉が嫌いで、山に登らせてもらっていると言う謙虚な気持ちしかない。山に対する思い入れの念も年々高まって行き、山のことを思わざる日は一日もない。50歳半ばで再び山とめぐり合った喜びは、初恋の女性と再会した喜びよりも大きな存在であり、とても愛おしく仕方がない。

日本三名山の中で標高や秀麗さで抜きんでているのが富士山であり、日本の山々で比較する山もないのが富士山である。一言で富士山の存在を言い表すなら、日本国の象徴は天皇であり、日本国土の象徴は富士山であることは万人の認める所であろう。日本人の富士山に対する思いは格別で、眺めてよし、登ってよしの山が富士山である。霊山の中で最も信仰を集めているのが富士山であるけれど、富士山を祀る浅間神社はバラバラに分かれていて、何処が総本宮なのか理解できない。山頂の県境はその利権めぐって山梨県 (甲斐国)と静岡県(駿河国)が争っている。神社も山梨県には笛吹市に一宮浅間神社、忍野村に忍野浅間神社、富士吉田市に北口本宮冨士浅間神社、富士河口湖町に富士御室浅間神社があり、静岡県では静岡市に静岡浅間神社(浅間新宮)、富士市に富士山本宮浅間大社がある。

白山は石川県白山市にある白山比咩神社が総本宮の役割し、立山は山麓にある雄山神社が単立の神社本社となっている。私的な解釈では、甲斐国の一宮浅間神社と駿河国の富士山本宮浅間大社を総本宮とするのが妥当と思う。富士山が世界文化遺産に登録され、富士山信仰の一元化を促進するべきなのに御神体の「木之花開耶姫命」は何人もいるようだ。

日本三名山は国立公園に属しているが、単独の指定は白山だけであり、北陸における白山の存在は抜きんでている。修験者の登拝した禅定道も残されていて、歴史の重みを感じさる山で、富士山よりも魅力を感じている登山者も多い。荒涼とした富士山頂の火山灰に覆われた山肌に比べると、白山の山頂には弥陀ヶ原があって豊かな緑と水に満ちている。

富士山  平成20年09月27日  富士山頂を撮影

立山  平成20年08月31日  室堂より山頂を撮影

白山  平成20年09月15日  阿弥陀ヶ原より山頂を撮影

①富士山  (訪問回数3回)、(登山回数2回)

富士山は静岡県と山梨県に県境に位置し、山頂には静岡県側の富士浅間大社奥宮とその末社の久須志神社祀らている。最高地点の剣ヶ峰には、旧富士山測候所が展望台のように建っている。現在は無人化されて自動観測を行っているようであるが、富士山の歴史に欠かせない建物である。山頂には剣ヶ峰を含め8ヶ所のピークがあり、廃仏毀釈前の江戸時代は「蓮華八葉」と称されて菩薩や如来の名前で呼ばれていた。山頂一帯は富士箱根伊豆国立公園の特別保護地区となっているが、その所有権は富士浅間大社にあるようだ。

富士山は火山によって出来た典型的なコニーデ形で、記録上は19回噴火して来たとされ、平安時代の延暦年間(782-805年)と江戸時代の宝永年間(1704-1710年)の大噴火が有名である。宝永の山腹噴火によって宝永山が造られ、須走村が地下に埋没した。これが富士山の最後の噴火であるが、活火山であることに変わりはなく、再度の噴火を懸念する声も多い。『理科年表』によると、富士山の地質は玄武岩とあるが、確かに黒ずんだ岩石が山頂に向かうに従って露呈する。際立った巨岩奇岩もなく、風雨によってなだらかな斜面となったようで、風穴や氷穴などの天然の造形は裾野に集中している。富士山を他の山から眺めるならば、静岡県の愛鷹山、山梨県の足和田山、神奈川県の足柄峠の3ヶ所が富士山を支える「富士三脚」と呼ばれて有名である。裾野の景勝地から眺めるとすれば、静岡県の三保の松原と大石寺の境内、山梨県の忍野八海と河口湖から眺める富士山が絶景とされる。

富士山の初めて訪ねたのは昭和59年(1984年)の5月中旬で、河口湖側5合目まで、会社の慰安旅行で訪ねたことがあった。富士山の初登頂を果たしたのは、平成20年(2008年)の9月下旬である。本格的な単独登山を始めて9座目、「日本百名山」に挑み始めて7座目の山が富士山となった。河口湖登山口から先の登山道は、全く未知なる道であり、火山灰と岩石の堆積した巨大な山肌が続く。登山客の少ない9月下旬の登山のため、山小屋のすべてが閉館されていて、持参して来た食糧と水が命を保つすべてである。日本の山々で高山病(酸素欠病)になる恐れのある山は富士山だけで、個人差もあるだろうが、標高3,200mを超えれば要注意である。携帯用の酸素ボンベを持参していたので、何度か吸っては体調を整えた。2回目の登山は平成28年(年)の9月初旬で、この時は静岡県側の富士宮口から登った。山頂附近は霧に包まれていて見晴らしが良くなかったが、前回の登山で蓮華八葉を一周した「お鉢廻り」を思い出して下山することにした。

古今東西、富士山を眺めるため、どれほどの権力者や文人墨客、僧侶や商人が東海道を往来しただろう。空海大師(774-835年)は富士登山をしたと伝承され、歌聖・西行法師(1118-1190年)、俳聖・松尾芭蕉(1644-1694年)も眺めている。西国大名の多くも東海道から富士山を眺め、参勤交代に赴いたであろう。富士山の絵画は数限りなく描かれ、詩歌も尽きぬほど詠まれている。その中でも葛飾北斎(1760-1849年)の「富嶽三十六景」が際立っているし、字余りながら西行法師の和歌にも噴火後の富士山の様子を詠んでいる。再び富士山が噴火して、美しい景観が崩壊しないことを願いたい。

「風になびく  富士の煙の  空に消えて  行方もしらぬ  わが思ひかな」西行法師

②立山  (訪問回数2回)、(登山回数1回)

立山は富山県立山町にあって、中部山岳国立公園の中央部に位置する。立山は何と言っても「黒部アルペンルート」にある山として知られ、富山県(越中国)では立山信仰によって崇められて来た霊山である。「立山権現」と称されて開かれたのは、奈良時代初めの大宝元年(701年)、越中国司の子息・佐伯有頼(生没不詳)、後の慈興上人が創建開山したとされる。立山に最も近い山麓に芦峅寺が建てられ、その手前に岩峅寺も建てられた。明治の神仏分離令によって芦峅寺は雄山神社祈願殿(摂社中宮祀)、岩峅寺は雄山神社本社(前立社檀)に改められて現在に至っている。先ずはこの2社を参拝してから立山に入るのが古式ゆかしい。

立山という山頂の山名はなく、雄山(3,003m)・別山 (2,874m)・浄土山(2,831m)という「立山三山」の総称が立山である。雄山の先にある大汝山(3,015m)が最高峰ではあるけれど、雄山の山頂には雄山神社峰本社(奥宮)があるので、立山登拝は雄山の登頂が一般的である。山頂に社務所があって、神主や巫女が夏場に常駐している。立山登山は交通規制のため、車は富山地方鉄道立山線立山駅から先には進めない。立山駅からケーブルカーと登山バスを乗り継ぎ、室堂へと到着する。ここは立山やその周辺の山々の登山基地でもあり、江戸時代の室堂(山小屋)が国の重要文化財として残されている。室堂から更に大観峰まで進み、長野県側の扇沢まで縦断するとなると、トロリーバスとロープウェイ、ケーブルカーとトロリーバスを乗り継がなければならない。その交通費は8,290円、立山駅から扇谷駅まで自家用車を回送してもらうと27,000円の費用が掛かる。「黒部アルペンルート」は誰でも気軽に行ける山ではなく、相当の出費を覚悟しなければならないのが大きな障害と言える。

立山を初めて訪ねたのは平成19年(2007年)の6月下旬で、雨の降りしきる天気であったが、大観峰から眺めた北アルプスの山々は衝撃的な山との出会いであった。翌年の8月末日には立山の初登頂を果たして、本格的な単独登山の始まりとなった。立山登山は往復5時間もあれば十分で、一ノ越までは遊歩道となっていて初心者でも気軽に登れる山である。

美女平から室堂まで登山バスが走行する区間にも素晴らしい景観が広がる。溶岩台地で高層湿原の弥陀ヶ原、ソーメン滝のある天狗平と、途中下車したて散策したい景観が続く。登山に関しては、室堂からまず浄土山に登り、一ノ越から雄山・大汝山・別山を縦走して雷鳥平を経て室堂に戻るコースが、立山を満喫する理想的な登山と言える。

雄山の山頂で入山料を支払うと、神主の御払いを受けて若い巫女からお神酒まで頂戴できる。おまけにお守りと鈴まで貰って良い記念品となった。登山後は、室堂に滾々と湧く名水百選の「玉殿の湧水」を飲み、標高が日本一高いミクリガ池温泉(2,400m)で汗を流す。室堂の一帯には、ミクリガ池の他にミドリガ池もあり、ハイマツや高山植物も育っていて、水と緑と温泉の三役が揃った山の景勝地である。ミクリガ池温泉は、「日本秘湯を守る会」の会員旅館でもあって、1度は泊まらないと気が済まない。

下山後に里宮の雄山神社を参拝して、無事の登山を感謝した。その時ふと万葉歌人の大伴家持(718-785年)が立山を眺めて詠んだ和歌を思い出し、感慨に浸った。

「立山に  降りおける雪  常なつに  見れども飽かず  神からならし」  大伴家持

③白山  (訪問回数1回)、(登山回数1回)

白山は山塊の広い山で、富山・石川・福井・岐阜に4県にまたがり、北陸における名山の象徴として君臨し、霊山の面影が残る山である。白山信仰の登拝は現在も行われ、富士山や立山と同様に山頂に奥宮があってシーズン中は白山比咩神社の神官が常駐している。

養老1年(717年)、泰澄大師(682-767年)が勅命によって白山を開山し、その後は白山修験道の霊場となった。真の意味の開山とは、登山道を造成して山岳を切り開くことであり、栃木県の日光山を開いた勝道上人(生没不詳)と比肩するのが泰澄大師であろう。あわづ温泉入口の大きな立て看板の上には、白山をバックに右手を大きく挙げた泰澄大師の像が建っていて、北陸自動車道から何度も見つめて挨拶したものである。明治時代以前は、石川県白山市の登山口である白峰が加賀国、福井県勝山市の白山神社が越前国、岐阜県郡上市の長滝白山神社が美濃国の霊山登拝の拠点があった。白山に対する信者の唯一の願いが、霊峰白山への登拝であったことは疑う余地もない。

白山は富士山・立山と同じ成層火山で、安山岩とデイサイト(石英安山岩)の地質である。南の御前峰(2,702m)、中央の大汝峰(2,684m)、北の剣ヶ峰(2,677m)は「白山三山」と称され、離れた場所にある別山(2,399m)と三ノ峰(2,128m)がある。この五峰が白山の主峰で、縦走登山が可能であるが、一般的には別当出合から砂防新道を登り、室堂を経て御前峰、剣ヶ峰を踏み、大汝峰を往復して千蛇ヶ池から室堂へ戻る周遊ルートが利用される。室島からは南竜山荘を経由するか、または黒ボコ岩から観光新道を下山するのが理想的である。

白山の登山は平成20年(2008年)9月中旬だけであるが、御前峰からの眺めは雄大で、東に御嶽山や乗鞍岳、東から北にかけては北アルプス、西には北陸平野と日本海が一望のうちに見渡せた。剣ヶ峰と大汝峰の間には、翠ヶ池や千蛇ヶ池などの火口湖が点在し、コバルトブルーの美しい色彩を放っていたのが印象深い。白山の魅力は何と言っても弥陀ヶ原と室堂平の溶岩台地に咲く高山植物であり、ハクサンコザクラ、ハクサンチドリ、ハクサンイチゲ、ハクサンフクロウなど白山で発見された固有種もあり、高山植物の宝庫の名に恥じない。特にクロユリの群生は有名で、この花を見るだけでも白山に登る価値はある。標高2,400mの室堂平の白山室堂は、赤い三角屋根のレストハウスのような大きな建物で、診療所も中にあるようだ。登山距離の長い山には、山小屋や避難小屋は必要不可欠な施設であり、白山室堂のような至れり尽くせりの施設は存在感がある。

白山と立山は、同じ北陸のつながりもあるようで地名や山名に共通点が多い。山頂近くの拠点地は室堂と呼ばれ、高層湿原は弥陀ヶ原と称される。共に別山を有していて、温泉の恵みも豊かである。立山のみくりが池温泉は高所にあるけれど、白山は登山口に白山温泉永井旅館がある。ここも「日本秘湯を守る会」の加盟旅館であるの何かの縁であろうか。

白山の名は、残雪が初夏まで残っているからであろうと思う。他の山々が青く見えても白山だけは純白の姿を残している。平安時代前期の歌人・凡河内躬恒(859?-925?年)が越中国に掾(判官)として赴く際に白山を眺めて詠んだ和歌が素晴らしい。

「消えはつる  時しなければ  越路なる  白山の名は  雪にぞありける」凡河内躬恒

04.日本三大桜名所

04.日本三大桜名所

名称          国の指定    主な桜の品種            本数        花見客数  所在地

①吉野山        名勝・史跡  ヤマザクラ・ベニシダレベニザクラ  約30,000本   40万人  奈良県

②弘前公園      史跡        ソメイヨシノ・ヤエベニシダレ       約  2,600本  230万人  青森県

③高遠城址公園  史跡        タカトウコヒガンザクラ           約  1,500本   35万人  長野県

全国各地で桜の花が咲かない場所はないほど植栽されて日本人に愛でられて来た花であり、花と言えば桜を指すほど親しみ深い。その桜の名所が数多ある中で、「日本三大桜名所」が一般に広まり定着して久しい。桜の本数だけ比較すると、吉野山は富士山と同じように抜きんでていて、日本一の桜の名所で古くから桜と言えば吉野山であった。

弘前公園と高遠城址公園は、明治以降に植栽されて現在の規模を誇っているが、吉野山は奈良時代からヤマザクラが自生していて、平安時代には広く知られるようになった。西行法師(1118-1190年)は花の歌人と言っていいほど桜の花を愛し、吉野山に草庵を結んで3年間、四季の移ろいを観察しながら風雅な生活した。

『名数に見る日本の風景』を語る時、桜の名所は除外することはできない。特に城郭と桜の関わりについては、深く心が揺り動かされた。そんな中で、「日本の桜名所100選」が良い刺激となり、100ヶ所の桜を見てみたいという気分になった。現時点ではその41ヶ所ほどしか回っていないが、城郭や城跡公園が100選に選ばれている所が28ヶ所もあり、その関わりが深い。また、神社仏閣の桜も注目するべきで、京都の醍醐寺など9ヶ所が選ばれている。吉野山は神社仏閣を点在していることが特徴であり、弘前公園と高遠城址公園は城跡である。特に弘前城には国の重要文化財である天守が建ち、絶好の撮影ポイントとなっている。吉野山は開花時期が長く、ケーブルカー吉野駅周辺の下千本、如意輪寺付近の中千本、吉野水分神社一帯の上千本、そして金峯神社の奥千本と4月の初めから約1ヶ月の桜の競演は続く。弘前公園はゴールデンウィークの頃が見ごろであったが、温暖化の影響でソメイヨシノの開花が早まり、遅咲きのベニシダレザクラが見頃となっている。

子供の頃は、身近な場所で花見を楽しんだもので、生まれた町の公園も桜の名所であった。公園の至る所に商店名や会社名を記した「ぼんぼり」が掲げられ、夜桜を楽しむ人で賑わっていた。明治から昭和の初めにかけて植えられたソメイヨシノであったが、盛時は200本近くがあったと記憶する。しかし、県道の桜並木は道路の拡幅工事のため殆どが伐採され、寿命の短いソメイヨシノは枯死して行き100本程度まで減ってしまった。花見客は皆無近く、過疎の町の雰囲気が公園にも浸透している気分を感じたものである。

衰退して行く桜の名所がある反面、花見客が衰えない桜の名所もある。弘前公園の花見客数は東日本大震災の影響で落ち込んだ年もあったが、200万人を超える賑わいは東京の上野恩賜公園と拮抗している。花見は観光の一環として見物する行楽型と、桜の木の下で酒宴を楽しむ宴会型の2つのパターンがある。最近の私的な花見の殆どは行楽型が多いが、吉野山に行った時のように、旅館やホテルに泊まってゆっくりと夜桜と朝焼けの桜を鑑賞する宿泊型が最も贅沢な花見とも言える。

吉野山  平成19年4月8日  中千本より如意輪寺を撮影

弘前城  平成24年5月4日  天守を撮影

高遠城  平成19年4月14日  桜雲橋を撮影

①吉野山  (訪問回数3回)

吉野山は奈良県中央部の吉野町にあって、尾根続きの山稜の総称で吉野熊野国立公園に属する。吉野山には白鳳時代に大海人皇子、後の天武天皇(631-686年)も一時期隠棲し、「よき人の よしのよく見て よしと言ひし よしのよく見よ よき人よく見つ」と洒落た和歌を後世に残している。奈良時代に修験道開祖の役小角行者(634-701年)が吉野山を開山し、金峯山寺を創建した当時からヤマザクラの美しい山であったようだ。ヤマザクラは神木として崇められて伐採が禁止され、吉野の桜が京の都に知られたのは平安時代になってからである。特に平安末期には、西行法師が和歌を詠み都人に伝え、源義経(1159-1189年)が兄・頼朝(1147-1199年)に追われて逃げ込み、吉野時代には後醍醐天皇(1288-1339年)が南朝を興している。吉野山の花見と言えば、豊臣秀吉(1537-1598年)が一族郎党、公家大名5,000人を引き連れて文禄3年(1594年)に行った花見であろう。その後の慶長3年(1598年)にも京都の醍醐寺でも盛大な花見を行っているので、花見をイベントとして行った最初の権力者であった。江戸時代には俳人の松尾芭蕉(1644-1694年)は2度訪ね、儒学者の頼山陽(1780-1832年)が親孝行しようと母を背負って登ったとされる。

吉野山は麓から開花し、徐々に花開いて行くため開花時期が長い。しかし、桜の女王であるソメイヨシの華やかな美しさに比べると、可憐な美しさのため注目されることは少ないが、これが桜林を成し、山の斜面に咲き誇る景観はソメイヨシノの比ではなくなって来る。平安時代から営々と続く景色であり、固唾を飲まずいられないのは誰も一緒と思う。吉野山観桜のハイライトは「一目千本」の壮観さであり、特に中千本の谷間から如意輪寺にかけての一帯が素晴らしい。奥千本の高城山の展望台から眺める桜は圧巻である。馬の背のように黒門から伸べる尾根道には、霞の雲のように桜が咲き誇っている。特に蔵王堂の大きな桧皮葺きの屋根は、雲海に浮かぶ小島のように見える。吉野杉の林が野暮ったくも見えるが、その緑地も雪化粧に包まれたように鮮やかに浮き立っている。

吉野山の初めて訪ねたのは平成2年(1990年)の4月初旬で、大阪に住む友人を誘って吉野の「旅館戎館」に投宿した。夜桜を眺め過ぎて玄関のドアが閉じられるといハプニングあったが、感動に次ぐ感動の連続に感無量となった。翌朝に眺めた朝日に輝くヤマザクラも格別で、桜の花は吉野山に尽きると思った。2回目の訪問は平成19年(2007年)の4月初旬で、当時住んでいた四日市からの日帰りの花見であった。花見に限らず、吉野山の歴史を精査する旅でもあった。松尾芭蕉も貞亨5年(1688年)、「笈の小文」の旅で吉野の花見に訪れ、西行法師の足跡を辿っている。芭蕉の弟子の各務支考(1665-1731年)が詠んだ「歌書よりも 軍書に悲し 吉野山」の句には、源義経の逃避、後醍醐天皇の末路を追憶している。3回目の平成23年(2011年)の3月初旬で、この時は吉野山の最高峰・高城山(702m)の登山が目的であった。最近になって思うことは、吉野山の葉桜も眺めたいと言う欲である。文人墨客も多く訪れている中で、文学的な歴史も政治的な歴史と表裏の関係にあると思う。西行法師は奥千本の金峯神社の近くに草庵を結んだが、その時の和歌が印象深い。

「吉野山  去年の枝折の  道かへて  まだ見ぬかたの  花をたづねむ」西行法師

②弘前公園  (訪問回数5回)

弘前公園は青森県弘前市の街中にある弘前城の公園で、かつて「鷹揚園」と呼ばれていた。弘前城は津軽藩2代藩主・津軽信牧(1586-1631年)によって、慶長16年(1611年)に築城された。5層の天守が聳え、櫓8棟が建つ城郭であったが、天守は寛永4年(1627年)の落雷で焼失して、現在の天守は文化7年(1810年)に3層に規模が縮小されて再建されたものだと聞く。10万石の居城であった弘前城跡が明治維新を経て一般に公開されたのは、明治28年(1895年)のことである。その時から桜が植栽され、今日の弘前公園が造成された。

弘前公園の桜は52種、約2,600本と言われ、ソメイヨシノが最も多く、シダレザクラがそれに続く。水濠の両岸や石垣の上を埋め尽くす桜、真っ白な岩木山を背景に咲く桜、天守と赤い下乗橋周辺の桜と様々な美の極致が点在する。また、二の丸の与力番所と東内門の間には、樹齢139年と「日本最古のソメイヨシノ」が咲く。ソメイヨシノは交配によって人工的に作られた品種のため寿命が短く、60年から80年が一般的のようだ。樹齢1,000年にも達するエドヒガンやシダレザクラに比べると美人薄命と思ってしまう。日本最古のソメイヨシノだけではなく、日本最大の幹周りを誇るソメイヨシノが三の丸にある。シダレザクラの古木も多く、その枝振りと滝のようにしたたる花の優雅さはソメイヨシノとはひと味違う。約2,600本の桜に名前を付けて歩きたいものであるが、青森市出身の版画家・棟方志功(1903-1975年)が名付けた本丸の「御滝桜」には遠く及ばないだろう。

弘前公園を初めて訪ねたは昭和50年(1975年)の11月中旬で、一般的な名称としては弘前城公園であり、「城」の一字が掛けているのがもどかしく思ったものである。あの頃の私は桜の名所であることは意識になく、ただ「城郭めぐり」の旅の一環として訪ねたのであった。寺社や城郭の古建築と庭園の見物に青春のエネルギーが注がれた。桜なら何処で見ても一緒だと思う幼稚な面があった。弘前公園を桜の名所と意識したのは、「みちのく三大桜名所」と評価されてからである。秋田県の角館檜内川堤と岩手県の北上展勝地公園と共に選定されているが、弘前の桜を見た人の感想を聞くと、角館や北上の比ではないと言う。そんな評判を聞き、初めて弘前公園の桜を見物したのは、平成7年(1995年)の5月初旬であった。弘前公園の人気の高さは桜の美しさばかりではなく、屋台店や露店、見世物小屋や遊戯屋店の多さである。おそらく日本一の出店であり、夜店であろう。「大曲花火大会」の出店も多いが、飲食物の販売が主なので情緒の残る見世物小屋には及ばない。

弘前公園のもう1つの特徴としては、公園の周辺に武家屋敷などの古い建物が残っていること、津軽藩ねぷた村や博物館などの観光施設があることもあげられる。平成8年(1996年)の2月下旬には、弘前公園の雪景色が見たくて訪ねた。平成14年(2002年)の11月初旬には1ヶ月間ほど仕事で弘前に滞在し、久々に城を訪ねた。5回目の訪問は平成24年(2012年)の5月初旬であったが、開花時期が早まりソメイヨシノは散り始めていた。弘前からは多くの文化人が生まれ育っているが、その代表が小説家の石坂洋次郎(1900-1986年)で、その文学碑が弘前りんご公園に建っている。「物も乏しいが空は青く雲は白く、林檎は赤く、女達は美しい國、それが津軽だ。私の日はそこで過ごされ、私の夢はそこで育くまれた。」 

③高遠城址公園  (訪問回数1回)

高遠城址公園は長野市伊那市の東部、南アルプスと伊那山地に挟まれた山間部の高遠町にある。高遠城はNHKの大河ドラマで御馴染みの山本勘介(1493?-1561?年)が築城を指揮したとされ、江戸時代中期から末期までは高遠藩内藤家35,000石の居城であった。明治4年(1871年)の廃藩置県で城郭は壊されて荒地となったそうだが、旧藩士たちが城跡に桜を植樹して公園として整備したようだ。城跡を埋め尽くす桜は、殆どがタカトウコヒガンザクラという固有品種でピンク色が濃いのが特徴である。旧藩士たちが植えた100年以上の古木20本、50年以上500本、30年以上300本、若木680本と約1,500本がバランスよく植栽されていると聞く。二の丸跡から本丸跡に架かる桜雲橋付近の桜が最も美しく、弘前公園の下乗橋から眺めた天守が脳裏を過り、その景観と重複するように感じられる。

高遠城址公園では城郭の遺構が少なく、売却された後に出戻りした城門に限られてしまう。昭和初期に集会所として建てられた「高遠閣」が城郭風の木造2階建てで、多少は救われた思いがする。全国各地の城郭を訪ねて思うことは、観光も含めて後世に残すために城郭の復元をしている自治体を評価したい。那覇市の首里城は、日本政府が戦後の償いの一環として復元したもので、新しい建築物でも世界文化遺産に登録されるわけだから、城郭の復元は観光立国を目指す日本には不可欠な投資と言える。

高遠城址公園の花見をしたのは平成19年(2007年)の4月中旬で、三重県の四日市に仕事で赴任し、2年目の春が訪れた頃である。吉野山と弘前公園の桜を見て来て、「日本三大桜名所」の1つ高遠城址公園の桜を見ないことには旅の人生は終わらない思った。全く想像ができない高遠城址公園であったため、訪ねる当日まで高遠に関する知識はなかった。天守や櫓などの城郭の建物が残っていれば、遠い昔に訪ねたことであったろうが、桜の名所以外に何もないことを知っていて敬遠していた。渋滞が著しい高遠の町に入って、先ず車を出やすい場所に停めることを第一に考えた。車には常時、折畳みの自転車を車に積んでいるので、有名な観光地では郊外に車を停めて自転車で入るのがベストと思っている。頻繁に行く京都などは、中心部に車で入ることは殆どなく自転車で自由自在に走るのである。

弘前公園もそうであるが、シーズン限定で上空からヘリコプターで遊覧するサービスもあり人気のようだ。北海道函館の五稜郭公園の桜を五稜郭タワーの上空から眺めた時の感動的だったため、高遠城址公園の花雲も眼下に見つめてみたいものである。公園の近くには、藩校・進徳館の建物が残っていて、全国でも藩校の建物が残っているのは数えるほどである。また、歴史博物館の敷地には、絵島囲み屋敷が復元されて建っていた。絵島(1681-1741年)は正徳2年(1714年)、「絵島生島事件」で大奥の御年寄(お局)の座を追われ、高遠藩に預かりの身となった。歌舞伎役者と密会して江戸城の門限に遅れたことが原因とされるが、血なまぐさい権力争いの匂いを感じる。昭和以降に高遠を訪ねた俳人の句碑が何基か城跡に建てられていた。種田山頭火(1882-1940年)、荻原井泉水(1884-1976年)、河東碧梧(1873-1937年)と、その中で高遠の桜を詠んだのは自由律句の荻原井泉水であった。

「花を花に来て  花の中に坐り」 荻原井泉水

05.日本三古都

都市名  面積    人口     世界遺産  国宝建築物  史跡・名勝  観光客数      所在地

①京都市  827㎢  146万人  17ヶ所    27ヶ所    84ヶ所   年間5,162万人  京都府

②奈良市  276㎢   36万人   8ヶ所    15ヶ所    30ヶ所   年間1,332万人   奈良県

③鎌倉市   39㎢   17万人  申請予定    1ヶ所    32ヶ所   年間2,308万人 神奈川県

江戸時代に「三都」と言えば、京・大阪・江戸をさし、「三大都市」と言えば、東京・大阪・名古屋となっている。都市人口の順位からすると、市制ではない東京を除くと横浜市・大阪市・名古屋市となる。それとは別に「日本三古都」という名数があり、万人に認める三選であろう。人口の変遷に伴い、「三大都市」は入れ替わる可能性があるけれど、「日本三古都」は不滅に近い。松尾芭蕉(1644-1694年)の言う不変なるものと、絶えず変わって行くものを吸収する「不易流行」の言葉が当てはまるのも、都市の歴史と未来であろう。

京都は日本一の観光地であり、奈良から遷都した天皇家が1075年間の長きに亘って君臨した都である。奈良は天皇家が飛鳥から遷都して長岡京へ遷都するまでの90年間の都であり、聖武天皇(701-756年)は国分寺を諸国に創建して日本を仏教国へと邁進させた。鎌倉は源頼朝(1147-1199年)によって関東に造営された武士の都であり、征夷大将軍となって幕府を開いてから北条氏の滅亡まで141年間続いた。

面積や人口を比較しても京都が三古都でも抜きんでているが、単純に市の面積から人口を割ると、鎌倉が最も人口密度が少ない。それは山間部が多いこともあるだろうが、大都市の東京の首都圏にありながらも、その歴史的風致が保たれていることに他ならない。その風致を守り続けることが、永遠に課せられた三古都の未来であろう。

東京に遊学していた頃、真っ先に訪ねたのが鎌倉であり、志望校の進学を断念してアルバイト旅行に向かったのが京都であった。京都の主要な神社仏閣の拝観を終え、長野県のスキー場にアルバイトで向かう途中で1週間ほど旅したのが奈良である。青春時代の旅は全国の城郭や寺社、スキー場と海水浴場をめぐるのが最大の目標であった。

古希に近い歳となって三古都を思う時、まだ見ぬ風景が目に浮かぶ。京都は「日本三大祭」の祇園祭、奈良は「日本三大勅祭」の春日祭、鎌倉は「日本三大流鏑馬」の鶴岡八幡宮と祭りである。また、京都は「日本の桜名所100選」の仁和寺の御室桜、奈良は「日本の桜名所100選」の奈良公園、鎌倉は瑞泉寺庭園の雪景色と目標は高まるばかりだ。

鎌倉はまだ世界文化遺産に登録されていないが、それは時間の問題だと思うが、ただ1つ残念に思うことは、鎌倉の大仏が創建当時のような堂宇を再建して欲しいと思うことである。創建当時の姿に戻すことが自然な形であり、雨ざらしのままの姿は忍びない。

奈良に関しては、世界遺産の法隆寺が隣接する斑鳩町にあるけれど、市町村の壁があるようで、この寺の評価が停滞している。もう宗教色は影をひそめ、観光寺院としての存在感だけで、奈良市と合併して世界的なニーズに応えるならば、奈良市は京都に迫る観光地となるだろう。奈良市は現在のままでなく、周辺の奈良文化を統合する義務があると思う。また、奈良には京都のような派手な祭りがなく、おもてなし文化がないのも原因であろう。

渡月橋と比叡山  令和3年11月3日  撮影

JR奈良駅  平成29年6月3日  撮影

鎌倉大仏  平成22年4月3日  高徳院にて撮影

①京都  (訪問回数12回)

初めて京都を訪ねたのは、昭和48年(1973年)の21歳の夏であった。到着して早速、駅前のホテルの皿洗いのアルバイトを得て仕事と寝場所と食事の「生活3点セット」を確保した。皿洗いの仕事は、日中の休憩時間が午前10時から午後4時までと長く、ホテルの自転車を借りて天気の良い日は毎日のように東西南北の京都洛内を訪ねて回った。その後も京都には何度となく訪ね、殆どの神社仏閣を参拝し名所史跡も見物した。

京都は観光の範囲が広く、1日2日で回れる街ではない。最低でも5泊は要するし、宿もホテル、和風旅館、ユースホステル、民宿、宿坊と訪問先に合わせて選ぶことがベストだと思う。有名な京料理の老舗旅館は、一見さんお断りの宿も多く、「京の宿  炭屋俵屋  柊屋泊まることなど  夢のまた夢」と詠んだことがあった。

京都の最大の魅力は寺社めぐりであり、寺院に関しては、13宗56派の総本山や大本山の半数近くが京都に集中している。神社に関しても平安時代から格式の高かった22社の内、11社が京都にある。京都は千年の歴史と共に比較の対称がないほど文化遺産が豊である。

そんな京都の観光コースは様々なバリエーションがあり、初めて京都を訪ねるのであれば、定期観光バスでめぐるのが手っ取り早く、無駄な往来が少ない。京都駅周辺では、浄土真宗の総本山である東西の両本願寺、真言宗の総本山・東寺(教王護国寺)は必見であり、穴場としては東本願寺が所有する渉成園(枳殻邸庭園)がある。東山方面は京都国立博物館と三十三間堂(蓮華王院)、妙法院の庫裏を見てから清水寺に向かうのが良い。

清水寺は京都を代表する寺院の1つで、舞台造りの本堂は最高級の国宝建築である。清水寺から丸山公園まで歩くルートは、京都ならではの景観が続く最高の散策路である。丸山公園は桜の名所でもあるが、春の京都は何処へ行っても桜が咲いているので混雑する場所よりも小さな寺に咲く桜も味わい深い。八坂神社と浄土宗の総本山・知恩院を参拝し、青蓮院を経て南禅寺に進むのが理想的である。南禅寺は京都で唯一、山門に上れる寺であり、見上げるのも境内や街並みを見下げるのも楽しいものである。

南禅寺から先は哲学の小道を歩き、銀閣寺へと行くのが一般的であり、紅葉の美しい永観堂に立ち寄り、拝観謝絶の法然院を覗き見る観光客の姿もある。銀閣寺の境内は国の特別史跡で、庭園は特別名勝となっている。この2冠を得ている寺院は、全国で他に金閣寺と醍醐寺三宝院だけあり、京都がすべて独占している。また、国宝建築物を有するのは銀閣寺と三宝院だけで、金閣寺ほど人気はないものの、名前のようないぶし銀の存在である。

京都に来たなら京都御所を訪ねないと、京都の歴史と風土は理解できない。春と秋の一般公開に合わせて旅行するのが理想的だ。宮内庁が管轄している歴史遺産の公開は閉鎖的で、その価値を左右する文化庁の指定を一切受けていない。日本最大の名園である修学院離宮と桂離宮は予約制で、国際都市でありながら残念なスタンスである。

街の中心部には、御所に対峙するように1㎞離れた南西に周囲を水濠に囲まれた二条城が建っている。江戸幕府が京都の拠点として造営したもので、建物は国宝、庭園は特別名勝であり、天守が焼失したため城郭のイメージよりも御殿の絢爛豪華さが目を引く。

京都で誰もが訪れるのは、金閣寺と龍安寺であろうが、金閣寺は雪景色が格別に美しく、龍安寺は真夏の石庭に響く蝉の声が何とも言えない。龍安寺の近くには、室町幕府を開いた足利将軍家の菩提寺・等持院があり、室町幕府235年の歴史を振り向く教科書でもある。

等持院の西の御室には真言宗御室派の総本山・仁和寺があり、南の花園には臨済宗の大本山・妙心寺がある。妙心寺は臨済宗14大本山の中では最大の末寺をかかえ、広大な境内には47ヶ寺の塔頭が林立する。等持院の東には桜の名所・平野神社と梅の名所・北野天満宮があり、この洛西をめぐるだけでも1日を要する。

洛北は観光の範囲が広く、歩いてめぐるのは不可能であるけれど、電車やバス、タクシーを駆使すれば1日で回れるだろう。名勝庭園が数多くある紫野の臨済宗大本山・大徳寺、社家の町並みが残る上賀茂神社、樹木の豊かな鞍馬寺の木の根道を踏んで貴船神社まで歩くハイキングコースは歴史の流れが感じられる格別の味わいがある。

洛北があれば次は洛南で、京都駅を挟んで宇治市までの南方面の地域が該当する。この地域も範囲が広く、臨済宗の大本山の東福寺、天皇家の菩提寺である泉涌寺、修験道と桜の名所である醍醐寺、江戸時代に開基された禅宗の万福寺などの総本山が目白押しである。神社では全国で最も信仰の篤いお稲荷さんを祀る伏見稲荷大社と城南宮がある。

洛外では京都を訪れる観光客が最も多い嵐山と嵯峨野であり、山々と清流、その景観にマッチしたような神社仏閣の建物が添景となっている。嵐山は桜と紅葉、月の名所であり、月渡橋から眺める景色は値千金の名に恥じない。名勝庭園で有名な天龍寺も嵐山にある。嵯峨野は大覚寺を始めとして大小様々な寺院が林立し、茅葺屋根の残る鳥居本の集落は市内の景観と次元を異にする。嵐山と嵯峨野を見ないで、本当の京都の魅力は見えて来ない。嵐山の渡月橋から桂川は、大堰川に名を変え更に上流は保津川へと名を変える。その渓谷美は保津峡と称されて、自然景観では京都市随一である。嵐山からトロッコ列車で亀山に向かい、亀山からは豪快な保津川下りの船で嵐山に戻るのが理想的なコースと言える。

嵯峨野から清滝川の上流へと進むと、紅葉の名所で三尾と呼ばれる神護寺・西明寺・高山寺の古刹がある。また、清滝から愛宕山に登り、愛宕神社を参拝して京都の町並みを一望するのも穴場である。嵐山の南には、梅宮大社や松尾大社の古社があり、観光客が多くて予約制となってしまった苔寺(西芳寺)、以前から予約制の続く桂離宮も庭園が美しい。

洛外で人気が高いのは大原であり、歌謡曲に歌われてから観光客が多く訪れるようになった。大原には三千院と寂光院が観光の対象となっているが、その参道には茅葺きの民家が点在し、日本の原風景を発見するのが大原の最大の魅力である。

洛外で最も存在感の高い寺院が、天台宗の総本山・比叡山延暦寺である。境内の広さは京都随一で、滋賀県大津市の境内を含めると徒歩で回れるものではない。市内から眺める比叡山は、雄大な山並みで遷都されて間もなく、最澄(767-822年)に開山された。多くの名僧を輩出し、京都の寺院の多くは天台宗に端を発している。京都を詠んだ詩歌では、吉井勇(1886-1960年)が祇園で詠んだ歌が有名で、この1首で文化勲章をもらったと言われる。

「かにかくに  祇園は恋し  寝るときも  枕の下を  水のながるる」 吉井勇

②奈良  (訪問回数6回)

奈良と京都を比較した場合、京都とは雰囲気が異なり、街並みも異なる。仏教発祥の地奈良には大寺院も多く存在し、仏教伝来以前から崇められて来た大社もある。しかし、大きな違いは奈良には庭園が少なく、江戸時代の町家の建物も極めて少ない。京文化が奈良まで波及しなかった事例であり、京都に対する奈良の歴史的な優位性やプライドを感じる。

奈良市の面積は京都市の1/3で、人口は1/4である。人口密度は京都よりも緩やかで、住みやすい街なのかも知れない。市街地はそれほど広くなく、奈良駅から数㎞歩くだけで、田畑の広がる田園風景を目にすることができ、奈良公園には小高い山が連なっていて、春日大社の神域として樹木の伐採が行われなかった春日山は原生林が茂る別世界である。

奈良市内の観光地のスポットは、興福寺や東大寺、春日大社の伽藍や社殿が林立する奈良公園周辺に尽きるだろう。奈良公園は市街地の東に位置し、東西約4㎞、南北約2㎞、面積は525haと史跡公園としては広大な公園である。公園の一帯には1,200頭を超える鹿が生息し、公園のシンボルとなっている。鹿は春日大社では神の使いとされ、殺傷を禁じた仏教の教えも加わって大切に保護されたようだ。宮城県の金華山や広島県の宮島にも鹿が多いが、いずれも500頭前後であり、奈良公園はその倍の頭数である。

JR奈良駅は寺院風の奈良らしい駅舎で、そこから奈良公園へ興福寺の七堂伽藍が見えて来る。平安時代から室町時代までは延暦寺と共に何千人もの僧兵を抱え、奈良に君臨した古刹である。国宝建築4棟、国宝仏像17体の文化財があり、国宝の三重塔と五重塔が一緒に建っている寺院は他にはなく、東大寺よりも地味な存在に見えるのが残念である。

道路を挟んだ右側には、猿沢池や荒池などが点在し、正面には原生林に覆われた春日山と芝生の包まれた若草山が対称的な景観を呈している。荒池の畔にある奈良ホテルは、貴賓に満ちた建物で、1度は泊まってみたい衝動に駆られる。奈良公園を訪ねる観光客の多くは、奈良の大仏で知られる東大寺大仏殿へと向かう。途中の奈良国立博物館に立ち寄って欲しいものであるが、この博物館が企画展以外で混雑した様子を見たことがない。

東大寺をめぐって思うことは大仏殿や一部の堂宇を除き、境内を囲む塀やフェンスが無いことである。境内が広過ぎるためか、それをとも塀を造る必要性が無くなったのか、いずれにしても開放感に満ち、閉門を気にする必要性がない。東大寺の大仏殿は、日本最大級の木造建築であるが、聖武天皇(701-756年)が創建した当時の大きさは現在の1.3倍であったと言われる。堂内に鎮座する大仏(毘盧遮那仏)は、最古最大の銅像であり、誰もがその大きさに驚く。そんなにも文明が発達していなかった奈良時代、どんでもない仏像と建物を造ったものだと感心する。東大寺は諸国68ヶ国に創建されたの国分寺の総本山であり、創建当時の伽藍配置上に金堂(本堂)が再建されたのは東大寺だけである。

奈良公園で興福寺や東大寺と肩を並べるのが春日大社で、春日造りの社殿は煌びやかな朱塗りで古来の建築様式である。江戸時代の再建であるが、国宝にも指定されて荘厳さに満ちている。春日大社からささやきの小道を歩き、志賀直哉旧居、新薬師寺、白毫寺と進むコースが理想的である。その前に若草山に登って奈良盆地を眺めるのも良いし、春日山の原生林に踏み入り有りのままの自然に触れるのも良いだろう。

市内の北には、佐紀路、佐保路と呼ばれる地域があり、小さな寺や古墳が点在する。その中で一番目を引くのが佐保路の手前にある平城宮跡で、一面野原の広大さに驚いてしまう。何度か訪ねているうちに大極殿が復元され、整備事業が進んでいるようだ。花の寺として知られる法華寺は、諸国国分尼寺の総本山として東大寺と役割を二分していた。佐保路西端の秋篠寺には、美しい伎芸天立像があり、その慈愛に満ちた表情が忘れられない。

秋篠寺から南へ少し進むと西ノ京で、奈良公園に次いで観光客が多く訪ねる所だ。西大寺、唐招堤寺、薬師寺と大寺院が点在する。西大寺は真言律宗、唐招堤寺は律宗の総本山であり、薬師寺は法相宗の大本山である。京都の寺院とは異なった奈良時代の仏教様式が色濃く残っている。特に薬師寺の三重塔の美しさは、周辺の田園風景と溶け合って独自の雰囲気を放っている。田園が宅地化されないことを痛切に願う場所でもある。

奈良市は奈良盆地の北に位置し、南へ向かうと大和郡山市と斑鳩町が隣接している。平成の大合併で奈良市には月ヶ瀬村と都祁村が編入されたが、肝心な大和郡山市と斑鳩町が奈良市と一体とならなかったのが残念である。行政の壁を超えた観光開発の連携は不可能に近く、奈良市が京都に比肩する観光地になるためには飛び地でもいいから斑鳩町と明日香村を編入し、観光開発の新たな構築を図るべきだと思う。

斑鳩町には現存する日本最古の寺・法隆寺があり、「法隆寺地域の仏教建造物」として日本の世界文化遺産の第1号となった。西院の金堂と廻廊は日本最古の木造建築物で、文武4年(700年)の建立されている。約1300年も経ている訳であり、奇跡に近いと思われる。西院では五重塔・中門・綱封蔵・食堂・東大門が、東院では夢殿が奈良時代の建築で国宝に指定されている。奈良時代以降の建築ではあるが、他に11ヶ所の堂宇が国宝である。仏像に関しては106体が国宝であり、斑鳩町が奈良市と合併するだけで、国宝の建築物と国宝の仏像に関しては、京都市を逆転する。いかに法隆寺の文化遺産が絶大であるかが知れる。斑鳩町から再び奈良市内に戻り、市街地の古刹も訪ねると良い。市役所付近には興福寺と肩を並べた元興寺があった場所で、元興寺極楽坊の本堂と禅室、十輪院の本堂が国宝としてその面影を残している。観光客が奈良に宿泊しないこともあって、静寂とした夜も良い。

京文化の源は奈良であり、奈良文化の源は百済国であり、その百済文化の源は隋国であった。現在の中国でも朝鮮でもなく、当時の日本人が率直な気持ちで、その文化を受け入れた訳である。明治維新の西洋文化の影響や太平洋戦争後のアメリカ文化への同調と変わりはない。そんな日本に千年以上も前に漢字を教えたとか、仏教を教えたとか恩着せがましく言う隣国に哀れを感じる。遣唐使船も平安時代の中期には、菅原道真(845-903年)の進言によって廃止され、朝鮮との交流は元国に加わり日本を攻めた時点で崩壊している。

奈良を旅していると、奈良時代の日本人が大陸の影響を受けながらも独自の文化を模索した様子が推察できる。それは和歌という独自の叙情詩『万葉集』を編纂したことで明らかであり、その中で奈良の風景を詠んだ小野老(生没年不詳)の和歌は不滅であろう。

「あおによし  奈良の都は  咲く花の  匂ふがごとく  今盛りなり」 小野老

③鎌倉  (訪問回数8回)

東京に住んでいた頃は、鎌倉が最も身近な古都であって四季折々に訪ねたものである。小学生の頃、秋田の実家の向かいに住んでいた幼馴染の友人が鎌倉に親戚があるとのことで遊びに行って買って来てくれた絵葉書セットに円覚寺舎利殿が入っていた。神奈川県では唯一の国宝建築で、子供ながらにその建物に魅せられ憧れの気持ちを抱いていた。

鎌倉を初めて訪ねたのは昭和47年(1972年)の18歳の春で、東京に遊学した時である。真先に向かったのは円覚寺であったのは言うまでにない。北鎌倉駅で電車を降り、『最新旅行案内7伊豆・箱根』という交通公社が出版していたガイドブックを手に鎌倉を歩き出したのである。あれから何度となく鎌倉を訪ね、著名な神社仏閣を拝観してめぐった。

鎌倉の魅力は、京都や奈良とは異なって太平洋の大海原に面している点である。13歳まで京に育った源氏の棟梁・源頼朝(1147-1199年)にとって海はかけがいのない存在であったに違いない。「いい国つくろう鎌倉幕府」と誰でも歴史の勉強で暗記したと思われるが、1192年(建久2年)に征夷大将軍に任命され頼朝は武家の頂点に立って政治を司っていく。頼朝が鎌倉を幕府としたのは、貴族化した驕れる平家の二の舞は踏むまいと、京の都と当時の街道で125里(約500㎞)も距離を置いた鎌倉を武士の都としたのである。

源氏の天下に貢献した頼朝の異母兄弟の義経(1159-1189年)と範頼(1150-1193年)は間接的に嗜虐され、源氏は3代で終焉を迎えるが、頼朝の妻の北条政子(1157-1225年)が実家の北条氏を源氏の後釜に据えたため、執権として鎌倉幕府に君臨することになる。当時の鎌倉には、栄西禅師(1141-1215年)が日本にもたらした臨済宗の寺が多く建立され、モンゴルに侵略された中国の宋から高僧が次々と来朝した。蘭渓道隆(1213-1278年)は建長寺を開山し、無学祖元(1226-1286年)は円覚寺を開創した。兀庵普寧(1197-1276年)は建長寺の第2世となっている。鎌倉に開花した禅文化は、その後の室町時代へと継承される。

鎌倉は面積が狭く、自転車や徒歩で散策するのが相応しい。電車で北鎌倉駅を降り、円覚寺・明月院・建長寺・鶴岡八幡宮とめぐり、国宝館や美術館を見学して若宮大路の段葛を踏み鎌倉駅を到着するのが一般的なコースである。鎌倉駅からは江ノ島電鉄の電車に乗って江ノ島をめぐり、帰路は七里ヶ浜・由比ヶ浜を歩くが理想的である。途中で、極楽寺・長谷寺・大仏と参拝しても何とか1日で名所旧跡は回れる。

鎌倉の人気の名所は、鶴岡八幡宮の広い境内、円覚寺と建長寺の大本山、鎌倉大仏の高徳院、稲村ヶ崎の古戦場であろう。小規模ながら隠れた名所もあって、日本で唯一硬貨や賽銭を清める銭洗弁天、作庭の第一人者で高僧の夢窓国師(1275-1351年)が手掛けた瑞泉寺庭園、紫陽花の寺で知られる明月院、巨大な十一面観音像を祀る長谷寺、建長寺から半僧坊を経て覚園寺に至るハイキングコースなど数えれば尽きない歴史の道が広がる。特に丘陵を背後に開いた都だけに「切通し」と呼ばれる開削路が点在していることが特徴である。

鎌倉で最も古い寺が行基菩薩(668-749年)の開基した杉本寺で、小さな茅葺の本堂が印象に残っている。最初に鎌倉を訪ねた頃は、明月院、円覚寺の塔頭、光触寺、明王院、浄妙寺、覚園寺、妙法寺と茅葺の堂宇が多くあったが、最近は防火上から屋根を瓦や鉄板に葺き替えられて茅葺屋根のあの懐かしさは蘇って来ない。

鎌倉幕府は約150年間、全国の武士社会を統一したが、朝廷も院政という形で変わらぬ統治権を持ち貴族社会を形成していた。公家と武家の二重構造の政治が続いたわけであるが、2度にわたる元の来攻の折は協力して防戦にあたっている。しかし、二重構造の衝突も多く、承久・正中の変などの戦いが絶えなかった。北条家の専横政治に対する反発もあって、後醍醐天皇(1288-1339年)が勅を発して挙兵すると、自然要塞とまで言われた鎌倉は同じ関東武士の反逆によって一族郎党が滅亡するのである。その後、足利尊氏(1305-1358年)によって再び新しい幕府が京に置かれると、鎌倉に関東管領が設置され古都の面影を多少なりとも保持していた。しかし、戦国時代を経て江戸時代に入ると、天領に組み入れられたものの都市としての機能を失い、貧しい農漁村へと衰退する。

鎌倉時代の最盛期は、人口が20万人に達していたとされ、その需要を満たす水の確保は鎌倉の課題であった。7つの切通しの先には谷と呼ばれる山かげの谷があり、谷七郷と称されていた。この郷から水が供給されたようであるが、慢性的な水不足は解消されなかったようである。鎌倉五名水や鎌倉十井が昔にあったようであるが、今は殆どが枯れている。

明治時代になって鉄道が敷設されると、別荘や保養所が各所に建てられ、由比ヶ浜や七里ヶ浜に海水浴場もオープンし、都心への住宅街として発展した。何よりも京都や奈良と同様に太平洋戦争でアメリカの空襲を免れたことであり、戦後に観光地として注目されるのも過去の歴史的遺産があったからに他ならない。

鎌倉には国宝や重要文化財の建築物が少なく、国宝は円覚寺舎利殿のみで、重要文化財も建長寺・光明寺・鶴岡八幡宮・荏柄天神社に存在するだけの有様である。国宝や重要文化財の多くが江戸時代の建築や再建であり、鎌倉が江戸時代に放置されたことに他ならない。円覚寺と建長寺は臨済宗の大本山で、光明寺は浄土宗の大本山であり、鶴岡八幡宮も一目置かれる大社であったため存続したと想像する。

高徳院が管理する鎌倉大仏(阿弥陀如来坐像)は、鎌倉で唯一の国宝仏像で、頼朝が奈良の大仏を見て発願したようであるが、実現しないまま落馬により急死し、妻の北条政子(1157-1225年)がその意志を実現させたのである。創建当時は奈良の大仏と同様に、大仏殿の中に安置されていたのであるが、再建されることなく野ざらしのまま今日に至っている。

奈良は僧侶や仏家の都で、京都は貴族や公家の都であったと言える。鎌倉は武士や武家の都であったがその落差が大きい。奈良も京都も世界文化遺産に登録されているが、鎌倉は候補地には上っているものの申請は行われていない。首里城が戦後の償いの意味も含めて、国が完全復元して世界文化遺産に登録されている実例もある。鎌倉も公館跡や武家屋敷跡、寺社などの史跡を復元すると、奈良や京都に肩を並べる時代は近いと思う。

鎌倉文化という言葉をあまり聞いたことがないは、武家社会にあっても京文化が鎌倉にも継続されたようだ。第3代将軍・源実朝(1192-1219年)は、歌人としても知られているが、その師は藤原定家(1162-1241年)であり、書簡による指導を受けていたとも聞く。

「大海の  磯もとどろに  よする浪  われて砕けて  裂けて散るかも」  源実朝

06.日本三名瀑

名称      国の指定  公園名               落差と幅   種別  年間観光客数  所在地

①華厳ノ滝  名勝      日光国立公園         97× 7m  直瀑     550万人     栃木県

②那智ノ滝  名勝      吉野熊野国立公園    133×13m  直瀑     170万人  和歌山県

③袋田ノ滝  名勝      奥久慈県立自然公園  120×80m  四段瀑    55万人    茨城県

日本の自然景観の中で、山岳、海岸、河川が三本柱とも言える。その1つである河川は、様々な流れの表情を呈しているが、最も美しいのが「瀑布」とも称される「滝」であろう。国土地理院の定めた定義によると、「流水が急激に落下する場所で落差が5m以上で、常時水が流れているもの」とされている。その滝の数は全国の河川に約15,000ヶ所あるとされるが、名前がついている滝は2,500ヶ所と言われる。

滝に関する有名な名数としては、「日本三名瀑」と「日本の滝百選」がある。日本三名瀑の選定の基準や年代は不明であるが、歴史的に有名な滝であったようだ。しかし、「日本三名瀑」は華厳ノ滝と那智ノ滝は定番であるが、袋田ノ滝は入れかわりがあって定説となっていない。富山県立山町の称名滝や静岡県富士宮市の白糸ノ滝などが「日本三名瀑」の1つとされる場合がある。称名滝は日本一の落差350mを誇り、国の名勝及び天然記念物に指定されている。白糸ノ滝は滝幅が200mと日本では2番目で、同じく国の名勝及び天然記念物に指定されていて、富士山に関わる世界文化遺産の一部を構成している。

実際に滝を見物してみると、称名滝の迫力は満点であるが知名度が低く、土産店や飲食店などが1軒もなく閑散としている。白糸ノ滝の方は富士山麓の道路沿いにあって、観光客が多かったが、時期的に流水量が少なく驚嘆するような眺めではなかった。その点、袋田ノ滝にはトンネルの先に観瀑台があって、四季を通じ見物できるのが良い。滝の氷瀑もカメラマンの被写体として有名で、新緑と紅葉の頃は飲食店や土産物店は賑わっている。

次に「日本の滝百選」は平成2年(1990年)に緑の文明学会が選定し、グリーンルネッサンスから単行本が刊行された。再考の余地もあるが、すっかりと定着した百選となっている。実際に訪ねた滝には、青森県の松見ノ滝のように案内板もない滝もあって重要視していない自治体もあるようだ。秋田県の茶釜ノ滝は、一般観光客には到底到れない滝である。中には奈良県の中ノ滝のようにベテラン登山者でも容易に辿れない滝もあって、「日本百名山」よりも過酷にもみえて関心が薄れてしまった。日本の滝百選には危険性が伴わい滝の選定が第一で、滝を眺めて行楽するのが日本人の滝見のイメージである。

あまり知られていないが、滝の名数には「日本三大神滝」があるが、そこには華厳ノ滝と那智ノ滝、兵庫県神戸市の布引ノ滝が選ばれている。古来より滝は、水の神様として祀れて、その代表が那智ノ滝で滝の両端に注連縄が張られている。御神体の滝の前には、飛瀧神社の赤い鳥居も建っている。華厳ノ滝と布引ノ滝には注連縄は張られて無かったが、布引ノ滝には開運福徳辨財天社が鎮座する。華厳ノ滝には、令和2年(2020年)に華厳神社が22年ぶりに滝の近くに建立されて、神滝の名に恥じない景観となった。「日本三名瀑」に関しては、全く異論のない選定であり、詳細を記したいと思う。

