名刹本山100ヶ寺

紫闇陀寂

前書き

日本の仏教を勉強していると、日本独自の仏教が蔓延っていて、ブッタの教えが随分と形を変えた宗教となった痛感する。聖徳宗の聖徳太子、真言宗の空海大師、浄土真宗の親鸞上人、日蓮宗の日蓮上人などは、宗祖崇拝の独自の仏教と言える。

そもそも日本が仏教を学んだ本家の中国(※①華国)では、1)毘曇宗、2)成実宗、3)律宗、4)三輪宗、5)涅槃宗、6)地論宗、7)浄土宗、8)禅宗、9)摂論宗、10)天台宗、11)華厳宗、12)法相宗、13)真言宗の十三宗があった。宗教的な宗派ではなく学派として存在していたようで、奈良時代に三輪宗、成実宗、法相宗、俱舎宗(毘曇宗)、華厳宗、律宗の「南都六宗」が伝わった。平安時代初期には天台宗と真言宗が伝わり、平安時代末期には浄土宗(浄土教)が盛んとなった。鎌倉時代になって禅宗が伝わり、江戸時代初期に禅宗の一派である黄檗宗が伝えられたのが仏教伝来の最後となった。

その後、華国では共産党による一党支配の国になり、文化大革命によって華国仏教の殆どが消滅した。チベットの破壊は酷く、中国仏教教会の名誉会長であったダライ・ラマ師はインドに亡命する有様であった。華国の仏教は滅び、日本の仏教も明治初年(※②靖国時代の初年)の神仏分離令による廃仏毀釈と言う弾圧があった。しかし、仏教伝来から1330年も経ていた当時、華国のような全否定は不可能であったと推察する。逆にキリスト教が解禁されて、華国の文化大革命とは天と地の差があったと言えよう。

廃寺を免れた寺院の僧侶は、浄土真宗の非僧非俗の精神を真似て「肉食妻帯」の生活をするのが常態化した。霞ヶ関時代(※③戦後の時代)になると、宗教的には自由な仏教が蘇り、靖国時代に禁止されていた神仏習合が復活した。その最たるものが修験道であり、再興された寺院も多い。しかし、宗教法人法が昭和26年(1951年)に発令され、宗教施設に対する優遇措置がとられると、独立する宗派が増えた。京都の清水寺が法相宗から北法相宗に、鞍馬寺が天台宗から鞍馬弘教になっている。大阪の四天王寺も天台宗から聖徳太子の創建に因んで、和宗となった。岡山県の最上稲荷などは、神仏習合であったこともあって日蓮宗から独立したが、平成21年(2009年)には日蓮宗に復帰している例もある。

最近の華国では、仏教寺院の復興が少しずつ行われているものの、宗教の自由がないのが実状である。華国からの日本を訪ねる観光客は、仏教が盛んだった昔の華国を日本で感じられているように思える。華国の南北朝代、朝鮮半島の百済から仏教が伝来されてから様々な変遷を経て、現在の日本の仏教は十三宗五十六派が林立している。今回の「名刹本山100ヶ寺」は、林立する宗派を眺めながら感想を述べたいと思う。

※記についてのコメント。※①日本の中国地方との混同を避ける意味で中華人民共和国は、華国と呼ぶのが相応しいと筆者は思う。※②日本の時代名は、飛鳥や奈良のように地名で統一するのが良いと思う。明治、大正、昭和、平成は年号ではなく、時代的背景や政治形態を考慮して地名に改めるべは思う。明治初年から昭和の戦前までの77年間は、軍国主義的の時代だったので靖国時代がマッチする。昭和の戦後から現代までは、官僚支配の時代なので霞ヶ関時代と呼ぶのが良いだろう。

十三宗五十六派の総本山・大本山・本山・別格本山

十三宗(開祖と時代)  五十六派   総本山・大本山・本山 /所在地 ※数字有りは著者参拝済み

①律宗(鑑真)-奈良時代-

01律宗

01総本山唐招提寺/奈良県奈良市

大本山壬生寺/京都市中京区

02真言律宗

02総本山西大寺/奈良県奈良市

03大本山宝山寺/奈良県生駒市

②法相宗(道昭)-奈良時代-

03法相宗

04大本山興福寺/奈良県奈良市

05大本山薬師寺/奈良県奈良市

北法相宗

06大本山清水寺/京都市東山区

聖徳宗

07総本山法隆寺/奈良県斑鳩町

本山法起寺/奈良県斑鳩町

本山法輪寺/奈良県斑鳩町

③華厳宗(良弁)-奈良時代-

04華厳宗

08大本山東大寺/奈良県奈良市

中本山平等寺/熊本県熊本市

               

                 

④天台宗(最澄)-平安時代-        

05天台宗(山門派)

09総本山延暦寺/滋賀県大津市

10関東総本山寛永寺/東京都台東区

 関東総本山喜多院/埼玉県川越市

11東北大本山中尊寺/岩手県平泉町

12別格本山圓教寺/兵庫県姫路市

和宗

13総本山四天王寺/大阪市天王寺区

聖観音宗

14総本山浅草寺/東京都台東区

修験本宗

15総本山金峯山寺/奈良県吉野町

鞍馬弘教

16総本山鞍馬寺/京都市左京区

粉河観音宗

17総本山粉河寺/和歌山県紀の川市

慈恩宗

本山慈恩寺/山形県寒河江市

06天台寺門宗(寺門派)

18総本山園城寺(三井寺)/滋賀県大津市

本山修験宗

総本山聖護院/京都市左京区

羽黒山修験宗

本山荒沢寺/山形県鶴岡市

07天台真盛宗

19総本山西教寺/滋賀県大津市

⑤真言宗(空海)-平安時代-

08高野山真言宗(古義真言宗)

20総本山金剛峯寺/和歌山県高野町

真言宗須磨寺派

21大本山福祥寺(須磨寺)/神戸市須磨区

信貴山真言宗

22総本山朝護孫子寺/奈良県平群町

真言宗御室派

23総本山仁和寺/京都市右京区

大本山天野金剛寺/大阪府河内長野市

大本山大聖院(宮島)/広島県廿日市市

24大本山広隆寺/京都市右京区

真言三宝宗

25大本山清澄寺(清荒神)/兵庫県宝塚市

真言宗中山寺派

26大本山中山寺/兵庫県宝塚市

真言宗花山院派

大本山菩提寺/兵庫県三田市

真言宗大覚寺派 

27大本山大覚寺/京都市右京区

準大本山大山寺/神奈川県伊勢原市

真言宗大日派 

28本山鑁阿寺/群馬県足利市

真言教団 

本山鶏足寺/栃木県足利市

真言密宗 

大本山日石寺/富山県上市町

五智教団

29大本山鳳来寺/愛知県新城市

本山法輪寺/京都市西京区

新真言宗

総本山長栄寺/大阪府東大阪市

霊山寺真言宗

大本山霊山寺/奈良県奈良市

真言宗九州教団

30本山東長寺/福岡県福岡市

09真言宗醍醐派

31総本山醍醐寺/京都市伏見区

大本山龍泉寺/奈良県天川村

32大本山西国寺/広島県尾道市

大本山転法輪寺/奈良県御所市

真言宗犬鳴派

大本山七宝瀧寺/大阪府泉佐野市

真言宗鳳閣寺派 

大本山鳳閣寺/奈良県黒滝村

真言宗石鉃派

33総本山前神寺/愛媛県西条市

石鉃真言宗

総本山極楽寺/愛媛県西条市

10真言宗東寺派

34総本山教王護国寺(東寺)/京都市南区

東寺真言宗(古義真言宗) 同上

35大本山石山寺/滋賀県大津市

11真言宗泉涌寺派

36大本山泉涌寺/京都市東山区

37大本山浄土寺/広島県尾道市

12真言宗山階派

38大本山勧修寺/京都市山科区

救世観音宗

39総本山護国院(紀三井寺)/和歌山県和歌山市

真言宗国分寺派

大本山国分寺/大阪市北区

13真言宗善通寺派

40総本山善通寺/香川県善通寺市

41大本山随心院/京都市山科区

新義真言宗

42総本山根来寺/和歌山県岩出市

14真言宗豊山派(新義真言宗)

43総本山長谷寺/奈良県桜井市

44大本山護国寺/東京都文京区

真言宗室生寺派 

45大本山室生寺/奈良県宇陀市

15真言宗智山派

46総本山智積院/京都市東山区

智山派三大本山

47大本山新勝寺(成田山)/千葉県成田市

48大本山平間寺(川崎大師)/川崎市川崎区

49大本山薬王院(高尾山)/東京都あきる野市

新義真言宗湯殿山派

大本山注連寺/山形県鶴岡市

⑥融通念仏宗(良忍)-平安時代-

16融通念仏宗

50総本山大念佛寺/大阪市平野区

中本山来迎寺/大阪府松原市

⑦浄土宗(法然)-平安時代 –

17浄土宗(鎮西派)

51総本山知恩院/京都市東山区

浄土宗七大本山

52関東総本山増上寺/東京都港区

大本山光明寺/神奈川県鎌倉市

53大本山善光寺(大本願)/長野県長野市

54大本山金戒光明寺/京都市左京区

55大本山知恩寺(百万遍)/京都市左京区

大本山清浄華院/京都市上京区

56大本山善導寺/福岡県久留米市

18西山浄土宗(浄土宗西山派)

57総本山光明寺/京都府長岡京市

19西山深草派(浄土宗西山派)

総本山誓願寺/京都市中京区

20西山禅林寺派(浄土宗西山派)

58総本山禅林寺/京都市左京区

⑧浄土真宗(親鸞)-鎌倉時代-  

21浄土真宗本願寺派(真宗十派)

59本山西本願寺/京都市下京区

22真宗大谷派(真宗十派)

60本山東本願寺/京都市下京区

23真宗誠照寺派(真宗十派)

61本山誠照寺/福井県鯖江市

24真宗高田派(真宗十派)

62本山専修寺/三重県津市

25真宗三門徒派(真宗十派)

63本山専照寺/福井県福井市

26真宗興正寺派(真宗十派)

64本山興正寺/京都市下京区

27真宗木辺派(真宗十派)

65本山錦織寺/滋賀県野洲市

28真宗佛光寺派(真宗十派)

66本山佛光寺/京都市下京区

29真宗山元派(真宗十派)

67本山証誠寺/福井県鯖江市

30真宗出雲路派(真宗十派)

68本山毫摂寺/福井県越前市

真宗浄興寺派

本山浄興寺/新潟県上越市

⑨臨済宗(栄西)-鎌倉時代-     

31建仁寺派(明庵栄西)

69大本山建仁寺/京都市東山区

32東福寺派(円爾弁円)

70大本山東福寺/京都市東山区

中本山宝福寺/岡山県総社市

33建長寺派(蘭渓道隆)

71大本山建長寺/神奈川県鎌倉市

34円覚寺派(無学祖元)

72大本山円覚寺/神奈川県鎌倉市

35南禅寺派(無関普門)

73大本山南禅寺/京都市左京区

36国泰寺派(慈雲妙意)

74大本山国泰寺/富山県高岡市

37大徳寺派(宗峰妙超)

75大本山大徳寺/京都市北区

38向嶽寺派(抜隊得勝)

76大本山向嶽寺/山梨県甲州市

39妙心寺派(関山慧玄)

77大本山妙心寺/京都市右京区

78本山瑞巌寺/宮城県松島町

40天龍寺派(夢窓疎石)

79大本山天龍寺/京都市右京区

41永源寺派(寂室元光)

80大本山永源寺/滋賀県東近江市

42方広寺派(無文元選)

81大本山方広寺/静岡県浜松市

43相国寺派(夢窓疎石)

82大本山相国寺/京都市上京区

44佛通寺派(愚中周及)

83大本山佛通寺/広島県三原市

法灯派 (無本覚心)

大本山興国寺/和歌山県由良町

興聖寺派(虚応円耳)

本山興聖寺/京都市上京区

⑩曹洞宗(道元)-鎌倉時代-

45曹洞宗

84大本山永平寺/福井県永平寺町

85大本山総持寺/横浜市鶴見区

86大本山総持寺祖院/石川県輪島市

⑪日蓮宗(日蓮)-鎌倉時代-

46日蓮宗(日蓮宗)

87総本山久遠寺/山梨県身延町

四大本山・七大本山

88大本山池上本門寺/東京都大田区

89大本山法華経寺/千葉県市川市

大本山妙顕寺/京都市上京区

大本山本圀寺/京都市山科区

七大本山

90大本山誕生寺/千葉県鴨川市

91大本山北山本門寺/静岡県富士宮市

92大本山清澄寺/千葉県鴨川市

93東北本山孝勝寺/仙台市宮城野区

本山龍口寺/神奈川県藤沢市

94本山妙成寺/石川県羽咋市

本山妙宣寺/新潟県佐渡市

本山根本寺/新潟県佐渡市

旧最上稲荷教

95総本山妙教寺/岡山県岡山市

47顕本法華宗(日蓮宗)

総本山妙満寺/京都市左京区

48本門宗(日蓮宗)

日蓮宗に移行(北山本門寺)

49日蓮正宗(日蓮正宗)

96総本山大石寺/静岡県富士宮市

50法華宗本門流(法華宗)

大本山光長寺/静岡県沼津市

大本山鷲山寺/千葉県茂原市

大本山本能寺/京都市中京区

大本山本興寺/兵庫県尼崎市

法華宗陣門流(法華宗)

97総本山本成寺/新潟県三条市

法華宗真門流(法華宗)

総本山本隆寺/京都市上京区

51本門法華宗(法華宗)

大本山妙蓮寺/京都市上京区

52本妙法華宗(法華宗)

真門流に移行(本隆寺)

53日蓮宗不受布施派(本化正宗)

総本山妙覚寺/岡山県岡山市

54日蓮宗不受布施講門派(本化正宗)

本山本覚寺/岡山県御津町

⑫時宗(一遍)-鎌倉時代-

55時宗

98総本山清浄光寺(遊行寺)/神奈川県藤沢市

旧本山宝厳寺/愛媛県松山市

⑬黄檗宗(隠元)-江戸時代-

56黄檗宗

99総本山萬福寺/京都府宇治市

100祖院崇福寺/長崎県長崎市

「十三宗五十六派の総本山・大本山・本山」は、江戸末期に形成された十三宗五十六派の日本仏教に、筆者が主な総本山・大本山・本山を加えたものである。現在は変更となった宗派もあり、宗派も乱立状態となっているので、100ヶ寺を特定するのは難しいが、現在も総本山、大本山、そして本山として宗派を代表する大寺院であることに変りはない。

日本を代表する100ヶ寺には若い頃から興味があり、最初に求めた本が昭和51年(1976)、平凡社から発行された『別冊太陽』である。「古寺名刹百選」が紹介されていたので、自然と自分の目で確認したいと思った。実際に自分の目で確認することが大切で、期待を裏切られたり、期待以上の古刹があったりと知らない寺院の現状を知ることが目標となった。

秋田書店から出版された『日本古寺100選』は、昭和54年(1979)が初版で、昭和59年(1984)の8版発行を購入した。東日本の寺院が多く、頼りにする100選ではなかった。名刹でもない小さな寺が多くあって、44ヶ所を回った時点で本を開くことがなくなった。

その後、古本屋で偶然入手した本が、朝日新聞社が昭和38年(1963年)に刊行した『古寺再見』が優れていた。111選を紹介していて、その110ヶ寺を参拝したが、納得できる選定であったと思う。もう一冊は100選の本ではないが、『古寺名刹大辞典』を平成4年に購入した。東京堂出版から出されたもので、1,050余ヶ寺の寺院を紹介している。この辞典が最も信頼のおける案内所であるが、佐賀県の寺院は1ヶ寺もなく、大興禅寺と言う立派な寺を採録していない。また、地元の秋田県横手市の観音寺などは朽ち果てようとしているにも関わらず選定されているし、有名な寺院がもれていて多少の疑問は残る。

JTBが平成6年(1994)に出版した『たびだす‘94』という旅の万科事典には、191ヶ寺の寺院が紹介されていたが、無住の寺もあって選定に基準がないようにも見えた。最近では五木寛之氏の『百寺巡礼』が話題となっが、浄土真宗の小さな寺もあって選定に基準がないようにも思われた。そこで私は、3つの基準を定めて選定することにした。1つ目は七堂伽藍が整っていること。2つ目は、歴史上重要な寺院であること。3つ目は、信者や檀家、拝観者等が多いこと。その3点を重視すると、大寺院が該当することになり、「名刹本山100ヶ寺」というタイトルで選定した。実際に私が参拝した100選であり、宗派的なバランスも考慮したものである。私が寺院めくりで得た情報を次の世代に残すことも大切と思い、ここに右往左往した寺院めぐりの参拝を記録したい。

001律宗総本山唐招提寺(南都七大寺)

①山号院号:  なし。

②本尊:  盧舎那仏坐像(国宝)。

③開山:  鑑真和上、開基:  聖武・孝謙天皇。中興:  覚盛上人、重興:  護持院隆光。

④開山開基年:  天平勝宝8年(758年)、中興年: 寛元2年(1244年)、重興年:  江戸時代。

⑤文化財:  国宝堂宇(金堂、講堂、経蔵、宝蔵、鼓楼)、重文堂宇(礼堂、御影堂、寝殿、殿上・玄関)、主な国宝仏像(鑑真和上坐像)。

⑥支院・塔頭:  3ヶ寺、末寺: 28 ヶ寺。

⑦寺域:  不明。

⑧特色:  世界文化遺産。史跡。七堂伽藍の景観。

⑨所在地:  奈良県奈良市。

⑩訪問年:  昭和62年02月04日(水)・平成19年09月29日(土)。

  奈良を初めて旅する人の多くは、まず東大寺大仏殿を訪ねるだろう。私も例外ではなく、20歳の時に訪ねた際は東大寺、興福寺、春日大社などを巡拝した。唐招提寺を初めて訪ねたのは、東大寺の訪問から遅れること14年後の昭和62年の2月であった。私の所在地は、秋田県横手市なので奈良を含めた関西は遠い世界であり、金と時間に余裕がなければ中々訪ねるのは困難な場所である。

唐招提寺を最も注目するものは、国宝と重要文化財の七堂伽藍であり、金堂(本堂)や講堂は約1260年前の創建当時の堂宇である。法隆寺の七堂伽藍に次ぐ古さであり、「天平の甍」を今に残す日本至極の国宝とも言える。開基した鑑真和上(688-763)は、聖武・孝謙両天皇の勅願によって唐から日本に招かれた高僧で、5度目の渡海で艱難辛苦の末に来日を果たした。既にに66歳の高齢となり、潮風によって失明していたそうである。

当時の日本仏教界において、出家して僧侶になるためには受戒が必要であっが、百済が滅びる以前は百済で、その後は唐に渡って受戒を授かっていた。そのため日本人の僧侶は少なく、朝鮮半島から渡った僧侶が日本に定着した仏教を流布した。仏教を国教のように重んじた聖武天皇は、日本でも受戒できる導師と戒壇院が必要と考えて鑑真和上を招聘したのである。そして、東大寺に戒壇院が開設されて聖武天皇を初めとして、関係者が鑑真和上から受戒を授かって僧侶として認可されたのである。

唐招提寺の伽藍については、別冊『国宝建築の旅』に印象や詳細を記述しているので参照して欲しい。私の旅の基本は、古き良き時代と接することであり、寺では100%以上の満足を得た。私の生涯の師である松尾芭蕉翁が、この寺を訪ねたことが重要なことである。

貞享05年(1688)、『笈の小文』の旅で芭蕉翁は45歳の時に唐招提寺を参詣している。私は芭蕉翁の旅の足跡を踏破することを人生の最大の目的にしているので、鑑真和上が苦難の末に来朝した故事を踏まえた句碑があったことに感激した。

「若葉して 御めの雫 ぬぐはばや」 松尾芭蕉

002真言律宗総本山西大寺(高野寺・南都七大寺・真言宗十八本山)

①山号院号:  秋篠山四天院。

②本尊: 釈迦如来立像(重文)。

③開山: 常騰律師、開基: 称徳天皇。中興:  思円叡尊上人。

④開山開基年:  天平神護元年(765年)。中興年:  嘉禎2年(1236年)。

⑤文化財: 重文堂宇(本堂)。主な国宝絵画(十二天像の水天)。

  ⑥支院・塔頭:  6ヶ寺、末寺: 88ヶ寺。

⑦寺域: 23,100㎡(7,000坪)。

⑧特色: 史跡。大茶盛行事。

⑨所在地:  奈良県奈良市。

 ⑩訪問年: 昭和62年02月04日(水)。

天平宝字8年(764年)、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱に勝利した女帝・孝謙上皇(718-770)は、重祚して称徳天皇となる。その際に創建されたのが西大寺で、父・聖武天皇(701-756)が開基した東大寺に匹敵する大寺院の造営を意図したようである。創建後は南都七大寺の1つとして、110余の堂塔伽藍と支院の甍を並べ、東大寺に並ぶ規模であったとされる。

寺は度重なる火災と政治的不遇によって衰退し、昔日の面影は残っていないが本堂と本坊、6棟の堂宇と4棟の塔頭が建っている。本堂の前に東塔跡の礎石が残っているが、薬師寺のように東塔が再建されると、寺観も大きく変わると想像する。

鎌倉時代になると、荒廃した西大寺を叡尊上人が中興し、密教と戒律を融合させた根本道場を開く。復興されて旧観を取り戻したものの、室町時代の兵火で諸堂を失い、江戸時代の再建まで空白の時代が続いた。本堂は文化5年(1808年)に再建され、国の重要文化財でもある。創建当時の寺宝は殆どなく、叡尊上人の時代に造られた仏像や仏具が多い。

叡尊上人は醍醐寺や高野山で真言密教を学んだこともあって、西大寺の住持となって中興した際、律宗から真言宗に改めている。そして、約650年後の明治28年(1895年)、「真言律宗」として真言宗から独立して総本山となり、独自の宗風を確立するのである。

真言律宗に属する寺院は著名な寺院が多く、大本山の宝山寺(生駒聖天)、奈良の海龍王寺と不退寺、京都加茂の浄瑠璃寺、鎌倉の極楽寺、横浜の称名寺と観光ガイドブックでも紹介されている。宗派としての規模は小さいものの、西大寺と宝山寺は「真言宗十八本山」ともなっていて、現在でも真言宗との関わりは深いようである。

現在の西大寺は、観光寺院としての認知度は低いものの、テレビニュースで放映される寺の年中行事の「大茶盛」は極めて有名である。叡尊上人が境内に建つ鎮守八幡宮に茶を奉納し、お下がりの茶を参詣者にふるまったことが起源とされる。叡尊上人は文化人とも呼べる僧であったが、和歌や詩文などは殆ど残っていない。弟子の阿一上人が大阪八尾の末寺・教興寺で詠んだ和歌が衰退を繰り返した西大寺を随想するようで印象に残る。

「立田山 あらしの音も 高安の 里は荒れにし 寺と答えよ」 阿一上人

003真言律宗大本山宝山寺(生駒聖天・真言宗十八本山)

①山号:  生駒山。

②本尊: 不動明王坐像(重文)。

③開山開基:  役行者小角。中興:  宝山律師湛海。

④開山開基年: 斉明天皇元年(655年)。中興年:  延宝6年(1678年)。

⑤文化財: 重文堂宇(獅子閣)・主な重文仏像(五大明王像)。

⑥支院・塔頭: なし、末寺: 総本山に含む。

⑦寺域: 不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。門前町。ケーブルカー。

⑨所在地: 奈良県生駒市。

⑩訪問年: 平成16年02月22日(日)・平成20年11月21日(金)。

奈良盆地と大阪平野を区切る金剛山地の北に位置する生駒山、その中腹に生駒聖天で知られる宝山寺はある。山頂には昭和初期に開園された山上遊園地があり、山麓と山頂とはケーブルカーで結ばれていて、宝山寺の最初の参拝もケーブルカーを利用した。

裏参道から惣門をくぐり境内に入ると、堂塔伽藍の多さと岩肌が露呈した般若窟の奇勝に圧倒される。境内入口にある獅子閣は明治に建てられた洋館で、寺唯一の重文建築で斬新な客殿でもある。境内の中央には本堂と聖天堂が並び建っているが、本瓦葺の本堂に比べると八棟造り檜皮葺の聖天堂拝殿の方が立派に見える。聖天堂には、天部である歓喜天を祀っていて参道に鳥居があるのも頷ける。

寺の開基は修験道の開祖である役行者小角で、金剛山地中央部の茅原村(現御所市)が生誕地とされる。その縁から奈良に開基された寺が多いが、全国各地の山々にも多くの修験道寺院を開山している。全国各地の役行者の霊場には、若き日の空海大師も巡錫して修行をしている。この寺にも大師堂があるので、大師の足跡が偲ばれる。

宝山寺が現在の規模に発展するのは江戸時代のことで、宝山律師湛海が入寺してからである。湛海は商売繁盛の神として歓喜天を祀ったことから大阪商人の信仰を集め、今では年間300万人も参拝する有名寺院となった。

聖天堂から石段を上ると、文殊堂、観音堂、常楽殿、多宝塔と林立し、千余段あるとされる石段の中腹には大師堂が建つ。伽藍の景観を写真に撮りながら石段を上り切ると、奥ノ院本堂と湛海の廟所と開山堂がある。湛海(1629-1716)は伊勢の出身で、18歳で出家して江戸深川の永大寺、高野山の蓮華三昧院で真言密教を学んだとされる。仏像彫刻にも優れていた湛海は、五大明王像5躰(重文)を聖天堂に安置した。他に唐招提寺の不動明王坐像(重文)も湛海の作とされ、律宗との関わりがあったことが知られる。

開山堂の前には、立派な句碑が立っていたが古瓢という俳号だけでは誰なのか分からない。作者は鳥が雲のように群れ飛ぶ姿を見て、清浄な自然に手を合わせたのであろう。

「鳥雲に 享くるのみなる 手を浄む」 古瓢

004法相宗大本山興福寺(旧法相宗三大本山・南都七大寺)

 ①山号院号:  なし。

②本尊: 釈迦如来坐像(重文)。

③開山開基:  藤原不比等。

 ④開山開基年: 和銅3年(710年)。

  ⑤文化財: 国宝堂宇(東金堂、五重塔、三重塔、北円堂)、重文堂宇(南円堂・大湯屋)、主な国宝仏像(阿修羅立像、弥勒如来坐像)、名勝(旧大乗院庭園)。

⑥支院・塔頭:  2ヶ寺、末寺: 60ヶ寺。

⑦寺域:  82,500㎡(25,000坪)。

⑧特色: 世界文化遺産。門跡寺院。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 奈良県奈良市。

 ⑩訪問年: 昭和48年12月16日(土)・昭和62年02月03日(火)・平成05年10月11日(月)。

奈良の大寺院の中で比較的知名度は低いが、法隆寺と東大寺に次ぐ規模で奈良公園には欠かせない七堂伽藍の景観である。猿沢池に写る五重塔が最も美しく、月の名所としても文人墨客に愛されて来た。旧境内に建つ奈良ホテルが興福寺の景観に組み入れられたことには違和感を覚えるが、泊まった人でなければ味わえぬ感動があるかも知れない。

興福寺の前身は、藤原鎌足(614-669)が天智天皇8年(669年)、山城に建立した山階寺で、平城遷都の和銅3年(710年)、鎌足の子の藤原不比等(659-720)が現在地に氏寺(菩提寺)として創建した。平安時代には、東大寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺と共に「南都七大寺」と称され、明治15年(1882年)には薬師寺・法隆寺と共に「法相宗三大本山」とされた。平安時代から春日大社の別当寺のような役割も担っていたし、鎌倉・室町時代には大和国の守護の任にも当っていた歴史がある。

猿沢池から五重塔を眺め、南大門跡から広い境内に入ると、右手に五重塔と東金堂が建っている。平安末期の源平の合戦で、東大寺と同様に奈良・平安時代の伽藍を焼失し、現代残っている国宝堂宇は鎌倉時代以降の再建である。しかし、建築様式は平安時代の優美な姿を残し、純粋な和様建築を見ることができる。正面の参道には中金堂とその奥に再建中の金堂がある。境内の西側には興福寺で最も古い北円堂(八角円堂)が建ち、その南端に三重塔と南円堂がある。五重塔と三重塔が同一境内に建っている例は珍しく、いずれも国宝となれば最も貴重な塔とも言える。

東金堂の奥には、国宝館が建っていて、貴重な国宝や重文などの寺宝を一般公開している。特に有名な阿修羅立像は、切手にも採用された仏像で芸術性に富んだ女性的な美しさを感じさせる。また、奈良の古寺を愛した教育者で歌人の会津八一が、興福寺を思って詠んだユニークなひらがな短歌も忘れられない。

「はるきぬと いまかもろびと ゆきかえり ほとけのにはには はなさくらしも」

005法相宗大本山薬師寺(旧法相宗三大本山・南都七大寺)

①院号: 瑠璃宮。

②本尊: 薬師三尊像(国宝)、薬師如来坐像・日光菩薩立像・月光菩薩立像。

③開山:  道昭・義淵、開基:  天武・持統天皇。再興: 高田好胤。

④開山開基年: 天武天皇9年(680年)。再興年:  昭和51年(1976年)。

⑤文化財: 国宝堂宇(東院堂、東塔)、重文堂宇(南門・休岡若宮社社殿)、主な国宝仏像(聖観音菩薩立像)。

⑥支院・塔頭:  3ヶ寺、末寺: 興福寺に含む。

⑦寺域: 不明。

⑧特色: 世界文化遺産。史跡。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 奈良県奈良市。

⑩訪問年: 昭和62年02月04日(水)・平成19年09月29日(土)。

全国に薬師寺の寺号を持つ寺はたくさんあるけれど、奈良の薬師寺が最も有名で、清水寺と言えば京都の清水寺を指すようなものである。私が最初に薬師寺を訪ねた頃は、高田好胤(1924-1988)というユニークな住職がいて寺の再建に力を尽くしていた。その21年後、私は松尾芭蕉翁の足跡を追い、東海道と中山道を自転車で旅行した時に奈良にも立寄って薬師寺の近くの民宿に泊まった。

東塔と西塔の三重塔が田園風景の残る西ノ京に聳え、境内には朱色が鮮やかな七堂伽藍が創建当時を再現していた。薬師寺は白鳳時代に天武天皇(631?-686)が、皇后の病気平癒を願い飛鳥に建立されたのが始まりで、平安遷都にともない奈良に移された。遷都から20年後の天平2年(730年)、現在の東塔が落慶した。三重塔では斑鳩の法起寺三重塔に次ぐ古さで、明治に来寺した米国のフェノロサが「凍れる音楽」と評している。

重文の南門から境内に入ると、薬師寺式と称される伽藍配置が特徴的な寺観を呈して眼前に広がる。中門の東西に比較的大きな回廊がめぐらされ、正面に金堂と大講堂が建ち、その手前に東塔と西塔が驚くような高さで屹立している。一見すると、五重塔のように見えるが各層に裳階があるためで珍しい意匠でもある。回廊の外に建つ東院堂も国宝であり、他に南門の外に建つ休岡若宮社社殿は重文である。

20年ぶりに薬師寺を訪ねて思ったことは、失われた諸堂が木造で復元され、食堂跡など再建されていない諸堂が限られていることである。好胤師は19年前に亡くなられているけれど、薬師寺再建の意志は後継者にもバトンタッチされて木槌の音が響いていた。

西塔には会津八一の歌碑があり、東塔には佐佐木信綱の歌碑が立つ。昭和62年に参拝した折は、信綱の歌碑だけがあったような気がするが、バランスを考えて八一の歌碑を立てたのであろう。その短歌の出来栄えに関しては、私は信綱氏に軍配を上げたい。

「すゐえんの あまつをとめが ころもでの ひまにもすめる あきのそらかな」 八一

「行く秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる 一ひらの雲」 信綱

006北法相宗大本山清水寺(北観音寺)

①山号: 音羽山。

②本尊: 十一面観音立像(重文)。

③開山:  延鎮、開基: 坂上田村麻呂。再建:  大西良慶。

④開山開基年: 延暦3年(784年)。再建年:  昭和40年(1965年)。

⑤文化財:  国宝堂宇(本堂)、重文堂宇(田村堂、阿弥陀堂、三重塔、子安塔、朝倉堂、釈迦堂、経堂、鐘楼、仁王門、西門、轟門、本坊北総門、奥院、鎮守堂[春日社]、馬駐)、名勝(成就院庭園)。

⑥支院・塔頭:  4ヶ寺、末寺: 8ヶ寺。

⑦寺域: 約130,000㎡(約40,000坪)。

⑧特色: 世界文化遺産。西国三十三ヶ所観音霊場。門前町。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 京都市東山区。

⑩訪問年: 昭和48年08月30日(木)・昭和62年01月29日(木)・平成04年01月01日(水)。

羽後(羽州)の国、秋田県に生まれた私は、少年の頃から京都に強い憧れを抱いていた。そして、19歳の夏に京都を初めて訪ねて向かったのが清水寺である。京都ではダントツの人気の観光寺院で、年間400万人も訪れると言う。清水寺の魅力は自然豊かな景観もあるが、何と言っても参道の清水坂や三年坂の門前町であろう。

清水寺は奈良時代の末、征夷大将軍で知られる坂上田村麻呂(758-811)が八坂の自宅に法相宗の僧・延鎮を招き創建した。最初は北観音寺と称したようであるが大同元年(806年)、桓武天皇より紫宸殿を賜って本堂した時に音羽山清水寺と改められた。時代が下った昭和40年(1965年)、時の住職・大西良慶師が法相宗から独立して北法相宗を興している。

仁王門を入り、先ず目を引くのは三重塔で、その先に大きな檜皮葺の本堂の屋根が見えて来る。早く本堂の舞台の上に立ちたい気持ちを抑え、入口で拝観料を払って本堂に入った。最初の参拝の際は、手を合わせるだけの御経を唱えられなかったが、二度目の参拝では「般若心経」と「舎利礼文」を唱えた。三度目には本尊の十一面観音立像を拝む相応しい「観音経偈」を唱えて、神仏に生かされていることに感謝した。

京都の多くの寺院が室町末期の応仁乱で焼かれ、清水寺の本堂も焼失している。再建されたのは、泰平の世となった江戸時代の寛永10年(1633年)である。舞台造りと言う独特の建築で、全国的に見ても最大であり、国宝となっている。江戸時代には俗に「清水の舞台から飛び降りる」と揶揄されるほど自殺者が多かったそうである。本堂の先には音羽ノ滝があり、子安塔(三重塔)が聳えて、清閑寺へと野趣に富んだ参道は続いていた。

清水寺には多くの文人墨客が訪ねているが、清水寺に関する有名な絵画や詩歌は少ない。清水寺は東山の別称があり、芭蕉翁の弟子の服部嵐雪が詠んだ句が最も有名である。

「布団着て 寝たる姿や 東山」 嵐雪

007聖徳宗総本山法隆寺(斑鳩寺・旧法相宗三大本山・旧法相宗総本山・旧南都七大寺)

①山号院号: なし。

 ②本尊: 釈迦如来坐像(国宝)。

 ③開山:  聖徳太子、開基: 推古天皇。

 ④開山開基年: 推古天皇15年(607年)。

 ⑤文化財: 国宝堂宇・西院(金堂、大講堂、五重塔、南大門、中門、東廻廊・西廻廊、経蔵、鐘楼、聖霊院、食堂、三経院・西室、東室、綱封蔵、西円堂、東大門)、東院(伝法堂、夢殿[上宮王院]、東院鐘楼)、重文堂宇・西院(西園院上土門、西園院唐門、西園院客殿、新堂、大湯屋、大湯屋表門、上御堂、中院本堂、宝珠院本堂、薬師坊庫裏、地蔵堂、羅漢堂[旧富貴寺・三重塔初層]、大垣3棟、西南隅子院南面・東面築地塀、妻室、細殿、宗源寺四脚門[勧学院表門]、東院(福園院本堂、四脚門、南門、東廻廊・西廻廊、大垣3棟、礼堂、舎利殿・絵殿、律学院本堂、北室院太子殿、北室院本堂、北室院表門)、主な国宝仏像(文殊菩薩坐像、百済観音立像、如意輪観音像)。

 ⑥支院・塔頭:  6ヶ寺、末寺:  24ヶ寺

 ⑦寺域: 187,000㎡(56,700坪)。

⑧特色: 世界文化遺産。史跡。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 奈良県斑鳩町。

⑩訪問年: 昭和48年12月17日(日)・平成02年04月10日(火)。

神社仏閣を巡っていて、1日中留まっていたいと思ったのは法隆寺と高野山である。高野山には5回訪問しているので、それなりに満足しているが、法隆寺には2回しか訪問していない。世界最古の木造建築の国宝群もさることながら、仏像や絵画など法隆寺の寺宝は他の寺院とは比較できないほどの規模である。

法隆寺は日本に仏教を広めた聖徳太子(574-622)が、父・用明天皇の病気平癒を祈願し、叔母・推古天皇と共に建立した。しかし、天智天皇9年(690年)、火災によって焼失したため、文武天皇4年(700年)から再建されて天平19年(747年)には現在の規模のなったと思われる。その後も火災や地震によって壊れた伽藍や堂宇の修復や再建が繰り返されている。

聖徳太子が推古天皇の摂政として君臨したのが斑鳩宮で、その宮の傍らに建てられたのが法隆学問寺であった。この寺を中心に仏教文化が開花し、新しい日本の歴史が始まったのである。聖徳太子は法隆寺の他にも大阪の四天王寺・京都の蜂岡寺(広隆寺)・奈良の池尻尼寺(法起寺)、奈良の三井寺(法輪寺)など現在も残る寺院を建立している。

この時代に僧侶になるには、海を渡って百済まで行って戒壇を受けねばならなかったので、太子は正式な得度をした僧侶ではなかったと思う。しかし、太子自ら仏典を翻訳し、僧侶以上の知識を得ていたのは明らかであり、仏教の父と言っても過言ではない。政治においても十七条憲法の制定や遣隋使の派遣など前駆的な役割を果たした太子であるが、48歳の若さで亡くなったのは日本の大きな損失であったと言える。

広大な境内は、法隆寺式伽藍配置で知られる西院と夢殿のある東院に分かれている。西院はたくさんある諸堂の中で、中門から東西の回廊で囲まれた正面左右に建つ五重塔と金堂が圧巻である。回廊の奥の左に経蔵、右に鐘楼が建ち、回廊は正面奥の大講堂で結ばれている。金堂は700年、五重塔は708年の建築であり、日本で最も古い白鳳時代の遺産でもある。大講堂990年、鐘楼は平安期、経蔵は奈良期、回廊は白鳳期から奈良期とされる。四天王寺の伽藍配置は大陸伽藍配置様式の直輸入であったのに対し、この法隆寺式伽藍配置は日本独自のもので1200余年の間、保たれて来たのは奇跡に等しく、日本が後世に残すべき努力を払わなければならない世界文化遺産でもある。

回廊の外にも国宝や重要文化財の堂宇が甍を並べ、その数は28棟にも及び僧坊でもあった東室や西室を除くと、子院(支院)では僧侶が現在も住居としていて生活していて立入禁止区域となっている。法隆寺は昭和25年(1950年)、法相宗三大本山から独立して聖徳太子に因み、聖徳宗を名乗るようになった。そのため塔頭でもある子院も独立維持と、法隆寺の文化遺産を守る一翼として警備を任せられたのであろう。

子院の甍を並べる先にあるのは東院で、子供の頃にプラモデルで作った夢殿の実物に逢えるとと思うと、気持が高揚して来る。夢殿は聖徳太子を供養するために、天平11年(739年)に建立された堂宇で、堂内には救世観音像が祀られている。聖徳太子を模した等身大の仏像で、明治17年(1884年)にフェノロサと岡倉天心が寺僧の止めるのを押し切って白布を取り除き秘仏を調査した逸話が残る。

東院の本坊でもある中宮寺には、有名な弥勒菩薩半跏像(如意輪観音像)が安置されている。京都の広隆寺の弥勒菩薩像と並んで、飛鳥仏像の最高傑作とされる国宝で、モナリザの微笑みよりも素晴らしい表情をしている。日本の仏像には世界の目が注目に値する仏像も多く、葛飾北斎の版画だけが日本の芸術ではないことを知って欲しいと思う。

法隆寺には寺宝の保存と公開のために昭和16年(1941年) 、大宝蔵殿(宝物館)が校倉造りの鉄筋コンクリートで建設された。私が毎朝唱える「十三仏真言」の十三仏の8躰の仏像が安置されている。国宝の木造釈迦如来立像・木造地蔵菩薩立像・銅造薬師如来坐像・木造観音菩薩立像・銅造阿弥陀如来坐像、重文の普賢延命坐像・木造弥勒菩薩半跏像・木造阿閦如来像と、仏魂が取り除かれた彫刻となっているが手を合わせず見ることは出来ない。

国宝建築には特別の思いを持って眺めて来たが、法隆寺はその宝庫であり、建築技法にも法隆寺ならではの特色が多い。特に中門が素晴らしく、柱はギリシャ神殿に見られるようなエンタシスの柱で大陸の影響を受けたのであろう。仁王像は日本最古のもので、卍字崩しの高欄と簡素な人字形割り束、雲肘木など安定感に満ちた荘重な建築である。

法隆寺にはたくさんの名士や文人墨客が訪ねているが、中でも明治28年(1895年)に訪ねた俳人・正岡子規が最も有名であろう。その折に詠んだ句は人口に膾炙されているが、松尾芭蕉の句と勘違いする人も多いようだ。その句碑が西院中門の入口に建っていて、私もこの句をもじって「蟹食えば 金がなくなる 越前路」と詠んで句遊をしたこともある。

「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」 正岡子規

008華厳宗大本山東大寺(大華厳寺・総国分寺)

①山号院号: なし。

②本尊: 毘盧遮那仏(奈良大仏・国宝)

③開山:  菩提僊那・良弁、開基: 聖武天皇。中興:  俊乗坊重源。重興:  公慶。

④開山開基年: 天平5年(733年)、天平勝宝4年(752年)。中興年:  建久9年(1199年)。重興年:  宝永6年(1709年)。

⑤文化財: 国宝堂宇(大仏殿[金堂]、法華堂[三月堂]、開山堂[良弁堂]、本坊経庫、正倉院正倉、南大門、転害門、鐘楼)、重文堂宇(念仏堂、三昧堂[四月堂]、二月堂、二月堂仏餉屋[御供所]、二月堂参籠所、二月堂閼伽井屋、法華堂経庫、勧進所経庫、大湯屋、手水屋、中門、東西楽門、北門、廻廊)、主な国宝仏像(金剛力士像、良弁僧正像)。

⑥支院・塔頭:  18ヶ寺、末寺: 62ヶ寺。

⑦寺域:  120,000㎡(36,360坪)

⑧特色: 世界文化遺産。史跡。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 奈良県奈良市。

⑩訪問年: 昭和48年12月16日(土)・昭和62年02月03日(火)・平成05年10月11日(月)。

奈良と言えば、何と言っても東大寺の大仏(毘盧遮那仏)であり、日本のシンボル的な仏像モニュメントである。また、その堂宇も日本最大の木造建築として多くの人々の注目を集める。近年は鉄筋コンクリート造の超高層ビルや鉄骨造の巨大なドーム建築が随所にあるので、大仏殿の大きさに驚くこともなくなったがそれでも迫力満点である。

東大寺は聖武天皇(701-756)が亡くなった皇子の菩提を弔うため、天平5年(733年)に建立した金鐘寺が始まりとされる。天平13年(741年)、天皇は諸国国分寺及び尼寺建立の詔を発し、金鐘寺は大和国の国分寺(金光明寺)に定められた。天平15年(743年)には、現在地に大仏の建立が始まり、天平勝宝4年(752年)に落慶法要を迎えた。開眼導師には印度僧・菩提僊那が招かれ、良弁や行基の名僧も列席して盛大なイベントとなったようだ。

天平勝宝6年(754年)には、唐の鑑真和上が東大寺に戒壇院を設け、上皇となった聖武天皇が最初に授戒した。その後、僧侶は日本で授戒することが可能となったのである。大仏建立から約30年後、講堂・三面僧坊・七重塔・鐘楼・南大門などの七堂伽藍が整い、東大寺は日本を代表する大寺院となった。

平安末期の治承4年(1180年)、源平合戦で平重衡によって大仏殿は焼かれ、428年の歴史に一旦幕はおろされた。鎌倉時代になって重源上人(1121-1206)が大勧進職に補任されると、上人は勧進聖を従えて全国行脚を行い大仏殿再建の浄財を集めた。その結果、文治元年(1185年)に新しい大仏は開眼供養されて、建久6年(1195年)に大仏殿は完成した。しかし、哀しいかな372年後の戦国時代の永禄5年(1567年)、大和国の武将・松永久秀によって再び大仏殿が兵火で焼失する。

江戸時代の泰平の世となった宝永6年(1709年)、焼失から142年後に大仏と大仏殿は再建された。大仏の台座と香炉が創建当時のもので、胴体は鎌倉時代で、顔は江戸時代に鋳造されたと聞く。上屋の大仏殿は創建当時や鎌倉時代よりも建坪が半分程度と小さく、比類のない大木造建築が江戸時代まで伝承されなかった証でもある。私の本拠地である秋田県には、大館樹海ドームが平成18年(1997年)に木造で建築された。大仏殿よりも大きな国内最大の木造建築であるが、殆ど知る人がいないのは淋しい限りである。

約10万坪の広大な境内には、東大寺式伽藍配置と称される独自の大伽藍があったのであるが、現在は南大門と中門、大仏殿(金堂)と回廊が残っている。南大門を過ぎると左に西塔、右に東塔が建てっていたのである。高さが約70メートルもあったとされる七重塔で、現存する日本一の高さを誇る東寺五重塔の約55メートルに比べてもその高さに驚きを感じる。

大仏殿の奥には講堂と僧坊が建っていたようであるが、再建されることもなく更地となっている。最盛時の寺観を復元することが寺院の果たすべき未来への役割と思えるが、観光収入で潤っているのに嘆かわしい。南大門西の寧楽美術館の側には、名勝庭園の依水園があって、東大寺ではあまり知られていない観光スポットである。

東大寺は隋代に中国で成立した華厳宗を宗旨とし、現在までその宗派を存続している。奈良時代の仏教は、東大寺の華厳宗の他に興福寺と薬師寺の法相宗、元興寺と大安寺の三論宗、唐招提寺と西大寺の律宗、法隆寺の倶舎宗の五宗派があった。平安時代になって唐代の仏教が最澄と空海によってもたらされると、奈良仏教は時代に波に飲み込まれるように衰退し、華厳宗・法相宗・律宗の三宗派となった。東大寺の華厳宗は、古典的な宗派となっているのが実情であるが、奈良における存在観は法隆寺や興福寺と同等と言える。

境内の北には校倉造りの正倉院があり、創建当時の聖武天皇・光明皇后のゆかりの宝物が収納されていたが、鉄筋コンクリートの東宝庫と西宝庫に移されて保存されている。この宝物の所有者は東大寺ではなく宮内庁であると聞き、国宝や重要文化財の指定を受けていない。宮内庁が管理する文化財は、京都御所や修学院離宮など数多あるが、格下の文化庁の指定を受けようとしない現状は不可解である。修学院離宮や桂離宮は特別名勝に値するし、京都御所の紫宸殿は国宝の値する建物である。

