紫闇陀寂
- 国宝建築の旅(前書き)
- 001中尊寺(平泉寺) 金色堂(光堂)
- 002 円覚寺 舎利殿(開山堂)
- 003蓮華王院 本堂(三十三間堂)
- 004清水寺 本堂
- 005慈照寺(銀閣寺) 銀閣(観音殿)・東求堂
- 006南禅寺 方丈
- 007教王護国寺(東寺) 金堂・五重塔・大師堂(西院御影堂)・蓮華門
- 008教王護国寺(東寺) 観智院客殿
- 009西本願寺 飛雲閣・唐門(日暮門)・能舞台・白書院・伝廊・黒書院
- 010豊国神社 唐門
- 011加茂御祖神社(下鴨神社) 東本殿・西本殿
- 012高山寺 石水院(五所堂)
- 013仁和寺 金堂
- 014北野天満宮 本殿・石之間・拝殿・楽之間
- 015東福寺 三門
- 016延暦寺 根本中堂
- 017醍醐寺 金堂・五重塔
- 018醍醐寺 三宝院表書院・唐門
- 019興福寺 東金堂・五重塔・三重塔・北円堂(八角円堂)
- 020東大寺 金堂(大仏殿)・南大門・転害門・鐘楼・開山堂・法華堂(三月堂) ・本坊経庫
- 021春日大社 本社本殿
- 022法隆寺 金堂・五重塔・中門・廻廊・大講堂・鐘楼・経蔵(経楼)
- 023法隆寺東室・聖霊院(豊聡殿)・西室・三経院・食堂・綱封蔵・西円堂・南大門・東大門
- 024法隆寺 東院(上宮王院)夢殿・伝法堂・鐘楼
- 025法起寺 三重塔
- 026松本城 天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓
- 027善光寺 本堂
- 028出雲大社 本殿
- 029姫路城 大天守・西小天守・乾小天守・東小天守・イロハの渡櫓・ニの渡櫓
- 030明王院 本堂(観音堂)・五重塔
- 031二条城 二之丸御殿
- 032大徳寺 方丈・唐門
- 033大徳寺 大仙院本堂
- 034広隆寺 桂宮院本堂(八角円堂)
- 035羽黒山 五重塔
- 036彦根城 天守・附櫓多聞櫓
- 037金剛峯寺(高野山) 不動堂
- 038平等院 鳳凰堂(阿弥陀堂)
- 039海住山寺 五重塔
- 040新薬師寺 本堂
- 041般若寺 楼門
- 042秋篠寺 本堂
- 043唐招提寺 金堂・講堂(旧平城京朝集殿)・鼓楼・経蔵・宝蔵
- 044薬師寺 東塔(三重塔)・東院堂(東禅堂)
- 045元興寺 極楽坊本堂・禅室
- 046長谷寺 本堂(大悲閣)
- 047室生寺 本堂(潅頂堂)・金堂・五重塔
- 048瑞巌寺 本堂(旧大方丈)・庫裏及び廊下
- 049大崎八幡神社 本殿・石之間・拝殿
- 050金峯山寺 本堂(蔵王堂)・仁王門
- 051当麻寺 本堂(曼荼羅堂)・東塔(三重塔)・西塔(三重塔)
- 052願城寺 阿弥陀堂
- 053日光東照宮 本殿・石之間・拝殿・唐門・陽明門(日暮門)・廻廊・透塀
- 054輪王寺 大猷院霊廟本殿・相之間・拝殿
- 055観心寺 本堂(金堂)
- 056根来寺 多宝塔(大塔)
- 057日吉大社 西宮本殿・東宮本殿
- 058園城寺 金堂・新羅善神堂・光浄院客殿・勧学院客殿
- 059石山寺 本堂・多宝塔
- 060加茂別雷神社(上加茂神社) 本殿・権殿
- 061大報恩寺(千本釈迦堂) 本堂
- 062浄瑠璃寺(九体寺) 本堂・三重塔
- 063宇佐神宮 本殿
- 064大浦天主堂(教会堂) 天主堂
- 065崇福寺 大雄宝殿・第一峰門
- 066鶴林寺 本堂(講堂)・太子堂
- 067石上神宮 拝殿・摂社出雲雄建神社拝殿
- 068住吉大社 本殿
- 069妙法院 庫裏
- 070知恩院 本堂(御影堂)・三門
- 071犬山城 天守及び東西附櫓
- 072有楽苑 如庵
- 073西明寺 本堂(瑠璃殿)・三重塔
- 074金剛輪寺 本堂(大悲閣)
- 075永保寺 観音堂(水月場)・開山堂
- 076善水寺 本堂
- 077常楽寺(西寺) 本堂・三重塔
- 078長寿寺(東寺) 本堂
- 079御上神社 本殿
- 080苗村神社 西本殿
- 081宝厳寺 唐門
- 082都久夫須麻神社(竹生島神社) 本殿
- 083円成寺 春日堂・白山堂
- 084霊山寺 本堂
- 085宇治上神社 本殿・拝殿
- 086法界寺 阿弥陀堂
- 087明通寺 本堂(薬師堂)・三重塔
- 088宇陀水分神社 本殿
- 089金剛三昧院(高野山) 多宝塔
- 090栄山寺 八角堂
- 091瑞龍寺 法堂・仏殿(本堂)・山門
- 092飛騨安国寺 経蔵
- 093仁科神明宮 本殿・中門
- 094大法寺 三重塔
- 095安楽寺 八角三重塔
- 096石手寺 仁王門(二王門)
- 097太山寺 本堂
- 098本山寺 本堂
- 099浄土寺 本堂・多宝塔
- 100厳島神社 客神社(摂社)本殿・幣殿・拝殿・祓殿
- 101厳島神社 本社本殿・拝殿・幣殿・祓殿・東西回廊
- 102吉備津神社 本殿・拝殿
- 103旧閑谷学校 講堂
- 104一乗寺 三重塔
- 105三佛寺 奥ノ院(投入堂)
- 106瑠璃光寺 五重塔
- 107富貴寺 大堂(阿弥陀堂)
- 108上醍醐寺 清滝宮拝殿・薬師堂
- 109朝光寺 本堂
- 110妙喜庵 書院及び茶室(待庵)
- 111大笹原神社 本殿
- 112不動院(安国寺) 金堂
- 113向上寺 三重塔
- 114功山寺 仏殿
- 115住吉神社 本殿
- 116神魂神社 本殿
- 117大宝寺 本堂
- 118神谷神社 本殿
- 119豊楽寺 薬師堂
- 120浄土寺 阿弥陀堂
- 121太山寺 本堂
- 122歓喜院(妻沼聖天山) 聖天堂(御本殿)
- 123正福寺 千躰地蔵堂
- 124青井阿蘇神社 本殿・廊・弊殿・拝殿・楼門
- 125善福院 釈迦堂
- 126慈眼院 多宝塔
- 127孝恩寺 観音堂
- 128長弓寺 本堂
- 129十輪院 本堂
- 130鎫阿寺 本堂(大御堂)
- 131玉陵 墓室・石牆
- 132清白寺 仏殿
- 133旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)
- 134櫻井神社 拝殿
- 135金蓮寺 阿弥陀堂
- 136大徳寺 龍光院書院
- 137八坂神社 本殿
- 138光明寺 二王門
- 139石清水八幡宮 本殿(内殿及び外殿)・幣殿及び舞殿・東門・西門・楼門など10棟
- 140久能山東照宮 本殿・石ノ間・拝殿
- 都道府県別の国宝建築と国宝指定年
- 世界文化遺産リスト
国宝建築の旅(前書き)
国宝建築との最初の出会いは、小学6年生の時に修学旅行で行った松島の瑞巌寺庫裡であった。何となく見ただけで、五大堂ほどの印象は残っていなかった。しかし、鎌倉の絵葉書を近所の兄さんから貰って、円覚寺舎利殿の杮葺きの仏殿には強い憧れを抱くようになって大人になったら必ず見物に行こうと志した。
17歳の春、取りあえず自分の住んでいる秋田県平鹿町から遠くもない、平泉の寺院を巡ったのが「国宝建築の旅」の最初であった。あれから半世紀、50年の歳月を要し、「国宝建築の旅」も光明寺二王門の見物をもって完結する日を迎えた。この旅を記念して、上梓したのがこの紀行文である。旅行の当初は、国宝建築をめぐると言う目的はなく、著名な城郭・寺院・神社を見て回ることに主眼が置かれた。その結果として国宝や重要文化財の古建築を見物していることに気が付き、その訪問を意識するようになったのは50歳を過ぎた頃であった。何と言っても老後の楽しみとしていた「厳島神社」の国宝建築群を見て、歴史的景観の尊さを感じ得たことである。
平成24年(2012年)の春、東京に「スカイツリー」が完成して、マスコミや人々の関心はそこに目が向けられた。これは民間の建造物であるが、平成のシンボルタワーであり、昭和の東京タワーから数えると、54年を経ている。かつての日本にも、その時代を代表するような建築物があった。特に東寺(教王護国寺)の五重塔は、高さ55mと木造建築としては日本一高い。新幹線で京都を通過する時、ビルの谷間に浮かぶ五重塔に自然と目が向く。
古墳時代には、日本最大の大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)があり、飛鳥時代は法隆寺五重塔、奈良時代は東大寺大仏殿と、古代国家の一大プロジェクトであり、その時代のシンボルタワーであった。平安時代には、法勝寺の六角九重塔が日本最高の木造建築があり、鎌倉時代には、鎌倉大仏殿が建立された。現在は金銅の大仏像(阿弥陀仏坐像)しか残っていないが、創建当初は東大寺の大仏殿と同様に上屋があったようだ。
安土時代には織田信長が日本最初の天守閣を建て、その権力と想像力を誇示した。その後を担った豊臣秀吉は大阪城を、徳川家康は江戸城を建てている。神社仏閣や城郭の高層建築には、それぞれの時代の意匠と創意が施され、施主や設計者の個性、大工や左官など職方の巧みな技術が見えて来る。
平成10年(1988年)の時点において、国宝建造物には209件の寺院や神社、城郭などが指定されている。その中でも単独の世界文化遺産に登録された法隆寺、姫路城、厳島神社は特別な価値があり、未来永劫に残さなければならない建造物である。
最近、私の住む東北は、かつてないほどの地震と津波、そして原発事故によって未曾有宇の被害がもたらされたが、中尊寺を含めた「平泉」が世界文化遺産に登録されてことが明るいニュースの一つとなった。「国宝建築の旅」は、最初に訪れたその中尊寺の印象から随筆し、国宝ではないけれど世界文化遺産に登録された白川郷や首里城などの建物も紹介して結びとしたいと考えている。私の人生の50年間は、国宝建造物との出会いであり、日本史にはまった者にとっては忘れられない旅の思い出でもある。
001中尊寺(平泉寺) 金色堂(光堂)
訪問年: 昭和46年06月16日(水)・昭和60年07月21日(日)・平成05年04月05日(月)
所在地: 岩手県磐井郡平泉町
創建者・施主: 円仁(開山)、藤原清衡
建築年: 1124年(天治元年)
様式・規模: 単層宝形造り本瓦形板葺・桁行3間×梁間3間 30.0㎡
世界文化遺産(複合)
中尊寺は平安時代初期の嘉祥3年(850年)に、慈覚大師円仁によって創建され、奥州の覇者となった藤原清衡が再興した。その再興には約21年間の歳月を要し、金色堂が建立されたのは天治元年(1124年)である。清衡公は金色堂の他に三重塔も建立しており、建武4年(1337年)に野火によって消失してしまったようだ。当時の遺構は、金色堂と経堂だけであり、堂塔40余宇、僧坊300余宇を誇った中尊寺にとっては貴重な建物である。
金色堂は方三間の小さな堂宇ではあるが、宇治の平等院鳳凰堂、豊後高田の富貴寺大堂と並び「日本三建築」と称されている。堂内の須弥壇は荘厳の極みであり、巨大な宝石を見ているようである。天蓋から柱にいたるまで金蒔絵や螺鈿が施され、極彩色の浄土を具現しようとしたと考えられる。
清衡の時代は、諸国に末法思想が蔓延り、その救いをもとめて浄土信仰が流行した。清衡は現在の毛越寺に、京の都をも凌ぐ大浄土庭園も造営しており、金色堂と同様にその卓越した美意識を強く感じる。毛越寺庭園は、庭園の国宝とも言うべき、国の特別名勝に指定されており、景勝地も含めると東北では松島のみである。
金色堂の須弥壇には、清衡・基衡・秀衡の三将三代の棺と、源頼朝によって打ち取られた四代泰衡の首級が安置されているので、霊廟と呼んだ方が正しいと思うが、そうなれば一般公開されていなかっただろう。
平安末期、源平両氏の戦禍で消失した東大寺大仏殿の再建のため、平泉を訪れた歌聖・西行法師は、金色堂の輝きが消失しないように願ったに相違ない。鎌倉時代の正応元年(1288年)、6代鎌倉将軍・惟康親王の命によって金色堂に鞘堂が建てられて、金色堂は保護されることになった。その鞘堂は現在、重要文化財として離れた場所に残っているが、鉄筋コンクリートに覆われた現在の鞘堂には一抹の寂しさを感じる。鞘堂も含めて覆った方が価値観も高まっていただろうに。
俳聖・松尾芭蕉は、元禄2年(1689年)に「おくのその道」の行脚の途中、金色堂を訪ねている。その時の印象を芭蕉は、上屋のある光堂だけは五月雨が降り注がない様子を、五月雨が遠慮でもしているように詠んでいる。
「五月雨の 降りのこしてや 光堂」 芭蕉
私も「奥の細道」を自転車で踏破した折、中尊寺金色堂に三回目の拝観を果たしたが、芭蕉翁には畏れ多くて、短歌を詠めなかった。
002 円覚寺 舎利殿(開山堂)
訪問年: 昭和48年03月04日(日)・平成02年07月29日(日)・平成19年10月13日(土)
所在地: 神奈川県鎌倉市
創建者・施主: 無学祖元(開山)、北条時宗
建築年: 1285年(弘安8年)
様式・規模: 一重裳階付入母屋造り柿葺・桁行3間×梁間3間 66.1㎡
鎌倉を初めて訪ね円覚寺の舎利殿に目にしたのは、新聞配達のアルバイをしながら代々木のとある予備校に入ろうとした18歳の時であった。あれから記憶に残るだけでも3回は拝観している。子供の頃から憧れていた堂宇だけに、感慨深く眺め続けた。
円覚寺は鎌倉幕府の執権・北条時宗が、弘安5年(1282年)に建長寺の住持・仏国国師無学祖元に開山させた寺である。その時に建立されたのが現在の舎利殿と思われていたが、永禄6年(1563年)まで円覚寺は三度の火災に遭っている。その後の調査で、鎌倉にあった太平寺(尼寺)の仏殿を移築したと聞く。いずれにしても宋国より伝えられた禅宗様式の仏殿であり、関東最古の建築物でもある。
横須賀線の北鎌倉駅を降りて間もなく、円覚寺の石段の上に建つ重層の大きな山門がひと際目を引く。山門(三門)は、寺院の規模を現す顔でもあり、臨済宗円覚寺派の大本山に相応しい大きさである。本堂にあたる仏殿(大光明宝殿)は、寺院の心臓部でもあるが、関東大震災で倒壊し、昭和38年(1963年)に鉄筋コンクリートで再建された。
舎利殿は仏殿の奥にひっそりと建っているが、一見すると重層の建物にも見える。実際は疑似屋根の裳階付で、唐様式独自の意匠を踏襲している。柱は全部で34本立っていて、その14本が母屋を支えているようだ。正面にはアーチ形の花頭口を作り、その両側に花頭窓が設えてある。
堂内は一度も拝観したことはないが、雑誌の写真を見る限り、柱の上下が急に細くなる粽
なども禅様式の見本を見るような建物である。大陸から仏教が伝来された大和時代から平安時代初期までは、中国様式が重要視されたが、菅原道真の提言によって遣唐使船が廃止されてからは和風様式の時代が鎌倉時代まで続く。
中国の宋朝がモンゴルの侵略によって滅亡の危機を迎えた時に、禅宗とその様式の多くは渡来僧と共に日本に渡った。その禅風に帰依したのが北条時頼・時宗の父子である。時頼は建長寺を創建しているが、鎌倉大仏の建立にも貢献したようだ。
奈良や京都と共に、鎌倉は「古都」と称されて絶対的な観光地となっているが、江戸時代の中頃までは、忘れられた存在であったと聞く。初代将軍・源頼朝と3代将軍実朝父子の創建した大寺院は滅んでいるのに、北条時頼と時宗の父子の創建した寺院は、現在も臨済宗の大本山として存続している。円覚寺舎利殿はその象徴でもあり、貴重な歴史遺産である。時頼は庶民的な逸話を残した人で、『可笑記』に和歌が記されていた。
「いくたびか 思ひさだめて 変わらん 頼むまじきは 我が心なり」 時頼
003蓮華王院 本堂(三十三間堂)
訪問年: 昭和48年08月29日(水)・平成04年01月01日(水)
所在地: 京都府京都市東山区
創建者・施主: 最澄(開山)、藤原為光(開基)、後白河上皇(発願)、平清盛
建築年: 1266年(文永3年)
様式・規模: 単層入母屋造り本瓦葺・桁行35間×梁間5間(111.2m×16.4m) 1943.5㎡
世界文化遺産(複合) 古都京都の文化財
京都国立博物館を見学してから三十三間堂を参詣したが、その建物の長さには大変驚いた。しかし、堂内に入り、内陣に安置された1,001体の千手観音立像の群像を目にした時は、胆を潰されるような思いを感じた。建物の造形美よりも仏像に価値があり、多少なりとも仏像に関心を寄せる契機となった。
蓮華王院は伝教大師最澄が延暦寺の一坊として草創し、永延2年(988年)に藤原為光が法住寺の一院として創建したと言われるが、明らかではないようである。実際は平安末期の長寛2年(1164年)、後白河上皇が平清盛に命じて新千体堂を建立したのが蓮華王院の起源であるようだ。建長元年(1249年)の大火で焼失したが、直ちに再建されて文永3年(1266年)に完成したのが現在の本堂である。
昔の建物は、桁行の柱の数で何間かと呼んでいたようで、その柱が33あったことから三十三間堂と称されている。現在の1間は約1.8メートルであり、実長から換算すると約62間に相当するので、如何に長い建物であるかが分かる。東大寺の大仏殿は世界最大の木造建築物であるのに比して、三十三間堂は世界一長い木造建築物とされているので、その存在は日本の至宝とも言える。共に世界文化遺産に登録されていることは、とても意義深いことであり、世界の財産として守られることも願いたい。
この頃の日本は、和様式の建物が多く建築され、この三十三間堂はその代表的な例と言える。入母屋屋根の破風(庇)は小さく深く、その先端が反り上がっていて、その下の四方に広縁(板縁)をめぐらしているのが特徴だ。千体仏堂と称する三十三間堂のような建物は、鳥羽上皇が得長寿院にも建てていて、江戸時代には江戸の深川にも建っていたそうだ。五百羅漢や千体仏など数の多いことを誇った時代の風潮があったから、このような建物まで造らせたのだろう。
三十三間堂はまた、江戸時代に通し矢が盛んに行われたことで名高い。南端の広縁から北端まで弓で矢を射通すのであるが、本堂の貞享3年(1686年)に紀州藩の武士が8,133本を射止めたようである。その業績を称える掲額が、絵馬風に奉納されていた。貞享3年と言えば、我が心の師である松尾芭蕉翁が、江戸の深川で不朽不滅の名句、「古池や蛙飛こむ水のおと」を得た時であり、通し矢の故事と共に思い起される。
明治の文豪・夏目漱石も三十三間堂を訪れて、その堂の長さに驚いたようで、「日は永し 三十三間 堂長し」と詠んでいるが、翁に比べると言葉遊びの域を出ていない。
004清水寺 本堂
訪問年: 昭和48年08月30日(木)・昭和62年01月29日(木)・平成04年01月01日(水)
所在地: 京都府京都市東山区
創建者・施主: 延鎮(開山)、坂上田村麻呂(開基)、桓武天皇(発願)、徳川家光
建築年: 1633年(寛永10年)
様式・規模: 一重裳階付単層寄棟懸造り桧皮葺・桁行9間×梁間7間 1076.4㎡
世界文化遺産(複合) 古都京都の文化財
京都を最初に訪ねたのは、放浪の旅に出た19歳の夏であった。京都駅前のホテルに住み込み、皿洗いのアルバイトを始めたのである。勤務時間が朝と夜だけであったために、日中は毎日が日曜日であった。京都の観光を目的にしていただけに、打ってつけの仕事であり、3ヶ月ほど滞在した。その折、清水寺を初めて参拝して本堂を拝観した。
清水寺は延暦17年(798年)に、征夷大将軍・坂上田村麻呂が笹置山にあった観音堂を移して、その住僧・延鎮が開基したそうだ。延暦24年(805年)に桓武天皇の勅願寺となり、清水寺と称したとそうだ。それ以降の清水寺は、比叡山延暦寺から度々焼かれたこともあったが、京都における法相宗の大寺院として繁栄を維持して来た。
私が訪れた頃は、まだ路面電車が京都駅から走っていて、清水寺にも路面電車を利用して清水坂の参道を歩いた。仁王門から三重塔などの諸堂を拝して境内を行くと、本堂の桧皮葺の大きな屋根が見えて来る。その柔らかな曲線の美しさに、脱帽するだけであった。
本堂は寛永10年(1633年)に、徳川家光が支援して再建されたが、宮殿風の寝殿造りは奇抜な意匠であり、その懸造り(舞台造り)の軸組は珍しい構造であった。誰の設計(指図)によるものか知らないが、釘一本も使ってない楔だけの接合であり、この本堂を超える舞台造りの木造建物は、二度と造られることはないだろう。東大寺の大仏殿も江戸時代に再建されているが、建築技術の伝統が途絶えたために創建当初の三分の二のスケールに縮小されたと聞く。日本最大の懸造りの本堂が、大仏殿のようにならないことを願いたい。
この本堂は、「清水の舞台から飛び降りる気持ち」と言う諺で有名であるが、実際に舞台に立って見ると、その高さと谷間の景観に絶句する。舞台の正面から見ると、左右に翼廊と呼ばれる入母屋の張出しがあり、東北西に裳階が付いている。内陣は密教的な様式で、33年に一度開帳される秘仏・十一面千手千眼観音菩薩立像が安置されている。そのためか、西国三十三ヶ所観音霊場の主要な寺院であり、現在も白衣を纏った巡礼者が後を絶たない。
本堂から阿弥陀堂や釈迦堂、奥ノ院へと進み、音羽ノ滝の至ると、本堂の景観が一望できる。私は拝観料を出し渋って、3度しか音羽ノ滝まで至っていないが、平成4年の元日に訪ねた時、桧皮葺きの屋根が雪化粧していて、その美しさに固唾を呑んだこともあった。
私が尊敬する松尾芭蕉の弟子に服部嵐雪という俳人がいたが、その人の句に「蒲団着て寝たる姿や 東山」という名句がある。清水寺の本堂を眺めていると、膝を立てて寝ている人の掛け布団の形にも見え、嵐雪の句が違った意味で脳裡に蘇る。
005慈照寺(銀閣寺) 銀閣(観音殿)・東求堂
訪問年: 昭和48年09月03日(月)・平成04年01月01日(水)
所在地: 京都府京都市左京区
創建者・施主: 明救(開基)、足利義政
建築年: 銀閣1489年(延徳元年)、東求堂1486年(文明18年)
様式・規模: [銀閣]二層宝形造り柿葺・東面・西面8.2m×北面7.0m×南面5.9m 48.9㎡、[東求堂]単層入母屋造り桧皮葺・桁行6.9m×梁間6.9m 47.9㎡
世界文化遺産(複合) 古都京都の文化財
京都の来た当初、銀閣寺よりも金閣寺に目が眩んで、最初に訪ねたのは金閣寺あった。金閣寺の金閣は昭和25年(1950年)まで国宝として残っていたが、寺僧の放火によって惜しくも消失してしまった。その放火の経緯は、三島由紀夫の『金閣寺』の小説で知られることになるが、それでも5年後には再建されて現在は世界文化遺産となっている。
銀閣寺は金閣寺の二番煎じと言う感じもするが、庭園を含めた銀閣寺の景観は、金閣寺を凌いでいると考える。銀閣寺は室町幕府8代将軍・足利義政が、文明15年(1483年)に東山殿の山荘を営み、文明18年(1486年)に東求堂が建てられ、延徳元年(1489年)に観音殿が建てられている。義政はその翌年に死去し、東山殿は慈照寺という寺に改められ今日に至る。
銀閣寺は3代将軍・足利義満の造った北山殿(金閣寺)とよく比較されるが、その意匠や仕様は好対象である。金閣の建物は舎利殿であり、二層目と三層目の内外面を金箔で覆っていることから金閣の名が定着したようだ。銀閣は銀箔が張られている訳ではないのに、金閣の後に建てられたことから銀閣と呼ばれるようになったようだ。
外観や庭を含めた景観についても、金閣は寝殿造りの平安王朝的な明るさがあるのに対し、銀閣は禅的な厳しさと侘を感じさせる。また、金閣は三層であるが、銀閣は二層であり、下層が書院造りの心空殿、上層が観音造りの潮音閣となっている。
本堂の東端には、入母屋造り東求堂が建っていて、庭園を挟んで銀閣と相対しているようにも見える。この東求堂は、義政の書斎を兼ねた仏持堂として銀閣より数年早く建てられている。優雅な書院造りでもあり、妻・日野富子との不和から孤独な立場となった頃で、心の安らぎを求めようと建築されたと思う。
義政は将軍としては、義満ほどの度量はなかったようであるが、高貴な文化人としは一流のセンスがあり、東山文化の創始したことは意義深い。東山殿は造営にあたっては、臨済宗の名僧・夢窓国師疎石が残した西芳寺(苔寺)の手本にしたようで、東求堂は西来堂、銀閣は瑠璃殿を模しているようだ。
銀閣寺は国宝の建物だけではなく、庭園も国宝級であり、国の特別名勝にも指定されている。この庭園も西芳寺を参考にしたようで、竜背橋は邀月橋に倣っているようだ。建物が美人の容姿であれば、庭園はその衣裳であり、建物と庭園のバランスが美を極める。
「わが庵は 月待山の ふもとにて かたふくそらの かけをしそおもふ」 義政
006南禅寺 方丈
訪問年: 昭和48年09月03日(月)・平成04年01月02日(木)・平成16年03年13日(土)
所在地: 京都府京都市左京区
創建者・施主: 無関普門(開山)、亀山法皇(開基)、崇伝(中興)
建築年: 1611年(慶長16年)
様式・規模: 単層入母屋妻入造り柿葺・496.0㎡
銀閣寺橋から若王子橋まで至る1.8キロの小道が「哲学の道」という散策路になっている。私はこの道が好きで、何度となく歩いたが、その道を過ぎて最後に至るのが南禅寺であった。南禅寺の国宝の建物は方丈のみであるが、方丈庭園や三門、水路閣など魅力のある名所も多く、夕暮れまで過ごしたものである。
南禅寺の創建は、鎌倉時代の正応4年(1291年)、亀山上皇(法皇)が無関普門に帰依して離宮(禅林寺殿)を寺に改めたことに始まる。室町時代には京都五山の第一位を誇り、七堂伽藍が整っていたようであるが、数度の大火や応仁の兵火によって全焼した。江戸時代の初期、金地院崇伝(円照本光国師)が幕府の政僧として活躍してから諸堂が再建された。
法堂(仏殿・本堂)の奥にある方丈の建物は、方丈庭園を挟んだ大方丈と小方丈の二棟からなる。大方丈は後陽成天皇から旧清涼殿を賜わって移築したものと言われ、寝殿造りの美しい建物である。小方丈は伏見城(桃山城)の遺構である小書院の移築とされるが明らかではないようだ。小方丈の虎の間には、狩野探幽の「水呑の虎」の襖絵があり、見たこともなかった虎の様子をよく描いている。いずれの方丈も薄く切った木の板を重ねて屋根を葺いた杮葺きであり、最も美しい屋根の仕上げだと私は思う。
南禅寺には、小堀遠州の作と伝わる方丈庭園以外にも優れた庭園が塔頭の南禅院と金地院にある。南禅院庭園は夢窓国師の作と伝わる名園で、金地院庭園は小堀遠州の力作であり、国の特別名勝に指定されている。小堀遠州は江戸初期、普請奉行の役人として活躍し大名となった人で、茶人としても名を馳せている。
私の寺院めぐりは、各宗派の総本山や大本山を参拝すること第一に考えているが、南禅寺も臨済宗十五派の大本山であり、禅様式の伽藍配置も規模が大きい。東山を背に西向きに、勅使門・三門・法堂・方丈の堂宇が直線上に建っている。中でも三門は、歌舞伎の「桟門五三桐」で大盗賊・石川五右衛門が大見得を切ることで有名である。しかし、三門は寛永5年(1628年)に、藤堂高虎が大阪夏の陣で亡くなった武士の菩提を弔うために再建したもので、五右衛門の死後30年ほど後のようだ。
私も三門の楼上に一度立ったことがあるが、ホテルやビルの建物に遠方の視界が遮られ、絶景というほどの眺めではなかった。絶景を世に広めた石川五右衛門と言えば、「石川や浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」の一首を思い出す。真砂は消えて無くなっても、泥棒は永遠に尽きることはないと、後世の人が詠んだものだと思うが、南禅寺の三門は五右衛門の名に盗まれたのは明らかのようだ。
007教王護国寺(東寺) 金堂・五重塔・大師堂(西院御影堂)・蓮華門
訪問年: 昭和48年09月30日(日)・昭和62年02月02日(月)
所在地: 京都府京都市南区
創建者・施主: 桓武天皇(発願)、空海(開基)、豊臣秀頼・徳川家光
建築年: 金堂1603年(慶長年)、五重塔1644年(正保元年)、大師堂1380年(天授6年)、蓮華門1274年(文永11年)
様式・規模: [金堂]一重裳階付単層入母屋造り本瓦葺・桁行5間×梁間3間 604.7㎡、[五重塔]五重塔婆本瓦葺・高さ54.8m 一辺9.2m、[大師堂]向拝付単層入母屋造り本瓦葺・桁行7間×梁間4間 604.7㎡、[蓮華門]単層切妻造り本瓦葺・3間1戸八脚門 65.9㎡
世界文化遺産(複合) 古都京都の文化財
新幹線の車窓から東寺の五重塔を幾度となく眺め、いずれは訪ねたいと思っていたが、東寺だけを訪ねる事に躊躇をしていた。そんな時、弘法大師空海の書物を読んで急ぎ参拝したのは、京都に来て2ヶ月近くが過ぎようとした頃である。
東寺(左大寺)は平安遷都の折、桓武天皇が大納言・藤原伊勢人に命じて延暦15年(796年)に建てられたと言う。新都の羅生門を挟んだ東西に、防衛を兼ねた官寺として西寺(右大寺)も建てられているが、平安京の遷都が安定すると自然消滅したようである。
時代が桓武天皇の世から平城天皇を経て、嵯峨天皇の世になった弘法14年(823年)、東寺は弘法大師空海に下賜されて、承和6年(839年)に開眼供養を行い真言密教の根本道場となった。その寺名は、「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と言う長い寺名となったが、略して教王護国寺と称された。それでも長いので、一般的に東寺の名で呼ばれることが多い。
現在の東寺の大建築は、関ヶ原の合戦後に再建されたもので、金堂は豊臣秀頼が、五重塔は徳川家光が寄進している。金堂は桃山時代の様式を残した仏堂で、創建当時の礎石の上に建てられたようだ。堂内は空海が安置した仏像が、国宝や重要文化財として多数残っており、高野山に次ぐ大師信仰の聖地として崇められている。
東寺で最も注目すべきは五重塔であり、木造の建築物としては日本一の高さを誇る。日本最古の法隆寺五重塔と比べて見ると、屋根の庇が五層とも同じ大きさであり、下層から上層にかけて小さくなって行く構造とは異なり、建築技術の変化が見られる。また、東寺の五重塔には裳階がなく、純和様式の塔となっている。塔と言えば、京都駅前には京都タワーが聳え建っていて、シンボルタワーとなっている。それまでは東寺の五重塔がシンボルタワーであり、現在の塔は七度目の再建と聞き、庶民がいかに重要視していたことか。
大師堂は西院の中心的な建物で、かつては大師の住房跡とされた場所に再建された。創建 当初は不動明王像を祀っていたが、大師像が安置されてから大師堂となった。住宅風の寝殿造りで、古式ゆかしく厳格な諸堂を見て来た後だけに安らぎを感じさせる堂宇である。蓮華門はゆっくりと見る時間はなかったが、大師の道歌を諳んじて次へ進んだ。
「悪ししとも 善しともいかで 言い果てん 折々かわる 人の心を」 空海
008教王護国寺(東寺) 観智院客殿
訪問年: 昭和48年09月30日(日)・昭和62年01月29日(木)
所在地: 京都府京都市南区
創建者・施主: 杲宝(開基)、後宇多天皇
建築年: 1605年(慶長10年)
様式・規模: 唐破風付単層入母屋妻入造り銅板葺・桁行7間×梁間5間(13.7m ×12.7m) 190.0㎡
世界文化遺産(複合) 古都京都の文化財
東寺は官立の護国寺であると共に真言宗東寺派の総本山で、真言宗十八本山の一つでもある。真言宗の開祖・弘法大師空海の入滅した高野山が真言宗の聖地であるのに対し、東寺は京都における真言宗布教の殿堂とも言える。
私は日本の名僧の中で、大師ほど卓越した才能をもった人物はいないと思う。ある時は水道土木技術者、ある時は医師、ある時は書道家、ある時は小説家、ある時は教育者、ある時は祈祷師、ある時は乞食僧、そして大僧正と、様々な職業人に身を変えては人々を支えている。庶民を対象にした世界初の私立大学「綜芸種智院」を創設し、手に職を持つことの尊さを教育した。しかし、大師の教育理念は資金面で行き詰まり、長くは続かなかったものの、現在は「種智院大学」として東寺の近隣に建っていた。
北大門の北には、東寺の塔頭(子院)でもある観智院があり、本殿と書院、客殿の堂宇が建っていた。観智院は弘安年間(1278~1288年)に、御宇多天皇によって創建されたそうで、国宝に指定された客殿は、慶長10年(1605年)に再建されている。客殿は来客を持て成す建物であり、玄関口が唐破風の庇となっているのは定番のようだ。由緒ある神社仏閣では、賓客の出入りする門に唐破風が多いのも、格式を高めるためであろう。
客殿の間取りは、主室と付書院の他に居間や納戸もあって、僧侶の住房の役割も兼ねている。鷲や竹林を描いた襖絵は、剣豪・宮本武蔵の作と伝わり、武蔵と寺との関わりが気になる所である。武蔵と言えば、「五輪書」の名著を残しているが、絵心もあったようで、晩年は剣を筆に変えて楽しみとしたようだ。
観智院本堂には、重要文化財に指定された五大虚空蔵菩薩像があるが、講堂の国宝・五大虚空蔵菩薩像に比べると、少し小さな仏像に見える。いずれにしても、度重なる火災から創建当時の仏像や仏画を守って来たことは驚きであり、弘法大師の遺品を消失させてはならないとする寺僧たちの苦労が見えるようだ。
観智院は拝観料が高いこともあって一度しか訪ねていないが、あれから40年近くも経ているので、もう一度拝観してみたいと思う。また、東寺は境内が広いことでも有名で、約2万6千坪(85,000㎡)もあり、大師の命日である毎月21日には弘法市が、毎月第1日曜日には骨董市が開かれる。洛南会館の前庭には平成30年、会津八一の「たちいれば くらきみだうに 軍荼利の しろききばより もののみえくる」の歌碑が建立されたと聞く。
009西本願寺 飛雲閣・唐門(日暮門)・能舞台・白書院・伝廊・黒書院
訪問年: 昭和48年10月11日(木)・平成04年01月02日(木)・平成16年03年07日(日)
所在地: 京都府京都市下京区
創建者・施主: 覚信尼(開基)、豊臣秀吉
建築年: 飛雲閣・唐門1614年、能舞台1581年、白書院1618年、黒書院・伝廊1657年
様式・規模: [飛雲閣]三重入母屋唐破風造り柿葺・南面・北面25.8m×東面11.8m×西面12.4m×13H 222.9㎡、[唐門]唐破風付入母屋造り桧皮葺・四脚門 23.8㎡、[能舞台]単層入母屋切妻造り桧皮葺・正面1間×側面1間 52.4㎡、[白書院]単層入母屋妻入造り本瓦葺・桁行38.5m×梁間29.5m 1197.3㎡、[黒書院・伝廊]二層寄棟造り柿葺・桁行6間×梁間4間×背面7間 331.1㎡
世界文化遺産(複合) 古都京都の文化財
西本願寺は東本願寺ほど参詣していないが、それでも浄土真宗本願派の本山として数多くの国宝建築があり、魅力的な寺ではある。しかし、国宝建築の拝観は事前の申し込みが必要で、とても敷居が高く感じられて、未だに御朱印も頂いていない大寺院だ。その点、実家の先祖の菩提寺でもある浄土真宗大谷派(東本願寺)は、庶民的で親しみやすい。
浄土真宗は開祖・親鸞上人以来、半僧半俗を掲げて妻帯することが許されているため、親鸞の血脈が門主を務めている。一向宗とも呼ばれた本願寺教団は、一国を凌ぐほどの武装勢力となり、戦国時代には織田信長の天下統一の妨げとなった。信長の後を継いだ秀吉も家康もその懐柔策に苦労したようであるが、家康は教団の内紛を巧みに利用して東西の二派に分裂させたのである。
西本願寺は親鸞の娘・覚信尼が東山の大谷廟に御影堂を建てたことに始まり、京山科、摂津石山、紀州鷲ノ森、摂津天満を経て、豊臣秀吉から10万坪の寺地を与えられて現在地に移った。堂宇の伽藍配置は真宗寺院の典型的なもので、正門を入ると広場があり、正面に本堂、その左に大師堂が建っていて伝廊で結ばれている。東本願寺は西本願寺より大規模が大きいだけで、同様の配置である。
飛雲閣は三層の楼閣で、金閣、銀閣と共に京都三名閣と称されているが、非公開であるため、秀吉の建てた聚楽第の遺構を目にすることはできなかった。唐門は日暮門とも呼ばれ、豪壮華麗な桃山建築で外から眺めるのが良いようだ。能舞台は現存するものとしては、日本最古の舞台で、伏見城の遺構でもあり、秀吉も舞ったであろう。白書院も伏見城の遺構とされ、その華麗さは目を見張るものがある。
黒書院と伝廊は、明暦3年(1657年)の建築で、書院は数寄屋風ではあるが狩野探幽の障壁画が有名である。東本願寺は度々火災に遭い、明治時代以降に諸堂が再建されたことに比べると、西本願寺には国宝以外にも江戸時代の重要文化財も多く残っていて、親鸞上人の言う浄土はこの寺なのかも知れない。
「人間に 住みし程こそ 浄土なれ 悟りてみれば 方角もなし」 親鸞
010豊国神社 唐門
訪問年: 昭和48年10月18日(木)
所在地: 京都府京都市東山区
創建者・施主: 豊臣秀頼
建築年: 1595年(文禄4年)、1614年(移築)、明治初年(移築)
様式・規模: 切妻造り桧皮葺・四脚向唐門
豊臣秀吉が伏見城で死去すると、豊臣家は衰退の一途を辿って滅亡して行くのであるが、徳川家康が征夷大将軍となって名実ともに天下を掌握するまでは、桃山時代の余韻が続いていた。秀吉が死去した慶長3年(1598年)の翌年、東山に豊国廟が完成して後陽成天皇より「豊国大明神」の神号が贈られて豊国神社が創建された。その社域は30万坪に及ぶ広大なもので、4月と8月に行われた豊国祭は盛大を極めたと言う。菩提寺の方広寺と共に、豊国神社は京都の名所でもあったようだ。
天正14年(1586年)、秀吉は東大寺大仏殿を模して木製の巨大大仏と殿舎を建てて方広寺を創建した。しかし、慶長元年(1596年)の大地震によって倒壊し、徳川家康の進言によって淀君と秀頼の母子が銅製の大仏を再建している。家康は中々の策士で、豊臣家の財宝を消費されると共に滅亡させる狙いがあったようで、鋳造された梵鐘の銘文に自分を呪う一文があると難癖をつけて豊臣家を窮地に追い込むのである。
大阪夏の陣で豊臣家が滅亡すると、豊国祭は停止され、豊国廟は家康によって破却された。秀吉の正妻・北政所(高台院)の哀訴によって、社殿の破却は免れたようであるが、その後の火災で焼失して江戸時代に再建されることはなかったようだ。
明治維新となって秀吉の業績が世人に評価されると、豊国神社は明治6年(1873年)、別格官幣社に列せられて方広寺跡地に造営が始まった。明治12年(1879年)に社殿は完成するが、その時に唐門が南禅寺金地院から移築されている。この唐門は、秀吉によって伏見城に建てられたもので、二条城、金地院と徳川家ゆかりの地に移されたが、約250年の歳月を経て豊臣家ゆかりの地に里帰りしたことになる。豪放雄大な桃山様式を伝える四脚門で、彫刻や彩色が豊かであり、徳川家が移築するのも無理はない。
歴史には不思議な因縁があるもので、家康を祀る日光東照宮は、桃山様式が伝承されて更なる建築美を追求している。家康は秀吉ほど建築には熱心ではなく、江戸城や二条城などの城郭建築しか造ってはいないが、派手好みの秀吉は城郭ほか様々な建物を造らせている。先に述べた大仏殿以外にも京都の聚楽第を造営し、大阪城には黄金の茶室を設えた。
秀吉は最も身分の低い出でありながら官職人臣を極めた英雄として知らない人はいないと思うが、それは織田信長という稀有の戦略家にめぐりあったからである。家康もしかりである。その信長の菩提を弔う阿弥陀寺の墓所は質素なもので、御魂を祀る建勲神社は規模も小さく寂しい感じは否めない。子供の頃に何となく覚えた戯れ歌の一首が頭を過る。
「織田が搗き 羽柴が捏ねし 天下餅 座りしままに 食らう家康」 詠み人知らず
011加茂御祖神社(下鴨神社) 東本殿・西本殿
訪問年: 昭和48年10月23日(月)・平成03年12月31日(火)
所在地: 京都府京都市左京区
創建者・施主: 鴨県主一族(加茂氏)、施主不明
建築年: 東本殿・西本殿1863年(文久3年)
様式・規模: [東本殿]3間社流造り桧皮葺、[西本殿]3間社流造り桧皮葺
世界文化遺産(複合) 古都京都の文化財
奈良の都から長岡京と平安京と、桓武天皇が遷都を考えた理由は、新しい国家構想の理念もあっただろうが、一番大きな目的は豊な水を求めての事ではなかったかと思う。四条河原町から川沿いに上って歩いていると、ふとそんな事を考えしまう。
大原の里から流れる高野川が鴨川と合流する地点を過ぎると、その先に糺の森が見え、神域を感じさせる清らかな雰囲気に包まれていた。下鴨神社の社殿は、その森の奥に鎮座していて、神代から変わらぬ場所にあると聞く。
故事によると、神武天皇東征がした際、熊野から大和への難路を先導したのが八咫烏こと賀茂健角身命であったそうだ。西本殿に賀茂健角身命が祀られていて、東本殿にはその娘の玉依姫命が祀られている。桓武天皇の遷都以来、下鴨神社は王城鎮護の神として上賀茂神社と合わせ賀茂神社(賀茂社)として崇められて来た。
伊勢神宮に次ぐ格式を誇り、石清水八幡宮と入れて三大社と称されているが、賀茂両神社は山城国の一宮であることでも知られる。賀茂両神社の共通の例大祭が葵祭であり、毎年5月15日に行われる。夏の祇園祭、秋の時代祭りと共に京都三大祭と言われているが、私はまだ時代祭りしか見ていないので、山登りができなくなったら見物したいと思う。
東西本殿の2棟は並ぶように建っていて、いずれも社殿特有の流造りとなっている。上賀茂神社の社殿も同様であるらしいが、高欄と階段を朱塗りとしてあること、正面両脇間の彫刻が違うらしい。平安中期の長元9年(1036年)から伊勢神宮と同じく20年に1度、本殿を造替する制度があったようだが、諸般の事情から江戸末期の文久3年(1863年)から造替をしていない。もしも造替が続けられていれば、この社殿は国宝に指定されることもなかっただろうが、技術の伝承を考えるのであれば伊勢神宮の式年遷宮制度も意味深い。
下鴨神社には本殿の他にも貴重な建物が多く、29棟の諸殿が国の重要文化財に指定されているが、私が参拝した頃は31棟あったと記憶する。次第に数を減らして行く文化財に一抹の寂しさを感じるし、出来るだけ写真に残しておきたい気持ちも高まる。
20歳頃、下鴨神社を訪ねた時は、カメラを買う金もない貧乏な旅であったが、2度目の訪ねた時はバブル期であり、カシミアのコートを身に纏い、1眼レフカメラを手にしていた。糺の森の昔ながらの佇まいを残していて、京都市中とは全く違う景観に再び感動を覚えながら小道を歩いた。20歳の頃、ここで詠んだ拙ない短歌が思い出される。
「どことなく 信濃の高原 思わせる 糺の森の せせらぎの音」 陀寂
012高山寺 石水院(五所堂)
訪問年: 昭和48年10月25日(水)・平成04年01月03日(金)
所在地: 京都府京都市右京区
創建者・施主: 尊意(開基)、明恵(中興)、後鳥羽上皇
建築年: 1206年(建永元年)、1274年(改修)
様式・規模: 向拝付単層入母屋妻入造り柿葺・桁行3間×梁間3間×正面1間 109.2㎡
世界文化遺産(複合) 古都京都の文化財
京都に滞在して3ヶ月が過ぎ、秋も深まって来た頃、高雄の紅葉が見たくなり遠出してみた。京都駅から直通のバスに乗り、神護寺・西明寺・高山寺の三尾を訪ねたのである。高雄の神護寺は七堂伽藍が整う大寺院で、辺鄙な山中にあることに驚いた。
槇尾の西明寺は印象に残るものはなかったが、栂尾の高山寺は山寺ならではの静寂さに包まれていた。高山寺は奈良時代末期に勅願によって開創され、延暦寺の座主となった法性房尊意が修行したとも開基したとも言われる。実質的には、後鳥羽上皇の院宣により東大寺の名僧・明恵上人高弁が入山した建永元年(1206年)が中興開基と言える。
国宝・石水院は、高山寺の再興の時、後鳥羽上皇が賀茂の別宮・石水院の遺構を移築したもので、明治22年(1889年)に現在地の本堂跡に移されたようだ。国宝建築に限らず、優れた建築物は、移築されたり、修繕されたりして後世に残そうとした意図が感じられる。単層入母屋の小さな建物ではあるが、清滝川の断崖に建っているため、石水院から眺める紅葉は万金に値する。
高山寺は火災や寺の衰退によって、荒れ寺同然となった時代もあったようだが、この石水院の建物だけは偶然にも残されたのである。石水院には建物のみならず、有名な「鳥獣戯画」が壁に掲げられている。本物は東京国立博物館に保存されているようだが、本物とレプリカの区別のつかない私には、墨だけで描かれた漫画のような白描画に驚嘆した。
現在の高山寺は小ぢんまりとした境内ではあるが、日本最古の茶園が残されていることも見逃せない。明恵上人が宋から帰国した栄西禅師から茶木の種を贈られ、それを植えて大切に育てたものである。
明恵上人は華厳宗と真言宗の兼学を志していたが、いつの頃からか、真言宗の寺となり、現在はどの宗派にも属さない単立の寺院と聞く。明恵上人は鎌倉時代の開祖たちと異なり、一宗を興したわけでもなく、名誉や栄達を好まず、ひたすら古の戒律を守った。日本の名僧の中で、女性と性交しなかった僧は、明恵上人以外はいないと言われる。その明恵上人も孤独を癒すために、夜空の月をこよなく愛したとそうだ。
二度目の訪問は、国宝建築の石水院を見物することよりも明恵上人の面影を偲ぶことが目的で、その残像と遺蹟を追った。上人は和歌にも造詣が深く、「明恵上人集」が残されているが、あまり評価されていないのが残念でならない。
「山の端に われもいりなむ 月もいれ 夜な夜なことに また友とせむ」 明恵
013仁和寺 金堂
訪問年: 昭和48年10月25日(水)・平成04年01月02日(木)
所在地: 京都府京都市右京区
創建者・施主: 益信(開基)、宇多天皇
建築年: 1613年(慶長18年)、1643年(移築)
様式・規模: 向拝付単層入母屋造り本瓦葺・桁行7間×梁間5間 443.3㎡
世界文化遺産(複合) 古都京都の文化財
京都に来て初めて知ったのが仁和寺であったが、約2万7千坪(80,000㎡)の広大な境内に、七堂伽藍が絵画のようなに聳え建つ景観を目にして感動したものである。当時の私は無知であったがゆえ、国宝や重要文化財の価値観に頓着せず、純粋な青年の目で堂宇を観察したものである。あの頃の自分が懐かしくも思え、国宝建築に固執している現在の自分を嫌悪する時もある。そんな時に仁和寺を思い出しみると、国宝の金堂以外にも五重塔や仁王門など立派な塔宇があることに気が付き、桜の名所でもあることも知って建物だけに美的な価値が留まらないことを認識する。
仁和寺は光孝天皇によって仁和2年(886年)に着工されたが、天皇が崩御したために皇太子の宇多天皇が志を受け継ぎ仁和4年(888年)に竣工する。宇多天皇は譲位後の延喜4年(904年)、仁和寺の片隅に草庵を結んで場所に隠居の御所を建ててため、御室御所とも呼ばれることになった。真言宗との関わりが深く、現在は御室派の総本山として君臨している。
平安中期、弘法大師の再来とされた性信法親王が寺に入ってから明治時代までは、法親王が代々仁和寺の住職となったため、門跡寺院と称された。しかし、室町時代の応仁の乱で伽藍は全焼し、再建されて七堂伽藍が整うのは江戸時代になってからである。
仁和寺で唯一の国宝建築である金堂は、御所の紫宸殿を寛永20年(1643年)に移築したものである。その時に西庇が撤去されて、桧皮葺の屋根は本瓦葺に改められて、内部も仏堂に相応しい意匠に改装されたようである。移築されたのは金堂だけではなく、弘法大師の御影堂は、後水尾天皇の旧清涼殿を移築したもので、屋根は宝形造りとなり、御影堂に相応しい正方形の建物に改造されている。
仁王門と五重塔は、寛永14年(1637年)の再建であり、いずれ国宝となるのは時間の問題と考える。この後の明暦元年(1655年)、加賀百万石の藩主・前田利常が高岡の瑞龍寺に建立した法堂は、重要文化財から国宝に格上げになっている事例でも分かる。
仁和寺の魅力は何といっても「御室桜」であり、境内には江戸時代初期に植えられた約200本の桜が人々を魅了する。オムロザクラは背丈が2~3メートルほどの背の低い品種で「日本桜の名所100選」にも選ばれている。醍醐寺の桜と共に私には、未だ見ぬ桜でもあり、次回の訪問が楽しみである。桜と言えば、仁和寺近くの双ヶ岡に草庵を結んでいた『徒然草』の著者・吉田兼好も、度々寺を訪ねて桜を愛でた一人でもあった。
「契りおく 花とならびの 岡のべに 哀れ幾世の 春をすぐさむ」 兼好
014北野天満宮 本殿・石之間・拝殿・楽之間
訪問年: 昭和48年10月26日(木)・平成04年01月03日(金)
所在地: 京都府京都市上京区
創建者・施主: 藤原師輔(創建)、豊臣秀頼
建築年: 本殿・石之間・拝殿・楽之間1607年(慶長12年)
様式・規模: [本殿]単層入母屋八棟造り桧皮葺・桁行5間×梁間4間、[石之間]単層両下造り桧皮葺・桁行3間×梁間1間、[拝殿]単層千鳥破風・唐破風向拝付入母屋造り桧皮葺・桁行7間×梁間3間
大概の神社は拝観料を徴収しないので、アルバイトしながら貧乏旅行をしている身には、有難い名所旧跡である。しかし、宝物館や庭園のある神社は、そこだけが有料の公開となっているが寺院の拝観料に比べると良心的な金額だ。また、有料の施設以外は、早朝から日没まで参拝ができるので、神社は1日の最初と最後に訪ねることが多い。北野天満宮も仁和寺や妙心寺を訪ねた日の最後に参詣した。
全国各地に藤原道真(天神様)を祭神とする天満宮や天神神社があまたあるけれど、北野天満宮と大宰府天満宮は別格の存在で、寺院の総本山や大本山に該当する。また、稲荷神社や八幡神社に次ぐ末社を有し、その数は1万社以上に及ぶと言われる。しかし、奈良時代以降の実在の人物を祀る神社としては、天神様が絶対的な人気を誇る。
菅原道真は文学者でありながら右大臣にまで上りつめた政治家であったが、ライバルの左大臣・藤原時平の讒言によって九州の太宰府に配流されて、延喜3年(903年)に憂死した。その後、京都ではしばしば落雷や地震などの異変が多発し、道真の祟りではないかと恐れて小社を祀った。天暦元年(947年)、現在地の北野に神殿が営まれ、天徳3年(959年)には時の右大臣・藤原師輔が社殿を増築して神宝を奉ったと言われる。
現在の社殿は、豊臣秀頼が片桐且元に命じて慶長12年(1607年)に再建したもので、本殿、石之間、拝殿からなる権現造りで、のちに建てられた日光東照宮にその様式は受け継がれたようだ。本殿に限って言えば、一般の権現造りよりも屋根の構造が複雑で、八棟造りとも呼ばれる。各部の鮮やかな彩色や蟇股の彫刻など絢爛豪華な桃山建築の特徴を残すもので、秀吉の莫大な金銀財宝が息子の秀頼によって文化財へと転化されたことになる。
秀吉と言えば、天正15年(1587年)に、ここ北野天満宮で盛大な大茶会を催したことで有名であり、伏見城の茶会と博多の茶会と並び、「太閤の三大茶会」と私は評している。他にも秀吉は醍醐寺と吉野山では盛大な花見の大イベントを行っているが、この北野天満宮は梅の名所でもあり、梅の花も観賞して欲しかった。
「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」 道真
道真公は、大宰府権帥(次官)に左遷される時、自宅の梅を愛でながらこの一首を残している。学問に優れた人で、古からの大和文化を大切にして、遣唐使船を廃止したのもその思いがあったからに違いない。
015東福寺 三門
訪問年: 昭和48年11月11日(土)・平成03年12月29日(日)・平成16年03年13日(土)
所在地: 京都府京都市東山区
創建者・施主: 弁円(開基)、九条道家
建築年: 1236年(嘉禎2年)、(1413年修繕)
様式・規模: 重層入母屋造り本瓦葺・5間3戸二階二重門 259.1㎡
京都の地図を広げて見ていると、どうしても京都御所を中心とした名所旧跡、神社仏閣に目が向いてしまう。東福寺のある洛南は、その地図の隅に追いやられているので、どうしても興味が薄れる。京都でも名の知れた神社仏閣の拝観を終えて、私の眼先は追いやられた隅へと向かって行く。
東福寺も南禅寺と同様に、京都五山の一つであり、臨済宗十五派の一つ東福寺派の大本山のでもある。時の関白・九条道家が一代の財力を傾け、円爾弁円(聖一国師)を迎えて開山開基した氏寺(菩提寺)である。嘉禎2年(1236年)に起工されて、建長7年(1255年)に仏殿が完成され、七堂伽藍が竣工したのは文永8年(1271年)と聞く。35年の歳月を経て完成された訳で、ただ壮大な夢の実現に敬服するだけだ。
東福寺の寺号は、奈良の東大寺と興福寺の二大寺から一字ずつ取って命名されているが、五丈(約15m)の大仏も建立したので、創建当初から大寺院の構想があったようだ。仏殿などの諸堂は、時の権力者たちによって修繕されて来たが、明治14年(1881年)の火災で主要な堂宇を焼失した。幸いに三門と禅堂、東司が残り、三門は国宝に他は重文となっている。
三門は正式には三解脱門の略で、日本最古の山門とされる。豪壮な重層入母屋造り(楼閣造り)で、「妙雲閣」の扁額は室町幕府4代将軍・足利義持の筆によるもので、畳3畳分の大きさに驚かされる。四隅の添柱は豊臣秀吉によって補強されたようで、江戸幕府3代将軍・徳川家光も修繕させている。三門の外観は禅様式に見えるが、垂木や組物などの細部は、鎌倉時代に再建された東大寺大仏殿の様式を踏まえているようだ。
東福寺は紅葉の名所でもあり、通天橋から眺める境内の紅葉は絶句するほどの美しさであった。紅葉の名所は、沖縄などの南域を除いた全国各地にたくさんあるけれど、この寺の紅葉は在来の樹木ではなく、中国原産の三葉楓が植えられた珍しい紅葉でもある。
大寺院の規模を現すものとしては、塔頭と呼ばれる支院の数で判断するのが分かり易い。東福寺は20余の塔頭を有し、それぞれが本堂や庭園があるのが特徴であり、一般拝観を行っている塔頭をめぐるのも相当の時間を要する。中でも竜吟庵の方丈は国宝建築であるが、私が訪ねた頃は、非公開であったため無念に思った記憶がある。
退耕庵には、世界三大美人と誇称される小野小町の百歳像があった。その容姿は美人の面影を偲ぶ姿ではなく、美と背中合わせの醜さが込められていた。小町は謎に包まれた女性で生没年がはっきりとせず、自刻の像も疑わしいが和歌だけはまぎれもなく自作である。
「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」 小町
016延暦寺 根本中堂
訪問年: 昭和48年12月02日(土)・平成03年12月30日(月)・平成19年04月22日(日)
所在地: 滋賀県大津市
創建者・施主: 最澄(開山)、徳川家光
建築年: 1642年(寛永12年)
様式・規模: 向拝付単層入母屋造り瓦棒銅板葺・桁行11間×梁間6間×棟高80尺6寸(38m×24m×24.4mH) 899㎡
世界文化遺産(複合) 古都京都の文化財
比叡山と言えば延暦寺をさし、延暦寺といえば比叡山をさすほど、山と寺が一体となっている所は、他に高野山と身延山しか浮かばない。いずれも天台宗、真言宗、日蓮宗の総本山であり、私は「日本三大総本山」と呼んで、数多ある総本山と格の違いを感じている。
日本に百済から仏教公伝された250年後の延暦7年(788年)、伝教大師最澄は自刻の薬師如来像を安置する小堂を建てて、比江山寺と名付けた。その小堂は一乗止観院とも称された、現在の根本中堂でもある。
歴史的に有名な織田信長に全山焼討ちによって堂塔伽藍の殆どを失うが、江戸時代に入って次第に復興されて、根本中堂は寛永19年(1642年)に再建された。正面の長さが38メートル、棟の高さが24メートルもある大建築で、一見すると重層の建物に見えるほど大きくて高い。堂内は本尊の薬師如来像を安置する須弥壇の両端には、文殊菩薩と伝教大師を祀る仏壇となっている。眼前には開山以来の不滅の法燈と呼ばれるローソクの火が灯り、その横の看板に貼られた「一隅を照らす、これ国宝なり」という偈文が心に残る。
比叡山延暦寺は、山頂の台地にある諸堂が林立する高野山とは異なり、主要な諸堂や塔頭が山全体に点在している。そのエリアは、根本中堂のある東塔、釈迦堂のある西塔、慈覚大師円仁によって創建された横川に分布されるが、山麓にある坂本の寺院群も延暦寺の主軸をなすものと考える。