華厳ノ滝  平成28年5月15日  明智平より撮影

那智ノ滝  平成2年11月4日  青岸渡寺より撮影

袋田ノ滝  平成25年4月6日  観瀑台より撮影

①華厳ノ滝  (訪問回数3回)

華厳ノ滝は日光国立公園南部の日光市に位置し、中禅寺湖の湖水が南端から落下する滝である。その流れは華厳渓谷から大谷川となり、約30㎞先で鬼怒川に合流する。滝の落差は97m、滝の幅7mの直瀑で、昭和6年(1931年)に国の名勝に指定された。

日光を初めて訪ねたのが昭和51年(1976年)の秋で、22歳の時である。友人の車に便乗して、いろは坂の紅葉を見に来たのであった。車の渋滞にはまって華厳ノ滝も中禅寺湖も見ないで引き返した思い出がある。しかし、いろは坂の紅葉は噂に聞く美しさで、45年を経た現在も脳裏に浮かぶ。その後、何度となく日光を訪ねたけれど、華厳ノ滝の前の駐車場は満車状態でスルーすることが多かった。混雑する前に訪ねるのが良いと思い、平成21年(2009年)の10月中旬、午前8時頃に華厳ノ滝を訪ねた。中禅寺湖周辺のホテルや旅館に泊った一般観光客が行動を開始する時間前とあって、ゆっくりと散策することができた。

飲食店と土産店を兼ねた店舗前を行くと、滝の入口にエレベーターが設置してあって、その料金が500円と高かったことに驚いた。駐車料金を含めると結構な出費となる。それでも一生に1度は日本一の名瀑を間近に眺めたいと、日光を訪ねた観光客なら思うだろう。

華厳滝エレベーターは、昭和5年(1930年)の設置と歴史が古く、高さは100mと聞く。エレベーターを降りて地下通路を抜けると観瀑台があって、目前に華厳ノ滝の全容が現れる。中禅寺湖の湖水が瀑音と共に落差97mを落下し、その水量は毎秒約3トンと言われる。

観瀑台の高さは華厳ノ滝の滝壺の高さと同じで、紺碧の滝壺に落ちる様子は動なる自然造化の功である。荘厳にして華麗な姿に絶句するのみである。華厳ノ滝の裏側と右側には、十二滝と称される細い小滝もあって、その眺めも絵になる。厳冬期には十二滝は結氷してブルーアイスに彩られると聞くと、その頃に訪ねたいとも思う。

2回目の訪問は平成28年(2016年)の5月中旬で、華厳ノ滝と中禅寺湖とを一緒に眺めたいと探したところ、いろは坂の上に明智平があることを知った。駐車場からは明智平ロープウェイを利用することになったが、全国各地のロープウェイに搭乗することも旅の目的として来たので一石二鳥の訪問となった。標高1373mの展望台から華厳ノ滝までの水平距離は約2㎞で、中禅寺湖と華厳ノ滝の景観が鳥瞰図のように見える。新緑の頃であったが、紅葉や雪景色を想像すると、もう2回は訪ねたい絶景中の絶景である。

華厳ノ滝の歴史上の発見者としては、奈良時代に日光山を開山した勝道上人(735-817年)が最初であろう。華厳ノ滝の名も仏典の華厳経に由来するとされ、勝道上人の命名かと推測する。江戸時代には俳人・松尾芭蕉(1644-1694年)は、日光の裏見ノ滝を見物して名句を残しているが、華厳ノ滝を見物したらどんな句を詠んだか想像するのも楽しい。また、江戸時代の葛飾北斎(1760-1849年)が華厳ノ滝を見物して筆を握ったらどんな浮世絵を描いたか、これも想像するのも楽しい。江戸時代の文人墨客は、華厳ノ滝よりも裏見ノ滝を見物したようである。明治時代になって交通の便が良くなると、華厳ノ滝の方が有名となる。明治の歌人の中では、千葉県出身の伊藤左千夫(1864-1913年)が秀歌を残している。

「冬涸るる 華厳ノ滝の 滝壺に 百千の氷柱 天垂らしたり」 伊藤左千夫

②那智ノ滝  (訪問回数1回)

那智ノ滝は吉野熊野国立公園南部の那智勝浦町に位置し、熊野那智大社に隣接する。標高約900mの那智連山を源流する那智川の滝で、落差は133m、滝の幅13mの直瀑である。昭和47年(1972年)に国の名勝に指定され、平成16年(2004年)にはユネスコの世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部を構成している。

現在のところ、那智ノ滝の見物は平成2年11月初旬の訪問だけで、四季折々の景観を眺めないと文筆は尽くせないと思う。しかし、現段階で那智ノ滝に魅せられた感想だけは整理したい。この時の訪問は、「熊野三山」を巡拝することが目的であって、那智ノ滝の見物はあまり意識していなかった。実際に眺めて見ると、滝の迫力が満点で青岸渡寺の朱色に輝く三重塔が添景のように美しく聳えている。三重塔は昭和47年(1972年)の再建であるが、2階の外周には欄干付のぬれ縁があって、観瀑台の役割を果たしているようだ。先ずは三重塔の壇上から那智ノ滝の全容を眺めることにした。

滝の流れは直瀑であるが、華厳の滝のように滝壺に一気に落下している様子に見えない。滝の中間部から下は岩壁に水流の一部が接触しているように見え、岩璧と一体となっている景観は神秘的に思える。毎秒約1トンの神水が滝壺に落ちる様子は壮観である。

三重塔から先へ進むと、熊野那智大社の別宮である飛瀧神社の一之鳥居が建っていて、広い参道の石段が滝の下へと続く。石段の脇には「光ヶ峯遥拝石」と呼ばれる石があって、手で撫でると那智権現のパワーが伝わるとされる。石段を下ると、広い平坦地となっていて滝の正面に二之鳥居が建ち、左側に供与所を兼ねた社務所がある。飛瀧神社には拝殿や本殿はなく、正面に仰ぎ見る那智ノ滝が御神体であるので本殿はない。

飛瀧神社の創建は、熊野那智大社とほぼ同時期と考えると、仁徳天皇5年と伝承されているで古墳時代となる。天竺(インド)から渡来した裸形上人(生年没不詳)が開基したとされる。祭神名としては大己貴命、神仏習合の時代は那智権現とも称された。

境内の奥には「お滝拝所舞台」があって、300円の参入料金を納めて入ることになる。この舞台が直近の観瀑台となっていた。滝の前には注連縄が張られた「延命水」があり、獅子頭から神水が吐出していた。帰り道には参拝した御滝本祈願所には絵馬を奉納され、かつては護摩堂と称されていた堂宇である。祭神は大己貴命の他に役小角、不動明王、空海大師、安倍清明、丈覚上人と、滝の仏様から所縁ある人々を祀っているようだ。

那智ノ滝の上流には「那智四十八滝」と呼ばれる滝がたくさんあって、那智ノ滝はその一の滝とされる。那智四十八滝の殆どが那智原生林に囲まれていて、古来より修験道の行場でもあった。二の滝までは入れるようであるが、その先からはガイドなしでは無理ともされる。那智川の長さは7㎞と非常に短いにも関わらず、これほどの水量の滝が存在する地形も不思議である。この那智山に魅せられたのが、平安中期の第65代天皇であった花山法皇(968-1008年)である。有名な「西国三十三ヶ所観音霊場」を復興させたのが花山法皇で、那智山青岸渡寺を第1札所に定め和歌も詠んでいる。

「いわばしる 滝にまがひて 那智の山 高嶺を見れば 花のしら雲」 花山法皇

③袋田ノ滝  (訪問回数1回)

袋田ノ滝は茨城県北部の大子町にあって、奥久慈県立自然公園に属する。阿武隈山地南部を水源とする滝川が久慈川に合流する約4㎞手前で、落差120m、滝の幅80mの四段瀑落水である。毎秒約1トンの水が段々となって流れ落ちる様子は幽玄な景観に見える。「四度の滝」の別名もあって、空海大師(774-835年)が当地で4度の護摩修行したことに由来すると言われる。また、西行法師(1118-1190年)が「四季に一度ずつ来てみなければ真の風趣は味わえない」と絶賛したことに由来するとも聞く。いずれにしても平安時代から知られた滝であったのは確かで、秘境でもあった袋田を訪ねたことに感心する。

袋田ノ滝も現在のところ1回たげの訪問で、平成25年(2013年)の4月初旬であった。残雪には遅く、新緑には早い中途半端な季節であったが、滝の景観は素晴らしく思い出に残る滝の見物となった。袋田ノ滝に向う滝川沿いには、旅館や飲食店、土産物店が点在していて、閑散期にも関わらずそれなりの観光客の往来が見られた。

滝の入口には券売所があり入場料金は300円であったが、駐車場料金が無料の町営駐車場があったので、華厳の滝や那智ノ滝に比べると出費が少なく済んだ。入口から袋田ノ滝トンネルとなっていて、第1観瀑台と第2観瀑台にエレベーターが設置されていた。第1観瀑台は滝の3段目が目前に眺められ、第2観瀑台のオープンデッキからは滝の全容が眺められる。日本の滝の人気ランキングでは、上位に選ばれる理由もうなずける。

袋田ノ滝の周辺の地質は、かつての海底火山で発生した土石流の水中火山角礫岩で、河川の浸食作用によって造形された地質とされる。華厳の滝や那智ノ滝のような荒削りの岩壁に比較すると、滑らかな岩肌となっていて女性的なやさしさを感じる。その岩肌と滝が錦の紅葉に包まれると、麗しき姿を見せつける。厳冬期になると、滝一面が氷瀑して神秘的な姿に変身する。西行法師が四季折々と美しさを愛でることを勧めたけれど、せめて新緑と紅葉、氷瀑だけは眺めたいものである。

観瀑台からトンネルに戻ると、トンネルの奥に鳥居を構えた「四度瀧不動尊」の小さな御堂があった。袋田ノ滝も滝を神仏のように崇め、不動明王を祀っているようである。実際に調べたわけではないが、「不動」の名が付く滝が全国で一番多いような気がする。不動明王の真言を唱え、袋田ノ滝との出会いに感謝した。

袋田ノ滝の上流には袋田自然研究路が整備されていて、袋田ノ滝の最上部が見える場所もあった。その200m先にも滝があって、「生瀬滝」または「奥ノ滝」とも称されていた。落差は10mほどの滝であるが、袋田ノ滝よりも流れが緩やかで幾重にも水が岩を伝い落ちる趣は袋田ノ滝と対照的で面白く眺めた。生瀬滝にも展望台があって、大子町が滝の名所をアピールする様子が感じ取れるし、第2観瀑台の建設費が5億2千万円と聞いて驚く。

大子町は江戸時代、水戸藩の領地で陣屋や郷校が置かれていた。水戸黄門様でお馴染みの2代藩主・徳川光圀(1628-1701年)、7代藩主・治紀(1773-1816年)、9代藩主・斉昭(1800-1860年)などの藩主が袋田ノ滝を眺め和歌を詠んでいるが、光圀の和歌が優れている。

「いつの世に 包みこめけん 袋田の 布引出す しら糸の滝」 徳川光圀

07.日本三大鍾乳洞

名称     国の指定        公園名         洞長㎞  高低差m  年間観光客数  所在地

①秋芳洞   特別天然記念物  秋吉台国定公園  10.3     137        50万人     山口県

②龍泉洞  天然記念物      なし             2.5     249        20万人     岩手県

③龍河洞  天然記念物      なし             4.0      80        10万人     高知県

自然景観の美しさは山岳や海岸に限らず、海中や地下にも存在する。海中に関してはグラスボートや海中展望台でなければ一般観光客は見ることはできない。そこで地中に目を向けると鍾乳洞がある。鍾乳洞にも「日本三大鍾乳洞」があって、上記の3ヶ所が選ばれている。山口県美祢市の秋芳洞と岩手県岩泉町の龍泉洞は文句なしの選定と思われるが、高知県香美市の龍河洞に関しては再考の余地があると思われた。

鍾乳洞の名数には「日本六大鍾乳洞」もあって、日本三大鍾乳洞に福島県田村市のあぶくま洞、熊本県球磨村の球泉洞、沖縄県南城市の玉泉洞が加わっていた。年間観光客数で比較してみると、あぶくま洞は東日本大震災以前の頃は30万人で現在は19万人の入洞者数となっている。球泉洞は九州豪雨以前の頃は6万人とされるので、へき地にも関わらず人気はあったようだ。玉泉洞に関しては観光地の沖縄にあることから100万人とダントツである。しかし、鍾乳洞の地学的な評価から考えると、日本三大鍾乳洞は国の特別天然記念物もしくは天然記念物に指定されているので、単純に観光客数だけで替えない方が良いと考えた。龍河洞に関して言えば、洞内から弥生時代の遺跡が発見されたことで、国の史跡にも指定されている。玉泉洞よりも付加価値は高いと判断した。

鍾乳洞の観光状況を調べていると、「日本観光鍾乳洞協会」と言う親睦団体があって、この団体が選定した「日本鍾乳洞九選」があることを知った。日本五大鍾乳洞から沖縄県南城市の玉泉洞が外されて、東京都奥多摩町の日原鍾乳洞、岐阜県高山市の飛騨大鍾乳洞、長崎県西海市の七ツ釜鍾乳洞、鹿児島県和泊町の昇龍洞の4ヶ所が選ばれていた。この9ヶ所をめぐるスタンプラリーもあると聞くが、昇竜洞は鹿児島県の沖永良部島にあるので簡単に行けそうにない。七ツ釜鍾乳洞は4ヶ所の鍾乳洞では唯一国の天然記念物にも指定されているが、知名度が低いのが難点と言える。

鍾乳洞は全国28都道府県に100ヶ所弱あるが、その半数近くが観光用に公開されていない。名数には選ばれていない鍾乳洞の中でも素晴らしいと絶賛したい鍾乳洞もある。岩手県岩泉町の安家洞は国の天然記念物で長さが23.7㎞と日本一を誇る。福島県田村市の入水鍾乳洞、山口県美祢市の大正洞と景清洞、福岡県北九州市の千仏鍾乳洞、福岡県苅田町の青龍窟、大分県臼杵市の風連鍾乳洞、大分県佐伯市の小半鍾乳洞は国の天然記念物である。一般公開されていない国の天然記念物の鍾乳洞には、群馬県上野村の生犬穴、山口県美祢市の中尾洞、大分県佐伯市の狩生鍾乳洞、宮崎県日之影町の七折鍾乳洞、宮崎県高千穂町の柘ノ滝鍾乳洞がある。鍾乳洞は石灰質の地層に限られているが、戦後に発見された鍾乳洞は20ヶ所ほどあって、未発見の鍾乳洞がまだあると思われる。また、沖縄県宮古島市には干潮時のみ見物できる保良泉鍾乳洞があって、とても珍しい海中鍾乳洞と思う。

秋芳洞  平成25年11月23日  撮影

龍泉洞  令和4年2月19日  地底湖を撮影

龍河洞  平成27年2月14日  撮影

①秋芳洞  (訪問回数1回)

秋芳洞は山口県美祢市の秋吉台国定公園内に位置し、国の特別記念物に指定されている。

鍾乳洞の形成は約110万年前から始まったようで、地下水の浸食によって横穴が誕生して約10万年前に開口したと言われる。洞内の生成物は、砂礫層が流入したことが基盤となっている。洞内の長さが10.3㎞、高さが24m、長さでは日本3位で広さでは世界最大級の鍾乳洞である。実際に公開されている観光路は、約1㎞と短いが地下空間の広さには圧倒される。洞内の温度は四季を通じて17℃で、夏は涼しく冬は暖かい。秋芳洞の名称は、大正15年(1926年)に皇太子時代の昭和天皇(1901-1989年)が御探勝した折に命名したと聞く。

秋芳洞の発見年代は不明であるが、吉野(南北朝)時代の正平5年(1354年)、大洞寿円(生年没不詳)禅師が大干ばつに際して洞内で雨乞いの修法を行ったとされる。江戸時代後期には地元住民が大勢で入洞し、萩藩の若者たちが鍾乳石の採取で訪ねたと記録される。明治時代に入ると本格的な調査が行われ、明治42年(1909年)には観光洞として開発された。大正11年(1922年)には天然記念物に、昭和27年(1952年)には特別記念物に指定される。平成19年(2007年)には「日本の地質百選」に、平成27年(2015年)には「日本ジオパーク」に選ばれている。秋芳洞のある秋吉台は鍾乳洞の宝庫で、大正洞、景清洞、中尾洞が天然記念物の指定を受けている。中尾洞は一般公開されておらず、許可制となっているようだ。

秋芳洞を訪ねたのは平成25年(2013年)の11月下旬で、入口には20軒近い店舗が軒を並べ、商店街を形成していた。4・5軒は想像していたが、これほど多く店舗があることに驚いた。その商店街を抜けると、正面入口に案内所があって入洞料金1,200円を払って入ることになる。洞内で最初に目にするのが高さ25m、幅35mの「青天井」で、ここには冒険コースがあって別料金300円を料金箱に入れて備え付けの懐中電灯を借りて探検することになる。青天井の先の「長淵」を過ぎると「百枚皿」で、大きな皿のような石灰華が段々状に並び、初めて目にする不思議な景観であった。入口から300mほど進むと広庭の「洞内富士」で、約5mの巨大な石柱が聳え、下部は裾広がりとなっていることから富士山に見立てている。「南瓜岩」、「千町田」を過ぎると「傘づくし」で、天井から昔の和傘のようにたくさんの鍾乳石がぶら下がっている様子から名付けられたと言う。傘づくしの隣には「大黒柱」と称される鍾乳石と石筍がつながった石柱があった。次ぎは「千畳敷」で、長さ175m、幅80m、高さ35mと洞内で最大ホールである。更に進むと高さ15mの巨大な石筍が「黄金柱」で、「くらげの滝のぼり」、「巌窟王」、「五月雨御殿」、「マリア観音」と黒谷口の出入口へと続く。黒谷口の先は全長187mの「3億年のタイムトンネル」があって、現代から地球誕生までの写真やパネルを展示していた。最大地底湖の琴ヶ淵は見学コースに入っていないようで、シコクヨコエビやカニ、アキヨシミジンツボなどの水棲生物もいると聞く。

洞内の天井部には6種類のコウモリが生息し、壁面に取り付けられた照明の下には、コケやシダ類が照明の光合成で植生していた。昭和天皇は昭和38年(1963年)に再び秋芳洞を訪ねられて、生物学者の立場で眺められた様子を御製歌に詠んでおられる。

「洞穴も 明るくなれり ここに棲む 生物いかに なりゆくらむか」  昭和天皇

②龍泉洞  (訪問回数3回)

龍泉洞は岩手県岩泉町に市街地の近くの宇霊羅山にあって、国の特別記念物に指定されている。宇霊羅山のウレイラはアイヌ語で「霧のかかる峰」を意味し、標高625mのカルスト山地で地表に石灰岩が露呈している。龍泉洞の形成は約2億数千万年の中生代三畳紀、有孔虫やサンゴなどの堆積物してできた石灰層が隆起したことに始まる。そこに雨水による浸食が数万年も続いて形成された。洞内の長さが2..5㎞であるが、実際は5㎞と推定される。観光路として700mが整備されているが、階段が多いために一方通行となっている。

龍泉洞の最大の特徴は第1から第4までの地底湖で、第4地底湖の水深は日本一の120m、透明度41.5mと世界一級である。しかし、第4地底湖だけは未公開のため大地底湖を見ることはできない。洞内の温度は一年中10℃前後で安定しているが、夏の薄着は禁物である。

龍泉洞は昔、岩泉湧窟と呼ばれていたが、岩窟に棲む龍が岩を割って開いた云う伝説からから命名されたようだ。大正9年(1920年)頃から小舟を浮かべての観光が行われ、昭和34年(1959年)から第1地底湖の本格的な調査が開始される。そして、昭和36年(1961年)に町営の観光施設として開業された。また、昭和42年(1967年)には龍泉新洞が発見されて、昭和50年(1975年)に龍泉新洞科学館としてオープンしている。龍泉新洞からは縄文時代早期の遺跡も発見されて、風変りな鍾乳石もあって龍泉洞とは対比的な印象が感じられる。

龍泉洞を初めて訪ねたのが昭和51年(1976年)8月中旬で、Tシャツで入洞したため寒さに震えた思い出が脳裏を過る。龍泉洞の入口には、赤い三角屋根の大きな龍泉洞レストハウスが建っていて岩手県の観光地として定着していた。洞内に入ると、「摩天楼」、「長命の渕」、「コウモリ穴」、「百間廊下」、「玉響の滝」、「白亜宮」、「長命の泉」、「隠れ水」、「潜竜の渕」、「竜宮の門」、守り獅子」、「竜宮淵」、「一の壁」、「第1地底湖」、「二の壁」、「第2地底湖」、「三の壁」、「第3地底湖」の名所が平面図に記載されている。白亜宮は西洋のゴシック建築を見るような趣で、通路に散見される鍾乳石は芸術作品のようだ。龍泉洞の圧巻は地底湖で、第1地底湖は35m、第2地底湖は38m、第3地底湖は98mの水深がある。ドラゴンブルーとも称される地底湖を眺めると、その神秘性と冷気には戦慄がはしる。

2回目に訪ねた時は、一の壁から迂回路が設置されていて、展望台からは第1地底湖の水面が真下に眺められた。髙さ35mの竪穴を 5色に変化するLEDライトアップの演出は抜群で、幻想的な雰囲気に魅せられた。洞内がワイン貯蔵庫となっていたのも驚きであった。

洞窟内には5種類のコウモリが生息し、昭和13年(1938年)に指定された天然記念物に含まれている。昭和60年(1988年)に昭和の「名水百選」に選ばれ、平成19年(2007年)には「日本の地質百選」に選定された。平成23年(2011年)3月の東日本大震災の地震では、地底湖の沈殿物が浮き上がって透明度が一時的に低下したようであるが、洞内の構造物の被害はなかったようだ。しかし、平成28年(2016年)9月に発生した台風10号の被害は大きく、地底湖が増水して照明や通路が壊されたようだ。3回目の訪問は令和4年(2020年)の2月中旬で、洞内の写真撮影が目的であった。しかし、龍泉新洞科学館の洞内は撮影禁止で、龍泉洞に因んだ文学的な記念碑がなかったが残念に思われた。

③龍河洞  (訪問回数1回)

龍河洞は高知県香美市の中央部に位置し、物部川近くの三宝山中腹にある。三宝山は標高322m、全山が石灰岩からなる奇抜な山容をしている。龍河洞の形成は約1億7,500万年の中生代ジュラ紀に遡り、三宝山の山頂盆地に溜まった雨水が浸透して形成された。洞内の全長は4㎞であるが、その内1㎞が一般客の観光コースで、他に冒険コース200mがカイド付きで公開されている。龍河洞は昭和6年(1931年)に本格的な調査が行われ、洞内からは弥生時代の竪穴住居跡が発見されて、昭和9年(1934年)には国の天然記念物および史跡にも指定された。また、遺跡からは弥生式土器と鍾乳石が一体化した珍品も発見され、「神の壺」と命名されて龍河洞のシンボル的な存在となっている。洞内の温度は、8月の平均が17℃、12月の平均が12℃と、一年を通じて一定ではないと聞く。

龍河洞の名称は鎌倉時代の承久3年(1221年)、土御門上皇(1195-1231年)の洞窟探勝に由来するとされる。承久の乱で鎌倉幕府に敗北した上皇は土佐に流されるが、洞窟の噂を耳にして国府から駕籠に乗って訪ねた。その時、一匹の錦の小蛇が上皇の前に現れて案内し、無事に探勝を終えたと言う伝説から上皇の駕籠が籠駕に転じて龍河となったようだ。

龍河洞を訪ねたのは平成27年(2015年)の2月中旬で、「四国八十八ヶ所霊所」を車でめぐり、第28番札所の大日寺を打ち終えた後であった。大日寺から龍河洞までは5㎞ほど離れているだけなので、ついでに龍河洞を訪ねる遍路さんも多い。龍河洞の近くには10軒ほどの飲食店などの店舗が並んでいて、高知県には欠かせない観光地となっているようだ。

受付で1,100円を支払ったが、龍泉洞と龍泉新洞科学館は合わせて1,100円であったので少々高い気がした。龍河洞の年間観光客数は昭和45年(1970年)年代の100万人をピークに減少し、現在は10万人で推移しているようだ。全国で30ヶ所の鍾乳洞を見物したが、入洞料は300~800円が一般的で、他に1,000円を超えた鍾乳洞は岩手県住田町の滝観洞と山口県美祢市の秋芳洞だけであった。鍾乳洞の集客アップには、動物園や水族館と同様にリピーターの存在が不可欠で、施設の老朽化に伴った低料金が望まれる。

洞内の入口正面には「龍王神社」があったが、土御門上皇を案内した小蛇か、龍神様を祀っているかは不明である。パンフレットの地図を見ると入口から「石華殿」、「千仞の間」、「竜宮ソテツ」、「雲の掛橋」、「飛龍の滝」、「天降石記念碑」、「記念の滝」、「前の千本」、「竜宮の滝」、「奥の千本」、「クラゲ石」、「音無の滝」、「龍口」、「裏見の滝」、「玉簾の滝」、「天の川」、「鮭の石」、「シャンデリア」、「連星殿」、「万象殿」、「コウモリの間」、「最壮殿」、「奈落」、「七福神」、「穴居一室」、「穴居二室」、「神の壺」、「穴居三室」、「掛り幕」の名所が記載されていた。現在も山頂盆地から雨水が浸透して小さな滝となっている。鍾乳石が橋のようなに横たわった雲の掛橋、ドームの柱のような天降石、簾のように垂れ下がった玉簾の滝が印象深い。龍河洞に隣接して龍河洞博物館が建っていて、発掘された土器などを展示してあった。また、珍鳥センターには特別天然記念物のオナガドリが飼われていた。

土御門上皇は土佐から阿波へと移っているが、土佐では50首の和歌を残している。

「谷ふかき 草の庵の さびしきは 雲の戸ざしの 明け方の空」 土御門上皇

08.日本三大松原

名称        国の指定  公園名            長さ㎞  面積ha   年間観光客数   所在地

①虹の松原    特別名勝  玄海国定公園        4.5     216     推定500万人   佐賀県

②気比の松原  名勝      若狭湾国定公園      1.5      40       220万人     福井県

③三保の松原  名勝      日本平県立自然公園  7.0      34       100万人     静岡県

海岸線の景観の中で、古くから日本人に愛されたきたのは松原であろう。唱歌の「海」の出だしの歌詞も松原から始まる。沖縄地方を除く日本の松原は殆ど防風林として植栽されたもので、その松原の名所は「日本の白砂青松百選」に代表される。日本の白砂青松百選は、昭和62年(1988年)にNPO法人の「日本の緑を守る会」が選定したもので、砂浜よりも松原に比重を置いた場合、殆どの松原が網羅されているようだ。

松原の名数の中で最も有名なものが「日本三大松原」で、再考の余地があるのではと精査した。佐賀県唐津市の「虹の松原」、福井県敦賀市の「気比の松原」、静岡県静岡市の「三保の松原」が日本三大松原である。虹の松原は、京都府宮津市の「天橋立」と並び国の指定する特別名勝である。天橋立は日本三景でもあるので除外すると、虹の松原は文句なしの日本三大松原である。名勝に指定された松原には、気比の松原、三保の松原の他にも兵庫県南あわじ市の慶野松原、岩手県陸前高田市の高田松原がある。しかし、高田松原は残念ながら平成23年(2011年)の東日本大震災で消失してしまった。残る慶野松原は知名度が低く、観光客数が約15万人なので気比の松原と三保の松原に比べると見劣りする。そんなことから「日本三大松原」に関しては、変更の余地はないと結論づけたい。

国の名勝ではないが、秋田県能代市の「風の松原」は面積が760haと日本一の規模である。歌人の若山牧水がこよなく愛した静岡県沼津市の「千本松原」、江戸時代の松並木でもある富山県富山市の「古志の松原」、琵琶湖八景の1つである滋賀県大津市の「雄松崎」、樹齢約100年の黒松林が続く香川県さぬき市の「津田の松原」、アオウミガメの産卵地でもある徳島県海南町の「大里松原」、鎌倉時代の元寇防塁があった福岡県福岡市の「生の松原」、弓状に広がる砂浜の福岡県糸島市の「幣の松原」、日南海岸国定公園にある鹿児島県大崎町の「くにの松原」などは「日本の白砂青松百選」の中でも注目に値する。

松原の美しく見える条件には、松原と砂浜が一体となっていることと、その形状が直線的なものより円弧や弓状をなしていることである。また、三保の松原のように富士山が添景として映ることも重要な要素と言える。松原のマツはアカマツよりクロマツの方が好まれていて、枝振りの良さもクロマツが勝る。三保の松原の羽衣のマツなどは、剪定が行われているようで、美観の維持管理に剪定は欠かせないと思う。

松原の松林の厄介な問題は、「松くい虫」による被害が多発していることである。一時期に比べると、除虫が進み少なくはなっている気がするが、予算の組めない自治体は放置したままで、哀れな松の姿を唖然と眺めたものだ。松林は国有林や民有林、その他に自治体の所有する松林と区分されるが、松くい虫には区分がない。国や自治体、民間がどんな協力関係で対策を行っているのか不明であるが、美しい松原を守って欲しいものである。

虹の松原  平成5年5月30日  撮影

気比の松原  平成5年4月17日  撮影

三保の松原  令和3年1月11日  撮影

①虹の松原  (訪問回数1回)

虹の松原は佐賀県唐津市の市街地北西に位置し、玄海国定公園の唐津湾に面する。円弧状の松原の長さは4.5㎞、幅0.5㎞、面積は約216haである。マツはクロマツで約100万本あるとされる。江戸時代初期、唐津藩初代藩主・寺沢広高(1563-1633年)によって自然林から防風林として植林された。その後も歴代藩主によって伐採が禁止され、折れた枝や落葉の採取も制限されて保護された。昭和30年(1950年)に国の特別名勝に指定され、昭和61年(1986年)の「新日本百景」に選ばれた。他にも「日本の白砂青松100選」、「日本の渚百選」、「日本の自然100選」、「日本の道100選」と松原では最多の名数に選ばれている。

虹の松原には豊臣秀吉(1537-1598年)に関する伝説があって、朝鮮出兵の陣地・名護屋へ向かう途中、自然林の松原を通過した時にあまりにセミが鳴くので「騒々しい」と叱ったところ、セミの声が絶えたと言う。また、高いマツの木が邪魔して眺望の妨げとなると、「低くなれ」と睨みつけたところ、マツの成長が止まったとされる。そのマツは「にらみの松」と称されて、高くならないマツの一群となっていると聞く。

江戸時代の虹の松原は、その距離から「二里の松原」と呼ばれていたが、明治時代になると二里が「虹」に転じられて呼ばれた言う。また、明治時代には国有林に編入され、現在は林野庁佐賀森林管理署が管理を行い、保護林として伐採も制限されているようだ。しかし、昭和35年(1960年)以降から松くい虫による被害が発生し、マツの大木が次々と立ち枯れる事態となった。そこで、ヘリコプターによる薬剤散布や被害木の伐採処理が毎年続けられているようだ。松原の維持管理には相当の費用と労力がかけられていると知って、表面上の美観を楽しんでいる観光客の一員としては頭の下がる思いがする。

虹の松原を訪ねたのは平成5年(1993年)の5月下旬で、随分と昔の話となる。この時は「唐津城」の見物が第一目的で、望楼型5層5階建ての最上階から虹の松原を眺めた。江戸時代の唐津城には天守台があったものの、天守閣は建築されておらず、現在の唐津城は昭和41年(1966年)に観光施設として建てられた。現在の天守閣を良く見ると、福島県の鶴ヶ城と兵庫県の姫路城の外観を模していて、すごく立派な天守閣に見える。

唐津城から虹の松原に移動すると、松原と並行して県道とJR筑肥線が走っていた。松林に入ると、1つとして同じクロマツはなく、奇形なクロマツも点在する。「45°のクロマツ」、「根上がり松」、「槍掛けの松」などがあったが、殆どのクロマツは名無しに等しい。松原の両端にはホテルや旅館、飲食店が建ち並び、浜崎海水浴場も松原沿いにあった。

虹の松原を訪ねた文人と言えば、明治40年(1907年)の7月下旬から約1ヶ月間、与謝野鉄幹(1873-1935年)がまだ学生だった新進詩人の北原白秋(1885-1924年)、木下杢太郎(1885-1945年)、平野万里(1885-1947年)、吉井勇(1886-1960年)ら4人を連れて九州西部を中心に「五足の靴」と称した旅行を行い、虹の松原にも立ち寄っている。昭和7年(1932年)には漂泊の俳人・種田山頭火(1882-1940年)が虹の松原を訪ねて句を詠んだ。その句碑が二軒茶屋の前には建っていた。「松原の茶店はいいね。薬罐からは湯気がふいてゐる。娘さんは裁縫してゐる。松風、波音…。松に腰かけて松を観る」と記されていた。

②気比の松原  (訪問回数1回)

気比の松原は福井県敦賀市の市街地北西に位置し、若狭湾国定公園の敦賀湾に面している。弓状の松原の長さは1.5㎞、幅0.4㎞、面積は約40haである。マツは平均樹齢が約200年のアカマツとクロマツで、約1万7,000本あるとされる。日本の松原にはクロマツが多いのであるが、気比の松原はアカマツが85%を占めると言う。昭和9年(1934年)に国の名勝に指定され、広く知られるようになった。昭和58年(1993年)の「日本の自然100選」、昭和62年(1987年)の「日本の白砂青松百選」に選ばれている。

気比の松原は古来より気比神社の神苑として管理され、江戸時代には小浜藩の御用林となって保護された。明治時代になって国有林となり、現在は林野庁福井森林管理署によって保護管理が行われている。しかし、明治時代には約76haもあった松原は、大正時代から開発が進み、小学校や高等学校が建設されている。戦時中の物資難にあっては伐採が行われ、日本陸軍の陣地まで築かれて国有林は約36haまで縮小した。

虹の松原と同様に気比の松原には、「一夜の松原」の伝説がある。聖武天皇の奈良時代、他国から異民族が船団を組んで襲来したことがあった。その時、砂浜一帯に一夜にして数千ものマツが出現し、気比神宮の神の使いであるシラサギがマツの上に次々と現れる。その様子はまるで多数の旗指物が翻るように見えたようだ。それを見た異民族は、これだけ多くの軍勢には勝てぬと恐れをなして引き上げて行ったと言う伝説である。その伝説は名勝・気比の松原の石碑に刻まれていて、実際にあった神風の伝承よりも面白い伝説である。

気比の松原を訪ねたは平成5年(1993年)の4月中旬で、松尾芭蕉の『おくのほそ道』を自転車で追憶の紀行を行った時である。気比神宮を参拝し、色の浜(種の浜)に向う途中であった。芭蕉さんは気比の松原で句を詠んでいないのは、気比神社を夜参したためで、種の浜には敦賀の湊から船で往来している。その時に気比の松原を洋上から眺めたことだろう。

砂浜に立ち松原を眺めると、小さなサクラ1本に花が咲いていた。アカマツの緑にサクラのピンク、そして紺碧の敦賀湾が広がる光景は絶景そのものであった。そして、松原の中を自転車で走行する気分は最高で、自転車旅行の極みとも思えた。気比の松原の先には手ノ浦の小さな漁港があって、棚田の下に数棟の舟小屋が建ち並んでいた。色の浜に到着すると、入口に西行法師の歌碑があって、本隆寺には芭蕉さんの句碑が「萩塚」と称されて建てられていた。色の浜の帰路は、再び気比の松原を走り、その景観を満喫した。

気比の松原を訪ねた貴人や文人も多くいて、明治11年(1878年)には明治天皇(1852-1912年)が北陸を巡幸した時に訪ねている。幕臣から政治家となった勝海舟(1823-1899年)が明治24年(1891年)に訪れて、明治天皇の巡幸を偲んで漢詩を詠んだ。明治42年(1909年)には皇太子だった大正天皇(1879-1926年)が、大正8年(1919年)には皇太子時代の昭和天皇(1901-1989年)も訪問されて気比の松原を賞賛された。文人としては、晩年の俳人・高浜虚子(1874-1959年)が昭和32年(1957年)に訪ねている。高浜虚子も松尾芭蕉の足跡を訪ね、気比神宮に参拝した後に気比の松原を周遊して句を詠んでいる。

「松原の 続くかぎりの 秋の晴」 高浜虚子

③三保の松原  (訪問回数1回)

三保の松原は静岡県静岡市の三保半島の駿河湾側に位置し、日本平・三保の松原県立自然公園となっている。緩やかな弓状の松原の総延長は約7㎞、幅0.1㎞、面積は約34haである。松原には約3万本のマツがあってクロマツが主であるが、アカマツやアイマツ(クロマツとアカマツの交雑種)、外国産のマツも植えられている場所もあるようだ。大正11年(1922年)に京都府の天橋立とともに日本初の国の名勝に指定された。指定当初は現在の面積の10倍の約340haもあったが、戦時中の松根油の採取で伐採され、戦後は宅地開発で規模が大幅に縮小された。面積の減少に伴い、約5万4,000本あったマツも約3万本に減ったとされる。それでも大正5年(1916年)、実業之日本社主催による全国投票で、北海道七飯町の大沼(ポトロ―)、大分県中津市の耶馬渓とともに「新日本三景」に選定された。更に昭和41年(1966年)の「新日本旅行地」、昭和62年(1987年)の「新日本観光地」に選ばれている。平成25年(2013年)には世界文化遺産の「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産に登録されて、富士山の眺望地として存在感が高まった。

三保の松原の歴史は古く、奈良時代後期に成立した『万葉集』にも三保の松原の和歌が詠まれている。しかし、江戸時代前期頃までは三保半島全体がマツで覆われていて、後期頃から松の名所となったようである。十辺舎一九(1765-1831)の滑稽本『東海道中膝栗毛』の野次さん、喜多さんの珍道中に三保の松原が登場し、歌川広重(1797-1858年)の浮世絵にも描かれるようになったのは江戸時代後期である。いつの時代か不明であるが、三保の松原には有名な羽衣伝説があり、浜に天女が舞い降りて錦の羽衣を掛けたとされる。御穂神社にはその羽衣の端切れが保存されていて、定期的に公開されているようだ。

三保の松原の訪問したのは約半世紀前の昭和48年(1973年)の1月中旬で、当時はカメラも買えない貧乏学生の頃であった。東京から東海道本線の清水駅で清水港線に乗り換え三保駅で下車した。三保の松原の存在は知っていたので、先ずに三保の松原を訪ねたのである。その入り口に御穂神社があって、樹齢200~300年の老松の並木が「羽衣の松」まで520mほど続くていた。羽衣の松は御穂神社の祭神で、三穂津彦命(大国主命)と皇神・三穂津姫命が降臨する際の依り代とされる。初代の羽衣の松は宝永4年(1707年)の富士山の大噴火で海中に沈み、当時の羽衣の松は2代目であった。そのクロマツの高さは約10m、幹回り5m、樹齢約600年とされる。富士山があっての三保の松原で、富士山と松原が美しく見えるのも羽衣の松の周辺である。また、羽衣の松には毎年元日の朝に大勢の人々が集まり、伊豆半島の山々から昇る初日の出を拝む風習があると聞く。羽衣の松から浜辺を北上すると白い「清水灯台」が松林に建っていた。明治45年(1920年)の設置で、日本最初の鉄筋コンクリートの灯台でもあった。三保の松原からは、徒歩で日本平へ向かった記憶が蘇る。

三保の松原には多くの文人が訪ねているが、万葉集にも和歌が記載された上野守(国司)の田口益人(658-723年)、江戸時代の作事奉行の小堀遠州(1579-1647年)、明治時代には与謝野晶子(1878-1942年)と北原白秋(1885-1924年)らであるが、白秋の歌が印象深い。

「まことにも 清し松原 天馳せて 舞ひくだる翼の けはひこそすれ」 北原白秋

09.新日本三大名峡

名称         国の指定                  国立公園名   特色  年間観光客数  所在地

①御岳昇仙峡   特別名勝                  秩父多摩甲斐 ロープウェイ   380万人   山梨県

②黒部峡谷     特別名勝・特別天然記念物  中部山岳     トロッコ電車    35万人   富山県

③瀞峡(瀞八丁)  特別名勝・天然記念物     吉野熊野      ジェット船    26万人 和歌山県

峡谷や渓谷の名数に「日本三大峡谷」と「日本三大渓谷」があるが、いずれ選定も満足するような選定内容ではない。「日本三大峡谷」には富山県黒部市の黒部峡谷、新潟県十日町市の清津峡、三重県大台町の大杉谷峡谷が選定されている。また、「日本三大渓谷」には大分県中津市の耶馬渓、岩手県一関市の猊鼻渓、宮城県東松島市の嵯峨溪となっている。問題なのは峡谷と渓谷の違いで、「峡谷」は一般的に切り立った急峻な崖のあるV字形の谷をさし、「渓谷」は山と山の間に川が流れ平坦地が混在する地形を指す。

「日本三大峡谷」の黒部峡谷は文句なしの峡谷であるが、清津峡は国の名勝でもあるが知名度が低い。大杉谷峡谷は吉野熊野国立公園にあるが交通の便があまり良くない。日本三大渓谷の耶馬渓は日本一の広大な渓谷であるが、舟下りや舟めぐりがないのが物足りない気がする。逆に猊鼻渓は遊歩道もなく、舟下りでないと見物できない渓谷である。嵯峨溪は奥松島海岸の景勝地であるので、河川にある渓谷のイメージにはそぐわない。そこで峡谷と渓谷の垣根を超えて選定したのが「新日本三大名峡」である。

「新日本三大峡」には山梨県甲府市の御岳昇仙峡、富山県黒部市の黒部峡谷、和歌山県新宮市の瀞峡を選んだ。いずれも国の特別名勝で、国立公園内に属する。特色としては、御岳昇仙峡にはロープウェイ、黒部峡谷にはトロッコ列車、瀞峡にはウォータージェット船が運行もしくは運航されている。御岳昇仙峡に関しては、万人が認める日本一の渓谷と言える。峡谷や渓谷には素晴らしい景観を有する景勝地が存在する。そこで厳選したのが「日本の峡谷と渓谷20選」で、青森県の奥入瀬は「新日本八景」に選んでいるので外した。

①北海道上川町の層雲峡、②岩手県一関市の厳美渓、③群馬県沼田市の吹割渓谷、④埼玉県瀞町の長瀞、⑤千葉県市原市・大多喜町の養老渓谷、⑥山梨県甲府市の御岳昇仙峡、⑦新潟県十日町市の清津峡、⑧長野県飯田市の天龍峡、⑨富山県黒部市の黒部峡谷、⑩愛知県新城市の乳岩峡、⑪京都府右京区・亀岡市の保津峡、⑫和歌山県新宮市の瀞峡、⑬広島県安芸太田町の三段峡、⑭広島県庄原市・神石高原町の帝釈峡、⑮香川県小豆島町の寒霞渓、⑯愛媛県久万高原町の面河渓、⑰徳島県三好市の大歩危峡、⑱大分県中津市の耶馬渓、⑲宮崎県高千穂町の高千穂峡谷、⑳鹿児島県屋久島町の白谷雲水峡。この20選の中で、京都府の保津峡は嵯峨野から亀岡まではトロッコ列車で上り、亀岡から嵐山までは舟下りするのが究極の探勝で、年間約90万人がトロッコ列車に乗車する。

それ以外に評価したい峡谷と渓谷としては、遊覧船や舟下りが楽しめる景勝地である。岩手県一関市の猊鼻渓、宮城県丸森町の阿武隈渓谷、山形県戸沢村・庄内町の最上峡、栃木県日光市の鬼怒川渓谷、富山県砺波市の庄川峡、愛知県犬山市の日本ライン、岐阜県恵那市・中津川市の恵那峡などである。

御岳昇仙峡  昭和59年5月17日  覚円峰を撮影

黒部峡谷  平成20年7月26日  トロッコ電車を撮影

瀞峡(瀞八丁)  平成27年5月10日  田戸乗船場を撮影

①御岳昇仙峡  (訪問回数3回)

御岳昇仙峡は山梨県甲府市北部に位置し、秩父多摩甲斐国立公園の西南端にある。大正12年(1923年)に国の名勝に、昭和28年(1953年)には国の特別名勝に指定された。長潭橋から仙峨滝までの全長約5㎞の渓谷で、富士川水系の荒川上流域にある。荒川の水流が花崗岩を浸食したことにより形成され、柱状節理や奇岩が至る所に散見される。昇仙峡のシンボルでもある「覚円峰」は、垂直に屹立する高さ180mの岩峰である。遊歩道終点の「仙峨滝」は、落差30m、幅6mの斜瀑で「日本の滝百選」に選ばれている。

昇仙峡の歴史は金櫻神社が創建された古墳時代まで遡り、山岳信仰が盛んとなった中世には金櫻神社から標高2,599mの金峰山に登拝する信者で賑わった。昇仙峡が広く知られるようになったのは、江戸時代末期に御岳新道が開削された頃である。明治時代からは富岡鉄斎(1837-1924年)、伊藤左千夫(1864-1913年)、正岡子規(1867-1902年)、野口雨情(1882-1945年)など多くの文人墨客が訪れている。昭和2年(1927年)に東京日日新聞が主催した「日本二十五勝」に選ばれて有名になった。平成21年(2009年)には「日本の地質百選」と「平成百景」に選ばれた。「平成百景」は読売新聞社の主催で読者が選んだもので、富士山に続く第2位に選ばれて名実ともに御岳昇仙峡は日本一の渓谷美を誇ることになった。

昇仙峡を初めて訪ねたのは昭和59年(1984年)の5月上旬で、勤めていた会社の社員旅行の折であった。当時は「トテ馬車」に乗っての遊覧で、数多の奇岩怪石を眺めたが「覚円峰」の岩峰が印象深い。その名は昔、覚円(生年没不詳)という修験者が畳を数畳敷ける広さの山頂で修行したことに由来するらしい。当時の記憶が定かでないが、仙峨滝は見物してないと思い、平成23年(2011年)の6月初旬に金峰山登山を終えて金櫻神社を参拝した後に訪ねた。滝の見物は景観が最も優れた時期に限られるので、紅葉と雪景色は見逃せないと思っている。3回目の訪問は平成29年(2018年)の9月初旬で、昇仙峡ロープウェイを利用して標高1058mの「弥三郎岳」に登るのが第一目的であった。昇仙峡の様子を高所から眺めたいと願っての登山であったが、渓谷は樹木に遮られて良く見えなかった。しかし、北の荒川ダムの先には金峰山が見え、東には大菩薩嶺、南には雲の上から富士山が顏を出していた。さらに西には南アルプスの山々、北西には茅ヶ岳が目前に望まれる。昇仙峡は渓谷の魅力に加え、弥三郎岳の山頂も素晴らしく新たな出会いに感動した。

日本三景に神社仏閣があるように昇仙峡にも小さな「羅漢寺」が御岳新道の対岸に建っている。また、日本三景にはたくさんの飲食店や土産店、宿泊施設があるように昇仙峡にも30軒ほどがある。中でも昇仙峡ロープウェイのある通りには12軒が集中し、昇仙峡は水晶石の産地であった歴史から水晶の加工品を販売する店舗も点在する。飲食店では甲州名物の「ほうとう」を提供する店が多く、ラーメン店がなかったのが残念に思われた。しかし、初めて食べる「ほうとう」は値段も高かったが美味しく感じられた。昇仙峡のマップを見ると、21ヶ所の奇岩の名称と7ヶ所の橋の名が記されていた。マップの左上には覚円峰の写真と一緒に伊藤左千夫(1864-1913年)の短歌が添えられて、マップにも趣がある。

「雲飛ぶや 天馳使が 種置ける 覚圓峰の 岩肩の松」 伊藤左千夫

②黒部峡谷  (訪問回数1回)

黒部峡谷は富山県黒部市の東南に位置し、中部山岳国立公園にある黒部川の峡谷である。

黒部峡谷は典型的なV字形の渓谷で、黒部ダム(黒部湖)の下流から宇奈月までが該当する。一般的な観光コースは、黒部峡谷鉄道が運営する「トロッコ電車」の路線20.1㎞と、遊歩道のある「猿飛峡」までの1.5㎞が観光地の範疇と言える。猿飛峡の先にはS字峡、十字峡、白竜峡と黒部ダムまで続いているが、上級登山者でなけらは歩けそうにないコースである。

黒部峡谷が歴史に登場するのは安土時代の天正11年(1583年)、越中領主・佐々成政が羽柴秀吉に対抗するため、浜松の徳川家康に援軍を求めて黒部峡谷を横断して針ノ木峠を越えた「さらさら越え」である。江戸時代は加賀藩が黒部峡谷を管轄したが、「魔の山」と恐れられていた。明治時代に入ると、登山家・冠松次郎(1883-1970年)らの探検よって黒部峡谷の存在が知られるようになった。大正時代には電源開発を目的に調査が行われ、交通手段とて宇奈月から猫又間に鉄道が敷設された。昭和5年(1930年)には小屋平、昭和12年(1937年)には現在の欅平まで開通する。昭和38年(1963年)、黒部ダム(黒四ダム)が7年の歳月を経て完成されるが、10年前頃から観光客をトロッコ電車に乗せるようになった。昭和47年(1971年)からトロッコ電車の運営は、関西電力から黒部峡谷鉄道に変わっている。

黒部峡谷鉄道のトロッコ電車と立山黒部アルペンルートは長年の憧れであったが、平成19年(2007年)の6月下旬に立山から大観峰まで入った。そして、平成20年(2008年)の7月下旬に待望のトロッコ電車に乗って黒部峡谷と初対面する。一番驚いたのは温泉の多さで、宇奈月温泉を始めとし、黒薙温泉、鐘釣温泉、欅平温泉、名剣温泉、祖母谷温泉があったことである。電車の往きは、欅平駅まで行って猿飛峡を見物した。猿飛峡は岩壁の間を猿が飛び移ることから名付けられ、昭和37年(1962年)には奥鐘山とともに国の特別名勝と特別天然記念物に指定されている。猿飛峡から欅平ビジターセンターを見学した後、名剣温泉に立ち寄って日帰り入浴を楽しんだ。この旅館は「日本秘湯を守る会」に加盟していて、1泊したい宿でもあったので次回の訪問時には必ず宿泊したいと思う。

欅平からの帰りは鐘釣駅で下車して黒部川の河原に降りて散策した。この河原の砂を掘ると、温泉が湧き出て天然の露天風呂が味わえる。河原からは万年雪が眺められ、荒々しく思える渓谷にもオアシスはあるようだ。釣鐘温泉は歴史が古く江戸時代後期の文政2年(1819年)の開湯と聞く。鐘釣では鉄道に架かるアーチ形の鐘釣橋と「錦繍関」の景観が素晴らしく、紅葉シーズンに思いがめぐる。他にも「西鐘釣山」は屹立した2つの岩峰が寄り添っていることから夫婦岩の別名もある。

鐘釣駅からは再びトロッコ電車から「ねずみ返しの岩壁」と「出六峰」の景観を眺め、黒薙駅で下車した。ここに黒薙温泉は湯量が豊富で、宇奈月温泉の湯はここから配湯されているようだ。宇奈月温泉は富山県唯一の温泉郷で、与謝野鉄幹(1873-1935年)・晶子(1878-1942年)夫婦、竹久夢二(1884-1934年)、川端康成(1899-1972年)などが訪ねている。昭和8年(1933年)11月、黒部峡谷を訪ねた与謝野晶子は当時の様子を歌に残して去った。

「おふけなく トロ押し進む 奥山の 黒部の渓の 錦繍の関」 与謝野晶子

③瀞峡(瀞八丁)  (訪問回数1回)

瀞峡は和歌山県新宮市、三重県熊野市、奈良県北山村を流れる北山川に位置し、吉野熊野国立公園内にある。瀞峡をめぐるウォータージェット船が和歌山県新宮市から発着するため、主な所在地を新宮市とした。瀞峡は下瀞1.2㎞、上瀞2㎞、奥瀞28㎞の総称で最も風光明媚な下瀞は「瀞八丁」とも称される。八丁の名は深淵部の長さ約800mに由来する。

大台ヶ原や大峰山脈を源流とする北山川に形成された巨大な滝が自らの落下の勢いで少しずつ岩盤をえぐり、滝壺を後退させた渓谷である。他に類を見ない自然の造形で、深い淀みを意味する「瀞」は、江戸時代後期に名付けられた。明治中期頃から観光で訪ねる人が現れ、大正9年(1929年)にプロペラ船が就航されると注目されるようになり、昭和2年(1927年)には「日本二十五勝」に選ばれた。昭和27年(1952年)には国の特別名勝及び天然記念物に指定される。昭和40年(1965年) にウォータージェット船に変わると集客力がアップし、アクセス道路も改善されると観光客が増加した。

瀞峡の訪問は平成27年(2015年)の5月初旬で、白浜温泉から新宮を経由して入ったが、紀勢自動車道が「すさみ」までなので関西方面からのアクセスは良くない。その点、名古屋方面からは、紀勢自動車道と熊野尾鷲道路が「熊野大泊」まで伸びているのでアクセスは良い。それでも瀞峡は秘境に近く、御岳昇仙峡や黒部峡谷のように気軽には行けない。

志古乗船場に到着すると、熊野川に数隻のウォータージェット船が係留されていた。船の大きさは11トン、旅客定員48名と渓谷をめぐる船にして大きいし、ウォータージェット船なので時速が40㎞と速い。そうでもなけば長いコースの航行は不可能であろう。ウォータージェット船が出航して間もなく熊野川から北山川に入り、しばらくすると瀞八丁の景勝地に到着する。北山川の両岸には奇岩や絶壁が連続し、最初に目にする名所が「洞天門」で瀞八丁の入口となる。左岸で「夫婦岩」、「亀岩」、高さ20m・幅87mの「屏風岩」、奥行き42mの「寒泉窟」、「寒玉潭」があった。右岸には地震で崩落した「墜落岩」、高さ45mの「天柱岩」、「とさか岩」、「大黒岩」と奇岩の名所が続いた。ウォータージェット船は、田戸乗船場の河原に停まって休憩を挟んでの一時下船となった。

北山川の上流には「山彦橋」と称される吊橋が架かり、ここで大声を発すると声がこだますると言う。その手前には入母屋造り木造3階建ての「瀞ホテル」が見える。大正9年(1920年)創業の老舗旅館でがあったが、現在は飲食店となっていると聞く。再び乗船すると、ウォータージェット船は上瀞へと遡上する。左岸に「望月岩」、「獅子岩」の奇岩があって、右岸に「母子の滝」、「こま犬岩」、「松茸岩」があった。母子の滝はコースの中では唯一の滝で、松茸岩は全国各地に見られる。昇仙峡には横たわった松茸石があったが、上瀞の松茸岩は松茸の形とは少々異なって見えた。

ウェブの情報によると、コロナウィルスの影響でウォータージェット船の運航が休止となっていると知った。観光の多様化で瀞峡を訪ねる観光客が減ったことも要因のようでもある。明治時代に瀞峡を訪れた与謝野夫婦がその衰退を知ったらがっくりするであろう。

「紀の峡に 青の瀞観る つと思ふ 君が髪より そよかぜぞふく」 与謝野鉄幹

10.新日本三大海岸景勝地

名称     国の指定           国立・国定公園名       特色   年間観光客数   所在地

①東尋坊   名勝・天然記念物   越前加賀海岸国定公園  遊覧船    136万人     福井県

②橋杭岩   名勝・天然記念物    吉野熊野国立公園      遊覧船    110万人   和歌山県

③仏ヶ浦   名勝・天然記念物   下北半島国定公園      遊覧船      20万人     青森県

日本の海岸線の総延長距離は、約3万5,000㎞に及ぶとが言われ、地球の円周距離が約4万㎞と比較してもいかに長いかが分かる。その海岸線の景観美を有する地域は、国立公園や国定公園、都道府県の自然公園に指定されている。その中から最も優れた景勝地を選ぶのは無理があり、今回の「新日本三大海岸景勝地」は暫定的な選定である。選定の条件としては、陸側に遊歩道もしくは砂地があって、海上からも遊覧船で見物できることだ。そうなると、その景勝地は限定されるので絞り易くなる。