大仏殿の西端には日本初の戒壇院あり、東端には二月堂や三月堂の堂宇が立ち並ぶ。私は東大寺でも東端の寺観が好きで、大仏殿よりもこの界隈を回る時間の方が長い。舞台造りの二月堂は「水取り」の行事で有名であり、堂宇は重文であったが国宝に昇格したようである。法華堂(三月堂)は2度の兵火から免れた奈良時代の建築で、堂内の仏像9躰と共に国宝になっている。良弁僧正を祀る開山堂も良弁像と堂宇が国宝で、三昧堂(四月堂)は重文である。文化財の宝庫と言える区域で、まだ訪ねていない春の季節に訪ねたいものである。

貞享2年(1685年)の冬、「野ざらし紀行」の途上にあった松尾芭蕉(1644-1694)が東大寺を訪ねているが、二月堂に籠った際に詠んだ句が有名である。その句碑が大正2年(1913年)、東大寺末寺の空海寺住職によって二月堂に建立され芭蕉翁の足跡を残している。

「水取や 籠(氷)りの僧の 沓の音」 松尾芭蕉

009天台宗(山門派) 総本山延暦寺(北嶺)

①山号: 比叡山。

②本尊: 薬師如来像(秘仏・最澄作)。

③開山開基: 最澄。中興:  良源。

④開山開基年: 延暦7年(788年)。中興年:  天禄元年(970年)。

⑤文化財:  国宝堂宇(根本中堂)、重文堂宇(根本中堂廻廊、文殊楼、大講堂[旧東照宮本地堂]、大乗戒壇院堂、浄土院[伝教大師御廟・拝殿・唐門]、転法輪堂[釈迦堂]、常行堂、法華堂、瑠璃堂、東塔鐘楼、四季講堂、元三大師堂御廟、横川鐘楼)。

⑥支院・塔頭:  56ヶ寺、末寺: 3,336寺。

⑦寺域: 5,000,000㎡(1,500,000坪)。

⑧特色: 世界文化遺産。史跡。七堂伽藍の景観。ケーブルカー・ロープウェイ。

⑨所在地: 滋賀県大津市。

⑩訪問年: 昭和48年12月02日(土)・平成03年12月30日(月)・平成19年04月22日(日)。平成22年11月28日(日)。

京都と滋賀の県境に聳える比叡山(848m)は、高野山(1,008m)、身延山(1,153m)と並び「日本三大総本山」と私は評価している。比叡山延暦寺は天台宗の総本山、高野山金剛峯寺は高野山真言宗の総本山、身延山久遠寺は日蓮宗の総本山であり比類のない大霊場とも言える。また、比叡山にはケーブルカーとロープウェイ、高野山にはケーブルカー、身延山にはロープウェイがあって類似点も多い。

延暦寺は平安初期の延暦7年(788年)、伝教大師・最澄(766-822)が比叡山に入って一乗止観院を建てたことに始まり、最澄の弟子たちや歴代座主が天台宗を大きく発展させた。最澄の直弟子であった第2代目座主の円澄(772-837)、第3世座主の慈覚大師・円仁(794-864)と第5世座主の智証大師・円珍(814-891)は、共に唐に渡って密教の仏典を持ち帰り、天台密教(台密)を東寺の真言密教(東密)に対抗するように興した。中興の祖とされる第18代座主・元三大師・良源(912-985)は、山林火災で焼失した堂塔伽藍を復興させた。天皇家や摂政家から子息を座主として迎え、奈良の七大寺を凌ぐ勢力へと発展して行く。

延暦寺内には円仁派と円珍派の両門が権力争いをしいたが、良源が亡くなった後の正暦4年(993年)、円珍派は山を下って大津の三井寺(園城寺)に移るに至った。それ以降、延暦寺は山門派、三井寺は寺門派と称されるようになる。別れれば必ず喧嘩をするのが世の常、その争いは武力闘争を伴うものとなり、三井寺は山門派によって度々焼き討ちされた。

平安末期には多くの僧兵を抱えて、朝廷に強訴を繰り返した。源頼朝から「日本一の大天狗」と称された後白河法皇ですら、自分の意のままにならないのは加茂川の水・双六の賽(サイコロの目)・山法師(比叡山の僧兵)と言ったとされる。その千人にも及ぶ僧兵の存在は、時の時代を左右する勢力となって京都に君臨するのである。

延暦寺は仏教総合大学の異名もあって、平安・鎌倉時代には多くの宗祖や名僧を輩出している。融通念仏宗の良忍(1072-1132)、浄土宗の法然(1133-1212)、臨済宗の栄西(1141-1215)、浄土真宗の親鸞(1173-1262)、曹洞宗の道元(1200-1253)、日蓮宗の日蓮(1222-1282)と現代を代表する仏教宗派の源流は延暦寺にあったのである。名僧では円仁・円珍・良源の他にも第2世座主の円澄(722-837)、良源の弟子で浄土教の思想体系をまとめた学僧・源信(942-1015)、第62.65.69.71世座主と長らく務め歌人としても知られる慈円僧正(1155-1225)が思い起こされる。

その後、戦国時代になると、「天下布武」を目指す織田信長に反抗する勢力となっため一山焼き討ちと言う前代未聞の攻撃で殆どの伽藍や堂宇を失う。江戸時代になって徳川将軍家や大名の援助を受けて諸堂が再建される。一般的な寺院の本堂にあたる根本中堂は、寛永19年(1642年)に68年ぶりに再建されて国宝となっている。

広大な比叡山の山頂付近から琵琶湖の坂本まで、盛時の延暦寺には三千坊の建物があったとされるが、現在は大幅に寺域の規模が縮小された。それでも東塔・西塔・横川など500ヘクタールの「三塔十六谷」に150ほどの堂宇が存在するようである。東麓の坂本には里坊と称される老僧の隠居所もあって、2ヶ所の旧坊院と7ヶ所の坊院が国の名勝庭園に指定されていている。同じく坂本には日吉大社があるが、延暦寺と共に発展して来た神社であり、延暦寺共に焼き討ちに加担した豊臣秀吉が社殿を再建した。国宝の東西本殿の他に11棟もの重要文化財の摂社や末社を有している。

延暦寺の中心は根本中堂のある東塔で、最澄が一乗止観院を建てた場所で重要文化財の文殊楼・大講堂(旧東照宮本地堂)・大乗戒壇院堂など11棟の伽藍が立ち並ぶ。円澄が開いた西塔には、伝教大師(最澄)霊廟がある浄土院、重要文化財の転法輪堂(釈迦堂)・常行堂・法華堂・瑠璃堂・鐘楼など8棟の堂宇や塔頭がある。円仁が開いた横川には、重要文化財の四季講堂・元三大師堂・鐘楼など9棟の堂宇が建つが、東塔や西塔から離れているために参拝客は少ない地域と言える。境内を回って感じることは、高野山や身延山に比べると宿坊が全くなく、鉄筋コンクリート造り5階建ての延暦寺会館が東塔地域にあるだけで、総本山の歴史的な背景を思うと淋しい限りである。

天台宗の開祖・最澄は、現在の大津市に生まれ、14歳で近江国分寺にて得度し、19歳の時に東大寺で受戒ののちに比叡山に入ったとされる。新しく京に都を遷した桓武天皇(737-806)の信頼が篤く、エリート僧として唐に渡って本家本元の天台山で付法を授かり、禅や密教を学んで帰国した。そして、最澄の開基した延暦寺は、桓武天皇から平安京の皇城鎮護を任せられると同時に神社信仰の神仏習合の寺院として発展させた。

最澄が唐に渡った時、別の遣唐使船に乗っていた私度僧の空海がいた。空海は密教の奥義を究めようと長安(現在の西安)まで赴き、日本人ながら真言密教の八祖となり在唐期間を無視して帰国した。空海が入京を許されて高雄山寺に留まった時、先輩でもある最澄は、空海がもたらして真言密教に強い衝撃を受けて空海から潅頂を受けるのである。その謙虚さは、最澄の人柄であるけれど、法相宗の勤操と激しい宗論を交わした姿は感じられない。

「明らけく 後の仏の 御代までも 光り伝えよ 法の灯」 最澄

010天台宗関東総本山寛永寺(輪王寺門跡・旧天台宗総本山)

①山号院号: 東叡山円頓院。

②本尊: 薬師如来像(最澄作・重文)

③開山:  天海、開基: 徳川家光。

④開山開基年: 寛永2年(1625年)。

⑤文化財:  重文堂宇(清水堂、旧五重塔、旧本坊表門[黒門]、旧十輪院宝蔵)。

⑥支院・塔頭:  19ヶ寺、末寺: 総本山に含む。

⑦寺域:  99,000㎡(30,000坪)。

⑧特色:  徳川将軍家霊廟。七堂伽藍の景観。

⑨所在地:  東京都台東区。

⑩訪問年: 昭和48年01月01日(月)・昭和60年11月10日(日)・平成02年07月01日(土)・平成27年08月11日(火)。

新聞配達をしながら東京の予備校に通っていた頃、寛永寺を初めて参拝した。19歳の私は大学進学を諦め、物見遊山の旅に徹しようと思った時である。東京には有名な神社仏閣が多く、東京に居る内に巡りたいと思っていた。

寛永寺は天台僧・天海(1536-1643)の発願によって3代将軍・徳川家光(1604-1651)が開基した大寺で、比叡山延暦寺が復興されるまでは天台宗の総本山でもあった。寛永寺諸堂の建築に当っては、諸大名が徳川家への忠誠を示す意味合いあって寄進が多かったようだ。広大な境内を有し、現在の上野公園一帯が敷地であった。京都の清水寺を模して建てられた清水堂や五重塔などが、境外堂宇として残っているのが淋しい限りである。

芝の増上寺と共に歴代将軍の墓所ともなっていて、4代家綱・8代吉宗・10代家治・代家斉・13代家定の霊廟が建つ。3代家光の遺骸も寛永寺に埋葬されたが、日光の輪王寺に大猷院が建立されて改葬された。初代・家康が東照大権現として祀られた絢爛豪華な東照宮よりも地味ではあるが、それでも家光の霊廟は国宝に指定されている。

現在の寛永寺を中心となるのは、東京国立博物館から東に道路を隔てた一画である。本坊表門には、戊辰戦争の際、最後の抵抗を続け寛永寺に起て籠った旧幕府軍の彰義隊が受けた弾痕が残る。寛永寺の創建は、江戸城の鬼門としたこともあって、彰義隊が薩長軍相手に死に場所と定めたことも推察できる。

東京において、それなりに存在観を残す寛永寺は、天台宗の関東総本山となっている。現在の境内は、約3万坪と往時の1/10の規模に縮小されたが上野公園を含む旧境内は東京の観光名所であることに変わりはない。上野公園には何度となく足を運んだけれど、清水堂の観音菩薩に参拝し、動物園の入口に付近にある旧五重塔を眺め、不忍池の弁天島をめぐること慣例となってしまった。江戸時代の寛永寺、江戸屈指の名所として江戸っ子や江戸にやって来た人々に愛された。中でも松尾芭蕉が上野を詠んだ句が最高傑作と思う。

「花の雲 鐘は上野か 浅草か」 松尾芭蕉

011天台宗東北大本山中尊寺

①山号院号: 関山弘台寿院。

②本尊: 釈迦如来坐像。

③開山:  円仁、開基: 藤原興世。中興:  藤原清衡。重興:  惟康親王。

④開山開基年:嘉祥3年(850年)。中興年: 長治2年(1105年)。重興年: 正応元年(1288年)。

⑤文化財: 国宝堂宇(金色堂)、重文堂宇(経蔵、金色堂覆堂、白山神社能舞台)。

⑥支院・塔頭:  17ヶ寺、末寺: 総本山に含む。

⑦寺域: 1,372,000㎡(415,000坪)。

⑧特色: 世界文化遺産。特別史跡。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 岩手県平泉町。

⑩訪問年: 昭和46年06月16日(水)・昭和60年07月21日(日)・平成01年11月12日(日)・平成05年04月05日(月)・平成28年02月20日(土)。

東北を代表する寺院の中で最も有名な寺院は、世界文化遺産にも登録された中尊寺であり、国宝の金色堂の内陣は比肩する堂宇がないほどの豪華さである。初めて中尊寺を訪ねたのは18歳の春であった。この頃から神社仏閣の建築物や庭園に興味を覚え、旅を人生の糧として愛するようになったのである。

中尊寺は東北を巡錫中だった慈覚大師円仁(794-864)に帰依したした藤原興世(?-891)が、嘉祥3年(850年)に開基したと伝えられる。その後、奥州の覇者となった藤原清衡(1056-1128)によって中興され、平泉文化と称される時代の中心的な役割を担った。

樹齢300年を超える杉並木が続く月見坂の参道を過ぎると、左側に弁慶堂が建っている。源義経(1159-1189)と共に壮絶な死を遂げた武蔵坊弁慶(?-1189)の供養堂で、門前には仁王立ちした弁慶像もある。「判官びいき」という言葉の判官は、義経の通称名で武士に対してその名前を直接呼ぶことはなかった。義経や弁慶に対する同情は、未来永劫に続いているが、その命を奪った兄の源頼朝(1147-1192)が中尊寺を焼き打ちにしなかったのが偉いと思う。

建武4年(1337年)、野火によって金色堂と経蔵を除いた堂宇の大半が焼失したと聞くが、必死になって金色堂と経蔵だけは守ろうとした当時の様子が目に浮かぶようだ。福島県の白河関を境とする東北地方は、昔から「一山一文」と馬鹿にされていて、関西の知識人からは「東北熊襲発言」のような偏見もあった。そんな人は平泉に来たことがないだろうし、藤原清衡が実現させた極楽浄土の歴史も知らないのであろう。

中尊寺の歴史の中で最も有名なのは、『おくのほそ道』の旅の途上、松尾芭蕉翁が訪ねたことである。中尊寺もその史実を売りにしているようであり、平泉の印象を述べた俳文は、松島と象潟の俳文と同様に感動的な文章である。かつて、金色堂を囲っていた覆堂の側に芭蕉翁の有名な句碑が建っている。その句よりも白山神社能舞台に向かう参道に、明治の俳人・山口青邨の立派な句碑があって、18歳の私はその句に感銘したものであった。

「人も旅人 我も旅人 春惜しむ」 山口青邨

012天台宗別格本山圓教寺

①山号: 書写山。

②本尊: 如意観音菩薩立像。

③開山開基: 性空上人。中興: 後白河法皇。

④開山開基年: 康保3年(966年)。中興年:  承安4年(1174年)。

⑤文化財: 重文堂宇(金剛堂、常行堂、常行堂中門、常行堂舞台、大講堂、寿量院、中門・玄関、鐘楼、食堂、護法堂)。

⑥支院・塔頭:  6ヶ寺、末寺: 総本山に含む。

⑦寺域:  不明。

⑧特色: 史跡。西国三十三ヶ所観音霊場。七堂伽藍の景観。ロープウェイ。

⑨所在地:  兵庫県姫路市。

⑩訪問年: 平成23年01月04日(火)。

圓教寺は一般的には、書写山と呼ばれる天台宗の西国の大寺院である。西国三十三ヶ所観音霊場27番の札所でもあり、奈良の興福寺、大津の三井寺と並んで三十三ヶ所中の三大寺院の1つに数えられる。また、境内の仁王門まではロープウェイが設置され、観光色の強いの寺院とも言えるが、ロープウェイやケーブルカーのある寺院は全国に16ヶ所もある。

圓教寺は証悟の聖と称された性空上人(910-1007)が康保3年(966年)、開山開基したとされる。比叡山の元三大師良源(912-985)に師事して出家し、九州の霧島山や脊振山で山岳修行したとされる。その後、播磨の国司の帰依もあって、山岳修行の聖地と定めて西国屈指の寺へと発展した。

境内に入ると伽藍や堂宇が林立し、国の重要文化財の建物が多いことに驚いた。中でもコの字に並んだ大講堂・食堂・常行堂の寺観が素晴らしく、ハリウッド映画の「ラストサムライ」のロケーションにもなったことを思い出す。『義経記』によると、武蔵坊弁慶が昼寝をしていた堂守の顔に落書きをして喧嘩した挙句、寺に火を放ったと言う。食堂の建築年は承安4年(1174年)なので、放火から間もなく再建されたようである。

西国三十三ヶ所観音霊場を巡錫した花山法皇(968-1008)は、講堂を創建したとされるが、落雷によって焼失し、現在の講堂は南北朝時代の再建のようだ。後白河法皇も中興に寄与したようで、皇族や貴族との関わりも深い。江戸時代には姫路藩主であった本多家、榊原家、松平家の墓所もあって、その菩提寺として歴代藩主に庇護されていた。

開山堂の横には平安時代中期の女流歌人・和泉式部(978-?)の歌塚があり、一条天皇の中宮・上東門院彰子(988-1074)に伴って参拝した時の記念塔(宝篋印塔)である。中宮は性空上人に逢うために都から遥々来たのであったが、その願いが叶わず嘆きつつ帰る時に和泉式部が変わった詠んだ歌とされる。

「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき はるかに照らせ 山の端の月」 和泉式部

013 和宗総本山四天王寺(旧天台宗別格本山)

①山号院号: 荒陵山敬天院。

②本尊: 救世観音菩薩立像。

③開山:  聖徳太子、開基: 蘇我馬子。再興: 豊臣秀吉。再興:  淡路屋太郎左衛門。

④開山開基年: 用明天皇2年(587年)。再興年:  文禄3年(1594年)・文化9年(1812年)。

⑤文化財:  重文堂宇(五智光院、元三大師堂、六時堂、本坊方丈、本坊通用門、石舞台)。

⑥支院・塔頭:  3ヶ寺、末寺: 22ヶ寺。

⑦寺域: 10,018㎡(3,030坪)。

⑧特色: 史跡。七堂伽藍の景観。新西国三十三ヶ所。

⑨所在地:  大阪市天王寺区。

⑩訪問年:  昭和50年07月21日(日)、令和3年11月07日(日)。

大阪で最も有名な四天王寺は、聖徳太子(574-622)が創建した日本最古の史実が残る寺である。東京浅草の浅草寺が東京を代表する名所であるすれば、四天王寺は大阪を代表する名所に他ならいと思う。大阪の繁華街に位置することもあって、四天王寺の歴史は日本の歴史の縮図とも言える側面がある。

聖徳太子が蘇我馬子(551?-626)と共に物部守屋(?-587)と戦った際、四天王像を造り戦勝を祈願し、そのあかつきには伽藍の建立を誓ったとされる。爾来、日本で仏教が隆盛するわけで、聖徳太子は仏教の父とも言われる。太子が建立した伽藍配置は、四天王寺式と呼ばれてもので南大門から食堂まで一直線に配置されている。

織田信長によって伽藍が焼失された後、豊臣秀吉が再興したが大阪夏の陣で再び焼失し、再建が繰り返えされて来た。太平洋戦争の空襲でも小さな堂宇を残して焼失した。戦後となって、創建当時の伽藍配置を踏襲して鉄筋コンクリート造で再建れたのが現在の四天王寺である。五重塔は8回目の再建と言われ、日本の歴史と共に存亡を繰り返したと言える。

四天王寺は奈良仏教が衰退した後、天台宗に属していたが、戦後に和宗の総本山として独立している。聖徳太子が伽藍の他に施薬院や療病院などの福祉施設を建てたように、現在の四天王寺は病院や学校の経営にも積極的に行っているようである。

度重なる焼失で国宝の建造物は残っていないが、江戸時代に建てられた重要文化財の堂宇が残っていることが、もう1つの名所である大阪城とも共通する所である。美術工芸品の扇面法華経冊子が唯一の国宝であり、刀剣2振りが重要文化財に指定されているが、仏像や仏画が残されていないが惜しまれてならない。

天台宗を中興した元三大師を祀る堂宇が境内にあったが、その前の西の隅に松尾芭蕉翁の墓があった。翁の弟子の志太野坡の墓と隣り合わせに立っていて、野坡の弟子が建立したとされる。芭蕉翁の墓や塚は全国各地にあって、翁の爪や頭髪を納めただけでも立派な墓とされた。四天王寺にも近い浮瀬亭跡には「此道や 行く人なしに 秋の暮れ」の句碑があり、野たれ死を覚悟していた境地が四天王寺にも浮かぶようだ。

014聖観音宗総本山浅草寺(旧天台宗別格本山)

①山号院号: 金龍山伝法院。

②本尊: 聖観音立像。

③開山:  勝海上人、開基: 土師直中知。中興:  円仁。重興:  寂円。再建: 定済。

④開山年:  推古天皇36年(628年)、開基年: 大化元年(645年)。中興年: 天安元年(857年)。

重興年:  永承6年(1051年)。再建年:  嘉慶元年(1387年)

⑤文化財:  重文堂宇(二天門)、名勝(伝法院庭園)。

⑥支院・塔頭:  2ヶ寺、末寺: 25ヶ寺。

⑦寺域: 162,162㎡(49,140坪)。

⑧特色: 坂東三十三ヶ所観音霊場。門前町。七堂伽藍の景観。

⑨所在地:  東京都台東区。

⑩訪問年: 昭和48年01月05日(金)・昭和48年03月26日(月)・平成03年10月03日(日)・平成27年08月11日(火)。

田舎者育ちの私が初めて上京した17歳の折、先ず訪ねたのが皇居と東京タワーであった。山手線の切符を買うことも不慣れで、上野駅から一直線に歩いたものである。その次に東京を訪ねたのが20歳の時で、浅草寺を初めて参拝した。それから何度となく参拝したが、東京で最も多く訪ねた寺は浅草寺だけである。

浅草寺は関東では最も古い寺院で、漁師が網にかかった一寸八分(6.8cm)の黄金の観音像を自宅に祀ったことが始まりとされ、17年後の大化元年(645年)に勝海上人(生没不詳)によって開基されたとされる。後に東国生まれで延暦寺の第3世天台座主ともなった円仁(794-864)が、浅草寺を中興してから天台宗の寺となった。

平安時代以降は関東武士の信仰を集め、平公雅(生没不詳)、源成実(生没不詳)、源頼朝(1147-1199)、足利尊氏(1305-1358)、太田道灌(1432-1486)と兵乱や地震で消滅した後も再建が繰り返されて来た。徳川家康(1543-1616)が江戸幕府を開くと、祈願所として保護され焼失する度に歴代将軍は浅草寺を再建した。太平洋戦争で浅草寺も焦土と化して、二天門のみが残された。戦後は四天王寺と同様に鉄筋コンクリート造で諸堂が復興されて、日本屈指の門前町を有する大寺院へと発展する。あまり知られていないが、現在の雷門は昭和35年(1960年)に松下幸之助氏が寄進している。

戦後は天台宗から独立して聖観音宗の総本山となっているのも四天王寺と共通し、東西の好敵手のような関係にある。浅草寺は盛り場として栄えて来た歴史も同じで、両寺とも天台宗との関わりを現在も保っているようだ。

浅草寺には多くの文人墨客が参拝し足跡を残しているが、「坂東三十三ヶ所観音霊場」の第13番札所であり、巡礼する人々も忘れられない存在である。開基当時の観音像は絶対秘仏となっているようで、円仁が刻んだとされるレプリカが現在の本尊とされている。

「深きとが 今より後は よもあらじ 罪浅草へ まいる身なれば」 御詠歌

015修験本宗総本山金峯山寺(蔵王堂)

①山号: 国軸山。

②本尊: 蔵王権現三尊像(秘仏・重文)

③開山開基: 役行者小角。中興:  聖宝。再建: 豊臣秀頼。

④開山開基年: 天武天皇元年(672年)。中興年: 寛平6年(894年)。再建年:  天正19年(1591年)。

⑤文化財:  国宝堂宇(本堂[蔵王堂]、二王門)。

⑥支院・塔頭:  3ヶ寺、末寺: 137寺。

⑦寺域: 不明。

⑧特色: 世界文化遺産。史跡。ケーブルカー。日本桜名所100選。

⑨所在地: 奈良県吉野町。

⑩訪問年: 平成02年04月08日(日)・平成19年04月08日(日)・平成23年03月06日(日)。

日本一の桜の名所である吉野山、標高230mから600m、距離約8キロの尾根に沿って5ヶ所の神社と4ヶ所の宗派の異なる寺院が建っている。その中心部に建つ金峯山寺の蔵王堂は、東大寺大仏殿、東本願寺御影堂に次ぐ木造の大建築で桧皮葺きでは日本一である。

金峯山寺は天武天皇元年(672年)、修験道の開祖・役行者小角(634-701)によって開基された山岳信仰のメッカである。醍醐寺を開基した聖宝上人(832-909)によって中興されて、吉野山から大峯山、熊野三山を結ぶ約80キロの大峯奥駈道の整備も上人によって行われた。

役行者が開山した頃は、後の天武天皇(631?-686)となる大海人皇子が大津遷都の政変から逃れている。平安時代末期には、源義経が愛妾・静御前と潜んだ地であり、南北朝時代は後醍醐天皇(1288-1339)が南朝(吉野朝)の御在所と定め、以降南朝4代56年間を金峯山寺は共に歩んでいる。戦国時代が終わると、豊臣秀吉が盛大な花見の宴を開き、金峯山寺にも寄進している。現在の蔵王堂(本堂)は、息子とされる秀頼が再建したもので豊臣家が滅んでも偉大な業績は残るものである。蔵王堂は吉野山の象徴でもあり、あの世から感嘆の声を上げて眺める吉野山ゆかりの人々の姿が見えるようである。

金峯山寺は天台宗(本山派)と真言宗(当山派)の両方の修験道を兼務していたが、明治の廃仏毀釈で壊滅的な打撃を受ける。塔頭であった吉水院は吉水神社となり、開山以来、千年も経た歴史が明治新政府によって大きく歪められたのである。修験道は縄文時代から続く日本古来の山岳信仰と、仏教が融和された日本独自の宗教であり、反発も強かったようで間もなく復興された。戦後は修験本宗の総本山として天台宗から独立している。

吉野山の桜はヤマザクラが約3万本も咲く比類なき桜の名所であるが、蔵王堂の周辺の中千本の桜が最も美しい。西行法師(1118-1190)は奥千本に草庵を営み、桜をこよなく愛して尽きなかった歌人である。その辞世の歌は、誰しもが願う臨終観を詠んでいる。

「願はくは 花の本にて 春死なむ その如月の 望月のころ」 西行法師

016鞍馬弘教総本山鞍馬寺

①山号院号: 松尾山金剛寿命院。

②本尊: 毘沙門天立像(国宝)。

③開山:  鑑禎上人。開基:  藤原伊勢人。再興:  信楽香雲。

④開山年: 宝亀元年(770年)。開基年:  延暦15年(796年)。再興年: 昭和22年(1947年)

⑤文化財:  主な国宝仏像(毘沙門天立像・吉祥天立像)。

⑥支院・塔頭:  1ヶ寺、末寺: 7寺。

⑦寺域:  不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。ケーブルカー。新西国三十三ヶ所。

⑨所在地: 京都市左京区。

⑩訪問年:  昭和62年01月30日(金)。

京都市の北方、鞍馬山の中腹一帯に建つのが鞍馬寺で、京福電鉄鞍馬線の終点駅から参道が続く。境内には寺が運営するケーブルカーがあって、寺が単独でケーブルカーを設置のは例は、高知県須崎市の大善寺にエレベーターのようなケーブルカーがあるだけである。

鞍馬寺の創建は宝亀元年(770年)、鑑真和上の弟子・鑑禎上人(生没不詳)が毘沙門天を本尊に開基し、藤原伊勢人が桓武天皇の勅命を受けて諸堂を建立した。奈良時代は法相宗、平安時代は真言宗、鎌倉時代は天台宗と宗派が変わり、昭和22年(1947年)には天台宗から独立して鞍馬弘教が開宗された。戦後になって所属する宗派から独立する寺が多くなり、天台宗が最も顕著で鞍馬寺のような古刹は総本山のしがらみから脱したかったのであろう。

ケーブルカーの降りると先ず多宝塔が聳え建っているが、鞍馬寺の堂宇の殆どが戦後の再建であり、多宝塔も昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリート造で再建された。仁王門が最も古い明治末期の建築で、国指定の建築物がないのが物足りなさを感じさせる。しかし、鞍馬寺の鎮守社でもある由岐神社の拝殿と本殿は、豊臣秀頼(1593-1615)が再建したもので国の重要文化財に指定されている。神仏分離の時代になっても神仏習合は続いており、神社も寺の一部と見るのが正しい目線である。

奥ノ院に向かう途中に、小さな祠のような義経堂が建っている。鞍馬寺の山中は遮那王(牛若丸)と呼ばれた源義経(1159-1189)が幼少期を過ごした地で、杉の巨木の根が地表を這う木ノ根道が続く。鞍馬寺と言えば牛若丸伝説と関わりが深く、室町時代の謡曲や江戸時代の芝居では欠かせない題材となった。牛若丸は境内を抜けては、貴船神社に参拝して源氏の再興を誓ったとされる。私も貴船神社に参拝したが、その渓流や樹木の自然美に感動し、京都の郊外にも素晴らしい名勝があることを知った。

鞍馬寺には平安の貴公子や女官も多く訪れ、『枕草子』の作者・清少納言も印象を記している。山頂周辺の木ノ根道は、晴れた日中でも薄暗い参拝道であり、鞍馬寺の自然景観の象徴でもある。平安中期の歌人・安法法師(生没不詳)も鞍馬寺の景観に驚いたようである。

「おぼつかな 鞍馬の山の 道しらで 霞の内に まどうけうかな」 安法法師

017粉河観音宗総本山粉河寺

①山号: 風猛山。

②本尊: 千手観音菩薩立像

③開山開基: 大伴吼子古。中興:  御池坊寂隠。

④開山開基年: 宝亀元年(770年)。中興年: 享保5年(1720年)

⑤文化財:  重文堂宇(本堂、千手堂、大門、中門)、名勝(本堂庭園)。

⑥支院・塔頭:  2ヶ寺、末寺: 5寺。

⑦寺域: 3,300㎡(1,000坪)。

⑧特色: 西国三十三ヶ所観音霊場。史跡。

⑨所在地: 和歌山県紀の川市。

⑩訪問年:  平成02年11月05日(月)。

粉河寺は紀州の東から西へと流れる紀の川に面し、JR西日本和歌山線の粉河駅から大門まで門前町の面影を残す古刹である。戦後に天台宗から独立して粉河観音宗の総本山を自称しているが、末寺が5ヶ寺と最も小さな総本山でもある。今回の選定では総本山の寺院をピックアップし、続いて大本山や本山を選んだが、粉河寺を選ぶかどうか随分と迷ったが、国の重要文化財の堂宇や名勝庭園もあることから外せないと考えた。

寺には国宝の「粉河寺縁起絵巻」が残っていて、寺の開基や鎌倉初期までの様子を伝えている。大伴吼子古(生没不詳)という猟師が宝亀元年(770年)、日頃の殺生を悔い小さな御堂を建てた所、童子行者が現れて千手観音像を残して行ったとされる。平安初期には空海大師が巡錫して、爪彫り不動尊を安置したと伝えられている。平安末期に「西国三十三ヶ所観音霊場」が確立されると、粉河寺は第3番札所となって庶民の信仰を集めた。

鎌倉時代には七堂伽藍に550ヶ坊、広大な寺領を有していたそうであるが、豊臣秀吉の紀州攻めの際、一山を消失して繁栄の時代に幕を下ろす。江戸時代になって紀州徳川家の庇護や信徒の寄進によって復興が行われた。享保5年(1720年)、御池坊寂隠(生没不詳)が現在の本堂を完成させて中興した。

二層入母屋造りの本堂は、礼堂を付帯させた独自の意匠で国の重要文化財にもなつているが、他にも千手堂、大門、中門も重要文化財である。本堂前の蘇鉄やツツジを設えた庭園は国の名勝で、石段の近江八景を模した枯山水の庭は県の名勝である。また、塔頭にある御池坊庭園は市の名勝に指定されている。国や県、並びに市の名勝庭園が存在する名所は粉河寺だけである。境内の寺観は、往時の繁栄を偲ぶに相応しい佇まいである。

文学的な面では、清少納言の『枕草子』、後白河法皇の『梁塵秘抄』、西行法師の『山家集』に粉河寺が登場して来る。『うつぼ物語』や『狭衣物語』にも粉河寺の言及があって、京の都でも広く知られていたことが伺える。江戸末期には大和絵の絵師・冷泉(岡田)為恭(1823-1864)が隠棲した御池書院の旧居が残されている。

「父母の めぐみも深き 粉河寺 仏のちかい たのもしのみや」 御詠歌

018天台寺門宗(寺門派) 総本山園城寺(三井寺)

①山号: 長等山。

②本尊: 弥勒菩薩像(絶対秘仏)

③開山開基:  大友与多王。中興:  円珍。

④開山開基年: 朱雀元年(686年)。中興年:  貞観元年(859年)

⑤文化財: 国宝堂宇(金堂、新羅善神堂、光浄院客殿、勧学院客殿)、重文堂宇(唐院大師堂・唐院潅頂堂、毘沙門堂、三重塔、食堂[釈迦堂]、鐘楼、一切経蔵[経堂]、唐院唐門、唐院四脚門、大門[仁王門]、閼伽井屋)、名勝(光浄院庭園)、主な国宝仏像(智証大師坐像)。

⑥支院・塔頭:  11ヶ寺、末寺: 223寺。

⑦寺域:  720,000㎡(218,200坪)。

⑧特色: 西国三十三ヶ所観音霊場。門跡寺院。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 滋賀県大津市。

⑩訪問年:  平成03年12月30日(水)・平成19年09月28日(金)。

琵琶湖畔に面した大津は、天智6年(667年)から5年間、天智天皇(626-672)が崩御して壬申の乱が起きるまで大津京(近江宮)のあった地である。この政変で自害した弘文天皇(648-672)の皇子・大友与多王(生没不詳)が、自領を寄進して建立したのが園城寺の創建とされる。弘文天皇の叔父である大海人皇子は、兄が崩御すると吉野山で挙兵して大津京を滅ぼすのである。その血生食い匂いは、第5世天台座主円珍(814-891)が比叡山にも近い園城寺を延暦寺の別院と定めて中興した時から再現されて行く。正暦4年(993年)、円仁門徒(山門派)との確執から円珍門徒は山を下り、寺門派と称して独立すると、共に僧兵を抱えた怨念の対決が戦国時代まで続いた。

園城寺は三井寺とも呼ばれ、一般的に三井寺が通称となっている。和歌山市の紀三井寺や京都の東寺と同じで、通称名で呼ばれる例は多い。三井寺の名は、天智・天武・持統の三天皇が、閼伽井戸を産湯に使用したことに由るとされる。そのため皇室との関わりも深く、円満院門跡などが成立し、一門には聖護院門跡もある。

平安末期の盛期には堂塔80棟、僧坊600坊を誇ったが、源平の合戦や戦国時代の戦火によって殆どの堂宇を失う。室町時代の建築である国宝・新羅善神堂は、境内から離れた場所に建っていたので残された。同じ国宝の金堂は慶長4年(1599年)、光浄院客殿は慶長6年(1601年)、勧学院客殿は慶長9年(1604年)と桃山から江戸初期の建築である。重要文化財の堂宇は11棟もあって、ゆっくり拝観すると半日は要する境内の広さである。

文人墨客の足跡としては、鎮守社の長等神社に平家一門の中で和歌に秀でた平忠度(1144-1184)の歌碑が立っている。大津をこよなく愛した松尾芭蕉(1644-1694)は、義仲寺に亡骸を葬るように遺言した。三井寺にも参拝し、湖上から詠んだ句碑が金堂の近くに立つ。

「三井の 門たたかばや けふの月」 芭蕉

019天台真盛宗総本山西教寺

①山号院号: 大窪山智善院。

②本尊: 阿弥陀如来坐像(重文)

③開山開基:  聖徳太子。再興: 慧鎮。 中興: 真盛上人。重興:  真源。

④開山開基年:  推古天皇26年(618年)。再興年: 正中2年(1325年)。中興年:  文明18年(1468年)。重興年:  天正2 年(1574年)。

⑤文化財: 重文堂宇(本堂・客殿)。

⑥支院・塔頭:  7ヶ寺、末寺: 421寺。

⑦寺域: 不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 滋賀県大津市。

⑩訪問年:  平成17年11月20日(日)。

西教寺は比叡山延暦寺の麓、坂本にある天台真盛宗の総本山である。聖徳太子が恩師である高麗僧・慧慈と慧聡のために創建したとされる。近江国(滋賀県)には、百済や高麗から移住した人々が多く住んでいて、比叡山を開いた最澄もその末裔である。天智天皇の時代には、丈六(2.4m)の阿弥陀如来像が安置されて西教寺の勅願を得たとされる。

 平安時代には、延暦寺の良源や恵心によって再興されて常行念仏三昧の道場となっていた。南北朝時代には、円観慧鎮(1281-1356)が再興して円頓戒を授ける寺となり、後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明の五天皇が戒を受けたされる。室町末期には真盛上人(1443-1495)が入寺して中興した。上人は天台僧であったが、延暦寺や三井寺のような密教的な宗旨よりも阿弥陀如来を本尊とする念仏を重視した。

上人が逝去した76年後の元亀2年(1571年)、織田信長による焼き打ちで堂塔伽藍が焼失する。3年後には第8世・真源(生没不詳)によって本堂が復興し、坂本城を築いた明智光秀(1528-1582)が寺の復興に尽くしたようだ。江戸時代は日光輪王寺の傘下にあったが、廃仏毀釈に揺れた明治11年(1878年)、天台宗真盛派を名乗り天台宗から距離を置き、戦後は天台真盛宗として独立した宗教法人の寺院となった。

境内の面積は不明であったが、総門をくぐると左右に6ヶ院の塔頭か並び、勅使門を迂回して境内に入ると、国の重要文化財である本堂と客殿が聳える。七堂伽藍の寺観は、末寺421ヶ寺を抱える総本山に相応しく、私が若い頃に利用したユースホステルを現在も営んでいることに好感を抱く。ユースホステルは随分と減ってはいるが、宿坊のユースホステルは全国に8ヶ所営業されていて、泊まって歩きたいものである。

西教寺には3ヶ所の庭園があり、客殿庭園は小堀遠州の作とされる名庭であるが、国や県の名勝となっていないのが不思議に思われた。境内の中心部には、寺の再建に寄与した明智光秀一族の墓があり、光秀が本能寺を向かう前に参拝したことは明らかと思う。

「時は今 雨が下しる 五月哉」 明智光秀

020高野山真言宗総本山金剛峯寺(古義真言宗・真言宗十八本山)

①山号: 高野山。

②本尊: 薬師如来像。

③開山開基: 空海。中興:  定誉。重興:  木喰応其。

④開山開基年: 弘仁7年(816年)。中興年:  長和5年(1016年)。重興年:  桃山時代。

⑤文化財:  国宝堂宇(不動堂、金剛三昧院多宝塔)、重文堂宇(大門、西塔、一切経蔵、金剛三昧院経蔵、金剛三昧院客殿・台所、山王院本殿丹生明神社、山王院本殿高野明神社、四所明神本殿、普賢院四脚門、徳川家霊台)、主な国宝仏像(八大童子立像)。

⑥支院・塔頭:  117ヶ寺、末寺: 3,638寺。

⑦寺域:  614,000㎡(186,000坪)。

⑧特色: 世界文化遺産。史跡。七堂伽藍の景観。ケーブルカー。日本一の宗教都市。

⑨所在地: 和歌山県高野町。

⑩訪問年: 昭和62年02月01日(日)・平成02年04月09日(月)・平成19年05月03日(木)・平成22年03月30日(火)・平成27年04月19日(日)、平成29年6月1日(木)。

高野山を最初に訪ねたのは、秋田市に本社があった会社が倒産して気分一新する気持ちと、日頃から空海(774-835)の書物を読んでいた縁もあって1度は高野山にお参りしようと思った時である。あれから30年、四国八十八ヶ所霊場も4回めぐり、その満願の度に高野山を訪ねている。また、私が師と仰ぐ松尾芭蕉翁が2度も訪ねていることにも触発された。

高野山の創建に入る前に、弘法大師という尊称に対して私は違和感を覚える。弘法大師の諡号は、入滅後86年も経た延喜21年 (921年)に朝廷から贈られたものであり、弘法大師と言われても本人は理解できないと思う。唐で真言密教の奥義を極めた際、師匠の恵果阿闍梨(746-806)から「遍照金剛」の諡号を得ているので、大師の尊称を付けるのであれば「空海大師」と呼ぶべきである。芭蕉翁も『おくのほそ道』の俳文では「空海大師」と表現しているので、それが江戸時代は一般的であったと思う。また「弘法」は男色を意味するともされ、当時の朝廷の後ろには天台宗の延暦寺が権力を握っていたので無理はない。

空海大師は即位して間もない嵯峨天皇(786-842)と気脈が通じ、12歳も大師が年長なのに、そのブレーンとして活躍した。弘仁7年 (816年)、兼ねてから構想を練っていた高野山の創建に対する勅許が降り、43歳にして空海大師が理想とする真言密教の道場の建設を開始する。しかし、大師に帰依した嵯峨天皇や貴族は大師を必要とし、教王護国寺(東寺)の住持に任命し、真言密教の殿堂に再建させた。雨乞いの儀式を神泉苑で行なったりして、大師の神通力は京の都でも評判となった。大師が高野山に定着するのは、齢60歳を過ぎた還暦の時であった。その頃は弟子の真然(?-891)に高野山を任せ、古参の実恵に後見させている。

 大師が結跏趺坐したまま入滅すると、弟子たちによって奥ノ院が建てられ霊場として発展して行くが、平安中期には東寺との確執や落雷による火災で衰退を余儀なくれる。長和5年(1016年)頃から、定誉(958-1047)によって再興されると、援助を惜しまなかった藤原道長が参拝し、白河上皇や鳥羽上皇なども訪れている。平安末期から鎌倉時代にかけては武士の信仰や参拝が多くなり、高野山に支院や供養塔を建て始めるようになった。

戦国時代には高野山から分派した根来寺が豊臣秀吉によって滅ぼされると、高野山も滅亡の危機に瀕したが、 木喰応其の巧みな交渉によって危機は免れた。逆に秀吉の信頼を得て、青厳寺(後の金剛峰寺)が建てられて諸堂の復興も進んだ。江戸時代には徳川将軍家や諸大名の帰依もあって、現在に続く規模へと発展する。昭和21年(1946年)からは真言宗高野派から高野山真言宗に改名して、真言宗でも最大の宗派となる。

 日本最大の山門でもある朱塗り大門から高野山の境内に入ると、商店や支院が建ち並ぶ。これも日本最大の門前町で、支院は117ヶ寺を数える。その中で宿坊を営む支院が52ヶ寺もあり、これも日本最大である。堂塔伽藍が建ち並ぶ一帯は、壇上伽藍と称されて大師が日本で初めて建立した大塔がある。鉄筋コンクリート造りで再建されたが、高さが48.5mと日本一である。度重なる火災で古い堂宇が残っていないが、壇上伽藍に建つ不動堂と支院の金剛三昧院多宝塔が唯一残る国宝である。国指定の重要文化財はあちらこちらにあるが、山内が広く探し回るのに苦労する有様である。

大門から3.5キロほど歩くと、店舗や支院が途絶えた先に奥ノ院の入口がある。鬱蒼と老杉が茂る参道が続き、夥しい数の墓石が林立する。戦国時代の大名の墓が殆どであるが、時代絵巻でも見ている有様に驚くばかりである。かつて何千人にも及ぶ真言僧を殺戮した織田信長の供養塔や浄土宗の法然上人の供養塔もあって、敵味方の関係や宗派を超えた霊域に仏の世界を感じる。中間地点には芭蕉翁の句碑も建ち、手を合わせては「ちちははの しきりに恋し 雉の聲」の句を諳んじた。

せせらぎの流れが清冽な玉川を渡ると空気が一変し、猫背の私も背筋を伸ばして李下に冠を正す気持つで大師御廟に向かう。四国霊場も含めて大師の創建した寺院をお参りして来たが、自分の考えや心が見透かされている事を感じるは御廟の前だけである。自分に正直に、自分の夢を貫くように、自分の死を謙虚に受け止めるようにと教えられる。

今回の参拝で6度目を迎えるが、高野山蓮華八葉と称される山々を全部は登っていない。九度山から大門まで続く町石道を登ってみたいと、願っていたがそれも叶わないままである。高野山には私を誘う魅力が沢山あって、足腰が丈夫なうちは願いを達成したいと思う。  

本坊の金剛峰寺の近くには霊宝館があり、国宝の仏画・仏像・仏具・書跡が11点、重要文化財の仏画・仏像・仏具・書跡が13点、保存と展示がされている。特別な印象が残ったの大師直筆の『聾瞽指帰』と八大童子立像の2躯である。いずれも国宝であるが、大師の書は『三教指帰』の原本で、いかにこの書を大切に考えていたか推察がつく。八大童子立像は鎌倉時代の運慶作と伝えられ、優しい表情と険しい表情を浮かべていた。

高野山が「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界文化遺産に登録され、海外の観光客も増ているのが感じられた。特に欧米人が多く、私が最近投宿した高野山唯一の温泉宿坊・福智院は、日本人よりも欧米人が多いのに驚いた。浴衣姿も板についている様子で、露天風呂から上がり、精進料理を食べている現実が新しい高野山の時代の到来と思われた。

021真言宗須磨寺派大本山福祥寺(須磨寺・真言宗十八本山)

①山号: 上野山。

 ②本尊: 聖観音菩薩像。

 ③開山: 聞鏡上人、開基:  光孝天皇。再興:  豊臣秀頼。重興:  長原密浄

 ④開山開基年: 仁和2年(886年)。再興年: 慶長7年(1602年)。重興年: 明治20年(1887年)。

 ⑤文化財:  重文堂宇(本堂内宮殿)、重文仏像(十一面観音立像)。

⑥支院・塔頭:  3ヶ寺、末寺: 11寺。

 ⑦寺域:  66,000㎡(20,000坪)。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。新西国三十三ヶ所。

⑨所在地: 神戸市須磨区。

⑩訪問年:  平成16年02月14日(土)。

真言宗には「真言宗十八本山」があって、先ずこの本山の巡礼を達成させようと思ったのが、須磨寺を参拝した頃であった。「真言宗十八本山」は、空海大師の生誕地に建立された善通寺を除くと、殆どが関西に集中しているので達成しやすい巡礼であった。

須磨寺は神戸でも屈指の観光地である須磨浦公園に隣接し、一ノ谷合戦があった場所でもある。『源氏物語』の須磨の巻で、光源氏が住んだ場所としても有名で、謡曲の「松風」では在原業平に仕えた松風・村雨の姉妹が庵を結んだ所としても知られる。

正式な寺号は福祥寺と号するが、須磨寺の通称名が一般的となり福祥寺で呼ばれることはないようだ。寺の草創は天長年間(824-834)、漁師が和田岬の海中から光り輝く聖観音像を網で引揚げ朝廷に奏上した所、小堂に安置されて恵偈山北峰寺と名付けられたと言う。仁和2年(886年)、光孝天皇(830-887)の霊夢によって勅願が出され、聞鏡上人(生没不詳)が現在地に開山でした。七堂伽藍が整った寺となったが、平安末期には衰退を余儀なくされるが、源頼政(1104-1180)が堂塔と鎮守社を再興し、仁王門は当時の再建である。

現在の本堂は慶長7年(1602年)、豊臣秀頼(11593-1615)によってに再建されたもので、国の重要文化財となっている。明治維新の廃仏毀釈で寺は無住状態となり、広大な境内の一部は旧武庫離宮(現離宮公園)が造営される。寺の再建が図られるには、長原密浄が住職となった明治20年(1887年)頃からである。神戸市の議会にも働きかけ、須磨寺一帯が桜の名所ともなるのも住職の復興に対する情熱とも思う。