平安時代の初頭、天台宗は最澄、真言宗は空海によって新しい仏教が日本に誕生した。両大師は共に当時の盛唐に僧として留学し、日本になかった密教を学んだのであるが、最澄は天台山で修行して1年で帰国する。一方の空海は西安まで赴き、真言密教の奥義を極めて帰国する。桓武天皇は新しい都には、新しい仏教を導入しなくてはならないと、最澄はその夢を託されたエリート僧であった。
最澄は仏教学に重きを置いた学僧で、その法脈は円仁や円珍の名僧に受け継がれて比叡山繁栄の礎となった。平安末期から鎌倉時代にかけて活躍した新興仏教の開祖たちは、比叡山と関わりが深く、日本仏教のふるさとと言える。
現在は比叡山そのものが霊山であり、再建された堂塔伽藍を見るだけにとどまらず、心に国宝がやどると諭した伝教大師最澄の霊気が漂っているようだ。
「明らけく 後の仏の 御代までも 光り伝えよ 法の灯」 最澄
017醍醐寺 金堂・五重塔
訪問年: 昭和48年12月13日(水)・平成03年12月29日(日)・平成25年04月01日(月)
所在地: 京都府京都市伏見区
創建者・施主: 聖宝(開山)、醍醐天皇(開基)、豊臣秀吉
建築年: 金堂1184年(寿永3年)、五重塔952年(天暦6年)
様式・規模: [金堂]朱塗り単層入母屋造り本瓦葺・桁行7間×梁間5間 361.7㎡、[五重塔]五重塔婆本瓦葺・高さ37.4m 一辺6.6m(三間)
世界文化遺産(複合) 古都京都の文化財
洛南の真言宗山階派の大本山勧修寺と、同じく善通寺派の大本山随心院を拝観し、その日の最後は醍醐派の総本山醍醐寺を訪ねた。いずれも真言宗の十八大本山に属し、1日で3ヶ寺も回れたことは大きな収穫であった。
醍醐寺は京都でも屈指の大寺院で、笠取山(醍醐山)の山上(上醍醐)と山麓(下醍醐)に80余りに及ぶ堂宇が建つ。国宝建築の清滝宮拝殿と薬師堂は上醍醐にあり、金堂と五重塔、三宝院表書院などは下醍醐にある。一般的には山麓を醍醐寺、山上を上醍醐寺と呼んでいる。
修験道当山派の開祖である理源大師聖 宝が貞観16年(874年)に准胝如意輪堂を山上に建立して開山した。醍醐天皇の生母・藤原胤子が聖宝に帰依した縁で、天皇の勅願寺となって山上に薬師堂と五大堂、山麓に釈迦堂が建てられた。
醍醐寺の伽藍配置は典型的な法隆寺式で、金堂と五重塔、これをめぐる廻廊と中門、南大門があったらしいが、創建当時のものは五重塔だけである。金堂は平安後期の仏堂で、慶長5年(1600年)に紀州湯浅の満願寺から移築された建物と聞くが、これだけ壮大な建物をはるばると運んだことに感心させられる。
五重塔は醍醐天皇の追善供養のため、天暦6年(952年)に建てられたもので、京都では最古の建築物と言われる。平安時代に建築された五重塔としては、室生寺の五重塔と二つだけであり、近年になって建築された五重塔は二つの塔をモデルにしている例が多い。五重塔の多くは、屋根支える組物が三手先組であるのが特徴であり、朱色に彩色された木肌や木目に当時の職人技を見るようだ。塔の天井画から和歌の落書が数首発見されたが、「君てへば 見もせ見ずまれ 富士の嶺の 絶えぬ思ひの 煙とぞ立つ」が印象に残る。
醍醐寺の山上の上醍醐寺には、清滝宮・拝殿・薬師堂の3棟の国宝建築が存在するが、そこへ行くには徒歩で1時間半ほど要すると言う。往復3時間の登拝は、時間的にも無理であり断念するしかないようだ。また、上醍醐寺は「西国三十三ヶ所観音霊場」にもなっているので、いずれは参拝に訪ねなければならないようだ。
この醍醐寺には2度訪ねているが、いずれも12月であり、桜の花の咲く季節にもう一度訪ねたいと思いは高まるばかりだ。京都の寺院は四季折々に味わいがあり、この寺の2度目の参拝時は新雪が五重塔の甍を覆って、雪化粧をした景観は忘れられない風景であった。そして、その桜を見るのに20年の歳月を待つことになったのである。
018醍醐寺 三宝院表書院・唐門
訪問年: 昭和48年12月13日(水)・平成03年12月29日(日)
所在地: 京都府京都市伏見区
創建者・施主: 聖宝(開山)、豊臣秀吉
建築年: 表書院1598年(慶長3年)、唐門1599年(慶長4年)
様式・規模: [表書院]唐破風付単層入母屋造り桟瓦葺・327.1㎡、[唐門]単層切妻造り桧皮葺・3間1戸平唐門 16.3㎡
世界文化遺産(複合) 古都京都の文化財
三宝院は醍醐寺の本坊のような役割をしている塔頭で、表書院と唐門が国宝建築となっている。醍醐寺の第15世座主・勝覚僧正が永久3年(1115年)に建立したもので、後世に至っては門跡寺院と称されるようになった。醍醐寺が最も繁栄した頃は、山上山麓に200余の寺坊があったそうだが、室町末期に勃発した戦国時代に兵火によって五重塔一基を残すだけとなった。その荒廃した諸堂を復興したのが桃山時代の義演座主で、豊臣秀吉の外護を受けて中興するのである。
現在の三宝院は表書院・震殿・庫裡・純浄観・護摩堂など7棟からなる書院造りの殿堂で、慶長3年(1598年)に秀吉の「醍醐の花見」に合わせて建てられた。秀吉みずからが庭園を設計するほどの熱の入りようで、文禄3年(1594年)に催された「吉野の花見」に次ぐ盛大なイベントとなった。秀吉の茶道の師・千利休が嫌うような野ぼった風流であったようだが、それが天下人となった秀吉の好みで、誰も真似のできない風流であったと思う。
国宝の表書院は、上段之間・二之間・三之間などからなり、その障壁画は絢爛たる桃山様式を現在に伝えている。中門内には枝垂れ桜が多く、秀吉の思い入れを随所に感じる。秀吉の建築させた城郭や御殿は残っていないが、この三宝院だけは例外とも言える秀吉と義演の遺構であり、桃山文化が開花したまま残っているようだ。
唐門は伏見城から移したもので、3間1戸平唐門という他に例を見ない珍しい造りで、参道に面して建っている。三宝院の他の建物もすべて重要文化財であり、震殿上座之間の違棚は桂離宮や修学院離宮のものと共に、天下の三棚と言われるそうだ。
院内の受付の売店には、こげ茶色の作務衣が売られていて、即座に買い求めた。長い間、こげ茶色の作務衣を探していたが、思わぬ所で得られたものだと仏縁を感じる。作務衣は自宅で着る普段着とパジャマを兼ねていて、とても重宝している。
三宝院庭園を鑑賞するのも今回の目的の一つで、拝観終了の間際まで眺めていた。秀吉の花見に合わせて、金剛輪院の庭を大池泉庭園に改修したと聞く。竹田梅松軒が庭奉行となって、河原者賢庭など名ある庭師たちが動員されたようである。東南に三段の滝組、池の中には鶴亀の島、南には須弥山式の石組があり、滝組近くの藤戸石は秀吉が聚楽第から運ばせた巨石である。美構勝絶の庭園で、特別名勝の名に恥じない夢のような庭である。
「あらためて なおかえてみん 深雪山 うずもるはなも あわれなりけり」 松(秀吉)
019興福寺 東金堂・五重塔・三重塔・北円堂(八角円堂)
訪問年: 昭和48年12月16日(土)・昭和62年02月03日(火)・平成05年10月11日(月)
所在地: 奈良県奈良市
創建者・施主: 藤原不比等(創建)、光明天皇(発願)、施主不明
建築年: 東金堂1415年(応永22年)、五重塔1426年、三重塔・鎌倉初期、北円堂1210年
様式・規模: [東金堂]単層寄棟造り本瓦葺・桁行7間×梁間4間 304.2㎡、[五重塔]五重塔婆本瓦葺・高さ50.8m 一辺8.8m 、[三重塔]三重塔婆本瓦葺・高さ19.0m 一辺4.8m 、[北円堂]単層八角形造り本瓦葺・113.6㎡
世界文化遺産(複合) 古都奈良の文化財
京都の著名な寺社めぐりも終えて、次なる旅は奈良の寺社へと目と脚を向けた。市内のユースホステルに3泊し、奈良公園から奈良市の地図と『最新旅行案内13奈良』という日本交通公社から出版された旅行案内書を手にして歩き始めた。この本は今でも大切している案内書で、当時の法隆寺の拝観料が200円であり、本の定価は260円と安かった。
興福寺は奈良公園から一番近い寺で、七堂伽藍が境内に林立する法相宗大本山の大寺院である。藤原鎌足の菩提寺として、京都山科に夫人の鏡女王が山階寺を建立したことに始まり、鎌足の子・不比等が和銅3年(710年)の平城遷都に伴って現在地に移して興福寺と改め、藤原一族の氏寺へと発展を遂げる。平安時代は比叡山の僧兵に劣らぬ勢力を有し、南都北嶺
と称された。貴族の時代から武家の社会になると次第に勢力を失うが、法相宗の大本山として、古都奈良の名所として現在に至るのである。
昔の境内はとても広かったようであるが、明治初年の廃仏毀釈もあって奈良公園に分割された。猿沢池に面した南大門跡に立つと、右に五重塔と東金堂の国宝建築が聳え、正面に中金堂、左に北円堂と南円堂、そして三重塔が建っている。五重塔と三重塔が同じ境内に建っている例はなく、いずれも国宝ともなればダイヤモンドの輝きよりも尊く見える。
東金堂は聖武天皇の創建以来、5度の火災で焼失し、室町時代の応永22年(1415年)、6度目に再建されたのが現在の建物である。興福寺にある木造建築としては最も大きく、天平様式の豪壮な面影を残している。
五重塔は高さが50メートルもある塔で、京都の東寺に次ぐ高さを誇り、奈良市内のシンボルタワー的な建物である。この塔も応永33年(1426年)に上棟されて、6度目の再建がなされた。三重塔は平安末期の康治2年(1143年)に創建されるが、治承年間に焼失して鎌倉初期に再建されたものと聞く。平安調の優美な趣を残していて、三重塔中の傑作とされる。
北円堂は養老5年(721年)に創建された八角円堂で、承元4年(1210年)に4度目の再建がなされている。伝統的な和風建築で安定感があり、内陣須弥壇にある運慶作の弥勒如来像も国宝である。興福寺の国宝建築をめぐって残念に思われるのは、創建当時に東金堂と五重塔にめぐらされた廻廊が今も再建されていないことである。その様子を見た俳歌人・正岡子規は、「秋風や 囲もなしに 興福寺」と詠んでいる。
020東大寺 金堂(大仏殿)・南大門・転害門・鐘楼・開山堂・法華堂(三月堂) ・本坊経庫
訪問年: 昭和48年12月16日(土)・昭和62年02月03日(火)・平成05年10月11日(月)
所在地: 奈良県奈良市
創建者・施主: 良弁(開基)、聖武天皇(発願)、重源(中興)
建築年: 大仏殿1709年(宝永6年)、南大門1195年(建久6年)、転害門・奈良時代、鐘楼1211
年(建暦元年)、開山堂1200年(正治2年)、法華堂747年(天平19年)、本坊経庫793年(延暦12年)
様式・規模: [大仏殿]一重裳階・唐破風付寄棟造り本瓦葺・桁行5間×梁間5間(57m×50.5m×47.5mH)2877.9㎡、[南大門]重層入母屋造り本瓦葺・5間3戸二重門 310.6㎡、[転害門]単層切妻造り本瓦葺・3間1戸八脚門 138.9㎡、[鐘楼]単層入母屋造り本瓦葺・桁行1間×梁間1間 58.1㎡、[開山堂]単層宝形造り本瓦葺・方3間 54.2㎡、 [法華堂]入母屋礼堂付単層寄棟造り本瓦葺・方5間 467.0㎡、[本坊経庫]単層入母屋校倉造り本瓦葺・桁行3間×梁間2間 52.4㎡
世界文化遺産(複合) 古都奈良の文化財
誰しもが一度は見ておきたいと願うのが、奈良の大仏と称される東大寺大仏殿に安置された盧舎那仏の坐像であろう。天平15年(743年)、聖武天皇の詔が発しされてから9年の歳月を経て、天平勝宝4年(752年)に大仏の開眼供養が行われた。また、聖武天皇は諸国に国分寺と国分尼寺を造立させており、その総本山として大仏を建立させたようだ。
日本文化を象徴する大仏と大仏殿であったが、平安末期の源平の合戦で平重盛によって焼かれ顔と胴が焼けおちた。真言念仏の開祖・俊乗坊重源が大勧進職となって建久6年(1195年)に焼失から15年を経て再建された。その後の室町末期も戦国武将・松永久秀によって焼かれ、江戸時代の元禄5年(1692年)に125年ぶりに復興されたのが今の大仏である。
南大門は大仏殿の2度目の再建の際、一緒に再建された朱塗りの大楼門で、東大寺に唯一残る天竺様式の建築である。正面左右の壇上に立つ、2体の金剛力士像(阿吽二王)の大きさと忿怒相の迫力には圧倒される。転害門は大仏殿の北西に立つ八脚門で、佐保路に面していることから佐保路門とも呼ばれる天平時代の遺構である。
大仏殿の東にある鐘楼は、重源に次いで大勧進となった栄西禅師が建暦元年(1211年)に建てた大鐘楼で、大仏様式に禅宗様が加味されている。その中にある梵鐘は、創建当時のもので国宝となっている。開山堂は一般的な宝形造り建物で、重源が正治2年(1200年)に再建し、東大寺を開基した良弁僧正の坐像を祀る。法華堂は東大寺では最古の建築物で、天平19年(747年)に大仏殿より5年早く建立された。内陣の安置されている16体の仏像の内、本尊・不空羂索観音像を含めた12体は、天平時代のものであり、殆どが国宝となっている。本坊経庫は平安遷都の年に建てられるが、有名な正倉院と同じ校倉造りである。
創建当時の大仏殿造営に最も貢献したのが、聖武天皇が信頼した行基菩薩であった。開眼供養の際は、天竺(インド)から名僧・菩提僊那らが招かれて、その交流に感激している。
「霊山の 釈迦のみまへに 契りてし 如来くちせず あひみつるかな」 行基
021春日大社 本社本殿
訪問年: 昭和48年12月16日(土)・昭和62年02月03日(火)・平成05年10月11日(月)
所在地: 奈良県奈良市
創建者・施主: 藤原不比等(創建)、施主不明
建築年: 1863年(文久3年)
様式・規模: 1間社春日造り桧皮葺×4棟
世界文化遺産(複合) 古都奈良の文化財
東大寺の南に境内を隣接するのが春日大社で、藤原不比等によって和銅3年(710年)、常陸の鹿島神宮から武甕槌命を勧請し創建された。同年に建立された興福寺が藤原一族の氏寺となったように、当時は春日社と称された神社は藤原一族の氏神と発展する。神護景雲2年(768年)には、下総の香取神宮から経津主命、摂津の枚岡神社から天児屋根命と比売神を迎えて4柱となり、春日四所明神と称されている。
春日鳥居で知られ大鳥居(一ノ鳥居)を潜ると、両側に無数の春日灯籠が二ノ鳥居まで約1キロメートルも立ち並んでいた。2度目の参詣の折は、節分の日であったため万灯籠が行われていて、雪景色に灯る参道は幻想的な光景であった。
本社本殿は桃山時代に造られた廻廊の中にあって、中門御廊の右から第1殿(主神・武甕槌命)、第2殿(経津主命)、第3殿(天児屋根命)、第4殿(比売神)の4棟が並んでいる。本殿の規模は方1間と小さいが、屋根の反りや木部の丹塗りは従来の神社にはなかった本殿形式で、一般的に春日造りと称される。
この春日造りの本家本元は、20年ごとに建て替える式年造替の制度があって、57回も行われたと聞く。最後に造替されたのが、京都の下鴨神社と同じ江戸末期の文久3年(1863年)であり、逆算すると1140年前の養老7年(723年)に建てられたことになり、4柱の合祀した神護景雲2年(768年)よりも更に古くなる。
春日大社には、幣殿や直会殿など18棟もの重要文化財の建物が残っていて、本殿が造替される際に各祭神の御霊を移した移殿は室町時代の建築と聞く。しかし、造替が行われなくなってから150年も経ており、宮大工の技術を伝えるためにも20年に1棟ずつ再建するのも必要かと考える。
奈良公園には鹿が多くいるが、これは春日大社の主神・武甕槌命が白鹿に乗ってやって来たことから鹿を保護するようになったそうだ。春日山(御蓋山)も平安時代から伐採が禁止されているため、植生が豊かな原生林が残っていて、自然景観の国宝でもある特別天然記念物に指定されている。
奈良公園は東大寺や興福寺の寺域と、春日大社の神域を含めると660ヘクタールの面積があり、約1,700本の桜が点在する。その桜の花の下で数頭の鹿が餌を探している様子は現在も一緒であり、奈良の桜を愛した女流歌人・伊勢大輔の和歌を思い出す。
「古の 奈良の都の 八重桜 けふ九重に 匂ひぬるかな」 大輔
022法隆寺 金堂・五重塔・中門・廻廊・大講堂・鐘楼・経蔵(経楼)
訪問年: 昭和48年12月17日(日)・平成02年04月10日(火)・平成29年06月03日(土)
所在地: 奈良県斑鳩町
創建者・施主: 智蔵(開基)、聖徳太子
建築年: 金堂・廻廊700年(文武4年)、五重塔708年(和銅元年)、中門711年(和銅4年)、大講堂・鐘楼990年(正暦元年)、経蔵793年(延暦12年)
様式・規模: [金堂]初重裳階付重層入母屋造り本瓦板葺・下層桁行5間×梁間4間 上層4間×3間 281.0㎡、[五重塔]初重裳階付五重塔婆本瓦葺・高さ32.4m 一辺6.4m、[中門]重層入母屋造り本瓦葺・3間2戸二重門 桁行4間×梁間3間 100.7㎡ 、[廻廊]単層単廊造り本瓦葺・東廻廊42間・西廻廊40間×梁間3.7m、[大講堂]単層入母屋造り本瓦葺・桁行9間×梁間4間 555.5㎡、[鐘楼]切妻楼造り本瓦葺・桁行3間×梁間2間 45.4㎡、[経蔵]単層切妻楼造り本瓦葺・桁行3間×梁間2間 45.1㎡
世界文化遺産(単独) 法隆寺地域の仏教建造物
法隆寺は日本最古の寺院建築群で、厳島神社や姫路城と並び、単独の世界文化遺産であり、国宝中の国宝と言ってよい。少年の頃、切手や模型で建物の景観を知ったが、実際に訪ねるとなると、興奮して来る気持ちが抑えられなくなって来る。
案内書によると、推古15年(607年)に用明天皇の遺志を果たすため、推古天皇と聖徳太子が建てたと書かれている。聖徳太子は仏教を日本に広めた第一人者で、四天王寺・中宮尼寺・橘尼寺・蜂岡寺(広隆寺)・池後尼寺(法起寺)・三井寺(法輪寺)・葛城尼寺(廃寺)を建立した。当時の遺構が残るのは法隆寺だけで、奈良仏教の聖地とも言える。
境内は4万4千坪(145,000㎡)もある広大なもので、東西の両院に別れ、西院には16棟の国宝建築がある。最初に西院に訪ね南大門に立つと、正面に廻廊をめぐらした中門があり、左に五重塔、右に金堂が建っている。これが有名な法隆寺式の伽藍配置である。後に大講堂とその左右の経蔵と鐘楼が廻廊で結ばれて、現在の伽藍配置となったようだ。
金堂は文武4年(700年)に建てられた建築で、飛鳥時代に造られた二重の基壇上に建っている。初重の裳階は付けられ、屋根の鴟尾が鬼瓦に替えられたことを除くと、当初の姿を残している。五重塔も金堂と同じ手法で造られているが、安定感をもたせるため、5層が初層の半分になっているのが特徴だ。中門は楼門建築の傑作とされ、廻廊も含めた白鳳時代のものがそっくりと残っているのは奇跡に近い。
大講堂は廻廊の奥に建つ大建築で、正暦元年(990年)に京都山科の普明寺から移築されてそうだ。大講堂の廻廊の右に鐘楼、左に経蔵が建っているが、鐘楼は大講堂と同時期の再建で、経蔵に比べると手法は退化したと言われる。
鐘楼の鐘は、無銘ながら重要文化財でもあり、正岡子規も聞いた鐘の音が聞こえて来るようだ。法隆寺のある斑鳩は、田園風景の豊かな里でもあり、農家の軒先に座って柿を食べた思い出が名句を生んだに違いない。「柿くへ ば鐘が鳴るなり 法隆寺」 子規
023法隆寺東室・聖霊院(豊聡殿)・西室・三経院・食堂・綱封蔵・西円堂・南大門・東大門
訪問年: 昭和48年12月17日(日)・平成02年04月10日(火)・平成29年06月03日(土)
所在地: 奈良県斑鳩町
創建者・施主: 聖徳太子(開基)、施主不明
建築年: 東室1377年(天授2年)、聖霊院1121年(保安2年)、西室・三経院1231年(寛喜3年)、食堂・東大門793年(延暦12年)、綱封蔵729年、西円堂1250年、南大門1438年(永享10年)
様式・規模: [東室]単層切妻造り本瓦葺・桁行12間×梁間4間 388.5㎡、[聖霊院]向拝付単層切妻造り桧皮本瓦葺・桁行6間×梁間5間 181.7㎡、[西室・三経院]単層向拝付切妻造り本瓦桧皮葺・桁行19間×梁間5間 586.5㎡、[食堂]単層切妻造り本瓦葺・桁行7間×梁間4間 195.5㎡、[綱封蔵]単層高床式寄棟造り本瓦葺・桁行9間×梁間3間 173.2㎡、[西円堂]単層八角形造り本瓦葺・101.7㎡、[南大門]単層入母屋造り本瓦葺・3間1戸八脚門 66.2㎡、[東大門]単層切妻造り本瓦葺・3間1戸八脚門 50.2㎡
世界文化遺産(単独) 法隆寺地域の仏教建造物
西院の廻廊部分が中心部であるが、その周辺にも国宝建築が点在している。廻廊東西の東室と西室は僧坊として建てられたもので、東室は12間、西室は19間と南北に長い建物である。創建当初の僧坊は4棟あったらしいが、僧の数が減って3棟となり、その内の2棟は改修されている。平安後期の保安2年(1121年)、東室が改修されて前方は聖霊院が建てられた。西室も寛喜3年(1231年)に三経院が建てられて、僧坊の規模は縮小されて行く。現在は聖霊院東室、三経院西室と称されて、時代の変化を感じる。
食堂は聖霊院の北東に位置し、奈良末期の延暦12年(793年)の建築で、食堂建築としては最古である。東に隣接する綱封蔵は、什器や什宝を収納した建物で、天平元年(729年) とされるが、平安時代に改修されたとも聞く。
西円堂は西室の北の小高い丘に建つ八角円堂で、養老2年(718年)に創建されるが、現在の堂は建長2年(1250年)に再建されたそうだ。峯の薬師の名で知られる薬師如来像は、乾漆坐像としては最大級であり、国宝にもなっている。
法隆寺の諸堂は、東西南北の方角に正確に建てられていて、築地塀に囲まれた外郭の東西南にはそれぞれに大門があったそうだ。南大門は総門でもあり、法隆寺では比較的新しい。永享10年(1438年)の建築で、和様式とはなっているが、木鼻などの細部には大仏様が感じられる。東大門は西院と東院の境にあり、奈良末期の延暦12年(793年)に建てられたが、 平安時代に現在地に移されたそうだ。他にも西大門はあるが、近年の再建のようだ。
聖徳太子の創建した法隆寺(斑鳩寺)は、天智10年(670年)に焼失したとされ、その遺構が塔頭・普門院の裏手に若草伽藍跡と称されて礎石が残されている。礎石の配置から考察すると、金堂と五重塔が南北に一直線に並ぶ天王寺式であったとそうだ。元禄7年(1694年)、芭蕉翁は伊賀上野から西国巡歴の旅の途上、奈良に立寄り「菊の香や ならには古き 仏達」と句を詠んでいるが、古き仏たちよりも更に古い仏たちが地に埋もれているのである。
024法隆寺 東院(上宮王院)夢殿・伝法堂・鐘楼
訪問年: 昭和48年12月17日(日)・平成29年06月03日(土)
所在地: 奈良県生駒郡斑鳩町
創建者・施主: 行信(開基)、施主不明
建築年: 東院夢殿739年(天平11年)、伝法堂793年(延暦12年)、鐘楼1163年 (長寛元年)
様式・規模: [東院夢殿]単層八角形造り本瓦葺・一辺4.7m 105.2㎡、[伝法堂]単層切妻造り本瓦葺・桁行7間×梁間4間 266.8㎡、[鐘楼]袴腰付入母屋造り本瓦葺・桁行3間×梁間2間 11.9㎡
世界文化遺産(単独) 法隆寺地域の仏教建造物
法隆寺東院は正しくは上宮王院といい、聖徳太子が斑鳩宮を造営した跡とされる。太子が薧去した20年後、蘇我入鹿は斑鳩宮を焼き打ちにして太子の子孫を滅ぼす。その約100年後に、斑鳩宮の荒廃に接した行信大僧都は、太子の冥福を祈る意味も込めて建立したのが夢殿を本堂とする諸堂である。
夢殿は天平11年(739年)に建てられた八角堂で、30坪ほどの小さな建物であるが、その夢のような美しさは格別である。私も少年頃、プラモデルを作ってその魅力にふれたが、実際に近くに寄って眺めてみると、幾何学的な得異な意匠に吸い込まれそうになる。明治初年、岡倉天心の案内で訪れた米国人のフェノロサは、夢殿に建物に魅了された。そして、布に包まれてまま一度も開帳されなかった秘仏の拝観を迫った。そうして目にしたのが、国宝となった救世観音像で、聖徳太子の等身大と伝わる。
伝法堂は夢殿と同時期に建てられた橘少夫人の住宅を移築したものとされ、平安時代に流行した寝殿造りの原型ともされる。度重なる修復で、寺院仕様に改修されたようだが、近年の解体修理で、復元修復がなされたようである。
伝法堂の西にある鐘楼は、長寛元年(1163年)に建てられるが、鎌倉時代の文永11年(1274年)の修復の折、袴腰が付けられたようである。中に吊られた鐘は、奈良時代のもので重要文化財であるが、当日はその音色を聴くことなかったが、いつの日か再び訪ねたいと思う。
創建当時の上宮王院は、国宝建築以外に北に絵殿や舎利殿、南に礼堂や南大門、西に四脚門が建てられたと聞く。絵殿と舎利殿は鎌倉時代に再建されて重要文化財となっているし、南大門(不明門)も四脚門も再建されて創建時に復旧されていた。
伝法堂の奥には北室院の堂宇が建ち、本堂や太子堂、表門と築垣は重要文化財である。法隆寺は世界文化遺産の登録を得る際、「法隆寺地域の仏教建造物」として申請している。そこに北室院も含まれ、国宝、重要文化財という旧文部省のお墨付きを超えた遺産を痛感する。私の「国宝建築の旅」は、素人の目線で再び見つめ直す機会ではないかと思うようになった。深田久弥氏の「日本百名山」とは異なり、盲目的に国宝と重要文化財に憧れた若き旅の日々を懐かしく思うほど、加齢に反して目線は鋭くなって行く。
「プラモデル 作りて焦がれた 夢殿に 出会いてうれし 冬の足音」 陀寂
025法起寺 三重塔
訪問年: 昭和48年12月17日(日)
所在地: 奈良県生駒郡斑鳩町
創建者・施主: 恵施(開基)、山背大兄王
建築年: 706年(慶雲3年)
様式・規模: 三重塔婆本瓦葺・高さ23.9m 一辺6.4m(三間)
世界文化遺産(単独) 法隆寺地域の仏教建造物
奈良の寺社史蹟は広範囲にわたっており、3日間でめぐるのは最初から無理があり、今日1日はいかるがの里を満喫したいと思った。中宮寺の弥勒半跏像は女性的な美しさにあふれ、仏像に対する関心が次第に深まって行くようだ。私の意識には、仏像は信仰の対象であって美術的な鑑賞をすべきではないと考えていたが、拝観料を払って見る仏像は、信仰の対象から鑑賞の対象へと価値観が移行しているので問題はないと勝手な解釈をした。
法起寺は斑鳩の里でも最も北に位置し、かつて聖徳太子が伯母の推古天皇に法華経を講じた岡本宮があった場所である。岡本寺または池後尼寺とも称されて、聖徳太子が創建した七ヶ寺の一つとも伝わる。文献によると、山背大兄王が舒明10年(638年)に太子の遺命によって岡本宮を寺に改めて建立したとなっている。
法起寺の伽藍配置は、塔と金堂が東西逆になっているだけで、法隆寺と同じ伽藍配置であったそうだ。三重塔は慶雲3年(706年)の建立で、法隆寺五重塔が建築された時期と一緒であり、同じ大工や工人によって手掛けられたと言える。柱のエンタシス(ふくらみ)や雲形斗栱など組物に同じで、法隆寺五重塔と共通点が多い。また、屋根の大きさを法隆寺五重塔と比較すると、法起寺三重塔の初層、2層、3層は、法隆寺五重塔の初層、3層、5層と同じで、各層の面積差が大きい。両塔が同時並行で建築されたとは考えられないが、何となく三重塔を先に建てから、10メートルほど高い五重塔を建築したのではと思われる。
法隆寺は靖国時代(1869年~1945年)までは、法相宗の総本山であったが聖徳太子の遺徳を顕著する意味もあって、聖徳宗総本山へと改宗された。法起寺は法隆寺の本山となり、斑鳩の名所であると共に、国の史跡にもなっている。
斑鳩の里は、聖徳太子の里であり、仏教の故郷でもある。仏教伝来から56年後の推古2年(594年)、聖徳太子は仏教を広める「三宝興隆」の詔を発した。太子は奈良仏教の開祖であり、日本の仏教の父でもある。もし、仏教が日本に広まらなかったら、弘法大師も親鸞や日蓮の両聖人も出現していなかったし、仏像も仏画も、茶道も華道も、日本文化は弥生人の文化を守っていたこであろう。
現在の1万円札を手にすると、福沢諭吉も立派な人と思うが、律令国家の礎を築いた太子の力量は万人の及ばぬところである。その太子の紙幣を復活させて欲しいと願うは私一人であろうか。太子は推古30年(622年)、斑鳩宮で薧去するが、その際に巨勢三枝太夫が「斑鳩の 富の小川の 絶えばこそ 我が大君の 御名忘らえめ」と哀悼歌を詠んでいる。
026松本城 天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓
訪問年: 昭和48年12月20日(木)・平成03年09月16日(月)・平成19年10月08日(月)
所在地: 長野県松本市
創建者・施主: 石川康長
建築年: 天守1620年(元和6年)、乾小天守1592年、渡櫓1624年、辰巳附櫓・月見櫓1644年
規模: [天守]5層6階・本瓦葺、[乾小天守]3層4階・本瓦葺、[渡櫓]2層2階・本瓦葺、 [辰巳附櫓]2層2階・本瓦葺、[月見櫓]単層地下1階付・本瓦葺
奈良の旅を終え、アルバイト先の志賀高原丸池スキー場に向かうため、関西本線と中央西線の汽車に乗った。その途中、どうしても松本城が見たなって松本駅に降り立った。東京にいた頃、小諸まで来たことがあったが、それ以外の信州は未踏の地ばかりである。
子供の頃から最も憧れていたのが、プラモデルで作った姫路城であり、学校の勉強よりも城廓にすこぶる興味をもっていた。日本の主要な城郭を見て歩くことが、青春時代の旅の目的でもあった。この松本城を訪ねる前は、都内の城跡は殆ど見て来ていた。
松本城の天守は、姫路城、彦根城、犬山城の天守と共に国宝に指定されている。二条城も国宝であるが、二ノ丸御殿があるだけで、天守が再建されないままに放置されているので、興味は薄れる。沖縄の首里城は、霞ヶ関時代(1946年~現在まで)の再建であるが世界文化遺産に登録されているのに。
松本城は旧名を深志城とも呼ばれる室町末期の戦国時代からの城であったが、天正18年(1590年)に石川数正が豊臣秀吉から8万石を与えられて入部した。数正はそもそも徳川家康の家臣であったが、秀吉の天下が盤石となって寝返ったようである。それまでの松本城は、小笠原貞慶によって城郭の拡張が行われ、三ノ丸が築造されていたようである。
天守閣は文禄3年(1594年)、数正と子の康長によって築造されるが、その後の城主によって元和6年(1620年)に改修されたのが現在の天守閣とされる。5層6階の天守の他に、3層4階の乾小天守が文禄元年(1592年)に建てられ、渡櫓で天守と連結された。渡櫓は寛永元年(1624年)に立替えられたようで、その後の正保元年(1644年)、大天守に辰巳附櫓と月見櫓の続櫓が増築されて複合天守が完成されたようである。
城の石垣は野面石による空積みで、素朴で簡素な感じがする。渡櫓には狭間や石落しなどが目立ち、防備を重視した時代の名残が感じられる。その反面、月見櫓は風流な趣があって、天下泰平の世に相応しい城主の意向が見られる。
近世城郭には、シンボルタワー的な天守閣は欠かせないが、城主が日常生活した本丸など御殿の遺構も欠かせない。本丸は享保12年(1727年)の火災で焼失したまま、再建されていないのが残念である。名古屋城本丸も再建されつつあるので、松本城本丸の再建に期待したい。松本城の魅力は、その背後に聳える北アルプスの存在であり、黒漆塗りの下見板の外壁と、残雪の山並みは絵画的な美しさであろう。
「未だ見ぬ 北アルプスの 山並みに 負けじと聳ゆ 松本城を」 陀寂
027善光寺 本堂
訪問年: 昭和49年02月11日(月)・平成19年10月08日(月)
所在地: 長野県長野市
創建者・施主: 本多善光(開基)、徳川綱吉
建築年: 1707年(宝永4年)
様式・規模: 向拝付重層入母屋造り檜皮葺・桁行7間×梁間16間×棟高102尺(24m×54m×30.9mH) 1280㎡
志賀高原のスキー場で、リフト係のアルバイトをしながらスキーも楽しめたし、3月になったら沖縄へ行こうと決めて、志賀高原の山を降りた。その途中に善光寺に立寄り、「牛に引かれて善光寺詣で」とはならなかったが、スキーを滑ってからのお参りとなった。
善光寺は本堂の建物よりも、一光三尊の阿弥陀如来像が有名であり、戦国時代にはその仏像の争奪戦が繰り広げられた。信州を制圧した武田信玄は甲府に仏像を持ち帰り、新たに善光寺を建てて、お膝もとに安置した。その後、織田信長は仏像を岐阜に移して、子の信勝が尾張の甚目寺に置いたのも束の間、徳川家康が遠州の鴨江寺、豊臣秀吉は京都の法広寺へと移して、42年後に長野の善光寺に戻されている。
そもそもこの仏像は、欽明13年(552年)に百済の聖明王から日本に贈られたもので、本多善光とう人が、飛鳥時代の推古10年(602年)に信州へ運んで来たとされる。皇極元年(641年)、皇極天皇の勅願によって寺が建立されて、本多善光の名に因んで善光寺と名付けられたそうだ。その後は朝野の尊崇を集めて、天台宗の僧寺(大勧進)と、浄土宗の尼寺(大本願)と二つの宗派が共存する特殊な大寺院となった。
本堂は平安初期から江戸中期にかけて、11回も火災に遭っていて、現在の本堂は宝永4年(1707年)に再建されている。東大寺大仏殿とほぼ同じ頃に建てられた大建築で、東日本随一の大きさである。平城京の朝集殿を模して建てられたようで、内々陣、内陣、中陣、外陣、そして礼堂から構成されているので、四棟造り(撞木造り)とも呼ばれている。礼堂を広くして参詣者を重視する形式となり、善光寺が東京の浅草寺や成田の新勝寺と並んで三大信者寺と言われるようになった。
まだ国宝に格上げとはなっていないが、寛永3年(1750年)に再建された山門も壮大な建築で、5間3戸二階二重門(楼門)である。2度目に訪ねた時は、屋根の檜皮が葺き替えられたばかりで、その新鮮さと本来の褐色の色彩に暫し見とれた。
本堂の四方には、四門廻廊がめぐらされていて、その門の扁額には善光寺、無量寿寺、浄土寺、雲上寺と書かれている。複雑な宗派対立を物語るもので、貞享5年(1688年)、更科紀行の旅で訪れた松尾芭蕉翁は、「月影や 四門四宗も 只一つ」と詠んで、その有り様を暗に批判している。貞享5年と言えば、浄土宗の大本願から天台宗に改宗された2年後であった。明治維新となって再び浄土宗となり、現在は二派によって管理されているようだが、芭蕉翁の句碑数が全国一の長野県にあって、善光寺に句碑がないのも宗教的である。
028出雲大社 本殿
訪問年: 昭和49年06月02日(日)・平成25年03月26日(火)
所在地: 島根県出雲市
創建者・施主: 出雲国造(創建)、松平直政
建築年: 1744年(延享元年)
様式・規模: 大社造り桧皮葺・桁行6間(10.9m)×梁間6間(10.9m) 高さ24.2m
沖縄本島から与論島に渡って10日余りを過ごした時、ハイエースをキャンピングカーに改造し、日本全国を旅行している年長の人とユースホステルで知り合った。その車に便乗して鹿児島から九州を縦走し、山陰地方をめぐっている途中に出雲大社に参詣した。
出雲大社は大黒様の名で親しまれ、縁結びの神様として名高い。神話によると、天孫降臨に先立ち、出雲の大国主神は高天原の命に応じて皇祖に国譲り、現在地に隠居したと伝わる。その後、天照大神の第二子・天穂日命が大国主命を祀ったが起源とされる。大国主命は別名を大己貴命(大物主神)とも呼ばれ、別名をもって祭神とする著名な神社も多い。
社伝によると、上古の本殿は極めて壮大な建物であったらしく、16丈(約48.5m)もあったと言う。信じられない高さではあるが、斉明5年(659年)に7丈(約21.2m)以上を正殿造、それ以下を仮殿造する正殿式制が定められて平安後期まで続いたようである。鎌倉時代に入ると仏教が神道を凌ぐ勢いとなり、境内にも堂塔が建ち、本殿は4丈(約12.1m)に縮小されたと聞く。神仏習合が加速され、社殿も神職も僧侶たちが管理するようになる。
出雲大社の衰退を憂えた松江藩主・松平直政は、寛文2年(1662年)から復興に努め、更に歴代藩主によって、延享元年(1744年)から本殿の建築が着手され、延享4年(1747年)に本殿は完成した。正殿式よりも更に1丈高い、24.2メートルの高さで再建された。切妻に妻入りを設けた単純な造りは、大社造りとも呼ばれて伊勢神宮の正殿と共に古代の神社建築を現在に伝えている。
出雲大社は靖国時代の明治4年(1871年)、現在名に改称するまでは杵築大社と永く称されていたようで、室町時代以前は大社杵築大神宮や杵築大明神とも称されたと聞く。祭祀を司る祠官家は、天穂日命(天菩比命)の末裔とされる出雲の国造家で、現在の千家氏や北島氏は皇室に次ぐ永さの家系とも言われる。
一般参詣と見学は、楼門の手前にある八足門まであったので、本殿の内部に入れなかったが、その外観を拝するだけでも出雲大社に立寄った甲斐があった。しかし、当時の私はカメラも買えないほどの貧乏生活をしていたので、出雲大社の写真は一枚もない。もう一度訪ねてカメラに収めたいと思うし、諸国一宮のご朱印も頂戴したいと願っている。
出雲と言えば、私の脳裏に去来するのが、飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂が「八雲さす 出雲の子らが 黒髪は 吉野の川の 沖になづさふ」と、吉野川でおぼれて死んだ出雲の娘子たちを追悼歌である。人麻呂は石見の国で死んだとされる伝承もあり、その手前の出雲の国とも関わりが深かったと推察する。
029姫路城 大天守・西小天守・乾小天守・東小天守・イロハの渡櫓・ニの渡櫓
訪問年: 昭和50年12月11日(木)、平成23年01月04日(火)、令和03年09月11日(土)
所在地: 兵庫県姫路市
創建者・施主: 池田輝政
建築年: 大天守・西小天守1608年(慶長13年)・乾小天守・東小天守・渡櫓1609年(慶長14年)
様式・規模: [大天守]5層6階地下1階付・本瓦葺、[西小天守]3層3階地下2階付・本瓦葺、[乾小天守]3層4階地下1階付・本瓦葺、[東小天守]3層3階地下1階付・本瓦葺、[イロハの渡櫓]2層2階地下1階付・本瓦葺×3棟、[ニの渡櫓]2重櫓門 本瓦葺
世界文化遺産(単独) 姫路城
郷里の秋田を出発して3週間近く山陽と四国を旅した折、博多まで開業して間もない新幹線を利用して、姫路駅に降り立った。子供の頃からプラモデルを作って憧れた姫路城を見学するためであり、他にも岡山城、広島城、福山城、高松城、伊予松山城と、近世城郭をめぐることに今回の旅の重点がおかれた。
城郭に興味を持つようになったのは、映画やテレビで見た時代劇の影響が大きく、小学校の高学年の頃は著名な城の所在地は殆ど知っていた気がする。そんな記憶の中で、国宝姫路城は特別な存在に感じたものである。
姫路城は播磨の守護・赤松則村と子の貞範が元弘3年(1333年)から天正元年(1346年)かけて城砦を築いたことが始めとされる。天正8年(1580年)に羽柴秀吉が中国攻めの拠点として、三層の天守を築いて近世城郭の基盤を造った。その後に入城した池田輝政は、7年の歳月を費やし、慶長13年(1608年)に5層6階の大天守と西小天守を築き、翌年には乾小天守と東小天守、渡櫓などを完成させた。
大天守の高さは54メートルと、現存する木造の天守閣では日本一の高さを誇る。五重塔を除いた木造建築に限定すると、東大寺大仏殿に次ぐ高さであり、50メートルという高さが地震にも耐えて来た木造建築の限界ではないだろうか。
天守閣を城郭のシンボルとして最初に築いたのが織田信長で、琵琶湖畔にあった安土城である。博物館などに展示用として復元されたものを見る限り、金閣寺や夢殿の意匠を取り入れた天守で、信長の奇抜さが感じられるが、姫路城大天守のような優美さはない。
近代城郭の特徴は、どこの城でも天守閣の上層の屋根に鯱鉾の鴟尾が飾られ、各層の庇に千鳥破風や唐破風が設けられている。窓は防衛上の理由で、光が差し込む程度の格子窓が多く、丸や四角の矢狭間や鉄砲狭間が必ず備えられてある。
戦前までは世に名城と称された旧国宝の名古屋城や広島城があったが、空爆によって消失した。福山城も失われているので、姫路城だけが空爆を免れたことは奇跡的である。姫路城は桜の名所でもあり、城と桜は切っても切れない美観の一つであると共に、城郭は武士道にも通じる心のモニュメントでもある。
「白鷺や 親子四羽に 花の雲」 陀寂
030明王院 本堂(観音堂)・五重塔
訪問年: 昭和50年12月17日(木)・平成26年1月19日(日)
所在地: 広島県福山市
創建者・施主: 空海(開基)、紀貞経
建築年: 本堂1321年(元亨元年)、五重塔1348年(正平3年)
様式・規模: [本堂]向拝付単層入母屋造り本瓦葺・桁行5間×梁間5間 139.5㎡、[五重塔]五重塔婆本瓦葺・高さ29.1m 一辺4.4m(三間)
福山城を見物してから知人の案内で、明王院を訪ねたのであるが、当時の私は古都の寺院を除くと殆ど無知で、広島県に明王院のような古刹があることに驚いた。それも国宝建築ともなれば尚更であり、忘れられない参詣となった。
明王院は真言宗大覚寺派の別格本山で、大同2年(807年)に弘法大師空海が開基したと伝えられる。大同2年と言えば、弘法大師が唐から帰国した翌年で、入京が許されず西国を遍歴していた時期である。この頃に弘法大師によって創建された寺は多く、四国霊場八十八ヶ所に10ヶ寺、厳島の大聖院などがある。
明王院は古くは草戸の常福寺と称された岡山の西大寺末で、江戸時代に福山城に入部した水野勝成によって、その祈願寺とされた。3代藩主・勝貞によって本庄町にあった明王院と合併され、備後随一の真言寺院と発展する。また萩寺の俗称があるようで、山門が萩の一木で造られていることに由来するようだ。
本堂は鎌倉時代の元応元年(1321年)、紀貞経より寄進されたもので、外観は大仏様を踏まえてはいるが、装飾細部には禅宗様が先取りされた折衷様の建築である。外陣の天井が唐破風形の独自の曲線を描いて、他に例のない意匠のようだ。
五重塔は貞和年4(1348年)の建築で、全国の五重塔では5番目の古さである。また、22基ある国宝と重要文化財の五重塔の中では、下から5番目の高さでもあるが、それでも30メートル近い高さは壮大に見える。色彩の美しい塔でもあり、各層の屋根の勾配がゆるやかで、純和風の様式を感じる。
寺院仏閣の建築の華は、何と言っても五重塔であり、その希少価値は三重塔に比べると数値からして明確である。国宝と重要文化財に指定された三重塔は、全国に57基もあり、五重塔の倍以上の数にのぼる。中には五重塔よりも高くて大きな三重塔もあるが、室生寺の五重塔のように最も小さな塔であっても、その建築美は頂点を極めている。
中世の集落遺構として知られる草戸千軒町は、常福寺の門前町であったと言われ、寛文13年(1673年)に河川の氾濫で水没したと聞く。本堂に安置された十一面観音像は、重要文化財にもなっている桧の一本造りで、平安末期の秀作と言われる。中世の頃は、観音信仰が盛んとなって、その霊場めぐりの流行がピークとなるが、草戸千軒町遺跡にはその頃の繁栄の跡が偲ばれる。
「備後にも 雪は降るなり 五重塔」 陀寂
031二条城 二之丸御殿
訪問年: 昭和50年12月22日(月)・平成19年10月03日(水)
所在地: 京都府京都市中京区
創建者・施主: 徳川家康
建築年: 1626年(寛永3年)
様式・規模: [遠侍]単層入母屋造り本瓦葺・桁行8間×梁間8間、[車寄]単層入母屋造り桧皮葺・桁行5間×梁間3間、[式台]単層入母屋造り本瓦葺・正面3間+背面5間×左面4間+右面6間、[大広間]単層入母屋造り本瓦葺・正面7間+背面5間×右面8間+左面7間、[蘇鉄の間]単層入母屋造り本瓦葺・正面1間+背面3間×右面8間+左面9間、[黒書院]単層入母屋造り本瓦葺・正面7間+背面8間×右面6間+左面8間 、[白書院]単層入母屋造り本瓦葺・桁行6間×梁間6間
世界文化遺産(複合) 古都京都の文化財
西国の旅を終えて、2年ぶりに京都を訪ねて、未訪問の地へと足を運んだ。その日の最初は二条城を訪ねることにした。観光シーズン中のは、いつも日でも混雑が予想されたので、この時期ならばゆっくりと見物できると考えたのである。
二条城は凸字形をなした外堀で囲まれいて、東大手門から入ると二ノ丸と本丸とに区画されている。座ったまま天下餅を手にした徳川家康が、関西の諸大名に命じて慶長6年(1601年)に着工し、同8年に完成させている。
徳川将軍が上洛した折の宿舎と建設されたようであるが、初代家康、2代秀忠、3代家光の将軍が当初に利用しただけで、14代家茂が229年ぶりに宿泊しているだけである。皮肉にも最後の将軍慶喜が、幕府から朝廷に政治を委ねた「大政奉還」が行われた場所でもある。
現在の二条城には、天守閣を除いた本丸御殿や城門・隅櫓などが残っているが、国宝に指定されているのは二ノ丸御殿だけである。遠侍・車寄・式台・大広間・蘇鉄の間・黒書院・白書院からなる。二ノ丸に付帯した唐門、台所や御清殿は重要文化財になっているのが不可思議である。これも役所的な感覚だろうか、一括して指定するべきであると思う。
遠侍は諸大名の控室となった所で、襖絵の虎の絵は、どう見ても豹を描いたように見えるし、虎から豹に変貌した家康の好みが感じられる。大広間への途中にある式台は、記憶に残っていないが、廊下の天井画には首が疲れるほど見上げた。桃山文化の最後美を飾った意匠であり、大広間の景観はその縮図の様に見えた。欄間の彫刻や障壁画、中でも狩野探幽が描いた槍の間の松と鷹を絵には圧倒された。蘇鉄の間や両書院も、美女10人を一度に見るようで、前後不覚に陥りそうだ。
二ノ丸から濠を隔てた本丸の御殿を見て、天守閣跡に立った。かつては○層○階の天守閣があったが、寛延3年(1750年)に落雷によって消失したたそうだ。未だに再建されないのは残念であり、首里城のように完全な復元がなされて世界遺産に価値も高まる。
「天守台 上りて遠し 江戸の華」 陀寂
032大徳寺 方丈・唐門
訪問年: 昭和50年12月22日(月)・平成03年12月31日(火)
所在地: 京都府京都市北区
創建者・施主: 大燈(開基)、後藤益勝
建築年: 方丈1636年(寛永13年)、唐門1587年(天正15年)
様式・規模: [方丈]単層入母屋造り桟瓦葺・正面29.8m×側面17.0m 565.1㎡、[唐門]唐破風付切妻造り桧皮葺・四脚門 8.6㎡
日本の仏教は13宗56派とも呼ばれ、その大本山や本山の半数は京都に所在する。大徳寺も臨済宗大徳寺派大本山で56派閥に含まれており、大寺院ならでは大伽藍と塔頭を有する。臨済宗の中でも妙心寺に次ぐ巨刹であり、国宝建築以外にも禅宗の魅力は溢れている。
洛北紫野にある大徳寺は、鎌倉時代の元応元年(1319年)に大燈国師(宗峰妙超)が播磨の守護・赤松則村の助力によって法堂を建てたことが始まりとされる。その後、花園天皇の帰依を受け、寺勢を増すが「応仁の乱」の兵火によって荒廃してしまう。その復興に尽力したのが、有名な一休さんこと一休宗純である。
総門を入ると、勅使門・三門・仏殿・法堂が一直線に建ち並び、右手に浴室・経堂・鐘楼と七堂伽藍が配置されている。すべて重要文化財で、室町時代から江戸時代初期に建てられている。七堂伽藍の一番奥に本坊(寺務所)となっていて、寝堂と庫裡、そして方丈と唐門の国宝建築はある。
方丈は寛永13年(1636年)に新たに建てられてもので、古い方丈は庫裡に移されたようである。古い方丈は重要文化財で、新しい方丈が国宝となっているのも不思議に思われるが、その意匠や形式が禅寺独自の方丈となっているからであろう。一般的な方丈の間取りとは異なり、南側の広縁、正面の桟唐戸や舞良戸、襖によって屈折した形で区切られている。
唐門は方丈前庭にある不開の門で、中門とも呼ばれているが桧皮葺きの屋根が白砂に調和してとても美しい。聚楽第から移築されたそうで、木鼻や妻飾りの彫刻など豪華な桃山様が見られる。
方丈庭園は庭園の国宝でもある特別名勝で、方丈が新築された際に、南庭は天祐和尚が作庭し、東庭は小堀遠州の作と言われる。南庭は大刈込の下に2個の巨石を配し、豪放な枯滝を組んでいる。東庭は七五三風の石組みで、比叡山を借景とした禅寺らしい名庭である。
大徳寺と言えば、国宝建築ではないけれど、三門(金毛閣)の存在も見逃せない。五間三戸二重門で、大寺院に相応しい風格が漂う。初層は連歌師の柴屋軒宗長が、上層は茶人の千利休が寄進し、天正17年(1589年)に完成している。上層には釈迦三尊と十六羅漢の他に、千利休の木像を安置するが、そのことが豊臣秀吉の怒りにふれて自害に追い込まれている。織田信長をはじめ、戦国武将の多くは千利休を茶道の師と仰ぎ、その影響を受けた。秀吉にとっても心の師とも言える存在であったはずであるが、利休の辞世歌は切な過ぎる。
「提ぐる 我が得具足の 一つ太刀 今此時ぞ 天に抛つ」 利休
033大徳寺 大仙院本堂
訪問年: 昭和50年12月22日(月)
所在地: 京都府京都市北区
創建者・施主: 古岳宗亘(開基)、施主不明
建築年: 1513年(永正10年)
様式・規模: 単層入母屋造り銅板葺・桁行14.8m×梁間10.8m 169.7㎡
大徳寺の山内には23ヶ所の塔頭があり、大仙院・芳春院・三玄院・高桐院・瑞峰院・竜源院の6ヶ所が一般公開されていた。他は塔頭には拝観謝絶の看板が掲げられていて、私のような観光客を相手にしている場合ではないらしい。
大徳寺の塔頭は、一部を除くと戦国武将やその家族による創建が多いのが特徴だ。その塔頭の中でも特に地位が高いのが大仙院で、古岳宗旦禅師が永正6年(1509年)に大徳寺北派本庵として創建した。大仙院本堂は創建して間もない同10年(1513年)に建てられた方丈建築で、禅生活が日本人の日常生活に影響を与えた最古の建築とされている。
本堂は中央に仏間と室中をおき、左に衣鉢ノ間と檀那ノ間、右に書院ノ間と礼ノ間の6室から構成されている。室中・檀那ノ間・礼ノ間の襖絵は重要文化財となっており、狩野派の伝統を伝える名画もある。方丈建築の屋根は桧皮葺きが一般的であるが、本堂として使われるようになってから銅板葺きに改められたのであろうか、私はあまり好まない。
本坊方丈庭園と同様に、大仙院庭園も特別名勝に指定されている。龍安寺石庭と並んで絶賛される枯山水庭園で、古岳禅師が自ら作庭したとされる。狭い敷地の中に水墨画のような意匠が施され、蓬莱山から大海に注がれる水の流れを表現していると聞く。透渡殿のの宝船(長船石)は、日本で最高の名石と称され、8代室町将軍・足利義政が贈った石とも言われる。限られた空間の中で、最大限の自然景観を創造するのが、禅的な庭園と言える。
大徳寺本山と塔頭は、世界文化遺産の登録を受けていないようだが、単独の世界文化遺産を目指しても良いと思うが、拝観謝絶の塔頭の存在を考えると、観光寺院とは一線を画したいとする宗教的なプライドを感じる。
そもそも臨済宗の禅は、栄西禅師によって日本にもたらされ、宋国から来朝した名僧たちによって京都や鎌倉に定着した。その後に夢窓国師のような日本人の名僧が現れ、他宗派とは異なる発展を遂げる。夢窓国師は優れた弟子たちを輩出したが、大徳寺を開基した
宗峰妙超が乞食修行する様を見て、これからの臨済宗は彼の時代になるだろうと予測した。その大燈国師の師は来朝した大応国師(南浦紹明)で、弟子は関山慧玄であることから法脈は「応燈関」と称され、現在の臨済宗はみなこの法脈に属するそうだ。
臨済宗は修行が厳しく、個性的な名僧が多いが、江戸時代初期には漬物で有名な沢庵宗彭和尚が大徳寺の住持となっている。剣豪・宮本武蔵は、大仙院の書院で沢庵和尚から剣の極意を授かったとされる。その沢庵和尚の和歌が、悟り得た道歌にも思える。
「思えただ 満ればやがて 欠く月の 十六夜の空 人の世の中」 沢庵
034広隆寺 桂宮院本堂(八角円堂)
訪問年: 昭和52年07月07日(木)・平成04年01月02日(木)
所在地: 京都府京都市右京区
創建者・施主: 秦河勝、道昌(中興)、中観(再建)
建築年: 1251年(建長3年)
様式・規模: 単層八角形造り桧皮葺・一辺2.1m 21.7㎡
洛西の太秦は、東映太秦映画村が有名であり、広隆寺の境内はその敷地と隣接している。ある意味では、江戸時代の街並みを再現したスポットがあるのは好ましいが、京都の市中にお江戸日本橋があるのも妙な組合せである。
広隆寺は京都最古の寺で、聖徳太子が秦河勝に命じて推古11年(603年)に創建したと伝えられている。帰化人であった秦一族の氏寺として栄え、蜂岡寺、太秦寺、、秦寺、秦公寺、葛野寺など呼ばれて来たそうだが、現在は真言宗御室派の大本山となっている。
平安初期の弘仁9年(818年)と、平安末期の久安6年(1150年)に堂宇が焼失したようであるが、その都度再建されている。堂々とした二層の南大門を入ると、広々とした境内に赤堂とも呼ばれる講堂が建ち、上宮王院太子殿(本堂)、霊宝殿、庫裡などが建っている。永万元年(1165年)以降に再建された堂宇であるが、独自の伽藍配置は移り行く時代を見るようだ。
境内の西にひっそりと建つのが、桂宮院本堂となっている八角円堂である。鎌倉時代の建長3年(1251年)に太子信仰の風潮の影響で建てられたものと言われる。八角円堂は珍しい建物で、奈良の興福寺に南円堂と北円堂があり、斑鳩の法隆寺に夢殿があるが、京都ではこの広隆寺にあるだけである。
この八角円堂は建築様式が他の3棟とは異なり、基壇上に立っているのではなく、板敷きの廻縁に立っている。奈良の八角円堂に比べると、屋根は勾配の緩い桧皮葺きで、組物も簡素となっているが、優美で軽快な趣が感じられる。堂内には、重要文化財の木造如意輪観音半跏像が安置されているようだが、日曜日と祝日に公開されるようで、二度目の訪問も平日であったため後悔が残る。
広隆寺の魅力は何と言っても仏像であり、国宝が17体、重文が20体余もある。中でも弥勒菩薩半跏像は、百済から献上されたものを聖徳太子が秦河勝に賜ったものとされ、霊宝殿に安置されている。微笑をたたえながら半跏思惟するポーズは、美しさと気品にあふれ、訪れる人の目を止める。赤松の一木造りなので素木のようにも見えるが、かつては金箔が施されていたらしく、その化粧した様子を想像すると飛鳥時代の人たちが羨ましく思える。
八角円堂の国宝建築の他に講堂が重要文化財になっているが、永万元年(1165年)の再建と聞くので、京都市内では最古の建築物となる。いずれは国宝に昇格するのは明らかであり、
南大門と上宮王院太子殿も新たな重要文化財に指定されることを期待する。有形文化財を後世に残すことが最も大切であり、申請がないと指定しない制度にも問題がありそうだ。
「宝ぞと 思えば守る 建物に 格差広がる 評価と答申」 陀寂
035羽黒山 五重塔
訪問年: 昭和53年05月05日(金)・平成05年04月08日(木)・平成21年07月26日(日)
所在地: 山形県羽黒町
創建者・施主: 蜂子皇子(創建)、最上義光(修繕)
建築年: 1337年(延元2年)
様式・規模: 五重塔婆柿葺・高さ29.3m 一辺5.0m(三間)
羽黒山には何度となく訪ねているが、「奥の細道」の約2,400キロを自転車で踏破した折、訪ねたのが印象的だ。手向にある随神門に自転車を停めて、2,446段の石段を上って参詣した。車で来ると、羽黒山の山頂まで有料道路で行けるので、石段を上ることは少なかったが、実際に上ってみると、色々な旧蹟があることを知る。
羽黒山は推古元年(593年)に能除大師こと蜂子皇子が開山したとされる。蜂子皇子は崇峻天皇の第一皇子で、聖徳太子とは従弟にあたる。山頂の羽黒山(出羽)神社の境内には、皇子の陵墓があり、宮内庁の管理となっていることから伝説の人物でもなさそうである。
そのあと間もなく月山と湯殿山が開山されて、出羽三山と称されるようになり、紀州の熊野三山と同様に修験道の霊場へと発展する。羽黒山は伊氐波神、月山は月読命、湯殿山は大山祇命を祭神としていたが、神仏習合の風潮によって羽黒山は観音菩薩、月山は阿弥陀如来、湯殿山は大日如来が本地仏とされるに至った。また、それぞれの山が大権現とも称され、安貞2年(1228年)には、羽黒三所権現の社殿が造営されている。中世に入ると、羽黒山は天台系の寺院が別当となり、湯殿山は真言系の寺院が別当になっている。