北海道から沖縄県まで遊覧船のある海岸景勝地を列記すると、(1)北海道斜里町の知床半島、(2)青森県佐井村の仏ヶ浦、(3)岩手県田野畑村の北山崎、(4)岩手県宮古市の浄土ヶ浜、(5)岩手県大船渡市の碁石海岸、(6)宮城県松島町の松島、(7)宮城県東松島市の嵯峨溪、(8)神奈川県藤沢市の江ノ島、(9)新潟県村上市の笹川流れ、(10)新潟県佐渡市の尖閣湾、(11)石川県志賀町の能登金剛、(12)福井県坂井市の東尋坊、(13)福井県小浜市の蘇洞門、(14)静岡県伊東市の城ヶ崎、(15)静岡県南伊豆町の石廊崎、(16)静岡県西伊豆町の堂ヶ島、(17)三重県志摩市の英虞湾、(18)京都府与謝町の天橋立、(19)和歌山県那智勝浦町の紀の松島、(20)和歌山県串本町の橋杭岩、(21)和歌山県白浜町の白浜沿岸、(22)兵庫県新温泉町の但馬御火浦、(23)鳥取県岩美町の浦富海岸、(24)広島県廿日市市の宮島、(25)山口県萩市の須佐湾、(26)山口県長門市の青海島、 (27)徳島県鳴門市のうずしお、(28)長崎県対馬市の浅茅湾、(29)長崎県佐世保市の九十九島、(30)長崎県五島市の福江島、(31)鹿児島県薩摩川内市の甑島西海岸、(32)沖縄県宮古島市の宮古島南海岸などがある。

宮城県の松島、京都府の天橋立、広島県の宮島は「日本三景」でもあるので割愛し、アクセスに難点のある佐渡島、対馬、福江島、甑島、宮古島の島々を省略すると、22ヶ所に絞られる。更に国の名勝及び天然記念物の景勝地となると、仏ヶ浦、碁石海岸、笹川流れ、東尋坊、橋杭岩、但馬御火浦、浦富海岸、須佐湾の8ヶ所となる。新潟県の自然公園である笹川流れは同格に扱われないので外すと、観光客に人気のある景勝地となる。すると、東尋坊と橋杭岩は双璧で、下北半島国定公園の仏ヶ浦、山陰海岸国立公園の但馬御火浦と浦富海岸、北長門海岸の須佐湾の比較となる。但馬御火浦は長さが約8㎞の岩礁海岸で、浦富海岸は長さが約18㎞のの海岸である。須佐湾も浦富海岸と類似した奇岩・洞門・小島・断崖の海岸で、いずれも人気が高いとは思えない。

仏ヶ浦は知名度が低いものの、有名な岩手県宮古市の浄土ヶ浜と類似する白い岩峰景観である。しかし、仏ヶ浦の方が規模も大きく比類のない海岸景勝地として選定したい。浄土ヶ浜には令和3年(2021年)1月11日まで遊覧船が運航されていたが、老朽化のため廃止となってしまった。しかし、新たな遊覧船を建造中と聞きいて安心している。

東尋坊  平成25年9月8日  撮影

橋杭岩  平成2年11月4日  撮影

仏ヶ浦  平成21年5月9日  海上より撮影

①東尋坊  (訪問回数4回)

東尋坊は福井県坂井市の北西部に位置し、越前加賀海岸国定公園の特別保護地区となっている。昭和10年(1935年)に国の名勝及び天然記念物に指定され、平成19年(2007年)には「日本の地質百選」に選定された。他には昭和41年(1966年)の「新日本旅行地100選」、平成17年(2005年)の「日本の夕日百選」、平成21年(2009年)の「平成百景」に選ばれた。

東尋坊の成り立ちは、約1,300万年前の新生代第三紀中新世に起こった火山で、マグマが地表近くまで上昇し冷え固まった火山岩である。この過程で五角形や六角形の輝石安山岩の柱状節理が地中で形成され、地殻の変動によって隆起し風雨や浪で浸食されたもの。その長さは約1㎞にわたり海岸に広がり、世界的にも有数の規模とされる。

海岸の名称では珍しい東尋坊の名は、福井県勝浦市にある平泉寺の平安末期の僧・東尋坊(生没年不詳)に由来するそうだ。平泉寺の東尋坊は、粗暴で悪行を重ねていたことから堪りかねた僧たちが東尋坊を海辺見物に誘い、酒を飲めせて酔った東尋坊を海に突き落とした云う。それが自殺の名所になった分けではないだろうが、哀れな東尋坊の命名である。

江戸時代の東尋坊の様子を窺い知ることが出来なかったが、東尋坊の直ぐ近くの三国は北前船で栄えた湊町であった。東尋坊を訪ねた人もいたと思われるが、あまり知られていなかったのが実体であろう。江戸時代前期に芭蕉さんは『おくのほそ道』の復路、東尋坊から10㎞ほど離れた金津で雨宿りをしている。その時、金沢在住の俳人・立花北枝(?-1718年)が案内しているが、北枝が東尋坊を知っていれば寄り道を勧めたと推測する。

東尋坊を初めて見物したのは昭和55年(1980年)の4月初旬で、勤めていた会社の慰安旅行の時であったが、移動中のバスで痛飲してあまり覚えていない。2回目の訪問は、平成19年(2007年)の8月中旬で、この時は遊覧船に乗って洋上から柱状節理の断崖を眺めた。東尋坊の入口は飲食店や土産店が軒を連ねる商店街となっていて、観光地に来ている気分が高まる。遊覧船は柱状節理の入り江から発着し、「雄島」と「海食洞」をめぐる30分の遊覧コースであった。独立してそそり立つ「蝋燭岩」が印象深く、入り江に屹立する最大25mの柱状節理は、日本唯一の景観で芸術作品を見るような思いで見上げた。

3回目の時は、前回の訪問でスルーした「東尋坊タワー」に上ることにした。大都市にある有名なタワーは殆ど上ってきたが、「全日本タワー協議会」と言う親睦団体があることを知った。そこには20ヶ所のタワーが加盟していて、東尋坊タワーも含まれていた。名数の旅を重視していたので、東尋坊タワーもクリアしたいと思ったのである。東尋坊タワーは地上55mのタワーであるが、高台にあるため海抜は110mとなる。タワーの開業は昭和39年(1964年)で、同じ全日本タワー協議会の名古屋テレビ塔と同時期である。タワーの展望室から眺める東尋坊は、俯瞰する全貌の眺めが素晴らしく、その先の雄島もくっきりと見える。九頭竜川の河口には三国の街並みが望まれ、その彼方には白山連峰がうっすらと見えた。東尋坊はあらゆる方向や角度から眺めないと味わい尽くしたとは言えないようだ。

明治以降は文人の訪問も多く、高浜虚子(1874-1959年)も東尋坊の句を残している。

「野菊叢 東尋坊に 咲きなだれ」 高浜虚子

②橋杭岩  (訪問回数1回)

橋杭岩は和歌山県串本町東部、紀伊大島を含めた吉野熊野国立公園の南端に位置する。浜辺に大小40あまりの岩柱が約850mの長さで列を成している。その奇観が大きな橋の杭にも見えることから名付けられた。大正13年(1924年)に国の名勝及び天然記念物に指定され、昭和10年(1935年)に追加指定されている。昭和58年(1983年)の「日本の自然100選」では串本として選ばれ、平成17年(2005年)の「日本の朝日百選」に選ばれている。

橋杭岩の成り立ちは、東尋坊と同じく約1,400万年前の新生代第三紀中新世の火成活動によるが、泥岩層の間に流紋岩が貫入した違いがある。隆起後に柔らかい泥岩部が浸食されて、硬い石英班岩が杭状に残されたもの。江戸時代中期の「宝永地震」で崩れた岩柱の一部が津波で運ばれ、岩礁となって周囲に点在する。この地震の起こる約300年前は、現在の橋杭岩よりも壮大な景観であったことを想像すると、一夜にして九十九島が隆起した秋田県にかほ市の象潟と共通した自然造化の罪に感じられて無念さが重なる。

日本各地に弘法伝説が残されているが、この橋杭岩にも空海大師(774-835年)にしては珍しい伝説がある。平安時代初期、弘法大師が天の邪鬼と串本の浜辺から沖合の紀伊大島まで橋を架けることが出来るか否かを賭けと言う。弘法大師の橋の杭が殆ど造り終えた所で、天の邪鬼はこのままでは負けてしまうと思い、ニワトリの鳴きまねをして弘法大師を欺いた。弘法大師は既に朝が来たと勘違いし、勝負に負けたと思いその場を去ったため、橋の杭のみが残ったとされる。歴史的な事実よりも伝説が有名になることもあって、串本から水平距離で約85㎞離れた高野山にいる空海大師は笑っていることだろう。

橋杭岩を訪ねたは平成2年(1990年)の11月初旬で、「熊野三山」をめぐっていた折である。「熊野三山」のある紀伊半島は日本最大の半島でもあり、車の移動は大変であった。阪和自動車道は海南市まで、伊勢自動車道は久居市(現津市)までしか伸びていなかった。それも紀伊半島の最南端に附近にある橋杭岩は、とても遠い辺境地に思われた。しかし、橋杭岩を目の前にした時、見たこともない景観と遭遇し、唖然とした思い出が30余年を経た現在も記憶に残る。髙さ15mの蛭子島が一番高いようであったが、槍の穂先のようでとても橋の杭には見えなかった。干潮時になると、潮が引いて素足で岩場に近付けようで、次回の訪問する時は橋杭岩を手で触ってみたい。串本から小さな観光船が運行されているようなので、洋上から橋杭岩の東側の景観も眺めたい。

橋杭岩に関わらず串本町は、本州最南端の潮岬と紀伊大島を抱える屈指の観光地でもある。串本と紀伊大島の間には平成11年(1999年)、くしもと大橋が完成して利便性が高まった。紀伊大島は未踏の島であるが、ここからも橋杭岩を眺めてみたいし、島めぐりの旅も回を重ねたい。平成26年(2014年)には「日本ジオパーク」に南紀熊野の10市町村が選ばれて、串本町も含まれている。橋杭岩を訪ねた後、潮岬に立ち寄って本州最南端の地を踏み、灯台にも上った。潮岬には法学博士で国務大臣にもなった実業家・下村海雨(1875-1957年)の胸像と歌碑が建っていた。歌碑からは、長閑な潮岬の初春の様子が見えるようである。

「春寒み 野飼の牛も 見えなくに 潮の岬は 雨けむらへり」 下村海雨

③仏ヶ浦  (訪問回数2回)

仏ヶ浦は青森県佐井村南部の陸奥湾に面し、下北半島国定公園の西端に位置する。髙さ90mの峻険な海蝕断崖が約2㎞にわたり、奇異な巨石や岩峰が点在する。昭和16年(1941年)に国の名勝及び天然記念物に指定され、昭和61年(1986年)には平凡社の月刊・太陽で「新日本百景」に選ばれた。平成1年(1989年)の「日本の秘境100選」、平成19年(2007年)の「日本の地質百選」にも選定された。最近購入した朝日出版社の「日本の絶景ベストセレクト2021」の100選に仏ヶ浦が選ばれていたのが嬉しく思われた。

仏ヶ浦の成り立ちは、約2,000万年前の新生代第三紀中新世に起きた海底火山から噴出した火山灰が押し固められ、その後に風雨や波の浸食をによって形成されたもの。岩石の殆どが白っぽい凝灰岩で、柔らかく脆いのが特徴である。太古の神秘さが圧倒的な規模で展開される仏ヶ浦は、極楽浄土とも称される。そのことから仏ヶ浦の奇岩や岩峰の名称には、仏に因んだ名が多い。宗教家で画家の青木慈雲(1929-1998年)は、仏ヶ浦は霊界の入口とあると述べている。仏ヶ浦と同じ下北半島国定公園には、全国的に有名な東北の霊場「恐山」があり、地獄の景観を具現した様子は仏ヶ浦とは雰囲気が対比する。

仏ヶ浦を初めて訪ねたのは平成21年(2009年)の5月初旬で、北海道の箱館や松前に花見旅行をした帰路、津軽海峡フェリーで青森県の大間で下船しての見物であった。佐井漁港からの定期観光船は満席であったので、遠く離れた脇野沢港から乗船することになった。船上から仏ヶ浦の景観を見て、16歳の頃に岩手県宮古市の浄土ヶ浜を眺めた感動が脳裏を過り、浄土ヶ浜よりも規模が大きく素晴らしいと感嘆した。

桟橋から船を降りて遊歩道に立つと、奇景や奇岩のロードショーである。北端には羅漢像のように屹立した岩が重なる「五百羅漢」、屏風のように垂直に切り立つ「屏風岩」、遊歩道の側にある「岩龍岩」、仏具の形をした小さな「香爐岩」、海側と山側の岩肌が異なる「天龍岩」、二羽のニワトリの形をした「双鶏門」、如来が手を合わせた様子に見える「如来の首」、神殿のような空間がある「帆掛岩」、蓮華の葉のような形をした「蓮華岩」、蓬莱山の奥にある白砂の「極楽浜」、凹凸した岩肌の巨壁の「蓬莱山」、カッターナイフの刃のような「一ツ仏」と、12ヶ所の名所がまじかに眺められた。美しい海岸には昔から白砂青松が求められたが、以外と仏ヶ浦には松の木が少ない。添景としてあればと、その景観が倍増すると思うのであるが、ある程度は人が手を加えないといけない。

日本の秘境にも選ばれた仏ヶ浦は、文人墨客の訪ねた歴史は浅く、大正時代までは皆無に等しかった。大正11年(1922年)、紀行作家の大町桂月(1869-1925年)が仏ヶ浦を訪ねて絶賛したのが最初であろう。当時の仏ヶ浦は「仏宇陀」と呼ばれ、地元の人々のみが知る範疇にあった。大町桂月は高知県の旧大町村の出身で、桂月の雅号は高知の名所である桂浜とその名月に由来するようだ。桂月は十和田湖の奥入瀬渓流を世に広めた人で、奥入瀬川支流の蔦川沿いにある蔦温泉を終の棲家と定めて旅の生涯を終えている。桂月が仏宇陀を訪ねて詠んだ歌が、歌碑に刻まれて極楽浜に残されていた。

「神のわざ 鬼の手づくり 仏宇陀 人の世ならぬ 処なりけり」 大町桂月

11.新日本三大湖

名称      国の指定  国立・国定公園名   面積㎢  最大水深m  年間観光客数  所在地

①琵琶湖    なし      琵琶湖国定公園       669     103       4,700万人    滋賀県

②十和田湖  特別名勝  十和田八幡平国立公園  61     326      105万人 青森・秋田県

③摩周湖    なし      阿寒摩周湖国定公園    19     211         100万人   北海道

自然湖に関する名数と言えば、「日本三大湖沼」が景観の自然湖で、青森県と秋田県に跨る十和田湖、山梨県の富士五湖(本栖湖・精進湖・西湖・河口湖・山中湖)、滋賀県の琵琶湖が選ばれている。面積の大きさでは、琵琶湖(670㎢)、茨城県の霞ヶ浦(167㎢)、北海道のサロマ湖(150㎢)が「日本三大湖」に、最大水深では秋田県の田沢湖(423m)、北海道の支笏湖(360m)、十和田湖(326m)が「日本最深湖」となっている。しかし、いずれの選定も単純で、富士五湖などは合わせ技で1本を取ったような塩梅で、再考の余地があると思う。

国の名勝に指定された湖沼としては、北海道釧路市の春菜湖、栃木県日光市の中禅寺湖、山梨県の富士五湖、そして、唯一の特別名勝が十和田湖である。国の天然記念物としては、地質、野鳥、植物に分類される。地質では秋田県男鹿半島の一ノ目潟・二ノ目潟・三ノ目潟、新潟県田代の七ツ釜、山梨県の忍野八海、三重県須賀利の大池及び小池、沖縄県下地島の通り池。野鳥では宮城県の伊豆沼の渡り鳥、福島県の猪苗代湖のハクチョウ。植物では福島県の雄国沼の湿原植物群、猪苗代湖のミズスギコケ群落、東京都の三宝寺池の植物群落、京都府の深泥池の水生植物群、徳島県の出羽島大池のシラタマモ、鹿児島県の蘭牟田池の植物群落が指定されている。特別天然記念物の地質に関しては静岡県富士宮市の富士山本宮浅間神社の湧玉池。野鳥では北海道の塘路湖とシラルトロ湖の渡り鳥。植物では北海道の阿寒湖のまりも、群馬県と福島県の尾瀬沼の高山植物がある。

他にも素晴らしい自然湖があって、北海道では屈斜路湖、洞爺湖、大沼。東北では小川原湖、十三湖、檜原湖。関東では北浦、榛名湖、芦ノ湖。甲信越と北陸では野尻湖、青木湖、諏訪湖、三方五湖(三方湖・水月湖・久々湖・菅湖・日向湖)。中部ではの一碧湖、猪鼻湖、浜名湖。中国では湖山池、東郷湖、宍道湖。そして九州には御池、鯰池、池田湖がある。自然湖の特徴としては、東日本が圧倒的に多く、北海道が特に多いことである。

そんな自然湖の中で重視するのが、海岸と同様に遊覧船の有無である。北海道では阿寒湖、支笏湖、大沼。東北では十和田湖、田沢湖、檜原湖、猪苗代湖。関東では霞ヶ浦、中禅寺湖、榛名湖、芦ノ湖。甲信越と北陸では河口湖、山中湖、野尻湖、諏訪湖、三方五湖。中部と近畿では浜名湖、琵琶湖である。十和田湖と琵琶湖も遊覧船に関しては問題がない。

以上のように天然の湖沼を調べると、「新日本三大湖」に琵琶湖と十和田湖は外せないと思った。そして、残りの1つに何処を選ぶか悩んだ挙句に選んだのが摩周湖である。摩周湖は切り立った斜面を持ち、日本の湖沼では唯一、開発も立ち入りも禁止されている。展望台からのみ眺める湖で、生活用水が流れないために透明度は日本一である。霧に覆われることが多く、この神秘的な湖は昭和42年(1967年)に大ヒットした「霧の摩周湖」の歌謡曲にも歌われた。そう言えば、琵琶湖も「琵琶湖周航の歌」が大正時代にヒットしている。

琵琶湖  平成19年9月28日  唐崎で撮影

十和田湖  平成21年3月1日  御前ヶ浜で撮影

摩周湖  令和2年1月1日  第1展望台で撮影

①琵琶湖  (訪問回数10回)

琵琶湖は滋賀県の中央部に位置し、全域が琵琶湖国定公園で大津市・彦根市・長浜市・近江八幡市・草津市・守山市・野洲市・高島市・東近江市・米原市の10市が湖岸に面する。狭小部に架かる琵琶湖大橋を境に南側を南湖、北側を北湖とも称されている。滋賀県のデーターによると、面積は約670㎢、南北の長さは60㎞、東西の長さ20㎞、湖岸の延長距離は約235㎞、沿岸道路は約200㎞、湖面の標高は約84m、平均水深は約41m、最大水深は約103m、貯水量は約275億トン、透明度は南湖2.2 m ・北湖5.5mとなっている。

琵琶湖は鈴鹿山地・伊吹山地・比良山地などに囲まれた近江盆地にあって、その形成は約440万年前の古代湖で、約40万年前に現在の琵琶湖に定まったようだ。琵琶湖周辺の山々からの土砂の流入が少なく、埋没しなかったのが特徴である。10万年以上の歴史をもつ古代湖は世界に20を数える程度で、日本では琵琶湖だけと聞く。また、淡水湖の琵琶湖は水生動植物の宝庫で、1700種以上が生息し、そのうち60種が琵琶湖の固有種とされる。

古くは淡海や近江の海、鳰の海など様々な名称があって、近年では「びわ湖」と表記されることが多い。湖上には竹生島、沖島、多景島の有人島もあって、竹生島には「西国三十三観音霊場」の宝厳寺と弁財天で有名な竹生島神社がある。名数では室町時代の「近江八景」が定まったが、南湖に限られたので昭和24年(1949年)に「琵琶湖八景」が選定される。明治の「日本十二景」、昭和2年(1927年)の「日本25勝」、昭和41年(1966年)の「新日本旅行地100選」、昭和61年(1986年)の「新日本百景」、平成6年(1994年)の「日本の渚100選」、平成17年(2005年)の「日本の夕日百選」、平成21年(2009年)の「平成百景」、平成27年(2015年)の「日本遺産」と、山は富士山で、湖は琵琶湖と圧倒的な人気である。

琵琶湖は何度訪ねたが定かではないが、『おくのほそ道』を木之本から長浜、米原と自転車で走行した平成5年(1993年)の5月中旬と、東海道と中山道を自転車で踏破した平成19年(2007年)の10月初旬の旅行が忘れられない。平成18年(2006年)の5月初旬の「西国三十三観音霊場」の巡礼の折りは、初めて竹生島を訪れて洋上から琵琶湖を眺めた。船の遊覧としては、平成20年(2008年)の10月初旬の近江八幡の水郷めぐりも有意義であった。また、比叡山(848m)、蓬莱山(1,174m)、武奈ヶ岳(1,214m)、賤ヶ岳(421m)、伊吹山(1,377m)、繖山(433m)、三上山(432m)の山頂からも様々な琵琶湖を眺めた。「近江八景」も一通り巡ったが、「琵琶湖八景」の方が印象深い。①海津大崎の岩礁(暁霧)、②雄松崎の白汀(涼風)、③比叡の樹林(煙雨)、④瀬田・石山の清流(夕日)、⑤賤ヶ岳の大観(新雪)、⑥竹生島の沈影(新緑)、⑦彦根の古城(月明)、⑧安土・八幡の水郷(春色)の美観が琵琶湖八景に選ばれている。琵琶湖八景を堪能するには、四季折々の訪問が不可欠で琵琶湖からは目を離せないようだ。

古来より様々な著名人が琵琶湖に歴史を刻んで来ている。天智天皇(626-672年)の時代は大津京に一時期遷都され、万葉歌人が琵琶湖を題材に和歌を詠んだのもこの頃からである。平安時代に紫式部(生没年不詳)が『源氏物語』を執筆したのは、瀬田の石山寺とされる。万葉歌人の柿本人麻呂(660-724年)は、多くの秀作を詠じていて、その魅力に引きつけられる。

「さざなみの 志賀の大曲 淀むとも 昔の人に また逢わめやも」 柿本人麻呂

②十和田湖  (訪問回数13回)

十和田湖は青森県十和田市・平川市と秋田県小坂町の県境に位置し、十和田八幡平国立公園に属する。面積は約61㎢、湖岸の延長距離は約46㎞、沿岸道路は約50㎞、湖面の標高は約400m、平均水深は約71m、最大水深は約326m、貯水量は約42億トン、透明度は9.0mとなっている。約15,000年前の火山活動ですり鉢状の窪地が形成され、そこに雨水や周囲の山の流入水がたまって出来たのが二重式カルデラ湖の十和田湖である。十和田湖から唯一流出する川が奥入瀬渓流で、自然庭園のように美しい。十和田湖から約20㎞先には、八甲田連峰の山並みが連なり、発荷峠から眺める十和田湖と八甲田連峰は絶景である。

昭和27年(1952年)には、奥入瀬渓流とともに国の特別名勝及び天然記念物に指定された。

他の名数としては、昭和2年(1927年)の「日本八景」、昭和41年(1966年)の「新日本旅行地100選」、昭和62年(1987年)の「新日本観光地100選」、平成21年(2009年)の「平成百景」、平成21年(2009年)の「日本の地質百選」に選ばれている。また、十和田湖を囲む山々には、「十和田湖四大展望所」があって、発荷峠・瞰湖台・御鼻部山・滝ノ沢の展望所である。瞰湖台からは細長い中山半島と溶岩ドームの御倉半島がまじかに眺められる。

十和田湖の歴史の中で有名なのは、十和田湖名物のヒメマスの養殖である。明治38年(1905年)、秋田県側の十和田湖開発の先駆者であった和井内貞行(1858-1922年)が孵化場を作って成功させた。その艱難辛苦の物語は教科書の教材にもなった。明治41年(1908年)には随筆家の大町桂月が十和田湖を訪ねて絶賛し、文壇を通じて世の中に広めている。

十和田湖を初めて訪ねたのは昭和46年(1971年)の7月中旬で、発荷峠から眺めた絶景は18歳の胸に深く刻み込まれた。その4年後に秋田県営の十和田ユースホステルの管理人として半年間勤務した。その頃は安いヨットを購入して湖上の風に戯れ、酸ヶ湯温泉にも度々通った。中山半島には観光客の殆ど知らない「占い場」という名所があって、ほぼ垂直の鉄梯子を降りて訪ねたこともあった。休屋の御前ヶ浜には詩人で彫刻家の高村光太郎(1883-1956年)が晩年に製作した「乙女の像」があって、十和田湖のシンボルともなっている。伝説に近いと思われるが、坂上田村麻呂(758-811年)が創建したとされる「十和田神社」が乙女の像の先に建つ。十和田湖には遊覧船が周航していて、湖上から眺める中山半島と御倉半島も格別の景観である。十和田湖の休屋では、冬期間の集客アップのため「十和田湖冬物語」と題するイベントを平成11年(1999年)から毎年開催している。平成22年(2010年)に見物に行ったが、雪洞の中で飲んだ酒は、横手のかまくらの甘酒よりも美味しく飲んだ。そんな十和田湖の年間観光客数は、ピーク時の300万人から100万人まで激減し、観光拠点地である休屋には、廃業したホテルや旅館、飲食店や土産店が空虚な景観を呈している。十和田ユースホステルも影も形も無くなって、思い出の中に残っているだけである。

十和田湖は古来より修験道の修験地であった一面もあって、南祖坊の伝説もある。江戸時代は盛岡藩の南部領で、その頃に訪れたのが紀行家の菅江真澄(1754-1829年)であった。意外な人物では石川啄木(1886-1912年)が明治34年(1901年)に訪ねて短歌を詠んでいる。

「夕雲に 丹摺はあせぬ 湖ちかき 草舎くさなら 人しづかなり」 石川啄木

③摩周湖  (訪問回数3回)

摩周湖は北海道弟子屈町北部に位置し、阿寒国立公園の特別保護地区となっている。面積は約19㎢、周囲の長さは約19㎞、湖面の標高は約355m、平均水深は約137m、最大水深は約211m、貯水量は約27億トン、透明度は19.0mである。透明度はロシアのバイカル湖に次ぎ世界2位で、沿岸道路はなく第1展望台から第3展望台に続く道路と、裏摩周湖展望台に通ずる道路がわずかに存在する。約7000年前の火山噴火で窪地となった場所に雨水がたまった淡水のカルデラ湖である。湖の周囲は切立った断崖となっていて、標高857mの摩周岳(カムイヌプリ)が聳え、中央部に小さな溶岩ドームのカムイシュ島がある。雨水以外の流水ない閉鎖型の湖で、伏流水が流出していることが近年に確認された。

アイヌ語では「キンタン・カムイ・トー」と称され、山の神の湖を意味すると言う。その名の通り、日本で最も神秘的な湖であったが、大正15年(1926年)に道立水産孵化場がニジマス、ヒメマス、エゾウグイなど放流したことで生態系が変化したようである。現在では特定外来生物種に指定されるウチダザリガニが魚の餌として一緒に放流されたとも聞く。

全国的に殆ど知られてなかった摩周湖が、一躍有名になったのは昭和41年(1966年)に歌手・布施明が歌った歌謡曲「霧の摩周湖」の大ヒットである。作詞は水島哲(1929-2015年)で、作曲は平尾昌晃(1937-2017年)であった。平尾自身は結核で歌手を断念した時、訪ねたこともない摩周湖をイメージして作曲したと言うエピソードがある。そんな影響で釧路市内や釧路湿原に比べると、霧の発生が少ない摩周湖が有名となつたのは皮肉な結果である。

国の名勝や天然記念物の指定はないけれど、昭和41年(1966年)に「新日本旅行地100選」、平成13年(2001年)には「北海道遺産」に認定されている。平成14年(2002年)には民間のシンクタンク総合研究機構が独自のアンケート調査などの結果から屈斜路湖、阿寒湖と一緒に「日本遺産・百選」に選定している。

摩周湖を初めて訪ねたのは昭和46年(1971年)の7月中旬で、阿寒湖から屈斜路湖に向う途中に立ち寄った。当時は小雨の降る天気で、霧の摩周湖ではならぬ煙霧の摩周湖を第1展望台から見物した。2回目の訪問は、平成24年(2012年)の8月中旬で、「日本百名山」の雌阿寒岳の登山を終えた後であった。快晴ではなかったが、展望台から摩周岳と湖上に浮かぶカムイシュ島を眺めた。展望台から見る限りでは、砂浜などの平坦地は全くなく、褐色の断崖と深緑の樹林が人を寄せ付けない雰囲気を醸し出していた。3回目の見物は令和2年(2020年)の元旦で、9泊10日で道東を主に旅行した時であった。天候にも恵まれて、摩周ブルーと称れる独特の湖面色を堪能できた。摩周湖周辺は常緑樹が多く紅葉の名所でもないが、新雪に包まれた摩周ブルーの摩周湖は実に美しいと感じた。

摩周湖には交通の便が良くなかった昭和初期の昭和6年(1931年)、高浜虚子(1874-1959年)が摩周湖を訪ね、林芙美子(1903-1951年)が昭和9年(1934年)頃に訪れて短編の紀行文『摩周湖紀行』を執筆している。若い頃から短歌に親しんだ芙美子であるが、摩周湖を詠んだものはない。虚子も同様で、投宿した鐺別温泉で読んだ句が句碑に記されている。

「澤水の 川となり行く 蕗の中」 高浜虚子

12.新日本三大山岳景勝地

名称     国の指定              国立公園名  面積㎢ 標高m  年間観光客数  所在地

①上高地   特別(名勝・天然記念物)中部山岳公園  113   1,500   150万人      長野県

②尾瀬     特別天然記念物        尾瀬          89   1,450    25万人  群馬・福島県

③坊ガツル なし                  阿蘇くじゅう 0.53   1,230    10万人      大分県

山岳の景勝地は日本各地に様々あるが、登山装備をしなくても一般観光客が気軽に訪ねられる場所となると限られてくる。長野県松本市の「上高地」と、群馬県片品村・福島県檜枝岐村・新潟県魚沼市にまたがる「尾瀬」が有名である。上高地と尾瀬は、昭和2年(1927年)に東京日日新聞が発行した「日本25勝」に選ばれている。「新日本三大山岳景勝地」を新たに選定すると、大分県竹田市の「坊ガツル」が脳裏に浮かんだ。

選定の絶対条件としては、国立公園内にあることと、観光客が多く訪ねることが条件となった。坊ガツルは全国的な知名度は低いものの、九重連山の登山基地として九州では人気が高い。昭和53年(1978年)、歌手の芹洋子がNHKのみんなのうたで歌った「坊がつる讃歌」がヒットし、全国的に知られるようになったが、上高地や尾瀬ほどではない。「坊がつる讃歌」はもともと、広島高等師範学校(現広島大学)山岳部の学生歌であったが、九州の山岳愛好家の間で歌われるようになって流行ったと聞く。そう言えば、「琵琶湖周航の歌」

も第三高等学校(現京都大学)の水上部(後のボート部)の学生歌であったことを思い出す。「琵琶湖周航の歌」は様々な歌手がカバーしたが、加藤登紀子が昭和46年(1971年)にカバーして大ヒットさせた。このような御当地叙情歌の先駆けとなったのが、尾瀬をテーマとした「夏の思い出」である。昭和24年(1949年)、NHKのラジオ番組「ラジオ歌謡」でシャンソン歌手の石井好子(1922-2010年)が歌って瞬く間に広まったようだ。

坊ガツルと尾瀬にはヒットした歌謡曲があったが、上高地にも穂高岳をテーマにした歌がある。昭和41年(1966年)に往年の歌手・克美しげる(1937-2013)が歌った「雪山に消えたあいつ」であった。ほとんどヒットしなかったが、ダーク・ダックスがその後にカバーして、山岳愛好家に歌われるようになった。雪山で亡くなった友を追悼する内容の歌で、山男ならば誰でも思う、死を実感する宿命の歌でもあった。

上高地は自然の国宝とも言うべき、国の特別名勝及び特別天然記念物に昭和27年(1952年)に指定され、尾瀬は特別天然記念物に昭和35年(1960年)に指定されている。坊ガツルは単独の指定ではないが、隣接する大船山のミヤマキリシマ群落が国の天然記念物に指定されている。他には「くじゅう坊ガツル湿原」としてラムサール条約に登録されている。

「新日本三大山岳景勝地」で共通点と言えば、日本人に欠かせない温泉の有無であり、坊ガツルには、修験道の寺院があった時代から続く「法華院温泉山荘」がある。上高地の入口には、剣豪・塚原卜伝(1489-1571年)の湯で知られる「中ノ湯温泉旅館」があり、最近では「上高地温泉」が開湯している。法華院温泉と中ノ湯温泉は「日本秘湯を守る会」に加盟している温泉宿である。また、尾瀬には、尾瀬ヶ原の北の只見川沿いに「渋沢温泉小屋」がある。小さな温泉宿であるが、尾瀬唯一の露天風呂は野趣たっぷりの湯である。

上高地  平成29年10月8日  河童橋を撮影

尾瀬  平成24年9月9日  尾瀬沼と燧ヶ岳を撮影

坊ガツル  平成29年4月14日  法華院温泉を撮影

①上高地  (訪問回数5回)

上高地は長野県松本市の西端に位置し、中部山岳国立公園の特別保護地区にある。飛騨山脈(北アルプス)南部の梓川上流の流域にあって、面積が約113㎢、長さが大正池から横尾まで約10㎞、谷間の最大幅が約1㎞、平均標高が1,500mの堆積平野である。梓川の西側には、焼岳(2,455m)、西穂高岳(2,909m)、前穂高岳(3,090m)、奥穂高岳(3,103m)、北穂高岳(3,106m)、槍ヶ岳(3,180m)、東側には霞沢岳(2,646m)、大滝山(2,616m)、蝶ヶ岳(2,677m)、常念岳(2,857m)の山々が連なっている。上高地の近年の評価としては、昭和62年(1987年)の「新日本観光地100選」に北アルプスとともに選ばれているだけで意外と少ない。、

梓川に架かる「河童橋」は、長さが37mの吊橋で上高地のシンボル的な存在でもあり、狭義では河童橋の周辺を上高地と称する場合もある。他に上高地の名所としては、焼岳の噴火によって堰き止められた「大正池」で、立ち枯れの木々の景観が特徴的である。河童橋を渡りハイキングコースに入ると、「穂高神社奥宮」及び「明神池」がある。明神池は神社の境内となっているため有料の見物となる。上高地バスターミナルからは、2.8㎞の距離にあるため、時間にゆとりがないと上高地の名所はめぐれない。

上高地は昔、穂高神社が創建された頃は「神垣内」と表記され、江戸時代には「神河内徳郷」と呼ばれ、松本藩が樹木伐採で役人小屋を設置したとされる。文政11年(1828年)には修験僧・播隆上人(1786-1840年)が槍ヶ岳に登頂し仏像を安置したとされる。明治26年(1893年)には、イギリス人宣教師のウォルター・ウェストン(1861-1940年)が前穂高岳に登頂して日本アルプスの魅力を本国に紹介した。近年では上高地の観光化進み、一般車両の乗り入れが禁止になって、沢渡と平湯温泉からシャトルバスを利用することになる。現在の上高地には13軒のホテルや旅館が点在し、土産店を兼ねた飲食店なども多い。

上高地を初めて訪ねたのは昭和52年(1977年)の6月初旬で、涸沢から穂高岳の登山が目的であった。颯爽と河童橋を渡って出発したが、涸沢まで1日を要し、残雪の穂高岳は初心者では容易に登れる山でなく、涸沢で春スキーを楽しんで下山した。しかし、雪焼けによって顔面が赤く腫れ上がり、痛々しい顔で再び河童橋を渡った思い出がある。2回目の訪問は平成22年(2010年)の10月初旬で、奥穂高岳の岳沢コースをピストンした日帰り登山の時である。3回目の訪問は平成23年(2011年)の9月下旬で、「日本百名山」91座目の登頂を目指し槍ヶ岳に登った時で、槍ヶ岳山荘に1泊した翌日に穂高神社奥宮を参拝して明神池を久々に眺めた。4回目の訪問は平成26年(2014年)の8月中旬で、蝶ヶ岳を下山して氷壁の宿徳沢園に投宿した。作家の井上靖(1907-1991年)が『氷壁』を執筆した憧れの宿でもあった。5回目の訪問は平成29年(2017年)の10月初旬で、上高地最北の横尾山荘に泊って、翌日は奥穂高岳に登った。涸沢の紅葉が素晴らしく、やはり上高地からの穂高岳登山は山の銀座通りと再認識させられた。梓川から眺める霞沢岳は威厳に満ちた美観である。

上高地を訪ねた文人では、昭和8年(1933年)に歌人の斎藤茂吉(1882-1953年)が知られる。上高地の紅葉を眺めるためにわざわざ自動車で入って、短歌を残している。

「くれなゐの 濃染のもみぢ 遠くより 見つつ来たりて いま近づきぬ」 斎藤茂吉

②尾瀬  (訪問回数3回) 

尾瀬は尾瀬ヶ原附近で群馬県、福島県、新潟県の県境が交わり、尾瀬国立公園の特別保護地区にある。標高が約1,450mの盆地状の湿原で、新潟に流れる阿賀野川水系最大の支流・只見川の源流域ともなっている。中心となる尾瀬ヶ原は約1万年前に形成されたと言われ、面積は89㎢に及ぶ。周辺には「日本百名山」の至仏山(2,228m)と燧ヶ岳(2,356m)が聳え、東側には尾瀬沼と大江湿原がある。尾瀬に入る主なルートとしては、至仏山附近の「鳩待峠」、南側の「大清水」、北側の「御池」の3ヶ所で、御池付近は福島県にあるため「福島尾瀬」とも呼ばれている。昭和2年(1927年)の「日本百景」には尾瀬沼が選ばれ、昭和61年(1986年)の「新日本百景」には尾瀬ヶ原が選ばれた。昭和41年(1966年)の「新日本旅行地100選」、平成1年(1989年)の「日本の秘境100選」、平成14年(2002年)の「日本遺産・百選」、平成21年(2009年)の「平成百景」などに選ばて評価が非常に高い。

江戸時代の尾瀬には会津沼田街道があって、沼田から片品川沿いに三平峠を越え、尾瀬沼と沼下峠を経て檜枝岐川を下って会津に至る街道であった。街道が廃れると尾瀬は未開の地となるが、明治時代に檜枝岐村の平野長蔵(1870-1930年)が燧ヶ岳を初登頂して開山し、尾瀬沼に長蔵小屋を建て尾瀬観光の道を開いた。大正時代なって電力会社による尾瀬原ダム建設が計画されると、平野長蔵が中心となって反対運動を起こし尾瀬の自然を守られた。

尾瀬の魅力は様々に咲く植物で、日本の植物は約7,000種あるとされるが、尾瀬では900種が確認されていて、その種類の多さには驚くばかりである。尾瀬は高山植物の宝庫でもあって、尾瀬特有の希少種が約30種あるとされる。特に尾瀬ヶ原に高山植物が多く自生し、初春のミズバショウ、初夏のニッコウキスゲとワタスゲ、盛夏のエゾアジサイ、初秋のサワギキョウの大群落は高山植物の圧巻で、晩秋の草紅葉もまた美しい。

尾瀬を初めて訪ねたのは平成20年(2008年)の9月下旬で、御池から燧ヶ岳に登って尾瀬沼へと下山した。尾瀬は交通のアクセスが良いとも言えず、憧れのまま心の中に残っていた。燧ヶ岳の山頂からは尾瀬沼と尾瀬ヶ原の全貌と、至仏山の山容が眺められた。静かに打ち寄せる尾瀬沼の波音と大江湿原の花の盛りを過ぎたノアザミが群生していた。2回目の訪問は平成21年(2009年)の8月中旬で、鳩待峠から尾瀬ヶ原を見物して至仏山に登った。この時は尾瀬唯一の渋沢温泉に泊ろうと思ったが満室とのことで断念した。3回目の訪問は

平成24年(2012年)の9月上旬で、この時は平ヶ岳に登って「日本百名山」を完全踏破した記念すべき日でもあった。再び御池から入り、尾瀬沼を一周した。沼辺からは燧ヶ岳がくっきりと見え、山頂に立った時の真逆の景観が脳裏を過る。殆どの高山植物が開花時期を過ぎ、尾瀬の見物は春から夏のシーズンが良いと思う。渋沢温泉にも泊ってみたいし、尾瀬の山旅には未練が尽きず、至仏山と燧ヶ岳にも再び登ってみたいものである。

尾瀬を訪ねた文人墨客を調べると、江戸時代の随筆家・鈴木牧之(1770-1842年)が魚沼ルートで訪ねている。また、尾瀬と言えば唱歌「夏の日の思い出」を作詞した江間章子(1913-2005年)がいる。その歌詞の一部を短歌にアレンジしたら面白いと思い作ってみた。

「夏来れば 遥かな尾瀬を 思い出す 水のほとりの 水芭蕉の花」

③坊ガツル  (訪問回数2回)

坊ガツルは大分県竹田市の西端に位置し、阿蘇くじゅう国立公園の九重連山とともに特別保護地区となっている。やまなみハイウェイにある牧ノ戸峠と並び九重連山の登山基地となっている。牧ノ戸峠には道路に面した駐車場があるが、坊ガツルへは長者原から約4.7㎞を徒歩で入ることになる。坊ガツルの中心は「くじゅう坊ガツル湿原」で、標高1,230mにある中間湿原の面積は0.53㎢(53ha)と、中間湿原では国内最大級とされる。坊ガツルの周囲は九重連山の最高峰・中岳(1,791m)、三俣山(1,745m)、大船山(1,786m)が屹立する。

鎌倉時代末期、坊ガツルには修験道場の法華院白水寺が開基されるが、戦国時代の大友氏と島津氏の争いに巻き込まれて諸堂の殆どが焼失される。江戸時代に再興されるも明治時代の神仏分離令で修験道は禁止されて、弘蔵坊だけが残った。明治中期から登山者が増え、弘蔵坊の住職・弘蔵氏は山宿を開業する。これが現在の法華院温泉山荘の前身であり、弘蔵氏が寺の住職として26代目、山荘の経営者としては、3代目になるそうだ。

坊ガツルは昔、牛の放牧地でもあって毎年地元の人たちによって野焼きが行われた。しかし、農家の高齢化や後継者不足によって野焼きが中止されると、湿原には低木が生い茂る荒れた原野になったと言う。そこで湿原を守ろうと、地元有志によって平成12年(2000年)に32年ぶりに野焼きが行われる。すると湿原が次第に回復し、平成17年(2005年)にはラムサール条約の登録湿原となった。貴重な湿原の保護は人間が守らないとならぬようだ。

坊ガツルを最初に訪ねたのは平成27年(2015年)の5月上旬で、涌蓋山(1,500m)に登った後に長者原から入った。長者原にはタデ湿原があって、ここもラムサール条約に登録されている。坊ガツルへのハイキングコースは九州自然歩道となっていて道幅も広く歩き易くかった。雨ヶ池に至ると展望が開け、北西には午前中に登った涌蓋山、南西に三俣山、南に坊ガツル湿原、南東に平治岳や大船山が連なっていた。坊ガツル湿原を散策しながら進むと、湿原の端にこげ茶色の家並みが見え、法華院温泉山荘がポツンと1軒建っている。憧れの温泉で、日帰り入浴だけでも味わいと、往復4時間も費やして念願を叶えた。2回目の訪問は平成29年(2017年)の4月中旬で、ミヤマキリシマの開花期には早く微妙な季節であった。富士山にも一緒に登った友人との山旅で、法華院温泉山荘への予約も取ってあった。前回と同様のコースを進み、坊ガツルキャンプ場から大船山をピストンで登山した。法華院温泉山荘に入館して先ずは温泉に入り、登山後の汗を流した。浴室のベランダからは先ほど登った大船山が眺められ、ミヤマキリシマが咲いていればと追想した。建屋の中には観音堂があって、現在も寺院の面影を残していた。翌日は北千里浜から御池をめぐり、中岳と久住山(1,787m)に登った。久住山は牧ノ戸峠から登った平成22年(2010年)の3月下旬に次ぐ登山で、まだ残雪があったことが思い出される。

坊ガツルの大船山には、江戸時代の岡藩3代藩主・中川久清が遺言で築かせた墓がある。大正・昭和期になると、くじゅう一帯は観光化が進み、多くの文人が訪ねている。中でも昭和3年(1928年)に訪ねた詩人の北原白秋(1885-1942年)は、珍しく短歌を書き残している。

「草深野 ここにあふげば 国の秀や 久住は高し 雲を生みつつ」 北原白秋

13.新日本三大高原

名称        国の指定    国定公園名       面積㎢   標高m  年間観光客数  所在地

①軽井沢      なし        なし              156     1,000      800万人    長野県

②霧ヶ峰      天然記念物  八ヶ岳中信高原     43     1,600      220万人    長野県

③清里高原    天然記念物  なし              120     1,200      200万人    山梨県

山岳の「新日本三大山岳景勝地」の選定だけでは納得がいかず、山岳とは趣の異なる高原の名所を選んだのが「新日本三大高原」である。「新」を付けると「旧」があったと勘違いされるが、今回の選定は全く新しい選定であることを最初にお断り願いたい。

高原と言えば、歌手の舟木一夫が昭和40年(1965年)にヒットさせた「高原のお嬢さん」の唄のイメージがあって、金持ちの別荘地と思っていた。他には俳優の田宮二郎(1935-1978年)が昭和51年(1976年)に主演したテレビドラマ「高原にいらっしゃい」も庶民の感覚から離れた富豪者のホテルがテーマであった。

日本にある高原風景には、牧歌的な人工による高原と、軽井沢や八ヶ岳山麓のような別荘地、自然のまま残された湿原や草原などがある。その中から3ヶ所を選ぶのは、選定基準が曖昧となってしまう。そこで基準にしたのが標高1,000m以上、年間観光客数が多いことである。その基準に見合ったのが、先ずは長野県軽井沢町の「軽井沢」で、次は同じ長野県松本市の「美ヶ原」か、長野県諏訪市・茅野市・下諏訪町・長和町に所在する「霧ヶ峰」と思ったが、互いの距離が近いことから「霧ヶ峰」に軍配を上げた。霧ヶ峰は某家電メーカーの商品名にもなっていて、軽井沢とは雰囲気が異なる高原とも考える。

残り1ヶ所目をどこにするか考えた時、知名度からして長野県の「志賀高原」、山梨県の「清里高原」、大分県の「久住高原」の中からと思った。志賀高原を選ぶと、「新日本三大高原」は長野県が独占するし、久住高原は「新日本三大山岳景勝地」の坊ガヅルと重複する。すると、清里高原が残り、「新日本三大高原」の3番目に選ぶことにした。

全国各地には高原の名の付く景勝地が数多あるけれど、「新日本三大高原」に続く高原としては、先にあげた長野県の志賀高原と美ヶ原高原で、同じく長野県の蓼科高原や入笠高原も有名である。長野県は高原のみならず山岳などの景勝地も多く、「山と高原の王国」とも言える。長野県以外の高原としは、北海道の大雪高原・ニセコ高原、山形県の蔵王高原、福島県の吾妻高原、栃木県の那須高原、静岡県の天城高原、岡山県の蒜山高原、大分県の久住高原、鹿児島県のえびの高原などが規模も大きく代表的な高原と言える。

高原には霧ヶ峰のように純粋な自然景観が評価される高原と、別荘地として人工的に開発された高原の2種類がある。中には清里高原のように自然景観もそこそに評価される高原もある。別荘地としての観点を重視した場合,軽井沢と清里高原には別荘地の聖地のような存在感があるが、いずれも東日本にある。そこで西日本にはどうなのかと思ったとき、「西の六甲、東の軽井沢」と呼ばれる兵庫県神戸市の「六甲山」がある。他には和歌山県白浜町の「南紀白浜」も高級別荘地で、三重県志摩市に「伊勢志摩」にも別荘が点在する。しかし、西日本の別荘地は海と隣接していて高原を伴う別荘地ではないので省略する。

軽井沢  平成19年10月10日  ショー記念礼拝堂を撮影

霧ヶ峰  平成22年7月19日  八島ヶ原湿原を撮影

清里高原  平成23年5月15日  国道から撮影

①軽井沢  (訪問回数2回)

軽井沢は観光地のブランド名となっていて、長野県軽井沢町の全体を指す場合と、長野県御代田町の西軽井沢(中軽井沢)、群馬県長野原町の北軽井沢、群馬県嬬恋村の奥軽井沢、群馬県安中市の西軽井沢を総称する場合もある。軽井沢町では本家本元を旧軽井沢とし、南部を南軽井沢と称している。その主体である軽井沢町は、人口約2万人、面積156㎢、平均標高が1,000m、約130年の歴史を数えるリゾート高原である。

軽井沢高原の形成は、約100万年前の浅間山の火山活動で碓井峠付近が平地となり、約2万年前の黒斑山で起きた山体崩壊で泥流が湯川を堰き止め、軽井沢一帯は湖となった。その後に浅間山の火山活動で隆起し、火山砕屑物が湖一帯を覆い尽くして現在の地形が形成されたそうだ。火山砕屑物の殆どが軽石で、各所に谷や沢があったことから「軽石沢」と称され、転じて軽井沢となったとする説がある。

軽井沢が歴史的に有名になるのは、江戸時代に開かれた五街道の1つ中山道の宿場町として栄えたことだろう。軽井沢附近には軽井沢宿(旧軽井沢)、沓掛宿(中軽井沢)、追分宿(信濃宿)の「浅間三宿」があった。大名行列や旅人の往来で賑わい、軽井沢宿の北端に位置する二手橋は、旅人と飯盛女が別れを惜しみ二手に分かれたことから名付けられた言う。明治時代に入ると、碓井峠を越える碓井新道が開通すると軽井沢の宿場町は役割を終え衰退する。そんな頃の明治21年(1888年)、カナダ人宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショーが民家を改造して避暑を兼ねた保養の別荘とした。これが軽井沢の別荘第1号とされ、「ショーハウス記念館」として移築保存されている。それ以降は外国人の避暑地に限らず、皇室や政財界人の別荘が建てられて、軽井沢銀座とも称された商店街も形成された。軽井沢に別荘を所有した人物の顔ぶれを見ると、近代日本の歴史を垣間見るような面々である。

軽井沢は鉄道列車の車窓から眺めたことがあったが実際に訪ねたのは、平成19年(2007年)の10月上旬で、「中山道」を自転車旅行した時であった。若い頃から軽井沢は遠い存在に見え、観光で訪ねようとは1度も思わなかった。しかし、松尾芭蕉(1644-1694年)の足跡を自転車で踏破することが夢で、その足跡すべてが心の宝物となって軽井沢も含まれていた。追分宿には茅葺き造りの追分宿郷土館と一里塚があって、軽井沢宿には旅籠の面影を残す「つるや旅館」があった。移築されたショーハウス記念館もこの時に見物した。2回目の訪問は平成25年(2013年)の4月初旬で、軽井沢から眺める浅間山の絶景を探しての旅であった。明治天皇(1852-1912年)も巡幸の際、軽井沢から浅間山を眺め絶賛したとされる。軽井沢で、珍しく思ったのが「熊野皇大神社」で、境内が長野県と群馬県にまたがっているのである。そう言えば、志賀高原の「渋峠ホテル」の建物は長野県と群馬県に二分されているのであった。結局のところ、浅間山の景観を見るのであれば、上信越自動車道から眺める景観が素晴らしく、灯台もと暗しのようだと長野市に向う途上で思った。

軽井沢を訪ねて印象深いのは松尾芭蕉の句碑で、貞享1年(1684年)の『野ざらし紀行』の折りに詠んだもの。天保14年(1843年)に軽井沢在住の俳人によって建立された。

「馬をさへ ながむる雪の あした哉」 松尾芭蕉

②霧ヶ峰  (訪問回数3回)

霧ヶ峰は長野県の2市2町に分布し、八ヶ岳中信高原国定公園の一部を占め、ビーナスライン(県道40号)の最高地に位置する。霧ヶ峰の平均標高は1,600mで、全体の面積は不明であるが、国の天然記念物である八島ヶ原湿原の面積43haとされる。西南麓に諏訪湖があるためか、霧の発生率が高く、平均すると1年の200日間は霧がかかると言われる。その気象的な特徴から「霧ヶ峰」の名称になって、山岳ではないので霧ヶ峰高原となった。

霧ヶ峰の成り立ちは約140万年前の火山活動に始まり、約30万年前に現在の地形となって、約1万2,000年前に八島ヶ原湿原が誕生したとされる。八島ヶ原湿原の他にも車山と池のくるみ踊場湿原があって「霧ヶ峰三大湿原」と称されている。湿原を含めた周辺には400種以上の高山植物が確認され、キリガミネの名の付く植物が6種ある。哺乳類は約40種、鳥類は39種が確認されている。しかし、霧ヶ峰も例外ではなく、ニホンジカの増加による食害が進み、豊かな植生が失われることが懸念される。

霧ヶ峰は黒曜石の産地でもあったことから旧石器時代から縄文時代の遺跡が発見され、食糧の豊富な海辺や河川域にばかり人類が定着していたわけではなかったようだ。山の中の鍾乳洞でも人類は生活していたわけで、それが霧ヶ峰の高地にあっても不思議ではない。

時代は飛んで中世になると、武士たちが鷹狩や流鏑馬の鍛錬に訪れたようで、八島ヶ原湿原に旧御射山遺跡が発見されている。御射山祭は諏訪大社の祭事で、鎌倉幕府の重臣や関東一円の武士団が集い、10万人とも言われる見物客が集まったとされる。この頃から野焼きも行われて、草原化したようである。昭和43年(1968年)に有料道路のビーナスラインが開通すると、スキー場もオープンして観光化が進む。日本のグライダーの発祥地でもあって、現在でも青空の中を優雅に滑空するグライダーを目にする。

霧ヶ峰を初めて訪ねたのは昭和47年(1972年)の11月初旬で、上諏訪温泉に前泊してバスで上った。「高原のお嬢さん」に憧れての霧ヶ峰であったが、晩秋の高原にはお嬢さんの姿はなく、白樺湖へと「湖畔の乙女」を探しに下ったのである。2回目の訪問は平成22年(2010年)の7月中旬で、「日本百名山」の車山登山が目的であった。標高1,925mの山頂に立つと、目前には蓼科山、南西には八ヶ岳と富士山の百名山の仲間たちが見渡せた。草原にはわずかにニッコウキスゲが咲き残り、山に来ている感慨も深まる。その日は霧ヶ峰の旅館に泊ったが、スキー場が廃止されて久しいのに物置にスキー板が置かれていた。霧ヶ峰のシンボルの1つ、霧鐘塔の音が祇園精舎の鐘のように虚しく響く。3回目の訪問は平成30年(2018年)の5月中旬で、2度目の車山登山の時で、前回の登山では雲かくれていた中央アルプスが残雪に包まれて輝いていた。今回の登山は車山高原からピストンとなったので、霧ヶ峰の草原まで踏めなかったが、滑空するグライダーが草原の風を運んでくれたのが嬉しい。霧ヶ峰には牧草地があるが、牛がいないのは淋しく、美ヶ原との違いを感じる。

霧ヶ峰には上諏訪出身の歌人・島木赤彦(1876-1926年)が登山し、『女子霧ヶ峰登山記』のエッセイを残している。霧ヶ峰は汗をかいて登らないと、その魅力は味わえないようだ。