須磨寺には一ノ谷合戦において、弱冠17歳で打ち取られた平敦盛の墓があり、笛の名手であった音色が境内に響いている錯覚を感じる。その青葉の笛は、敵将の弁慶の遺品と共に寺宝として保存されているようである。江戸時代には松尾芭蕉や与謝蕪村の俳人の他、良寛和尚も参拝している。明治では正岡子規、大正では尾崎放哉、昭和では山本周五郎や陳舜臣などの文人が訪ねている。その句碑や歌碑が24基もあり、文人の寺とも言える。

「笛の音に 波もよりくる 須磨の秋」 蕪村

022信貴山真言宗総本山朝護孫子寺(真言宗十八本山)

①山号院号: 信貴山歓喜院。

 ②本尊: 毘沙門天立像。

 ③開山開基: 聖徳太子。中興:  命蓮上人。

 ④開山開基年: 推古天皇2年(594年)。中興年:  延喜2年(902年)。

 ⑤文化財:  国宝絵画(信貴山縁起絵巻)。

⑥支院・塔頭:  3ヶ寺、末寺: 30ヶ寺。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。ケーブルカー。

⑨所在地: 奈良県平群町。

⑩訪問年:  平成02年11月03日(土)・平成20年11月21日(金)。

奈良には著名な寺院が多く、一般の観光客があまり注目しないのが信貴山である。寺号は朝護孫寺であるが、地元では信貴山の山号や毘沙門さんと呼ばれて信仰を集めているようだ。聖徳太子が四天王寺と同様に戦勝祈願のため、毘沙門天を祀り創建したとされるが史実は不明である。奈良時代に一時衰退したが延喜2年(902年)、命蓮上人(生没不詳)が中興し、七堂伽藍を整えたとされる。南北朝時代には楠正成や護良親王など南朝方の信仰を集め、室町時代末期には松永久秀(1508-1577)が城を築いて信貴山城とした。江戸時代には戦乱で疲弊した堂宇が再建され、昭和26年(1951年)に高野山真言宗から独立している。

境内に入って先ず驚くのは、大きな張り子の寅である。寅年の寅の日の寅の刻に、聖徳太子の前に毘沙門天(多聞天)が現れ、物部氏との戦さを加護したことに因んで寅の張り子がモニュメントとされたようだ。境内の面積は不明であるが、広い境内には大きな本堂の周辺に堂塔が林立している。仁王門、多宝塔、鐘楼堂、本坊、絵馬堂(納経所)、開山堂は江戸時代中期から末期の建築であるが、国や県の文化財指定を受けていないのが不思議である。

 この寺で最も有名なものは、「日本三大絵巻」の1つとされる「信貴山縁起絵巻」で、命蓮上人の事績を物語風に描いた平安後期の作品で、国宝に指定されている。絵巻は霊宝館に展示されているが、作者不詳で命蓮上人の生没年も不詳なことが気になるところである。

境内入口の大門池に架かる赤い開運橋は、「上路カンチレバー橋」という日本最古の形式の橋で、建造物では唯一国登録有形文化財になっている。本堂の裏側から赤鳥居が立ち並ぶ参道を登って行くと、標高437mの山頂に到る。山頂には空鉢護法堂が建ち、信貴山城跡の石碑が立っている。山頂は平坦な部分が少なく、山城にしては堅固な城はと言い難く、織田信長にあっさりと敗れたのも頷ける。久秀は四階櫓の天守閣を築いたとされるが、その天守閣に火を放ち自害している。第13代室町幕府将軍・足利義輝を謀殺し、東大寺大仏殿に火を放ったことから戦国梟雄とも称される久秀であるが、茶の湯や和歌を嗜む文化人的な要素も持ち合わせていたようで、その和歌を見る限りでは平凡な武将とも思える。

「世の中に 春なかりせは いかて又 花のかけにて 君にあひみん」 久秀

023真言宗御室派総本山仁和寺(真言宗十八本山)

①山号: 大内山。

②本尊: 阿弥陀如来坐像(国宝)。

③開山開基: 宇多天皇。再興: 徳川家光。

④開山開基年: 仁和4年(888年)。再興年:  正保3年(1646年)。

⑤文化財:  国宝堂宇(金堂[旧紫宸殿])、重文堂宇(観音堂、御影堂、御影堂中門、五重塔、鐘楼、経蔵、九所明神堂本殿・拝殿、二王門、中門、遼廓亭、本坊表門)、名勝(御室桜)、主な国宝仏像(薬師如来坐像)。

⑥支院・塔頭:  1ヶ寺、末寺: 772ヶ寺。

⑦寺域: 99,000㎡(30,000坪)。

⑧特色: 世界文化遺産。史跡。門跡寺院。七堂伽藍の景観。日本桜名所100選。

⑨所在地: 京都市右京区。

⑩訪問年: 昭和48年10月25日(水)・平成04年01月02日(木)。

京都の観光寺院の中でも一目置かれる仁和寺は、光孝天皇の勅願によって建設され、宇多天皇(867-931)が仁和4年(888年)に落慶させた門跡寺院である。室町時代の応仁の乱で堂宇の殆どが消失するが、第3代江戸幕府将軍・徳川家光によって再興されて、その寺観を現在も維持している。宇多天皇は32歳の若さで醍醐天皇に譲位すると、真言僧・益信(827-906)に従って得度し、空理と称して仏道三昧の生活に入る。空理が仁和寺で崩御した後、空海大師の再来とされる性信法親王(1005-1085)が空理の第2世として入寺し、明治初年までは天皇家の親王が門跡(住職)を務めている。

 仁和寺の境内は、勅使門から先の宸殿のある本坊は有料区域となるが、金堂や五重塔は無料の拝観区域である。清水寺は本堂の拝観は有料であるけれど、寺院本来の信仰を考えるなら、本堂(金堂)は無料とするべきである。どうしても金が欲しいならば、内陣のみ有料とするべきである。京都の観光寺院のいやらしさは拝観料の徴収であり、千円も要求する寺には1度限りで、2度と参拝したいとは思わない。

仁和寺の七堂伽藍の殆どが国宝や重要文化財であるけれど、そこに「御室桜」の名で知られる国指定の名勝でもある。城郭の桜の見物が最優先され、醍醐寺の桜を眺めただけで、仁和寺の桜はまだ見ていない。この桜は「日本桜名所100選」にも選ばれていて、「日本三百名山」の登山が終了したら、残り59ヶ所となった桜の名所に仁和寺も含まれている。

 太平洋戦争後、平和で自由な時代となって天台宗や真言宗から多くの大寺院が分離独立したが、仁和寺はそれよりも早い、明治33年(1900年)に真言宗御室派として独立している。平安時代の開基以来、東寺や高野山の影響を受けない「広沢流」を大覚寺などと一緒に標榜していた。天皇が開基した寺のイメージが真言宗の中でも強力で、葵の御紋よりも菊の御紋が上位にあると思うのが、近代日本の価値観とも思われる。

「ゆきてみぬ 人のためにと 思はずは たれかをらまし 庭の白菊」 宇多天皇

024真言宗御室派大本山広隆寺(太秦寺・蜂岡寺・秦寺)

①山号: 蜂岡山。

②本尊: 聖徳太子像。

③開山開基: 秦河勝。中興:  道昌。

④開山開基年: 推古天皇11年(603年)。中興年:  承和3年(836年)。

⑤文化財: 国宝堂宇(桂宮院本堂[八角円堂])、重文堂宇(講堂)、主な国宝仏像(弥勒菩薩半跏像、阿弥陀如来坐像)。

⑥支院・塔頭:  1ヶ寺、末寺: 総本山に含む。

⑦寺域:  不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 京都市右京区。

⑩訪問年:  昭和52年07月07日(木)・平成04年01月02日(木)。

仁和寺の大本山である広隆寺は、知名度では総本山仁和寺よりも名高い。聖徳太子ゆかりの7ヶ寺の1つで、京都最古の寺でもある。推古天皇11年(603年)、百済からの帰化人の有力者・秦河勝(生没不詳)は、聖徳太子から仏像を賜り広隆寺を建立した。広隆寺と言えば、切手のコレクションで少年の頃から知っていた国宝・弥勒菩薩半跏像の安置されていることである。道路は挟んだ向かい側には、「東映太秦映画村」があって、そこを訪ねることも時代劇好きの少年だった私が、青年となってから最も憧れた場所でもあった。

 通りに面した大きな山門(仁王門)を入ると、平安時代に再建された赤堂とも称される講堂が建ち、堂内の中心には国宝の阿弥陀如来坐像、右に地蔵菩薩坐像、左に虚空蔵菩薩坐像が安置されている。脇持2躯は国の重要文化財で、阿弥陀如来坐像も含め平安初期の作とされている。講堂の先の国宝・桂宮院本堂は、桧皮葺きの八角円堂で鎌倉時代に建てられ、堂内には重文の如意輪観音半跏像が安置されている。また、上宮王院太子殿は当時の本堂で、重文の聖徳太子立像が祀られている。

創建当時の伽藍の配置は不明であるが、現代の伽藍配置は不規則なものとなっていて、昭和33年(1982年)に建てられた霊宝殿が現在の本堂のようにも見える。館内には日本一美しいとされる宝冠弥勒菩薩半跏像が展示されている。仏像彫刻の国宝指定第1号でもあり、製作年代は白鳳時代頃とされるが国産なのか半島産なのか明らかではないようだ。弥勒菩薩半跏像はもう1躯あって、こちらは「泣き弥勒」と呼ばれて庶民的な容姿をしている。かつて講堂に安置されていた大きな不空羂索観音立像と千手観音立像は、いずれも国宝の木造仏像で、奈良時代末から平安初期の作品とされる。他に重文の十二神将立像は、平安時代の仏師・長勢グループの作とされ十二躯が残っているのも珍しい。

広隆寺を中興した道昌(798-875)は、空海大師の直弟子で嵐山の法輪寺も中興している。渡月橋を架け、大堰川の修築を行ったのも道昌とされ、大師から土木技術も伝承されたようである。道昌の和歌が残されていないのは、大師が全てを教えなかった所為である。

025真言三宝宗大本山清澄寺(清荒神・真言宗十八本山)

①山号: 蓬莱山。

②本尊: 大日如来坐像(重文)。

③開山: 増命・益信、開基: 宇多天皇。再興: 源頼朝。中興:  浄界和上。

④開山開基年: 寛平5年(893年)。再興年: 建久元年(1190年)。中興年:  江戸末期。

⑤文化財: 重文絵画(千手観音菩薩像)。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 7ヶ寺。

⑦寺域: 不明。

⑧特色:  門前町。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 兵庫県宝塚市。

⑩訪問年:  平成05年10月10日(日)。

宝塚歌劇団で有名な宝塚市に、清澄寺と中山寺の古刹があることを知ったのは「真言宗十八本山」の巡礼を計画した時である。清荒寺は「清荒神」の名で知られる神仏混合の寺で、宇多天皇(867-931)の勅願によって天台僧・増命(843-927)と真言僧・益信(827-906)の両高僧が寛平5年(893年)に開山した。摂津七大寺の1つで、釈迦・弥陀・弥勒三尊来臨の聖地であるとされ、宇多天皇から「日本第一清荒神」の尊号を賜っている。

源平の合戦で社殿や堂宇を焼失するが建久元年(1190年)、源頼朝(1147-1199)によって再建されている。戦国時代には荒木村重の乱で焼失し、現在の寺観を中興したのは、江戸末期に浄界和上が法主となった時とされる。昭和22年(1947年)には、仁和寺の傘下から真言三宝宗として独立している。

私が訪ねた時は10月の日曜日とあって、門前町や境外は参拝客で賑わっていた。山門をくぐり境内に入ると、左側に清荒神を祀る社殿が幾重にも建ち並んでいる。右側には寺務所や本坊の甍が軒を並べている寺観には圧倒される。参道の正面には宝形造りの本堂が建ち、空海大師の修業像や池苑が参道の景観にインパクトを与えている。最近まで清荒神清澄寺の存在すら知らなかっただけに、七堂伽藍の具わった寺観には驚いてしまった。

国宝や重要文化財の堂宇はなく、国の重要文化財には本堂に安置された大日如来坐像、千手観音菩薩像と釈迦三尊像の仏画があるだけであるが、本堂の奥には鉄斎美術館(聖光殿)がある。第37世法主の光浄和上が富岡鉄斎(1837-1924)と交流のあった縁で、作品の多くが寄贈されたようである。そもそも絵画の寄贈の始まりは、神社の絵馬や寺院の仏画であると思う。生活のために絵を描く画家とは、一線を画した鉄斎の姿勢が見えるようである。

 神社仏閣の繁栄は、信者や庶民を引き付ける魅力であり、国宝の堂塔や重文の堂宇なくても未来永劫に続くであろう。江戸時代に再建された堂宇は、国の重要文化財に指定される日も近いし、それを支えるのは信者の力であると思う。支え合わなくては寺の維持は成り立たない。この寺には縁日は多く、イベントを盛んに行うことで成り立って来たと思う。

この寺も広隆寺と同様に、句碑や歌碑が無く紹介できなかったことが残念である。

026真言宗中山寺派大本山中山寺(中山観音・真言宗十八本山)

①山号: 紫雲山。

②本尊: 十一面観音菩薩立像(重文)。

③開山開基: 聖徳太子。再興: 源頼朝。

④開山開基年: 用明天皇2年(586年)。再興年: 建久元年(1190年)。

⑤文化財: 重文仏像(薬師如来坐像)。

⑥支院・塔頭:  5ヶ寺、末寺: 7ヶ寺。

⑦寺域: 不明。

⑧特色: 西国三十三ヶ所観音霊場。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 兵庫県宝塚市。

⑩訪問年: 平成05年10月10日(日)。

清荒神清澄寺から中山寺までは、3キロほどの離れた距離であったが、その景観は全く違っていた。清澄寺には神仏混合の雰囲気が漂っていたが、中山寺は山の麓から中腹まで堂塔が建ち、西国三十三ヶ所観音霊場の第24番札所でもある。奈良の長谷寺を開基した徳道上人(656-736)が観音霊場を開創した折、中山寺を日本最初の観音霊場とし第1番札所に指定した。その後、花山天皇(968-1008)が観音霊場を復興整備した際、道順から現在の第24番札所になった。巡礼好きの後白河法皇(1127-1192)もこの寺の観音に帰依し、度々臨幸したようである。後白河法皇を「天下の大天狗」と称した源頼朝(1147-1199)が再興に関わったことを考えると、不思議な縁を感じる。

寺伝では用明天皇2年(586年)、聖徳太子が神功皇后と不和となり殺害された仲哀天皇の妃・大仲姫とその皇子たちを祀るために創建されたとされる。また、太子が滅ぼした物部守屋の霊を鎮めるための寺であったともされる。

戦国時代には堂塔や僧坊30院を消失するが、豊臣秀頼が片桐旦元(1556-1615)に命じて再興させた。旦元は戦国武将でありながらも建築技術に優れ、城郭のみならず多くの寺社の再建に関わっている。現在の本堂や阿弥陀堂は当時の再建で、本堂は兵庫県の重要文化財になっている。正確な面積は不明であるが、広大な境内には堂塔伽藍が建ち並び観音信仰の裾野の広さが現在の繁栄となっているようだ。

中山寺は孝明天皇の典侍であった中山慶子(1836-1907)が、明治天皇(1852-1912)を出産する際に安産祈願を行ったことから、日本唯一の明治天皇勅願寺となった。子授祈願や安産祈願の御利益がある寺として参拝者は絶えない。

本尊の十一面観音菩薩立像は平安前期の作とされ、その他薬師如来坐像や聖徳太子坐像など重文の彫刻がある。開創時に印度の勝鬘夫人の姿を写したとされる十一面観音菩薩像は現在の観音像ではないと思われる。飛鳥時代の仏像が残っていたならば浅草の観音像以上の価値があり、三国伝来の尊像が伝わっていた事実が明確になっていたであろう。

「野をもすぎ 里をもゆきて 中山の 寺へ参るは 後の世のため」 御詠歌

027真言宗大覚寺派大本山大覚寺(真言宗十八本山)

①山号: 嵯峨山。

②本尊: 不動明王坐像・五大明王像(重文)。

③開創: 嵯峨天皇・空海。開基:  恒寂(恒貞)法親王。再興:  後宇多天皇。

④開創年:  弘仁2年(811年)。開基年:  貞観18年(876年)。再興年:  徳治3年(1308年)

⑤文化財:  重文堂宇(正寝殿[客殿]、宸殿)、名勝(大沢池)。

⑥支院・塔頭:  1ヶ寺、末寺: 367ヶ寺。

⑦寺域: 970,000㎡(294,000坪)。

⑧特色: 門跡寺院。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 京都市右京区。

⑩訪問年:  昭和48年09月20日(木)・平成04年01月04日(土)。

嵯峨野には個性的な寺が多く、大覚寺は観光客が必ず訪ねる格式高い門跡寺院である。平安京に遷都されてから17年後の弘仁2年(811年)、嵯峨天皇(786-842)は空海大師に勅して五大明王像を刻し、嵯峨離宮に五大堂を建立した。平安な時代となり、嵯峨天皇は弟の淳和天皇(786-840)に譲位し、上皇となって離宮で崩御する。

貞観18年(876年)、嵯峨天皇の孫の恒寂法親王(825-884)が出家して大覚寺を開基する。鎌倉時代の徳治3年(1308年)、後宇多天皇(1267-1324)が上皇となって寺を嵯峨御所として再興し、院政を行ったとされる。後宇多天皇の父・亀山天皇から始まる血脈を「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた。

南北朝時代の和解の際、大覚寺において南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に「三種の神器」が引き渡された由緒がある。室町時代には第3代室町将軍・足利義満の子・義昭(1404-1441)が、大覚寺第31世門跡となっている。また、嵯峨天皇を流祖とする華道・嵯峨御流(未生流)の総司所(家元)であり、真言宗広沢流の大本山でもある。

大門から境内に入ると、御所などの建物が移築されたため宮廷風の堂宇が目立つ。国の重要文化財の宸殿は東福門院の旧殿、御影堂は大正天皇の即位式に使用れた饗応殿、貴賓館は秩父宮の御殿であったものが下賜された。霊明殿だけは寺院建築で、東京の沼袋に建てられた日仏寺の本堂で移築されている。また、重文でもある正寝殿は、桃山時代に建てられたもので狩野山楽の障壁画が有名である。本堂でもある五大堂は、江戸時代中期の再建で、空海大師の五大明王像は収蔵庫に保管され、現在は昭和50年(1975年)に造られた五大明王像が安置されている。

大覚寺の最大の魅力は境内に隣接する大沢池で、嵯峨天皇が唐の洞庭湖を模して築造したとされる。名古曽滝の石組みと共に国の名勝に指定され、時代劇などのロケーションにも登場する。池から眺める朱色の心経宝塔が美しく、名月の三大鑑賞地としても知られる。名古曽滝は平安中期には枯れてしまったようで、藤原公任の和歌にも詠まれている。

「滝の音は たえて久しく なりぬれど なこそ流れて なお聞えけれ」 公任

028真言宗大日派本山鑁阿寺(大日堂・堀内大御堂)

①山号院号: 金剛山仁王院法華坊。

②本尊: 大日如来像。

③開山: 理真上人、開基:  鑁阿(足利義兼)。再興: 足利義満。

④開山開基年: 建久7年(1196年)。応安2年(1369年)。

⑤文化財:  国宝堂宇(本堂)、重文堂宇(鐘楼、経堂)。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 3ヶ寺。

⑦寺域: 40,467㎡(12,260坪)。

⑧特色: 史跡。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 群馬県足利市。

⑩訪問年:  平成03年04月28日(日)・平成29年08月14日(月)。

栃木県では日光東照宮の社殿を除くと、国宝建造物に指定されている寺社建築は鑁阿寺の本堂だけである。北関東随一の名刹で、大日堂と呼ばれたことから昭和26年(1951年)、真言宗豊山派から独立して真言宗大日派の本山となる。末寺3ヶ寺の最も小さな宗派となったが、鑁阿寺の存在感は多くの参拝客や観光客を引きつけている。

建久7年(1196年)、八幡太郎義家の曾孫とされる足利義兼(1154-1199)が真言僧・理真上人に帰依し、鑁阿と号して邸内に大日如来を祀る持仏堂を建てたことに始まる。正和3年(1314年)には花園天皇の勅願所となる寺に発展し、高野山を模した七堂伽藍が建ち並んでいたと言う。室町時代になると、子孫の足利尊氏など足利将軍家は寺の再興に尽くした。中でも足利義満(1358-1408)は応安2年(1369年)、喜連川郷を寄進して寺の恒久的な存続に寄与した。室町幕府が滅んだ後も喜連川郷は、足利氏の本拠地として明治まで家督を維持し、明治以後は子爵家にもなっている。

山門(仁王門)に一礼して境内に入ると、本堂を中心に七堂伽藍が林立する。私が最初に訪ねた頃は、本堂(大御堂)は国の重要文化財であったが、平成25年(2013年)に国宝に昇格している。創建から約100年を経た正安元年(1299年)、足利貞氏(1273-1331)によって再建された密教仏殿である。鐘楼と経堂は国の重要文化財で、御霊屋・多宝塔・東門・西門・山門・太鼓橋は県の文化財に指定されている。また、境内は足利氏宅跡(足利氏館跡)として国の史跡になっていて、「日本100名城」にも選ばれているは珍しい評価と言える。実際に水堀や土塁などが境内に残されていて、城郭の面影が多少なりとも偲ばれる。

建造物以外にも彫刻や絵画など国や県が指定した文化財を多数あり、足利尊氏が所有した幔幕が有名である。寺域には日本最古の学校とされる足利学校が残っていて、平成2年(1990年)に孔子廟や方丈などの建物が完全復元されて現在に至っている。沖縄の首里城のように復元されても世界文化遺産に登録されることもあり、鑁阿寺も含めた足利氏の遺産が世界文化遺産に推薦される日を期待したい。鑁阿寺と足利学校には、文人の来歴を記す歌碑や句碑がなかったのが残念であったが、渡良瀬橋には歌謡曲の歌碑があるようだ。

029五智教団大本山鳳来寺(宝来寺・蓬莱寺)

①山号: 煙巌山。

②本尊: 薬師如来像。

③開山: 利修仙人、開基:  文武天皇。再建:  徳川家光。再興:  服部賢成。

④開山開基年:  大宝3年(703年)。再建年:  慶安4年(1651年)。再興年:  明治39年(1906年)。

⑤文化財: 重文堂宇(仁王門)、名勝(鳳来寺山)。

⑥支院・塔頭:  2ヶ寺、末寺: 9ヶ寺。

⑦寺域:  不明。

⑧特色: 天然記念物の奇岩。紅葉の名所。

⑨所在地: 愛知県新城市。

⑩訪問年:  平成18年06月10日(土)・平成22年07月11日(金)。

鳳来寺は若い頃からその名を知っていて、1度は訪ねてみたいと思っていたが、他の本山よりも優先順位が低く、訪問が遅れてしまった。鳳来寺山中腹の駐車場に車を停めると、奇岩と松の緑が美しい山肌が目に映る。境内に向かうと、豪華な権現造りの東照宮が建っていて、徳川家康ゆかりの地である印象が感じられる。

鳳来寺は大宝3年(703年)、文武天皇(638-707)の勅願によって利修仙人(生没不詳)が開山したとされる。本尊には天皇の病気平癒を願い薬師如来が祀られ、十二神将像が安置されたと言う。文武天皇は病気が平癒した4年後に崩御するが、その皇子の聖武天皇と妃の光明皇后も鳳来寺に帰依し、光明皇后は山号の扁額を下賜したとされる。

鎌倉時代は源頼朝が源氏の祈願所として保護し、桃山時代は豊臣秀吉によって寺領三千石を没収されて衰退する。江戸時代になって徳川家康が生母・於大の方が信仰した縁もあって外護し、徳川家光が東照宮の建立と共に伽藍を再建した。江戸中期には東照宮があったことから天台宗の塔頭と真言宗の塔頭が覇を競っていた。明治の廃仏毀釈で東照宮は神社となり、両宗の堂宇や僧坊は時の住職・服部賢成によって高野山真言宗に統一された。昭和の戦後は、五智教団大本山として高野山真言宗から独立して現代に至っている。

鉄筋コンクリート造りで再建された本堂を参拝し、諸堂をめぐったが開山堂は屋根にブルーシートが張られ、大師堂は朽ちようとしている有様であった。ディスカバージャパンの頃は、多くの観光客が泊まっていたであろと思われる宿坊は廃屋となっている。車を麓まで移動して鳳来寺唯一の国の重要文化財の楼門造りの山門を見物した。本堂までは1,425段の石段が続き、深山幽谷の霊地とされた面影が偲ばれる。

寺が衰退して行く様子は哀れなもので、風光明媚な鳳来寺山がありながら参拝客や観光客が少ないのは、寺の再興を志す住職や檀家が不在であることが要因である。江戸時代の盛時には、松尾芭蕉翁も鳳来寺を参詣して句を残しているが、その句碑も哀れに見える。

「木枯らしに 岩吹きとがる 杉間かな」 芭蕉

030真言宗九州教団本山東長寺

①山号院号: 南岳山。

②本尊: 十一面千手観音立像(秘仏・重文)。

③開山開基: 空海。再興:  黒田忠之。

④開山開基年: 大同元年(806年)。江戸時代初期。

⑤文化財: 国指定は本尊のみ。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 16ヶ寺。

⑦寺域: 不明。

⑧特色: 市史跡。七堂伽藍の景観。福岡大仏(木造日本一)。

⑨所在地: 福岡県福岡市。

⑩訪問年: 平成23年04月06日(水)。

九州には明治維新で主導権を握った薩摩藩と佐賀藩の両藩があるが、廃仏毀釈に熱心だったのも両藩であった。『古刹名刹大辞典』には、佐賀県の寺院だけは紹介がなく、鹿児島県も5ヶ所の寺が紹介されているだけである。その反対に福岡県や大分県には多くの寺院が紹介され、博多の東長寺や久留米の善導寺、国東の富貴寺などはその代表格とも言える。

大同元年(806年)、唐から帰朝した空海大師は留学僧のルール違反を犯し、朝廷の沙汰を大宰府の観世音寺で待っていた。しかし、一刻も早く真言密教を伝えなくてはならなと、博多の海辺・大水道(呉服町)に開山したのが東長寺である。

 戦国時代の兵火で荒廃した東長寺を現在地に移し再興したのが、福岡藩2代目藩主・黒田忠之(1602-1654)である。寺は黒田家の菩提寺となり、3代目藩主・光之(1628-1707)は真言宗に深く帰依し、供養塔は高野山でも大師御廟に最も近い場所に建てられた。

江戸時代の境内は、15万坪(495,000㎡)もあったと言われるが、現在は住宅地に囲まれて境内はかなり狭くなったようである。それでも福岡大仏が鎮座するの大仏殿の他、本堂・講堂・護摩堂・六角堂・五重塔・鐘楼など七堂伽藍が境内に建っている。大仏殿の釈迦如来坐像は、平成4年(1992年)に完成した高さ10.8mの木造で、木造では日本一とされる。

最も古い堂宇が六角堂で、江戸時代に博多商人に寄進したもので、2層の六角堂は珍しく、傍らにソメイヨシノが美しく咲いていた。逆に最も新しい五重塔は平成23年(2011年)、醍醐寺の五重塔を模して木造で建てられたもので、高さが23mは醍醐寺よりも10mほど低い。五重塔の建築費は約7億5千万円と言われ、大寺院でなくては建てられない。

昭和26年(1951年)、真言宗御室派から独立し真言宗九州教団の本山となっていることが寺の再興や発展を加速させたものだと思う。同じく独立して五智教団の大本山となった鳳来寺と比較すると、そのギャップが大きく住職の器量次第ではないかと感じる。境内には句碑や歌碑はなかったが、聖福寺の住職で画僧としも知られる仙厓義梵(1750-1837)が六角堂の扉に記した書画がある。境内には忠之を始めとする4人の歴代藩主の墓所があり、市の史跡となっている。空海大師の開山にしては、その資料が乏しいのが残念に思われた。

031真言宗醍醐派総本山醍醐寺(真言宗十八本山)

①山号: 深雪山・笠取山。

②本尊: 薬師如来像(重文)。

③開山開基: 聖宝。中興:  勝覚。重興再建:  義演・豊臣秀吉。

④開山開基年: 貞観16年(874年)。中興年:  永久3年(1115年)。重興再建年:  慶長3年(1598年)。

⑤文化財: 国宝堂宇(金堂、五重塔、清滝宮拝殿、薬師堂、三宝院唐門、三宝院表書院)、重文堂宇(清滝宮本殿、如意輪堂、開山堂、三宝院殿堂)、特別名勝(三宝院庭園)、主な国宝仏像(虚空蔵菩薩立像)。

⑥支院・塔頭:  5ヶ寺、末寺: 825寺。

⑦寺域: 6,600,000㎡(2,000,000坪)。

⑧特色: 世界文化遺産。特別史跡・史跡。門跡寺院。西国三十三ヶ所観音霊場(上醍醐寺)。七堂伽藍の景観。日本桜名所100選。

⑨所在地: 京都市伏見区。

⑩訪問年: 昭和48年12月13日(水)・平成03年12月29日(日)・平成25年04月01日(月)。

京都において最も広大な寺域を持つ醍醐寺は、標高450mの醍醐山(笠取山)の全山を境内としている。山頂に大小の伽藍が建ち並ぶ上醍醐と七堂伽藍が林立する下醍醐を合わせて醍醐寺と称する。山号と実際の山名が一致しないのは不可解で、醍醐山は通称名としても山号を笠取山か、山名を深雪山のいずれかに変えるべきであろう。山号は平安以降の仏教で大切な代名詞でもある。醍醐寺は貞観16年(874年)、空海大師の法孫である聖宝上人(832-909)が山上に准胝堂と如意輪堂を建てたのが始まりで、醍醐天皇(923-952)の生母・藤原胤子が帰依したことから下醍醐に釈迦堂が建てられて醍醐寺と号するようになった。

天歴3年(949年)に朱雀上皇が法華三昧堂を建て、天歴5年(951年)には村上天皇が現在の五重塔を建ている。その後も天皇による堂宇の建立が続き、堀河天皇は円光院を建て、中興の祖とされる勝覚(1057-1129)の時代には鳥羽天皇が三宝院を寄進している。後世に醍醐五門跡と称されるのも、平安時代の天皇が帰依したことの証左であると私は考える。三宝院を本坊として、境内には理性院・無量寿院・報恩院の旧門跡寺院が残っていて、境外の一言寺に金剛王院が移転されて現在も存続している。

室町時代には足利義満が三宝院門跡の住持・満済(1378-1435)を養子に迎え権力を与えると、寺坊200余の大寺院に発展する。しかし、応仁の乱で衰退し、織田信長の兵火によって下醍醐は五重塔だけが残る境内となってしまう。その後、主君の罪をあがなうように豊臣秀吉(1537-1598)が、金堂(国宝)を紀州の満願寺から移築し、三宝院の堂宇や庭園を再建し、吉野山に続く盛大な花見を行っている。江戸時代になると、徳川将軍家も醍醐寺を外護し寺観は維持されて明治維新を迎える。明治初期の廃仏毀釈でダメージを受けるものの、門跡寺院でもあったことから昭和時代には諸堂が改修や再建されて現在に至っている。

醍醐寺は日本桜名所100選にも選ばれていて、4年前に念願だった醍醐寺の観桜が叶えられた。総門を入ると境内は目を見張るようなソメイヨシノが咲き、平日にも関わらず大勢の花見客や参拝客が訪れていた。霊宝館の塀越しに眺める桜が最も美しく、参道から逸れては暫し立ち止まった。霊宝館は塔頭・宝聚院として昭和10年(1925年)に竣工し、国宝や重要文化財の古文書や仏像・仏画などを多数収めらている。

参道に面した三宝院は拝観者の行列ができていたので、過去に拝観したこともあってパスした。西門(仁王門)を入ると、左側には金堂・不動堂・大講堂と並び建ち、伝法学院・祖師堂が手前にある。右側には鎮守社である清瀧宮の社殿と、安定感のある五重塔が建っている。三宝院付近の桜ほど華やいではいないが、国宝の金堂と枝垂れ桜と、同じく国宝の五重塔のソメイヨシノは絵になる景観である。

女人堂の脇で上醍醐寺の参道があり、山頂までは約2.6キロ・徒歩60分の案内表示があった。登山口には寺男が立っていて入山料600円を徴収されたが、上醍醐寺の拝観料だと思えば仕方ない支出となった。途中に槍山というピークがあったが、豊臣秀吉が花見をした場所と紹介されていたが、桜が一本もないのも情緒がない。山頂付近に到着すると、山上寺務所と客殿の大きな堂宇があって、その上に国宝の清瀧宮の拝殿があった。西国三十三ヶ所観音霊場の札所でもある准胝観音堂は、平成20年(2008年)に落雷による火災で焼失し、その基礎だけがのこされていた。国宝の薬師堂が無事であり、五大堂や如意輪堂など江戸初期に再建された堂宇も残っていたので安心した。

開山堂が建っている所が標高450mの山頂で、麓の小野ノ里の景色が良く見える。大きな入母屋造りの開山堂の前には、聖宝上人と弟子2人の銅像が立っていて、修験者の姿をした容姿は逞しく感じる。上人は醍醐寺を開山したばかりではなく、修験道中興の祖とも仰がれ、三宝院を拠点とる当山派を興している。また、真言宗においては小野流と称される独自の儀礼を発案する。明治33年(1900年)、東寺の傘下から独立して 醍醐派を名乗るのも上人の新たな真言宗の発想が源となっている。

上醍醐寺の諸堂をめぐり、下山して再び下醍醐寺の桜を堪能した。毎年4月の第2日曜日には、秀吉の花見を再現した「豊太閤花見行列」が行われようで、その様子が目に浮かぶようである。慶長3年(1598年)、秀吉は「あらためて なおかえりみん 深雪山 うずもるはなも あらわれなけ」と花見の宴の感想を短冊に残している。同席した北政所や淀君、前田利家などの短冊が131葉あり、全部まとめられて1冊に保存されていて、国の重要文化財に指定されている。

焼失した准胝観音堂の仮本堂として大講堂が西国三十三ヶ所観音霊場第11番札所にあてがわれていた。納経をしようと立ち寄った所、長蛇の列で30分は待たされるる様子である。まだ暗誦していない「観音経偈」を読誦して参拝し、次回に納経をすることにして醍醐寺を後にした。花見と納経を一緒に行おうとしたことが浅はかであったと反省したが、予想以上の花見客や参拝客で、城郭の花見と同様に開門と同時に入るのが無難なようだ。

032真言宗醍醐派大本山西國寺

①山号: 摩尼山。

②本尊: 薬師瑠璃光如来坐像(秘仏・重文)。

③開山開基: 行基。中興:  慶鎫・白河天皇。重興:  宥尊・足利義政。

④開山開基年: 天平元年(729年)。中興年:  永保元年(1081年)。重興年:  永享年間。

⑤文化財: 重文堂宇(金堂、三重塔)。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 総本山に含む。

⑦寺域: 15,700㎡(4,780坪)。

⑧特色:  旧真言宗西國寺派総本山。七堂伽藍の景観。桜の名所。

⑨所在地: 広島県尾道市。

⑩訪問年: 平成22年03月24日(水)。

尾道には千光寺や浄土寺など古刹が多く、尾道が観光地として存在するのも港町の景観と共に古刹の魅力が観光客を引きつけているのだろう。その古刹の中で、目立たない存在でありながらも真言宗西国寺派の総本山として一派を成し、現在は醍醐派の大本山となっている西國寺がある。尾道第一の名所である千光寺公園の千光寺や国宝の本堂と多宝塔を有する浄土寺に及ばないものの、尾道でも最も広い境内には、七堂伽藍が建ち並んでいる。

寺の創建は、奈良時代に行基菩薩(668-749)が西国を行脚した折、自ら仏像を彫り開基したとされる。平安初期に火災により堂宇の大半を消失するが永保元年(1081年)、白河天皇(1053-1129)が慶鎫(生没不詳)に命じて復興させて勅願所とした。慶鎫が師事した性信法親王は京都仁和寺の門跡であったため、仁和寺の末寺となった。南北朝時代に再び火災により焼失するが、守護大名の山名氏や室町将軍・足利義政の外護によって宥尊が重興した。江戸時代になって福島正則が国守となると、寺領を没収されて一時衰退するが、山陽道随一の伽藍を誇った金堂と三重塔は残されて現在の規模まで再興された。

江戸初期に再建された山門(仁王門)の左右には、大草鞋が掲げらているのが特徴で、参道の石段にはソメイヨシノが美しく咲いていた。大きな入母屋造りの金堂の左側や奥には諸堂が建ち並び、高台に三重塔が聳えていた。本坊も大きく立派な建物で、大本山に相応しい風格を感じさせる。尾道商人による燈籠の寄進が多く見られ、尾道の港の繁栄が西國寺を支えたようであり、庶民の信仰が寺社にとっては一番である。

金堂の本尊・薬師瑠璃光如来坐像は、空海大師が大宰府から京に上る途上、西國寺に立ち寄り刻んだとされるが平安後期の作品であることが判明している。空海大師が寺に残したとされる銅製五鈷鈴は、唐時代のものとされるので確かであり、国の重要文化財にも指定されている。大師は朝廷から上京の許可を得ながらも「虚しく往きて、満ちて帰る」と吐露しているように、余裕綽々の様子であったようである。西國寺を巡錫する前は宮島の弥山で護摩修養を行い、西國寺の後は神戸の再度山に登っている。真言宗の奥義を極めた喜びが伝わって来るようであり、大師堂で尊顔を拝しては西國寺の逗留を追憶した。

033真言宗石鉃派総本山前神寺

①山号院号: 石鉃山金色院。

②本尊: 阿弥陀如来立像。

③開山開基: 役行者小角。中興: 空海。

④開山開基年: 奈良時代初期。中興年:  平安時代初期。

⑤文化財: なし。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 4寺。

⑦寺域: 不明。

⑧特色: 四国八十八ヶ所霊場。

⑨所在地: 愛媛県西条市。

⑩訪問年:  平成22年03月19日(金)・平成26年09月28日(日)・平成27年03月29日(日)・平成28年08月21日(日)。

前神寺を選ぶかどうか迷ったが、「四国八十八ヶ所霊場」では総本山と称する札所は他に善通寺があるだけなので選ぶことにした。天下の霊峰・石鎚山を山号とし、役行者小角(634-701)によって開基され古刹である。役行者は石鎚山の登頂を果たし山頂で修行していると、忽然と釈迦如来と阿弥陀如来が現れて衆生の苦しみを救済するようにと告げて消えたそうだ。奈良の金峯山寺を開基して間もない時期と思われるが、金峯山寺と同様に蔵王権現を石鎚権権に変え石鎚山を修験道の霊山として崇拝した。

役行者の開山後、歴代天皇の帰依が厚かったようで、石鎚権現に祈祷して病気が平癒した桓武天皇(737-806)は、現在は石鎚登山ロープウェイ成就駅の先にある石鎚神社成就社に七堂伽藍を建立したとされる。奈良時代の天平年間には、四国に多くの寺を建立した行基菩薩(668-749)も石鎚山を巡錫している。また、若き日の空海大師(774-835)も石鎚山で2度の修行を重ね、前神寺と同じ別当寺であった横峰寺と共に中興している。

江戸時代には西条藩主・松平家が祈願寺とし東照宮を祀り、三ツ葉葵の寺紋が許されている。しかし、明治初年の神仏分離令によって前神寺は廃寺となり、石鎚神社に改められた。明治11年(1878年)、山上の前神寺が神社となったために里前神寺が前神寺として再興され、明治22年(1899年)には「四国八十八ヶ所霊場」の第64番札所に復帰した。戦後は真言宗から独立して、石鎚山修験道の真言宗石鉃派総本山を称している。

前神寺は4度目の四国霊場めぐり巡礼の旅で参拝したが。印象に残る札所の1ヶ寺である。寺の規模からすると、山門があっても良いと思うのであるが、江戸時代の案内所である『四国徧礼霊場記』の挿絵には山門が描かれていないので旧態を保っているのだろう。 

坂道を上った先に本堂はあるが、昭和47年(1972年)に再建された青い銅板葺きの入母屋造りで、両翼を広げたような回廊が特徴である。国や県が指定する文化財はないが、大師堂や石鉄権現堂など諸堂も多くあって大寺院の風格を感じさせる。

「前は神 後は仏 極楽の よろずの罪を くだく石鉄」 御詠歌

034真言宗東寺派総本山教王護国寺(東寺・真言宗十八本山)

①山号院号: 八幡山伝法院。

②本尊: 薬師如来像(重文)。

③開創: 桓武天皇。開山開基: 空海。再興:  後宇多天皇。

④開創年:  延暦15年(796年)。開山開基年: 弘仁14年(823年)。再興年:  鎌倉時代。

⑤文化財: 国宝堂宇(金堂、五重塔、大師堂、蓮花門、観智院客殿)、重文堂宇(講堂、慶賀門、東大門、南大門、北大門、北総門、宝蔵、潅頂院・同北門・同東門)。主な国宝仏像(空海大師坐像、兜跋毘沙門天像)。

⑥支院・塔頭:  3ヶ寺、末寺: 219ヶ寺(真言宗東寺派86ヶ寺・東寺真言宗133ヶ寺)

⑦寺域: 85,000㎡(25,760坪)。

⑧特色: 世界文化遺産。史跡。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 京都市南区。

⑩訪問年: 昭和48年09月30日(日)・昭和62年02月02日(月)。

京都の寺院の中で、最も多くの国宝や重要文化財を有するのは東寺を通称名とする教王護国寺である。新幹線が京都駅を通過する時、駅前に聳える近代的な京都タワーとは対照的に線路の南に聳えるのが東寺の五重塔である。江戸時代初期の再建であるが、高さが約55メートルと日本一の五重塔であり、江戸時代の五重塔としては唯一の国宝でもある。

東寺は平安京の遷都から2年後の延暦15年(796年)、鎮護国家のために桓武天皇(737-806)が藤原伊勢人(759-827)に命じて西寺と共に建立した官寺である。弘仁14年(823年)、空海大師(774-835)が嵯峨天皇(786-842)より東寺の運営を任せられると、真言密教の根本道場として発展させた。大師が入寺した時は金堂のみ建っていたが、講堂を建てて実質的に開基したのは大師であろう。大師の愛弟子の実慧(786-847)が初代大師の2代目を継ぎ、東寺長者となり、現在の規模の誇る七堂伽藍の礎を築いた。

平安後期には一時衰退するものの、空海大師(弘法大師)への信仰が盛んになる鎌倉時代を迎えると、諸堂が再建されて旧観を保つのである。後宇多天皇(1267-1324)は出家して西院に住し、観智院を開基している。盛時には観智院を含めて塔頭が21院もあったとされ、南北朝時代には名僧も輩出されている。その後、室町時代の応仁の乱で他の寺院と同様に兵火で伽藍を焼失するが、天下を掌握した豊臣家や徳川家の援助によって再建が続けられる。現在に残る国宝建築の多くは、桃山時代から江戸初期に建てられている。

真言宗とライバル視される天台宗は、その拠点は比叡山であり、分派した天台寺門宗も天台真盛宗も比叡山の山麓にある。しかし、真言宗の場合は京都の拠点は東寺であり、空海大師が入滅した紀州の高野山、生誕地とされる讃州の善通寺は東寺の傘下に置かれた。明治の廃仏毀釈の折は、真言宗の総本山となったが、昭和の戦時中は善通寺が総本山となり、戦後は高野山が最も栄えて三つ巴の構図に終止符が打たれた。

東寺の存在感は高野山とは比較できない程の文化財が残されていることであり、観光都市の一等地にありながらも一部の区域を除き開放的な雰囲気があることである。東寺で毎月21日の縁日に行われる「弘法さん」と称される骨董市は、空海大師の持つ庶民性を受け継いだものであり、庶民の教育のために隣地に建てた綜芸種智院は私立大学とし現在も存続している。東寺は空海大師が真言宗を日本に広めた殿堂であったと言えるが、大師が求めたものは山野を跋渉した頃の若き日の姿であり、その熱意が高野山の創建に結ばれる。

九条通りに面した南大門を入ると、中門跡の先に金堂・講堂・食堂が一直線に並び建ち、北大門へと続いている。金堂の右側に五重塔が聳えるが、左側にも塔があって中門跡から講堂まで回廊で結ばれていれば薬師寺式の伽藍配置となる。壬生通りに面した西側には、大師堂(御影堂)や本坊など20棟近くの堂宇が林立し、北大門の外には塔頭の観智院の堂宇が連なる。講堂は空海大師の密教思想を具現化し、21躯の仏像が曼荼羅の世界を立体的に配置している。殆どの仏像が国宝や重要文化財に指定されていて、これほどの仏像が堂宇の中に安置されているのは他の寺院では例がない。

私が東寺で最も惹かれる堂宇は、空海大師が住房としていた跡地に建つ国宝の御影堂である。その後堂に大師が念持仏として身近な場所に安置した不動明王坐像があり、国宝にして秘仏である。写真でしか見ていないが、日本最古の不動明王像であり、大師の自刻とされる。光背をバックに剣を右手に持ち、左手に数珠を持った姿は不動明像の原作とも言える。また、御影堂には鎌倉時代の仏師・康勝が製作した空海大師像が安置されている。大師の尊像に最も近い像で、国宝にもなっている。この像も写真で拝観しただけであるが、無数に作られた大師像の中では別格のようにも思われる。

2万5千坪の境内を巡るには、相当の時間を要するが、2度目の参拝の折は折畳み自転車で巡った。中でも宝物館は時間をかけてゆっくり拝観したかったが、あれから30年も歳月を経ているので再び訪ねたいと思う。高野山には6度参拝し、善通寺に5度参拝しているのに東寺には2度だけの参拝である。それは東寺内の宗派の対立が続いている現状と、参拝客に対するサービス精神が欠如している所である。現在は寺の雰囲気も変わっていると思うが、私が訪ねた頃は講堂の内部拝観は出来なかったし、御影堂も外観のみの参拝となった。奈良の当麻寺の本堂を参拝した際は、住職と思しき人が1人の観光客のために鍵のかかった本堂の扉を開けてくれて、本尊などの仏像を詳しく説明してくれた。そのギャップの大きさが東寺に対する愛着を消失させたものだと思う。

近年になって四国八十八ヶ所霊場が注目され、東寺はその始まりの札所として宣伝をしているようであるが、四国霊場の納経帳には東寺を納経するページがない。高野山や善通寺に対する対抗心が見えるようである。その御詠歌も拙い和歌で、空海大師の聖地にしては努力不足が否めない。京都一の文化財に依存して来た付けもあるのだろうが、骨董市に見られるような自由で開放的な雰囲気を境内の隅々まで行き渡らせて欲しいと願う。

「身は高野 心は東寺 納めおく 大師の近い あらたなりけり」 御詠歌

東寺は真言宗東寺派と東寺真言宗に別れたまま、新たにならないことに不満が残る。

「身は坊主 心は庶民 欲のまま 大師の願い 消ゆるや東寺」 陀寂

035真言宗東寺派大本山石山寺

①山号: 石光山。

②本尊: 如意輪観音半跏像(重文)。

③開山: 良弁、開基:  聖武天皇。中興:  淳祐。再興: 源頼朝。

④開山開基年: 天平19年(747年)。中興年:  平安時代中期。永長元年(1096年)。

⑤文化財:  国宝堂宇(本堂、多宝塔)、重文堂宇(御影堂、蓮如堂、経蔵、鐘楼、東大門、三十八所権現社本殿)。

⑥支院・塔頭:  2ヶ寺、末寺: 総本山に含む。

⑦寺域:  不明。

⑧特色: 西国三十三ヶ所観音霊場。七堂伽藍の景観。月の名所。

⑨所在地: 滋賀県大津市。

⑩訪問年:  平成03年12月30日(月)。

滋賀県には湖東三山や湖南三山など国宝の堂宇を有する名刹があり、京都や奈良と違った魅力のある寺院が多い。中でも石山寺は瀬田川に沿った景勝地に建ち、古くから月の名所としも親しまれ、錚々たる平安女官や文人墨客が参拝している。