羽黒山の五重塔は、鎌倉時代の延元2年(1337年)に最上義光によって建立されたとされる説と、応安5年(1372年)に武藤政氏が再建したとする説もある。また、伝説によると平将門が塔を建てて、扁額は小野道風の書とも言う。何れにしても坊舎36、山伏寺76を擁していた盛時の名残で、旧瀧水寺の遺構であったようだ。
長い石段の中腹に建つ五重塔は、各層の軒反りが美しい和様式で、安定感の伝わる塔である。杉の巨木に囲まれて落雷を免れて来たようであるが、石段の脇に諸堂が建っていた昔日を思うと、寂しさが込み上がって来る。
羽黒山には三山神社の合祭殿が、庄内藩主・酒井忠器によって文政3年(1811年)に建立された。入母屋造りの茅葺きで、茅の厚さが2メートルもある豪壮な社殿で、見る人を圧倒する。延べ人数で10万人近くが動員されて、7年の歳月を要したと聞くが、国宝に格上げとなっても良いような建物でもある。
再び石段を下って二の坂に付近にあった南谷に立寄った。ここには別当寺の別院・紫苑寺が場所で、奥の細道の旅の途上に芭蕉翁が曽良と逗留している。門人・近藤左吉(呂丸)の計らいもあって、別当代の会覚阿闍梨と謁見し、最大限の歓待を受け、句会も数回催されたようだ。しかし、明治初年の廃仏毀釈で破壊され、今は礎石と句碑が残るだけである。
「有難や 雪をかほらす 南谷」 芭蕉
036彦根城 天守・附櫓多聞櫓
訪問年: 昭和62年01月29日(木)・平成05年04月18日(日)・平成19年05月12日(土)
所在地: 滋賀県彦根市
創建者・施主: 井伊直継・直孝
建築年: 天守・付櫓・多聞櫓1606年(慶長11年)
様式・規模: [天守]3層3階地下階段室玄関付本瓦葺、[付櫓]単層櫓本瓦葺、[多聞櫓]単層櫓本瓦葺
勤めていた会社が倒産するという憂き目に遭い、その時に心の拠り所としていたのが弘法大師であり、その聖地である高野山に詣でることにした。秋田から寝台特急「日本海」に乗り、翌朝になって彦根駅で途中下車した。彦根城を見物するのが目的で、駅前からも望まれる天守閣への初登城を目指した。
外濠に架けられた表門橋と、内濠の廊下橋を渡ると、城門が建っている。城門の左右に隅櫓があることから天秤櫓とも称されるが、羽柴秀吉が築城した長浜城から移築したものと聞く。やっとの思いで天守に到着し、薄らと雪化粧をした屋根の景観を眺めた。
入母屋の3層は唐破風、2層は千鳥破風と唐破風、初層は大小の千鳥破風の組合せとなっている。天守は慶長11年(1606年)の築城とされているが、大津城の天守閣を移築修築したことが有力視され、当初は5層5階の大天守だったようだ。天守の2層と3層の外壁には、華頭窓が設えてあり、開放的な雰囲気を感じる。
天守の中に入ると、華やか装飾は一切なく、柱や梁の軸組みが無骨な武士の気風のようにも見える。3層に立つと見晴らしが良く、欄干越しに広大な琵琶湖と、比良の山並みが見えて、彦根城天守に居ることを実感する。
彦根城の築城は、慶長9年(1604年)に井伊直継が着手し、18年の歳月を経て元和8年(1622年)、病弱の兄の跡を継いだ直孝が完成させている。徳川家康は西国の諸大名に抑える要として重要視したようで、慶長10年(1605年)には自らが工事の進捗を検分したようだ。
天守に附属した単層の付櫓も国宝となっているが、大津城の天守閣は豊臣秀次の近江八幡城を大津に移したもので、付櫓も当時のものと推察される。佐和口門の城壁には単層の多聞櫓があったが、いつも間にか重要文化財から国宝となっていた。重要文化財には太鼓門と続櫓、西ノ丸の三重櫓と続櫓、馬屋などが指定されいる。
彦根城は寄集めの城と揶揄されるように、天守、天秤櫓、太鼓門などは戦利品として移築した考えられるが、材木の不足も要因であった。明治維新となって破却されたり、売却された城郭が多数あったが、彦根城は大隈重信が天皇に保存を願い出たことから解体の憂き目をみず、国宝となったのである。
2度目に訪問した頃は、桜の花が満開であり、江戸時代中期の俳人・与謝蕪村が、鮒ずしを食しながら詠んだ城の雲は花雲ように思えてならない。
「鮒ずしや 彦根が城に 雲かかる」 蕪村
037金剛峯寺(高野山) 不動堂
訪問年: 昭和62年02月01日(日)・平成19年05月03日(木)・平成22年03月30日(火)
所在地: 和歌山県伊都郡高野町
創建者・施主: 空海(開山)、行勝(開基)、藤原麗子
建築年: 1198年(建久9年)
様式・規模: 向拝付単層入母屋造り桧皮葺・桁行3間×梁間4間 130.1㎡
世界文化遺産(複合) 紀伊山地の霊場と参詣道
京都を再訪し、大阪から電車を乗り継ぎ高野山に入ったのは、旅に出て4日目のことであった。ケーブルカーを降り、女人堂を経て山内に入ると、見たこともない寺院の数と、病院、学校、警察署、銀行までが建ち並ぶ町となっている。
高野山は弘法大師空海が、真言密教の道場として弘仁7年(816年)に開山開基した。それまでは京都の東寺(教王護国寺)に住していが、都の雑踏に居ると仏道修行に差し障りがあると考えられたのであろう。承和2年(835年)、結跏趺坐してまま入滅した大師は、奥ノ院の石室に安置され、今も生きて人のように食事が供えられて多くの人々の崇拝を集めている。
高野山の核心部は、総本山金剛峯寺と、壇上と称される大伽藍群、そとて、奥ノ院と参道からなる。金剛峯寺と壇上伽藍の周辺には、120余の寺院宿舎(宿坊)があり、ホテルや旅館が1軒もないのが特徴であり、パチンコ店などの遊戯施設がない町もここだけであろう。
壇上の大伽藍は、金堂、根本大堂、御影堂、鐘楼、西塔などその大きさに目を見張る建物ばかりだ。幾度となく落雷などの火災に見舞われ、御影堂と西塔の他は鉄筋コンクリート造で再建されている。東塔の建つ壇上には、三昧堂、大会堂、愛染堂、不動堂の諸堂があるが、規模も小さいためか木造である。
不動堂が高野山で最も古く、建久9年(1198年)に行勝上人が一心院谷に建立したものを明治43年(1910年)現在地に移している。3間3面の主堂に1間3面の付室を設け、正面に1間のがある。桧皮葺きでもあるためか、書院風の仏堂でも見え、堂の4隅は4人の大工が思い思いに作ったものを一緒にさせたと言う伝説もある。
土御門天皇の中宮であった藤原麗子の御願もあって、女性的な草庵と評する人もいるが、当時は女人禁制の地であり、行勝上人に遊び心があったのであろうか。いずれにしても不動明王像を祀る不動堂にしては、風変わりな建物と思う。
壇上から奥ノ院に向かう途中、今夜泊まる宿坊に荷物を預け、約2キロに及ぶ参道を祖廟まで歩いた。老杉の林立する参道には、大小30万基とも言われる墓石や石塔が建っていて、さながら時代絵巻でも見ているような有り様である。
特に戦国大名の墓石はその高さと大きさを競うように建っていて、敵や味方の関わりはないようだ。また宗派を越えた名僧の墓石もあり、「天下の総菩提所」と言われる所以が分かる。中ノ橋には、自然石に刻まれた芭蕉翁の句碑があり、感激の涙を流した。
「父母の しきりにこひし 雉子の声」 芭蕉
038平等院 鳳凰堂(阿弥陀堂)
訪問年: 昭和62年02月02日(月)・平成04年01月05日(日)
所在地: 京都府宇治市
創建者・施主: 明尊(開基)、藤原頼通
建築年: 1053年(天喜元年)
様式・規模: 一重裳階付切妻造り本瓦葺・桁行3間×梁間2間(中堂) 425.3㎡
世界文化遺産(複合) 古都京都の文化財
高野山から再び京都に戻り、宇治から奈良へ古刹巡礼の旅をすることにした。以前はユースホステルに泊まったが、今回は失業中の身にも関わらず、生命保険を解約して得た金があったので、民宿と旅館に3泊した。
宇治平等院の鳳凰堂は、切手や10円玉のデザインに描かれているので、その外観は脳裡に焼き付いている。少年の頃、プラモデルを作ったような気もするが、姫路城や金閣寺よりもインパクトが小さく、記憶に残っていない。
平等院のある宇治川のほとりは、古来より風光明媚な地とされ、平安初期に左大臣・源融は別荘を造営する。その後、摂関家として絶大な権勢を誇った藤原道長の山荘となり、子の頼通に譲られた。頼通は永承7年 (1052年)、天台座主の明尊僧正を導師として仏寺に改める。それが平等院の開基であり、浄土思想の影響もあって、空前絶後の鳳凰堂が建てられるのである。
平等院の鳳凰堂は、奥州平泉の中尊寺、豊後高田の富貴寺大堂と並び「日本三建築」と称されているが、浄土信仰を反映した仏堂としては、富貴寺は再考の余地があると思うし、実際に行って見ないと判断がつかない。そんな思いもあって鳳凰堂の外観を直視した。
丈六の阿弥陀如来座像を安置する中堂を中心に、左右に宝形造りの楼閣を設えた翼廊が伸び、翼廊から阿字池に尾廊が突出している。鳳凰が翼を広げた様子をデザインしたものとされ、中堂の屋根の棟には1対の金銅鳳凰が飾られてある。他に類を見ない建築であり、この世に西方の極楽浄土を具現しようとした頼通の願いが感じられる、
鳳凰堂は天喜元年(1053年)に落慶供養が行われているが、天喜4年(1056年) 法華堂、康平4年(1061年) 多宝塔、治暦2年(1066年) 五大堂・鐘楼などの諸堂が相次いで建立された。その七堂伽藍が整った寺観も建武の乱で焼失し、観音堂(釣殿)と鐘楼、子院の浄土院客殿が残っているだけで、寂しさを禁じ得ない。
阿字池から中堂を眺めると、約2.8mの国宝・阿弥陀如来座像を拝むことができる。大仏師定朝の唯一の遺品とされ、豪華な光背の前で七重の蓮華座に結跏趺坐している。その金箔の装いは衰えてはいるものの、本尊の輝きは失われていない。寺院の本堂は、仏像あっての本堂であって、仏壇は煌びやかに装飾することによってその価値が高まるように思う。摂政関白となった藤原頼通は、毎日何を願ってここに座していたのだろうか。
「契りけむ ほどは知らねど 七夕の たえせぬけふの 天の河風」 頼通
039海住山寺 五重塔
訪問年: 昭和62年02月03日(火)
所在地: 京都府加茂町
創建者・施主: 良弁(開基)、施主不明
建築年: 1214年(建保2年)
様式・規模: 初重裳階付五重塔婆本瓦葺・高さ17.7m 一辺2.7m(三間)
高野山で宿坊に泊まってから宿坊も悪くはないと思い、ユースホステルも兼ねていた海住山寺に投宿した。昨夜は日が暮れてからの到着となったため、境内の諸堂を見ることが出来なかったが、今朝は晴天となり良い写真が撮れるだろうと期待した。
海住山寺は東大寺を開基した良弁僧正が天平7年(735年)創設と伝えられ、観音寺または藤尾山寺と称された。承元元年(1207年)、笠置寺からここに移った解脱上人貞慶が中興し、三方が山に囲まれ、一方の下界は海のように見えたことから海住山寺と改めたようである。
五重塔は建保2年(1214年)、解脱上人の弟子の慈心上人覚真が師の1周忌にあたって建立したと聞く。国宝や重要文化財の五重塔では、室生寺五重塔に次ぐ低さではあるが、心柱が2層で止められていることが他の塔とは異なり、大変貴重な塔と言える。初重に吹放しの裳階が付いているのは珍しく、現存する塔としては唯一と聞く。また、各層の屋根の大きさ比を逓減度と言うが、これも安定感があって良い。鎌倉時代の五重塔は、この塔だけと聞き、薄らと雪化粧した様子を写真におさめた。
他に桁行3間・梁間2間の小さな文殊堂があったが、これも鎌倉時代の建築で重要文化財となっている。仏像や絵画など寺宝も重要文化財となっているものもある。慈心上人の時代に最も興隆したそうで、その面影が境内のあちらこちらに残る霊場でもある。
この寺は真言宗智山派に属し、私が信奉する弘法大師空海を開祖とする。智山派は、京都の智積院が総本山で、成田の新勝寺(成田山)や川崎の平間寺(川崎大師)はその大本山である。真言宗は古義真言宗と新義真言宗に大きく分かれていて、高野山真言宗は古義真言宗の、真言宗智山派は新義真言宗の代表格であり、その勢力は他派を圧倒している。
辺鄙な山の寺なので、ガイドブックにも紹介されることのない寺ではあるが、山の麓にはかつて聖武天皇が造営した恭仁京があり、山城の国分寺もあった。これほどの遺跡があるのに世に知られていないのは、観光バスが入れないと観光ルートに組み込まれないケースが多い。どんな綺麗な女性でも、家から外に出ないとその魅力が世に知られないと同様であろう。
海住山寺は一度の訪問で終わってしまったが、その後ユースホステルを止めてしまったことを知り残念でならない。気取らない住職で、一人旅の馬の骨を暖かく迎えてくれたのは有難かった。国宝建築の寺院に泊まれたことだけでも意義深く、重要文化財の斜陽館(太宰治の生家)に泊まった以外はその経験がなく、これも旅の果報であろうか。
「山城や 五重塔も 雪化粧」 陀寂
040新薬師寺 本堂
訪問年: 昭和62年02月04日(水)
所在地: 奈良県奈良市
創建者・施主: 光明皇后(開基)、明恵(中興)
建築年: 793年(延暦12年)
様式・規模: 単層入母屋造り本瓦葺・桁行7間×梁間5間 338.4㎡
奈良に到着して案内書を見る前までは、新薬師寺のことはあまり知らず、国宝建築の本堂や重要文化財の諸堂があることに驚いた。新薬師寺は柳生街道と山の辺の道の入口にあたり、まだ見ぬ奈良の風景が広がる。
新薬師寺は天平19年(747年)、聖武天皇の眼病平癒を願って光明皇后が建立したそうだが、西ノ京の薬師寺に対して、「あたらしい」ということではなく「あらたかな」と意味が込められている聞く。創建時は東大寺とともに南都十大寺の一つに数えられ、七仏薬師を安置し、四町四方の境内に七堂伽藍があったと伝えられている。
宝亀11年(760年)、西塔に落雷して諸堂が瞬時に炎上し、現本堂となっている食堂のみが残されたようだ。その後に東大寺の別院となり、平安末期から鎌倉初期にかけて明恵上人が中興し、諸堂を復興したようである。明治時代の廃仏毀釈の頃は、東大寺の末寺となったようだが、現在は宿坊なども営み華厳宗は維持しながらも独立しているようだ。
本堂は素朴な単層入母屋造りで、二重基壇の上に太い柱に支えられて、ずっしりとした安定感をもって建っている。土間は瓦敷で周囲1間を外陣とし、内陣の中央部に円形の土壇を設け、本尊の薬師如来坐像が堂々と座している。文化庁の文化財データーには、平安初期の延暦12年(793年)の建築となっているが間違いではと思う。寺伝や文献から推察する限り、国宝・薬師如来坐像が安置された平安初期と混同しているようだ。
薬師如来の卷属として安置されている十二神将軍像は、1体を除く11体が天平時代の作品で国宝でもあるが、その後に造られた1体については曖昧である。寺の栞によると、波夷羅大将像が昭和の作と記されているが、交通公社の案内書には宮毘羅大将像が江戸時代の作と書かれている。いずれにしても、500円切手のデザインで知られる怒髪姿の伐折羅大将像は、十二神将像の最高傑作と言われる。
重要文化財の建物としては、地蔵堂、鐘楼、東門、南門の4棟があり、いずれも鎌倉時代の文永3年(1266年)から元弘2年(1332年)に建立されている。他にも国宝や重要文化財に指定されている寺宝も多く、思わぬ文化遺産にめぐり逢えたものである。
奈良は京都とは異なり、二番煎じの観光地となっているが、歴史的には奈良が京都の上位にあるべきなのに、観光客の目は京都へと注がれる。さながら戦国時代に日本人の多くが興味を示すように、京都は日本人の永遠の憧れとなってしまった。私もその一人ではあるが、奈良の魅力は京都よりも深く、私の旅は尽きない。
「奈良に来て 初めて知るは 天平の 甍が残る 古寺の数々」 陀寂
041般若寺 楼門
訪問年: 昭和62年02月04日(水)
所在地: 奈良県奈良市
創建者・施主: 慧灌(開基)、蘇我日向守(発願)、叡尊(中興)
建築年: 平安末期
様式・規模: 重層入母屋造り本瓦葺・1間1戸楼門 18.6㎡
奈良は京都ほど市街化が進んでおらず、規模の小さな古刹を探すのもそんなに苦労もしない。案内板も大概の神社仏閣を網羅しているので、歩いて回るには丁度いい。今回は未訪門の寺院を中心に回ったが、それでも奈良市内からそんなに遠くない場所に限られていまった。奈良は京都よりも広くて、『最新旅行案内13奈良』のガイドブックに記した朱色の丸印は疎らで、まだまだ奈良の旅は終わらない。
この日は東大寺の南に位置する、白毫寺と新薬師寺を回って般若寺に到着する。観光客の目からすると、そんなに魅力的な寺でもないが、飛鳥時代の白雉5年(654年)、孝謙天皇の病気平癒を願い蘇我日向守が創建した古刹ともあれば、一度は拝観したいと思った。
聖武天皇の天平7年(735年)には官寺に改められ、平安中期の延喜年間(901~912年)当時は、学徒900人、下僧1,000人を数える規模の学問寺に発展したと聞く。しかし、永禄10年(1567年)に松永久秀の兵火によって焼失し、楼門だけが唯一残された。
楼門は1間1戸入母屋造りの小さな楼門であるが、木割は細かく整然としていて、軽快な感じのする建物である。全体的に見て和様の意匠ではあるが、肘木の繰形や木鼻には大仏様も併用していることから鎌倉中期の建築という説もある。重要文化財の扁額も嵯峨天皇の宸筆と伝えられているが、室町時代のものともされている。楼門の他に経蔵が重要文化財となっているが、元弘(1332年)の建立で 鎌倉時代の数少ない経蔵遺構の一つとされ、高い床と簡素な構造は異色とされる。
この寺は花の寺とも称されて、春のヤマブキ、初夏のアジサイ、秋のコスモスが有名であるようだが、私が訪ねた時は冬にも関わらずスイセンの花が咲いていた。そんなに広い境内でもないので、四季折々の草花が見られるのは嬉しいことである。
般若寺は同地域の西大寺を総本山とする真言律宗に属し、明治初期の廃仏毀釈を経て現在に至っているが、弱小の宗派でもあり、信徒や檀家が極めて少ない。そんなこともあって、観光寺院として存続しているようだが、それも致し難い選択であると思う。
この寺で有名なものとして、重要文化財の十三重石宝塔(石塔婆)がある。高さが14メートルほどあり、宇治の浮島十三石塔の約15メートルに次ぐ高さがある。いずれも西大寺や般若寺を中興した叡尊上人が、明州の石工に建てさせたもので、その荘重美は見事である。
境内には、ひらがな短歌で有名な英文学者・会津八一の歌碑が立っていて、奈良を愛した歌人の足跡が偲ばれるようだ。
「ならざかのいしのほとけのおとがひに ことさめながるるはるはきにけり」 八一
042秋篠寺 本堂
訪問年: 昭和62年02月04日(水)
所在地: 奈良県奈良市
創建者・施主: 善珠(開基)、光仁天皇(発願)、施主不明
建築年: 780年(宝亀11年)
様式・規模: 単層寄棟造り本瓦葺・桁行5間×梁間4間 203.5㎡
般若寺から法華寺、平城宮跡とめぐり、秋篠の里にある秋篠寺を詣でた。昔は雑木林に囲まれた閑静な山里であったと聞くが、現在は東に西大寺競輪場、西にあやめ池遊園地、南に新興の住宅街、北に奈良少年院の塀が空しく建っている。院は院でも寺院と趣が異なり、奈良には似つかわしくない建物にも思える。
秋篠寺は光仁・桓武の両天皇の勅願によって宝亀11年(780年)、法相宗の善珠僧正によって開基された。善珠僧正の名を知る人は少なく、私も始めて耳にする学僧であったが、その人物像を知ると、奈良末期の法相宗を支えた大学者であったそうだ。寺が落成した当時は、僧坊の数は千を越え、西大寺と比肩するほどの大寺院であったらしい。
本堂はかつて講堂であった建物で、保延元年(1135年)に興福寺と東大寺が争った兵火で本堂が焼失したために代用されたようである。現本堂は創建当時の建築とされるが、鎌倉時代に大幅な修繕が行われている。本瓦葺の寄棟造りで、基壇上に立っているのが天平建築の特徴であるが、細部の手法は鎌倉時代の影響が強く、純粋な天平の甍とは言えない。それでも講堂に鎮座してあった仏像も残されていた訳で、その価値は万金に値する。
仏像の中でも妓芸天立像は格別な存在感があり、艶やかで美しい女性を表現しており、あの当時に付き合いのあった女性と重複して見えた。頭部は天平時代の乾漆で、胴体は鎌倉時代に木造で補作された極彩色の天女像である。奈良市内の土産店で、その顔だけの工芸品を入手し、今も自宅の仏間に飾られている。
境内には大寺院であった面影を残すものとして、東塔と称された五重塔の礎石が残っている。東塔があれば西塔もあったようであるが、その礎石は見当たらなかった。まだまだ境内には過去の遺物が眠っていると思うが、奈良の遺跡は古い時代のものから手掛けているようで、本格的な発掘調査は後世に委ねられそうだ。
この寺は宗派を転々としていて、創建当初は法相宗、承和元年(834年)に真言宗醍醐派、江戸時代は浄土宗西山派と転じて、現在はどこの宗派にも属さない単立の寺院となっている。宇治の平等院と同じく、観光寺院として自立可能な寺は、宗派のしがらみを越えて存続しているようだ。
本堂に西に比較的新しい大元帥明王堂が建っているが、そこに安置されている大元帥明王像は、首や手足に蛇をまとわせた忿怒形相で、その威力は妓芸天女像と対照的なようだ。秘仏であるために拝観できなかったが、明治時代の俳人・高浜虚子の句が想起された。
「秋篠は げんげの畦に 佛かな」 虚子
043唐招提寺 金堂・講堂(旧平城京朝集殿)・鼓楼・経蔵・宝蔵
訪問年: 昭和62年02月04日(水)・平成19年09月29日(土)
所在地: 奈良県奈良市
創建者・施主: 鑑真(開基)、聖武天皇
建築年: 金堂・経蔵・宝蔵759年(天平宝宇2年)、講堂・奈良時代、鼓楼1240年(仁治元年)
様式・規模: [金堂]単層寄棟造り本瓦葺・桁行7間×梁間4間 409.7㎡、[講堂]単層入母屋造り本瓦葺・桁行9間×梁間4間 458.3㎡、[鼓楼]入母屋楼造り本瓦葺・桁行3間×梁間2間 21.3㎡、[経蔵]単層寄棟校倉造り本瓦葺・方3間 26.4㎡、[宝蔵]単層寄棟校倉造り本瓦葺・方3間 46.2㎡
世界文化遺産(複合) 古都奈良の文化財
秋篠寺から西大寺と喜光寺を拝観し、最も期待を寄せていた西ノ京の唐招提寺と薬師寺がこの日の最大の巡礼となった。唐招提寺は苦難の末に来朝した鑑真和上(過海大師)が、新田部親王の旧邸宅に天平宝宇3年(759年)創建し、律宗を日本に広めた道場でもある。
南大門を入ると、直線上に金堂と講堂が建ち、その左右に鐘楼と鼓楼、東側に校倉造りの経蔵と宝蔵が建ち並んでいる。五重塔など目を見張るような堂塔はないが、天平の甍は重厚さに満ち溢れ、遠い時代にいざなってくれる。
金堂の建立は創建当時のものと伝えられているが、鑑真和上の弟子・如宝が主導して建てられたとされているので、創建から30年前後の建築と推察する。いずれにしても天平の唐様を伝える建物に変わりはない。正面一間の柱列が吹放ちになっているのが特徴で、三間の扉との間に微妙な安らぎの空間を感じる。8本の柱のエンタシスは、ギリシャの神殿を想起させると言う。堂内の本尊・盧舎那仏坐像も国宝であり、他にも5体の国宝仏像が残る。
講堂は平城宮の朝集殿を移したもので、天平時代の宮殿建築として現存する唯一の建物であり、寺院の講堂に改称されただけで一級の国宝と言える。入母屋造りで間口は9間と、金堂よりはやや大きく、鎌倉時代に大規模な修繕がなされたようで、外観の装いは天平の姿を失っているのが惜しまれる。
鼓楼は鎌倉時代の仁治元年(1240年)の建築で、二層部に太鼓が置かれている訳ではないので、経楼又は舎利殿と称した方が判り易い。初重の厨子には鑑真和上が請来した金亀舎利塔が納められていたと聞くが、鎌倉時代に宝蔵に移されたそうだ。
経蔵と宝蔵は、礼堂・東室の右手に並んで建っている。やや小さい方の経蔵は、新田部親王の邸宅があった時の米倉とされ、正倉院の校倉よりも古い時代の建築となる。鎌倉時代の修繕の際、講堂と同様に改造されたが、近年の修理時に天平様式に復元されたと聞く。
この寺は鑑真和上を物語る寺でもあり、当時の日本は僧侶に成ろうとすると、百済まで行き受戒しなくてはならず、聖武天皇は唐から戒師の来朝を待ち望んでいた。和上はその期待にこたえ、前後5回の失敗を経て66歳で来朝を果たすが、潮風によって失明していた。芭蕉翁は寺を訪ね「若葉しておん目のしずくぬぐはばや」と詠み、その高徳を追悼した。
044薬師寺 東塔(三重塔)・東院堂(東禅堂)
訪問年: 昭和62年02月04日(水)・平成19年09月29日(土)
所在地: 奈良県奈良市
創建者・施主: 祚蓮(開基)、天武天皇(発願)、吉備内親王
建築年: 東塔730年(天平2年)、東院堂1285年(弘安8年)
様式・規模: [東塔]裳階付三重塔婆本瓦葺・高さ34.0m 一辺7.1m、[東院堂]単層入母屋造り本瓦葺・桁行7間×梁間4間 286.1㎡、
世界文化遺産(複合) 古都奈良の文化財
奈良の西ノ京には、いまだに田園風景が残っていて、心の休まる地域である。唐招提寺の印象が強かったため、日を置いて薬師寺には来たかったのであるが、秋田からは滅多に来れない遠方地でもあり、強行スケジュールも致し方ない。
薬師寺は天武8年(680年)、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を願い、飛鳥浄御原宮に創建し、平安遷都があった養老3年(718年)に現在地に移された。飛鳥の薬師寺は、本薬師寺と称されて今は礎石のみが残っていて、特別史跡に指定されて保護されている。
南門に立って眺める伽藍配置は、薬師寺式と呼ばれるもので、金堂の手前左右に西塔と東塔が聳え、金堂の奥には講堂は建っている形式である。創建当時は南大門の先に中門があって、講堂まで廻廊で結ばれていたようであるが、現在は中門も廻廊もなく、南門は西院に再建された門を移築している。
薬師寺を象徴する東塔と西塔。西塔は昭和56年(1981年)に再建されて、鮮やかな朱色の白鳳の塔が蘇っていた。国宝の東塔は、天平2年(730年)の建立とされ、三重塔の中では斑鳩の法起寺三重塔に次ぐ古さである。各層に裳階を設えているため、六重塔にも見えるが、形式上は三重塔になるようだ。しかし、塔の高さは法起寺よりも10メートルも高く、法隆寺五重塔よりも2メートルほど高い。複雑な瓦の曲線や斗栱の精緻さ建築美の極め、その大きさは五重塔よりも風格がある。明治時代に古美術の研究のため奈良を訪れたフェノロサは、「凍れる音楽」と称して塔の美しさに感歎している。
もう一棟の国宝である東院堂は、東塔の東に隣接し、弘安8年(1285年)に再建された禅堂である。桁行7間、梁間4間の一重入母屋造りの中規模な和様式で、内陣の須弥壇には有名な聖観音菩薩立像が安置されいる。美しい女性的な銅造で、白鳳時代の最高傑作ともされて国宝に指定されている。
薬師寺は戦国時代の享禄元年(1528年)、兵火により東塔と東院堂を残して焼失してしまう。江戸時代には講堂が再建されるにとどまったが、近年になって高田好胤師が、マスコミに度々登場して広く浄財を募り、金堂と西塔の再建を果たすのである。今も境内の隅では、鑿を打つ音が響き、法相宗大本山の面目と南都七ヶ寺に数えられた名刹の復興は近いようだ。東塔の奥には有名な佐佐木信綱の歌碑が建ち、塔の美しさに花を添えている。
「ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる 一ひらの雲」 佐佐木信綱
045元興寺 極楽坊本堂・禅室
訪問年: 昭和62年02月04日(水)
所在地: 奈良県奈良市
創建者・施主: 蘇我馬子(開基)、施主不明
建築年: 本堂1244年(寛元2年)、禅室・奈良時代(鎌倉初期改造)
様式・規模: [本堂]単層寄棟妻入造り行基葺・桁行6間×梁間6間 293.6㎡、[禅室]単層切妻二重虹梁造り本瓦葺・桁行4間×梁間4間 342.2㎡
世界文化遺産(複合) 古都奈良の文化財
西ノ京から奈良市内の民宿に向かう途中、夕暮れの元興寺極楽坊に立寄った。元興寺は飛鳥京三大寺の一つと称され、蘇我馬子が推古4年(596年)に法興寺の名で創建し、平城遷都と共に奈良に移されている。飛鳥にあった寺は、その後に飛鳥寺や安居院とも呼ばれて、日本最初の大仏を安置することでも知られる。
奈良に移った元興寺は、興福寺に対立するように隆盛を極め、南都七ヶ寺の一つとなった。両雄並び立たずではないだろうが、元興寺は次第に衰退し、残っていた五重塔と観音堂も江戸時代後期に焼失している。今は仮堂があるだけで、境内は民家化が進み、興福寺との落差は甚だしい。そんな元興寺の中で、僧房(僧坊)の一つ東室南階大房として建てられた極楽坊は辛うじて残り、本堂と禅室が国宝に指定されて残っている。
本堂と禅室は一緒の僧房であったが、平安末期に二つに切り離され、鎌倉時代の寛元2年(1244年)には本堂として改修された。柱などには天平の古材を用い、大仏様の意匠が加味されて、屋根の瓦は行基葺きを残している。平安末期の分離工事の際は、有名な西行法師が関わったようで、杮経を寄進したそうだ。
禅室は本堂よりもやや小さな切妻造りで、二重虹梁や柱には天平の様式が残り、鎌倉時代の間仕切りには、僧房の形式を残していて僧侶の生活を知る上でも貴重な遺構と言える。奈良には法隆寺東室、唐招提寺東室はあるが、いずれも僧房の面影を失っていて、極楽坊の禅室が唯一の僧房と言える。
この寺には元興寺五重塔の雛形が残っていて、五重小塔と称されて国宝になっている。江戸時代に焼失した五重塔の雛形ではなく、創建当初の五重塔の雛形のようで、写真で見る限りは保存状態も良く、5.6メートルも高さのある小塔では一度は本物を見てみたい。他に東大寺西南院の四脚門が、応永18年(1411年)に極楽坊に移築されて東門(重要文化財)となっている。
十一面観音像(重要文化財)が安置される仮堂だけの元興寺本坊に比べると、これほどの文化財を有する極楽坊は立派に見え、奈良の繁華街で宝物でも見た気分となった。また、西行法師が身を寄せたこともあったと聞いて、尚更この寺が身近な存在に思えて来る。その西行法師が「いかばかり あはれなるらむ ゆふまぐれ ただ一人ゆく 旅のなかぞら」と詠んだ和歌は、私と重なる部分があって好きな一首である。
046長谷寺 本堂(大悲閣)
訪問年: 昭和62年02月05日(木)
所在地: 奈良県桜井市
創建者・施主: 徳道(開基)、藤原房前(発願)、徳川家光
建築年: 1650年(慶安3年)
様式・規模: 単層裳階付入母屋懸造り本瓦葺・桁行9間×梁間5間(27m×26m) 702.0㎡
奈良から芭蕉翁の故郷・伊賀上野へ向かう途中、長谷寺と室生寺に立寄ることにした。長谷寺は真言宗豊山派の総本山で、室生寺も同じ真言宗室生寺派の大本山であり、共に真言宗十八本山に含まれる名刹で、その巡礼も旅の目的でもある。
近鉄大阪線の長谷寺で下車すると、門前には初瀬寺温泉のホテルや旅館が建ち並び、土産物屋や食堂が軒を連ねる。そして右手に塔頭が建つ参道を行くと、仁王門へと到着した。
明治中期に再建された仁王門は、93年の歳月を経て風格のある楼門となり、大寺院の玄関に相応しい景観を呈している。仁王門から本殿を結ぶ399段の石段には、3棟の長い登廊が造られていて、2間おきに球形の灯籠が吊るされていた。長谷寺ならではの風雅な味わいで、西国三十三ヶ所霊場の八番札所として現在も訪れる人は絶えない。
この地は泊瀬山とも呼ばれ、その西岡に道明上人が白鳳時代の朱鳥元年(686年)、1寺(本長谷寺)を建立したことに始まる。その後の天平5年(733年)、徳道上人が東岡に十一面観音像を安置し、新長谷寺を開基した。東大寺(華厳宗)の末寺から興福寺(法相宗)の末寺となり、豊臣秀吉の実弟で大和大納言・豊臣秀長が援助し再建された頃、新義真言宗に改宗されて末寺三千余寺を数えるほどに発展する。明治の俳人・高浜虚子は、「花の寺末寺一念三千寺」とその繁栄ぶりを句に詠んでいる。
本堂は慶安3年(1650年)に、三代将軍・徳川家光の寄進によって再建されたもので、京都の清水寺本堂に次ぐ、舞台造りの大建築である。私が訪ねた頃は重要文化財であったが、「国宝建築の旅」をまとめようとした時、国宝に昇格されていたので編入した。本瓦葺き入母屋造りの外観は重厚であり、近年に建てられた五重塔と共に長谷寺のシンボルでもある。創建以来の建物は残っていないが、再建された堂塔伽藍は70有余もあって、その壮観さは絵画でもを見るようだ。
長谷寺は花の寺としても有名で、桜とのボタンの名所である。特にボタンは150種7,000株もあるそうで、案内書には「東洋一の長谷の牡丹」と書かれていた。他に梅やアジサイ、紅葉も美しいと聞くが、私が訪ねた時の雪景色も素晴らしく、枯れ枝に真綿の花が咲いているようでもあった。
長谷寺は観音霊場でもあったため、一般の参詣者も多く、古来より文人墨客も訪れている。学問の神様・菅原道真も詣でて「長谷寺縁起絵巻」を著したとされる。「土佐日記」の作者で知られる紀貫之は、梅の花を折りてよめると題して有名な和歌を残している。
「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける」 貫之
047室生寺 本堂(潅頂堂)・金堂・五重塔
訪問年: 昭和62年02月05日(木)
所在地: 奈良県室生村
創建者・施主: 空海(中興)、淳和天皇
建築年: 本堂1308年(延慶元年)、金堂849年(嘉祥2年)、五重塔810年(弘仁元年)
様式・規模: [本堂]朱塗り単層入母屋造り桧皮葺・桁行5間×梁間5間 163.5㎡、[金堂]朱塗り唐破風付単層寄棟造り柿葺・桁行5間×梁間5間 44.1㎡、[五重塔]五重塔婆桧皮葺・高さ16.2m 一辺2.5m
長谷寺から再び近鉄大阪線に乗って、室生口大野で下車してバスで室生寺へと向かった。室生寺の門前に到着すると、数軒の旅館が目に飛び込んだ。その中に写真家の土門拳が室生寺の撮影のため滞在した旅館もあり、感慨深く眺めて写真におさめた。私も泊まってみたい旅館であったが、伊賀上野に宿をとっていたために次回の楽しみとしたい。
太鼓橋を渡って表門に入ると、正面に庫裡と護摩堂が建ち、間もなく近年に再興された仁王門に至るが、そこから先は胸の鼓動を圧迫する石段が続く。そして、最初に目にする国宝建築が金堂である。
室生寺の創建は、寺伝と史伝が異なっていて判然とはしないが、寺伝は役行者小角が天武天皇の勅願で開基した伝え、史伝では興福寺の僧賢憬が、皇太子時代の桓武天皇の病気平癒を願って開基したとも伝えている。史伝ではその後の天長元年(824年)、弘法大師空海が淳和天皇の勅願によって中興したとも伝えている。
金堂は平安初期の嘉祥2年(849年)に建てられて、江戸初期の寛文12年(1672年)に礼堂1間が建て増しされている。その際、前に張り出した部分を懸(崖)造りとなり、勾欄が付けられた。杮葺きの屋根は長くのびやかな曲線を描いていて、二段の石垣の上に張り出した舞台との調和も良く、独特の建築様式である。
本堂は灌頂堂と呼ばれ、江戸時代に法相宗から真言宗に改められた時、現金堂に変わって本堂とされたようだ。室生寺でも最も大きい堂宇で、鎌倉時代の延慶元年(1308年)の建立である。一見すると和様の仏殿のようであるが、細部には唐様や天竺様も用いられて鎌倉時代の特徴が感じられる。
室生寺を最も有名にしたのは、平安初期の弘仁元年(810年)に建てられた五重塔である。総高16.2メートルと、全国の五重塔では最も小さなものであるが、花のように可憐な美しさは随一である。深山幽谷を思わせる景観ともマッチし、桧皮葺きの屋根も自然的である。天平時代の塔建築を踏まえており、近年に建築された五重塔の多くは、この五重塔と海住山寺五重塔を模したものが多い。室生寺の国宝堂塔の魅力は、屋根が杮か桧皮であり、
全体的な建物の大きさがバランスしていることである。江戸時代には女人高野とも呼ばれた歴史もあり、女性的な柔らかさと美しさを深く感じる寺である。
「振り向けば 女人高野の 石段に お大師様の 励ましを聞く」 陀寂
048瑞巌寺 本堂(旧大方丈)・庫裏及び廊下
訪問年: 昭和63年07月12日(火)・平成05年04月04日(日)・平成10年11月28日(土)
所在地: 宮城県松島町
創建者・施主: 円仁(開基)、雲居希膺(中興)、伊達政宗
建築年: 本堂・庫裏1609年(慶長14年)
様式・規模: [本堂]単層入母屋造り本瓦葺・桁行13間×梁間右9間+左8間 (間口21間/39.0m×奥行14間/25.2m) 1076.5㎡、[庫裏]単層切妻妻入造り本瓦葺・桁行78尺×梁間45尺(23.6m 13.8m) 379.4㎡ [廊下]単層入母屋造り本瓦葺・桁行21間×梁間1間
瑞巌寺の前身は、平安初期の天長5年(828年)に慈覚大師円仁が開基した延福寺であるが、鎌倉時代に執権・北条時頼が寺僧の不埒を目にして棄却させ、法心性西(真壁平四郎)に臨済宗円福寺に改めさせて再興した。円福寺は鎌倉幕府の御願所の一つにもなり、臨済宗が興隆した室町時代まで続くが、戦国時代になって寺は衰退する。東北の覇者となり、62万石を安堵された伊達政宗は、慶長14年(1609年)に円福寺を瑞巌寺と改め再興した。
本堂は京都や紀州から名工が集められ、桃山建築の様式が東北でも造られた最初で最後建物と言える。そもそも寺院には城郭を兼ねたものも多く、政宗も瑞巌寺の旧大方丈には相当の工夫を凝らした。上段ノ間の装飾、文王ノ間の襖絵、廊下の杉戸絵や欄間の彫刻と本丸御殿を思わせるような豪華さである。
本堂に次ぐ大建築である庫裡と、その間を結ぶ廊下は一般拝観ができないため外観を眺めるだけであるが、白壁と木組、妻飾りの彫刻と、その建築美にはいつも圧倒される。切妻の屋根は、45度に近い湾曲を描いており、屋根の中央部に設けられた天窓の入母屋は庫裡建築の最大の特徴と言える。国宝の庫裡建築は、他に京都の妙法院庫裏があるだけで、瑞巌寺庫裡が完成された5年前に造られており、同じ大工が携わったことは想像できる。
瑞巌寺の境外地の小島に五大堂が建っているが、この五大堂を見ずしては松島を語れないほど、周囲の景観とマッチしている。慶長9年(1604年)、本堂や庫裡よりも逸早く政宗が再建したもので、方3間の小さな宝形造りの堂宇である。堂内には五大明王像が安置され、拝観が無料とあって毎回立寄る場所となっている。
日本三景の松島は、観光地として定着し久しいが、かつては雄島や福江島など入江一帯は瑞巌寺の寺領であった。明治の廃仏毀釈で衰退するまでは、参道に塔頭が建ち並び、各所に堂宇や草庵が点在していたようである。
松島には古来より多く名僧や文人が訪ねているが、有名な人物では中世の西行法師と夢窓疎石禅師、近世の松尾芭蕉と吉田松陰、 明治の正岡子規・夏目漱石・島崎藤村などが知られる。戦後ではイギリスの詩人E・ブランデンも来たそうである。
瑞巌寺を再興した政宗は、戦国武将の人気ランキングのトップに名を連ねるが、文人としての教養も高く、優れた漢詩や和歌も残している。諸堂の完成を終え、本堂の前庭に手植えの松を見て「松島の 松の齢に 此寺の 末栄えなん 年は経るとも」と詠んでいる。
049大崎八幡神社 本殿・石之間・拝殿
訪問年: 平成02年01月06日(金)
所在地: 宮城県仙台市
創建者・施主: 大崎直持(創建)、伊達政宗、日向守家次(棟梁)
建築年: 本殿・石之間・拝殿1607年(慶長12年)
様式・規模: [本殿]単層入母屋造り柿銅瓦葺・桁行5間×梁間3間、[石之間]単層両下造り柿葺・方1間、[拝殿]単層千鳥・唐破風向拝付入母屋造り柿葺・桁行7間+5間×梁間3間
仙台は伊達政宗が青葉城を築いて以来、62万石の城下町として栄えたが、明治維新の折、伊達藩は奥州列藩同盟の盟主となって薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前)と戦った。その遺恨ではないだろうが、明治初年に青葉城の建物は破却されて、残っていた大手門隅櫓も米軍の空襲も受けて焼失している。そんな仙台市内にあって、大崎八幡神社に国宝建築が残されていたことは驚きであった。
社伝によると、坂上田村麻呂が東夷征伐の折り、岩手県水沢市に胆沢城を築き奉祭し、その後に宮城県の北部五郡を領した大崎氏が遠田郡の田尻に水沢から遷祀して代々崇敬したと言う。大崎義隆の代になると領民一揆が起こり、一揆勢に加担した伊達政宗が大崎氏を追討した。そして、八幡神社を岩出山に遷し、青葉城の築城と同時に仙台に遷している。
大崎八幡神社の社殿は典型的な権現造りので、同時期に再建された京都の北野天満宮社殿と類似しているのも、豊臣氏に仕えた名工たちが工事に携わったからであろう。かつて奥州藤原氏が京文化を取り入れて、それをも凌ぐ平泉文化を創造したように、伊達政宗も桃山文化を奥州に広めた風流人でもあった。
拝殿・石之間・本殿は、同時に建築されており、一体の建物と見た方が判りやすい。拝殿は、向拝正面に2羽の鶴の彫刻を嵌め込んだ壮大な千鳥破風となっている。杮葺きの屋根の反り、軒の反りは鳥の翼を思わせるほど優雅な造りとなっている。
石ノ間は低い浜床(板敷き)となっていて、拝殿を下って本殿に上がる土間の役割をしている。天井には53種の薬草の絵が描かれ、欄間は群青に彩っている。石ノ間の左右には畳敷きの控ノ間があって、高貴な人の参拝に供されたようである。
本殿は銅瓦葺きとなっているが、創建時は拝殿や石ノ間と同じ杮葺きであった。防火上の理由もあっただろうが、何よりも杮葺きの維持費が困難となったと考える。本殿までは拝観できなかったが、拝殿や石ノ間ほどは豪華ではない。どこの神社も本殿は拝殿よりも小さく質素な造りとなっているのは、伊勢神宮の本殿に倣ってのことなのだろうか。
伊達政宗は豊臣秀吉に二度も命を預けて許されているが、その秀吉に惚れ込んでいたのか、仙台城大広間は聚楽第をまね、瑞巌寺大方丈は伏見城殿舎を模し、この神社の社殿も豊国神社社殿と同型とされる。徳川家康に媚びへつらった面もあるが、秀吉の派手好みは政宗の伊達風に伝承されたようである。そんな政宗の前向きで明るい辞世の歌が印象的だ。
「曇りなき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照らしてぞゆく」 政宗
050金峯山寺 本堂(蔵王堂)・仁王門
訪問年: 平成02年04月08日(日)・平成19年04月08日(日)・平成23年03月06日(日)
所在地: 奈良県吉野町
創建者・施主: 役小角(開基)、施主不明
建築年: 本堂1588年(天正16年)、仁王門1456年(康正2年)
様式・規模: [本堂]一重裳階付単層入母屋造り桧皮葺・桁行5間×梁間6間(36m×43m×34mH ) 1702.5㎡、[仁王門]重層入母屋造り本瓦葺・3間1戸二重門(20mH) 108.5㎡
世界文化遺産(複合) 紀伊山地の霊場と参詣道
日本一の吉野の桜だけは必ず見たいと思う一念から、吉野山紀行を決行した。その頃は仙台で仕事をしていたため、新幹線と飛行機を利用しての旅となったが、大阪に住む友人に吉野の宿を手配してもらい、一人旅から二人旅となっての金峯山寺の参拝となった。
私の住む秋田の県南には桜の名所がたくさんあって、子供の頃からその美しさに魅せられたものである。成年になってからも行く先々で桜の名所を訪ねたものであるが、西行法師の和歌に接してから、吉野の桜だけは特別な憧れを抱いていた。
吉野千本口からケーブルカーに乗って吉野山に至ると、日曜日でもあり大勢の花見客が馬の背のように伸びる参道を埋めていた。その参道から桧皮葺き屋根の巨大な建物が見え、金峯山寺の蔵王堂と称される本堂であることが分かった。
金峯山寺は修験道の根本道場と有名で、白鳳時代の天武元年(672年)、役行者小角が開基したと寺伝される。役行者は謎の多い人物であるが、山岳信仰と仏教とを融合させた修験道の開祖であることは疑いの余地がない。
小山のような本堂は、木造建築としは東大寺大仏殿に次ぐ大建築とされているが、京都の東本願寺御影堂の方が4メートル高く、建坪も2.5倍ほど大きい。正確には全国3位の木造建築であり、天正18年(1588年)の再建であるので古さでは全国1位の大建築である。建物の中央部に裳階が付けているため重層にも見え、優雅な雰囲気が伝わって来る。本尊の金剛蔵王権現立像は、7.8メートルの大仏で、その大厨子は日本一とされる。本堂で特質するものは、柱の用材が杉・桧・松と多種類であり、中でも躑躅の大木は大変珍しいとされる。
仁王門はこれも大きな楼門で、本堂に北に面して建っててっているが、これは山上の大峯山寺(山上ヶ岳)に向かう門を意味している。吉野一帯は山上に対して山下と呼ばれ、山上は現在も女人禁制を守っているため、この吉野が女人の参拝場所として栄えたようである。かつては南側にも京阪から参拝する人々を招く、二天門があったそうである。それにして仁王門は本堂に比して大きく、室町時代の康正2年(1456年)に建てられた楼門は風格がある。
境内にも桜の花が咲き誇っていて、桜・サクラ・さくらの吉野であり、その桜の大多数がシロヤマザクラであるのも吉野の魅力でもある。夜桜を楽しんだ翌日、奥千本まで行って西行法師の草庵跡を訪ねたが、この吉野を愛した歌聖の面影を偲ぶと懐古の涙が流れる。
「吉野山 去年のしをりの 道かへて まだ見ぬかたの 花をたづねむ」 西行
051当麻寺 本堂(曼荼羅堂)・東塔(三重塔)・西塔(三重塔)
訪問年: 平成02年04月10日(火)・平成22年03月29日(月)
所在地: 奈良県当麻町
創建者・施主: 麻呂子王(開基)、施主不明
建築年: 本堂1161年(応保元年)、東塔・奈良時代、西塔・平安時代
様式・規模: [本堂]単層寄棟造り本瓦葺・桁行7間×梁間6間 377.5㎡、[東塔]三重塔婆本瓦葺・高さ23.2m 一辺5.3m 、[西塔]三重塔婆本瓦葺・高さ24.8m 一辺5.2m
当麻寺はあまり人に知られていない古刹であり、二上山を背に七堂伽藍の整った景観は素晴らしいの一言に尽きる。楼閣造りの東大門(仁王門)を入ると、正面に大きな曼荼羅堂が建ち、その手前に金堂と講堂がある。門の左手には中之坊の諸堂が建ち並べ、近くに西塔が望まれる。深緑の境内に七堂伽藍が点在している様は、まるで曼荼羅世界の具現である。
当麻寺の創建は古く、聖徳太子の弟にあたる麻呂子親王が推古20年(612年)に万宝蔵院を開基したのが始まりとされる。その後の白鳳9年(681年)、親王の孫・当麻真人国見が役行者小角ゆかりの現在地に移したと聞く。
現在の当麻寺は、中之坊が高野山真言宗の別格本山であり、奥之院は浄土宗に属すると言う変則的な寺院となっている。まるで長野の善光寺のようであり、何となく違和感を覚えるのは私一人であろうか。
この寺を有名にしたのは奈良時代の中将姫伝説で、彼女の織り成した綴織曼荼羅図は方1丈5尺(縦横391㎝)の大きなものであり、国宝にも指定されている御本尊である。この曼荼羅を祀る曼荼羅堂は、鎌倉時代の仁治3年(1242年)に源頼朝の遺願によって頼家が建立したとされるが、最近の修理で永暦2年(1161年)の建築とされる。この年は頼朝が伊豆に配流された翌年であり、案内書の記述も当てにはならないようだ。
観光客は私以外にはなかったが、中之院で御朱印を頂戴すると、内陣も拝観できるとのことで住職自らが鍵を開けて説明をしてくれた。内陣の須弥檀は鎌倉時代の寛元元年(1243年)の銘があることから、これが源頼家の寄進したものと推察する。黒漆螺鈿宝相華の装飾は目を見張るものがあるが、堂内が暗いのが残念であった。
東塔を参道から眺めると、中之坊の南に面していて樹木の上に3層部分が見えるが、西塔は護念院の奥に建っていて、3層の屋根と宝輪(相輪)だけが林間に聳える。東塔は当麻寺の伽藍の中では最も古く、天平時代の建築とされる。初層が3間であるのに対し、2層から2間となっているのは珍しい様式と言える。
西塔は平安初期の建築とされ、初層から3層までは3間で統一されている。両塔とも大きさや高さに若干の違いはあるものの、九重の宝輪が一般的であるのに比べ、両塔は八重となっているのが特徴である。明治時代の医師で俳人の水原秋桜子は、ボタンの名所でもある当麻寺を上手く詠んでいる。
「牡丹の芽 当麻の塔の 影とありぬ」 秋桜子
052願城寺 阿弥陀堂
訪問年: 平成02年05月12日(金)・平成30年03月20日(火)
所在地: 福島県いわき市
創建者・施主: 知徳(開山)、徳尼(開基)
建築年: 1160年(永暦元年)
様式・規模: 単層宝形造り栩葺・桁行3間×梁間3間 88.2㎡
福島県にも唯一の国宝建築があることを知って、一度は見てみたいと思っていた頃、仙台の近郊に仕事があって半年ほど滞在していた。その建物は白水阿弥陀堂と称され、この寺を拝観するために小町温泉に宿をとって旅をした。この頃の私は仕事に重点を置いていたため、久々の小旅行となったが、阿弥陀堂の屋根の美しさは今も脳裏に蘇る。
奥州藤原氏の三代秀衡の妹で、岩城則通夫人となった徳尼(徳姫)が永暦元年(1160年)に知徳上人を開山に建立している。中尊寺の金色堂を模して造ったとされ、金色堂と同様に光堂とも言われるそうだ。方3間栩葺きの小さな宝形造りの仏堂であるが、優美な外観は平安後期に流行した阿弥陀信仰を物語る。
白水の地名は、平泉の「泉」という漢字を二つに分けたことに由来するそうで、いわき市の平の地名も平泉に関連すると聞く。徳尼はふるさとの平泉をこよなく愛したようで、極楽浄土を具現させた毛越寺や無量光院などの平泉の寺院の影響を感じる。
堂内には重要文化財の阿弥陀三尊像が安置されているが、一般拝観ができないのが残念である。堂内中央部に四天柱を立て仏壇とし、その上は折上小組格天井と典型的な阿弥陀様式と聞く。しかし、四天柱や来迎壁などの彩色が剥離しているそうで、金色堂のように完全復元がなされていないのは淋しい気がする。
白水阿弥陀堂の一帯は国の史跡にも指定されていて、かつては浄土庭園があったものと思われるが、現在残っている池にその面影を偲ぶだけである。それでも東・西・南の三方を池に囲まれており、その中ノ島に建つ阿弥陀堂は存在感がある。また、阿弥陀堂を管理する願城寺は、真言宗智山派に属し、その境内は5万6千坪(184,000㎡)もある広大さである。鎌倉時代には、後鳥羽上皇によって勅願寺とされたことでも知られる。
湯ノ岳の麓、白水川のほとりに位置し、風光明媚な場所にあるのに花の名所でもないが残念に思われる。白水阿弥陀堂という文化遺産を守るだけではなく、その文化遺産を要として春は桜、初夏はアヤメ、秋は紅葉と、本家本元でもある平泉の毛越寺を模して環境を整えるのも一考と思う。
阿弥陀堂のあるいわき市は、昭和41年(1966年)に平・磐城・常磐・勿来・内郷の5市と、四倉などの9町村が合併し、その面積は香川県に近く、日本一の広さとなった記憶する。その中で南端の勿来は、有名な勿来の関のあった地で、源義家が「吹く風を 勿来の関と思えども 道もせに散る 山桜かな」と詠じて奥州に入っている。現在の関跡は、勿来の桜として有名であり、白水阿弥陀堂もそうあって欲しいと願う。
053日光東照宮 本殿・石之間・拝殿・唐門・陽明門(日暮門)・廻廊・透塀
訪問年: 平成02年06月04日(月)・平成03年09月22日(日)・平成05年03月27日(土)
所在地: 栃木県日光市
創建者・施主: 徳川家光、甲良豊後守(棟梁)
建築年: 本殿・石之間・拝殿・陽明門・廻廊1647年(正保4年)、唐門1636年(寛永13年)
様式・規模: [本殿]単層向拝付入母屋造り銅瓦葺・桁行5間×梁間5間、[石之間]単層両下造り銅瓦葺・桁行3間×梁間1間、[拝殿]単層千鳥・唐破風向拝付入母屋造り銅瓦葺・桁行9間×梁間4間、[正面唐門]単層4方唐破風造り銅瓦葺・桁行1間×梁間1間、[背面唐門]1間1戸平唐門、[陽明門]左右袖塀・四方唐破風付入母屋造り銅瓦葺・3間1戸楼門、[西廻廊・御供所]単層入母屋造り銅瓦葺・桁行折曲延長36間×梁間1間、 [東廻廊]銅瓦葺・桁行折曲延長54間×梁間1間、[東透塀]銅瓦葺・桁行折曲延長43間×梁間1間、 [西透塀]銅瓦葺・桁行折曲延長44間×梁間1間
世界文化遺産(複合) 日光の社寺
日光東照宮は日本人なら誰でも一度は見てみたいと願うだろうが、若い頃の私は徳川家康が嫌いで、積極的に参拝しようとは思わなかった。しかし、外国人でも「日光結構東照宮」と絶賛すると聞いて、36歳になって初めて訪ねた。
元和2年(1616年)、駿府城で死去した徳川家康の遺骸は、一旦久能山に埋葬されるが、遺言によって日光に移葬された。翌年には日光東照大権現の神号が下されて、神格化されたのである。歴史上の人物で、天皇や親王を除くと神格化された人物に戦国武将が多い。
改葬された元和3年(1617年)は、御廟社・本地堂・御供所が建てられていたようであるが、その後に3代将軍・徳川家光が現在の米価に換算すると、約400億円とも言われる莫大な工事費と、13年の歳月を要して完成させたのが現在の社殿(御本社)である。
この東照宮の社殿は、すべて漆塗りに極彩色を施し、江戸初期の建築技術の粋が集められている。本殿と石之間、拝殿は権現造りの典型であり、破却された豊国神社の幻の社殿を参考にしているようだ。
黒田長政の寄進した石鳥居を潜ると、左に江戸後期に再建された五重塔が建ち、その先には表門があり仁王像が安置されている。明治初期の神仏分離令も東照宮までは及ばなかったようで、輪王寺の諸堂も毀されることがなかった。
表門から参道を進むと、三猿で知られる御厩舎が建ち、銅鳥居の前には装飾された御水舎がある。そして、鼓楼と鐘楼が並んでいる先に陽明門と廻廊が燦然と輝いている。一日眺めていても飽きないことから日暮門の通称があり、巨大な宝石でも見ているようである。派手好みであった秀吉と比して、地味な印象が強い家康には似合わない気もする門である。
白塗りに金の装飾が施された唐門も絢爛豪華であり、拝殿や本殿を囲む透塀も見応えがある。社殿が造られた42年後に参詣した松尾芭蕉は、「あらたふと 青葉若葉の 日の光」と詠んで、「猶、憚多くて筆をさし置きぬ」と複雑な印象を記した。
054輪王寺 大猷院霊廟本殿・相之間・拝殿
訪問年: 平成02年06月04日(月)・平成05年03月27日(土)・平成28年05月15日(日)
所在地: 栃木県日光市
創建者・施主: 勝道(開山)、円仁(開基)、天海(中興)、徳川家綱
建築年: 1653年(承応2年)
様式・規模: [本殿]一重裳階付入母屋造り銅瓦葺・桁行3間×梁間3間、[相之間]一重両下造り銅瓦葺・桁行3間×梁間1間、[拝殿]千鳥破付入母屋造り銅瓦葺・桁行7間×梁間3間
世界文化遺産(複合) 日光の社寺
世界遺産にもなっている日光の社寺は、東照宮・輪王寺・二荒山神社に区別されるが、輪王寺はその中で最大の境内をもち、徳川3代将軍・家光の霊廟がある。家光は家康のように朝廷から神号を授からなかったため、大猷院の院号が勅賜されただけである。そのため、絢爛豪華な社殿も輪王寺の管理する霊廟の扱いになっている。
輪王寺の前身は、勝道上人が四本竜寺を草創し、日光山を開く拠点としたと言われる。その後、慈覚大師円仁が諸堂を建てて創建し、天台宗に改めている。江戸時代となって、幕府から信任された慈眼大師天海が貫主となって、東照宮の建立に助力し、その別当寺でもある大楽院を創立している。家光が死去して大楽院に埋葬されると、朝廷にゆかりの深い輪王寺に改められて、現在に至っている。
輪王寺には重要文化財の三仏堂という大きな建物があるが、国宝の大猷院霊廟に比べると、木地の器と漆塗りの器の違いがあり、国宝と重要文化財の比較となる。いずれは三仏堂も国宝となれば、私のような一般人には比較のしようもない。そろそろ超国宝というランク付けが必要とされる時代に入っているようだ。