「霧ヶ峰 登りつくせば 眼の前に 草野ひらけるて 花咲きつづく」 島木赤彦

③清里高原  (訪問回数3回)

清里高原は八ヶ岳の南東麓にあって、山梨県北杜市の北端に位置する。平均標高が1,200mで、南牧村の野辺山高原と隣接しているが地理的な区別はない。清里高原のペンション村の面積が約120 haで、この地域が清里高原の中心となる。八ヶ岳の火山活動で形成された高原地帯で、河川の浸食によって削られたため平坦な場所が少なく急坂の多い地形となった。河川の名残としは、「川俣川渓谷」があって、標高1,542mに「美し森」がある。

清里高原の展望所でもある美し森の大ヤマツツジは、昭和10年(1935年)に国の天然記念物に指定されている。昭和13年(1938年)には清里開拓の父とされるアメリカ人宣教師ポール・ラッシュ(1897-1979年)博士が美し森に「清泉寮」を創設する。この頃にダムに沈む村から28戸の開拓民が移住していた。ラッシュ博士は戦時中にアメリカに強制送還されるが、戦後は再び清里高原に戻って地元民と共に開拓に生涯を捧げた。

日本交通公社(現JTB)から昭和37(1962年)に初版発行された最新旅行案内9『蓼科・上高地』には、清里高原の名はなく、美し森の国民宿舎八ヶ岳ロッジと清泉寮の宿泊施設だけが記されていた。有名でもない清里高原が注目されるのは、昭和45年(1970年)代から昭和55年(1980年)にかけて女性週刊誌『an・an』や『non・no』が頻繁に取り上げた頃であった。その週刊誌を手に旅する女性は「アンノン族」と呼ばれ、一大ブームが清里高原に起こった。昭和50年(1975年)の調査では87万人だった観光客数は、昭和64年(1989年)のバブル期には254万人まで増加した。ペンションの数は約130軒、別荘の数は約100戸に上って、日本を代表するリゾート観光地となるのである。バルブの崩壊後は衰退を余儀なくされるが、それでも年間観光客数は200万人をキープしているようだ。

清里高原を初めて訪ねたのは昭和51年(1976年)の9月初旬であったが、当時はアンノン族が闊歩していた頃である。男3人のドライブ旅行でもあったので、立ち寄る雰囲気でなかったと記憶する。2回目の訪問は平成23年(2011年)の9月中旬で、小淵沢の温泉ホテルに前泊し、「日本百名山」の甲武信ヶ岳(2,475m)に向う途中であった。アンノン族の姿も消え、35年前の賑わいはなかった。タレントの経営する店舗が京都の嵐山のように清里高原にもあったが、そのすべてがなくなり、夢幻のようなブームであった。日本人は熱しやすく冷めやすいと揶揄されるが、その影響は観光地にも及んでいるようだ。次から次ぐに新たなリゾート地が開発されると観光客の流動が激しくなる。あまり風光明媚な自然景観の少ない清里高原は、ペンション村だけでは飽きられてしまう。最近では同じ八ヶ岳の山麓にある長野県原村が日本一のペンション村とされている。3回目の訪問は平成30年(2018年)の4月中旬で、清里高原の南にある「道の駅南きよさと」に立ち寄った。道の駅はドライブ旅行には欠かせない施設で、清里高原には道の駅がないので南きよさととなる。

清里高原は歴史が浅く明治の文人は訪ねていないが、手前の小淵沢高原には歌人の若山牧水(1885-1928年)が大正12年(1923年)の晩秋に訪ねている。その時に詠んだ短歌の歌碑が「生涯学習センターこぶちざわ」に建っていた。

「甲斐の国 こふちさはあたりの 高原の 秋すゑつかたの 雲のよろしさ」若山牧水

14.新日本三名橋

名称            国の指定    種別             全長m 幅m  年間観光客数  所在地

①岩国の錦帯橋    名勝        木造5連アーチ橋  199.3  5.0     70万人     山口県

②長崎の眼鏡橋    重要文化財  石造2連アーチ橋   22.0  3.6   推定50万人   長崎県

③祖谷のかずら橋  有形文化財  木造吊り橋         45.0  2.0     35万人     徳島県

橋には様々な名数があって、古くは京都府京都市の山崎橋(山崎太郎)、滋賀県大津市の瀬多橋(近江次郎)、京都府宇治市の宇治橋(宇治三郎)の「日本三大橋」がある。奈良時代に架けられた古い橋なので「三古橋」とも称されるが、現存する橋の名はなく、瀬多橋だけが瀬田の唐橋として継続されている。有名な橋の名数として「日本三名橋」があって、山口県岩国市の錦帯橋、長崎県長崎市の眼鏡橋、東京都中央区の日本橋である。日本橋にかわって東京都千代田区の二重橋をあげる場合もあって明確に選定されてはいない。また、「日本三奇橋」の名数もあって、錦帯橋の他に山梨県大月市の猿橋、富山県黒部市の愛本橋であるが、愛本橋は現在はないので徳島県三好市のかずら橋に変わっている。その名橋と奇橋の中から選んだのが「新日本三名橋」である。岩国の錦帯橋は文句なしの名橋で、長崎の眼鏡橋も市内にある石橋としては珍しく、祖谷のかずら橋も観光地として有名である。

名数の橋に地域の三大橋が多く、東京の「江戸三大橋(両国橋・千住橋・六郷橋)」、大阪の「浪華三大橋(天満橋・天神橋・難波橋)」、京都の「洛陽三大橋(三条大橋・四条大橋・五条大橋)」、北海道の「三大名橋(豊平橋・幣舞橋・旭橋)」がある。他に珍しい選定としては「日本三大霊橋」で、三重県伊勢市の伊勢神宮の宇治橋、和歌山県高野町の高野山奥之院の一ノ橋、栃木県日光市の二荒山神社の神橋がある。三大の名数以外には五大の付く選定には、東京の「江戸五大橋(千住大橋・吾妻橋・両国橋・新大橋・永代橋)」であるが三大橋に比べると六郷橋が消え、千住橋は大橋となっている。それは京都も同様で「山城五大橋(三条橋・五条橋・伏見豊後橋・大淀橋・宇治橋)」となっている。

2桁の名数としは、神奈川県鎌倉市の「鎌倉十橋(琵琶橋・筋違橋・歌ノ橋・勝ノ橋・裁許橋・針磨橋・戎堂橋・逆川橋・濫橋・十王堂橋)」、千葉県佐原市の「潮来十二橋(前川橋・上米橋・千石橋・真菰橋・出島橋・前川水門・二重谷大橋・潮音橋・水雲橋・思案橋・あやめ橋・潮来大橋)」である。鎌倉十橋は古い選定で現存しない橋もあって、記念の標柱が建っている。潮来十二橋は観光用の「さっぱ舟」で遊覧ができるのが良い。大きな橋の名数には、東京都荒川区・台東区・墨田区・中央区・江東区の「隅田川十三橋(千住大橋・白髭橋・言問橋・吾妻橋・駒形橋・厩橋・蔵前橋・両国橋・新大橋・清州橋・永代橋・佃新橋・勝鬨橋)」がある。三桁の名数としては、平成10年(1998年)に鹿島出版社から刊行された「日本百名橋」があるが、中には架け替えられた橋もあって詳細は割愛する。

名橋の中には国の重要文化財に指定されている橋も多く、石造アーチ橋では福岡県の早鐘眼鏡橋、長崎県の眼鏡橋・幸橋・諫早眼鏡橋、熊本県の霊台橋・通潤橋、沖縄県の天女橋などがあり、木造では栃木県の二荒山神社神橋、京都府の東福寺偃月橋・高台院観月台・上賀茂神社片岡橋、広島県の厳島神社反橋・長橋・揚水橋などがある。

岩国の錦帯橋  平成25年3月28日  撮影

長崎の眼鏡橋  令和4年1月2日  ウェブのコピー

祖谷のかずら橋  平成26年10月30日  撮影

①岩国の錦帯橋  (訪問回数1回)

錦帯橋は山口県岩国市にある錦川に架かる橋で、形式は5連木造アーチ橋で全長は193.3m、幅は5m、橋台の高さ6.64mである。中央3連の反橋を支える4基の橋脚は鉄筋コンクリートで壁面に石張りが施されている。両端の2つの橋は緩やかな反りをもつ木造の桁橋構造である。最初に架橋されたのは江戸時代前期の延宝1年(1673年)で、岩国藩主・吉川広嘉(1621-1679年)によってである。しかし、翌年の洪水で橋脚が壊れ、木橋も落ちてしまい、橋台の敷石を強化するなど改良が行われて再建された。その後は昭和期まで250年以上橋脚の流失はなく、定期的に木橋の建て替えが行われる程度であった。

大正11年(1922年)に国の名勝に指定されるが、昭和25年(1950年)のキジア台風により第4橋の橋脚から崩壊し、ドミノ式に完全に流失しまう。翌年から復旧工事が始まり、昭和28年(1953年)に3回目の再建がされた。平成13年(2001年)から平成16年(2004年)まで、26億円を投じて全面改修が行われ半世紀ぶりに4回目の再建がなった。平成17年(2005年)の台風14号で第1橋の橋脚2基が流失しているが、架橋後の翌年に2度も起きているのは何か橋にまつわるジンクスでもあるのだろうか。

錦帯橋は現在のところ、平成25年(2013年)の3月下旬で訪問だけであるが、再び眺めたい名橋である。錦帯橋の付近は吉香公園となっていて、「桜の名所100選」に平成2年(1990年)に選ばれている。また、錦帯橋から見上げる横山の山頂にある岩国城は、「日本100名城」に平成18年(2006年)に選定された。その桜の名所と百名城を合わせて見物する訪問となった。先ずは錦帯橋を渡ろうと、入場料300円を払って反橋の上に立った。錦川の流れる水音を聴き、河畔に咲き乱れるサクラを眺めた。平日であったので数えるだけの見物客しか橋を往来していなかった。橋を往復した後は、河原に歩み入り橋脚や橋桁に目を凝らし眺めてはカメラのシャッターを押した。色々な橋を眺めて来たが、これほど素晴らしい橋もなく、国宝級の価値があると思った。反橋は太鼓橋とも称されるが、その反り具合が肝心である。大阪市にある住吉大社の太鼓橋の斜度に比べると緩やかに感じられる。

錦帯橋から岩国城に行く途中に宮本武蔵と決闘した「佐々木小次郎像」、武家屋敷の「旧目加田住宅」、天然記念物の白蛇を飼育している「白蛇観覧所」、岩国の歴史を紹介する「吉川史料館」と見物するスポットが目白押しであった。山城の岩国城までは、ロープウェイに乗っての優雅な登城となった。この公園一帯は、令和3年(2020年)に「錦川下流域における錦帯橋と岩国城下町の文化的景観」として国の重要文化的景観に選定された。

錦帯橋を訪ねた文人墨客には、儒学者の菅茶山(1748-1827年)、幕臣で文筆家の大田南畝(1749-1823年)が知られ、歌川広重(1797-1858年)が晩年に「六十余州名所図会」に描き、

葛飾北斎(1760-1849)も天保5年(1834年)に「諸国名橋奇覧」に描いている。広重も北斎も実際に錦帯橋を訪ねたかは不明である。他に錦帯橋を訪ねたと思われるのが思想家の吉田松陰(1830-1859年)である。錦帯橋を詠んだ和歌ではないが、松陰が幕府に召喚されて長州から江戸に護送される際、岩国で防長二国に別れを告げて詠んだ歌碑が建てられている。

「夢路にも かへらぬ関を 打ち越えて 今をかぎりと 渡る小瀬川」 吉田松陰

②長崎の眼鏡橋  (訪問回数1回)

眼鏡橋は長崎県長崎市の市街地を流れる中島川に架かる橋で、形式は2連石造アーチ橋で全長は22m、幅は3.65m、水面上の高さ5.46mである。水面に映る橋の陰影がメガネのように見えることから明治時代に名付けられた。最初に架橋されたのは江戸時代初期の寛永11年(1634年)で興福寺の唐僧住持・黙子如定(1597-1657年)が架橋したとされる。正保4年(1647年)の大洪水で流失し、翌年に再建されたと言われる。当時の琉球国を除くと、日本で最初の石造のアーチ橋で、昭和35年(1960年)に国の重要文化財に指定されている。

河川に架かる橋は洪水との戦いで、慶安1年(1648年)の洪水で損壊しているが、その後は大きな被害はなく、約330年の時を経て昭和期を迎える。昭和57年(1982年)7月の集中豪雨による長崎大水害では、眼鏡橋を含む中島川の9つの石橋が被害に逢っている。他の8つの石橋は流失したものの眼鏡橋は半壊で済んだようだ。しかし、人的な被害も甚大で約300人の死者と行方不明者が発生し、被害総額は約3,000億円に及んだとされる。翌年の昭和58年(1982年)10月に修復されて現在に至っている。

眼鏡橋の架かる中島川には、延長5.8㎞の距離の中に18橋の石橋群があって大変珍しいとされる。その中で市指定文化財の石橋は、阿弥陀橋(第一橋)、高麗橋(第二橋)、桃渓橋、大井手橋(第三橋)、編笠橋、古町橋(旧中河橋)、一覧橋、芋原橋、東新橋、袋橋の10橋であった。しかし、長崎大水害によって残った石橋は、阿弥陀橋、高麗橋、桃渓橋、袋橋の4つが残された。高麗橋は西山ダム下公園に移築復元され、阿弥陀橋も解体されて移築予定と聞く。現在の中島川にある歴史的な石橋は、眼鏡橋(第十橋)、桃渓橋、袋橋だけとなり、他は総て鉄筋コンクリート造の単アーチ橋となっている。

長崎は度々訪ねているが、眼鏡橋を見物したのは平成27年(2015年)の5月初旬であった。

長崎と聞けば、歌謡曲から夜景まで様々な心象や光景が目に浮かぶが、「日本三名橋」の眼鏡橋があることは知らなかった。長崎市内は観光スポットが多く、国宝建築の「浦上天主堂」や「崇福寺」、見晴らしの良い「グラバー園」、平和祈念像の建つ「平和公園」、ロープウェイで上り夜景を楽しむ「稲佐山」が長崎見物の優先順位であった。日本の国宝建築をすべて訪ね、国の重要文化財も極力見ようと思っていて、眼鏡橋の存在を知ったのである。

中島川にある4つある石橋の中で、2連アーチ橋は眼鏡橋だけである。何故この橋だけが2連アーチ橋なのか不思議に思う。建造物には遊び心が加わって、芸術的な美しさを求めて造られる例も多い。最初の建造は明国の僧なので、橋の機能的な面に付加価値を付けたと思われる。石の積合わせ部分には、雨水の浸透を防ぐため白い目地が施されている。これが文様のように見えて美しい。水面に映るアーチの影は丸いメガネのようで、第十橋から眼鏡橋と称されるのも頷ける。この眼鏡橋を撮影した写真のSDカードのデーターが破損し、デジタルカメラも良し悪しかなと思ったが、安いSDカードを使用したのが原因であろう。

眼鏡橋を詠んだ歌や句がないかと探したところ見当たらず、長崎出身の俳人で医師の向井去来(1651-1704年)が長崎に帰郷して別れを惜しんだ時の句を引用する。

「君の手も まじる成べし はな薄」 向井去来

③祖谷のかずら橋  (訪問回数2回)

祖谷のかずら橋は徳島県三好市の南部を流れる祖谷川に架かる吊橋で、全長は45m、幅は2m、水面上の高さ14mである。極めて原始的な吊橋で、伝説によると平安時代初期に空海大師(774-835年)が祖谷を巡錫した折、川の渡航に困っていた村民ため架けたとか、平安時代末期の平家の落人が祖谷に潜み、追手が迫ってもすぐに切り落せるように蔓を使って架設したとも言われるが定かではないようだ。

祖谷川の渓谷には古くから蔓橋が架けられていて、寛文5年(1665年)の「阿波国図」には7つの蔓橋が描かれている。古文書によると、それ以前は13橋もの蔓橋があったとされる。大正時代には一度、鋼線(ワイヤー)構造の一般的な吊橋に架け替えられたが、昭和3年(1928年)に蔓橋が復活された。地域振興の一環であったようで、安全のためワイヤーは継続して使用され、蔓はワイヤーを包み込む美観上の装飾となっている。昭和29年(1974年)に「蔓橋の製作工程」として国の重要有形民俗文化財に指定された。また、架橋技術の伝承を目的に3年ごとに造り替えが行われるそうだ。

昭和45年(1970年)、国鉄の「ディスカバー・ジャパン」のキャンペンポスターに登場したことで知名度が上り観光客が急増した。この「ディスカバー・ジャパン」の宣伝効果は抜群で、飛騨高山、倉敷、津和野などは一大ブームとなって観光地化された。祖谷のかずら橋の側には飲食店や土産店が建ち、近隣の吉野川にある大歩危・小歩危と並ぶ観光地となった。かづら橋を含む祖谷は平成1年(1989年)に「日本の秘境100選」に選ばれている。

祖谷川の上流にもう1つの蔓橋があって、「奥祖谷二重かずら橋」と称されている。「男橋」と「女橋」が上下に並んで架かっているので二重橋と言われる。男橋の全長は42m、幅は2m、水面上の高さ12mで、女橋の全長は22m、幅は1.2m、水面上の高さ4mである。それ以外に「野猿」と呼ばれる屋根付き籠が人力ロープウェイとして設置されてあった。

祖谷のかずら橋の初めての訪問は平成22年(2010年)の3月下旬で、剣山(1,955m)に初登山をした帰路であった。この時期は閑散期で、奥祖谷二重かずら橋の通行料も駐車場も無料であった。海から遠く離れた渓谷の吊橋は、錦帯橋や眼鏡橋のような洪水の被害が少なく、橋が流されたことは無かったようである。鄙びた山村にも関わらず、観光客が訪れてくれることは観光収入のみならず、集落の活性化にもつながる。二重かずら橋の床材のさな木が少なく、下の渓谷がまる見えで高度恐怖症の人は渡れそうにないと思われた。次ぎに訪ねた祖谷のかずら橋は、観光客も疎らにいて通行料550円を払って渡った。二重かずら橋のように下を見ながら渡るのはスリルがあって、程よい揺れがバランス感覚を狂わそうとする。2回目の訪問は平成26年(2014年)の10月下旬で、剣山と三嶺(1,893m)を連登した後であった。祖谷のかずら橋は紅葉シーズンには少し早かったのか、三嶺ほどの紅葉ではなかった。それでもすぐそばの「びわの滝」を眺められたのは良かった。祖谷の宿泊はホテル祖谷温泉であったが、そこで聞いた話だとジビエ料理のことを昔は「薬喰い」と言ったらしい。俳人の日守むめ(1928-2014年)は祖谷の旅館でその様子を句に詠んでいる。

「奥祖谷の 旅籠炉端の 薬喰い」日守むめ

15.新日本三大港町(伝統的建物群保存地区)

名称                 面積ha   建造物     特色     人口   年間観光客数   所在地

①神戸(北野町山本通)      9.7      40棟   三大夜景  150万人  2,700万人    兵庫県

②長崎(東山手、南山手)   80.0      20棟   三大夜景   44万人    560万人    長崎県

③函館(元町末広町)      14.5       50棟   三大夜景   27万人    500万人    北海道

港町に関する一般的な名数に「日本三大港町」があり、神奈川県の横浜、兵庫県の神戸、長崎県の長崎港である。横浜の年間観光客数は3,000万人と、観光面だけみると、横浜は日本一となる。港の名数は他に「日本三大貿易港」があって、第1位は千葉県の千葉港、第2位は愛知県の名古屋港、第3位は横浜港となっている。「日本三大貿易港」は旅に関する名数としては該当しないので、観光客に人気のある港町を限定して精査したい。「日本三大港町」以外にも観光地として有名な港町は、北海道の小樽と函館、山形県の酒田、広島県の尾道と呉、山口県の下関、福岡県の門司など7つが挙げられるだろう。

この7つの港町の特徴は、小樽は運河とガラス工芸の港町、函館は「日本三大夜景」と温泉のある港町、酒田は北前船で栄えた豪商の港町、尾道は古刹と文学の港町、呉は日本一の軍港をもつ港町、下関は風光明媚な古戦場の港町、門司は九州の玄関口でレトロな港町と言える。ここで選別すると、港町の観光の目玉であるポートタワーやロープウェイの有無である。小樽には小樽天狗山ロープウェイ、函館には五稜郭タワーと函館山ロープウェイ、尾道には千光寺ロープウェイ、下関には海峡夢タワーと火の山ロープウェイ、門司には門司港レトロ展望室があるので、ここで呉と酒田が除外される。

更に年間観光客数から比較すると、横浜以外では、小樽は400万人、函館は500万人、尾道は633万人、下関は373万人、門司は300万人となる。500万人以下を除外すると、

横浜、神戸、尾道、長崎、函館の5つに絞られる。ここで重視したいのが港町の歴史的な景観で、国の「伝統的建造物群保存地区(伝建群)」の指定の有無である。伝建群は昭和50年(1975年)に文化財保護法の改正で発足したもので、令和2年(2020年)現在、103市町村の120地区が指定されている。神戸は「北野町山本通」の地区、長崎は「東山手と南山手」の地区、函館は「元町末広町」の地区が指定されている。すると、横浜と尾道が外れる。駄目押しで付け加えたいのが定番となっている「日本三大夜景」である。神戸、長崎、函館が選ばれているので「日本三大夜景」を選定基準とすると、「日本三大港町」から横浜と函館が入れ替わることになる。これを「新日本三大港町」として勝手に選考したい。

また、「新日本三大港町」の共通点として、「日本三大夜景」を眺める展望台にロープウェイが設置されていることで、神戸には3ヶ所のロープウェイがある。「百万ドル」の夜景で有名な掬星台(700m)の摩耶ロープウェイ、神戸布引ハーブ園(400m)の神戸布引ロープウェイ、有馬温泉から六甲山(931m)の山頂附近を結ぶ六甲有馬ロープウェイである。長崎には長崎ロープウェイが稲佐山公園(333m)を結んでいる。函館は函館山の山頂展望台(334m)まで函館山ロープウェイが運んでくれる。夜景の美しさは、市街地に灯る明かりの輝度と色合い、そして独自の海岸地形にあると思う。

神戸  平成16年2月15日  神戸港を撮影

長崎  平成27年5月6日  稲佐山より撮影

函館  平成24年9月1日  青函連絡船摩周丸を撮影

①神戸  (訪問回数5回)

神戸は瀬戸内海国立公園の六甲山の南麓に位置し、淡路島と紀伊半島に囲まれた大阪湾に面する。関東の横綱が東京ならば、関西の横綱は大阪で、関東の露払いは川崎、関西の露払いは尼崎である。そして、関東の大関は横浜で、関西の大関は神戸と言える。東西の中心地は、共通した歴史を歩んで来た。東京は首都、大阪は商都、川崎と尼崎は工業地帯、横浜と神戸は港町である。東西の規模は異なるものの、類似した経済圏に変わりはない。

神戸の港町の区域は中央区に集中しているので、ウェブ情報から探ることにする。中央区の令和1年(2021年)の人口は147,592人 、面積28.97㎢のエリアに神戸市の観光名所、主要な施設が集中している。飛鳥時代には「兵庫津」と呼ばれ、遣隋使船の湊として開かれた。平安時代末期には平清盛(1118-1181年)によって、隣接する兵庫区の「大輪田泊」を拠点にした貿易が始められたのが神戸港の前身である。江戸時代終期の慶応4年(1868年)に外国人居留地や港が造られ、明治12年(1879年)に勅命によって「神戸港」となった。貿易の振興によって神戸は発展し、新開地に繁華街も形成され「東の浅草、西の新開地」と謳われた。近年の評価では、昭和62年(1987年)の「新日本旅行地100選」に神戸が、平成12年(2000年)の「都市景観100選」に旧居留地区と神戸ハーバーランド地区が、平成13年(2001年)の「かおり風景100選」に一宮町の線香づくりが、平成14年(2002年)の「日本遺産・百選」に神戸が、平成21年(2009年)の「平成百景」に神戸ルミナリエが選ばれている。平成29年(2017年)の国の「日本遺産」に北前船寄港地として神戸も含まれた。

神戸を最初に訪ねたのは昭和50年(1975年)の12月中旬で、山陽新幹線に初めて乗っての西国旅行をした途中であった。神戸ポートタワーに上ってみて、横浜に似ていると思う港の景観に見えた。2回目の訪問は昭和52年(1977年)の7月中旬で、淡路島に渡る時に神戸港から洲本港を結ぶ高速艇に乗った。1時間15分の船旅であったが、洋上から眺める神戸の街並みには六甲山が背後に迫り、横浜とは違うなと思った。3回目の訪問は平成16年(2004年)の2月中旬で、悪夢のような「神戸・淡路大震災」から9年後であった。この時は重伝群の「北野町山本通」を主に訪ねて回り、国の重要文化財の萌黄の館や風見鶏の館を見物した。北野天神神社の境内からは神戸の街並みが眺められたが、再建されていない家々が散見されて震災の爪あとを痛々しく感じた。三宮の生田の森には生田神社があって参拝したが、昔は神社に附属する民戸や神領が周辺にあったそうだ。その民戸は神戸と称されていたので、神戸の地名になったとされる。中山手通には日本庭園の相楽園があって、広さの2haの園内には旧ハッサム住宅や船屋形の文化財が移築されていた。4回目の訪問は平成23年(2011年)の1月下旬で、有馬温泉に泊って六甲有馬ロープウェイで六甲山に上った。翌日は摩耶ロープウェイにも乗って百万ドルの夜景を眺めたが、冬の夜景は空が住んで一番美しく感じられる。5回目の訪問は平成27年(2015年)の7月中旬で、この時も神戸布引ロープウェイで神戸の街並みを眺めた。その後に「日本の滝百選」の布引の滝を見物したが、そこに藤原定家(1162-1241年)が詠んだ歌碑が建っていたのが感慨深かった。

「布引の 滝にしらいと なつくれば 絶えずぞ人の 山ぢたづぬる」 藤原定家

②長崎  (訪問回数3回)

長崎は長崎半島の付け根、三方を山に囲まれたすり鉢状の地形に位置し、長崎港は東シナ海の五島灘に面する。令和3年(2021年)の人口は403,266人と西九州最大であるが、昭和60年(1985年)の約50万人をピークに減少が続いている。長崎の地理的な特徴から市内には坂道の多いので自転車の利用が少なく、学校には自転車置き場もないようだ。

長崎の歴史を振り返った時、室町時代末期の弘治1年(1555年)に諏訪神社が創建されたのが古いようで、安土時代にキリスト教の布教と合わせて日本初のキリシタン大名・大村純忠(1533-1587年)が長崎港を開港させた。桃山時代は豊臣秀吉(1537-1598年)によってバテレン追放令が布告されて布教活動は禁止され、南蛮貿易も衰退する。江戸時代初期になると幕府は鎖国令を出し、寛永11年(1634年)に出島が完成する。出島は外国人の居留地と交易を兼ねた基地となり、平戸からオランダ商館も移転された。その後は宗教色の濃いポルトガル人が追放されて、西欧ではオランダ1国の交易となった。長崎が再び開港されたのは江戸時代末期の安政1年(1854年)で、220年の歳月が流れていた。文久年間(1861-64年)には長崎溶鉄所が完成し、グラバー邸が竣工するのもこの頃である。慶応1年(1865年)には、坂本龍馬(1836-1867年)が亀山社中(後の海援隊)を組織して長崎を拠点に活躍した。

明治時代になると、長崎溶鉄所が長崎造船所となって長崎の主要な産業となる。しかし、昭和15年(1940年)に戦艦武蔵が建造されたこともあっても、戦時中の昭和20年(1950年)8月9日にアメリカ軍の原爆投下の標的となって実行された。その悲惨な状況から戦後復興が進み、昭和52年(1977年)には政令による「国際観光文化都市」に栃木県日光市、三重県鳥羽市とともに選定される。昭和61年(1986年)の「新日本百景」、平成8年(1996年)の「残したい日本の音風景百選」に山王神社被爆の楠木が選ばれ、平成12年(2000年)の「都市景観100選」に東山手・西山手地区と中島川・寺町地区が選ばれた。平成21年(2009年)の「平成百景」に平和公園が選ばれ、新しくは令和2年(2020年)の国の「日本遺産」に長崎街道・出島和蘭商館跡・長崎くんちの奉納踊・カステラ・有平糖(飴)などが登録された。

長崎の訪問は長崎の眼鏡橋と重複するので割愛するが、平成5年(1993年)の5月初旬にに崇福寺を参拝した時、御朱印を頂戴できなかったのが未練がましく残る。その後に参拝した同じ黄檗宗の興福寺では頂戴している。東山手は、旧英国領事館、オランダ坂、活水学院、東山手甲十三番館、東山手十二番館、東山手洋風住宅群7棟、孔子廟・中国歴代博物館が主な名所であった。南山手は、グラバー園(旧グラバー住宅)の他に旧ウォーカー住宅、旧リンガー住宅、旧オルト住宅などが点在していた。諏訪神社の参詣、亀山社中跡の見物、長崎歴史文学博物館の見学と、一通り名所は観ているが、心残りが3つある。1つは「日本三大夜景」の他に「世界三大夜景」とも選ばれている稲佐山からの夜景を見ていないこと。2つは平成29年(2017年)に完全復元された出島を見学していないこと。3つは長崎港から発着する軍艦島(端島)クルーズの乗船である。そんなこともあって、秋田から遠く離れた長崎を訪ねる日が待ち遠しい。最後の結びは原爆歌人の竹山広(1920-2010年)の歌を添える。

「死の前の 水わが手より 飲みしこと 飲ましめしこと ひとつかがやく」 竹山広

③函館  (訪問回数5回)

函館は北海道南部の亀田半島と函館山に繋がる砂州と平野に位置し、巴状の函館港は津軽海峡に面する。令和3年(2021年)の人口は248,172人と、北海道では札幌市、旭川市に次ぐ3番目の人口であるが、昭和59年(1984年)の約32万人が人口のピークで、平成の大合併では約30万人を一時は回復したものの急激な人口減少が現在も続いている。

函館の歴史は室町時代の享徳3年(1454年)、安東氏に従って蝦夷地に渡った河野政通(生年没不詳)が宇須岸(函館の旧名)に河野館を建てた時で、その館が方形であったことら箱館と呼ばれ、後に函館の地名になったようだ。アイヌとのコシャマンの戦いで敗れると、和人は函館を退去しているが、江戸時代初期に松前藩の番所が置かれ函館港が開かれる。寛政4年(1792年)に菅江真澄(1754-1829年)が有珠山に登った後に当時の亀田を訪ねている。

寛政8年(1796年)には廻船問屋の高田屋嘉兵衛(1769-1827年)が来航して函館にも拠点を置いた。寛政12年(1800年)には伊能忠敬(1746-1818年)が函館山の測量を行っている。

江戸時代から函館は天然の良港で、松前、江差とともに「蝦夷三湊」と称され、安政1年(1854年)に長崎、横浜と同時に開港された。元治1年(1864年)に五稜郭が完成するが、慶応4年(1868年)に旧幕府軍に占拠されて函館戦争の主戦場となった。明治時代になると、函館山に函館要塞司令部が設置されて、青函連絡船の運航も開始される。大正時代には市内に路面電車が敷設され、函館は函館市となっている。戦後は函館山が一般に開放されて、函館山ロープウェイが設置され、昭和39年(1964年)には初代の五稜郭タワーが完成する。昭和61年(1986年)の「新日本百景」、昭和62年(1987年)の「新日本観光地100選」、平成る8年(1996年)の「残したい日本の音風景百選」に函館ハリストス正教会、平成12年(2000年)の「都市景観100選」に函館市西部地区、平成14年(2002年)の「日本遺産・百選」、平成29年(2017年)の「日本遺産」に北前船の寄港地に選ばれている。

神戸には「そして神戸」、長崎には「長崎ブルース」のヒット歌謡曲があるが、函館と言えば「函館の女」が有名である。その歌詞のようなに「はるばるきたぜ、函館へ・・」と感慨が湧くのも津軽海峡を青函連絡船で越えて北海道に上陸した時であろう。函館の初訪問は昭和43年(1968年)の5月下旬で、中学校の修学旅行の時に北海道の地を踏んで湯川温泉に泊った。2回目の訪問は昭和45年(1970年)の7月下旬で、路面電車に生まれて初めて乗って、函館山からの夜景を楽しんだ。巴状の函館港、弓状の大森海岸の地形が函館独自の夜景となっている。3回目の訪問は平成5年(1933年)の9月中旬で、元町末広町地区の旧中華会館、旧函館区公会堂、旧イギリス領事館、旧相馬邸、函館ハリストス正教会などと、函館港の摩周丸、金森倉庫群、太刀川家店舗を訪ねて函館の歴史を振り返った。4回目の訪問では平成21年(2009年)の5月初旬で、五稜郭のサクラを見物して最後の武士・土方歳三(1835-1869年)の最後の地碑に手を合わせた。5回目の訪問は平成24年(2012年)の9月中旬で、函館朝市でイカの活造りを堪能し、立待岬の啄木一族の墓を訪ねた。石川啄木(1886-1912年)の北海道滞在は1年にも満たなかったが、その僅かな足跡は不滅に思える。

「函館の 青柳町こそ かなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」石川啄木

16.新日本三大天領地(伝統的建物群保存地区)

名称                        面積ha   建造物  代官所 人口  年間観光客数  所在地

①高山市三町、下二之町・大新町  21.0   推定60棟  現存   8万人  473万人   岐阜県

②倉敷市倉敷川畔(美観地区)      20.7      30棟    跡地  47万人  154万人   岡山県

③日田市豆田町                 10.7      72棟    跡地   6万人   50万人   大分県

天領と言えば徳川幕府の直轄地と認識していたが、天領の名称は明治政府によって「天朝の御料(御領)」を略して「天領」とされたことを知った。その後、天領の名称は江戸時代にも遡って使われるようになったとそうだ。その江戸時代の天領に興味をもち、「新日本三大天領地」として選んだわけである。江戸時代の元禄5年(1692年)以降は、天領が全国に約400万石あって、51ヶ国と蝦夷地にも及んでいた。米の年貢の他に交通の良い商業の要所、金銀や銅の鉱山、林業や漁業の盛んな所まで天領となった。

主な天領には大阪や長崎の都市の他に明礬温泉(別府温泉)もあって、佐渡、甲斐、飛騨、隠岐は1国まるごと天領であった。蝦夷地は松前藩の支配下であったが、幕末には函館に五稜郭が築かれ函館奉行所が置かれた。天領は老中の管理下に勘定奉行、郡代、代官という順に配され、出先機関として奉行所や代官所が置かれた。奉行は「遠国奉行」と称されて、最も多い時代は全国に20ヶ所あった。江戸を除く「三都」の大阪には大阪町奉行、京には京都町奉行。寺社に関連しては伊勢神宮には山田奉行、日光東照宮には日光奉行、奈良には奈良奉行。港町では下田奉行、堺奉行、兵庫奉行、長崎奉行。佐渡鉱山には佐渡奉行、徳川家の本拠地であった駿河には駿河奉行があった。

郡代や代官は数が多く割愛するが、代官のあった場所で現在は観光地となっている所をピックアップする。選考の基準としは、「伝統的建物群保存地区」に指定された都市とすると、「新日本三大港町」の他に茨城県の桜川市、群馬県の桐生市、新潟県の佐渡市、岐阜県の高山市、岡山県の倉敷市、島根県の大田市、大分県の日田市がある。桜川市の真壁、桐生市の桐生新町、佐渡市の宿根木は観光客が少なく除外すると、高山市の三町、下二之町・大新町地区、倉敷市の倉敷川畔地区、大田市の大森銀山地区、日田市の豆田町地区が残る。

高山市と倉敷市の年間観光客数は100万人を超えるので問題はないと考える。そこで大田市と日田市の比較になるが、大田市には「石見銀山跡とその文化的景観」と言う平成19年(2007年)に世界文化遺産として登録された勲章のような遺跡がある。しかし、最近の年間観光客数では石見銀山が約30万人とピーク時の約81万人を大幅に減らしている。日田市の方は約50万人となっていて、リピーターも多いようだ。「新日本三大天領地」としは、

残りの1つに日田市の豆田町地区を選びたい。

高山は飛騨高山と一般的に呼ばれ、昭和45年(1970年)に国鉄の「ディスカバー・ジャパン」で観光地として有名になった。倉敷は昭和50年(1975年)の山陽新幹線の開業に伴い脚光を浴びるようになった。日田は大分県西側の玄関口で、くじゅう観光の中継点として人気があった。平成16年(2004年)に国の「伝統的建物群保存地区」に豆田町が指定されたことも観光地となる要因となったのである。

飛騨高山  平成20年9月7日  高山陣屋を撮影

 倉敷  平成26年7月12日  倉敷川畔を撮影

日田  平成27年5月8日  豆田町を撮影

①高山市三町、下二之町・大新町  (訪問回数4回)

高山市は岐阜県北部の飛騨地方に位置し、面積は約2,178㎢と平成の大合併で福島県いわき市を抜いて日本一広い市となった。その広さは大阪府や香川県の面積よりも広く、東京都とほぼ同じ面積である。令和3年(2021年)の人口は83,081人と、平成12年(2000年)の97,023人をピークに減少が進んでいる。それでも市内の景観は「飛騨の小京都」と呼ばれ、奥飛騨には様々な温泉地があって観光客数では岐阜県の中でも屈指の観光地である。

高山市の歴史を振り返ると、奈良時代に飛騨国の国分寺と国分尼寺が創建され、国分寺は現在も継承されて市内に残っている。室町時代には天神山城が築かれ、安土桃山時代に金森長近(1524-1608年)が高山城と改めて再び築城した。また同時に町割りが行われて城下町の基礎が造られた。江戸時代に金森氏が飛騨高山藩を立藩するが、間もなく出羽上山藩に移封され、元禄6年(1693年)から高山は天領となる。高山城は廃城となって飛騨郡代や高山代官が派遣され、その役所として高山陣屋が城下町に建てられた。明治以降は飛騨の商都として栄え、その栄華が市内の商家や町家に残る。昭和54年(1979年)に三町が、平成16年(2004年)には下二之町と大新町が国の「伝統的建物群保存地区」に指定された。

三町は旧城下町の南半分に位置し、日枝神社の氏子が多い区域である。狭い通りに軒の低い切妻屋根の中2階建ての町家が連なっていて、洗練された美観である。宮川の中橋を渡った先には高山陣屋があって、平成8年(1996年)に高山市が復元させた。陣屋前広場では毎日、朝市が開催されて観光客の姿も見受けられる。明治に建てられた旧高山町役場が市制記念館として残っていて、明治から平成までの高山市の歩みを紹介している。

下二之町と大新町は旧城下町の北半分に位置し、桜山八幡宮の門前町でもある。飛騨の匠の技が反映された町家の街並みで、明治から昭和初期に建てられた町家が多い。吉村家住宅と日下部民藝館(日下部住宅)は国の重要文化財で、宮地家住宅は市の文化財である。昭和61年(1986年)の「新日本百景」、昭和62年(1987年)の「新日本観光地100選」、平成12年(2000年)の「都市景観100選」、平成13年(2001年)の「かおり風景100選」、平成21年(2009年)の「平成百景」、平成28年(2016年)には国の「日本遺産」に選ばれている。

飛騨高山を初めて訪ねたのは昭和49年(1974年)の6月初旬で、松倉城跡、高山陣屋跡、下二之町の平田記念館や日下部民藝館、飛騨民俗村などを見物している。2回目の平成18年(2006年)7月の下旬で、飛騨国分寺を参拝し、上二之町の街並みを再び散策した。3回目の訪問は平成20年(2008年)9月の上旬で、乗鞍岳の登山後に復元された高山陣屋や市制記念館を見学している。4回目の訪問は平成22年(2010年)10月の初旬で、平湯温泉から奥穂高岳に日帰り登山した後に桜山八幡宮を参拝した。境内にある高山祭屋台会館や桜山日光館を見学し、日下部民藝館、吉島家住宅、宮地家住宅などに入館した。

飛騨高山にゆかりの人物と言えば、幕末から明治に活躍した山岡鉄舟(1836-1888年)で、飛騨郡代の子で少年期を高山陣屋で過ごしている。その高山陣屋の側には鉄舟像が建てられていて、武士らしく死に装束で坐禅しながら詠んだ辞世の句が印象深い。

「腹いたや 苦しき中に 明けがらす」 山岡鉄舟

②倉敷市倉敷川畔(美観地区)  (訪問回数4回)

倉敷市は岡山県南部に位置し、海岸は瀬戸内海国立公園に面して本州と四国を結ぶ瀬戸大橋が児島半島に架かる。水島石油コンビナートの基地でもあって、令和3年(2021年)の人口は472,947人と、中国地方の中核市では最大の人口を誇る。重化学工業の他に学生服やジーンズなどの繊維産業も盛んで、人口減少は殆ど見られない。

倉敷の歴史は吉備国と呼ばれた古墳時代に遡り、飛鳥時代に備前・備中・備後・美作に分国される。奈良時代に熊野神社が創建され、天平5年(733年)には行基菩薩(668-749年)によって由加山蓮台寺(瑜伽大権現)と円通寺が開基された。平安時代末期の源平合戦では、水島の戦いと藤戸の戦いが倉敷で起きている。桃山時代になると領主の宇喜多秀家(1572-1655年)によって干拓が始められて、江戸時代となっても干拓が行われて現在の平野が形成された。江戸時代の元和2年(1616年)、天領となった倉敷には運河(倉敷川)が建設されて、内陸の港町として発展する。年貢米の集積地で米蔵が多く建っていて、倉敷地とも呼ばれたことが倉敷の由来ともされる。明治時代になると、紡績産業が興隆して日本を代表する企業へと発展する。商都として栄えた倉敷川沿いには土蔵造りの建物が多く残っていて、福島県の喜多方、埼玉県の川越と並んで「三大蔵の町」の1つとなった。

昭和54年(1979年)には国の「伝統的建物群保存地区」に倉敷川畔地区が指定された。通称は美観地区と呼ばれるようで、大橋家住宅、大原家住宅、井上家住宅は国の重要文化財で、楠戸家住宅は市の文化財である。美観地区には美術館が5棟、民芸館や玩具館などが4棟、記念館の名の付く施設が5棟、博物館に及んでは6棟も点在する。倉敷紡績(クラボウ)の創業者である大原家の遺産が多く、野球選手の星野仙一記念館が小さく見える。昭和41年(1966年)の「新日本旅行地100選」、昭和62年(1987年)の「新日本観光地100選」、平成12年(2000年)の「都市景観100選」、平成14年(2002年)の「日本遺産・百選」に倉敷と岡山市の後楽園が選ばれ、平成21年(2009年)の「平成百景」にも選ばれた。更に平成29年(2017年)には国の「日本遺産」に認定されている。

倉敷を初めて訪ねたのは昭和50年(1975年)の12月の中旬で、「倉敷ユースホステル」に泊って大原美術館、倉敷民藝館、倉敷考古館などを見学した。2回目の訪問は平成22年(2010年)の1月初旬で、備中国分寺など吉備路を巡った後、倉敷市の蓮台寺を参拝した。3回目の訪問は平成26年(2014年)の7月中旬で、阿智神社に参拝してから倉紡記念館、倉敷アイビースクエア、倉敷館(観光案内所)、倉敷考古館、観龍寺、大橋家住宅、林源十郎商店記念室、倉敷手紙館、倉敷民藝館、新渓園、大原美術館、児島虎次郎記念館などを回った。約40年ぶりに入館した倉敷考古館・倉敷民藝館・大原美術館は、当時のまま時間が止っている様子に見えて懐かしかった。忘れられないのは「倉敷川舟流し」に乗って、川面から眺めた美観地区の景観である。更に4回目の訪問となった12月下旬には円通寺を参拝して、修行時代の良寛和尚(1758-1831年)を偲んだ。円通寺公園内には良寛和尚の有名な歌碑があって、自分も長閑な暮らしがしたいと思ったものである。

「霞立つ 長き春日を 子供らと てまりつきつゝ この日暮しつ」 良寛

③日田市豆田町  (訪問回数1回)

日田市は大分県北西部の福岡県うきは市との県境に位置し、市内には筑紫川の上流が流れ、市街には日田盆地が広がる。令和3年(2021年)の人口は63,159人と、平成の大合併後の76,364人がピークで減少している。日田は良質な地下水があって、ミネラルウォーターの「日田天領水」が有名で、日本酒や焼酎の酒造業も盛んである。

日田市の歴史で注目するのは、弥生時代中期のダンワラ古墳から出土した「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」で、卑弥呼の鏡ではないかとの説もあって国の重要文化財に指定された。平安時代には、現在の慈眼山公園に日田城及び大蔵館が築かれ、室町時代まで590余年まで続いたとされる。豊後を統一した大友宗麟(1530-1587年)の領地になった後、桃山時代に豊臣領の代官となった宮城豊盛(1555-1620年)によって日隈城が築かれる。江戸時代に入ると、毛利氏、小川氏、石川氏と領主が変わり、寛永16年(1639年)に幕府直轄地の天領となる。小川氏が月隈山に築城した丸山城(永山城)は廃止されて、麓の丸山に日田陣屋が置かれた。

日田市豆田町は城下町から商家町に変わり、九州における政治・経済の中心として発展した。花月川に架かる御幸橋と一新橋からは御幸通り、上町通りが南北に続いていて、東西には5本の通りがあって整然とした町割りとなっている。平成16年(2004年)に国の「伝統的建物群保存地区」に豆田町が指定された。豆田町界隈では草野本家と長福寺本堂が国の重要文化財に指定され、岩尾店舗日本丸館が国登録有形文化財になった。また、廣瀬資料館と咸宜園は国の史跡となっている。廣瀬資料館は江戸時代末期の儒学者であった広瀬淡窓(1782-1856年)の実家で、咸宜園はその私塾であった。塾生は日本各地から集まり、延べの入門者は4,800人を超える日本最大級の私塾とも言われる。平成27年(2015年)に国の「日本遺産」の認定第1号として近代日本の教育遺産群の中に選ばれた。他には茨城県水戸市の弘道館、栃木県足利市の足利学校、岡山県備前市の閑谷学校が認定されている。

日田市内の様子は大分自動道から何度なく眺めた来たが、平成27年(2015年)の5月上旬に初めて日田市内を訪ねた。旅先では温泉宿に泊まりたいと願っていたので、この時は日田温泉の「かんぽの宿日田」に投宿した。かんぽの宿は閉鎖や譲渡される施設が多い中で、筑紫川沿いに建っているかんぽの宿日田は人気が高く、常連客が多いようである。

歴史的な景観地は観光客が多いので、早朝に訪ねて豆田町を散策した。上町通りには造り酒屋の薫長酒蔵資料館、長福寺、岩尾店舗日本丸館、古事記ミュージアム、はきもの資料館などが建ち、飲食店や菓子店、銀行や郵便局と古い佇まいの商店街となっている。東西の通りには和風ホテル、歴史交流館、廣瀬資料館、江戸時代の長屋があった。御幸通りも商店街となっていて、天領日田資料館、草野本家が建っている。通りの外れに咸宜園があって、東塾敷地には秋風庵と遠思楼が現存していた。秋風庵は淡窓の叔父が天明1年(1781年)に建てた入母屋茅葺の建物である。遠思楼は文化15年(1817年)に商家に建てられた楼閣風の入母屋瓦葺2階建てで、再度の移築を繰り返してここに落ち着いたようだ。淡窓は思想家でもあって、塾生一人一人の個性にあった教育をしてことは和歌からも伝わる。

「鋭きも 鈍きもともに 捨てがたし 錐と槌とに 使い分けなば」 広瀬淡窓

17新日本三大山村集落(伝統的建造物群保存地区)

名称                  認定遺産     面積ha  建造物  人口  年間観光客数  所在地

①白川村白川郷荻町      世界文化遺産   45.6    59棟  582人   215万人   岐阜県

②南丹市美山町北村      なし          127.5    38棟  102人    25万人   京都府

③南砺市五箇山相倉集落  世界文化遺産   18.0    20棟   80人    16万人   富山県

昭和50年(1975年)の文化財保護法改正によって、建物単体の指定保存がら建物群の全体を保護することを目的に「伝統的建造物群保存地区(伝建地区)」の制度が発足した。以前は「重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)」であったが、あまりに長い名称のためか、重要が省かれている。省略して「伝建」と呼ぶ場合もある。その区分は城下町・武家町・宿場町・商家町・門前町・寺内町・在郷町・港町・集落などとなる。集落には更に農村集落・山村集落・漁村集落・船主集落などに区分される。山村集落には全国各地で15地区が指定されている。その山村集落が一躍有名となったのは平成7年(1995年)、岐阜県白川村の白川郷荻町、富山県南砺市五箇山の相倉と菅沼が、ユネスコの世界文化遺産に登録されたことであろう。「世界文化遺産」に登録されても一時的なブームに終わったしまう例が多いが、白川郷の年間観光客数は、令和2年(2020年)に200万人を突破している。

伝建地区の山村集落15ヶ所の中で、世界文化遺産の3ヶ所を選ぶとそれで済んでしまうが、五箇山の相倉集落と菅沼集落は距離も近く類似点も多いので相倉を選ぶことにした。残りの12地区は①福島県南会津町の前沢(13.3 ha)、②群馬県中之条町の六合赤岩(63 ha)、③山梨県甲州市の塩山下小田原上条(15.1ha)、④長野県白馬村の青鬼(59.7ha)、⑤石川県加賀市の加賀東谷(151.8ha)、⑥石川県白山市の白峰(10.7ha)、⑦静岡県焼津市の花沢(19.5ha)、⑧京都府南丹市の美山町北(127.5ha)、⑨兵庫県養父市の大屋町大杉(5.8ha)、⑩徳島県三好市の東祖谷山村落合(32.3ha)、⑪福岡県うきは市の新川田篭(71.2ha)、⑫宮崎県椎葉村の十根川(39.9ha)である。この12地区の重視したいのが伝建地区の指定面積で、これを比較すると、一番広いのが加賀市の加賀東谷である。加賀東谷は4集落の集合で。単一の山村でないので南丹市の美山町北と、うきは市の新川田篭が有力となる。

次ぎに重視したいのが、日本の原風景でもある茅葺家屋の有無である。一部の地区を除くと、茅葺屋根がトタン屋根に葺き替えられた家屋が多い。現在も茅葺家屋が点在するのは、南会津町の前沢、白山市の白峰、南丹市の美山町北、三好市の東祖谷山村落合、うきは市の新川田篭の5地区に絞られる。更に年間観光客数を令和1年(2019年)のデーターで比較すると、前沢は約13,000人、白峰は33,065人、美山町北は約25万人、東祖谷山村落合は2,529人(宿泊者数)、うきは市の新川田篭は不明であるが、うきは市全体の年間観光客数が約71万人とされ、それを参考に推定すると約10万人と思われる。新川田篭地区には国の重要文化財の平川家住宅があって、白峰にも茅葺家屋ではないが旧山岸家住宅がある。

古い日本の民家に興味があって国の重要文化財を主に訪ねて来たが、伝建地区の景観を見物してから白川郷荻町のスケールの大きさに魅了された。相倉は全体の規模は小さいものの合掌造りの村落は素晴らしい、その次ぎ良かったのが美山町北集落である。

白川村白川郷荻町  平成18年7月29日  展望所より撮影

南丹市美山町  平成25年4月28日  撮影

南砺市五箇山相倉  平成18年7月29日  撮影

①白川村白川郷荻町  (訪問回数2回)

白川村は岐阜県北西部に位置し、富山県南砺市と石川県白山市と県境を接する。西に両白山地、北に人形山が連なり、村の南北を庄川が横断し、その流域の平坦地に集落が点在する。典型的な山村で、令和3年(2021年)の人口は1,481人、村の面積の殆どが山林である。近年では平成12年(2000年)の2,151人が人口のピークで、年々減少しているようだ。

平成の大合併では当初、高山市を中核とする「飛騨地域合併推進協議会」に白川村も参加していたが、村内に研究会を立ち上げ意見を取りまとめた結果、平成15年(2003年)に協議会を離脱して白川村単独を続けることになった。その理由は、白川村が高山市と合併すると鳥取県に匹敵する面積になることと、高山市の中心部までは83㎞もあって日常的な移動が困難であった。また人口1,900人足らずの白川村から市議会議員が選出できるかも問題視された。平成7年(1995年)に世界文化遺産に登録されたこともあって、白川郷のイメージを損ねたくないと言う内外の声もあったようだ。

白川村は古くから飛騨国の白川郷と呼ばれ、江戸時代中期から合掌造りの家屋が建てられた。大正13年(1924年)には約300棟あった合掌家屋は、昭和36年(1961年)には190棟まで激減したそうだ。特に合掌家屋が密集する荻町集落では、昭和46年(1971年)に「白川郷荻町集落の自然環境を守る会」を全住民の総意で発足させ、「売らない、貸さない、壊さない」を信条として保全に努めた。昭和51年(1976年)に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に荻町地区が指定されて、五箇山の集落と共に世界遺産の登録を目指したのである。

現在の荻町集落では合掌家屋が59棟、明善寺本堂と庫裏、白川八幡宮の社叢、水路などが保存されている。合掌家屋は強風防止のため屋根の妻側が南北に整然と並んでいる様子は芸術作品を見るようだ。白川郷の主な選定は、昭和62年(1987年)の「新日本観光地100選」、平成1年(1989年)の「日本の秘境100選」、平成3年(1991年)の「農村景観91地区」、平成14年(2002年)の「日本遺産・百選」、平成21年(2009年)の「平成百景」であるが、国の「日本遺産」に認定されていないのは世界遺産との重複を避けるためであろうか。

白川郷荻町集落を初めて平成18年(2006年)の7月下旬で、テレビの映像や雑誌の写真を見てある程度の知識はあったが、実際に見物すると集落の規模と建物の大きさは驚くばかりであった。最初に眺めた明善寺本堂と庫裏も合掌造りで、案内板がないと寺だと認識できない。長瀬家、神田家、和田家などを見て回ったが、国の重要文化財の和田家がやはり素晴らしい。江戸時代末期の建築とされ、切妻造茅葺の3階建てで、桁行22.3m、梁間12.8mと大きい。村の庄屋であったようで、白川村の初代村長はこの家の人と聞く。荻町集落を一望するには城山展望台に上って眺めるのが最も良く、夢中にカメラのシャッターを切った。2回目の訪問は平成20年(2008年)の7月中旬で、荻町集落から庄川を挟んた先の「合掌造り民家園」を見物した。合掌家屋7棟の主屋の他にも板倉や馬小屋のなどがあった。再び城山展望台にも上って写真を撮影した。秘境でもあった白川村は、文人などの所縁がなく、名句や名歌がない。辛うじてドイツ人建築家のブルーノ・タウト(1880-1938年)が昭和10年(1935年)に白川村を訪ねたことが知られる。

②南丹市美山町北村  (訪問回数1回)

南丹市は京都府中部の丹波地方に位置し、平成18年(2006年)に船井郡園部町・八木町・日吉町、北桑名郡美山町が合併して誕生したが、白川村と比較する意味で旧美山町のデーターから引用する。美山町の平成15年(2003年)の人口は5,070人、面積は340.47㎢で京都府では最大の面積であった。丹波高地の連山を境に福井県おおい町と接し、その山あいを縫うように由良川が蛇行する。面積の95%を山林が占め、耕作面積は2%と少なく、そのため林業が美山町の主な産業となっている。川沿いの平坦地に集落が営まれて、茅葺家屋が多く建てられた。およそ250棟の茅葺が現存するとされ、大野地区樫原にある石田家住宅は日本最古の農家建築で国の重要文化財に指定された。また、茅葺家屋が集中しているのが知井地区北村で、38棟が現存している。茅葺家屋群としては、白川郷荻町の59棟(114棟)、福島県の大内宿の47棟に次ぐ順位となっている。因みに萩町の茅葺家屋の59棟は世界遺産に選定された茅葺家屋で、総計では114棟が現存する。