天平19年(747年)、聖武天皇(701-756)の勅願によって聖徳太子の念持仏であった如意輪観音を祀り良弁僧正(689-774)が開山した。この頃、奈良の東大寺大仏(毘盧遮那仏)を建造中であったが鍍金に使用する黄金がなく苦慮していた。良弁が金の山として知られた吉野山の蔵王権現に祈った所、琵琶湖の南に観音像を祀って祈祷するようにと霊示を受けた。聖武天皇に言上して秘仏の如意輪観音像を岩上に祀って祈祷すると、奥州から大量の砂金がもたらされて大仏は完成する。その後、堂宇が建てられて如意輪観音像を本尊とし、金剛蔵王権現と執金剛神を両側に安置して石山寺は開基する。

平安時代は一時衰退するが菅原道真の孫・淳祐(890-953)など歴代座主によって再興された。『源氏物語』の著者・紫式部(生没不詳)が参籠し「須磨」と「明石」の巻の発想を得たとされる。平安末期に現在の懸造りの本堂を再建され、鎌倉時代には源頼朝が日本一美しいされる多宝塔を東大門と共に寄進している。

南大門から境内に入り石段を上ると、本堂の手前に国の天然記念物の硅灰石の岩塊がある。最初に観音像を祀った場所で、この寺を訪ねた人々の脳裏に焼き付くような光景でもある。七堂伽藍の他に月の名所ならではの月見亭があり、仲秋名月の際はイベントが行われているようである。近江八景は衰退したが、石山寺の「石山秋月」は不滅のようだ。

江戸時代の俳聖・松尾芭蕉は、弟子から石山寺の近くに建つ旧宅を借り「幻住庵」と名付けて隠棲したことがあった。寺にも度々参拝しこともあって、「曙は まだ紫に ほととぎす」の句碑が建てられている。曙は清少納言の『枕草子』の冒頭文に出で来る風情で、紫は紫式部を念頭において石山寺に縁ある女官を題材にした句である。大津を愛した芭蕉翁ならではの発想であり、石山寺の歴史に付加価値を与えている。

036真言宗泉涌寺派大本山泉涌寺(真言宗十八本山)

①山号: 東山・月輪山。

 ②本尊: 薬師如来・阿弥陀如来・弥勒菩薩如来

 ③開山: 神修上人、開基:  藤原緒嗣。中興:  俊芿。

 ④開山開基年:  斉衡2年(855年)。中興年:  建保6年(1218年)。

 ⑤文化財:  重文堂宇(仏殿、開山堂、大門)。

⑥支院・塔頭:  9ヶ寺、末寺: 65ヶ寺。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色:  西国三十三ヶ所観音霊場(今熊野観音寺)。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 京都市東山区。

⑩訪問年:  昭和48年11月11日(日)・平成04年01月03日(金)・平成16年03月13日(土)。

京都の中でもあまり観光客が訪ねないのが、月輪山の麓にある泉涌寺である。空海大師が開基したとされるが、神修上人(生没不詳)を開山として藤原緒嗣(773-843)の開基とするのが妥当に思える。大寺院の礎を築いたのは、中興の祖・俊芿(1166-1227)で入宋を果たしたエリート僧である。俊芿は天台・戒律・禅・浄土・密教の五宗を兼学する道場として仙遊寺から泉涌寺に寺号を改めている。

鎌倉時代の仁和3年(1242年)、中腹に87代四条天皇の泉山陵(月輪陵)が築かれると、歴代天皇や皇后などの陵墓が多く造られた。泉涌寺は天皇家の菩提寺となり、御寺とも称されるのである。室町時代には応仁の乱で諸堂を焼失し、現存する堂宇は江戸時代以降の再建で、仏殿や開山堂なとが国の重要文化財に指定されている。境内の塔頭には、有名な西国三十三ヶ所観音霊場第15番札所・今熊野観音寺がある。前身は法輪寺と言われ、この寺の開基が空海大師とされるのである。

総門を入ると、参道の左右に塔頭寺院が並び、左手に楊貴妃観音堂が建ち、大きな楼門造りの大門をくぐると正面に七堂伽藍が点在する。真言宗特有の多宝塔がないのは物足りないが、重文の仏堂は裳階を付けた入母屋造りの立派な堂宇である。天皇家の菩提寺とあってあらゆる所に菊の御紋が見られ、格式の高さを現在も示している。

明治初年の廃仏毀釈によって泉涌寺も窮地を迎え、五宗兼学の独立した寺院から東寺の傘下に入って真言宗に改宗する。明治の末期には、東寺から離れて泉涌寺派として独立する。戦時中は四国の善通寺を総本山とする全真言宗に加わるが、戦後は真言宗泉涌寺派の総本山として現在に至っている。

塔頭の中では、来迎院、戒光寺、即成院と一般公開している寺院があり、来迎院には大石内蔵助良雄が築造した茶室や赤穂浪士に関する遺品が残されている。戒光寺には運慶・湛慶父子合作の釈迦如来立像があり、即成院には源平の合戦で有名な那須与一の墓がある。「昔より 立つともしらぬ 今熊野 ほとけの誓い あらたなりけり」 観音寺御詠歌

037真言宗泉涌寺派大本山浄土寺

①山号院号: 転法輪山大乗院。

 ②本尊: 十一面観音立像(秘仏・重文)

 ③開山開基: 聖徳太子。中興:  定証。

 ④開山開基年:  推古天皇24年(616年)。中興年:  嘉元元年(1303年)。

 ⑤文化財:  国宝堂宇(本堂[金堂]、多宝塔)、重文堂宇(阿弥陀堂、山門)、名勝(客殿庭園)。

⑥支院・塔頭:  5ヶ寺、末寺: 泉涌寺に含む。

 ⑦寺域:  不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 広島県尾道市。

⑩訪問年: 平成22年03月24日(水)。

尾道は山陽地方を代表する観光都市で、若い頃から何度となく訪ねているが、寺が多かったことが印象に残っている。しかし、大寺院の参拝は千光寺だけで、西國寺と浄土寺の参拝が残っていたので、今回は「日本百名山」の山行の折、四国から九州に向かう途中に西國寺と共に参拝した。殆ど寺院には山号があり、山岳と同一の価値観を感じている。

 浄土寺は聖徳太子が開基したとされる西国屈指の古刹であったが、鎌倉時代には曼荼羅堂の一宇が残るまでに衰退する。嘉元元年(1303年)、真言律宗の僧・定証(生没不詳)が高野山の末寺でありながらも無住状態であった浄土寺に入り中興する。尾道は商都でもあり、財を成す商人もいて伽藍の寄進が行われた。本堂は嘉暦2年(1327年)に建立され、多宝塔は翌年に完成され、いずれも国宝に指定されている。2棟の堂宇が国宝指定を受けているは、西国においては他に福山の明王院と長崎の崇福寺があるだけである。

 南北朝時代に足利尊氏が九州に落ち延びる際、浄土寺に立ち寄って戦勝祈願をしたとされる。その後、尊氏は室町幕府を開くと国分寺に倣って安国寺を諸国に建立した。浄土寺は備後国の安国寺に指定されて利生塔が境内に建てられた。室町幕府が滅びると、浄土寺も衰退するものの、尾道の豪商たちの外護によって江戸時代には七堂伽藍が再建された。所属する宗派は真言律宗から真言宗泉涌寺派となり、近年はその大本山となっている。

 尾道は狭い坂道の道路が多く、境内の駐車場に入るのは大変である。平日であったので難なく車で入れたが、土日の車の出入りは無理に思われた。境内の駐車場に車を停めると、国宝の朱色の多宝塔が目の前に聳え、本堂までは50メートルも離れていない。境内が狭いのは一目瞭然であったが、その中に七堂伽藍が圧縮されて林立する。庫裡や唐門を除くと、朱色に統一ている寺観は極楽浄土に相応しい景観にも見える。本尊は観音菩薩であるが、阿弥陀如来も合わせて信仰されている。庫裡の庭園は国の名勝でもあり、千光寺に比べると人工的な景観ではあるが、千光寺にない歴史の重みは山門に立った瞬間に伝わって来た。今回は奥ノ院までめぐる余裕はなかったが、次回の参拝の目標となるのも旅の余韻である。

「句碑もない 物足りなさに 詠んでみる 港眺むる 浄土もありて」 陀寂

038真言宗山階派大本山勧修寺(真言宗十八本山)

①山号: 亀甲山。

 ②本尊: 千手観音立像。

 ③開山: 承俊、開基:  醍醐天皇。中興: 寛信。重興:  済深法親王。

 ④開山開基年: 昌泰3年(900年)。中興年:  天永元年(1110年)。重興年:  天和2年(1682年)。

 ⑤文化財:  重文堂宇(書院)、

⑥支院・塔頭:  1ヶ寺、末寺: 129ヶ寺。

 ⑦寺域:  20,000㎡(6,060坪)。

⑧特色: 門跡寺院。

⑨所在地: 京都市山科区。

⑩訪問年:  昭和48年12月13日(木)・平成03年12月29日(日)。

 京都の寺社めぐりコースは殆ど定まっていて、勧修寺は洛南・小野の里の起点地であり、随心院と醍醐寺へと続く定番の観光コースにある。三ヶ寺とも「真言宗十八本山」に選ばれているので、『名刹本山100ヶ寺』に選定したのである。

勧修寺は平安初頭の昌泰3年(900年)、醍醐天皇(885-930)が生母・藤原胤子(?-896)の追善供養のため胤子の祖父・宮道弥益宅を改めて伽藍とし、法相宗の僧・承俊(?-906)を開山として開基した。天永元年(1110年)、7世長吏(住職)・寛信(1084-1153)は真言宗小野流の一派である勧修寺流を起こし中興した。南北朝時代、後伏見天皇の第7皇子・寛胤法親王が15世長吏となって入寺すると、明治維新まで山階門跡として続いた。

室町時代の応仁の乱と文明2年(1470年)の兵火で焼失するが、江戸時代の天和2年(1682年)、29世長吏・済深法親王の代になって諸堂が再建された。本堂は近衛家の建物であったとされる霊元天皇の仮内侍所を移築し、宸殿は明正天皇の旧殿あったとされる。唯一の国の重要文化財である書院は、後西天皇の旧殿が下賜された建物で天皇家の外護は大きい。

境内に入ると、氷室の池と呼ばれる池泉庭園が目に付く。平安時代には池に張った氷を宮中に献上したことで氷室の名があると言う。書院の側には、水戸黄門こと徳川光圀が寄進したとされる有名な勧修寺型燈籠があり、四阿風の形は独自のデザインである。兼六園の徽軫燈籠の奇抜なデザインも好きであるが、地味な感じの勧修寺型燈籠もまた良い。

明治初年の廃仏毀釈の影響で、境内には小学校が建てられて書院も校舎となった時代がある。現在はその面影は残っていないが、寺子屋と思えばその違和感も和らぐ史実である。勧修寺は塔頭も多くあったようであるが、現在は殆ど残っていない。昭和22年(1947年)、大石順教尼(1888-1968)という両腕のない画家が仏光院を開基し、勧修寺に塔頭を復活させた。カナリヤが嘴で雛に餌を与える様子を見て、口に筆をくわえて絵を書く技術を習得した言う。勧修寺を参拝しなければ、尼僧の存在も知らなかったと思うと有難く感じた。

「何事も 成せばなてふ 言の葉を 胸にきざみて 生きて来し我れ」 順教尼

039救世観音宗総本山護国院(紀三井寺)

①山号寺号: 紀三井山金剛宝寺。

 ②本尊: 十一面観音立像(秘仏・重文)。

 ③開山開基: 為光上人。中興:  後白河天皇。

 ④開山開基年: 宝亀元年(770年)。中興年:  平安時代末期。

 ⑤文化財: 重文堂宇(多宝塔、鐘楼、楼門)

⑥支院・塔頭:  6ヶ寺、末寺: 14ヶ寺。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 西国三十三ヶ所観音霊場。七堂伽藍の景観。日本桜名所100選。

⑨所在地: 和歌山県和歌山市。

⑩訪問年:  昭和50年12月24日(木)・平成19年05月02日(水)。

 紀州和歌山県は関西に属するが、面積が広く県境は3県にまたがり広域の県である。その和歌山県で高野山を除くと、最も有名な寺は紀三井寺であると思う。正式な寺名は紀三井山金剛宝寺護国院であるが、名実ともに紀三井寺の名で呼ばれている。昭和23年(1948年)までは真言宗山階派に属していたが、救世観音宗総本山を名乗って独立した。

宝亀元年(770年)、唐僧の為光上人(生没不詳)が名草山で千手観音を感得し、十一面観音像を安置して開基したとされる。山中に吉祥水、楊柳水、清浄水の三ヶ所の水が湧いていることから三井寺の名があり、大津の三井寺との混同を避けるため「紀州」の紀の字を付けたことは推測できる。湧水は「名水百選」に選ばれていて、参拝者の喉を潤している。

平安中期に花山法皇が西国巡礼の折、第2番霊場と定め、鳥羽法皇や後白河法皇が「熊野詣で」と兼ねて臨幸されている。戦国時代は豊臣秀吉の紀州攻めによって衰退を余儀なくされるが、江戸時代になって紀州徳川家の庇護を受けて旧観を復する。国の指定ではないが、本堂は宝暦9年(1759年)に再建されている。

重文の立派な楼門を仰ぎ見て境内に入ると、結縁坂と称される231段の急な石段が続く。石段の途中には、清浄水が小さな滝となって岩盤から流れ落ちいる。側には松尾芭蕉(1644-1694)が紀三井寺の桜を愛でようとして時期を逸して詠んだ「みあぐれば 桜しもうて 紀三井寺」の句碑がある。私も芭蕉翁と同様に2回目の参拝は、葉桜となっていた。紀三井寺の桜は、「日本桜名所100選」にも選ばれているので、近いうちに桜を見るために訪ねたいと思っているが、「日本三百名山」の登頂を終えてからの楽しみである。

石段を上った先に本堂や観音堂、多宝塔や大光明殿(収蔵庫)、鉄筋コンクリート造の大きな仏殿と新旧の七堂伽藍が建ち並ぶ。その中の多宝塔は国の重要文化財で、鮮やかな紅色の外観は和歌山沖の東方にあるとされる補陀落の世界を想像させる。壮観な寺観でばかりではなく、歌枕で有名な和歌の浦の眺望も素晴らしく、遠く淡路島や四国の山々が見渡せる。京から遠く離れた和歌山の紀三井寺に魅力を感じだのは、法皇ばかりではなく経済的に裕福な庶民もそうであり、風流を愛する知識人にとっては憧れの名所であった。

040真言宗善通寺派総本山善通寺(真言宗十八本山)

①山号院号: 五岳山誕生院。

 ②本尊: 薬師如来立像。

 ③開山: 空海、開基:  佐伯善通。中興:  宥範。

 ④開山開基年: 大同2年(807年)。中興年:  正平17年(1362年)。

 ⑤文化財: 重文堂宇(金堂、五重塔)。

⑥支院・塔頭:  4ヶ寺、末寺: 244ヶ寺。

 ⑦寺域: 45,000㎡(13,636坪)。

⑧特色: 四国八十八ヶ所霊場。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 香川県善通寺市。

⑩訪問年:  平成22年03月20日(土)・平成27年01月25日(日)・平成27年03月21日(日)・平成28年08月13日(土)。

善通寺は空海大師の生誕地に建つ縁の寺院で、高野山や東寺と共に大師と最も関わりが深く、古義真言宗の屋台骨の寺院でもある。また、四国八十八ヶ所霊場第75番札所として、札所では最大の伽藍の規模と参拝者数を誇る四国一の大寺院である。寺の名前が市町村名になっている事例は珍しく、同じ香川県の観音寺市と福井県の永平寺町、東京都の国分寺市だけである。それほど寺の存在感が大きく、国分寺市を除くと門前町として栄えて来た歴史的な背景を踏まえてのことだあり、寺に対する自治体の依存度が高いことを意味する。

大同2年(807年)、唐から真言密教の奥義を極めて帰朝した大師は、国禁を犯しての帰朝であったため、九州の太宰府に滞在して朝廷の上京許可を待っていた。しかし、真言密教を一日でも早く日本に広めたいと願っていた大師は、立教開宗の勅許を得て都以外の諸国を行脚して布教を行った。生国でもある四国に数多の寺院が開基され、生誕地の善通寺もその1ヶ寺である。父の佐伯善通(生没不詳)が所有する邸宅の寄進を受け、唐の清龍寺を模して15棟の堂宇が建立されたと言う。

その後、大師が東寺を真言宗の根本道場として中興した頃の善通寺は、佐伯氏の氏寺的な寺であった。寛仁2年(1018年)頃の善通寺は、東寺の末寺としてその管理下に置かれていた記録が残っている。平安末期に衰退するものの、鎌倉時代の大師信仰の隆盛によって天皇や上皇の庇護により、荘園の寄進を受けるようになるが、本山は東寺から随心院、大覚寺と変わり自立した大寺院まで至らなかったようだ。

室町時代になると、宥範(1270-1352)が入寺して後宇多天皇や足利尊氏の外護を受けながら中興する。金堂や五重塔が建てられるが、永禄元年(1558年)の三好・香川両氏の兵乱によって焼失し、現在の金堂や五重塔は江戸時代の再建である。江戸時代は同じ讃岐の国の高松松平家や丸亀京極家などの大名の庇護、信者や遍路の浄財があっての再建であった。

明治時代に入ると、善通寺の付近に陸軍基地が置かれ仏都から軍都へと変貌する。太平洋戦争の時は、僧侶も戦争に徴収さる時代となり、善通寺は軍部の圧力によって全真言宗の総本山となる。前後は真言宗の宗派は、ほぼ現在の宗派に分立するが、本山であった随心院とは立場が逆転し、善通寺は総本山に随心院は大本山となっている。

境外の有料駐車場に車を停め、正覚門から境内に入るのが一般的な参拝ルートとなっているが、境外の道路を歩いて南大門から入るのが正式な参拝ルートだと思う。善通寺の門前町が衰退しているのも、南大門から参拝する訪問客が少ないのが要因であると思う。南大門を入ると、東院と称される区域で七堂伽藍が建ち並ぶ。先ず目にするのは重文の五重塔であり、付近には大楠があるがままの姿で枝葉を伸ばしている。正面に建つ重層の金堂は、ロウソクと明かりと線香の香りが絶えない。東院の外塀の内側には、五百羅漢像が立ち並んでいるが、殆どの参拝者は七堂伽藍に目を奪われて五百羅漢像までは目が届かないようである。私は4回目の参拝を経験しているが、五百羅漢像の全てを拝観していない。

東院から西院の水堀を経て仁王門をくぐると、正面に大きな御影堂が建っている。大師が産声を上げた場所で、明治時代までは誕生院という独立した寺であったようだ。宿坊のいろは会館、宝物館や遍照閣など比較的新しい建物が多い。4度目の遍路旅の際は、「大師の里湯温泉」に入って宿坊に泊まったことが忘れらない体験となった。

大師を生んだ玉依御前(生没不詳)は、多度津の生まれで大師はその実家で生まれたという伝説があり、海岸寺という大きな寺が建っている。奥ノ院の大師堂には産湯の井戸があって、大師はここで生まれた信憑性が高いが、善通寺との生誕地争いは現在も続いている。

善通寺の山号は五岳山と称されるが、架空の山々が寺号に多い中で実在の五岳(香色山・筆ノ山・我拝師山・中山・火上山)が存在するのも善通寺の特徴でもある。大師が幼児から眺めた山々で、我拝師山はお釈迦様と出会った霊山とされる。香色山は標高157mと、五岳の中で最も標高が低いが、山頂からの眺望が最も良く、善通寺の境内が手に取るように見える。標高481mと最も高い我拝師山の山頂近くには出釈迦寺の奥ノ院が建っていて、その背後には大師が攀じ登った岩場が屹立している。善通寺の参拝は境内のみならず、香色山と我拝師山の登拝は欠かせないと思う。

四国八十八ヶ所霊場は第88番札所・大窪寺で結願を迎えるが、多くの遍路は善通寺を参拝してゴールが近いことを感じるだろう。最近は欧米人の遍路が多く、日本人と同様に善通寺だは異色の札所と感じ取っているようだ。京都や奈良の大寺院に劣らぬ寺観であり、遍路をする欧米人は日本の寺院を熟知しているだろうから善通寺には特別の印象が残るだろう。善通寺には年間約22万人の参拝客が訪ねると聞いたが、四国で最も知名度の高い金刀比羅宮の年間参拝者は約200万人と聞くと、善通寺には頑張って欲しいと願う。

善通寺の周囲は市街地となっているが、その中に4ヶ所の塔頭寺院が点在する。その塔頭の1つ玉泉院は、西行法師(1118-1190)が空海大師を慕って結んだ草庵跡である。出釈迦寺の付近の水茎の岡にも法師は草庵を結び、建物が復元されてその記念を残している。玉泉院の玉の泉は、大師が掘った井戸とされるが、その水を汲みとる時に月が映る様子を詠んだ法師の和歌が印象に残る。芭蕉翁は法師から風流を学んだように私は芭蕉翁に学んだ。

「岩にせく 閼伽井の水の わりなきは 心すめども やどる月かげ」

041真言宗善通寺派大本山随心院(真言宗十八本山)

①山号寺号: 牛皮山曼荼羅寺。

②本尊: 如意輪観音像。

③開山: 仁海、開基:  一条天皇。中興: 増俊。重興:  増孝。

④開山開基年: 正暦2年(991年)。中興年:  平安時代中期。重興年:  慶長4年(1599年)。

⑤文化財:  重文仏像(阿弥陀如来坐像)。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 総本山に含む。

⑦寺域: 不明。

⑧特色: 史跡。門跡寺院。

⑨所在地: 京都市山科区。

⑩訪問年:  昭和48年12月13日(木)・平成03年12月29日(日)。

 随心院は勧修寺と醍醐寺との中間に位置する小野の里にある寺院で、近くには宇多天皇陵と醍醐天皇陵がある。正暦2年(991年)、真言宗小野流の開祖・仁海(951-1046)が一条天皇(980-1011)から寺地を下賜されて曼荼羅寺を開基する。因みに小野流は、仁和寺の広沢流と並ぶ二大法派で、真言宗の儀礼実践の事相を確立したとされる。随心院は曼荼羅寺の第5世住持・増俊(生没不詳)が塔頭の1つとして建ている。平安初期を代表する歌人・小野小町(生没不詳)の住居跡と言われているが、小町自身は謎が多い人物で確証はないようだ。

その後の随心院は、天皇家の祈願所となり、鎌倉時代には皇族や公家が入寺して門跡寺院となって興隆する。室町時代の応仁の乱で衰退するが、桃山時代の慶長4年(1599年)、第24世の増孝(生没不詳)が曼荼羅寺の故地に本堂を再建し、随心院が曼荼羅寺の歴史を継承することになった。明治時代になると、真言宗は対立や分派を繰り返し、御室派(仁和寺)、醍醐派(醍醐寺)、大覚寺派と真言宗から独立するが、随心院は本山にとどまっていた。しかし、明治40年(1907年)、真言宗が解消されると、山階派(勧修寺)、東寺派、泉涌寺派が独立し、随心院も小野派を名乗って独立する。戦時中は末寺の善通寺が全真言宗の総本山となったこともあって、戦後は善通寺を善通寺派の総本山となって随心院は大本山となった。

総門と薬師門をくぐり境内に入ると、大きな庫裡が建っていて、諸堂が寄り添うよう広くもない境内に建っている。殆どの堂宇が桃山時代から江戸初期に再建されているが、国の重要文化財に1棟も指定されていないのが残念に思える。約千年の歴史を誇る古刹なのに以外と所有する文化財は少なく、阿弥陀如来坐像など数えるほどしか残っていない。その中で価値を高めているのが、小野小町ゆかりの寺という小町伝説である。

境内には団子を積み重ねた形の小町文塚や小町の化粧井戸があって、小町の住居跡と信じたくもなる。小町の卒塔婆像や百歳像は拝観したことがあったが、その若き日の美貌を刻んだ像はない。見たこともない後世の日本人が「世界三大美人」と小町を称することは理解できないが、小町が詠んだとされる「小倉百人一首」の和歌は永遠である。

「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」 小町

042新義真言宗総本山根来寺(真言宗十八本山)

①山号院号: 一乗山大伝法院。

 ②本尊: 大日如来坐像(重文)。

 ③開山: 覚鑁、開基:  鳥羽上皇。中興:  法住。

 ④開山開基年: 大治5年(1130年)。中興年:  寛政9年(1797年)。

 ⑤文化財: 国宝堂宇(大塔[多宝塔])、重文堂宇(大師堂)。名勝(本坊庭園)。

⑥支院・塔頭:  5ヶ寺、末寺: 206寺。

 ⑦寺域: 1,188,000㎡(360,000坪)。

⑧特色: 史跡。七堂伽藍の景観。日本桜名所100選。

⑨所在地: 和歌山県岩出市。

⑩訪問年:  平成02年11月05日(月)。

葛城連峰の麓、紀の川から遠くない田園地帯の中に根来寺はある。根来寺と言えば、羽柴秀吉と激戦を交えた根来衆の拠点でもあり、諸山中第一と言われた勇猛果敢な僧兵が鉄砲を手にして立ち向かった様子が脳裏を過る。織田信長の天下統一の野心の前に立ち塞がったのは、天台宗の比叡山、浄土真宗の本願寺、そして高野山と大伝法院(根来寺)であった。その歴史的な背景を再び学習してから根来寺を参拝した。

根来寺の寺号は明治になってから改名したもので、高野山から分派した大伝法院が前身である。高野山の学僧・覚鑁(1095-1144)は新たな真言宗を目指し、鳥羽上皇(1103-1156)の後押しもあって大伝法院を高野山に建立する。しかし、守旧派である高野山方の反対もあって、座主を務めたことも空しく、山を下りて根来神宮寺に移って一乗山円明寺を開基する。その後、大伝法院も円明寺に移し、新義真言宗を興して高野山と決別するのである。

室町時代なると、寺領72万石を拝領して子院堂塔2,700余も抱える宗教都市へと発展する。しかし、信長の後継者となった豊臣秀吉の前に、大師堂と大塔を残して焼き尽くされた。江戸時代になって京都の別院でもあった智積院(智山派)の玄宥の計らいもあって、大伝法院は紀州徳川家の庇護を得て再建が進められる。寛政9年(1797年)、同じ新義真言宗の長谷寺(豊山派)から法住(1723-1800)が再興第1世として住持して本坊が落成する。この頃から大伝法院は、明治維新に至るまで智山派と豊山派から交代で住職が入っている。昭和の戦後は唯一、新義真言宗を名乗り両山から独立し、現在に至っている。

約36万坪の広い境内は、自転車で諸堂を移動したくなるほどの規模である。また、桜や楓が多く、「日本桜名所100選」にも選ばれている。大門を入ると、参道に塔頭が建ち並び、駐車場の側には不動堂が建っている。紅葉谷の先に国宝の大塔(多宝塔)、大伝法堂、大師堂が建つ区域と、鐘楼門を経た先に光明真言殿、本坊、奥ノ院が建つ区域に区別される。江戸時代の再建の堂宇が多く、覚鑁の霊廟でもある奥ノ院もその1つである。覚鑁の和歌を詠むと、寺を焼き打ちした秀吉も似たような歌を詠んいることを思うと不思議さを感じる。

「夢のうちは 夢もうつつも 夢なれば 覚めては夢も うつつとぞ知れ」 覚鑁

043真言宗豊山派(新義真言宗)総本山長谷寺(初瀬寺・真言宗十八本山)

①山号院号: 豊山神楽院。

 ②本尊: 十一面観音立像(重文)。

 ③開山: 道明、開基:  天武天皇。中興;  専誉。

 ④開山開基年: 朱雀元年(686年)。中興年:  天正16年(1588年)。

 ⑤文化財: 国宝堂宇(本堂)。重文堂宇(本坊、仁王門、鐘楼、登廊、蔵王堂、繋廊、三百余社)。

⑥支院・塔頭:  3ヶ寺、末寺: 2,637ヶ寺

 ⑦寺域:  不明。

⑧特色: 西国三十三ヶ所観音霊場。天然記念物の暖帯林。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 奈良県桜井市。

⑩訪問年:  昭和62年01月05日(月)。

 長谷寺は大和と伊勢とを結ぶ初瀬街道の拠点地に位置し、万葉集で馴染みの泊瀬山(初瀬山)の中腹にある。朱雀元年(686年)、道明上人(生没不詳)が天武天皇(631-686)の勅願によって西の丘に三重塔を開創したとされる。また、神亀4年(727年)、徳道上人(656-736)が東の丘に十一面観音立像を祀って開山したともされる。徳道上人は「西国三十三ヶ所霊場」を開創した人物とされ、その開創年は養老2年(718年)となっている。霊場を開創した時は、長谷寺を開山しているので、神亀4年(727年)の開山は辻褄が合わない。いずれにせよ、白鳳時代末期から奈良時代初期に開基されたのは明らかである。

 平安時代には官寺となり、観音霊場として庶民や貴族の信仰によって発展して藤原道長も参詣している。平安初期は華厳宗の東大寺の末寺であったが、平安中期には法相宗の興福寺の末寺となった。桃山時代になると、豊臣秀吉によって滅ぼされた根来寺の専誉(1530-1604)が入寺して新義真言宗に改められている。

山中に建つ寺院の特徴でもある落雷による火災で殆どの堂宇は、江戸時代以降の再建であるが、塔頭堂塔70有余が建ち並び、その中の七堂伽藍の景観には目を見張るものがある。大きな仁王門をくぐると、長い急勾配の登廊が続き、脇には牡丹が植栽されている。399段の登廊を上った先に、壮大な舞台造りの本堂が建つ。中には高さが約10mの十一面観音立像が安置され、これも大きな楠の木像である。

本堂は慶安3年(1650年)の再建で、私は訪ねた時は重要文化財の建物であったが、平成16年(2004年)に国宝に昇格した。仁王門・鐘楼・蔵王堂・本長谷寺・大黒堂・開山堂などは本堂と同時期の建物で、大講堂・護摩堂・五重塔などは近年の再建または新築である。本坊の建物も明治の建築ではあるが、8棟が国の重要文化財である。長谷寺は「花の御寺」とも称され、牡丹以外にも梅や桜の名所として知られた。平安時代には紀貫之(866-945)も参拝し、「小倉百人一首」にも選ばれた梅の和歌を詠んでいる。

「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける」 貫之

044真言宗豊山派大本山護国寺

①山号院号: 神齢山悉地院。

 ②本尊: 如意輪観世音菩薩像。

 ③開山: 亮賢、開基:  徳川綱吉・桂昌院。

 ④開山開基年: 天和元年(1681年)。

 ⑤文化財: 重文堂宇(本堂、月光殿)。

⑥支院・塔頭:  1ヶ寺、末寺: 総本山に含む。

 ⑦寺域: 165,000㎡(50,000坪)。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 東京都文京区。

⑩訪問年:  昭和48年01月01日(月)。

 東京も他の地方都市と同じく、太平洋戦争の空襲によって多くの寺院が伽藍や堂宇を焼失している。そんな中、僅かに焼失を逃れたのが真言宗豊山派の大本山でもある護国寺の本堂(観音堂)と月光殿で、その価値は上野公園に残る寛永寺の諸堂と同様である。

五代将軍・徳川綱吉(1646-1709)の生母・桂昌院(1627-1705)は熱心な在家信者で、亮賢和尚(1611-1687)に帰依していたことから天和元年(1681年)、護国寺が開基された。同時に綱吉と桂昌院は、筑波山知足院の住職であった隆光(1649-1724)を招き、神田御門外に知足院を移して護持院を開基される。亮賢の後継者となった隆光は、有名な「生類憐みの令」を綱吉に薦めた張本人とされるが、仏教本来の教えは過度な動物の殺生を禁止しているのであり、間違ってはいないと思うが、犬の保護に偏ったことが批判の的となった。

徳川幕府が存在中は、護国寺と護持院は幕府の加護を受けて安泰であったが、明治維新後は自立の道を求められて、護持院は護国寺に吸収合併される。護持院の別院で、坂東三十三ヶ所霊場でもある筑波山大御堂も護国寺の管理下に入った。亮賢と隆光は奈良の長谷寺で修行した縁もあって、護国寺は真言宗豊山派の関東大本山となり現在に至っている。

護国寺は明治以降、霊園の開発に力を注ぎ錚々たる名士の墓が建てられた。私は天皇陵や尊敬する故人の墓には興味があるが、集団墓地には関心がなく見たいと思う景観ではない。そんな事もあって、護国寺は1度だけの参拝となったが、当時の様子が脳裏を過る。

切妻屋根の仁王門から境内に入ると、広い敷地に七堂伽藍が点在する。七堂伽藍の定義は宗派によって異なるが、私の感じる七堂伽藍は、山門(仁王門)、本堂、鐘楼、本坊または庫裡、塔建築(多宝塔・三重塔・五重塔)、経堂(経蔵)、開山堂または奥ノ院があることを重視している。護国寺には重文の本堂や月光殿の他にも大師堂・多宝塔・霊廟・薬師堂・忠霊堂・桂昌殿が建ち並び、七堂伽藍が備わっている。5万坪の広大な境内の3万坪は、墓地となり明治の元勲や貴族の墓所がある。その中でも時代が異なる人物の墓が、関東大震災の被害で移されている。松江藩主で風雅な人生を生きた松平不昧公(1751-1818)の墓である。

「散るは浮き 散らぬは沈む もみぢ葉の かけは高尾の 山川の水」 不昧

045真言宗室生寺派大本山室生寺

①山号: 宀一山。

 ②本尊: 釈迦如来立像(国宝)。

 ③開山: 賢憬、開基:  光仁天皇。中興:  隆光・桂昌院。

 ④開山開基年: 奈良時代末期。再興年:  元禄7年(1694年)。

 ⑤文化財:  国宝堂宇(金堂、本堂[潅頂堂]、五重塔)、重文堂宇(弥勒堂、御影堂)。主な国宝仏像(十一面観音立像)。

⑥支院・塔頭:  1ヶ寺、末寺: 50ヶ寺。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 天然記念物のシダ群落。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 奈良県宇陀市。

⑩訪問年:  昭和62年02月05日(木)。

 初瀬街道の室生口から入った標高400mの山中に、「女人高野」の名で知られる室生寺はある。白鳳時代の天武9年(680年)、天武天皇の勅願により役行者が開基したと伝わるが、正式な開山開基は奈良時代末期、興福寺の僧・賢憬(714-793)と光仁天皇(709-782)による。平安時代初期には空海大師が巡錫し、諸堂を再建したともされる。室生寺で最も古い国宝・五重塔は、大同5年(810年)の建築で大師が建立した可能性は高い。大師の高弟・堅恵が入山し、高野山が女人禁制であったのに対して室生寺の参拝を許した。

室生寺が現在の規模に発展するのは江戸時代に入ってからで、隆光(1649-1724)が興福寺の一乗院宮真敬法親王から室生寺を拝領し、法相宗から真言宗豊山派に改宗している。隆光は江戸に護国寺を開山した縁から徳川幕府の女帝・桂昌院の寄進を受け、室生寺を中興した。爾来、真言宗豊山派(長谷寺)の末寺となっていたが、戦後に独立して真言宗室生寺派の大本山となる。しかし、豊山派との縁は断ち切れないようで、「真言宗十八本山」に名を連ねていないのも本寺に遠慮していることを感じられる。

室生川の太鼓橋を渡った正面に本坊が建ち、参道を進み仁王門をくぐると石段の先に七堂伽藍が林立している。左手に鎌倉時代の重文・弥勒堂、右手に平安時代の国宝・金堂と杮葺きの屋根が周辺の緑と調和して見える。更に石段を上ると鎌倉時代の国宝・本堂(潅頂堂)が建ち、上には国宝・重文の五重塔では日本一小さな五重塔が建っている。小さいながらも芸術品でも見ているような美しい朱色の塔で、感動を覚えずにはいられない。五重塔か奥ノ院への参道は続き、国の天然記念物であるシダの群落が巨木の下に繁っている。奥ノ院には大師を祀る御影堂があり、室町時代に建てられている。国宝や重文の寺宝も多く、平安時代の建物や寺宝が残っているのは奇跡的と言える。

参道に入口に橋本屋という旅館があるが、写真家の土門拳氏(1909-1990)が室生寺の撮影をライフワークしている時に泊まった旅館である。建物や仏像の撮影する視線は、超人的な才能を感ずるが、短歌や俳句でも残して欲しかったものである。

046真言宗智山派総本山智積院(真言宗十八本山)

①山号: 五百佛山・仏頭山。

 ②本尊: 金剛界大日如来像。

 ③開山開基: 玄宥。中興:  運敞。

 ④開山開基年: 慶長3年(1598年)。中興年:  寛文6年(1666年)。

 ⑤文化財:  国宝絵画(等伯障壁画)、名勝(旧祥雲寺庭園)。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 2,900ヶ寺。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 名勝庭園、七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 京都市東山区。

⑩訪問年:  昭和62年01月29日(木)・平成04年01月01日(水)。

 智積院は東山の中心地に位置するが、付近には三十三間堂(蓮華王院)や国立京都博物館の一級スポットがあって、末寺2,900ヶ寺を抱える真言宗智山派の総本山なのに地味な存在である。京都では創建が比較的新しく、国宝や重文の堂宇がないことが要因に思える。

智積院の前身は、室町時代初期に現在の根来寺に長盛(生没不詳)が創建した学坊である。その後継者であった玄宥(1529-1605)は、豊臣秀吉の「紀州攻め」から高野山に逃れた後に徳川家康の外護で再建を進める。豊臣家が滅亡すると、秀吉が創建した祥雲寺の境内などを智積院が吸収し、教学の専門道場として発展させた。

第7世運敞(1614-1693)の時代になると、綱紀粛正を行い真摯に学ぶ学僧が増え、寺領も拡大された。70余の学寮には門下3,000人とも言われる大寺院となり、真義真言宗では長谷寺と勢力を二分した。明治初年には廃仏毀釈の影響で衰退するが、高野山、長谷寺と共に真言宗を結束させたが、明治末年には分裂して智山派を称するようになった。太平洋戦争中は、善通寺を総本山とする全真言宗に所属するが、戦後は再び智山派として独立する。

現在の智積院の特徴は、関東を代表する大寺院である新勝寺(成田山)、平間寺(川崎大師)、薬王院(高尾山)の「関東三大本山」を傘下に収めていることであり、成田山などは総本山智積院を凌駕する繁盛ぶりである。初詣客に関しては、明治神宮の約317万人に対して成田山は約309万人と接近している。因みに川崎大師は約307万人で、高尾山は約27万人であるそうだ。高尾山が極端に少ないには、立地条件や交通の利便性によると思う。

 東山七条通りに面した道路から山門をくぐり境内に入ると、元日の初詣なのに参拝者は極めて少ない。境内の建物は大きく立派であるが、塔建築はなくインパクトが全くない。金堂、密厳堂、大師堂、講堂、本坊とあるが、宿坊の智積院会館を除くとライバルの長谷寺に比べるとギャプのある寺観である。物見遊山で参拝する寺院ではないのは明らかであり、文人墨客の足跡が少ないが収蔵庫に保管された長谷川等伯の障壁画だけは忘れられない絵であった。俳人・高浜虚子が訪ね、つくもの花を詠んだ句碑が講堂の脇に立っていた。「ひらひらと つくもをぬひて 落花哉」 虚子

047真言宗智山派大本山新勝寺(成田不動・智山派三大本山)

①山号院号: 成田山明王院。

 ②本尊: 不動明王像(秘仏・重文)。

 ③開山: 寛朝、開基: 朱雀天皇。中興:  照範。重興:  荒木照定。

 ④開山開基年: 天慶3年(940年)。中興年:  江戸時代中期。重興年:  大正14年(1925年)。

 ⑤文化財: 重文堂宇(釈迦堂、三重塔、光明堂、仁王門、額堂)

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 71ヶ寺。

 ⑦寺域: 165,000㎡(50,000坪)。

⑧特色: 門前町。七堂伽藍の景観。初詣客数日本2位(2017年約309万人)。

⑨所在地: 千葉県成田市。

⑩訪問年: 昭和52年01月15日(土)。

新勝寺という寺号よりも成田山の山号で有名な寺で、節分の時期には歌舞伎役者や著名人が豆を撒く光景がテレビのニュースで放映される。全国各地に分院や別院を創建し、その発展ぶりは目を見張るものがある。檀家の減少や後継者不足で廃寺となる寺院が多い中で、特別な存在に見えるのが成田山である。

新勝寺は平安時代中期に起きた平将門の乱の時、朱雀天皇(923-952)が皇孫でもある真言僧・寛朝(916-998)に命じ反乱を鎮めるために関東に遣わした。寛朝は空海大師作の不動明王像を背負い、成田に足を留めて公津ヶ原に一宇を結び調伏の護摩を修した。間もなく将門は討たれて、空海大師が十三仏の第一に崇めた不動明に対する仏威力が深まり、その後に朝廷の援護で伽藍が建立された。室町時代の混乱期は、寺を支えた下総武士の成田氏や千葉氏が滅び、侘しい寺となったそうである。

江戸時代の泰平の世となると、庶民の間にも成田不動の信仰が盛んとなり、深川に深川八幡宮の別当を兼ねた別院も開基される。中興の祖とれる照範(生没不詳)は、伽藍の建立を積極的に行い、現在も残る重文の堂宇は当時の建築が多い。明治初年の廃仏毀釈で寺の勢いが衰えるが、大正時代になると第18世・荒木照定(1892-1965)によって教化活動が行われる。図書館や高等学校の開設、横浜・大阪・名古屋・川越・札幌と別院も建てられた。戦後は大本山に昇格し、大伽藍の建築が矢継ぎ早に行われて現在の規模に拡大された。

成田駅前から表参道には約800mの門前町が形成され、150店以上の飲食店や土産物屋が軒を連ねている。私はまだ見ていないが、平成18年(2006年)に高さ15mの総欅造りの総門が成田山では最も新しい伽藍で、その先に重文の仁王門が建っている。石段を上ると鉄筋コンクリート造りの大本堂が建っている。間口が95m、高さが33mもあり、その大きさには驚く他はない。他にも光輪閣・釈迦堂・額堂・光明堂・三重塔・聖徳太子堂・平和大塔・書道美術館と大きな堂宇や建物がある。成田山公園には四季折々の花が咲き、松尾芭蕉翁の句碑が建っているが、翁が成田山を詣でた事実がない。「丈六に 陽炎高し 石の上」の句は、伊賀上野の新大仏寺で詠まれたもので成田山とは関係はないが有難く眺めた。

048真言宗智山派大本山平間寺(川崎大師・智山派三大本山)

①山号院号: 金剛山金乗院。

 ②本尊: 空海大師像。

 ③開山: 尊賢、開基:  平間兼乗。中興:  隆範。

 ④開山開基年: 大治3年(1128年)。中興年:  江戸時代中期。

 ⑤文化財: なし。

⑥支院・塔頭:  1ヶ寺、末寺: 2ヶ寺。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 門前町。七堂伽藍の景観。初詣客数日本2位(2017年約307万人)。

⑨所在地: 川崎市川崎区。

⑩訪問年:  平成02年06月05日(水)・平成30年1月27日(土)。

川崎と聞くと、工業都市のイメージがあって東海道の宿場であったことや川崎大師という寺のある歴史的な遺産を知らなかった。関東にある真言宗智山派三大本山(関東三山)は早めに参拝しようと思っていたので、東京に滞在していた折に訪ねた。

平間寺の寺号は知らなかったが、川崎大師の通称名は頭の中にあった。平安末期の大治3年(1128年)、源義家の家臣・平間兼乗(生没不詳)が霊夢によって海中から空海大師像を引き上げ、高野山の僧・尊賢(生没不詳)を開山として開基したと伝わる。兼乗の名字を寺号とし、空海大師の尊称である「遍照金剛」の金剛を山号とした。空海大師像は厄除大師とも呼ばれ、兼乗が開基した時が42歳の厄年であったことが要因のようだ。

皇室の勅願寺となったこともあったが、桃山時代の豊臣秀吉による「小田原攻め」で平間寺の伽藍を焼失する。江戸時代に入り、隆範(生没不詳)が住持して伽藍の中興が果たされた。江戸幕府第11代将軍・徳川家斉が参拝した記録が残り、関東では有名な寺院に発展したようだ。しかし、太平洋戦争の本土空襲によって、再び伽藍を焼失するも戦後に市民の浄財や企業の寄付によって現在の伽藍が再建される。

重層の大山門(昭和52年築)から参道に入ると、左手に高さ32mの八角五重塔(昭和59年築)が聳え、正面に大きな大本堂(昭和39年築)が建っている。境内の面積は不明であるが、1万坪以上はあると想定する。その広い境内には、成田山から勧請された不動明王を祀る不動堂(昭和39年築)、インド風の仏塔を模した薬師殿(昭和45年築)、大本坊(昭和39年築)や信徒会館(昭和48年築)など大きな建物が林立し、戦後復興を果たした日本の縮図のように思える。空襲から唯一残った堂宇が福徳稲荷堂で、奇跡の銀杏と共に貴重な存在である。

川崎大師は初詣の参拝者が多いことでも有名であり、2017年のランキングでは日本3位の約307万人となっている。同じ神奈川県の鶴岡八幡宮が日本5位の約250万人であるので人気の高さは歴然としている。境内にはたくさんの記念碑があるが、昭和33年(1958年)、寺で開催された句会で高浜虚子が詠んだ句の句碑が最も存在感がある。

「金色の 涼しき法の 光かな」 虚子

049真言宗智山派大本山薬王院(高尾山・智山派三大本山)

①山号寺号: 高尾山有喜寺。

 ②本尊: 薬師如来像・飯縄権現

 ③開山: 行基、開基:  聖武天皇。中興:  俊源。

 ④開山開基年: 天平16年(744年)。中興年:  永和年間(1375-77年)。

 ⑤文化財: なし(都の文化財あり)。

⑥支院・塔頭:  1ヶ寺、末寺: 5ヶ寺。

 ⑦寺域:  不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。ケーブルカー・リフト。

⑨所在地: 東京都あきる野市。

⑩訪問年: 昭和47年10月22日(日)・平成02年09月02日(日)・平成25年04月03日(水)。

 薬王院が建つ高尾山は、年間約260万人と世界一の登山者を誇る山である。ケーブカーとリフトが設置されているので、都内では最も身近な観光地にもなっている。薬王院の境内は登山道にもなっているので、必然的に立ち寄ることになる。寺の規模では成田山や川崎大師の他の三山に見劣りはするが、高尾山と同化した寺観が薬王院の特徴でもある。

寺の開基は関東三山でも最も古い天平16年(744年)で、聖武天皇(701-756)の勅願によって行基菩薩(668-749)が創建したとされる。南北朝時代の永和年間、醍醐寺の僧・俊源が今の本尊である飯綱大権現を祀り、修験道の根本道場として中興した。戦国時代には、ライバル同士であった上杉謙信と武田信玄も信奉し、武蔵国にも勢力を拡大させた北条氏も手厚い保護をした。江戸時代に入ると、徳川将軍家や紀州徳川家の外護で現在に残る堂宇が再建された。国の重要文化財ではないが、東京都の指定文化財になっている。