東照宮の位置する大猷院霊廟は、東照宮よりも規模が小さいものの、殆ど東照宮の建築様式を模している。表門には仁王像を置き、御水舎も切妻に唐破風を設えているが、その装飾は一緒である。二天門は東照宮の陽明門になぞられているようであるが、建築的には派手さは少なく、荘厳な装飾に見える。更に参道を進むと、朱色が鮮やかな夜叉門が建ち、その先に唐門と本殿などの社殿が控えている。
東照宮と同じ権現造りではあるが、柱は金箔であり、東照宮の白塗りと趣が異なる。本殿も東照宮は単層であるが、この本殿は裳階があるために重層にも見える。どことなく、初代と三代の違いを著すようで、後世の人の気持ちは良く判らない。祖父・家康の霊廟(東照宮)の建築には家光も心血を注いだようであるが、父の秀忠の芝増上寺の霊廟は質素で、その落差は甚だしいものである。
霊廟に付帯した建物は殆ど重要文化財ではあるが、輪王寺の境内にも重要文化財の諸堂があり、天海が中興に際して建築されたものである。天海は仏教辞典によると、107歳まで生きたとされる天台僧で、その長寿の秘訣が彼の和歌に感じることができる。
「気は長く 勤めは難く 色薄く 食細うして 心広かれ」 天海
055観心寺 本堂(金堂)
訪問年: 平成02年11月05日(月)
所在地: 大阪府河田長野市
創建者・施主: 役小角(開基)、実慧(中興)、後醍醐天皇
建築年: 1370年(建徳元年)
様式・規模: 朱塗り向拝付単層入母屋造り本瓦葺・桁行7間×梁間7間 346.0㎡
大阪は歴史的建造物や名園が少なく、寺院の参拝も四天王寺と葛井寺を訪ねただけであった。しかし、大阪府下には古寺が多く点在していることを知り、この日は河内長野市の天野金剛寺と観心寺を訪ねた。
金剛寺には国宝建築の堂宇はなかったが、金堂や多宝塔など7棟の重要文化財があり、深い感動を得ることができた。観心寺も本堂以外に訶梨帝母天堂と書院、建掛塔が重要文化財となっている。建掛塔は楠正成が湊川で戦死したため、初重だけが残された未完の三重塔で、全国的にも珍しい塔である。
石段を上った先に山門があり、その左手に楠正成(大楠公)の銅像が立っていて、山門の先には諸堂が点在する。鎮守堂でもある訶梨帝母天堂は、中門を過ぎた参道の右手にあり、金堂はその正面に建っている。書院は本坊にあるため見学できなかったが、金堂の右側にある建掛塔は中途半端なようであるけれど、完結された建物となっている。
寺伝によると観心寺は、奈良初期の大宝年間(701年~704年)に役行者小角が雲心寺を開基し、弘法大師空海が巡錫の折、現在の寺名に改めたと言う。その時に大師自ら刻んだとそる本尊・如意輪観世音菩薩像は国宝となっている。その後、大師の高弟実慧が大師の意志を受け継ぎ、天長4年(827年)に諸堂を建てて中興する。
本堂は後醍醐天皇の命によって、楠正成が建徳元年(1370年)に再建させている。方7間の入母屋に3間の向拝を付けた大きな仏堂で、外観は和様ではあるが、細部には禅宗様(唐様)や大仏様(天竺様)も取り入れた折衷様式となっている。この様式は、観心寺様式とも呼ばれて、真に珍しい構造と言える。大阪府では最古の国宝建築で、奈良や京都と隣接していること考えると残念な気もするが、庭園に関しても同様で文化の違いを感じる。
木造の古建築は、時代が遡れば遡るほど、修繕や改修を繰り返し行っているが、この本堂も江戸初期の慶長年間、豊臣秀頼が片桐且元を奉行として修理を行わせた。古建築にはその時代を生きた人々のそれぞれの思いが残されており、後醍醐天皇・楠正成・後村上天皇など歴史上の重要人物が脳裡に浮かぶ。
南朝の後村上天皇は、この寺を御在所に定めて、この寺に天皇の檜陵墓も築かれた。南朝を象徴するような寺であり、楠正成の首塚も開山堂の近くにあった。楠正成の人物像は、明治時代になって着色された故事があって信じ難い気もする。正成の道歌とされる「われに勝ち 味方に勝ちて 敵に勝つ これを武将の 三勝といふ」も、どことなく後世の歌のように思われてならない。
056根来寺 多宝塔(大塔)
訪問年: 平成02年11月05日(月)
所在地: 和歌山県岩出町
創建者・施主: 覚鑁(開基)、鳥羽上皇
建築年: 1547年(天文16年)
様式・規模: 五間本瓦葺・高さ35.9m 一辺14.9m
3泊4日の熊野三山巡礼後、その余韻で旅した阪和の古寺めぐりも粉河寺を訪ねて、根来寺だけとなった。根来寺は新義真言宗の総本山で、真言宗十八本山にもなっているので、是非に訪ねたい寺院であったが秋田からはやはり遠い。
根来寺は高野山の座主であった興教大師覚鑁が、大治5年(1130年)に高野山に大伝法院を建てたことに始まる。その後、守旧派との軋轢から根来の神宮寺に退き、寺号も一乗院円明寺と改め新義真言宗を興した。
根来寺と聞くと、何と言っても羽柴秀吉による焼打ちであり、織田信長の天下統一の前に立ち塞がった根来衆の拠点でもあった。焼打ち前は、子院堂塔が2,700余を数え、寺領は72万石もあり、一国をも凌ぐ僧兵を抱えていた。皮肉にも比叡山と同じ運命を辿ることになり、大塔・大師堂・大伝法院を残して天正13年(1585年)、根来寺は壊滅した。
江戸時代に入って徐々に諸堂の復興がなされ、嘉永3年(1850年)に大門が完成して根来寺は旧観を取り戻すのであるが、それまで265年の歳月を要したことになる。寺院が僧兵を抱えて武闘化しても、結局は時の為政者や権力者によって滅ぼされている。平和な社会を望む宗教団体は、政治に加担すべきではないことを物語っている。
根来寺の境内は、36万坪(1,188,000㎡)と途轍もなく広く、大門の駐車場から諸堂をめぐるのも大変である。本堂にあたる大伝法堂を拝しすると、その左横に木造建築としては最大の多宝塔が建っていた。多宝塔は真言宗の寺院に多く見られる独自の塔で、弘法大師空海が真言密教のシンボルとして高野山に最初に建立した。
根来寺の多宝塔は、5間4方(約15m)もあるため、一般的には大塔と呼ばれている。3間4方の塔は多宝塔と称されるようだ。国宝に指定されている現在の大塔は、永正12年(1515年)に再建されたもので、高野山にかつてあった根本大塔の形式を今に伝える貴重な塔である。大塔は初層が方形、2層が円形をしていて、その間に亀腹と呼ばれる白い塗籠がある。
大塔の内部に入ることは出来ないが、根来寺文化研究所が出版した「根来寺」のクラビアを見ると、16本の柱が円形に立ち、その中央に四天柱が立っている。四天柱の須弥壇には大日如来の尊像が祀られていると思うが、確認出来ないのが残念である。
根来寺を開基した覚鑁上人は、鳥羽上皇の帰依を受けて高野山を中興し、大伝法院を高野山に創設した。平安末期に流行した阿弥陀信仰を高野山にも取り入れ、時代に即した真言宗を模索したようであるが、志半ばの49歳で入滅し、その和歌に感慨が詠まれている。
「夢のうちは 夢も現も 夢なれば 覚めなば夢も うつつとを知れ」 覚鑁
057日吉大社 西宮本殿・東宮本殿
訪問年: 平成03年12月30日(月)・平成17年11月20日(日)
所在地: 滋賀県大津市
創建者・施主: 祝部宇志麻呂(創建)、豊臣秀吉
建築年: 西宮本殿1586年(天正14年)、東宮本殿1595年(文禄4年)
様式・規模: [西宮本殿・拝殿]日吉造り桧皮葺・桁行5間×梁間3間、 [東宮本殿]日吉造り桧皮葺・桁行5間×梁間3間
京都・奈良・阪和と古刹名社をめぐった旅は、いよいよ近江へと目が向けられるようになった。東京の予備校に通っていた頃から東京の寺社めぐりを始め、鎌倉・京都・奈良の古都を回り、既に20年近い歳月が流れようとしている。寺社めぐりと詩作は表裏一体のライフワークであり、旅の真髄と言える。
日吉大社は比叡山の東麓坂本にあって、天台宗総本山延暦寺の守護神として祀られた山王権現で、延暦寺の発展に伴い崇められて来た。比叡山(天台宗)のライバルである高野山(真言宗)は、丹生都比売神社を地主神として祀ったことに類似している。
日吉大社の境内は広く、山王二十一社と呼ばれる本宮と摂社や末社が鎮座する。本宮は、大己貴神(大物主神)を祀る西本宮と大山咋神を祀る東本宮に分かれ、大比叡と小比叡の山頂が御神体とされる。西本宮の創建は、天智天皇が大津に都を遷した白鳳時代の天智7年(667年)とされ、東本宮はそれ以前の創建であるが明らかではない。
元亀2年(1571年)、織田信長によって延暦寺が焼打ちされると、日吉大社も兵火を蒙って社殿は灰燼に帰する。織田信長の後継者となり、ほぼ天下を手中におさめた豊臣秀吉は、天正12年(1548年)から慶長4年(1599年)まで約50年をかけて再建した。奈良の春日大社が鹿を神の使いとして保護したように、日吉大社は猿を保護して来た経緯があり、秀吉の思い入れが強かったのであろうか。
東西本宮の本殿は、殆ど同じ規模と様式の建築で、西宮本殿は天正14年(1586年)に、東宮本殿は文禄4年(1595年)に完成している。入母屋の正面に1間通りの庇を付けた日吉造り(聖帝造り)という特殊な形式で、桧皮葺きの屋根を美しく演出している。
東西両宮の拝殿や楼門も立派な建物で、貴重な桃山建築として重要文化財に指定されているが、他にも摂社の社殿10棟、末社の東照宮社殿が5棟もあって亜然とする。残り少ないフィルムのコマ数を気にしながら撮るのも大変である。建築物以外にも日吉三橋と呼ばれる石橋が大宮川に架けられていて、これも重要文化財であった。
初めて参拝した年から14年後、境内の紅葉を見るために再び訪れた。神社の社殿は桧皮葺きが原則であり、瓦葺きや銅板葺きも樹木の少ない青空には映えるが、樹木に覆われた社殿は、桧皮葺きが自然的に見える。境内に点在する紅葉は、桧皮葺きの屋根と朱色の社殿に調和して絵画でも鑑賞している気分となる。
「写真でも 収めきれない 美しさ 日吉の社を 肉眼におさむ」 陀寂
058園城寺 金堂・新羅善神堂・光浄院客殿・勧学院客殿
訪問年: 平成03年12月30日(月)・平成19年09月28日(金)
所在地: 滋賀県大津市
創建者・施主: 円珍(開基)、北政所
建築年:金堂1599年(慶長4年)、新羅善神堂1347年(正平2年)、勧学院客殿1604年(慶長9年)
様式・規模: [金堂]向拝付単層入母屋造り桧皮葺・桁行7間×梁間7間 537.8㎡、[新羅善神
堂]向拝付単層流造り桧皮葺・桁行3間×梁間3間 35.8㎡、[光浄院客殿]唐破風付単層入母屋妻入造り柿葺・桁行6間×梁間7間 190.3㎡、[勧学院客殿]唐破風付単層入母屋妻入造り柿葺・桁行7間×梁間7間 227.0㎡
園城寺は三井寺とも称され、大津市郊外の長等山にある大寺院である。三井寺の名は、天智・天武・持統三天皇が産湯に用いた御井(井泉)があったことから命名されたと言われる。
しかし、天智天皇と天武天皇は飛鳥で生まれた兄弟であり、持統天皇は天智天皇の皇女である。天智天皇(中大兄皇子)が大津京を営んだ際、子の持統・元明・弘文三帝が産湯に浸かったことが正しいと考える。
三井寺は、弘文天皇の皇子・大友興多王が氏寺と開創しているが、実質的には智証大師円珍が、延暦寺の別院とて貞観元年(859年)に再建した時が開基と言える。この開基が延暦寺と仲違いする遠因となり、延暦寺が山門派、三井寺が寺門派と称して宗門争いを繰り返すのである。平安末期には堂塔80、僧坊600余も数えるほど繁栄するが、源平の争乱で焼かれ、織田信長の比叡山焼打ちの際も一蓮托生のように破却された。
その罪滅ぼしをするかのように、豊臣秀吉は北政所に金堂再建の意志を託して死去した。翌年の慶長4年(1599年)、片桐且元が奉行となって金堂は完成されるが、絢爛豪華な桃山様式の装飾を抑えた和様の本堂建築で、古刹の大寺院に相応しい風格を感じる。金堂(本堂)の建っている区域は中院とも呼ばれ、三院九谷の中心部でもあり、他に建っている三重塔や釈迦堂(食堂)は重要文化財でもある。
三井寺では最古の建築物である新羅善神堂は、中院から2キロほど離れた北院に建っている。方3間の流造りの全面に、1間通りの庇を設けて前拝としている。室町時代の貞和3年(1347年)の建築で、前拝の欄間の透彫りは、牡丹に鳳凰の鮮やかな彫刻である。堂内に安置された新羅明神像も国宝であり、鎮守の神として円珍の開基から祀られていると聞く。
三井寺の子院にあたる光浄院と勧学院の客殿は、書院造りの代表的な建物であり、杮葺きの屋根は建築美の極致に見える。客殿には入られなかったため、外観のみを見て写真に撮ったが、大広間や次の間の障壁画を拝見できなかったのが残念である。
南院に建つ観音堂は、西国三十三ヶ所霊場の第14番札所としても知られ、ここからの眺望は素晴らしく、琵琶湖を隔てた近江富士(三上山)まで見渡せる。堂内に安置された如意輪観音は円珍の自刻とされ、その尊像を拝しながら円珍が入唐の際に詠んだ和歌を思い出す。
「法の舟 さして行く身ぞ もろもろの 神も仏も 我れをみそなえ」 円珍
059石山寺 本堂・多宝塔
訪問年: 平成03年12月30日(月)
所在地: 滋賀県大津市
創建者・施主: 良弁(開基)、聖武天皇(発願)、淳祐(中興)
建築年: 本堂1096年(永長元年)、多宝塔1194年(建久5年)
様式・規模: [本堂・礼堂]単層寄棟舞台造り桧皮葺・桁行9間×梁間4間 695.7㎡、[多宝塔]三間桧皮葺・高さ17.2m 一辺5.8m
年末年始は京都で過ごそうとして東京から出立した旅であったが、近江の古刹は殆どめぐっておらず、せめて三井寺と石山寺だけはと思って参詣した。私が人生の師と仰ぐ、松尾芭蕉翁が約3ヶ月半滞在した幻住庵跡もあり、近江国分寺跡を探すことも目的にあった。
瀬田川の湖畔に面した東大門を入ると、一直線に伸びた参道に子院と大黒堂が建ち、突きあたりから右折して石段を上ると、諸堂が山上に建っていた。中でも本堂はひと際大きく、石段の左に聳えていた。
石山寺は天平勝宝元年(749年)、聖武天皇の勅願によって奈良の東大寺を開基した良弁僧正が開いている。その後、醍醐寺を開基した理源大師聖宝の孫弟子・淳祐が真言密教の道場にした時から真言宗の寺院となった。淳祐は天神に祀られた菅原道真の孫であると言う血脈から、朝野の信望を集めたと寺伝は記している。
創建時の本堂は、平安中期の承暦2年(1078年)に焼失したため、永長元年(1096年)に再建された。その後の慶長7年(1602年)、豊臣秀頼によって懸造りの礼堂が建て替えられている。通称は舞台造りと呼ばれる独特の外観で、清水寺や長谷寺ほど大きくはないが、境内の広さからすると調和のとれた本堂である。本堂(正殿)と礼堂の床は、かつては石敷きであったようであるが、再建した頃から利便性の高い板敷きに変えられたようである。礼堂には紫式部の蝋人形が飾られていて、優雅な平安女官の雰囲気を感じる。
多宝塔は本堂よりも高くなった場所に建っていて、最も古く最も美しい多宝塔と言われ切手のデザインになったほどである。源頼朝が諸堂の復興を行った際、再建されたもので、寺伝では建久5年(1194年)に建立されたと記している。外観は高野山の旧大塔を模しているので根来寺大塔と同様であるが、大塔の屋根は本瓦葺きであり、この多宝塔は桧皮葺きである。室生寺五重塔もそうであるが、桧皮や杮葺きの屋根が一番美しい。重要文化財の建物としては、東大門と鐘楼があるが、やはり多宝塔の存在が一番である。
多宝塔の先には月見亭が建ち、その手前に芭蕉堂もあった。芭蕉翁も紫式部のように石山の名月を眺めたことであろう。古より琵琶湖湖南は近江八景で知られ、その一つに「石山の秋月」がある。京の都に近いこともあって、行楽を兼ねての参詣が魅力であったようで、多くの著名人が訪れている。中でも紫式部は、この寺で『源氏物語』の構想を錬ったと聞き、風流の極みここにありで、私もいずれは石山の秋月を鑑賞したいものである。
「めぐり逢ひ 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かげ」 式部
060加茂別雷神社(上加茂神社) 本殿・権殿
訪問年: 平成03年12月31日(火)
所在地: 京都府京都市
創建者・施主: 天武天皇(創建)、施主不明
建築年: 本殿・権殿1863年(文久3年)
様式・規模: [本殿]3間社流造り桧皮葺、[権殿]3間社流造り桧皮葺
世界文化遺産(複合) 古都京都の文化財
大晦日に京都にいることが初めての経験で、これから数日間の京都はどんな年末年始を迎えるのか、興味津々で旅の2日目に入った。今回の旅行は未訪門の社寺をめぐるのが目的であったので、国宝の社殿のある上賀茂神社も含まれていた。
この日はレンタルカーを借りずに地下鉄や電車で京都市内を移動したため、地下鉄烏丸線北大路駅から鴨川沿いに歩いて御園橋を渡った。一ノ鳥居から二ノ鳥居、三ノ鳥居をくぐると、上賀茂神社の社殿が目の前に広がる。
かつて訪ねた下鴨神社の境内が泉川と瀬見ノ川に囲まれていたように、上賀茂神社も御水井川と御手洗川に囲まれていた。しかし、上賀茂神社の神域は20万坪(660,000㎡)と頗る広大で、下鴨神社の5倍もあるようだ。国宝建築は共に2棟であるが、重要文化財は下鴨神社29棟であるのに対して、上賀茂神社は34棟と多い。また上賀茂神社には国の重要伝統的建物群保存地区に選定された「社家の町並み」があり、建築的には魅力にあふれている。
上賀茂神社の祭神は、賀茂別雷神で下鴨神社に祀られている玉依姫命の子とされている。両神社を合わせて賀茂神社 (賀茂社)と称され、山城国の一宮で守護神とされている。一宮は複数に別れて鎮座される例があり、諏訪大社と若狭彦神社がそうである。古くから賀茂社は、伊勢神宮に次ぐ神格が与えられ、江戸末期までは遷宮も行われている。
上賀茂神社は、平安遷都以前の天武7年(678年)に大和からこの地に移住した賀茂氏によって創建された。平安遷都の4年後の延暦17年(798年)、桓武天皇が行幸参拝してから新都における第一の神社となったのである。
御水井川の架かる朱色の玉橋の前には楼門が建ち、御手洗川と合流する細殿の前には銀閣寺のような砂盛り(立砂)が二つあり、神々しい雰囲気を醸し出している。中門から透塀を隔てた先に、本殿と権殿が並べ建っていた。下鴨神社と同じく、文久3年(1863年)に式年造営された社殿で、本殿は典型的な3間社流造りである。丹塗りに桧皮葺きの外装はとても美しく、江戸末期になっても寺社建築の伝統が継承されていたことを痛感する。
諸殿の多くは平安貴族住宅を思わせる寝殿造りで、大宮人たちの心のふるさとを感じさせる。大晦日とあって神官たちは慌ただしく境内を動き回っていて、御朱印を頂戴するのも気が引ける有り様であった。再び細殿前の御手洗川に戻り、百人一首にも選ばれた藤原家隆の和歌を思い起こしながら楢の小川を散策した。
「風そよぐ ならの小川の 夕暮れは 御祓ぞ夏の しるしなりけり」 家隆
061大報恩寺(千本釈迦堂) 本堂
訪問年: 平成04年01月02日(木)
所在地: 京都府京都市
創建者・施主: 義空(開基)、元興(中興)
建築年: 1227年(安貞元年)
様式・規模: 向拝付単層入母屋造り桧皮葺・桁行5間×梁間6間 453.1㎡
京都に来て4日目となり、この日が初めての参詣となったのが大法恩寺である。一般的には千本釈迦堂と通称され、現在も庶民の信仰を集めていて、境内は拝観自由であった。特定の寺院以外は、初詣に寺院を訪ねる人は少なく、それは観光寺院に限ったことのようで、新年の飾りのない境内は閑散としていて、国宝の本堂をゆっくりと拝観できた。
『古寺古刹大辞典』によると、用明天皇の頃に藤原秀衡の娘が開基したと書かれているが、用明天皇は飛鳥時代以前の大和時代の天皇で、聖徳太子の父でもある。一方の藤原秀衡の娘は、実在したとすれば、平安末期から鎌倉初期の人で、その時代差は500年以上である。私は笑うに笑えなくなり、この辞典を疑いの目をもって見るようになった。
実質的には、奥州出身の義空という僧が、釈迦念仏の道場として承久3年(1221年)に開基したことが史実であろう。市中の建物を焼き尽くした室町末期の応仁・文明の乱の際も、この寺の諸堂も焼かれたが、唯一本堂だけは残ったと聞く。
義空上人の法名に空の字があることから、弘法大師空海の真言宗であったと推察するが、江戸時代に元興が中興するまでは天台宗に転じていたと言う。桃山時代には、豊臣秀吉によって山門が解体されて聚楽第の資材に転用されたり、寺領も減じられて一時衰退したようだが、元興が新義真言宗智山派の道場としてからは寺運も隆盛に向かったようである。
本堂は安貞元年(1277年)、義空によって建立されたことは確かのようで、洛中では最古の木造建築物となっている。入母屋の桧皮葺きの外観は、寝殿造り風であり、その屋根の美しさに見とれた。耐火性のない桧皮の屋根の本堂が残っていたこと奇跡的でもあり、同時に内陣に安置された釈迦如来像も不時であったことを意味する。前面の2間は蔀戸のある外陣となっていて、その上の大虹梁を見る限り純和風の仏堂建築である。
本堂と霊宝殿の拝観は有料であったが、正月三ヶ日は休みのようで、御朱印を頂戴することも儘ならなかった。閑散とした境内の中に、「おかめ塚」と「おかめ像」があった。何でも本堂を建築している際、夫である棟梁が何かしら失敗をしたそうで、その失敗を助けたあと、その発覚を守るためにおかめは自刃したと言う伝説がある。そのおかめの内助の功を顕彰するために信仰が続いているようある。
この寺では、テレビのニュースなどで全国的に知れ渡った冬の風物詩「大根焚き」があるが、先月の12月7日と8日の2日間であったらしい。大根が大好物の私にとっては、チャンスが無かったとことに絶句するだけである。
「千本の 大根食べる 初夢を 祇園の宿で 見たか見ないか」 陀寂
062浄瑠璃寺(九体寺) 本堂・三重塔
訪問年: 平成04年01月05日(日)
所在地: 京都府加茂町
創建者・施主: 義明(開基)、阿知山太夫重頼
建築年: 本堂1107年(寛弘4年)、三重塔1178年(治承2年)
様式・規模: [本堂]向拝付単層寄棟造り本瓦葺・桁行11間×梁間4間 209.7㎡、[三重塔]三重塔婆桧皮葺・高さ16.5m 一辺3.0m
冬の京都旅行の最終日はレンタルカーで平等院を再訪し、浄瑠璃寺を訪ねることにした。以前から憧れていた古刹で、国宝建築の本堂と三重塔よりも特別名勝となっている庭園を見るのことが目的でもあった。
浄瑠璃寺は九体の阿弥陀仏があることから九体寺、九品寺の名もある。この寺の創建は謎に満ちていて、行基菩薩や多田満仲の名も出てくるが永承2年(1047年)、阿知山太夫重頼が檀那となって義明上人が西小田原寺を開基したことが通説のようだ。重頼も義明上人もこの寺の史伝だけに登場して来る人物で、重頼はこの地の小豪族と目され、義明上人は当麻の出であったことしか分かっていない。その後に西小田原寺よりも30年ほど前に創建された東小田原寺が廃寺となって現在の浄瑠璃寺となって合併されたのは、嘉承2年(1107年)に本堂が建てられた頃とされる。
小さな北大門を入ると、右に庫裡、左に鐘楼が建ち、正面に中島を配した園地が見えと来る。その池の東西に、国宝の三重塔と本堂が向かい合って建っていた。桁行き11間の長い本堂は、九体の阿弥陀坐像を安置していることから阿弥陀堂とも呼ばれ、創建当時の姿を今に残している。大きな丈六阿弥陀坐像を中心に、一回り小さな8体の半丈六阿弥陀坐像が整然と並び、荘厳な極楽浄土を見るようである。
九体の阿弥陀坐像はすべて国宝であり、平安時代には九体阿弥陀堂が20数棟もあったそうであるが、現在あるのはこの浄瑠璃寺の本堂だけと聞く。内部は単純な化粧屋根裏で、大虹梁上に合掌を組んでいる。組物は4隅に舟肘木を用いた簡素なもので、向拝は江戸時代に増設したようである。
三重塔は治承2年(1178年)、平安京の一条大宮から移築されたもので、桧皮葺き屋根の曲線が美しく、朱色の三手先の組物も鮮やかで気品に満ちている。その塔影が池に移り、カメラのシャッターを押す手にも力が入る。現存する13基の国宝三重塔の中では最も小さく、築年では6番目の古さである。塔内に安置された薬師如来は、阿弥陀如来に対峙しているようにも見えるが、約800年の歳月を経ているので、阿字の池の景観に同化した盟友のようだ。
浄瑠璃寺には国宝の四天王像の他にも、豊麗な女性をモデルにした吉祥天像もあり、その魅力を短時間で見て回れるものでもない。御開帳の日まで待つのは残念であるが、浄土式庭園を堪能しただけでも十分で、明治の歌人・会津八一が詠んだ短歌を思い出す。
「かれわたる いけのおもての あしのまに かげうちひたし くるるたふかな」八一
063宇佐神宮 本殿
訪問年: 平成05年05月30日(日)
所在地: 大分県宇佐市
創建者・施主: 大神比義(創建)、施主不明
建築年: 1861年(文久元年)
様式・規模: [内院]単層切妻造り桧皮葺・桁行3間×梁間2間、[外院]単層向拝付切妻八幡造り桧皮葺・桁行3間×梁間1間×3棟
友人の結婚式が大分市であって、折角来たのだからと、3日ほど休みをとって九州北部の寺社をめぐった。九州は東北人にとっては遠い存在であり、40年間で3度しか九州には来ていない。この日は、国東半島の両子寺を詣でて、中津城を訪ね途中で宇佐神宮を参詣した。
全国の神社の中でも八幡宮や八幡社は、約25,000社の分霊を要していて、稲荷神社に次ぐ多さであり、その総本社でもある宇佐神宮の参拝は長年の夢でもあった。主祭神は誰でも知っている応神天皇こと誉田別尊を祀り、相殿神は神社によって異なるけれど、宇佐神宮は比売大神と息長帯姫命(神功皇后)を祀っている。
寄藻川に架かる神橋を渡ると、大きな丹塗りの鳥居が立っている。笠木に桧皮葺きの屋根を載せた独特の形式で、宇佐鳥居と呼ばれるそうだ。大鳥居の右手には初沢池があり、奈良の猿沢池、京都の広沢池と共に「日本三沢の池」の一つと聞いたが、そんな名数もあるのかと驚いた。猿沢池と広沢池は月の名所ともなっているが、初沢池は選ばれていない。
広い参道を行くと、下宮と若宮の社殿があり、左手に石段があってその上に本殿が建っていた。本殿は奈良時代の神亀2年(716年)に現在地に創建されて以来、式年造営が行われて来たようであるが、文久元年(1861年)の造営を最後に今日に及んでいる。本殿は西端から第一殿から第三殿まで、八幡造りと呼ばれる形式で並び建っている。
神社の屋根は桧皮葺きが基本であり、瓦や鉄板・銅板葺きの社殿は魅力に乏しい。三殿とも桁行3間・梁間2間の内院に、桁行3間・梁間1間の外院を付帯させた同様の規模となっている。国宝の本殿では、奈良県の宇太水分神社本殿が三殿を同様にしているが、奈良の春日大社や大阪の住吉大社に至っては四殿が同様となっている。主祭神と相殿神の本殿の規模が同一であることは、潜在的な日本人の平等意識が反映されたものであり、神々に対する畏敬の念が同様であることも意味する。
仏教には教義があるけれど、神道は自然崇拝から端を発しているため教義も単純であるが、その祀られている神々は百万と呼ばれるほどに数が多く、時代によって変わっているのが漫画的で面白い。しかし、八幡神社に関して言えば、私の生まれた土地の郷社が浅舞八幡神社であり、その氏子である私は、八幡の名のある神社には特別の愛着があった。その総本社に参詣できたことは何よりの喜びでもあり、先祖代々の墓地がある寺の本山は京都の東本願寺であり、それと同様の親しみを感じる。
「神仏に 助けられつつ 生きている 自分一人で 何ができるか」 陀寂
064大浦天主堂(教会堂) 天主堂
訪問年: 平成05年06月01日(火)
所在地: 長崎県長崎市
創建者・施主: フュレー、小山秀(棟梁)
建築年: 1865年(慶応元年)
様式・規模: ゴシック様式煉瓦壁造り桟瓦葺
大分から博多に移動した翌日は、レンタルカーで長崎と佐賀のめぐり、嬉野温泉に泊まることにした。長崎の訪問は今回が初めてであったこともあり、見てみたい名所名跡が沢山あって、何を優先するべきか判断に迷ってしまった。そんな時、長崎県には今も多くキリスト教の信者がいることに歴史的な奥深さを感じる。
大浦天主堂はその象徴的な建物でもあり、キリスト教の聖書を何度読んでも得られるものが無く、禅宗の精神や真言宗の宇宙観などの仏教に染まった私にとっては、高いハードルのように思える。キリスト教の原点は人間愛であり、私の理念は自然愛であり、人間は自然に寄生している事実がある限り、西洋人の考え方と日本人の根本とは馴染まない。それでも国宝建築となれば、建築的な狭い視点から外観を眺めるだけである。
大浦天主堂の正式な名称は日本26聖殉教者天主堂で、豊臣秀吉によるキリシタン禁止令によって処刑された26名の殉教者の霊を祀るために慶応元年(1865年)に完成した。建築当初は木造3階建ての教会であったが、明治12年(1879年)に増築工事が行われた際、外壁を煉瓦壁の漆喰塗りに改め、五廊の教会堂にするためにゴシック様式に統一されたそうだ。間口は1間ずつ広げられて、奥行も2倍の広さに拡張される。
天主堂の屋根に聳える八角の尖塔は、教会のシンボルであるが、それを支える三角屋根が桟瓦葺きであるのが日本的である。昭和20年(1945年)8月9日の原爆投下によって甚大な被害を受けたようであるが、昭和27年には旧国宝であったこともあり、国費で修復工事が行われ、昭和28年には再び国宝に指定されている。
天主堂に隣接する旧羅典神学校は、明治8年(1875年)に日本人神父の養成のために建てられた学校兼奇宿舎で、国の重要文化財となっている。木造煉瓦造り4階建ての洋風建築は珍しく、異国の景観が残る長崎でも貴重な建物と言える。
キリスト教でもイスラム教でも教会や寺院は、観光的な観点から拝観してはならないと思うが、日本の著名な仏教寺院は檀家の信仰よりも観光で成り立っている例が多い。そんな神社仏閣と教会には、大きな価値観の隔たりがあり、国宝建築の探訪という観光目的の私には、場違いの建物であることは否めない。
この天主堂を訪ねた靖国時代(明治・大正・昭和戦前)の俳人で医学博士の水原秋桜子は、
古寺巡礼をした人で私と同じような気持ちを抱いて句を詠んでいた。堂内の中央大祭壇の掲げられたキリストのステンドガラスと、聖母マリア像には敬服したようである。
「露けさの 彌撒のをわりは ひざまずく」 秋桜子
065崇福寺 大雄宝殿・第一峰門
訪問年: 平成05年06月01日(火)
所在地: 長崎県長崎市
創建者・施主: 超然(開基)、何高材
建築年: 大雄宝殿1629年(寛永6年)、第一峰門1696年(元禄9年)
様式・規模: [大雄宝殿]二層入母屋造り本瓦葺・桁行5間×梁間4間 192.5㎡、[第一峰門]入母屋造り・本瓦葺・四脚門 15.1㎡
大浦天主堂から市内に入り、グラバー邸やオルト邸などの重要文化財の建物を見物し、崇福寺へとレンタルカーのハンドルを握った。長崎には1泊して、稲佐山からの日本三大夜景の一つ「長崎の夜景」を眺めて見たかったが、今の私は著名な温泉に泊まることを重要視していたので、長崎の夜景は老後の楽しみにと考える。
崇福寺は支那寺と言われるように、長崎やその近在に住む華僑たちによって中国僧・超然を招請して寛永6年(1629年)に創建した。徳川幕府が黄檗宗の隠元禅師を明国の福州から招き、京都の宇治に万福寺を開基させたのは寛文元年(1661年)であり、その以前の開基である。最も古い黄檗宗の寺院であるが、その建築様式は異国から伝わった大仏様(天竺様)でも、禅宗様(唐様)でもない明国時代の独自の様式で、黄檗様とも呼ばれている。
竜宮城の楼門のような重要文化財の三門を入ると、石段の参道が続き、その先に第一峰門があった。入母屋屋根の小さな四脚門であるが、軒下の斗栱は詰組と呼ばれる珍しいもので、斜めに突きだした肘木も独特である。第一峰の扁額は、崇福寺を中興した隠元禅師の高弟・即非禅師の筆によるものと聞き、万福寺との関わりが深かったことが知られる。第一峰門は唐門とも呼ばれ、その部材は元禄7年(1695年)に福州の寧波で加工され、数隻の船で運ばれて元禄9年(1696年)に組み立てられて完成したそうだ。
第一峰門を入ると、護法堂・大雄宝殿・開山堂が直線上に建っていた。大雄宝殿はこの寺の本堂(仏殿)であり、大雄は釈迦のことであると聞いて新たな知識が吸収された。寺が創建された正保3年(1629年)に大雄宝殿が建てられているが、最初は単層で天和元年(1681年)頃に重層に改築されている。建物の特徴としては、格柱とも長さや太さが異なることと、一見して円形にも見えるが実際は楕円となっている。また、軒下に垂れさがった吊り柱のような飾りが各所にあるが、日本にはないもので何と表現していのか戸惑ってしまう。
重要文化材としては他に、護法堂(関帝堂) ・鐘鼓楼・媽姐門があり、いずれも中国風の堂宇で異国情緒豊かではあるけれど、一つだけ残念だったのが写経の風習がないようで、御朱印を頂戴できなかったことである。黄檗宗の総本山万福寺では、しっかりと頂いたのであったが、その末寺となっても中国風を貫いているようだ。
帰り際、第一峰門の左手に歌碑が立っていたので見てみると、橋田東声という人の歌で、この寺を訪ねた感慨が今の私と重複しており、手帳に書き留めて忘れないようにした。
「唐寺の 雨にくれゆく あはれさも まことにここは 肥前長崎」 東声
066鶴林寺 本堂(講堂)・太子堂
訪問年: 平成05年10月10日(日)
所在地: 兵庫県加古川市
創建者・施主: 恵便(開基)、聖徳太子(発願)、施主不明
建築年: 本堂1397年(応永4年)、太子堂1112年(天永3年)
様式・規模: [本堂]単層入母屋造り本瓦葺・桁行7間×梁間6間 260.6㎡、[太子堂]単層宝形造り桧皮葺・桁行3間×梁間3間 56.4㎡
大阪で友人の結婚式があり、秋田から遠路はるばると来たので、大阪のホテルに3連泊して、まだ見ぬに寺社をめぐった。今日は鶴林寺に来る途中で、宝塚市にある中山寺と清澄寺(清荒神)を訪ね、真言宗二十八本山の巡礼も神戸の須磨寺と香川県の善通寺を残すだけとなった。兵庫県にはこの鶴林寺の他にも古刹が多く、広い地域に点在しているため、何度となく訪ねないと私の旅は終わりそうもない。
鶴林寺は欽明26年(565年)、物部氏の排仏から逃れて、この地に来た高麗僧の恵便が、物部氏の滅亡後の推古元年(593年)、聖徳太子の要請で開基したと伝わる。創建当時は、四天王寺聖霊院と号され、大阪の四天王寺の別院であったと推察する。その後の平安末期に鳥羽天皇が勅願寺として中興し、寺名も鶴林寺に改められている。
本堂は室町初期の応永4年(1397年)に建てられているが、建築当時は講堂として建てられためか、仏殿とは異なる趣がある。かつて訪ねた河内の観心寺本堂の様式に類似していて、天竺様・唐様・和様の折衷建築を更に発展させたように感じる。中規模の本堂ではあるが、複雑な組まれた斗栱は絵画的であり、屋根の形が江戸時代に改造されたと聞いて残念に思うばかりであった。
太子堂は天永3年(1112年)に鳥羽天皇が中興した時の堂宇で、仏教の父・聖徳太子を崇拝した気持ちが感じられる。方3間の宝形造りで、桧皮葺きの屋根は異彩を放ち、天台宗の寺でありながらも、どちらかと言えば真言宗の古刹に残っている大師堂(御影堂)に近い。ここに来る前まで、真言宗の寺を訪ねて来たせいか、そのように感じたのかも知れない。
境内には、常行堂、鐘楼、行者堂、護摩堂と重要文化財の諸堂が建ち並び、三重塔も昭和55年(1980年)に復元されて絶句するばかりである。仏像や絵画の宝物も多く、この寺を満喫するにはもう一度訪ねなければと思いながらも月日は流れ、あれから20年が経ようとしている。その当時の写真を眺めながら酒を飲み、心象の一首を詠んだ。
「播磨路や 七堂伽藍 鶴林寺 いかるがの里を ここに見るとは」 陀寂
七堂伽藍には、寺に七つの堂宇があるだけではなく、どうしても三重塔や五重塔が必要であり、それが昔のままに残っているのは希少である。この鶴林寺の三重塔は室町中期の建築であるが、江戸後期に初層の殆どが新材を用いるいるために兵庫県の重要文化財(県文)に甘んじている。室町中期で三重塔ではこの塔だけであり、国の重要文化財に昇格させてもおかしくはないが、それが儘ならないのが日本の現状のようだ。
067石上神宮 拝殿・摂社出雲雄建神社拝殿
訪問年: 平成05年10月11日(月)
所在地: 奈良県天理市
創建者・施主: 伊香色雄命(創建)、白河天皇
建築年: 拝殿1274年(文永11年)、摂社出雲雄建神社拝殿1300年(正安2年)
様式・規模: [拝殿]単層向拝付入母屋造り桧皮葺・桁行7間×梁間4間 146.3㎡、[摂社出雲健雄神社拝殿]単層唐破風付入母屋造り桧皮葺・桁行5間×梁間1間
何度となく奈良に来ているが、天理から三輪に至る山の辺の道を歩くのは今回が初めてであり、有名な石上神宮を参拝し、念願であった大和国の一宮・大神神社も参拝できた。
かつて、松尾芭蕉も「笈の小文」の旅で布留社(石上神宮)を訪ねていて、その足跡をめぐるのも今回の目的の一つでもあった。
石上神宮は石上坐布留御魂神社が正式な名称のようであるが、明治16年(1883年)に現在の社名に簡略化された。祭神は神剣布留御魂で神武天皇東征に際し、熊野で高倉下命から献上されたもので、天皇はこの剣をふるって荒ぶる神たちを鎮めたと言う。神剣を御神体する神社は、他に名古屋の熱田神宮もそうであり、決して珍しいことではないようだ。
神社の創建は定かではないが、白鳳時代の天武3年(674年)には、忍壁皇子(刑部親王)が神剣を磨いたとされ、その頃には社殿が建てられていたと思われる。神宮略記には、崇神天皇の時代に物部の祖・伊香色雄命が勅により現地石上布留の高庭に鎮め祀ったとある。しかし、崇神天皇も含めた10代の天皇は架空の人物とする説があり、宮内庁認定の陵墓があっても、その可能性は否めない。仁徳天皇陵にしても伝という字を付けて曖昧にしている。
拝殿は白河天皇が鎮魂祭の為に御所の神嘉殿を移築したものと、略記は書いているが、鎌倉中期の元仁元年(1224年)の建立であるとするのが一般的な見解であるようだ。神社の拝殿としては現存する最古の建物であり、希少価値は高い。屋根は桧皮葺きであるが、外観はどう見ても仏堂風であり、神仏混淆の時代を感じさせる。
石上神宮には神庫と称される建物があり、上代天皇の武器庫であったされる。そこには、神功皇后が百済王から賜ったとされる七支刀があり、国宝に指定されている。他にも武具や装飾品も数多く収納されているようだ。
摂社の出雲雄健神社拝殿は、この寺の神宮寺である永久寺の鎮守社(住吉神社)の拝殿であったが、大正3年(1914年)に現在地に移築されている。明治の廃仏毀釈で、神社と一体であった神宮寺は悉く破却され、現存する寺院は少ない。この拝殿は、間口5間、奥行1間の住宅風の外観に唐破風を付けた風変わりな建物であり、正安2年(1300年)に建築されている。
広い境内には、杉の古木も多く、万葉の歌人・柿本人麻呂の詠んだ「石の上 布留の神杉 神さびて 吾やさらさら 恋ひに遭ひける」の和歌が脳裡に浮かぶ。青年時代に多くの女性とめぐり遭ったが未だに独身であり、松尾芭蕉を師と仰いでいるために、人麻呂のようなサラサラとした恋も懐かしく思いだされる。
068住吉大社 本殿
訪問年: 平成05年10月12日(火)
所在地: 大阪府大阪市
創建者・施主: 神功皇后(創建)、施主不明
建築年: 1810年(文化7年)
様式・規模: 住吉造り桧皮葺・桁行4間×梁間2間×4棟
大阪市内は文化財や名勝に指定された寺社や庭園が少ない中で、唯一の国宝が住吉大社の本殿であり、奈良から戻った翌日は真っ先に参拝して、本殿を拝観した。この日は天気も良く、反橋(太鼓橋)の朱色の円弧が池に美しく映っていて、私を歓迎してくれた。
住吉大社は海神である底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神の他に息長足姫命(神功皇后)の4柱を祀る神社である。男神だけでは物足りないと、女神で軍神の神功皇后を加えたのかと思ったが、神功皇后が三神を祀って韓国に渡海した経緯が遠因のようだ。
住吉大社は摂津国の一宮でもあり、大阪の総鎮守として信仰を集め、全国に約1,600社の末社を有する総本宮でもある。寺院の総本山や大本山に限らず、神社の総本社や総本宮、諸国一宮を巡礼することが私の旅の最終目的であり、全国に68社ある一宮も、今回の参拝で半分以上はめぐったことになる。
慶長年間に淀君が奉納したとされる反橋を渡ると、住吉鳥居と称される4角柱の独特の鳥居が立っていて、その先に手前から第三本宮、第二本宮、第一本宮と一直線に建ち並んでいる。息長足姫命を祀る第四本宮だけが第三本宮の右手に建っていて、殆ど類例を見ない配置となっていた。本殿は4棟とも、屋根は桧皮葺きの切妻造りの妻入で、住吉造りと称される独自の形式で丹と白と黒の色彩が鮮やかである。屋根には剱のような千木と3本の置千木が設えてあり、神社建築では最古の様式を伝えている。
住吉大社の本殿も伊勢神宮に倣って21年に一度の式年遷宮制が行われていたが、賀茂神社や宇佐神宮と同じく、江戸末期で造替を中止されている。現在の本殿は、文化7年(1810年)に造替されたもので、重要文化財が妥当と思われるが、神社建築に対する政府の偏重を多少なりとも感じる。文化財の指定は、後世に残そうとする人々の基準であって、明治政府の思惑によって城郭や仏殿が破壊された歴史を思うと、封建時代や神仏習合の時代を日本から葬り去りたいという意図を禁じ得ない。
本殿の他に、江戸初期に建てられた南門、東西楽所、石舞台、摂社大海神社本殿は重要文化財である。また、北は北海道の松前から南は九州の薩摩から奉納された石燈籠が約600基もあって、航海の安全を祈願した人々の信仰心を知るようだ。
昔の住吉大社は海に面した松原の名勝で、熊野詣での順路でもあっため著名人も多く参拝したようだ。境内には松尾芭蕉の句碑と太田蜀山人の歌碑が立っていた。蜀山人は江戸幕府の役人でありながら狂歌を愛した人で、友人と再会できなかった無念さを歌に残した。
「すみよしの まつへきものを うら波の たち帰りしそ しつこころなき」 蜀山人
069妙法院 庫裏
訪問年: 平成16年03月13日(土)
所在地: 京都府京都市
創建者・施主: 実全(開基)、豊臣秀吉
建築年: 1595年(文禄4年)
様式・規模: 単層入母屋妻入造り本瓦葺・桁行23.7m×梁間21.7m 515.0㎡
時代の流れに乗り遅れまいと、設備屋の私はCADによる新しい仕事にチャレンジし、その会社の経営のため約10年の歳月を費やした。しかし、休みもなく、旅する気持ちにもなれないままの生活に行き詰まり、昔から憧れたていた世捨人の道を選んだ。身内の肩代わりした借金が途方もない金額であったが、いつもでも死ぬ覚悟を決めての旅行であった。
妙法院は京都を始めた訪れた20歳の頃から知っていたが、境内に入るのは今日が初めてである。この日は特別拝観日とあって国宝庫裏の内部まで見学できたのは、本当にラッキーであった。
妙法院は伝教大師最澄が比叡山に草創したことが始まりとされ、天台座主であった実全が開基している。その後、後白河法皇によって京都に移され、親王が代々住持したことから門跡寺院として称される。有名な三十三間堂は、妙法院の管理する境外仏堂となっているので、妙法院の本院まで一般公開する必要性がないのかも知れない。
庫裏は食事を作る寺の厨房であるが、豊臣秀吉が方広寺大仏殿を建立した文禄4年(1595年)に、千僧供養の僧の食事を賄うために建てられたそうだ。間口11間、奥行12間に棟高59尺(17.89m)という大建築で、国宝の庫裏としては松島の瑞巌寺庫裏に勝る。庫裏の建物には大概、煙出し用の小棟が屋根の上にあるのが特徴で、この庫裏にも立派な小棟がある。
門跡寺院の格式をあらわす唐破風の玄関から内部に入ると、土間と板の間、座敷の3部屋に別れていた。土間と板の間には天井がないため、大棟上の貫や梁が煙に燻されて黒光りしている。天然木を巧みに利用した軸組は、桃山文化が生んだ建築技術の一つで城郭にも多く見られる。
妙法院は国宝の庫裏の他に、大書院と玄関が重要文化財に指定されている。江戸時代初期に御所の旧殿を移したものとされ、桃山様式の書院建築である。また、普段は公開されていな庭園なども拝観できたのは有意義であった。
内観を終えて境内を歩き、本堂に参詣した。方三間の重層宝形造りで、寺の規模からすると小さな本堂ではあるが、重要文化財の普賢菩薩を本尊に祀っているのは珍しい。それも象に乗った姿の菩薩像は初めて拝観した。
境内に一角には「七卿落碑」が建てられていたが、この寺が幕末の土佐藩の宿舎であったことから尊攘派の会合の場でもあったらしい。三条実美ら七卿は、この寺の宸殿で最後の夜を過ごして長州へと都を追われたそうだが、その時の心境を詠んだ和歌を思い出す。
「鶯は 何の心も なる竹の 世に春なりと うちはいて啼く」 実美
070知恩院 本堂(御影堂)・三門
訪問年: 昭和48年08月30日(木)・平成04年01月01日(水)・平成16年03月13日(土)
所在地: 京都府京都市
創建者・施主: 源智(開基)、徳川家康・秀忠・家光
建築年: 本堂1639年(寛永16年)、三門1621年(元和7年)
様式・規模: [本堂]単層入母屋造り本瓦葺・桁行11間×梁間9間(45m×35m) 1575.0㎡、[三門]重層入母屋造り本瓦葺・5間3戸二階二重門 50mW×24mH
知恩院の本堂と三門と国宝に格上げとなったと聞いて、12年ぶりに知恩院を参詣した。重要文化財と国宝とでは、その存在価値に大きな違いがある。私のように、国宝に指定された建築物だけは見てみたいと興味を示す人も多いだろう。
知恩院は法然上人が開宗した浄土宗の総本山で、京都では屈指の七堂伽藍を有する。知恩院の伽藍が整えられたのは江戸時代に入ってからであり、徳川家康が浄土宗の信徒であったことと、京の人々に徳川家の威厳を示す狙いもあったようだ。
本堂は法然上人の尊像を安置していることから御影堂とも呼ばれ、境内で一番大きな堂宇なので大堂とも称されている。その大きさは明治時代になって、東本願寺の御影堂が建てられる前までは、洛中一の規模を誇っていた。東本願寺の御影堂のように全面が広場にでもなっていれば、その大きさも把握できるが知恩院は高い場所にあるために広場がなく、狭い境内のためにその大きさを測り知ることはできない。
本堂の外観は、江戸時代では一般的な和様式ではあるが、内部は禅宗的な唐様式も取り入れている。堂内の配置は、広い畳の間、きらびやかな外内陣、宮殿形の厨子のある内陣からなる。また本堂には「知恩院の七不思議」とされる屋根の峯の忘れ瓦と、左甚五郎の忘れ傘があるが、完璧に造るとかえって魔がさすことを意味しているそうだ。
三門は神宮通りに面し、石段下から見上げると圧倒されるような大きさである。同じ京都の南禅寺、山梨の久遠寺と並び「日本三大門」に数えられている。三門は宗派によっては山門と表記したり、大きな門は大門と呼ぶ場合もある。ガイドブックなどでは、現存する木造では日本最大と紹介されているが、実際は高野山の入口にある大門は知恩院三門の倍近くの間口となっている。
建築的には重層入母屋造りの18脚門で、二階には高欄をめぐらしている。反りのある瓦屋根の曲線が美しく、幾何学的な木組みも見ごたえがある。正面に掲げられた「華頂山」の扁額は、霊元天皇の筆によるものでその金字は鮮やで、二畳分の大きさに驚くばかりだ。
知恩院には2棟の国宝建築以外に9棟の重要文化財を有しているが、中でも大鐘楼の除夜の鐘は年末のテレビ番組でよく知られている。法然上人も御廟の中で聞いているのだろうか、波乱に満ちた上人の念仏信仰を思うと極楽往生していることと思ってしまう。上人の和歌には、念仏を唱えながら往生することを願った一首がある。
「阿弥陀仏と 十声唱へて まどろまむ 長き眠りに なりもこそすれ」 法然
071犬山城 天守及び東西附櫓
訪問年: 平成17年09月18日(日)・平成19年10月18日(木)・平成21年01月18日(日)
所在地: 愛知県犬山市
創建者・施主: 織田広近(築城)、成瀬正成(改修)
建築年: 1601年(慶長6年)
様式・規模: [天守]3層4階地下2階付本瓦葺、[南面・西面附櫓附属]単層本瓦葺
国宝の城郭で唯一見物していなかったのが犬山城で、四日市に仕事に来ていたので休日を利用して真っ先に訪ねた。天守閣が国宝に指定されている城郭は、播州の姫路城、信州の松本城、近江の彦根城、尾張の犬山城の4城だけでとても貴重な建築物である。他の3城に比べると知名度が低く、同じ尾張の名古屋城に観光客の足は向くようである。
犬山城は別名、白帝城と呼ばれ、唐代の詩人・李白が長江沿いの丘の上にある白帝城を詠んだことに因んでいるようだ。犬山城も木曽川に臨んだ高台に建ち、その景観は日本では例を見ないほど明媚である。
駐車場に車を停めて城内に入ると、尾張の祖神を祀る針綱神社があり、更に石段を登ると、内藤丈草の「涼しさを 見せてやうごく 城の松」の句碑が建てられていた。丈草は松尾芭蕉の門弟の一人で、俳諧師となる以前は犬山藩士であった縁から句碑が建てられたのだろう。木曽川の川風に吹かれる城の松を詠んだもので、今も城内には多くの松が残っていて居心地が良さそうである。
高台の広場に至ると、5メートルほどの野積みの石垣と一体となって天守閣が晴れ渡る空に聳えていた。高台が石垣の役割も兼ねているので、そんなに高く石垣を積む必要性がなかったようで、高台と3層4階の天守閣との高さのバランスが大変に良い。
天守の外観は、初層に平屋の付櫓が南面と西面に付いた複合式で、最上部の3層目は欄干をめぐらした望楼型の展望台となっている。2層目の屋根は、南北が唐破風、東西が千鳥破風となっていてインパクトのある意匠である。
外観をカメラに写して天守閣の中に入ると、踊場を含めて地下2階、地上4階と外観に比べて複雑な構造である。概して天守閣には地下階があって、屋根の層数よりも階数が多い。その階段を一歩一歩、城郭の歴史を噛みしめながら展望台に立つと、絶景の眺めが広がっていた。濃尾平野の先には御嶽山と伊吹山が頭を出していて、眼下を流れる木曽川の清流が青く澄んで美しく見える。その景色を眺めながら日常的にここに立っていた城主のことが脳裏に浮かんで来る。
織田広近が砦を築いた後、織田信康、池田恒興、織田勝長、織田信雄、三好吉房、石川清貞、小笠原吉次、平岩親吉、成瀬正成と目まぐるしく城主が移り代わっている。最後の城主・成瀬正成は、尾張藩の付家老として3万5千石をもって犬山藩を興した。1万石以上の領国を有する武士が大名と称されたが、成瀬家は家老の身分ながら大名と肩を並べていた。その成瀬家が明治初期の廃藩置県で、権力から天守を守った業績が国宝に結び付いている。
072有楽苑 如庵
訪問年: 平成17年09月18日(日)
所在地: 愛知県犬山市
創建者・施主: 織田有楽斎
建築年: 1618年(元和4年)
様式・規模: 入母屋造り柿葺(2畳半茶室・3畳水屋)
犬山城を見物した後、もう一つの国宝が犬山市内にあることを知ったのは、地元で貰った犬山市観光のパンフレットにあった。国宝の如庵の存在は知ってはいたが、地元のホテルの一角に保存されていることまでは知らなかったのが事実である。それなら明治村と同様に訪ねなくてはいけないと思って、犬山城から案内板に従って車を進めた。
国宝の如庵は、名鉄犬山ホテルが東京の三井本家から譲り受けて管理しているようだ。そこは有楽苑と称される庭園となっていて、茶室を造った織田有楽斎の名に因んでいる。有楽斎は織田信長の実弟で、茶人として安土・桃山・江戸初期に活躍した人物である。
茶の湯は戦国時代の武将に好まれ、一大ブームを巻き起こすことになるが、中でも千利休の茶の湯はその頂点を極め、多くの茶人を輩出した。有名な所では豊臣秀吉で、織田有楽斎もその一人である。
茶の湯は茶室や茶道具あっての茶の湯であって、茶人の多くが自前の茶室や茶道具の所持に心血を注いだ。秀吉が大阪城に黄金の茶室を設えたように、有楽斎は大阪天満屋敷と、京都建仁寺の塔頭・正伝院に如庵を造ったのである。
明治41年(1908年)、正伝院が永源院と合併された際、祇園町の有志に払い下げられた後に東京の三井本邸に移築された。昭和13年(1938年)には大磯の三井家別邸に移され、昭和47年(1972年)に名古屋鉄道が購入して現在地に移れたと聞く。
正門から有楽苑に入ると左手に古図により復元された元庵があり、正面に旧正伝院の書院が建っている。この書院は重要文化財に指定されており、国宝の如庵は書院に寄り添うような配置で建っていた。左側の屋根を長くした柿葺き入母屋造りで正面の妻の上には「如庵」の扁額が掲げられていた。この如庵の名は、有楽斎のクリスチャンネームであるジョアンに由来されていると聞いたが、弾圧を免れたのは茶人の名声が高かったからであろう。
茶室の内部は、毎月一回のみ一般公開されているようで、二畳半台目の向切り茶室を見ることはできなかった。しかし、土間の庇袖壁の丸窓や竹を詰め打ちした有楽窓など外観を見ているだけでも、独自の工夫がなされている。
如庵は千利休が残した京都山崎の妙喜庵内にある待庵、小堀遠州の作とされる京都紫野の大徳寺龍光院内にある蜜庵とともに「国宝三名席」と称されている。利休はわび茶、遠州は綺麗さびと言われているが、有楽斎に関して有楽流の祖と仰がれているだけである。彼の波乱に富んだ人生を物語るように、茶室も数奇な運命を辿っているのも因果なのか。
「死に臨む 兵どもの 茶会かな」 陀寂
073西明寺 本堂(瑠璃殿)・三重塔
訪問年: 平成17年10月02日(日)
所在地: 滋賀県甲良町
創建者・施主: 三修(開基)、仁明天皇(発願)、望月友閑(中興)
建築年: 本堂1274年(文永11年)、三重塔・鎌倉後期
様式・規模: [本堂]単層入母屋造り桧皮葺・桁行7間×梁間7間 399.0㎡、[三重塔]三重塔婆桧皮葺・高さ23.8m 一辺4.2m
西明寺は「湖東三山」の一つに数えられていて、今回の寺社めぐりの旅はこの三山を巡礼することにした。また、「西国薬師四十九霊場」の32番札所となっているので、その巡礼も兼ねての参拝となった。滋賀県は比叡山の御膝下であるため、天台宗の寺院が多く、西明寺も天台宗に属し、通称は池寺の名で呼ばれている。寺の開基は、伊吹山を修験道の霊山として開いた三修(慈勝上人)とされているが、伝説化された行者のようだ。
総門を入ると長い石段となっていて、点在するモミジが染まり始めていた。本堂へ向かう参道の左側には本坊が建っていて、ここには池泉鑑賞式の庭園があり、国の名勝に指定されている。西明寺を再建した望月友閑が、小堀遠州の庭を手本に作庭したと言われている。鶴亀の島を配した蓬莱庭園を絵画でも眺めるように鑑賞して、本堂へと向かった。
本堂は、中尊寺の金色堂など共に昭和26年(1951年)改定された国宝第1号に指定されている。その外観は、方7間の入母屋の屋根に3間1間の向拝が付いた和様で、飛騨の匠が釘1本使わずに組み立てたそうだ。鎌倉時代前期の仏堂建築物としては、一級品であることから国宝になったようだ。
向拝の踏み段を上って内部を覗き見ると、内陣中央に厨子があって、中には本尊の薬師如来立像が安置されているようだ。秘仏となっているために直接拝むことはできないが、重要文化財となっていることから立派な像であろうと想像する。厨子の左右には日光・月光菩薩像、十二神将像、二天王像が安置されていた。
本堂で御朱印を頂戴してから、本堂の右側に建つ国宝の三重塔を参詣した。国宝に指定されている三重塔は全国に13基しかなく、重要文化財の三重塔は43基もある。それに対して国宝の五重塔の9基、重要文化財は13基と三重塔の数の数が抜きんでているのに、国宝の三重塔が少ないように思っている。それだけに西明寺の三重塔は貴重に思える。