京都と若狭小浜を結ぶ周山街道は、丹波の美山を経由して堀越峠を越えて若狭に入った。若狭路が鯖街道と称されたように周山街道は西の鯖街道と称されて、海産物などの物資が運ばれた。知井地区北村の歴史を振り返ると、知井八幡宮が創建されたのは平安時代末期の延久3年(1071年)で、普明寺は大治5年(1130年)に良忍上人(1073-1132年)が開山して鎌倉時代に春屋妙葩(1312-1388年)によって中興された。良忍上人は融通念仏宗を開祖し、春屋妙葩は臨済宗の高僧である。そんな高僧が小さな集落に寺を開山して、中興したものと感心する。よほどの財力がない限り無理な話であるが、荘園時代から林業で潤い豊かな集落であったのであろう。北村の最古の茅葺家屋は寛政8年(1796年)の建築で、江戸時代の建物が多いようだ。建材のほとんどは周辺の山から調達できたようで、その恩恵が集落にあるようだ。由良川の沿岸に萱場があって、収穫した萱は専用の収納庫に置かれている。平成5年(1993年)に「重要伝統的建造物群保存地区」に美山町北として指定されてから知名度が高まった。しかし、関西では有名となったが、全国区にまでは至っていない。

美山町北村を訪ねたのは現在のところ、平成25年(2013年)の4月下旬の1回だけであるけれど、「新日本三大山村集落」に相応しい景観と思っている。北側に山並みを背負い、南側に石垣を築いた敷地が連続する。白川郷荻町と同様に垣根や塀などは一切なく、集落全体の住民関係が良好な証である。入母屋屋根の1階建てが殆どで、北山型民家と呼ばれ丹波地方独特の茅葺家屋である。一部の建物を除いて屋根の妻側が南北に統一されて、白川郷荻町と共通する。土間は上げ庭で狭く、中央の棟木の筋で部屋を仕切る板壁や板戸などに特徴がある。集落の東の外れの地井八幡宮が鎮座していたが、社殿には鮮やかな彫刻が施されて京都府の文化財でもあった。茅葺家屋の中には3棟の民宿があって、美山民俗資料館とかやぶき交流館が一般公開されていた。集落の山際に建つ普明寺は、中興した春屋妙葩の諡号が普明国師であったことから寺号が改められたようである。西の外れの稲荷社にはトチの巨木があって、樹齢が400年以上と聞く。この集落も白川郷荻町と同じく、文人などの所縁がなく、良忍上人と春屋妙葩の高僧の名が残るだけであった。

③南砺市五箇山相倉集落  (訪問回数2回)

南砺市は富山県南西部に位置し、砺波平野に点在する散居村が有名である。平成の大合併で4町4村が合併した市なので、五箇山相倉集落が属していた平村の概要を述べると、平成12年(2000年)の人口は1,416人、村の面積94.06㎢で白川村の356.64㎢と比較すると随分と小さい村であった。中世に浄土真宗の教徒によって五箇山の集落がつくられているが、五箇山は赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の5地域とされる。江戸時代は加賀藩領で、林業以外に養蚕、塩硝、和紙が盛んであった。白川郷には「結」の風習が村の結束を深めたように、五箇山にも「組」と呼ばれる生活上の互助活動があった。

相倉集落は下梨谷に属し、江戸時代後期は26戸の合掌家屋があって、明治20年(1887年)には53戸、人口311人の記録が残る。現在の20戸、人口80人に比べると随分と減少したように思われる。昭和45年(1970年)に国の史跡に指定されて集落の合掌家屋は保護される形となり、平成6年(1994年)には国の「伝統的建造物群保存地区」に指定される。そして、平成7年(1995年)、ユネスコの世界文化遺産に「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として登録された。相倉集落の合掌家屋の建築年代は、100年から200年前のものが多く、古いものは400年前と言われる。20棟の合掌家屋の内、7棟が民宿を営み、2棟が民俗館、1棟が土産店兼ねた食堂、1棟が相念寺となっている。民宿には平成7年(1955年)に秋篠宮殿下が、昭和58年(1983年)の学習院高等科の夏季研修以来2度目の宿泊をされている。

相倉集落を初めて訪問したのは平成18年(2006年)の7月下旬で、白川郷、菅沼集落、岩瀬家を見物した後であったが、国の重要文化財でもある岩瀬家が印象に残る。平安時代末期に源平合戦で敗れた平家の落人が五箇山に逃れ住んだとされる。平家の落人伝説や末裔の定住は四国の祖谷に限らず、能登半島の輪島、栃木県の湯西川にも伝わる。平村の村名も平家に由来するのは明らかで、五箇山に逃れたことも信憑性が高い。岩瀬家は約820年前に、8年もの歳月を費やして建てられたようだ。加賀藩の塩硝を取りまとめて納入する上煮役の藤井長右ヱ門(生没年不詳)が、天領の飛騨白川郷に加賀百万石の威光を示したものだと言われる。切妻造茅葺の4階建てで、桁行26.4m、梁間12.7m、高さ14.4mと、白川郷の和田家よりも大きい。岩瀬家の見学に時間を費やし、相倉集落は写真撮影に終わってしまった。2回目の訪問は平成20年(2008年)の5月初旬で、この時は時間にゆとりがあったので、相倉民俗館を訪ねた。相倉民俗館は1号館と2号館に分かれ、衣食住に関する日常用具、養蚕・塩硝・和紙などの産業で使用された生産用具、雪国の生活に不可欠な道具や用具を展示してあった。白川郷荻町と同様に寺以外にも地主神社があって、神仏習合の時代は続いているようだ。神社の入口には廿日石、民宿前庭の大岩には天狗の足あと、集落の外れには夫婦ケヤキなどの名所もあってゆっくりと散策することができた。

地主神社には平成4年(1992年)に建立された今上天皇の御歌碑があった。今上天皇が皇太子時代、平成3年(1991年)の宮中歌会始で「森」のお題に詠まれた歌である。学習院高等科地理研究会の研修旅行で相倉集落に滞在した感慨を思い出された内容である。

「五箇山を おとづれし日の 夕餉時 森に響かふ こきりこの唄」皇太子殿下

18.新日本三大宿場町(伝統的建造物群保存地区)

名称       街道名           面積ha     建造物     人口   年間観光客数   所在地

①関宿       東海道             25.0      200棟    2,349人    250万人    三重県

②大内宿     会津街道           11.3       47棟      130人     80万人    福島県

③妻籠宿     中山道(木曽路)   1,245.4       57棟      337人     70万人    長野県

往時の面影を留める旧街道の宿場町は、観光の名所ともなっている。特に「伝統的建造物群保存地区」に指定された宿場町は人気が高い。その宿場には、福島県下郷町の大内宿、長野県東御市の海野宿、長野県塩尻市の奈良井宿、長野県南木曽町の妻籠宿、福井県若狭町の熊川宿、三重県亀山市の関宿、兵庫県丹波篠山市の福住、山口県萩市の佐々並市の8ヶ所が指定されている。その中で「新日本三大宿場町」を選定すると、丹波篠山市の福住は農村集落を兼ねた小さな宿場町なので先に除外する。萩市の佐々並市は主要な街道でもなくここも除外する。残った6ヶ所の宿場町を街道別に分けると、西会津街道の大内宿、北国街道の海野宿、中山道の妻籠宿・奈良井宿、若狭路の熊川宿、東海道の関宿となる。

年間観光客数から選別すると、関宿の250万人、大内宿の80万人、妻籠宿の70万人、奈良井宿の59万人、熊川宿の45万人、海野宿の25万人の順となる。関宿は中部地区の経済圏に位置することからダントツで、大内宿は福島県の人気のある観光地である。中山道の妻籠宿と奈良井宿は、どちらに選択するか迷ったが、年間観光客数から妻籠宿を選んだ。

熊川宿は福井県では若狭路(鯖街道)の名残のある観光地ではあるが、観光客は停滞ぎみである。海野宿は昭和62年(1987年)に「日本の道百選」に北国街道の宿場町として選ばれているが、多くの観光地を抱える長野県では影が薄い。

宿場町が観光地として注目されたのは、国鉄(JR)が昭和45年(1970年)頃から行った「ディスカバー・ジャパン」のキャンペーンで全国各地の名所を紹介した頃に始まる。その先駆けが中山道の馬籠宿で、昭和61年(1986年)の「新日本百景」に選ばれ、平成21年(2009年)の「平成百景」には妻籠宿と選ばれている。しかし、馬籠宿の景観は明治期と大正期の大火で古い町並みの殆どを失い、現在の町並みは昭和60年(1985年)代から復元された。そのことから国の「伝統的建造物群保存地区」に指定されなかった。それでも年間約63万人が馬籠宿を訪れ、宿場町の先駆けであった面目は失っていない。

昔の街道があった場所には現在も宿場町の面影が残っていて、ローカルな名所となっている所もある。宮城県の滑津宿(七ヶ宿街道)と上戸沢(七ヶ宿街道)、山形県の楢下(羽州街道)、山梨県の塩山(青梅街道)、長野県の千国(千国街道)、長野県の下諏訪(中山道・甲州道中)と望月(中山道)、新潟県の出雲崎(北陸道)、福井県の今庄(北国街道)、静岡県の森(秋葉街道)、愛知県の二川(東海道)と鳴海(東海道)、岐阜県の明智(中馬・南北街道)、三重県の平松(伊賀街道)、滋賀県の醒井(中山道)と鳥居本(東海道)、奈良県の五條(伊勢街道)、兵庫県の平福(智頭往来)、鳥取県の若桜(智頭往来)、島根県の平田(山陰本街道)、岡山県の勝山(出雲街道)と矢掛(山陽道)、広島県の三次(出雲街道)、福岡県の木屋瀬(長崎街道)と畔町(唐津街道)、佐賀県の小城(長崎街道)など他に訪ねていない宿場町を含めると紙面をはみ出してしまう。

関宿  平成19年2月12日  撮影

 大内宿  平成24年9月7日  見晴台より撮影

妻籠宿  平成19年10月7日  撮影

①関宿  (訪問回数4回)

関宿は三重県亀山市南部にあって、鈴鹿山脈の山裾に広がる伊勢平野の西に位置する。古代からの交通の要所で、白鳳時代には「三関」の1つ「鈴鹿関」が置かれた。関宿の地名も関所跡に由来し、江戸時代には東海道の他にも東の追分から伊勢別街道、西の追分から大和街道が分岐する主要な宿場町であった。東海道五十三次では、江戸から数えると47番目の宿場町で、天保14年(1843年)頃は戸数632戸、人口1,942人、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠屋42軒の規模であった。同時期の名古屋の宮宿は、東海道五十三次最大の宿場町で、戸数2,924戸、人口10,342人、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋248軒であったのと比較すると、関宿はそんなに大きな宿場町ではなかったようだ。

関宿には東西追分の間の距離が1.8㎞、面積が25haあり、新所・中町・木崎の町並みに区分される。その中に寺院が10ヶ寺、関神社1社が建っている。寺院で有名なのが「地蔵院」で、奈良時代の天平13年(741年)に行基菩薩(668-749年)が開創した。関の地蔵は関宿のシンボルで、本堂・愛染堂・鐘楼の3棟が国の重要文化財である。門前の「会津屋」は昔の旅籠で、「関宿歴史資料館」となった「玉屋」も旅籠であった。他に「鶴屋」も旅籠で、附近には「伊藤本陣跡」と「川北本陣跡」、両替商であった「橋爪家」がある。そして、小公園の「百六里庭」に「眺関亭」がある。百六里の名は江戸から関宿までの距離のようで、2階建ての眺関亭からは中心部の町並みが眺められる。通りの東には大名行列一行をもてなした「御馳走場」が1軒残り、向には芸妓の置屋だった「開雲楼」と「松鶴楼」が残る。宿場に付きものの「高札場」の跡が現在の関郵便局で、中心部に建つ「関まちなみ資料館」は江戸時代の町家である。江戸時代と言えば、この頃から関神社の祭典「関宿祇園夏まつり」が行われ「関の山」として知られた。最盛期は16基もの山車があり、現在は4基に減ったようであるが、その山車倉が点在する。関宿が「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されたのは昭和59年(1984年)で、昭和62年(1987年)の「日本の道百選」に旧東海道として、平成8年(1996年)の「歴史の道百選」に鈴鹿峠越えとして選ばれている。

関宿を初めて訪ねたのは平成17 年(2005年)の9月下旬で重伝建の宿場町の見学は福島県の「大内宿」に続くものであったが、面積は2倍以上、建造物数は4倍以上と、その規模の大きさに驚いた。その年の10月上旬にも訪ねて、宿場町の景観が好きになった。3回目の訪問は平成19 年(2007年)の2月中旬で、建物の特徴を精査した。町家は江戸後期から明治中期の建築で、平入り2階建てが一般的であった。2階の外壁を白い塗籠で仕上げた町家もあって目を引く。4回目の訪問も同年の9月下旬で、自転車で旧東海道を踏破した時である。実際に五十三次を見物して思ったのは、関宿に勝る景観は他に無かったこと。

関の地蔵に関して面白い逸話がある。塵にまみれて見苦しくなった石像を村人が清掃して、開眼供養して貰おうとしたところに一休禅師(1394-1481年)が通り合わせた。村人が供養を頼んだら、経も上げずに和歌を一首詠んで、地蔵の前で立ち小便をして去ったと言う。

立ち小便は一休流の開眼供養で、地蔵の光明が遍く照らすように願った眼薬でもあった。

「釈迦はすぎ 弥勒はいまだ 出でぬ間の かかるうき世に 目あかしの地蔵」 一休禅師

②大内宿  (訪問回数2回)

大内宿は福島県下郷町北部、標高650mの山間部に位置し、会津街道の宿場町であった。会津街道は会津若松を中心に北は米沢、南は日光今市を結ぶ街道で、会津若松以南は会津西街道、会津若松以北は米沢街道と称されていた。会津西街道は下野街道または南山通りとも呼ばれ、大内と田島が主要な宿場町として整備された。江戸時代の一時期は参勤交代の大名行列や日光東照宮参詣の旅人で賑わう街道であったが、明治17年(1884年)に:現在の国道121号線が開通されると、大内宿は忘れ去られた寒村の旧宿場町となった。冬になると多くの男たちは出稼ぎに行き、村の暮らしを守って来たようだ。

大内宿の歴史を振り返ると、平安時代末期に平家打倒の挙兵に失敗した高倉宮以仁王(1151-1180年)の逃避行伝説に始まる。安土桃山時代の天正3年(1576年)には浄土宗の正法寺が創建された。大内宿に関わった人物としては、伊達政宗(1567-1636年)が小田原参陣の折に通り、豊臣秀吉(1537-1598年)が奥州仕置きを終えて会津の黒川城から京都へ向かう途中に通っている。江戸時代前期には会津藩初代藩主の保科正之(1611-1673年)も参勤交代で頻繁に往来した。江戸時代末期には吉田松陰(1838-1859年)が『東北旅行記』で、明治初期にはイザベラ・バード(1831-1904年)が『日本奥地紀行』で訪れている。

大内宿の全長が450m、面積が11.3 haと小さな宿場町であるが、道路脇には水路があって入母屋造り茅葺建屋が整然と建っている。全体で47棟の茅葺建屋があるが、平屋もあれば2階建てもあって、茅葺屋根に通気口を設けた建屋が多い。宿場町そのものが民家博物館のような景観である。正面の高台には三仏堂、子安観音堂、弁天堂が建ち、左側には正法寺がある。茅葺建屋のうち民宿が4軒、土産屋が22軒、食堂が16軒と、殆どの家々が観光客相手に商売をしている。宿場町としての機能が失われてから約100年、寒村にも等しかった大内宿は、昭和56年(1981年)に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されて注目されるようになった。重伝建の指定は、妻籠宿、奈良井宿に続いて3番目の指定となっている。平成21年(2009年)の「平成百景」、平成28年(2016年)に国の「日本遺産」に「巡礼を通して観た往時の会津の文化の構成文化財」として大内宿が認定された。

大内宿を初めて訪ねたのは平成2年(1990年)の2月初旬で、福島県南部のスキー旅行の時であった。大内宿の噂を耳にして、民宿があることを知って「大和屋」に1泊した。この頃はトタン屋根に葺き替えられた家屋も多く、新しい建てられた家もあった。深い雪に包まれていたので、宿場町の全体の様子を見物することができなかった。2回目の訪問は平成24年(2012年)の9月上旬で、殆どのトタン屋根が茅葺屋根に再び葺き替えられ、食堂と土産店を兼ねた家々が急増していた。本陣が復元されて「大内宿町並み展示館」となっていた。大内宿にも白川郷のような「結」の風習があって、全戸が一帯となって復元に努力したようである。平日に関わらず多くの観光客が来ていたが、春と秋の連休、盆休みとなると道路は大渋滞し、国道121号を湯野上まで来て引き返したこともあった。

大内宿を最も多く往来した著名人は名君の保科正之で、その辞世の和歌を結びとする。

「万代と いはひ来にけり 会津山 たかまの原の すみかもとめて」保科正之

③妻籠宿  (訪問回数1回)

妻籠宿は長野県南木曽町の南にあって、標高430mの谷間を流れる蘭川の東岸に位置する。中山道六十九次では、江戸から数えると42番目の宿場町で、天保14年(1843年)頃は戸数83戸、人口418人、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋29軒の規模であった。関宿のような御馳走場や芸妓置屋もなく、木曽11宿では一番小さな宿場町でもあった。江戸時代の町並みの長さは2町30間(約270m)であったが、その後は全長が約500mに拡張された。

中山道は古代の頃は「吉蘇路」と呼ばれ、中世には「妻籠関所」が設置されている。鎌倉時代の文永年間(1264-1275年)に土豪の木曽氏によって県の史跡にもなっている妻籠城が築かれた。室町時代の明応9年(1500年)には臨済宗の光徳寺が創建される。天正12年(1584年)になると、羽柴秀吉と徳川家康の小牧長久手の戦いの前哨戦として妻籠城で攻防戦が行われた。江戸時代初期の頃は天領であったが元和1年(1615年)からは尾張藩領となって明治まで続いた。昭和34年(1959年)に中津川南木曽線の道路が開通し、宿場を通行する車両や人の往来が少なくって過疎化も進んだ。その後、昭和43年(1968年)になると、県の明治百年記念事業の1つとして、妻籠宿保存事業が始まり、白川郷と同様に「売らない、貸さない、壊さない」を信条とした保存や復元が行われた。その努力の結果、昭和51年(1976年)、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に間の宿であった大妻籠も含むて1,245.4haと広大な面積が指定される。平成8年(1996年)の「歴史の道百選」に信濃路の1つに選ばれ、平成21年(2009年)の「平成百景」には馬籠とともに選ばれた。更に平成28年(2016年)の「日本遺産」には「木曽路はすべて山の中」を構成する遺産として選定された。

妻籠宿の訪問は平成19 年(2007年)の10月上旬で、自転車で中山道を踏破した時の1回だけである。宿場の入口を入ると、鯉岩(町名勝)、口留番所跡、熊谷家住宅(町文化財)、高札場、妻籠宿本陣(復元)、脇本陣奥谷(国重要文化財)、歴史資料館、キンモクセイ(県天然記念物)、旧妻籠小学校、和智野神社、妻籠観光案内所(旧吾妻村役場)、枡形跡(町史跡)、光徳寺、延命地蔵(汗かき地蔵)、下嵯峨屋(町文化財)、上嵯峨屋(町文化財)と妻籠宿の名所が鈎型の通りに点在する。妻籠宿本陣は馬籠で生まれた島崎藤村(1872-1943年)の母の生家で、昔は村の庄屋も兼ねていた。脇本陣奥谷(林家住宅)は明治10年(1877年)の総檜造りの建築で、桟瓦葺切妻平入造りの2階建てである。明治13年(1880年)には明治天皇(1867-1912年)が巡幸に際に御小休所として利用している。また、明治天皇の伯母である皇女和宮(1846-1877年)も江戸に降嫁する際に奥谷で休息している。妻籠の建物は脇本陣奥谷と同様の桟瓦葺切妻平入造りの2階建てが殆どであったが、旧吾妻村役場は宿場唯一の洋風の木造であった。

妻籠宿には旅館や旅籠が7軒、食堂や居酒屋などの飲食店が21軒、土産屋や商店が20軒と、大内宿と同様に殆どの家々が観光客相手の商売をしている。大妻籠には14戸の家々があったが、その中で旅館や旅籠が6軒、そば屋が1軒と妻籠と類似していた。江戸時代に木曽路を旅した文人墨客が多くいたと思われるが、松尾芭蕉(1644-1694)は貞享2年(1685年)と貞享5年(1688年)の2回訪ねている。妻籠にはないけれど馬籠に句碑が建てられた。

「送られつ 送りつ果ては 木曽の龝()松尾芭蕉

19.新日本三大縄文遺跡

名称          国の指定   年代      面積ha   資料館など    年間観光客数  所在地

①三内丸山遺跡  特別史跡   縄文前期    24     縄文時遊館        20万人    青森県

②加曽利貝塚    特別史跡   縄文中期   13.4    加曾利貝塚博物館   7万人    千葉県

③大湯環状列石  特別史跡   縄文後期    1.6    大湯ストーンサークル館      3万人   秋田県

令和2年(2019年)11月、「北海道・北東北の縄文遺跡群」がユネスコの世界文化遺産に登録されて、日本の古代史が世界中に知られることになった。日本では20番目の世界文化遺産で、青森県と秋田県、北海道では初めての世界文化遺産となった。その構成は、北海道からは、①入江・高砂貝塚(洞爺湖町)、②キウス周堤墓群(千歳市)、③北黄金貝塚(伊達市)、④垣ノ島遺跡(函館市)、⑤大船遺跡(函館市)の5ヶ所、青森県からは①大平山元Ⅰ遺跡(外ヶ浜町)、②田小屋野貝塚(つがる市)、③亀ヶ岡石器時代遺跡(つがる市)、④三内丸山遺跡(青森市)、⑤小牧野遺跡(青森市)、⑥大森勝山遺跡(弘前市)、⑦是川遺跡(八戸市)、⑧二ツ森貝塚(七戸町)の8ヶ所と最多である。岩手県からは、御所野遺跡(一戸町)が1ヶ所のみで、秋田県からは、伊勢堂岱遺跡(北秋田市)と大湯環状列石(鹿角市)の2ヶ所が登録された。三内丸山遺跡と大湯環状列石は国の特別史跡で、他の14ヶ所は国の史跡である。北海道の縄文遺跡は道南地方に限られているようであるが、国宝の「中空土偶」が発見された函館市の著保内遺跡は入っていない。また、岩手県滝沢市の湯舟沢環状列石も国の史跡であるが対象外のようで、世界文化遺産への推薦の基準が曖昧と思えてならない。

縄文遺跡の遺跡の世界文化遺産は、限定された地方の縄文遺跡なので、全国的なレベルで選ぶことにしたのが「新日本三大縄文遺跡」である。縄文遺跡も大きく分けると、竪穴住居を主体とした集落跡と、住居跡に遺された貝塚、儀礼場または墓地跡とされる環状列石の3つとなる。住居群の最大の縄文遺跡は、青森県青森市の特別史跡の「三内丸山遺跡」である。貝塚の縄文遺跡は、千葉県千葉市の特別史跡の「加曽利貝塚」である。そして、環状列石に関しては、秋田県鹿角市の特別史跡の「大湯環状列石」となるが、同じ秋田県北秋田市の史跡の「伊勢堂岱遺跡」には4つの環状列石があって、史跡指定の面積が16haに及ぶ。大湯環状列石は2つの環状列石、史跡指定の面積が1.6 haなので比較にならない。しかし、環状列石にの大きさに関しては、大湯環状列石の万座遺跡の直径が約52m、伊勢堂岱遺跡の最大環状列石であるCブロックは直径が約45mと小さい。特別史跡で統一することも踏まえて、「新日本三大縄文遺跡」には大湯環状列石に決定したい。

全国各地には他にも評価の高い縄文遺跡があって、埼玉県北本市の「デーノタメ遺跡」は、平成28年(2016年)に関東最大級とあると確認されたが国の史跡には指定されていない。

長野県と山梨県の縄文遺跡群は、「星降る中部高地の縄文世界―数千年を遡る黒曜石鉱山と縄文人と出会う旅―」と題する「日本遺産」に平成30年(2018年)に認定された。石川県能登町の「真脇遺跡」は北陸最大の縄文遺跡である。大阪市中央区の「森ノ宮遺跡」は西日本では最大の貝塚遺跡とされる。広島県庄原市の「寄倉岩陰遺跡」は中国四国で最大の洞窟遺跡で、鹿児島県霧島市の「上野原遺跡」も国内では最古・最大級の集落跡と言われる。

三内丸山遺跡  平成24年5月4日  撮影

加曽利貝塚  平成29年12月17日  撮影

大湯環状列石  平成21年4月12日  撮影

①三内丸山遺跡  (訪問回数3回)

三内丸山遺跡は青森県青森市の市街地西南部、沖館川右岸の標高約20mの河岸段丘上に位置する。三内丸山遺跡が発見されたのは、県営野球場の建設にあたり、事前の掘削調査が行われた時である。江戸時代後期の寛政8年(1796年)の4月、桜の名所として知られた三内村を訪ねた菅江真澄(1754-1829年)は、崩れた堰跡から縄文土器の破片を見付けた。真澄が弘前藩の薬草係として出仕していた頃である。三内村では当時、多量の土偶が発見され、遺跡が眠っていることを弘前藩の学識者から真澄は聞かされていた。青森県の郷土史研究家の間でも周知されていて、野球場の建設も遺跡の存在を踏まえて行われたようだ。

平成6年(1994年)には、直径1mもある栗の柱6本が発見されて、大規模な遺跡があったことが確認されると、野球場の建設は中止となって本格的な調査が開始された。平成9年(1997年)には、約24haが国の特別史跡に指定されて、全国的に有名になった。6本の柱のある建物跡には、高さ14・7mの建物に復元されたが、屋根があったかどうかは不明である。大型竪穴住居跡が10棟、竪穴住居跡が780棟も発見されたが、掘立柱建物跡に関しては数値が出ていない。住居跡には時代の変遷があるので、最盛期の戸数は不明であるが、500人ほとが住んでいたと推定されている。土器などの出土品は、2,000点以上もあるとされ、他の遺跡では見られない遺物もある。「縄文ポシェット」と呼ばれる編籠や酒杯のような漆器である。他にもヒスイやメノウの装飾品や黒曜石の刃物や鏃も発見されている。ヒスイは新潟県産で、黒曜石は北海道産とされているので、広範囲な海上交易があったことが立証された。

貝塚からは、栗・クルミ・トチの殻が見つかり、エゴマ・ひょうたん・豆など植栽植物も出土した。栗は栽培していたようで、植物性の食糧は採取のみならず、栽培する技術を持っていたのである。動物は野ウサギ・ムササビを狩猟していたようで、魚介類はマダイなどの他にクジラの骨が発見されていて、大掛かりな漁労が行われていた。

三内丸山遺跡を初めて訪ねたのは、平成6年(1994年)の9月中旬で、巨大な掘立建物跡の遺構をニュースで知って駆け付けたのである。保存ドームが建てられる前であったので、地面からむき出しとなった栗の柱を驚嘆しながら眺めた。掘立建物跡のある広場を囲むように住居が造られた環状集落で、そのスケールの大きさは自分のイメージしていた縄文時代が一新させられる光景でもあった。翌年5月上旬に訪ねると、展示館が建てられていて、出土品を見物することができた。3回目の訪問は平成26年(2014年)の5月下旬で、ビジターセンター「縄文時遊館」が新たに建設中であった。三内丸山遺跡の発見は、日本全国に縄文ブームを巻き起こし、青森県を代表する観光施設として進化している。「青森ねぷた」の祭りと合わせて見学する観光客も多く、ピーク時の年間観光客数は565,376人を記録した。令和2年(2020年)の年間観光客数は75,584人と激減しているが、激減の理由は遺跡内が有料化されたことも考えられる。縄文時遊館の見学は有料でも良いが、歴史公園と考えて遺跡跡は無料にした方がビジターや観光客は増えると予想する。江戸時代に遺跡に注目した菅江真澄は、その様子を和歌には詠んでいないが、津軽五所川原で詠んだ和歌がある。

「春雨の ふる枝の梅の したしづく 香をかぐはしみ 草やもゆらん」菅江真澄

②加曽利貝塚  (訪問回数1回)

加曽利貝塚は千葉県千葉市の市街地東部、標高30m前後の舌状台地上に位置する環状集落の遺跡である。最初に発見された年代は不明であるが、明治40年(1907年)に東京人類学会が調査して日本では最大級の貝塚であることが明らかになった。昭和38年(1963年)に民間企業が土地を買収して整地作業を行い、南貝塚の一部が破壊された。これを契機に保存運動が高まり、翌年には千葉市が北貝塚の約5 haを取得して公園として整備した。昭和41年(1966年)に「千葉市立加曽利貝塚博物館」が開館し、土器や石器などの出土品をした。昭和52年(1971年)に北貝塚が国の史跡に指定され、その後に南貝塚も追加指定される。平成29年(2017年)には、貝塚遺跡としては初めて国の特別史跡に指定された。

北貝塚は直径約140mの環状の貝塚で、南貝塚は長軸約190mの馬蹄形の貝塚である。今から約7,000年前から約2,500年前、縄文時代早期から中期までの遺跡で、悠久の縄文時代が太陽の下に再び現れたのである。貝塚には貝殻や動物の骨だけではなく、埋葬された人骨、様々な道具や装飾品が発見されて、縄文時代の暮らしや文化を知る手がかりとなった。貝塚附近からは長径19mにおよぶ大型建物跡も発掘されて、大規模な集落が形成されていたようだ。民間企業による破壊がなかったら、他にも新しい発見があったと思うと、戦後の高度成長は埋蔵文化財の保護に関しては野放し状態であったと言える。世界文化遺産の三内丸山遺跡は県営野球場の建設中で、伊勢堂岱遺跡はバイパス道路の建設中に発見されている。埋蔵文化財は土木工事中に発見される事例が殆どで、自治体が建設許可を出すだけではなく、原野や森林においては埋蔵文化財があることも想定しなくてはならない。

加曽利貝塚を初めて訪ねたのは平成29年(2017年)の12月中旬で、国の特別史跡に指定された2ヶ月後であった。加曽利貝塚は千葉市の歴史公園として定着している様子に見えた。あまりメジャーな名数ではないが、「日本三大貝塚遺跡」の1つとして、北海道網走市のモヨロ貝塚、茨木県美浦村の陸平貝塚とともに選ばれていることは以前から知っていた。

入口には特別史跡に指定されたことを予想していたように真新しい石柱が建てられていた。貝層断面施設に入ると、夥しい数の貝殻が切はがされた断層を覆っていた。広い公園内を見渡すと、住居跡には復元された竪穴住居が何棟かあった。住居内は広く、10人ほどは起居できるスペースに感じられる。他の竪穴住居のように縄文人の蝋人形でも展示してあればもっとリアルになると思った。共同墓地跡や集落跡は、縄文時代中期のもので、貝塚に捨てられた遺骨が手厚く葬られるようになったようだ。大型建物跡の床面積は約240㎡もあって、一般的な住居跡の8~12倍と言われる。この建物跡からは土偶や石棒、ヒスイの玉や祭祀用の遺物が出土しており、集落の祭りや祈りの施設ではなかったかと推定されている。遺跡の側を流れる小さな坂月川は、当時は水量の多い川で舟着場があったと言われる。丸木舟で東京湾に出て魚介類の漁をしたと想定され、その痕跡が貝塚に大量に遺された。縄文時代の終りから約1,000年後、千葉の地名は奈良時代の万葉集に登場する。防人として九州に赴く大田部足人(生没年不詳)が、愛する家族を残して行く哀しみを詠んだ。

「千葉野の 児手柏の 含まれど あやにかなしみ 置きてたか来ぬ」 防人の歌

③大湯環状列石  (訪問回数2回)

大湯環状列石は秋田県鹿角市の北部にあって、米代川の支流である大湯川沿岸、標高約180mの舌状台地に位置する。昭和6年(1931年)に耕地整理で発見された約4,000年前の縄文時代後期前葉から中葉にかけた遺跡である。昭和31年(1956年)に国の特別史跡に指定され、その面積1.6haは東京ドームの約3分の1の大きさで、他の縄文遺跡に比べるとそんなに大きくはない。環状列石は、万座環状列石と野中堂環状列石の2ヶ所が、県道66号線を挟んで縄文時代を披露している。万座環状列石の最大径は52m、組石数は48基で、野中堂環状列石の最大径は44m、組石数は44基となっている。住居などの建物跡は、竪穴式住居跡が2棟、掘立柱建物跡が20基発見されているが、住居跡の少なさを考えると、他に住居跡があった可能性は高い。掘立柱建物跡は高床式の倉庫と推測されている。現在は万座環状列石の周囲に、8棟の掘立柱建物が復元され、リアルな縄文時代を再現している。長閑なりんご畑に囲まれた遺跡は、縄文時代を想起とせると共に、桃源郷の世界を感じさせる。

山間部に居住していた縄文人は、食糧の調達に苦労したと思われるが、「フラスコ状土坑」と称される地下貯蔵室を考案して冬期間の食糧を確保していた。深さ1.5mの土坑が298基も発見され、中からは炭化したクリやブナ、トチノキなどの木の実が発見されたと聞く。どことなく、ツキノワグマの主食と重なるが、その共存を思うと、微笑ましく感じられる。台地の下の大湯川では、川魚を捕り、イノシシやウサギなどの狩猟も行われていた。山間部にあっても山の幸に恵まれた環境にあって、豊かな食糧調達が大湯遺跡に存在していたのである。刃物や矢じりなどに使用された石は、黒曜石を加工したものであるが、周辺から入手したものでない。男鹿半島や津軽半島が原産とされるので、大湯の縄文人の行動範囲が北東北一円に広がっていた。縄文人が埋葬された墓地からは、勾玉などの装飾品が発見されていて、おしゃれな縄文人が輪のつくり、踊ったり、唄ったりする姿が浮かぶ。

大湯環状列石を初めて昭和50年(1975年)の6月中旬で、その頃の環状列石は日時計や祭祀場であったとされていた。遺跡近くの北東には、標高280mの黒又山が聳えている。三角錐の山で、巨大なピラミットが樹木に覆われたような趣のある山でもある。原始的な山岳信仰があって、その祭祀場であったと推測されたが、環状列石から人骨が発見されたことで、現在では共同墓地説が一般的となった。2回目の訪問は平成21年(2009年)の4月中旬で、平成14年(2002年)に開館した「大湯ストーンサークル館」を見学した。大湯環状列石に隣接していて、縄文遺跡では初の特別史跡に相応しい資料館である。遺跡から出土された土器や土偶などを展示しているが、その展示数は秋田県では最大級を誇る。土器に関しては、壺型土器と深鉢型土器が多いが、縄文土器を眺めて思うことは、底がほそばった形からは実用的ではなかったと思う。実際の生活に密着した土器ではなく、土偶などと一緒で、縄文人の遊び心が創作させたものであろう。四角い土版と呼ばれる土製品には、人間の表情をしたユニークなものもあって、他の縄文遺跡とは異なった文化を象徴している。遺跡の近くには歌枕で有名な「錦木」があり、能因法師(988-?年)の和歌にも詠まれている。

「錦木は 立ちながらこそ 朽にけれ けふの細布 胸合じとや」能因法師

20.日本三大弥生遺跡

名称          国の指定   年代      面積ha   資料館など    年間観光客数  所在地

①吉野ヶ里遺跡  特別史跡   弥生中期   117    弥生ミュージアム    63万人   佐賀県

②原の辻遺跡    特別史跡   弥生前期   100   一支国博物館         57万人   長崎県

③登呂遺跡      特別史跡   弥生前期   1.6    登呂博物館          18万人   静岡県

弥生時代の時期は、紀元前300年から西暦250年の約550年間を指すが、地方によって前代の縄文時代と後代の古墳時代が重複した時代も続き、明確な時代の線引きはできない。

更に弥生時代は、日本列島に水田耕作が広まった前期、環濠集落が営まれた中期、方形周溝墓が造られて鉄釧など副葬された後期に区分される。「弥生」の名称は、明治17年(1884年)に東京府本郷区向ヶ丘弥生町(現在の東京都文京区弥生)の向ヶ岡貝塚(弥生二丁目遺跡)で発見された土器が弥生式土器と名付けられたことに由来する。

弥生時代の国の特別史跡は、登呂遺跡(静岡県静岡市)、原の辻遺跡(長崎県壱岐市)、吉野ヶ里遺跡(佐賀県吉野ヶ里町・神埼市)の3ヶ所だけなので、「日本三大弥生遺跡」では選考の余地はない。主な弥生時代の国の史跡としては、1垂柳遺跡(青森県田舎館村)、2地蔵田遺跡(秋田県秋田市)、3山王囲遺跡(宮城県栗原市)、4里浜貝塚(宮城県東松島市)、5日高遺跡(群馬県高崎市)、6中高瀬観音山遺跡(群馬県富岡市)、7大塚・歳勝土遺跡(神奈川県横浜市)、8三殿台遺跡(神奈川県横浜市)、9神崎遺跡(神奈川県綾瀬市)、10下谷地遺跡(新潟県柏崎市)、11吉崎・次場遺跡(石川県羽咋市)、12朝日遺跡(愛知県名古屋市)、13下之郷遺跡(滋賀県守山市)、14伊勢遺跡(滋賀県守山市)、15大中の湖南遺跡(滋賀県近江八幡市)、16池上・曽根遺跡(大阪府和泉市・泉大津市)、17纏向遺跡(奈良県桜井市)、18唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町)、19大中遺跡(兵庫県播磨町)、20田能遺跡(兵庫県尼崎市)、21五斗長垣内(兵庫県淡路市)、22青谷上寺地遺跡(鳥取県鳥取市)、23妻木晩田遺跡(鳥取県大山町)、24福市遺跡・青木遺跡(鳥取県米子市)、25荒神谷遺跡(島根県出雲市)、26加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)、27楯築遺跡(岡山県倉敷市)、28門田貝塚(岡山県瀬戸内市)、29土井ヶ浜遺跡(山口県下関市)、30紫雲出山(香川県三豊市)、31板付遺跡・野方遺跡(福岡県福岡市)、32立岩遺跡(福岡県飯塚市)、33曽根遺跡群(福岡県糸島市)、34須玖岡本遺跡(福岡県春日市)、35奈畑遺跡(佐賀県唐津市)、36方保田東原遺跡(熊本県山鹿市)、37広田遺跡(鹿児島県南種子町)、38木綿原遺跡(沖縄県読谷村)などがある。青森県の垂柳遺跡は東北地方北部で稲作が行われていた史実が明らかとなった。宮城県の山王囲遺跡は縄文時代晩期から弥生時代中期の遺跡で、編布は本州初の発見である。神奈川県の大塚・歳勝土遺跡では弥生時代中期の環濠集落と墓地が発掘された。愛知県の朝日遺跡は東海地方最大級の環濠遺跡で、人口は約1,000人と推定される。大阪府の池上曽根遺跡は大型掘立柱建物、井戸などが発掘された。奈良県の唐古・鍵遺跡では木製農具、炭化米などが出土し、農耕が行われたことが立証された。島根県の荒神谷遺跡は銅剣、銅矛、銅鐸など大量の青銅器が発見されている。福岡県の奈畑遺跡は縄文時代晩期に遡る水田跡が発掘され、農具も出土した。それそれに特色のある弥生遺跡で、今後の発掘調査によっては新たに特別史跡となる遺跡が現れる可能性は高い。

吉野ヶ里遺跡  平成27年5月3日  撮影

原の辻遺跡  平成27年4月12日  撮影

登呂遺跡  令和3年1月11日  コピー

①吉野ヶ里遺跡  (訪問回数1回)

吉野ヶ里遺跡は佐賀県の吉野ヶ里町と神埼市にまたがる遺跡で、吉野ヶ里町の南端、神埼市の東端に位置する。標高22mの吉野ヶ里丘陵にあって、遺跡の長さは2.5㎞、面積は117haと広大である。現在は国営吉野ケ里歴史公園となっていて、遺跡の一部は国が管理している。平成18年(2006年)の「日本の歴史公園100選」、平成21年(2009年)の「平成百景」に選ばれている。また、遺跡が城柵で囲まれた砦の機能もあったことから平成18年(2006年)の「日本100名城」にも選ばれた。

吉野ヶ里遺跡の発見は昭和期に入ってからで、吉野ヶ里丘陵から弥生土器や甕棺墓などが出土した。昭和58年(1983年)に佐賀県が吉野ヶ里丘陵南部に工業団地を開発しようと時、事前の調査で約59haもの広範囲に遺跡があることが確認されて本格的な発掘調査が始まった。平成1年(1989年)には環状集落跡が発見されて、佐賀県は遺跡と重複する地域の開発を中止する。平成2年(1990年)に国の史跡に指定され、翌年には特別史跡となった。更に平成4年(1992年)に国営吉野ケ里歴史公園として整備される方針が決定した。

吉野ヶ里遺跡は弥生時代前期から後期まで約500年も続き、前期には「ムラ」が形成され、後期の最盛期には吉野ヶ里を中心する「クニ」へと発展して、人口は約5,400人の規模だったと言われる。竪穴住居跡、高床式倉庫群跡、3,000基を超える甕棺墓、王の墓とされる墳丘墓からは銅剣やガラス製の管玉などが副葬品として出土した。中国大陸や朝鮮半島との交易があったことが知られ、『魏志倭人伝』に登場する邪馬台国ではなかったかと、話題になった時期もある。平成13年(2001年)にオープンした国営吉野ケ里歴史公園には、古代植物館と弥生くらし館も併設された。

吉野ヶ里遺跡を訪ねたのは、平成27年(2015年)5月初旬の1度だけであるが、その規模の大きさは日本一と思って驚いた。北からは目を向けると、全長300mに約500基の甕棺が並ぶ「甕棺墓列」、墳丘から14基の甕棺が出土した「北墳丘墓」、巨大な祭殿など9棟が復元された「北内郭」、床高6.5m・高さ12mの物見櫓4棟と王たちの建物20棟が復元された「南内郭」、市のあったとさる場所には市楼・物見櫓・倉など31棟が復元された「倉と市」、下戸と呼ばれる人々が住んだ場所には竪穴住居や高床倉庫など27棟が復元された「南のムラ」と、本当に唖然とさせる景観であった。しかし、縄文時代と比較すると、「日本100名城」に選ばれたようにムラ同士の戦争が始まった時代でもある。発掘された人骨には鈍器で殺害されとされたものもあって、実際に戦った形跡がみられる。『魏志倭人伝』には9ヶ所のクニが記されているが、邪馬台国は別としてもいずれかのクニに属していたのは明らかに思える。吉野ヶ里遺跡は平成14年(2002年)の民間よる「日本遺産・百選」に選ばれているが、文部科学省文化庁の「日本遺産」には認定されていない。国営吉野ケ里歴史公園は国土交通省の所管であるので、城壁のような省庁の壁があるのだろうか。

当時の弥生人が眺めたであろう標高1,055mの脊振山は、神なる山でもあった。明治の歌人であった長塚節(1879-1915年)は、有明海の不知火と脊振山から眺めた歌を詠んでいる。

「不知火の 国のさかひに うるはしき 脊振の山は 暖かに見ゆ」 長塚節

②原の辻遺跡  (訪問回数1回)

原の辻遺跡は長崎県壱岐市の壱岐島東部の標高18mの舌状台地、幡鉾川下流に位置し、弥生時代前期から古墳時代前期にかけての大規模な環状集落である。『魏志倭人伝』に登場する「一大国」は誤記で、他の史書では「一支国」と記されていることから一支国が正字とされる。一支国の表記は「壱岐国」が一般的となり、その王都が原の辻遺跡であった。

最初の遺跡発掘は大正12年(1923年)から 大正15年(1926年)にかけて、地元の教師によって弥生式土器や石器類が発見された。昭和26年(1951年)より10年間、考古学会などが4回にわたる発掘調査を行い、住居跡や墓地が発掘され、貨泉(銅貨)や大量の鉄器などが出土した。以後も長崎県教育委員庁原の辻遺跡調査事務所を中心に調査が継続され、現在も行われているようだ。平成5年(1933年)の発掘調査で多重の濠をめぐらせた大規模な環濠集落、祭祀建物跡が発見された。濠の外西北では日本最古の船着き場も発掘され、翌年には丘陵北側で竪穴住居跡、掘立柱建物跡、土坑、貯蔵穴が発見され、居住域が丘陵上にも広がることが判明した。更に丘陵南側からは陶磁器、陶器、墨書土器などが出土した。弥生時代中期の竪穴住居跡からは炭化した米や麦が出土し、壱岐島の河川流域の低地には水田耕作の遺構や貝塚も見つかっている。平成13年(2001年)には丘陵西側から人面石が出土して話題となり、大原墓域周辺から銅鏃、細形銅剣などの副葬品が発見された。

環濠集落の規模は東西約350m、南北約750mで、面積は約24haに及ぶ。遺跡全体の総面積は100haで、吉野ヶ里遺跡の117 haと遜色はない。平成9年(1997年)に国の史跡に指定され、平成12年(2000年)には国の特別史跡となった。平成27年(2015年)には「国境の島」として対馬・壱岐・五島と一緒に国の「日本遺産」に原の辻遺跡も含まれた。

原の辻遺跡を訪ねたのは平成27年(2015年)の4月中旬で、諸国一宮めぐりをしている時であった。壱岐国では天手長男神社が一宮であるが、旧国幣中社の住吉神社の方が一宮らしく思われた。この時は原の辻遺跡に関する知識が乏しく、平成22年(2010年)にオープンした壱岐市立一支国博物館に先ず入館した。館内を見学して予備知識を得てから遺跡を散策することにした。博物館は墳丘をイメージした屋根で、360°が見渡せる円形タワーの展望室も建っている。館内には実物大の古代船が展示され、出土後に国の重要文化財に指定された弥生式土器や古墳の副葬品などが公開されていた。展望室からは原の辻遺跡の全容が眺められ、古代交易船が出入りした湊も見える。館内を出て遺跡に行くと、ガラスの天窓で覆われた施設があって、発掘当時の遺構を露出してまま展示してあった。遺跡の核心部には弥生時代後期の建物17棟が復元され、丘陵には東側には多重環濠が復元されていた。他に遺跡から発見された原種系の植物を育てる栽培植物園も遺跡内にある。

壱岐島を訪ねて印象に残るのは、松尾芭蕉(1644-1695年)と『おくのほそ道』を行脚した河合曽良(1649-1710年)である。曽良はその後、幕府の巡検使の一員となって壱岐島に渡り、勝本浦の中瀬家で没している。曽良が古代遺跡の宝庫である壱岐島に何かしら目にしたと思う。勝本浦にある城山公園には、曽良が晩年に詠んだ句が句碑となって建っていた。

「春にわれ 乞食やめても 筑紫かな」 河合曽良

③登呂遺跡  (訪問回数1回)

登呂遺跡は静岡県静岡市の安倍川東岸の標高6~7mの低湿地に位置する弥生時代後期の遺跡である。登呂遺跡は昭和18年(1940年)、戦時中のさなか軍需工場建設の際に発見された。戦後間もない昭和22年(1947年)、考古学・人類学・地質学など各分野の学者が加わって、日本で初めて本格的な発掘調査が4年の間行われた。その結果、8haを超える水田跡や井戸の跡、12棟の竪穴住居や2棟の高床倉庫などの遺構が見つかった。この他にも、農耕や狩猟、漁撈のための木製道具や火起こしの道具、占いに用いた骨などが出土した。昭和26年(1951年)に最初の竪穴住居が復元され、昭和27年(1952年)には国の特別史跡となった。昭和30年(1955年)には遺跡の奥に静岡考古館が建てられる。

昭和40年(1965年)に登呂遺跡の南側に東名高速道路が建設されることになり、事前の発掘調査の結果、南側の位置まで水田が広がっていることが確認された。昭和47年(1972年)に静岡考古館は静岡市立登呂博物館として改装される。更に平成11年(1999年)から5年間、登呂遺跡の再発掘調査が行われ、洪水による被害を受けながらも古墳時代まで続いた遺跡であったことが明らかになった。竪穴住居や高床倉庫の他にも祭殿が建てられて、住居域と水田の境に水路があったことも分かった。その集大成として登呂遺跡の整備事業が行われ、平成22年(2010年)に新たな静岡市立登呂博物館がオープンし、竪穴住居4棟、高床倉庫2棟、祭殿1棟も合わせて復元されて現在に及んでいる。

登呂遺跡を訪ねたのが半世紀近く前の昭和48年(1973年)の1月中旬で、駿府城跡の見学がメインであった。登呂遺跡は歴史の勉強で知っていたので、「何でも見てやろう」の気持ちで訪ねた。三保の松原を前日には訪ねたが、貧乏学生でカメラも持っていなかった。一眼レフではなく、自分の眼で見た風景を追憶する。開館して間もない切妻屋根の旧静岡市立登呂博物館を見学して予備知識を得てからの遺跡の見物となった。館内の1階には復元家屋や農耕に関する道具の展示、2階には遺跡から出土した石鏃や銅鐸、須恵器や壺形土器が展示されていた。遺跡を回ると、復元された5棟の竪穴住居と2棟の高床倉庫は、初めて目にする建物で、田舎で普通に見られる茅葺建物を小さくした住居の印象が残る。竪穴住居の中を覗くと、土間の中央に囲炉裏があって、今も昔も火が生活の中心であることが分かった。水田跡を見ると、ここも田舎の風景と変わらない佇まいで、吉野ヶ里遺跡や原の辻遺跡とは異なった弥生時代があっと現在は思っている。当時は既に東名高速道路が開通されていて、水田跡をまたぐように道路の支柱が建っていた。森林跡からは真白な富士山が見え、弥生人と同じ目線で眺めた。カメラがないため、売店で絵葉書を購入して、見学の記念にした。絵葉書は古くなったが、復元して間もない竪穴住居や高床倉庫が初々しくプリントされている。登呂遺跡はもう1度見学して、歳を重ねこえた目で見てみたい。

登呂遺跡を見学した後は、静岡浅間神社を参拝して賤機山古墳を見物した。標高約50mの古墳からは静岡平野が一望でき、富士山も美しく聳えていた。そこで思い出したのが万葉歌人・山部赤人(生没年不詳)の和歌で、田子の浦に行って富士山を観ようと思った。

「田兒の浦ゆ 打出でて見れば 真白にぞ 不盡の高嶺に 雪は降りける」山部赤人

21.新日本三大古墳

名称        国の指定  築年年代  埋葬者    形状      墳長m 年間観光客数 所在地

①仁徳天皇陵    なし    古墳中期  仁徳天皇  前方後円墳  525       10万人  大阪府

②今城塚古墳    史跡    古墳後期  継体天皇  前方後円墳  186       10万人  大阪府

③森将軍塚古墳  史跡    古墳後期  不明      前方後円墳  100    推定3万人  長野県

縄文時代、弥生時代の次の新日本三大には、古墳時代の陵墓や古墳から「新日本三大古墳」を選考した。令和1年(2019年)に「百舌鳥・古市古墳群」が世界文化遺産に登録されて、古墳に対する評価が高まった。その詳細を調べると、下記のような構成となっている。

百舌鳥エリア(大阪府堺市)

(1)大仙古墳[伝仁徳天皇陵]・(2)上石津ミサンザイ古墳[伝履中天皇陵]・(3)ニサンザイ古墳[史跡]・(4)日出井山古墳[伝反正天皇陵]・(5)御廟山古墳・(6)いたすけ古墳[史跡]・(7)長塚古墳[史跡]・(8)永山古墳・(9)丸保山古墳[史跡]・(10)銭塚古墳[史跡]・(11)大安寺山古墳・(12)竜佐山古墳・(13)収塚古墳[史跡]・(14)旗塚古墳[史跡]・(15 )茶山古墳・(16)孫太夫山古墳・(17)菰山塚古墳・(18)七観音古墳[史跡]・(19)塚廻古墳[史跡]・(20)寺山南山古墳[史跡]・(21)善右ヱ門山古墳[史跡]・(22)銅亀山古墳・(23)源右衛門山古墳。

古市エリア(大阪府羽曳野市・藤井寺市)

(1)誉田山古墳[伝応神天皇陵]・(2)仲津山古墳[伝仲姫命陵]・(3)岡ミサンザイ古墳[伝仲哀天皇陵]・(4)古野山古墳[伝允恭天皇陵]・(5)墓山古墳[史跡]・(6)津堂城山古墳[史跡]・(7)白鳥陵古墳[伝日本武尊墓]・(8)古室山古墳[史跡]・(9)大鳥塚古墳[史跡]・(10)二ツ塚古墳・(11)はざみ山古墳[史跡]・(12)峯ヶ塚古墳[史跡]・(13)鍋塚古墳[史跡]・(14)向墓山古墳・(15)浄元寺山古墳[史跡]・(16)青山古墳[史跡]・(17)鉢塚古墳[史跡]・(18)東山古墳[史跡]・(19)八島塚古墳・(20)中山塚古墳・(21)誉田丸山古墳・(22)西馬塚古墳・(23)栗塚古墳・(24)野中古墳[史跡]・(25)助太山古墳[史跡]・(26東馬塚古墳。

世界文化遺産の構成は49基で、天皇陵となっている陵墓が6基、天皇家に関わる陵墓2基で、残りの41基は陪臣の古墳(陪塚)やその他の古墳である。殆どが宮内庁の管轄で立入りができなかったが、七観音古墳、古室山古墳、鍋塚古墳などはフェンスも濠もなく見物ができた。日本最大の古墳は大仙古墳とも称される「仁徳天皇陵」で、墳長486mは文句なしの三大である。2番目は墳長425mの応神天皇陵となるが、仁徳天皇陵と類似していて観光的な魅力に乏しい。そこで選んだのが大阪府高槻市の「今城塚古墳」で、継体天皇の古墳と推定される。天皇の陵墓は明治22年(1889年)の皇室典範で定められたもので、それ以降の見直しはされていない。今城塚古墳はその指定から外れ、大阪府茨木市の太田茶臼山古墳が継体天皇の陵墓となったのである。本格的な発掘調査が行われ、大王の古墳であることが明らかになった。今城塚古墳の墳丘部分は樹木に覆われて、建造当時の姿まで復元されていない。そこで三大に選んだのが長野県千曲市の「森将軍塚古墳」で、墳長100mと規模も大きく、完全復元がされている。他にも広島県東広島市の三ッ城古墳も完全復元された素晴らしい古墳であったが、墳長が92mと及ばないので森将軍塚古墳に決定した。

仁徳天皇陵  令和3年10月5日撮影

今城塚古墳  令和3年9月5日撮影

森将軍塚古墳  平成30年4月21日撮影

①仁徳天皇陵  (訪問回数3回)

仁徳天皇陵は大阪府堺市の標高18mの三国ヶ丘台地の中央に位置し、周辺は住宅地に囲まれている。一般的には「大仙古墳」または「大仙陵古墳」と呼ばれていて、宮内庁では「百舌鳥耳原中陵」と称している。古墳の形状は前方後円墳で、墳長525m、後円部の高さ39.8m、墳丘基底部の面積は約12ha、墳丘の周りに三重の周濠がある。築造は1,570年前から1,520年前の古墳時代中期とされる。被葬者については、平安時代中期の『延喜式』によれば、仁徳天皇陵(第16代) 、反正天皇陵(第18代)、履中天皇陵(第17代)の順に築造されたことになっている。考古学的には、履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)、反正天皇陵(日出井山古墳)の順に築造されたと想定され、現在の宮内庁や『延喜式』とは違った見解が出されている。すると、歴代天皇の順位が違ってくるし、被葬者の真実は明らかにされないので、最近では天皇の名前の前に「伝」を付けている例が多い。

仁徳天皇陵の調査に関しては、江戸時代中期の宝暦7年(1757年)に書かされた『全堺詳志』に、一部が露出した後円部で発見された長さ318㎝、幅169㎝の巨大な長持型石棺が認められ、盗掘にあったことも記されている。明治5年(1872年)には、前面部正面の2段目の斜面が崩壊して埋設施設が露出した。その際の発掘調査で石室と石棺が掘り出されている。その石室は竪穴式で、東西に長さ3.6~3.9m、南北の幅が2.4m、周りの壁は丸石を積み上げ、その上を3枚の天上石で覆っていたようだ。この時、副葬品として甲冑や鉄刀、ガラス製の杯などが発見されたようだ。この調査では石棺の開封調査は行われず、実体が明らかにされていない。アメリカのボストン美術館には、仁徳天皇陵で出土したされる銅鏡や環頭太刀を収蔵していると聞くと、敗戦国日本が哀れに思えてならない。