薬王院には3度参拝しているが、1度目の参拝の時は貧しい学生であったのでカメラが無く、2度目の参拝で境内を写真に収めて御朱印も頂戴した。3度目の参拝は、「日本三百名山」の登山を終え、高尾山の二等三角点と山頂の風景を写真記録に残そうと思って高尾山口から登山道を登った。薬王院に続くアスフォルト道路の林道を登った途中に金毘羅台と称される展望所があって、金毘羅神社の小社が建っていた。登山開始から47分、薬王院の境内に到着して23年ぶりに諸堂を参詣した。

坂道に茶屋の建つ山門を入ると、右に曲がった先に仁王門があり、その右側に鐘楼堂と大師堂が建ち、正面には御本堂、御本社(権現堂)、奥之院と石段を隔てて建っている。御本堂には薬師如来と飯綱権現が祀られ、御本社には本尊の飯綱権現が祀られている。御本殿の建物は権現造りの神社建築で、鮮やかな彩色の彫刻が素晴らしい。神仏混合の歴史を連綿と伝えているのも珍しい。高尾山を有名にしたのは天狗伝説であり、天狗の大きな面や銅像がたくさん見られる。また仏舎利塔には北原白秋が寺で詠んだ歌碑が建てられていた。

「我が精進 こもれる高尾 夏雲の 下谷うづみ 波となづさふ」 白秋

050融通念仏宗総本山大念佛寺

①山号院号: 大源山諸仏護念院。

 ②本尊: 十一尊天得如来(絵像)。

 ③開山: 良忍、開基:  鳥羽上皇。中興:  法明。重興:  大通。

 ④開山開基年: 大治2年(1127年)。中興年:  永享元年(1321年)。重興年:  江戸時代

 ⑤文化財: 国宝書籍(毛詩鄭箋残巻1巻)。

⑥支院・塔頭:  1ヶ寺、末寺: 359寺。

 ⑦寺域: 24,000㎡(7,300坪)。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 大阪市平野区。

⑩訪問年: 平成22年03月29日(月)。

飛鳥時代に日本に仏教が伝わり、奈良時代には南都六宗の宗派が確立されて、平安時代初期には天台宗と真言宗が開宗される。鎌倉時代には浄土宗(念仏宗)、禅宗、日蓮宗(法華宗)が興り、現在の宗派乱立の時代を迎える。融通念仏宗は平安時代末期に良忍(1073-1132)によって立宗された宗派で、新興仏教の中では最も古い。

良忍は比叡山で修行した後、京都大原に隠棲して念仏三昧の生活を送り、天台声明の統一をはかっている。良忍の美しい声明は宮中にも聞こえ、鳥羽上皇(1103-1156)や崇徳天皇(1119-1164)が帰依するまで至った。大治2年(1127年)、鳥羽上皇の勅願を受けて摂津に建立したのが大念仏寺である。因みに摂津の領主で坂上田村麻呂の次男・広野麻呂(787-828)が邸宅の一部に建立した修楽寺が大念仏寺の前身とされる。

時代は源平の合戦に入り寺は衰退を余儀なくされるが、鎌倉時代末期の永享元年(1321年)、第7世・法明(生没不詳)によって中興される。その中興も束の間、戦国時代に再び衰退し、江戸時代の元禄年間に第43世・大通(生没不詳)によって重興された。

住宅やビルが密集した大阪の市街地の一画に、別世界のような寺の伽藍が建ち並んでいる。山門は江戸時代の建築で、移築された南門、鐘楼、地蔵堂、霊明殿も同じ江戸時代の建築である。本堂は昭和13年(1938年)の建築であるが、大阪府下の木造建築で国の登録有形文化財に登録されている。その本堂に安置されている本尊は、十一尊天得如来の仏画(仏絵)であるのは珍しい。霊明殿は後鳥羽天皇を奉安する権現造りの社殿があったが、開基を勅願した鳥羽上皇でないのが不思議に思われた。

境内を散策していると、図体の大きな若者が浴衣姿で自転車に乗って境内をゆっくりと走っていた。良く見ると、大相撲の力士のようで境内には力士が所属する部屋の稽古場があった。大阪場所は寺院を宿舎とする部屋が多いようで、仏縁の思わぬ出会いに感謝した。山門の横には、俳人・小林一茶(1763-1828)が四国からの帰路に立ち寄って詠んだ句碑が建っていた。一茶が大阪にも馴染みがあったことを知り、その句碑を写真に収めた。

「春風や 順禮ともか ねり供養」 一茶

051浄土宗鎮西派総本山知恩院

①山号寺号: 華頂山大谷寺。

 ②本尊: 法然上人像・阿弥陀如来立像(重文)。

 ③開山開基: 法然。再興:  徳川秀忠・家光。

 ④開山開基年: 承安5年(1175年)。再興年:  寛永18年(1641年)。

 ⑤文化財: 国宝堂宇(本堂、三門)、重文堂宇(勢至堂、大方丈、小方丈、集会堂、大庫裏、小庫裏、唐門、大鐘楼、経蔵)

⑥支院・塔頭:  6ヶ寺、末寺: 6,916ヶ寺。

 ⑦寺域: 240,900㎡(73,000坪)。

⑧特色: 門跡寺院。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 京都市東山区。

⑩訪問年:  昭和48年08月30日(木)・平成04年01月01日(水)・平成16年03月13日(土)。

 京都の寺院の中で最も参拝客や観光客の多い寺院を調べた所、知恩院は上位にランクされている。その理由は境内の拝観が自由であり、堂内以外は拝観料を徴収していない所である。外国人観光客が不思議に思うのは、神社の境内の参詣は無料であるのに寺院だけが高額の拝観料を徴収するかである。一度だけの参拝で良いと思うのが、最近の寺院である。

知恩院は浄土宗の開祖・法然上人(1133-1212)が草庵を結び入寂した吉水の地に、弟子の源智(1183-1238)が大谷寺を創建した。知恩院では、法然が草庵を結んだ承安5年(1175年)を開山年としているようだ。法然は比叡山で修業した後、浄土教に傾倒し、「南無阿弥陀仏」と弥陀の名号を唱えることで、如来の本願に叶う道であることを説いた。四国に流刑になり、迫害を受けながらも念仏の教えを広めた。

室町時代末期になると、源智が専修道場として開基した知恩寺(百万遍)との間の浄土宗総本寺争いが決着し、知恩院が浄土宗の総本山となった。戦国時代は徳川家康(1543-1616)が浄土宗を信奉し、旗印に「厭離穢土欣求浄土」の仏教用語を用いたのは有名である。上杉謙信が毘沙門天の「毘」の字を用いたことの影響と思われる。

国宝の三門や本堂(御影堂)など現在の残る伽藍の多くが、徳川将軍家によって再建された。神宮通りに面した三門は、間口27m・奥行12m・高さ24mの重層の木造で、高野山の大門と大きさが拮抗する。日本一の大鐘楼の鐘は、大晦日のニュースで度々放映されるので知らない人は少ないと思う。客殿でもある大小の方丈建築が素晴らしく、七不思議の1つ「鶯張りの廊下」と狩野一派の襖絵は有名である。

知恩院の特色は、通常の寺院では本尊を祀る堂宇が本堂とされるが、法然の像を安置する御影堂が本堂となっている。境内に阿弥陀堂はあるが、御影堂が方が立派なのは宗祖が阿弥陀仏より上位にあることを意味し、草庵当時に法然が詠んだ和歌が脳裏を過る。

「我がこころ 池水にこそ 似たりけれ 濁りすむこと さだめなくして」 法然

052浄土宗鎮西派関東総本山増上寺(七大本山)

①山号院号: 三縁山広度院。

②本尊: 阿弥陀如来坐像。

③開山開基: 酉誉聖聡。中興: 源誉存応・徳川家康。

④開山開基年: 明徳4年(1393年)。中興年: 慶長3年(1598年)。

⑤文化財: 重文堂宇(三解脱門[三門])。

⑥支院・塔頭:  8ヶ寺、末寺: 知恩院に含む。

⑦旧寺域: 858,000㎡(260,000坪)。

⑧特色: 徳川将軍家霊廟。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 東京都港区。

⑩訪問年:  昭和48年03月25日(日)・平成02年06月24日(日)。

初めて上京した17歳の時、上野駅から芝公園の東京タワーまで歩き増上寺の境内を眺めたのであるが、寺社めぐりよりも城郭めぐりに重点を置いたために正式に参拝したのは2年後の19歳の時であった。その後、全国の寺社や城郭、庭園などを写真に記録しようと訪ね、広い境内を折畳み自転車に乗って回った。

増上寺の開基は不明な点が多いが、現在の紀尾井町にあった真言宗の光明寺を聖聡(1366-1440)が浄土宗に改宗し、増上寺と改名した明徳4年(1393年)を開山開基としているようだ。桃山時代になって、関八州に領地替えとなった徳川家康(1543-1616)が第12世・在応(1544-1620)に帰依し、現在地に増上寺を移して大伽藍を建立させた。

以降、天台宗の寛永寺と共に徳川家の菩提寺となり、寺格は100万石、堂塔伽藍48宇、学寮100棟、僧侶3,000人を数える大寺院へと発展する。その権勢は総本山の智恩院を凌ぐとまで言われ、浄土宗関東総本山としての地位は現在も続いている。

明治時代になって寛永寺が衰退したように増上寺も寺領を没収され、敷地の大半は日本最初の都市公園に改められた。太平洋戦争の東京空襲で多くの伽藍を失い、唯一残った伽藍が重文の三解脱門と都文の経蔵である。戦後は寺の復興がなされ、七堂伽藍が整うが五重塔が再建されていない現状のようだ。しかし、東京タワーが五重塔の再建と考えれば、寺観と一体化した景観も良いものである。

境内の徳川家霊廟には、歴代将軍6人と共に将軍夫人など子女の遺骸も安置されている。秀忠の台徳院霊廟は荘厳な建物群であったようであるが、空襲で焼失して残された惣門・勅額門・御成門は西武グループに売却された。勅額門と御成門は、所沢の不動寺に移築されて国の重要文化財の指定を受けている。

芝公園となった場所には都内で最大の前方後円墳・丸山古墳が残されていて、武蔵野の悠久の歴史が垣間見るようであった。その一画に戦後の大物政治家・大野伴睦の句碑が建っていた。褒められた句ではないが、境内跡に残る唯一の著名人の句碑である。

「鐘が鳴る 春のあけぼの 増上寺」 伴睦

053大本山善光寺(浄土宗鎮西派大本願・尼寺・七大本山)、(天台宗山門派大勧進・僧寺)

①山号院号: 定額山。

 ②本尊: 一光三尊阿弥陀如来像(絶対秘仏)・前立阿弥陀如来像(重文)。

 ③開山: 本多善光。開基:  皇極天皇。中興:  誓興(大本願)・香巌(大勧進)

 ④開山年: 推古10年(602年)。 開基年: 皇極3年(644年)。中興年:  寛延3年(1750年)

 ⑤文化財: 国宝堂宇(本堂)、重文堂宇(三門、経蔵)。

⑥支院(宿坊):  39ヶ寺。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 宿坊と門前町の景観。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 長野県長野市。

⑩訪問年: 昭和49年02月11日(月)・平成19年10月08日(月)

全国の寺院の中で1度は参詣したと思うのは、長野の善光寺で「牛に引かれて善光寺参り」の慣用語もある善光寺ではないだろうか。平成27年(2015年)、7年に1度御開帳される52日の期間中、約707万人が参拝したとされるので驚きである。

善光寺の本尊は、三国伝来の一光三尊阿弥陀如来像で、1つの舟形後光の中に弥陀・観音・勢至の三尊が現れる像とされる。欽明13年(552年)、百済の聖明王から日本に献上されたが、仏教に反する物部守屋によって難波に破棄された。推古10年(602年)、信濃の本多善光(生没不詳)が仏像を持ち帰り一宇を建て草創した。皇極3年(644年)、皇極天皇の勅願によって蘇我馬子の姫(尊光上人)が本多善光の名に因み善光寺を開基する。

寺は平安時代初期から江戸時代元禄期まで11回の火災を被って来たが、その都度再建されている。一番の災難は、武田信玄が本尊を甲府に移してら、織田信長・徳川家康・豊臣秀吉と権力者によって遷座され、善光寺に本尊に戻ったのは42年後と言われる。

善光寺の管理は、浄土宗の大本願(尼寺)と天台宗の大勧進(僧寺)に分かれ、覇権争いを繰り返して来た。それは本多善光の子孫と高貴な尼僧との確執の歴史でもある。現在は単立(無宗派)の宗教法人となっているが、住職が「大本願上人」と「大勧進貫主」の両名が務めている形態は同じようにも思える。

石畳みの門前を入ると、左手に大本願の堂宇が建ち、仁王門の先の駒反り橋を渡ると大きな三門が聳え、重層入母屋造りの大きな本堂が建っている。現在の本堂は、元禄13年(1700年)の建築で国宝に指定されている。私が2度目の参拝をした時は、ちょうど屋根の葺き替え終わった直後で、桧皮の薄茶色の鮮やかさが忘れられない。本堂の左側には大勧進の伽藍が甍を並べ、重文の経蔵、三重塔風に建てられた忠霊殿がある。

塔頭寺院も多く、大本願が14ヶ寺、大勧進25ヶ寺あるが、そのすべてが宿坊を兼ねていて、前回に続き今回も投宿しようと思ったが念願は叶わなかった。大本願に立ち寄り、松尾芭蕉翁が元禄元年(1688年)、「更科紀行」の旅の折、善光寺で「月影や 四門四宗 只一つ」と詠んだ善光寺のイメージと宿坊の対応は異なるようだ。

054浄土宗鎮西派大本山金戒光明寺(黒谷堂・七大本山)

①山号: 紫雲山。

 ②本尊: 阿弥陀如来

 ③開山: 法然、開基:  運空。

 ④開山年: 承安5年(1175年)、開基年:  南北朝時代。

 ⑤文化財: 重文堂宇(三重塔[文殊塔])。

⑥支院・塔頭:  18ヶ寺、末寺: 知恩院に含む。

 ⑦寺域:  132,000㎡(40,000坪)。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。会津藩の本陣跡。

⑨所在地: 京都市左京区。

⑩訪問年: 平成03年12月31日(火)・平成16年03月13日(土)。

東山北部、岡崎の小高い丘の上に4万坪の境内を有する金戒光明寺があるが、南禅寺から銀閣寺まで続く「哲学の道」から逸れていて、観光客は疎らである。法然上人(1133-1212)が比叡山西塔の学僧・叡空に師事した後、山を下りて草庵を結び念仏説法をした最初の遺跡である。比叡山の黒谷に対して新黒谷と呼ばれていたが、岡崎の黒谷が有名になって今は「黒谷さん」の通称で呼ばれるようになった。

創建後は著しい発展はなかったが、第8世・運空(生没不詳)の時、北朝の後光厳天皇に円頓戒を授けことで金戒光明寺と称された。第10世・等煕(生没不詳)の時、諸堂が建てられて後小松天皇より真の浄土宗を意味する「浄土真宗最初門」の勅額を賜っている。応仁の乱や度重なる火災で堂宇を焼失しているが、江戸時代に再建が果たされた。

知恩院が徳川幕府の城郭の役割を担ったように、金戒光明寺も同様で、幕末に会津藩が本陣を構えた寺でもある。幕末の京都には倒幕のテロ集団が暗躍し、その取締りを断行したのが京都守護職に任じられた藩主・松平容保(1836-1893)を筆頭とする会津藩と傘下の新撰組であった。大政奉還後の王政復古の大号令で会津藩は窮地に立たされ、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の多くが黒谷に埋葬された。

江戸末期に建てられた山門には「浄土真宗最初門」の勅額が掲げられ、正面に昭和19年(1944年)に再建された御影堂が建つ。敗戦が濃厚となった戦時中に再建されたのは、庶民の信仰が賜物であろう。江戸初期に豊臣秀頼が再建した阿弥陀堂が御影堂の右手前に建つ。比叡山の恵心が最期に彫刻した阿弥陀如来像が祀られ、「ノミおさめ如来」と呼ばれているそうだ。丘の高い場所には唯一の重文である三重塔(文殊塔)が聳え、会津藩主や藩士が毎日眺めたと思うと、感慨も深まって来る。

冬の特別公開で、藩主や藩士が起居した大方丈や庭園を拝観し、塔頭である西翁院の重文茶室を見られたことが嬉しい。三重塔に続く石段の脇には、アフロ仏像の愛称で呼ばれている五劫思惟阿弥陀仏の石仏で、そのユニークさは過去の遺恨を忘れさせるようだ。

「幾人の 涙は石に そぞぐとも その名は世に 朽じとぞ思ふ」 松平容保

055浄土宗鎮西派大本山知恩寺(百万遍・七大本山)

①山号院号: 長徳山功徳院。

 ②本尊: 阿弥陀如来立像。

 ③開山: 円仁。開基:  法然。中興:  源智。重興:  善阿空円。

 ④開山年: 平安時代初期。開基年: 平安時代末期。中興年:  鎌倉時代初期。重興:  南北朝時代。

 ⑤文化財: 重文堂宇(釈迦堂、阿弥陀堂、御影堂、勢至堂、御廟、鎮守堂、鐘楼、惣門、西門)。

⑥支院・塔頭:  5ヶ寺、末寺: 知恩院に含む。

 ⑦寺域:  不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。日本一の大数珠。

⑨所在地: 京都市左京区。

⑩訪問年:  昭和48年09月19日(水)・平成03年12月31日(火)。

京都大学のキャンバスが密集する吉田地区、その京大路通と今出川通が交差する角地に智恩寺がある。浄土宗総本寺を知恩院と争った経緯があるが、現在は浄土宗鎮西派の四大本山及び七大本山として君臨している。鎭西派は浄土宗の本流で、他の浄土宗系の宗派とは一線が画しているが、他の宗派も似たり寄ったりで、浄土宗に限ったことではない。

智恩寺の開山は、天台座主・円仁が釈迦堂を建てて開山したとされるが、法然上人が建久年間に智恩寺と改めて、念仏道場とした時を開山とする説もある。弟子の源智(1183-1239)が法然の御影堂を建て、法然を開山第1世とした。元弘元年(1331年)、第8世・空円の時、京都に疫病が蔓延し折、後醍醐天皇の勅願により「七日念仏百万遍」を行い疫病が退散したことがあった。その時に天皇から「百万遍」の称号が下賜され、1,080珠の大数珠も贈られて百万遍智恩寺と呼ばれるようになった。

江戸時代の寛文2年(1662年)、今出川から現在地の吉田に移って現在の伽藍が建立された。南門から参道に入ると、正面に法然像を祀る御影堂、手前左側に阿弥陀堂、右側に釈迦堂が建っている。浄土宗の寺に釈迦堂があるのは珍しく、開山大師・円仁に対する配慮であろう。他に勢至堂など建っているが、境内のある9棟の堂宇が国の重要文化財であるのも京都ならではの寺観である。京都や奈良が太平洋戦争の空襲に遭わなかったのが、戦後生まれの日本人としては嬉しい限りである。

御影堂には寺宝でもある日本一の大数珠が掲げられ、大法要の時や団体参拝客が「大数珠繰り」を現在も行っているようだ。境内では古本市やフリーマーケットが開催されるようで、京都大学の学生とっては庶民的な寺として人気があるようだ。京都大学と言えば、西田哲学を確立した西田幾多郎(1870-1945)を思い出す。勉学の合間に知恩寺に訪ね、思索にふけったことであろう。短歌を嗜んでいたようで、その一首が切手にも選ばれている。

「わが心 深き底あり 喜も 憂の波も とどかじと思ふ」 幾多郎

056浄土宗鎮西派大本山善導寺(七大本山)

①山号院号: 井上山光明院。

 ②本尊: 阿弥陀如来像。

 ③開山: 聖光房弁長(弁阿・鎮西)、開基:  草野永平。再興:  田中忠政。

 ④開山開基年: 建長2年(1191年)。再興年:  元和2年(1616年)。

 ⑤文化財:  重文堂宇(本堂、大門、大庫裏、広間、書院、役寮・対面所、中蔵)

⑥支院・塔頭:  5ヶ寺、末寺: 知恩院に含む。

 ⑦寺域:  49,500㎡(15,000坪)。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 福岡県久留米市。

⑩訪問年: 平成27年05月03日(火)。

 九州には全国的に名の知れた寺が少なく、国宝建築の堂宇を有する寺も長崎の崇福寺、豊後高田の富貴寺の2ヶ寺のみである。私が長らく手にしている『古寺名刹大辞典』において唯一、佐賀県だけが1ヶ寺も紹介されていない。明治初年の廃仏毀釈の影響で、寺が破壊されて無くなったのである。鹿児島県や宮崎県も同様で、遠路から参拝に訪ねるような寺はない。そんな九州の中で、福岡県と熊本県、特に大分県には古刹が多く残っている。

善導寺は建長2年(1191年)、法然の弟子・聖光坊弁長(1162-1238)が開山し、伯父で筑後国司・草野永平(生没不詳)が開基した。弁長は阿号(字号)を弁阿、房号(坊号)を聖光房と称したことから聖光上人、九州を鎮西と呼んだことから鎮西上人とも呼ばれていた。浄土宗では、房号を通称名とする例が多く、法然は房号で諱(僧名)は源空である。古くは武蔵坊弁慶もそうであり、比叡山で修行した証のようにも思える。

法然は自身の寺院を建立となかったので、直弟子たちが法然入滅後の役割を担った。中でも弁長が興した鎭西派は、浄土宗の最大の宗派で総本山智恩院も鎭西派である。善導寺の寺号は、中国唐代の浄土教第3祖である善導大師の尊像を入手とたことに因んでいる。建保5年(1217年)には順徳天皇より「善導寺」の勅額を得て、皇室との結び付きを得た。

鎌倉時代中期には寺運も隆盛を極めたが、南北朝時代の争乱や応仁の乱で堂塔伽藍を失い、再建されたのは室町時代の永正年間(1504-21年)であった。しかし、戦国時代に入ると、善導寺の創始者である草野氏と筑前の立花氏と争いで、伽藍は再び焼失して第19世・祖吟と住僧36人が殺されたとされる。江戸時代の泰平の世となって徐々に再建を果たしている。

大門をくぐると、三門・釈迦堂・経蔵・開山御廟が境内の中心部に一直線建ち並んでいる。左側には塔頭・納骨堂・鐘堂・観音堂が建ち、右側には塔頭が甍を連ね、宝物殿・大庫裡・書院・本堂と大きな堂宇が林立する。本堂の手前奥に三祖堂もあり、九州一の七堂伽藍ではないかと私は感嘆した。三祖堂には、高祖・善導大師、元祖・法然上人、そして二祖・聖光上人の坐像が安置され、ふと聖光上人の和歌を諳んじて合掌した。

「悟る道 迷う巷と 分かれても 己が心の 外にやはある」 弁長

057西山浄土宗総本山光明寺(粟生光明寺)

①山号院号: 報国山念仏三昧院。

 ②本尊: 阿弥陀如来像。

 ③開山: 法然、開基:  熊谷直実。

 ④開基開山年: 建久9年(1198年)。

 ⑤文化財:  重文仏像(千手観音立像)。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 596ヶ寺。

 ⑦寺域: 66,000㎡(20,000坪)。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。紅葉の名所。

⑨所在地: 京都府長岡京市。

⑩訪問年: 昭和48年11月04日(日)・平成19年10月02日(火)。

京都の西山は、京都市西京区と長岡京市の周辺を指す観光スポットであるが、観光客で賑わっているシーズンをあまり見たことがない。西山でも最も大きな寺院が西国観音霊場第20番札所・禅峯寺と西山浄土宗総本山・光明寺である。

建久9年(1198年)、法然上人が念仏を説いた発祥地に熊谷直実が念仏三昧院を開基した。直実(1141-1207)は源平の合戦で名を馳せた源氏方の武将で、弱冠17歳の平敦盛(1169-1183)を討ち取ったことでも知られる。直実は合戦後、関東熊谷郷の領地に戻ったが、伯父・久下直光との領地争いに敗れたこともあって出家を決意し京に上る。法然に弟子入りして法力房蓮生を名乗り、やがてその高弟となる。法然の入滅後、墓は智恩院に建てられるが、比叡山の衆徒に破壊される。その遺骸は嵯峨野の二尊院、太秦の来迎院と移されるが、最後に念仏三昧院で荼毘に付されて新たに廟所が造営された。

法然の高弟でもあった第4世・証空(1177-1247)の時、法然の遺骸を納めた石棺から光明が発する奇瑞があり、四条天皇から光明寺の勅額を得て改名された。その光明を受けた松が「光明松」と呼ばれて残っている。その後は応仁の乱などで罹災を繰り返すが、その都度復興されて来て、現在の諸堂は江戸時代・寛延年間(1748-51年)の再建である。明治に入ると、光明寺は証空が広めた西山義と呼ばれる流儀の浄土宗西山派の本山となるが、禅林寺派と深草派が分裂して現在は西山浄土宗の総本山となっている。

総門を入り石段を上ると、大きな御影堂が正面に建ち、それよりも小さな阿弥陀堂が右手に建っている。御影堂の奥に御廟所と勢至堂があり、左側の低い場所には釈迦堂(方丈)・小書院・大書院・宝物庫など堂宇が不規則な配置で建っている。2万坪の広い境内に32棟の堂宇があり、うち17棟が市の文化財となっている。私が最初に参拝した季節は、伽藍を彩る紅葉の美しさ感動したが、2度目の参拝時は時期が早くて失敗であった。京都の魅力の1つに紅葉の名所が多いことであり、高雄の紅葉は別格としても光明寺の紅葉も素晴らしい。女人坂を上った先に塩田紅果の句碑があったが、紅葉を詠んでいないのが残念である。

「うつし世の 楽土静けし 花の鳥」 弁護士俳人・紅果

058浄土宗禅林寺派総本山禅林寺(永観堂)

①山号院号: 聖衆来迎山無量寿院。

 ②本尊: 阿弥陀如来像(重文)

 ③開山開基: 真紹。中興:  永観。

 ④開山開基年:  仁寿3年(853年)。中興年:  延久4年(1072年)。

 ⑤文化財:  国宝絵画(山越阿弥陀図)。

⑥支院・塔頭:  1ヶ寺、末寺: 357ヶ寺。

 ⑦寺域: 33,000㎡(10,000坪)。

⑧特色: 門跡寺院。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 京都市左京区。

⑩訪問年:  昭和48年09月03日(月)・平成19年10月3日。

青春時代、憧れの京都にアルバイトしながら4ヶ月間過ごした時があった。その時に一番愛した場所が「哲学の道」の道であった。その道筋にあった寺院の中でも禅林寺は印象に残っていた。紅葉の時期に再び訪ねて違った印象が心に刻まれた。

永観堂の名で知られる禅林寺は、空海大師の高弟・真紹(797-873)が鎮護国家の道場として建立し、貞観5年(863年)に清和天皇より定額寺として禅林寺の寺号を賜った古刹である。平安時代末期の延久4年(1072年)、三論宗の僧・永観(1033-1111)が中興した頃は、末法思想の影響もあって阿弥陀信仰が盛んとなる。永観も浄土教を学びその信奉者となって、念仏を広めた。法然よりも100年も早い念仏の教化で、市聖の空也上人(903-972)は更に古い約230年前に念仏を唱えて全国を巡錫している。

禅林寺第12世・静遍(1166-1224)は、真言僧でありながら法然に帰依し、弟子の証空を寺に招いている。証空の弟子・浄音(1201-1271)が住持となった時、寺は浄土宗西山派に改められた。鎌倉時代末期頃に寺運が最も栄えたが、室町時代の応仁の乱による戦火で堂塔伽藍が灰燼に帰してしまった。明応6年(1497年)頃から御土御門(1442-1500)が御影堂、後柏原天皇(1464-1526)が釈迦堂・書院・客殿をそれぞれ再建している。江戸時代になって火災が発生する度に再建がなされ、現在に続く七堂伽藍の寺観を呈している。

哲学の道に面した総門を入ると、山の斜面を活用した伽藍が複雑に林立している。中門の先に本坊の建築群があり、石段を上ると御影堂の大きな入母屋造りの目を引く。御影堂から開山堂までは臥龍廊で結ばれていて、この周辺の紅葉が一番美しい。開山堂の先には多宝塔が聳え、浄土宗では建築しない塔であるが、前身の真言宗に配慮したようである。阿弥陀堂は御影堂脇の石段の上にあるが、禅林寺は最も古く四天王寺からの移築である。

禅林寺の通称が永観堂であり、中興の祖・永観の逸話が面白い。永観が念仏を唱えいると、本尊の阿弥陀如来像が先に立ち、共に念仏行道をし、不思議に思った永観が足をとめると、「永観、遅し」と言って見返ったと言う。永観の和歌にはその絆が感じられる。

「世をすてて あみだ仏を 頼む身は をはりおもふぞ うれしかりける」 永観

059浄土真宗(真宗)本願寺派本山西本願寺(真宗十派)

①山号: 龍谷山。

 ②本尊: 阿弥陀如来像。

 ③開山開基: 親鸞。中興:  蓮如。重興:  顕如。

 ④開山開基年:  元仁元年(1224年)。中興年:  文明15年(1483年)。重興年:  天正19年(1591年)。

 ⑤文化財: 国宝堂宇(御影堂、阿弥陀堂、書院、北能舞台、黒書院・伝廊、飛雲閣、唐門)、重文堂宇(玄関・浪之間・虎之間・太鼓之間、能舞台、浴室、経蔵、鐘楼、手水所、御影堂門、阿弥陀堂門、総門、御成門・目隠塀・築地塀)、特別名勝(書院庭園)。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 10,206ヶ寺。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 世界文化遺産。史跡。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 京都市下京区。

⑩訪問年: 昭和48年10月11日(木)・平成04年01月02日(木)・平成16年03年07日(日)。

 西本願寺は総本山としは、信徒約700万人・末寺10,206ヶ寺を有する日本一の大寺院である。第2位が浄土宗・知恩院の信徒約600万人・末寺6,916ヶ寺で、第3位が同じ浄土真宗の東本願寺が第4位で信徒数約550万人・末寺8,551ヶ寺である。私が贔屓にしている高野山真言宗は、信徒約550万人・末寺3,638ヶ寺と第4位に甘んじている。因みに第5位は日蓮宗の身延山で信徒約380万人・末寺4,657ヶ寺で、第6位に曹洞宗の信徒約150万人・末寺14,559 ヶ寺、天台宗の比叡山が信徒約150万人・末寺3,336ヶ寺が続く。

 浄土真宗の開祖・親鸞聖人(1173-1262)は法然上人(1133-1212)の弟子の1人であったが、念仏弾圧で師の法然は四国讃岐に流刑となり、自らは越後に流れた。その時から「非僧非俗」となり独自の道を歩み、越後に流されしてから布教を始める。常陸を拠点に関東各地を布教し、家族ともども京都に戻ったのは62歳頃とされる。親鸞には妻・恵信尼との間に7人の子女がいて、家族で布教活動を行った珍しい宗歴を持つ。

親鸞が89歳の長寿もって入滅すると、遺骸は京都大谷に納められた。文永9年(1272年)、大谷から吉水の北に遺骨が移され、大谷本廟が建てられた。浄土真宗では、親鸞が根本教典である『教行信証』を完成させた元仁元年(1224年)を真宗開宗としている。親鸞が51歳の時で、東国教化の拠点として10余年を過ごした稲田の草庵(西念寺)であった。親鸞の曾孫・覚如が本願寺の寺号で寺院化を進めたが、急速な発展には至らなかったようである。

室町時代末期の長禄元年(1457年)、本願寺中興の祖とされる第8世・蓮如(1415-1499)が門主になると、独自の教化によって門徒を増やしたが、比叡山から仏敵と見なれて迫害を受ける。近江の金ノ森、堅田、大津を転々とした後、越前吉崎に吉崎御坊を建立して北陸の地盤を固める。比叡山とも和睦して、京都山科に山科本願寺を文明15年(1483年)に落成させる。明応5年(1496年)には、大阪石山に石山御坊を建てて隠居所とした。

蓮如の没後、本願寺門徒派は、北陸や三河など各地で一揆を起こし「一向一揆」と恐れらて一向宗とも呼ばれた。第11世顕如(1543-1592)が門主となると、織田信長(1534-1582)の「天下布武」の対抗する勢力として11年間も戦争を続け、和睦した後は石山御坊を明け渡した。信長の後継者となった豊臣秀吉は、石山御坊の跡地に大阪城を築き、天満本願寺に御坊を移転させた。顕如も鷲ノ森別院から天満本願寺に入って、落ち着きを取り戻す。

江戸時代に入ると、徳川家康は本願寺の勢力を二分しようと、反目する顕如の長男・教如(1558-1614)と三男・准如(1577-1631)の関係を利用し、京都烏丸に領地を与えて東西の本願寺を分立させる。准如は第12世門主となっていたので本願寺(西本願寺)を継承し、教如は新たに家康が造営した東本願寺の初代法主となる。

西本願寺には国宝の堂宇や付帯建物が7棟、重要文化財の堂宇や付帯建物が12棟と、京都でも屈指の古建築を有する大寺院となっている。国宝堂宇の多くが秀吉の遺構を移したもので、絢爛豪華な桃山時代の文化を残している。親鸞の大谷本廟は、西本願寺の飛地境内となり、名実共に浄土真宗の本流を現在まで堅持している。

京都駅を降りて京都タワーを左に見上げて烏丸通を進むと、左側に東本願寺の大きな伽藍が建っているが、西本願寺は七条通を左折した先の堀川通に面した場所にある。手前には真宗十派の興正寺があり、その左には西本願寺が運営する龍谷大学の校舎が建っている。

広い境内の北東に本堂門と阿弥陀堂、中央東に御影堂門と御影堂、南東に適翠園と飛雲閣がある。中央の南に唐門と書院、書院の北から西端には大きな百華池と庭園が1/3ほどの敷地を占める。国宝の阿弥陀堂と御影堂の参拝は自由であるが、それ以外の参拝は予約制となっているようで、書院の敷居も随分と高くなっている。

西本願寺の堂宇の中で、最も注目されるのが飛雲閣で、秀吉が建てた聚楽第の遺構とも言われるが確証はないようだ。外観のみの拝観ではあるが、金閣(金閣寺)・銀閣(銀閣寺)と並び「京の三閣」と呼ばれる三階建ての建物は素晴らしいの一言に尽きる。最初に参拝した頃は、書院の拝観は時間制となっていたので1度だけ拝観した。本瓦葺き入母屋造りの大きな建物で、対面所と白書院に分かれ、白書院は一之間から三之間まで襖で仕切られている。更に杮葺き寄棟造りの黒書院が伝廊で書院と結ばれている。二条城の御殿を彷彿とさせる絢爛豪華な書院である。他に北能舞台は国宝で、能舞台は重文である。寺院に能舞台があるのは珍しく、北能舞台は家康が寄進したとされ日本最古と言われる。

書院対面所にある枯山水の庭園は、庭園の国宝でもある国の特別名勝に指定されていて、適翠園、百華池庭園と名庭があるのも寺の格式を感じさせる。国宝や重文の寺宝も多く、親鸞聖人像の画像3幅と親鸞直筆の経典注釈本2冊が国宝に指定されている。西本願寺は観光寺院ではないため、拝観規制があるので近寄り難い雰囲気があるが、「非僧非俗」という新しい僧侶のスタイルを創った親鸞は畏敬する存在でもある。現在の僧侶は宗派を問わず妻帯しているのが殆どで、その元祖・親鸞の和歌には自由奔放さが感じられる。

「人間に 住み程こそ 浄土なれ 悟りてみれば 方角もなく」 愚禿親鸞

060真宗大谷派本山東本願寺(真宗十派)

①山号院号: なし。正式名称:  真宗本廟。

 ②本尊: 阿弥陀如来像。

 ③開基: 教如。再興:  現如。

 ④開基年: 慶長7年(1602年)。明治28年(1895年)。

 ⑤文化財:  国宝書籍(教行信証)。境外名勝(渉成園)。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 8,551ヶ寺。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 日本第二の木造建築(御影堂)。大毛綱。

⑨所在地: 京都市下京区。

⑩訪問年:  昭和48年08月27日(月)・昭和48年09月20日(木)・平成16年02月08日(日)。

私の実家の墓は、浄土真宗大谷派の寺院にあったので子供の頃から本堂の阿弥陀如来を何となく拝んでいた。20歳の時、初めて京都を訪ねて最初に参詣した寺が東本願寺であった。京都駅にすぐ近くにあったので、時間潰しや休息するには絶好の寺であった。

寺の歴史については、西本願寺と重複するので割愛するが、教如上人(1558-1614)が創建

した慶長7年(1602年)から寺伝を紐解いてみたい。嫡男ながら本願寺の門主と就任できなかった教如は、徳川家康(1543-1616)に急接近して関ヶ原合戦後、京都に凱旋した家康を出迎えいる。家康は本願寺を移転させると同時に、教如にも土地を与えて堂宇を建立して東本願寺を分離開基させる。裏方であった教如は第12代法主となり、南北朝時代を思わせる宗教団体の分裂が再現された。三種の神器とも言える親鸞遺物の争奪戦が繰り返される。

 元和3年(1617年)、本派の西本願寺が江戸に築地本願寺を創建すると、大谷派も対抗するように慶安2年(1651年)、江戸浅草に別院を創建する。一向宗や門徒宗と呼ばれた宗派名を浄土真宗に変えようとした所、本家浄土宗の増上寺や天台宗の寛永寺の反発を招き明治時代まで本願は叶わなかった。明治になると後に第22代法主となる現如(1852-1923)が北海道開拓と同時に北海道に渡って布教活動を行い、大谷派の躍進に貢献する。

  京都駅の正面、烏丸通を進むと左側に大きな大師堂が聳え、重層の大師堂門が建っている。大師堂は東大寺大仏殿に次ぐ木造建築で、明治28年(1895年)に完成をみたが、その工事に使用された女性信者の頭髪の手綱が残されている。浄土宗の寺では宗祖を祀る堂を御影堂と称するが、大谷派だけが大師堂と呼んでいる。明治天皇から親鸞に対して16人目の「見真大師」の諡号を賜ったことに由来する。その扁額が掲げられた堂内は、千畳敷とも言われる畳が敷かれ、その広さは唖然とするばかりである。西本願寺に比べ文化財の堂宇はないが境内は広く、境外には渉成園(枳殻邸)の名園を所有している。親鸞の他に中興の祖・蓮如にも「慧燈大師」の大師号が贈られて浄土宗を凌ぐ宗派となって君臨する。

「ひとたびも 仏を頼む 心こそ まことの法に かなう道なれ」 蓮如

061真宗誠照寺派本山誠照寺 (鯖江本山・真宗十派)

①山号院号: 上野山。

 ②本尊: 阿弥陀如来像。

 ③開山:  空然。開基: 道性・如覚父子。中興:  秀山・秀誠。

 ④開山開基年: 元応3年(1321年)。中興年:  江戸時代初期。

 ⑤文化財:  なし(県の文化財あり)。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 48ヶ寺。

 ⑦寺域: 33,000㎡(10,000坪)。

⑧特色:  七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 福井県鯖江市。

⑩訪問年:  平成19年06月17日(日)。

 浄土真宗には総本山はないが、両本願寺の他に本山を自称する分派が8ヶ寺もあって真宗十派と呼ばれる。福井県にはその内の4ヶ寺があり、越前一向宗の歴史を伝えている。仕事の関係で石川県野々市町に住んでいたので、福井県の寺社史蹟めぐりも精が出た。

 鯖江にある誠照寺は、親鸞が越後に流刑となっている時、当地の豪族・波多野景行(生没不詳)の求めに応じて説法したことが起源とされる。景行は空然と号した元応3年(1321年)、親鸞の三男・道性(1221-1297)と息子の如覚(1250-1311)を開基として真照寺を建てたとされる。また一説には、親鸞の弟子・如道(1253-1340)の孫弟子・如覚が鯖江門徒を形成して当寺を建立したとも言う。すると、親鸞の孫の如覚と如道の孫弟子の如覚と存在することになるが、如覚という僧が開基したことは事実であるようだ。

室町時代の永享10年(1438年)には、後花園天皇の勅を得て上野山誠照寺に改名された。天正11年(1583年)、誠照寺を保護していた柴田勝家が豊臣秀吉によって滅ぼされると、兵火によって焼失した。第14世秀山と第15世秀誠によって江戸時代初期に復興されるが、天台宗輪王寺の院家(末寺)となって江戸時代は存続された。明治11年(1878年)、独立して真宗の誠照寺派を宣言し、鯖江本山の名で知られるようになった。

現在の誠照寺は鯖江市街地の通りに面した場所にあって、約1万坪の境内に伽藍が並び建っている。四足門(三門)を入ると、左に鐘楼堂と忠霊堂、右に御経堂、正面に大きな入母屋造りの御影堂と左手に御影堂より少し小さい阿弥陀堂、御影堂からは対面所(客殿)・宗務所・大庫裏が建ち並び、右手奥には無碍光堂が建っている。宗風の違いから塔建築はないものの、七堂伽藍は一応整っている。国の文化財指定の建物はないものの、江戸時代中期から明治時代に建てられた堂宇で、すべての屋根が瓦葺きに統一された美しい寺観である。

境内を出る前、再び四足門を眺めたが日光東照宮の陽明門のような彫刻装飾があることから「北陸の日暮し門」とも呼ばれているようだ。輪王寺末寺の縁で東照宮を参拝した信徒が広めたと推測するが、輪王寺にある芭蕉の句碑も見て来たのであろうか。

「あらたふと 青葉若葉の 日の光」 松尾芭蕉

062真宗高田派本山専修寺(一身田御殿・真宗十派)

①山号院号: 高田山。

 ②本尊: 阿弥陀如来立像(重文)。

 ③開山開基: 真慧。

 ④開山開基年: 寛正6年(1465年)。

 ⑤文化財:  重文堂宇(御影堂、如来堂、山門、唐門、通天橋、御廟拝堂、御廟唐門・透塀、鐘楼、茶所[進納所]、太鼓門、大玄関、対面所、賜春館)。

⑥支院・塔頭:  1ヶ寺、末寺: 627ヶ寺。

 ⑦寺域: 99,000㎡(30,000坪)。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 三重県津市。

⑩訪問年: 平成17年09月04日(日)。

  地元秋田で設備会社を経営していたが、先行きの見えない仕事と借金の支払いのため、会社をたたんで四日市に出稼ぎに来た。雇う立場よりも雇われる方が楽であり、殆ど休みのなかった日々から隔週で土・日が休める勤務は、物見遊山の旅に再び誘ってくれた。

四日市での最初の休日は、鈴鹿、津、松阪の名所旧跡をめぐり、津市内に入る途中に専修寺を参拝した。田園の広がる津郊外、環濠で囲まれた寺門町の中に約3万坪の境内があり、その七堂伽藍の大きさや国の重要文化財の多さに驚きながら境内をめぐった。

専修寺は関東で布教していた親鸞が、真岡城主・大内国時の援助を得て嘉永2年(1225年)に建立した専修阿弥陀寺が前身である。その後、専修寺第10世の真慧(1434-1512)が加賀・越前・近江・美濃などを布教して伊勢に入り、門徒の要請もあって寛正6年(1465年)に専修寺を津の一身田に移転させた。真岡高田の専修寺は、寺名をそのままに別院として遺された。火災による堂宇の焼失があったものの、桃山時代は豊臣秀吉の外護を受け、江戸時代には徳川秀忠・家光の寄進もあって現在に残る諸堂が再建された。親鸞直筆の文章は、4割強を所有していて、血縁による両本願寺よりも多く、結縁による関係が仏教的である。

現在の両本願寺に比べると、専修寺は比較できる規模の寺院ではないが、歴史的な存在感は両本願寺とは異なる。専修寺の法流は親鸞直伝の念仏宗であり、亜流でないことは確かと思える。本尊の阿弥陀如来像は一光三尊阿弥陀仏とされ、親鸞が信濃善光寺のレプリカを入手したもので国の重要文化財となっている。

門徒の住宅に囲まれた境内に入ると、山門をはじめとする大伽藍が林立する。私が参拝した当時は、御影堂と如来堂が国の重要文化財に指定されていたが、平成25年(2013年)に12棟が新たに指定されて境内拝観の魅力が倍増している。その堂宇の中で天守閣のような太鼓門が城郭も兼ねていたことを想像させる。境内には、俳人・山口誓子が詠んだ句碑があって、この寺で生きとして生きる草木も阿弥陀如来に護られている説いている。

「仏恩に 浸る銀杏の 大緑蔭」 誓子

063真宗三門徒派本山専照寺(中野本山・真宗十派)

①山号院号: 中野山。

 ②本尊: 阿弥陀如来像。

 ③開山開基: 如導。中興:  浄一。重興:  善蓮。

 ④開山開基年: 正応3年(1290年)。中興年:  永享7年(1435年)。重興年:  天正13年(1585年)。

⑤文化財: なし(市の文化財あり)。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 35ヶ寺。

 ⑦寺域:  不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 福井県福井市。

⑩訪問年:  平成19年06月17日(日)。

専照寺は福井の名所・足羽山公園の麓に建つ寺で、御影堂の大きな伽藍が北陸街道から見えたので、迷うことなく境内の駐車場に入った。福井には何度なく来ていたが、真宗十派の専照寺の事を知ったのは最近であり、福井には思いがけない名所旧跡が点在している。

正応3年(1290年)、三河の兼照寺で和田門徒を率いていた円善(生没不詳)の弟子である如導(1253-1340)が、専修寺と称して開基したとされる。その後、如道は近江・若狭と門徒を増やし、一大教団を築き上げる。また、栃木県真岡の専修寺の道場を移したとされるが、応永3年(1396年)に現在の寺号に改められた。中野にあった専照寺は、横越の証誠寺、鯖江の誠照寺と共に本山であったことから三門徒と称された。

一時衰退を余儀なくされた時代があってが、永享7年(1435年)、第4代・浄一(生没不詳)によって室町幕府第6代将軍・足利義教(1394-1441)の帰依を受け発展する。天正10年(1582年)には北ノ庄に移り、第11代・善蓮(生没不詳)の時には、正親町天皇(1517-1593)の勅願所となった。更に江戸時代の享保9年(1724年)に現在地に移っている。この頃、京都の天台宗妙法院門跡の院家(末寺)となったが、明治に入って真宗東本願寺(大谷派)に合流したが、間もなく独立して真宗三門徒派を名乗って現在に至っている。

境内に入ると、昭和23年(1948年)の福井地震で御影堂を残してすべての伽藍が崩壊したと聞き、天保9年(1838年)に再建された御影堂を複雑な気持ちで眺めた。重層の山門、入母屋造りの阿弥陀堂と再建がなされて、一応七堂伽藍は整っているようであるが、寺の関係者は今なお復興中であると言う。境内には再建された伽藍以外に見るべき特色はないが、境内で子供たちが遊べるような寺は地元には必要な存在に思える。

福井には松尾芭蕉翁が「おくのほそ道」の途上に立ち寄っていて、専照寺の門前も歩いている。山中温泉で同行の曾良と別れたため、地元福井の俳人・神戸等栽(生没不詳)が敦賀まで道案内した時である。専照寺には、北陸街道で詠んだ名句を句碑にして欲しいと願う。

「あかあかと 日は難面も 秋の風」 芭蕉

064真宗興正寺派本山興正寺(興隆正法寺・真宗十派)

①山号院号: 円頓山花園院。

 ②本尊: 阿弥陀如来像。

 ③開山: 親鸞、開基:  真仏。中興: 了源。重興:  本寂(華園摂信)。

 ④開山開基年:建暦2年(1212年)、中興年:元亨元年(1321年)。重興年: 明治9年(1876年)。

 ⑤文化財:  なし。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 510ヶ寺。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 京都市下京区。