三重塔は本堂と同じ桧皮葺で、本堂の後に建てられているようだ。春季と秋季だけ塔内の特別拝観が可能と聞いたが、私が訪ねた時は1ヶ月ほど早かったようである。初層の内部は大日如来像を安置し、柱や壁には極彩色の壁画が描かれていて、密教の金剛界曼荼羅を具現しているそうだ。壁画は絵画部門の重要文化財にも指定されていて、珍しい三重塔と言える。織田信長の比叡山攻めの際、西明寺も兵火を蒙っているが、幸いにもこの三重塔と本堂、二天門だけは罹災を免れたのである。
「木造の 至極を見るや 西明寺 守り通した 月日の永さ」 陀寂
074金剛輪寺 本堂(大悲閣)
訪問年: 平成17年10月02日(日)
所在地: 滋賀県秦荘町
創建者・施主: 行基(開基)、佐々木頼綱
建築年: 1288年(正応元年)
様式・規模: 単層入母屋造り桧皮葺・桁行7間×梁間7間 437.9㎡
西明寺の次は、「湖東三山」の一つ金剛輪寺を訪ねた。この寺も天台宗に属していて、地名から松尾寺とも呼ばれているそうだ。奈良時代に行基菩薩が開創し、平安初期に慈覚大師円仁が中興したとされる。鎌倉時代になって近江国守護職であった佐々木頼綱が本堂などの寄進を行っている。現在残っている諸堂の内、本堂の他に三重塔もその頃の建築とされるが、室町時代の建築とする説もあって明ではない。
金剛輪寺の境内はかなり広く、総門から本堂の前の駐車場までは車で入って行けた。石段を上って二天門をくぐると、正面に国宝の本堂・大悲閣が建っていて、左手奥に三重塔、右手に鐘楼が並ぶ。大悲閣の名は、観世音菩薩を安置する仏堂を指すそうで、行基菩薩が粗彫りのまま本尊としたと伝えられている秘仏・観世音菩薩が安置されている。
本堂の外観は入母屋造りの桧皮葺で、西明寺の本堂と同じ方7間であるが少し金剛輪寺の方が大きい。この本堂も和様式の仏堂であるが、向拝がないので書院風の雰囲気が感じられる。内部は外陣・内陣・内々陣に分かれた密教の間取りとなっていて、秘仏を納めた厨子も国宝となっている。須弥壇の装飾金具に、弘安11年(1288年)の銘が残されるいるため、この年の建築とされている。弘安11年と言えば、蒙古(元寇)の2度目の九州襲来から7年後のことであり、その戦勝を記念して建てられたと言う説もある。
本堂付近には、血のように色づくモミジがあることから「血染め紅葉」と呼ばれているらしい。寺社建築の景観には、桜とモミジは欠かせない樹木であり、湖東三山の旬は紅葉の時期に尽きる。血染めの言葉を聞くと、織田信長の焼き討ちを連想する。偶然と言えば、偶然にも思えるが、西明寺と同様に本堂、三重塔、二天門が兵火を免れたのである。
残念ながら三重塔は、江戸時代に入って荒廃したようで、3層が崩れて2層のまま昭和53年(1978年)まで3層の復元はされることはなかった。それでも重要文化財に指定されているので、立派な三重塔である。二天門は逆に、2層の楼門であったらしいが、江戸時代に2階部分が取り払らわれて現在の形となっている。
本堂を参詣してから総門前の駐車場に車を停めて、秦荘町立博物館と本坊の明寿院を回った。寺院の境内に町立の博物館があるのは珍しい例で、それだけに町民にとっては金剛輪寺の存在は宝のように思える。明寿院は昭和52年(1977年)の火災で書院や庫裏を消失したようであるが、翌年には再建されている。明寿院の池泉回遊式庭園も有名であり、国の名勝にもなっている。入口には、近江西国三十三観音霊場の御詠歌が石碑に刻まれていた。
「わけいりて 佛の恵み 松の峰 嵐も法の 聲かとぞ聞く」 作者不明
075永保寺 観音堂(水月場)・開山堂
訪問年: 平成17年10月23日(日)
所在地: 岐阜県多治見市
創建者・施主: 夢窓疎石(開基)、土岐頼貞
建築年: 観音堂1314年(正和3年)、開山堂1352年(正平7年)
様式・規模: [観音堂] 一重裳階付単層入母屋造り桧皮葺・方5間 92.0㎡、[開山堂] 単層入母屋造り桧皮葺・桁行3間×梁間3間 72.0㎡
私は建築設備士でありながら、造園の設計も以前は手掛けていたので、作庭の神様でもある夢窓疎石国師を尊敬していた。国宝の開山堂と観音堂を拝観するのも目的であったが、国師の残した数少ない名園を鑑賞することもまた旅の楽しみであった。
観光地でもない多治見ではあるけれど、これだけの寺があることを宣伝しないが良く分からない。石川県金沢の観光は兼六園でもっているようなもので、永保寺庭園の知名度が低いのも宣伝不足であり、地元の人たちだけ楽しんでいるお祭りと似ている。
永保寺の開創は、鎌倉で臨済禅を修めた夢窓国師が39歳の時、閑寂の地を求めて長瀬山(虎渓山)に草庵を結んだことに始まる。正和2年(1313年)、夢窓国師は土岐川に面した地に観音閣を建て、池を掘り、石を運んで造園した。国師の作庭と知られる名庭には、京都の西芳寺(苔寺)と天龍寺の庭園があるが、いずれも国の特別名勝に指定されている。国師の力作でもある永保寺庭園が、特別名勝に昇格していないのは残念である。
観音堂は正式には水月場の名があり、大きな池畔に2羽の鶴が翼を広げたように建っている。乱石積みの基壇の上に、五間四方の焦げ茶色をした禅様式の仏堂である。裳階の庇が母屋の屋根よりも大きいために2層の建物にも見える。軒は垂木を見せない板張りで、屋根は唐様の反りがある。その反り先は、鋭いを刃物のように天を向いていた。
江戸時代の『虎渓山略縁起』によると、夢窓国師がこの地を訪れて道に迷っていた所、白馬の乗った女性が現れたので道を尋ねたが返事がなかった。そこで国師は、「空蝉の ものけの殻か 事問えど 山路をだにも 教えざりけり」と和歌を詠んだ。すると女性からは、「教ゆとも 真の道は よもゆかじ 我をみてだに 迷うその身は」と返歌して消え去った。西行法師と遊女との和歌のような逸話であるが、その女性が去った後には1寸8分の観世音菩薩像が岩の上に残っていたそうだ。その像を夢窓国師が本尊として祀った故事から観音堂と呼ばれるようになったのだろう。
開山堂は夢窓国師と、国師が去った後の永保寺の諸堂を整えた元翁本元(仏徳禅師)が祀られている。三間四方に入母屋造りの堂宇で、桧皮葺きの屋根も反りがある。足利尊氏が寄進したとされるだけであって立派な堂宇で、後醍醐天皇からもその宿敵の足利尊氏からも慕われた夢窓国師の存在は際立っていた。庭園の池は鶴亀の2島を配し、その池には無際橋架かっている。橋は半月橋となっていて、その頂部に入母屋の屋根が建てっている。その景観は風流で、池に移る橋と観音堂も美しく、広々とした庭園も際立っている。
076善水寺 本堂
訪問年: 平成17年11月27日(日)
所在地: 滋賀県湖南市
創建者・施主: 最澄(開基)、桓武天皇(発願)、施主不明
建築年: 1366年(正平21年)
様式・規模: 単層入母屋造り桧皮葺・桁行7間×梁間5間 313.4㎡
近江には神社仏閣が多く残されていて、四日市からの日帰り旅行はその巡礼に尽きる。「湖東三山」をめぐって間もなく、「湖南三山」があることを知って訪ねることにした。「湖東三山」の百済寺も紅葉が素晴らしかったが、国宝の建物がないので紹介できなかった。しかし、「湖南三山」の本堂は3ヶ寺とも国宝建造物であり、その存在価値は高い。
善水寺は奈良時代の和銅年間、元明天皇の勅願によって創建されたそうだが、伝教大師最澄がこの寺に入って桓武天皇の病気平癒を祈願したことから天台宗に改められている。その時、池の水を霊水に変えて献上したことから和銅寺から善水寺に寺号が改められた。
延暦寺の最初の別院として栄えたようであるが、平安末期の兵火によって諸堂が消失し、南北朝時代の貞治3年(1364年)から貞治5年(13646)に諸堂は再建された。国宝の本堂(薬師堂)もこの時に建てられ、唯一残っている堂宇である。間口7間、奥行5間の大きな天台密教の仏堂である。入母屋造りの桧皮葺きで、正面中央は大仏様の両開きの桟唐戸となっている。四方の外壁は、内開きの蔀戸となっていて、軒の組物も簡素なものとなっている。
個人的に好きな屋根の材質は、神社仏閣においては桧皮葺きに尽きると思うが、防火上の観点から考えると、瓦葺きも致し方ない。もしも、日本で最も古い法隆寺の建造物群が桧皮葺きであったとしたら遠い昔に消失していたことであろう。
本堂内部は通り2間の外陣、左右に脇間を挟んで内陣、その奥の3間が須弥檀となっていて、1間の厨子がある。この厨子も国宝であり、中には重要文化財で秘仏の本尊・薬師如来坐像が安置されている。像内に残された文書から正暦4年(993年)の作とされ、東京国立博物館にも出展公開されたと言う。善水寺には他にも15躯の重要文化財の仏像があり、仏像を守って来た歴代の住職には頭の下がる思いだ。
湖東には金勝寺という同じ天台宗の名刹があるが、国の重要文化財の仏像があり、近世の堂宇もあるのに寺は無住化されていた。もしも放火でもされたと思うと、居た堪れない気持ちになったものである。形ある物は、守ろうとする努力がなければ消滅するものだ。善水寺に来る前に、同じ湖南にある大池寺の名勝庭園を鑑賞してしたのであるが、建物よりも庭の手入れの方が大変であるが、大刈込の古木には圧倒された。
善水寺の山号は岩根山と称し、歌枕の地として大宮人にも知られていた。平安時代末期の歌人・藤原俊成は、「行く末を 思うも久しき 君が代は 岩根の山の 峯の若松」と詠んでいる。この和歌は、俊成の家集に収められている一首であるが、私の尊敬する西行法師ほど旅をしていなので、歌枕を題材とした想像歌とも思える。
077常楽寺(西寺) 本堂・三重塔
訪問年: 平成17年11月27日(日)
所在地: 滋賀県湖南市
創建者・施主: 良弁(開基)・聖武天皇(発願)、施主不明
建築年: 本堂1360年(正平15年)、三重塔1400年(応永7年)
様式・規模: [本堂] 向拝付単層入母屋造り桧皮葺・桁行7間×梁間6間 338.4㎡、[三重塔]三重塔婆本瓦葺・高さ23.5m 一辺5.1m
湖南三山は共に湖南市に位置するが、市の合併前は善水寺が旧甲西町で常楽寺と長寿寺は旧石部町に属していた。両寺とも阿星山を山号としていて、この山は両寺の南に実際にある標高693メートルの山である。常楽寺は阿星山に向かって西側にあることから、地元では西寺と呼ばれ、それに対して長寿寺は東寺と呼ばれているそうだ。
『古寺名刹大辞典』によると、和銅年間(708~715年)に元明天皇の御願寺として金粛菩薩によって阿星寺が開山されたと伝えている。その坊は三千とも五千とも言われ、常楽寺と長寿寺はその坊の一つと記している。また寺伝では、奈良時代に聖武天皇の勅願により、良弁僧正が紫香楽宮の鬼門を封じるために創建したと言う。
阿星山の南麓には聖武天皇が天平14年(742年)に造営した紫香楽宮の離宮跡があり、計画通りに遷都をしていれば歴史も大きく変わっていただろう。聖武天皇は当初、東大寺の大仏をこの地に造営される予定であったらしく、その基礎工事跡が残っていると言う。
小さな山門を入ると、楓並木が続き一直線に続き、その先に大きな本堂が建っていて、左手の奥に三重塔が聳えていた。本堂は単層入母屋造りの桧皮葺きで、室町初期の延文5年(1369年)に再建されたと聞く。向拝が正面に1間出っ張っていて、その大きさを更に増幅させている。善水寺本堂と同時期に建てられているので、屋根の峯の両端に鬼瓦を取付けていることや垂木や組物にも共通点も多い。
本堂の内部は典型的な天台密教の配置であり、外陣と内陣とに分かれ、後戸と呼ばれる空間が内陣の後方にある。内陣の厨子には、秘仏とされる本尊・千手観音坐像が安置されていると聞く。本尊が観音像であるこから、「近江西国三十三ヶ所観音霊場」の一番札所となっている。早速、「般若心経」と「延命十句観音経」を唱えて御朱印を頂戴した。
三重塔は本堂よりも後に再建された塔であるが、本堂よりも高い地形を巧みに利用した場所に建っている。本瓦葺きにしては、屋根の反りが優雅で美しく、複雑に組まれた三手先の組物も幾何学的である。建築された当初の朱塗りに復元すると、さぞや鮮やかだろう。
常楽寺には重要文化財の絵画や仏像、仏具を多数有するが、中でも二十八部衆立像が有名であるが、その28躯の内の風神と魔喉羅迦王の2躯が盗難に遭って行方不明のままと聞く。どこかの古美術店か仏像蒐集家の手元にあるだろうが、古仏像は個人が所有するものではなく、あるべき寺院にあってこそ、信仰も歴史も保たれると思う。
「秋風に 物欲消えて 拝み飲む」 陀寂
078長寿寺(東寺) 本堂
訪問年: 平成17年11月27日(日)
所在地: 滋賀県湖南市
創建者・施主: 良弁(開基)、聖武天皇(発願)、源頼朝(修築)
建築年: 870年頃(貞観12年頃)
様式・規模: 向拝付単層寄棟造り桧皮葺・方5間 167.4㎡
長寿寺は『古寺名刹大辞典』によると、天平年間(729~749年)聖武天皇の勅願寺として良弁僧正を開山すると記している。この寺も紫香楽(信楽)宮の鬼門守護のために創建されたようだ。常楽寺と同様に歴代天皇の信仰も厚く、隆盛をきわめたそうだが、火災によって消失したため貞観年間(859~877年)に再建されて現在に至っていると言う。
国宝本堂の建築は、平安時代中期とされているが外観は和様であり、源頼朝の寄進文が寺に残されていることから、この頃に大幅な改修がなされたと推測する。5間四方の入母屋に3間、1間の向拝を付けているが、これも後の増築であろう。桧皮葺きの屋根は、「照起くり」と呼ばれる反転曲線を描いていて、その美しさは日本的である。照りは上に反ることで、起くりは下に反ることを意味すると聞く。
内部は正面2間が外陣、中央2間が内陣、残り1間は後戸(後陣)となっている。これも天台密教の間取りではあるが、外陣と内陣には化粧屋根があって平安建築の名残が感じられる。外陣を礼堂、内陣を正堂と明確に区画した双堂形式で、善水寺や常楽寺の本堂とは異なる。外陣と内陣には天井がなく、外陣の軒からは「子安地蔵尊」の提灯がぶら下がっていた。厨子に安置されている地蔵菩薩像は、行基菩薩の作と伝えられ、地蔵菩薩を本尊とする寺はあまり多くないで珍しく思いながら礼拝した。
常楽寺と同様に長寿寺にも三重塔が建っていたが、織田信長によって安土の摠見寺に移されている。安土城跡を訪ねた際、重要文化財として残っている三重塔を拝観したが、常楽寺の三重塔よりも若干は小さいものの、細やかな斗栱の組物などは瓜二つであった。織田信長がわざわざ、安土城の山中まで移築させただけあって価値ある三重塔である。
境内には白山神社の社殿があり、入母屋造り桧皮葺きの拝殿が重要文化財となっている。また、プールのようなため池には、方1間の小さな弁天堂があったが、これも重要文化財となっていて室町時代に足利将軍家によって建てられた入母屋造りである。
長寿寺は常楽寺の西寺に対して東寺と称されているが、東西の両寺院がそろっているの珍しいことで、京都の東寺(教王護国寺)に対して西寺と呼ばれる大寺院があったのであるが廃寺となって久しい。浄土真宗の本願寺も東西に分かれて存続しているが、これは法主をめぐっての喧嘩別れで東西の趣が異なる。
境内には歌碑が一基建っていて、「近江なる 桧物のさとの かば桜 はなをばわきて 折る人もなし」と詠まれたものであった。歌碑に裏には昭和52年春、北村左九と記されていたが、歌壇には詳しくないのでその名を知らないけれど、私の拙い短歌よりは上手だ。
079御上神社 本殿
訪問年: 平成18年04月30日(日)・平成22年11月14日(日)
所在地: 滋賀県野洲市
創建者・施主: 藤原不比等、施主不明
建築年: 1337年(延元2年)
様式・規模: 単層向拝付入母屋造り桧皮葺・桁行3間×梁間3間
近江には建築規模が小さいため、あまり知られていな国宝建造物が多い。国宝建造物を都道府県別に調べてみると、京都が25寺社、奈良が21寺社、滋賀が13寺社となっており、この3県に続くのが、大阪・和歌山・兵庫であるが、それでも同数の5寺社に過ぎない。そんな観点から滋賀県(近江)の歴史的な文化価値を深く感じる。
私は仕事の関係で三重県の四日市に2度、秋田から赴任していて、滋賀県は鈴鹿山脈を越えると殆ど日帰りコースであり、1度目は寺社史跡めぐりに終始した。しかし、2度目は「日本百名山」の登山と、霊山登拝に情熱を注いだので、三上山(標高432m)を御神体とする御上神社は2度目の参拝となった。
御上神社は第7代の孝霊天皇の神代、天之御影命が三上山の山頂に降臨したという神話から神奈備として山全体が祀られたようである。奈良時代の養老2年(718年)、藤原不比等が遥拝所であった現在地に社殿を造営したことが史実的な創建と言える。平安時代には、東光寺が建立されて神仏習合の霊山となったとされる。
境内は国道8号線に面しているので、すんなりと駐車場に入れて車を停められた。3間1戸の楼門を潜ると、拝殿と本堂が一直線に並び建っていた。3棟とも桧皮葺きの入母屋造りで、楼門と拝殿は国の重要文化財でもある。同じ桧皮葺きの社殿でも、京都の上賀茂神社の朱塗りの豪華さに比べると見劣りは否めないが、それでも簡素で地味な景観には安らぎを覚える。本殿は鎌倉時代後期の建築で、3間の正方形であるが、屋根が広く、向拝が1間あるので比較的大きく見える。
社殿建築は神明造りや春日造りが一般的あるが、この本殿は寺院建築と書院建築の意匠も取り入れている。屋根に千木と鰹魚木が無ければ仏堂にも見え、神社建築にしては独特な意匠構造から「御上造り」と呼ばれ、本堂の裏側に扉があるのも珍しい。これは御神体の三上山を遥拝するためのものであったようで、2度目に訪ねた際、山頂の奥宮を登拝した山の様子が脳裏に浮かぶ。
「国宝は 田圃の広がる 杜の中 そこに聳える 秋の近江富士」 陀寂
三上山の山中には、修験道の栄えた昔の伽藍跡の礎石や石仏が残り、近年まで営業していたと思われる茶店跡もあった。茶店は日本アルプスの山小屋と同様の存在感があり、その茶店で蕎麦を食べ、お茶を飲んでは登拝を楽しんだと想像する。しかし、参拝客が減り、山の魅力も薄れて今日のような有様になった。霊山にしては、それほど高い山ではないが、琵琶湖を見渡せる絶景地であることを思うと、関心の無さが弊害のようだ。
080苗村神社 西本殿
訪問年: 平成18年04月30日(日)
所在地: 滋賀県龍王町
創建者・施主: 創建・施主不明
建築年: 1308年(延慶元年)
様式・規模: 向拝付3間社流造り桧皮葺
御上神社から大岩山古墳群(甲山古墳)、錦織寺、長命寺、日牟禮八幡宮とめぐって、苗村神社に最後に着いた。苗村神社のある龍王は、源義経が鞍馬寺から奥州平泉に向かう途中、元服を行った地として有名で、その案内板が道路脇にあった。
神社の創設は不明であるが、この辺りは古墳群が多く、祖神信仰が神社の起源とされる。『延喜式神名帳』には長寸神社の名で列座されたおり、長は最高位で寸は村の古字とされる。寛仁元年(1017年)の正月、門松用の松苗を朝廷に献上したことから、後一条天皇より「苗村」の称号を賜ったことから社名が改められたそうだ。
苗村神社は東西に本殿が分かれていて、西本殿は国狭槌命を祭神として、東本殿は大国主命と素盞鳴尊を祭神としている。西本殿が国宝で、東本殿は重要文化財となっている。神域は結構な広さであるが、道路を挟んで東西に社殿が分離しているので違和感を覚える。
関西の寺社建築では珍しい茅葺きの大きな楼門を入ると、西本殿の社殿が立ち並んでいるが、先ずは重要文化財でもある楼門を眺めた。3間1戸の入母屋造りの楼門で、建てられたのは室町時代後期のようだ。茅葺きは層に厚みがあるので、素人目にも直ぐにわかるが、楼門の外観は寺院建築の様式を整えていて、回廊をめぐらしているのが特徴である。
国宝の西本殿は1メートルほどの石垣を積んだ上に、中門、舞台、拝殿と屋根を重ねた先に鎮座していた。中門の瓦葺き以外は桧皮葺きで、中門からは塀がめぐらされて本殿を囲っている。向拝付の3間社流造りで、棟には神社建築独自の千木や鰹魚木なく、楼門と同様に神仏習合の名残と言える。
屋根裏に納められていた棟札から、鎌倉時代後期の徳治3年(1308年)に建てられたとされる。西本殿の左右に鎮座する1間社流造りの八幡神社本殿と十禅師神社本殿は、共に重要文化財で寛正6年(1466年)の建立である。京の都では、応仁の乱が勃発する前年で、領主の京極氏が戦勝祈願を願ったものであろうか。
西本殿の社殿の他にも、楼門の近くには桁行4間、梁間2間の切妻造りの神輿庫が建っていて、これも重要文化財であった。田園風景に包まれた杜の中に、これほどの文化財があるのは以外であった。しかし、東本殿の社殿は西本殿に比較ならないほど小さな1間社流造りで、日吉大社の東西本殿を思い出すと落差は大きい。
この神社のある一帯は、蒲生野とも呼ばれ、『百人一首』で有名となった額田王の「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は 見ずや 君が袖振る」で知られる。額田王は近江出身で、天武天皇の妃となった人であるが、白鳳時代から知られた名所であったようだ。
081宝厳寺 唐門
訪問年: 平成18年05月03日(水)
所在地: 滋賀県びわ町
創建者・施主: 行基(開基)、豊臣秀頼
建築年: 1603年(慶長8年)
様式・規模: 唐破風造り桧皮葺・1間1戸 20.5㎡
琵琶湖の湖北に浮かぶ竹生島には、幾度も訪ねてみたいと思っていながら実行できずにいたが、5月連休を利用して何とか訪ねることができた。長浜から遊覧船に乗ると、伊吹山が悠然と聳え、対岸には比良山地が南北に連なっていた。
周囲約2キロの小島ではあるが、花崗岩の一種である石英斑岩から成り、島の四方は切り立った岸壁に囲まれていた。船が着岸できる場所は1ヶ所で、その水深は琵琶湖で最も深く104メートルに達するそうだ。島の東南部で船を降りると、山腹の石段には宝厳寺の諸堂が立ち並んでいた。
宝厳寺は神亀元年(724年)、行基菩薩が勅命によって弁才天を祀って開基したとされる。弁才天は小島に祀られるケースが多く、相模の江ノ島、安芸の宮島の弁財天は「日本三弁天」と称されている。創建当時は奈良の東大寺に属していたが、比叡山に天台宗が開宗されると延暦寺の傘下に入った。しかし、織田信長の比叡山焼き討ちによって延暦寺が衰退すると、大和長谷寺の末寺となって真言宗に改宗している。
石段を上り始めた左手には、地下1階地上2階建ての大きな木造建築が建っていたが、研修道場となっている月定院であった。168段の石段の先には、昭和17年(1942年)に再建された豪華絢爛な朱塗りが鮮やかな弁才天本堂が建ち、その向かいには三重塔が建っていた。三重塔は宝厳寺で最も新しく、平成12年(2000年)に建立されたそうだ。
宝厳寺は西国三十三ヶ所観音霊場の30番札所としても有名で、その観音堂の入口に国宝の唐門が建っていた。唐門は屋根の形が唐破風となっていることからその名があるが、その唐門の中でも特殊な構造や意匠から向唐門、また多唐門とも呼ばれている。向唐門は主柱2本の前後に控え柱4本を設けた構造を言い、多唐門は極彩色の彫刻や飾金具が施された意匠を指すようだ。多少は色あせてはいるものの、松に尾長鳥の精緻な彫刻が印象に残る。
唐門と観音堂、そして渡廊は、慶長8年(1603年)豊臣秀頼によって、豊国廟などから移築寄進されたもので、共に重要文化財に指定されている。特に隣接する都久夫須麻神社と結ぶ渡廊は、船廊下とも呼ばれる屋根付きの廊下で懸造りとなっている。豊臣秀吉の御座船の用材を用いたのでその名があるが、かつては国宝の指定を受けた渡廊でもある。
西国三十三ヶ所観音霊場は大和長谷寺の徳長上人が養老2年(718年)、悩める人々を救済するため発願したとされる。実際に広めたのは270年後にその志を継いだ花山法皇で、その折に宝厳寺のある竹生島を宝船のようだと御詠歌に詠んでいる。
「月も日も 波間に浮かぶ 竹生島 船に宝を 積むここちして」 花山法皇
082都久夫須麻神社(竹生島神社) 本殿
訪問年: 平成18年05月03日(水)
所在地: 滋賀県びわ町
創建者・施主: 聖武天皇(創建)、豊臣秀頼
建築年: 1567年(永禄10年)
様式・規模: 単層唐破風向拝付入母屋造り桧皮葺・桁行3間×梁間3間
宝厳寺の船廊下を渡った先が都久夫須麻神社の境内であるが、明治の廃仏毀釈と神仏分離令によって強制的に一線を画されてしまった。この神社は雄略天皇3年(420年)に、浅井姫命を祀ったことが始まりと社伝は記している。実際に神社が創建されたのは、宝厳寺の開基と同じ神亀元年(724年)で、島の鎮守も兼ねて弁才天が祀られたようだ。
神仏分離令によって宝厳寺の廃寺が余儀なくされたが、日本全国の観音信仰者によって守られ、寺院と神社の両方が存続する形となった。仏教色の濃い弁才天は、市杵島売命と名を改められ、支離滅裂な神々が登場することになる。竹生島は一つなのに、明治以降の為政者によって日本人の信仰心は歪められ、神と仏が手を結ぶことはなくなった。
そんな思いで神社に入ると、断絶したままの聖地には違和感を覚えるが、これは全国各地の神社と寺院との関係にみられるので、改めて驚くようなことではないのかも知れない。神社の境内は宝厳寺ほど広くなく、本殿と拝殿、神官の住宅が目を引くだけで他に大きな社殿はない。宝厳寺は西国三十三ヶ所観音霊場であるために、この寺を目的に島に渡る信者や観光客が圧倒的で、都久夫須麻神社はついでに参拝する人が殆どであると想像する。
都久夫須麻神社の本殿は、宝厳寺の本堂として永禄10年(1567年)に建てられたもので、当時は桁行5間、梁間3間と現在よりも大きかったようである。その後の慶長7年(1602年)、大幅な改修が行われて現在に至っているようだ。3間四方の入母屋の周囲に1間の庇をめぐらし、前面に1間の向拝を付けた珍しい意匠となっている。四方の庇は屋根よりも大きいので重層のようにも見えるが、裳階と同様に考えられているようだ。
本殿も宝厳寺の唐門などと同様に、豊臣秀頼によって父秀吉が伏見城内に建てた遺構を移築したもので、本殿には日暮御殿の一部が移築されている。この御殿は天皇や朝鮮の使節を迎えるために建てられただけあって、内部は狩野永徳・光信父子の障壁画と、高台寺絵巻によって黄金色に飾られている。秀吉の天下統一は、莫大な資金を要したが金銀の鉱山を押さえることで成し得た。その財力を消費して豪華絢爛な桃山文化が生れたのである。
本堂の先にき懸造りの拝殿(常行殿)があるが、展望台を兼ねた休憩所ような雰囲気で、ここから礼拝する人はいない。拝殿下の宮崎は湖水に面し、竜神拝所となっていて鳥居が建ち、聖武天皇が奉建した五輪塔があると聞く。竜神は弁才天の使いで、水深104メートルの湖底に棲むとされる。竜神拝所から「かわらけ」を投げると祈願が成就するとあって、宮崎の岩肌は投げ損じたかわらけで白くなっていた。
「かわらけを 投じて悲し 春の湖」 陀寂
083円成寺 春日堂・白山堂
訪問年: 平成18年05月04日(木)
所在地: 奈良県奈良市
創建者・施主: 虚瀧(開基)、藤原時成
建築年: 1228年(安貞2年)
様式・規模: [春日堂]朱塗り春日造り桧皮葺・桁行1間×梁間1間 3.9㎡、[白山堂]朱塗り春日造り桧皮葺・桁行1間×梁間1間 3.9㎡
滋賀県の主な名所旧跡の日帰り旅行を終えて、奈良県へと目を向けると、行ったことがない名所旧跡があり、柳生の里もその一つであった。四日市を出発して亀山まで高速を走り、伊賀街道から笠置を経て柳生へと入った。
柳生の里は、剣豪小説や時代劇映画で有名となった柳生十兵衛の郷里で、門弟1万余人を鍛えたとされる正木坂の道場跡もある。柳生一族の菩提寺でもある芳徳寺や旧柳生藩の家老屋敷(小山田邸)などを訪ねて円成寺を参拝した。
円成寺はパンフレッドの寺伝によると、天平勝宝8年(756年)、聖武天皇の勅願により、鑑真和上の弟子で唐僧の虚瀧和尚が開山したそうだ。史実的には平安中期の万寿2年(1026年)、命禅上人が開基し、平安末期の仁平3年(1153年)に御室仁和寺の寛遍僧正が東密忍辱山流を始めて真言宗に改めたようである。
京や大和の大概の寺院は、度重なる戦乱によって多くの堂塔伽藍を失っては、再建が繰り返されて来た。円成寺も例外ではなく、応仁の乱で大半の堂宇を焼失したと聞く。しかし、江戸時代には235石の寺領を有し、23ヶ塔頭(支院)が甍を並べてほどであったようであるが、明治初期の廃仏毀釈で衰退したようだ。
円成寺の境内に祀られていた春日神社と白山神社は社殿が小さかったために、春日堂と白山堂に改められて国宝として現存しているのである。皮肉なもので、神仏分離令も鎮守社の存在は無視したようである。その二社は、重要文化財の本堂(阿弥陀堂)の脇に2棟が並んで建っているので、私には太刀持ち、露払い程度の建物にしか見えなかったが、眼を凝らして見ていると、国宝となった評価が見えて来る。いずれも1間4方の春日造りで、屋根は桧皮葺きに棟木・千木・鰹魚木をのせ、木造部は朱塗りである。小社ながら精緻な組物で、豪壮雄大の観がある。
円成寺は覚遍僧正が住持する前の天永2年(1112年)に、小田原寺の迎接上人が阿弥陀如来を安置し、阿弥陀堂を建立した。その折、重要文化財の楼門の前には浄土式庭園も築造されたようである。奥州平泉の毛越寺庭園ともに平安時代を代表する庭園として国の名勝に指定されている。明治初期に伽藍地と苑池の間に道路が造られ、庭園は破壊されたようであるが、昭和36年(1961年)に、道路が南に移されて復元されたようである。大きな池には中島や景石があり、舟遊式庭園でもあったことが伺われる。
「予期もせぬ 名園もありて 感動す 旅に勝れる 刺激はあるか」 陀寂
084霊山寺 本堂
訪問年: 平成18年05月21日(日)
所在地: 奈良県奈良市
創建者・施主: 菩提優那(開基)、聖武天皇(発願)、北条時宗
建築年: 1283年(弘安6年)
様式・規模: 単層入母屋造り本瓦葺・桁行5間×梁間6間 208.4㎡
奈良市の郊外には、知名度が低いが地元の人たちに親しまれている寺院が多い。霊山寺もそうであり、参詣するまでは何ら想像もできなかった。ただ、霊山寺真言宗の大本山であることは知っていたので、各宗派の総本山や大本山の参詣を優先してきただけに期待することも大きい。
まず境内に入って驚いたのは、西洋的なバラ園があり、ゴルフの練習場まであったことであり、それに温泉施設まであるのには脱帽した。霊山寺の開基は神亀5年(728年)、聖武天皇が皇女(後の孝謙天皇)の病気の時、登美山(鼻高山)の霊験によって平癒したことから行基菩薩に命じて、天平6年(734年)に薬師如来を祀って伽藍を建立したと言う。聖武天皇と行基菩薩のコンビが創建した諸国の国分寺以外にも、その創建とされる寺院が数多あるが、史実かどうか疑わしい寺院も多い。この時は来朝していた婆羅門僧正の菩提優那も開基に加わったとされる。
車を降りて正面入口に立つと、山門ではなく鳥居が建っていて、一瞬拍子抜けしたが、形に嵌らないのがこの寺の現在の状況であると考えると合点が行く。参道の右側にはバラ園があり、食堂のある天龍閣、弁才天堂、黄金殿、白金殿などの近代的な諸堂が立ち並ぶ先の石段の上に国宝の本堂が建っていた。
弘安6年(1283年)、2度目の蒙古襲来から2年を経過した頃であり、3度目の襲来に怯えていた鎌倉幕府は寺社の再建を奨励して加持祈祷を行わせた。この和風様式の本堂も北条氏の援助によって再建されいる。桁行5間・梁間6間の入母屋造りの本瓦葺きで、1間の向拝が付いた密教仏堂である。
堂内は外陣・内陣・脇陣からなり、外陣は柱がなく天井は折り上げの格子天井となっている。内陣は方3間で須弥壇を設け、鎌倉時代の代表作でもある春日厨子を置いている。厨子には秘仏の本尊・薬師三尊像を安置し、厨子の左右には持国天と多聞天の二天を置き、十二神将軍像と並べる。外陣には大日如来坐像と阿弥陀如来坐像を安置する。明治の廃仏毀釈の折は、200躯以上の仏像が焼却されたと聞くが、19躯の仏像がすべて重要文化財であり、これほどの仏像が本堂とともに残っているのは珍しい。
本堂の反対側の斜面上には、重要文化財の三重塔が建ち、鮮やかな朱塗りの美しい塔である。また本堂手前の鐘楼、本堂背後の山腹に建つ鎮守十六所神社も重要文化財である。そんな古建築とは対照的な総金箔貼りの黄金堂とプラチナ貼りの白金殿も印象に残る。
「薔薇の花 奈良に新たな 仏たち」 陀寂
085宇治上神社 本殿・拝殿
訪問年: 平成18年10月14日(土)
所在地: 京都府宇治市
創建者・施主: 仁徳天皇(創建)、藤原頼通
建築年: 本殿1060年(康平3年)、拝殿1215年(建保3年)
様式・規模: [本殿]単層流造り桧皮葺・桁行5間×梁間3間、[内殿]1間社流造り桧皮葺×3棟、[拝殿]単層向拝付切妻造り桧皮葺・桁行6間×梁間3間
世界文化遺産(複合) 古都京都の文化財
宇治の平等院には2度来ていたが、それ以外の寺社を訪ねていなかったので、改めて宇治を訪ねることにした。まずは三室戸寺を参詣して西国三十三ヶ所霊場10番札所の御朱印を頂戴し、そして、道元禅師ゆかりの興聖寺に向かう途中に宇治神社と宇治上神社の2社をめぐった。かつての宇治神社は上社と下社が一体となっていたようだが、明治以降に分離されて宇治神社と宇治上神社となって現在に至っているようだ。
宇治上神社の創建は明らかではないが、神社の栞によると、平安時代初期には離宮八幡または離宮明神と知られていたようである。神社の祭神は、中殿に第15代応神天皇、左殿に菟道雉郎子、右殿に第16代仁徳天皇を祀っている。仁徳天皇と菟道雉郎子は父・応神天皇の異母兄弟で、互いに皇位を譲り合った結果、菟道雉郎子は宇治の離宮で自ら命を絶ち、兄に譲ったとされる。そんな美談を聞いて、本殿に祀られた菟道雉郎子命を参拝した。
本殿は桧皮葺き流造りの覆屋の中に、1間社の流造りの内殿3棟が並んで建っていた。流造りは切妻平入りの屋根を手間へ湾曲させて伸ばした構造で、神社建築の独特のものである。左殿と右殿はほぼ同型同様の建築であるが、中殿はそれよりも小さめで、簡素な造りとなっている。また、3棟ともに柱の高さが同一であるが、左殿と右殿は構造の一部を覆屋と兼ねているのに対し、中殿は独立した形式をとっている。
年輪年代測定法により、建築年代は平安時代後期の康平3年(1060年)と断定されて現存する日本最古の神社建築と認定された。この測定法は信頼性が高いようなので、木造の国宝建築だけでも検査するべきと思った。
本殿の前に建つ拝殿は、1間だけ本殿の覆屋よりも大きく、寝殿造りを彷彿とさせる外観である。この拝殿も年輪年代測定法によって、鎌倉時代の建保3年(1215年)の建築とされて
いる。高床式のために天井が低く、屋根の形が風変りな切妻造りである。妻に庇を付けて軒を結ぶ手法を縋破風と言うそうだが、その優美な屋根の形状は美しいの一言に尽きる。
宇治上神社は紫式部の『源氏物語』の舞台となったことでも知られるが、その宇治十帖に登場する総角は、神社の北側の古跡で大吉山の登り口にあたる。紫式部を尊敬していたと言う明治の歌人・与謝野晶子の歌碑が建っていた。歌碑には橋姫・椎が本・総角・さわらび・宿り木と十帖の内の五帖を題材とした短歌で、総角の一首は下記の歌であった。
「こころをば 火の思ひもて 焼かましと 願ひき身をば 煙にぞする」 晶子
086法界寺 阿弥陀堂
訪問年: 平成18年10月14日(土)
所在地: 京都府京都市
創建者・施主: 最澄(開山)、円仁(開基)、日野資業・聖覚(中興)
建築年: 1226年(嘉禄2年)
様式・規模: 一重裳階付宝形造り桧皮葺・桁行5間×梁間5間 341.5㎡
法界寺は日野薬師の名で知られ、醍醐寺の南近くにあるにも関わらず、今日まで訪ねなかったのは、交通の便が悪くてJR奈良線の六地蔵駅から遠く離れていることであった。今回は車であったので、地図を頼りに道幅の狭い住宅を抜けて法界寺の境内に入った。
法界寺は藤原北家から分かれた日野家の氏寺(菩提寺)で、弘仁13年(822年)の開創とされる。この年、比叡山延暦寺に戒壇院建立の勅が下った際、日野家宗が使者となった御礼に慈覚大師円仁から伝教大師最澄自作の薬師如来像が贈られたことによる。最澄は弘仁13年に亡くなっているので、長年の悲願でもあった戒壇の設立が弟子の円仁によって叶えられたのであった。そんな理由から法界寺は、勧請開山は最澄で、円仁の開基とするのが妥当であろう。しかし、薬師堂が建てられたのは永承6年(1052年)で、日野資業の時代ともされる。
国宝阿弥陀堂は、日野資業の建立で宇治平等院の鳳凰堂よりも古いとされるが、承久3年(1221年)の兵火で焼失したとともされ、嘉禄2年(1226年)の再建とする説もある。堂内に安置されている阿弥陀坐像も国宝であるが、この像は高さ2.8メートルもある仏像なので、火災時に運び出すのは困難であったと想像する。そう考えると、ある程度の建物は残っていて、法然上人の弟子・聖覚によって再建されたものと推察する。
阿弥陀堂は方5間の宝形造りに1間の裳階をめぐらした桧皮葺きで、緩やかな屋根の勾配やその吹放ちには浄土的な柔らかさを感じる。外部の建具は格子の蔀戸があって寝殿風の趣で、軒の組物も平安様式である。堂内は天井を高くし、間仕切りを兼ねた四天柱が建っていて、内陣の柱や長押上の小壁には創建当時の壁画が残されている。この壁画は鳳凰堂などのように板壁に描かれたものではなく、土壁に描かれているのは極めて珍しい。
この寺の本堂である薬師堂は重要文化財であるが、奈良県斑鳩町の竜田あった伝燈寺の本堂を移築したもので室町末期の康正6年(1051年)の建築と聞く。伝燈寺は龍田神社の神宮寺であったが、神仏分離令によって廃寺となり、明治37年(1904年)に法界寺に移された。本尊の薬師如来立像は、最澄自作の像とは別物で平安時代後期の作とされ、重要文化財となっている。この仏像に祈願すると、女性の乳の出が良くなることから「乳薬師」として信仰を集めているそうだ。
この寺を創建した日野家からは著名な人物が出ていて、親鸞聖人や日野富子は有名であり、法界寺の一画には江戸時代に建てられた日野誕生院がある。また、『方丈記』の作者として有名な鴨長明が住んだ地でもあり、彼の和歌が脳裏を過る。
「夜もすがら 独りみ山の まきの葉に くもるもすめる 有明の月」 鴨長明
087明通寺 本堂(薬師堂)・三重塔
訪問年: 平成19年02月11日(日)
所在地: 福井県小浜市
創建者・施主: 坂上田村麻呂(開基)、頼禅(中興開山)
建築年: 本堂1258年(正嘉2年)・三重塔1270年(文永7年)
様式・規模: [本堂]向拝付単層入母屋造り桧皮葺・桁行5間×梁間6間 210.0㎡、[三重塔]三重塔婆桧皮葺・高さ22.5m 一辺4.2m
小浜は古来より若狭の中心地で、若狭国分寺や若狭一宮の他に古刹や名所が多く、蘇洞門などの海岸の自然美にも恵まれている。琵琶湖畔の今津から鯖街道(若狭路)を走って立ち寄った熊川宿の宿場景観には、中山道で出会った奈良井宿にも似た感動を覚えた。
明通寺は小浜市内に続く街道を左に入った遠敷の里にあって、その存在感は小浜唯一と言っていい。寺は初代征夷大将軍の坂上田村麻呂によって大同元年(806年)に創建されたと認識されている。京都の清水寺も田村麻呂の創建とされているので、田村麻呂の携わった寺院も全国に多くあり、明通寺に関しては史実であろうと思う。開創当時は棡寺と称して七堂伽藍を有する大寺院であったようであるが、鎌倉中期に頼禅阿闍梨が中興するまでに3度の火災に見舞われて衰退したと聞く。
江戸時代の再建された山門(仁王門)を入ると、参道に左に鐘楼、右に客殿と庫裏が建っていて、石段を上った平坦な場所に本堂、更に続く石段の上に三重塔が聳えていた。明通寺は真言宗御室派に属する密教寺院であったため、かつて護摩堂や灌頂堂があったようだ。
国宝の本堂は、頼禅阿闍梨によって正嘉2年(1258年)に再建された向拝付入母屋造りの桧皮葺きで、石垣の基壇の上に建っている。外観は蔀戸の和様で、正面向拝の組物には優美な蟇股が5ヶ所配置されており、外周を取り巻く円柱上の頭貫の木鼻は珍しい意匠である。堂内は礼堂(外陣)と3間・2間の正堂(内陣)とに明確に分かれ、内陣には重要文化財の本尊・阿弥陀如来坐像を祀られていた。
国宝の三重塔の建立は、本堂の建てられた12年後の文永7年でその棟札が残されているそうだ。相輪最上部の宝珠までの高さが22メートルと、三重塔のとしては平均的な大きさである。本堂より一段高い地盤の上に礎石を据えて亀腹を築き、初層の一辺は3間(4.2m)あり、二層、三層と上層に行くにしたがって寸法を小さくしている。初層の部材の末端部に拳鼻が用いており、塔建築に用いた最古の例と言われる。内部は非公開のため拝観することができなかったが、釈迦三尊と阿弥陀三尊を安置し、その周りの柱や壁には極彩色の十二天像が描かれていると聞く。極彩色と言えば、本堂も三重塔も鮮やかな朱塗りであったようだ。
福井県の国宝建造物は、明通寺の本堂と三重塔の2棟だけであり、永平寺や浄土真宗の本山が存在しながら意外と少ないのは火災や豪雪から守ることが難しかったのであろう。『小倉百人一首』で知られる坂上是則は、田村麻呂の子孫であり、ふとその一首を思い出す。
「朝ぼらけ 有明の月と みるまでは 吉野の里に ふれる白雪」 坂上是則
088宇陀水分神社 本殿
訪問年: 平成19年04月08日(日)
所在地: 奈良県宇陀市
創建者・施主: 崇神天皇(創建)、施主不明
建築年: 1320年(元応2年)
様式・規模: 1間隅木入春日造り桧皮葺×3棟
四日市から吉野に行って花見を楽しんだ帰路、宇陀路の名所をめぐった。国宝建築の社殿がなければ、参拝することもなかったと思うが、この頃から国宝建築だけは見ておきたいと思う執念の伴った目標が定まったのである。
宇陀水分神社は旧菟田野町にある神社で、芳野に上社、古市場に中社、下井足に下社の3社の総称であるが、一般的には中社が宇陀水分神社とされている。神社の創建は、第10崇神天皇の時代とされているが、史実として記録が残る推古天皇の飛鳥時代以降であり、実在したとされる天皇は、この崇神天皇からとされるのが通説のようだ。
崇神天皇は奈良盆地の慢性的な水不足を解消するために、盆地の東西南北に水の配分を司る神を祀った。東に宇太水分神社(宇陀市)、西に葛木水分神社(御所市)、南に吉野水分神社(吉野町)、北に都祁水分神社(奈良市)が創建されたそうだ。
中社の祭神は、天水分神・速秋津比古神・国水分神とあまり知られていない水の神々を祀っている。その3神を祀る3棟の社殿が、鎌倉時代末期の元応2年(1320年)に建てられ、日本最古の隅木入春日造りの神社建築として国宝となっている。
一ノ鳥居、二ノ鳥居をくぐって境内に入ると、切妻造りの拝殿が建ち、その背後に板垣(築地塀)がめぐらされた朱塗りの本殿が建ち並んでいた。中央の神門の左側から第1殿(天水分神)・第2殿(速秋津比古神)・第3殿(国水分神)の3棟が整然と並ぶ景観は神々しく、極彩色に復元された絵模様の彫刻も美しい。3棟はいずれも1間の隅木で結ばれた春日造りで、桧皮葺きの屋根の棟に千木だけを乗せている。
神門の右側には摂社の春日神社(天児屋根命)と宗像神社(市杵島比売命)の本殿が建っているが、2棟とも重要文化財で室町時代の建築とされている。春日神社は国宝の3棟よりも一回り小さいが、同じ隅木入春日造りとなっている。宗像神社は1間社流造りで、他の4棟と外観が異なるのは海の神様への配慮なのだろうか。
宇太水分神社のある宇陀市は、昨年の元日に3町1村が合併してできた新しい市である。伊勢街道が本街道と北街道(山越え道)に分岐する地点にあって、宿場町として発展して来たようだ。「日本三大薬園跡」の一つで、国の史跡でもある森野旧薬園を見られたのは印象に残るし、その松山の街並みも宿場町の風情が残っていた。また、菟田野と宇陀野と同一で、万葉集にも詠まれた歌枕の地である。柿本人麻呂の和歌でも知られ、榛原のあかね台わかくさ公園には丹比真人の『宇陀の野の 秋萩しのぎ 鳴く鹿も 妻に恋ふらく われに益さじ』と宇陀野を詠んだ歌碑が建っているそうだ。
089金剛三昧院(高野山) 多宝塔
訪問年: 平成19年05月03日(木)
所在地: 和歌山県高野町
創建者・施主: 栄西(開山)、行勇(開基)、北条政子
建築年: 1223年(貞永2年)
様式・規模: 方3間桧皮葺・高さ14.8m 一辺5.6m
世界文化遺産(複合) 紀伊山地の霊場と参詣道
高野山には3度目の訪問になるけれど、国宝建造物をあまり意識していなかったため、必ず拝観しようとはしなかったが、今回は金剛三昧院の多宝塔を見ることが大切な目的となった。松尾芭蕉さんが泊まった宿坊に泊り、往時を偲んだ翌日に金剛三昧院に参詣した。
金剛三昧院は建暦元年(1211年)に、鎌倉幕府の尼将軍と称された北条政子が夫の源頼朝の菩提を弔うために禅定院を建立したのが前身である。真言宗の総本山である高野山にありながらも、栄西禅師を開山供養に招き、退耕行勇を初代住職として臨済宗の禅寺として開基された。退耕行勇は頼朝・政子夫婦が最も信頼していた禅師で、鎌倉から来て他宗派の総本山に足を踏み入れたのであった。
承久元年(1219年)に政子は、孫の公卿に暗殺された次男の実朝を供養するために、寺名も金剛三昧院と改めて将軍家の菩提寺とした。国宝の多宝塔は貞応年(1223年)に政子が建立している。現存する多宝塔としては、滋賀県大津市の石山寺多宝塔に次ぐ古さである。
多宝塔は二層塔婆で、下層が方3間、上層は円形で屋根は桧皮葺きである。外装は全体を朱塗りとし、高さ約15メートルと小さいが、形の整った美しい塔だ。下層は蟇股があるが組物は簡素な平三斗であるのに対して、上層は複雑な四手先の組物でそれが円形なっているだけに匠の技の至極を見るようである。内部は柱・長押・支輪板などに宝相華文を施し、四天柱には光明仏を描き、優美な飾りを加えている。中央の須弥壇には、重要文化財の五智如来仏5躯が安置され、仏像も創建当時の作のようだ。
高野山は標高約千メートルの高地にあるため、落雷による火災で何度となく再建と焼失が繰り返され、国宝の堂宇はこの多宝塔と金剛峯寺不動堂があるだけなので貴重な遺産である。多宝塔は高野山を開いた弘法大師空海が日本で初めて建てた寺院建築で、規模の大きなものは大塔とも呼ばれる。高野山の根本大塔は、天竺南山の鉄塔を模したものとされ、方16間、高さ16丈(48.3m)の銅瓦葺きの多宝塔であったと言われる。現在の大塔は、昭和12年(1937年)に落慶された鉄筋コンクリート構造ではあるが、その大きさは驚くばかりで、金剛三昧院の多宝塔がほど良い規模に思える。
境内西側の高台には、方2間の校倉寄棟造りの経蔵が建っているが、これも北条政子の発願によって建てられたもので重要文化財となっている。他に本坊庫裡・四所神明社の2棟、仏像2躯、銅鐘、刀剣、絵画などが重要文化財に指定され寺宝が多く残されている。
「石楠花の 花も恋しき 花見かな」 陀寂
090栄山寺 八角堂
訪問年: 平成19年05月03日(木)
所在地: 奈良県五條市
創建者・施主: 役小角(開基)、藤原武智麿
建築年: 760~764年(天平宝宇年間)
様式・規模: 単層八角形造り本瓦葺・51.6㎡
高野山を下って、山麓の丹生都比売神社と慈尊院をめぐり、五條市の栄山寺を訪問した。何度となく国道24号線(大和街道)を走っていながら、栄山寺に存在にひかれたのは国宝建造物の八角堂を拝観しようと思う気持ちだけであった。私が最初に奈良を訪ねた二十歳の頃、それは子供の頃に作ったプラモデルの夢殿を実際に見てみたいと思う願いがあっての旅であった。その夢殿に比肩する堂宇が栄山寺にあることを知り、日々に憧れの念は深まった。
栄山寺は奈良時代初期の養老3年(719年)、藤原武智麿が役行者小角を開基に創建したとされる前山寺が前身のようだ。武智麻呂の子の仲麻呂は、父の遺骸を奈良の佐保山から栄山寺の北側山上に改葬し、八角堂を建立して菩提を弔った。以来、藤原南家の菩提寺となり栄え、南北朝時代には南朝の行在所(栄山寺行宮)あったようだが、度重なる火災によって衰退し、江戸時代初期には一時無住寺となっていたようだ。
創建当時は奈良興福寺(法相宗大本山)の末寺であったが、京都東山の泉涌寺(真言宗泉涌寺派大本山)雲龍院の所属となり、更に江戸音羽の護国寺(真言宗豊山派大本山)の末寺となって塔頭であった梅室院が存続している。
神社仏閣は駐車場の規模によって現在の寺勢社運が分かるもので、車5台ほどが停められるスペースしかない。5月連休の真っ最中でありながら参詣するのは私一人で寂しい限りである。国宝八角堂は本堂の右手奥に、柵の中に建っていた。平城京および斑鳩以外の地区に奈良時代の木造建造物が残るのは稀有な存在とされる。
外観は名前のように八角形造りで、本瓦葺きの屋根に石製の露盤宝珠を乗せている。明治44年(1911年)の解体修理以前は、茅葺きで雨露を凌いでいたようであるが、修理にあたって瓦葺きに復元されている。その時に撤去された石製宝珠の残欠は堂内に保存されて国宝に含まれる。東西南北の四面に板扉があって、それ以外の外面には連子窓が設えてある。
軒の垂木を支える組物は、肘木に3つの斗が乗る平三斗で、その上には実肘木が乗っている。組物や蟇股などの意匠は20数年前に建てられた法隆寺の夢殿に似ているが、夢殿は八角堂の倍の規模があり、比較にはならないようだ。内部の拝観はできなかったが、4本の八角柱によって内陣と外陣に区切られ、天井や壁には優美な天平絵画が描かれていると聞く。
本堂を参詣し、京都の神護寺、宇治の平等院の鐘と共に「平安三絶の鐘」と称される国宝の梵鐘を見物した。そして、庫裏(梅室院)で御朱印を頂戴し境内を出る時に、車がもう1台入って来たので、寂れて行く寺観の中にも安堵感が漂う。
「またいつか 五條の街に 宿をとり 聞いてもみたし 三絶の鐘」 陀寂
091瑞龍寺 法堂・仏殿(本堂)・山門
訪問年: 平成19年06月03日(日)
所在地: 富山県高岡市
創建者・施主: 広山恕陽(開山)、前田利常、山上善右衛門(棟梁)
建築年: 法堂1657年(明暦3年)、仏殿1659年(万治2年)、山門1818年(文政元年)
様式・規模: [法堂]向拝付単層入母屋造り銅板葺・桁行11間×梁間9間、 [仏殿]一重裳階付単層入母屋造り鉛瓦葺・方5間、[山門]入母屋造り柿葺・3間1戸二重門
約1年9ヶ月滞在していた四日市を離れ、石川県能美市に移り住んで間もなく、高岡市の瑞龍寺の伽藍が重要文化財から国宝となったことを知って拝観することにした。高岡は「奥の細道」の自転車旅行以来であり、高岡古城公園の満開の桜が思い出される。
瑞龍寺の前身は、加賀藩2代藩主・前田利長が織田信長・信忠父子らの追善のために金沢に創建した宝円寺である。利長は異母弟の利常を養子にして3代藩主を譲った後、富山城に隠居するが、火災に遭ったために高岡に移り、高岡城を築くと共に宝円寺も富山から移した。そして、永平寺から広山恕陽を招き、寺号も法円寺と表記を改め高岡に開山された。
利長が没すると、利常は利長の法名に因んで瑞龍院(瑞龍寺)と改め、百万石の財力に恥じない大伽藍を造営した。江戸時代初期に大名によって建立された寺院では、伊達政宗が創建した松島の瑞巌寺が有名であるが、それに勝るとも劣らない規模に思える。
伽藍配置は、中国の径山万寿寺に倣ったものとされ、総門を入ると、回廊の正面に国宝の山門が建ち、山門の左右には禅堂(僧堂)と大庫裏が建つ。そして、国宝の仏殿(本堂)と法堂(講堂)が山門の直線上に並立している。京都の大徳寺や妙心寺の禅式伽藍配置を彷彿とさせるが、回廊の内側に樹木が1本もない光景は、奈良の平城京を連想させる。
最初に建てられた法堂は、間口11間、奥行き9間の単層入母屋造りで、母屋の屋根は銅板葺きであるが、唐破風の向拝は桧皮葺きとなっている。外観は平安朝の寝殿造り風でもあり、組物は奈良法隆寺を模した雲肘木と雲斗が印象に残る。
仏殿も法堂と同時期に、大工・山上善右衛門によって建てられたもので、方3間の身舎に方5間の裳階の付いた禅様式の仏殿となっている。創建当初の屋根は、杮葺きであったようであるが、その後に本瓦葺きとなり、現在はとても珍しい鉛瓦葺きである。組物も禅宗様詰組とし、身舎は三手先、裳階は出組となっている。
山門は延亨3年(1746年)の火災で焼失し、文政元年(1818年)に再建された。3間1戸の豪壮な楼門(二重門)で、屋根は美しい杮葺きである。下層の屋根より上層の屋根を小さくするのが一般的であるが、雪の落下を防ぎために下層と上層の出は変わらないのが特徴である。
法堂の右に大茶室があるが、総門と仏殿を除くと他の棟と回廊で結ばれている。これは曹洞宗寺院の特徴で、永平寺や総持寺祖院と共通する。回廊や高廊下も含めた8棟の建物は重要文化財であるが、山門の左右にあった浄頭(東司)と浴室が再建されないのは残念である。
「北陸や 七堂伽藍 瑞龍寺 百万石の 置き土産かな」 陀寂
092飛騨安国寺 経蔵
訪問年: 平成20年07月13日(日)
所在地: 岐阜県高山市
創建者・施主: 瑞厳光大(開基)、足利尊氏
建築年: 1408年(応永15年)
様式・規模: 単層裳階付入母屋造り柿葺・方1間 70.2㎡
飛騨高山は何度なく訪ねているので、この日は飛騨古川の名所をめぐって、古川にも近い飛騨安国寺を訪ねた。安国寺は室町幕府を開いた足利尊氏・直義の兄弟が、敵味方の戦死者を弔うために、臨済宗の高僧・夢窓国師疎石の勧めで諸国68ヶ所の国々に建立した寺院である。新たに造営するのには莫大な資金と時間を要するために、既存の寺院を改修して安国寺とする例も多く、飛騨安国寺もそうである。
元は少林寺という寺であったが、貞和3年(1347年)に京都東福寺から派遣された瑞厳光大和尚によって開基された。創建された室町時代は大いに栄え、七堂伽藍と9ヶ院の塔頭があったようで、国宝の経蔵もその1棟で盛時の面影を偲ばせる。経蔵は権勢を極めた3代将軍・足利義満が死去した応永15年(1408年)に建立された。
本堂と庫裏が建つ裏山の石段を上った先の高台に経蔵は建っていた。経蔵にしては禅宗様仏殿のような立派な建物で、入母屋の反り上がった屋根は杮葺きで、それよりも大きな裳階を付けた外観は優美である。3間四方の建築に見えるが、身舎の大きさが1間四方であるため、構造的には方1間とされている。組物は簡略された詰組で、外壁も板張りと簡素なものであり、経蔵という用途上の意匠が反映されている。
この経蔵の大きな特色は、内部に設置されている八角輪蔵で、床から梁まで通された心柱を中心に回転する仕組みとなっている。現存する輪蔵としては日本最古のもので、国宝に輪蔵も含まれているそうだ。余談ではあるが、経典を納めるための書架を回転させると、経典を全部読んだのと同等の功徳があるとされる。これはチベット仏教で使用される宗教用具の摩尼車(マニ車)と同様の発想に起源する。
諸国に創建された奈良時代の国分寺に比べると、安国寺の調査が進められていないのが現状で、足利尊氏は朝敵であったとした幕末の思想が反映されているように思う。現在では安国寺があったことも忘れ去られた例もある中、飛騨安国寺には国宝の経蔵があったことで存続していると思う。
私が愛用している『古寺古刹大辞典』には、安国寺を開基した瑞厳和尚は京都東福寺の出あると書かれていたが、他の本には京都南禅寺から派遣されたと記されていた。東福寺も南禅寺も「京都五山」の1ヶ寺であり、瑞厳和尚が双方の臨済宗寺院に関わったであろうと想像する。その瑞厳和尚の坐像が重要文化財として開山堂に残されていると聞く。室町時代に創建された安国寺の遺構が残っているのは、私の目からすれば頗る貴重に思える。
「安国寺 恵瓊の名は 知るとても 忘れさられた 諸国安国寺」 陀寂
093仁科神明宮 本殿・中門
訪問年: 平成20年08月14日(月)
所在地: 長野県大町市
創建者・施主: 金原氏(創建)、施主不明
建築年: 1636年(寛永13年)