仁徳天皇陵の最初の訪問は昭和46年(1971年)の5月下旬で、古墳に対する知識も乏しく、その大きさに驚いた思い出が残る。2回目の訪問は平成16年(2004年)の2月下旬で、この頃は古墳の知識も深まり、仁徳天皇陵の他にも、いたすけ古墳、御廟山古墳、履中天皇陵、

反正天皇陵などを訪ねて古墳を比較して回った。3回目の訪問は令和3年(2021年)の5月初旬で、世界遺産となった古墳の様子を見ようと、堺市駅でレンタルサイクルを借りて1日中かけて回った。以前は仁徳天皇陵の拝所の詰所に宮内庁の守衛が立っていたが、現在は無人であった。拝所の前には堺市の百舌鳥ビジターセンターが建てられていた。しかし、問題は世界遺産になっても、樹木に覆われた古墳の姿が本当の古墳の姿と外国人から勘違いされることである。世界遺産に相応しいように復元されることが望まれる。

仁徳天皇陵はあまりに大きいため、その全容を見るには堺市役所21階展望ロビーが良いと聞いたが、コロナウイルスのワクチン接種に使用されていると聞いて諦めた。一部の場所を除くと、周濠に沿い道路や散策路で一周できるが、びっしりと建ち並ぶ住宅に圧迫されそうで、何度となく訪ねる世界遺産ではない。堺市の年間観光客数は1,000万人を突破したと言われるが、百舌鳥古墳群の人気が高まったことが要因に思われる。仁徳天皇陵の西に万葉歌碑が建てられていて、仁徳天皇の磐姫皇后(生没年不詳)が詠んだ歌とされる。

「在りつつも 君をば待たむ うちなびく わが黒髪に 霜のおくまで」 磐姫

②今城塚古墳  (訪問回数1回)

今城塚古墳は大阪府高槻市にあって三島平野のほぼ中央に位置し、標高は31m、淀川流域では最大の古墳である。古墳の形状は前方後円墳で、墳長186m、後円部の高さ11m、墳丘の周りに二重の周濠がある。築造は約1,520年前の古墳時代後期とされ、被葬者はヤマト政権の大王墓と推定される。その大王は第26代継体天皇(450-531年)と言う説が有力視されている。継体天皇の生没年ついては確証はされていないが、531年の没年とすると、古墳の築造は1,490年前頃となる。一方、宮内庁が治定した継体天皇陵は大阪府茨木市の太田茶臼山古墳で、約1,570年前頃の築造とされるので天皇の没年よりも80年も古くなる。

それでも宮内庁は太田茶臼山古墳の発掘調査もしないで頑なな姿勢を貫いているようだ。また、陵墓参考地にも指定しなかったことが幸いし、昭和33年(1958年)に約8.5haが国の史跡に指定されている。その後、全域が民有地であったため、周辺一帯は水田が広がり、住宅地ともなっていたが、高槻市が国や大阪府の補助を受け約50年間で全域を公有化した。

平成9年(1997年)から高槻市立埋蔵文化財調査センターによって発掘調査が進められて、古墳の全容が明らかになる。二重の濠を区分する内側の堤からは、形象埴輪や埴輪祭祀場が発見された。そこから出土した埴輪の点数は、日本最大級であることが分かった。埴輪祭祀場は東西62~65m、南北約6mの範囲で、様々な埴輪が113点も出土した。中でも家形埴輪は、高さが170㎝もある入母屋造りで、神社建築の屋根に見られる鰹木や千木が設えてあって家形よりも社形とした方が良いとも思われる。出土品の埴輪はレプリカされて、平成23年(2011年)にオープンした「高槻市立今城塚古代歴史館」に展示されている。

今城塚古墳を訪ねたのは令和3年(2021年)の9月初旬で、つい最近のことである。今城塚古墳があることを知ったのは、高槻市にある「続日本100名城」の芥川山城の登山後に立ち寄った観光案内所でパンフレットを見た時である。それから間もなく、今城塚古墳を訪ねて、自由に散策できる大王墓とめぐりあった。古墳の墳丘は樹木が茂っていたが、天皇陵の古墳ほど密ではない。古墳全域に散策路があって、石組み跡の一部が露呈し、地震で崩れた墳丘も眺められた。南北の儀式の場には石垣が往時のままに遺されていて、ベールに包まれた来た大王墓の築造が蘇っているように感じた。内濠を眺めて埴輪祭祀場に行くと、夥しい数の埴輪のレプリカが展示されていて、見たことない古墳時代が目の前に迫る。パンフレットで見ただけのイメージであったが、実際に見てみると自分の想像を超えていた。要所要所をカメラに撮って、今城塚古代歴史館に入館した。普段であれば、博物館や資料館を訪ねてから遺跡をめぐるのであるが、今回はその逆となった。館内に入って驚いたのは石棺のレプリカで、その中に大王を模した人形が横たわっていて、とてもリアルに見えたことである。また、築造時の石組みの様子も実物大の石や人形が置かれて、これもリアルに見えた。これが現在の歴史博物館で、その展示内容が進化しいるようだ。高槻市には弥生時代の安満遺跡もあって、歴史公園として整備されている。他にもキリシタン大名の高山右近の城下町として知られ、能因法師の塚もあってその和歌が脳裏を過る。

「わがやどの 梢の夏に なるときは 生駒の山ぞ 見えずなりぬる」 能因法師

③森将軍塚古墳  (訪問回数1回)

森将軍塚古墳は長野県千曲市にある標高490mの有明山の尾根上にあって、善光寺平の南域を流れる千曲川の右岸に位置する。古墳の形状は前方後円墳で、墳長100m、前方部と後円部の高さ4m、墳長では長野県最大である。築造は今から約1,620年前の古墳時代前期とされ、被葬者は信濃の前身である「科野のクニ」の首長(将軍)の墳墓と目されている。他にも有明山将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳、土口将軍塚古墳もあって総称して「埴科古墳群」

と言われる。森将軍塚古墳は江戸時代末期に古墳の存在が知られ、盗掘の被害にもあったようだ。明治16年(1883年)に「屋代村の将軍塚」と名付けらて一般に知られるようになる。大正12年(1923年)に刊行された『長野県史跡名勝天然記念物調査報告書』で「森将軍塚」と報告されている。この頃の古墳の調査で、ほぼ完了したとも考えられる。

森将軍塚古墳は昭和46年(1971年)に国の史跡に指定され、昭和56年(1981年)から平成4年(1992年)までの11年をかけて築造当時の古墳の姿に復元された。有明山の麓には「科野のムラ」があって、大小の竪穴住居5棟と高床倉庫2棟が復元されている。また、平成6年(1994年)に「長野県立歴史館」が開館し、古墳の出土品を展示する「千曲市森将軍塚古墳館」が平成9年(1997年)にオープンしている。

森将軍塚古墳の訪問は平成30年(2018年)の4月中旬で、千曲市にある稲荷山の町並み(重要伝統的建物群保存地区)を眺めるのが目的であったが、森将軍塚古墳が近くにあることを知って訪ねた。駐車場に車を停めると、城壁のような森将軍塚古墳が聳えていた。先ずは、千曲市森将軍塚古墳館に入館して森将軍塚古墳の概要を学んだ。1階の展示室には竪穴式石室が実物大で復元され、吹き抜けとなっている2階の廻廊には出土した副葬品や埴輪など実物とレプリカがガラスケースに展示されていた。唯一盗掘を免れた三角縁神獣鏡は、ヤマト政権の大王から首長に与えられた中国製の銅鏡である。古墳館から森将軍塚古墳まで1㎞ほどの坂道が続くが、駐車場からシャトルバスも運行されていた。科野のムラの竪穴住居や高床倉庫を見物し、満開に咲くサクラを眺めながら坂道を上り、森将軍塚古墳の墳丘に立った。北西の展望が素晴らしく、彼方には飯綱山や残雪の北アルプス、眼下には先ほど歩いた稲荷山の町並みが見える。後円部の中央に竪穴式石室があって、長さ7.6m、幅2m、高さ2.3mと、古墳館で見学した石室が足元に埋まっているのである。墳丘の周囲には複製された27種類157個の埴輪が並べられていた。墳丘に樹木は1本もなく、石組みだけの古墳が本当の古墳だと実感した。森将軍塚古墳から有明山の有明山将軍塚古墳に上ったが、発掘調査後に埋め戻されて復元までは至らなかったようだ。下山後は、長野県立歴史館に入って見学した。1階は収蔵庫や研究室となっていて、2階に常設展示室と企画展示室があった。常設展示室では、原始・古代・中世・近世・近現代と続いた長野県の歴史を紹介していた。縄文のムラのコーナーでは竪穴住居が復元展示され、近世のコーナーでは江戸中期の農家も復元展示されていた。森将軍塚古墳から眺めた千曲川をまじかに眺めようと、岸辺に立って河原の石を見つめた。この石が塚を築き、万葉集にも歌われた石なのである。

「信濃なる 千曲の川の 細石も 君し踏みてば 玉と拾はむ」詠み人知らず

22.日本仏教三大霊山

山号寺名       最高標高 境内面積  開山年  信徒数   末寺数     宿坊      所在地

①高野山金剛峯寺  1,009m  110ha   816年  545万人 3,467ヶ寺  52軒     和歌山県

②比叡山延暦寺      848m  500ha   785年   61万人 3,233ヶ寺   1軒       滋賀県

③身延山久遠寺    1,153m   3.5ha  1274年  309万人 4,683ヶ寺  20軒       山梨県

一般的に「日本三大霊山」は、富士山・立山・白山であるけれど、いずれも神道に組入れられて神社と密接な関係となった。仏教の場合は恐山・比叡山・高野山の「日本三大霊場」があり、江戸時代の頃は恐山・川原毛地獄・立山の「日本三大霊地」があった。比叡山と高野山には納得しても、恐山が天下の総本山と比肩するレベルではない。そこで実際に訪ねて感じたのは、身延山久遠寺が相応しいと思った。すると、「日本仏教三大霊山」と言う名数があることを知り、『名数に見る日本の風景』に加えたのである。

高野山は「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界文化遺産で、比叡山も「古都京都の文化財」を構成している。いずれも国の史跡に指定され、国宝や重要文化財の建築物や仏像仏画を保有している。しかし、身延山は世界文化遺産や国の史跡ではないけれど、桜の名所でもあり、日蓮宗の総本山としては最大の規模を誇るので選定したのである。

日本仏教三大霊山に共通するのは、現代的なケーブルカーやロープウェイが敷設されていることである。高野山には高野山ケーブルカーがあり、極楽橋から高野山まで800mの距離を結んでいる。比叡山には京都側と大津側からケーブルカーがあって、京都側は八瀬から比叡までケーブルカーが、更に比叡から比叡山までロープウェイが伸びている。大津側は坂本から延暦寺まで日本最長2,020mのケーブルカーが直接乗り入れている。久遠寺には、身延山ロープウェイが全長1,665mにわたって架けられ本堂と奥之院を結んでいる。

天台宗と真言宗は平安初期の開宗で、互いにライバル関係にあった。平安時代は天台宗が優位に立っていたが、平安末期になると天台宗から浄土教が派生し、鎌倉時代には禅宗と日蓮宗が台頭して天台宗は頭打ちとなる。その後、織田信長による叡山焼き討ちで消滅寸前までなるが、徳川幕府によって再興されて不滅の法灯は守られた。

日蓮宗は法華宗と称されていたが、いつの時代からか日蓮上人の僧名が宗派の名称となっている。日本には13宗56派の仏教宗派が存在するけれど、人名が宗派名となっているのは日蓮宗と、近年になって法相宗から聖徳宗に分派した奈良の法隆寺くらいのものである。聖徳宗は法隆寺を開基した聖徳太子に因んだ命名であるが、太子は日本仏教の生み親であり、その宗派名は別格のように感じるられるので違和感はない。

奈良時代の仏教寺院には山号がなく、平安時代の新興仏教が山の存在に重きを置き、日本古来の山岳信仰と融合させたことに山号の由来を感じる。高野山も比叡山も身延山も山と寺院が同一視化された事例である。その境内規模も大きく、標高も800m以上の高い場所に位置する。そんな視点でこの三山を旅すると、一宗派に偏らない古き日本の霊山と霊場が見えるような気持ちになる。特に高野山には海外からの観光客が多く、宿坊によっては日本人の宿泊者はよりも外国人の宿泊者が多いほどである。

高野山  平成22年3月30日  大門を撮影

比叡山  平成19年4月22日  根本中堂を撮影

身延山  平成22年4月1日  三門を撮影

①高野山金剛峯寺  (訪問回数6回)

高野山は和歌山県北部、紀伊山地の西端に位置する標高約800mの盆地状の山の総称である。平安時代初期に空海大師(774-835年)によって、弘仁7年(816年)から約20年の歳月を費やし創建された。現在は高野山真言宗の総本山・金剛峯寺を核とする117ヶ寺の支院(塔頭)群があり、人口2,850人の伊都郡高野町の中心部となっている。高野山は大きく分けて、「壇上伽藍」と「金剛峯寺」、「奥之院」の3つのエリアに分かれている。壇上伽藍には高野山のシンボルタワーである根本大塔などスケールの大きな伽藍堂宇が16棟も甍を並べて林立する。金剛峯寺は全国各地に3,467ヶ寺の末寺を有し、真言宗の宗派では最大である。奥之院は空海大師の御廟が建つ聖域で、一ノ橋から約2㎞の参道には20万基以上の墓石や供養塔が林立する。平安時代の名僧から戦国時代の武将の供養塔もあって、「時代絵巻」でも見るような景観である。その御廟で結跏趺坐して入滅された空海大師は、一般的に弘法大師と称されているが、「弘法」の名は入滅後86年が過ぎた時に天皇から与えられたものであり、それもライバル関係にあった天台宗の最澄とその孫弟子の円仁に遅れること55年の歳月が流れていた。そんな弘法大師号を空海大師は喜んでいないと思っている

高野山を初めて参拝したのは昭和62年(1987年)の1月末日で、7年間勤めていた会社が倒産して世の中の無常を深く感じ、高野山を訪ねたのである。大阪から電車とケーブルカーを乗り継いで入ったが、途中で立ち寄った九度山が印象に残る。明治までは女人禁制の高野山であり、大師は四国から訪ねて来た母のために草庵を建てて孝行を尽くした。その草庵は慈尊院となり、里坊として大師も利用したようである。高野山駅からバスに乗るのも面倒臭く感じて、リュックを背負ったまま町の中心部まで歩くことにした。結構な距離があったが、初めて歩く歴史の道には興味津々で、何でも見たい思いが高まって来る。

高野山駅から高野町に入ると、そこにはかつて見たこともない和様建築で統一された町並みが続き、警察署も銀行などの公共施設の建物も瓦葺き屋根である。この町だけが歴史が止っている錯覚に見え、新鮮な驚き共に記憶の奥底に残る古き日本の姿が蘇ってくる。

この日は奥之院の入口にある宿坊「清浄心院」に泊ったが、高野山には一般的な旅館やホテルは1軒もなく、52軒の宿坊から宿を選ばなくてはならない。2回目の参拝は平成19年(2007年)の4月中旬で、高野山のサクラを眺めて松尾芭蕉(1644-1694年)所縁の「普賢院」に泊った。3回目の参拝は平成19年(2007年)の4月中旬で、自転車で「四国八十八ヶ所霊場」を満願した時である。この時は国の名勝庭園を眺める目的で「天徳院」に遍路割引で泊まった。4回目の参拝は平成27年(2015年)の4月中旬で、日帰りとなったが標高1,004mの摩尼山に登った。5回目の参拝は平成29年(2018年)の6月初旬で、4度目の四国霊場を

クルマで遍路した時である。この時は高野山に温泉があるを知り「福智院」に泊った。6回目の参拝は令和3年(2013年)の10月下旬で、大阪からの日帰りとなったが奥之院の戦国大名の供養塔を再び調べに入った。6度目のお参りを果たした霊廟の石室には、結跏趺坐して即身仏となられた空海大師に朝夕の食事が供えられて、今も生きていると信じられている。

「法性の  室戸といへど  わがすめば  有為の波風  人のこころを」 遍照金剛空海大師

②比叡山延暦寺  (訪問回数4回) 

比叡山は滋賀県大津市と京都府京都市にまたがる標高848mの山で、琵琶湖の南部に面する。平安時代初期の延暦7年(788年)、伝教大師最澄(767-822年)が比叡山に唐より請来した天台宗の寺を創建し、年号から延暦寺と名付けられた。天台宗とよく比較されるのが、空海大師が開宗した真言宗である。最澄と空海は同時期に唐に渡り、最澄は浙江省の天台山で学んで総合的な新仏教を習得し、空海は唐の都・長安(現在の西安)まで赴き、真言密教の奥義を授かって帰国する。空海が持ち帰った経論や法具は『請来目録』に記載され、それを目にした最澄は年少者ながら空海に師事する。しかし、最澄は学者肌の宗教家で、書物の解釈のみで密教の奥義を会得しようとしていた。空海は厳しい修行が伴わないと密教の奥義は修得できないと最澄に対して違和感を覚える。『理趣釈経』の貸与をめぐって論争となるが、最澄は弟子の泰範(779-?年)を残して高雄山寺を去る。それ以降、最澄と空海との交流はなく、天台宗と真言宗はライバル関係となって行くのである。

天台宗は朝廷と密接な関係をもって発展し、天台座主には天皇や公家の子弟が就任することも多かった。しかし、多く僧兵を抱え朝廷に反発することもしばしばで、源頼朝(1147-1199年)が「日本一の大天狗」と警戒した後白河法皇(1127-1192年)ですら「朕の思いのままにならないもの、賀茂川の水、双六の賽子、そして比叡山の山法師(僧兵)」と言わしめている。戦国時代に入っても比叡山は武力を維持し、近在の戦国武将たちも比叡山とは争わなかった。そこに登場したのは、上洛の機会を窺っていた織田信長(1534-1582年)である。信長は自分を裏切った浅井長政(1545-1579年)一族を滅ぼすと、浅井氏に加担していた比叡山を全山焼き打ちにする。延暦寺は消滅し、その後に徳川家康(1543-1616年)の天下となって少しずつ復興される。家康は江戸に寛永寺を創建し、延暦寺に変わる天台宗の総本山とした。徳川時代が終わり、明治時代になって延暦寺は再び天台宗の総本山となる。

比叡山延暦寺を初めて参拝したのは昭和48年(1973年)の12月初旬で、京都の八瀬からケーブルカーとロープウェイで上った。比叡山は「東塔」、「西塔」、「横川」の3つのエリアに分かれているが、国の重要文化財の大乗戒壇院がある「無動寺谷」、大津市坂本の「里坊」のエリアも延暦寺の境内と言える。この時の参拝は東塔と西塔が中心で、延暦寺唯一の国宝で本堂でもある根本中堂を拝観した。他にも国の重要文化財の大講堂など6棟の伽藍堂宇が建つ。西塔には国の重要文化財の転法輪堂(釈迦堂)、常行堂、法華堂(にない堂)、など8棟の伽藍堂宇が建っていた。瑠璃堂は焼き打ちを免れた唯一の堂宇でもあった。3回目の参拝は平成17年(2005年)の11月中旬で、坂本の里坊を訪ね名勝庭園を拝観した。3回目の参拝は平成19年(2007年)の4月下旬で、比叡山ドライブウェイと奥比延ドライブウェイに入り、横川地区と無動寺地区の諸堂を参拝し、根本中堂にも立ち寄った。4回目の参拝は平成22年(2010年)の11月下旬で、比叡山の最高峰・奥比叡峯(843m)の登山が目的であったが、駐車場からの標高差が低く、あっけない登山となったがガーデンミュージアム比延を訪ねた印象が思い出に残る。天台宗を開いた最澄上人の詠んだ和歌が遠く聞こえる。

「阿耨多羅  三みく三菩提の  仏たち  我が立つ杣に  冥加あらせ給え」 伝教大師最澄

③身延山久遠寺  (訪問回数1回)

身延山は山梨県身延町と早川町の境にある標高1,153mkの山で、山頂に久遠寺奥之院がある。鎌倉時代後期の弘安4年(1281年)、日蓮上人(1222-1282年)が終焉地と選び開山した。正直な話、日蓮上人の人生を学んでいるとつい空海大師の人生と比較してしまう。生きた時代が異なるので、同じ土俵の上に立たせることは無理があるだろうが、同じ宗教家という観点から比較するなら全く異質な宗教家に思える。空海大師はレオナルド・ダビンチのような万能の天才と称されるが、日蓮上人は革命家と見てもいいだろう。時の権力者であった鎌倉幕府の執権に強訴して新しい宗教的な価値観で時代を創造しようとした。宋の滅亡前に請来された禅宗が、鎌倉幕府の庇護する仏教であり、渡宋経験のない日蓮上人が唱える法華宗は異端とされたのである。当然ながら法然上人(1133-1212年)や親鸞聖人(1173-1262年)の唱えた浄土宗も迫害された経緯があった。日蓮上人は迫害にもめげず、関東から京都、京都から関東を布教遍歴して最期にたどり着いたのが身延山であった。

身延山久遠寺の参拝は平成22年(2010年)の4月初旬で、花見の時期とあって平日でも多くの参拝客で混雑していた。総門をくぐり、門前町を抜けると、ひと際大きな三門が聳える。一般的には山門と表記するが、浄土宗や日蓮宗は三門と表記するようだ。三門の規模が寺院の規模を示すと言っても過言ではないように大きい。桁行23m、梁間9m、高さ21mと高野山の大門(桁行21.3m、梁間7.9m、高さ25.1m)より建坪は大きい。因みに延暦寺東塔には文殊楼と称される山門があるが、桁行15m、梁間11.5m、高さ16mと小さい。間口の身延山山門、奥行の比叡山文殊楼、高さの高野山大門と、軍配はいずれにも上げがたい。

三門から長い石段を上ると、参拝者を圧倒させる七堂伽藍の林立する平坦地に到着する。更に本堂の裏手には、ロープウェイ乗り場があって奥之院思親閣へと参拝客を運ぶ。境内には桜の花が咲き乱れ、その美しさには宗派は関係ないようだ。日蓮上人のファンや信奉者が全国に多数いると思うが、殆どの人はサークルを含む会派や宗教団体に属していると思う。個人的には宗教団体には属さないな崇拝者で、四国八十八ヶ所霊場で遍路仲間と空海大師を語る程度である。日蓮宗系には在家の宗教団体が多く、彼らは職場や住居地域以外に第三の社会を築いている。徒党を組み仲間が増えると、自己中心的な組織となる。かつてのオーム真理教のように、新興宗教が過激な行動をとらないことを願ってやまない。

日本の社会は複雑な宗教環境の中にあり、生前は神社にお参りし、死後は寺院に墓が建てられる。神社の神様は八百万神と呼ばれるほど多く、それが神話の神々であったり、実在した人間であったりする。日本三名山(日本三霊山)を例にとれば、富士山は木花開耶姫命、白山は白山比咩大神(菊理媛命)、立山は雄山神(天手力男命)となっている。寺院と山も密接な関係にあり、多くの寺には山号がある。空海や最澄、そして日蓮と言った偉大な宗教家が、山を霊場と崇めてそこを布教の拠点としたことは共通している。身延山には七面山という標高1,982mの高山があり、久遠寺を守護する山と称される。その1,700m地点には、敬慎院という宿坊があっていつの日か泊まってみたいと願っている。

「立ち渡る  身のうき雲も  はれぬべし  たえぬ御法の  鷲の山風」立正大師日蓮

23.国宝五大城郭

城名    別名   国の指定   築城年   築城者    天守規模     年間来場者数  所在地

①姫路城  白鷺城  国宝天守  1601年  池田輝政  5層6階地下1階   92万人   兵庫県

②松本城  深志城  国宝天守  1597年  石川康長  5層6階           96万人   長野県

③彦根城  金亀城  国宝天守  1603年  井伊直継  3層3階           70万人   滋賀県

④犬山城  白帝城  国宝天守  1537年  織田信康  3層4階地下2階   42万人   岐阜県

⑤松江城  千鳥城  国宝天守  1611年  堀尾吉晴  5層6階           52万人   島根県

日本独自の城郭建造物には、幼い頃から興味や憧れがあって、20歳の頃から本格的な「名城めぐり」の旅が始まった。昭和45年(1970年)5月に発足した「全国城郭管理者協議会」が、刊行した『城のしおり』が最初に手にした「城郭めぐり」のガイドブックであった。平成17年(2005年)4月まで、48ヶ城が加盟していている。昭和48年(1973年)1月に訪ねた小田原城を皮切りに、平成27年(2015年)5月に平戸城を訪ね、その城郭をクリアした。

平成19年(2007年)4月、(財)日本城郭協会が「日本100名城」を発表して驚きの目で、その名城を眺めた。選定の中には、佐賀県にある弥生時代の「吉野ヶ里遺跡」、北海道のアイヌ人の「根室半島シャシ跡群」があったことに違和感を覚えた。日本の城郭は中世から近世から選定すべきであり、城跡の定義が曖昧となったことは否めない。選定基準としては、国の特別史跡や史跡に指定された城郭が相応しいと思う。それでも令和1年(2019年)12月に「根室半島シャシ跡群」を訪ねて「日本100名城」の見物を達成した。

名城めぐりの満足感も束の間、平成29年(2017年)には「続日本100名城」が選定されて唖然とした。個人的に選定した「古代と中世・アイヌと沖縄の城郭100選」、「戦国・江戸時代の城郭100選」と乖離していて、未訪問の城郭が40ヶ所も含まれていた。「日本百名山」にしても選定が曖昧なものがあって、「それぞれの百名山」で良いと思う。

今回の「国宝五大城郭」は、国宝天守のある城郭を主眼に選定したが、震災の被害にも崩壊しなかった熊本城の天守は実に素晴らしいと思った。昭和35年(1960年)に再建された鉄骨コンクノート造ではあるが、木造であれば崩壊していたと思うので別格の天守と称したい。姫路城は単独の「世界文化遺産」に認定されたこともあって、文句なしの城郭である。同じく、京都の「二条城」も複合の「世界文化遺産」であるが、天守台跡があっても天守閣が復元されないことには城郭のイメージが「二条城」からは感じられない。

沖縄県那覇市の「首里城」は、平成4年(1992年)に復元されて「世界文化遺産」にも認定されたので、復元されても文化遺産となるのである。昭和49年(1974年)5月に首里城跡を訪ねた頃は、守礼門が戦災から復元されていただけであった。その後、平成29年(2017年)2月に復元された全域を見物した。しかし、令和1年(2019年)10月、火災によって正殿と北殿、南殿が全焼した。戦前は国宝に指定された城郭で、広島城天守、名古屋城天守、和歌山城天守なども同様で、戦争による城郭の消失は悲しい限りである。名古屋城などは、本丸御殿を復元させ、江戸城天守の復元も夢ではない。せめて、「国宝五大城郭」は後世に存続しなくてはならない日本独自の貴重な城郭遺産である。

姫路城  令和3年9月11日  撮影

松本城  平成30年4月8日  撮影

彦根城  昭和62年1月29日  撮影

犬山城  平成21年1月18日  撮影

松江城  平成27年4月5日  撮影

①姫路城  (訪問回数2回)

姫路城は兵庫県姫路市の市街地北側に位置し、吉野時代(南北朝時代)の正平1年(1346年)、守護大名・赤松貞範(1306-1374年)によって築城された。現在の姫路城は慶長14年(1609年)、52万石の太守・池田照政(1565-1613年)によって8年の歳月を経て完成された。その後は、本多・松平・榊原・酒井の諸氏が城主となっている。明治時代初年には、官有(兵部省)から民間に売却されたが、陸軍歩兵連隊の駐屯地となって城郭の存続が図られた。明治末期と昭和初期に大修理が行われた。戦後になった昭和31年(1956年)から昭和39年(1964年)まで大天守の大規模な解体修理が行われ、平成時代の大修理は記憶に新しい。海抜45mの姫山に建つ平山城であるが、防御線が3重の螺旋形となった複雑巧妙なもので、他には江戸城にしか類例がないと聞く。外様大名でもあった池田輝政が、舅でもある徳川家康(1543-1616年)の影響下で西国への防御に苦心した縄張りである。

姫路城の建造物は、大天守1棟、東・西・乾小天守3棟、イ・ロ・ハ・ニ渡櫓4棟が国宝に指定され、櫓27棟・門15棟・塀(約1,000m)が重要文化財となっている。大天守は木造5層6階、地下1階で、地上からの高さは46mと、現存天守では一番高い。平成5年(1933年)に奈良の法隆寺とともに日本初の「世界文化遺産」に登録されて、日本の国宝建造物が世界にデビューした。天守閣は大名の威厳を誇示するシンボルタワーの一面もあって、高くて美しいことが求められた。姫路城の大天守は単なるタワーではなく、3棟の小天守が渡櫓でつながった連立式天守閣である。姫路城は「白鷺城」の別名もあって、シラサギの舞う様子に例えた美しい別名でもある。平和な江戸時代が続くと、天守閣の最上階に欄干と廻縁を設けた望楼式に改修されている城もあるが、姫路城と松本城にはない。天守閣に共通する点が最上階の屋根は入母屋造りで、千鳥破風や唐破風の屋根が東西南北に設けられていることである。姫路城は大阪城を模したのか、最上階の屋根にも唐破風が南北にある。

姫路城を初めて訪ねたのは昭和50年(1975年)の12月中旬で、山陽新幹線が開通していて姫路は大阪から大変近く感じた。この頃は既に、「城のしおり」に記載されている城郭の9ヶ所をめぐり、他にも江戸城や駿府城、小諸城なども訪ねている。子供の頃は、姫路城のプラモデルを作ったことがあって、最も憧れていた城であった。2回目の訪問は令和3年(2021年)の9月中旬で、コロナウイルスの影響で閑散としていると思い訪ねた。何度か姫路までは来ていたが平成の大修理で見学ができずにいた。姫路城の面積は233haと広大であるが、江戸時代の外曲輪には三の丸御殿・向屋敷御殿・武蔵野御殿などびっしりと建っていた様子で、御殿の存在も城郭には不可欠に思える。御殿が復元されれば、完璧な江戸時代の城郭と言える。しかし、西御屋敷跡の庭園「好古園」が復元されていたので、庭園から美しい大天守を眺められたのが良かった。最近は「城と桜の100選」を自選して訪ねているが、姫路城の桜をまだ見ていないので次回の訪問が楽しみである。城内を散策していると、地元の俳人・梶子節(1881-1959年)の句碑があったので興味深く眺めた。大阪城落城から逃れた徳川家康の孫・千姫が、本多忠刻と再婚して暮らした城でもあった。

「千姫の  春やむかしの  夢の後」  梶子節

②松本城  (訪問回数5回)

松本城は長野県松本市の中心部に位置し、室町時代末期の永正年間(1504-1520年)、信濃国守護・小笠原氏によって「深志城」として築城された。豊臣秀吉(1537-1598年)の小田原攻めの後、徳川家康の家臣であった石川数正(1533-1593)・康長(1554-1643年)父子が8万石で入部した。現在の松本城の築城は、文禄3年(1594年)から慶長2年(1597年)にかけて石川父子によって築城されたとされる。江戸時代になって大久保長安事件で石川康長が改易されると、小笠原・戸田・松平・堀田・水野・戸田の諸氏に城主は入れ替わった。

明治初年になると、天守が競売にかけられて解体の危機となるが、地元の有力者が買い戻して存続することになった。明治31年(1903)から大正2年(1913年)まで大修理が行われ、昭和25年(1950年)から昭和30年(1955年)までは解体復元工事(昭和の大修理)が行われた。その工事中の昭和27年(1952年)、天守・乾小天守・渡櫓・辰己附櫓・月見櫓の5棟が国宝に指定される。天守は木造5層6階の最上階に欄干と廻縁のない層塔式天守である。以前は望楼式であったと聞くと、北アルプスを眺めた城主が羨ましく思える。松本城は平城であるが、高さ29.4mの天守は周辺からは際立って見える。屋根瓦などの一部を除くと、城郭は黒色に統一されていて、岡山城の別名である「烏城」と呼んでも不思議ではない。天守の屋根には、破風が3ヶ所と少なくシンプルに見えるが、築城当時はもっとあったようで、城主の好みで改修されたようだ。乾小天守なども破風がないので三重塔のような雰囲気に見える。平成時代になると、黒門二の門と袖塀、太鼓門枡形が復元されている。

城郭の縄張りは、本丸・二の丸・三の丸と三重の水堀に囲まれた梯郭式で、外周に城下町と寺社を配している。現在は内堀と外堀の一部が残り、本丸と内堀とは赤い埋の橋など3ヶ所の橋で結ばれている。本丸にあった本丸御殿は芝生の跡地となっているのが惜しまれる。具体的な復元計画はなく、彦根城や名古屋城のような塩梅ではなさそうである。

松本城を初めて訪ねたのは昭和48年(1973年)の12月中旬で、志賀高原のスキー場にアルバイトに赴く途中であった。2回目の訪問は昭和52年(1977年)の6月初旬で、上高地からの帰りに見物した。3回目の訪問は平成28年(2016年)の8月中旬、4回目の訪問は平成29年(2017年の)8月初旬といずれも北アルプスの登山の帰りで、松本城は欠かさず眺めて来た。平成30年(2018年)の4月初旬には、憧れていた桜の咲く松本城を眺めている。北アルプスの真白な残雪を借景とした黒壁の天守とのコントラストが実に美しいく、そこに桜の花が色を添えるのであるから、この季節の景観が松本城の至極である。現在の城郭面積は39.5haであるが、石川数正・康長父子が築城した時は12万坪(36.9 ha)であったとされるので、城郭面積に大きな変化が感じられない。城郭跡には市役所や学校などが建築されて破壊されたケースが多いが、松本市民が城郭を守って来たことに他ならない。松本城には文人墨客が好んで訪ねた様子がなく、歌碑や句碑が少ない。そんな中で松本を題材した和歌には、江戸時代中期の紀行学者である菅江真澄(1754-1829年)の歌がある。天明4年(1784年)、三河から善光寺参詣の折り、松本に立ち寄って天守を眺めたようだ。

「いつの世に 植てちとせを 松本の 栄え久しき 色こそみれ」 菅江真澄

③彦根城  (訪問回数4回)

彦根城は滋賀県彦根市の中心部に位置し、江戸時代初期の元和8年(1622年)に築城された。関ヶ原の合戦後、徳川四天王の1人、井伊直政(1561-1602年)は18万石をもって石田三成(1560-1600年)の居城であった佐和山城に入るが間もなく死去する。家督は井伊直継(1590-1662年)が継承するが、幼少であったこともあって、徳川家康が諸大名に命じて彦根城を築城させる。標高50mの金亀山に築城したことから「金亀城」の別名もある。城郭の多くは、周辺にあった大津城や佐和山城などから移築され「寄せ集めの城」とも称されたが、コスト削減や工期短縮ために名古屋城や姫路城、岡山城でも採用された。

彦根城天守は、木造3層3階、地下1階で、屋根は切妻破風・千鳥破風・唐破風を巧みに組み合わせて、調和のとれた美しい外観である。天守の地上からの高さは、21mと低いものの、山頂に建っているために際だった偉観を誇る。附櫓及び多聞櫓の1棟も国宝で、天秤櫓・太鼓門及び続櫓・西の丸三重櫓及び続櫓・二の丸佐和口多聞櫓・馬屋の5棟が国の重要文化財に指定されている。城域面積は48.86haもあって、国の特別史跡になっている。内堀の外側には玄宮園と楽々園の名勝庭園があって、桜が満開の天守の眺めは千金の価値がある。表門入口の表御殿跡には、昭和62年(1987年)、御殿が復元されて「彦根城博物館」としてオープンしている。国宝五城の中では、天守・櫓群・庭園・表御殿と最も充実した城郭内容とも言える。城郭の修復に関しては、江戸時代の安政年間(1854-1859年)に天秤櫓の大修理が行われ、明治時代には陸軍省の管理となって城郭が維持された。陸軍省から再び井伊家に下賜されたものの、戦時中に彦根市に寄贈されている。昭和27年(1957年)から3年間、昭和の大修復が行われ、更に平成5年(1993年)から3年間、平成の大修理が行われた。彦根城は築城から明治初期の廃城までは井伊家の居城であり、寛永10年(1633年)には普代大名として最高となる35万石を領している。17代続いた歴代藩主の中で、6人の藩主が江戸幕府の大老に就いている。17代藩主・井伊直弼(1815-1860年)が、その最後を飾った大老で、現在の彦根城では藩祖の井伊直政よりも敬われている。

彦根城を初めて訪ねたのは昭和62年(1987年)の1月下旬で、秋田から寝台特急「日本海」で彦根駅で途中下車した。姫路城や松本城を見学していたので、それほど立派な天守には見えなかったが、玄宮園と楽々園の規模の大きな池泉庭園には驚いた。2回目の訪問は平成5年(1993年)の4月中旬で、自転車で『おくのほそ道』を踏破した終盤であった。丁度、満開のサクラが散り始めた頃で天守の花雲が素晴らしかった。3回目の訪問は平成19年(2007年)の5月中旬で、井伊直弼が不遇の時代を過ごした埋木舎を訪ねてから城に登った。その旧跡は国の特別史跡にも指定され、直弼の人間性については賛否両論があるものの、開国の道を開いた偉人であるのは確かである。4回目の訪問は平成20年(2008年)の10月中旬で、御殿を復元した彦根博物館や開国記念館を訪ねた。開国記念館の右奥には、束帯姿の直弼像が建っていて、城郭入口の道路際には彼の歌碑がある。安政の大獄を強行した悪人のイメージはあるが、彼の和歌には吉田松陰の仇でもない高潔さが見える。

「あふみの海  磯うつ波の  いく度か  御世にこころくだきぬるかな」 井伊直弼

④犬山城  (訪問回数2回)

犬山城は愛知県犬山市の木曽川南岸に位置し、室町時代の文明元年(1469年)に岩倉織田氏の織田広近(?-1491年)が砦を築いたことが始まりとされる。応仁の乱が地方に波及した頃、その後の天文6年(1537年)、織田信長(1534-1582年)の叔父・信康(生没年不詳)によって現在の地下2階部分が築城されたとされる。天守の建造や縄張りは、慶長6年(1601年)に小笠原吉次(1548-1616年)が整備したともの。吉次が移封になった後の元和3年(1617年)、尾張徳川家の付家老となった成瀬正成(1567-1624年)が現在の天守に改修した。

犬山城天守は木造3層4階、地下2階で、望楼式の単独天守である。3階に切妻破風と破風のシンプルな外観であるが、高さ5mの野面積の石垣が特徴的である。天守の地上からの高さが24mと、国宝五城では最も低い。しかし、標高約88mの丘に建っているので、木曽川の遊覧船から眺める白亜の天守は絶景に値する。江戸時代の成瀬氏は、幕末まで9代続くことになるが、明治時代になると、天守を除き櫓や城門などの城郭が破却されて寺院などに移築された。明治24年(1982年)10月に発生した濃尾地震によって天守が半壊すると、管理していた愛知県から旧城主の成瀬氏に修復を条件に譲渡された。昭和時代に入ると、戦前は国の重要文化財に、戦後は国宝に指定された。昭和36年(1961年)から昭和40年(1965年)までの4年間、天守の解体修理が行われた。平成16年(2004年)には、成瀬氏個人の所有から財団法人になって、犬山城白帝文庫が創設された。

犬山城を初めて訪ねたのは平成17年(2005年)の9月中旬で、待ちに待った訪問であった。旅の人生に徹しようと、四日市で仕事しながら名所旧跡を訪ねていた頃である。憧れの「明治村」を訪ねてから犬山城に入った。木曽川断崖の上に聳える天守は、他の国宝四城よりも自然景観が素晴らしく、白亜の美観が美しいことから別名でもある「白帝城」と呼ばれるのも理解できる。城郭の面積は96haであるが、天守の建つ本丸はそんなに広くはない。登城道を入ると、三光稲荷神社と針綱神社が建っているが、城門1ヶ所と空掘が残るだけで他に城郭がないのが物足りなく感じる。古地図を見ると、本丸以外に樅の丸・杉の丸・桐の丸・松の丸の曲輪があって、その城域が塀に囲まれて9ヶ所の櫓があったようだ。往時の復元は無理としても、部分的にも復元が進めば良いと願う。2回目の訪問は平成21年(2009年)の1月中旬で、初詣を兼ねて三光稲荷神社と針綱神社を参拝した。三光稲荷神社は江戸時代以降、成瀬氏の守護神とされて、昭和39年(1964年)に現在地に移転された。針綱神社の創建は不明であるが、旧城主であった織田氏の氏神で、濃尾の総鎮守である。国宝五城の中で、城郭に規模の大きな神社があるのは珍しく、特殊な事例と言える。そのため犬山城の入口には、参道も兼ねた小さな門前町を形成している。犬山城は桜の名所でもあり、城内にはソメイヨシノを主に約400本の桜がある。城と桜に魅了されたのは60歳を過ぎてからであり、遅咲きの好奇心となってしまった。城門の前には、松尾芭蕉の高弟・内藤丈草(1662-1704年)の句碑が建つ。丈草は元犬山藩士で、その縁から没後250年の昭和28年(1953年)に句碑が建立されたと聞く。丈草はその松を眺めながら登城したのであろう。

「涼しさを  見せてや動く  城の松」 内藤丈草

⑤松江城  (訪問回数3回)

松江城は島根県松江市の標高29mの亀田山にあって、堀尾吉晴(1543-1611年)が築城した。関ヶ原の合戦後、出雲24万石を得た堀尾吉晴と吉氏(1578-1604年)父子が尼子氏の旧城であった月山富田城に入るが、新たな城下町の建設に相応しくないと判断し、宍道湖北岸に松江城を築城する。縄張りは『信長記』や『甫庵太閤記」』の著者の小瀬甫庵(1564-1640年)が行ったとされ、慶長12年(1607年)から5年の歳月を経て完成している。築城後に吉晴は没し、吉氏に子がなかったため堀尾氏は廃絶し、京極氏・松平氏へと城主は変わった

松江城天守は、木造5層6階、地下1階の望楼式天守で、屋根は入母屋造で2層目の南北面に切妻破風があるだけで、千鳥破風や唐破風はない。外壁は黒い下見板を張ったもので、色彩的には「千鳥城」の別名とは異なった外観に見える。明治初年に廃城令によって天守以外の城郭は売却されて消えた。明治中期には、島根県に唯一残る天守として保護され、戦前には国の史跡や旧国宝に指定されている。昭和25年(1950年)から5年間、天守の解体修理が行われ、昭和35年(1960年)には本丸一ノ門と南多聞が復元され、平成時代になると、城郭を囲む水堀の千鳥橋や北惣門橋、二の丸の南櫓・中櫓・太鼓櫓などが次々と復元された。天守は戦後、国の重要文化財であったが平成27年(2015年)に国宝に昇格した。城域の面積は16.5haと、国宝五城の中では最も小さいが、姫路城と共に「日本桜の名所100選」に選ばれているので、日本の象徴でもある城と桜の名所としての価値観は高い。

松江城を最初に訪ねたのは昭和49年(1974年)の6月初旬で、その頃の印象はあまり残っていない。2回目の訪問は平成26年(2014年)の6月下旬で、40年ぶりの訪問となった。昔はなかった「堀川めぐり」の遊覧船もあって、思わぬ方向から松江城を眺めた。この頃は、広島に仕事で来ていて、松江は日帰りの観光コースでもあった。翌年の4月5日には、「日本桜の名所100選」に選ばれた桜の咲く城郭を巡った。松江城の開場時間を狙って、広島市内のレオパレスを早朝に出発し、天守の6階に一番乗りで立つことができた。城郭の見物は時間帯が重要であり、混雑する前に訪ねることに限る。天守の高さは30mもあって、最上階から眺める宍道湖は格別の眺めである。逆に宍道湖の遊覧船から眺める天守も良く、花雲に浮かぶ姿は絵画のように美しい。松江城天守が国宝に昇格したことにより、現存する国宝の天守は四城だけだったので、長年抱いていた城郭の国宝指定に対する不満が多少なりとも解消された。残りの国の重要文化財の天守は、弘前城、丸岡城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城の七城だけである。次ぎなる国宝の指定には、個人的な評価としては松山城が良いと考える。松江城の北の丸跡には城山稲荷神社と松江護国神社が建ち、二の丸跡の興雲閣隣に松江神社が建っている。廃城後の城郭に神社が建立された例が数多あるが、これほど神社があるのは珍しい。特に松江神社は、松平氏の初代藩主・松平直政(1601-1666年)を主祭神として、最も有名な7代藩主・松平治郷(不昧)も祀っている。不昧(1751-1818年)公は江戸時代中期の文化人や茶人として活躍し、その史跡や業績が松江市内に多く残っているが、華道に因んだ和歌を詠んでいる。

「枝もなく 葉もなく花も ちりうせて 心の花を 活けてこそ花」松平不昧

24.新日本六大神社

神社名        主祭神    創建年    国の指定    門前店舗数  年間参拝客数  所在地

①鶴岡八幡宮    応神天皇  1063年   重文(上宮本殿)  135軒     2,500万人  神奈川県

②伊勢神宮      天照大神  古墳時代  重文(祭主職舎)   55軒     1,420万人   三重県

③伏見稲荷大社  倉稲魂神  711年    重文(本殿)        68軒     1,000万人   京都府

④太宰府天満宮  菅原道真  905年    重文(本殿)        60軒      850万人    福岡県

⑥出雲大社      大国主命  古墳時代  国宝(本殿)    約100軒      804万人    島根県

⑤金刀比羅宮    大物主神  平安初期  重文(旭社)    約100軒      700万人    香川県

日本独自の神社は、全国に約88,000社があると言われるが、その中で神官(神主)や管理人が常駐する神社が約2万社と聞く。2万社も参拝するのは不可能に近いが、諸国一宮や大社などの参拝可能な範囲にある。神社仏閣の参拝の記念として集める御朱印も訪問の楽しみである。令和3年(2021年)7月現在、神社の朱印帳は15冊目で、その記帳は320社となった。何度となく参拝した神社も多く、忘れられない神社六社を選んだのが「新日本六大神社」である。この選定には異論もあると思われるが、現世利益を考えての結論である。

門前店舗数や年間参拝客数は、変動があって正確な数値とは言えないが、参考値としてリストアップした。神社の総本山とも言えるのが「伊勢神宮」で、神社本庁の頂点にある。東京の「明治神宮は」は初詣客が最も多いことで有名であるが、歴史的な背景を考えると、首都圏に属する鎌倉の「鶴岡八幡宮」が相応しいと思った。最も末社が多いのは稲荷神社で、全国に約30,000社があるとされ、その代表格が「伏見稲荷大社」である。中国地方においては、諸国の神々が神無月(11月)に集結するとされる「出雲大社」が抜きん出ている。四国からは、海上の神様である「金毘羅宮」を選んだ。実在した人物を祀る神社では、菅原道真公を祀る天神社や天満宮も信奉者が多い。本社は京都の「北野天満宮」と福岡の「大宰府天満宮」の2社があるが、道真公の終焉の地が相応しいと考える。

神社に対する信仰は、縄文時代の原始宗教が根底になっているが、その基本は自然に対する感謝と畏敬であった。日本の神社は、「八百万の神」と称されるように様々な神々が存在するが、山岳や海洋を御神体として崇める神社が多い。その自然崇拝では、注連縄や祠のある場所が祈りを捧げる信仰の対象であって、古木や奇岩など多岐にわたっている。

大和時代の538年、仏教が渡来すると、飛鳥時代の聖徳太子によって仏教が興隆する。奈良時代には役小角行者によって、山岳信仰が盛んになって神仏融合の時代となる。江戸時代になると、神社信仰が『古事記』や『日本書記』の研究によって「神道」として体系化される。明治時代には神仏分離令によって神道が国教となって「神国日本」となる。しかし、葬儀や墓所に関しては仏教に異存しているため、根強い信仰が続いた。仏教は1回忌・7回忌・33回忌と死者に対する供養とされ、神道は初参り・七五三・厄払いと生者が受ける儀式となった。多数の日本の住宅には神棚と仏壇があって、仏教と神道を合わせ持つ国民性なのである。神社には必ず祭礼があって、特に祭りは地域住民の団結や娯楽として必要不可欠なものとなっている。神社には、日本人の文化が脈々と続いているのである。

鶴岡八幡宮  平成30年1月6日  撮影

伊勢神宮  平成25年10月2日  撮影

伏見稲荷大社  平成3年12月29日  撮影

太宰府天満宮  平成25年3月29日  撮影

出雲大社  平成25年3月26日  撮影

金刀比羅宮  平成26年9月21日  撮影

①鶴岡八幡宮  (訪問回数6回)

鶴岡八幡宮は神奈川県鎌倉市の中心部にある神社で、鎌倉の観光名所では最も人気がある。鶴岡八幡宮は平安時代後期の康平6年(1063年)、前九年の役で勝利した源頼義(988-1075年)が亰都の石清水八幡宮から分霊し、創建したとされる。頼義から5代後の源頼朝(1147-1199年)が、承元2年(1208年)にあらためて勧請して社殿を建立した。鎌倉幕府の滅亡によって衰退するが、室町時代末期に関東の覇者となった北条氏綱(1487-1541年)が再建している。江戸時代には11代将軍・徳川家斉(1773-1841年)の命により上宮本殿が造営された。この上宮本殿・幣殿・拝殿・回廊は国の重要文化財で、江戸時代初期に建てられた若宮本殿・幣殿・拝殿などを含め5棟が国の重要文化財である。本宮社殿群の建築様式は単層の権現造で、本殿は流造、幣殿は両下造、拝殿は入母屋造、回廊は切妻造である。屋根は灰色の銅瓦葺、壁は白色の漆喰、その他は朱色に統一されている。

鶴岡八幡宮の祭神は、応仁天皇と母の神功皇后、妻の比売神と聞くが、八幡神社によっては、応仁天皇を主神に父の仲哀天皇や子の仁徳天皇を祀る例もある。大分県宇佐市の宇佐八幡宮が総本宮で、全国に約25,000社を,数え、稲荷神社に次ぐ末社数を誇る。鶴岡八幡宮の魅力は、由比ヶ浜から境内まで一直線に伸びる若宮大路の参道で、源頼朝が平安亰の朱雀大路を模して造営したとされる。参道の中央部が一段高くなっていて、「段葛」と呼ばれる。春の桜並木が美しく、その距離は1.8㎞に及ぶ。参道には3つの大きな鳥居が建ち、参道脇は住宅を含む門前街が形成されている。神社の門前街の土産物店や飲食店などの店舗に関しては、日本一の135軒を誇る。

鶴岡八幡宮を初めて訪ねたのは東京在住中の昭和47年(1972年)の6月下旬、横須賀線北鎌倉駅を下車して、円覚寺、建長寺を巡拝して鶴岡八幡宮を参拝した。その後、鎌倉に知人が住んでいたこともあって数え切れぬほど鎌倉を訪ねているが、最近参拝したのは平成30年(2018年)1月初旬の初詣の期間中である。若宮大路から三の鳥居をくぐり境内に入ると、大きな源平池があって、公園のような景観が見えて来る。何度訪ねても安らぎを感じる境内で、参道の脇には社務所などが建ち並ぶ。参道の正面に上宮と右手に若宮の社殿が、江戸時代からの歴史を刻んでいた。上宮前の石段右横には大きな銀杏の木があって、鎌倉幕府3代将軍・源実朝(1192-1219年)が甥の公暁(1200-1219年)に暗殺された場所である。その大銀杏は、平成22年(2010年)3月に強風で倒伏してしまった。樹齢1,000年以上とされ、実朝の暗殺を知る名木であっただけに残念に思われてならない。鶴岡八幡宮のある古都鎌倉は、鎌倉幕府の滅亡後は鄙びた漁村となるが、江戸時代になると、神社仏閣が再建される。特に稲村崎や江ノ島など風光明媚な場所もあって、江戸から気軽に訪ねられる行楽地して発展する。鶴岡八幡宮の現在の年間参拝客数は2,500万人と、他の神社を圧倒している。これだけ参拝客が訪ねると、神社の収入も多く、雑草が1本も生えていないと言われるほど整備されている。鎌倉国宝館前には、歌人としても活躍した実朝が、後鳥羽上皇(1180-1239年)への忠誠心を詠んだ歌碑が昭和17年(1942年)に建てられた。

「山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあやめやも」 源実朝

②伊勢神宮  (訪問回数5回)

伊勢神宮は三重県伊勢市にあって、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)、別宮や摂社などがある。内宮は皇祖である天照大御神を祀り、外宮は衣食住の神である豊受大御神を祀る。いずれも皇室と関係が深く、現在の祭主には黒田清子(紀宮清子内親王)様が就かれている。伊勢神宮の創建は詳らかではないが、古墳時代に相違ないと思われる。奈良時代に天武天皇(?-686年)が斎宮を制度化し、持統天皇(645-703年)が式年遷宮を開始した。。

内宮の参拝は、木造の鳥居をくぐり、神路山から流れる清冽な五十鈴川に架かる宇治橋を渡る場所から始まる。右折して神苑を過ぎると五十鈴川畔に御手洗場があって手を清める。鬱蒼と繁る樹林の中に神楽殿など社殿が建ち、五重の垣根に囲まれた中に正宮がある。石段の正面に建つ正宮は、弥生時代の高床式高倉が原形とされ、切妻の茅葺屋根に鰹木が2ヶ所あって神明造と称される。外宮も含めてこの正宮が、20年に一度建替えられるのは、建築技術の伝承もあるようだ。外宮の参拝は、小川に架かる火除橋を渡った参道に始まり、まがたま池が境内にあるのが特徴である。正宮の他に南宮・土宮・多賀宮の別宮もあって、結構な時間を要する。まがまた池は、参拝の憩いの場でもあり、平成25年(2013年)には「せんぐう館」が新築されていた。池の側には奉納舞台もあって、内宮とは一味違った景観に見える。外宮の門前山田であるが、江戸時代には神宮を全国に広めた御師の住宅が建ち並び、古市には遊郭もあって繫栄を極めた。江戸時代から明治にかけては、聖なる神宮と俗なる遊郭が共存していて、「精進落とし」の言葉も生まれている。しかし、宇治の門前に比べると衰退が著しいのが山田で、宇治のように再興されることを願ってやまない。

日本人に生まれたら、一生に一度は参拝しなさいとされるのが伊勢神宮である。紀伊半島の北端に位置する不便な場所と思っていたら、名古屋や大阪から電車のアクセスが良いいのに驚いた。伊勢神宮に初めて参拝したのは昭和62年(1987年)の2月初旬で、それから5度の参拝をしている。京都では「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕様へは月参り」の俚諺があるが、伊勢の七度参りは達成したいと思うが、熊野は1回、愛宕様は2回だけなので、京都に住まない限り不可能に近い。最も印象に残る参拝は平成25年(2013年)の10月初旬で、20年毎に行われる「式年遷宮」を見学したことである。内宮の門前宇治には、「おかげ横丁」があって江戸時代の門前街へと景観を復元した。最初の参拝の折りは、「伊勢おはらい町」であったが、平成5年(1933年)の式年遷宮の時にリニューアルされた。昭和45年(1970年)代の頃は、年間約20万人であった来場者は、平成19年(2007年)には約400万人まで膨れ上がったようで驚きである。伊勢山田には、伊勢神宮の参拝のため様々な文人墨客が訪ねているが、中でも有名なのは松尾芭蕉(1644-1694年)であろう。俳諧師となってから伊勢にも門人を抱え、貞享1年(1684年)と貞享5年 (1666年)に訪ねている。人生の師と慕った西行法師(1118-1190年)の旧跡を訪ね、和歌に残されて心象を想起したことだろう。『おくのほそ道』の旅を終えた元禄2年(1689年)にも、式年遷宮に合わせ参拝いる。その時に詠んだ句碑が、平成25年(2013年)に伊勢市駅前に建てられていた。