⑩訪問年:  昭和48年10月11日(日)・平成16年02月08日(日)。

興正寺は西本願寺と隣接しているので、西本願寺の塔頭寺院のように思われるが、独立した真宗興正寺派の本山である。建暦2年(1212年)、越後配流を赦免されて京都に戻った親鸞聖人(1173-1263)は、源海(生没不詳)の懇請によって、京都山科に一宇を建立した。順徳天皇(1197-1242)より「興隆正法」の勅願を賜り、寺号を興正寺としたされる。親鸞は弟子の真仏(1209-1258)に寺を任せ、布教のために関東へと赴いたと言われる。しかし、親鸞は赦免後、京都には戻らなかったとする説もあって、親鸞の開山には曖昧さが残る。

南北時代に了源(1295-1336)が現在の京都国立博物館の辺りに仏光寺を創建し、興正寺の第7世も兼ねて中興した。本願寺が蓮如によって中興されると、興正寺第14世・蓮教(1451-1492)は蓮如(1415-1499)に帰依して本願寺の傘下に入った。江戸時代になって本願寺が東西に分立すると、西本願寺(本派)に従って隣地に寺を移した。

明治9年(1876年)、第27世・本寂(1808-1877)が法灯を継ぐと、西本願寺を離れて真宗興正寺派の本山となる。西本願寺とは絶縁した訳ではなさそうで、真宗高田派の専修寺と交流しているように自由な立場で布教活動をしている様子である。

西本願寺の伽藍が立派過ぎて、興正寺の境内に入ると大きな御影堂と阿弥陀堂が建っているのに比較的小さく見えてしまう。しかし、堀河通から外観を眺めると、三門と両堂のバランスが整った寺観で美しいと思う。明治35年(1902年)の火災で両堂を焼失するが、間もなく再建された。御影堂は明治45年(1912年)、阿弥陀堂は大正4年(1915年)に建築されたが、真宗では珍しい重層の入母屋造りで、新しい興正寺を象徴するようである。類焼しなかった経蔵は嘉永元年(1848年)、鐘楼は安永3年(1774年)の建築で最も古い。他に表対面所、宗務所、興正会館、婦人会館などが建っていて七堂伽藍の趣は感じられる。

興正寺は梅の名所でもあり、梅と言えば蓮如の「蓮如上人和歌集」にも梅を詠んだ和歌が何首かある。蓮如は和歌を好んでいたようで、説法の際も自作の和歌を披露したようであるが、このような和歌を道歌と呼ぶのであるが心に沁みる秀作も多い。

「くる春も おなじこずえを 詠れば 色もかわはらぬ かぶかきの梅」 蓮如

065真宗木辺派本山錦織寺(真宗十派)

①山号院号: 遍照山天神護法院。

 ②本尊: 阿弥陀如来像。

 ③開山開基: 円仁。中興:  親鸞。重興:  慈綱。

 ④開山開基年: 天安2年(858年)。中興年: 嘉禎元年(1235年)。重興年: 江戸時代中期。

 ⑤文化財: なし(県の文化財あり)。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 215ヶ寺。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 准門跡。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 滋賀県野洲市。

⑩訪問年:  平成18年04月30日(日)。

 錦織寺は琵琶湖の南、中山道に側近した田園地帯に位置し、県道から眺める寺観は城郭のようでもある。近江には比叡山延暦寺があるため、その別格本山や末寺が頗る多い。錦織寺も天台宗の重鎮・円仁が天安2年(858年)、毘沙門天を祀り建立した天安堂が前身である。嘉禎元年(1235年)、親鸞聖人が関東での布教から京都に戻る途中、天安堂の門前で一宿すると、阿弥陀如来が霊夢に現れたことから念仏弘通の道場とし中興したとされる。

南北時代には一派を形成するが、室町時代末期に第7世・慈賢(1395-1453)の孫・勝恵(1475-1557)が門徒と共に蓮如に合流してから寺は衰退する。江戸時代には浄土宗増上寺の末寺となるが、第13世・慈綱(生没不詳)が真宗への復帰を果たし、准門跡寺院に列せられている。明治時代になって錦織寺は、寺の興隆に伴い木辺派本山として独立することになる。木辺派の名称は、親鸞の曾孫・存覚(1290-1373)が錦織寺第4世となって木辺家を興して以来、その血脈が門主となっていることに由来する。

表門を入ると中門があり、正面に入母屋造りの御影堂、右手に阿弥陀堂が建っている。表門と御影堂は滋賀県の有形文化財で、御影堂は元禄年間の建築でもあり、いずれは国の重要文化財に昇格するであろう。参道の左側に講堂、高廊下を隔てて本坊の堂宇群が林立する。大玄関、東山御殿、小書院と軒を連ねるが、東山御殿には江戸時代初期に御所の盃之間が拝領された客間があると聞く。小書院の奥には池泉式庭園と茶室があって、格式の高さが寺観にあらわれている。阿弥陀堂の隣りには円仁が創建した天安堂の堂宇があって、現在も毘沙門天が祀られていたのは気持ちよく感じられた。

境外には親鸞の遺跡が多くあって、背負っていた笈を掛けたされる笈掛松、藤製の弁当箱を棄てた所、箱から藤の芽がでたと言う藤塚がある。藤塚には「重遺恩」と刻まれた立派な石碑が建っていたが、親鸞の650年遠忌年に建立されたようである。他にも持仏を包んでいた菰を焼いた「やいた磧」がある。琵琶湖には秋になると尾びれが赤くなる紅葉鮒がいて、江戸中期の俳人で儒学者であった三宅嘯山(1718-1801)が滑稽な句を詠んでいる。

「紅葉鮒 是にもおかし 錦織寺」 嘯山

066真宗佛光寺派本山佛光寺(真宗十派)

①山号: 渋谷山・汁谷山。

 ②本尊: 阿弥陀如来像(重文)。

 ③開山開基: 親鸞。中興:  了源。重興:  経誉。

 ④開山開基年:  建暦2年(1212年)。中興年:  元応2年(1320年)。重興年:  長享元年(1487年)。

 ⑤文化財:  重文仏像(聖徳太子立像)。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 356ヶ寺。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 准門跡。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 京都市下京区。

⑩訪問年: 平成16年03月13日(土)。

 

 本山の規模を比較する基準となるのが、現在の末寺の数と本山における伽藍の壮大さである。佛光寺は真宗十派の中では5番目の規模を誇り、京都にあるのにも関わらず知名度が低い。それは観光寺院化された京都の寺院で、観光客よりも信徒の信仰を重んずるもう1つの京都の側面がある。京都にある日蓮宗の本山などは、その典型とも思われる。

親鸞聖人(1173-1263)が山科に興正寺を創建し、京都渋谷にも一宇を建てたのが佛光寺とされるが、興正寺の創建も疑わしいことから佛光寺の開基は第7世・了源(1295-1336)の時とされる。元応2年(1320年)、了源は山科の草庵を渋谷に移して寺格化し、盗まれて行方不明となっていた阿弥陀如来像を安置した。この阿弥陀如来像は天台宗の円仁が刻んだとされ、法然から親鸞へと伝わった阿弥陀像であった。

室町時代初期には寺運が栄え、本願寺を凌ぐ寺勢となるが、蓮如が本願寺の門主になると次第に本願寺に圧倒される。また、本願寺と共に比叡山の弾圧を受けて次第に衰退し、応仁の乱では伽藍の殆どを焼失している。経誉(1455-1512)が浄土宗知恩院から佛光寺第14世を継いで再建している。しかし、天正14年(1586年)、豊臣秀吉が渋谷に大仏殿を建立することになり、佛光寺は現在地に移転を余儀なくされた。その頃は末寺や信徒の多くが本願寺に帰属していたので、時の権力に抗しきれなかったようである。

立派な三門を入ると、大きな大師堂が建っていて、堂内には親鸞自作とされる坐像が安置されている。御影堂を大師堂と呼ぶのもこの寺の特徴で、他の本山に比べると聖徳太子立像や法然と親鸞が着用した袈裟など寺宝が頗る多い。境内の堂宇は明治以降の再建ではあるが、七堂伽藍が整っていて境内の手入れが行き届いている。最近では大学と共同で境内に寺カフェなるもが建てられて、観光客や市民に親しまれる寺院に変化しているようだ。佛光寺のある下京区は、京都駅前の区域を除くと東京の下町的なイメージがある。松尾芭蕉翁の元高弟・野沢凡兆(1640-1714)が下京で詠んだ句は、佛光寺の境内に重なって見える。

「下京や 雪つむ上の 夜の雨」 凡兆

067真宗山元派本山證誠寺(横越本山・真宗十派)

①山号院号: 山元山護念院。

 ②本尊: 阿弥陀如来像。

 ③開山開基: 道性。中興:  道性。重興:  光教。

 ④開山開基年: 至徳2年(1385年)。中興年:  文明7年(1475年)。重興年:  昭和59年(1984年)。

 ⑤文化財: なし。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 20ヶ寺。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 福井県鯖江市。

⑩訪問年:  平成19年06月17日(日)。

 鯖江本山の誠照寺を参拝した後、鯖江市の郊外にある證誠寺を訪ねたが、寺号の呼び名が似ていて紛らわしいと感じ、今も記憶の中で混同している情況である。千葉県の木更津にも同じ浄土真宗の證誠寺があって、なおさら寺号に対するストレスは助長される。

それはさておき、『古寺名刹大辞典』によると、親鸞聖人が越前の山元庄に一宇を建立し、長男の善鸞(1217-1286)とその子・浄如(1236-1311)が継ぎ、嘉元2年(1304年)に後二条天皇の勅願を得て開基した記されている。その後の文明7年(1475年)、證誠寺第8世・道性が現在地に移転したそうであるが、道性の生没年は1221年から1297年であり合致しない。また一説には、至徳2年(1385年)、三門徒派の開祖・大町如道(1253-1340)の弟子・道性が開基したともされるが、師よりも32歳も年長であるのも可笑しな寺伝である。道性という同名の僧侶が証誠寺に2人いたと考えるなら納得もするが、開基の曖昧さは否定できない。

室町時代には真宗出雲路派の毫摂寺の傘下には入るが、本願寺が台頭すると本願寺に合流し、江戸時代には天台宗護国院の末寺となっている。明治時代初期に再び西本願寺に統合されるが、明治11年(1878年)、真宗山元派として再び独立して現在に至っている。

證誠寺は本山の格式を誇るが真宗十派の中では最小宗派であるため、境内の堂宇にも比例するようである。昭和23年(1948年)、児童の火遊びによる失火で御影堂や阿弥陀堂など江戸時代に再建された堂宇の殆ど失っている。昭和26年に御影堂、昭和39年に阿弥陀堂、昭和40年に対面所、昭和50年に書院、昭和59年に庫裡・土蔵・庭園・五条塀が完成し、36年ぶりに真宗形式の七堂伽藍が整った。その復興された堂宇を見ていると、本山の名に恥じない寺観に思え、第25世を数える門主に敬意をはらいたい。

境内には句歌碑がなかったのが残念であったが、鯖江には伊藤柏翠俳句記念館があり、眼鏡の製造だけではないようだ。伊藤柏翠(1911-1999)は三国で料亭を営む傍ら俳句の同人誌「ホトトギス」の会長まで務め、永平寺で得度した異例の俳人でもある。

「一管の 笛を置く 花の坊」 柏翠

068真宗出雲路派本山毫摂寺(五分市本山・真宗十派)

①山号: 出雲路山。

 ②本尊: 阿弥陀如来像。

 ③開山開基: 親鸞。中興:  善照。

 ④開山開基年: 天福元年(1233年)。中興年:  慶長元年(1596年)。

 ⑤文化財: なし。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 57 ヶ寺。

 ⑦寺域: 33,000㎡(10,000坪)。

⑧特色: 准門跡。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 福井県越前市。

⑩訪問年:  平成19年06月17日(日)。

 越前国(福井県)には、真宗十派の四本山があるが、その末寺の合計は160ヶ寺と、十派6位の錦織寺の215ヶ寺を下回る。寺院を会社に例えるなら、三井と住友の財閥企業が合併したように、ライバル関係から共存関係にシフトしないと寺の存続が危ぶまれると思う。三門徒派の4ヶ寺本山も合併した方が良いと思うが、保守的な現在の情況は無理が有るようで、歴史的な背景も起因しているように思われる。

毫摂寺の創建に関しては諸説があって定かではないが、親鸞聖人が京都の出雲路に一宇を創建して長男の善鸞に附与したとされる。実際は本願寺の覚如の高弟・乗専(1285-1357)が創建し、覚如の子・善入(生没不詳)が今出川に寺基を移すが、南北朝時代の明徳の乱で伽藍を焼失し、末寺である越前の證誠寺へ寄寓する。

慶長元年(1596年)、毫摂寺第12世・善照(生没不詳)の時、證誠寺を離れて現在地である清水頭に再興する。清水頭は戦国武将・佐々成政が築城した小丸城があった場所で、廃城となって衰退して城下町五分市は門前町として発展し、毫摂寺は五分市本山と呼ばれるようになった。江戸時代の元禄から明治維新に至るまでは、京都の天台宗菁蓮院の院家となり准門跡の格式を誇った。光明・後柏原・後陽成天皇より勅願所の論旨も賜ったそうで、皇室との縁もある。明治初年に西本願寺に合流するが、明治11年(1878年)に独立して真宗出雲路派の本山となって現在に至っている。

境内に入ると、明治17年(1884年)に再建された御影堂・阿弥陀堂の大きな伽藍が建ち、信徒会館・庫裏・納骨堂・鼓楼・経蔵などの七堂伽藍が林立する。経蔵は江戸後期の建築で、御影堂門や鼓楼、鐘楼も同じである。鼓楼が最も古い天明8年(1788年)の建築で、三階建ての二階が宿坊となっているのは珍しく思えた。

第22世・善解門主が短歌を趣味としていたこともあって、昭和8年(1933年)に与謝野鉄幹・晶子夫妻が毫摂寺を訪問している。寺で夫婦の詠んだ短歌8首が金屏風に貼られて、寺宝ともなっているようだ。その1首が落葉の舞う晩秋の寺観を詠んだものであった。

「毫摂寺 東大門の 尊けれ 朱金の葉など 山風が撒く」 与謝野晶子

069臨済宗建仁寺派大本山建仁寺(旧京都五山四位・十四大本山)

①山号: 東山。

 ②本尊: 釈迦如来像。

 ③開山: 明庵栄西、開基:  源頼家。中興:  蘭渓道隆。重興:  安国寺恵瓊。

 ④開山開基年: 建仁2年(1202年)。中興年:  正元元年(1259年)。重興年:  天文23年(1553年)。

 ⑤文化財: 重文堂宇(勅使門、方丈)、国宝絵画(風神雷神図)。

⑥支院・塔頭:  14ヶ寺、末寺: 70ヶ寺。

 ⑦寺域: 73,517㎡(22,280坪)。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 京都市東山区。

⑩訪問年:  昭和48年09月19日(水)・平成04年01月01日(水)。

臨済宗は宋国から明庵栄西(1141-1215)が日本にもたらしてから急速に広まり、建仁2年(1202年)に鎌倉幕府2代将軍・源頼家(1182-1204)が栄西を開山に迎え開基したのが建仁寺である。土御門天皇(1195-1231)の発願もあって、京都の四条以南、五条以北、鴨川以東に広大な寺域を賜っての官寺の建立となった。栄西禅師は比叡山の出身者であったので、創建当初は天台・密教・禅の三宗を兼修する宗教色が強かったようである。

正元元年(1259年)、宋国の禅僧・蘭渓道隆(1213-1278)が第12世住職として入寺してから禅寺に改宗されている。室町時代は禅宗が最も盛んとなり、室町幕府3代将軍・足利義満の時、京都五山の三位となって厚い保護を受けた。建仁寺は五山文化の中心的な役割を担ったが、応仁の乱(1399年)の乱によって荒廃する。

天文23年(1553年)、毛利家の外交僧・安国寺恵瓊(1539-1600)が安芸安国寺の方丈を移し、東福寺の茶室を本堂として再建する。江戸時代には徳川幕府の保護によって堂塔が再建され、制度や学問も整備された。しかし、明治になると廃仏毀釈の影響もあって、広大な境内の一部は政府に没収され、臨済宗建仁寺派の大本山として独立するに至った。

創建当初は、宋国の百丈山を模して建てられたと言われるが、現在は祇園の一画にひっそりと佇む雰囲気の寺となった。八坂通に面した勅使門から放生池・三門・法堂・方丈が一直線に並ぶ臨済宗の伽藍配置で、方丈の右に本坊、塀の左右には多くの塔頭が林立する。勅使門と方丈は国の重要文化財で、勅使門は平敦盛邸の館門の移築で、三門も浜松の安寧寺からの移築とされる。城郭にしても移築は個人的には好まないが、再建に対する意欲は脱帽するだけで、応仁の乱さえなければと思いながら境内をめぐった。

寺宝に俵屋宗達(1570-1643)の作として有名な国宝「風神雷神図」がある。私の愛用する帽子のデザインが「風神雷神図」で、メキシコに行った際は大いに注目を集めた。寺の再建に関わった安国寺恵瓊の辞世の句は、「風神雷神図」とは対照的な心象を詠んでいる。

「清風払名月 明月払清風」 恵瓊

070臨済宗東福寺派大本山東福寺(旧京都五山四位・十四大本山)

①山号: 慧日山。

 ②本尊: 釈迦如来像(重文)。

 ③開山: 円爾、開基:  九条道家。再興:  一条経通。

 ④開山開基年:  嘉禎2年(1236年)。再興年:  貞和3年(1347年)。

 ⑤文化財:  国宝堂宇(三門)、重文堂宇(塔司寮[書院]、庫裏、楼門、鐘楼、裏門、六波羅門、浴室、東司、禅堂、偃月橋、三聖寺愛染堂、月下門、仁王門、万寿寺鐘楼、常楽庵開山堂、常楽庵昭堂、普門院客殿)。名勝(本坊庭園)。

⑥支院・塔頭:  25ヶ寺、末寺: 367 ヶ寺。

 ⑦寺域: 165,000㎡(50,000坪)。

⑧特色:  七堂伽藍の景観。紅葉の名所。

⑨所在地: 京都市東山区。

⑩訪問年:  昭和48年11月11日(日)・平成03年12月29日(日)。

 臨済宗には十四大本山があり、その内の7ヶ所が京都にある。臨済宗には総本山がないのが特徴でもあり、最大宗派の妙心寺を総本山として合併した方が良いと思うが、浄土真宗と同様に宗派の合併は容易ではなさそうである。

洛南に位置する東福寺は、5万坪の広大な敷地に本院(本坊)の七堂伽藍や25ヶ寺もの支院(塔頭)を有する。その大本山の規模は、同じ臨済宗の妙心寺を別格としても大徳寺と拮抗する。妙心寺と大徳寺の両寺は平坦な場所にあるが、東福寺の起伏に富んだ山間に建っていて、紅葉の名所として名高い。

寺の創建は、鎌倉時代の摂政・九条道家(1193-1252)が奈良の東大寺や興福寺を凌ぐ氏寺にしようと、その一字を合わせて東福寺と名付けた。年の歳月を費やして落慶し、開山住職には円爾(1202-1280)を迎えている。奈良の興福寺が藤原氏の氏寺であったように、京都における藤原氏の氏寺を創建しようとした意図が感じられる。政治は藤原氏のような朝廷貴族に変わり、武家が中心となる幕府の時代となったが、未だ藤原氏の権勢が衰えていなかったようである。鎌倉時代に成立した五摂家の中でも九条家は、藤原北家の門流で道家の時代が隆盛を極めたようで、その遺産が東福寺でもある。

東大路通から総門を兼ねた仁王門を入ると、北門・中門・南門が境内を仕切るように建ち、その先には支院が建ち並び大寺院の雰囲気が伝わって来る。国宝の三門、本堂、方丈(書院)が直線方向に建っているが、通天橋の先に開山堂があって他の臨済宗の大本山とは伽藍配置に若干の違いを感じる。また、禅宗の寺院では、塔建築が殆どないのも特徴である。

東福寺は紅葉の名所でもあり、通天橋から眺める境内の紅葉が最も美しく、初めて参拝した感動が今も忘れられない。道家の頃も紅葉が美しかったどうか不明であるが、歌人として知られた道家の和歌が「玉葉集」に収録されている。

「夕されば いや遠ざかり 飛ぶ雁の 雲より雲に 跡ぞきえゆく」 九条道家

071臨済宗建長寺派大本山建長寺(十四大本山)

①山号: 巨福山。

 ②本尊: 延命地蔵菩薩像。

 ③開山: 蘭渓道隆、開基:  北条時頼。中興:  一山一寧。

 ④開山開基年: 建長5年(1253年)。中興年:  永仁元年(1293年)。

 ⑤文化財:  重文堂宇(山門、仏殿、法堂、昭堂、唐門)。名勝(仏殿前・方丈裏庭園)。

⑥支院・塔頭:  12ヶ寺、末寺: 407ヶ寺。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 史跡。七堂伽藍の景観。

⑨所在地:  神奈川県鎌倉市。

⑩訪問年: 昭和48年03月04日(日)・平成02年02月29日(日)・平成19年10月13日(土)。

 若い頃は東京に住んでいた時期があって、あこがれの存在であった鎌倉を頻繁に日帰り旅行したものである。東京を離れてからもユースホステルに連泊をして寺社めぐりを楽しんだものである。その中で北鎌倉駅を降り、円覚寺、明月院、建長寺と参拝して半僧坊の山道を歩き、鶴岡八幡宮をめぐったことが脳裏を離れない。

建長寺は建長5年(1253年)、南宋から来朝した蘭渓道隆(1213-1278)のために5代執権・北条時頼(1227-1263)が創建した。以降、宋朝禅の拠点として丌庵普寧(1197-1276)、大休正念(1215-1290)、無学祖元(1226-1286)、一山一寧(1247-1317)など来朝した名僧が建長寺に住持して本場の禅を広めた。特に一寧は元から亡命した僧で、鎌倉大地震で崩壊した堂宇の再建に尽くして中興の祖ともされる。しかし、その後の火災で焼失するが、鎌倉五山の第1位である建長寺は鎌倉幕府の威信で、その都度再建されている。

室町時代や江戸時代に入ってもからも寺の再建は繰り返されて、鎌倉の古寺が衰退する中でも建長寺は別格のように思える。鎌倉大仏は奈良大仏と同様の大仏殿の中にあったが、現在も再建はされていない。寂れた漁村と化した時代があったのも確かであると思う。江戸時代には、有名な沢庵禅師((1573-1645)が住持したこともあって徳川将軍家の庇護を受けている。大正時代の関東大地震では甚大な被害があったようであるが、重要文化財として残っている堂宇も多く、大寺院の面影は現在も伝えられている。

総門をくぐり境内に入ると、山門・仏殿・法堂が中央の直線上に伽藍が建ち並び、禅宗寺院に立っている親近感が伝わって来る。禅宗寺院で最も大切な堂宇は、僧堂と称される座禅堂であり、建長寺の場合はその僧堂がないのが残念に思われる。重要文化財の仏殿は、3代将軍・徳川家光の弟・忠長の霊屋を移築したとされ、本尊・延命地蔵尊を安置する。禅宗寺院は一般的に釈迦如来像を安置するのであるが、創建者の時頼が信奉していのだろう。執権を譲り出家した時頼は、諸国を遍歴して様々なエピソードを残して和歌も詠んでいる。

「いくたびか 思ひさだめて 変るらん 頼むまじきは 我が心なり」 北条時頼

072臨済宗円覚寺派大本山円覚寺(十四大本山)

①山号: 瑞鹿山。

 ②本尊: 宝冠釈迦如来坐像(重文)。

 ③開山: 無学祖元、開基:  北条時宗。中興:  義堂周信。

 ④開山開基年: 弘安5年(1282年)。中興年:  永和4年(1378年)。

 ⑤文化財:  国宝堂宇(舎利殿)、国宝仏具(梵鐘)、名勝(境内庭園)。

⑥支院・塔頭:  19ヶ寺、末寺: 210ヶ寺。

 ⑦寺域:  不明。

⑧特色: 史跡。七堂伽藍の景観。

⑨所在地:  神奈川県鎌倉市。

⑩訪問年:  昭和48年03月04日(日)・平成02年02月29日(日)・平成19年10月13日(土)。

北鎌倉駅の目前にあるのが円覚寺で、8代執権・北条時宗(1251-1284)が弘安5年(1282年)、宋から無学祖元(1226-1286)を招き創建した。父・時頼が建長寺を創建したことに倣って建立されたが、元寇の犠牲となった武士たちを弔う目的もあった。無学祖元は元寇の襲来に立ち向かう時宗を励まし、国難を克服する手助けとなった。しかし、時宗の33歳の若さで亡くなると、円覚寺を去って建長寺に入り60歳で示寂している。

その後、室町時代に制定された鎌倉五山の第2位として建長寺に次ぐ規模を誇った。建長寺が鎌倉幕府の官寺的な寺であったのに対し、円覚寺は北条氏の氏寺的な歴史が感じられる。円覚寺も度重なる火災で再建を繰り返されるが、義堂周信(1325-1388)が永和4年(1378年)に中興したインパクトが強い。現在残る堂宇の殆どが江戸時代の再建であるが、裳階付杮葺きの舎利殿だけが最も古く室町時代中期の建築とされる。神奈川県では唯一の国宝建築で、鎌倉大仏と共に鎌倉の絵葉書には必ず入っている建物でもある。

江戸時代以降、円覚寺は多くの名僧を輩し、誠拙周樗、今北洪川、釈宗演などが有名である。宗演は禅を世界の広め、その在家の弟子で仏教哲学者・鈴木大拙(1870-1966)はノーベル賞の候補にもなった人物で、肉声のテープを聞いて多くを学ばせてもらった。明治の文豪・夏目漱石(1867-1916)も宗演に参禅したようで、その句碑が塔頭の帰源院に建っている。この塔頭には島崎藤村(1872-1943)も出入りしたようで、文人の愛した寺とも言える。

「仏性は 白き桔梗に こそあらめ」 夏目漱石

境内の一部であった線路沿いを行くと総門があり、山門・仏殿・大方丈が直線上に建ち、その奥には草庵や塔頭が林立する。その一画に、国宝の舎利殿は開山堂の手前に建っている。小学生の頃、向かいに住む幼馴染が鎌倉に行った際に買って来てくれた絵葉書セットに入っていたこともあって、寺社建築に対する興味が深まったのも絵葉書の影響である。 舎利殿以外に貴重な堂宇は建長寺ほど残ってはいないが、作庭の巨匠・夢窓疎石(1275-1351)が設計した庭園は国の名勝に指定されいるが、線路の向うに白鷲池があるのは悲しい。

073臨済宗南禅寺派大本山南禅寺(十四大本山)

①山号: 瑞龍山。

 ②本尊: 薬師如来像。

 ③開山: 無関普門、開基:  亀山法皇。中興:  以心崇伝。

 ④開山開基年: 正応4年(1291年)。慶長10年(1605年)。

 ⑤文化財: 国宝堂宇(方丈)、重文堂宇(三門、勅使門)、名勝(方丈庭園)、特別名勝(金地院庭園)。

⑥支院・塔頭:  14ヶ寺、末寺: 427ヶ寺。

 ⑦寺域:  148,500㎡(45,000坪)。

⑧特色: 史跡。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 京都市左京区。

⑩訪問年:  昭和48年09月03日(月)・平成04年01月02日(木)・平成16年03月13日(土)。

 臨済宗には十四派の大本山があるが、その半数が京都市内に所在していて、南禅寺は妙心寺に次ぐ末寺を抱えている。末寺あっての大本山であって、末寺の寺院数が大本山の実質的な規模とも言えるが、大本山がその存在に相応しい寺観を整えているとは一概に言えない。同じ宗派の妙心寺は別格としても、境内の規模においては南禅寺よりも大徳寺の方が勝っていると感じるし、南禅寺の境内に水路閣(インクライン)があることに違和感を覚える。しかし、これも新旧の時代を象徴する景観なのかも知れない。

南禅寺は正応4年(1291年)、亀山法皇(1249-1305)の離宮を東福寺の第3世住持・無関普門(1212-1292)が開山した。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山でも別格の格式を誇る。法皇自らがもっこを担いで土を運んだとされ、寺の造営には並々ならぬ情熱が感じられるエピソードでもある。第2世となった普門の弟子・規庵祖円(1261-1313)が開山から9年の歳月を経て伽藍を完成させたようである。室町時代に入ると、夢窓疎石(1275-1351)が第6世住持となって南禅寺は隆盛を極めるが、その後の応仁の乱によって衰退を余儀なくされる。

江戸時代になると、黒衣の宰相で知られる以心崇伝(1569-1633)が南禅寺第270世住持となって寺の再興に尽力した。崇伝は徳川幕府の信頼も厚く、諸国の臨済宗寺院を統括する僧録に地位を得ている。その庇護に感謝する意味を込め、境内には東照宮も建立している。

中門から境内に入ると、勅使門・三門・法堂・方丈の伽藍が直線上に並んでいる。典型的な臨済宗寺院の伽藍配置であるが、放生池が勅使門の手前に残っているので創建時は南禅寺会館が建っている場所が参道であったようである。方丈は国宝で、勅使門と三門は重文である。三門の中は有料で拝観ができ、石川五右衛門が楼上から「絶景かな、絶景かな」と眺めた歌舞伎の名セリフが思い出されるが、藤堂高虎が寄進したもので五右衛門の時代の三門ではない。五右衛門と言えば、釜ゆでの刑の前に詠んだ歌があまりにも有名である。「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」 石川五右衛門

074臨済宗国泰寺派大本山国泰寺(十四大本山) 

①山号: 摩頂山。

 ②本尊: 釈迦如来像。

 ③開山開基: 慈雲妙意。中興:  雲庭。

 ④開山開基年: 永仁2年(1296年)。天文15年(1546年)。

 ⑤文化財: なし。

⑥支院・塔頭:  1ヶ寺、末寺: 34ヶ寺。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色:  七堂伽藍の景観。北陸三十三ヶ所観音霊場。

⑨所在地: 富山県高岡市。

⑩訪問年:  平成03年02月11日(月)・平成20年05月18日(日)。

 日本最初の禅宗寺院・建仁寺が創建されて約百年、鎌倉時代末期の永仁2年(1296年)、に北陸に臨済宗の国泰寺が慈雲妙意(1274-1345)によって建立された。妙意は鎌倉の建長寺や円覚寺で修行した後、紀州由良の西方寺(後の興国寺)を訪ねて日本普化宗の開祖・無本覚心(1207-1298)に参禅し、その法燈を能登に請来しての開基となった。

普化宗は臨済宗の一派で、時代劇に登場する虚無僧のスタイルに代表されるように、深編笠を被って尺八を吹き鳴らして行く様は、異様と言うよりも威容に見えたものである。明治初年の廃仏毀釈で普化宗は禁止されるが、戦後に京都にある日蓮宗系の明暗寺が復活を遂げているが、国泰寺が再び普化宗を兼ることはないようである。

鎌倉末期の嘉暦2年(1327年)には、後醍醐天皇から北陸第一の禅道場として「護国摩頂巨山国泰仁王万年禅寺」の勅額が下賜され、京都でも認められる臨済宗の寺院となった。室町時代に入ると、京都で勃発した応仁の乱は北陸にも飛び火して、国泰寺も兵火によって多くの堂宇を失う。天文15年(1546年)、雲庭和尚(生没不詳)が第27世住職として入寺し、後奈良天皇の勅願もあって現在地に移されて再興された。

明治になると一時、相国寺派に統合されたが、明治38年(1905年)には国泰寺派として独立して現在に至っている。北陸は同じ禅宗である曹洞宗の牙城でもあるが、臨済宗の大刹・国泰寺が存続していることは貴重であると思わざるを得ない。

総門を入ると、左手に観音堂が建ち、右手に研修道場が建っている。そして、正面の山門から放生池があって法堂・大方丈が一直線に建っている。臨済宗の典型的な伽藍配置であるが、放生池が山門の先にあるのは珍しく、禅堂が法堂に左手にあるのが特徴と言える。大方丈の奥の離れには開山堂が建っていて、石段の上には利生塔(三重塔)が聳えている。更に石段を上ると、天皇殿があって後醍醐天皇の勅願寺であった由緒を伝えている。

国泰寺には西田幾多郎や鈴木大拙が参禅していたことでも知られ、また、北陸三十三ヶ所観音霊場でもあることから立派な御詠歌まであった。

「家とんで きんじおこれる 国泰寺 庭のかしはも 色まさりけり」 御詠歌

075臨済宗大徳寺派大本山大徳寺(十四大本山)

①山号: 龍宝山。

 ②本尊: 釈迦如来像。

 ③開山開基: 宗峰妙超。中興:  一休宗純。

 ④開山開基年: 正中2年(1325年)。室町時代末期。

 ⑤文化財: 国宝堂宇(方丈・玄関、唐門)、重文堂宇(仏殿、法堂、三門、勅使門、浴室、経蔵、廊下、寝堂、庫裏、侍真寮、鐘楼)、特別名勝(方丈庭園)。

⑥支院・塔頭:  24ヶ寺、末寺: 200ヶ寺。

 ⑦寺域:  224,400㎡(68,000坪)。

⑧特色: 史跡。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 京都市北区。

⑩訪問年:  昭和50年12月22日(月)・平成03年12月31日(火)。

 鎌倉末期の正中2年(1325年)、播磨国の守護大名・赤松則村(1277-1350)が同国出身の禅僧・宗峰妙超(1282~1377)のために洛北紫野に法堂(小堂)を建てたのが始まりとされる。妙超禅師は、花園・後醍醐天皇の帰依を得て皇室との関わりが深まり寺運は大いに興隆し、南北朝時代の戦乱のさなかにも関わらず元弘3年(1333年)には七堂伽藍が建立された。妙超禅師の生没が真実とすると、95年を生きたことになる。近代以前の日本の僧侶の中では、江戸時代の天海僧正(1536-1643)の107歳に次ぐ年齢であり、驚愕するしかない。

 大徳寺は応仁の乱が勃発すると、京都の寺社がその被害にあったように大徳寺も例外ではかった。頓智話で知られる一休宗純(1394~1481)が住持となって、荒廃した寺を再興し、独自の禅風で人々に慕われた。室町時代末期には、堺の商人・千利休(1522~1591)が大徳寺に参禅し、侘び茶の境地を世に広めたのである。この頃境内には、戦国武将たちが競って塔頭を建て、大徳寺を発展させた。江戸時代初期には、殆どの伽藍の再建を終え現在も昔日の面影を伝えている。そのため国宝や重要文化財の堂宇が多く、臨済宗の伽藍配置の手本のような寺観であり、本寺を取り囲むように林立する塔頭群も素晴らしい。

臨済宗十四大本山の中で最も格式が高いのが大徳寺で、国宝建築に関しても一般公開していない塔頭・龍光院書院がある。名勝庭園に関しても公開していない塔頭が4ヶ寺もあって、格式が高いと言うよりも敷居が高いように思われる。

南門から境内に入ると、勅使門、三門、仏殿、法堂、本坊(庫裡・方丈)と直線上に建ち並ぶ。方丈と玄関、入口にある唐門は、江戸時代初期の建築であるが国宝堂宇である。他に重文の堂宇が11棟もあって、方丈庭園は庭園では数少ない特別名勝でもある。注目するべきは重文の三門で、下層部分が一休禅師の再建で上層部分は千利休の寄進である。利休が自像を三門の上層に安置したことから豊臣秀吉から切腹を命じられた話は有名である。武士でもない利休に切腹を命じたのは、秀吉の末路を象徴する事件であったと思う。

「規矩作法 守りつくして 破るとも 離るるとても 本を忘るな」 千利休

076臨済宗向嶽寺派大本山向嶽寺(十四大本山)

①山号: 塩山。正式寺名: 向嶽元中禅寺。

 ②本尊: 釈迦如来像。

 ③開山: 抜隊得勝、開基:  武田信成。

 ④開山開基年: 天授6年(1380年)。

 ⑤文化財: 重文堂宇(中門)、国宝絵画(達磨図)、名勝(境内庭園)

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 61ヶ寺。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。

⑨所在地:  山梨県甲州市。

⑩訪問年:  平成03年05月19日(水)。

山梨県の甲州市には有名な寺が多く、大善寺と恵林寺を参拝した後、向嶽寺を巡拝した。葡萄畑が点在する甲州独自の風景の塩ノ山の山裾に向嶽寺はある。南北朝時代の天授6年(1380年)、甲斐の守護・武田信成が抜隊得勝(1327-1387)を開山に迎え創建した。富士山に向かう場所に位置することから向嶽寺と名付けられたとされ、寺号の由来も独特である。

後亀山天皇(1383-1392)の勅願寺ともなり、南朝と関わりがあったようだ。抜隊禅師は29歳で出家するが、出雲・雲樹寺の孤峯覚明(1271~1361)に参禅して大悟した後、紀州・興国寺の無本覚心(1207-1298)に師事して普化宗の法燈を継いだとされる。近江・永源寺の寂室元光(1290-1367)や曹洞宗の能登・総持寺の 峨山韶磧(1275-1366)にも参禅して禅の奥義を極めたとされる。開山後の向嶽寺には、禅師を慕う雲水が千人も修行したようだ。

創建した武田家の滅亡後はその庇護を失うが、江戸時代に入って徳川家に保護されるが、天明2年(1782年)の大火で殆どの堂宇を失い、仏堂だけが残る有様になった。その後、細々ながら再建がなされ、現在の七堂伽藍が整ったのは近代のことである。明治初年の廃仏毀釈の折は、京都の南禅寺に属して一時避難をするが、明治41年(1908年)に臨済宗向嶽寺派として独立して、臨済宗の十四大本山に名を連ねた。

参道を行くと築地塀の中間に唯一の重要文化財である中門が閉ざされたまま建っていて、観光寺院とは一線を画した修行寺院の雰囲気が漂っている。境内は自由拝観できるが、国の名勝の庭園は非公開となっていている。通用門から広い境内に入ると、放生池があって屋根付きの橋が架かっている。境内の中央には、天明の大火後に再建された大きな二層の仏殿が建ち、大寺院の風格が感じられる。大正15年(1926年)上層部が火災で焼失しため、修復がなされ、国の重要文化財ではないが、甲州市の文化財となっているようだ。

向嶽寺を創建した武田信成は、甲斐武田氏11代目当主で生年不詳であるが、応永元年(1359年)に没したとされる。その後、19代目当主となった武田信玄(1521-1573)も寺を庇護した。その信玄の有名な和歌を諳んじ、滅亡した武田氏の歴史を振り返った。

「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 讎は敵なり」 武田信玄

077臨済宗妙心寺派大本山妙心寺(十四大本山)

①山号院号: 正法山。

 ②本尊: 釈迦如来像。

 ③開山: 関山慧玄、開基:  花園上皇。中興:  雪江宗深。

 ④開山開基年: 暦応5年(1342年)。中興年:  室町時代末期。

 ⑤文化財:  重文堂宇(仏殿・廊下、法堂、大方丈、小方丈・廊下、庫裏・廊下、寝堂、山門、浴室、勅使門、南門、北門)、国宝仏具(梵鐘)、名勝(方丈・境内庭園)。

⑥支院・塔頭:  40ヶ寺、末寺: 3,365ヶ寺。

 ⑦寺域: 330,000㎡(100,000坪)。

⑧特色: 史跡。七堂伽藍の景観。

⑨所在地:  京都市右京区。

⑩訪問年:  昭和48年08月31日(金)・平成04年01月02日(木)。

 初めて妙心寺の名を知った時は、日蓮宗の寺院かと思っていたが案内書を見て臨済宗の筆頭寺院であることを知り、京都を初めて訪ねた年に参拝した。開山は乞食をしながら修行を重ねた関山慧玄(1277-1360)で、花園上皇(1297-1348)が暦応5年(1342年)に離宮を禅寺として創建した。関山禅師は無相国師の諡号を得ているが、不立文字の人で、語録を残さず、ひたすら人材の育成に努めて臨済宗を大きく発展させた。その様子を見た夢窓国師(1275-1351)は、やがて臨済宗は彼の禅風に染まるだろうと予測している。

  妙心寺は応永の乱や応仁の乱によって堂宇は悉く焼失しするが、雪江宗深(1408-1477)が室町末期に再興した。雪江禅師の再興後は、多くの名僧を輩出して臨済宗を発展させ、その禅風が主流となって行く。戦国時代以降は、大徳寺と同様に諸大名が境内に塔頭を創建し、現在その数は40ヶ寺と大徳寺の倍に及ぶ。国宝の堂宇はないが、重要文化財の堂宇は14棟もあって、花園大学などを運営する大寺院である。

一般的には総門と称される南門を入ると、勅使門が建ちその先に放生池がある。そして、山門、仏殿、法堂、大方丈の伽藍が建ち並ぶ。殆どが江戸時代の建築であるが、禅宗の寺の中で、これほどの伽藍が揃っているのは他に大徳寺だけである。法堂の天井画「八にらみの龍」は、狩野探幽の作として知られ、鐘楼の梵鐘は国宝である。本寺を取り囲むように林立する塔頭は、退蔵院、桂春院、大心院の3ヶ寺以外は非公開であるが、その門前を眺めだけでも妙心寺の壮観さが伝わってくる寺観である。

 妙心寺には禅宗では珍しい花園流御詠歌があるが、真言宗の影響を受けて大正時代から始まったらしい。禅宗の寺院には保守的な一面が強く感じられるが、妙心寺の試みは新たな宗派への脱皮にも思われる。宗祖の関山禅師は風変りな禅僧であったが、名僧に変人が多いのも事実である。南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大燈国師)を経て関山禅師に継がれた法灯を「応燈関」と称するが、現在の臨済宗の殆どがこの系統に属するのである。

「鷲の嶺 法の御声は 花園の 皇寺の庭の 松にきくかも」 御詠歌

078臨済宗妙心寺派本山瑞巌寺(松島寺)

①山号:  松島青龍山。正式寺名: 瑞厳円福禅寺。

 ②本尊: 聖観音菩薩像。

 ③開山: 円仁、開基:  淳和天皇。中興:  法身性西。重興:  雲居希膺

 ④開山開基年: 承和2年(835年)。中興年:  鎌倉時代中期。重興年:  寛永13年(1636年)。

 ⑤文化財: 国宝堂宇(本堂[旧方丈]、庫裏・廊下)、重文堂宇(五大堂、御成門・太鼓塀、中門・太鼓塀)。

⑥支院・塔頭:  3ヶ寺、末寺: 大本山に含む。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。日本三景松島。

⑨所在地:  宮城県松島町。

⑩訪問年:  昭和63年07月12日(火)・平成02年05月11日(金)・平成05年04月03日(土)・平成10年11月27日(金)。

妙心寺派3,365ヶ寺の中で最も有名な寺は、松島の瑞巌寺で妙心寺派本山でもあり、東北の妙心寺派を束ねている。承和2年(835年)、天台宗の慈覚大師円仁(794-864)が開基した古刹で、真壁平四郎こと法身性西(生没年不詳)が松島に縁のあった前執権・北条時頼(1227-1263)の命で中興した。円仁が開基した時の寺号は松島寺と称されたようであるが、臨済宗に改宗されると円福寺と改められる。天台宗の松島寺はしばらく存続していたようで、臨済宗の円福寺との宗派抗争があったと言われる。

戦国時代を経て新しい領主となった伊達政宗(1567-1636)が、妙心寺から雲居希膺を迎えて再建する。これを契機に妙心寺派に属し、現在に続いている。再建に当って政宗は、海の防御を考え城郭の機能もたともされ、絢爛豪華な一面と合わせ堅固な伽藍配置である。現在は本堂となっている旧方丈、庫裡は国宝であり、東日本大震災の折は津波で消失したのではないかと心配したが、島々が防波堤の役割を担ったようで安堵した。

松島は小学校の遠足で初めて訪ねた名所であるが、小島に経つ五大堂の景観は今も忘れられない。「日本三景」を知らない人はいないと思うが、「日本三景」は江戸時代の儒学者・林春斎が書物で紹介して広く知られるようになった。「日本三景」には人工的な建物が不可欠で、宮島の厳島神社、天橋立の智恩寺と寺社景観がなければ「日本三景」に選ばれなかったと思う。特に松島は瑞巌寺あっての松島で、未来永劫に存続してものである。

松島と松島寺(瑞巌寺)を訪ねた文人墨客は数知れないが、特に有名な人物は源重之、西行法師、北条時頼、松尾芭蕉、貝原益軒であろう。芭蕉翁は感動に胸が詰まると同時に、古人に憚って句を詠まなかったとされる。そのかわり、同行した弟子の曾良の句を『おくのほそ道』に採録している。芭蕉翁は松島に1泊しか滞在していないが、瑞巌寺を再建した伊達政宗は数え切れない月日を松島で過ぎし、和歌も多く詠み残している。

「心なき 身にだに月を 松島や 秋のもなかの 夕ぐれの空」 伊達政宗

079臨済宗天龍寺派大本山天龍寺(十四大本山)

①山号: 霊亀山。正式寺名: 天龍資聖禅寺。

 ②本尊: 釈迦如来像。

 ③開山: 夢窓疎石、開基:  足利尊氏。

 ④開山開基年: 康永4年(1345年)。

 ⑤文化財: 特別名勝(境内庭園)。

⑥支院・塔頭:  6ヶ寺、末寺: 104ヶ寺。

 ⑦寺域:  93,000㎡(28,182坪)。

⑧特色: 世界文化遺産。史跡。七堂伽藍の景観。

⑨所在地:  京都市右京区。

⑩訪問年: 昭和50年12月23日(火)・平成04年01月04日(土)。

 京都で人気が高いのは、清水寺のある東山、銀閣寺のある哲学の道、嵐山を含めた嵯峨野ではないかと思う。その嵯峨野で最も大きな寺が天龍寺で、世界遺産に登録されている。康永4年(1345年)、足利尊氏(1305-1358)が宿敵であった後醍醐天皇(1288-1339)や南北朝の戦乱で亡くなった人々の霊を弔うために後嵯峨天皇(1220-1272)・亀山天皇(1249-1305)の離宮跡に夢窓疎石(1275-1351)を開山として創建した。伽藍造営の資金を得るために夢窓国師の進言もあって、尊氏は「天竜寺船」を造って通商貿易を行ったエピソードもある。

夢窓疎石は七朝帝師とも称され、生前没後に7回も天皇から国師号を賜ったことに由来する。夢窓国師は作庭の名人でもあり、臨済宗寺院に庭園を普及させたのも禅師である。国師が作庭したと伝わる寺は数多あるけれど、天龍寺の庭を置いてその傑作はないと思う。鎌倉の建長寺と瑞泉寺、山梨の恵林寺、多治見の永保寺、高知の竹林寺は国の名勝に指定されているが、天龍寺・西芳寺庭園は特別名勝で国宝と重要文化財の違いと同様である。

盛時の天龍寺は、寺域950,000㎡(287,880坪)、支院・塔頭150ヶ寺を誇ったとされるが、度重なる火災や応仁の乱の戦火もあって衰退する。幕末の元治元年(1864年)、禁門の変の戦場ともなって大打撃を受け、勅使門を残して伽藍の殆どを焼失する。大方丈は明治32年(1899年)、法堂は明治33年(1900年)、小方丈は大正13年(1924年)、多宝塔は昭和9年(1934年)に再建されるが、寺域は往時の1/10に縮小し、境内の塔頭は6ヶ寺まで減少した。

天龍寺を2度目に参拝した折は、雪が降った翌日で庭園の美しさは水墨画のようで感嘆の声を上げたことを思い出す。天龍寺は紅葉の名所としても知られ、テレビニュースで放映を見るたびに憧れは募る。京都の名所で唯一眺めていないのが天龍寺と嵐山の紅葉であり、今度来ようと洒落るだけである。