様式・規模: [本殿]神明造り桧皮葺(釣屋付切妻造)・桁行3間×梁間2間、[中門]切妻造り桧皮葺・4脚門
信州の大町市には、1度は訪ねたいと思っていたが、長野自動車道からそれているために、寄る機会がなかった。今回は別所温泉へ泊まる目的で、大町も見て回ろうと、糸魚川インターで北陸自動車道を降り、千国街道を走って大町市街を探索した。若一王子神社の三重塔、塩の博物館となっている旧平林家住宅、大町山岳博物館などを見物して、いよいよ安曇野にある仁科神明宮の本殿を拝観する。
この神社の創建は明らかではないが、仁科氏の祖神である仁品王の降臨伝説に基づいているようだ。建久3年(1192年)の文書に「仁科の御厨は往古の建立地」とあることから、平安中期に創建されたと社伝は伝えている。鎌倉時代にこの地を治めていた豪族の仁科氏が、20年に1度の式年造営を執り行って来たと言う。その仁科氏が武田家と命運を共にして滅んでからは、松本藩主が祈願所として引き継いだそうだ。
神殿の形式は伊勢神宮と同じ神明造りで、寛永13年(1636年)までは式年遷宮に倣って神殿を建て替えようである。伊勢神宮のミニチュアのような建物ではあるが、素朴な白木造りは純日本的で見ていて飽きない。日本で最も古い神明造りの形式を残していることから、昭和12年(1937年)に国宝に指定されたようだ。
神殿は中門と本殿、両棟に架けられた釣屋で構成されている。その中の本殿は、切妻平入り桧皮葺きで、棟木の上には巴紋をつけた鰹魚木(勝男木)が6本と、破風板(垂木)がそのまま伸びて千木の役割をしている。千木は垂木を押さえるものであるが、破風板を兼ねているのは珍しい。鰹魚木は棟木あるいは桧皮を押さえるが、数に制約がないようで伊勢神宮の外宮は9本、内宮は10本となっている。
中門は前殿または御門屋とも呼ばれ、切妻造りの4脚門で屋根は本殿と同じ形式である。釣屋は本殿と中門を結ぶ渡り廊下のようなもので、本殿と中門に棟木と桁を架け、両下造りの屋根となっている。中門の前には拝殿と神門があるが、この2棟も切妻造りで、屋根には千木と鰹魚木があって、社殿は古来の様式に統一されている。
境内には杉の古木の株が多く残っていたが、昭和55年に枯死によって伐採された旧天然記念物の御神木大杉の失われたことは哀れである。参拝を終えた帰り道、何気なく水屋の手水を見ると、重たい手水を4人の力士像が支えている。その珍しさに、小さな境内ながら貴重な造形があることを知って驚いた。
「安曇野は 道祖神ばかりが 目に付いて 驚き多し 石仏の里」 陀寂
094大法寺 三重塔
訪問年: 平成20年08月14日(月)
所在地: 長野県青木村
創建者・施主: 定恵(開基)、施主不明、四朗兵衛(大工)
建築年: 1333年(正慶2年)
様式・規模: 三重塔婆桧皮葺・高さ18.6m 一辺3.6m(三間) 建坪13.4㎡
仁科神明宮から豊科を経由して松本街道(東山道)に入り、「信州の鎌倉」と言われる別所温泉や塩田平を訪ねることにした。大法寺は道の駅あおきを過ぎ、街道から少し北に入った場所にあった。こんな山間部に開創から約1300年を経た古刹があるのは驚きでもあり、長野県は温泉や山岳ばかりではなく、寺社史跡の多い県であることを認識した。
寺伝によると、大法寺は白鳳末期の大宝年間(701~704年)、藤原鎌足の子の定恵によって開創され大宝寺と号されたそうだ。その後の平安初期の大同元年(806年)、坂上田村麻呂の祈願によって天台宗初代座主・義真が再興し、江戸時代の元禄10年(1697年)に大宝寺から現在の寺号に改められたと言う。
惣門(総門)から参道を上った正面に観音堂が建ち、西北の高台に国宝の三重塔が優美な姿で建っていた。鎌倉幕府の滅亡した正慶2年(1333年)、天王寺大工四朗兵衛他小番匠七人に建築された記録が残っていると聞く。天王寺は大阪の四天王寺と思われるが、誰の援助や寄進で建てられたかは不明のようだ。
初層は高欄のない縁をめぐらし、中央は板唐戸、脇は連子窓となっていて、蟇股に飾りなく組物も簡素な二手先となっている。二層と三層の組物は一般的な三手先となっていて、軒の垂木も二軒繁垂木と初層よりは手が凝っている。反りの美しい桧皮葺きの屋根は、初層よりも二層・三層の面積を小さくしているので安定感がある。東山道を往来した人々から「見返りの塔」と呼ばれるほど、その美しさが絶賛されたようだ。
堂内には四天柱に須弥壇を設け、大日如来坐像が安置されていると聞くが、近年に造像されたものと思う。この塔も一般的な三重塔で、かつては朱塗りであった跡が残されているが、真の意味の国宝とするならば、創建当時の外観を復するのが理想的だ。
境内には三重塔以外に観音堂と本堂の建っているだけの寺であるが、観音堂に安置されている十一面観音立像と、その脇侍で現在は本堂に移されている普賢菩薩像は重要文化財である。共に平安初期の作であり、義真が再興した当時の仏像のようだ。寺の付近には京都とみちのくを結ぶ官道・東山道の浦野駅があった場所でもあり、蝦夷討伐に向かった坂上田村麻呂も物資の補給や馬の乗り継ぎを行ったことであろう。
三重塔からの帰り道、参道にはユーモラスな表情をした五百羅漢の石造が置かれているが、その傍らにまだ新しい句碑が建っていた。地元出身のジャーナリストで俳人の栗林一石路の句碑で「シャツ 雑草に ぶっかけておく」と刻まれていた。自由律俳句にはあまり興味がないが、自由奔放な作風は今日のような夏の日をよく表現している。
095安楽寺 八角三重塔
訪問年: 平成20年08月14日(月)
所在地: 長野県上田市
創建者・施主: 行基(開基)、樵谷惟仙(中興)、幼牛恵仁
建築年: 1290年頃(正応3年頃)
様式・規模: 初重裳階付三重塔婆柿葺・高さ18.8m 一辺2.6m
大法寺に続き訪ねたのは、別所温泉の外れにある安楽寺である。『古刹名刹大辞典』によると、天平年間(729~748年)に行基菩薩が別所温泉の効能を知って、治病の仏様である薬師如来を祀るため瑠璃殿を建立し、安楽寺・長楽寺・常楽寺の三楽寺を創建したと言う。その後、安楽寺は禅宗に、長楽寺は真言宗に、常楽寺は天台宗に改められたそうだ。
安楽寺は、地元の信濃出身の臨済僧・樵谷惟仙が宋への留学から帰国して中興したとされる。塩田平の地は、鎌倉幕府の執権・北条氏の領地でもあったこからその庇護によって再興された寺も多い。北条氏は臨済宗に帰依していたので、宋から蘭渓道隆(大覚禅師)を招き、鎌倉に建長寺を開山させている。安楽寺は建長寺と同格の寺とされ、樵谷惟仙の後は、同じく宋から渡って来た幼牛恵仁が住職となった。北条氏が滅亡した室町時代以降は衰退するが、戦国時代の天正8年(1580年)、高山順京が曹洞宗に改めて再興したそうだ。
温泉街の黒門から境内の駐車場に車で入り、参道を上ると山門・鐘楼・座禅堂があり、正面に大きな本堂が建っていた。布団をかぶせたように膨らんだ屋根は、かつて茅葺きだったものを上から鉄板に葺き替えたようだ。本堂から更に石段を上ると経蔵があり、八角三重塔は石段の最上部に建っていた。
国宝八角三重塔は、2世住職の幼牛恵仁が宋国の八角塔をイメージして建てられたと言われる。初層内部の蝦虹梁に使われた木材の年輪年代測定の結果、正応2年(1289年)の伐採とされているので、翌年の竣工と推定される。近世以前の八角塔として現存する唯一の塔で、長野県では松本城と共に最初の国宝に指定された。また、禅様式の建築物としては山口県下関市の功山寺仏殿よりも古いことになる。
外観は素木造りの杮葺きで、屋根が四重となっているが、下の大きな屋根は裳階で庇として見做されるで構造上は三重塔である。初層は出組、二層以上は三手先の組物で、柱以外の柱間にも密に配する詰組となっている。軒裏の垂木は各層とも二重の扇垂木で唐様の詰物を用いている。また、頭貫の端に木鼻など彫り物を施すなど、細部に至るまで禅様である。内陣にも八角の須弥壇を置き、上には天蓋が吊るされ、大日如来像が安置されていると聞く。八角の須弥壇は他に類を見ないもので、禅寺が大日如来を祀るのも珍しい。
境内には近代の歌人の窪田空穂と島木赤彦の歌碑が立っていたが、二人とも長野県の出身であり、空穂は松本、赤彦は諏訪で別所温泉にもゆかりがあったようだ。
「老いの眼に 観る日のありぬ 別所なる 唐風八角 三重塔」 空穂
「山かげに 松の花粉ぞ こぼれける ここに古りにし み佛の像」 赤彦
096石手寺 仁王門(二王門)
訪問年: 平成22年03月17日(水)・ 平成26年11月23日(日)・平成28年10月22日(土)
所在地: 愛媛県松山市
創建者・施主: 越智玉純(開創)、行基(開基)、河野通継
建築年: 1318年(文保2年)
様式・規模: 重層造り本瓦葺・3間1戸楼門 28.6㎡
四国八十八ヶ所の巡礼は長年の夢であり、『奥の細道輪行記』、『芭蕉の花道 東海道・中山道輪行記』に続く私的な「三大自転車旅行記」の最後は、『四国自転車巡礼記』と考えていた。自宅のある秋田県横手市から自転車を車に積んで、第1札所のある徳島県鳴門市の霊山寺前の旅館に到着したのは、3月8日であった。その日から9日後には松山市に入り、道後温泉の老舗に旅館に予約をして石手寺を参詣した。
石手寺は伊予の国司・越智玉純が聖武天皇の勅命によって神亀5年(728年)、鎮護国家の道場として安養寺と名付けて開創したとされる。翌年の天平元年(729年)、行基菩薩が自刻の薬師如来像を本尊として開基し、天平5年(733年)には七堂伽藍が整えられたようである。
弘法大師空海が留錫したこともあって、弘仁4年(813年)、住持の良賢によって法相宗から真言宗に改宗され、その後に衛門三郎の伝説に因み寺号も石手寺と改められた。現在は奈良の長谷寺を総本山とする真言宗豊山派に属する。
石手寺から道後温泉までは目と鼻の先ほどの距離であり、松山市内の通りに2万坪(66,000㎡)の広大な境内が面していた。参道に入ると、上屋のかかった仲見世があり、まず国宝の仁王門が迎えてくれて、門に掛けられた大草鞋には驚いてしまう。
戦国時代に四国を制圧した長宗我部元親によって、四国の寺院の殆どが焼き尽くされた。四国四県で国宝の寺院建築は5棟のみであり、それも松山市に3棟と集中している。仁王門の他に本堂、三重塔、鐘楼、護摩堂、訶梨帝母天堂が重要文化財に指定されているので、鎌倉時代の遺構が多少でも兵火から免れたことは奇跡に近い。
仁王門(二王門)は、3間1戸の左右に金剛力士像を置いてあるのでその名があるが、一般的には山門の名で呼ばれることが多い。鎌倉時代の文保2年(1318年)、伊予の守護・河野通継によって建てられた。入母屋造り本瓦葺きで、純和様の楼門である。上層の回縁の出が大きく、屋根の反りも比較的高い。組物は下層・上層とも三手先で、下層の蟇股には彫り物が施されている。彫り物は透かし彫りで、宝相華唐草紋と言うそうであるが、その精緻さには目を見張った。金剛力士像は当時の作と思われるが、作者不明のために県の文化財になっているのは、作品よりも作者の名を重んじる悪しき風習が感じられるる
本堂を参詣して、納経所で第51番目の御朱印を頂戴してから諸堂をめぐった。松山市の出身の正岡子規は、石手寺で「秋風や 何堂彼堂 弥勒堂」と洒落を交えて境内の様子を詠んでいるが、景観を損ねる格言染みた時代風刺の掲示板が多く三重塔の魅力も半減する。道後温泉に向かう道路には、子規記念博物館があったが、私には温泉しか脳裏になかった。
097太山寺 本堂
訪問年: 平成22年03月14日(日)・平成26年11月22日(土)・平成28年08月02日(火)
所在地: 愛媛県松山市
創建者・施主: 真野長者(開基)、聖武天皇(発願)、河野氏
建築年: 1305年(嘉元3年)
様式・規模: 単層入母屋造り本瓦葺・桁行7間(16.38m)×梁間9間(20.91m) 342.5㎡
松山市には3棟の国宝の寺院建築があり、大宝寺本堂もその一つであるが、四国八十八ヶ所霊場でないために今回の参詣は見送った。松山市には20歳の頃に旅したこともあり、松山城と路面電車は今も記憶に残っている。その街並みを37年ぶりに眺めながら自転車で走って、紆余曲折しながらも太山寺へ続く坂道を上った。
縁起によると太山寺は、用明天皇の御代、豊後の国の真野長者が海難に遭って難儀していた所、観音の霊験によって助けられたことに感謝して建立したと言う。天平11年(739年)には、聖武天皇の命よって行基菩薩が唐国から得た十一面観音の小像を丈六(約1.5m)の十一面観音像の胎内に納めて本尊としたされる。天平勝宝元年(749年)に現在地に移され七堂伽藍と66坊が整えられたそうだ。
現在の太山寺には、飛鳥時代や奈良時代の文化財は残っておらず、弘法大師空海が法相宗から真言宗に改めた平安時代以降の文化財が残る。60年に一度開帳される絶対秘仏の本尊・十一面観音立像は、平安時代後期の作とされ国宝の本堂に安置されている。本堂は昭和の解体修理の際、蟇股に記された墨書銘から鎌倉時代の嘉元3年(1305年)の建立と判明し、施主は伊予の守護・河野氏とされる。
自転車で境内に入ると、簡素な冠木門(一ノ門)があり、本堂と同時期に建てられた重要文化財の二王門(二ノ門)が石段の上に建っていた。納経所と庫裏は本堂から離れているようで、参道の右側にあった。自転車を置いて石段を上ると楼門(三ノ門)が聳え、その先には国宝の本堂を中心に大師堂や鐘楼などの伽藍が建っていた。
本堂は桁行7間、梁間9間の単層本瓦葺きの堂々とした建築で、愛媛県では最大の木造建築と聞く。様式的には和様を基調としているが、虹梁の形状は繰型で挿肘木が見られるなど細部は大仏様を取り入れている。屋根の反りが大きく、密教仏堂の特色が伺えるが、前面の蔀戸など見ると寝殿風でもある。内部は5間四方の身舎の手前を外陣とし、その奥を外陣としている。そして、その周囲が外々陣と脇陣、後陣となっている間取りは珍しい。
境内には松尾芭蕉の句碑(柳塚)があり、四国には一度も来たこともないの芭蕉さんなのに、芭蕉さんを慕う俳人たちによって四国に90基の句碑が建立されている。その中でも愛媛県は最も多く、太山寺も含めて34基が存在する。私は芭蕉さん歩いた足跡は自転車で踏破したが、四国にその足跡がないのは残念に思えたが句碑が立っているだけも今もお大師さんと旅を続けているように思えてならない。
「八九間 空へ雨ふる 柳かな」 芭蕉
098本山寺 本堂
訪問年: 平成22年03月16日(火)・平成27年01月24日(土)・平成28年08月14日(日)
所在地: 香川県三豊市
創建者・施主: 空海(開基)、平城天皇(発願)、施主不明
建築年: 1300年(正安2年)
様式・規模: 向拝付単層寄棟造り本瓦葺・桁行5間×梁間5間 209.8㎡
四国八十八ヶ所巡礼の自転車旅行も讃岐(香川県)に入り、昨夜は第70番の札所となっている本山寺の門前の旅館に泊まり、早朝から境内を散策した。宿に泊まる人の多くが遍路さんであり、夕食を共にした遍路さんと話は弾んだ。「旅は道連れ、世は情け」と言われるように、四国の人々の人情の温かさに胸が打たれる。
本山寺は大同2年(807年)、平城天皇の勅願によって弘法大師空海が大唐から帰国して間もない時に創建されたと寺伝は伝えている。しかし、大師は博多に帰国しても入京が許されず、年まで九州に留まったとされるので、天皇の勅願があったかどうかは疑わしい。
国宝の本堂、重要文化財の二王門以外は近世の再建であるが、五重塔や客殿・庫裏など七堂伽藍の備わった寺観は、完成された絵画を見るようでもある。この寺も長宗我部元親の放火癖によって灰燼に帰したが、時の住職の必至の抵抗によって本堂と二王門の焼失は避けられたようである。
本堂は鎌倉時代の正安2年(1300年)、末清と国重という奈良の工匠によって建てられたことが、昭和の解体修理によって発見された棟木と礎石の墨書銘から明らかになった。寄進したのは領主の京極氏と佐々木氏とされる。香川県の国宝建築はこの本堂と、坂出市の神谷神社本殿の2棟だけで、貴重な文化遺産でもある。
本堂の外観は、桁行5間、梁間5間の正方形に3間の向拝を付けた寄棟造りで、屋根は本瓦葺きである。建築様式は和様の密教仏堂であるが、側面と背面の桟唐戸は禅宗様で、貫頭の木鼻は大仏様を取り入れている。内部は前方2間を外陣とし、中央の間口3間・奥行2間が内陣となっていて、残り左右1間を脇陣、後ろの1間を後陣としている。
本尊は弘法大師の自刻とされる馬頭観世音菩薩像で、脇侍に阿弥陀如来と薬師如来を安置している。馬頭観音を本尊とする寺は大変珍しく、阿弥陀如来は「太刀受けの弥陀」と呼ばれ、長曽我部軍が攻め込んだ時に右手に受けた傷が残っているそうだ。比叡山を焼いた織田信長ばかり批判されるけれど、四国全土の古刹を焼き尽くした大物が実在していた。
私は1回目の四国八十八ヶ所の巡礼であったので、新参者は白い納札に名前と住所を記して本堂と大師堂に納めることになっている。その納札は回数によって色が変わるようで、5回目からは緑札、8回目からは赤札、25回目からは銀札、50回目からは金札、そして、100回目以上は錦札と聞く。それも徒歩に限定したものとされると、気の遠くなるような巡礼である。そんな回数を競うことをするよりも「日本百名山」に目を向けた方が良いと思う。
「菜の花や 七堂伽藍 本山寺 他に花なし 鐘の音もなし」 陀寂
099浄土寺 本堂・多宝塔
訪問年: 平成22年03月24日(水) ・平成27年05月31日(土)
所在地: 広島県尾道市
創建者・施主: 聖徳太子(開基)、定証(中興)
建築年: 本堂1327年(嘉暦2年)、多宝塔1329年(元徳元年)
様式・規模: [本堂]朱塗り向拝付単層入母屋造り本瓦葺・桁行5間×梁間5間 195.7㎡、[多宝塔]本瓦葺・高さ20.5m 一辺6.6m
四国八十八ヶ所の自転車巡礼を終え、ライトバンに自転車に積んで剣山と石鎚山に登り、日本百名山も2座をクリアして、九州に向かう途上に尾道に立ち寄った。尾道は35年ぶりの訪問であり、まだ参詣していない寺院を回った。浄土寺は真言宗泉涌寺派の大本山で、私の旅においては、国宝めぐりよりも大本山めぐりに重点を置いて来たので、一石二鳥の参詣となったのが嬉しい。
浄土寺は飛鳥時代の推古24年(616年)、聖徳太子によって創建されたと言われる最古刹であったが、鎌倉時代には衰退して曼荼羅堂1宇が残っている有様と聞く。嘉元元年(1303年)、真言律宗の定証法師によって伽藍が整えられ中興されるが、正中2年(1325年)の大火によってあえなく焼失している。所が尾道は貿易港であり、商人の財力が豊かであったことから道蓮・道性夫妻が再興を発願して本堂・多宝塔・金堂と相次いで建てられた。
本堂は桁行5間、梁間5間の方形に1間の向拝を付けた本瓦葺きの入母屋造りで、鎌倉末期の嘉暦2年(1327年)に建築された。鎌倉時代の主流とも言える和様を基調にしながらも禅宗様や大仏様を細部に取り入れた意匠で、中世折衷様仏堂建築と古建築の学者は言っていた。
本堂の軒下の組物は出組で、和様の間斗束の上に大仏様の双斗を乗せいる。貫頭の木鼻は大仏様で、柱間の外戸も大仏様の桟唐戸で和漢折衷のスタンダードに思える。内部は向拝の先の2間を礼堂として、それより後ろの左右両端の1間が脇陣で、残りの3間が内陣である。外陣には天井はないが、内陣は折上げ小組の格子天井で、その下に厨子があって秘仏で重要文化財の十一面観音立像を祀っているようだ。
多宝塔は本堂が落成した2年後の元徳元年(1329年)の建築で、この時代の多宝塔では最大級の規模である。多宝塔は本堂とも共通するが、外観の色彩が鮮やかであることだ。初層部の腰壁を白く塗り、飾窓と蟇股は緑色で、柱や扉は朱塗りである。灰色の屋根瓦の上に真っ白な亀腹が乗り、山の頂に残った残雪を想像させる。亀腹の上には蟇股を施した回縁があり、上層を支える精緻な四手先の組物には言葉を失うほどの外観である。内部には大日如来坐像を安置すると聞くが、中に入れないのは残念である。
浄土寺は重要文化財の堂宇も数多あり、山門・阿弥陀堂・方丈・唐門・庫裏と客殿・宝庫・裏門・露滴庵と8棟もの木造建築が残されている。それに客殿の庭園は、国の名勝庭園であることを知った時には宝石以上の価値があるものに出会った喜びに満たされた。
「浄土寺に 浄土を見たり 春景色 これは国宝 あれは名勝」 陀寂
100厳島神社 客神社(摂社)本殿・幣殿・拝殿・祓殿
訪問年: 平成22年03月24日(水)・平成25年11月24日(日)・26年08月24日(日)
所在地: 広島県宮島町
創建者・施主: 佐伯鞍職(創建)、平清盛
建築年: 本殿・幣殿・拝殿・祓殿1241年(仁治2年)
様式・規模: [本殿]単層両流造り桧皮葺・桁行5間×梁間4間、[幣殿]単層両下造り桧皮葺・桁行1間×梁間1間、[拝殿]単層切妻造り桧皮葺・桁行8間×梁間3間、[祓殿]単層入母屋妻入造り桧皮葺・桁行4間×梁間3間
世界文化遺産(単独) 厳島神社
私の旅の始まりは、小学校6年生の修学旅行で行った宮城県の松島であった。あれから数えられないほど松島を訪ね、京都府の天橋立にも2度旅している。しかし、「日本三景」の宮島は老後の楽しみとして残していた。しかし、年金生活を老後とするならば、もう5年と迫っていた。もう猶予はならないと、九州地区の「日本百名山」に向かう途中、宮島口に車を置いてフェリーで島に渡った。
飛鳥時代の推古元年年(592年)、安芸の豪族・佐伯鞍職が宗像三神(市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命)を九州筑前の宗像神社から宮島に勧請したのが厳島神社の起こりとされる。平安時代初期の大同元年(808年)、弘法大師空海が弥山に求聞持堂を建立して大聖院を開基してから神仏習合の厳島神社となり、宗像三神は厳島大明神と総称されたそうだ。
厳島神社が世に知られるようになったのは、安芸守となった平清盛が壮大な社殿を造営して平氏の守護神に崇めたことによる。平氏滅亡の後も武家の信仰が厚く、源頼朝・足利尊氏・毛利元就・豊臣秀吉と天下にその名をとどろかせた武将も神社を庇護した。中でも宮島を領地とした毛利元就は、本殿の大改修を行って現在の景観を形作った。
宮島の景観を代表するものは、海面に建つ朱色の大鳥居であり、創建から8基目の改築と聞く。船の上から写真を撮ったが、定期船なので観光船とは異なり、速度を押さえて停まってはくれない。大鳥居の景観を撮るためには船をチャーターするのがベターのようだ。
宮島口から10分ほどの乗船で宮島に到着し、真っ先に向かったのが厳島神社である。入口で拝観料を払って直ぐに目に付いたのは、厳島神社の摂社である客神社だった。進行方向の東回廊の左側に本殿・幣殿・拝殿が建ち、右側に祓殿が建っていた。仁安3年(1168年)、清盛が創建した後に、火災があったために仁治2年(1241年)に再建されている。この時代は平氏が滅び、源氏も3代で滅び、北条氏が鎌倉幕府の実権を握った時代である。
客神社の社殿は厳島神社に現存する最古の建物で、本殿は桁行5間・梁間4間の両流造りの桧皮葺きで、天忍穂耳命を祀る。幣殿は幣帛を奉奠する所で、本殿と拝殿に建つのが一般的で方1間と小さいものの本殿と同じ両流造りである。拝殿は桁行8間に梁間3間と長方形の切妻造りで、幅4m・長さ45間(約116m)の東回廊に面している。祓殿は桁行4間・梁間3間の入母屋妻入造りの優雅な建物で、背後に聳える五重塔と調和して美しい。
101厳島神社 本社本殿・拝殿・幣殿・祓殿・東西回廊
訪問年: 平成22年03月24日(水)・平成25年11月24日(日)・26年08月24日(日)
所在地: 広島県廿日市市
創建者・施主: 佐伯鞍職(創建)、平清盛・毛利元就
建築年: 本社本殿・拝殿1241年(仁治2年)、幣殿・祓殿1571年(元亀2年)、東西回廊1602年(慶長7年)
様式・規模: [本殿]単層両流造り桧皮葺・桁行8間+9間×梁間4間、 [幣殿]単層両下造り桧皮葺・桁行1間×梁間1間、[拝殿]単層縋破風付入母屋造り桧皮葺・桁行10間×梁間3間、 [祓殿]単層入母屋妻入造り桧皮葺・桁行6間×梁間3間、[東廻廊]単層切妻造り桧皮葺・折曲延長45間、[西廻廊]切妻唐破風造り桧皮葺・折曲延長62間
世界文化遺産(単独) 厳島神社
客神社の社殿から東回廊を進むと、桃山時代に建てられた朝座屋(重文)があり、そこから回廊は右に折れて本社の社殿へと入る。本社の社殿は海上の大鳥居側から見ると分かり易く、突端の火焼前に始まり平舞台の左右に門客神社と楽房(楽屋)があり、高舞台・祓殿・拝殿・幣殿・本殿が一直線に並んでいる。祓殿は左右の楽房と回廊で結ばれていて、更に拝殿も左右の内侍橋が架けられて連結される。
本社本殿は仁安3年(1168年)に建築されたが、火災のため仁治2年(1241年)に再建されたとされる。桁行正面8間、背面9間、梁間4間の両流造りの桧皮葺きである。平安末期の建築様式を伝えた鮮やかな朱色が美しく、元亀2年(1571年)に毛利元就が改築した際に長橋(重文)が架けられ、景観もより美しくなった。
本殿の前の幣殿は、1間四方の両下造りで、これも元就の再建による。そして、拝殿は本殿と同じく鎌倉時代の再建で、桁行10間・梁間3間と広い内部は神楽殿も兼ねた縋破風付き入母屋造りは珍しい。拝殿の付帯として国宝にもなっている高舞台では、平清盛が大阪の四天王寺から移したとされる舞楽が演じられると聞く。
本社社殿を眺めるには、大鳥居をの火焼前に立つのが一番良いようだ。神社の象徴でもある大鳥居は、約160m先の海中にあり、高さが16m、笠木の長さが23mもある。現在の大鳥居は創建から8代目のもので、明治8年(1875年)に再建されて重要文化財となっている。
単独での世界文化遺産となっているのは、厳島神社と姫路城、そして原爆記念物とも言える原爆ドームだけである。古建築の希少価値的に加え、美的な要素も選定の基準となると思うが、厳島神社が所有する国宝は10棟、重要文化財14棟、登録有形文化財1棟に及ぶ。また、厳島(宮島)全体が国の特別史跡と特別名勝でもあり、日本が世界に誇る宝物である。
現在の社殿の原形を造った清盛は、都から遠く離れた宮島に寝殿造りのユートピアを夢見たのであり、その卓越した美意識を感じる。桃山文化の立役者であった豊臣秀吉は、厳島合戦の旧跡に大経堂(千畳閣)を造営奉納したが、その完成を見ずに死去した。
「ききしより ながめにあかぬ いつくしま 見せばやと思う 雲のうえびと」 秀吉
102吉備津神社 本殿・拝殿
訪問年: 平成23年01月02日(日)・平成26年03月23日(日)
所在地: 岡山県岡山市
創建者・施主: 仁徳天皇(創建)、足利義満
建築年: 本殿・拝殿1425年(応永32年)
様式・規模: [本殿]単層比翼入母屋造り桧皮葺・桁行5間+7間×梁間8間 264.4㎡、[拝殿]単層裳階付切妻造り本瓦桧皮葺・桁行3間×梁間1間 79.2㎡
正月休みは、三重県四日市から山陽方面へ旅行をする計画を立て、岡山市付近に焦点を絞った。岡山市は後楽園と岡山城を訪ねただけで、それ以外は未知の世界であり、国宝建築の吉備津神社以外にも備中国分寺や最上稲荷など吉備路は寺社史跡にあふれていた。
吉備津神社の創建は、第16代仁徳天皇が吉備の国を訪ねた際、第7代孝霊天皇の皇子・大
吉備津彦命(五十狭芹彦命)が大和朝廷から派遣されて吉備国を統治した業績を称えて社殿を建立したことに始まるとされる。
吉備津神社は吉備国の総鎮守として崇められたが、飛鳥時代の乙巳の変(大化改新)の後、吉備国が備前・備中・備後の三備に分割されると、備前国に吉備津彦神社(岡山市)、備後国に吉備津神社(福山市)が分霊されて新たに創建された。本社の吉備津神社は備中国の一宮として存続している。
この日は最上稲荷で知られる妙教寺と吉備津彦神社を参詣して、吉備津神社を訪ねた。標高175メートルほどの小さな中山の西麓に神社はあったが、この中山は神体山とされる山でもあり、備中と備前の国境のでもある。境内は初詣の参拝客で賑わってはいたものの、最上稲荷ほどの多さではないので安心した。石段を上り、入母屋造りの北随神門(重文)をくぐると、数羽の鳥が翼を広げたような本殿の大きな屋根が見えて来る。
国宝の本殿と拝殿は、室町時代の明徳元年(1390年)、後光巌天皇の勅命で室町幕府3代将軍・足利義満が造営に着手し、応永32年(1425年)に35年の歳月を費やして再建遷座された。社殿が完成された時、義満はすでに死去していたが、その文化遺産は約600年の時を隔てても今日まで伝わったことになる。
本殿は比翼入母屋造りの珍しい神社建築で、その独創性から「吉備津造り」とも呼ばれ、全国唯一の造りである。建坪が80坪(約264㎡)とそれほど大きな建物ではないが、鋭角にせり出した桧皮葺きの屋根が大きく、建物も大きく見える。拝殿は裳階付き平入り切妻造りで、本殿に比べると小ぶりであるが、裳階の屋根だけを本瓦葺きしているのが特徴的だ。
本堂内部は外陣・朱檀・中陣・内陣・内々陣・中陣・外陣で構成されていて、朱檀の檀上には、重要文化財の狛犬と獅子の木造が置かれいた。柱や床の朱色が鮮やかで、挿肘木や虹梁の形状、基壇の亀腹などには寺院建築の影響も見られる。本堂と拝殿以外に驚いた建物は、鎮守の森を一直線に伸びる長い回廊であり、総延長は400メートルに達すると聞く。
「吉備路にて 寅さん招き 初詣で」 陀寂
103旧閑谷学校 講堂
訪問年: 平成23年01月03日(月)
所在地: 岡山県備前市
創建者・施主: 池田光政(創建)、津田永忠(校長)
建築年: 1673年(延宝元年)
様式・規模: 入母屋造り本瓦葺・桁行7間×梁間6間
岡山市内のビジネスホテルに2泊して、3日目は備前市にある旧閑谷学校を訪ねた。閑谷学校は岡山藩主の池田光政が庶民の教育のために開設し、国宝の講堂は延宝元年(1673年)に完成された。閑谷は閑静な谷間を意味すると思うが、現在は山陰自動車道が直近まで通っていて、そのイメージは損なわれてはいるのもも、紅葉の名所として知られる。
正月三ヶ日にしては観光客も疎らな駐車場に車を停めて、石塀で囲まれた敷地に入ると、2本の巨大に楷の木以外に植栽が殆どないグラウンドのような平坦地に様々な建造物が建っていた。石塀に付属した飲室門、大成殿の建つ聖廟、光政公を祀る閑谷神社(旧芳烈祠)、講堂などの学校施設のブロックに分かれ、その24棟が国の重要文化財である。他に閑谷学校資料館が登録文化財となっていて、他に例を見ないほどの建造物群である。
鶴岡の致道館(山形県)、岩出山の有備館(宮城県)、水戸の弘道館(茨城県)、松代の文武学校(長野県)、伊賀上野の崇広堂(三重県)など江戸時代の藩校を色々と見て来たが、これほどの規模の藩校は近年に再建された会津の日新館(福島県)以外に見たことはない。
閑谷学校の象徴とも言える講堂は、桁行7間、梁間6間の入母屋造り瓦葺きである。備前焼の赤い瓦と、妻面の白漆喰塗り込め、そして柱などの木材の茶色のコントラストが美しい。入母屋の形状は錣葺きと言う珍しいもので、勾配の緩やかな入母屋に勾配のきつい切妻を乗せて屋根にインパクトを与えている。切妻の破風には懸魚で飾られた手の込んだ意匠であり、備前焼の瓦は330年も経年しても全面葺き替えをしていないと言う優れものだ。
講堂は開放感に満ちた板張りの一室で、太い丸柱と釣鐘状の華頭窓から入る光が印象的だ。正面の壁に掲げられた壁書と丸瓦1枚が附けたりとして国宝となっている。壁書は光政の跡を継いだ藩主・綱政の筆によるもので、岡山藩の閑谷学校に対する思い入れは格別なものであったようだ。講堂には数寄屋造りの小斎、入母屋造りの習芸斎が接続されていて、習芸斎の先は飲室となっている。小斎は教授の部屋で、習芸斎は生徒の勉強部屋、そして飲室は休憩室であったようだ。
学校の周辺には、初代校長の津田永忠宅跡や黄葉亭などがあり、国の特別史跡にも指定されている。昭和39年(1964年)までは、和気高等学校閑谷校舎として学びの場であったようだが、現在は岡山県青少年教育センター閑谷学校がその名を留めている。人類繁栄の源は教育であり、幸福の道しるべは哲学であろう。光政は死ぬ間際に、永忠を呼び寄せて、閑谷学校が永遠に残るようにと遺言したそうだ。備前市日生には光政の歌碑が残っている。
「越く露も しづ心なく 秋風に みだれてさける まののははぎはら」 池田光政
104一乗寺 三重塔
訪問年: 平成23年04月08日(金)
所在地: 兵庫県加西市
創建者・施主: 法道(開基)、孝徳天皇(発願)、施主不明
建築年: 1171年(承安元年)
様式・規模: 三重塔婆本瓦葺・高さ21.8m 一辺4.9m(三間)
九州地区の百名山を登頂した後、別府からフェリーで大阪に戻り、播州龍野の桜見を楽しみ、大阪に戻る途中に一乗寺に立ち寄った。西国三十三ヶ所霊場めぐりの旅は、一乗寺と播州清水寺、そして京都の上醍醐寺を残すだけとなった時でもある。
寺伝によると、孝徳天皇の勅願で白鳳時代の白雉元年(650年)、天竺(印度)僧の法道(空鉢)仙人が開基したと言う。法道仙人は自由自在に空を飛来して来たとされ、日本における役行者小角の先駆けであった人物でもある。
一乗寺入口の受付で拝観料を払って進むと、山門の代わりに石造の笠塔婆が立っていて、その先には急な石段が続くが、3年前から山登りに明け暮れた私には、息も切らさずに上れる石段であった。参道の左手の狭い平坦地には常行堂が建ち、次の石段の左に国宝の三重塔と右に法輪堂(経蔵)が建っている。その更に上の石段の上には、舞台造りの大きな重要文化財の本堂(金堂)が見える。
三重塔は相輪の下部にある伏鉢の銘から、平安末期の承安元年(1171年)の建立とされる。三重塔建築としては、奈良の法起寺や薬師寺などの三重塔を除くと最も古い時代のものであり、鎌倉・室町時代へと移行する過程の先駆けをなす塔でもある。外観的には、塔身が初層から三層に向かって屋根が小さくなる逓減率が大きいことが特徴で、安定感にあふれた姿である。また、相輪の高さが約7メートルと、塔高の21.8メートルの1/3を占めるほど高いのが特徴だ。初層と二層の四面にある蟇股は、輪郭だけで彫り物がないがもので、日本最古の例とされる。この塔も朱塗りであったようであるが、戦前の解体修理の際に外装も復元されていれば、その鮮やかさを失っていなかったであろう。
三重塔の先の石段を上ると、正面9間、側面8間の懸造りの大きな本堂が建つ。大悲閣または金堂とも称され、寛永5年(1628年)の再建で国の重要文化財となっている。本堂に祀られた本尊・聖観音菩薩像は秘仏とされ、その前立ち像も含めた2体も重文である。その観音像を礼拝して、御朱印を頂戴した。本来であれば597文字の「観音経偈」を読誦するのであるが、最近は手抜きをして「延命十句観音経」で済ませることが多い。そして、この寺の御詠歌を唱えて本堂の参詣を終えた。
「春は花 夏は橘 秋は菊 いつも妙なる 法の華山」 御詠歌
一乗寺の山号は法華山と言い、法の華山はそれを意味しているが、近在には古法華という地名も残っているようで、観音信仰と法華信仰の合体は、天台宗ならではの発想である。国宝ともなっている「聖徳太子及び天台高僧像」の10幅の絵画がそれを物語っている。
105三佛寺 奥ノ院(投入堂)
訪問年: 平成25年03月26日(火) ・平成27年06月28日(日)
所在地: 鳥取県三朝町
創建者・施主: 役小角(開山)、円仁(開基)、施主不明
建築年: 1184年(寿永3年)
様式・規模: 流・舞台造り桧皮葺・桁行1間×梁間2間 25.3㎡
中国地方の山々に登るためにメキシコから帰国して間もなく、また長旅に出発した。前日は兵庫県の北部にある小代温泉に泊まり、三徳山に登るために鳥取県に入った。三徳山に向かって山間部の県道を上って行くと、昨夜の名残雪が薄らと積もり、まるで花が咲いているように美しい。
寺伝によると三佛寺は、白鳳時代末期の慶雲年間(704~708年)、役行者小角が山上に金剛蔵王を奉安し、一堂を建立したのが現在の奥ノ院と言われる。その後、天台宗の慈覚大師円仁が、平安時代初期の嘉祥2年(849年)に阿弥陀・釈迦・大日の三如来三尊を安置し、三徳山(美徳山)三佛寺浄土院と号したとされる。円仁は険峻な山に堂宇を建てることに長けていて、山形県の山寺(立石寺)も代表例である。
三佛寺の駐車場に車を停め、意気揚々と登山姿に身を包み出発すると、土産物屋の店主から奥ノ院へは登れないと忠告されたが、遠路はるばる秋田から来たのだら何とか入れるだろうと境内へと向かった。しかし、受付で4月1日までは入山を禁止していて、改めて言われ本堂の拝観に限られるようだ。
本堂を参拝していると、作務衣の中年女性に案内された背広姿の男たちが5・6人、奥ノ院への参道を入って行く。近くに居たの寺男に尋ねると、投入堂の現状を調査する専門家の一団と言う。それにしても残念でならなかったが、これも仏縁であり、事前の調査を怠った私に責任がある。
特に見るものもない境内で出て、投入堂が遥拝できる場所へと移動した。数人の観光客がカメラを三脚に固定して写真を撮っていた。私はリュックから双眼鏡を取り出して覗いて見た。雪化粧をした三徳山の山頂下に、懸造りの投入堂は建っていた。まるで山水画を見るような景観でもあり、私もその眺めをカメラに収めた。
遠くから眺めても、展望所のような小さな堂宇であるが、切り立った断崖に建った様子は感動的である。かつて京都の山間部にある峰定寺の舞台造りの本堂に上ったことがあったが、あの時の思い出を振り返りながら投入堂と重ね合わせてみた。堂内には本尊で重文の金剛蔵王権現立像が安置されていると聞くが、参拝できなかったことは残念でならない。
三徳山の登拝が叶わなかったことで、2時間ほど時間にゆとりができたので、出雲大社と石見銀山遺跡の訪問に時間を割くことにした。出雲大社は十九歳の頃に訪ねているが、石見銀山遺跡は初めてで世界文化遺産となったことで、必然的に訪ねなければと思った。
「叶わざる 夢もありけり 投入堂 厳し過ぎるは 入山制限」 陀寂
106瑠璃光寺 五重塔
訪問年: 平成25年03月28日(木)・ 平成27年03月15日(日)
所在地: 山口県山口市
創建者・施主: 石屏子介(開山)、大内盛見
建築年: 1442年(嘉吉2年)
様式・規模: 五重塔婆桧皮葺・高さ31.2m 一辺5.1m
国宝の五重塔で唯一、訪問していなかったのは山口県の瑠璃光寺五重塔であった。秋田県からだと、あまりにも遠すぎた地域に位置する。広島から九州へ向かう途中、岩国に立ち寄ってから瑠璃光寺を訪ねた。岩国の錦帯橋と同様、瑠璃光寺の桜も満開で、この時期に旅するのは二重の喜びを感じる。
瑠璃光寺は駐車場も境内の拝観も無料で、観光寺院にしては珍しい配慮である。境内に入ると、池の周りの枝垂れ桜が満開で後ろに五重塔が聳え立っていた。息を飲むような美しさにしばしらく絶句した。京都の醍醐寺五重塔、奈良の法隆寺五重塔と並び「日本三名塔」の一つとされている。
醍醐寺と法隆寺の五重塔は、屋根が本瓦葺であるのに対して、瑠璃光寺五重塔は桧皮葺である。この屋根の形状が五重塔の美観を左右し、檜皮葺の屋根ならではの曲線美を描くのである。各層の隅軒の反りがとても軽快に見えるのも、檜皮葺の特徴である。屋根は30年毎に葺き替えが成されると聞いたが、既に19回も行われたことになる。
建築様式は殆ど和様であるが、二層の高欄だけが唐様となっている。時間的に内部の拝観が出来なかったが、初層内には欅造り唐様円形の須弥壇があるそうだ。この手法は日本で唯一のもので、非常に珍しい。塔に裏手の山に上って塔を見下ろすと、裏側の軒の痛みが見える。江戸時代初期の万治4年(1661年)と、大正4年(1915年)に大修理が行われたようであるが、もう100年近くも経ているので、平成の大修理が必要と思われる。
この寺は、室町時代に守護大名の大内義弘が一族の菩提寺として建立し、初めは香積寺と号していた。五重塔は、兄義弘の菩提を弔うために大内盛見が建てたものであるが、大内氏が滅亡してからは毛利氏の加護を受けることになる。しかし、関ヶ原の合戦後に萩に毛利氏が移ると、香積寺も移されて五重塔だけが残される形となった。その時に陶氏の菩提寺であった曹洞宗の瑠璃光寺が、仁保から香積寺跡に移転されて現在に至っている。
本堂を拝観して御朱印を頂戴すると、そこに五重塔資料館があったので入館した。日本の主な五重塔55基を100分の1の模型とパネルで紹介していて、すべて拝観した懐かしさと満足感が込み上げて来る。特にこの瑠璃光寺と室生寺の五重塔が好きであるが、日本一の規模を誇る東寺の五重塔も忘れられない。
瑠璃光寺の近くに洞春寺もあって立ち寄りたかったが、これから九州の大宰府まで走らなければならず、山口市にはまたゆっくり来ようと寺を後にした。
「山頭火 山口の出と 記憶する 偲ぶ暇なく 塔は遠のく」 陀寂
107富貴寺 大堂(阿弥陀堂)
訪問年: 平成25年03月30日(土)
所在地: 大分県豊後高田市
創建者・施主: 仁聞(開基)、施主不明
建築年: 平安末期
様式・規模: 単層宝形造り本瓦行基葺・桁行3間×梁間4間 (5.5m ×7.3m) 71.8㎡
今回の九州旅行は登山が主な目的であったが、由布岳と鶴見岳の登山を午後1時過ぎに終えたので、国東半島のまだ訪ねていない寺院をめぐることにした。そして、国宝の建築物を有する富貴寺から巡礼した。
富貴寺は養老2年(718年)に、仁聞法師によって法相宗の寺として開基されたされる。この仁聞という僧は、国東半島一帯の六郷(武蔵・来縄・国東・田染・安岐・伊美)に28ヶ所の寺院を開創し、6万9千体の仏像を造ったと言われる。以前訪ねた安岐両子寺の山号が、六郷満山と称されるのも六郷の中心的な寺であったようだ。平安時代後期になって六郷の寺院は天台宗に改められ、両子寺を別格本山として富貴寺も天台宗となっている。これだけ多くの寺院を建立するには財力がないと無理な話で、八幡社の総本社であった宇佐八幡宮の存在が大きい。宇佐八幡宮は神宮寺であった弥勒寺と共に九州一の荘園を有し、その財力があって六郷満山の諸寺の建立が可能となったと想像する。
富貴寺の阿弥陀堂は通称、蕗の大堂と称されるようであるが、建物自体は間口3間、奥行き4間とそんなに大きい訳ではない。それなのに大堂と呼ぶのは、近くに真木大堂(伝乗寺)もあることから仏堂を大堂と呼ぶ習わしがあるようだ。
国宝・大堂は、宇治平等院の鳳凰堂、平泉中尊寺の金色堂の世界文化遺産と肩を並べ、「日本三大阿弥陀堂」と評価されている。浄土思想が全国に広まった平安時代末期の建築で、斜面を削った山の斜面に建てらている。珍しい行基葺きの瓦屋根は、奥行きが1間長い長方形の宝形造りである。これもあまり例を見ない宝形造りであるが、屋根の頂部には色あせた金色の宝珠が飾られていたので宝形造りに違いはない。
正面の踏み段を上がって右手から堂内に入ると、手前1間が礼拝空間となっていて、1間四方の内陣を囲むように行道空間となっている。内陣の配置から奥行きが長く造られた訳である。内陣には重要文化財の阿弥陀如来坐像が安置され、他の阿弥陀堂建築と同様に柱や壁面には極彩色の絵画が施されていたようだが、剥落したのが残念だ。重要文化財となっている坐像背後の「阿弥陀浄土変相図」は、薄暗い堂内でも確認が出来たのは嬉しい。
富貴寺には阿弥陀堂の他に本堂が右手の斜面にあったが、小さな庫裏建築を本堂としたような建物で、あまり暮らし向きは良さそうには見えない。一昔前は観光客も多かったようで、こんな辺鄙な山の寺でも茶店や飲食店を出すほど賑わっていたようである。営業を休止したその建物が痛々しく見える。
「寒村の 桜淋しき 富貴寺かな」 陀寂
108上醍醐寺 清滝宮拝殿・薬師堂
訪問年: 平成25年04月01日(月)
所在地: 京都府京都市伏見区
創建者・施主: 聖宝(開山)、醍醐天皇(開基)、豊臣秀吉
建築年: 清滝宮拝殿1434年(永享6年)、薬師堂1121年(保安2年)
様式・規模: [清滝宮拝殿]向拝単層入母屋妻入舞台造り・桁行7間×梁間3間 173.4㎡、[薬師堂]単層入母屋造り・桁行5間×梁間4間 147.9㎡
世界文化遺産(複合) 古都京都の文化財
醍醐寺には数回来ているけれど、西国三十三ヶ所霊場でもある上醍醐寺まで足を運んだことがなく、長年の課題であった。今回は国宝の建造物は絶対に見てみたいと言う信念と、気まぐれに巡っていた西国三十三ヶ所霊場の旅にも終止符を打ちたいと言う思いもあった。そして、何よりの楽しみは醍醐寺の桜を満喫したいと言う三重の目的があった。
醍醐寺境内の金堂や五重塔などの諸堂が建つ中心部の外周には、フェンスが張り巡らされていて、上醍醐寺へと続く参道とは切り離されていた。このフェンス越しに桜の花が咲き誇る境内を見ながら、女人堂から3キロほどの参道の山道を登った。約1時間を要して標高450メートルの醍醐山の山頂付近に到着すると、七堂伽藍が林立していた。
上醍醐寺の本坊にあたる寺務所の建築群が参道の右下にあって、左の斜面上には清瀧宮の国宝の拝殿があり、本殿が建っている。清滝宮は醍醐寺の鎮守社でもあるが、弘法大師空海が密教の守護神として唐より勧請したもの。大師の孫弟子にあたる理源大師聖宝が醍醐寺を開基した際、清滝宮も創建している。清滝宮拝殿は崖に面した懸造りで、神仏習合の古き良き時代の遺産を見るようである。外観的には住宅風の趣があって、半蔀や引違格子戸にその特色が見られる。
清滝宮から少し上った所に、平安時代末期の保安2年(1121)に造られた国宝の薬師堂は建っていた。間口5間、奥行き4間の簡素な入母屋造りに見えるが、背の高い組物は斬新であり、それなりに工夫を凝らした和様建築の意匠を感じる。中央の板扉の格子から内部を見ると、正面3間、側面2間の内陣を中央に、残りの1間4面は外陣となっている。床は土間のままで、内陣だけ天井を張っている。内陣には国宝の薬師三尊が祀られていたが、現在は保存のために霊宝館に移されているようだ。
薬師堂の先には五大堂が建っているが、昭和初期まで旧国宝となっていたが護摩の火が屋根に飛び火して焼失したそうだ。また、薬師堂の下にも旧国宝の経蔵が建っていたが、これも昭和14年の山火事で焼失したと聞く。最近では上醍醐寺の本堂にあたる准胝堂が落雷で焼失して、西国三十三ヶ所観音霊場の機能を失っている。昭和になってから2棟の国宝を失ったことは大きく、それに昭和43年(1968年)に再建された准胝堂まで失ったことは悔やまれてならない。
「賑わえる 花の盛りの 醍醐寺に 悲運は続く 山上の伽藍」 陀寂
109朝光寺 本堂
訪問年: 平成25年05月25日(土)
所在地: 兵庫県加東市
創建者・施主: 法道(開基)、施主不明
建築年: 1428年(正長元年)
様式・規模: 向拝付単層寄棟造り本瓦葺・桁行7間×梁間7間 383.0㎡
西国三十三ヶ所観音霊場めぐりも播州清水寺を残すだけとなって、そこに参詣する途中に朝光寺に立ち寄った。誰もいない広い駐車場に車を停めて境内に入ると、つくばねの滝が山門の前の参道脇に流れ落ちていた。自然環境に恵まれた寺にも関わらず、参拝客がいないのは寂しいものである。
朝光寺は白鳳時代の白雉2年(651年)、天竺(印度)僧の法道(空鉢)仙人が開基したと伝承される。法道仙人は他に播州清水寺や一乗寺も開基したとされ、特に播磨国の寺院に関わりが深い。創建当時の朝光寺は権現山の山上に建っていたそうだが、源平の合戦の折、源義経の夜襲によって寺は灰燼に帰した。その後の文治5年(1189年)、後鳥羽天皇の勅命によって現在地に再建された。
滝を見物した後、石段を上って山門を入ると、平坦地に国宝本堂と多宝塔、鐘楼と鎮守社の4棟が建っているだけである。拝観受付もなければ誰もいない状況で、勝手に見て行って下さいと言う雰囲気である。本堂は7間四方の大きな寄棟造りで、本瓦は葺き替えて間もないようで、いぶし銀に光を放っていた。どうせ修繕を行うのであれば、外装も朱塗りに修復した方が良かったと思う。
本堂内陣の厨子に書かれた銘には、応永20年(1413年)に京都の三十三間堂から千体観音像の1体を譲り受けて本尊として祀ったことが記されていると言う。また、屋根の瓦葺きが正長元年(1428年)に終わったことも記されていて、室町時代を代表する密教仏堂が完成したことになる。基本的には和様式であるが、桟唐戸などは鎌倉時代の禅様式、組物間の双斗などは奈良時代の大仏様である。正面の向拝は、江戸時代の文政12年(1829年)に利便性を考え付け足されたようである。床が他の当時の寺院建築としては異常に高く、床下から他の堂宇が覗けるほどある。
本堂以外に石垣の上に建つ袴腰寄棟造りの鐘楼は、元弘2年(1332年)の建築で国の重要文化財である。多宝塔は慶長6年(1601年)の建築で、兵庫県の文化財となっているが、国の重要文化財となってもいいほど下層と上層、相輪の均整が良い。30分ほど境内に居たが、駐車場に戻っても参拝客が来る様子もない。境内の一画には、本坊と呼べる堂宇はないようであるが、道路を挟んだ近くに吉祥院と総持院の支院があったので、この2ヶ院が朝光寺を管理しているように思える。いずれも高野山真言宗に属するようで、しっかりと国宝を守ってもらいたいものである。
「人の来ぬ 国宝もあり 朝光寺 寂しさ募る 播磨の古刹」 陀寂
110妙喜庵 書院及び茶室(待庵)
訪問年: 平成25年7月21日(日)
所在地: 京都府大山崎町
創建者・施主: 山崎宗鑑(創建)、春嶽(開山)、千利休
建築年: 書院1492~1500(明応年間)、茶室1573~1593(天正年間)
様式・規模: 土庇付単層切妻造り杮葺・茶室2畳・次の間1畳
福井に居るうちに京都の未だ訪ねていない名所を巡ろうと、北陸自動車道から名神高速道路に入った。大山崎インターで降りようとしたが、インターの手前で走り慣れた右ルートを進んだために茨木インターまで行くはめとなった。茨木からは国道171号線を京都に向かって走り、旧西国街道へ入って懐かしい風景を眺めた。
6年前に松尾芭蕉の足跡を訪ねて、旧中山道や旧東海道、そして旧西国街道を自転車で走って以来の訪問である。離宮八幡宮に車を停めて、JRの大山崎駅前にある妙喜庵を訪ねたが、玄関には「拝観謝絶」の知らせが表示されていた。1ヶ月前に往復はがきで申し込めば拝観が可能のようであるが、そこまでして見物したいとは思わない。
拝観謝絶には様々な問題があると推測するが、この寺が臨済宗東福寺派の末寺であることを考えると大本山の方針に違いない。東福寺の塔頭に龍吟庵があり、方丈の建物が国宝に指定されているが、これも非公開である。桂離宮や修学院離宮のような愚かな宮内庁の管轄であれば諦めも付くが、宗教法人が国宝を公開しないのは甚だ残念でならない。
妙喜庵は室町時代の連歌師・山崎宗鑑が隠棲した草庵が、後に春嶽禅師によって開山されたもので、国宝の書院はこの頃の建築とされる。豊臣秀吉が明智光秀を討った天王山の戦いの折、休息所に利用したとされる。その後も秀吉はしばしば妙喜庵を訪れ、同伴した千利休は茶室(待庵)を設えて秀吉を持て成した。
開山当時の本堂は、重文にもなっているが、境内への立ち入りが禁止されているので、本堂すら参拝できない。京都の寺院は拝観を禁止している寺院が多く、大徳寺龍光院の国宝書院も永遠に拝観が不可能のようである。その点、神社は立ち入り自由で拝観料も取らない。拝観謝絶の寺院は、宗教の本来の趣旨に反しているのであるが、それを改めようとしないのも考えものである。
車の停めてある離宮八幡宮を参拝して、大山崎を後にしたが、またまたハプニングは続く。大山崎インターに入ったものの、無常にも名神高速道路は京都方面に戻れない仕組みとなっていた。名神をそのまま大阪方面に行くか、京滋バイパスを経由して奈良方面に行かざる得ない。仕方なく久御山インターで高速を降り、再び国道171号線に戻って京都へと入った。そして、国道1号線に出ると、懐かしい風景が目の前に点在する。東寺の五重塔を久々に眺めたが、今日は21日の弘法市が開かれていて、炎天下にも関わらず大勢の客で賑わっていた。興正寺、西本願寺と過ぎると、清水寺の参道を横切り車内で見るのも楽しい。
「夢のよう 京都の街の その眺め 涼しい車で 見るも楽しき」 陀寂
111大笹原神社 本殿
訪問年: 平成25年7月21日(日)
所在地: 滋賀県野洲市
創建者・施主: 創建者不明、馬淵広定
建築年: 1414年(応永21年)
様式・規模: 単層向拝付入母屋造り桧皮葺・桁行3間×梁間3間
山科の毘沙門堂を訪ねた後、再び京都東インターに入り、竜王インターで降りて大笹原神社に向かった。インターの付近には、三井アウトレットパークの途轍もなく大きなショッピング施設があって、見たこともないほどの車が駐車していた。その渋滞を抜けて、国道8号線の出ると大笹原神社の案内板があって、難なく境内の駐車場に到着した。
大笹原神社は大篠原の村はずれにある小さな旧郷社で、平安中期の寛和2年(986年)の創建とされる。明治の神仏判然令が発布される前までは、牛頭天王社と称され、天王さんの名で親しまれていたそうだ。
どこの地方にもあるような神社であるが、国宝の本殿となれば希少価値は高い。境内に入ると、入母屋屋根に千鳥破風を加えた拝殿があり、その奥に本殿は600年の歳月を重ねて鎮座している。方3間の入母屋に1間の向拝を付けた本殿で、屋根は桧皮葺きの美しい曲線を描いていた。外観は花狭間の格子戸の上に透彫の欄間があり、四面の施された蟇股などは東山文化の技法を伝えている。
屋根の棟には、千木や堅魚木がなく神社建築の意匠ではなく、基礎の亀腹などは寺院建築でそのものである。内部も外陣、内陣、内々陣と分かれていて、密教仏堂の間取りである。本殿は3間四方ではあるけれど、1間の長さが通常よりも短く、建物の規模としては小さく感じるのが特徴でもある。本殿には21枚の棟札が残されていて、近江源氏の末裔で領主の馬淵広定によって応永21年(1414年)に再建されたことが判明している。この棟札も国宝に含まれていて、これも希少価値が高い。
本堂の左には、摂社の篠原神社本殿があるが、通称は「鏡の宮」と呼ばれる重要文化財の社殿である。1間社隅木入りの春日造りで、応永34年(1427年)の建築となっている。人の背丈よりもやや高い社殿ではあるが、優雅で精緻な造りとなっていて室町時代が目の前に凝縮しているようだ。篠原神社の祭神は、地主神の石凝姥命で餅の神様とされる。
境内には小さな寄倍の池があったが、水深が深いことから底なし沼とも呼ばれていると説明書きにあった。水草の生えた静寂な沼で、松尾芭蕉さんの「古池や 蛙飛こむ 水のおと」の名句が脳裏を過る。
大笹原神社本殿の拝観によって、滋賀県の国宝建築物はすべてめぐったことになるが、神社建築の国宝社殿が多かったことが印象に残る。大津の日吉大社、竹生島の都久夫須麻神社、竜王の苗村神社、大笹原神社と同じ野洲にある御上神社と、思い起こせば思い出深い。また、神社仏閣は四季折々に訪ねるのが理想的で、雪景色の本殿もさぞ美しいだろう。
112不動院(安国寺) 金堂
訪問年: 平成25年12月08日(日)
所在地: 広島県広島市
創建者・施主: 空窓(開基)、安国寺恵瓊(中興)
建築年: 1540年(天文9年)
様式・規模: 単層裳階付単層入母屋造り柿葺・桁行3間×梁間4間 261.7㎡
広島に仕事で来て8週目となった日曜日、兼ねてから訪ねたかった不動院を参詣して、三瀧寺と極楽寺に登拝することにした。不動院は最近になって広島市に開業したアストラムラインの駅に不動院の名があったので、場所の把握はしていたのでメキシコで世話になったS氏の愛車に乗って境内の駐車場に到着した。
駐車場脇の仁王門の前に、杮葺の重層にも見える金堂は屹立していた。大手ゼネコンが修繕工事に当っているようで、金堂の四面に味気ないフェンスがめぐらされていた。私が監督であれば、フェンスは広島の里山に無限に存在する竹を用いていたであろう。若手の文化財修復者の配慮が欠けているように思えて残念である。