「尊さに 皆おしあひぬ 御遷宮」 松尾芭蕉

③伏見稲荷大社  (訪問回数3回)

伏見稲荷大社は京都府京都市の洛南にあって、奈良時代の和銅年間(708~715年)、日本に帰化した豪族である秦氏によって「稲荷社」と創建された。平安時代初期には、真言宗開祖・空海大師(774-835年)が稲荷社を崇敬し、社殿の建立を朝廷に上奏している。平安時代後期には、天皇の行幸が行われると、稲荷信仰は庶民にも浸透して隆盛を極める。本殿は室町時代後期の明応3年(1494年)、東寺の末寺であった愛染寺(後の神宮寺)の沙門円阿弥(生没年不詳)が造営しもので、国の重要文化財となっている。楼門と奥宮は桃山時代、権殿・外拝殿・南回廊・北回廊・白狐社・御茶屋は江戸時代の建築でこれらも国の重要文化財である。御茶屋は後水尾天皇(1596-1680年)から下賜され、仙洞御所から移築されたと言う。

全国津々浦々にあるのが稲荷神社で、商売繁盛の神様として絶対的な人気を誇る。赤い鳥居にキツネの石像一対が社殿の定番で、神話の人物を祀る他の神社とは異なった雰囲気を感じるのが稲荷神社である。祭神の宇迦之御魂大神は、宇迦之御魂命や倉稲魂命とも表記されて、素盞鳴尊の子とされる。しかし、稲作の神様として崇められた歴史も考えると、弥生時代の原始信仰を稲荷神社に重ねたくなる。参道入口の赤い大鳥居は、高さ14m、竿の長さ16mの巨大さである。稲荷山奥の院まで続く「千本鳥居」が有名であるが、実際は約1万基もあると聞き驚きである。キツネは古くから伝わる稲荷大神の化身とされたが、現在は宇迦之御魂大神の眷属(神の使い)として鎮座されている。境内には様々なキツネ像が設置されていて、巨大なモニュメントのような像もあって、その像を見るのも注目に値する。最近は海外の旅行者の拝観が増え、その訪問者数は広島の「平和記念資料館」を抜いて、6年連続日本一とも言われている。世界的に見ても、伏見稲荷大社の赤い鳥居群の奇異な景観は存在せず、神秘的な魅力を感じさせるのかも知れない。

全国各地に有名な稲荷神社があって、「日本三大稲荷」と称される神社がある。宮城県の竹駒稲荷、茨城県の笠間稲荷、愛知県の豊川稲荷、岡山県の最上稲荷、佐賀県の祐徳稲荷と、伏見稲荷大社を含めると6社もあって曖昧である。豊川稲荷と最上稲荷は寺院であるので、同格に扱うのはどうかとも思う。稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社は別格として、仏教系の稲荷神社と、神道の稲荷神社を区別するべきと思う。その反面、神仏混合の風習が戦後に復活し、神国日本が廃されて信仰の自由が尊ばれるのは好ましいことである。

伏見稲荷大社を初めて参拝したのは昭和48年(1973年)の12月中旬で、当時はカメラを買う金もない貧乏な時代で、写真が1枚もないのが残念に思われる。2回目の参拝は平成3年(1991年)の12月下旬で、この時は一眼レフのカメラを携えていた。伏見稲荷大社の門前には、「伏見稲荷参道商店街」と称される門前町が形成されていて、飲食店・土産店・雑貨店・神具店など68軒が建っている。伊勢神宮の「赤福」、鶴岡八幡宮の「鳩サブレ」は超有名であるが、伏見稲荷にも「いなり煎餅」があるが、それほど知られていない。稲荷と聞けば、「いなり寿司」があるので、お菓子にまでは手が届かない。伏見稲荷大社を詠んだ昭和の歌人・前川佐美雄(1903-1990年)は、伏見稲荷で何を食べたのだろうか。

「あかあかと ただあかあかと 照りゐれば 伏見稲荷の 神と思ひぬ」 前川佐美雄

④太宰府天満宮  (訪問回数2回) 

太宰府天満宮は福岡県太宰府市にある神社で、菅原道真(845-903年)公の終焉の地で、その霊廟も兼ねている。平安時代中期の昌泰4年(901年)、従二位・右大臣まで登りつめた道真公は、ライバルの左大臣・藤原時平(871-909年)の讒言もあって、大宰府帥への左遷を余儀なくされて59歳で没する。その後、京では様々な異変が起こり、道真公の祟りだと噂される。時平の周辺でも不幸が重なり、時平が39歳で没すると、道真公の恨みを鎮めようと画策された。延喜19年(919年)、道真公の安楽寺墓所に天満宮が創建される。しかし、醍醐天皇(897-930年)が45歳で崩御すると、京の都にも祀ることになって天暦元年(947年)に北野社が創建される。北野天満宮となった頃からは天皇の行幸もあって、庶民に間にも信仰が広まる。一方の太宰府天満宮にも度々勅使が下向し、例祭が行われた。室町時代の頃からは、道真公の怨念も鎮まったとされ、学問の神様として崇められたと言う。江戸時代には、福岡藩主・黒田家による社殿の修復や改修が行われ、九州でも屈指の神社へと発展する。江戸時代末期には、都落ちした三条実美(1837-1891年)らの公卿5人が滞在した。また、西郷隆盛(1828-1877年)や坂本龍馬(1836-1867年)などの幕末の偉人たちも参詣しているが、両名は自害に暗殺と言う道真公よりも哀れな生涯を終えている。

明治時代には皇族以外を祀る神社の「宮号」を使用することを禁止され、太宰府神社となった。社格も官幣中社になったが、同じ福岡市の筥崎宮より格下扱いとなる。戦後は社格制度が廃止され、太宰府神社から太宰府天満宮に社号に復帰した。日本の歴史上の人物の中で、最も偉大な人物を3人選ぶとすれば、聖徳太子(574-622年)、空海大師(774-835年)、菅原道真公を選びたい。聖徳太子は「和の国日本」の基礎を造り、空海大師は渡唐した日本人で最大の評価をされた。そして菅原道真公は、唐から学ぶことはないと遣唐使船の廃止を提言した。それによって国文学が栄え、紫式部や清少納言などの女流作家の時代が花開いた。また、学問の神様として約10,500社に祀られ神格化された。

太宰府天満宮に初めて参拝したのは平成5年(1993年)の5月で、「新日本六大神社」では最も遅い参拝となった。2回目の参拝は平成25年(2013年)の3月で、何とか散り残った梅を愛でることができた。一番驚いたのは、太宰府天満宮の側に九州国立博物館が新しく建っていたことである。国立博物館としては4ヶ所目の博物館となっているが、展示品に関しては他の博物館よりは見劣りする内容だった。全国各地に天満宮や天神社が創建されたが、その本社となるが太宰府天満宮と北野天満宮である。今回の選定に関したは、国宝社殿を有する北野天満宮とも思ったが、存在感と参拝客数では太宰府天満宮が圧倒している。この本社以外にも大きな天満宮には、大阪天満宮や防府天満宮がある。防府天満宮は本社と共に「日本三大天神」に選ばれているので、その評価には異論が多いと思う。

道真公は漢詩を能くしたようであるが、和歌はあまり残していない。有名な和歌が太宰府に流され前に自邸の庭で梅を眺めて詠んだものである。もう京の都には戻れないと覚悟した様子で、梅の香りだけは風にのって太宰府に届けて欲しいと願ったように感じられる。

「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」  菅原道真

⑤出雲大社  (訪問回数2回)

出雲大社は島根県出雲市にある神社で、創建は祭神である大国主神が、天照大御神に国譲りをした神代とされる。神代と言う時代には曖昧さがあるので、古代史の観点から考察すると、西暦100年頃の倭国時代と想像する。その後の西暦200年頃から卑弥呼の邪馬台国となるのである。出雲大社の社名は明治時代になってからで、それ以前は「杵築大社」と称されていた。平安時代中期に制定された「二十二社制」には選ばれていないが、出雲国一宮として名社となる。鎌倉時代になると、神仏習合の風潮が盛んとなって鰐淵寺が神宮寺となっている。江戸時代中期の延享1年(1744年)に再建された本殿は、現在は国宝に指定されている。大社造と呼ばれる高床式で、高さが24mもあって木造の本殿としては日本一である。昔の本殿の高さは48mもあったと聞くと驚くばかりである。桧皮葺の屋根は切妻造で、両端に千木、中央に鰹木が乗せられている。入口の木段に切妻造の向拝があるだけ、朱色の彩色もないシンプルな外観は、伊勢神宮と同様に神々しく見える。他にも楼門や神饌所、摂社・末社など21棟が国の重要文化財である。出雲大社から5.9㎞離れた場所に日御碕神社があるが、この神社の社殿14棟が国の重要文化財となっている。出雲大社門前には、旧国鉄大社駅の立派な駅舎も国の重要文化財である。その文化財も合わせ、福岡県の宗像大社のような世界文化遺産の登録も夢ではないと思う。

東京を起点に「新日本六大神社」へのアクセスを比較すると、新幹線と電車を利用した場合、最も遠いのが島根県の「出雲大社」で、所要時間は約6時間50分となる。香川県の「金毘羅宮」も遠く感じられるが、所要時間は約4時間20分なので、その差は歴然としている。飛行機を利用すると、いずれも約2時間30分で到着するので、出雲詣では飛行機に限る。出雲大社の広々とした門前通りに、「出雲大社正門商店街」があって、旅館・飲食店・土産店など58店が加盟している。路地や小路にも商店が点在するので、約100軒はあるとされる。特に有名なのは、長野県の戸隠そば、岩手県のわんこそばと共に「日本三大蕎麦」に選ばれている「出雲そば」であろう。大社近くには11店舗、近郊には7店舗もあって、全店を巡るのは不可能に近い。麺類で最も安価なのがそばで、最も高いのもそばである。

出雲大社を初めて参拝したのは昭和49年(1974年)の6月初旬で、この頃は「ご朱印」を集める趣味がなかったのが残念に思われる。2回目の参拝は平成25年(2013年)の3月下旬で、世界文化遺産に登録された「石見銀山遺跡」の訪問の折りである。境内に入ると松並木の参道となっていて、銅鳥居の先の拝殿まで進むことが出来るが、本殿は二重の塀に囲まれていて、本殿の撮影は外観だけに限られる。塀の周囲には、摂社や末社が点在し、その神々に挨拶するのも大変である。出雲大社の礼拝は、二拝四拍手一礼なので、一般的な神社よりも二拍も多く、手の痛みをこらえての参拝となる。

出雲市は「神話のふるさと」として有名で、特に神無月(11月)には全国各地の八百万の神が出雲大社に集結すると言われる。出雲大社は縁結びの神様として知られるが、須佐之男命と奇稲田姫との出会いが由縁で、新婚生活の初めに詠んだ古歌が有名である。

「八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる その八重垣に」 須佐之男命

⑥金刀比羅宮  (訪問回数2回)

金刀比羅宮は香川県琴平町にあって、四国で最も有名な神社と言えば、「金刀比羅宮」をおいて他にない。金刀比羅宮の創建については、奈良時代に役小角(634-701年)が象頭山を開山した際、金毘羅大権現を祀ったとされるが定説にはなっていない。平安時代初期に象頭山松尾寺が開基された時、その鎮守神として大物主神を祀ったことが始まりであろう。平安時代末期の長寛元年(1163年)、讃岐国に配流された崇徳上皇(1119-1164年)が参籠した記録もある。安土桃山時代の元亀4年(1573年)、松尾寺金光院の宥雅(生没年不詳)によって金毘羅堂が建立されて、神仏混合の霊場へと発展する。江戸時代中期に入ると、金毘羅参りが盛んとなって、伊勢神宮へのお陰参りに次ぐ庶民の人気を集めた。江戸時代末期の侠客・清水次郎長(1820-1893年)の代参として金比羅参りした子分・森の石松(生没年不詳)の珍道中の姿が子供の頃から脳裏に残っていた。明治1年(1868年)の神仏分離令によって、主祭神の金毘羅大権現から大物主神に改められて、「琴平山金刀比羅宮」と名称が変わった。

金毘羅宮を初めて参拝したのは昭和50年(1975年)の12月中旬で、宇高連絡船に乗っての船旅であり、森の石松と同様に瀬戸内海の船上に身はあった。2回目の参拝は平成26年 (2014年)の9月中旬で、瀬戸中央自動車道の瀬戸大橋を自家用車で四国に渡った。一乃坂鳥居から金刀比羅宮の境内となるが、御本宮までは758段、奥社までは1368段の長い石段が続く。石段の前には、「石段かご」と称される人力の乗り物があったが、後継者不足で令和2年(2020年)に廃止されたと聞き、日本唯一の参拝光景が消えたのは誠に残念だ。重層の大門を過ぎると、旭社と書院が建てっているが江戸時代の建築で国の重要文化財ある。御本宮に到着すると見晴らしが良く、讃岐富士が美しく聳えている。本宮社殿は大社関棟と呼ばれる独自の建築様式で、桧皮葺の屋根が複雑な寄せ棟となっていて、拝殿には唐破風も設えてある。明治11年(1872年)の改修であるが、国の重要文化財となっても不思議ではない。奥社までは疎らに参拝者がいたが、象頭山まで登る人は殆どいなかった。

門前街の途中には、小さな金倉川が流れていて、国の重要文化財でもある鞘橋がある。弓形の橋の上に屋根が架かっていて、風情豊かな橋である。参道の界隈には、門前街が形成されていて、その数は100軒にも及ぶ。「新日本六大神社」では唯一、門前に「こんぴら温泉郷」がある。平成10年(1997年)に旅館の経営者が掘削に成功して開湯された新しい温泉地で、琴平町の後押しもあってか、現在は12軒のホテルや旅館に配湯されているようだ。門前町の高台には、芝居小屋・金丸座もあって、繫栄を極めた江戸時代を想像させる。

金毘羅宮には多くの文人墨客が江戸時代に訪れているが、与謝蕪村(1716-1784年)や小林一茶(1763-1828年)などの俳人、長州藩の志士・高杉晋作(1839-1867年)が隠れ家とした使用した呑象楼も有名である。明治時代以降は、北原白秋(1885-1942年)や斎藤茂吉(1882-1953年)などの詩歌人も参拝した。漂泊の歌人・吉井勇(1886-1960年)も参拝している。東京の伯爵家に生まれながら遍歴を重ね、現高知県香美市猪野々に隠棲して四国と縁が深い。海上安全の神様である金刀比羅宮を詠んだ歌碑が宝物館の奥に建つ。

「金刀比羅の 宮はかしこし 船ひとが 流し初穂を ささくるもうへ」 吉井勇

25.新日本六大温泉地

温泉名        伝開湯年   源泉数  源泉温度 宿泊施設 共同浴場 年間宿泊客数所在地

①箱根温泉      奈良時代     50本  43~73℃   111軒   6ヶ所   470万人  神奈川県

②別府温泉      古墳時代  2,000本  50~98℃   400軒  37ヶ所   400万人    大分県

③熱海温泉      奈良時代    500本  42~67℃    60軒   8ヶ所   340万人    静岡県

④草津温泉      奈良時代      6本  45~95℃   170軒   6ヶ所   180万人    群馬県

⑤有馬温泉      白鳳時代      7本  37~98℃    35軒   2ヶ所   135万人    兵庫県

⑥登別温泉       1857年     36本  45~90℃    28軒   1ヶ所   129万人    北海道

温泉に関する名数として最も古いのは、奈良時代に成った『日本書記』に記載された「日本三古湯」で、兵庫県の有馬温泉、愛媛県の道後温泉、和歌山県の南紀白浜温泉である。次ぎに古い名数としては、平安時代中期の『延喜式神明帳』にある「三函の御湯」で、愛媛県の道後温泉、兵庫県の有馬温泉、福島県の磐城(いわき)湯本温泉である。また、平安時代の清少納言(966-1025年頃)の随筆『枕草子』に登場する「日本三名湯」には。三重県の七栗(榊原)温泉、兵庫県の有馬温泉、島根県の玉造温泉がある。鎌倉時代では「日本三御湯」に宮城県の名取の湯(秋保温泉)、信濃の湯(別所温泉)、長野県の犬養の湯(野沢温泉)が登場する。これは順徳天皇(1197-1242年)が編纂した歌学書『八雲御妙』に出てくる温泉である。

江戸時代になると儒学者の林羅山(1583-1657年)が「天下の三名湯」に兵庫県の有馬温泉、群馬県の草津温泉、岐阜県の下呂温泉をあげている。他には「日本三古湯」があって、愛媛県の道後温泉、兵庫県の有馬温泉、静岡県の伊豆山温泉が選ばれた。他にも「日本三大薬湯」に兵庫県の有馬温泉、群馬県の草津温泉、新潟県の松之山温泉がある。美人に関する温泉も多く、「日本三大美人湯」に和歌山県の龍神温泉、群馬県の川中温泉、島根県の湯の川温泉があり、「日本新三大美人湯」には佐賀県の髙串温泉、宮城県の中山平温泉、和歌山県の奥熊野温泉と知名度の低い温泉地もあって、実体がつかめない名数もある。

最近では、静岡県の熱海温泉、大分県の別府温泉、草津温泉が「日本三大温泉」とされ、草津温泉のかわりに和歌山県の南紀白浜温泉を選ぶ例もあって定まった三大ではない。そこで、源泉数から選んだ「日本三大温泉」があって、大分県の別府温泉、大分県の湯布院温泉、静岡県の伊東温泉となっている。他にも「日本三大温泉地」や「日本三大温泉街」もあって、ここからバランスのとれた「日本三大温泉」を選ぶのは困難と考え、六大に拡大して選んだのが「新日本六大温泉地」である。年間宿泊客数を選定基準としたが、箱根温泉は「箱根七湯」とも呼ばれるように温泉地が分散している。しかし、一般的に箱根温泉と呼ばれているので選んだ。別府温泉も「別府八湯」から成るので問題はないと思う。

今回の選定で最後まで悩んだ温泉地をあげると、東北最大の温泉地でもある福島県の飯坂温泉、熱海温泉と並ぶ温泉都市の伊東温泉、関西の一大リゾート地でもある和歌山県南紀白浜温泉、古き日の温泉街の佇まいを残す兵庫県の城崎温泉、名数に度々登場する愛媛県の道後温泉などがある。名湯でもある南紀白浜温泉の年間宿泊客数は約91万人、道後温泉の年間宿泊客数は約76万人と六大には及ばないので外すことにした。

箱根温泉  平成25年10月4日  早川を撮影

別府温泉  平成23年4月5日  かんぽの宿別府から撮影

熱海温泉  平成29年11月3日  熱海城から撮影

草津温泉  平成22年8月11日  湯畑を撮影

有馬温泉  平成23年1月29日  有馬川を撮影

登別温泉  令和2年12月27日  源泉を撮影

①箱根温泉  (訪問回数2回)

箱根温泉は神奈川県箱根町にある温泉地の総称で、一般的に「箱根温泉郷」と称される。殆どの区域が「富士箱根伊豆国立公園」の特別地域に含まれる。箱根温泉の開湯は「箱根湯本温泉」が最も古く、奈良時代の天平10年(738年)、修行僧・釈浄定坊(生没年不詳)が発見した湯本熊野神社の「惣湯」が始まりとされる。次ぎに開湯が古いが「木賀温泉」で、平安時代末期に源頼朝の家人・木賀吉成(生没年不詳)が発見したことで温泉名となっている。最も標高の高い場所にある「芦ノ湯温泉」は鎌倉時代の開湯とされる。早川渓谷にある「堂ヶ島温泉」は、室町時代に臨済宗の高僧・夢窓疎石(1275-1351年)が開湯したと伝承される。蛇骨川にある「底倉温泉」は、桃山時代の小田原攻め時に豊臣秀吉が掘らせたと言われる。江戸時代初期には浄土僧・弾誓(生没年不詳)によって「塔ノ沢温泉」が発見され、「宮ノ下温泉」も底倉温泉から引湯して江戸時代に開業している。以上の温泉が「箱根七湯」と称されて、江戸時代後期の浮世絵師・歌川広重(1797-1858年)の絵にも描かれて有名となった。

東海道や箱根七湯から外れた場所にある「姥子温泉」も鎌倉時代の頃の開湯とされ、「箱根八湯」の1つとなっている。明治時代になると「小涌谷温泉」が開湯し、「強羅温泉」の大規模な開発が行われされ、大正時代に登山鉄道が開業した。昭和の戦後は「大平台温泉」が開湯を始めとし、「宮城野温泉」、「二ノ平温泉」、「仙石原温泉」、「湯ノ花温泉」、「芦ノ湖温泉」、「蛸川温泉」、「大涌谷温泉」、「湖尻温泉」、「早雲山温泉」が開湯し、「箱根二十湯」と呼ばれる温泉地となった。しかし、衰退した温泉地もあって、横並びの状況でもない。

箱根温泉に初めて泊まったのは、平成25年(2013年)の4月初旬の姥子温泉にある「かんぽ箱根」であった。温泉街のある箱根湯本温泉に泊ってみたかったが、金時山や箱根山の登山が主な目的だったので、箱根湯本温泉は敷居が高く感じられた。かんぽの宿は宿泊料金が手ごろで、客室も広く、1人客でも断らない点が良い。その年の10月上旬には強羅温泉の強羅風の音に泊ったが、ここも旧緑風荘と称した公共の宿であった。かんぽの宿よりは4,000円ほど宿泊料金が高く、手痛い出費となった。しかし、かんぽの宿の閉館や譲渡が続き、令和1年(2019年)の12月20日に閉館したと聞いて誠に残念に思っている。

箱根温泉も含めて温泉地で求められることは、旅館やホテルなどの宿泊先の良し悪しである。日本らしさが残る和風の旅館が素晴らしく、箱根湯本温泉の、「きよ水旅館」、「弥栄館」、「天成園」、「玉庭」、「春光荘」。芦ノ湯温泉の「環翠楼」、「松坂屋本店」。堂ヶ島温泉の「対星館」。塔ノ沢温泉の「福住楼」、「去来苑」。宮ノ下温泉の「奈良屋旅館」。強羅温泉の「石葉亭」、「強羅環翠楼」。仙石原温泉の「俵石閣」などが若い頃にリストアップした名旅館であった。しかし、温泉の乱開発や老朽化によって廃業した旅館も多く、きよ水旅館や奈良屋旅館に代表される。奈良屋旅館は明治天皇と昭恵皇太后皇が御駐輦された由緒ある旅館だけに閉館が惜しまれる。箱根温泉には多くの文人墨客が訪ねているが、江戸時代元禄7年(1694年)、木賀温泉に滞在した宝井其角(1661-1707年)の様子が思い浮かぶ。其角は温泉で師の芭蕉さんの危篤を知らされ、急遽大阪へ向かったが死に目には逢えなかった。

「西行の 死出路を旅の はじめ哉」宝井其角

②別府温泉  (訪問回数3回)

別府温泉は大分県の東海岸中央部に位置し、鶴見岳が東に傾いた別府湾に面する。源泉の本数は約2,000本と日本一の規模を誇り、別府(旧市内)・浜脇・亀川・柴石・鉄輪・明礬・堀田・海観寺の8ヶ所の温泉は「別府八湯」と呼ばれている。他にも竹瓦温泉・北浜温泉・浜田温泉など単独の温泉名もある。現在の宿泊施設は約400軒であるが、50年前は1,000軒以上もあったとされる。まさに日本一の温泉の街で、「泉都」に相応しい温泉地である。

別府温泉の開湯は古墳時代に遡るとされるが、実質な開湯は鉄輪に火男火売神社が創建された宝亀2年(771年)頃であろう。平安時代に柴石温泉、鎌倉時代には別府温泉、鉄輪温泉、浜脇温泉が開湯された。江戸時代になると、明礬温泉で明礬の生産が始まり、街道沿いの堀田温泉、海観寺温泉、亀川温泉が整備されたようだ。明治時代に入ると、自然湧出だけだった温泉も掘削が行われるようになり、各旅館のすべてが内湯を持つようになる。

明治時代の実業家・油屋熊八(1863-1953年)は、別府温泉開発の父とも呼ばれ、「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」と宣伝したとされる。昭和2年(1927年)の「日本八景」に選ばれ、昭和25年(1950年)には「国際観光文化都市」の第1号に指定された。平成14年(2002年)の「日本遺産・百選」に温泉地獄群、平成21年(2009年)の「平成百景」に別府八湯、平成24年(2012年)の国の「重要的文化景観」に湯けむり・温泉地景観が選ばれた。

別府温泉の名旅館としは、「雅泉荘ホテル」、「ホテル白菊」、「ホテルニュー昭和園」や鉄輪温泉の「旅館筑新」などが有名であったが、雅泉荘ホテルは廃業したようだ。別府温泉には、世界の著名人も訪ねていて、詩人のポール・クローデル、教育家のヘレン・ケラー、ピアニストのアルフレッド・コルトーなどが知られる。日本の文人では、明治期に田山花袋、森鴎外、徳田秋声。大正期に徳富蘆花、柳原白蓮、木下利玄、斉藤茂吉、竹下夢二。昭和前期に高浜虚子、与謝野鉄幹・晶子夫妻、織田作之助、三島由紀夫は新婚旅行で訪ねている。特に与謝野夫婦が訪ねた温泉地は、全国各地に及ぶほどの温泉マニアであった。

別府温泉を初めて訪ねたのは平成5年(1933年)の5月下旬で、入浴はしなかったものの、温泉街を回り温泉地獄を見物した。地下からは絶えず熱湯・熱泥・熱気が随所に噴出していて、「地獄めぐり」のコースは驚くような景観であった。2回目の訪問は平成22年(2010年)の3月下旬で、この時は鉄輪温泉のひょうたん温泉に入浴した。当日は別府港から「フェリーさんふらわあ」で、大阪に向う途中であったので鉄輪温泉の宿泊は叶わなかった。3回目の訪問は平成23年(2011年)の4月上旬で、かんぽの宿別府に投宿した。客室の窓からは、温泉街と別府湾が眺められて、海に沈む夕日がとても美しかった。かんぽの宿別府も箱根のかんぽの宿と同様に、令和1年(2019年) の12月20日にともに閉館された。思い出に残る宿が消えることは、振り返る対象が無くなることでもあって哀しく思うだけである。

別府温泉で深い所縁のある文人としは、女流歌人の柳原白蓮(1885-1967年)がいる。筑紫の炭鉱王と再婚して別府に赤銅御殿と呼ばれた別荘で暮らした。その別荘跡に白蓮の歌碑が建っていて、自由奔放に生き、「大正三美人」と称された写真の姿が脳裏に浮かぶ。

「和田津海の 沖に火燃ゆる 火の国に 我あり誰そや 思はれ人は」柳原白蓮

③熱海温泉  (訪問回数2回)

熱海温泉は静岡県の伊豆半島東岸北部にあって、熱海駅の北東から南東にかけて相模湾に面する温泉街で、日本を代表する温泉都市である。温泉の発見は古墳時代の第24代仁賢天皇の時で、沖の海中から熱湯が噴き出しているのを漁師が発見した。そのことから「熱海」と名付けられ、奈良時代の天平勝宝1年(749年)、海中の熱い湯による漁業被害に苦しんでいた漁師の願いもあって、箱根山権現の修験僧・万巻上人(生没年不詳)が祈祷を行い、海中から陸地へ源泉を移したと伝説される。桃山時代に関白・豊臣秀次(1568-1595年)が40日間も湯治したとされ、江戸時代初期には、徳川家康が湯治した記録があって、徳川家光以降は熱海の湯を江戸城に献上させる「御汲湯」が行われた。明治時代にはフランス公使のロッシュが湯治で訪れ、文人墨客の中には別荘を構えるほど熱海温泉は愛された。

箱根や別府と同様に熱海にも「熱海七湯」があって、「大湯間歇泉」、「河原湯」、「佐治郎の湯・目の湯」、「清左衛門の湯」、「風呂の湯・水の湯」、「小沢の湯・平左衛門の湯」、「湯中の湯」が大正時代まで自噴していたようだ。高台に建つ「起雲閣」には、谷崎潤一郎、山本有三、三島由紀夫なども来泊し、「文学の宿」と呼ぶに相応しい建物である。残念ながら平成12年(2000年)、運営会社が破産して閉館となった。起雲閣は大正8年(1919年)、実業家の別荘として建築され、昭和22年(1947年)から旅館となった。閉館後は熱海市が購入し、市指定有形文化財として保存され一般公開されている。熱海温泉の名数では、昭和2年(1927年)の「日本25勝」に箱根温泉や塩原温泉とともに選ばれ、昭和41年(1966年)の「新日本旅行地100選」、昭和62年(1987年)の「新日本観光地100選」に選ばれている。

熱海温泉の名旅館には「古屋旅館」、「大観荘」、「八方苑」、「かじか荘和楽亭」、「あたみ石亭」、「ホテル大野屋」などがあるが、八方苑はリゾートマンションに変わっている。古屋旅館は江戸時代後期の文化3年(1806年)の創業で、熱海温泉では最も古い。温泉は七湯の1つ「清左衛門ノ湯」を自家用とする源泉掛け流しである。本館は和風鉄筋CR造4階建てで、館内には215年の歴史を感じさせる調度品や骨董品が展示されているようだ。

熱海温泉に初めて泊まったのは平成22年(2010年)の4月初旬で、かんぽの宿熱海別館である。かんぽの宿は当初、郵便局の簡易保険加入車を対象とした宿泊施設で、加入者ホームや保養センターと呼ばれていた。昭和時代の高度成長期、旅行需要の一助を担う施設として重宝された。親方日の丸とあって、風光明媚な立地の良い場所に建設された。2回目の訪問は平成29年(2017年)の11月初旬で、アタミロープウェイに乗って「熱海城」を見物した。昭和34年(1959)に建てられた模擬天守閣で、熱海の観光名所となっている。かつては地下に温泉施設があって、隣接する離れはホテル棟となっていたとようだ。標高100mの高台にあって、熱海市街地の他に相模灘の初島、伊豆七島の大島などが一望できる。

熱海を所縁のある文人には、坪内逍遥、佐佐木信綱、与謝野鉄幹・晶子夫婦、永井荷風、林芙美子、太宰治など数多いるが、中でも尾崎紅葉(1868-1903年)の小説『金色夜叉』は熱海が舞台となって有名となった。紅葉は俳句も嗜み、その句碑が建てられている。

「暗しとは 柳に浮き名 あさみどり」 尾崎紅葉

④草津温泉  (訪問回数1回)

草津温泉は群馬県の北西部に位置し、標高約1,1000mの高地にあって、上信越高原国立公園に属する。草津温泉のある草津町は人口約6,000人の小さな町であるが、温泉以外にも草津温泉スキー場があって、四季を通じて観光客で賑わっている。草津温泉の発見に関しては、古墳時代のヤマトタケル、奈良時代の行基菩薩、鎌倉時代の源頼朝などの発見説があるが、史実としての根拠は乏しいようだ。室町時代に浄土真宗の法主・蓮如上人や連歌師・飯尾宗祇が入浴した記録が残り、桃山時代には豊臣秀吉の親族や加賀の前田利家なども入浴したとされる。草津温泉が有名になるは江戸時代に入ってからで、8代将軍・徳川吉宗は汲み湯を江戸城に運ばせている。江戸後期の「諸国温泉功能鑑(温泉番付)」では、西の有馬温泉と東の草津温泉が定番となった。明治に入ると、ドイツ人医師のエルヴィン・フォーン・ベルツ(1849-1913年)が草津温泉に入湯し、その温泉治療効果の髙さを医学論文に発表して世界に知られることになる。ハンセン病患者の療養施設も明治末に建てられた。

大正時代なると洋館の「草津ホテル」が外国人向けの施設として開業している。この頃は作家の志賀直哉が訪ね、「草津節」の原形を作詞したとされる詩人の平井晩村も訪ねている。昭和期に入ると、尾崎喜八、高村光太郎と千恵子夫婦、竹久夢二、斎藤茂吉なども訪ねている。草津温泉では、昭和50年(1972年)に訪ねた芸術家・岡本太郎(1911-1996年)のインパクトが強い。湯治とスキーを兼ねて宿泊したホテルで、当時のホテルの経営者であった町長と太郎の話が弾み、湯畑周辺のデザインをすることなった逸話が有名である。平成13年(2001年)の「かおり風景100選」に草津温泉「湯畑」の湯けむりが選ばれた。

草津温泉の名旅館では、慶長4年(1559年)の創業の「ホテル望雲」が最も古く、明治期の「大阪屋」と「松村屋旅館」、大正期の「山本館」は木造3階建ての重厚な旅館である。1度は泊まりたいと思っていたが、予約が取れずに断念した。また、草津温泉にも「かんぽの宿草津」があったが、ここも予約が取れずに断念したの悔やまれる。しかし、その後に伊東園グループに譲渡されたと聞き、永遠に泊れないかんぽの宿となってしまった。

草津温泉の初めての宿泊したのは平成22年(2010年)の8月中旬で、この時は「日新館」に泊った。この旅館の創業は江戸時代初期と聞き、何とか歴史ある宿に泊れたのは嬉しかった。直ぐ側には湯畑があって、共同浴場の1つでもある「千代の湯」が近くにあった。草津温泉には19ヶ所の共同浴場があって、無料の共同浴場としては「千代の湯」の他に、「白旗の湯」と「地蔵の湯」は観光客向けに入浴可能であるが、残りの共同浴場に関しては観光客に宣伝はされていないようだ。有料の共同浴場の「熱乃湯」では、江戸時代から続く草津名物の「湯もみと踊り」のショーが行われことで有名である。源氏ゆかりの湯に由来するが、最も熱い湯と言われていて、「カラスの行水」で終ってしまった。

湯畑の石柵には、「草津に歩みし百人」と題した偉人や著名人の名が石碑に刻まれていた。古墳時代のヤマトタケルから平成に亡くなったの渥美清までの百人であるが、その中で目を引かれたのは俳人・小林一茶(1763-1828年)で、光泉寺の石段下に句碑が建立されていた。

「湯けむりに ふすぼりもせぬ 月の豹」小林一茶

⑤有馬温泉  (訪問回数1回)

有馬温泉は兵庫県の瀬戸内海国立公園の六甲山北側、標高363mの中腹に位置し、北面を除いた三方を山々に囲まれている。有馬温泉の名が歴史に登場するのは、白鳳時代に第34代舒明天皇(593-641-年)の行幸があったと『日本書記』に記されたことである。奈良時代には行基菩薩が池を築き、溝ほ掘り、橋をかけ、御堂を建てて開発したとされる。平安時代末期になると、後白河法皇と建春門院(平滋子)が御幸されたとされる。鎌倉時代初期の建久3年(1192年)に僧・仁西(生没年不詳)によって戦乱で荒廃した有馬温泉が復興される。仁西は温泉寺を中興し、12ヶ所の宿坊を建てて奈良の吉野から連れて来た平家の残党に管理させたと言う。現在でも有馬温泉に「坊」の字の旅館やホテルがあるのも、これ時の流れるをくむか、その縁にあやかったものとされる。その後、再び戦乱で衰退するが、桃山時代に豊臣秀吉によって再建されて、庶民のための「御殿の湯ぶね」も設置された。記録によるると、秀吉は9回も有馬温泉を湯治に訪ねたとされ、太閤の湯として知られた。

江戸時代に入ると、草津温泉と同様に有馬温泉は幕府の直轄地(天領)となって、繫栄の一途をたどる。宿坊も一ノ湯に10坊、二ノ湯に10坊と増え、江戸後期の温泉番付の格付けでは最高位の西の大関に選ばれた。明治期から近代になると、小説家の谷崎潤一郎や吉川英治、歌人の与謝野晶子などが訪れている。有馬温泉の名旅館と言えば、創業800年を超える「御所坊」が有名で、本館は国登録有形文化財に登録されると聞く。

有馬温泉に初めて泊まったのは平成23年(2011年)の1月下旬で、宿坊の名が残る「上大坊」に投宿した。この宿も仁西の開いた12坊の1つで、由緒ある宿に泊れたのは嬉しく感じられた。有馬温泉は98℃もある熱泉が多く、そのために加水しているので源泉掛け流しの湯は少ないようだ。有馬温泉には7本の源泉はあるが、それぞれが異なった泉質であるのが特徴で、共同浴場の「金の湯」と「銀の湯」で楽しむことができる。金の湯は鉄分と塩分を含んだ温泉で、赤褐色をしているので赤湯とも呼ばれる。銀の湯はラドンを含む温泉で、無味無臭・無色透明でサラサラとしている。また、温泉テーマパークのような「太閤の湯」もあった。阪神・淡路震災では有馬温泉も被害を受け、極楽寺の庫裡が崩壊した。その地下から豊臣秀吉が建てた「湯山御殿」の一部が発見されて話題となった。震災から4年後の平成11年(1999年)、湯山御殿は「湯ぶね庭園」として神戸市が保存と公開を目的に開館した。館内には蒸し風呂、岩風呂、庭園などの桃山時代の遺構が復元され、茶器や瓦などの出土品も展示してあった。有馬温泉を愛した秀吉であるが、その権勢の夢の跡でもあって、約400年ぶりに蘇った遺構は意義のある発見と思われる。有馬川沿いの両岸には、太閤秀吉像とねね様の像が建てられていた。他にも「ねがいの庭」に行基菩薩、温泉寺に行基菩薩と仁西上人像が安置されている。この行基菩薩、仁西上人、太閤秀吉の3人は、有馬温泉の「3恩人」として篤く称えられている。

有馬温泉を訪ねた文人では、全国の温泉地を訪ねた与謝野晶子(1878-1942年)が忘れられない。御所坊の他にも創業約700年の「兵衛向陽閣」を晶子は歌の題材としている。

「花吹雪 兵衛の坊も 御所坊も 目におかずして 空に渦巻く」与謝野晶子

⑥登別温泉  (訪問回数2回)

登別温泉は北海道の道東、支笏洞爺国立公園にあって、標高約200mの高地に位置する北海道最大の温泉地である。北海道にはアイヌの地名を漢字に表記したものが多く、登別の語源は「ノボリベッ」と言う小川の名前に由来しているようだ。登別温泉は江戸時代後期には和人にも知られ、北方探検家の最上徳内や松浦武四郎が訪ね、伊能忠敬が測量をしている。登別温泉の開湯は、江戸時代末期に岡田半兵衛が共同浴場を作ったことが始まりで、安政4年(1857年)には大工職人の滝本金蔵(1826-1899年)が旅館を開業した。明治末期になると、日清戦争の傷病兵保養地として指定されたことで、知名度は全国的に広まって、温泉街が形成されて行く。大正期に入ると、室蘭の実業家・栗林五朔(1866-1927年)によって、登別温泉の全物件が買収されて、馬車から路面電車に改善されて大きく発展する。

別府温泉に「地獄めぐり」があったように、登別温泉には「地獄谷」がある。大正13年(1924年)に国の天然記念物に指定され、昭和2年(1927年)の「日本百景」、昭和41年(1966年)の「新日本旅行地100選」に選ばれている。更に、平成13年(2001年)の「かおり風景100選」に登別地獄谷の湯けむりが選ばれ、平成16年(2004年)の「北海道遺産」、平成22年(2010年)の「日本紅葉の名所100選」に地獄谷が選ばれている。

登別温泉の名旅館は、大正6年(1917年)に料亭として創業された「滝乃屋」で、昭和天皇(1901~1989)が昭和29年(1954年)と昭和36年(1961年)に御宿泊されている。滝本金蔵が開業した旅館は「第一滝本館」として存続し、創業約160年を迎えている。第一滝本館の道路向かいには、赤鬼と青鬼の像が建っていて、温泉街の随所に観られる。興味を引くような伝説はなく、地獄谷が鬼の棲む地獄とされたことに由来するようだ。

登別温泉を初めて訪ねたのは昭和年45年(1970年)の7月末日で、「ユースホステルあかしや荘」に泊った。当時は「登別国際観光会館登別パラダイス」と言うサマーランドがあって、見たこともない室内プールに驚いたものである。地獄谷をめぐり、ロープウェイに乗って「登別熊牧場」を見物した。最も刺激的だったのが第一滝本館の混浴で、まだあどけない17歳にはお姉さん方々の裸体が芸術品に見えるほど麗しく思えた。2回目の訪問は令和2年(2020年)の12月下旬で、登別温泉の手前にある「登別時代村」を訪ねた後であった。登別時代村には様々なアトラクションがあったが、花魁ショーでは台湾から来た観光客がカツラを被って舞台に上り、殿様役を演ずる様子を微笑ましく眺めた。半世紀ぶりに地獄谷をめぐったが、齢を重ねた目線には総ての景観が新鮮に見え、題目石・鉈作観音・薬師如来祠・鉄泉池・大湯沼展望台などを写真に撮影した。温泉街では湯澤神社を参拝して、源泉公園・閻魔堂・湯かけ鬼蔵などを見て回った。この日は念願だった第一滝本館に泊ったが、既に混浴は廃止されていて大浴場を右往左往するだけであった。翌朝、舟見山遊歩道を散歩すると、歌碑や句碑などが建っていて、その中に俳人・高浜虚子(1874-1959年)の句碑もあった。大正8年(1919年)に旭川で開かれた「ホトトギス北海道俳句大会」で詠まれた句で、昭和18年(1943年)に建立されたものであった。

「囀や 絶えず二三羽 こぼれとび」高浜虚子

26.新日本七大寺院

寺院名   創建年  開山開基  宗派        国の指定   門前店舗 年間参拝客数 所在地

①浅草寺   628年  勝海      聖観音宗     重文(二天門)  70軒    3,000万人  東京都

②善光寺   641年  本多善光  天台・浄土宗  国宝(本堂)   49軒      600万人  長野県

③清水寺   778年  延鎮      北法相宗     国宝(本殿)    52軒      500万人  京都府

④四天王寺 593年  聖徳太子  和宗         重文(通用門)  30軒      400万人  大阪府

⑤東大寺   752年  聖武天皇  華厳宗       国宝(本堂)    30軒(全体) 300万人  奈良県

⑥東寺     796年  桓武天皇  真言宗       国宝(金堂)   1000店(市) 200万人  京都府

⑦法隆寺   607年  聖徳太子  聖徳宗       国宝(金堂)    15軒       80万人  奈良県

先に「新日本三大霊山霊場」で高野山金剛峯寺、比叡山延暦寺、身延山久遠寺を選んでいるので、「新日本七大寺院」はそれ以外の大寺院からの選定となる。その基準としは、京都の「金閣寺」のように別荘から寺院に移行したものは外し、宗派を代表する大寺院を選んだ。その大枠は江戸時代末期に定まった「十三宗五十六派」の大寺院を基準とした。

「奈良仏教」では奈良の法隆寺・東大寺・興福寺・唐招提寺・薬師寺・西大寺、京都の清水寺。「天台仏教」では東北の中尊寺、東京の寛永寺・浅草寺、滋賀の園城寺・西教寺、京都の鞍馬寺・聖護院、大阪の四天王寺、奈良の金峯山寺。「真言仏教」では千葉の成田山新勝寺、京都の東寺(教王護国寺)・智積院・醍醐寺・大覚寺・仁和寺・泉涌寺、奈良の長谷寺・室生寺・宝山寺・朝護孫子寺、四国の善通寺。「禅宗」では鎌倉の建長寺・円覚寺(以上臨済宗)、北陸の永平寺(曹洞宗)、京都の妙心寺・大徳寺・南禅寺・東福寺・天龍寺(以上臨済宗)・万福寺(黄檗宗)。「浄土教」では東京の増上寺と京都の知恩院の浄土宗、大阪の大念佛寺の融通念仏宗、京都の西本願寺と東本願寺の浄土真宗。「日蓮宗」では東京の池上本門寺、千葉の誕生寺、静岡の大石寺と。天台宗と浄土宗の兼宗した大寺院では長野の善光寺、真言宗と浄土宗が兼宗した大寺院では奈良の当麻寺がある。

禅宗や浄土教、日蓮宗は宗教色が強く、一般観光客が参拝する観光寺院とは雰囲気が異なると判断して除外した。禅宗の中でも北陸の永平寺は北陸観光の名所となっていて、観光客にもなじみ深い大寺院であるけれど、年間参拝客数は約50万人と低迷している。他にも千葉の成田山新勝寺は知名度が高いが、京都の真言宗智積派の総本山・智積院傘下の大本山なので、寺格では上位とは言えないので除外した。

東京の浅草観音こと「浅草寺」は圧倒的な参拝客数を誇る日本屈指の大寺院である。その門前も日本一の規模である。長野県の「善光寺」も古来より参拝客が多く、一生に一度は善光寺参りと言われるほど参拝客が多い。観音信仰の浅草観音が東の大関ならば、西の大関は清水観音の「清水寺」に尽きるだろう。大阪からは聖徳太子が開基した「四天王寺」は絶対に外せない。奈良の「東大寺」は奈良大仏で知られ、修学旅行の定番となっている。京都では日本一の木造五重塔のある「東寺」は圧倒的な存在感がある。そして、奈良の「法隆寺」は、日本で初めて世界文化遺産に登録された大寺院である。以上の七ヶ寺が「新日本七大寺院」に相応しい大寺院として選んだ次第である。

浅草寺  平成3年10月3日  雷門を撮影

善光寺  平成19年10月8日  山門を撮影

清水寺  平成4年1月1日  撮影

四天王寺  令和3年11月7日  撮影

東大寺  昭和62年3月3日  大仏殿を撮影

東寺  令和3年8月21日  京都タワーより撮影

法隆寺  平成29年6月3日  撮影

①浅草寺  (訪問回数3回)

浅草寺は東京都台東区にあって、山号は「金龍山」、院号は「伝法院」と言い、聖観世音菩薩を本尊とする。関東では最も古い寺院で、漁師が網にかかった一寸八分(6.8cm)の黄金の観音像を自宅に祀ったことが始まりとされる。17年後の大化1年(645年)に勝海上人(生没不詳)によって開基され、後に東国生まれで比叡山延暦寺の第3世天台座主ともなった慈覚大師円仁(794-864年)が浅草寺を中興してから天台宗の寺となった。平安時代以降は関東武士の信仰を集め、平公雅(生没不詳)、源成実(生没不詳)、源頼朝(1147-1199年)、足利尊氏(1305-1358年)、太田道灌(1432-1486年)と兵乱や地震で消滅した後も再建が繰り返されて来た。徳川家康(1543-1616年)が江戸幕府を開くと、祈願所として保護され焼失する度に歴代将軍は浅草寺を再建した。先の太平洋戦争で浅草寺も焦土と化して、国の重要文化財でもある二天門のみが残された。戦後は四天王寺と同様に鉄筋コンクリート造りで諸堂が復興されて、日本屈指の門前町を有する大寺院へと発展する。昭和の戦後は天台宗から独立して「聖観音宗」の総本山となっているのも大阪の四天王寺と共通し、東西の好敵手のような関係にある。浅草寺は盛り場として栄えて来た歴史も四天王寺と同じで、両寺とも天台宗との関わりを現在も保っているようだ。

浅草寺の周辺は娯楽の殿堂でもあり、江戸時代末期には日本最初の遊園地でもある「浅草花やしき」が開園した。明治時代には浅草寺の一帯は「浅草公園」となって、12階建ての「凌雲閣」が建てられ、「オペラ館」が開業した。浅草寺には多くの文人墨客が参拝し足跡を残しているが、樋口一葉、永井荷風、久保田万太郎、池波正太郎などの名が浮かぶ。また、喜劇役者の多くが浅草の劇場で育ち、オペラ歌手から歌謡曲歌手まで浅草で活躍した。浅草はなやしきは閉園されるそうであるが、仲見世通りの賑わいは昔と変わらない。

浅草寺を初めて参拝したのは昭和48年(1973年)の1月初旬で、新聞配達をしながら遊学していた時である。七堂伽藍(山門・本堂・講堂・塔・経蔵・鐘楼・本坊)の整った寺院を観るのは初めての経験で大きな驚きであった。浅草寺の七堂伽藍は、山門は雷門、本堂は観音堂、塔は五重塔、本坊は伝法院、鐘楼は時の鐘、講堂と経蔵はないが影向堂・薬師堂・淡島堂などの諸堂を講堂と見做し、六角堂を経蔵と準えらくもない。あまり知られていないが、現在の雷門は昭和35年(1960年)に実業家の松下幸之助(1894-1989年)氏が寄進している。2回目の参拝は平成3年(1991年)の10月初旬で、この時は「浅草カーニバル」を見物した。当時の東京都知事が太田道灌に扮して練り歩いていた。3回目の参拝は平成27年(2015年)の8月中旬で、伝法院の客殿・玄関・大書院・小書院・新書院・台所の6棟が国の重要文化財の指定を受けた時である。しかし、先に国の名勝となっていた伝法院庭園と同様に非公開だったのが残念に思われた。

浅草寺は「坂東三十三ヶ所観音霊場」の第13番札所であり、白衣で巡礼する人々の姿は忘れられない存在でもある。開基当時の観音像は絶対秘仏となっているようで、慈覚大師円仁が刻んだとされるレプリカが現在の本尊となっているようだ。

「深きとが 今より後は よもあらじ 罪浅草へ まいる身なれば」 御詠歌

②善光寺  (訪問回数2回)

善光寺は長野県長野市にあって、山号は定額山、本尊は三国伝来の一光三尊阿弥陀如来像で、1つの舟形後光の中に弥陀・観音・勢至の三尊が現れる像とされる。欽明13年(552年)、百済の聖明王から日本に献上されたが、仏教に反する物部守屋(?-587年)によって難波に破棄された。推古10年(602年)、信濃の本多善光(生没不詳)が仏像を持ち帰り一宇を建て草創した。皇極3年(644年)、皇極天皇(594-661年)の勅願によって蘇我馬子(551?-626年)の姫(尊光上人)が本多善光の名に因み善光寺を開基する。平安時代初期から江戸時代元禄期まで11回の火災を被って来たが、その都度再建されている。一番の災難は、武田信玄が本尊を甲府に移してから、織田信長・徳川家康・豊臣秀吉と権力者によって遷座され、善光寺に本尊に戻ったのは42年後と言われる。善光寺の管理は浄土宗の大本願(尼寺)と天台宗の大勧進(僧寺)に分かれ、覇権争いを繰り返して来た。それは本多善光の子孫と高貴な尼僧との確執の歴史でもある。現在はどこの宗派にも属さない単立の宗教法人となっているが、住職が「大本願上人」と「大勧進貫主」の両名が務めている形態は同じようにも思える。

全国の寺院の中で1度は参詣したと思うのは、長野の善光寺で「牛に引かれて善光寺参り」の俚言がある善光寺ではないだろうか。この俚言を詠んだ俳人・小林一茶(1763-1828年)の「春風や 牛に引かれて 善光寺」が有名で、本堂の東側に句碑がある。善光寺の行事で特筆すべきは、7年に1度の「御開帳」である。平成27年(2015年)の52日の御開帳期間中は、約707万人が参拝したとされるので驚きである。また、銀幕のスター・高倉健(1931-2014年)は、30年以上も節目の日に善光寺詣りをしたことは有名な話である。

善光寺を初めて参拝したのは昭和49年(1974年)の2月中旬で、志賀高原のスキー場にアルバイトに向う途中であった。石畳みの門前を入ると、左手に大本願の堂宇が建ち、仁王門の先の駒反り橋を渡ると大きな三門が聳え、重層入母屋造りの大きな本堂が建っていた。現在の本堂は、元禄13年(1700年)の建築で国宝に指定されている。本堂の左側には大勧進の伽藍が甍を並べ、重文の経蔵、三重塔風に建てられた忠霊殿がある。塔頭寺院も多く、大本願が14ヶ寺、大勧進25ヶ寺あるが、そのすべてが宿坊を兼ねていた。2回目の参拝は平成19年(2007年)の10月上旬で、自転車で松尾芭蕉(1644-1694年)の足跡を訪ねての善光寺参拝であった。国宝の本堂の屋根の葺き替え終わった直後で、桧皮の薄茶色の鮮やかさが忘れられない。前回も同様であったが、善光寺の宿坊に泊ろうと問い合わせたところ、信徒の宿泊が優先されるようで断られてしまった。その点、高野山の宿坊で断られたことはなく、善光寺と高野山に吹く宗風は異なるようだ。

大本願の側には、芭蕉さんが元禄1年(1688年)に「更科紀行」の旅の折、善光寺で詠んだ句碑が建っている。この句の四門は東・西・南・北の門を指す場合と、真言曼荼羅の方位に配した東の発心の門・南の修行の門・西の菩提門・北の涅槃門を指す場合がある。四宗は一般的に浄土宗・禅宗・真言宗・律宗と言われるが、南都(奈良仏教)・北嶺(比叡山延暦寺)・東山(清水寺)・西山(光明寺)を勝手に想像すると、月影が遍く照らす光明と言える。

「月影や 四門四宗 只一つ」松尾芭蕉

③清水寺  (訪問回数3回)

清水寺は京都府京都市の東山にあって、京都の観光寺院では金閣寺と並ぶ人気を誇る。清水寺は奈良時代の末、征夷大将軍で知られる坂上田村麻呂(758-811年)が八坂の自宅に法相宗の僧・延鎮を招き創建した。最初は北観音寺と称したようであるが大同1年(806年)、桓武天皇(737-806年)より紫宸殿を賜って本堂した時に音羽山清水寺と改められた。本尊は十一面観音立像で、国の重要文化財でもある。清水寺は「西国三十三ヶ所観音霊場」の第16番札所でもあって、観光寺院一辺倒でもない信仰寺院の側面がある。寺院の殆どが寺号を音読みしているのであるが、清水寺は訓読みである。音羽ノ滝から流れるを清水(きよみず)をそのまま寺名にしたと言われる。同名の寺では混同を避けるために音読みしている。

京都の多くの寺院が室町末期の応仁乱で焼かれ、清水寺の本堂も焼失している。再建されたのは、泰平の世となった江戸時代の寛永10年(1633年)である。舞台造りと言う独特の建築で、全国的に見ても最大であり、国宝となっている。江戸時代には俗に「清水の舞台から飛び降りる」と揶揄されるほど自殺者が多かったそうである。明治時代に入ると、神仏分離令で地主神社が清水寺から独立し、一時期は真言宗醍醐派に属する末寺となっている。昭和40年(1965年)には、時の住職・大西良慶(1875-1983年)師が法相宗から独立して北法相宗を興している。平成7年(1995年)からは「今年の漢字」が清水寺で発表されて、貫主が巨大な和紙に漢字一字を揮毫する様子は年末の風物詩となっている。清水寺の魅力は門前町の産寧坂(三年坂)で、古い家並みが軒を連ねる。昭和51年(1976年)に国の重要伝統的建物群保存地区に指定されて、清水寺の参拝よりも産寧坂を訪ねる若い観光客も多いようだ。特に法観寺五重塔は「八坂の塔」とも呼ばれ、周辺のシンボルタワーでもあって、夕焼けに染まる風景は実に美しく、京都観光の締めには必ず訪ねるようになった。

清水寺の初めての参拝は昭和48年(1973年)の8月下旬で、京都駅から路面電車で参道口まで行ったものである。仁王門を入り、先ず目を引くのは三重塔で、経堂、田村堂、朝倉堂の堂宇が境内に連なる。その先に大きな檜皮葺の本堂の屋根が見えて来る。早く本堂の舞台の上に立ちたい気持ちを抑え、入口で拝観料を払って本堂に入った。本堂の舞台に立つと、音羽川の錦雲渓の眺望が素晴らしく、カメラを持っていなかったのでその景観を目に焼き付けた。本堂の先には音羽ノ滝があり、子安塔(三重塔)が聳えて、清閑寺へと野趣に富んだ参道は続いていた。2回目の参拝は昭和62年(1988年)の2月末日で、最初の参拝の際は、手を合わせるだけでお経を唱えられなかったが、2回目の参拝では「般若心経」と「舎利礼文」を唱えた。この時は、一眼レフのカメラを手にしていたので、あらゆる方向から清水寺本堂を撮影した。3回目の参拝は平成4年(1992年)の1月初旬で、本尊の十一面観音立像を拝むに相応しい「観音経偈」を唱えて、神仏に生かされていることに感謝した。この日は薄らと雪が積もり、本堂の屋根は布団をかぶせた姿に見えた。その時に思い出したのが松尾芭蕉の弟子・服部嵐雪(1654-1707年)が詠んだ有名な句である。清水寺は東山の別称があり、清水寺本堂の曲線的な屋根に雪が積もると布団をかぶせた姿にも見える。