天龍寺の近くに後醍醐天皇の命によって夢窓禅師が建武2年(1335年)に開基した臨川寺がある。禅師はこの寺で76歳の天寿を全うしたため、臨川寺は開山堂も兼ねている。後醍醐天皇の7回忌法要を天龍寺で務め、尊氏からも慕われた禅師は名僧中の名僧である。

「さかりをば 見る人おおし 散る花を 後を訪うこそ 情けなりけり」 疎石

080臨済宗永源寺派大本山永源寺(山上寺・十四大本山)

①山号: 瑞石山。

 ②本尊: 世継観世音菩薩像(秘仏)。

 ③開山: 寂室元光、開基:  佐々木氏頼。中興:  一糸文守。

 ④開山開基年: 康安元年(1361年)。中興年:  寛永20年(1642年)。

 ⑤文化財: 重文仏像(寂室和尚坐像)。

⑥支院・塔頭:  1ヶ寺、末寺: 129ヶ寺。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色:  七堂伽藍の景観。紅葉の名所。

⑨所在地: 滋賀県東近江市。

⑩訪問年: 平成17年10月02日(日)。

 平成17年(2005年)、「設備屋放浪記」の旅で四日市に住み、休日は毎週のように名所史蹟を訪ね歩いた。この日も多賀大社を参拝した後、琵琶湖に近い西明寺、金剛輪寺、百済寺の「湖東三山」を巡拝し、最後に永源寺を参拝した。「湖東三山」の紅葉が見事であったが、永源寺の紅葉も美しく、愛知川の永源寺ダムの水面に映る紅葉が良かった。

永源寺は康安元年(1361年)、南北朝時代の近江の守護大名・佐々木(六角)氏頼(1326-1370)が寂室元光(1290-1367)を開山に開基した寺である。寂室禅師は、元のクブライの特使として来朝していた一山一寧(1217-1317)が日本に定住し、京都・南禅寺の3世住持となった折、師事した。その影響があったのか、寂室禅師は元寇前の元に渡って修行して帰国する。その後、25年間も四国地方や中部地方を行脚し、京都の天龍寺や鎌倉の建長寺の住持に声がかかったそうであるが、最終的には永源寺を開山して隠棲する。

永源寺も中世の戦乱で衰退した後、江戸時代初期に一糸文守(1608-1646)によって中興され、現在の寺観を呈している。明治になると、政府の政策によって京都の東福寺に編入されるが、間もなく永源寺派として独立している。

太鼓橋を渡って境内に入ると、石段の先に小さな総門が建ち、永源寺では最古の重層山門が聳えていた。その左には鐘楼、通用門の先には禅堂、そして左側には庫裡・本堂・法堂・開山堂と諸堂が山際に軒を重ねている。禅堂の裏には、塔頭の含空院、標月亭が建っていて、そんなに広くない境内には堂宇伽藍が林立している。国の重要文化財の堂宇はないが、山門・鐘楼・開山堂・本堂・法堂・経堂は江戸時代後期の建築であり、茅葺屋根の本堂の大きさに驚いた。方丈を兼ねているようで、彦根藩の井伊家が寄進したとされる。

境内を散策していると、法堂の堂前に松尾芭蕉翁の句碑が経っていた。句碑には「こんにゃくの さしみもすこし 梅の花」と刻まれている。この句は元禄6年(1693年)、江戸深川の芭蕉庵が再建された翌年に詠まれた句で、永源寺とは関わりがない。梅の木が境内にあることを因んで建てられた句碑であると思うが、近江をこよなく愛した芭蕉翁にとっては、嬉しい句碑と思っているに違いない。梅の咲く頃に再び訪ねたい大本山と感じた。

081臨済宗方広寺派大本山方広寺(奥山半僧坊・十四大本山)

①山号: 深奥山。正式寺名: 方広萬寿禅寺。

 ②本尊: 釈迦如来坐像(重文)。

 ③開山: 無文元選、開基:  奥山朝藤。中興:  龍水。

 ④開山開基年: 建徳2年(1371年)。中興年: 嘉永3年(1850年)。

 ⑤文化財: 重文堂宇(七尊菩薩堂)。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 168ヶ寺。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 静岡県浜松市。

⑩訪問年: 平成19年01月15日(月)。

方広寺は臨済宗・十四大本山の中でも知名度が低く、地味な存在と思っていたが、参拝をして十四大本山に相応しい七堂伽藍には感服した。浜名湖から愛知県との県境が近い山間部へと入った奥山という所に方広寺はあった。奥山半僧坊の名で知られているようで、道路の案内標識にもその名は記されていた。

方広寺は建徳2年(1371年)、地元の豪族・奥山朝藤(生没不詳)が、後醍醐天皇の皇子・無文元選(1323-1390)を開山に招き開基した。無文禅師は父・後醍醐天皇の崩御後、京都の建仁寺で出家し、20歳の時に博多の聖福寺で修業をして元に渡っている。帰朝後は布教のために全国各地を巡錫し、方広寺を開創して第1世となって没した。

創建後、約200年は大きな変化はなかったようであるが、天正15年(1587年)に後陽成天皇(1571-1617)の勅願所となっている。江戸時代には江戸幕府から朱印状が与えられて保護されるが、度重なる火災で再建を繰り返す。明治時代になると、廃仏毀釈の影響もあって京都の南禅寺派に属するが、明治36年(1903年)に方広寺派として独立している

参道の入口には「奥山半僧坊大権現」と書かれた鳥居があって、神仏混合の歴史を感じさせる。無文禅師が元から帰国する際、船の難破を守ったとれる守護神とされる。黒塗りの総門を入ると、朱塗りの重層山門が参道脇に建ち、小川に架かる小さなアーチ型の石橋には五百羅漢像が置かれていた。その山際には朱色の三重塔が建ち、臨済宗の寺では塔建築は珍しい。塔好きの私には、大正時代の建築であっても「全国塔めぐり」を達成したと思っていたので、興奮を抑えられなかった。

三重塔を写真に収め大きな本堂を参拝したが、他の臨済宗の本山は法堂と仏殿で建てているが、方広寺は本堂が両伽藍を兼ねているのだろう。殆どの堂宇が江戸後期か明治・大正の建築であるが、唯一残る七尊菩薩堂は室町時代の社殿建築で国の重要文化財である。境内には山の斜面には、らかんの庭には五百羅漢像が立ち並び、その中に与謝野晶子の歌碑があった。晶子女史は寺めぐりを好んだようで、寺で詠まれた短歌の句碑は多くある。

「奥山の しろがねの気が 堂塔を あまねくとざす 朝ぼらげかな」 与謝野晶子

082臨済宗相国寺派大本山相国寺(十四大本山)

①山号: 萬年山。正式寺名: 相国承天禅寺。

 ②本尊: 釈迦如来像。

 ③開山: 春屋妙葩、開基:  足利義満。中興:  西笑承兌。

 ④開山開基年: 永徳2年(1382年)。中興年:  天正12年(1584年)。

 ⑤文化財: 重文堂宇(本堂[法堂]・玄関廊下)

⑥支院・塔頭:  13ヶ寺、末寺: 111ヶ寺。

 ⑦寺域: 132,000㎡(40,000坪)。

⑧特色:  七堂伽藍の景観。

⑨所在地:  京都市上京区。

⑩訪問年: 平成03年12月31日(火)。

 相国寺は京都の一等地に立地しながら、大寺院の中では地味な存在である。京都御所の北に位置しながらも同志社大学の敷地が中間にあるので、相国寺まで歩こうとする観光客は少ないのが実状である。境内面積は、京都市内の中心にありながら約4万坪と桁はずれに広い。観光寺院のドル箱でもある金閣寺と銀閣寺を管理しているので、本寺が観光寺院化しなくても成り立っているのかも知れない。

室町幕府3代将軍・足利義満(1358-1408)が花の御所の隣接地に永徳2年(1382年)から10年の歳月を費やして相国寺を開基する。開山を春屋妙葩(1312-1388)に依頼した所、師の夢窓疎石((1275-1351)を開山1世とすることで承諾したと言われる。夢窓禅師が入滅して31年も経た時であり、前代未聞の開山となったが、禅師の偉大さを物語る逸話である。

将軍職は宰相を兼ねていたことから、その別称でもある相国が寺号に用いられている。日本国王まで名乗った義満が、その権威の証とし建立した相国寺の寺域は約144万坪もあったとされ、木造建築では歴史上最も高い109mの七重大塔も建てられた。伽藍完成から2年後に多くの伽藍を火災で失い再建されるも、応永10年(1405年)には落雷で七重大塔が焼失した。4代将軍・足利義持(1394-1423)によって3代目の七重大塔が建てられるが、これも間もなく焼失し、同じ京都の醍醐寺五重塔が千年も経ているので残念に思われる。

応仁の乱では細川方の陣地となったため、4度目の焼失の憂き目に遭っているが、天正12年(1584年)、廃寺寸前の相国寺の伽藍を西笑承兌(1548-1608)が中興した。江戸時代にも大火があって、西笑禅師が再建した法堂と一部の建築が残されたようである。

土塀に囲まれた勅使門と総門が並んで建っていて、勅使門の先に小さな石橋が架けられた放生池がある。直線上に三門跡と仏殿跡があって、先には重層の大きな法堂が建っている。法堂の奥には方丈と庫裡が建ち、その横には開山堂もある。右奥には昭和59年(1984年)に開館された承天閣美術館があり、国宝や国の重要文化財など多くの寺宝を展示している。金閣寺と共に相国寺には、義満の栄華が残されていて辞世の和歌を思い出す。

「よろつ代と ちきりし花も さらにいま 君かみゆきに かぎしなき哉」 義満

083臨済宗佛通寺派大本山佛通寺(十四大本山)

①山号: 御許山。

 ②本尊: 釈迦如来像。

 ③開山: 愚中周及、開基:  小早川春平。再興:  小早川隆景。

 ④開山開基年: 応永4年(1397年)。再興年:  安土時代。

 ⑤文化財: 重文堂宇(含暉院地蔵堂)。

⑥支院・塔頭:  5ヶ寺、末寺: 51ヶ寺。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。紅葉の名所。

⑨所在地:  広島県三原市。

⑩訪問年: 平成25年10月27日(日)。

「設備屋放浪記」の8年目は広島に転勤となって、中国や四国の未踏地を旅する機会に恵まれた。初日の日曜日は、臨済宗十四大本山の最後となった佛通寺に参拝した。建仁2年(1202年)、栄西禅師が日本最初の臨済宗の寺院・建仁寺を開基してから約200年、佛通寺は臨済宗十四大本山の最後の創建となった。

佛通寺は応永4年(1397年) 、安芸国沼田の領主・小早川春平(?-1402)が丹波国福知山の天寧寺に住持していた愚中周及(1323-1409)を開山に招き開基した。愚中禅師は夢窓国師に師事し、その弟子・春屋妙葩の影響も受けるが、元に渡って金山寺の即休契了に師事して30歳の時に帰国する。即休契了の尊号が佛通大徳であったことに因み、寺号を佛通寺としたのであった。元に渡った名僧は、帰国後に地方の京都や鎌倉で活躍しないで、開山した地方の寺に留まる例が多い。愚中周及も開基した天寧寺に戻って生涯を閉じている。禅僧の多くは地位や名誉を求めず、居心地の良い環境で仏道に専念したと思われる。

愚中禅師が去った後、領主の小早川氏の外護によって発展し、中国4ヶ国の太守となった毛利氏の時代は、塔頭88ヶ寺、末寺3,000ヶ寺もあったと言われる。特に小早川隆景(1533-1597)は、寺の再興に尽くして中興の祖とも呼ばれる。関ヶ原の合戦後、毛利氏は安芸の領地を失うが、新たに安芸国に入封した浅野氏も佛通寺を庇護した。明治になると、天龍寺派に属するが明治38年(1905年)に佛通寺派として独立している。

佛通寺は標高610mの大峰山の中腹にあって、夢窓国師が開山した美濃多治見の虎渓山(永保寺)を思わせる景観である。仏通寺川に架かる橋を渡ると、山門が直前に建ち、その先に仏殿がある。仏殿の裏に大方丈と小方丈が建ち、大玄関を経て庫裡や大書院の堂宇が軒を連ねている。臨済宗の十四大本山でなければ拝観することはなかったと思うと、感慨も一入である。川を隔てた山裾にも堂宇は建っていて、多宝塔・開山堂・地蔵堂があったが、地蔵堂は国の重要文化財で室町時代の建築物として境内で残る。佛通寺は中国観音霊場の第12番札所でもあり、その御詠歌が印象に残る。

「我が罪を お許しうけて 今日よりは 仏に通う 心うれしき」 御詠歌

084曹洞宗大本山永平寺

①山号: 吉祥山。

 ②本尊: 釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来像。

 ③開山: 希玄道元、開基:  波多野義重。中興:  義雲。

 ④開山開基年: 寛元2年(1244年)。中興年:  南北朝時代。

 ⑤文化財:  国宝書籍(普勧坐禅儀)。

⑥支院・塔頭:  1ヶ寺、末寺: 14,559 ヶ寺。

 ⑦寺域: 330,000㎡(100,000坪)。

⑧特色:  七堂伽藍の景観。寺名を称する門前町。

⑨所在地: 福井県永平寺町。

⑩訪問年:  昭和49年06月04日(火)・平成03年02月09日(土)・平成19年08月04日(土)・平成25年09月22日(日)。

 日本の禅宗には、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三派があるが、最も大きな勢力を誇るのが曹洞宗である。その大本山が福井県の永平寺と、神奈川県の総持寺とに分かれているが、会社に例えるならば、福井の永平寺が本社で総持寺は東京支店とも言える。臨済宗は鎌倉幕府や室町幕府を中心とした守護大名や戦国武将の帰依が深かったが、曹洞宗は豪商や豪農の帰依が篤く、中間層の信者が多いように感じられる。

鎌倉時代の貞永元年(1232年)、南宋で曹洞禅を学び帰国した希玄道元(1200-1253)は、京都深草の極楽寺を興聖寺と改め、日本に曹洞宗を開創した。しかし、かつて修行した比叡山の圧力や都の近い環境は、道元禅師の目指す曹洞禅の道場に相応しいとは言えなかった。そんな折、越前の地頭・波多野義重(?-1258)の招聘もあって寛元2年(1244年)、永平寺を創建する。ひたすら座禅に専念する「只管打坐」は、曹洞宗のモットーでもあり、修行に専念する深山幽谷の環境が曹洞宗の発展に大きく寄与した。

道元禅師は自分が癌であることを知ると、年長者ながら弟子の弧雲懐奘(1198-1280)に寺を任せ、京都に戻った年に53歳で没している。第2世弧雲懐奘や第3世徹通義介(1219-1309)によって伽藍の建立が整うが、波多野氏の勢力が弱まると衰退を余儀なくされる。その後、第5世となって義雲(1253-1333)が中興し、後円融天皇から「日本曹洞第一道場」の勅額・論旨を受けるまでになった。しかし、応仁の乱の兵火などで伽藍を失うが、その都度再建されて曹洞宗の大本山としての面目を保ち、仏教界を現在に至っている。

永平寺には4回も訪ねているが、参拝する度に新たな発見があったりする。私が第一の目標とする国宝の伽藍や重要文化財の堂宇はないが、山の斜面に建てられた堂宇は回廊で結ばれていて、独自の伽藍配置に他の大寺院にはない魅力を感じる。拝観料を払って境内に入ると、掃除に勤しむ修行僧の姿を見て、その緊張感が伝わって来る。観光寺院化された永平寺ではあるが、道元禅師の影響が門前の歌碑にも感じられて魅了される。

「尋ね入る みやまの奥の 里なれば もとのすみなれし みやこなりけり」 道元

085曹洞宗大本山総持寺祖院(能登祖院)

①山号: 諸岳山。

 ②本尊: 釈迦牟尼仏像。

 ③開基: 行基。開山:  螢山紹瑾。

 ④開基年: 奈良時代。開山年:  元亨元年(1321年)。

 ⑤文化財:  なし。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 永平寺に含む。

 ⑦寺域: 66,000㎡(20,000坪)。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 石川県輪島市。

⑩訪問年:  昭和55年04月05日(土)・平成02年06月24日(日)・平成19年07月29日(日)。

  能登半島には古刹の寺院が多く、曹洞宗の総持寺祖院は大概の観光客や私のような寺社めぐりをする求道者には欠かせない寺である。祖院の近くには、五木寛之氏の『百寺巡礼』に選ばれた本誓寺があったので参拝したが、浄土真宗の小さな寺で茅葺きの本堂以外は魅力を感じられなかった。「日本百名山」と同じく個人が選ぶ百選には偏見も多く、百名山や百ヶ寺の選定は無理がある。私は『それぞれの百名山』の執筆を終え、今はこの本でもある『名刹本山100ヶ寺』を書いている。

総持寺祖院を最後に訪ねた年は、能登半島地震の4ヶ後でもあって伽藍の被害を目の当たりにして大きなショックを受けた。形ある物はいつか壊れ、命ある物はやがて死ぬ運命であるが、残ってほしい建造物は修復や再建の余地もあるので1日も早い復興を願った。

総持寺は鎌倉時代末期の元亨元年(1321年)、行基菩薩が能登に開創した諸岳寺を螢山紹瑾(1268-1325)が曹洞宗に改めて開山された。螢山禅師は8歳で永平寺第3世・徹通義介(1219-1309)の小僧となり、第2世・孤雲懐奘(1198-1280)によって13歳で得度したとされる。比叡山で天台を学び、京都東福寺や紀州興国寺で臨済禅の修行もした後、師の義介が加賀に開山した大乗寺に入り、能登の永光寺の住持を経て総持寺の開山に至っている。

大寺院の面影を残す重層の山門を入ると、七堂伽藍の甍が広い境内の敷地に聳えている。左側の僧堂の屋根は、ブルーシートに覆われて地震の痛々しさが残っていたが、正面の法堂は大丈夫なようで、右側の仏殿も傾いてはいなかった。臨済宗の大本山は直線上に伽藍を配置しているが、曹洞宗の伽藍配置は各寺院によって異なる。臨済宗寺院にはあまり見られない僧堂があることが特徴と言える。「只管打坐」を曹洞宗ならではの堂宇である。

江戸時代から越前の永平寺と能登の総持寺は、曹洞宗の大本山として並立して存続したが、明治44年(1911年)なると総持寺は布教活動のために横浜鶴見に大本山を移し、曹洞宗を都心に広め、臨済宗を凌ぐ禅宗へと発展する。東日本は禅宗寺院の7割は曹洞宗であり、横浜に拠点を構えた成果のように感じる。「将来を 見つめた寺に 能登の雪」 陀寂

086曹洞宗大本山総持寺 

①山号: 諸岳山。

 ②本尊: 釈迦如来像。

 ③開基: 行基。開山:  螢山紹瑾。重興:  石川素童。

 ④開基年: 奈良時代。開山年:  元亨元年(1321年)。重興年:  明治44年(1911年)。

 ⑤文化財: 重文絵画(菩婆達多像)。

⑥支院・塔頭:  3ヶ寺、末寺: 永平寺に含む。

 ⑦寺域: 500,000㎡(151,500坪)。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 横浜市鶴見区。

⑩訪問年:  平成02年06月24日(日)。

 江戸時代末期になると能登総持寺の貫主は、塔頭5院の住持が貫主を輪番する輪住制から権限をもった独住制となった。第4世貫主となった石川素童(1841-1920)は、曹洞宗の管長も兼ねていたので、時代の推移を洞察して京浜に大本山を移転すると言う前代未聞の大挙を成し遂げるのである。それは明治44年(1911年)の事で、総持寺が移転先に選んだのが鉄道もあって交通の便が良かった横浜市鶴見であった。そこに約15万坪の敷地を確保して伽藍の造営が始り、昭和40年(1965年)に大祖堂が完成して造営をほぼ終えている。

曹洞宗には道元禅師の禅風を守る一派と、日本達磨宗の一派が永平寺で覇権を争った歴史があるが、現在は永平寺派と総持寺派とに末寺は分かれている。名目上の大本山は永平寺であるが、経済的な優位は鶴見大学などを運営する総持寺に軍配が上がる。

曹洞宗には恐山の円通寺、豊川稲荷の妙厳寺、袋井の可睡斎、巣鴨の高岩寺、房総の日本寺などユニークな末寺が多く、大船の観音寺など近年に創建された寺もある。弘前の長勝寺、秋田の天徳寺、黒羽の大雄寺、金沢の瑞龍寺、赤穂の花岳寺、広島の國泰寺など江戸時代に大名が創建した大寺院が多いのも曹洞宗の特徴とも言える。

 総門にあたる三松関を入ると、大きな重層の三門が建ち、向唐門を潜った先の白塀にも門が続く。その正面に3ヶ所の中門があったが、門の数では日本一の寺であろう。朝廷から勅使を迎える時代は終わったのに、9ヶ所もある門は不思議に思われた。その門の1つの中雀門を入ると、正面に仏殿が聳えていて、その横に大祖堂が仏殿を凌ぐ大きさで建っている。仏殿は一般寺院では本堂にあたる堂宇であるが、その本堂よりも開祖・道元禅師と太祖・螢山禅師を祀る堂宇が大きいのは、浄土宗や浄土真宗の影響があったと思われる。

 境内には売店があって、様々なグッズが販売されていて私は「般若心経」が刺繍されたネクタイを購入した。総持寺の商売熱心さには驚かされたが、今後の寺院は檀家をあてにしない自立の時代が求められているのは確かである。保育園を運営する寺院もそうであるが、何よりも地域の福祉に貢献することが寺院の役割だと思う。

「総持寺に 寺の未来を 感じ取る ネクタイ一本 今も愛用す」 陀寂

087日蓮宗総本山久遠寺

①山号院号: 身延山法華院。

 ②本尊: 三宝尊(題目宝塔・釈迦如来・多宝如来)。

 ③開山: 日蓮、開基:  南部(波木井)実長。中興:  日朝。

 ④開山開基年: 弘安4年(1281年)。中興年:  文明7年(1475年)。

 ⑤文化財: 国宝絵画(夏景山水図)。

⑥支院・塔頭:  44ヶ寺、末寺: 4,657ヶ寺。

 ⑦寺域:  不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。ロープウェイ。桜の名所。

⑨所在地: 山梨県身延町。

⑩訪問年: 平成22年04月01日(木)。平成29年09月02日(土)。

 現在日本の仏教は、観光寺院となった華厳宗や律宗などの奈良仏教、平安時代初期に開宗された天台宗と真言宗の平安仏教、鎌倉時代に開宗された臨済宗・浄土宗・浄土真宗・曹洞宗・日蓮宗・時宗の鎌倉仏教に包含される。その中で在家の宗教団体を含め、最大の信者を有するのが日蓮宗である。公明党などはその在家に支えられているが、その大本山とは絶縁したようで、日蓮宗の総本山・身延山久遠寺は存在感がある。

日本の名数には、「日本三大霊場」と称される有名な霊場があり、選ばれたいるのは恐山・比叡山・高野山である。しかし、寺院の規模を考えると、恐山は他の霊場に肩を並べる規模ではなく、私は身延山を恐山と入れ替えたいと思っていた。日蓮宗には偏見が多く、その宗旨には賛同できない面もあるが、その宗旨を信奉する人々が多いので無視はできない。

身延山には私が制覇したいと思うロープウェイがあり、「日本百名山」を登っていた時期とも重なり、身延山の山頂に立つことも目標であった。桜まつりと重なってリャトルバスが運行されていて、境内は多くの観光客や参拝客で賑わっていた。

身延山は日蓮聖人(1222-1282)が地元の豪族・南部実長(1222-1297)の招きによって開基し、晩年の9年間を過ごした地である。聖人は安房国小湊に生まれ、12歳で地元の清澄寺で得度した後、比叡山で修行を重ね、高野山や奈良の古刹を遊学して清澄寺に帰山している。建長5年(1253年)、31歳の時に清澄寺に戻った聖人は、「南無妙法蓮華経」の題目を唱える法華宗(日蓮宗)を立教開宗したとされる。承安5年(1175年)、法然上人(1133-1212)が「南無阿弥陀仏」の名号を唱えることを広めた時から78年後のことであった。

その後、京都や鎌倉で布教活動を行うが、過激な聖人の言動に対して鎌倉幕府は佐渡に流刑する。かつて、浄土宗を開創した法然上人に対する処罰よりも厳しいものとなった。鎌倉幕府の迫害にもめげず、佐渡から戻った聖人は関東を中心に布教を続ける。身延山を拠点とした時、病気の療養で常陸に向かう途次、武蔵国の信徒・池上宗仲邸で波乱に満ちた60年の生涯を閉じる。後事は、随行した六老僧に託されるが、後継者を指名しなかったこともあって、日蓮宗は六老僧がそれぞれの派閥を形成し、近年には13ヶ寺の門流に分かれ、総本山の久遠寺を除くと大本山が20ヶ寺も存在する。真言宗の18ヶ寺本山よりも多く、在家の新興教団を含めると複雑な宗派となっている。

 総門を入ると門前町が形成され、大きな三門を潜り石段を上って行くと、五重塔などの七堂伽藍が目に飛び込んで来る。殆どが近年の再建であるが、壮大な伽藍群には圧倒されるが、その伽藍に咲く桜が極楽浄土を彷彿とさせる。正面の本堂は、日蓮聖人700遠忌の昭和60年(1985年)に建築された堂宇で、間口32m・奥行51mの大建築である。

諸堂を拝して、本堂の裏側にある身延山ロープウェイへと向かった。ライバルの比叡山には、京都八瀬からケーブルカーとロープウェイを乗り継ぎ入るルートと、大津坂本側からケーブルカーで上るルートがある。高野山はケーブルカーのみで、どちらかと言えば空中を移動するロープウェイの方が面白い。身延山ロープウェイは、山麓の久遠寺駅から山頂の奥之院駅まで全長1,665mの距離を結ぶ。定員45名の中規模のゴンドラであるが、観光用のロープウェイの搭乗が51回目となった喜びは少年のままである。山頂の奥之院には、仁王門と思親閣の堂宇が建っていて、聖人が風雨をいとわず登頂して両親を偲んだと言う。

標高1,153mの山頂から眺める桜は美しく、久々に春爛漫の光景を満喫したような気がする。ロープウェイで降りてから境内に点在する塔頭をめぐったが、44ヶ寺もある塔頭の内で8ヶ寺が宿坊を兼ねていて、若い頃に夢中となったユースホステルも含まれていて懐かしく感じた。因み比叡山には宿坊は1ヶ寺だけで、ホテルのような延暦寺会館があるだけである。高野山には温泉のある宿坊も含めると52ヶ寺もあって、その差は歴然としている。

私は真宗大谷派の末寺を菩提寺とする家に生まれ、空海大師を尊敬して真言宗を個人的には信奉している。禅宗の寺院も好きで、観光寺院化した奈良の寺院も好きである。しかし、日蓮宗の寺院には信仰的な距離を置いていたが、今回の参拝で桜の花の美しさは宗派を超えた存在に思えた。生け花の文化は、宗派に関係なく日本の寺院に定着して来たように、唱える文言が「般若心経」と「南無妙法蓮華経」の違いだけで仏教の本質に変りがないと痛感した。日本の仏教宗派にはそれぞれの流儀があるが、柏手を打って済ませるのが日本古来の神社信仰があるので、神仏混合を標榜する日蓮宗でも同様と認識した。

久遠寺を初参拝した7年後、久遠寺の境外塔頭・敬慎院のある標高1,982mの七面山に登頂した。七面山は「日本二百名山」に選ばれた山梨屈指の霊山でもあり、「日本三百山」の目標としている私にとっては憧れの山で、敬慎院の現状も確認したかった。山頂直下の台地に建つ敬慎院は、七堂伽藍が整った寺観で在家の新興団体が建立した様である。

御朱印を頂戴する時も係員の懇切丁寧な対応は、2時30分を登って来た登山者に対する配慮にも思われた。下山途中には、「南妙法蓮華経」を唱えながら講中を組んで登って来る信者もいて、その繁栄ぶりは「四国八十八ヶ所霊場」を思い起こさせる。霊場や霊山の参拝や登拝は、白装束に身を包み、題目や名号を唱えて登るのが基本のように思われる。最近の私は、「六根清浄」を唱えているが、人それぞれの価値観があって登拝するものだと思うが、七面山には日蓮聖人が詠んだ和歌が脳裏を過った。

「心から よこしまに降る 雨あらじ 嵐こそ夜半の 窓をうつらめ」 日蓮

088日蓮宗大本山池上本門寺(七大本山)

①山号院号: 長栄山大国院。

 ②本尊: 三宝尊。

 ③開山: 日蓮、開基:  日朗・池上宗仲。

 ④開山開基年: 弘安5年(1282年)。

 ⑤文化財:  重文堂宇(五重塔、宝塔)。

⑥支院・塔頭:  23ヶ寺、末寺: 総本山に含む。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 東京都大田区。

⑩訪問年:  平成03年03月24日(日)。

 日蓮宗は身延山久遠寺を総本山とする一派が日蓮宗の主流派で、池上本門寺はその七大本寺の筆頭とも言える。七大山の他に本山が7ヶ寺、日蓮聖人の由緒寺院が42ヶ寺あって久遠寺を頂点するピラミット状の組織を構成している。

鎌倉時代後期の弘安5年(1282年)、武蔵国池上郷の奉行・池上宗仲(生没年不詳)が自邸で没した聖人を開山として邸宅に一宇を建立された。その後、聖人の遺言もあって、日朗(1245-1320)が宗仲と共に伽藍を建立して、関東における布教活動の殿堂とした。

本門寺は鎌倉・室町時代を通じて関東武士の庇護を受け、日蓮宗の信徒であった戦国武将の加藤清正(1562-1611)は祖師堂を建立している。天台宗と浄土宗に軸足を取っていた徳川家康・秀忠の父子も、日蓮宗は侮れないと感じたようで本門寺を外護している。皮肉なことに明治維新の時は、江戸幕府の代表であった勝海舟(1823-1899)と、倒幕派の代表であった西郷隆盛(1828-1877)が江戸城の無血開城を会談した場が本門寺であった。

太平洋戦争の東京空襲によって、本門寺も多くの堂宇伽藍を失うが、五重塔と宝塔などが残されて現在は国の重要文化財に指定されている。戦後は堂宇の再建が行われ、昭和39年(1964年)に鉄筋駒リート造で大堂(祖師堂)、昭和44年(1969年)に本殿が建てられている。そして、昭和52年(1977年)には仁王門が建てられて日蓮宗大本山の格式が蘇った。

 空襲を免れた総門を入ると、仁王門・大堂・本堂の大建築が直線上に並び建ち、臨済宗の伽藍配置と酷似している。臨済宗の寺院では殆どなかった五重塔が、徳川秀忠(1579-1632)の寄進から384年の時を経て屹立している。関東では最も古い五重塔で、地震で傾いたために徳川綱吉が移転修復をした後も修復が重ねられて来たとそうである。

境内の墓地には、プロレスラー・力道山の墓があり、仁王門の力士像はアントニオ猪木がモデルとされプロレスラーと関わりが深いようだ。境内には松涛園の大庭園があり、中には茶室が4棟も建っているそうである。江戸時代の俳人・榎本其角(1661-1707)の句碑も建っていると聞いたが、一般公開されていないので拝観出来なかったのが残念である。

「夕立や 田をみめぐりの 神ならば」 榎本其角

089日蓮宗大本山法華経寺(旧中山妙宗本山・七大本山)

①山号: 正中山。

 ②本尊: 十界曼荼羅。

 ③開山開基: 常修院日常。中興:  日祐。

 ④開山開基年: 文応元年(1260年)。中興年:  室町時代。

 ⑤文化財:  国宝書籍(立正安国論)、重文堂宇(祖師堂、五重塔、法華堂、四足門)。

⑥支院・塔頭:  16ヶ寺、末寺: 総本山に含む。

 ⑦寺域:  600,000㎡(181,818坪)。

⑧特色:  七堂伽藍の景観。門前町。

⑨所在地: 千葉県市川市。

⑩訪問年:  平成03年03月17日(日)。

 千葉県の市川には、日蓮宗の本山・弘法寺と大本山・法華経寺があり、先ずは大本山を参拝することにした。日蓮宗は法華宗とも称され、『法華経』の経典が第1とされいてる。聖徳太子の頃から日本に伝わった経典で、天台宗が重んじて来て日蓮聖人が『法華経』を基本教典として独自の題目に取り入れた。法華寺と言う寺は奈良や岐阜にあるが、その経典の名称を寺号とする寺は法華経寺だけであろう。

法華経寺は聖人の檀越であった武士・富木常忍(1216-1299)が出家して常修院日常を名乗り、文応元年(1260年)、自邸に法華寺を開基したとされる。同時期、聖人に帰依していた武士・大田乗明(1222-1283)も本妙寺を中山に開基している。法華寺の第3代目住持となった日佑(1298-1374)は、下総国の守護大名・千葉氏の出身であったこともあってその庇護を受けて中山門流という一派を成す大寺院に発展させた。その後の天文14年(1545年)に、法華寺と本妙寺は合併して、法華経寺と寺号が改められる。

昭和21年(1946年)には、一部末寺と共に「中山妙宗」を名乗って日蓮宗から分離独立するが、昭和47年(1972年)に復帰して七大本山の1ヶ寺となっている。因みに奈良の法華寺も真言律宗から平成11年(1999年)に独立して「光明宗」を名乗っているが、宗派の乱立は好ましいことには思えない。宗派が最も多い真言宗と日蓮宗は、合併して欲しいと願う。

総門でもある黒門を入ると仁王門までの参道には、門前町が形成されていて名物の石こんにゃくが売られていた。賑やかな門前町ではないが、市中の大寺院に相応しい景観である。大きな山門を過ぎると、広大な境内が広がっていて、聖人を祀る祖師堂が際立って目に飛び込んで来る。比翼入母屋造りの堂宇で、その奥には四足門を備えた法華堂が建っている。五重塔などと共に国の重要文化財で、貴重な堂宇が寺に残されていている。しかし、朱色の五重塔は安定感に欠ける意匠で、本門寺の五重塔に比べると見劣感は否めない。この寺には鬼子母神を祀る堂宇があり、日蓮宗の信徒以外にも参拝する人は多い。正岡子規(1867-1903)も脊髄カリエスの病の中で参拝し、孤独感を吐露する句を詠んでいる。

「中山や ひとりこえたる 二月哉」 正岡子規

090日蓮宗大本山誕生寺(小湊誕生寺・七大本山)

①山号: 小湊山。

 ②本尊: 十界本尊。

 ③開山:  寂日坊日家、開基:  佐久間重貞。中興:  日孝。

 ④開山開基年: 建治2年(1276年)。中興年:  宝暦8年(1758年)。

 ⑤文化財:  なし(県の指定あり)。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 総本山に含む。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 千葉県鴨川市。

⑩訪問年:  昭和57年03月13日(土)。

  房総の小湊は日蓮聖人の生誕地で、聖人が存命中に創建されている。宗祖の生誕地に寺院を建立する例は多く、古くは行基菩薩の河内・家原寺、最澄大師の近江・生源寺、空海大師の讃岐・善通寺、法然上人の備前・誕生寺、親鸞聖人の京都・日野誕生院がある。最近では、道元禅師の誕生寺が平成12年(2000年)に京都の伏見に開基されている。

誕生寺は南房総の観光スポットでもあり、聖人を知らない観光客もたくさん訪れている。私が参拝したのも会社の慰安旅行の時であり、35年も昔の訪問であった。神社仏閣の朱印を集めるようになったのは、その会社が倒産した翌年の昭和62年(1978年)からで、再び参拝しないと大本山の朱印は集まらない。日蓮宗の寺では「般若心経」の写経がないので、スタンプラリーに他ならないが、両本願寺のように朱印を行なわない寺よりはましである。

誕生寺は建治2年(1276年)、興津の城主・佐久間義貞(生没年不詳)の外護により寂日坊日家(1258-1315)が聖人の生誕地に2世開山した。聖人が存命中であったので、聖人を1世開山と称したようだ。室町時代の大津波によって堂宇伽藍が流失し、再建された後の元禄16年(1703年)にも地震による大津波で再び流失した。この時、水戸光圀(1628-1701)に外護によって26世日孝(生没年不詳)が現在地に移して再建したとされる。しかし、地震発生時の2年前には光圀公は他界しているので、寺の由緒は正しいとは言えない面もある。

総門を入ると、宝永3年(1706年)に再建された大きな重層の仁王門が建ち、鐘楼・祖師堂・客殿の伽藍が点在する。空海大師の善通寺は別格としても、それに次ぐ伽藍の規模を誇るのが誕生寺である。私が訪問した後の昭和末期から平成になってからは、本師殿宝塔・本堂・宝物館・布教殿堂など大きな伽藍が建立されたようで、日蓮宗でも久遠寺、池上本門寺と並び別格の寺が誕生寺のように見える。

慰安旅行の際は、誕生寺にも近い小湊温泉のニューこみなとホテルに泊まったが、宴会に同席した社員約50人の内で、存命しているのは半数近くになってしまった。そんな諸行無常を世の中で、艱難辛苦の日々を繰り返した聖人の和歌が思い出される。

「去年も浮く 今年も辛き 明日かな 想ひはいつも 晴れぬものゆへ」 日蓮

091日蓮宗大本山北山本門寺(法華本門寺・七大本山)

①山号: 富士山。

 ②本尊: 曼荼羅。

 ③開山: 日興、開基:  石川能忠。中興:  日優。

 ④開山開基年: 永仁6年(1298年)。中興年:  正保4年(1647年)。

 ⑤文化財:  重文書籍(細字金字法華経1巻)。

⑥支院・塔頭:  7ヶ寺、末寺: 34ヶ寺。

 ⑦寺域:  不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 静岡県富士宮市。

⑩訪問年: 平成25年10月03日(日)。

 富士山麓の静岡県側には日蓮宗の大寺院が多く、日蓮宗の大本山・北山本門寺、日蓮宗の本山・小泉久遠寺、日蓮正宗の総本山・大石寺、日蓮正宗の別格本山・妙蓮寺、単立の本山・西山本門寺がある。この5ヶ寺を「富士五山」と称していて、いずれも富士山を山号とする日蓮聖人の六老僧の1人・日興上人(1246-1333)の興した門流である。

 日蓮聖人が伊豆や佐渡に流された時から随行した弟子で、身延山に聖人が移った後も仕えて後継者と目された。しかし、身延山の檀越・南部実長との意見の相違から身延山を下り、大石寺を開基した後の永仁6年(1298年)、北山本門寺を開創している。開創を外護したのは、北山の地頭・石川能忠(生年没不詳)で後に出家して妙源と称したようである。上人は88歳の長寿を保ち北山本門寺で没するまで、布教と弟子の育成に努めたとされる。

室町時代には駿河の太守・今川氏の庇護を受けるが、武田信玄の侵攻によって甚大な被害を被ったようである。信玄の息子・勝頼によって再興されるが、徳川家康の甲州攻めで再び灰燼に帰するが、江戸時代になって徳川幕府の庇護で再興されている。明治32年(1899年)には、西山本門寺と共に日興門流(富士門流)から独立して本門宗と称するが、昭和16年(1941年)に久遠寺の傘下に入り、七大本山に列せられた。

広い参道の両脇には塔頭が整然と並び、鬱蒼と杉林が茂る中に七堂伽藍が点在して建っていた。仁王門の先に二天門と本堂(御影堂)があり、左手には客殿・書院・奥書院・大庫裏と本坊の堂宇が建っている。右手には鐘楼堂・開山堂などが建ち、奥には日興上人の御正所(御廟所)があったが質素な土盛りの墳墓であった。

日興上人は日蓮聖人に倣い、「日興遺誡置文」と言う遺言書を残しているが、その中には「謗法を叱責せずして遊戯雑談の化儀並びに外書歌道を好むべからず事。」という戒め言葉が記されていた。日蓮宗以外の宗教は邪宗であり、折伏せずに遊び戯れ雑談にふけってはならず、仏教書以外の書は外道の書であり、和歌や習い事を好んではならないと教示している。私からすれば絶望的な文言で、師の日蓮聖人が何首か和歌を詠んでいることを考えると、日興上人の仏教思想が現代に通用するとは思われない。

092日蓮宗大本山清澄寺(七大本山)

①山号: 千光山。

 ②本尊: 十界曼荼羅。

 ③開山: 不思議法師、開基:  円仁。中興:  頼勢。改宗:  岩村義運。

 ④開山:  宝亀2年(771年)、開基年:  承和3年(836年)。中興年:  元和4年(1618年)。改宗年:  昭和24年(1949年)。

 ⑤文化財: なし(県の指定あり)。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 総本山に含む。

 ⑦寺域: 115,000㎡(34,848坪)。

⑧特色: 天然記念物の大杉。七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 千葉県鴨川市。

⑩訪問年:  平成23年11月04日(金)。

 「日本百名山」の登頂を目指していた頃、合わせて霊山と称される山々も登拝していた。山頂に清澄寺のある清澄山もその1座であったが、標高333mの山頂付近まで車で上って行ったので登山と呼ぶほどのものではなかった。見事な千年杉を途中で眺め、10分ほど登って、旭ヶ森の展望所に建つ日蓮聖人像を礼拝して霊山の登拝とした。

清澄寺は奈良時代の宝亀2年(771年)、不思議法師(生没不詳)という旅の僧が虚空蔵菩薩を祀って一宇を建て、山岳信仰の霊場とされたとされる。平安初期に名僧・円仁(794-864)が不動明王像を自刻し、堂宇を建立したことから天台慈覚流の天台宗に改宗される。鎌倉時代の天福元年(1233年)、日蓮聖人が入門して天台宗を学び得度している。

江戸時代になると寺は荒廃し、徳川秀忠の命で誕生寺には京都・智積院の頼勢(?-1648)が入寺して真言宗に改められた。しかし、大正9年(1920年)になると、30世住職・玉瀧義秀(生没不詳)は日蓮宗門徒の入門を許し、聖人の縁に因んだ立教開宗会を盛大に行った。昭和24年(1949年)、31世住職・岩村義運(生没不詳)は末寺45ヶ寺と袂を分かち、真言宗智山派から日蓮宗に改宗する。そして、日蓮宗の七大本山となり、久遠寺、池上本門寺、誕生寺と共に日蓮宗四霊場と称されて現在に至っている。

旭ヶ森からの下山後、珍しい赤色の仁王門まで戻って諸堂を巡った。参道の右手に明治時代の観音堂と平成時代の鐘楼堂が建ち、左手に昭和時代の祖師堂が建つ。そして、正面には江戸時代の大堂(本堂)が建っていて、統一性のない寺観に見えた。ブルーシートで屋根が覆われた堂宇もあり、参道に面した数軒の土産物屋は風前の灯火のように見えた。

清澄寺が属していた真言宗智山派には、成田山新勝寺があるが、現在の様子を比較すると明暗がはっきりし、智山派に属していた方が賢明だったかも知れない。高野山をはじめとする真言宗には、あまり宗派に拘らない間口の広さがあるが、日蓮宗は他の宗派を邪宗として相手にしない狭隘さがある。それでも門外者にも御朱印を記帳する事は有難く思う。「千年の 杉が見つめた その歴史 旅人一人 杉を見上げる」 陀寂

093日蓮宗東北本山孝勝寺

①山号: 光明山。

 ②本尊: 十界大曼荼羅。

 ③開山開基: 日門。再興:  伊達忠宗夫人。

 ④開山開基年: 永仁3年(1295年)。再興年:  慶安3年(1650年)。

 ⑤文化財: なし(国の登録文化財あり)。

⑥支院・塔頭:  3ヶ寺、末寺: 総本山に含む(旧末寺10ヶ寺)。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 仙台市宮城野区。

⑩訪問年:  平成28年02月19日(金)。

仙台市には定義如来で知られる西方寺が郊外にあるが、市内の一等地に大伽藍を有する孝勝寺があったことは知らなかった。天台宗の平泉・中尊寺、臨済宗の松島・瑞巌寺を東北代表する本山として選んだが、日蓮宗の東北本山である孝勝寺も自分の目で確認する必要性があった。メキシコから帰国して間もないスキー場巡りの旅に途中に参拝した。

孝勝寺は鎌倉時代の永仁3年(1295年)、日門(生没年不詳)が開基した大仙寺が前身とされるが、確証される史料はないようだ。戦国時代には全勝寺と改められた縁で、名将・伊達政宗(1567-1636)が戦勝祈願をしたとされる。政宗の二男で2代藩主・伊達忠宗(1600-1658)の正室・振姫(1607-1659)が、日蓮宗に帰依して慶安3年(1650年)に再興した。

孝勝院と呼ばれた振姫が没すると、3代藩主・伊達綱宗(1640-1711)が寺号を全勝寺から孝勝寺に改めさせた。綱宗の側室・三沢初子(1640-1686)は孝勝寺に深く帰依し、伊達藩も寺領を与え庇護した。綱宗と初子の子・綱村(1659-1719)は、僅か2歳で4代藩主となるが、跡目相続の対立が有名な伊達騒動の要因となる。その騒動を題材とした歌舞伎の政岡は、初子がモデルとされ、綱村を立派な藩主に育てる。綱村は母の恩に報いようと、母が亡くなった9年後、榴ヶ岡に釈迦堂を建てて母の供養している。

江戸時代中期以降、度重なる火災で伽藍を焼失するが、その都度再建される。しかし、昭和35年(1960年)の放火によって、山門を残して堂宇が焼失した。釈迦堂が榴ヶ岡から移築され、再建が進められて往時の寺観は整ったようであるが、周辺にはビルが建築されて様変わりした。青葉城の遺構とされる山門を入ると、平成15年(2003年)に落成した五重塔は、木造で高さが約32mもあるが、その6年後に孝勝寺の総本山・久遠寺が建立した五重塔は高さが39mもあって、総本山の面目と言う対抗意識を感じざるを得ない。

境内には大きなRC造の本堂の他に、釈迦堂、開山堂、光明殿、鐘楼、本坊、信徒会館と建ち並び、100ヶ寺本山の選定の基準にしていた七堂伽藍が整っていた。境内には政岡(初子)と亀千代丸(綱村)の石像もあって、困難を克服して寺の再建に尽くした母子が偲ばれる。

「政岡は 二人はいると 聞くけれど 寺に残るは 初子の御魂」 陀寂

094日蓮宗本山妙成寺(滝谷寺)

①山号: 金栄山。

 ②本尊: 一塔両尊。

 ③開山:  日像、開基: 日乗。再興:  寿福院。

 ④開山開基年: 永仁元年(1293年)。再興年:  寛永8年(1631年)。

 ⑤文化財: 重文堂宇(本堂、五重塔、祖師堂、経堂、書院、庫裏、鐘楼、三光堂、三十番神堂、二王門)。

⑥支院・塔頭:  5ヶ寺、末寺: 総本山に含む(旧末寺34ヶ寺)。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観、書院庭園(県名勝)。

⑨所在地: 石川県羽咋市。

⑩訪問年: 平成03年02月11日(土)・平成19年07月29日(日)。

 身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗の大本山と本山、その最後に選んだのが能登の妙成寺である。国宝堂宇のある寺院や神社の参拝を最優先にして来たが、能登に五重塔を筆頭に他に10棟の国の重要文化財があることを知って参拝したいと願った。10棟合わせれば、山門だけが国宝に指定されている寺院以上の価値があると思い妙成寺を訪ねた。

能登には中世の頃、院坊360余・宗徒約3,000人の規模を誇る石動山天平寺があり、山岳信仰の拠点霊場として栄えていた。その座首・満蔵法印(生没年不詳)が北陸を布教中の日像(1269-1342)と法論を交わし、法華経の教えに感銘を受けたされる。永仁元年(1293年)、法印は名を日乗と改め、滝谷に日像を開山第1祖として妙成寺を開基する。