金堂は天文9年(1540年)、法衣の戦国武将として知られる安国寺恵瓊によって再建されたようである。大内義隆が山口に建てた香積寺の仏殿を移築したとか、朝鮮から部材を持ち帰って建てたとか言われるようであるが、新築された金堂でないのは明らかのようだ。
金堂の外観は裳階の庇が屋根よりも広く、庇と屋根の反りが鋭角であるのが特徴的である。軒下の三手先は繊細な詰組となっていて、花頭窓や弓欄間が印象的だ。雄大な木造建築物が原爆の影響を受けずに残っていたのは感無量であり、当時の人々にとっては光明の一つであったのかも知れない。
細部を見てみると、外壁の意匠や詰組などは禅宗様式であり、大内氏が鎌倉時代の禅風の影響で最初に建立したことが推測できる。使用されている木材の年代を調べれば歴然とすることではあるが、天皇陵と同様に精査を嫌う人種がいるようだ。堂内は正面1間が吹放しとなっていて、内陣の鏡天井が前後に分かれていると聞くが、中に入れないのが残念である。天井に描かれた天女と龍の絵の銘に、天文9年と記されていることから現在の金堂の建築年とされているのはやはり釈然としない。
不動院には、金堂の他に重文の鐘楼と楼門があり、鐘楼は今回の工事で修復されたようで鮮やかな朱色の色彩を放っていた。楼門には一対の仁王像が安置されていて、仁王門と呼ぶのが相応しいようだが、真言宗では山門と称することが多いようである。
この寺の前身は、夢窓国師が提唱して、足利尊氏と直義の兄弟が諸国68ヶ所に建立した安国寺である。この時は臨済宗に属したようであるが、関ヶ原の合戦後に西軍の武将であった恵瓊が京都で処刑されると、新たに広島に入国した福島正則が現在の真言宗に改めさせたそうだ。それ以降は、金堂の不動明王に因んで不動院と称されるようになったと聞く。
「清風は名月を払い 名月は清風を払う」 恵瓊の辞世句
113向上寺 三重塔
訪問年: 平成25年12月15日(日)
所在地: 広島県尾道市
創建者・施主: 愚中周及(開山)、生口信元・信昌(檀家)、藤原朝臣泰門太夫友氏(棟梁)
建築年: 1432年(永享4年)
様式・規模: 三重塔婆本瓦葺・高さ19.5m 一辺4.0m
今回はしまなみ海道の島めぐりをしようと、尾道から大三島に渡り、大山祇神社を参拝してから向上寺のある生口島にやって来た。生口島には、西の日光と称された耕三寺があり、全国の著名な国宝級寺社を模した耕三寺の建物は、金持ちの悪趣味にも思えたが、建立から70年近い歳月を経ると立派な建造物群だと賞賛して見て回った。
向上寺のある瀬戸田は、日本画家の平山郁夫氏の育った町で、耕三寺の隣地には平山郁夫美術館が建っている。古民家が数棟残る瀬戸田の通りから向上寺へ向かう参道があったが、向上寺まで足を運ぶ参拝客や観光客は殆どいない。
向上寺の創建は応永7年(1400年)、生口島の地頭であった生口惟平・守平親子が一宇を建立したこと始まる。そして、三原の臨済宗仏通寺を開基した大通禅師(愚中周及)によって中国江蘇省の金山寺を模した伽藍の造営が行われたと聞く。平山郁夫氏の画にも描かれた国宝・三重塔は、この時の遺産である。向上寺は江戸時代に入って寺領を没収されて衰退するが、曹洞宗に改宗して再建されたのが現在の向上寺である。
三重塔は潮音山の直下に建ち、今も朱色の鮮やかな色彩が放っていた。この塔は、永享4年(1432年)に生口氏の一族である信元・信昌によって建立されたそうだ。三重塔としては高さが約19メートルと小ぶりであるが、高台に建っているので対岸の高根島から眺めると随分と大きく見える。平山氏もこの塔を描いており、島民にとっては島の象徴的な塔であったと推察できる。
初層の様式は、大通禅師がもたらした禅様式となっており、軒下には扇垂木、連子窓の代わりに花頭窓を配している。二層目の花頭窓が連子窓を挟んだ間に配置されているのも特異な例で、城の天守閣高層に見られる例はこの塔の影響なのだろうか。軒の三手先組物からはみ出した尾垂木の木鼻には、植物の葉が彫刻され、鮮やかな彩色が施されている。宮島の厳島神社五重塔や尾道の天寧寺三重塔も類似した折衷式の塔建築で、瀬戸内海沿岸に分布した特異なものと言える。
生口島の中心部である瀬戸田は、村上水軍の発祥地であるが、その拠点が因島に移されたのは、この生口島の文化財を守りたいと言う意識があったではないかと邪推する。島が抱えられる人口は限られていて、その経済活動や生産力にも制限がある。ミカン栽培で財を成した島民が戦後の瀬戸内海にいたが、それとは逆に室町時代に向上寺の伽藍を建立した財力は、海賊活動によって得たものであることが通説のようだ。
「不可解な 三重塔の 美しさ 何を糧とし 島は有りしと」 陀寂
114功山寺 仏殿
訪問年: 平成26年01月03日(金)
所在地: 山口県下関市
創建者・施主: 虚庵玄寂(開基)、大内氏
建築年: 1320年(元応2年)
様式・規模: 一重裳階付単層入母屋造り桧皮葺・桁行3間×梁間3間 165.2㎡
正月休みは、広島を拠点に東奔西走する日々となり、今日は下関へと車を走らせた。巌流島や赤間神宮、火の山などの名所史跡をめぐって、長府の功山寺を参詣した。国宝・功山寺仏殿を拝見するのが、参詣の目的である。
功山寺は『古寺古刹大辞典』によると、嘉暦2年(1327年)に臨済僧・虚庵寂空が開創した記されているが、仏殿の建立はそれよりも古く、長福寺と号した鎌倉末期の遺構と思われる。室町時代に入ると足利将軍家や守護職・大内氏の庇護を得て寺運も盛んとなったようだ。しかし、毛利元就に攻められた大内義長が敗走して仏殿で自刃するという末路を迎えると、功山寺は衰退して行く。その際、火を放たれなかったことが幸いであり、江戸時代になると領主・毛利氏の庇護を受け、曹洞宗に転じて再興が成されたようだ。
仏殿は方3間に裳階を付けた一重入母屋造り桧皮葺きで、純粋な禅様式の意匠となっている。仏殿の国宝建築としては、鎌倉の円覚寺舎利殿や東京の正福寺地蔵堂、広島の不動院金堂と同様の外観である。木鼻や拳鼻などの細部は、他の2棟と異なっているが、室町時代に改修されたと言う意見もある。
それにしても、桧皮葺きの屋根の曲線美は、禅宗式仏殿の特徴であることは共通している。柱の上下とも急に細くなる粽があったり、軒下の柱間の組物も結組であったり、垂木も放射状に配置された扇垂木であることなど。また、一般的な花頭窓よりも縦長の花頭窓を設えていることなど、禅宗様式を凝縮した意匠が感じられる。
仏殿の参詣を終えて諸堂を写真に収めてから、仏殿で自刃をした大内義長の墓所の前で、その不運を感慨した。境内には、幕末の長州藩で活躍した高杉晋作の馬上像が立っていた。高杉晋作は奇兵隊を創設して、この功山寺で幕府打倒の号令を発した。その故事に因んで立てられた像と想像する。
防府には、高杉晋作を顕彰するために高杉晋作記念館があるようであるが、正月三日は休館の場合が多いので行くまでもないと思った。高杉晋作は過激な志士というイメージがあるが、平安末期の歌僧・西行法師を尊敬するという一面もあって、東行と号して和歌も詠んでいる。「西へ行く 人を慕いて 東行く わが心をば 神や知るらむ」 晋作
境内には山口県の重要文化財の山門もあったが、改修中のために立入りができなかった。他に目に付いたものは、洋風石造2階建ての下関市立長府博物館で、80年前に「長門攘夷堂」として建てられたそうだ。いかにも長州らしい命名に、親會津派の私としては重苦しい建物に見え、『八重の桜』の悲劇が脳裏を過る。
115住吉神社 本殿
訪問年: 平成26年01月03日(金)
所在地: 山口県下関市
創建者・施主: 創建者不明、大内弘世
建築年: 1367年(正平22年)
様式・規模: 千鳥破風付9間社流造り桧皮葺・桁行22.8m×梁間4.6m 184.88㎡
下関での最後の訪問は、長門国の一宮・住吉神社であった。こつこつと30年間、参拝して来た諸国68ヶ所一宮めぐりの旅も、この住吉神社で54社となって来た。それに今回は、国宝建築の旅が115回目を迎えるというオマケ付きである。
初詣で賑わう境内に入ると、参道の途中に形ばかりの太鼓橋があり、石段を上った先に鮮やかな朱色の楼門が聳えていた。その先にある拝殿は、毛利元就が寄進した重要文化財で、桁行3間、梁間1間の妻入り桧皮葺きの縦長の拝殿である。これは本殿に対してバランスを考慮した間取りであろうが、朱色の拝殿には勝者の美意識が感じられる。
国宝・本殿は、周防・長門2国の守護であった大内義弘の遺言によって子の弘世が正平22年(1367年)に造営したものである。九間社流造りという長大な建築で、とても珍しい社殿となっている。1間社を5個つなぎ、相の間をもって一連の建物をしたもので、桧皮葺きの千鳥破風が整然と並ぶ流造りの姿は建築美の極致のようだ。本殿は桧皮葺き塀で囲まれているため、屋根以外の細部は良く見えない。平積みの自然石の上に本殿があったと、事前の知識で知っていたが、初詣の参拝客の姿に写真に撮ることができなかったのが残念である。5社の内部には、三手先組物を組んだ厨子の玉殿があり、板壁には彩色された絵が施されているそうだ。神社建築で厨子が存在することは珍しく、とても貴重な本殿と言える。
住吉神社の創建は、神功皇后が朝鮮出兵の後に住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)の斎き祀った伝えられる。その三神は第一殿に、第二殿は応神天皇、第三殿は武内宿彌命、第四神は神功皇后、第五殿は建御名方命を祀っているのが現在の祭神のようだ。その祭神は、時代によって変わったようで、生産神も祀られていた社殿は権力者によって変遷を繰り返したのである。住吉神社が一宮となったのも大内氏の庇護によるものであろう。
長門の国は複雑な歴史を繰り返しており、行政府は長府・長門・萩の3つに分かれて来た。奈良時代の国府で国分寺が建てられた長府が最初の国都のようだ。鎌倉時代に大内氏によって長門に国都が移され、江戸時代には毛利氏が萩に移している。現在の県庁所在地が山口市となり、大内氏の時代に戻ったことに複雑な感慨が湧いてくる。
本殿の参拝を終えて拝殿を再び見上げたが、広島に来て随分と毛利元就の遺構とめぐりあったものである。中国を統一した毛利元就と、四国を統一した長曽我部元親を私は良く比較する。四国巡礼をした折、元親によって焼失した寺社を数多見てきたが、元就は有名な厳島合戦においても神社を兵火から守った。その違いを元就の和歌からも感じられる。
「友を得て 猶ぞうれしき 桜花 昨日にかはる けふの色かは」 毛利元就
116神魂神社 本殿
訪問年: 平成26年06月29日(日)
所在地: 島根県松江市
創建者・施主: 創建者・施主不明
建築年: 1346年(正平元年)、1583年(天正11年)
様式・規模: 大社造り栩葺
出雲路1泊2日の旅は、念願の海潮温泉海潮荘に泊まって「秘湯を守る会」の会員旅館への宿泊も40泊目となった。私の旅に温泉は欠かせない存在であり、若い頃にユースホステルに泊まってスタンプを集めることに夢中になっていた。しかし、60歳を超えた現在は、「秘湯を守る会」のスタンプを集めることに夢中になっている。
神魂神社の本殿参拝は、約半年ぶりの「国宝建築の旅」となった。昨日は安来の清水寺を訪ねて重要文化財の根本堂を見物した後だけに、神魂神社の小さな本殿の外観にあまり感動を覚えることはなかった。大社造りの社殿では日本最古と言われ、本殿が高床式となっている意匠は出雲地方に限定された様式であり、希少価値は否定できない。明神造りと同様に弥生時代の建築様式を伝承しており、どことなく古来の懐かしさを覚える。
現在の屋根は、切妻の栩葺きとなつているが、従来は茅葺きであったと思われるが、社殿の品格を高めるために葺き替えられたようだ。本殿の内部には、壁画が描かれているようだが、内部の立入れがてぎないため、社務所で求めた絵葉書を見るだけでも満足を覚える。桃山時代の狩野山楽の作とされる「老松と鶴」の絵は、力強い自然描写である。
この神社の祭神は、伊弉冊大神(須佐男命)と伊弉諾大神(櫛名田比売)の夫婦で、この地に大庭大宮を造営して暮らしたようである。今朝訪ねた海潮の須我神社が初宮とされ、この後に移り住んだようである。初宮(須賀宮)で詠んだとされる「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」は日本の最初の和歌としも有名である。妻の暮らす家の回りに、外敵から守るため幾重もの垣根をめぐらしたことを示している。本殿の建物は、神話の神々が暮らした住居そのものにも見えてくる。
神社の栞には、本殿の建築が室町初期の正平元年(1346年)とされているが、最近の調査では桃山時代の天正11年(1583年)再建と認められている。出雲大社は約60年ごとに遷宮をする習わしがあるので、この神社も遷宮を行ったと考えると、正平元年から240年後に4度目遷宮が成されたことになる。鎌倉初期に神社の存在が認められているので、創建は平安末期と考えるのが妥当であろう。本殿の左手には、2間流造り貴布彌稲荷両神社本殿が建っているが、この末社は重要文化財の指定を受けている。神社の栞には室町時代の建築と書かれているが、本殿と同一視すると桃山時代の建築とするのが正しい。
神魂神社の近隣には、様々な古墳が点在し、出雲の国府跡や出雲国分寺跡が保存され、出雲国造館跡の推定地とされる場所もあるる。中でも島根県立八雲立つ風土記の丘には、学習展示館があり、古代都市出雲の様子が手に取るように理解できる。
117大宝寺 本堂
訪問年: 平成26年09月14日(日)
所在地: 愛媛県松山市
創建者・施主: 越智玉興(開基)、施主不明
建築年: 1274年(文永11年)
様式・規模: 単層寄棟造り本瓦葺・桁行3間×梁間4間 80.3㎡
広島に松山城を訪ねたことがあったが、大宝寺まで至ることができなかった。松山は今度の訪問で4度目となるけれど、渋滞が緩和されないのは以前と変わりない。石鎚山の登山を終え、最期の気力を絞り出して大宝寺の小さな駐車場に車を停めた。四国八十八ヶ所の霊場でもない大宝寺に注目する観光客は少ない。寺の背後が新しい墓地となっているのは、国宝が鎮座する場所に相応しい景観ではなく、観光客が敬遠する気持ちも理解できる。
寺伝によると、寺の開基は奈良時代の大宝元年(701年)に伊予の国主であった越智玉興が建立したとされる。年号を寺号としている例は多く、天台宗の延暦寺や寛永寺、臨済宗の建仁寺や建長寺など馴染みの深い寺が知られる。
国宝の本堂は、鎌倉時代の建築で愛媛県内では最古の木造建築と言われる。正面の桁行が3間、奥行きの梁間が4間とあるが、ほぼ正方形の寄棟造りである。柱の間隔が正面と奥行きが異なっているので、惑わされてしまいそうだ。柱は円柱で、軒の組物は四隅だけが舟肘木となった簡素ものだ。正面3間は蔀戸を吊るし、左右と背面の1間に板戸が入っていて、それ以外は白壁である。平安時代末期の阿弥陀堂建築の様式であり、他の国宝の阿弥陀堂建築と共通点も多い。
堂内の厨子1基も国宝に付属するが、拝観できないのが残念である。室町時代の建築で、軒唐破風付の柿葺きの屋根を持つ立派なものだと言う。『古寺名刹大辞典』によると、厨子に安置されている本尊は薬師如来坐像で、釈迦如来と阿弥陀如来を脇侍とする珍しい配置で、いずれも国の重要文化財と聞く。しかし、建物の様式から薬師如来坐像は阿弥陀如来であり、脇侍は観音菩薩と勢至菩薩の阿弥陀三尊が通例と思うが不可解な仏像である。
本堂の手前にうば桜の老木があり、満開の頃の本堂の美しさが目に浮かぶようだ。この桜には、角木長者伝説というものがあって、子宝に恵まれなった長者が薬師如来に祈りを捧げたところ娘が生まれたそうだ。その乳母の乳の出が悪くなり、再び祈ると乳の出が良くなった。その娘が15歳の時に重病となり、乳母は自分の命と引き替えに娘を助けて欲しいと薬師如来に願った。すると娘の病気は平癒し、乳母は薬師様への御礼に桜の木を植えて欲しいと長者に言い残し息を引き取ったと言う。今もうば桜は、母乳のような色の花を咲かせるそうだが、松山城の桜見物の折にでも再び訪ねたいものである。
境内には本堂とうば桜以外に目を引く建物や景観がなく、また句碑や歌碑も無かったのが残念であったが、駐車場正面に建つ法隆寺の夢殿を模した堂宇は印象に残る。
「国宝の 建築物を 夢に見て 子供の頃は 模型を作り」 陀寂
118神谷神社 本殿
訪問年: 平成26年09月21日(日)
所在地: 香川県坂出市
創建者・施主: 阿刀大足(創建)、施主不明
建築年: 1219年(承久元年)
様式・規模: 3間社流造り桧皮葺
「四国八十八ヶ所霊場」の自転車旅行の際、神谷神社の前を通過しただけで、立ち寄れなかったことが脳裏を過る。五台山に上ることが関門であったので、気持ちはそこに集中して国宝建築を見やってしまった。あれから4年半の月日が流れ、飯野山(讃岐富士)に登拝した後に訪ねる機会を得て、あこがれ人に会うような気分で参拝した。
集落の細い道路を行くと、奥まった場所に小さな神社があった。3台ほど駐車できる参拝
客専用の駐車場があったので車を停めた。流造りの本殿は、拝殿と連結した塀に囲まれて細部はよく見えないが、桧皮の屋根だけは塀越しに浮き立って見える。
この神社は弘法大師空海の叔父の阿刀大足によって弘仁3年(812年)に創建されたと無人の社務所にあった栞に書かれていた。弘仁3年は弘法大師が京の都で真言密教を布教して、飛ぶ鳥を落とす勢いの時期であり、叔父は都を去って郷里に戻っていた頃と思われる。
国宝に指定されている社殿の中には、人が数人しか入れそうにない小さな社殿もあるが、この神社の本殿もその例に入りそうな規模である。その本殿の間近まで入れないのが二重苦となって写る。写真は塀の外から撮ったものの、本殿の基壇の石垣までは捉えることが出来なかった。信仰の対象である以上、旅人の踏み入れない空間も必要とも思う。
桧皮葺きの屋根の反りが美しく、木段の端まで向拝を1間広げた屋根は参拝者に配慮した造りとなっている。柱の本数を数えてみると、桁行3間、梁間2間の3間社で、神明造りを基本としているようだ。基壇の上の縁には可愛らしい跳高欄が巡らせてあり、我家の神棚を彷彿とさせる。神仏混合が私の基本理念であり、神は自然崇拝、仏は心の崇拝と思っているので、死者のいない我家でも弘法大師を祀った小さな仏壇がある。
参拝客は殆どなく、私の後に車を停めた高年の夫婦と思しきペアが私の去る直前に消えて行っただけである。四国路の古寺古社巡礼は、八十八ヶ所霊場ばかりが注目されて弘法大師と所縁のある古社までは訪ねないようだ。ガイドブックの不手際もあるだろうが、国宝建築物を有する大宝寺や神谷神社も紹介して欲しいものである。この四国には、国宝建築物が6棟だけであり、その存在価値は自ずと理解できよう。
この社殿にも大宝寺と同様に、著名な文人墨客が訪ねた形跡がなく、旅人の足跡を記すものがない。西行法師にしても芭蕉翁にしても、故人の足跡を踏むことが旅への憧れであって、憧れの対象のない名跡は不憫に思われる。北小路欣也が主演の「空海」という映画の中で、森繁久弥が演じた阿刀大足の姿が目の前に浮かぶようだ。
「空と海 山も愛した 大大師 飛行機雲を 何と見るらん」 陀寂
119豊楽寺 薬師堂
訪問年: 平成26年10月30日(木)
所在地: 高知県大豊町
創建者・施主: 行基(開基)、聖武天皇(発願)、施主不明
建築年: 1151年(仁平元年)
様式・規模: 単層入母屋造り柿葺・桁行5間×梁間5間 127.2㎡
四国で唯一残った国宝建築が豊楽寺であり、祖谷のかずら橋の見物を終えて豊楽寺に立ち寄ることにした。国道32号線から4・5キロ山道を入った先に豊楽寺の境内があった。寺伝よると、奈良時代の神亀元年(724年)に行基菩薩によって開創されたそうで、現在は真言宗智山派に属する古刹のようだ。
讃岐と土佐を結ぶ奈良街道に建立されたそうで、山の斜面を開削したため、鳥居を備えた石段の上の平坦地に薬師堂は建っていた。四国地方では最古の木造建造物で、昭和27年(1952年)国宝に指定された。単層入母屋造り柿葺きで、五間四方の中規模の堂宇である。屋根は緩やかな勾配の反りかえしで、垂木は間隔の広い疎垂木で組物は舟肘木と簡素なものである。壁は横羽目板張りを長押によって柱と接合してある。典型的な平安時代の和様式の寺院建築であるが、江戸時代に台風の被害を受け、大幅な改修が施されている。
蟇股を乗せた向拝は、江戸時代初期の寛永14年(1637年)に付け足されたもので、安土桃山文化の建築意匠が反映されている。薬師堂前の案内所は閉鎖されて月日が経つようで、堂内の拝観はできず外観のみの見学となったのは残念である。予め電話で拝観を申し込むと堂内の見学ができたようであるが、予約してまで見る価値があるかどうかは、その日の気分で東西奔放する一介の旅人にはできない話である。
内陣の須弥壇には、重要文化財の薬師如来像・釈迦如来像・阿弥陀如来像の三尊が安置されているようだ。特に薬師如来は柴折薬師と呼ばれ、愛知県鳳来寺の峰薬師、福島県常福寺の嶽薬師と並び「日本三大薬師」とされているようだ。しかし、「日本三大薬師」には諸説があって、15ヶ寺がほどが自称他薦している。
四国の寺院の多くは、戦国時代末期に四国を統一した長宗我部元親が戦略のために四国一円の寺社を焼き打ちにしている。その影響で、四国に戦国時代以前の仏閣が残存していないのが実状である。幸いにして、自国であった土佐の豊楽寺薬師堂が残されたのは、元親だけが知り得る遠慮があったと推察する。
参拝客の殆どいない柴薬師様は可哀そうな気がするが、これは寺側の努力不足と国道からのアクセスの悪さが現在の信仰心を阻んでいるようだ。そんな薬師堂の背後には、若一王子宮の社殿が建っていて、風変りな寄棟造りが薬師堂と一線を画するように見える。参道の鳥居は、この神社のために建てられたものと推察すると、鎌倉時代から鎮座す薬師堂は、国宝の指定を受けただけに、信仰心が遠ざかっているような気がしてならない。
「四国路や 八十八ヶ所に 陽は当たり 線香もない 古刹もありき」 陀寂
120浄土寺 阿弥陀堂
訪問年: 平成27年05月17日(日)
所在地: 兵庫県小野市
創建者・施主: 重源(開基)、施主不明
建築年: 1194年(建久5年)
様式・規模: 朱塗り単層宝形造り本瓦葺・桁行3間×梁間3間 330.5㎡
広島に再赴任することになり、名古屋港からフェリーを降りて広島に向かった。何処かで途中下車してまだ見ぬ名所を訪ねたいと思った所、浄土寺の阿弥陀堂が脳裏に浮かんだ。中国自動車道からも近く三木小野インターで一般道に入って境内の駐車場に車を停めた。
この寺は行基菩薩が開創し、鎌倉初期に東大寺大仏殿を再建した重源上人が中興した古刹である。国宝阿弥陀堂は、上人が宋で学んだ天竺様式(大仏様式)の新技法をもって諸堂を再建した際に建築されたものである。この天竺様式は希少で、同じく国宝の東大寺南大門が残るだけである。
宝形造り本瓦葺にしては大きな堂宇で、天井がない化粧屋根裏となっている。柱はエンタシスとなっていて、何本もの挿肘木が突き出ている。挿肘木を結ぶ虹梁は迫力に富み、木鼻の彫刻も美しい。天竺様式の特徴としては、エンタシスの柱の他に斗の下に皿を付けたり、垂木の配り方で四隅だけが扇垂木としていることである。垂木鼻に鼻隠板を打ち付けているのも面白い。何よりも驚くことは、昭和32年の解体修理までの間、約770年間も修復がされず、風雪に耐えたことである。昭和の修復から60年近く経つけれど、現在も鮮やかな朱色を放ち、当時の様子を今に伝えている。
堂内には阿弥陀三尊が創建時のまま安置されて、これも見事な国宝指定の仏像である。阿弥陀如来立像は高さ5.3メートルあり、脇侍の観音・勢至の両菩薩立像も高さ3.7メートルもある。鎌倉初期の仏師・快慶の作とされ、現在も黄金の輝きを失っていない。三尊の背後の透かし蔀戸からさし込む西日が、西方極楽浄土よりの来迎の姿とされているそうだ。仏像と堂宇が創建当時と一体となっている様子を見ていると、重源上人があらわて来ても不思議ではない雰囲気を感じる。この寺は高野山真言宗に属することに親近感を覚え、四国八十八ヶ所霊場で唱えた真言宗のお経をあげた。参拝客の殆どがカメラ片手の観光目的であり、私のお経を胡散臭いと思っているようで、四国霊場とは勝手が違うようだ。
阿弥陀堂の他にも本堂でもある薬師堂が重要文化財となっていて、これも宝形造りの大きな堂宇である。薬師堂の背後の森は、四国八十八ヶ所霊場のうつしがあり、一巡して開山堂まで戻った。境内には八幡神社の社殿もあり、神仏混合の時代を懐かしむ者にとっては嬉しく思う景観でもある。また、境外には歓喜院と宝持院の塔頭もあって、中規模寺院の風格を感じる。この寺を創建した重源上人は、東大寺浄土堂で86歳の生涯を閉じるのであるが、周防の阿弥陀寺も開基しており、その業績は多大であったとされる。
「重源の 阿弥陀信仰 五月晴れ」 陀寂
121太山寺 本堂
訪問年: 平成27年07月18日(土)
所在地: 兵庫県神戸市
創建者・施主: 藤原宇合(開基)、施主不明
建築年: 1293~1299年(永仁年間)
様式・規模: 朱塗り単層入母屋造り銅板葺・桁行7間×梁間6間 369.8㎡
広島の仕事も終え、秋田に戻る途中に神戸の友人宅に1泊することになり、太山寺と大龍寺を訪ねることにした。仁王門を入り駐車場に車を停め、中門を潜り境内へと入った。仁王門は重層の楼門であったようであるが、単層に改修されても重要文化財に指定されている。太山寺は藤原鎌足の孫・藤原宇合が716年(霊亀2年)に七堂伽藍を建立したとされる。現在も七堂伽藍が整っていて、播磨における天台宗の古刹としての存在感は健在のようだ。
本堂は正面20.82メートル、側面17.76メートルもある入母屋造りの大きな建物である。屋根は青緑が鮮やかな銅板葺きとなっているが、以前は桧皮葺きのようであったと聞く。緩やかな傾斜地に建っているため、幅広の長い石段が特徴的で、柱を支える亀腹も手前と奥では高さが異なっている。背後を除く三方には、高欄を付けた濡れ縁がめぐらされていて、朱色の色彩も鮮やかである。
外周の柱の間には、板戸や蔀戸、格子戸が嵌められ、全く壁のない構造となっている。軒下の組物は出三斗で、中備は間斗束が入れらてあり、二重に重なった垂木が色鮮やかで美しい。頭貫が通された木鼻は、禅様式の繰型彫刻が施され、宋から伝来された新技法でもある。鎌倉初期の新しい時代に相応しい堂宇であり、極めて重要な遺構と思える。
石段を上ると、中央の板戸が開かれていて、内部を拝観することができた。内陣と外陣は、格子戸と菱欄間によって仕切られた密教様式である。外陣の天井は、格子状の折上げ天井となっていて、ここも朱色で統一されている。内陣には薬師如来立像が安置されているようであるが、近寄って拝観できないので格子戸から合掌した。
本堂の周りには、阿弥陀堂や三重塔が大きな堂宇が建ち、羅漢堂と釈迦堂が並び建っている。本堂以外は江戸時代の再建であるが、七堂伽藍は眺めて飽きない寺観である。太山寺川の閼伽井橋を渡ると奥ノ院となっていて、不動明王が刻まれた磨崖仏があった。また、境外には5ヶ所ほど支院(塔頭)が残っている。安養院には茅葺きの書院があり、中に名勝指定の枯山水庭園があると聞く。今回は庭園を拝観できないのが残念であるが、公開される時期をねらって再び訪ねたいものである。塀越しに茅葺きの堂宇が見える龍象院もあって、四季折々の風情に重ねて憧れる。
太山寺を創建した藤原宇合は、和歌にも秀ていて『万葉集』に何首か残されている。「我が夫子を、何時ぞ、今かと、待つなへに、面やは見えむ。秋の風吹く」もその一首である。この寺で妻を待ちながら詠んだものではないかと想像するが、秋風の吹く様子を妻が来る前兆ととらえたのであろう。
122歓喜院(妻沼聖天山) 聖天堂(御本殿)
訪問年: 平成28年03月10日(木)
所在地: 埼玉県熊谷市
創建者・施主: 斎藤実盛(開基)、海算(中興)、林正清(棟梁)
建築年: 奥殿1744年(延享元年)・中殿1760年(宝暦10年)・拝殿1756年(宝暦6年)
様式・規模: [奥殿]向拝付単層入母屋造り銅板葺・桁行3間×梁間3間 34㎡、[中殿]単層両下造り銅板葺・桁行1間×梁間1間 27㎡、[拝殿]向拝付単層入母屋造り銅板葺・桁行5間×梁間3間 127㎡
未だに訪ねていない国宝建築は、非公開を除くと12ヶ所と減ってはいるものの、いずれも秋田からは遠く離れている。最も近いのが埼玉県熊谷市の妻沼聖天山で知られる歓喜院聖天堂で、今回はスキー旅行で群馬に行くので立ち寄ることにした。群馬県の法師温泉から一路、熊谷に向かい星渓園を見物してから歓喜院の境内に車を停めた。
地元では有名な聖天堂のようで、参道には食べ物屋が点在していた。おそらく国宝建築でなければ訪ねることも無かったと思うが、拝観料700円を支払って聖天堂の透塀内に入り驚きの一言に尽きた。奥殿、中殿(相ノ間)、拝殿からなる廟型式の権現造りで、奥殿は八棟造りである。奥殿外周部にびっしりと彫られた彫刻は、日光の陽明門を凌ぐと言っても過言ではない。日光の東照宮は徳川将軍家の威信を賭けた建築であるが、聖天堂は庶民や農民の浄財によって44年間の歳月で建てられたと言うからその違いは大きい。
平成15年から平成23年まで8年間を保存修理工事が行われ、荘厳な聖天堂が蘇ったのである。そして、国の重要文化財でもなかった建物が平成24年に国宝に指定されたのである。彫刻は唐や天竺的な描写が多く、仏教における聖天があまなく描かれている。中にはユニークなものがあり、行司を交えて小僧が相撲をとっている様子、吉祥天と弁財天の双六で勝負している状況、布袋と胡が囲碁を打っている姿などは活き活きとした描写である。
神社建築には絢爛豪華な社殿は多いが、寺院建築では殆ど見ることはない。中尊寺金色堂は堂内や内陣の豪華さであり、外観を装飾している訳ではない。この聖天堂の彫刻や装飾は、銅板葺き屋根以外の外観を埋め尽くしている。建物の域を超えた芸術作品の見るような驚くべき建築物である。この聖天堂が日暮堂と呼ばれるのも遠い話ではないだろう。
この寺の総門でもある貴惣門は、国の重要文化財でその意匠が奇抜である。正面から見ると重層の楼門のように見えるが、側面から見ると下層の破風がMの字形に並列している。私の記憶には、このような変則的な門を見たことがなく、江戸末期にも卓越した技法があったことを偲ばせる。他に昭和中期に建てられた平和の塔があったが、これは真言宗の寺院に多く見られる多宝塔である。社殿のような本堂(聖天堂)
ではあるが、歓喜院は高野山真言宗に属する寺院であり、『平家物語』でも知られる斎藤実盛が治承3年(1179年)に開創した。その実盛は加賀篠原の戦いで非業の死を遂げるが、後に訪ねた松尾芭蕉は「むざんやな 甲の下の きりぎり」と詠み名将を追悼している。
123正福寺 千躰地蔵堂
訪問年: 平成28年04月23日(土)
所在地: 東京都東村山市
創建者・施主: 北条時頼(開基)、施主不明
建築年: 1407年(応永14年)
様式・規模: 単層裳階付入母屋造り杮・銅板葺・桁行3間×梁間3間 72.4㎡
栃木県鹿沼市に仕事で赴任して4週目の休日を迎え、東京で友人と再会することになった。その時に訪ねたみたい旧跡名所で真っ先に浮かんだのが正福寺の国宝・千躰地蔵堂であった。今回の上京は新幹線を利用することを考えていたので、宇都宮から上野まで行って上野から池袋で西武線に乗り換え東村山に到着した。
正福寺は閑静な住宅地に建っていて、小さな山門を潜った先に千躰地蔵堂はあった。見覚えのある外観で、鎌倉円覚寺の舎利殿と酷使している。舎利殿は鎌倉中期の1285年(弘安8年)に北条時宗によって建立されたが、地蔵堂は室町時代の建立であり時代的には合致しない。正福寺は鎌倉時代の時宗の父・北条時頼が、建長寺の石渓心月を開山として開基したとされる。それが史実だとすれば、地蔵堂は室町時代の再建とも考えられる。
地蔵堂は舎利殿よりもやや面積が大きく、樹木や他の伽藍に遮られることもなく聳えている。堂より小さな背丈のハナミズキの花が咲いて、春の訪れを知らせているようだ。山高帽市のような重厚な杮葺きの屋根が禅様式建築の異様を放ち、花頭窓や弓欄間も中国的である。軒裏の組物も独特で、象の鼻のように伸びた扇垂木がとても精緻な造りとなっているのが印象的だ。大屋根の下の裳階の庇が銅板葺きで、独特のインパクトを外観に与えているように見える。
堂内には千躰地蔵の名のように、おびただしい数の地蔵尊が安置されているようであるが、一般公開していないのが残念である。円覚寺舎利殿の内部と同じで、柱は上下が丸くすぼんだ粽柱のようであるが、実際に見てみないと把握できないものである。寺の雰囲気も観光寺院とは一線を画しているようで、朱印も受け付けていなようだ。本堂を参拝したが賽銭箱もなく、檀家以外は相手にしない様子が伺える。
今回の旅行のために購入したライトマップルの「東京都道路地図」には、有名な神社仏閣は赤字で大きく記されているが、この正福寺は虫眼鏡で見なければならないほど大きさであった。都内では旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)と並ぶ唯一の国宝建築物であるけれども、意図的に宣伝を抑制している風にも感じられる。寺院の場合は住職の考え次第で国宝建築をピーアールできると思うのであるが、何とも言えない心境で境内をあとにした。
正福寺からは武蔵国分寺跡を訪ねるために、西武国分寺線に乗って国分寺駅へと向かった。国宝建築以外にも、全国に68ヶ所ある国分寺跡も訪ねてみたいと思っているし、諸国一宮の参拝も成し遂げなくてはならい。
「武蔵野の 国宝と史跡 訪ね行く 桜散りても 春盛りなり」 陀寂
124青井阿蘇神社 本殿・廊・弊殿・拝殿・楼門
訪問年: 平成29年03月19日(日)
所在地: 熊本県人吉市
創建者・施主: 尾方惟基(創建)、相良長毎
建築年: 本殿・廊・弊殿・拝殿1610年(慶長15年)・楼門1613年(18年)
様式・規模: [本殿]3間社流造り銅板葺、[廊]単層切妻造り銅板葺・桁行1間×梁間1間、[弊殿]単層寄棟造り茅葺・桁行5間×梁間3間、[拝殿]向拝付単層寄棟造り銅板・茅葺・桁行7間×梁間3間、[楼門]寄棟造り茅葺・3間1戸楼門
青井阿蘇神社のある人吉市には昨年の秋、「日本三百名山」の市房山の登山後、「日本100名城」の人吉城跡と五木寛之氏の「百寺巡礼」に選ばれた真宗人吉別院を何とか訪ねた。現在住んでいる松山に帰ってから青井阿蘇神社の国宝建築を見ていないことに気がついた。青井阿蘇神社の社殿が最近、重要文化財から国宝に昇格したことを知らなかったことが原因であり、「日本三大急流」の球磨川下りも体験したかったので再び人吉市を訪ねた。
連休の中日とあって、境内の駐車場は満車で交通に支障のない路傍に車を停めて境内に向かった。参道には数軒の屋台が店を出していて、食欲をそそる香りが境内に漂う。神社の創建は平安初期の大同2年(806年)とされ、健磐龍命・阿蘇都媛命・国造速甕玉命の三柱を祀っている。馴染みない神々であるけれど、阿蘇山にある阿蘇神社の祭神が健磐龍命あるので、その末社として創建されたようだ。
国宝の社殿は境内の中央に本殿・廓・幣殿・拝殿・楼門が一直線に配置されている。大きな特徴としては、銅板葺の本殿以外は茅葺の社殿であり、神社建築では珍しいと言える。本殿は3間社流造りで、御扉には密教の輪宝金具が使用され神仏習合の歴史を反映している。御扉両脇の蔀戸には亀甲模様が施され、鷹の羽などの彫刻も原色が損なわれているが確認できる。絢爛豪華な桃山様式が、この九州の地にも伝わっていたことが推察される。
本殿と寄棟造の幣殿との間には小さな切妻造の廊下があり、柱には龍の彫刻あるようであるが外からは見えない。幣殿は本殿に桁方向が向いているが、拝殿は桁方向が横に向いている。幣殿にも豪華な彫刻が施されているが、良く見えないのが残念である。こんな時には双眼鏡を持参するべきであり、車に置いてある双眼鏡を活用しない事が悔やまれた。
拝殿の特徴は、茅葺の寄棟造の正面に唐破風の向拝を設けていることであり、屋根も茅葺であれば絶賛するところであるが、銅板葺であったのに不満が残る。茅葺で曲線の多い唐破風を葺くのは難しい訳ではないと思うが、後に銅板葺に改修されたと想像する。
再び楼門を眺めて見ると、茅葺の屋根の上に三本の千木が設置されていることである。重層だけは弥生時代の建物のように見えなくもない。高さが12メートルに及ぶ禅様式と桃山様式が融合した楼門であると、案内所には書いてある。楼門の寺社建築としては、類まれな建築であり、日光の日暮門とは対照的な楼門の美観を感じる。
「九州の 国宝建築 訪ね終え 一つ消し去る この世の未練」 陀寂
125善福院 釈迦堂
訪問年: 平成29年06月01日(木)
所在地: 和歌山県海南市
創建者・施主: 栄西(開基)、加茂氏
建築年: 1327年(嘉暦2年)
様式・規模: 一重裳階付単層寄棟造り本瓦葺・桁行3間×梁間3間 130.5㎡
松山の仕事が5月末日で終了し、徳島からフェリーで和歌山に渡った。秋田へ帰省する帰路、高野山を参拝して「四国霊場八十八ヶ所霊場」3回目の「閏年逆打ち巡礼」と4回目の「乱れ打ち巡礼」の結願を空海大師にご報告し、感謝の気持ちを伝えることであった。
和歌山県には、是非に訪ねたい寺が残っていて、国宝の堂宇がある善福院もその1ヶ寺であった。和歌山インターから阪和自動車道を下津インターで降り、た先の蜜柑畑に囲まれた集落の中に善福院はあった。釈迦堂以外に堂宇のない小さな寺で、一般住宅のような庫裏が釈迦堂の横にあるだけである。それでも国宝の釈迦堂を訪ねる観光客がいるようで、100メートルほど離れた場所に専用の駐車場があった。
善福院は山号を宝遊山と称し、天台宗に属する寺で建保3年(1215年)、日本における臨済宗の開祖・栄西禅師によって開基された。釈迦堂は鎌倉時代末期、加茂氏によって建てられたようで、禅宗様式の仏殿建築である。類似した建築物としては、山口県下関市にある功山寺仏殿があり、同じく国宝に指定されている。加茂氏によって七堂伽藍が整えられたようであるが、現在の寺観からは当時の様子を窺い知ることはできない。
釈迦堂の外観は一重の裳階を付けた方三間の寄棟造りで、屋根は庇が翼のように張り出した本瓦葺きである。戸は簡素な桟唐戸で、禅様式には珍しく花頭窓がないのが特徴とも言える。軒の出組は裳階が三斗、主屋が二手先の組物で、これも簡素な作りである。内部の様子が見られなかったのが残念であるが、拝観料を払ってでも鏡天井や日本では珍しい燧梁などを見たかったものである。国宝に指定された堂宇は、可能な限り内部も一般公開をするべきであり、住職の一存に任せるのはいかがなものかとも思う。
栄西禅師が開基した当時は広福禅寺と称し、善福院はその五ヶ院の一つであったとされる。江戸時代に広福禅寺は、紀州徳川家の菩提寺になったことから天台宗に改宗されたそうだ。その後、紀州徳川家が長保寺を新たな菩提寺として創建したことから広福寺は衰退し、明治の廃仏毀釈によって塔頭の善福院だけが存続したと聞く。
栄西禅師が創建した仏殿の再建が釈迦堂とすれば、他に法堂や方丈の堂宇や伽藍があったと思われるが、その規模を知る資料がないのは重ねて残念に思われる。鎌倉時代に無住道暁によって編まれた『沙石集』に栄西禅師の和歌が残されている。その和歌は「自業自得の心」と題するもので、杉の枯葉が擦れ合って自らが火を発生される様子を人間の心に譬えて詠んだ和歌で、自分の開基した寺の将来を重ね合わせているようにも思われる。
「奥山の 杉のむらだら ともすれば 己が身よりぞ 火を出だしける」 明庵栄西
126慈眼院 多宝塔
訪問年: 平成29年06月01日(木)
所在地: 大阪府泉佐野市
創建者・施主: 覚豪(開基)、空海(中興)、施主不明
建築年: 1271年(文永8年)
様式・規模: 桧皮葺・高さ10.6m 一辺2.7m
今日は国宝の堂宇を有する寺院3ヶ寺を巡る予定でいたので、善福寺釈迦堂の拝観を終えて再び下津インターに戻り、阪和自動車道を走って上之郷インターを降りた。慈眼院はインターから近く、すんなりと境内の駐車場に車を停めて寺に入った。
トタン屋根の大きな本堂と庫裏が建っているが、国宝の多宝塔への案内板はなく図々しく境内の奥まで入る勇気はなかった。これまでも門前まで行って拝観できなかった国宝建築があったので、諦めるしかないと観念した。
慈眼院に隣接した日根神社の存在が気になっていたので、慈眼院から数100メートル車を移動し日根神社を参拝した。すると、社殿との通路を格子柵が立ち、その先に慈眼院の多宝塔が見えた。心が躍るような気持ちで、格子柵からカメラを向けて多宝塔を撮影した。その左、手前には国の重要文化財の金堂もあって一挙両得の景観であった。
慈眼院は天武2年(673年)、天武天皇が覚豪阿闍梨に開基させた勅願寺で、後に空海大師が多宝塔を建て、諸堂を復興させて真言宗に改宗させたとされる。多宝塔は真言宗のシンボルタワーでもあり、この多宝塔は国宝では日本最小であるが、滋賀県の石山寺や高野山金剛三昧院の多宝塔と並び「日本三名塔」と称されているようである。
一般的な多宝塔は白い亀腹の基壇の上に円形の下層があるのであるが、この多宝塔には亀腹はなく、四角形の基壇に濡縁をめぐらした下層である。裳階は複雑な二手先組物を設け、中備えには蟇股が入れられてある。上層は平面円形で、これも複雑な四手先の組物となっていて、軒天井を七宝繋ぎとするなど鎌倉時代の多宝塔の意匠的な変化を感じる。
多宝塔と同時代に建てられたとされる金堂も素晴らしく見えた。金堂としては方3間の宝形造りと極めて小さな堂宇であるが、苔の上に建つ姿はとても美しく感じられた。明治初期の神仏分離令が発布されるまでは、慈眼院は日根神社の神宮寺でもあり、多宝塔と社殿の景観は一体であった筈である。それを思うと、格子柵の錠が空しく見えて来る。
日根神社の本殿も立派で、豊臣秀頼が再建したもので大阪府の重要文化財となっている。桃山文化を象徴するような遺産でもあり、神社と寺が再び手を合わせて自由な拝観ができるようになれば、一級の名所となるのは明らかである。観光立国を目指す日本にとっては、神社仏閣の再構築が急務とも言える。慈眼院は本堂の屋根が壊れ、日根神社も社務所に人影はなく、見た目では寺社共に存続が危ぶまれる状況にあると感じた。国宝の多宝塔は全国に5ヶ所だけであり、慈眼院多宝塔も陽の当る場所へと環境を変えて欲しいと願う。
「哀れかな 人の知らない 多宝塔 価値高めれよ 阪和の人々」 陀寂
127孝恩寺 観音堂
訪問年: 平成29年06月01日(木)
所在地: 大阪府貝塚市
創建者・施主: 行基(開基)、施主不明
建築年: 1332年(元弘2年)
様式・規模: 単層寄棟造り行基葺・桁行5間×梁間5間 161.5㎡
孝恩寺は貝塚インター降りた直ぐ近くの高台にあったが、住宅地に囲まれて探すのに手間取ってしまった。門前には専用の駐車場があって助かったが、路上駐車を強いいられる小さな寺院もあるので駐車場の確保は寺院参拝の最初の課題である。
孝恩寺は、奈良時代に行基菩薩が開基した古刹・観音寺を前身とする浄土宗の寺で、明治時代になってから観音堂だけが残された観音寺を吸収したようだ。孝恩寺は拝観料を徴収していなかったので境内への出入りは自由であったが、勝手に見て行って下さいと言う雰囲気である。庫裏のベランダには洗濯物が無造作に干され、その生活空間に入り込んだことに対する違和感は消えなかった。
国宝の観音堂は鎌倉時代中期に建てられた方5間の寄棟造りで、屋根は行基葺と称される瓦屋根である。行基葺は奈良の元興寺に以外に存在せず、とても貴重な丸瓦でもある。鎌倉時代の観音寺は、どの宗派に属していたかは不明であるが、安土桃山時代には新義真言宗の根来寺の傘下にあったこが知られている。そのため、豊臣秀吉の紀州攻めの時は観音堂だけが焼け残って現在まで続いている。観音堂は釘を1本も使用していないことから「釘無堂」とも称されて、地元では観音堂と呼ぶ人は少ないようだ。
観音堂の拝観は外観のみとなってしまったが、和様を基調とした建築意匠の中に禅様式が合体しているのは鎌倉時代の特色とも言える。軒を支える組物は三方斗で、その間には美しい彫刻が施された蟇股が飾られていた。柱間を結ぶ梁は、長押を用いないで貫を入れており、桟唐戸を吊っている意匠は禅様式の特徴でもある。
内部の様子は拝観できなかったが、内陣と外陣かあると聞いたので密教の寺院の本堂を想像した。内陣には母屋の架かった仏壇があって、その天井は鏡天井になっているだろう。外陣の上には虹梁が渡され、化粧屋根裏となっていることも推定できる。私は仏像やその祭壇まで精査する知識がないためお茶を濁してしまうが、内部を知るためにはその中に最低でも1時間は見てないと他の堂宇との判別がつかない。
現在の孝恩寺は浄土宗の寺であり、本堂は阿弥陀如来を祀ることが原則とされている。観音堂は境内の堂宇に過ぎないが、真言宗時代の貴重な国指定の仏像を収蔵庫に保管しているようであるが、往時の仏像を拝めないのは宗派の弊害と感じる。京都や奈良は、積極的に仏像を公開して陽の当る場所に導いているが、慈眼院と同様に無策のまま現状を維持しようとする姿は嘆かわしい限りであり、行基菩薩の純真さが消えゆくように思えた。
「山鳥の ほろほろと鳴く 声聴けば 父かとぞ思う 母かとぞと思う」 行基
128長弓寺 本堂
訪問年: 平成29年06月02日(金)
所在地: 奈良県生駒市
創建者・施主: 行基(開基)・叡尊(中興)
建築年: 1279年(弘安2年)
様式・規模: 向拝付単層入母屋造り桧皮葺・桁行5間×梁間6間 219.9㎡
昨日は孝恩寺からその近くにある水間寺を参拝し、高野山で唯一の温泉のある智福院に泊まった。今日は奈良の長弓寺と十輪院を訪ねる予定で、午後から大阪の友人と奈良で再会し、夜は一献交えてビジネスホテルに投宿しようと考えていた。
奈良の有名な寺院は殆ど拝観して来たが、長弓寺は未拝観の1ヶ寺でもあった。聖武天皇の勅願によって行基菩薩が開基したとされ、鎌倉時代に叡尊上人が中興したことから現在は西大寺を総本山とする真言律宗に属している。
広い境内には諸堂が林立しているように見えるが、いずれも塔頭の建物で国宝の本堂のみが長弓寺の伽藍として残されているようだ。この寺には本坊がなく、薬師院・円生院・法華院・宝光院の4つの塔頭が輪番制で本堂を守っているようだ。
真言律宗を開いた叡尊上人は正応3年(1290年)、89歳の高齢で亡くなっているので、本堂の再興は叡尊上人によって行われたと考える。本堂は比較的大きな向拝付の入母屋造りで、桧皮葺の屋根の曲線が実に美しい。和様を基調した密教本堂であるが、桟唐戸の扉、二斗の組物、頭貫の木鼻などは大仏様を取り入れている。これは孝恩寺の観音堂と同じく、新和様と称される鎌倉時代の建築様式と言える。
本堂の内部は、虹梁と垂木を露出させた化粧屋根裏となっていて木の美しさを残している。その下に方3間の外陣と内陣が設えられた典型的な密教本堂の配置である。内陣に安置されている十一面観音立像は、国指定の重要文化財であるが拝観できないのが残念である。
本堂の他に三重塔が建っていたようであるが、その初層と鐘楼が東京都港区の高輪プリンスホテルに移築されて残っているようであるが、他の寺に売却するのは致し方ないにしてもホテルが必要とする建物ではないと思う。もし、当時のまま三重塔が長弓寺に残されていれば国宝となっていたことであろう。今後、本堂の売却だけは慎んで欲しいと願うだけである。そう言えば、東京都文京区の椿山荘に移築された旧竹林寺の三重塔は、国指定の重要文化財となっている。初層だけを移築した堤オーナーのセンスに怒りを覚える。
長弓寺の近くには同じく国宝の本堂がある霊山寺があり、11年前に拝観を済ませているが、その繁栄のギャップの大きさには驚くばかりである。宗教施設は政教分離の法的な規制があるため、国指定の文化財の保全には補助金が付くが、寺の経営に対してはノータッチである。歴代住職の器量がその寺の未来を左右するのが現状であり、堂宇を売却するような住職を輩出させてはならないのである。
「塔ひつと 残りし姿 目に浮かぶ ホテルの寄進 願う叡尊」 陀寂
129十輪院 本堂
訪問年: 平成29年06月02日(金)
所在地: 奈良県奈良市
創建者・施主: 朝野魚養(開基)、施主不明
建築年: 1274年(文永11年)
様式・規模: 単層寄棟造り本瓦葺・桁行5間×梁間4間 94.9㎡
十輪院には若い頃に参拝した記憶があるが、当時は国宝建築に対する意識も薄く、カメラも持っていなかっため国宝の本堂の拝観は曖昧なままであったので再び参拝した。奈良の寺院の多くは、観光寺院となってしまい、拝観料と駐車料金の徴収が主な収入源になっているようだ。しかし、十輪院の拝観者用の駐車場は無料であったし、境内の出入りは無料で、本堂内の拝観だけは拝観料を徴収していた。奈良市内の駐車料金は高い事で有名であるが、市内の一等地にある寺が駐車料金を徴収しないのは住職の思いやりと解釈した。
十輪院は空海大師の書の師匠であった朝野魚養が霊亀元年(715年)、元興寺の支院(別院)として創建した南光院が前身とされる。元興寺は戦国時代の放火などで衰退し、同じ支院であった極楽坊の本堂が現在も残されている。この極楽坊の本堂も国宝であり、十輪院本堂が再建される9年前に歌僧として有名な西行法師が再建している。
十輪院本堂は単層寄棟造りの本瓦葺きで、30坪ほどの住宅風仏堂である。母屋を支える柱は円柱で、三方の庇を支える柱は大面取の角柱であるのが特徴と言える。正面には蔀戸と連子窓となっていて、軒裏は垂木を見せない板軒であるのは珍しい意匠である。前庇の蟇股には美しい彫刻が施されている。軒の高さや床も低く、一般的な本堂と異なる点は、本尊の石仏龕を拝むための礼拝堂の要素があったためと推察する。
石仏龕は間口奥行ともに3m、高さ2.5mの石室に釈迦如来・弥勒菩薩・不動明王・観世音などの仏像が彫られていると聞く。空海大師が滞在中に彫ったとされ、国の重要文化財ともなっている。しかし、本堂の再建と同じ鎌倉初期の作とされるのが一般的である。
境内の入口に建つ山門も本堂の建築と同じ時代の建築で、小さな四脚門であるが国の重要文化財になっている。本堂と棟続きの一部が住居となっていることに眉をひそめたが、土地を拡張する手段のない寺にとっては致し方ないことに見えた。
十輪院も明治の廃仏毀釈で困窮して校倉造りの宝蔵を売却しているが、現在は東京の国立博物館に保存されている。長弓寺と同様となるかと思った所、現住職は奈良薬師寺の故高田好胤師のような活躍ぶりで十輪院を維持しようと努力しているようだ。
現在の十輪院は、空海大師の聖跡でもある縁から京都の醍醐寺の末寺となっている。醍醐寺は京都屈指の総本山であり、観光面や信仰面でも最も潤っている寺であり、その影響下にあることが大きいと思う。それに比べると、真言律宗の西大寺はその存在感を伝えようとしないし、その末寺も同様の有様であったことに胸が痛む。
「国宝の 堂宇に思う 事ひとつ はるか昔の 大工の器量」 陀寂
130鎫阿寺 本堂(大御堂)
訪問年: 平成03年04月28日(日)・平成29年08月14日(月)
所在地: 栃木県足利市
創建者・施主: 鎫阿(開基)、足利貞氏(中興)
建築年: 1299年(正安元年)
様式・規模: 単層向拝・唐破風付入母屋造り本瓦葺・桁行5間×梁間5間
真言宗大日派の大本山である鎫阿寺は、足利家第2代棟梁・足利義兼が出家して鎫阿と号して建久7年(1196年)に創建した氏寺である。寺は足利館に建てられたため、中世城郭の機能を合わせ持つため「日本100名城」に選ばれている。国の重要文化財であった本堂{大御堂}が、平成25年(2013年)に国宝に昇格したため、松江城と同様に再度訪ねることになった。
26年前とは門前の雰囲気が変わり、観光地へと変化していて昔の様子が思い出せなかったが、山門(仁王門)前の屋根付きの太鼓橋はインパクトが強かったので懐かしく渡った。本堂は山門の先の参道の正面に建ち、単層ながらも唐破風付入母屋造りの重厚な建物である。
鎌倉後期の1299年(正安元年)、7代目の足利貞氏によって再建され、室町時代に改修された。
外観は全体的に禅宗様で、内部の外陣、内陣及び脇陣の配置は密教様式である。密教寺院における禅宗様仏堂の初期の例で、当時の禅宗流行を敏感に採用したようである。
軒の組物は、尾垂木、拳鼻(木鼻)、実肘木付の二手先の詰組である。壁は堅板壁で、扉は桟唐戸と禅宗様であるが、窓は和様の縦連子窓である。内陣の方三間の天井は組入天井で、他の天井は複雑な化粧屋根裏となっている。床はすべてが板敷の和様も取り入れている。内陣に安置されている本尊・大日如来像は、室町時代の改修時に造られた木造仏像のようで創建当時の仏像が何処へ消えたのか気になる所でもある。
本堂以外にも室町時代に再建された鐘楼と経堂は国の重要文化財で、御霊堂・多宝塔・山門・東門・西門・太鼓橋は栃木県の有形文化財であり、古刹の雰囲気が境内の堂宇に漂っている。記憶の隅から消え去ろうとしていた鎫阿寺の境内、国宝の指定によって再び参拝できたことに不思議な縁を感じる。
鑁阿寺に隣接する足利学校は、日本最古の学校と称しているが、私の見解では空海大師が京都九条の開校した「綜芸種智院」が最も古いと思っている。足利学校の開校は、足利氏が館を構えた鎌倉前期で、日本最古と称することに抵抗を感じる。しかし、私は鎫阿寺の境内の一部と考えているので、ここも訪ねることにした。
茅葺屋根の方丈と庫裏は、鎫阿寺の本坊を兼ねていたと思われる。室町時代に関東管領・上杉憲実が寄進した書籍は、国宝に指定されていて明治5年(1872年)の閉校までは全国的に注目された学校であった。現在の建物は平成2年(1990年)、建物と庭園が完全復元される。足利学校を訪れた主な人々の一覧を見て、その名士の多さに驚いた。古くは連歌師・柴屋軒宗長に始まり、吉田松陰や弟子の高杉晋作、他に明治の政治家や著名人が名を連ねていた。そこで思い出したのが宗長の句、「身にしみて 風や幾秋 萩のこゑ」である。
131玉陵 墓室・石牆
訪問年: 平成29年02月10日(金)
所在地: 沖縄県那覇市
創建者・施主: 尚真王
建築年: 弘治14年(1501年)
様式・規模: 一部重層石造り板葺、5棟 2,4428㎡(墓域)
2月の閑散期の沖縄旅行には、格安の航空料金があることを知って2泊3日の予定で計画した。45年ぶりの沖縄旅行となったが、今回は時間的な余裕がなく、沖縄本島にある世界遺産を巡ることを第一の目的にした。最初に首里城を訪ねた頃は、守礼門が復元されているだけであったが、現在のように完全復元された様子は感動的な景観に見えた。しかし、その後の令和元年(2019年)10月に焼失したことを考えると、貴重な写真撮影となった。
沖縄県の建造物で唯一、国宝に指定されているのが、玉陵の墓室(中室・東室・西室)3棟と、石牆2棟である。玉陵は琉球王国の第3代尚真王が、父である第2代尚円王を葬るために
弘治14年(1501年)に建造された。弘治14年は琉球の年号で、日本では室町時代末期の文亀元年に当る。北条早雲などが台頭した下剋上で、日本は戦国時代に突入している。
当時の沖縄の葬儀は、死者の遺骸を白骨となるまで放置し、その後に洗骨して骨壺に収め埋葬したと言う。王及びその后の遺骨は東室に、他の王族は西室に納められたようである。石牆は間仕切りとして使用される石積みの塀で、玉陵では長方形に2ヶ所配置されている。石室の内外は、珊瑚の破片が敷き詰められた庭となっていて、沖縄らしさを感じる。