「布団着て 寝たる姿や 東山」 嵐雪

④四天王寺  (訪問回数2回)

四天王寺は大阪府大阪市の中心部にあって、山号は荒陵山、院号は敬天院と号する。本尊は救世観音菩薩立像で、聖徳太子(574-622年)が推古1年(593年)に創建した日本最古の史実が残る寺である。東京浅草の浅草寺が東京を代表する古刹であるすれば、四天王寺は大阪を代表する古刹に他ならいと思う。大阪の繁華街に位置することもあって、四天王寺の歴史は日本の歴史の縮図とも言える側面がある。聖徳太子が蘇我馬子(551?-626年)と共に物部守屋(?-587年)と戦った際、四天王像を造り戦勝を祈願し、そのあかつきには伽藍の建立を誓ったとされる。爾来、日本の仏教が隆盛するわけで、聖徳太子は仏教の父とも言われる。太子が建立した伽藍配置は、四天王寺式と呼ばれてもので南大門・中門・塔・金堂・講堂が南北に一直線に配置されている。平安時代から鎌倉時代にかけて、天台宗の伝教大師最澄、真言宗の空海大師、融通念仏宗の良忍上人、浄土宗の法念上人、浄土真宗の親鸞聖人などの開祖たちも四天王寺に参篭したことから八宗(法相宗・華厳宗・律宗・天台宗・真言宗・浄土宗・禅宗・時宗)兼学の道場とされた。平安時代中期には天台宗の元三大師良源(912-985年)が中興し、以降の四天王寺は天台宗に改宗される。

戦国時代になると、織田信長によって伽藍が焼失されるが、その後に豊臣秀吉が再興した。しかし、大阪夏の陣で再び焼失し、再建が繰り返されて来た。太平洋戦争の空襲でも小さな堂宇を残して焼失した。戦後となって、創建当時の伽藍配置を踏襲して鉄筋コンクリート造で再建れたのが現在の四天王寺である。五重塔は8回目の再建と言われ、日本の歴史と共に存亡を繰り返したと言える。度重なる焼失で国宝の建造物は残っていないが、江戸時代に建てられた国の重要文化財である五智光院が1棟残っている。もう1つの大阪名所である大阪城は、大手門や櫓などが焼失を免れ共通する所である。美術工芸品の扇面法華経冊子が唯一の国宝であり、刀剣2振りが重要文化財に指定されているが、仏像や仏画が残されていないが惜しまれてならない。天台宗に属していた四天王寺が、戦後に和宗の総本山として独立している。聖徳太子が伽藍の他に施薬院や療病院などの福祉施設を建てたように、現在の四天王寺は病院や学校の経営にも積極的に関わっているようである。

四天王寺を初めて参拝したのは昭和50年(1975年)の12月下旬で、鉄筋コンクリート造りとは言え、七堂伽藍が整った寺観に感服した。南大門を入ると、仁王門・五重塔・金堂(本堂)・講堂が一直線に並び、仁王門から講堂までは東重門と西重門を中間に廻廊で結ばれていた。講堂の右後ろに太鼓楼、左後ろに北鐘堂があって、本坊は講堂の右奥にあったが、中心伽藍も大きかったが本坊もまた大きい。聖霊院太子堂や奥殿と聖徳太子に因んだ堂宇もあった。2回目の参拝は令和3年(2021年)の11月上旬で、46年ぶりの参拝となった。京都や奈良は頻繁に訪ねたけれど、大阪は大阪城や天保山など限られた場所の訪問となった。

元三大師堂前の西の隅に松尾芭蕉の追善墓があることを知って参拝した。弟子の志太野坡(1663-1740年)の墓と隣り合わせに建っていて、野坡の弟子が建立したとされる。四天王寺近くの浮瀬亭跡に句碑があり、野たれ死を覚悟していた境地が四天王寺にも浮かぶようだ。

「此道や 行く人なしに 秋の暮れ」松尾芭蕉

⑤東大寺  (訪問回数3回)

東大寺は奈良県奈良市にあって、聖武天皇(701-756年)が亡くなった皇子の菩提を弔うため、天平5年(733年)に建立した金鐘寺が始まりとされる。天平13年(741年)、天皇は諸国国分寺及び尼寺建立の詔を発し、金鐘寺は大和国の国分寺(金光明寺)に定められた。天平15年(743年)には、現在地に大仏の建立が始まり、天平勝宝4年(752年)に落慶法要を迎えた。開眼導師には印度僧・菩提僊那が招かれ、良弁僧正や行基菩薩の名僧も列席して盛大なイベントとなったようだ。天平勝宝6年(754年)には、唐の鑑真和上が東大寺に戒壇院を設け、聖武天皇が最初に授戒した。その後、僧侶は日本で授戒することが可能となったのである。大仏建立から約30年後、講堂・三面僧坊・七重塔・鐘楼・南大門などの七堂伽藍が整い、東大寺は日本を代表する大寺院となった。平安時代末期の源平合戦で平重衡によって大仏殿は焼かれ、鎌倉時代に重源上人(1121-1206年)が大勧進職となって建久6年(1195年)に大仏殿は再建された。しかし、戦国時代の永禄5年(1567年)、大和国の武将・松永久秀によって再び大仏殿が兵火で焼失する。江戸時代の泰平の世となった宝永6年(1709年)、焼失した大仏と大仏殿は再建された。大仏の台座と香炉は創建当時のもので、胴体は鎌倉時代で、顔は江戸時代に鋳造されたと聞く。上屋の大仏殿は創建当時や鎌倉時代よりも建坪が半分程度と小さく、比類のない木造大建築が江戸時代まで伝承されなかった証でもある。

東大寺は隋代に中国で成立した華厳宗を宗旨とし、現在もその宗派を存続している。奈良時代の仏教は、他に興福寺と薬師寺の法相宗、元興寺と大安寺の三論宗、唐招提寺と西大寺の律宗、法隆寺の倶舎宗の五宗派があった。平安時代になって唐代の仏教が最澄と空海によってもたらされると、奈良仏教は衰退し、華厳宗・法相宗・律宗の三宗派となる。

東大寺の初めての参拝は昭和48年(1973年)の12月中旬で、約10万坪(33ha)の広大な境内には唖然とした、東大寺式伽藍配置と称される独自の大伽藍があったのであるが、現在は南大門と中門、大仏殿(金堂)と回廊が残っている。南大門を過ぎると左に西塔、右に東塔が建てっていたのである。高さが約70mもあったとされる七重塔で、現存する日本一の高さを誇る東寺五重塔の約55mに比べてもその高さに驚きを感じる。大仏殿の奥には講堂と僧坊が建っていたようであるが、再建されることもなく更地となっていた。最盛時の寺観を復元することが寺院の果たすべき未来への役割と思える。2回目の参拝は昭和62年(1987年)の3月初旬で、開山堂、二月堂、三月堂(法華堂)、四月堂(三昧堂)をめぐった。舞台造りの二月堂は「水取り」の行事が有名で堂宇は重要文化財から国宝に昇格した。 三月堂は2度の兵火から免れた奈良時代の建築で、堂内の仏像9躰と共に国宝になっている。良弁僧正を祀る開山堂も良弁像と堂宇が国宝である。3回目の参拝は平成5年(1993年)の10月中旬で、名勝庭園の依水園を鑑賞したが、東大寺ではあまり知られていない名所でもある。

貞享2年(1685年)の冬、「野ざらし紀行」の途上にあった松尾芭蕉が東大寺を訪ねているが、二月堂に籠った際に詠んだ句が有名である。その句碑が大正2年(1913年)、東大寺末寺の空海寺住職によって二月堂に建立されもので芭蕉の足跡を東大寺に残している。

「水取や 籠()りの僧の 沓の音」 松尾芭蕉

⑥東寺  (訪問回数2回)

東寺は京都府京都市の洛南にあって、山号は八幡山、正式な寺号は教王護国寺、院号は秘密傳法院と号する。平安京遷都から2年後の延暦15年(796年)、鎮護国家のために桓武天皇が藤原伊勢人(759-827年)に命じて西寺と共に建立した官寺である。弘仁14年(823年)、空海大師(774-835年)が嵯峨天皇(786-842年)より東寺の運営を任せられると、真言密教の根本道場として発展させた。大師が入寺した時は金堂のみが建っていたが、講堂を建てて実質的に開基したのは大師であろう。大師の愛弟子の実慧(786-847年)が大師の2代目を継ぎ東寺長者となり、現在の規模の誇る七堂伽藍の礎を築いた。平安後期には一時衰退するものの、大師信仰が盛んになる鎌倉時代を迎えると、諸堂が再建されて旧観を保つのである。後宇多天皇(1267-1324年)は出家して西院に住し、観智院を開基している。室町時代の応仁の乱の兵火で伽藍を焼失するが、天下を掌握した豊臣氏や徳川氏の援助によって再建が続けられた。現在に残る国宝建築の多くは、桃山時代から江戸初期に建てられている。

東寺の存在感は高野山とは比較できない程の文化財が残されていることであり、観光都市の一等地にありながらも一部の区域を除き開放的な雰囲気があることである。東寺で毎月21日の縁日に行われる「弘法市(弘法さん)」と称されるガラクタ・骨董市は、空海大師の持つ庶民性を受け継いだものであり、約1000店もの出店が並ぶ。また、庶民の教育のために隣地に建てた綜芸種智院は私立大学とし現在もその名跡を受け継いでいる。

東寺を初めて参拝したのは昭和48年(1973年)の9月下旬で、南大門を入ると中門跡の先に金堂・講堂・食堂が一直線に並び建ち、北大門へと続いていた。中門跡の右側に五重塔が聳え、奥に瓢箪池がある。往時は金堂の左右に僧坊が建っていて、中門跡から講堂まで回廊で結ばれていた。壬生通りに面した西側には、御影堂(大師堂)や本坊など20棟近くの堂宇が林立し、北大門の外には塔頭の観智院の堂宇が連なっていた。講堂は空海大師の密教思想を具現化し、21躯の仏像が曼荼羅の世界を立体的に配置している。殆どの仏像が国宝や重要文化財に指定されていて、これほどの仏像が堂宇の中に安置されているのは他の寺院では例がない。御影堂は空海大師が住房としていた跡地に建ち、大師が念持仏としていた不動明王坐像を安置していて、国宝にして秘仏である。写真でしか見ていないが、日本最古の不動明王像であり、大師の自刻とされる。2回目の参拝は昭和62年(1987年)の3月上旬で、広い境内を巡るには相当の時間を要することから当日は折畳み自転車で巡った。中でも宝物館は時間をかけてゆっくり拝観したかったが、あれから30年も歳月を経てい高野山には6度参拝し、善通寺に5度参拝しているのに東寺には2度だけの参拝である。

東寺は「真言宗東寺派」と「東寺真言宗」の2派に分かれていて、不明確な状態が腑に落ちない。近年になって四国八十八ヶ所霊場が注目されると、東寺はその始まりの札所として宣伝をしているようであるが、四国霊場の納経帳には東寺を納経するページがない。高野山や善通寺に対する対抗心が見えるようで、京都一の文化財に依存している様子が見える。東寺の御詠歌も拙い和歌で、空海大師の聖地に相応しい環境を構築して欲しい。

「身は高野 心は東寺 納めおく 大師の誓い あらたなりけり」御詠歌

⑦法隆寺  (訪問回数3回)

法隆寺は奈良県斑鳩町に斑鳩の里にあって、山号や院号のない純粋な奈良仏教の寺院で本尊は釈迦如来像である。法隆寺は聖徳太子(574-622)が父・用明天皇の病気平癒を祈願し、叔母の推古天皇(554-628年)と共に推古天皇15年(607年)に建立した。しかし、天智天皇9年(690年)、火災によって焼失したため、文武天皇4年(700年)から再建されて天平19年(747年)には現在の規模のなったと思われる。その後も火災や地震によって壊れた伽藍や堂宇の修復や再建が繰り返されている。聖徳太子が推古天皇の摂政として君臨したのが斑鳩宮で、その宮の傍らに建てられたのが法隆学問寺であった。この寺を中心に仏教文化が開花し、新しい日本の歴史が始まったのである。この時代に僧侶になるには、海を渡って百済まで行って戒壇を受けねばならなかったので、太子は正式な得度をした僧侶ではなかった。しかし、自ら仏典を翻訳し、僧侶以上の知識を得ていたのは明らかであり、仏教の父と言われる所以である。政治においても十七条憲法の制定や遣隋使の派遣など前駆的な役割を果たした太子であるが、48歳で亡くなったのは日本の大きな損失であったと言える。

法隆寺東院夢殿の堂内には聖徳太子を模した等身大の救世観音像が祀られているが、明治17年(1884年)、フェノロサと岡倉天心が寺僧の止めるのを押し切って白布を取り除き秘仏を調査した逸話が残る。法隆寺は昭和25年(1950年)、法相宗三大本山から独立して聖徳太子に因み、聖徳宗を名乗るようになった。四天王寺の伽藍配置は大陸伽藍配置様式の直輸入であったのに対し、法隆寺式伽藍配置は日本独自のもので1200余年の間、保たれて来たのは奇跡に等しく、平成5年(1993年)には姫路城と共に世界文化遺産に登録される。

法隆寺を初めて参拝したのは昭和48年(1973年)の12月中旬で、広大な境内は西院と東院とに分かれていた。西院にある諸堂の中で、中門から東西の回廊で囲まれた正面左右に建つ五重塔と金堂が圧巻であった。回廊の奥の左に経蔵、右に鐘楼が建ち、回廊は正面奥の大講堂で結ばれていた。回廊の外にも国宝や重要文化財の堂宇が甍を並べ、その数は28棟にも及び僧坊でもあった東室や西室を除くと、子院(支院)では僧侶が現在も住居としていて生活していて立入禁止区域となっていた。子院の甍を並べる先にあるのが東院で、子供の頃にプラモデルで作った夢殿の実物に逢えると思うと、気持が高揚して来る。夢殿は聖徳太子を供養するために、天平11年(739年)に建立された。東院の本坊でもある中宮寺には、有名な弥勒菩薩半跏像(如意輪観音像)が安置されている。京都の広隆寺の弥勒菩薩像と並んで、飛鳥仏像の最高傑作とされる国宝で、モナリザの微笑みよりも素晴らしい表情をしている。2回目の参拝は平成18年(2006年)の5月下旬で、『国宝建築の旅』の取材旅行の時である。国宝建築には特別の思いを持って眺めて来たが、法隆寺はその宝庫であり、建築技法にも法隆寺ならではの特色が多い。3回目の参拝は平成29年(2017年)の6月初旬で、訪ねていない子院や堂宇などを主にめぐった。法隆寺にはたくさんの名士や文人墨客が訪ねているが、中でも明治28年(1895年)に訪ねた俳人・正岡子規(1867-1902年)が最も有名であろう。その句碑は、法隆寺で必ず拝観する西院中門の入口に建っていた。

「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」 正岡子規

27.新日本八景

名称        国の指定        国立・国定公園名      面積㎢   年間観光客数  所在地

①阿蘇山      天然記念物      阿蘇くじゅう国立公園   350      500万人     熊本県

②石鎚山      名勝            石鎚国定公園           106      370万人     愛媛県

③鳥海山      天然記念物      鳥海国定公園           290    200万人 山形・秋田県

④鳥取砂丘    天然記念物      山陰海岸国立公園       5.45     100万人     鳥取県

⑤奥入瀬渓流  特別名勝        十和田八幡平国立公園   161       80万人     青森県

⑥佐渡島      特別天然記念物  佐渡弥彦米山国定公園   854       65万人     新潟県

⑦屋久島      特別天然記念物  屋久島国立公園         504       40万人   鹿児島県

⑧釧路湿原    特別天然記念物  釧路湿原国立公園       268       20万人     北海道

東京日日新聞(現毎日新聞)が昭和2年(1927年)に選定したのが「日本八景」で、高知県の室戸岬、愛知県・岐阜県・長野県流域の木曽川、大分県の別府温泉、青森県・秋田県の十和田湖、長野県の上高地、北海道の狩勝峠、長崎県の雲仙岳、栃木県の華厳ノ滝である。

海岸・河川・温泉・湖・高地・峠・山岳・滝の名所から1ずつ選んでいるようだ。しかし、この選定は93年前の昔のことで、現在の評価とは隔たりがあると感じる。別府温泉、十和田湖、上高地、華厳ノ滝の4ヶ所は『名数に見る日本の風景』と重複するので省略するが、残りの室戸岬・木曽川・狩勝峠・雲仙岳の4ヶ所について変更の余地がある。

室戸岬は室戸阿南海岸国定公園に指定されていて、名数では「新日本旅行地100選」、「日本の地質百選」、「残したい日本の音風景百選」に御厨人窟の波音が選ばれている。しかし、年間観光客数は約50万人と、海岸の景勝地としては比較的少ないのが難点である。

木曽川は愛知県の「木曽川堤」が桜の名所、岐阜県の「日本ライン下り」や「木曽川鵜飼」が有名で、長野県では「寝覚めの床」が名所である。しかし、河川としては他の名数には選ばれておらず、山形県の最上川、長野県の千曲川、高知県の四万十川ほどではない。

狩勝峠は鉄道が走っていた頃は、「日本三大車窓」に選ばれるほど有名な峠であった。昭和41年(1966年)のルート変更に伴って廃線となったので、現在の峠としての評価は低い。

雲仙岳は長崎県を代表する山岳ではあるが、深田久弥氏の「日本百名山」には選ばれていない。雲仙岳に連なる普賢岳の噴火によって、名山のイメージが損なわれた気がする。九州の活火山では、熊本県の阿蘇山には及ばないと思う。今回の「新日本八景」に阿蘇山を選んだのは、北海道の屈斜路湖に次ぐ阿蘇カルデラも含まれるからである。石鎚山は「日本三名山」の富士山、立山、白山に次ぐ名山及び霊山であると思う。標高1,982mの石鎚山は西日本の最高峰で、山頂の天狗岳の尖がりが実に美しい。鳥海山は東北を代表する名山で、日本海の面した山岳としては標高2,236mの最高峰を誇る。鳥取砂丘は日本最大の砂丘で美観も申し分ない。奥入瀬渓流は大分県の耶馬渓が渓谷の王様とすれば、渓流の女王とも言える景観である。佐渡島はとても魅力的な島ではあるけれど、人気がないので応援したい。屋久島は自然の宝庫で、標高1,935mの宮之浦岳が島山の最高峰でもある。釧路湿原は日本最大の湿原で、一帯が国立公園に指定されているので文句なしと思い選んだ。

阿蘇山  平成23年4月4日  山頂附近より中岳火口を撮影

石鎚山  平成26年9月14日  天狗岳を撮影

鳥海山  平成24年5月19日  祓川登山口より撮影

鳥取砂丘  平成19年8月13日  馬の背を撮影

奥入瀬渓流  平成21年6月7日  石ヶ戸附近を撮影

佐渡島  平成20年5月10日  小木港を撮影

屋久島  平成23年4月2日  宮之浦岳を撮影

釧路湿原  令和2年1月2日  細岡展望台より撮影

①阿蘇山  (訪問回数3回)

阿蘇山は熊本県の北東部にあって、阿蘇カルデラは7市町村がまたり、約5万人がカルデラ内に暮らしている。そのカルデラ一帯は阿蘇くじゅう国立公園に指定されていて、美しい自然景観が点在する。阿蘇山は通称「阿蘇五岳」と称される高岳(1,592m)・中岳(1,506m)・根子岳(1,408m)・烏帽子岳(1,337m)・杵島岳(1,270m)の総称である。阿蘇カルデラは今から約27万年から9万年前までの4回の噴火によって形成されたもので、カルデラの面積約380㎢、周囲の距離は約126㎞にも及ぶ。

カルデラの東西をJR肥後本線が横断し、北西の阿蘇外輪山に菊池渓谷、阿蘇五岳の中腹に仙酔峡の渓谷美がある。山頂附近の中岳火口からは噴煙が上り、荒涼とした火山灰の砂千里が山麓に広がる。その火山地帯とは対照的に草に覆われたスコリア丘の米塚(954m)、広大な草千里ヶ浜の草原が広がり、国の名勝及び天然記念物に指定された。阿蘇山の広大なカルデラを一望する場所が外輪山の「大観望」で、車で簡単に上れる展望所である。阿蘇山は様々な名数に選ばれていて、「日本二十五勝」、「日本百名山」、「新日本百景」、「新日本旅行地100選」、「新日本観光地100選」、「日本の秘境100選」、「日本遺産・百選」、「日本の地質百選」と他の観光地を圧倒している。世界自然遺産に選ばれても不思議ではない。

阿蘇山を初めて訪ねたのが昭和49年(1974年)の5月下旬で、「阿蘇ユースホステル」に泊って広大な草千里ヶ浜で観光馬に乗った思い出が脳裏を過る。2回目の訪問は平成23年(2011年)の4月初旬で、「垂玉温泉」に泊って秘湯の宿を満喫した。翌日は阿蘇山ロープウェイを利用して最高峰の高岳に登る計画を立てたが、山頂駅からの登山ルートは封鎖されていた。避難シュエルターが随所に設置されていて、噴火と向い合せの観光を覚悟せねばならないようだ。砂千里まで下山して登山の仕切り直しをしたが、何とか高岳の山頂に立って「日本百名山」の70座目をクリアした。登山コースからは中岳火口が地獄の釜のようにも見え、悠然と眺める気分にはなれなかった。下山して阿蘇山西駅付近を散策すると、阿蘇山上神社と西巌殿寺奥之院の神仏が仲良く建ち並んでいた。阿蘇山上神社は阿蘇神社の奥宮で、健磐龍命を祀っているそうである。西厳殿寺は天台宗の古刹で阿蘇修験道の本拠地でもあったそうであるが、現在では侘びしい規模の寺院となって往時を偲ぶことはできない。奈良時代の神亀3年(726年)、インドから来朝した最栄読師(生没年不詳)が、聖武天皇(701-756年)の勅願で開山し、盛時は36坊52庵の堂宇があったと伝わる。3回目の訪問は平成29年(2017年)の3月初旬で、昨年の平成28年(2016年)4月14日に発生した熊本大地震の爪痕は大きく、国道57号が寸断され、何とか迂回ルートを経て阿蘇山に入った。地震による阿蘇山の火山活動が懸念されたが、ある程度の観光客が訪れていた。大変ショックに思われたのは、国の重要文化財でもある阿蘇神社の楼門と拝殿の崩壊であった。とても参拝する気持ちにはなれなかった。垂玉温泉の被害が甚大であったと聞いて更なるしショックを感じた。再び大観望に上って、阿蘇カルデラを俯瞰した。そこに歌人の吉井勇(1886-1960年)が詠んだ歌碑があって、面白い阿蘇に再び戻って欲しいと願った。

「大阿蘇の 山の煙は おもしろし 空にのぼりて 夏雲となる」吉井勇

②石鎚山  (訪問回数4回)

石鎚山は愛媛県の北東部の四国山地に位置し、標高1,982mは西日本の最高峰(1,982m)で石鎚国定公園に指定されている。石鎚山は役小角行者(634-701年)が開山し、嘉祥3年(850年)に修行僧・寂仙(?-758年)が成就社を開基した霊場で、空海大師(774-835年)も修行した修験道の聖地であった。しかし、明治初年の神仏分離令で、仏教色は山頂から影をひそめてしまい、現在は山麓に本社のある石鎚神社が主体となっている。石鎚山の祭神も石鎚蔵王大権現から石鎚毘古命に名が変わり、石鎚山が御神体であるにも関わらず、仏教と神道のニュアンスは異なるようだ。毎年、7月1日の山開きになると、本社に遷された石鎚毘古命は山頂の奥宮頂上社に戻されると言う。神仏習合の時代は、石鎚蔵王大権現は石鎚山と同化した不動の御神体であったと思うと、自分たちの都合に合わせた神様にも見える。

石鎚山の魅力は歴史的な霊場よりも自然の豊かさであって、南麓には国の名勝の面河渓かあって、石鎚山脈には瓶ヶ森(1,896m)、伊予富士(1,756m)、笹ヶ森(1,859m)の名山が連なる。面河渓から石鎚山登山口のある土小屋までは、約18㎞の石鎚山スカイラインが通じていて、石鎚山の山容が眺められる。土小屋からはUFOライン(瓶ヶ森林道)が高知県側の寒風山(1,763m)まで約27㎞も続き、「天空の道」とも称される絶景が続く。一般的な石鎚山への入山は、西条市から県道12号を入り石鎚山ロープウェイで成就社まで上ることになる。成就社(1,450m)には石鎚成就スキー場もあって、中腹の観光スポットとなっている。石鎚山は昭和2年(1927年)の「日本百景」、昭和35年(1960年)に出版された「日本百名山」に選ばれ、昭和58年(1983年)の「日本の自然100選」に面河渓が選ばれている。

石鎚山の初登山は平成22年(2010年)の3月下旬で、憧れの祖谷温泉で一夜を過ごした翌日の登山であった。平日の雨天とあって登山客は誰もおらず、1人ぼっちで奥宮頂上社に立った。しかし、山頂の天狗岳まで行くのを断念したのは、安全を最優先しての判断であった。2回目の登山は平成26年(2014年)の9月中旬で、四国八十八ヶ所霊場をクルマで遍路した時である。天気にも恵まれて4年前のリベンジを果たせた。前回は断念した天狗岳にも登り、やっと山頂に立った気分となった。3回目の登山は平成28年(2016年)の11月中旬で、土小屋登山口から初めて登った。天狗岳の紅葉が美しく、翌週にはUFOラインから瓶ヶ森、伊予富士、笹ヶ森と連登した。4回目の訪問は平成29年(2017年)の1月1日で、成就社に初詣をして石鎚成就スキー場でスキーを楽しんだ。温暖化の影響で四国のスキー場は人工降雪機なしの営業は無理なようである。それでも数㎝の積雪があって、良いコンデーションを滑ることができた。下山してから石鎚山の遥拝所でもある星ヶ森を訪ねて参拝した。成就社は石鎚神社の中宮なので、神社だけの初詣では片参りとなってしまう。そこで、四国八十八ヶ所霊場第60番札所である横峰寺の奥ノ院星ヶ森にも初詣した。星ヶ森は国の名勝でもあり、役小角行者と空海大師所縁の聖跡でもある。平安時代末期、空海大師を慕い四国行脚をした歌僧の西行法師(1118-1190年)は、星ヶ森で石鎚山の拝み歌を詠んでいる。富士山と石鎚山を同一化する感覚が西行法師のユニークさである。

「わすれては 不二かとぞ思ふ これやこの 伊予の高嶺の 雪の曙」 西行法師

③鳥海山  (訪問回数10回)

鳥海山は山形県と秋田県の日本海側にまたがり、標高2,236mは東北では燧ヶ岳の標高2,356mに次ぐ高さで、鳥海国定公園となっている。山頂とその一帯は江戸時代以来、山形県が独占していて、秋田県人には不本意と思われる状況が続いている。江戸時代の当時、山頂の所有権を争った際、譜代大名であった庄内藩(山形県)14万石と、外様大名であった矢島藩(秋田県)1万石の力の差が幕府の不当な判決となったのである。山域に県境はあっても山の景観に県境はないので、秋田県では「秀麗無比」と県民歌に歌われるほど親しまれている。山容が富士山に似ていることから「出羽富士」の別称があり、特に横手盆地から眺める景観が素晴らしい。富士山に宝永山があるように、鳥海山には稲倉岳がある。特に秋田県側に景勝地があって、奈曽の白滝は国の名勝、法体の滝は「日本の滝百選」に選ばれている。獅子ヶ鼻湿原は国の天然記念物に指定され、ブナの奇形樹「あがりこ大王」は「森の巨人たち百選」に選定された。鳥海山は古くから霊山と崇められ、山頂には鳥海山大物忌神社の本殿が建ち、山麓の吹浦と蕨岡に里宮がある。里宮は山形県側にあるが、秋田県側にも木境大物忌神社と森子大物忌神社が個別に鳥海山を御神体として祀っている。

鳥海山は高山植物の宝庫でもあって、チョウカイアザミやチョウカイフスマ、イワブクロの固有種が咲く。鳥海山の登山口は、山形県に5ヶ所、秋田県側に4ヶ所あるが、山形県側の湯ノ台口と吹浦口、秋田県側の象潟口と矢島口が主な登山口である。秋田県側の象潟口は鉾立口とも称され、鳥海ブルーラインの最高地点に位置し、登山客に最も多く利用される。名数に関しては、「日本百景」、「新日本百景」、「新日本観光地100選」、「日本の地質百選」に選ばれている。山の名数としては、「日本百名山」、「名峰百景」、「花の百名山」、「新日本百名山」、「百霊峰」、「日本の名峰50選」、「日本の山ベスト100」、「週刊ふるさと百名山」、「歴史の山100選」と、あげれば切がないほどの評価である。

鳥海山に初めて登ったのは昭和48年(1973年)の7月下旬で、それから令和3年(2021年)の5月初旬まで10回の登山を経験している。最初の登山はバイクで鉾立まで走行し、サンダル履きで友人と2人で観光した。鉾立の展望台で戻る予定であったが、3人連れの女性登山者と会話が弾み、登山装備もない手ぶらな姿で気が付いたら7合目付近まで登っていた。その先には雪渓があって、素足のサンダルではきつい登山となったが、何とか山頂の山小屋に女性たちと到着した。女性たちから缶詰を頂戴しての宿泊となったが、山の楽しさは20歳の胸に大きな影響を与えた。それから36年後、「日本百名山」の登山で初めて新山に立った。鳥海山は登山に限らず、春スキーの最高峰でもあり、矢島口の祓川からスキー板を担ぎ、標高2,229mの七高山まで登って行く。登りに要する時間は約3時間40分、標高差1,029m、コース距離4.5㎞を約30分で一気に滑るのである。眼下に日本海と象潟海岸、仁賀保高原を眺めながら滑るスキーは爽快そのものである。真夏でも残雪が残り、鳥海山でスキーをして象潟で水泳をすることも昔はあった。象潟と言えば、江戸時代の元禄2年(1689年)、『おくのほそ道』で象潟を訪ねた松尾芭蕉(1644-1694年)が鳥海山を眺めている。俳文には「南に鳥海天をささへ、その陰うつりて江にあり。」と記されている。

④鳥取砂丘  (訪問回数2回)

鳥取砂丘は鳥取県鳥取市にあって、山陰海岸国立公園の最西端に位置する。南北2.4㎞、東西16㎞、面積は5.45㎢(545ha)と日本最大級の海岸砂丘で、誰でも1度は訪ねたいと願う景勝地である。国立公園内でも最も重要な特別保護地区で、国の天然記念物にも指定されている。砂丘の面積に関しては、青森県の猿ヶ森砂丘が15㎢(1500ha)と日本最大であるが、防衛庁の下北弾道試験場となっていて一般人の立ち入りが禁止されている。鳥取砂丘は千代川の河口に発達した花崗砂岩の砂丘で、標高47mの「馬の背」の砂山と最大高低差90mの「すりばち」が素晴らしい。すりばちの斜面には、流れるように砂が崩れ落ちた形が簾を想起させることから砂簾とも呼ばれる。また、すりばちの最深部にはオアシスと呼ばれる地下水が湧き、常時乾燥したイメージと異なる場所もある。鳥取砂丘の魅力はもう1つ、風紋と呼ばれる筋状の模様が見られることで、風速5m前後の風によって形成される。

鳥取砂丘が観光地として注目される前は、砂塵に悩む住民のために防風林の植栽が行われ厄介者扱いされた時期がある。砂丘も日本のもつ自然景観の美しさの1つと認識され、事情が変わって行く。鳥取砂丘の入口にはレストハウスや土産店が並び、ラクダを飼育して観光客を乗せている。展望台のある砂丘センターには観光リフトが設置されて、砂丘へと観光客を運ぶ。百選の名数では、昭和41年(1966年)の「新日本旅行地100選」、昭和62年(1987年)の「新日本観光地100選」、平成17年(2005年)の「日本の夕日百選」、平成21年(2009年)の「平成百景」、平成21年(2009年)の「日本の地質百選」に選ばれた。

鳥取砂丘を初めて訪ねたのは昭和49年(1974年)6月の初旬で、ヒッチハイクしながら放浪の旅をしていた途中であった。この頃から砂丘のラクダは名物となっていたが、お金がなくて断念した記憶に残る。また、当時はカメラもなく、素晴らしい砂丘を両眼に焼き付けるだけであった。2回目の訪問は平成19年(2007年)の8月中旬で、写真に残せなかった景観を入念に撮影した。見晴らしの良い丘の上には、展望室を備えた砂丘センターが建っていて観光化が進んでいた。観光リフトは砂丘センターから砂丘に下って行くリフトで、上りの観光リフトに乗ったことはあったが、下りのリフトは初めての経験で少し驚いた。この日は天気も良く、ラクダに乗ろうと思ったが、行列ができていたので再び断念した。パラグライダーを楽しむ若者がいて、ハングライターをしていた経験もあったので羨ましく滑空を眺めた。馬の背に上り、すりばちに下りた後は、波音を聴くために海岸へと進む。海岸から眺める砂丘も格別で、鳥取砂丘の景観はあらゆる角度から眺めることに尽きる。

砂丘砂丘には何基かの歌碑が建っていて、小説家の有島武郎(1878-1923年)が大正12年(1923年)に訪ねた時に詠んだ歌碑もあった。「浜坂の 遠き砂丘の 中にして わびしき我を 見いでつるかな」と記されていた。それから40日後に有島武郎は、人妻だった婦人公論の記者と軽井沢の別荘で心中をする。自分をわびしい者と思った先には、人を巻き添えにした自殺が待っていたとは哀れな話である。有島武郎と親交のあった与謝野晶子(1878-1942年)は、7年後に夫の鉄幹と訪ねて、有島武郎の死を追悼した歌を詠んでいる。

「沙浜踏み さびしき夢に あづかれる われと覚えて 涙流るる」 与謝野晶子

⑤奥入瀬渓流  (訪問回数10回)

奥入瀬渓流は青森県十和田市の十和田湖東岸にある子ノ口から焼山まで流れる全長約14㎞の渓流で、十和田八幡平国立公園に属している。十和田湖とともに国の特別名勝及び天然記念物に指定され、「渓流の女王」と呼ぶに相応しい景観が連続する。両岸に迫る断崖から幾筋もの滝が奥入瀬渓流に流れ落ち、場所によっては激流となり、緩やかな流れもあって変化に富んだ流れを呈している。奥入瀬渓流は十和田湖から唯一流れる河川で、その水量は子ノ口の水門で制御されている。奥入瀬渓流には古くから遊歩道が整備されていて、明治時代の随筆家・大町桂月(1869-1925年)は、「住まば日本、遊ぱは十和田、歩きや奥入瀬三里半」と絶賛したように、奥入瀬渓流の魅力は歩かないことには味わえない。

水門の下流に向かっては、「万両の流れ」と「銚子大滝」、「九十九島」、「阿修羅の流れ」、「石ヶ戸の瀬」、「三乱の流れ」、「紫明峡」の名所が続き、奥入瀬に流れ入る12ヶ所の滝では、「雲井の滝」、「白糸の滝」、「千筋の滝」が優れている。また、奇岩の名所としては、「獅子岩」、「千両岩」、「天狗岩」、「馬門岩」、「屏風岩」、「石ヶ戸」、「不動岩」などがある。特別保護地区を過ぎた焼山からは、ホテルや旅館が点在し、十和田湖温泉郷と呼ばれていたが、最近では「奥入瀬渓流温泉」と名を変えているようだ。十和田湖畔にも十和田湖温泉があることから差別化を図ったようにも思える。特に1軒宿の蔦温泉が素晴らしく、大町桂月が終の棲家と定めた名湯である。名数では、昭和61年(1986年)の「日本八景」、昭和61年(1986年)の「新日本百景」、平成8年(1996年)の「残したい日本の音風景百選」、平成14年(2002年)の「日本遺産・百選」、平成21年(2009年)の「平成百景」、平成22年(2010年)の「日本の紅葉百選」に選ばれている。

奥入瀬渓流を初めて訪問したのは昭和46年(1971年) の7月中旬で、十和田湖を見物した後に渓流沿いを車で走行しただけである。奥入瀬渓流の三里半(約14㎞)を初めて歩いたのは昭和50年(1975年)の4月下旬で、約2時間半の時間を要したが、十和田湖の外周約51㎞を徹夜で歩くことに比べると易しい。特に石ヶ戸の岩屋には昔、美女の盗賊・お松が住んでいたとの伝説が残り、興味深く眺めたものである。その後も何度ともなく奥入瀬渓流を訪れ、新緑・盛夏・紅葉・氷瀑と春夏秋冬の渓流歩きを達成した。

奥入瀬観光の先駆けは、青森県三沢市の古牧温泉の創業者の杉本行雄(1914-2003年)氏が奥入瀬渓流グランドホテル、奥入瀬渓流第二グランドホテル、奥入瀬渓流温泉ホテル、現代湯治のやどおいらせ、奥入瀬渓流温泉青山荘、奥入瀬渓流観光センターなどを矢継ぎ早にオープンさせたことが大規模な開発となった。しかし、バブルの崩壊で経営に行き詰まり破綻する。その後、アメリカのゴールドマン・サックスグループが投資を決定し、星野リゾートに古牧温泉と奥入瀬渓流温泉ホテルの経営が委託されて今日に至っている。奥入瀬渓流には多くの文人が訪ねているが、大町桂月の他に有名なのは詩人の佐藤春夫、彫刻家で詩人の高村光太郎であろう。銚子大滝には佐藤春夫の詩碑が建っていて、十和田湖畔には高村光太郎の彫刻がある。奥入瀬渓流を世に広めた大町桂月は絶対的な文人であろう。

「世の人の 命をからむ 蔦の山 湯のわく処 水清きところ」大町桂月

⑥佐渡島  (訪問回数1回)

佐渡島は新潟県西部の日本海沖にある島で、面積は855.26㎢、海岸線の周囲距離は262.7㎞と、面積では北方の国後島(1,490㎢)を除くと日本では沖縄本島(1,207㎢)に次ぐ。島の全体が佐渡市となっていて、佐渡弥彦米山国定公園に指定されいる。秤に用いる分銅を引伸ばしたような地形をしており、大佐渡山地の大佐渡、田園地帯の国中平野、小佐渡丘陵の小佐渡の3地区に分かれる。大佐渡山地の最高峰は標高1,172mの金北山、小佐渡丘陵のピークは標高646mの大地山、国中平野には面積が4.85㎢の汽水湖の加茂湖がある。大佐渡には国の名勝の佐渡海府海岸と国の史跡の佐渡金銀山遺跡、小佐渡には国の名勝及び天然記念物の佐渡小木海岸と国の重要伝統的建物群保存地区の宿根木集落がある。そして、その上空を国の特別天然記念物であるトキが舞う光景は佐渡島最大の魅力である。

佐渡島は奈良時代より佐渡一国と認められるが、この時代から流刑地と定められて養老6年(722年)に万葉歌人の穂積朝臣老が始めて佐渡島に流罪となった。鎌倉初期の承久3年(1221年)に順徳上皇、鎌倉中期の文永8年(1271年)には日蓮聖人、鎌倉末期の正中2年(1325年)に日野資朝、室町時代の永享6年(1434年)に世阿弥などの貴族や知識人が流されて来た。その反面、流罪となった人々によって京文化がもたされ、日蓮宗が新たに広まり、能も佐渡の伝統芸能となった。鎌倉時代以降は佐渡国の守護は本間氏であったが、上杉謙信の侵攻によって滅ぼされた。この頃から銀の採掘が行われ、江戸時代になると金も多く採掘されて、江戸幕府は佐渡を天領として金山の利益を独占した。近年になると、観光地としての評価が高まり、昭和2年(1927年)の「日本百景」に加茂湖が選ばれ、昭和61年(1986年)の「新日本百景」に小木海岸が選ばれる。更に昭和62年(1987年)の「新日本観光地100選」、平成14年(2002年)の「日本遺産・百選」、平成21年(2009年)の「日本の地質百選」に佐渡金山と小木海岸が選ばれた。平成29年(2017年)には国の「日本遺産」として北前船の寄港地に認定され、ユネスコ世界文化遺産に佐渡金銀山の登録を目指しているようだ。

佐渡島には平成20年(2008年)の5月上旬に、2泊3日の強行軍で訪ねた。勤務先の金沢を出発して、直江津からフェリーで小木港へと渡った。当日は海潮寺、矢島・経島、佐渡国小木民俗博物館、宿根木、小木海岸、蓮華峰寺、真野御陵、佐渡国分寺、妙宣寺、根本寺、黒木御所跡、夫婦岩、七浦海岸などの小佐渡をめぐり、相川温泉の「旅館道遊」に泊った。翌日は佐渡金山跡、道遊の割戸、佐渡奉行所跡、相川郷土博物館、尖閣湾達者、尖閣湾揚島遊園、海府大橋、大野亀、二ツ亀、弾埼灯台、黒姫海上大橋、佐渡博物館、白雲台、大慶寺、トキの森公園、トキ資料展示館、両津郷土博物館、加茂湖と大佐渡を中心にめぐり、加茂湖温泉の「ホテル花月」に泊った。最終日は津神島、赤亀岩、弁天岩、鴻の瀬灯台、赤泊港、度津神社、佐渡植物園、海運資料館、佐渡考古資料館、沢崎鼻灯台などをめぐり、金沢に戻った時は車の走行距離が約800㎞となっていた。まさに強行軍の旅であったが、遊覧船で尖閣湾をめぐったことと、順徳上皇(1197-1242年)の黒木御所跡を訪ねたことが忘れられない。佐渡での順徳上皇の和歌なく、『小倉百人一首』から載録する。

「ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」 順徳院

⑦屋久島  (訪問回数1回)

屋久島は鹿児島県の大隅半島南南西約60㎞にある島で、面積は504.86㎢、海岸線の周囲距離は132㎞、円形に近い五角形をしている。島の全体が屋久島町となっていて、平成5年(1993年)にユネスコの世界自然遺産に日本で初めて登録され、平成24年(2012年)に霧島屋久国立公園から分離して屋久島国立公園となった。九州の最高峰である標高1,936mの宮之浦岳は「日本百名山」、宮之浦岳流水は「名水百選」、大川の滝は「日本の滝百選」、宮之浦川は「日本清流百選」と「日本百名谷」、「屋久島スギ原始林」は国の特別天然記念物、「ヤクシマカワゴロモ生息地」は国の天然記念物となっている。他にもジブリ映画『もののけ姫』に出てくる森のモデルは「白谷雲水峡」とされる。屋久島は大自然の宝庫であり、一般的な観光地とは趣が異なる。屋久島スギで最も有名な「縄文杉」を見物するには、往復22㎞、約11時間の本格的なトレッキングが必要で、普通の観光客が訪ねる場所ではない。

屋久島は中生代白亜期の頃までは海底にあったが、火山活動の地殻変動によって1500万年前に形成されたとされる。人が住むようになったのは約7000年前頃で、歴史に登場するのは飛鳥時代の遣隋使船、奈良時代の遣唐使船が寄港地とした時である。平安末期には平家の落人が定住した伝説もあって、室町末期には隣の種子島に鉄砲が伝来されている。江戸時代になると、薩摩藩の直轄地となって代官所が置かれた。明治時代になると屋久島の山林の殆どが国有林となり、神木でもあった屋久島スギの伐採が進められた。昭和期に入って林業が衰退すると人口も減少し、昭和35年(1960年)の約24,000人をピークに約14,000人まで減っている。しかし、世界遺産の知名度もあって移住者も多く、他の離島に比べると人口減少は極端ではないようだ。名数の百選では、昭和58年(1983年)の「日本の自然100選」、昭和61年(1986年)の「新日本百景」、平成13年(2001年)の「かおり風景100選」に照葉樹林と鯖節が選ばれ、平成21年(2009年)の「日本の地質百選」にも選ばれている。

屋久島には平成23年(2011年)の4月初旬に、「日本百名山」の登山で訪ねた。鹿児島市まで車で行き、南埠頭から高速艇で屋久島宮之浦港に到着した。初日は名残の松原や安房海岸を散歩して安房の民宿に宿泊した。翌日は安房からタクシーで淀川登山口まで行き、宮之浦岳を目指して登山を開始する。淀川小屋まで登ると夜も明け、清流の美しさに目を見張った。小花之江河からは湿原となっていて、更に投石湿原と続き、投石岩屋から先の登山道は残雪に覆われていたが、何とか宮之浦岳の山頂に立った。眼前には永田岳(1,886m)の荒々しい岩峰が屹立していて、宮之浦岳とは対照的な景観である。宮之浦岳からは残雪にコースを迷いながらも高塚小屋まで下山して安堵した。縄文杉やウィルソン株を眺め、トロッコのレールの残るコースを歩き、荒川登山口に到着したのは、登山開始から10時間27分後であった。その夜は居酒屋で祝杯をあげ、「ホテル縄文」に宿泊した。屋久島には尾之間温泉や楠川温泉もあって、もう1泊したかったが約24㎞も歩いた疲れがあって断念した。白谷雲水峡も眺めていないし、再度の訪島で叶えたいと願うだけである。屋久島とゆかりある人物としては、児童文学作家の椋鳩十(1905-1987年)がいる。その業績を顕彰した文学碑が湯泊温泉に建っていて、「感動は人生の窓を開く」と刻まれているようである。

⑧釧路湿原  (訪問回数1回)

釧路湿原は北海道釧路市・鶴居村・標茶町にある日本最大の湿原で、その面積は268㎢、その全域が釧路湿原国立公園に指定されている、また、日本で初めてラムサール条約の登録湿原となった。湿原の南北を釧路川が蛇行しながら流れ、その釧路川に沿うようにJR釧網本線が通っていて、湿原の東部にはシラルトロ湖、塘路湖、達古武湖が点在する。釧路湿原が現在の形になったのは約3,000年前で、その形成までは2万年近い年月があったとされる。釧路湿原の名物は鶴の一種である「タンチョウ」で、国の特別天然記念物に指定されている。タンチョウの繁殖地は湿原の全域にわたっているが、釧路市の丹頂の里にある阿寒国際ツルセンターと鶴居村の鶴見台でまじかに観ることができる。釧路湿原の展望台としは、南西に釧路湿原展望台、釧路湿原駅の付近に細岡展望台がある。更に北部にはコッタロ湿原展望台、シラルトロ展望台、サルポ展望台があるが、標高120mの岩保木山からは360°のパノラマ展望を楽しむことができる。

釧路湿原は古代の人類史も刻まれていて、釧路湿原展望台の側に国の史跡でもある北斗遺跡がある。旧石器時代から縄文時代、擦文時代(飛鳥時代から鎌倉時代後期)まで続いた遺跡で、史跡北斗遺跡展示館に出土品が展示されている。また、竪穴住居6棟が復元されていて、釧路湿原と共に暮らした人々の姿が目に浮かぶ。百選の名数には、昭和58年(1983年)の「日本の自然100選」、昭和61年(1986年)の「新日本百景」、平成8年(1996年)の「残したい日本の音風景百選」に鶴居の丹頂鶴サンクチュアリが選ばれ、平成14年(2002年)の「日本遺産・百選」、平成21年(2009年)の「平成百景」に選ばれた。

釧路湿原を訪ねたのは令和2年(2020年)の1月初旬で、北海道では最後に残った国立公園であった。釧路市内のビジネスホテルに2泊しての見物で、雪もなく車で入れる場所に殆ど進み見物した。初日は釧路湿原展望台に行き、壮大な樹海と湿原を眺めた。東には釧路川と湿原、北には樹海の上に阿寒三山が顔を出している。展望台の麓に北斗遺跡があることを知って訪ねると、ここにも展望台があって湿原が見渡せた。何よりも驚いたのは復元された6棟の竪穴住居の立派さで、窪んだ竪穴住居跡が386棟も発見されたと聞いて尚更驚いた、北斗遺跡からはタンチョウの姿を追って鶴見台、丹頂の里を訪ねたが、餌をついばむ様子は観察できたが、実際に飛んでいる姿を撮影しようと待って何とか数枚は撮れた。タンチョウの黒く細長い脚と尾、頭と首の一部が黒く他は白一色である。そのタンチョウがダンスでも踊るような仕草をした時は、微笑ましく思えた。翌日は細岡展望台に行き、湿原の核心部を眺めた。ここからも真白な阿寒三山が輝き、釧路川が蒼色の帯のように流れていた。その釧路川ではカヌーを楽しむ若者たちもいて、四季折々の川下りを楽しんでいるようだ。その脇を走る釧網本線は、1度は乗って見たい鉄道で、SLも運行されているようである。細岡からは達古武湖、塘路湖、シラルトロ湖と訪ねたが、観光客は全くおらず閑散としていた。釧路湿原の文学碑などは殆どなく、水森かおりの歌謡曲である「釧路湿原」の歌碑のみと聞く。石川啄木(1886-1912年)が釧路で詠んだ短歌が心に沁みる。

「しらしらと 氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の 冬の月かな」石川啄木

後書き

自分が旅した思い出を振り返りながらの『名数に見る日本の風景』は、その思い出を整理する意味でも重要な執筆となった。旅の関する名数に影響を受けたのは、その筆頭が「日本三景」と「日本三名園」であった。その後は「日本八景」や「日本十二景」と名数が増え、「西国三十三ヶ所観音霊場」や「四国八十八ヶ所霊場」と限りなく百名数に近付くことになる。百名数に関しては、「日本百名山」や「日本100名城」と際限もなく増えている。どんな基準で選定しているのか、疑わしく思う百名数もある。「日本百名山」は選定した作者の深田久弥氏の百名山であって、実際に踏破してみると相応しくない名山もある。そこで、「それぞれの百名山」があって良いと思う。「日本100名城」も弥生時代からアイヌの砦まで網羅しているが、城郭の基本理念は天守閣のある近世の城郭であると考える。古代の城郭、中世の城郭と分けて選ばなくてはならないだろう。

最終的に思うことは、百選を選ぶことに問題があって、それに振り回されて来た自分が哀れにに思う。ただ、それなりに評価されることが大切であって、無碍にもできないのが百選でもあった。宝島社から令和3年(2021年)に出版された『日本の歴史的名建築100選』の95ヶ所を回っているが、一般的な観光客が見学のできない建築もあって選定に疑問を抱いた。朝日出版社から令和2年(2020年)に出版された『日本の絶景ベストセレクト100』、交通新聞社から令和3年(2021年)に出版された『日本の絶景100』も同様で、観光客が容易に行けない景勝地も含まれている。八幡平のドラゴンアイ、赤城大沼のアイスバブルなどは季節が限定されていて、わざわざ見物に行く価値があるかどうかである。

ユネスコの世界遺産に認定された観光地は、日本が誇る名所旧跡、名勝史跡、天然記念物として評価できるものの、一時的なブームに終わった世界遺産も少なくはない。島根県の石見銀山遺跡や群馬県の富岡製糸場などは1度見学したものの、再び訪ねたいと思うほどの魅力はない。どんな観光地にもリピーターの存在は不可欠で、そのためには様々なイベントの企画が重要視される。世界遺産ともなれば海外からの観光客の注目度も高く、その期待に恥じないようなガイダンス施設も必要となる。施設はあっても機能していない例が多く、努力不足は否めない。そのためには、マスコットキャラクターの存在も不可欠で、デズニーランドの「ミッキーマウス」は不動の人気がある。彦根城の「ひこにゃん」や熊本県の「くまモン」は全国的に知られた。

観光地は流行にも左右されるもので、NHKの大河ドラマの影響もある。これも一時的なブームに終わってしまうケースが多く、長野県では六文銭の旗がたなびき、京都府で桔梗の旗指物が上ったは束の間の出来事であった。それでも注目されることが第一で、有名な観光地でもない城下町が賑わったことは意義があったと言える。今回の『名数に見る日本の風景』には実際に見物していなので選ばなかったのが、祭りに関する名数も多くある。「日本三大祭」には京都の祇園祭、大阪の天神祭、東京の山王祭及び神田祭が選ばれている。山王祭と神田祭は隔年に行われることから2つが選ばれているようだ。「新日本三大祭」には博多の祇園山笠、岸和田のだんじり祭、青森のねぷたが選ばれている。全国各地で開催される花火大会にも「日本三大花火大会」があって、秋田県の全国花火競技大会(大曲の花火)、茨城県の土浦全国花火競技大会、新潟県の長岡まつり大花火大会が選ばれている。しかし、観客動員数では、いずれもの花火大会も100万人以下で、100万人を超える花火大会としては、東京都の江戸川区花火大会、福岡県の関門海峡花火大会がある。

風景や観光の名数以外にも食に関する名数があって、本場を訪ねて味比べするのが良い。「日本三大ラーメン」は北海道の札幌ラーメン、福島県の喜多方ラーメン、福岡県の博多ラーメン。「日本三大饂飩」は秋田県の稲庭うどん、群馬県の水沢うどん、香川県の讃岐うどん。「日本三大蕎麦」は岩手県のわんこそば、長野県の戸隠そば、島根県の出雲そば。「日本三大素麺」は奈良県の三輪そうめん、兵庫県の播州そうめん、香川県の小豆島そうめん。「日本三大焼きそば」は秋田県の横手焼きそば、群馬県の太田焼きそば、静岡県の富士宮焼きそば。麺類以外には「駅弁御三家」があって、函館本線森駅のいかめし、信越本線横川駅の峠の釜めし、北陸本線富山駅のます鮨である。しかし、駅のホームで駅弁を販売する姿は消えて久しく、信越本線横川駅は北陸新幹線の開業に伴い廃止されてしまった。

名数に選ばれた中には消滅するものも多く、絶対的なものは存在しないだろうが、それでも旅先を選ぶ参考には欠かせない。名数ではないいけれど、令和4年(2022年)現在、世界自然遺産に登録された屋久島など5ヶ所、世界文化遺産の登録された法隆寺など19ヶ所は観光地の最高位とも言える。他に34ヶ所の国立公園、56ヶ所の国定公園も該当するが、その指定範囲が広く、絶景ポイントを絞れない問題点がある。自然景観に関しては、国の指定した名勝や天然記念物が大変参考になる。また、文化的な景観では国の指定した史跡や重要文化財は予備知識として知っていた方が良い。国の指定でも「日本遺産」は世界遺産の日本版で99件が認定されているが、どうも釈然としない選定である。「重要文化的景観」には71件が選ばれているが知名度が低く、評価できる内容ではない。その点、「伝統的建物群保存地区」に選ばれた126地区は、104地区を見学して来たが一定の評価ができる選定と思う。国の指定の中でも国宝建造物、特別名勝、特別天然記念物、特別史跡は最も重要な自然景観、文化遺産と言える。

日本の風景を総括する時、観光に対する価値や評価が変遷していることがあげられる。例えば、昭和時代は公害のイメージがあった全国の工場群は現在、夜景の人気スポットになっている地区もある。神奈川県の川崎工場夜景、三重県の四日市工場夜景、山口県の周南工場夜景は朝日新聞出版が令和3年(2021年)に出版した「日本の絶景ベストセレクト」に選ばれている。また、交通新聞社が令和3年(2021年)に出版した「日本の絶景100」には、愛媛県の三島川之江工場夜景、福岡県の北九州工場夜景が選ばれていて、カラフルな工場の照明が夜景の美観に対する評価を変えたのである。四季折々の花の景観に関しては、植栽された草花群の評価も高く、新たな観光地になっている例もある。北海道中富良野町のファーム富田、愛知県豊根村の茶臼山高原の芝桜、富山県朝日町のあさひ舟川は「日本の絶景」として称賛されている。新たな観光地を想像することが観光立国の未来である。

「美しい 日本列島 絶賛す 世界に誇る 富士と歴史を」 紫闇陀寂

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