日蓮宗の特徴は、日の字を僧名にあてていることと、妙の字を寺号に加えている寺院が多いことである。妙成寺はその代表のような寺で、日乗は第2祖として真言宗から日蓮宗に鞍替えしたのである。安土桃山時代には能登国の領主となった前田利家(1539-1599)から寺領の寄進を受け庇護される。江戸時代になると、加賀・越中国を含めた100万石の太守と前田家は領国の寺社を外護する。3代藩主・前田利常(1594-1658)の母・寿福院(1570-1631)が妙成寺に帰依し、その菩提寺ともなっている。寛永8年(1631年)には、加賀藩3ヶ国の日蓮宗寺院を束ねる総録所となって、現在に残る七堂伽藍が建立された。

参道の正面に二王門(1625年)と五重塔(1618年)が聳え、門の横に鐘楼(1625年)が建つ。門を入った左側に開山堂と経堂(1670年)、その反対側に本堂(1614年)を中心に右に祖師堂(1624年)、左に三光堂(1623年)がある。本堂への参道右手には神社建築の三十番神堂(1614年)が建っているが、日蓮宗の寺では境内に天神地祇を祀る習わしがあるようだ。祖師堂の右には本坊の客殿、書院(1659年)、庫裡(1593年)が建ち、他にも高さ5m釈迦像を安置する丈六堂もあって、七堂伽藍を凌ぐ寺観である。前田家が高岡に創建した瑞龍寺の重要文化財の堂宇4棟が国宝に昇格した例もあり、妙成寺五重塔は国宝に値する美しさと思う。

「北陸に 唯一残る 五重塔 塔めぐりも 旅の楽しさ」 陀寂

095最上稲荷教総本山妙教寺

①山号: 龍王山・稲荷山。

 ②本尊: 最上位経王大菩薩。

 ③開山開基:  報恩。中興:  日円・花房職秀。

 ④開山開基年: 天宝勝宝4年(752年)。中興年:  慶長6年(1601年)。

 ⑤文化財: なし(国の登録文化財あり)。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺: 4寺。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。日本三大稲荷。

⑨所在地: 岡山県岡山市。

⑩訪問年: 平成23年01月02日(日)。

 私の旅の基本は、名数に選ばれた名所旧跡を訪ねることであり、「日本三景」と「日本三名園」は実際に訪ねて見て、納得せざるを得なかった。しかし、「日本三大稲荷」に関しては、曖昧な面が多く、神社と寺院が混沌とした選定である。伏見稲荷大社(京都府)、妙厳寺豊川稲荷(愛知県)、祐徳稲荷神社(佐賀県)が三大稲荷と称されている。しかし、岡山県の妙教寺最上稲荷と茨城県の笠間稲荷神社が「日本三大稲荷」を名乗っていて複雑である。

妙教寺は奈良時代の天宝勝宝4年(752年)、報恩大師(生没年不詳)が女帝・孝謙天皇(718-770)の病気平癒を願い、吉備山中の八畳岩で修法した所、最上尊が現れて効験があったされる。最上尊は稲荷様で神道では素盞鳴尊の子・宇迦野御魂尊とされていが、弥生時代から稲作の神として崇められたことが起源のようである。その後、桓武天皇(737-806)の病気の時も報恩の祷によって平癒したことから本格的に最上尊を祀る社殿が建てられ、その神宮寺となったのが妙教寺の前身とされる。

平安時代から室町時代までの寺伝は詳らかではないが、戦国時代に毛利方の高松城が寺の近くにあったため、羽柴秀吉の毛利攻めの時、戦火で焼亡したことが知られている。関ヶ原合戦後の慶長6年(1601年)、当地を治めていた旗本・花房職秀(1549-1617)が関東における日蓮宗の学問所でもあった飯高檀林から首座・日円(1565-1605)を招いて中興開山し、天台宗から日蓮宗に改宗した。江戸時代中期には、本殿の大伽藍が建立されている。平成21年(2009年)に日蓮宗へ復帰したと聞いたが、最近まで知らなかったので以外であった。

昭和の戦後から人々の信仰を集め、神仏習合の大寺院へ発展したようだ。仁王門が再建され、高さ27.5mの大鳥居も建てられた。正月2日の参拝であったため、境内は多くの初詣客で賑わっていた。風変りな仁王門の先にはRC造の大きな本殿(霊光殿)が建ち、根本大堂、大客殿、旧本殿(霊応殿)の大伽藍が寺の繁栄ぶりを彷彿とさせる。境内には高松城水攻めに加担した加藤清正(1562-1611)を祀る清正公堂があったが、熱心な日蓮教徒の一面もあり慕われたようだ。水攻めで自刃した清水宗治(1573-1582)の辞世の和歌が思い出される。

「浮世をば いまこそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」 清水宗治

096日蓮正宗総本山大石寺

①山号: 多宝富士大日蓮華山。

 ②本尊: 板曼荼羅。

 ③開山: 日興、開基:  南条時光。中興:  日因。

 ④開山開基年: 正応2年(1289年)。中興年:  寛延2年(1749年)。

 ⑤文化財: 重文堂宇(五重塔)。

⑥支院・塔頭:  20ヶ寺、末寺: 654ヶ寺。

 ⑦寺域: 700,000㎡(212,121坪)。

⑧特色:  七堂伽藍の景観。桜の名所。

⑨所在地: 静岡県富士宮市。

⑩訪問年: 平成25年10月03日(日)。

日蓮宗の宗派の中で、身延山久遠寺に次ぐ規模勢力を誇るのが日蓮正宗の総本山大石寺である。同じ日蓮宗でも正宗と称するように久遠寺とは一線を画しているようで、浄土宗と浄土真宗との関係と類似している。大石寺には塔めぐりでは欠かせない五重塔があり、それが重要文化財ともなれば、一度は拝観しないと私の旅は終結しない。

大石寺は正応2年(1289年)、身延山を下り富士山麓で布教していた日興上人(1246-1333)は、当地の地頭・南条時光(1259-1332)を檀越として開山した。上人は大石寺を弟子の日目(1260-1333)に譲って北山本門寺を創建して大石寺を去っている。その後は日興門流の富士五山と称されて大寺院へと発展する。江戸時代には、6代将軍・徳川家宣(1662-1712)の正室・近衛煕子(1666-1741)が落飾後、天英院となった時に伽藍の再興に尽力している。

日蓮宗の宗派は、法華経を信奉しない者から喜捨を受けない不受不施派、法華経前半の経文・迹門を重視する勝劣派、後半の経文・本門を重視する一致派に分類される。不受不施は少数派なのであるが、勝劣派を代表するのが大石寺であり、一致派は久遠寺である。明治45年(1912年)には、日蓮宗冨士派から日蓮正宗を名乗って完全分離している。戦後に創価学会が台頭して来ると、大石寺は学会員の「月例登山」で賑わい、その繁栄は平成3年(1991年)まで続いた。学会と寺とのスキャンダルが新聞記事となり、学会を寺から破門すると言う結末となって現在に至っている。

境内はことのほか広く、駐車場から五重塔まで結構な距離があった。総門を入ると、高層の宿坊が建ち並び、かつての賑わいが目に浮かぶようである。朱色の大きな三門の先にも宿坊が続き、二天門を潜ると御影堂が建っている。その先に信徒以外は立入り禁止の奉安堂があるが、かつては学会が335億円で建てた巨大な正本堂があった場所である。平成10年(1998年)に50億円で解体され、平成14年(2002年)に奉安堂が建てられた。境内を流れる潤井川を渡った丘の上に五重塔は建っていたが、この一画だけ昔と変わらない景観である。明治の作家・大町桂月(1869-1925)が「大石寺を見ずして寺を語ることなかれ」と述べていたが、桂月はその後の大石寺を知らないので、価値観は変わったと思う。

097法華宗陣門流総本山本成寺

①山号: 長久山。旧寺号:  青蓮華寺。

 ②本尊: 三宝尊。

 ③開山: 日朗・日印、開基:  山吉定明。中興:  日静。

 ④開山開基年: 永仁5年(1297年)。中興年:  南北朝時代。

 ⑤文化財: なし(県の指定あり)。

⑥支院・塔頭:  10ヶ寺、末寺: 169ヶ寺。

 ⑦寺域: 19,800㎡(6,000坪)。

⑧特色:  七堂伽藍の景観。日本三大鬼踊り。

⑨所在地:  新潟県三条市。

⑩訪問年:  平成23年10月03日(木)。

  日蓮宗の別名は法華宗で、天台宗が天台法華宗の略名であったことに起因し、日蓮宗と称するようになったのは近年のことである。その法華宗を名乗っている大寺院が本成寺で、七堂伽藍の整った寺が新潟県にあったことに驚いた。他に京都の妙満寺が顕本法華宗、妙蓮寺は本門法華宗を掲げて総本山と大本山になっている。

永仁5年(1297年)、越後に法華道場を創建しようとした日印上人(1264-1329)が、越後武士・山吉定明(1268-1325)の援助で本妙寺を開山する。開山の折、日印は日蓮聖人の六老僧・日朗(1245-1320)を鎌倉に訪ね、山号と寺号を受けて開山初祖に仰いでいる。南北朝時代に日静(1298-1369)が京都の本圀寺から入寺し、六条門流を伝えて中興する。日静の弟子・日陣(1339-1419)が寺を継ぐと、六条門流と別れて題目を正行と陣門流を布教させる。

中世になると、越後国主の長尾・上杉・溝口諸氏の外護によって栄え、寺内160余坊を数えたが、兵火など火災で再三焼失している。明治9年(1876年)に日蓮宗本成派と称して独立し、明治31年(1898年)には法華宗に改称する。昭和29年(1951年)には、法華宗陣門流を公称して総本山となって現在に至っている。将来的には、清澄寺や妙教寺のように日蓮宗に復帰する可能性はないものかとも思う。

黒塗りの総門を入ると、参道の両脇には塔頭寺院が建ち並び、京都にでも居るような錯覚になる。重層の大きな赤い三門の先には、本堂、客殿、寂光殿、宝物殿、千仏堂、鬼子母神堂と拝殿、鐘楼堂、二重塔(忠霊塔)と七堂伽藍が林立している。明治32年(1899年)から10数年の歳月をかけて完成された木造建築群で、国の重要文化財には指定されていなけれど、三門は新潟県、総門・千仏堂・二重塔・鐘楼堂の4棟が三条市の文化財である。

境内の参拝を終え、寺務所に行くと朱印を書いてもらえたのが何よりも嬉しい。日蓮宗系では孝勝寺・北山本門寺・妙教寺・大石寺に無かっただけに安心した。100ヶ寺本山で、巡礼の証ともなる朱印をもらえないのは淋しいものである。境内に歌碑や句碑がなく、著名人の参詣の有無は分からなかったが、七堂伽藍を写真や記憶に残せただけでも良かった。

「越後路に 赤門仰ぎ 参拝す 空海ファンの 門外者が」 陀寂

098時宗総本山清浄光寺(遊行寺)

①山号院号: 藤沢山無量寿院。

 ②本尊: 阿弥陀如来坐像。

 ③開山: 他阿呑海、開基:  俣野景平。中興:  天順。

 ④開山開基年: 正中2年(1325年)。中興年:  慶長12年(1607年)。

 ⑤文化財:  国宝絵画(後醍醐天皇御像・一向上人像)。

⑥支院・塔頭:  3ヶ寺、末寺: 406ヶ寺。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 史跡。七堂伽藍の景観。

⑨所在地:  神奈川県藤沢市。

⑩訪問年: 平成03年03月24日(日)。平成19年10月13日(土)

 奈良と京都に並び三古都と称される鎌倉ではあるが、その鎌倉に隣接する藤沢にありながらあまり知られていなのが、時宗の総本山・清浄光寺である。通称名は遊行寺で、宗祖・一遍上人(1239-1239)が念仏を広めるため全国を巡歴(遊行)した時、遊行上人とも呼ばれていたことに由来する。浄土宗や浄土真宗など浄土系の宗派では最も小さな宗派であるが、独自の宗風があって親しみを感ずる。

遊行寺は時宗第4世・他阿呑海(1265-1327)が廃寺を譲り受け、当地の地頭・俣野景平(生没年不詳)の援助によって開基した。呑海は景平の弟で、第2世他阿真教(1237-1319)に師事して賦算が許され後、京都に七条道場金光寺(現・長楽寺)を建立したとされる。賦算は「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記された念仏札を配ることで、時宗の伝統ともなっている。南北朝時代には足利尊氏が本堂を改修増築し、後光厳天皇からは寺号の勅額を賜っている。朝廷にも認められた格式のある宗派に発展するが度重なる火災で存亡を繰り返す。

安土桃山時代末期に時宗の拠点は常陸の水戸に移されるが、慶長12年(1607年)に甲府の一蓮寺から天順が入寺して遊行寺を中興する。寛永8年(1631年)に江戸幕府寺社奉行から諸宗派の本山に出された命により、遊行寺は末寺274ヶ寺の総本山とされた。明治時代の大火で全山が焼失し、大正時代の関東大震災で被害を受けるが、昭和初期から再建が進む。

遊行寺の境内は東海道に面していて、松尾芭蕉翁を慕って中山道と東海道を約1ヶ月間、自転車で踏破した折も参詣し、思い出深い100ヶ寺本山でもある。愛媛県の松山市に1年近く住んだ時があり、松山生まれの宗祖・一遍上人の足跡も数多訪ねた。道後温泉には旧本山宝厳寺があり、再建された本堂の檜の香りが鮮明に脳裏に残っている。

鳥居ような冠木の惣門を入ると、正面に入母屋造の大きな本堂建ち、手前の参道には大銀杏が聳えている。寺には二層の回向堂以外は塔建築がないので、大銀杏を塔のように見上げた。本堂の左には鐘楼があり、その奥に本坊の御番方や小書院が立ち並ぶ。境内には句碑や歌碑が建っていて、高浜虚子門下の時宗僧・河野静雲が詠んだ句が印象に残る。

「生きていて 相遇ふ僧や 一遍忌」 静雲

099黄檗宗総本山萬福寺

①山号: 黄檗山。

 ②本尊: 釈迦如来像。

 ③開山: 隠元隆琦、開基:  徳川家綱。中興:  高泉性敦。

 ④開山開基年: 寛文元年(1661年)。中興年:  元禄5年(1692年)。

 ⑤文化財: 重文堂宇(総門、三門、天王殿、大雄宝殿、法堂、鐘楼、鼓楼、伽藍堂、祖師堂、斎堂、禅堂、東方丈、西方丈、祠堂、大庫裏、威徳殿、鎮守社、松隠堂通玄用・開山堂・舎利殿・寿堂・客殿・庫裏・侍真寮・裏門・宝蔵・鐘楼・石碑亭)。

⑥支院・塔頭:  10ヶ寺、末寺: 451ヶ寺。

 ⑦寺域: 297,00㎡(90,000坪)。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。

⑨所在地:  京都府宇治市。

⑩訪問年:  昭和48年12月15日(日)・平成03年12月29日(日)。

近代以前の十三宗の中で、最後に創建されたのが禅宗の黄檗宗である。臨済宗も曹洞宗も宋から伝わった禅宗であるが、400余年も経てマンネリ化が否めなくなった。明国が存亡の危機にある時、長崎に住む華僑によって黄檗宗の寺が開基される。

江戸幕府第4代将軍・徳川家綱(1641-1680)は、明から来朝していた隠元隆琦(1592-1673)と黄檗宗の禅風を知って、寛文元年(1661年)に京都の宇治に開基させる。宋がモンゴル族(元)に攻められた時、臨済宗の名僧たちが来朝して日本に帰化した。その時代の再来のように明は女真族(清)に滅ぼされて、儒学者や禅僧が日本に帰化している。明から同行した隠元禅師の弟子は30人ほどいたようで、鑑真和上の来朝と重複する歴史観である。

萬福寺は唐風に建立され、その堂宇伽藍がすべて残っているのは奇跡のようである。隠元禅師は臨済宗黄檗派の禅の他、様々な文化を日本に伝えた。中でも普茶料理は禅宗に新たな精進料理をもたらし、インゲン豆、孟宗竹、西瓜、レンコンなどの食材を伝えている。

開基の年は方丈が落成し、翌年には法堂、翌々年には禅堂と東方丈、寛文8年(1668年)には大雄宝殿が建てられて七堂伽藍が完成した。隠元禅師は寛文4年(1665年)に弟子の木庵性瑫(1611-1684)に住職を譲ると、松隠堂に隠居して81歳で異国の地に生涯を閉じている。禅師の直弟子の高泉性敦(1633-1695)が第5世を継ぎ中興するが、その後14世で中国僧の住持が途絶えてしまう。22世からは、日本僧が住持して今日に至っているようだ。

中国風の総門の先に放生池があって、三門、天王殿、大雄宝殿(本堂)、法堂、威徳殿と一直線に建っている。臨済宗の伽藍配置であるが、天王堂と威徳殿は寺独自の堂宇である。参道の左翼に、鼓楼、祖師堂、禅堂、西方丈が建ち、右翼に鐘楼、伽藍堂、斎堂、黄龍閣(大庫裏)、東方丈とシンメトリな配置でもある。26棟が国の重要文化財で、中国様式に統一された景観は、江戸時代の尼僧・田上菊舎(1753-1826)が境内を出る時に詠んだ句に尽きる。

「山門を 出れば日本ぞ 茶摘うた」 一字庵田上菊舎

100黄檗宗祖院崇福寺(福州寺・支那寺)

①山号院号: 聖寿山。

 ②本尊: 釈迦如来像。

 ③開山開基: 超然。中興:  隠元隆琦。

 ④開山開基年: 寛永6年(1629年)。承応3年(1654年)。

 ⑤文化財:  国宝堂宇(大雄宝殿、第一峰門)。重文堂宇(三門、鐘鼓楼、護法堂、媽姐門)。

⑥支院・塔頭:  なし、末寺:  総本山に含む。

 ⑦寺域: 不明。

⑧特色: 七堂伽藍の景観。

⑨所在地: 長崎県長崎市。

⑩訪問年:  平成05年06月01日(火)。

 長崎には福州(中国福建省)出身の華僑たちが祖国の明から超然(1567-1644)を招聘して寛永6年(1629年)、建立したのが崇福寺である。これが日本における黄檗宗の最初の寺で、中国様式の福州人の菩提寺となった。63歳で来日した超然は、初代住職という立場で77歳の時に寺で亡くなっている。後に隠元隆琦(1592-1673)が62歳で来日し、第4世住持として中興したので、崇福寺は京都宇治に創建された萬福寺の祖院でもある。

隠元禅師には帰国の意志があったようであるが、結局は日本黄檗宗の宗祖・超然と同様に日本を死に場所に選んでくれた有難さに胸が締め付けられる。明治初年の廃仏毀釈の影響も少なかったようで、昭和20年(1945年)の長崎への原爆投下でも建物は残された。

現在は大雄宝殿と第一峰門が国宝で、三門、鐘鼓楼、護法堂、媽姐門は国の重要文化財である。長崎は基督教教徒も多く、その遺構である大浦天主堂は戦災を免れて教会建築としては唯一の国宝に指定されている。現在は長崎の主要な観光地となっているが、信徒でもない観光客が物見遊山で見物することに違和感を覚える。

 長崎は九州で最も人気の高い都市観光地であり、その小高い丘の麓に崇福寺はある。地元では通称・福州寺や支那寺とも呼ばれ、伽藍が赤いことから赤寺とも俗称されると言う。 

竜宮城のような重層の三門を入り石段を上ると、赤い入母屋造の四脚門である第一峰門が、威風の景観を漂わせて凛として建っている。門を過ぎると護法堂が建っているが、創建当時は護法堂、天王殿、関帝堂、観音堂、韋駄殿の五堂宇が別々に建っていたが、現在は内陣にまとめて祀られている。第一峰門と共に国宝である大雄宝殿が建ち、その上に開山堂、右手に媽姐門と媽姐堂、鐘鼓楼など七堂伽藍が整っている。七堂伽藍は、禅宗様式でもない明国時代の独自の黄檗様とも呼ばれ、萬福寺とは若干の違いを感じさせる。

明治40年(1907年)の7月28日、若き日の与謝野鉄幹・北原白秋・吉井勇・大田正雄(木下杢太郎)・平野萬里の5人は1ヶ月間、長崎を旅している。その時の記録が「五足の靴」と言う紀行文で、彼らの師であった鉄幹が崇福寺界隈の寺を詠んだ短歌が秀作である。

「長崎の いづれの寺の 大門も 海の夕日に 染まるひととき」 与謝野寛

その他の大寺院

01曹洞宗恐山菩提寺

①山号寺号:  吉祥山円通寺。②本尊:  地蔵菩薩。③開山開基:  円仁(開山)。南部聖山(開基)。④開山開基年: 貞観2年(860年)。慶長15年(1610年)。⑤文化財:  なし。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 742,500㎡(225,00坪)。⑧特色: 三大霊場。石仏群の風光。温泉。⑨所在地:  青森県むつ市。⑩訪問年:  平成7年07月02日・平成21年08月30日。

02天台宗別格本山毛越寺

①山号院号:  医王山金剛王院。②本尊:  薬師如来。③開基中興: 円仁(開基)。藤原基衡(中興)。④開基中興年: 嘉祥3年(850年)。長治2年(1105年)。⑤文化財:  特別名勝庭園。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 227,000㎡(68,800坪)。⑧特色: 世界文化遺産。特別史跡。⑨所在地:  岩手県平泉町。⑩訪問年:  昭和46年06月16日(水)・昭和60年07月21日(日)・平成01年11月12日(日)・平成05年04月05日(月)・平成28年02月20日(土)。

03曹洞宗天徳寺

①山号:  万固山。②本尊:  聖観音。③開山開基中興: 独童(開山)。佐竹義人(開基)。佐竹義宣(中興)。④開山開基中興年: 寛正3年(1462年)。慶長7年(1602年)。⑤文化財:  重文堂宇(本堂・書院・山門・惣門・霊屋)。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域:  不明。⑧特色: 佐竹家菩提寺。⑨所在地:  秋田県秋田市。⑩訪問年: 平成2年07月14日。

04慈恩宗本山慈恩寺

①山号:  瑞宝山。②本尊: 弥勒菩薩。③開基中興:  行基(開基)。藤原基衡(中興)。④開基中興年: 神亀元年(724年)。天仁元年(1108年)。⑤文化財:  重文堂宇(本堂)。重文仏像(薬師如来像)。⑥支院・塔頭:  3ヶ寺。⑦寺域:  152,000㎡(16,000坪)。⑧特色: 七堂伽藍の景観。⑨所在地:  山形県寒河江市。⑩訪問年: 平成02年03月25日。

05天台宗別格本山立石寺(山寺)

①山号: 宝珠山。②本尊:  薬師如来。③開山開基:  円仁(開山)。④開山開基年: 貞観2年860年。⑤文化財:  重文堂宇(根本中堂)。名勝景観。⑥支院・塔頭: なし。⑦寺域:   1,089,000㎡(330,00坪)。⑧特色: 史跡。門前町。七堂伽藍の景観。⑨所在地:  山形県山形市。⑩訪問年:  平成元年01月26日・平成05年04月06日。

06臨済宗妙心寺派圓蔵寺(柳津の虚空蔵)

①山号:  霊厳山。②本尊:  福満虚空蔵菩薩。③開山開基中興:  徳一(開山)・空海(開基)。大圭(中興)。④開山開基中興年: 大同2年(807年)。至徳元年(1384年)。⑤文化財:  重文堂宇(奥之院弁天堂)。⑥支院・塔頭: なし。⑦寺域: 不明。⑧特色: 日本三大虚空蔵。  ⑨所在地: 福島県柳津町。⑩訪問年:  平成20年09月22日。

07天台宗輪王寺

①山号: 日光山。②本尊:  阿弥陀如来ほか2仏。③開基中興:  勝道(開基)、天海(中興)。④開基中興年:  天平神護2年(766年)。慶長18年(1613年)。⑤文化財:  国宝堂宇(大猷院霊廟3棟)。重文堂宇(三仏堂・常行堂・法華堂・開山堂・観音堂・児玉堂・慈眼堂3棟)。名勝庭園。国宝書跡。⑥支院・塔頭:  1ヶ寺。⑦寺域: 不明。⑧特色: 世界文化遺産。門跡寺院。⑨所在地:  栃木県日光市。⑩訪問年: 平成02年06月04日・平成05年03月27日・平成28年05月15日。

08天台宗本山喜多院(川越大師)

①山号寺号: 星野山無量寿寺。②本尊:  阿弥陀如来。③開山中興:  円仁(開山)。天海(中興)。④開山中興年:  天長7年(830年)。慶長4年(1599年)。⑤文化財:  重文堂宇(慈眼堂・客殿・書院・庫裡・山門・鐘楼門)。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 158,400㎡(48,00坪)。⑧特色:  七堂伽藍の景観。⑨所在地:  埼玉県川越市。⑩訪問年:  平成02年07月08日。

09日蓮宗本山藻原寺

①山号: 常在山。②本尊:  三宝尊。③開山開基:  日蓮(開山)・斎藤兼綱(開基)。④開山開基年: 建治2年(1276年)。⑤文化財:  なし。⑥支院・塔頭:  2ヶ寺。⑦寺域: 不明。⑧特色:  日蓮霊跡。⑨所在地:  千葉県茂原市。⑩訪問年:  平成30年01月13日。

10真言宗豊山派総持寺(西新井大師)

①山号: 五智山。②本尊:  十一面観世音・空海大師。③開山開基: 空海。④開山開基年: 天長3年(826年) 。⑤文化財:  国宝仏像(十一面観音菩薩像)。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 不明。⑧特色: 厄除三大師 。⑨所在地:  東京都足立区。⑩訪問年: 平成02年12月20日。

11日蓮宗題経寺(柴又帝釈天)

①山号:  経栄山。②本尊:  大曼荼羅。③開基中興: 日忠(開基)。日敬(中興)。④開基中興年: 寛永6年(1629年)。天明3年(1783年)。⑤文化財:  なし。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域:  不明。⑧特色: 門前町。⑨所在地:  東京都葛飾区。⑩訪問年: 昭和48年02月24日・平成04年12月20日。

12真言宗豊山派梅照院(新井薬師)

①山号寺号: 松高山薬王寺。②本尊:  薬師如来・如意輪観音。③開基: 行春。④開基年: 天正4年(1586年)。⑤文化財:  なし。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域:  不明。⑧特色: 縁日。⑨所在地:  東京都中野区。⑩訪問年: 平成02年12月20日。

13曹洞宗豪徳寺

①山号: 大谿山。②本尊:  釈迦如来。③開基中興:  吉良忠政(開基)。井伊直政(中興)。④開基中興年:  文明12年(1480年)。寛永10年(1633年)。⑤文化財:  なし。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 不明。⑧特色:  史跡(井伊家墓所)。七堂伽藍の景観。⑨所在地:  東京都世田谷区。⑩訪問年:  平成30年01月08日。

14日蓮宗本山妙法寺

①山号: 日円山。②本尊:  厄除祖師像。③開基: 日円尼。④開基年: 元和元年(1615年)。⑤文化財:  重文堂宇(鉄門)。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域:  不明。⑧特色:  七堂伽藍の景観。⑨所在地:  東京都杉並区。⑩訪問年: 平成28年04月23日。

15天台宗別格本山深大寺(厄除元三大師)

①山号院号:  浮岳山晶楽院。②本尊:  阿弥陀三尊像。③開基: 満功。④開基年: 天平5 

年(733年)。⑤文化財:  国宝仏像(釈迦如来倚像)。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域:  不明。⑧特色:  門前そば。⑨所在地:  東京都調布市。⑩訪問年: 昭和50年12月10日、平成30年01月20日。

16真言宗智山派別格本山金剛寺(高幡不動)

①山号院号: 高幡山明王院。②本尊:  大日如来。③開山開基:  行基(開山)。円仁(開基)。④開山開基年:  天平11年(739年)。平安初期。⑤文化財:  重文堂宇(不動堂・仁王門)。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 99,000㎡(30,000坪)。⑧特色: 七堂伽藍の景観。⑨所在地:  東京都日野市。⑩訪問年: 昭和48年01月14日・平成29年12月24日。

17浄土宗単立長谷寺(長谷観音)

①山号: 海光山。②本尊:  十一面観世音。③開山開基:  徳道(開山)・藤原房前(開基)。④開山開基年:  天平8年(736年)。⑤文化財: 重文仏像(十一面観世音立像)。⑦寺域: 不明。⑧特色: 坂東三十三ヶ所観音霊場。⑨所在地:  神奈川県鎌倉市。⑩訪問年: 昭和48年01月14日・平成29年11月18日。

18曹洞宗鶴見派最乗寺(道了尊)

 ①山号: 大雄山。②本尊:  道了大薩埵。③開山:  了庵慧明。④開山年: 応永8年(1401年)。⑤文化財:  なし。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 不明。⑧特色: 曹洞宗三祈祷所。⑨所在地:  神奈川県南足柄市。⑩訪問年:  平成25年10月05日。

19臨済宗妙心寺派恵林寺

①山号:  乾徳山。②本尊:  釈迦如来。③開山開基: 夢窓疎石(開山)・二階堂貞藤(開基)。④開山開基年: 元徳2年(1330年)。⑤文化財:  重文堂宇(四脚門)。名勝庭園。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 36,400㎡(11,000坪)。⑧特色: 武田家菩提寺。⑨所在地:  山梨県甲州市。⑩訪問年:  平成03年05月19日。

20浄土宗甲斐善光寺

  ①山号院号: 定額山浄智院。②本尊: 善光寺如来。③開山開基: 鏡空(開山)・武田信玄(開基)。④開山開基年: 永禄元年(1558年)。⑤文化財:  重文堂宇(本堂・山門)。重文仏像(阿弥陀如来像)。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 40,900㎡(13,500坪)。⑧特色:  門前町。⑨所在地: 山梨県甲府市。⑩訪問年:  平成23年05月04日。

21曹洞宗永平寺派瑞龍寺

①山号: 高岡山。②本尊:  釈迦三尊。③開山開基: 広山恕陽(開山)・前田利常(開基)。   ④開山開基年: 寛文3年(1663年)。⑤文化財: 国宝堂宇(本堂・法堂・山門)、重文堂宇(禅堂・大茶堂・回廊)。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 不明。⑧特色: 前田家菩提寺。⑨所在地:  富山県高岡市。⑩訪問年: 平成19年06月03日。

22浄土真宗本願寺派勝興寺

  ①山号:  雲竜山。②本尊: 阿弥陀如来。③開基中興: 蓮如(開基)。佐々成政(中興)。④開山開基年:  文明3年(1471年)。天正12年(1584年)。⑤文化財: 重文堂宇(本堂・総門・唐門・鼓堂・経堂・宝・蔵御霊屋・式台門・書院・台所)。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 30,000㎡(9,090坪)。⑨所在地: 富山県高岡市。⑩訪問年: 平成20年05月18日。

23高野山真言宗別格本山那谷寺(岩屋寺)

①山号: 自生山。②本尊:  千手観音。③開山開基: 泰燈(開山)。花山法皇(開基)。④開山開基年: 養老元年(717年)。寛弘4年(1007年)。⑤文化財: 重文堂宇(本堂・本堂拝殿・本堂唐門・三重塔・護摩堂・庫裡書院・鐘楼)。名勝庭園。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 不明。⑧特色: 七堂伽藍の景観。奇岩の景観。⑨所在地:  石川県小松市。⑩訪問年: 平成03年02月10日・平成20年12月05日。

24曹洞宗妙厳寺(豊川稲荷)

 ①山号: 円福山。②本尊:  千手観音。③開基中興: 東海義易(開基)。今川義元(中興)。④開基中興年: 嘉吉元年(1441年)。天文5年(1536年)。⑤文化財: 重文仏像(千手観音菩薩像)。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 100,000㎡(30,300坪)。⑧特色:  日本三大稲荷。曹洞宗三祈祷所。門前町。⑨所在地:  愛知県豊川市。⑩訪問年: 平成18年04月23日。

25浄土宗建中寺

  ①山号院号:  徳興山崇仁院。②本尊: 阿弥陀如来。③開山開基: 成誉廓呑(開山)・徳川光友(開基)。④開山開基年: 慶安4年(1651年)。⑤文化財:  なし。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 165,000㎡(50,000坪)。⑧特色: 尾張徳川家菩提寺。⑨所在地: 愛知県名古屋市。⑩訪問年: 平成17年10月23日。

26臨済宗南禅寺派永保寺

①山号: 虎渓山。②本尊: 聖観音音菩薩。③開基中興: ③開山開基: 元翁本元(開山)・土岐頼貞(開基)。④開山開基年: 正和2年(1313年)。⑤文化財:  国宝堂宇(観音堂・開山堂)。名勝庭園。⑥支院・塔頭:  3ヶ寺。⑦寺域: 51,300 ㎡(15,500坪)。⑧特色:  七堂伽藍の景観。⑨所在地: 岐阜県多治見市。⑩訪問年: 平成17年10月23日。

27高野山真言宗別格本山神護寺(高尾山寺)

①山号:  高雄山。②本尊:  薬師如来。③開基中興: 和気清麻呂(開基)。文覚(中興)。④開基中興年: 天長元年(824年)。仁安3年(1168年)。⑤文化財: 重文堂宇(大師堂)。国宝仏像(薬師如来立像・五大虚空蔵菩薩坐像)。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 200,000㎡(60,600坪)。⑧特色: 七堂伽藍の景観。⑨所在地:  京都市右京区。⑩訪問年: 昭和48年10月25日・平成04年01月03日。

28天台宗単立善峰寺

①山号:  西山。②本尊: 千手観音。③開山開基: 源算(開基)。④開山開基年: 長元2年(1029年)。⑤文化財: 重文堂宇(多宝塔)。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 99,000㎡(30,000坪)。⑧特色: 門跡寺院。西国三十三ヶ所観音霊場。遊龍の松。⑨所在地: 京都市西京区。⑩訪問年: 平成16年03月07日。

29浄土宗単立平等院(鳳凰堂)

①山号:  朝日山。②本尊:  阿弥陀如来。③開山開基: 明尊(開山)・藤原頼通(開基)。④開山開基年: 永承7年(1052年)。⑤文化財: 国宝堂宇(鳳凰堂)、重文堂宇(観音堂)。国宝仏像(阿弥陀如来像)。名勝庭園。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 不明。⑧特色: 世界文化遺産。史跡。⑨所在地: 京都市宇治市。⑩訪問年: 昭和62年02月02日・平成04年01月05日・平成18年10月14日。

30真言宗御室派大本山金剛寺(女人高野)

①山号院号:  天野山。②本尊: 大日如来。③勅願開基: 聖武天皇(勅願)・行基(開基)。④勅願開基年: 天平元年(729年)。⑤文化財: 重文堂宇(金堂・御影堂・多宝塔・食堂・楼門・鐘楼・摩尼院書院)。国宝仏像(大日如来坐像)。⑥支院・塔頭:  1ヶ寺。⑦寺域: 不明。⑧特色:  史跡。七堂伽藍の景観。⑨所在地: 大阪府河内長野市。⑩訪問年: 平成02年11月05日。

31高野山真言宗観心寺

  ①山号:  檜尾山。②本尊: 如意輪観音。③開山開基: 役小角(開山)。実慧(開基)。④開山開基年: 大宝元年(701年)。天長4年(827年)。⑤文化財: 国宝堂宇(金堂)、重文堂宇(書院・建掛塔・訶梨帝母天堂・恩賜講堂)。国宝仏像(如意輪観音坐像)。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 不明。⑧特色: 史跡。七堂伽藍の景観。⑨所在地: 河内長野市。⑩訪問年: 平成02年11月05日。

32真言宗系単立叡福寺(磯長寺・石川寺)

①山号院号: 磯長山。②本尊: 聖如意輪観音。③開基: 聖武天皇。④開基年: 神亀元年(724年)。⑤文化財: 重文堂宇(聖霊殿・多宝塔)。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 25,740㎡(7,800坪)。⑧特色: 聖徳太子陵墓。自称太子宗。⑨所在地: 大阪府太子町。⑩訪問年:  平成16年03月06日。

33天台宗別格本山水間寺(水間観音)

  ①山号院号: 龍谷山観音院。②本尊: 聖観音。③勅願開基: 聖武天皇(勅願)・行基(開基)。④勅願開基年: 奈良時代天平年間。⑤文化財: なし。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 不明。⑧特色: 西国三十三ヶ所観音霊場。七堂伽藍の景観。⑨所在地: 大阪府貝塚市。⑩訪問年:  平成29年06月01日。

34霊山寺真言宗大本山

①山号: 鼻高山。②本尊: 薬師如来。③勅願開基: 聖武天皇(勅願)・禅那(開基)。④開山開基年: 天平8年(736年)。⑤文化財: 国宝堂宇(本堂)、重文堂宇(三重塔)。重文仏像(薬師如来像)。⑥支院・塔頭:  3ヶ寺。⑦寺域: 200,000㎡(60,600坪)。⑧特色: 温泉。薔薇園。七堂伽藍の景観。⑨所在地: 奈良県奈良市。⑩訪問年: 平成18年05月21日。

35高野山真言宗・浄土宗兼宗本山當麻寺

①山号:  二上山。②本尊: 當麻曼荼羅。③開基: 麻呂子親王(開基)。④開基年: 推古20年(612年)。⑤文化財: 国宝堂宇(本堂・西塔・東塔)、重文堂宇(薬師堂・金堂・講堂・中之坊書院・奥院本堂・奥院書院・奥院鐘楼門)。国宝仏像。名勝庭園。⑥支院・塔頭:  7ヶ寺。⑦寺域: 不明。⑧特色: 史跡。当麻氏祈願寺。七堂伽藍の景観。⑨所在地: 奈良県葛城市。⑩訪問年: 平成02年04月10日・平成22年03月29日。

36臨済宗妙心寺派興国寺(西方寺)

①山号:  鷲峰山。②本尊: 釈迦如来。③開山開基中興: 無本覚心(開山)・葛山五郎(開基)。浅野幸長(中興)。④開山開基中興年: 安貞元年(1227年)。慶長年(1601年)。⑤文化財: 重文仏像(法燈国師坐像)。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 不明。⑧特色:  門前の大岩。虚無僧の本寺。旧法燈派大本山。⑨所在地:  和歌山県由良町。⑩訪問年: 平成19年05月02日。

37天台宗鶴林寺(太子堂)

①山号:  刀田山。②本尊: 釈迦三尊。③開基: 聖徳太子(開基)。④開基年: 推古元年(593年)。⑤文化財: 国宝堂宇(本堂・太子堂)、重文堂宇(常行堂・行者堂・鐘楼・護摩堂)。⑥支院・塔頭:  3ヶ寺。⑦寺域: 不明。⑧特色:  七堂伽藍の景観。⑨所在地:  兵庫県加古川市)。⑩訪問年: 平成05年10月10日。

38真言宗御室派別格本山蓮台寺(大権現)

①山号:  瑜伽山。②本尊: 瑜伽大権現。③勅願開基: 聖武天皇(勅願)・行基(開基)。④勅願開基年: 天平10年(738年)。⑤文化財:  なし。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 不明。⑧特色:  門前町。神仏混合の寺。⑨所在地:  岡山県倉敷市。⑩訪問年: 平成23年01月02日。

39真言宗大覚寺派別格本山明王院

  ①山号寺号:  中道山常福寺。②本尊: 十一面観音。③開基: 空海(開基)。④開基年: 大同2年(807年)。⑤文化財: 国宝堂宇(本堂・五重塔)。重文仏像(十一面観世音菩薩立像)。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 不明。⑧特色:  水野家祈願寺。⑨所在地:  広島県福山市。⑩訪問年: 昭和50年12月17日・平成26年01月19日。

40臨済宗妙心寺派一畑薬師教団総本山一畑寺(一畑薬師)

①山号:  醫王山。②本尊: 薬師如来。③開基中興: 補然(開基)。石雲(中興)。④開基中興年: 寛平年(894年)。正中2年(1325年)。⑤文化財:  なし。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 不明。⑧特色: 七堂伽藍の景観。⑨所在地: 島根県平田市。⑩訪問年: 平成27年04月05日。

41天台宗別格本山大山寺(大仙寺)

  ①山号:  角磐山。②本尊: 地蔵菩薩(智明大権現)。③開基中興: 金蓮(開基)。豪円(中興)。④開基中興年: 養老2年(718年)。慶長15年(1610年)。⑤文化財: 重文堂宇(阿弥陀堂)。重文仏像(阿弥陀如来像)。⑥支院・塔頭:  10ヶ寺。⑦寺域: 不明。⑧特色: 史跡。霊山。⑨所在地: 鳥取県大山町。⑩訪問年: 平成22年11月14日。

42曹洞宗丈六寺

①山号院号:  瑞麟山慈雲院。②本尊: 釈迦如来・聖観音。③開基中興: 天真正覚尼(開基)。金岡用兼(中興)。④開基中興年: 天武元年(672年)。長享元年(1487年)。⑤文化財:  重文堂宇(三門・本堂・観音堂)。重文仏像(聖観音坐像)。⑥支院・塔頭:  1ヶ寺。⑦寺域: 不明。⑧特色: 墓石群。⑨所在地: 徳島県徳島市。⑩訪問年: 平成22年03月10日。

43真言宗御室派本山箸蔵寺

①山号:  宝珠山。②本尊: 金毘羅大権現。③開基: 空海。④開基年: 天長5年(828年)。⑤文化財:  重文堂宇(本殿・護摩殿・方丈・薬師堂・鐘楼堂・天神社本殿)。⑥支院・塔頭:なし。⑦寺域: 不明。⑧特色: 七堂伽藍の景観。ロープウェイ。⑨所在地: 徳島県三好市。⑩訪問年: 平成22年03月23日・平成28年09月24日。

44浄土宗法然寺

①山号院号: 仏生山来迎院。②本尊: 阿弥陀如来。③開基中興: 法然(開基)。松平頼重(中興)。④開基中興年: 承元元年(1207年)。寛文8年(1668年)。⑤文化財:  なし。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 不明。⑧特色: 松平家菩提寺。七堂伽藍の景観。⑨所在地: 香川県高松市。⑩訪問年: 平成29年05月21日。

45真言宗豊山派石手寺

①山号院号:  熊野山虚空蔵院。②本尊: 薬師如来。③開創開基中興: 越智玉純(開創)。行基(開基)。良賢(中興)。④開創開基中興年: 神亀5年(728年)。天平元年(729年)。弘仁4年(813年)。⑤文化財: 国宝堂宇(仁王門)、重文堂宇(本堂・大師堂・三重塔・鐘楼・護摩堂・訶梨帝母天堂)。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 不明。⑧特色:  四国八十八ヶ所霊場。七堂伽藍の景観。⑨所在地:  愛媛県松山市。⑩訪問年:  平成22年03月17日・平成26年11月22日・平成28年10月23日・平成29年04月09日。

46真言宗智山派竹林寺(土佐文殊)

  ①山号院号: 五台山金色院。②本尊: 文殊菩薩。③開基中興: 行基(開基)。空海(中興)。④開基中興年: 神亀元年(724年)。大同2年(807年)。⑤文化財: 重文堂宇(本堂・書院)。重文仏像(阿弥陀如来立像)。名勝庭園。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 不明。⑧特色:  四国八十八ヶ所霊場。七堂伽藍の景観。⑨所在地: 高知県高知市。⑩訪問年:  平成22年03月13日・平成27年02月14日・平成28年12月31日。

47臨済宗妙心寺派聖福寺

  ①山号:  安国山。②本尊: 釈迦如来(丈六)。③開基中興: 栄西(開基)。耳峯玄熊(中興)。

 ④開基中興年: 建久6年(1195年)。永禄11年(1568年)。⑤文化財: 史跡。⑥支院・塔頭:  6ヶ寺。⑦寺域: 不明。⑧特色: 七堂伽藍の景観。⑨所在地:  福岡県福岡市。⑩訪問年:  平成23年04月06日。

48日蓮宗六条門流本妙寺

①山号:  発星山。②本尊: 十界曼荼羅。③開山開基: 日真(開山)・加藤清正(開基)。④開山開基年: 天正13年(1585年)。⑤文化財: 重文工芸品(短刀)。⑥支院・塔頭:  12ヶ寺。⑦寺域: 不明。⑧特色: 加藤清正霊廟・加藤家菩提寺。⑨所在地: 熊本県熊本市。⑩訪問年:  平成29年03月19日。

49天台宗別格本山両子寺(六郷満山)

①山号院号:  足曳山総持院。②本尊: 阿弥陀如来。③開山: 仁聞。④開山年: 養老2年(718年)。⑤文化財: なし。⑥支院・塔頭:  なし。⑦寺域: 不明。⑧特色: 霊山。宿坊。⑨所在地: 大分県国東市。⑩訪問年:  平成05年05月30日。

世界文化遺産の寺院リスト

1 法隆寺地域の仏教建造物

法隆寺 昭和48年12月17日(日)・平成02年04月10日(火)

法起寺 昭和48年12月17日(日)

2 古都京都の文化財

西芳寺(苔寺) 昭和48年10月09日(火)

天龍寺 昭和50年12月23日(火)・平成04年01月04日(土)

金閣寺  昭和48年08月31日(金)・平成03年12月31日(火)

龍安寺  昭和48年08月31日(金)・平成03年12月31日(火)

東寺(教王護国寺)  昭和48年09月30日(日)・昭和62年02月02日(月)

清水寺 昭和48年08月30日(木)・昭和62年01月29日(木)・平成04年01月01日(水)

醍醐寺 昭和48年12月13日(水)・平成03年12月29日(日)・平成25年04月01日(月)

仁和寺 昭和48年10月25日(水)・平成04年01月02日(木)

平等院 昭和62年02月02日(月)・平成04年01月05日(日)

高山寺 昭和48年10月25日(水)・平成04年01月03日(金)

銀閣寺 昭和48年09月03日(月)・平成04年01月01日(水)

西本願寺 昭和48年10月11日(木)・平成04年01月02日(木)・平成16年03年07日(日)

延暦寺 昭和48年12月02日(土)・平成03年12月30日(月)・平成19年04月22日(日)

3 古都奈良の文化財

東大寺 昭和48年12月16日(土)・昭和62年02月03日(火)・平成05年10月11日(月)

興福寺 昭和48年12月16日(土)・昭和62年02月03日(火)・平成05年10月11日(月)

元興寺 昭和62年02月04日(水)

薬師寺 昭和62年02月04日(水)・平成19年09月29日(土)

唐招提寺 昭和62年02月04日(水)・平成19年09月29日(土)

4 日光の社寺

輪王寺 平成02年06月04日(月)・平成03年09月22日(日)・平成05年03月27日(土)

5 紀伊山地の霊場と参詣道

金剛峰寺 昭和62年02月01日(日)・平成02年04月09日(月)・平成19年05月03日(木)・平成22年03月30日(火)・平成27年04月19日(日)

慈尊院 昭和62年01月31日(土)・平成19年05月03日(木)

金峯山寺 平成02年04月08日(日)・平成19年04月08日(日)・平成23年03月06日(日)

大峰山寺  平成20年11月01日(土)

龍泉寺  平成20年11月01日(土)

青岸渡寺  平成02年11月04日(日)

補陀洛山寺 平成27年05月10日(日)

6 平泉

中尊寺 昭和46年06月16日(水)・昭和60年07月21日(日)・平成01年11月12日(日)・平成05年04月05日(月)・平成28年02月20日(土)

毛越寺 昭和46年06月16日(水)・昭和60年07月21日(日)・平成01年11月12日(日)・平成05年04月05日(月)・平成28年02月20日(土)

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