玉陵は沖縄戦で大きな被害を受けたが、昭和47年(1952年)に国の史跡に指定されると、昭和49年(1974年)から3年余りの歳月を費やし修復工事が行われた。平成12年(2000年)には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして世界文化遺産に登録されて、平成30年(2018年)には国宝となった。玉陵の他にも、沖縄で最高の聖地とれる斎場御嶽も世界文化遺産を構成している。この霊場も尚真王の手によるもので、琉球王国約400年の歴史を盤石なものとした名君と言える。
江戸時代は薩摩藩に従属していた琉球王国であったが、明治時代になると沖縄藩となって、最後の国王・第19代尚泰王が藩主となった。尚泰王の長子で第20代当主の尚典までが、玉陵に埋葬されたようである。平成30年(2018年)には、第22代当主・尚衞氏によって約45年ぶりに王家を供養する「清明祭」が行われたようだ。日本の統治によって、琉球王国は滅ぼされたが、その王家の墓所を国宝に指定し、その居城も復元し世界遺産となった。
沖縄県に対しては、先の大戦に巻き込んだ反省もあって、あらゆる面で日本政府はサポートして来たが、復元された首里城の焼失はそれを無碍にした結果であろう。韓国と同様に扱いたくはないが、沖縄は被害者意識が強すぎる。本土のように広島と長崎に原爆を落とされ、全国各地で大空襲に遭遇しながらもアメリカを憎まず発展して来た実績がある。
「沖縄や 自立の花は デイゴかな」 陀寂
132清白寺 仏殿
訪問年: 平成29年08月27日(日)
所在地: 山梨県山梨市
創建者・施主: 足利尊氏(開基)、施主不明
建築年: 1415年(応永22年)
様式・規模: 重層入母屋造り桧皮葺・桁行3間×梁間3間 51.8㎡
何度となく「日本百名山」の登頂を目指していた頃、清白寺を訪問しようと近くまで車を走らせたが、案内板もなく探すことが出来なかった。しかし、今回は入笠山の登った帰路、時間に余裕があったので勝沼インターを降りて塩山に入った。最近になって設置されたと思われる案内板があったが、車道と参道を兼ねた道路は狭く、車のすれ違いは不可能な情況であった。参道には梅の並木があるので、保護することを考えたのであろうが、境外に駐車場がないのは不便である。そんな理由で、国宝の仏堂や重文の庫裡を有する古刹ではあるが、知名度の低さは同じ塩山にある恵林寺や向嶽寺に及ばないようである。
清白寺は正慶2年(1333年)、足利尊氏が天下統一の祈願寺として夢窓国師の高弟・清渓通徹を開山として開基した。江戸時代に仏堂を残して全焼すると、昭州座元が中興し寺観を整えたようである。この頃から臨済宗建長寺派から妙心寺派に転じて現在に至っている。
小さな総門の先に比較的新しい鐘楼門(三門)があり、その後ろに重層入母屋造りの仏堂は建っていた。総門・放生池・三門・仏堂・本堂が一直線に並ぶ配置は、妙心寺に倣ったものに思える。仏堂は同時期に建てられた同じ国宝である正福寺地蔵堂(東京都東村山市)に比べると、方3間と小さいものの重層桧皮葺き屋根は美しいの一言に尽きる。
寺社建築の専門家の中には、下層の屋根を裳階と見る人もいるようで単層入母屋造りと定義しているようであるが、上層の屋根よりも下層の屋根が広い場合は重層と考えたい。城郭の天守建築のように階高の高い低いは、内部の構造であって外観上は二重の屋根なのである。また、高い基壇上に建っているのも珍しく、小さな仏殿を高く見せている。
正面と裏面には桟唐戸の出入口があり、その両面と東西面には花頭窓が設えてある。軒の垂木は扇垂木で、組物は詰組で質素な構造となっている。禅宗様式の典型的な仏殿で、甲府の東光寺仏殿、南部の最恩寺仏殿と並んで「甲州三仏殿」と称されているようである。いずれの仏殿も国の重要文化財であり、近いうちに拝観したいものである。
清白寺で驚いたのは、本堂と棟続きに建つ大きな庫裡である。重厚な茅葺屋根の切妻妻入造りで江戸時代初期の建築で、国の重要文化財となっている。入母屋造り桟瓦葺の本堂は、大雄寶殿の扁額が掲げられた方丈型本堂とも呼ばれる。唐破風の玄関が庫裡との間あるので、客殿を兼ねた本堂でもあった。以前は茅葺であったと聞くと、庫裏と同じく茅葺のまま維持できなかったことは残念に思われる。茅葺のままであれば、国の重要文化財となっていたし、寺の存在価値も高まっていたであろう。
「観光に 力入れれよ 梅の花」 陀寂
133旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)
訪問年: 平成30年01月08日(火)
所在地: 東京都港区
創建者・施主: 明治政府(創建)、片山東熊(設計)
建築年: 1909年(明治42年)
様式・規模: 石造・鉄骨・煉瓦造り銅板葺・地下1階地上2階及び車寄付属 5,150㎡
平成15年頃から国宝や重要文化財の建築物を全てリスアップして、個人的なテキストとして活用して来たが、知恩院三門(京都)、長谷寺本堂(奈良)、青井阿蘇神社(熊本)、迎賓館赤坂離宮(東京)、歓喜院聖天堂(埼玉)など新たに国宝な指定された建築物が多い。中でも明治時代の建築にも関わらず、迎賓館が指定されたのは以外であった。迎賓館の管理は宮内庁から内閣府に移行されていて、それが国宝の指定となったと思う。宮内庁には京都御所紫宸殿、修学院離宮や桂離宮、伝仁徳天皇陵など国宝級の建築物や特別名勝級の庭園、特別史跡に値する文化財を有するが国の指定を拒んでいるように思われる。
迎賓館は一般公開されて2年が過ぎ、予約なしでも見物できると聞き、訪ねることにした。物々しい警戒の中、荷物検査を受け館内に入ると、入館者よりも警備員やスタッフの方が多い情況であった。迎賓館の維持管理もスタッフの給料もすべて税金で、財政赤字のことなど何処吹く風であるが、入館料1,000円を徴収しているので潤っているのだろう。
明治42年(1909年)、明治政府が東宮御所として建設するが、西洋の巨大な宮殿建築を模した建物であっため、御所として使用されたのは僅かな期間であったようだ。昭和49年(1974年)、迎賓館としてリニューアルされ、現在に至っている。建築面積が5,150㎡と最大の国宝建築で、東大寺大仏殿の倍近い面積である。また、迎賓館が国宝に指定されるまでは、国宝建築の100%が木造を主体とした建築であったが、迎賓館が加わったことで木の文化からは離れた建物と言う印象は否めない。
四谷口から眺めると、鉄製の正門と中門が建ち、広い前庭の先に迎賓館本館が聳えている。建物の外観はネオ・バロック様式とされ、全体的にシンメトリな配置であり、西洋建築の模写で猿まねと揶揄されても仕方ない。公開されている部屋は、2階部分の大広間4ヶ所で、それぞれが特色のある意匠と装飾であった。彩鸞の間は10枚の鏡があり、装飾はフランスのアンピール様式とされる。朝日の間は壁に西陣織の美術織物が飾られ、女神オーロラの天井画が際立つ。西棟の羽衣の間は豪華なシャンデリアが特徴で、かつては舞踏会に使用された部屋と言う。東棟の花鳥の間は館内で唯一こげ茶色に統一され、七宝焼の額30面が壁に飾られている。全体的に金箔を施した装飾が多く、黄金の国ジパングを意識してのことなのか、漆製品や螺鈿の装飾がないのは淋しい気がした。昭和49年(1974年)のフォード大統領から最近ではトランプ大統領まで、世界各国の指導者や要人が日本での思い出を迎賓館に刻み、日本史にその足跡を残した。
「現役の 国宝建築 迎賓館 茶室に勝る 国宝はなく」 陀寂
134櫻井神社 拝殿
訪問年: 令和03年06月26日(土)
所在地: 大阪府堺市
創建者・施主: 創建者・施主不明
建築年: 1332年(元弘2年)
様式・規模: 単層切妻造り本瓦葺・桁行5間×梁間3間
大阪で仕事することになって秋田から赴任し、真先に訪ねたのが櫻井神社である。未訪問の国宝建築は、大阪府堺市の櫻井神社拝殿、愛知県西尾市の金蓮寺阿弥陀堂、京都府綾部市の光明寺二王門の3ヶ所となって、3年半も過ぎていたので待望の見物となった。秋田県横手市の自宅に自家用車を置いたままであったので、泉北高速鉄道泉ヶ丘駅からの徒歩の旅となったので、法道寺への道を間違えて途方にくれる場面もあった。櫻井神社に到着した頃は、万歩計は15㎞を示していた。
櫻井神社は最近、アイドルグループ「嵐」の聖地となっているようで、混雑が予想されたが、コロナ禍とあって閑散としていた。大きな赤鳥居をくぐり神門を入ると、正面に国宝のあこがれの拝殿があった。境内はそんなに広くなく、拝殿の奥に幣殿と本殿、左側に会館と社務所、右側に夷社・絵馬堂・神輿庫などが並び建っていた。
神社の由緒略記によると、古代に櫻井朝臣一族が先祖の武内宿禰命を奉斎した事に始まるとされる。推古天皇5年(597年)に八幡宮(応神天皇・仲哀天皇・神功皇后)を合祀し、上神谷八幡宮と称したとされる。平安時代中期には上神谷地区の総鎮守として崇められ、延喜の制(967年)には官幣社に列せられた。拝殿は鎌倉時代前期(1185~1296年)の建築で、寄贈者は不明であるが、吉野時代には神宮寺も併設される荘厳な神社となったようだ。しかし、天正5年(1577年)に織田信長の根来寺征伐に伴う兵火によって社殿を焼失し、神領は没収された衰退する。その11年後、肥後国に移封となる前の加藤清正によって再興される。明治時代になると、神仏分離令によって神宮寺は廃されて、仏像仏具は近隣の寺に移される。この時、鐘楼が神輿庫として改修されている。
拝殿の外観は、間口5間に奥行3間であるが、実際の奥行は2間と狭い。切妻造り本瓦葺きの平屋建て朱色のシンプルな外観である。軒廻りは、円柱の上に舟肘木を置いて桁を受けている。妻飾りは二重虹梁蟇股式で、梁間全体に大虹梁を架け、蟇股二個を置いて、その上にさらに虹梁を架け、蟇股を置いて棟木を受けている。内部は中央を土間の通路した割拝殿で、左右の間は板張で桟唐戸を入れている。屋根裏は天井のない化粧屋根裏である。神社の拝殿として日本最古と言われ、鎌倉時代の建築様式を伝えている。
この神社の他に鎌倉時代の宝物が多く残されていて、国神社石燈籠は大阪府有形文化財に指定されている。江戸時代に松平定信が「集古十種」に選んだ古燈籠である。現在は神具庫に保管されていて、見物ができなかったのが残念である。
「堺では 国宝よりも 古墳群 世界遺産に 地位を奪われ」 陀寂
135金蓮寺 阿弥陀堂
訪問年: 令和03年08月08日(日)
所在地: 愛知県西尾市
創建者・施主: 安達盛長、足利尊氏(中興)
建築年: 1186年(文治2年)
様式・規模: 向拝付単層寄棟造り桧皮葺・桁行3間×梁間3間 58.3㎡
盆休みとなった秋田への帰路、残り2ヶ所となった国宝建築で絶対に訪ねようと思ったのが金蓮寺阿弥陀堂である。名古屋駅で途中下車して結構な時間を要して名鉄西尾駅に到着したが、金蓮寺方面へのバスはなく、仕方なくタクシーを拾って訪ねた。
タクシーが停まった場所が、小さな金蓮寺の参道であった。山門もなく、参道の先には桧皮葺の阿弥陀堂が建っていた。単層寄棟造りの堂宇は、床面に濡れ縁が廻らされていたが、昇降する階段がない。正面に風変りな向拝があるが、入口は右側にある置石が昇降口のようだ。正面の戸が開けられていて、堂内に安置されだ阿弥陀三尊を礼拝した。この阿弥陀三尊は、創建当時の作とされ、愛知県指定の有形文化財となっていた。書院風のシンプルな造りで、とても鎌倉時代の建築とは思えない意匠である。軒桁を受ける肘木は、面取りをしただけで、他の部材にも装飾が一切ない。修繕時に鎌倉時代の工法が消失した可能性があるので、複雑な気持ちで軒下を眺めた。
境内の案内板には、三河守護安達盛長が鎌倉時代初期の文治2年(1186年)に創建したとあったが、この頃の安達盛長は源頼朝の命によって、上野国の奉行人として関東にいた。盛長は頼朝の伊豆挙兵からの御家人で、三河国の守護になったのは、正治元年(1199年)なので13年の開きがある。歴応3年(1340年)に足利尊氏が現在地に移し、中興したとされるが、この時は既に阿弥陀堂が建っていたので、尊氏の移設説はありえない。
阿弥陀堂以外は、注目すべき堂宇はなく、切妻造の小さな本堂は阿弥陀堂に比べると見劣りがする。江戸時代中期に曹洞宗に改宗されているが、本堂の本尊は不動明王であり、真言宗時代の面影が感じられる。寺社建築としては、愛知県で唯一の国宝であるが、愛知県民も知らない人が多いようで、私以外に参拝者はいない。御朱印を頂戴する時、管理人らしき女性と話をしたが、檀家が少なく、維持するのが大変だと言う。
国宝に指定されたと言っても無住の寺院や神社もあったので、国宝イコール名所となっていないようだ。金蓮寺のある旧吉良町は、江戸時代の旗本で高家の吉良氏の領地であった。この吉良氏は金蓮寺に帰依したようだが、吉良義央(上野介)が「赤穂事件」に関わったことで改易となった。江戸城の殿中において、上野介を斬りつけた浅野長矩(内匠頭)の無念は晴らした家臣が英雄視されている。上野介の実子・綱憲が上杉氏の養子となったため、その血統は受け継がれた。上野介は領地では名君と慕われたようで、悪者にされたイメージを国宝・阿弥陀堂のカバーしているようだ。
「善悪や 阿弥陀の光明 境なし」 陀寂
136大徳寺 龍光院書院
訪問年: 令和03年08月21日(土)
所在地: 京都府京都市
創建者・施主: 江月宗玩、黒田長政(開基)、小堀遠州(設計)
建築年: 1660年(万治3年)
様式・規模: 単層寄棟造り柿葺・正面3間×背面4間×側面3間 120.6㎡
寺院や神社の写真を整理していて、「国宝建築の旅」の中でも非公開の建造物の写真は1枚もないのだが、何とか外観のみを撮影したものがあった。往復ハガキによる予約を受け付けているのが、京都市大山崎町の「妙喜庵」である。JR京都線山崎駅の目の前にありながら頑なに拝観を制限している。仏像に例えるなら、これは「秘仏」であるが、絶対に拝観を拒む国宝建築物は「絶対秘仏」となる。これが大徳寺の塔頭の1つ「龍光院」で、その国宝書院である。外観だけでも写真に残せないかと思ったのが、今回の訪問である。
大徳寺の境内は広く、勅使門から三門(金毛閣)、仏殿、法堂、方丈と一直線に伸びた伽藍配置には、何度拝観しても圧倒される。境内の南の端に位置するのが、龍光院であるが案内板も何もない。通常であれば、「国宝書院」と記した看板が設置されているが、ここでは何もない。妙喜庵には茶色の下地に赤字で国宝、白字で妙喜庵茶室と書かれていたのである。この看板は日立(HITACHI)の提供のようで、設置義務はなさそうである。
参道入口の兜門と本堂は、国の重要文化財であるが、その案内板するなく、裏門を除くと門は空いていたので門を潜った。正面玄関の左側に寄棟造りで、柿葺の屋根が見えたので書院の建物と思った。国宝建築で唯一、特別公開もない「拝観謝絶」の建物である。その外観だけでも垣間見られたが嬉しく、大阪から出て来た甲斐があった。本堂の屋根も辛うじて見えたが、桧皮葺から瓦葺に変えられた推移が感じられた。
現在の大徳寺は、22ヶ所の塔頭と2ヶ所の支院を数えるが、殆どが戦国大名によって開基された。龍光院は慶長11年(1606年)、初代福岡藩主・黒田長政が開基している。当初の堂宇の設計は、長政の有人で造園家の小堀遠州が担ったとされる。北西に位置する四畳半台目茶室「密庵席」は、書院風茶室の代表例とされ、寛永年間(1624~44年)に建てられた遠州の晩年作と言われる。同じ塔頭の「孤蓬庵」は遠州の開基で、ここにも四畳半台目茶室「忘筌」がある。本堂など3棟が国の重要文化財であるが、最近になって特別拝観を行っているようで、一度は訪ねてみたいものである。拝観謝絶は、観光寺院と一線を画するための方針であるが、ある意味では国宝の私物化に他ならず、国宝から除外すべとも思う。
長政は3代将軍・徳川家光の上洛の準備のため、亰に滞在していたが、西陣にある報恩寺において、56歳で客死している。自分の建立した龍光院に滞在しなかった理由は不明であるが、徳川将軍家が贔屓にしていた浄土宗との関わりも大事であったようだ。その時の辞世の和歌が残されているが、戦国武将から大大名となって苦難の連続であったようだ。
「此ほどは 浮世の旅に 迷ひきて 今こそ帰れ あんらくの空」 長政
137八坂神社 本殿
訪問年: 昭和48年08月30日(木)、平成04年01月01日(木)、令和03年08月21日(土)
所在地: 京都府京都市
創建者・施主: 伊利之使主・不明
建築年: 1654年(承応3年)
様式・規模: 入母屋祗園造桧皮葺・桁行7間×梁間6間
八坂神社は本殿を含めた社殿や摂社・末社など27棟は、国の重要文化財であつたが、令和2年(2020年)12月に本殿だけが国宝に昇格した。国宝になったことで、松江城などと一緒で、存在感が高まったのは否めない。八坂神社は京都の繁華街に近く、閉門がないために参拝客や訪問者は絶えない。京都に住んでいた頃は、参道の石段に腰掛けて、当時走っていた路面電車を眺めたものである。
八坂神社の創建は、難波時代の斉明天皇2年(656年)、高句麗から来日した伊利之使主が牛頭天王を祀ったのが始まりとされる。この頃の京都には、朝鮮半島からの移住者が多く、太秦の秦氏などが有名である。平安時代初期の貞観18年(876年)には、南都僧・円如が観慶寺を建立して「祇園神」を垂迹した言われる。平安時代には、牛頭天王と現在の祭神である素戔嗚尊が同一視されて、祇園社としての信仰が広まった。
現在の本殿は、祇園造または八坂造と呼ばれる建築様式で、寺院の本堂のような入母屋造となっているが特徴的である。一般的な神社建築では、拝殿の奥に小さな本殿があって幣殿や廊下で結ばれている。しかし、祇園造では、別棟であった本殿と拝殿を一つの屋根で覆い、正面に向拝を設け、他の三面には孫庇を加えた複雑な構造となっている。内部に関しては、祭神に遠慮して撮影しなかったが、寺院建築に類似していて、神仏習合の江戸時代の絶頂期を見るようである。
本殿以外にも四条通りに面した朱色の西楼門は、八坂神社の象徴であり、本殿よりも古い明応6年(1497年)の建築なのに国宝にはならなかった。建築年代は古くても改修工事が頻繁に行われると、純粋な建築年代にはならないようだ。八坂神社にも近い知恩院三門は、元和7年(1621年)の建築に関わらず、平成14年(2002年)に本堂(御影堂)と共に国宝に指定されている。八坂神社の楼門もいずれは重要文化財から国宝に昇格されると思われるが、「準国宝」の選定があっても良いと思う。国の重要文化財に指定された建造物は現在、2,500件5,122棟もあるが、その中で国宝は227件290棟と極めて少ないのが残念に思われる。
今回の京都訪問で驚いたのは、浴衣などの和服を着た若い男女が多いことである。初めて京都を訪ねた48年前は、そんな若者は1人もいなかったことを思うと、現在の若者の方が日本人的である。昔の若者の間では、長髪にジーンズが流行していて、音楽などもアメリカンナイズされたいた。ある意味で和服も国宝であり、八坂神社に与謝野晶子の歌碑があるが、その短歌のように美しい姿と感じた。
「清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢ふ人 みなうつくしく」 晶子
138光明寺 二王門
訪問年: 令和03年08月28日(土)
所在地: 京都府綾部市
創建者・施主: 聖徳太子(開基)、聖宝(中興)、覚承(建築)
建築年: 1248年(宝治2年)
様式・規模: 入母屋造り栃葺・3間1戸二重門
未訪問の国宝建築では、最後の1棟となった光明寺二王門であるが、大阪から日帰りの参詣も可能と思われたが、久々に1泊2日の小旅行をすることにした。光明寺は京都府綾部市にあるが、ホテルやレンタカーの予約を考えると、山陰本線の福知山駅で下車した方が便利である。鉄道を利用した旅行は、時間な制約があって不便であるが、いずれは運転免許証を返上すれば、未成年時代と同じく再び鉄道やバスを利用せざるを得なくなる。その予行練習になればと思い、新大阪駅から特急「こうのとり1号」に乗車して出発した。
光明寺は聖徳太子によって推古天皇7年(599年)に開創され、白鳳時代に役小角が修験道の道場とした古刹である。その後は当山派修験道(醍醐寺)の開祖・聖宝が平安時代前期に中興したとされる。国宝・二王門の建築は鎌倉時代の宝治2年(1248年)とされ、天台僧・覚承が建築に関わったとされる。現在は真言宗醍醐派の末寺となっているが、鎌倉時代には比叡山延暦寺と関わりがあったようである。
レンタカーカーのカーナビをセットしたら、車の往来のない林道に導かれ、その終点が光明寺の駐車場であった。参拝客の車はなく、本堂周辺は閑散としていた。二王門は参道を下った先にあるようで、300mほど参道を下った。憧れていた女性に逢うような気分で、国宝・二王門を眺めた。最初に眺めた国宝建築は「中尊寺金色堂」であるが、あれは昭和46年(1970年)6月なので、40年の歳月を経て拝観を達成したことになる。
二王門は色鮮やかな朱色の楼門で、入母屋造り栃葺の屋根である。3間1戸の大きな門には、一対の仁王像(金剛力士像)が安置されているが、参道の正面ではなく、後の間にあるのは大変珍しい。上層と下層には、連子窓が設けてあって和様であるが、頭貫の木鼻は大仏様となっていて、豪放な鎌倉時代の特徴が感じられる。
光明寺は大永7年(1527年)の内乱と、明智光秀の丹波攻略で伽藍を焼失しているが、二王門が唯一残されたのは奇跡に近い。本堂から離れて建っていたこが、幸いしたと思われる。江戸時代には領主の庇護によって、ある程度の規模に再建されたようであるが、明治初頭の廃仏毀釈によって規模が縮小したようである。
光明寺の表参道の入口は、「あやべ温泉」の温泉施設があって、国宝・二天門に因み「二王公園」として整備されていた。しかし、千手観音を祀る本堂の参拝者は少なく、さびれた様子の庫裡に軽自動車があったので、無住ではなさそうである。国宝の堂宇がある寺だけに、廃墟と化すのは避けて欲しいものである。
「国宝や いずれ消えゆく 運命も 山火事だけは ないこと願う」 陀寂
139石清水八幡宮 本殿(内殿及び外殿)・幣殿及び舞殿・東門・西門・楼門など10棟
訪問年: 平成16年02月08日(日)、令和03年09月05日(日)
所在地: 京都府八幡市
創建者・施主: 僧・行教(勧請)、円融天皇(行幸)、徳川家光(建築)
建築年: 1634年(明正11年)
様式・規模: [本殿] 単層切妻造桧皮葺・桁行11間×梁間2間、[内殿] 単層向唐破風造桧皮葺・桁行2間×梁間1間、[外殿] 単層向拝三ヶ所付八幡造桧皮葺・桁行11間×梁間2 間、[幣殿] 単層切妻造本瓦葺・桁行正面1間+背面3間×梁間1間、[舞殿] 単層切妻造桧皮葺・桁行3間×梁間1間、[東門]拝所付1間1戸流造本瓦葺・梁間3間、[西門]拝所付1間1戸流造本瓦葺・梁間3間、[楼門]入母屋造1間1戸楼門、[廻廊]単層入母屋造本瓦葺・桁行28間×梁間2間
石清水八幡宮の御社殿10棟が、平成28年(2016年)に国宝に昇格した。平成16年(2004年)に訪ねているが、八坂神社と同様に国宝となった社殿を眺めようと再び参拝することにした。午前中は高槻市の「今城塚古墳」を訪ね、第26代継体天皇の陵墓と比定される古墳だけに素晴らしい古墳であった。幸い宮内庁の管轄から除外され、王墓の様子が徹底的に調査され、その成果が「今城塚古代歴史館」の開館である。午後から八幡市の石清水八幡宮を訪ねることになったが、環状移動の電車の旅は不便なものである。
高槻市のJR高槻駅と、八幡市の京阪電車石清水八幡宮駅とは、一般道路を走行すると13㎞ほどの距離であるが、電車だとJR東海道本線(京都線)で京都駅まで出てJR奈良線に乗り換え、東福寺駅で京阪電車に乗ることになる。距離や時間は、倍以上も要するので、効率的に訪ねようとすれば車の旅行に限る。
石清水八幡宮駅前から男山の山頂近くにある御社殿までは、「石清水八幡宮参道ケーブル」が運行されているが、切符を買い求めようとした所、無常にも出発してしまったので、頓宮から表参道を上ることにした。20分ほど広い表参道を上って御本社に到着し、朱色の御社殿を17年ぶりに仰ぎ見た。御社殿は南総門とその廻廊、信長塀に囲まれていて、拝殿の屋根の上に楼門が聳える。八幡造りと称される独特の様式で、楼門から先の社殿は厄祓いや七五三の参拝客以外は眺められない。本殿は単層切妻造桧皮葺の細長い建築で、鳥瞰図を見る限りシンプルなものである。
石清水八幡宮は平安時代前期の貞観元年(859年)、八幡神の総本社である大分県宇佐市の宇佐神宮から勧請された。平安時代中期は円融天皇の御幸もあって朝野の信仰を集めた。平安時代末期には河内源氏が氏神として信仰し、源義家は八幡太郎と称された。戦国時代以降は、織田信長や豊臣秀吉が社殿を再建し、現在の御社殿の徳川家光の寄進による。明治時代までは、神仏習合の霊場で48坊があったようであるが、神道一色となって坊跡が竹林と化していた。参拝の帰路、安居橋の側にあった真新しい歌碑が印象に残る。
「石清水 清き流れの 絶えせねば やどる月さえ 隅なかりけり」 能蓮法師
140久能山東照宮 本殿・石ノ間・拝殿
訪問年: 昭和48年01月19日(金)、令和03年10月日()
所在地: 静岡県静岡市
創建者・施主:
建築年: 1617年(元和3年)
様式・規模: [本殿]単層入母屋造銅瓦葺・桁行3間×梁間3間、[石ノ間]単層両下造銅瓦葺・方1間、[拝殿]単層千鳥破風向拝付入母屋造銅瓦葺・桁行5間×梁間2間
久能山東照宮は静岡市の名所・日本平の山の中腹にあって、最初に徳川家康の遺体が埋葬された霊廟でもある。徳川家康は元和2年(1616年)4月、駿河城で74歳で死去すると、即刻、久能山に移された。家康の遺言によって、芝増上寺の法要以外は行われなかったようであるが、「東照宮大権現」として人神化されると、久能山での社殿の造営が始った。家康は一周忌を過ぎたら、日光に遺骸を移すように遺言したとされるが、その棺に遺骸はなかったとする説もある。いずれにしても、豪華絢爛な社殿は、久能山でも造営されたのである。
「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」 家康
都道府県別の国宝建築と国宝指定年
001 中尊寺(平泉寺) 金色堂(光堂) 1棟 昭和26年(1951年) 岩手県平泉町
002 瑞巌寺 本堂(旧大方丈)・庫裏及び廊下 3棟 昭和28年(1953年) 宮城県松島町
003 大崎八幡神社 本殿・石之間・拝殿 1棟 昭和27年(1952年) 宮城県仙台市
004 羽黒山 五重塔 1棟 昭和46年(1966年) 山形県鶴岡市
005 願城寺 白水阿弥陀堂 1棟 昭和27年(1952年) 福島県いわき市
006 旧富岡製糸場 操糸所・東西置繭所 3棟 平成26年(2014年) 群馬県富岡市
007 日光東照宮 本殿・拝殿・唐門・陽明門など8棟 昭和26年(1951年) 栃木県日光市
008 輪王寺 大猷院霊廟本殿・相之間・拝殿 1棟 昭和27年(1952年) 栃木県日光市
009 鎫阿寺 本堂(大御堂) 1棟 平成25年(2013年) 栃木県足利市
010 歓喜院(妻沼聖天山) 聖天堂(御本殿) 1棟 平成24年(2012年) 埼玉県熊谷市
011 正福寺 千躰地蔵堂 1棟 昭和27年(1952年) 東京都東村山市
012 旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮) 本館 1棟 平成21年(2009年) 東京都港区
013 円覚寺 舎利殿 1棟 昭和26年(1951年) 神奈川県鎌倉市
014 清白寺 仏殿 1棟 昭和30年(1955年) 山梨県山梨市
015 善光寺 本堂 1棟 昭和28年(1953年) 長野県長野市
016 仁科神明宮 本殿・中門 2棟 昭和28年(1953年) 長野県大町市
017 大法寺三重塔 1棟 昭和28年(1953年) 長野県青木村
018 安楽寺 八角三重塔 昭和27年(1952年) 長野県上田市
019 松本城 天守・乾小天守・渡櫓など5棟 昭和27年(1952年) 長野県松本市
020 旧開智学校 校舎 1棟 令和01年(2019年) 長野県松本市
021 瑞龍寺 法堂・仏殿(本堂)・山門 3棟 平成09年(1997年) 富山県高岡市
022 明通寺 本堂(薬師堂)・三重塔 昭和28年(1953年) 福井県小浜市
023 久能山東照宮 本殿・石ノ間・拝殿 1棟 平成22年(2011年) 静岡県静岡市
024 飛騨安国寺 経蔵 昭和38年(1963年) 岐阜県高山市
025 犬山城 天守及び東西附櫓 昭和27年(1952年) 愛知県犬山市
026 有楽苑 如庵(茶室) 1棟 昭和26年(1951年) 愛知県犬山市
027 金蓮寺 阿弥陀堂 1棟 昭和30年(1955年) 愛知県西尾市
028 永保寺 観音堂(水月場)・開山堂 昭和27年(1952年) 岐阜県多治見市
029 宝厳寺 唐門 1棟 昭和28年(1953年) 滋賀県長浜市
030 都久夫須麻神社(竹生島神社) 本殿 1棟 昭和28年(1953年) 滋賀県長浜市
031 彦根城 天守・附櫓多聞櫓 昭和27年(1952年) 滋賀県彦根市
032 西明寺 本堂(瑠璃殿)・三重塔 2棟 昭和27年(1952年) 滋賀県甲良町
033 金剛輪寺 本堂(大悲閣) 1棟 昭和27年(1952年) 滋賀県秦荘町
034 苗村神社 西本殿 1棟 昭和30年(1955年) 滋賀県竜王町
035 大笹原神社 本殿 1棟 昭和36年(1961年) 滋賀県野洲市
036 御上神社 本殿 1棟 昭和27年(1952年) 滋賀県野洲市
037 延暦寺 根本中堂 1棟 昭和28年(1953年) 滋賀県大津市
038 日吉大社 西宮本殿・東宮本殿 2棟 昭和36年(1961年) 滋賀県大津市
039 園城寺 金堂・新羅善神堂・光浄院客殿など4棟 昭和28年(1953年) 滋賀県大津市
040 石山寺 本堂・多宝塔 2棟 昭和26年(1951年) 滋賀県大津市
041 善水寺 本堂 1棟 昭和29年(1954年) 滋賀県湘南市
042 常楽寺(西寺) 本堂・三重塔 2棟 昭和28年(1953年) 滋賀県湘南市
043 長寿寺(東寺) 本堂 1棟 昭和28年(1953年) 滋賀県湘南市
044 光明寺 二王門 1棟 昭和29年(1954年) 京都府綾部市
045 加茂別雷神社(上加茂神社) 本殿・権殿 2棟 昭和28年(1953年) 京都府京都市
046 大徳寺 唐門 1棟 昭和27年(1952年) 京都府京都市
047 大徳寺 方丈・玄関・大仙院本堂 3棟 昭和32年(1957年) 京都府京都市
048 大徳寺龍光院 書院 1棟 昭和36年(1961年) 京都府京都市
049 加茂御祖神社(下鴨神社) 東本殿・西本殿 2棟 昭和28年(1953年) 京都府京都市
050 慈照寺(銀閣寺) 銀閣(観音殿)・東求堂 2棟 昭和26年(1951年) 京都府京都市
051 高山寺 石水院(五所堂) 1棟 昭和28年(1953年) 京都府京都市
052 北野天満宮 本殿・石之間・拝殿・楽之間 1棟 昭和34年(1959年) 京都府京都市
053 仁和寺 金堂 1棟 昭和28年(1953年) 京都府京都市
054 広隆寺 桂宮院本堂(八角円堂) 1棟 昭和28年(1953年) 京都府京都市
055 南禅寺 方丈 1棟 昭和28年(1953年) 京都府京都市
056 知恩院 本堂(御影堂)・三門 2棟 平成14年(2002年) 京都府京都市
057 八坂神社 本殿 1棟 令和02年(2020年) 京都府京都市
058 大報恩寺(千本釈迦堂) 本堂 1棟 昭和27年(1952年) 京都府京都市
059 清水寺 本堂 1棟 昭和27年(1952年) 京都府京都市
060 二条城 二之丸御殿 1棟 昭和28年(1953年) 京都府京都市
061 豊国神社 唐門 1棟 昭和28年(1953年) 京都府京都市
062 妙法院 庫裏 1棟 昭和32年(1957年) 京都府京都市
063 蓮華王院 本堂(三十三間堂) 1棟 昭和27年(1952年) 京都府京都市
064 西本願寺 御影堂・阿弥陀堂・飛雲閣など7棟 昭和26年(1951年) 京都府京都市
065 教王護国寺(東寺) 金堂・五重塔・大師堂など5棟 昭和27年(1952年) 京都府京都市
066 東福寺 三門 1棟 昭和27年(1952年) 京都府京都市
067 東福寺 龍吟庵方丈 1棟 昭和38年(1963年) 京都府京都市
068 醍醐寺 金堂・五重塔・三宝院表書院など4棟 昭和29年(1954年) 京都府京都市
069 上醍醐寺 清滝宮拝殿・薬師堂 2棟 昭和34年(1959年) 京都府京都市
070 法界寺阿弥陀堂 1棟 昭和26年(1951年) 京都府京都市
071 宇治上神社 本殿・拝殿 2棟 昭和27年(1952年) 京都府宇治市
072 平等院 鳳凰堂(阿弥陀堂) 4棟 昭和26年(1951年) 京都府宇治市
073 岩清水八幡宮 本社社殿 10棟 平成28年(2016年) 京都府八幡市
074 妙喜庵 茶室待庵 1棟 昭和26年(1951年) 京都府大山崎町
075 浄瑠璃寺(九体寺) 本堂・三重塔 2棟 昭和27年(1952年) 京都府木津川市
076 海住山寺 五重塔 1棟 昭和27年(1952年) 京都府木津川市
077 住吉大社 本殿 4棟 昭和28年(1953年) 大阪府大阪市
078 桜井神社 拝殿 1棟 昭和28年(1953年) 大阪府堺市
079 観心寺 本堂(金堂) 1棟 昭和28年(1953年) 大阪府河内長野市
080 孝恩寺 観音堂 1棟 昭和28年(1953年) 大阪府貝塚市
081 慈眼院 多宝塔 1棟 昭和28年(1953年) 大阪府泉佐野市
082 円成寺 春日堂・白山堂 2棟 昭和28年(1953年) 奈良県奈良市
083 秋篠寺 本堂 1棟 昭和28年(1953年) 奈良県奈良市
084 般若寺 楼門 1棟 昭和28年(1953年) 奈良県奈良市
085 正倉院 正倉 1棟 平成09年(1997年) 奈良県奈良市
086 東大寺 金堂(大仏殿)・南大門・法華堂など7棟 昭和27年(1952年) 奈良県奈良市
087 興福寺 東金堂・五重塔・三重塔・北円堂 4棟 昭和27年(1952年) 奈良県奈良市
088 春日大社 本社本殿 4棟 昭和31年(1956年) 奈良県奈良市
089 元興寺 極楽坊本堂・禅室 2棟 昭和30年(1955年) 奈良県奈良市
090 十輪院 本堂 1棟 昭和33年(1958年) 奈良県奈良市
091 新薬師寺 本堂 1棟 昭和27年(1952年) 奈良県奈良市
092 唐招提寺 金堂・講堂・鼓楼・経蔵・宝蔵 5棟 昭和26年(1951年) 奈良県奈良市
093 薬師寺 東塔(三重塔)・東院堂(東禅堂) 2棟 昭和26年(1951年) 奈良県奈良市
094 霊山寺 本堂 1棟 昭和28年(1953年) 奈良県奈良市
095 長弓寺 本堂 1棟 昭和28年(1953年) 奈良県生駒市
096 法起寺 三重塔 1棟 昭和26年(1951年) 奈良県斑鳩町
097 法隆寺 金堂・五重塔・大講堂・夢殿など19棟 昭和26年(1951年) 奈良県斑鳩町
098 石上神宮 摂社出雲雄建神社拝殿 1棟 昭和28年(1953年) 奈良県天理市
099 当麻寺 本堂(曼荼羅堂)・東塔・西塔 3棟 昭和27年(1952年) 奈良県葛城市
100 長谷寺 本堂(大悲閣) 1棟 平成16年(2004年) 奈良県桜井市
101 宇陀水分神社 本殿 1棟 昭和29年(1954年) 奈良県宇陀市
102 室生寺 本堂(潅頂堂)・金堂・五重塔 3棟 昭和27年(1952年) 奈良県宇陀市
103 金峯山寺 本堂(蔵王堂)・仁王門 2棟 昭和28年(1953年) 奈良県吉野町
104 栄山寺 八角堂 1棟 昭和27年(1952年) 奈良県五條市
105 金剛峯寺(高野山) 不動堂 1棟 昭和27年(1952年) 和歌山県高野町
106 金剛三昧院(高野山) 多宝塔 1棟 昭和27年(1952年) 和歌山県高野町
107 根来寺 多宝塔(大塔) 1棟 昭和27年(1952年) 和歌山県岩出市
108 善福院 釈迦堂 1棟 昭和28年(1953年) 和歌山県海南市
109 太山寺 本堂 1棟 昭和30年(1955年) 兵庫県神戸市
110 朝光寺 本堂 1棟 昭和29年(1954年) 兵庫県加東市
111 浄土寺 阿弥陀堂 1棟 昭和27年(1952年) 兵庫県小野市
112 一乗寺 三重塔 1棟 昭和27年(1952年) 兵庫県加西市
113 鶴林寺 本堂(講堂)・太子堂 2棟 昭和27年(1952年) 兵庫県加古川市
114 姫路城 大天守・西小天守・乾小天守など8棟 昭和26年(1951年) 兵庫県姫路市
115 旧閑谷学校 講堂 1棟 昭和28年(1953年) 岡山県備前市
116 吉備津神社 本殿・拝殿 2棟 昭和27年(1952年) 岡山県岡山市
117 明王院 本堂(観音堂)・五重塔 2棟 昭和39年(1964年) 広島県福山市
118 浄土寺 本堂・多宝塔 2棟 昭和28年(1953年) 広島県尾道市
119 向上寺 三重塔 1棟 昭和33年(1958年) 広島県尾道市
120 不動院(安国寺) 金堂 1棟 昭和33年(1958年) 広島県広島市
121 厳島神社 本社本殿・客神社(摂社)本殿など6棟 昭和27年(1952年) 広島県廿日市市
122 三佛寺 奥ノ院(投入堂) 1棟 昭和27年(1952年) 鳥取県三朝町
123 神魂神社 本殿 1棟 昭和27年(1952年) 島根県松江市
124 松江城 天守 1棟 平成23年(2015年) 島根県松江市
125 出雲大社 本殿 1棟 昭和27年(1952年) 島根県出雲市
126 瑠璃光寺 五重塔 1棟 昭和27年(1952年) 山口県山口市
127 功山寺 仏殿 1棟 昭和28年(1953年) 山口県下関市
128 住吉神社 本殿 1棟 昭和28年(1953年) 山口県下関市
129 神谷神社 本殿 1棟 昭和30年(1955年) 香川県坂出市
130 本山寺 本堂 1棟 昭和30年(1955年) 香川県三豊市
131 太山寺 本堂 1棟 昭和31年(1956年) 愛媛県松山市
132 石手寺 仁王門(二王門) 1棟 昭和27年(1952年) 愛媛県松山市
133 豊楽寺 薬師堂 1棟 昭和27年(1952年) 高知県大豊町
134 崇福寺 大雄宝殿・第一峰門 2棟 昭和28年(1953年) 長崎県長崎市
135 大浦天主堂(教会堂) 天主堂 1棟 昭和28年(1953年) 長崎県長崎市
136 宇佐神宮 本殿 1棟 昭和27年(1952年) 大分県宇佐市
137 富貴寺 大堂(阿弥陀堂) 1棟 昭和27年(1952年) 大分県豊後高田市
138 青井阿蘇神社 本殿・弊殿・拝殿・楼門など5棟 平成20年(2008年) 熊本県人吉市
139 玉陵 墓室(仲室・東室・西室)・石牆 5棟 平成30年(2018年) 沖縄県那覇市
世界文化遺産リスト
01法隆寺地域の仏教建造物(平成5年登録) 奈良県斑鳩町
①法隆寺 昭和48年12月17日(日)・平成02年04月10日(火)・平成29年06月03日(土)
②法起寺 昭和48年12月17日(日)
02姫路城(平成5年登録) 兵庫県姫路市
昭和50年12月11日(木)・平成23年01月04日(火)・令和03年09月11日(土)
03古都京都の文化財(平成6年登録) 京都府京都市・宇治市、滋賀県大津市
①西芳寺(苔寺) 昭和48年10月09日(火)
②天龍寺 昭和50年12月23日(火)・平成04年01月04日(土)
③金閣寺 昭和48年08月31日(金)・平成03年12月31日(火)
④龍安寺 昭和48年08月31日(金)・平成03年12月31日(火)
⑤上賀茂神社 平成03年12月31日(火)
⑥下鴨神社 昭和48年10月23日(月)・平成03年12月31日(火)
⑦東寺(教王護国寺) 昭和48年09月30日(日)・昭和62年02月02日(月)
⑧清水寺 昭和48年08月30日(木)・昭和62年01月29日(木)・平成04年01月01日(水)
⑨醍醐寺 昭和48年12月13日(水)・平成03年12月29日(日)・平成25年04月01日(月)
⑩仁和寺 昭和48年10月25日(水)・平成04年01月02日(木)
⑪平等院 昭和62年02月02日(月)・平成04年01月05日(日)
⑫宇治上神社 平成18年10月14日(土)
⑬高山寺 昭和48年10月25日(水)・平成04年01月03日(金)
⑭銀閣寺 昭和48年09月03日(月)・平成04年01月01日(水)
⑮西本願寺 昭和48年10月11日(木)・平成04年01月02日(木)・平成16年03年07日(日)
⑯二条城 昭和50年12月22日(月)・平成19年10月03日(水)
⑰延暦寺 昭和48年12月02日(土)・平成03年12月30日(月)・平成19年04月22日(日)
04白川郷・五箇山の合掌造り集落(平成7年登録) 岐阜県白川村、富山県南砺市
①白川郷萩町 平成18年07月29日(土)・平成20年08月23日(土)
②五箇山相倉 平成18年07月29日(土)・平成20年05月25日(日)
③五箇山菅沼 平成18年07月29日(土)・平成20年05月25日(日)
05原爆ドーム(平成8年登録) 広島県広島市
昭和50年12月17日(土)・平成25年03月28日(木)・平成26年01月12日(日)
06厳島神社(平成8年登録) 広島県廿日市市
平成22年03月24日(水)・平成25年11月24日(日)・平成26年08月24日(日)
07古都奈良の文化財(平成10年登録) 奈良県奈良市
①東大寺 昭和48年12月16日(土)・昭和62年02月03日(火)・平成05年10月11日(月)
②興福寺 昭和48年12月16日(土)・昭和62年02月03日(火)・平成05年10月11日(月)
③春日大社 昭和48年12月16日(土)・昭和62年02月03日(火)・平成05年10月11日(月)
④元興寺 昭和62年02月04日(水)
⑤薬師寺 昭和62年02月04日(水)・平成19年09月29日(土)
⑥唐招提寺 昭和62年02月04日(水)・平成19年09月29日(土)
⑦平城宮 昭和62年02月04日(水)・平成19年09月28日(金)
⑧春日山原生林 平成29年06月02日(金)
08日光の社寺(平成11年登録) 栃木県日光市
①東照宮 平成02年06月04日(月)・平成03年09月22日(日)・平成05年03月27日(土)
②輪王寺 平成02年06月04日(月)・平成03年09月22日(日)・平成05年03月27日(土)
③二荒山神社 平成02年06月04日(月)・平成05年03月27日(土)
09琉球王国のグスク及び関連遺産群(平成12年登録) 沖縄県那覇市・今帰仁村・読谷村・うるま市・中城村・南城市
①首里城跡 昭和49年05月02日(木)
②首里城 平成28年02月10日(金)
③今帰仁城跡 平成28年02月11日(土)
④座喜味城跡 平成28年02月11日(土)
⑤勝連城跡 平成28年02月11日(土)
⑥中城城 平成28年02月11日(土)
⑦園比屋武御嶽石門 平成28年02月10日(金)
⑧玉陵 平成28年02月10日(金)
⑨識名園 平成28年02月11日(土)
⑩斎場御嶽 平成28年02月11日(土)
10紀伊山地の霊場と参詣道(平成16年登録)
吉野・大峰エリア 奈良県吉野町・天川村
①吉野山 平成02年04月08日(日)・平成19年04月08日(日)・平成23年03月06日(日)
②吉野水分神社 平成02年04月08日(日)・平成23年03月06日(日)
③金峯神社 平成02年04月09日(月)
④金峯山寺 平成02年04月08日(日)・平成19年04月08日(日)・平成23年03月06日(日)
⑤吉水神社 平成02年04月09日(月)・平成23年03月06日(日)
⑥大峰山寺 平成20年11月01日(土)
熊野三山エリア 和歌山県田辺市・新宮市・那智勝浦町、三重県紀宝町
⑦熊野本宮大社 平成02年11月04日(日)
⑧熊野速玉大社 平成02年11月04日(日)
⑨熊野那智大社 平成02年11月04日(日)
⑩青岸渡寺 平成02年11月04日(日)
⑪那智大滝 平成02年11月04日(日)
⑫那智原生林 未訪問
⑬補陀洛山寺 平成27年05月10日(日)
高野山エリア 和歌山県高野町・かつらぎ町・九度山町
⑭金剛峰寺 昭和62年02月01日(日)・平成02年04月09日(月)・平成19年05月03日(木)・平成22年03月30日(火)・平成27年04月19日(日) ・平成29年06月01日(木)
⑮丹生都比売神社 平成19年05月03日(木)
⑯慈尊院 昭和62年01月31日(土)・平成19年05月03日(木)
⑰丹生官省符神社 平成19年05月03日(木)
参詣道エリア 奈良県野迫川村・十津川村、和歌山県高野町・九度山町・かつらぎ町・田辺市・白浜町・すさみ町・新宮市、三重県尾鷲市・熊野市・紀北町・御浜町・紀宝町
⑱小辺路・中辺路・大辺路 未訪問
⑲伊勢路 未訪問
⑳町石道ほか 未訪問
11石見銀山遺跡とその文化的景観(平成19年登録) 島根県大田市
石見銀山遺跡 平成25年03月26日(火)
12平泉(平成23年登録) 岩手県平泉町
①中尊寺 昭和46年06月16日(水)・昭和60年07月21日(日)・平成01年11月12日(日)・平成05年04月05日(月)・平成28年02月20日(土)
②毛越寺 昭和46年06月16日(水)・昭和60年07月21日(日)・平成01年11月12日(日)・平成05年04月05日(月)・平成28年02月20日(土)
③観自在王院 平成01年11月12日(日)・平成28年02月20日(土)
④無量光院 平成01年11月12日(日)・平成28年02月20日(土)
⑤金鶏山 平成28年02月20日(土)
13富士山(平成25年登録)
①山頂の信仰遺跡群(静岡県・山梨県) 平成20年09月27日(土)、平成28年09月05日(木)
②大宮・村山口登山道(富士宮口登山道・静岡県富士宮市) 未訪問
③山口登山道(御殿場口登山道・静岡県御殿場市) 未訪問
④須走口登山道(静岡県小山町) 未訪問
⑤吉田口登山道(山梨県富士吉田市・鳴沢村) 未訪問
⑥北口本宮冨士浅間神社(山梨県富士吉田市) 平成25年10月03日(木)
⑦西湖(山梨県富士河口湖町) 平成25年10月03日(木)
⑧精進湖(山梨県富士河口湖町) 平成25年10月03日(木)
⑨本栖湖(山梨県富士河口湖町・身延町) 昭和59年05月18日(金)・平成25年10月03日(木)
⑩富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市) 平成25年10月03日(木)
⑪山宮浅間神社(静岡県富士宮市) 未訪問
⑫村山浅間神社(静岡県富士宮市) 未訪問
⑬須山浅間神社(静岡県裾野市) 未訪問
⑭冨士浅間神社(静岡県小山町) 未訪問
⑮河口浅間神社(山梨県富士河口湖町) 未訪問
⑯富士御室浅間神社(山梨県富士河口湖町) 未訪問
⑰旧外川家住宅(山梨県富士吉田市) 未訪問
⑱小佐野家住宅(山梨県富士吉田市) 未訪問
⑲山中湖(山梨県山中湖村) 平成25年10月03日(木)
⑳河口湖(山梨県富士河口湖町) 昭和59年05月18日(金)・平成25年10月04日(金)
21忍野八海(山梨県忍野村) 平成25年10月04日(金)
22船津胎内樹型(山梨県富士河口湖町) 未訪問
23吉田胎内樹型(山梨県富士吉田市) 未訪問
24人穴富士講遺跡(静岡県富士宮市) 未訪問
25白糸ノ滝(静岡県富士宮市) 平成25年10月03日(木)
26三保松原(静岡県静岡市) 昭和48年01月18日(水)
14富岡製糸工場と絹産業遺産群(平成26年登録)
①富岡製糸工場(群馬県富岡市) 平成22年08月12日(木)
②田島弥平旧宅(群馬県伊勢崎市) 平成29年07月23日(日)
③高山社跡(群馬県藤岡市) 未訪問
④荒船風穴(群馬県下仁田町) 未訪問
15明治日本の産業革命遺産(平成27年登録)
①萩反射炉(山口県萩市) 未訪問
②恵比須ヶ鼻造船所跡(山口県萩市) 未訪問
③大板山たたら製鉄遺跡(山口県萩市) 未訪問
④萩城下町(山口県萩市) 昭和49年06月01日(土)・平成27年03月14日(土)
⑤松下村塾(山口県萩市) 昭和49年06月01日(土)・平成27年03月14日(土)
⑥旧集成館(鹿児島県鹿児島市) 昭和49年05月25日(土)・平成23年04月03日(日)
⑦寺山炭窯跡(鹿児島県鹿児島市) 未訪問
⑧関吉の疎水溝(鹿児島県鹿児島市) 未訪問
⑨韮山反射炉(静岡県伊豆の国市) 平成2年09月23日(日)
⑩橋野鉄鉱山(岩手県釜石市) 平成30年03月10日(土)
⑪三重津海軍所跡(佐賀県佐賀市) 未訪問
⑫小菅修船場跡(長崎県長崎市) 未訪問
⑬三菱長崎造船所第三船渠(長崎県長崎市) 非公開
⑭長崎造船所ジャイアント・カンチレバークレーン(長崎県長崎市) 非公開
⑮長崎造船所旧木型場(長崎県長崎市) 未訪問
⑯長崎造船所占勝閣(長崎県長崎市) 未訪問
⑰高島炭鉱(長崎県長崎市) 未訪問
⑱端島(軍艦島)炭鉱(長崎県長崎市) 未訪問
⑲旧グラバー住宅(長崎県長崎市) 平成05年06月01日(火)
⑳三池炭鉱・三池港(熊本県大牟田市・荒尾市) 未訪問
①´三角西(旧)港(熊本県宇城市) 平成29年03月20日(月)
②´官営八幡製鐵所(福岡県北九州市) 非公開
③´遠賀川水源地ポンプ室(福岡県中間市) 非公開
16ルコルビユジエの建築作品・国立西洋美術館(平成28年登録) 東京都台東区
国立西洋美術館 平成29年09月24日(日)
17「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群(平成29年登録) 福岡県宗像市・福津市
①沖ノ島(宗像大社沖津宮) 非公開
②宗像大社中津宮(大島) 非公開
③沖津宮遥拝所(宗像大社境内) 平成23年04月07日(木)
④宗像大社辺津宮(宗像大社境内) 平成23年04月07日(木)
⑤新原・奴山古墳群(福津市) 未訪問
18長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(平成30年登録)
①大浦天主堂(長崎県長崎市) 平成05年06月01日(火)
②外海の出津集落(長崎県長崎市)
③外海の大野集落(長崎県長崎市)
④原城跡(長崎県南島原市)
⑤黒島の集落(長崎県佐世保市)
⑥平戸島の安満岳と春日集落(長崎県平戸市)
⑦平戸島の中江ノ島集落(長崎県平戸市)
⑧野崎島の集落跡(長崎県小値賀町)
⑨頭ヶ島の集落(長崎県新上五島町)
⑩久賀島の集落(長崎県五島市)
⑪奈留島の江上集落(長崎県五島市)
⑫天草の崎津集落(熊本県天草市)
19百舌鳥・古市古墳群(令和元年登録)
百舌鳥エリア(大阪府堺市)
①大仙古墳[伝仁徳天皇陵] 昭和46年05月23日(日)、平成16年02月28日(土)、令和3年10月10日(日)
②上石津ミサンザイ古墳[伝履中天皇陵] 平成16年02月28日(土)、令和3年10月10日(日)
③ニサンザイ古墳[史跡] 令和3年10月10日(日)
④日出井山古墳[伝反正天皇陵] 平成16年02月28日(土)、令和3年10月10日(日)
⑤御廟山古墳 平成16年02月28日(土)、令和3年10月10日(日)
⑥いたすけ古墳[史跡] 平成16年02月28日(土)、令和3年10月10日(日)
⑦長塚古墳[史跡] 令和3年10月10日(日)
⑧永山古墳 令和3年10月10日(日)
⑨丸保山古墳[史跡] 令和3年10月10日(日)
⑩銭塚古墳[史跡]
⑪大安寺山古墳 令和3年10月10日(日)
⑫竜佐山古墳 令和3年10月10日(日)
⑬収塚古墳[史跡] 令和3年10月10日(日)
⑭旗塚古墳[史跡] 令和3年10月10日(日)
⑮茶山古墳 令和3年10月10日(日)
⑯孫太夫山古墳 令和3年10月10日(日)
⑰菰山塚古墳 令和3年10月10日(日)
⑱七観音古墳[史跡] 令和3年10月10日(日)
⑲塚廻古墳[史跡] 令和3年10月10日(日)
⑳寺山南山古墳[史跡] 令和3年10月10日(日)
①´善右ヱ門山古墳[史跡] 令和3年10月10日(日)
②´銅亀山古墳 令和3年10月10日(日)
③´源右衛門山古墳 令和3年10月10日(日)
古市エリア(大阪府羽曳野市・藤井寺市)
①誉田山古墳[伝応神天皇陵] 平成16年03月06日(土)、令和3年10月16日(土)
②仲津山古墳[伝仲姫命陵] 令和3年10月16日(土)、令和3年10月16日(土)
③岡ミサンザイ古墳[伝仲哀天皇陵] 昭和50年12月23日(火)、令和3年10月17日(日)
④古野山古墳[伝允恭天皇陵] 平成16年03月06日(土)、令和3年10月16日(土)
⑤墓山古墳[史跡] 令和3年10月16日(土)
⑥津堂城山古墳[史跡] 令和3年10月17日(日)
⑦白鳥陵古墳[伝日本武尊墓] 令和3年10月16日(土)
⑧古室山古墳[史跡] 令和3年10月16日(土)
⑨大鳥塚古墳[史跡] 令和3年10月16日(土)
⑩二ツ塚古墳 令和3年10月17日(日)
⑪はざみ山古墳[史跡] 令和3年10月16日(土)
⑫峯ヶ塚古墳[史跡] 令和3年10月16日(土)
⑬鍋塚古墳[史跡] 令和3年10月16日(土)
⑭向墓山古墳 令和3年10月16日(土)
⑮浄元寺山古墳[史跡] 令和3年10月16日(土)
⑯青山古墳[史跡]
⑰鉢塚古墳[史跡] 令和3年10月17日(日)
⑱東山古墳[史跡] 令和3年10月16日(土)
⑲八島塚古墳 令和3年10月16日(土)
⑳中山塚古墳 令和3年10月16日(土)
①´誉田丸山古墳 令和3年10月17日(日)
②´西馬塚古墳
④´栗塚古墳 令和3年10月17日(日)
⑤´野中古墳[史跡]
⑤´助太山古墳[史跡] 令和3年10月16日(土)
⑥´東馬塚古墳 令和3年10月17日(日)
20北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群(令和3年登録)
①キウス周堤墓群(北海道千歳市)
②北黄金貝塚(北海道伊達市) 令和元年11月30日(土)
③入江・高砂貝塚(北海道洞爺湖町)
④大船遺跡(北海道函館市) 平成21年05月08日(金)
⑤垣ノ島遺跡(北海道函館市)
⑥三内丸山遺跡(青森県青森市) 平成06年09月06日(火)、平成07年05月07日(日)、平成24年05月04日(金)
⑦小牧野遺跡(青森県青森市)
⑧是川遺跡(青森県八戸市) 平成07年07月16日(日)
⑨亀ヶ岡石器時代遺跡(青森県つがる市) 平成13年08月14日(火)、平成24年05月05日(土)
⑩田小屋野貝塚(青森県つがる市)
⑪大森勝山遺跡(青森県弘前市)
⑫二ツ森貝塚(青森県七戸町)
⑬大平山元Ⅰ遺跡(青森県外ヶ浜町) 平成24年06月03日(日)
⑭御所野遺跡(岩手県一戸町)
⑮大湯環状列石(秋田県鹿角市) 昭和50年06月10日(火)、平成21年04月12日(日)、平成22年01月10日(日)
⑯伊勢堂岱遺跡(秋田県北秋田市) 平成21年08月09日(日)
世界産業遺産登録予定リスト
金を中心とする佐渡鉱山の遺産群
武家の古都・鎌倉
彦根城
飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群
近代日本の教育遺産群 旧弘道館(茨城県水戸市)・足利学校(栃木県足利市)・旧閑谷学校(岡山県備前市)・咸宜園跡(大分県日田市)